みずやのとみ【水屋の富】落語演目

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【どんな?】

水を売る小商いの男が、富くじに当たって大金を手にした……。

心の中は疑心暗鬼で、という噺。さて、どうなることやら。

別題:水屋富(上方)

あらすじ

まだ水道が普及しなかった本所や深川などの低地一帯に、荷を担いで水を売って歩いた水屋。

一日も休むことはできないので、冬は特に辛い商売。

ある水屋、独り者で身寄りはなし、わずらったら世話をしてくれる人間もないから、どうかまとまった金が欲しいと思っている矢先、どう運が向いたものか、千両の「打ち富」に当たってしまった。

「うわーッ、当たった」

興奮して引き換え所に行くと、二か月待てば千両まとめてくれるが、今すぐだと二割さっ引かれるという。

待っていられないと、すぐもらうことにし、小判を、腹巻と両袖にいっぱい入れてもまだ持ちきれないので、股引きを脱いで先を結び、両股へ残りをつっ込んで背負うと、勇んでわが家へ。

山吹色のをどっとぶちまけて、つくづく思うには、これで今すぐ商売をやめたいが、水屋は代わりが見つかるまでは、やめることができない。

一日休んでも、持ち場の地域の連中が干上がってしまう。

かといって、小判を背負って商売に出たら、井戸へ落っことしてしまう。

そこで、金を大きな麻の風呂敷に包み、戸棚の中に葛籠(つづら)があってボロ布が入っていたので、その下に隠した。

泥棒が入って葛籠を見ても、汚いから目に留めないだろうと納得したが、待てよ、ボロの下になにかあると勘づかれたらどうしようと不安になり、神棚に乗せて、神様に守ってもらおうと気が変わる。

