さいきょうみやげ【西京土産】落語演目



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【どんな?】

明治になって生じた没落士族。その悲哀を背景にした滑稽譚です。

【あらすじ】

長屋に住む、独り者の熊五郎。

隣の元士族で、今は反故屋の作蔵が、女を引き込んでいちゃついているようすなので、おもしろくない。

嫌味を言いに行くと作蔵、実はこれこれこういうわけと、不思議ないきさつを物語る。

母一人子一人の身で、死んだおやじの士族公債も使い果たし、このままでは先の見込みもない。

いずれは道具屋の店でも開こうと一念発起した作蔵。

上方を回って掘り出し物の古道具でも買い集めようと、京から奈良と旅するうち、祇園の芸妓の絵姿が手に入った。

この絵の中の女に一目惚れした作蔵、東京に帰ると、母親が嫁取りを勧めるのも聞かず、朝夕飯や茶を供えて、どうか巡り合えますようと祈っている。

と、その一念が通じたか、ある日、芸妓が絵からスーッと抜け出し
「どうか、あんたのお家はん(=妻)にしてかわいがっとくれやす」

都合のいいことに、女は作蔵がいる時だけ掛け軸の中から出てきて、かいがいしく世話をしてくれる。

この世の者でないから食費もかからず。

しかも絶世の美女ときているので、わが世の春。

毎日、鼻の下を伸ばしている。

母親に見つかってしかられた。

だが、わけを話して許しを得て、今では三人仲良く暮らしている、という次第。

話を聞いてうらやましくてならない熊公、
「こんないい女が手に入るなら、オレも古紙回収業になろう」

熊公は、作蔵からかごを借りる。

鵜の目鷹の目で、抜け出しそうな女の絵を買おうと、近所をうろつきだす。

都合よく、深川の花魁の絵姿の掛け軸が手に入った。

熊は大喜びで毎日毎晩一心に拝んでいる。

その念が通じたか、ある夜、花魁がスーッと絵から抜け出て
「ちょいと、主は本当に粋な人だよ。おまえさんと添い遂げたいけど、ワチキは今まで客を取ってて、体がナマになっているから、鱸の洗いで一杯やりたいねえ。軍鶏が食いたい、牛が食べたい。朝はいつまでも寝てるよ。起きない(=畿内)五か国山城大和」

隣とはえらい違いで、本当に寝ているだけでなにもしない。
「これは、ひどい奴を女房にした」
とぐちる。

ある朝。

熊さんが自分で朝飯をこしらえて花魁の枕元に置き、夕方、仕事から帰ると、もぬけのカラ。

ほうぼう探したが、行方がわからない。

しかたなく、易に凝っている大家に卦を立ててもらうと「清風」と出た。

「セイは清し、フウは風だから。神隠しにあったんだろう」
「そりゃあ、違いましょう。実は柱隠しでございます」

底本:初代三遊亭円遊

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【しりたい】

「鼻の円遊」の創作  【RIZAP COOK】

明治25年(1892)10月、「百花園」掲載の初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、自称三代目)の速記が、唯一の記録です。

