しょうぐんせんげ【将軍宣下】ことば 江戸覗き


徳川家康は関ヶ原の戦いで勝ったわけですが、その後3年かけて幕府を開くにいたります。でも、どうして3年近くもかかったのでしょうか。知りたくなりました。ここでは、そこらへんを記します。

開幕まで  【RIZAP COOK】

そもそも「幕府」という言葉は明治時代につくられました。歴史学者がつくってみた用語なのだそうです。では、400年前の当時はなんていっていたのでしょうか。「柳営」という言葉があったそうですが、ピンときませんね。とくに定まった言葉があったわけでもなさそうなのです。意外です。

ま、それはともかく。まずは、関ヶ原の戦いから開府までの時系列を記します。

慶長5年(1600)9月15日 関ヶ原の戦いで家康方(東軍)が勝利
慶長6年(1601)8月 上杉景勝が上洛、臣従
慶長7年(1602)8月 島津家久が上洛、臣従
慶長8年(1603)2月12日 家康が征夷大将軍に任官、開府

上杉と島津が上洛して天皇に臣従を誓うまでに時間を要したことが、開府のもたもたとなったということです。

将軍の宣下  【RIZAP COOK】

家康の将軍宣下は伏見城で行われました。

朝廷では大納言広橋兼勝が上卿を務めて陣儀を行い、内大臣徳川家康の将軍任官と右大臣転任を決めました。

すぐに伏見城に勅使が出されました。その数200人以上だったそうです。

伏見城には、前もって武家昵近衆が祗候し、家康は上段中央に南面して座っていました。

勅使がお祝いを述べて着座。上卿らが家康に進み出ると、南庭で副使が二拝し「ご昇進、ご昇進」と大声を出します。

上卿が着座すると、将軍任官の宣旨が官務の壬生高亮から高家大沢基宿に渡され、大沢が家康の前に置きました。家康はこれを一覧し、宣旨の入っていた蓋に長井右近が砂金袋を入れて、壬生に返します。

局務の押小路師生が右大臣の宣旨を渡し、同様の手順で行われました。その後も、同じ手順で、源氏長者、淳和奨学院別当、牛車兵仗の宣旨が渡されました。儀式はこれで終わり。

参列した公家には役割ごとに金が渡され、武家昵近衆には夕餐がふるまわれました。

以上が、慶長8年(1603)2月12日の儀式のあらましです。

御礼の参内  【RIZAP COOK】

3月25日、家康は参内します。任官返礼と新年の挨拶が目的でした。

ときの天皇(後陽成)に銀子1000枚をはじめ、下級女官にまで、なにがしかの銀子を贈っています。

参内行列は九番編制で、譜代家臣、そのとき上洛していた諸国の大名をかき集めて構成したそうです。誰が見ても家康を超える実力者のいないこの時点では、どのようなにわか仕立てでも通用したのでしょう。

その後、二代秀忠の任官・宣下では、伏見城で受けはしましたが、返礼の参内では、八番編制の行列で、上杉景勝、伊達政宗、島津家久、前だ利光などの有力大名を率いて、華美で麗々しい行列だったとのことです。三代家光も伏見城で受けましたが、返礼の参内はさらに仰々しくて、三日間にわたって二条城で猿楽を催しました。

四代家綱以降は江戸城でこれらの儀式は行われ、十四代家茂まで踏襲されました。この場合、勅使はじめ多数の公家や門跡が仰々しく江戸に下向したわけで、そのたびに上方のみやびで風流な文物が江戸に伝わりました。

将軍の上洛は家光からプツンと切れて、家綱以降の江戸での将軍宣下の儀式も多分に形骸化していきました。江戸では返礼参内はなくなるわけで、将軍より上の地位の者がいないことで、将軍の実質的な絶対化現象もここらへんから生まれてきました。逆に言えば、家康の頃には、朝廷の権力も権威もまだ生きていたことになります。

江戸城での将軍宣下  【RIZAP COOK】

江戸城での将軍宣下の際、公家や門跡へのもてなしは、江戸城大広間の南庭に能楽堂を設定して、能楽を催しました。

諸国の大名ばかりか、江戸の町人も、一町に二人まで見物を許可されました。武家の祝いを江戸の町人も共有したことは重要でした。継飛脚で将軍任官を全国に伝達しました。きわめて合理的かつ簡素化したわけです。

