くしゃみ講釈 くしゃみこうしゃく 演目

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胡椒は南蛮渡来の高級品ながら、知られた調味料だったんですね。

別題:音楽会(改作) くしゃみ義太夫(改作)

【あらすじ】

ある講釈師の先生。

芸はたいしたことはないくせに気位ばかり高く、愛想がないので、町内の常連に嫌われている。

なにしろ、道で会うと、あいさつ代わりに頭をそっくり返らせるし、出番の時、客が寝ていると
「講釈が読みにくいっ。それほど眠たきゃ家へ帰って寝たらよかろう」
と嫌味を言って恥をかかせる。

そんなこんなで堪忍袋の緒が切れた二人組、どうにかして講釈が読めねえように妨害してやろうと相談した。

ぶん殴るのはたやすいが、芸人を殴ってもこっちが笑われる。

それより、高座の前にかぶりつきで陣取り、落語家と違って講釈師は釈台という机を置いているから真下が見えないのを幸い、胡椒の粉を下から一斉にぶっ放せば、きっとそいつを吸い込んで、むせてくしゃみが出て講釈が読めなくなる。

そこで、
「先生、この前は寝ていてすまねえことをした。こういううまい講釈は聞いてられねえから、おらァ帰る」
と立って、あと四、五人抱え込んでいっしょに立ち上がれば、高座はメチャクチャ。

それで意趣返しするという趣向。そこでみんな胡椒を買い込み、夜になると予定通り講釈場へ乗り込む。

そうとは知らない先生、例の通り張り扇で釈台バタバタたたき、
「……時は何時なんめり元亀三年壬甲の年十月十四日、武田晴信入道信玄、其の勢三万五千余人を引率して甲府を雷発に及び、遠州周知郡乾の城主天野宮内左衛門景連、蘆田下野守、この両人を案内者とし、先手山県三郎兵衛昌景に五千余騎を差し添えて、同国飯田、多々羅の両城攻めかかる……」
と、三方ケ原の戦いを読み始めた。

「……これぞ源三位兵庫頭政入道雷円の御胤、甲陽にて智者の聞こえある……」
「それっ、やっつけろ」

そろそろ潮時とばかり、一人の合図で一斉に胡椒を扇で口座に扇ぎ上げる。

「……その下に黒糸おどしの大鎧、同じ毛五枚しころ、金の向い兎の前立打ったる兜を猪首にいか物づくりの太刀を横たえ、黒……ハックシ、羅紗の陣……ハクショ……黒唐革のサイハイハックシ、これではハックシ、とてもクシュッ、講釈はハックシ、よめまハクション、せん、今晩はこれで御免を」
「やい、ハックシハックシやりゃあがって。唾がはねたじゃねえか、まぬけ。明日は用があるから来られねえ。今夜中に戦の決着ゥ付けろい」
「だめです。外からコショウ(故障)が入りました」

底本:二代目三遊亭小円朝

【しりたい】

胡椒と日本人

胡椒の日本伝来は古く、平安時代初期にさかのぼるとか。もちろん、シルクロードから唐に伝来したもののおこぼれを遣唐船あたりが持ち帰ったのでしょう。

その後、室町時代には、中国(明)経由でさかんに輸入され、主に僧坊で、精進料理の薬味として使われました。

江戸期に入ると、鎖国令が出るまでの間、ポルトガル船やオランダ船、スペイン船などが大量に持ち込み、いっそう普及しました。

鎖国となると、胡椒の輸入量は減り、その代用品として七色唐辛子が普及しました。

平戸藩主の松浦鎮信(1549-1614)が、オランダ貿易を平戸に誘致するために、慶長14年(1609)、胡椒を買い占め、そのため相場が高騰したとか。

近松門左衛門(1653-1724)の浄瑠璃中の詞章に「本妻の悋気とうどんに胡椒はお定まり」とあります。

正徳3年(1713)3月初演の歌舞伎十八番「助六」でも、主人公が出前のうどんにたっぷり胡椒をふった上、くゎんぺら(かんぺら)門兵衛の頭にぶちまける場面があります。

当時はこうした食べ方が一般的だったのでしょう。

胡椒丸のみ

江戸には、うろ覚えを意味する「胡椒丸のみ」という俚諺がありました。胡椒もかまずに丸のみしてはその辛さがわからないところから、物事をよく咀嚼、理解していないさまを言います。

初代春団治の十八番

本来は上方落語で、「くっしゃみ講釈」の題で親しまれました。「芸のためなら女房も泣かした」、初代桂春団治のお得意で、レコードも残されています。

春団治は「胡椒のこ」と言っていますが、なるほど、これを聞くと、大阪人がしかつめらしい軍談講釈(師)を生理的に嫌ったのがよくわかります。

上方のやり方は、胡椒が売り切れていたので唐辛子粉をふりまき、「なんぞ、私に故障(=落ち度)があるのですか」「胡椒がないから、唐辛子をくべたんや」とオチになります。

