【どんな?】
伊勢町文屋の康次郎と小日向松月堂のお朝、冥途でともに夫婦になろうと。
奪衣婆に縛られたお朝を康次郎が助け、閻魔の目をかいくぐり二人は生き返った。
伊勢の文屋康秀が生き返る体がなく、松月の朝友の体を借りて生還したという。
文屋康次郎と松月お朝、似ている。「苦情は?」「幽霊の結婚、あしはつかない」
ちぐはぐな噺。出どころのよくわからない謎めいた噺でもあります。
別題:ともふさ
【あらすじ】
病気でこの世とおさらばした男。
気づいてみると、なんだか暗いところに来ていて、今どこにいるのやらさっぱりわからない。
うろうろしていると、ふいに女に話しかけられてびっくり。
よく顔を見ると、これが稽古所でなじみのお里という女。
再会を喜び合ううちに
「死んでしまった今となってはどこに行くあてもないから、お手伝いでもよいから、あなたのそばに置いてください」
と女が言う。
男は、高利貸しを営む日本橋伊勢町の文屋検校という者の息子。
いっそ地獄に行って、親父の借金を踏み倒したままあの世へ逃げた奴らから取り立て、そのまま貸付所の地獄支店を開設してボロもうけ、という太い料簡になり、そのまま渡りに船と、夫婦の約束。
ついでに、意気揚々と三途の川も渡ってしまった。
ところが、地獄では閻魔大王がお里に一目ぼれ。ショウヅカの婆さんに預け、因果を含めて自分の愛人にしようという魂胆。
亭主は死なしておいてはじゃまだから、赤鬼と青鬼に命じて、ぶち生かそうとする。
そこはさすがに金貸しの息子、親父が棺に入れておいてくれた、シャバのコゲつき証文で鬼を買収し、脱走に成功。
たどりついた三途の川のほとり、ショウヅカの婆さんの家では、毎日毎日、あわれ、お里が婆さんに責めさいなまされている。
「おまえ、いったい強情な子じゃないか。あの野郎はもう、赤と青が、針の山の裏道でぶち生かしちまったころだよ。あんな不実な奴に操を立てないで、大王さまのモノになれば、栄耀栄華は望み次第。玉の輿じゃないか。ウーン、まだイヤだとぬかすか。それじゃあ、手ひどいこともせにゃならぬ」
と、襟髪取って庭に引き出し、松の根方にくくりつけた。
折しも、降りしきる雪。
極楽の鐘の音がゴーン。
男が難なく塀を乗り越え
「お里さん」
「そういう声は康次郎さん」
急いで縄を切り、二人手に手を取って逃げだしたとたん、シャバでは
「ウーン」
とお里が棺の中で息を吹き返す。
それ、医者だ、薬だ、と大騒ぎ。
生き返ったお里の話を聞いて、急いで先方に問い合わすと、向こうも同じ騒ぎ。
来あわせた坊さんが
「幽霊同士の約束とはおもしろい。昔、日向の松月朝友という方が、やはり死んで生き返ってみると、姿は文屋康秀。それが伊勢に帰ると言って消えたという話があるが、こちらが小日向の松月堂、向こうが伊勢町の文屋検校。康秀と康次郎。語呂が合うのは縁ある証拠。早く二人を夫婦にしなさい」
「でも和尚さん、向こうの都合もあります」
「いや幽霊同士、しかも金貸し。アシは出すまい」
底本:五代目古今亭志ん生
【しりたい】
噺のなりたち
文屋康秀を題材とする民間伝承に、同じく平安時代成立の『日本霊異記』や『今昔物語集』に多く見られる死人が蘇生して地獄のさまを語る仏教説話が結びついて原型ができたと思われます。
ただ、さまざまに謎の多い噺です。
文屋康秀は三十六歌仙の一人。と、そう言われながらも、詳しいことがわかっていない人物です。
江戸時代の笑話としては、明和5年(1768)刊の『軽口はるの山』中の「西寺町の幽霊」、天明3年(1783)刊『軽口夜明烏』中巻「死んでも盗人」が原話とされます。
前者では、幽霊が「ゴーストバスター」に墓穴を埋められて戻れなくなり、消えることもできずに「ああ、もはやおれが命もこれぎりじゃ」と嘆くオチ、後者は盗人が地獄の番人になぐられて、「当たり所が悪くて」蘇ってしまうお笑いで、この噺の後半の、二人が蘇生するくだりの原型としては後者がやや近いでしょう。
お里がショウヅカの婆さん(=奪衣婆)に雪責めにされるところは、新内の「明烏夢淡雪」中の遊女浦里雪責めの場面を採ったものです。
と記したところで、この噺のなりたち、なんのことやらわかりません。
伊勢や日向
では、あらためまして。
