ときそば【時そば】演目

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みんな知ってる「いまなんどき」。名人がやると、がぜん映えますね。

あらすじ

夜鷹そばとも呼ばれた、屋台の二八にはちそば屋。

冬の寒い夜、屋台に飛び込んできた男、
「おうッ、何ができる? 花巻きにしっぽく? しっぽくウ、しとつ、こしらいてくんねえ。寒いなァ」
「今夜はたいへんお寒うございます」
「どうでえ商売は? いけねえか? まあ、アキネエってえぐらいだから、飽きずにやんなきゃいけねえ」
と最初から調子がいい。

待って食う間中、
「看板が当たり矢で縁起がいい、あつらえが早い、割り箸を使っていて清潔だ、いい丼を使っている、鰹節をおごっていてダシがいい、そばは細くて腰があって、ちくわは厚く切ってあって……」
と、歯の浮くような世辞をとうとうと並べ立てる。

食い終わると
「実は脇でまずいそばを食っちゃった。おまえのを口直しにやったんだ。一杯で勘弁しねえ。いくらだい?」
「十六文で」
「小銭は間違えるといけねえ。手ェ出しねえ。それ、一つ二つ三つ四つ五つ六つ七つ八つ、今、何どきだい?」
「九ツで」
「とお、十一、十二……」

すーっと行ってしまった。

これを見ていたのがぼーッとした男。

「あんちきしょう、よくしゃべりやがったな。はなからしまいまで世辞ィ使ってやがら。てやんでえ。値段聞くことねえ。十六文と決まってるんだから。それにしても、変なところで時刻を聞きやがった、あれじゃあ間違えちまう」
と、何回も指を折って
「七つ、八つ、何どきだい、九ツで」
とやった挙げ句
「あ、少なく間違えやがった。何刻だい、九ツで、ここで一文かすりゃあがった。うーん、うめえことやったな」

自分もやってみたくなって、翌日早い時刻にそば屋をつかまえる。

「寒いねえ」
「へえ、今夜はだいぶ暖かで」
「ああ、そうだ。寒いのはゆんべだ。どうでえ商売は? おかげさまで? 逆らうね。的に矢が……当たってねえ。どうでもいいけど、そばが遅いねえ。まあ、オレは気が長えからいいや。おっ、感心に割り箸を……割ってあるね。いい丼だ……まんべんなく欠けてるよ。のこぎりに使えらあ。鰹節をおごって……ぶあっ、塩っからい。湯をうめてくれ。そばは……太いね。ウドンかい、これ。まあ、食いでがあっていいや。ずいぶんグチャグチャしてるね。こなれがよくっていいか。ちくわは厚くって……おめえんとこ、ちくわ使ってあるの? 使ってます? ありゃ、薄いね、これは。丼にひっついていてわからなかったよ。月が透けて見えらあ。オレ、もうよすよ。いくらだい?」
「十六文で」
「小銭は間違えるといけねえ。手を出しねえ。それ、一つ二つ三つ四つ五つ六つ七つ八つ、今、何どきだい?」
「四ツで」
「五つ六つ七つ八つ……」

しりたい

夜鷹そば

夜鷹は、本所吉田町や柳原土手やなぎはらどてを縄張りにした、「野天営業」の街娼ですが、その夜鷹がよく食べたことからこの名がつきました。

ですから、本来は夜鷹の営業区域に屋台を出す夜泣きそば屋だけに限った名称だったはずなのです。

夜泣きそば(夜鷹)は一杯16文と相場が決まっていて、異名の二八そばは二八の十六からきたとも、そば粉とつなぎの割合からとも諸説あります。

夜鷹そばの値上げ

種物たねものが充実して、夜鷹そばが盛んになったのは文化ぶんか年間(1804-18)から。

ちなみに、夜鷹の料金は一回24文で、それより8文安かったわけですが、幕末には20文に、さらに24文に値が上がりました。

明治になると、新興の「夜泣きうどん屋」に客を奪われ、すっかり衰退しました。

何どきだい?

冬の夜九ツ刻ここのつどきはおよその刻、午前0-2時。

江戸時代の時刻は明け六ツから、およそ2時間ごとに五四九八七、六五四九八七とくり返します。

後の間抜け男が現れたのは四ツですから、夜の10-0時。

あわてて2時間早く来すぎたばっかりに、都合8文もぼられたわけです。

ひょっとこそば

この噺を得意にしていた三代目桂三木助は、マクラに「ひょっとこそば」の小ばなしを振っています。

客が食べてみるとえらく熱いので、思わずフーフー吹く、「あァたのそのお顔が、ひょっとこでござんす」

これは六代目三遊亭円生もやりました。

蛇足

それまでそばの代金の数え方を「ひいふうみい」とする演者が多かったのを、時刻との整合から、「一つ、二つ」と改めたのは三代目三木助でした。

なるほど、こうでなければそば屋はごまかされません。今ではほとんど三木助通りです。

たしか、先代・春風亭柳橋だったと記憶しますが、「何どきだい?」「へい九ツで」のところで、お囃子のように、二人が間を置かず、「なんどきだーいここのつでー」とやっていたのが、たまらないおかしさでした。

これだと、そば屋も承知でいっしょに遊んでいるようで、本当は変なのですが。

もっとも古い原話

享保きょうほう11年(1726)、京都で刊行された笑話本『軽口初笑かるくちはつわらい』中の「他人は喰より」がもっとも古い形です。

それによると、主人公は中間ちゅうげん(武家屋敷の奉公人)、そば(そばきり)の値段は六文で、「四ツ、五ツ、六ツ……」と失敗します。

享保のころは、まだ物価が安かったということでしょう。

この噺は夜鷹そばの屋台が登場するため、生粋きっすいの江戸の噺と思われがちですが、実は上方落語の「時うどん」を、明治中期に三代目柳家小さんが東京に移したものです。

なんだかんだいっても、弟子の真打ち襲名披露で古今亭志ん朝が本牧亭でやった「時そば」、これはすこぶるの絶品でした。

【時そば 古今亭志ん朝】

おなおし【お直し】演目

廓噺。吉原育ちの男女が切羽詰まって商売を。辛くて悲しいのになぜか大笑い。

あらすじ

盛りを過ぎた花魁と客引きの若い衆が、いつしか深い仲に。

廓では「同業者」同志の色恋はきついご法度。

そこで隠れて忍び逢っていたが、いつまでも隠し通せない。

主人に呼ばれ、
「困るじゃないか。おまえたちだって廓の仁義を知らないわけじゃなし。ええ、どうするんだい」

結局、主人の情けで、女は女郎を引退、取り持ち役の「やり手」になり、晴れて夫婦となって仲良く稼ぐことになった。

そのうち、小さな家も借り、夫婦通いで、食事は見世の方でさせてもらうから、金はたまる一方。

ところが、好事魔多し。

亭主が岡場所通いを始めて仕事を休みがちになり、さらに博打に手を染め、とうとう一文なしになってしまった。

女房も、主人の手前、見世に顔を出しづらい。

「ええ、どうするつもりだい、いったい」
「どうするって……しようがねえや」

亭主は、友達から「蹴転けころ」をやるように勧められていて、もうそれしか手がない、と言う。

吉原の外れ、羅生門河岸で強引に誰彼なく客を引っ張り込む、最下級の女郎の異称。

女が二畳一間で「営業」中、ころ合いを見て、客引きが「お直し」と叫ぶと、その度に二百が四百、六百と花代がはねあがる。

捕まえたら死んでも離さない。

で、
「蹴転はおまえ、客引きがオレ」

女房も、今はしかたがないと覚悟するが、
「おまえさん、焼き餠を焼かずに辛抱できるのかい」
「できなくてどうするもんか」

亭主はさすがに気がとがめ
「おまえはあんなとこに出れば、ハキダメに鶴だ」
などとおだてを言うが、女房の方が割り切りが早い。

早速、一日目に酔っぱらいの左官を捕まえ、腕によりをかけてたらし込む。

亭主、タンカを切ったのはいいが、やはり客と女房の会話を聞くと、たまらなくなってきた。

「夫婦になってくれるかい?」
「お直し」
「おまえさんのためには、命はいらないよ」
「お直し」
「いくら借金がある? 三十両? オレが払ってやるよ」
「直してもらいな」

客が帰ると、亭主は我慢しきれず、
「てめえ、本当にあの野郎に気があるんだろ。えい、やめたやめた、こんな商売」
「そう、あたしもいやだよ。……人に辛い思いばかりさせて。……なんだい、こん畜生」
「怒っちゃいけねえやな。何もおまえと嫌いで一緒になったんじゃねえ。おらァ生涯、おめえと離れねえ」
「そうかい、うれしいよ」
とまあ、仲直り。

