成城石井.com ことば 噺家 演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席
慣用句の「かんじんかなめ」をしゃれたもの。
もっとも大切な要点という意味です。
鹿島の要石は、常陸国の一宮、鹿島神宮の境内にある神石。
「肝心春日」という異名もあり、地震の鎮め石と言われます。
おそらく、大鯰でも封じ込んでいるのでしょう。
意味自体は、名所古跡を洒落に織り込んだだけの単純なものですが、「か」の頭韻を重ねたリズムは耳に快く、これぞむだ口の真髄でしょう。
500題超。演目ごと1000字にギュッと。どこよりも深くわかりやすく。
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【どんな?】
紋三郎稲荷とは笠間稲荷のことなんですね。
茨城県が江戸落語に登場するとはビックリ。
【あらすじ】
常陸国(茨城県)笠間八万石、牧野越中守の家臣、山崎平馬。
参勤交代で江戸勤番に決まったが、風邪をひき、朋輩より二、三日遅れて国元を出発した。
もう初冬の旧暦十一月で、病み上がりだから、かなり厚着をしての道中。
取手の渡しを渡ると、往来に駕籠舁きが二人。
病後でもあり、風も強いので乗ることにし、駕籠舁きが八百文欲しいと言うのを、気前よく酒手(チップ)込みで一貫文はずんだ。
途中、心地よくうとうとしているうち、駕籠舁きの後棒が先棒に、この節は値切らなければ乗らない客ばかりなのに、言い値で乗るとはおかしい、お稲荷さまでも乗っけたんじゃねえかと話しているのが、耳に入った。
はて、どういうわけでそう言うのかとよく考えると、寒いので背割羽織の下に、胴服といって狐の毛皮を着込んでいる。
その毛皮の尻尾がはみ出し、駕籠の外に先が出ているから、稲荷の化身の狐と間違われたことに気づく。
洒落気がある平馬、からかってやろうと尻尾を動かすと、駕籠舁きは仰天。
そこで、「わしは紋三郎(稲荷)の眷属(親類)だ」と出まかせを言ったから、駕籠舁きはすっかり信じ込む。
その上、途中の立て場でべらべら吹聴するので、ニセ稲荷はすっかり閉口。
松戸の本陣の主人、高橋清左衛門なる者が大変に紋三郎稲荷を信仰しているため、平馬はそこに連れていかれる。
下りて駕籠賃を渡すと駕籠舁き、
「木の葉に化けるなんてことは……」
「たわけたことを申せ。それは野狐のすることだ」
主人の清左衛門、駕籠舁きから話を聞いて大喜び。
羽織袴で平馬の部屋に現れ
「紋三郎稲荷さまにお宿をいただくのは、冥加に余る次第にございます。中庭にささやかながらお宮をお祭りし、ご夫婦のお狐さまも祠においであそばします」
とあいさつしたから、平馬は
「駕籠舁きのやつ、ここの親父にまでしゃべった、どうも弱った」
と思ったが、いっそしばらく化け込もうと決める。
清左衛門が、夕食はおこわに油揚げなどと言い出すので、平馬はあわてて
「そんなものは初心者の狐のもので、わしほどになるとなんでも食うから、酒のよいのと、ここの名物の鯰鍋、鯉こくもよい」
えらくぜいたくな狐だと思いながら、粗相があってはと、主人みずから給仕する歓待ぶり。
平馬、酔っぱらって調子に乗り、「この間は王子稲荷と豊川稲荷の仲裁をした」などと吹きまくる。
そのうち近所の者が、稲荷さまがお泊まりと聞いて大勢「参拝」に押しかけたというので、平馬、
「それは奇特なことである。もし供物、賽銭などあらば申し受けると伝えよ」
「へへー」
喜んだ在所の衆、拝んでは部屋に再選を放り込んでいくので、平馬は片っ端から懐へ。
もうかったので、バレないうちにずらかろうと、縁側から庭に下り、切り戸を開けると一目散。
祠の下で見ていた狐の亭主、
「おっかあ」
「なんだい、おまいさん」
「化かすのは、人間にはかなわねえ」
【しりたい】
円生十八番、若手が復活 【RIZAP COOK】
原話は、寛政10年(1798)刊『無事志有意』中の「玉」。
明治から大正にかけ、四代目橘家円蔵(松本栄吉、1864-1922、品川の)が得意にした噺です。