宇井無愁(宮本鉱一郎、1909-92)によれば、この噺の根底には、「伊勢や日向」または「伊勢や日向の物語」ということわざが関係しているようです。
その意味は、「ことの前後がはっきりしないまとまりのない話」や「見当はずれなこと」です。
『伊勢物語知顕抄』には、こんな話が記されてあります。
伊勢の男と日向の男が死んだ時、閻魔の庁では、まだ寿命のある伊勢の男を生き返らせようとしたが、すでに火葬してしまって灰になっていたので、日向の男の体に生き返らせた。そしたら、体と心が別人で、言うことがちぐはぐになってしまった。
蘇生の失敗バージョンですね。
このことを「伊勢や日向」と言っているようです。要は「ちぐはぐ」ということですね。
「朝友」は、「ちぐはぐ」がキーワードなのです。
伊勢は三重県の、日向は宮崎県の旧国名です。
噺には、なんとしてもこれらを入れておかないと、当時の人々の理解をや賛意を得られなかったのでしょう。
ことわざが生きませんからね。
江戸時代には、わりと使われていたことわざだったようですから、こんな噺が生まれても奇妙ではなかったのかもしれません。
この噺、なんだかばかばかしくおかしくて笑っちゃう噺なのですが、現代のわれわれが理解するにはちょっと難易度が高いかもしれませんね。
松月朝友
詳細は不詳です。あらすじの参考にした、四代目橘家円喬(柴田清五郎、1865-1912)の明治27年(1894)の速記では「トモフサ」とルビが振ってあります。
座頭金
民間では座頭金といいます。江戸期での視覚障害者の位階で最下位となる「座頭」がため込んだ小金を元手に貸金業を営むことはよくありましたが、これが最高位レベルの「検校」ともなれば、大名貸しで巨富を築くものも少なくありませんでした。
当道座
男性視覚障害者の自治的互助組織を当道座といい、女性のそれには瞽女座がありました。国の当道座をまとめる「惣検校」を最高位として京都の仏光寺近くに置き、江戸には関東の座の取り締まりをする「惣録検校」を本所に置きました。
彼らには階級が厳しくあって、おおざっぱには、別当→勾当→座頭の順です。さらに細分化されていて、73階級もあったそうです。
円朝作の「真景累ヶ淵」の発端で旗本、深見新左衛門の屋敷に、貸金の取り立てに行って斬殺される按摩の皆川宗悦もこの座頭金を営み、その金利は五両に一分で返済期限四月という高利でした。
ショウヅカの婆さん
奪衣婆ともいい、地獄の入り口、三途の川の岸辺で亡者の衣服をはぎ取り、衣領樹という木の上にいる懸衣翁に渡すのが仕事の鬼婆です。
「ショウヅカ」は「生塚」とも書きます。「三途河」がなまったものです。柳田國男は「障塚」が由来と言っています。水木しげるの怪奇漫画では常連ですね。
落語でも「地獄八景」「死ぬなら今」など、地獄を舞台にした噺にはたいてい登場。この「朝友」では本来の悪役ですが、ほとんどは、どちらかというとコミカルな、情報通の茶屋の婆さんという扱われ方です。
「朝友」のこの婆さんのモデルは、前述した「明烏夢淡雪」で、遊女浦里を雪中、割り竹でサディスティックに責めさいなむ、吉原山名屋のやり手のおかや婆あです。
「正塚の婆さん」
かつて「正塚の婆さん」というタイトルのテレビドラマがありました。
昭和38年(1963)10月25日19時30分-20時56分、TBS系列の「近鉄金曜劇場」で放映された単発のテレビドラマ。
意地悪婆さんの正塚くに(三益愛子)が検察審査会の委員に選ばれて、ヤクザの家屋損壊事件を追究していきながら、日本の民主主義政治の実態を問う、という社会派法廷ドラマでした。
原作は橋本忍(1918-2018)。この方、『七人の侍』『幻の湖』などで名を残した邦画界の重鎮です。
タイトルが奪衣婆からの命名なのは明々白々です。これを安直とみるか。
60年前の日本社会では、奪衣婆=ショウヅカの婆さんは十分通じていたのですね。
完全に絶えた噺
四代目円喬以後、ほとんどやり手がなかったようで、昭和になって、昭和4年騒人社刊「名作落語全集」中に円喬の速記が復刻されて以来、何度か活字化されていますが、すべてソースは円喬のものばかり。彼以前も以後も、現在にいたるまで、音源も含めて、他の演者の記録はまったくありません。