むつまじくやっていると、さっきの酔っぱらいがのぞき込んで、
「おい、直してもらいねえ」

底本:五代目古今亭志ん生

しりたい】

蹴転  【RIZAP COOK】

けころ。吉原に限らず、江戸の各所に出没していた最下級の私娼の総称です。「蹴転ばし」の略。「蹴倒し」ともいいました。すぐに寝る意味で、そういう意がこめられたうえでの最下級なのですね。泊まりはなくて百文一切り、所要時間は今の時計で10分程度だったといいます。10分では短すぎるので、たいていの客は改めて延長を希望します。これが「お直し」です。裏路地の棟割り長屋のような粗末な木造の、4尺5間の間口、2尺の戸、2尺5寸の羽目板、3尺の土間、これら全部含めても2畳ほどの狭い部屋で商売をするのです。「切り見世」「局見世」と呼ばれていました。吉原にかぎらず、岡場所にはあったものですが、吉原で蹴転は、お歯黒どぶ(囲いの下水)の岸にあったので、「河岸見世」と呼ばれていました。吉原の蹴転は寛政年間(1789-1801)にはもう絶えたようです。寛政改革では吉原が大打撃をこうむっていますから、そのさなかにつぶされていったのですね。

切り見世は 突き放すように いとまごい

お直しを 食らい素百の さて困り

銭がなけ よしなと路地へ 突き出され

羅生門河岸  【RIZAP COOK】

つまり吉原の京町2丁目南側、「お歯黒どぶ」といわれた真っ黒な溝に沿った一角を本拠にしていました。「羅生門」とは、蹴転が客の腕を強引に捕まえ、放さなかったことから、源頼光四天王の一人・渡辺綱が鬼女の隻腕を斬り落とした伝説の地名になぞらえてつけられた名称とか。「一度つかんだら放さない」というニュアンスが込められているのがミソです。こわごわとしたかんじがしますね。表向きは、ロウソクの灯が消えるまで二百文が相場ですが、それで納まるはずはありません。

この噺のように、「お直し、お直しお直しィッ」と、立て続けに二百文ずつアップさせ、結局、客をすってんてんにひんむいてしまうという、魔窟だったわけです。

志ん生のおはこ  【RIZAP COOK】

この噺は、五代目古今亭志ん生が復活させ、昭和31年度(1956年)の芸術選奨を受賞しました。志ん生亡き後は、次男の志ん朝がさらに磨きのかかった噺にこさえていました。

【語の読みと注】
蹴転 けころ:最下級の商売女性
一切り ひときり:一段落
切り見世 きりみせ:蹴転がいる場所
局見世 つぼねみせ:蹴転がいる場所
河岸見世 かしみせ:吉原の蹴転がいる場所
素百 すびゃく:百文ぽっきり

【RIZAP COOK】 

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【お直し 古今亭志ん朝】

あけがらす【明烏】演目

 

 堅物がもてるという、廓が育む理想形。ビギナーズラック、はたまたの成功譚。

【あらすじ】

異常なまでにまじめ一方と近所で評判の日本橋田所町・日向屋半兵衛のせがれ時次郎。

今年十九だというに、いつも本にばかりかじりつき、女となれば、たとえ雌猫でも鳥肌が立つ。

今日も今日とて、お稲荷さまの参詣で赤飯を三杯ごちそうになったととくとくと報告するものだから、おやじの嘆くまいことか。

「堅いのも限度がある、いい若い者がこれでは、跡継ぎとしてこれからの世間づきあいにも差し支える」
と、かねてからの計画で、町内の札付きの遊び人・源兵衛と太助を「引率者」に頼み、一晩、吉原での遊び方を教えてもらうことにした。

「本人にはお稲荷さまのおこもりとゴマまし、お賽銭が少ないとご利益がないから、向こうへ着いたらお巫女さん方へのご祝儀は、便所に行くふりをしておまえが全部払ってしまいなさい、源兵衛も太助も札付きのワルだから、割り前なんぞ取ったら後がこわい」
と、こまごま注意して送り出す。

太助のほうはもともと、お守りをさせられるのがおもしろくない。

その上、若だんながおやじに言われたことをそっくり、「後がこわい」まで当人の目の前でしゃべってしまったからヘソを曲げるが、なんとか源兵衛がなだめすかし、三人は稲荷ならぬ吉原へ。

いかに若だんながうぶでも、文金、赭熊(しゃごま)、立兵庫(たてひょうご)などという髪型に結った女が、バタリバタリと上草履の音をさせて廊下を通れば、いくらなんでも女郎屋ということはわかる。

泣いてだだをこねるのを二人が
「このまま帰れば、大門で怪しまれて会所で留められ、二年でも三年でも帰してもらえない」
と脅かし、やっと部屋に納まらせる。

若だんなの「担当」は十八になる浦里という、絶世の美女。

そんな初々しい若だんななら、ワチキの方から出てみたいという、花魁からのお見立てで、その晩は腕によりをかけてサービスしたので、堅い若だんなも一か所を除いてトロトロ。

一方、源兵衛と太助はきれいさっぱり敵娼(あいかた)に振られ、ぶつくさ言いながら朝、甘納豆をヤケ食い。

若だんなの部屋に行き、そろそろ起きて帰ろうと言ってもなかなか寝床から出ない。

「花魁は、口では起きろ起きろと言いますが、あたしの手をぐっと押さえて……」
とノロケまで聞かされて太助、頭に血が昇り、甘納豆をつまんだまま梯子段からガラガラガラ……。

「じゃ、坊ちゃん、おまえさんは暇なからだ、ゆっくり遊んでらっしゃい。あたしたちは先に帰りますから」
「あなた方、先へ帰れるなら帰ってごらんなさい。大門で留められる」

【しりたい】

極め付き文楽十八番

あまり紋切り型は並べたくありませんが、この噺ばかりはまあ、上記の通りでしかたないでしょう。

八代目桂文楽が二ツ目時代、初代三遊亭志う雀(のち八代目司馬龍生)に習ったものを、四十数年練り上げ、戦後は、古今亭志ん朝が台頭するまで、文楽以外はやり手がないほどの十八番としました。

それ以前は、サゲ近くが艶笑がかっていたのを改め、おやじが時次郎を心配して送り出す場面に情愛を出し、さらに一人一人のしぐさを写実的に表現したのが文楽演出の特徴でした。

時代は明治中ごろとし、父親は前身が蔵前の札差で、維新後に問屋を開業したという設定になっています。

原話となった心中事件

「明烏○○」と表題がついた作品は、明和年間(1764-72)以後幕末にいたるまで、歌舞伎、音曲とあらゆるジャンルの芸能で大量生産されました。

その発端は、明和3年(1766)6月、吉原・玉屋の遊女美吉野と、人形町の呉服屋の若旦那伊之助が、宮戸川(隅田川の山谷堀あたり)に身を投げた心中事件でした。

それが新内「明烏夢淡雪」として節付けされ、江戸中で大流行したのが第一次ブーム。

事件から半世紀ほど経た文政2年(1819)から同9年にかけ、滝亭鯉丈と為永春水が「明烏後正夢」と題して人情本という、今でいう艶本小説として刊行。第二次ブームに火をつけると、これに落語家が目をつけて同題の長編人情噺にアレンジしました。

現行の「明烏」はおそらく幕末に、その発端を独立させたものでしょう。

大門で止められる

「大門」の読み方は、芝は「だいもん」、吉原は「おおもん」と呼びならわしています。

吉原では、大見世遊びのときには、まず引手茶屋にあがり、そこで幇間と芸者を呼んで一騒ぎした後、迎えが来て見世(女郎屋)に行くならわしでした。

この噺では、茶屋の方もお稲荷さまになぞらえられては決まりが悪いので、早々に時次郎一行を見世に送り込んでいます。

大門は両扉で、黒塗りの冠木(かぶき)門。夜は引け四つ(午前0時)に閉門しますが、脇にくぐり門があり、男ならそれ以後も出入りできました。

大門に入ると、仲の町という一直線の大通り。左には番所、右には会所がありました。

左の番所は、町奉行所から来た与力や同心が岡っ引きを連れて張り込み、客らの出入りを監視する施設です。門番所、面番所とも。

右の会所は、廓内の自治会施設。遊女の脱走を監視するのです。吉原の初代の総名主である三浦屋四郎左衛門の配下、四郎兵衛が代々世襲名で常駐していたため、四郎兵衛会所と呼ばれました。