これを門下の三遊亭円玉(1866-1921)が受け継ぎ、当時若手の、のちの二代目三遊亭円歌(田中利助、1890-1964)と六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900.9.3-79.9.3、柏木の)に伝えました。
円歌のレコードも残っていますが、その没(1964年)後は円生の独壇場で、CD「円生百席」収録の音源が現在、唯一のスタンダードとなっています。
その円生も「実は私は師匠のは一度も聞いたことがありません」と述べているので円蔵もめったにやる噺ではなかったのでしょう。
円生は、それまで笠間藩主を「牧さま」としていたのを史実通りに改めています。「牧野さま」で。
円生没後、継承者がありませんでした。
円生の弟子でありながら円歌から「紋三郎稲荷」を習った三遊亭好生(長坂静樹、1935.10.21-81.7.9、→三代目春風亭一柳)の例もありましたが、この因縁話は別の項目で。
2003年1月、TBS落語研究会で柳家一琴が演じ、その後、入船亭扇辰や柳家小せんなどが手掛けるようになりました。
紋三郎稲荷 【RIZAP COOK】
茨城県笠間市の笠間稲荷の通称です。「胡桃下の稲荷」ともいいます。
「紋三郎」の通称の由来は、常陸国笠間藩(譜代)、牧野家初代藩主の牧野貞通(1707-49、日向延岡藩主→)の一族・牧野紋三郎(門三郎とも)にちなむものとされます。紋三郎自身が信心篤かったことによるのだそうです。
祭神は宇迦之御魂神(=お稲荷さん)で、創建は白雉年間(650-654)。稲荷神は秦氏が連れてきた外来の神で、稲の神、つまりは生産、豊穣の神です。稲荷社のご神体はどこもこの神さまです。
「ウカ」は「ウケ」とも通じて、食や豊かさを象徴します。
伏見稲荷(京都府)、豊川稲荷(愛知県)とともに、日本三大稲荷の一つとされています。
異説は多いのですが、とりあえず。
初詣では、茨城県内では一の宮の鹿島神宮を抜いて第1位の動員80万人を数えます。
現在も、五穀豊穣の祭神として信仰を集めているということですね。
坂本九(大島九、1941.12.10-85.8.12、)は結婚式を笠間稲荷で挙げました。
坂本家は笠間稲荷の信心篤い一家だったのですね。坂本九自身は日本航空123便墜落事故に巻き込まれて、帰らぬ人となりました。残念。
そのかかわりからでしょうか、笠間市内のJR駅の発車メロディーは「上を向いて歩こう」が使われています。
笠間稲荷は東京にもあります。
牧野家の下屋敷跡に、笠間稲荷神社東京別社(中央区日本橋浜町2丁目)として建っています。明治21年(1888)、牧野家が本所緑町に引っ越すにあたって、跡地に分祀されました。現在の社殿は空襲での焼失後、復興されたものです。いまは、日本橋七福神の寿老神の役回りも担っています。
背割羽織 【RIZAP COOK】
別名「ぶっさき羽織」「ぶっさばき」とも呼びます。
武士が乗馬や旅行の際に着用した、背中の中央から下を縫い合わせていない羽織です。
稲荷信仰 【RIZAP COOK】
京都市伏見区の伏見稲荷大社を中心とした信仰。
神社は2,970社、摂社や末社は32,000社を超えるといわれています。しめて約35,000社。
八幡社の20,000社をはるかにしのいでいます。
東日本に広く分布しているようです。
稲荷神は渡来系の秦氏の氏神のため、もとは外来の神さまです。
秦氏は中央アジアから韓半島を経て渡ってきたといわれますから、稲荷神の本当の神はそこらへんの神さまなのでしょう。
一般にはウカノミタマノカミ(古事記では宇迦之御魂神、日本書紀では倉稲魂大神)とされています。
「ウカ」とか「ウケ」とかという古語は、食物や豊かさを意味します。
中世には伊勢神宮外宮にまつられるトヨウケビメ(古事記では豊宇気毘売神、日本書紀では記載なし)と同じ神とされるようになりました。
とはいえ、稲荷神社の祭神がウカノミタマノカミであるというのは室町後期以降です。
つまり、この神社の神がなにものなのかは、本当のところはよくわかりません。
日本の神さまには、いまだによくわからないのがけっこうあります。
稲荷というくらいですから農業神だったようですが、米が流通や商業とも深くかかわることから、商業神、漁業神、福神として平安時代から篤信されてきました。