地獄を脱出するサスペンスなど、なかなか捨てがたいので、どなたかがテキストレジーの上、復活してくれるとおもしろいのですがね。
文屋と朝友
円喬の速記によると、伊勢国の文屋の康秀が死んで地獄へ行き、まだ寿命が尽きていないからと帰されますが、すでに死骸は火葬にされ、戻るべき肉体がないことが判明。困った閻魔の庁では、文屋と同日同時刻に死んだ日向国の松月朝友の体を借りて文屋の魂を蘇生させますが、家族が蘇った朝友を見ると、その姿は文屋に変っていて、伊勢に帰ると言って、いずこへともなく姿を消したという奇妙キテレツな死人蘇生譚です。
円喬は坊主に「この話は戯作(江戸の通俗読物)で読んだ」と語らせていますが、このタネ本についてはまったく未詳です。
実在の文屋康秀はほとんど伝記も不明で、わずかに、三河掾(三河国で第3位の国司)となって赴任するときに小野小町に恋歌を贈った逸話が知られているだけで、なぜ伊勢と結びついたのかもはっきりしません。
【語の読みと注】
三途河 さんずか
三途河の婆さん しょうづかのばあさん
座頭金 ざとうがね
奪衣婆 だつえば
衣領樹 えりょうじゅ
障塚 さえつか
真景累ヶ淵 しんけいかさねがふち
正塚の婆さん しょうづかのばあさん
たのきゅう【田能久】落語演目
【どんな?】
田能久と言えば「若大将」。この噺の舞台は徳島県。え、浅草でも赤坂でもないんだ。
別題:棚牡丹 田之紀
【あらすじ】
阿波(徳島県)の在、田能村の農民、久兵衛。
芝居が好きで上手なので、村芝居の人気者。
とうとう趣味が高じて「田能久一座」を結成、本業そっちのけであちこちを興行して歩いている。
あるとき、伊予(愛媛県)の宇和島から依頼が来たので出かけ、これが大好評。
ところが、ちょうど五日目に、おふくろが急病との知らせが届き、親孝行なたちなので、急いで、愛用のかつらだけを風呂敷に包み、帰り道を急いだ。
途中、法華津峠を越え、鳥坂峠に差しかかると、一天にわかにかき曇り、雨がポツリポツリ。
山から下りてきた木こりに、この峠は化け物が出るという噂だから、夜越しはやめろと忠告されたが、母親の病状が気にかかり、それを聞き流して山越えにかかる。
山中でとっぷり日が暮れ、途方にくれていると、木こり小屋があったので、これ幸いと、そこで夜明かしをすることに決めた。
昼間の疲れでぐっすり寝込んだ田能久、山風の冷気で夜中にふと目を覚ますと、白髪で白髭の老人が枕元に立っている。
気味が悪いので狸寝入りを決めると、老人
「おい、目を開いたままイビキをかくやつがあるか」
実は、この老人は大蛇の化身。
人間の味もすっかり忘れていたから、素直にオレの腹の中へ入れと舌なめずり。
田能久、震えあがり、実は母親が病気でこれこれと泣き落としで命乞いするが、もちろん聞かばこそ。
田能久、そこでとっさの機転で、
「狸で人間に化けているだけだ」
と、うそをついた。
大蛇は
「ふーん。これが本当の狸寝入りか。阿波の徳島は狸の本場と聞いたが、呑むものがなくなって狸を呑んだとあっちゃ、ウワバミ仲間に顔向けできねえ」
と、しばし考え、
「本当に狸なら化けてみせろ」
と言う。
これには困ったが、ふと風呂敷の中のかつらを思い出し、それを被って女や坊主、果ては石川五右衛門にまでなって見せたので、大蛇は感心して、オレの寝ぐらはすぐそばなので、帰りにぜひ尋ねてきてくれと、すっかり信用してしまった。
近づきになるには、なんでも打ち明けなければと、互いの怖いものの噺になる。
大蛇の大の苦手は煙草のヤニ。体につくと、骨まで腐ってしまうという。
田能久は
「金が仇の世の中だから、金がいちばん怖い」
と口から出まかせ。
夜が明けて、オレに会ったことは決して喋るなと口止めされ、ようよう解放された。
麓に下り、これこれこういうわけと話をすると、これはいいことを聞いたと、さっそく木こりたちが峠に上がり、大蛇にヤニをぶっかけると、大蛇は悲鳴をあげて退散した。
帰ると、母親の病気はすっかり治っていたので、安心して一杯やって寝ていると、その夜、ドンドンと戸をたたく者がいる。
出てみると、血だらけで老人の姿になった大蛇。
「よくもしゃべったな。おまえがおれの苦手なものをしゃべったから、おれもおまえのいちばん嫌いなものをやるから覚悟しろ」