こんな具合ですから、治安のすこぶるよろしい悪所でした。むろん「途中で帰ると大門で止められる」は真っ赤な嘘です。

甘納豆

八代目桂文楽ので、太助が朝、振られて甘納豆をヤケ食いするしぐさの巧妙さは、今も古い落語ファンの間で語り草です。

甘納豆は嘉永5年(1858)、日本橋の菓子屋が初めて売り出しました。

文楽直伝でこの噺に現代的なセンスを加味した古今亭志ん朝は、甘納豆をなんと梅干の砂糖漬けに代え、タネをプッと吐き出して源兵衛にぶつけるおまけつきでした。

日本橋田所町

現在の東京都中央区堀留町二丁目。日本橋税務署のあるあたりです。

浦里時次郎

新内の「明烏夢淡雪」以来、「明烏」もののカップルはすべて「山名屋浦里・春日屋時次郎」となっています。

落語の方は、心中ものの新内をその「発端」という形でパロディー化したため、当然主人公の名も借りています。

うぶな者がもてて、半可通や遊び慣れた方が振られるという逆転のパターンは、『遊子方言』(明和7=1770年ごろ刊)以来、江戸の遊里を描いた「洒落本」に共通のもので、それをそのまま、オチに巧みに取り入れています。

【もっとしりたい】

ご存じ、8代目桂文楽のおはこ。文楽存命中はだれもやれず、のちに志ん朝がやった。もっとうまかった。

明和3(1766)年6月3日 (一説には明和6年とも) 、吉原玉屋の花魁美吉野と、人形町の呉服太物商春日屋の次男伊之助が、白ちりめんのしごき(女性の腰帯。結ばないでしごいて使う)でしっかり体を結び合って宮戸川(隅田川の山谷堀辺) に入水した。

これが、宮戸川心中事件といわれるもの。事件をもとに、初代鶴賀若狭掾が新内「明烏夢淡雪」として世に広めた。

さらに、文政2年(1819)-7年(1824)には、滝亭鯉丈と為永春水が続編のつもりで人情本『明烏後正夢』を刊行。この本の発端を脚色したのが落語の「明烏」である。以降、「明烏」ものは、歌舞伎、音曲などあらゆる分野で派生生産された。

うぶな男がもてて半可通が振られるという類型は、江戸の遊里を描いた洒落本には共通のもの。もてるもてないはどこか宿命めいている。修行の必要などなさそうだ。

(古木優)

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ごにんまわし【五人廻し】演目

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明治の噺。古典落語は関東大震災以前の作品のことなんですね。

あらすじ

上方ではやらないが、吉原始め江戸の遊廓では、一人の花魁が一晩に複数の客をとり、順番に部屋を廻るのが普通で、それを「廻し」といった。

これは明治初めの吉原の話。

売れっ子の喜瀬川花魁。

今夜は四人もの客が待ちぼうけを食ってイライラし通しだが、待てど暮らせど誰の部屋にも一向に現れない。

宵にちらりと見たばかりの三日月女郎などはまだかわいい方で、これでは新月女郎の月食女郎。

若い者、といっても当年四十六になる牛太郎の喜助は、客の苦情に言い訳するのに青息吐息。

最初にクレームを付けたのは職人風のお兄さん。

おいらんに、空っケツになるまでのみ放題食い放題された挙げ句、思わせぶりに「すぐ来るから待っててね」と言われて夜通し、バターンバターンと草履の音がする度に今度こそはと身を乗り出しても、哀れ、すべて通過。

頭にくるのも無理はない。

喜助にさんざん毒づいた挙げ句、モモンガ-、チンケント-、脚気衝心、肺結核、発疹チフス、ペスト、コレラ、スカラベッチョ、まごまごしゃあがると頭から塩ォかけて食らうからそう思えと言いたい放題。

ほうほうの体で逃げ出すと、次は役人らしい野暮天男。

四隣沈沈、空空寂寂、閨中寂寞とやたら漢語を並べ立てて脅し、閨房中の相手をせんというのは民法にでも出ておるのか、ただちに玉代を返さないとダイナマイトで……と物騒。

平謝りで退散すると今度は通人らしいにやけた男。

黄色い声で、
「このお女郎買いなるものはでゲスな、そばに姫が待っている方が愉快とおぼし召すか、はたまた何人も花魁方が愉快か、尊公のお胸に聞いてみたいねえ、おほほほ」
と、ネチネチいや味を言う。

その次は、最初の客に輪を掛けた乱暴さで、てめえはなんぞギュウじゃあもったいねえ、牛クズだから切り出し(細切れ)でたくさんだとまくしたてられた。

やっとの思いで喜瀬川花魁を捜し当てると、何と田舎大尽の杢兵衛だんなの部屋に居続け。

少しは他の客の所へも廻ってくれと文句を言うと
「いやだよ、あたしゃあ」

お大尽、
「喜瀬川はオラにおっ惚れていて、どうせ年季が明ければヒイフになるだからっちゅうてオラのそばを離れるのはいやだっちゅうだ」
と、いい気にノロケて、
「玉代をけえせっちゅうんならオラが出してやるから、帰ってもらってくれ」
と言う。

一人一円だから都合四円出して喜助を追い払うと、花魁が
「もう一円はずみなさいよ」

あたしに一円くれというので、出してやると喜瀬川が
「もらったからにはあたしのものだね。……それじゃあ、改めてこれをおまえさんにあげる」
「オラがもらってどうするんだ」
「これ持って、おまはんも帰っとくれ」

しりたい

みどころ  【RIZAP COOK】

明治初期の吉原遊郭の様子を今に伝える、貴重な噺です。「五人廻し」と題されていますが、普通、登場する客は四人です。

やたらに漢語を連発する明治政府の官人、江戸以来(?)のいやみな半可通など、当時いたであろう人々の肉声、時代の風俗が、廓の雰囲気とともに伝わってきます。

特に、六代目円生のような名手にかかると、それぞれの人物の描き分けが鮮やかです。

それにしても、当時籠の鳥と言われた女郎も、売れっ子(お職)ともなると、客の選り好みなど、結構わがままも通り、勝手放題に振舞っていたことがわかります。

廓噺と盲小せん  【RIZAP COOK】

吉原遊郭の情緒と、客と女郎の人間模様を濃厚に描く廓噺は、江戸の洒落本の流れを汲み、かつては数多く作られ演じられましたが、現在では一部の噺を除いてすたれました。

「五人廻し」始め、「居残り佐平次」「三枚起請」など、今に残るほとんどの廓噺の原型を作り、集大成したのが、薄幸の天才落語家・初代柳家小せん(1883-1919)です。

歌人の吉井勇にも愛された小せんは、若い頃から将来を期待されましたが、あまりの吉原通いで不幸にも梅毒のため盲目となり、足も立たなくなって、おぶわれて楽屋入りするほどに衰え果てました。

それでも、最後まで高座に執念を燃やし、大正8年(1919)5月26日、36歳の若さで亡くなるまで、後の五代目古今亭志ん生や六代目三遊亭円生ら「若手」に古き良き時代の廓噺を伝え残しました。

「五人廻し」の演出  【RIZAP COOK】

現行のものは初代小せんが残したものがひな型です。

登場人物は六代目円生では、江戸っ子官員、半可通、田舎大尽(だいじん=金持ち)で、幻のもう一人は、喜瀬川の情夫ということでしょう。古くはもう一人、しまいに花魁を探してくれと畳を裏返す男を出すこともありました。本サイト「千字寄席」のあらすじでは古い速記を参照して、その客を四人目に入れてみました。

ギャグでは、三人目の半可通が、「ここに火箸が真っ赤に焼けてます……これを君の背中にじゅう……ッとひとつ、押してみたい」と喜助を脅すのが小せんのもので、今も生きています。

円生は、最初の江戸っ子が怒りのあまり、「そも吉原てえものの始まりは、元和三年の三月に庄司甚右衛門……明治五年、十月の幾日(いっか)に解放(注:娼妓解放令)、貸座敷と名が変って……」と、えんえんと吉原二百五十年史を講義してしまいます。その他、「半人前てえ人間はねえ。坐って半分でいいなら、ステンショで切符を坐って買う」というこれも小せん以来の、いかにも明治初期らしいギャグ、また、「てめえのへそに煙管を突っ込む」(三代目三遊亭円馬)などがあります。

オチは各自で工夫していて、小せんは、杢兵衛大尽の代わりに相撲取りを出し、「マワシを取られて振られた」とやっています。

二代目小さんの古い速記では「ワチキは一人で寝る」、六代目円生では、大尽が振られた最後の一人で、オチをつけずに終わっていますし、五代目志ん生は大尽が二人目、最後に情夫を出して、これも「帰っとくれ」と振られる皮肉な幕切れです。

【五人廻し 古今亭志ん朝】

とみきゅう【富久】演目

すべてが崖っぷちの久蔵。富くじ当たって、土俵際でうっちゃった佳話。

【あらすじ

浅草安部川町の長屋に住む幇間の久蔵は、人間は実直だが大酒のみが玉に瑕。

酒の上での失敗であっちのだんな、こっちのだんなとしくじり、仕事にあぶれている。

ある年の暮れ深川八幡の富くじを、義理もあってなけなしの一分で買った。

札は「松の百十番」。

一番富に当たれば千両、二番富でも五百両。

久蔵、大神宮さまのお宮(神棚)に札をしまい、
「二番富でけっこうですから当たりますように」
と祈る。
「そうしたら堅気になり、二百三十両で売りに出ている小間物屋の店を買って、岡ぼれしている料亭「万梅」の仲居・お松っつあんを嫁にもらって」
と楽しい空想にふけりながら、一升酒をあおってそのまま高いびき。