桂米朝、桂春団治ら、多くの演者が手がけてきました。

東京では三代目三遊亭金馬が得意にしていましたが、金馬没後は、ほとんどオチは大阪通りになっています。

改作として、二代目三遊亭円歌の「くしゃみ義太夫」、六代目春風亭柳橋の「音楽会」があります。

寄合酒 よりあいざけ 演目

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金がないのにワイワイガヤガヤ体育会系。がさつでけたたましいにぎやかな噺。

別題:ん廻し 田楽食い(上方)

【あらすじ】

町内の若い衆が、金がないので肴をめいめい持ち寄りでのむことにしたが、これが大混乱。

数の子を煮てしまう奴がいたり、山芋を糠味噌に漬けたり、せっかく乾物屋の餓鬼をチョロまかしてせしめた鰹節を、二十本もいっぺんにかいてしまって、大釜でグラグラ。

うどん屋をやるんじゃないと、ぼやいていると、そのダシで行水してしまい、後は全部捨ててバケツ一杯だけ残した奴が現れ、世話人は頭を抱える。

しかたがないのでそのバケツを持ってこいと言うと、いま褌を洗濯しているのがいると、いう。

「すまねえ。知らないから。絞って持っていこうか?」
「冗談じゃねえ」

とっておきの鯛は、料理しているところにどこかの犬がきて、ちょんと座って動かないので、
「そんなのは頭を一発食らわして追っ払え」
と言われて頭を食べさせ、
「胴体を食らわせろ」
と言うから胴体をやってしまい、まだ動かないので尻尾まで食らわせて、とうとう全部犬の腹へ。

大騒ぎしているところへ豆腐屋から田楽が焼き上がってくる。

運がつくように、「ん」がつく言葉を一つ言うごとに田楽を一枚食わせると取り決めた。

各自ない頭を絞り、しまいには
「オレ、せんねんしんぜんえんのもんぜんにげんえんにんげんはんみょうはんしんはんきんかっぱんきんかんばんぎんかんばん、きんかんばんこんぼんまんきんたんきんかんばんこんじんはんごんたんひょうたん、かんばんきほうてん」
とお経のような文句を一息に並べ立て、五十六本せしめる奴も出る始末。

負けずに、算盤を用意しろと大きく出た男
「半鐘でジャンジャン、ボンボンボン、あっちでジャンジャンジャンジャン、こっちでジャンジャンジャンジャンジャン、消防自動車が鐘をカンカンカンカンと五百」
「おい、こいつに生の田楽を食わせろ」
「なぜ」
「消防のまねだから、焼かずに食わせるんだ」

底本:六代目三遊亭円生

【しりたい】

ルーツは元和年間

原話になる小ばなしは数多くあります。ルーツは古く、大坂夏の陣の終わった直後の元和年間(1615-24)に刊行された『戯言養気集』中の「うたの事」が最古の形です。

ここではすでに「ん」の音の入った単語を並べ、田楽を取り合うパターンが確立していますが、その後、寛永5年(1628)刊の安楽庵策伝『醒睡笑』中の「児の噂」でも、僧たちの「ん」の字遊びの中に、田楽欲しさに稚児が割り込むという筋になっています。

小ばなしによっては「ん」の言い合いではなく、ゲームが謎掛けやダジャレ(たとえば医者の本尊で薬師如来=八串もらえるなど)になる場合もありますが、田楽食いのパターンは終始変わっていません。

初代春団治の十八番

上方落語では、「田楽食い」として長く親しまれ、後半の「ん」の字の言い合いから、「ん廻し」の別題もあります。

初代春団治の爆笑編で知られ、レコードも残されていますが、そのやり方が二代目春団治、さらに三代目春団治に継承されたほか、父・五代目笑福亭松鶴譲りで、六代目松鶴も得意にしていました。

東京には明治期に移され、戦後は六代目三遊亭円生のものでした。

古くは後半の「ん廻し」に重点が置かれましたが、どちらかといえば近年、東京で盛んに演じられるようになって、前半の、材料をメチャクチャにするくだりがより派手に演じられるようになり、その分、笑いも多くなっているようです。

ますます短くなる噺

オチは、本来、この先があって、「矢を射て、当たるとタイコがドン、ドンドンドン……」と際限なく繰り返す男がいるので、「そんなにたくさんっじゃ、焼くのが間に合わねえ」「いいよ、焼かず(=矢数)で食う」というものでしたが、長くなるので春団治が現行のところで切り、円生もこれにならっていました。

田楽のくだりまでいかず、時間の関係でさらに短く切る場合も最近は多く、ますます本来の「ん廻し」の要素が薄れてきています。

田楽

起源については、「味噌蔵」で紹介した通りです。

なお、田楽は店構えの豆腐屋のほか、上燗屋(じょうかんや)とも呼ばれた屋台のおでん屋、田楽茶屋という専門店でも売っていました。

田楽茶屋は、出合茶屋(であいぢゃや、現代のラブホテル)を兼業していることが多かったといいます。

田楽と男女の濡れ事、何か縁がなさそうでしっくりきませんが、なに、どちらも焼けることに変わりはないようで。