ところが、よく考えると、神棚に大切なものを隠すのはよくあること。

泥棒が気づかないわけがないとまた不安になり、結局、畳を一畳上げて根太板をはがし、丸太が一本通っているのに五寸釘を打ち込み、先を曲げて金包みを引っかけた。

これで一安心と商売に出たものの、まだ疑心暗鬼は治まらない。

すれ違った野郎が実は泥棒で、自分の家に行くのではないかと跡をつけてみたり、一時も気が休まらない。

おかげで仕事もはかどらず、あっちこっちで文句を言われる。

夜は夜で、毎晩、強盗に入られてブッスリやられる夢を見てうなされる。

隣の遊び人。

博打でスッテンテンになり、手も足も出ないので、金が欲しいとぼやいていると、水屋が毎朝竿を縁の下に突っ込み、帰るとまた同じことをするのに気がついた。

これはなにかあると、留守に忍び込んで根太をはがすと、案の定金包み。取り上げるとずっしり重い。

しめたと狂喜して、そっくり盗んでずらかった。

一方、水屋。

いつものように、帰って竹竿で縁の下をかき回すと
「おや?」

根太をはがしてみると、金は影も形もない。

「あッ、盗られちゃった。これで苦労がなくなった」

底本:五代目古今亭志ん生

しりたい

江戸の「水」事情  【RIZAP COOK】

江戸時代、川向こうの本所や深川などの水事情。

そこらは水質が悪く、井戸水が使えない低湿地帯でした。

天秤棒をかついで毎日やって来る水屋から、一荷(ふた桶)百文、一杯せいぜい二文ほどで、一日の生活用水や飲み水を買っていたものです。

井戸のある長屋では年に一度、井戸替えがありました。

ここらへんでは井戸もありませんし、井戸替えも無縁です。

水売りとも呼ばれたこの商売。

狭い、限られた地域の、せいぜい何軒かのお得意を回るだけで、全部売りきってもどれほどの儲けにもなりません。

しかも雨の日も雪の日も、一日も休めません。

いつまでも貧しく、過酷ななりわいでした。

水屋は、享保年間(1716-36)にはもう記録にあります。

水道がまだ普及しなかった、明治の末まで存在しました。

江戸時代には、玉川や神田上水から、水業者が契約して上水を仕入れ、船で運びました。

それを水売りが河岸で桶に詰め替え、差しにないで、得意先の客に売り歩いたものです。

水売り  【RIZAP COOK】

これとは別に、夏だけ出る水売りがありました。

こちらは、氷水のほか、砂糖や白玉入りの甘い冷水を、茶碗一杯一文(のち四文)で売っていました。

こちらは、今の清涼飲料水のような嗜好品です。

噺のなりたち  【RIZAP COOK】

原話はいくつかあります。

明和5年(1768)刊の笑話本『軽口片頬笑』中の「了簡違」、安永3年(1774)刊『仕形噺』中の「ぬす人」、さらに文政10年(1813)刊『百成瓢』中の「富の札」など。