夜中にすきま風で目を覚ますと、半鐘の音。

火事は芝金杉見当だという。

しくじった田丸屋のだんなの店はその方角だ。

久蔵、ご機嫌を取り結ぶのはこの時とばかり、押っ取り刀で火事見舞いに駆けつけると、幸い火は回っていない。

期待通りだんなが喜んで、出入りを許されたので久蔵は大喜び。

さっそく、火事見舞い客の張付けに大奮闘するが、ご本家から届けられた酒を見ると、もう舌なめずりで上の空。

だんなが苦笑して
「のむのはいいがな、おまえは酒でしくじったんだから、たんとのむなよ」
と言ってくれたので、大喜びで冷酒をあおっているうち、またもへべれけで寝入ってしまう。

夜更けに、また半鐘の音。

今度は久蔵の家がある浅草鳥越方向というので、だんなは急いで久蔵を起こすと、
「万一のことがあれば必ず店に戻ってこい」
と、ろうそくを持たせて帰す。

とんだ火事の掛け持ち。

久蔵、冬の夜空を急いで長屋に戻ると既に遅く、家は丸焼け。

しかたなく田丸屋に引き返すと、だんなは親切に店に置いてくれたので、久蔵は田丸屋の居候になる。

数日後、深川八幡の境内を通ると、ちょうど富くじの抽選。

「ああ、そう言えばおれも一枚買ったっけ」
と思い出したが、
「どうもあの札も火事で焼けちまった」
と、あきらめめ半分で見ていると
「一番、松の百十番」
の声。

「あ、当たったッ」

久蔵、卒倒した。

今すぐ金をもらうと二割引かれるが、そんなことはどうでもいい。
八百両あれば御の字だ。

「札をお出し」
「札は……焼けちまってないッ」
「当たり札がなければダメだ」
と言われ、
「よくも首っくくりの足を引っ張るようなまねをしやがったな、覚えてやがれ、俺は先ィ死んでてめえをとり殺す」
と、世話人にすごんでみても、ダメなものはダメ。

あきらめきれずに泣く泣く帰る途中、相長屋の鳶頭にばったり。
「火事だってえのに何処へ行ってたんだ。布団と釜は出しといてやった。それにしても、さすがに芸人だ。りっぱな大神宮さまのお宮だな。あれも家にあるよ」
「ど、泥棒ッ。大神宮さまを出せッ」
と半狂乱で喉首を締め上げたから、鳶頭は目を白黒。

やっと事情を聞いて
「なるほど、千両富の当たり札とは、狂うのも無理はねえ。運のいい男だなァ。おまえが正直者だから、正直の頭に神宿るだ」
「へえ、これも大神宮さまのおかげです。近所にお払いをいたします」

底本:八代目桂文楽

しりたい

八代目文楽の名人芸   【RIZAP COOK】

江戸時代の実話をもとに、円朝が創作したといわれる噺ですが、速記もなく、詳しいことはわかりません。というか、円朝作というのはうそでしょう。

それよりも、この噺の演者は、なんといっても八代目桂文楽が代表格です。文楽はすぐれた描写力で、冬の夜の寒さ、だんなと幇間の人間関係まで見事に浮き彫りにし、押しも押されぬ十八番に練り上げました。ここでのあらすじも文楽版をテキストにしていますが、強いていえば、人物の性格描写が時に類型的できれいごとに過ぎるのが、この師匠の難点だったでしょう。

そんなことはありませんよ」   【RIZAP COOK】

文楽の「富久」について、榎本滋民が気のきいた一文を残しています。

駆け出そうとする久蔵を、旦那が呼び止めて、類焼した場合には、遠慮なくうちを頼ってこいといってやるのだが、絶品とうたわれた八代目桂文楽の演出では、その前置きに、「そんなことはないよ」と、打ち消して見せる。念頭に浮かびがちな、いまわしい状況を、まず断定的に否認してやることによって、相手の不安の軽減を計る。さらに、「そんなことはない」とくり返してから、柔らかに逆転の「けど」をそえ、「もしものことがあったら、よそへ行くな。うちへ帰ってきておくれよ」という主文に接続させる。窮迫した者に、援助を確約しながら、その表明に、恩着せがましさをもたせまいとつとめるデリカシーが、この簡潔な否定の前置きに、十分働いている。表記の上では、なんの綾も曲もない否定文にしかすぎないものが、練達のいい回しによって、真情あふれる、味わい深いことばになるのも、話芸なればこそである。

榎本滋民『殺し文句の研究 PARTⅡ』(読売新聞社、1987年)から

なるほど。鋭く豊かな視点に脱帽です。

志ん生の「媚びない久蔵」   【RIZAP COOK】

五代目古今亭志ん生の「富久」も、文楽のそれとはまったく行き方の違う名品でした。

文楽が久蔵の実直さ、気の弱さを全面に出すのに対し、志ん生は酒乱と貧乏ゆえの居直り、ふてぶてしさを強調しました。志ん生の久蔵は、決してだんなに媚びてはいません。

ながらく貧乏していた志ん生は、久蔵の不安、やるせなさ、絶望感、それを酒に逃避する弱さを、自らの貧乏体験からはじき出して放埓に演じ、それが観客を勘違いさせて感動に結び付けていました。評論家諸氏は「志ん生は貧乏のどん底だった」といったりしますが、どうも違和感があります。たしかに「どん底」ではあったのかもしれませんが、「貧苦」とは無縁です。どこか楽しんでいたふしもあり、本人は「貧困」「貧窮」とは異なる次元での楽観した生活だったように思えます。

火事で家に急ぐ場面でも、文楽は「しょい、しょい、しょいこらしょっ」と様式的。志ん生は「寒い寒い、寒いよォ」と嘘も飾りもない裸の人間そのまま。両者の違いがはっきり出ています。

浅草阿部川町   【RIZAP COOK】

東京都台東区元浅草三、四丁目から寿一、二丁目。町名主が駿河・阿部川から移住してきたことから、この名があります。

もともと寺社地だったところが町屋になったためか、今でもこのあたりは寺ばかりです。江戸の頃は、裏長屋や同心などの御家人の住居が多く、正徳3年(1713)、町奉行所の直轄御支配地になっています。

大神宮さまのお宮   【RIZAP COOK】

大神宮とは伊勢神宮のことです。「神宮」はなにがしか天皇家と関係がある、という意味です。こんなこと、ガッコ―ではおせえてくれませんな。

伊勢神宮というのは、皇大神宮(内宮)と豊受大神宮(外宮)をあわせて総称です。内宮は天照大神をまつり、外宮は豊受大御神をおまつっています。この神さま天照大御神の食事係りです。さらには、衣食住、産業の守り神としても崇敬されています。そこまで敷衍されるのは、この神さま、じつはお稲荷さまと同一神だともいわれています。その話はいずれどこかの項目で。

さて。

この噺の大神宮さまとは伊勢の神さまを祭る神床をさします。歳末になると家々に回ってくる伊勢神宮の御師が神床を配ります。御師は旧年のお祓いをしに回ります。御師とは下級の神職者で、全国を分担して巡回していたようです。御師は来年の御札(神符、大麻)も配りますから、この来年用のを神棚にまつるのです。神棚はどんな貧しい長屋住まいにもあったようです。

大神宮信仰は、江戸では水商売や芸人に多くあったといわれています。縁起をかつぎ、霊験に誓い、大神宮の神床をおのれの経済力以上に大きなものをまつったりしていました。

神床は伊勢神宮の神明造を模したもので、これを「大神宮の御宮」と呼んでいました。

江戸の末期になると、都市部の町人に経済力が備わって、伊勢参宮ができるほどになりました。とはいえ、生涯一度のもので、大半の人々には夢のまた夢。江戸にいながら参拝できるようにと、伊勢神宮が代用品に売り出していたのがこれらの品々です。

それすら高価なので、買うのは芸者や幇間など花柳界の者が中心。芸人の見栄で、無理しても豪華なものを買う習わし、というのが本心だったようです。見栄を張って生きているのですが、富くじはこのあたりに隠しておくのが通り相場だったようです。」

伊勢の御師  【RIZAP COOK】

いせのおし。伊勢神宮の下級神官で、全国を回って、伊勢暦や大麻(天照大御神のお札)を売るのがつとめです。

伊世よりも三河は顔がのどかなり   二31

伊勢の御師さて銭の無いさかりに来る   五12

転宅を奇妙にさがす伊世の御師   六39

このネットワークは全国の最新情報を仕入れてくるため、事情通の人たちでした。今と違って引越し先を探すのは骨の折れることですが、そこはプロで、どこまでもやってくる、考えようによってはそらおそろしい人たちでした。伊勢神宮以外の神社でも同じような御師が多数巡回していましたが、伊勢神宮だけは数も多いし、配る(売りさばく)商品も多かったようです。