豊かさをつかさどる神さまということで現代まで崇信されてきたのですね。
このような稲荷信仰の効用から想像すれば、秦氏は東西の十字路で豊穣と富裕の象徴とされるサマルカンドあたりから移ってきたのかもしれません。
教王護国寺(東寺)の鎮守でもあり、真言宗系とも深く結びついてきました。
神仏習合思想における稲荷神は、江戸時代までは仏教における十一面観音や聖観音を本地仏(本来の姿の仏)とされるとともに、江戸時代以降は荼枳尼天(夜叉、護法善神)とも同一視されてきました。
伏見稲荷大社の神宮寺(神社付属の寺。明治になるまでは普通にあった)である愛染寺でも荼枳尼天がまつられていました。
明治元年(1868)の神仏分離(→廃仏毀釈)後も、稲荷神を荼枳尼天としてまつる寺院があります。
その代表例は、豊川稲荷妙厳寺(愛知県豊川市、曹洞宗)と最上稲荷妙教寺(岡山市北区、日蓮宗)。最上稲荷では最上位経王大菩薩、八大龍王尊、三面大黒尊天の本地であるとされています。
このように稲荷神は、時代を経るとともに融通無碍にさまざまな神仏と融合合体して信仰を集めてきました。
これほどの篤信盛況ぶりは、稲とかかわる神であることで日本人に最も強い結びつきを示す神であったこと、秦氏や東寺といった巨大勢力と結ばれていたこと、下級宗教家によって、稲荷ずし、お狐さま、正一位(稲荷神の神階で最高位)といった、わかりやすい状態で布教されていったことが大きいのでしょう。
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『戦国人名事典』という本があります。
吉川弘文館が2006年に刊行した大部な一冊です。不思議な事典なのです。
収められているのは関東甲信越東海あたりの武将。
尾張の織田信長は載っていても、美濃の明智光秀は載っていません。常陸の佐竹義宣は取り上げられていても、陸奥の伊達政宗は外されています。
うーん。使えない事典かと思いきや、ところがどうしてどうして。
「白戸若狭守」という項目があります。
受領名で載っているのは、本名がわからないからなのでしょう。生年没年も不詳とのこと。
こんなマイナーな人を載せる意味があるのかと思ってしまいます。
でも、本文を読むと、これが大いにあるのだということがわかります。
この方、「元亀頃の人」とありますから、1570年前後に活躍したのですね。
佐竹義重の家臣だったそうです。
佐竹は常陸国の守護ですから、白戸若狭守は、いまの茨城県内をせわしなく動き回っていたのでしょう。
事典には「佐竹義重から唐人の来航への対応にあたる役職と考えられる『水土』職に任じられ加恩として五貫文を与えられている」とあります。
根拠とすべきなにかの史料に、そのように記されているのでしょう。
戦国時代、常陸国と中国人。結びつきにくいのですが、那珂湊や大津浜あたりに明の商人が寄港したとしてもべつに不思議でもありますまい。
三重県からこのあたりまでの沿岸部には「神降り神事」という風習があちこちに残っています。
古代から海とのかかわりがあったという証拠ではないかと思うのです。
ちょっとした驚きではありますが。元亀の頃、中国人は何しに来ていたのか。
それはもう鉄砲を売りに、でしょう。
関東から東北地方の戦国武将たちが鉄砲隊を合戦の編制に組み入れ出したのは元亀年間あたりだそうですから。
佐竹は鉄砲を金粒で買っていたのでしょう。
金砂山や八溝山は、古代から金の産地。佐竹という大仰であまり有能でない一族がこの地を営々と君臨できたのは、ひとえに彼らが金や銀の産出を仕切っていたからです。
という具合に、じつはこの事典、なかなか読みでのある好著でだったのでした。
こんなすごい本が、古書ながらもAmazonで1000円ほどで入手できてしまう現代というのは、よいのか悪いのか。
落語本はそこまで恵まれていません。
戦国より落語のほうが需要薄し、ということでしょうか。歴女はいても落女はいない。そんなところでしょうか。
落語ファンはあまり本を読まないのでしょうか。
それでも、あまた残る明治期の落語本をもっと気楽に読めるようになりたいものです。今の出版界では望むべくもありません。
ここで翻刻しようかなと思っています。