この噺は、いくつかの小咄をつなぎあわせてできたものです。

このうち、「ぬす人」は、千両拾った貧乏人が盗人を恐れて気落ちになる後半の大筋がすでにできあがっています。

オチは、百両だけ持って長屋から夜逃げする、というもの。

「富の札」では、金を得るきっかけが富くじの当選に変わり、結末はやはり、百両のうち一両二分だけ持って逃走といういじましいものです。

大阪でも「水屋富」として演じられました。

ただ、この噺は、江戸の下町低湿地という特殊事情に根ざした内容なので、やはりこれは純粋な東京の噺といえるでしょう。

「あきらめ」の哲学?  【RIZAP COOK】

「水屋の富」には、心学の影響がみられます。

運命をありのままに受け入れる哲学を説き、江戸庶民に広く普及していた、石田梅岩の石門心学です。

心学については、「天災」をお読みください。

オチの「これで苦労がなくなった」というのも、その「あきらめの勧め」に通じると見られます。

生涯遊んで暮らせる金をむざむざ盗まれて、あきらめろと言われても、現代人にはやはり納得がいきません。

この男が本気で胸をなでおろしているとすれば、一種のマゾヒズムじみた異様さを感じる人も、少なくないのではないでしょうか。 

何百何十両手にしても、主人公は仕事を休むことも逃げることもできず、むろん今のように、預ける銀行などありません。

休めば得意先が干上がるという道義心や、その地域を担当する代わりの者が見つからなければ廃業もできない、という水屋仲間の掟もあります。

それより、そんな悪知恵も金を生かす才覚もないのです。

たとえ下手人が捕まり、金が戻ったとしても、再び盗まれるまで、同じ恐怖と悪夢が、また果てしなく続くでしょう。

してみると、結局、これがもっとも現実的な解決法だったかと、納得できないでもありませんね。

志ん生が描く江戸の「どん底」  【RIZAP COOK】

三代目柳家小さんの十八番でした。

戦後は五代目古今亭志ん生が、貧乏のどん底暮らしの体験を生かして、江戸の底辺を生きる水屋の姿をリアルに活写して、余すところがありませんでした。

どん底暮らしとはいっても、これは後世の志ん生好きが美化しているだけのことです。

志ん生ご本人は、さほどの辛さはなかったようです。

当時のさまざまな証言から推測できます。

さて。

志ん生のやり方では、水屋が毎晩毎晩、強盗に違う手口で殺され、金を奪われる夢を見ます。

一昨日は首をしめられ、昨夜は出刃でわき腹を一突き。

そして今夜は、何とマサカリで……。

このあたりの描写は、あまり哀れに滑稽で、笑うに笑えず、しかし、やっぱり笑ってしまいます。

結局、かなしい「ハッピーエンド」になるわけですが、人生の苦い皮肉に身をつまされます。

優れた短編小説のような、ほろ苦い味わいです。ここがいい。

志ん生没後は、十代目金原亭馬生、古今亭志ん朝に継承されました。

今となっては、お二人とも泉下の人に。

その門下も含め、現在はあまり手掛ける人はいないようです。

富くじ  【RIZAP COOK】

この噺の題名にもなっている千両富は、「富久」「宿屋の富」「御慶」など、落語にはしばしば登場します。

富くじは、各寺社が、修理・改築の費用を捻出するために行ったものです。

文政年間(1818-30年)の最盛期には、多いときには月に二十日以上、江戸中で毎日どこかで富の興行があったといいます。

有名なところは湯島天神、椙森稲荷、谷中天王寺、目黒不動などです。

当たりの最低金額は一朱(一両の十六分の一)でした。

この噺のような千両富の興行はめったになく、だいたい五百両富が最高でした。

今の宝くじを想像していただければよろしいかと思います。

富くじは、明治には廃止となり、先の大戦が終わるまで日本の社会では絶えていました。

現代の宝くじは、江戸期の富くじの後身です。

明治維新から昭和20年(1945)までの77年間、富くじはなぜ消えたのでしょうか。

この制度、そうとうに不思議なのです。

宝くじというもの、あてずっぽうでいえば、戦争と相性が悪いのでしょうね、きっと。

宝くじと日本人。興味尽きない社会史の材料です。

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ちょうちんや【提灯屋】落語演目

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【どんな?】

町内に新しい店。無筆でなんの店かわからず。それが提灯を造って売る店で。

上方から東京にもってきた噺。滑稽噺の秀作です。たっぷりたのしめます。

あらすじ

無筆が多かった昔の話。

町内でチンドン屋が、広告を配って歩いている。

長屋の連中、広告を見てやってきたと言えば向こうで喜び、お銚子の一本も出すかもしれないと、さっそく出かける相談。

ところがあいにく、誰も字が読めず、何屋なのかわからない。

そば屋ならもっとのびた字を書きそうなものだし、寿司屋なら握った字を書いてあるはず、てんぷら屋か、はたまた中華料理か、変わったところで、大阪ではすっぽんをまるというから、こう字が丸まったところを見てすっぽん屋かしら、いや、かしわ(鶏)料理屋だろうと、食い意地が張って、片っ端から食い物屋の名前を並べ立てても、らちが明かない。

そこへ米屋の隠居が来たので、読んでもらうと、これが食い物ではなく、提灯屋の新規開店の広告。

一同がっかり。

「当日より向こう七日間は開店祝いとして、提灯のご紋、笠の印等は無代にて書き入れ申し候。柏町一丁目五番地、提灯屋ブラ右衛門」と、あった。

万一、書けない紋があるときは、お望みの提灯をタダでくれるというので、「大きなことを抜かしゃあがる。それなら証拠の広告を持って、タダでもらってこようじゃねえか」と、一座の兄貴分が計略を巡らす。

とても書けないような紋を言い立て、へこましてやろうという算段だ。

まず一人目が、
「鍾馗さまが大蛇を輪切りにした紋を書いてみろ」
と判じ物で迫り、降参させる。

鍾馗さまは剣を持っていて、うわばみを胴斬りにしたから、まっ二つに分かれて片方がうわ、もう片方がばみ。併せて、剣かたばみ、というわけ。

二人目は
「仏壇の地震てんだが、書けるか?」

仏壇に地震がくれば、りんもどうもひっくり返るから、りんどう崩し。

これで、ぶら提灯を二つせしめた。

三人目は「髪結床看板が湯に入って熱い」という、妙な紋。

髪結床の看板はねじれていて、熱いからうめろというので、合わせてねじ梅。

四人目は
「おめえだな、提灯をただくれるてえのは」
と、最初からもらったも同然というずうずうしさ。

この男のが長い。
「算盤の掛け声が八十一で、商売を始めて、もうかったが持ちつけない銭を持って、急に道楽を始めた。家に帰らないから嫁さんが意見がましいことを言う。なに言ってやんでえベラボウめ。男の働きだ。ぐずぐず言うならてめえなんぞ出ていけってんで、かみさんを離縁しちまった」
という紋。