「三河」は三河万歳。笑わせるわけです。伊勢の御師はもっともらしくふるまうものですから、笑いはなく、年末年始に顔を出す二様のよそびとは雰囲気がかなり違っていたのですね。

【RIZAP COOK】

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さんまいぎしょう【三枚起請】演目

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性悪女にひっかかるのも、お得な人生かもしれませんね。

あらすじ

町内の半公が吉原の女郎に入れ揚げて家に帰らず、父親に頼まれた棟梁が呼んで意見をするが、当人、のぼせていて聞く耳を持たない。

かえってノロケを言いだす始末。あんな実のある女はいない、年季が明けたらきっとおまえさんといっしょになる、神に誓って心変わりしないという起請文も取ってあるという。

棟梁が見てみると「小照こと本名すみ……」

どこかで聞いたような名。

それもそのはず、棟梁も同じ女からの同じ起請文を一枚持っているのだ。

江戸中探したら何千枚あるか知れやしねえとあきれているところへ、今度は三河屋の若だんながやってきて、またまた同じノロケを言いだした。

「セツに吉原の女がオカボレでげして、来年の三月に年季が明けたら、アナタのお側へ行って、朝暮夜具の揚げ下ろしをしたいなぞと……契約書まであるんでゲス」とくる。

「若だんな、そりゃひょっとして、吉原江戸町二丁目、小照こと本名すみ……」
「おや、よくご存じで」

これでエースが三枚、いやババか。

半公と若だんなはカンカンになり、これから乗り込んで化けの皮をひんむいてやると息巻くが、棟梁がそこは年の功、正面から強談判しても相手は女郎、開き直られればこっちが野暮天にされるのがオチ、それよりも……と作戦を授け、その夜三人そろって吉原へ。

小照を茶屋の二階へ呼びつけると、二人を押し入れに隠し、まず棟梁がすご味をきかせる。

起請てえのは、別の人間に二本も三本もやっていいものか、それを聞きに来たと言うと、女もさるもの、白ばっくれる。

「それじゃ、三河屋の富さんにやった覚えはねえか」
「なんだい、あんな男か女かわからない、水瓶に落ちた飯粒みたいなやつ」
「おい、水瓶に落ちたおマンマ粒、出といで」

これで一人登場。

「唐物屋の半公にもやったろう」
「知らないよ。あんな餓鬼みたいな小僧」
「餓鬼みたいな小僧、こちらにご出張願います」

こうなっては申し開きできないと観念して、小照が居直る。

「ふん、おまえたち、大の男が三人も寄って、一人の女にかかろうってのかい。何を言いやがる。はばかりながら、女郎は客をだますのが商売さ。だまされるテメエたちの方が大馬鹿なんだよ」
「このアマぁ、嘘の起請で、熊野の烏が三羽死ぬんだ。バチ当たりめ」
「へん、あたしゃ、世界中の烏をみんな殺してやりたいよ」
「こいつめ、烏を殺してどうしようってんだ」
「朝寝がしたいのさ」

しりたい

起請文

「年季(ねん)が明けたら夫婦になる」は女郎のくどき文句ですが、その旨の誓いを、紀伊国・熊野三所権現発行の午王(ごおう)の宝印に書き付け、男に贈ります。

宝印は、熊野権現のお使いの烏七十五羽をかたどった文字で呪文が記してあります。これを熊野の護符といい、それをのみ込むやり方もありました。

その場合、嘘をつくと熊野の烏(暗に当人)が血を吐いて死ぬといわれていました。

「三千世界の……」

オチの言葉は、倒幕の志士・高杉晋作が、品川遊郭の土蔵相模(「居残り佐平次」)で酒席で酔狂に作ったというざれ唄「三千世界の烏を殺し、ぬしと朝寝がしてみたい」から直接採られています。

1958年の映画「幕末太陽伝」で、佐平次(フランキー堺)がごきげんでこの唄をうなっていると、隣で連れションをしていた高杉本人(石原裕次郎)。

「おい、それを唄うな。……さすがにてれる」

お女郎の年季

吉原にかぎり、建前として十年で、二十七歳を過ぎると「現役引退」し、教育係の「やり手」になるか、品川などの岡場所に「住み替え」させられました。

明治5年の「娼妓解放令」で、表向きは自由廃業が認められ、この年季も廃止されましたが、実際はほとんどのお女郎が借金のため引き続き身を売らざるを得ず、実態は何も変わりませんでした。

【語の読みと注】
年季 ねん
午王 ごおう

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【三枚起請 古今亭志ん朝】

ライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ

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ばけものつかい【化け物つかい】演目

使い方の荒い男の噺。権助ばかりか化け物までこき使っちゃったりして、モーレツにすごいです。

【あらすじ】

田舎者で意地っ張りの権助。

日本橋葭町の桂庵から紹介された奉公人の口が、人使いが荒くて三日ともたないと評判の本所の隠居の家。

その分、給金はいいので、権助は
「天狗に使われるんじゃあるめえし」
と、強情を張って、その家に住み込むことに。

行ってみると、さすがの権助も度肝を抜かれた。

今日はゆっくり骨休みしてくれと言うので、
「なんだ、噂ほどじゃねえな」
と思っていると、その骨休みというのが、薪を十把割り、炭を切り、どぶをさらい、草をむしり、品川へ使いに行って、
「その足でついでに千住に回ってきてくれ。帰ったら目黒へ行って、サンマを買ってこい」
というのだから。

しかも、
「今日一日は骨休みだから、飯は食わせない」
ときた。

それでも辛抱して三年奉公したが、隠居が今度、幽霊が出るという評判の家を安く買いたたき、今までの家を高く売って間もなく幽霊屋敷に引っ越すと聞かされ、権助の我慢も限界に。

化け物に取り殺されるのだけはまっぴらと、隠居に掛け合って三年分の給金をもらい、
「おまえさま、人はすりこぎではねえんだから、その人使え(い)を改めねえと、もう奉公人は来ねえだぞ」

毒づいて、暇を取って故郷に帰ってしまった。

化け物屋敷に納まった隠居、権助がいないので急に寂しくなり、いっそ早く化け物でも現れればいいと思いながら、昼間の疲れかいつの間にか居眠りしていたが、ふと気がつくと真夜中。

ぞくぞくっと寒気がしたと思うと、障子がひとりでに開き、現れたのは、かわいい一つ目小僧。

隠居は、奉公人がタダで雇えたと大喜び。

皿洗い、水汲み、床敷き、肩たたきとこき使い、おまけに、明日は昼間から出てこいと命じたから、小僧はふらふらになって、消えていった。

さて翌日。

やはり寒気とともに現れたのはのっぺらぼうの女。

これは使えると、洗濯と縫い物をどっさり。

三日目には、、やけにでかいのが出たと思えば、三つ目入道。

脅かすとブルブル震える。こいつに力仕事と、屋根の上の草むしり。

これもすぐ消えてしまったので、隠居、少々物足りない。

四日目。

化け物がなかなか出ないので、隠居がいらいらしていると、障子の外に誰かいる。

ガラっと開けると、大きな狸が涙ぐんでいる。

「てめえだな、一つ目や三つ目に化けていたのは。まあいい、こってい入れ」
「とんでもねえ。今夜かぎりお暇をいただきます」
「なんで」
「あなたっくらい化け物つかいの荒い人はいない」

    
底本:七代目立川談志

【しりたい】

明治末の新作  【RIZAP COOK】

明治末から大正期にかけての新作と思われます。原話は、安永2年(1773)刊『御伽草』中の「ばけ物やしき」や、安永3年(1774)刊『仕形噺』中の「化物屋敷」などとされていますが、興津要は、『武道伝来記』(井原西鶴、貞享4=1687年刊)巻三「按摩とらする化物屋敷」としています。

桂庵  【RIZAP COOK】

江戸時代における、奉公や縁談の斡旋業で、現在のハローワークと結婚相談所を兼ね、口入れ屋とも呼びました。日本橋葭町には、男子専門の千束屋、大坂屋、東屋、大黒屋、藤屋、女子専門の越前屋などがありました。

名の由来は、承応年間(1652-55)の医師・大和桂庵が、縁談の斡旋をよくしたことからついたとか。慶庵、軽庵、慶安とも。転じて、「桂庵口」とは、双方に良いように言いつくろう慣用語となりました。

名人連も手掛けた噺  【RIZAP COOK】

昭和後期でこの噺を得意にした七代目立川談志は、八代目林家正蔵(彦六)から習ったといいます。その彦六は同時代の四代目柳家小さんから移してもらったとか。いずれにしても、柳派系統の噺だったのでしょう。昭和では七代目三笑亭可楽、三代目桂三木助、五代目古今亭志ん生、三代目古今亭志ん朝も演じました。