これらの式次第は微に入り細をうがちながら、江戸時代の繁栄とともに後世語り伝えられていき、権現神話の一節と醸成されていきました。

参考文献:『新編千代田区史』通史編(東京都千代田区、1998年)、市岡正一『徳川盛世録』(平凡社東洋文化、1989年)、笠谷和比古『関ヶ原合戦と近世の国制』(思文閣出版、2000年)、藤田覚、大岡聡編『街道の日本史 江戸』(吉川弘文館、2003年)、山本博文『徳川将軍と天皇』(中央公論新社、1999年)、加藤貴編『江戸を知る事典(東京堂出版、2004年)、大濱徹也、吉原健一郎編『江戸東京年表』(小学館、1993年)、『新装普及版 江戸文学地名辞典』(東京堂出版、1997年)

【語の読みと注】
宣下 せんげ:宣旨を伝える儀式
宣旨 せんじ:天皇が臣下に伝えた文書
上卿 しょうけい:陣儀の主催者
陣儀 じんぎ:公家たちが国政を審議する
武家昵近衆 ぶけじっきんしゅう:武家と交渉する公家
祗候 しこう:つつしんでおそばで奉仕する官務 かんむ
壬生高亮 みぶたかすけ
大沢基宿 おおさわもといえ
局務 きょくむ
押小路師生 おしこうじもろお
門跡 もんぜき:皇族や公家が住持となった特別な寺院

【RIZAP COOK】

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据え膳はいただくにかぎる、というご教訓なんでしょうかね? 

別題:槌の音

【あらすじ】

七代将軍家継が幼くして急死し、急遽、次代の将軍を決めなければならなくなった。

候補は尾州侯と紀州侯。

どちらを推す勢力も譲らず、幕閣の評定は紛糾。

ある朝、尾州侯が駕籠で登城する途中、遠くから鍛冶屋が
「トンテンカン、トンテンカン」
と槌を打つ音。

それが尾州侯の耳には
「テンカトル、テンカトル」
と聞こえた。

これは瑞兆であるとすっかりうれしくなったが、最後の大評定の席では、大人物であることをアピールしようと、
「余は徳薄く、将軍の任ではない」
と辞退してみせる。

むろん、二度目に乞われれば、
「しかしながらァ、かほどまでに乞われて固持するのは、御三家の身として責任上心苦しい。しからば天下万民のため……」
ともったいぶって受ける算段。

ところがライバルの紀州侯、やはり同じように
「余は徳薄くして……」
と断ったまではよかったが、その後すぐに
「しかしながらァ」
ときたので、尾州侯は仰天。

「かほどまでに乞われて固持するのは、御三家の身として責任上心苦しい。しからば天下万人のため」
と、自分が言うつもりのセリフを最初から言われてしまい、あえなくその場で次期将軍は紀州侯に決まってしまった。

野望がついえてがっかりした尾州侯、帰りに同じ所を通りかかると、また鍛冶屋が
「テンカトル、テンカトル」

ところが親方が焼けた鉄に水をさして、
「キシュー」

底本:六代目三遊亭円生

【しりたい】

『甲子夜話』の逸話

『甲子夜話』(文政4=1821年刊)・第十七巻にある逸話です。作者は、平戸藩主で、文人大名として名高かった松浦静山(まつら・せいざん、壱岐守。1760-1841)。

六代目円生が受け継ぐ

明治から大正にかけて、五明楼国輔が得意にしていたのを、六代目三遊亭円生が直伝で受け継いだ噺です。

七代将軍家継

没は享保元年(1716)旧暦4月30日。数え八歳。法号は有章院。その「治世」は側用人・間部詮房と新井白石の補佐によったもので、「正徳の治」と呼ばれます。

尾州侯

尾張藩第六代・徳川継友。名前からして「ツギテエ」で、権力欲の権化のような感じですが、八代将軍吉宗となった紀州侯への怨念はせがれの代まで尾を引きます。

継友が享保15年(1730)に憤死した後、嗣子の宗春は吉宗の享保改革による倹約令を無視して、藩内に遊郭の設置、芝居小屋の常時上演許可など、やりたい放題やったため、ついに逆鱗に触れて、元文4年(1739)、隠居謹慎を命じられました。

御三家でなければ、とうにお家は断絶、その身は切腹だったでしょう。

英国では成功例

権力を奪取する際、すぐ飛びついてはあまりに露骨なので、一度辞退してみせ、周りの者に無理やり薦められる形で「いやいやながら」という姑息な「手続き」を踏むのは洋の東西を問わないようです。

シェイクスピアの「リチャード三世」でも、主人公が王位を簒奪するとき、腰巾着のバッキンガム公と「余は予定通り、女の子のようにいやだいやだと言うから、あとはそちたちが無理やり頼み込んでくれ」と、陰謀をめぐらします。

尾州侯と違って、こちらは対抗馬をみんな片付けた後ですから、この作戦は大成功でした。