謎解きは、八十一は九九、もうかったから利があり、これでくくり。かみさんが去っていったから、合わせてくくりざる。

出す提灯、出す提灯、みんなタダで持っていかれた提灯屋、もうなんとでも言ってきやがれ、とヤケクソ。

一方、町内は提灯行列。

そこへ、隠居までやってきた。

さあ、こいつが元締めかと、提灯屋はカンカン。

隠居、よりにもよって一番高い高張提灯がほしいと抜かす。しかも二つも家まで届けろというから、念がいっている。

「で、紋だが」
「ほうら、おいでなすった。鍾馗さまが大蛇を輪切りにして、仏壇の地震でもって、八十一が商売始めて、もうかってかみさんを離縁したって言おうてんだろう」
「落ち着きなさい。私の紋は丸に柏だ」
「うーん、元締めだけあって、無理難題を言ってきやがる。丸に柏、丸に柏と……あッ、わかった。すっぽんにニワトリだろう」

しりたい

提灯屋の集団

噺の中に「傘の印」とあるように、傘を合わせてあきなっているところも多く、その場合、傘の形をした看板に「ちゃうちん」と記してありました。より詳しくは「花筏」をお読みください。

もちろん、この噺でわかるように、紋の染物屋も兼ねた、三業種兼業のマルチ企業だったわけです。

判じ物

判じ物は、狭義では絵や文字から、隠された意味を解かせるもので、現在の絵解きパズルに当たります。単なるなぞなぞ、なぞかけを意味することもあり、この噺で持ち込まれる難題は、そちらに当たります。

江戸っ子はシャレ好きで、地口、なぞかけなど、さまざまなクイズを楽しみ、時には賭けの対象にしました。

代表的ななぞかけには、

宵越しのテンプラ→揚げ(=上げ)っぱなし 
金魚のおかず→煮ても焼いても食えない 
やかんの蛸→手も足も出ない

などがあります。「宵越しのテンプラ」などは、現在でもエスカレーターが上りだけで下りがないビルなどに使えそうですね。

『浮世断語』(三代目三遊亭金馬著、河出文庫から復刻)」はいちおしです。

江戸っ子学の宝庫で、こうしたなぞかけ、判じ物についてわかりやすく解説し、実例も豊富に載っています。

残る速記は五代目小さんのだけ

落語としては上方が本家で、東京に移植したのは三代目三遊亭円馬(橋本卯三郎、1882-1945、大阪→東京)と言われますが、はっきりしません。

円馬から四代目柳家小さん(大野菊松、1888-1947)を経て、五代目小さん(小林盛夫、1915-2002)に継承されました。現在、小さん一門を中心に演じられていますが、手掛ける者は多くはないようです。

速記、音源とも、長らく五代目のものだけでしたが、柳家小三治(郡山剛蔵、1939-2021)、三遊亭小遊三などのCDも出ています。上方では、露の五郎兵衛が演じていました。

発掘された原話

原話はずっと不明とされていましたが、武藤禎夫(1926-、東大→朝日新聞社→共立女子短大、近世舌耕芸)は、明和6年(1769)刊『珍作鸚鵡石』中の「難題染物」を原型としてあげています。

これは、提灯屋は登場しませんが、大坂・嶋の内に「難題染物」の看板を掲げる店があり、そこの主人が無類の囲碁好き。今日も友人と碁盤を囲んでいるときに「一つ足らん狐の一声」という紋の注文が来ます。わからずに考え込むと、友人が、「九曜の紋(大円の周りを八つの小円が囲む)なら十に一つ足らず、狐の一声なら『コン』で、合わせて紺の九曜」と、教えるというすじです。