【語の読みと注】
桂庵 けいあん
千束屋 ちづかや

【RIZAP COOK】

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はおりのあそび【羽織の遊び】演目

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別題:羽織の女郎買い 羽織 御同伴

遊びといえば、吉原が舞台。とはいえ、苦労するもんですね。

【あらすじ】

町内の若い衆が、キザな伊勢屋の若旦那をたらし込み、タダでお遊びのお相伴をしようとたくらむ。

そこへ現れた若旦那、さっそく吉原の自慢話をひけらかし始める。

「昨日は青楼へふけりまして」
と漢語を使うので、一同、牢に入ったと勘違いする始末。

「北国へ繰り込みまして、初会でカクカイオイロウへ上がりました」

これは吉原の大見世、角海老楼のこと。

「ショカボのベタボで」

つまり、花魁に初会惚れのべた惚れされた、ということ。

二の腕をつねられたのが一時三十五分で、ほっぺたが二時十五分、明け方が喉笛と、いやに詳しいノロケぶり。

いいかげんあてられて、ぜひお供をと頼むと若旦那、「では、これからセツとご同伴願って、ぜひご耽溺をくわだてましょう」と、くる。

「おい、タンデキてえのを知ってるかい」
「うん。焼き芋みてえな形をして、塩をつけるとオツなもんだ」

いいかげんなことを言い合った末、若旦那が
「セツの上がる見世は大見世ばかりでゲスから、半纏着を相手にいたしやせん。ぜひとも羽織とおみ帯のご算段を願いとうございますな」

要するに、オレの顔にかかわるから、羽織と帯だけは最低限着てこなけりゃあ連れていかねえという、ご意向。

そこで一時間の猶予をもらい、それぞれ羽織の調達に行く。

八五郎は出入り先のお内儀さんのところに行き、正直に「女郎買いのお相伴で」とわけを話したため、祝儀不祝儀でないと貸せないとあっさり断られた。

あわてて、
「ええ、その祝儀不祝儀でござんす。向こうから祝儀、こっちから不祝儀で、どーんと突き当たって」
と、トンチンカンに言いつくろう。

冠婚葬祭のことだと教えられ、
「へえ、長屋でお弔いがございます」

誰が死んだかと尋ねられて答えにつまり、屑屋の爺さんを勝手に殺してしまう。

「いつ死んだんだい」
「ゆうべの十一時で」
「ばかをお言いでない。さっき鉄砲ざる背負って通ったよ」
「えっ、通った? ずうずうしい爺イだ」

困って、今度は洗濯屋の婆さんを殺すと、たった今二階で縫い物をしている、という。

大汗をかいてようよう貸してもらい、集合場所へ。

一人は、帯の代わりに風呂敷でゴマかし、別の男は、子供の羽織。

もう一人はふくらんだ紙入れを持ってきたが、実は煉瓦を中に入れて、金があるように見せかけているだけ。

「こりゃご趣向でゲス。しかしそのふくらんだ具合は、懐中が温かそうに見えますな」
「あったけえどころか、煉瓦だから冷えます。途中で小便を二度しました」

【RIZAP COOK】

【しりたい】

演者を選ぶ噺  【RIZAP COOK】

原話は不詳で、文化年間から口演されてきた古い江戸噺です。

古い速記では「羽織の女郎買ひ」と題した二代目古今亭今輔のもの(明治22年11月)が現存します。

戦後では、三代目、四代目の春風亭柳好、六代目三遊亭円生が得意にし、古今亭志ん朝も明るく、スピーディーな高座が絶品でした。

現役では、桂文治が平治時代からやるほか、若手もぼつぼつ手掛け始めてはいますが、演者はさほど多くありません。

登場人物も多く、よほどの円滑洒脱な話芸達人でないとこなせない、難しい噺だからでしょう。

六代目円生は「羽織」、七代目柳枝は「御同伴」と、演題はまちまちです。

オチはいろいろ  【RIZAP COOK】

オチのやり方はいくつかあって、八五郎が羽織の調達に出かけるくだりを後半に回し、婆さんを「殺した」後、嘘がばれて問い詰められ、「だれかそのうちに死にましょう」とオチるのが、現在では普通で、古今亭志ん朝もこのやり方でした。

かってはこの続きがあり、若旦那に引率されて遊びに出かけた後、食通を気取って「ただいまは重箱の鰻でもねえのう」と、後ろへそっくり返るのを教えられた男が、そっくり真似してひっくり返るところで切るのが、明治の今輔のオチ。

「世界は妙でげす、不思議でげす」と言って紙入れを出し、見せびらかせと若旦那に言われ、その通りにしたら、懐のレンガが飛び出した、というのもありました。

志ん朝のくすぐり  【RIZAP COOK】

古今亭志ん朝では、若旦那のノロケが抱腹絶倒。

一時には、マナコの中に熱燗の酒を注がれ、二時には簪を鼻の穴に。
「先がのどのところから出やした」
「魚焼くのがうまいよそういう女は」
三時には、みぞおちの辺りを尻でぐりぐりっと。明け方にはのど笛を食らいつき……という次第。
八公が親分のかみさんに、遊びに行くんなら羽織は貸せないと言われて興奮し、
「姐さんは女だからそんなこと言うんだよ。ねえ、こっちゃあ男だよ。まして若えんだ。ええ、んとに。からだア達者なんだしさ、ずっとここんところ行ってねえんだよ。なんだかイライライライラしてしょうがねえんだから。鼻血は出るしね。朝なんかもう大変なんだから」

半泣きになるところなど、妙にリアルで生臭いところは、いかにもこの人らしい味でした。

ゲス言葉は上品でげす  【RIZAP COOK】

「げす」などの通人ことばは、滑稽本や洒落本などに江戸中期ごろから、頻繁に登場するようになりました。

自称の「セツ」などと並んで、半可通のエセ通人が連発します。接尾語としては「げえす」というのが本来で、「であります」の意味です。

噺家や幇間も日常的に使い、六代目三遊亭円生は口癖のようにしていました。

明治以後になると、この噺や「酢豆腐」の若旦那のように聞きかじりの漢語を交えたりもするので、余計に分かりにくくなってきます。

【語の読みと注】

青楼:せいろう。遊郭
北国:きた。吉原
大見世:おおみせ
角海老楼:かどえびろう
花魁:おいらん
拙:せつ。拙者。私
耽溺:たんでき
半纏着:はんてんぎ。職人
お内儀さん:おかみさん
ご相伴:ごしょうばん
重箱:じゅうばこ。鰻の老舗
祝儀:しゅうぎ
屑屋:くずや
煉瓦:れんが
懐中:かいちゅう
簪:かんざし
姐さん:ねえさん
半可通:はんかつう
幇間:ほうかん。たいこ

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かんにんぶくろ【堪忍袋】演目

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こんな便利な袋があったら、世の中丸くおさまるんですがねぇ。

【あらすじ】

長屋に住む大工の熊五郎夫婦はけんかが絶えない。

今日も朝から、「出てけッ、蹴殺すぞ」と修羅場を展開中。

出入り先のだんなが用事で来あわせ、隣にようすを聞くと、今朝からもう四度目という。

見かねただんな、仲裁に入り、
「昔、唐土(もろこし)のある人が、腹が立つと家の大瓶にみんなぶちまけて蓋をすると、人前ではいつも笑い顔しか見せない。友達連中が何とかあいつを怒らしてみようと、料亭に呼んで辱めたが、ニコニコしているだけ。そのうち中座して帰宅し、例の通り瓶に鬱憤をぶちまける。友達連中、不審に思って男の家に行ってみると、逆に厚くもてなされたので、それから、あれは偉い人間だと評判になり、出世をして、しまいには大金持ちになった。笑う角には福来るというが、おまえたちもそうのべつけんかばかりしていては福も逃げるから、その唐土のまねをしてごらん」
と、さとす。

瓶の代わりに、おかみさんが袋を一つ縫って、それを堪忍袋とし、ひもが堪忍袋の緒。

お互いに不満を袋にどなり込んで、ひもをしっかりしめておき、夫婦円満を図れと知恵を授ける。

熊公、なるほどと感心して、さっそく、かみさんに袋を縫わせた。

まず、熊が
「亭主を亭主と思わないスベタアマーッ」
と、どなり込む。

続いて、かみさんが
「この助平野郎ゥーッ」

亭主「この大福アマッ」
かみ「しみったれ野郎ッ」

隣で将棋をさしている連中、さすがにうんざりして、代表がしぶしぶ止めに来るが、熊がケロっとしているので面食らう。

事情を聞くと、ぜひ貸してくれと頼み、こちらも袋に向かって
「やい、このアマッ、亭主をなんだと思ってやがるんだッ」

これが大評判になり、来るわ、来るわ。

おかげで、袋は長屋中のけんかでパンク寸前。

明日は、海にでも捨ててくるしかない。

また、誰かが来ると困るから戸締まりをして寝たとたん、酔っぱらった六さんが表をドンドン。

開けないと、雨戸の節穴から小便をたれると脅かす。

しかたがないので中に入れると、
「仕事の後輩が若いのに生意気で、オレの仕事にケチをつけやがるから、ポカポカ殴ったら、みんなオレばかりを止めるので、こっちは殴られ放題、がまんがならねえから、どうでも堪忍袋にぶちまけさせろ」
と、聞かない。