抱えていた箱を投げ出し、そのまま消えた。
開けてみると、中には小判で一万両。
【うんちく】
久さんの正体 【RIZAP COOK】
『日本昔話集成』(関敬吾編、角川書店、1973年)には「田之久」の題で収録され、高知県の民話にはこの噺の原型となるものがあります。
その他、全国に流布する「親孝行が長者となる伝説」の要素が加わっています。
宇井無愁(宮本鉱一郎、1909-92)の考証によれば、「田能」とは本来田楽のことで、田能久は村の鎮守の祭礼に、吉例のお神楽を奉納する田楽師だとか。
ウワバミにいっぱい食わせる小道具も、したがって噺のような芝居の衣装でなく、お神楽の面をいろいろに取り換えただけといいます。
なるほど、だからこそ、あっという間の変身が可能だったわけで、それにだまされるウワバミの知能も、牛並みだったということでしょう。
田楽とは 【RIZAP COOK】
始まりは平安期あたりから。田植え作業の効率化と田の神を祀ることから始まった芸能です。笛や鼓を鳴らして田の畔で歌い舞った田舞に始まります。軽妙な音楽と単純な踊りのため、やがて専門の田楽法師が生まれ、腰鼓、笛、銅鈸子、編木などの楽器を用いた群舞と、さらには高足に乗ったり、品玉を使ったり、刀剣を投げ渡したりするなどの曲芸にまで変化していきました。
鎌倉期から室町期には田楽能と呼ばれて、さかんに流行しました。本座や新座などの座までつくられていき、物まね中心のの猿楽と影響しあっていきました。観世の能楽が洗練化していくと、田楽は衰退の一途をたどります。現在は、さまざまなものが民俗芸能として各地に残っている状態です。
三遊本流に継承 【RIZAP COOK】
本来は上方落語です。主人公を沢村田之助の弟子で田之紀という下回り役者で演じる場合は、演題も「田之紀」とし、ほかに「棚牡丹」という別題もあります。
東京にいつ伝わったかはわかりません。明治31年(1898)1月、『百花園』に掲載された四代目橘家円蔵(松本栄吉、1864-1922)の速記が残っています。
円蔵は「イヤ、孝行の徳に依って思はぬ幸いを得ましたが、幸福の天に有る、このへんを申しましたものでございましょう」と、地でオチています。
その高弟の五代目三遊亭円生(村田源治、1884-1940)、義理の息子の六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)が継承し、よく高座にかけました。
円蔵以来、やり方はほとんど変わりません。六代目円生は、大蛇がヤニをかけられて苦しむさまなどを、より緻密に描写しました。
大蛇の「タヌキ寝入り」うんぬんのくすぐりは今ではあまり受けません。どの演者でもそのまま踏襲しているようです。
珍しい、ご当地落語 【RIZAP COOK】
意外に数少ない、特定の地方を舞台にしたご当地噺です。登場する地名はすべて実在のものです。阿波(徳島県)は昔から芸能のさかんな土地柄で、阿波人形浄瑠璃の本場でもあります。
阿波は、歌舞伎や文楽でよく上演される『傾城阿波鳴門』の舞台にもなっています。これは、近松門左衛門の浄瑠璃『夕霧阿波鳴渡』にもとづいたもの。阿波玉木家の御家騒動に、夕霧伊左衛門の情話、阿波十郎兵衛の巷説を張り交ぜています。八段目「巡礼歌の段」が有名です。歌舞伎では、明治35年(1902)に改作され、どんどろ大師前の場面となったため、「どんどろ」と呼ばれています。
四代目円蔵は、法華津峠を法月峠、鳥坂峠を戸坂峠としましたが、のちに弟子の六代目円生がこれを訂正しています。
養老の滝 【RIZAP COOK】
孝行の 心を天も 水にせず 酒と汲まする 養老の滝
「田能久」のマクラに使われる狂歌です。作者は浅草庵市人(大垣(伊勢屋)久右衛門、1755-1821)。本業は浅草の質商です。
四方赤良(大田南畝、1749-1823)に入門し、頭の光(岸宇右衛門、1754-96)の伯楽連に属して、狂歌界の重鎮となっていきました。
別号に壺々陳人などもありますが、晩年に向島に隠居してからは墨用盧を名乗りました。
編著に『男踏歌』、『東遊』など。『東遊』の画は葛飾北斎によるものです。浅草庵市人は浅草の人。ああ、やっぱり、田能久は浅草と縁あるのですね。