紋を注文するのに、なぞかけで出すという趣向が、確かに「提灯屋」の原話と思わせる小咄です。

【語の読みと注】
鍾馗 しょうき
判じ物 はんじもの:謎かけ

スヴェンソンの増毛ネット

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かえんだいこ【火焔太鼓】演目

道具屋の噺。古い太鼓がお大名に三百両で売れた。夫婦はびっくりにんまり。

あらすじ

道具屋の甚兵衛は、女房と少し頭の弱い甥の定吉の三人暮らしだが、お人好しで気が小さいので、商売はまるでダメ。

おまけに恐妻家で、しっかり者のかみさんに、毎日尻をたたかれ通し。

今日もかみさんに、市で汚い太鼓を買ってきたというので小言を食っている。

なにせ甚兵衛の仕入れの「実績」が、清盛のしびんだの、清少納言のおまるだの「立派」な代物ばかりだから、かみさんの怒るのも無理はない。

それでも、買ってきちまったものは仕方がないと、定吉にハタキをかけさせてみると、ホコリが出るわ出るわ、出尽くしたら太鼓がなくなってしまいそうなほど。

調子に乗って定吉がドンドコドンドコやると、やたらと大きな音がする。

それを聞きつけたか、赤井御門守(あかいごもんのかみ)の家臣らしい身なりのいい侍が「コレ、太鼓を打ったのはその方の宅か」。

「今、殿さまがお駕籠でお通りになって、太鼓の音がお耳に入り、ぜひ見たいと仰せられるから、すぐに屋敷に持参いたせ」

最初はどんなお咎めがあるかとビビっていた甚兵衛、お買い上げになるらしいとわかってにわかに得意満面。

ところがかみさんに
「ふん。そんな太鼓が売れると思うのかい。こんなに汚いのを持ってってごらん。お大名は気が短いから、『かようなむさいものを持って参った道具屋。当分帰すな』てんで、庭の松の木へでも縛られちゃうよ」
と脅かされ、どうせそんな太鼓はほかに売れっこないんだから、元値の一分で押しつけてこいと家を追い出される。

さすがに心配になった甚兵衛、震えながらお屋敷に着くと、さっきの侍が出てきて
「太鼓を殿にお目にかけるから、暫時そこで控えておれ」

今にも侍が出てきて「かようなむさい太鼓を」ときたら、風のようにさっと逃げだそうと、びくびくしながら身構えていると、意外や意外、殿様がえらくお気に召して、三百両の値がついた。

聞けば「あれは火焔太鼓といい、国宝級の品」というからまたびっくり。

甚兵衛感激のあまり、百五十両まで数えると泣きだしてしまう。

興奮して家に飛んで帰ると、さっそく、かみさんに五十両ずつたたきつける。

「それ二百五十両だ」
「あァらま、お前さん商売がうまい」
「うそつきゃあがれ、こんちくしょうめ。それ、三百両だ」
「あァら、ちょいと水一ぱい」
「ざまあみゃあがれ。オレもそこで水をのんだ」
「まあ、おまえさん、たいへんに儲かるねェ」
「うん、音のするもんに限ラァ。おらァこんだ半鐘(はんしょう)を買ってくる」
「半鐘? いけないよ。おジャンになるから」

底本:五代目古今亭志ん生

しりたい

おジャン  【RIZAP COOK】

オチの「おジャン」は江戸ことばで「フイになる」こと。江戸名物の火事の際、鎮火するとゆるく「ジャン、ジャン」と二度打って知らせたことから、「終わり」の意味がついたものです。

戦後この噺を専売にしていた五代目古今亭志ん生が前座時分、神田の白梅で聞き覚えた初代三遊亭遊三の演出では、実際に半鐘を買ってしまい、小僧に叩かせたので、近所の者が店に乱入、道具はメチャメチャで儲けが本当におジャンという「悲劇」に終わっています。

この噺は随所にギャグ満載で、「本物の火焔太鼓は高さ3mを超える化け太鼓だから、とても持ち運びなどできない」という真っ当な批判など、鼻で吹き飛ばすようなおもしろさがあります。

実際、長男の先代馬生がそのことを言うと、志ん生は「だからてめえの噺はダメなんだ!」としかったといいます。

二男の志ん朝は、甚兵衛の人間描写・心理も掘り下げ、軽快さと登場人物の存在感では親父まさりの「火焔太鼓」に仕上げて、後世に残しました。

火焔太鼓の急所  【RIZAP COOK】

最後の、甚兵衛がこれでもかと金をたたきつけ、神さんが逆にひっくり返るところがクライマックスでしょう。

志ん生独自の掛け合いのおもしろさ。「それ百両だ」「あーら、ちょいと」「それ百五十両だ」「あーら、ま」

畳み掛けるイキは無類。志ん朝だと序幕でかみさんの横暴ぶりを十分に強調してありますから、この場は、何年も耐えに耐えてきた甚兵衛のうっぷんが一気に爆発するようなカタルシスがあります。