「もう満杯だから、明日中身を捨てるまで待ってくれ」
と言っても、承知しない。

「こっちィ貸せ」
とひったくると、袋の紐をぐっと引っ張ったから、中からけんかがいっぺんに
「パッパッパッ、この野郎ッ、こんちくしょう、ちくしょう、この野郎ーッ」

【RIZAP COOK】

【しりたい】

作者は三井の放蕩息子 【RIZAP COOK】

益田太郎冠者(1875-1953)の作です。益田は、三井財閥の大番頭で明治・大正の財界の大立者、益田孝の長男。大正初期に、帝劇のオペレッタを多数制作し、「コロッケの唄」などのヒットで、時代の寵児となりましたが、同時に明治末から大正初期にかけて、第一次落語研究会のために新作落語を多数創作しています。

この噺もその一つで、八代目桂文楽の十八番だった「かんしゃく」同様、初代三遊亭円左(明治42年没)のために書き下ろされたものです。「松竹梅」「粗忽の釘」「反対車」参照。

堪忍袋 【RIZAP COOK】

ギリシア神話の「ミダス王の耳はロバの耳」を下敷きにしている節もあります。

「堪忍五両思案は十両」
「堪忍五両負けて三両」
など、江戸時代には、「堪忍」は単なる処世術、道徳というより、功利的な意味合いで使われることが多かったようです。

オチの工夫 【RIZAP COOK】

あらすじ、オチは、五代目柳家小さんのものをもとにしています。

オリジナルの原作では、袋が破れたとたんに亭主が酔っ払いを張り倒し、「なにをするんだ」「堪忍袋の緒が切れた」と落としていたといいますが、古い速記はなく、現在は、このやり方は行われません。

やはりこの噺を得意にしていた三代目三遊亭金馬は「中のけんかがガヤガヤガヤガヤ」としています。

そのほか、立川談志は、口喧嘩が過激で派手でしたが、「堪忍」の実例に「十八史略」の韓信の股くぐりの故事、大坂城落城の木村重成や、講談の、忠臣蔵の神崎与五郎の逸話(あらすじでは省略)を出すなどどの演者も大筋のやり方は同じです。

それにしても「カンニン」という言葉自体ももう死語になろうとしていますね。いっそ「八つ当たり袋」「ブチ切れ袋」などと改題した方が、わかりやすいかもしれません。

【RIZAP COOK】

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うなぎのたいこ【鰻の幇間】演目

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鰻題材の噺はいくつか、代表格はこれ。文楽流と志ん生流、どちらもお楽しみ。

別題:鰻屋の幇間 釣り落とし

あらすじ

真夏の盛り。

炎天下の街を、陽炎のようにゆらゆらとさまよいながら、なんとかいい客を取り込もうとする野幇間の一八にとって、夏はつらい季節。

なにしろ、金のありそうなだんなはみな、避暑だ湯治だと、東京を後にしてしまっているのだから。

今日も一日歩いて、一人も客が捕まらない。このままだと幇間の日干しが出来上がるから、こうなったら手当たり次第と覚悟を決め、向こうをヒョイと見ると、どこかで見かけたようなだんな。

浴衣がけで手拭を下げて……。

はて、どこで会ったか。

この際、そんなことは気にしていられないので、
「いよっ、だんな。その節はご酒をいただいて、とんだ失礼を」
「いつ、てめえと酒をのんだ」
「のみましたヨ。ほら、向島で」
「なに言ってやがる。てめえと会ったのは清元の師匠の弔いで、麻布の寺じゃねえか」

話がかみ合わない。

だんなが、
「俺はこの通り湯へ行くところだが、せっかく会ったんだから鰻でも食っていこうじゃねえか」
と言ってくれたので、一八はもう夢見心地。

で、そこの鰻屋。

だんなが、
「家は汚いよ」
と釘をさした通り、とても繁盛しているとは見えない風情。

「まあ、この際はゼイタクは禁物、とにかくありがたい獲物がかかった」
と一八、腕によりをかけてヨイショし始める。

「いいご酒ですな。……こりゃけっこうな香の物で……。そのうちお宅にお伺いを……お宅はどちらで?」
「先のとこじゃねえか」
「あ、ああ、そう先のとこ。ずーっと行って入り口が」
「入り口のねえ家があるもんか」

そのうちに、蒲焼きが来る。

大将、ちょっとはばかりへ行ってくると、席を立って、なかなか戻らない。

一八、取らぬ狸で、
「ご祝儀は十円ももらえるかもしらん、お宅に出入りできたら、奥方からもなにか……」
と、楽しい空想を巡らすが、あまりだんなが遅いので、心配になって便所をのぞくと、モヌケのから。

「えらいっ! 粋なもんだ、勘定済ましてスーッと帰っちまうとは」

ところが、仲居が
「勘定お願いします」
とくる。

「お連れさんが、先に帰るが、二階で羽織着た人がだんなだから、あの人にもらってくれと」
「じょ、冗談じゃねえ。どうもセンから目つきがおかしいと思った。家ィ聞くとセンのとこ、センのとこってやがって……なんて野郎だ」

その上、勘定書が九円八十銭。「だんな」が六人前土産を持ってったそうだ。

一八、泣きの涙で、女中に八つ当たりしながら、なけなしの十円札とオサラバし、帰ろうとするとゲタがない。

「あ、あれもお連れさんが履いてらっしゃいました」

底本:八代目桂文楽

しりたい

文楽十八番  【RIZAP COOK】

明治中期の実話がもとといわれますが、詳細は不明です。

「あたしのは一つ残らず十八番です!」と豪語したという八代目桂文楽の、その十八番のうちでも自他共に認める金箔付きがこの噺、縮めて「ウナタイ」。

文楽以前には、遠く明治末から大正中期にかけ、初代柳家小せんが得意にしていました。

文楽は小せんのものを参考に、四十年以上も、セリフの一語一語にいたるまで磨きあげ、野幇間の哀愁を笑いのうちにつむぎ出す名編に仕立てました。

幇間  【RIZAP COOK】

幇間は、宝暦年間(1751-64)から使われ出した名称です。

幇間の「幇」は「助ける」という意味で、遊里やお座敷で客の遊びを取り持ち、楽しませ、助ける稼業ですね。ほかに「タイコモチ」「太夫」「男芸者」「末社」「太鼓衆」「ヨイショ」などと呼ばれました。

太夫は、浄瑠璃の河東節や一中節の太夫が幇間に転身したことから付いた異称です。

「ヨイショ」という呼び方も一般的で、これは幇間が客を取り持つとき、決まって「ヨイショ」と意味不明の奇声を発することから。「おべんちゃらを並べる」意味として、今も生き残っている言葉です。

もっともよく使われる「タイコモチ」の語源は諸説あってはっきりしません。

太閤秀吉を取り巻いた幇間がいたから、「タイコウモチ」→「タイコモチ」となったというダジャレ説もありますが、これはあまり当てになりませんな。

「おタイコをたたく」というのも前項「ヨイショ」と同じ意味です。

おだん  【RIZAP COOK】

だんな、つまり金ヅルになるパトロンを「おだん」、客を取り巻いてご祝儀にありつく営業を「釣り」、客を「魚」というのが、幇間仲間の隠語です。「おだん」は落語家も昔から使います。

この噺の一八は、客を釣ろうとして、「鰻」をつかんでしまいぬらりぬらりと逃げられたわけですが、一八の設定は野幇間で、いわばフリー。「のだいこ」と読みます。そう、「坊ちゃん」に登場のあの「野だいこ」ですね。

正式の幇間は各遊郭に登録済みで、師匠のもとで年季奉公五年、お礼奉公一年でやっと座敷に顔を出せたくらいで座敷芸も取り持ちの技術も、野幇間とは雲泥の差でした。噺家と天狗との差くらいでしょうか。

志ん生流と文楽流  【RIZAP COOK】

五代目古今亭志ん生の「鰻の幇間」は、文楽演出を尊重し踏襲しながらも、志ん生独特のさばき方で、すっきりと噺のテンポを早くした、これも逸品でした。

文楽の、なにかせっぱつまったような悲壮感に比べ、志ん生の一八はどこかニヒルが感じられます。ヨイショが嫌いだったという、いわば幇間に向かない印象にもかかわらず、別の意味で野幇間の無頼さをよく出しています。

オチは文楽が「お供さんが履いていきました」で止めるのに対し、志ん生はさらに「それじゃ、オレの履いてきたのを出してくれ」「あれも風呂敷に包んで持っていきました」と、ダメを押しています。

両者を聴き比べてみるのは、落語の楽しみのひとつですね。

さらに。志ん朝の至芸も聴きたくなります。軸足はどっちにあったのでしょう。

【語の読みと注】
野幇間 のだいこ
一八 いっぱち

【八代目桂文楽 鰻の幇間】
【五代目古今亭志ん生 鰻の幇間】

【RIZAP COOK】

ぬけすずめ【抜け雀】演目

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小田原宿、旅籠賃代わりに描いた雀が……。名工をたたえた名人噺。

あらすじ

小田原宿に現れた若い男。

色白で肥えているが、風体はというと、黒羽二重は日に焼けて赤羽二重。紋付も紋の白いところが真っ黒。

袖を引いたのが、夫婦二人だけの小さな旅籠の主人。

男は悠然と
「泊まってやる。内金に百両も預けておこうか」
と大きなことを言う。

案内すると、男は、
「おれは朝昼晩一升ずつのむ」
と宣言。

その通り、七日の間、一日中大酒を食らって寝ているだけ。

こうなると、そろそろ、かみさんが文句を言い出した。

「危ないから、ここらで内金を入れてほしいと催促してこい」
と気弱な亭主の尻をたたく。

ところが男は
「金はない」
「だってあなた、百両預けようと言った」
と亭主が泣きつくと
「そうしたらいい気持ちだろう、と」

男の商売は絵師。

「抵当に絵を描いてやろうか」
と言い出し、新しい衝立に目を止めて、
「あれに描いてやろう」

それは、江戸の経師屋の職人が抵当に置いていったもの。

亭主をアゴで使って墨をすらせ、一気に描き上げた。

「どうだ」
「へえ、なんです?」
「おまえの眉の下にピカピカッと光っているのはなんだ?」
「目です」
「見えないならくり抜いて銀紙でも張っとけ。雀が五羽描いてある。一羽一両だ」

これは抵当に置くだけで、帰りに寄って金を払うまで売ってはならないと言い置き、男は出発。

とんだ客を泊めたと夫婦でぼやいていると、二階で雀の鳴き声がする。

はて変だ、とヒョイと見ると、例の衝立が真っ白。

どこからか雀が現れ、何と絵の中に飛び込んだ。

これが宿場中の評判を呼び、見物人がひっきりなし。

ある日、六十すぎの品のいい老人が泊まり、絵を見ると
「描いたのは二十五、六の小太りの男であろう。この雀はな、死ぬぞ」

亭主が驚いてわけを聞くと、止まり木が描いていないから、自然に疲れて落ちるという。

「書き足してやろう」
と硯を持ってこさせ、さっと描いた。

「あれは、なんです?」
「おまえの眉の下にピカピカッと光っているのはなんだ?」
「目です」
「見えないならくり抜いて、銀紙でも張っとけ。これは鳥かごだ」

なるほど、雀が飛んでくると、鳥かごに入り、止まり木にとまった。

老人、
「世話になったな」
と行ってしまう。

それからますます絵の評判が高くなり、とうとう藩主、大久保加賀守まで現れて感嘆し、この絵を二千両で買うとの仰せ。

亭主は腰を抜かしたが、律儀に、絵師が帰ってくるまで待ってくれ、と売らない。

それからしばらくして、仙台平の袴に黒羽二重というりっぱな身なりの侍が
「あー、許せ。一晩やっかいになるぞ」

見ると、あの時の絵師だから、亭主はあわてて下にも置かずにごちそう攻め。

老人が鳥かごを描いていった次第を話すと、絵師は二階に上がり、屏風の前にひれ伏すと
「いつもながらご壮健で。不幸の段、お許しください」

聞いてみると、あの老人は絵師の父親。

「へええっ、ご城主さんも、雀を描いたのも名人だが、鳥かごを描いたのも名人だと言ってました。親子二代で名人てえなあ、めでたい」
「なにが、めでたい。あー、おれは親不孝をした」
「どうして?」
「衝立を見ろ。親をかごかきにした」

しりたい

知恩院抜け雀伝説  【RIZAP COOK】

この噺、どうも出自がはっきりしません。

講釈ダネだという説もあり、はたまた中国の黄鶴楼伝説が元だと主張なさる先生もあり、誰それの有名な絵師の逸話じゃとの説もありで、百家争鳴、どの解説文を見てもまちまちです。

その中で、ネタ元として多分確かだろうと思われるのが、京都・知恩院七不思議の一で、襖絵から朝、雀が抜け出し、餌をついばむという伝説です。

六代目三遊亭円生の「子別れ・上」の中で熊五郎が、「知恩院の雀ァ抜け雀」と、俗謡めいて言っていますから、けっこう有名だったのでしょう。

襖絵のある知恩院の大方丈は寛永18年(1641)の創建ですから、描いたのはおそらく京都狩野派の中興の祖・狩野山雪でしょうが、不詳です。

志ん生・父子相伝  【RIZAP COOK】

落語として発達したのは上方で、したがって、上方では後述のように昔から、けっこう多くの師匠が手掛けています。

東京では五代目志ん生の、文字通りワンマンショーです。

なにしろ、明治以後、志ん生以前の速記は事実上ありません。

わずかに「明治末期から大正初期の『文芸倶楽部』に速記がある」というアイマイモコ、いい加減極まりない記述を複数の「落語評論家」の先生方がしていますが、明治何年何月号で、何という師匠のものなのかは、ダレも知らないようです。

つまり、上方からいつごろ伝わり、志ん生がいつ、誰から教わったのか、ご当人も忘れたのか、言い残していない以上、永遠の謎なのです。

要は志ん生が発掘し、育て、得意の芸道ものの一つとして一手専売にした、「志ん生作」といっていいほどの噺です。

東京の噺家では十代目金原亭馬生、古今亭志ん朝兄弟が「家の芸」として手掛けたくらいです。まさに親子相伝。

志ん生の「抜け雀」の特色は、芸道ものによくある説教臭がなく、「顔の真ん中にぴかっと」というセリフが、絵師、かみさん、老人と三度繰り返される「反復ギャグ」を始め、笑いの多い、明るく楽しい噺に仕上げていることでしょう。

特に「火焔太鼓」を思わせる、ガラガラのかみさんと恐妻家の亭主の人物造形が絶妙です。

志ん朝は『志ん朝の落語・6』(ちくま文庫)の解説で京須偕充氏も述べている通り、父親の演出を踏まえながら、より人物描写の彫りを深くし、さらに近代的で爽やかな印象の「抜け雀」をつくっています。

上方の「雀旅籠」  【RIZAP COOK】

上方の「雀旅籠」は、舞台も同じ小田原宿ということも含め、筋や設定は東京の「抜け雀」とほとんど違いはありません。

特に桂文枝代々の持ちネタで、三代目桂文枝のほか、二代目立花家花橘、二代目桂三木助も、得意にしていたといいます。

五代目文枝、米朝ももちろん手掛けましたが、特に米朝のは、先代文枝譲りで、「私が教わったのでは、雀は室内を飛びまわるだけで、障子を開けるとバタバタと絵へ納ってしまうのですが、私は東京式に一ぺん戸外へ飛び出すことにしました」と芸談にある通り、ギャグも含めて、東京、つまり志ん生の影響が多分にあるようです。

同師は題も「抜け雀」で演じます。

「親に駕籠かかせ……」  【RIZAP COOK】

「親を駕籠かきにした」というオチの部分の原話は、上方落語の祖・初代米沢彦八(?-1714)が元禄16年(1703)に刊行した『軽口御前男』巻二中の「山水の掛物」といわれます。

これは、ある屋敷で客の接待に出た腰元が、床の間の雪舟の絵の掛け軸を見て涙を流し、「私の父もかきましたが、山道をかいている最中に亡くなりました」と言うので、客が「そなたの父も絵かきか」と尋ねると、「いえ、駕籠かきです」と地口(=ダジャレ)オチになるものです。

それから時代がくだり、寛延2年(1749)7月、大坂・竹本座で初演された人形浄瑠璃『双蝶蝶曲輪日記(ふたつちょうちょうくるわにっき)』六段目の「橋本・治部右衛門住家」に、傾城吾妻のくどき「現在親に駕籠かかせ」というセリフがあることから、これが直接のオチの原型であると同時に、この噺の発想そのものになったという説があります。

ほんま、ややっこしいことで。お退屈さま。

駕籠かき  【RIZAP COOK】

普通、街道筋にたむろする雲助、つまり宿場や立て場で客待ちをする駕籠屋のことです。

「親に駕籠を担がせた」と相当に悪く言われ、職業的差別を受けていることで、この連中がどれだけ剣呑で、評判のよくない輩だったかがうかがえます。

【RIZAP COOK】

【語の読みと注】
抵当 かた
衝立 ついたて