火焔太鼓のこばなし  【RIZAP COOK】

まだまだ無数にあります。まずは一度聞いてみてください。

その1

(太兵衛=甚兵衛)「金は、フンドシにくるんで」

(侍)「天下の通用金を褌にくるむやつがあるか」

(太)「どっちも金です」

                        (遊三)

その2

(甚兵衛)「この目を見なさい。馬鹿な目でしょう。これはバカメといって、おつけの実にしかならない」


(志ん生)

その3

(甚兵衛)「顔をごらんなさい。ばかな顔してるでしょ。あれはバカガオといって、夏ンなると咲いたりなんかすンですよ」


(志ん朝)

その4

(かみさん)「おまいさんはね、人間があんにゃもんにゃなんだから、自分てえものを考えなくちゃいけないよ。血のめぐりが悪いんだから、人間が少し足りないんだからって」

                         (志ん生) 

   
世に二つ  【RIZAP COOK】

実際は、「(せいぜい)世に(一つか)二つ(しかない)という名器」ということですね。志ん生も含め、明治生まれの古い江戸っ子は、コトバの上でも気が短く、ダラダラと説明するのを嫌い、つい表現をはしょってしまうため、現代のわれわれにはよく通じないことが、ままあります。

これを「世に二つとない」と補って解釈することも可能でしょうが、それではいくらなんでも意味が百八十度ひっくり返ってしまうので、やはり前者程度の「解読」が無難でしょう。

もっとしりたい

五代目古今亭志ん生が、神田白梅亭で初代三遊亭遊三のやった「火焔太鼓」を聞いたのは、明治40年(1907)ごろのこと。前座なりたてのころだったらしい。それから約30年後、志ん生はじっくり練り直した「火焔太鼓」を演じる。世評を喝采させて不朽の名作に仕立て上げてしまった。とはいえ、全編にくすぐりをてんこ盛りにした噺にすぎない。噺の大筋は遊三のと変わっていないのだが。海賀変哲は、この噺を「全く以ってくだらないお笑いです」と評している。遊三の専売だったそうだ。遊三のは、太鼓でもうけたあとに半鐘を買ってきて小僧がジャンジャン鳴らしたら、近所の人が火事と間違えて店に乱入。飾ってあった道具はめちゃくちゃに。「ドンと占めた太鼓のもうけが半鐘でおジャンになった」というオチになっている。五代目桂文楽は、火事のくだりで、懐からおもちゃのまといを取り出して振るという所作をしていたそうだ。大正のころのこと。うーん、こんな芸で受けたのだろうか。志ん生のは、金を差し出してかみさんを驚き喜ばせるくだりで笑いがピークに達したところで、すーっと落とす筋の運び。見事に洗練されている。遊三のでは、甚兵衛ではなく銀座の太兵衛だ。お殿さまは赤井御門守、侍は平平平平(ひらたいらへっぺい)。落語世界ではお決まりの面々である。それを、志ん生は甚兵衛以外名なしで通した。おそらく、筋をしっかり聞いてほしいというたくらみからだったのだろう。リアリティーなどどうでもいいのだ、この噺には。火焔太鼓とは、舞楽に使うもの。太鼓の周りが火焔の文様で施されている。一般に、面の直径は6尺3寸(約2m)という。まあ、庶民には縁のなさそうな代物だ。志ん生の長男・金原亭馬生が「火焔太鼓ってのは風呂敷で持っていけるようなものじゃないよ、おとっつぁん」と詰め寄ったという逸話は、既出の手垢のついた話題だ。遊三の「火焔太鼓」でも、太兵衛は風呂敷でお屋敷に持参している。志ん生は遊三をなぞっているわけだから、当然だ。考証や詮索にうつつを抜かしすぎると、野暮になるのが落語というもの。リアリティーを出すために太鼓を大八車に載せては、それこそおジャンだ。この噺の眼目は別のところにあるのだろうから。

古木優

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