いわゆる没落士族の悲哀を背景にした噺です。

筋自体は「野ざらし」と「応挙の幽霊」を継ぎ足した感じで、後半の花魁のずうずうしさだけが、笑いのタネです。

円遊は、その年の5月末から8月いっぱい、西京(京都)から関西、東海地方を旅興行で回っているので、噺の題名はその土産話という、ニュアンスなのでしょう。

「西京」は、明治以後に使われた名称です。

江戸が「東京」と改名して首都とされたため、それと区別するために用いたものです。

士族公債

明治2年(1869)の版籍奉還に伴い、同10年(1877)に政府から士族に発行された秩禄(=金禄)公債証書。

一人当たり、平均四十円にも満たないケースがほとんどでした。

そのため、士族の多くは生活に困窮。子女が身売りしたり、落語でよく登場するように慣れない商売に手を出して失敗する悲劇が明治初期、いたるところで見られました。

神隠し  【RIZAP COOK】

いわゆる「蒸発」です。

その当時、子供の「蒸発」はほとんどが人さらいでした。

柱隠し  【RIZAP COOK】

オチが今ではわかりにくくなっていますが、柱隠しは、柱の表面に掛けた装飾のことです。

「たがや」にも登場する「柱暦」もその一つですが、多くは、細長い紙に書画を描いたもので、柱掛け、柱聯ともいいました。

この噺の場合は、柱隠しに使った掛け軸の中から花魁が出現したことを言ったものです。

つまり、神隠しではなく、掛け軸の中にまた戻っていったのだろう、ということでしょう。

江戸時代には、柱隠しを利用した、「聯合わせ」という優雅な遊びがありました。

柱に木製や竹製の聯を掛け、単に飾って自慢しあうだけでなく、その上に手拭い、扇面、短冊、花などをあしらい歌舞伎の下題に見立てて、洒落るなどしたものです。

明治期には、ハンカチを使うこともありました。

のちには、祭礼の神酒所の飾りにしか、見られなくなりました。

清風  【RIZAP COOK】

せいふう。

江戸時代、神隠しは天狗の仕業と考えられ、天狗の羽うちわが起こす風をこう呼びました。

ここでは、冗談半分にそれとしゃれたものです。



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ひっこしのゆめ【引越しの夢】落語演目



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【どんな?】

店の女がいつかずの商家で、性悪女を雇ってみたら、それがもう、すごい効果に。

別題:初夢 口入れ屋(上方)

【あらすじ】

たいへんに堅物の商家の主人。

奉公人に女のことで間違いがあってはならぬと、日が落ちると猫の子一匹外には出さない、湯にも行かせない、という徹底ぶり。

おかげで吉原にも行けず、欲求不満の若い手代や小僧が、店の女に夜な夜ないたずらを仕掛けるので、とうとう女の奉公人が居つかなくなってしまった。

困った果てに一計を案じただんな、口入れ屋にとびきり不器量な女だけを斡旋するように頼んだが、これも効き目なし。

しかたなく、今度は悪さをする連中を痛い目にあわそうと、特別性悪な女を、という注文。

そこで雇われてきたのがお梅という、二十五、六のいい女。

これが注文通り、たいていの男を手玉に取るという相当なシロモノ。

そうとは知らない店の連中、一目見たきりぼうっとなり、なんとか一番にお梅をモノにしようと、それぞれ悪企みをめぐらす。

一番手は番頭の清兵衛。五十を越して独り身だが、まだ色気は十分。

飯を食いに行くふりをしてお梅のそばに寄り、ネチネチとかき口説く。

先刻承知、海千山千のお梅がしなだれかかり、股のところをツネツネするものだから、たちまちデレデレになり、「予約金」を一包み置いて、今夜の密会を約束して帰っていく。

続いては、手代の平助。

遊び慣れたふりをするが、お梅にかかっては赤子も同然。

清兵衛と同様、金を巻き上げられ、約束の時刻はまったく同じ。

以下、来る者来る者みんなオモチャにされ、金を包んで置いていく。

初日の夜も二日目の夜も、男という男は全員、すきあらばと一晩中寝ないものだから、誰一人首尾を果たせない。

昼間はそろいもそろって寝不足で、あちこちでいびきが聞こえる始末。

三日目の深夜、むっくりと起き上がったのは清兵衛で、抜き足差し足で台所まで来る。

お梅もわるもので、台所から自分の部屋へのはしごを外しておいたのも、知らぬが仏。

清兵衛はキョロキョロ探したあげく、釣ってある鼠入らずの棚に手を掛けて登ろうとしたから、たちまちガラガラッと棚が崩れ、鼠入らずを担いだまま、逃げるに逃げられなくなった。

続いてやって来たのが平助で、やっぱり同様に、清兵衛が担いでいるもう一方に手を掛けたから、二人とも泣くに泣かれぬ鉢合わせ。

もがく声を聞きつけた小僧がだんなにご注進したので「それッ、泥棒が入った」と、大騒ぎに。

だんなが駆けつけると、清兵衛と平助が、二人で鼠入らずを担いで目を開いたままグーグー。

「二人ともどうしたっていうんだ」
「へい、引っ越しの夢を見ました」

【しりたい】

「膝栗毛」からも拝借  【RIZAP COOK】

もっとも古い原話は、寛永5年(1628)成立の安楽庵策伝著「醒睡笑」巻七「廃忘」その四で、男色がテーマです。

美少年の若衆が、ある寺へ寺小姓奉公に。

そこの坊主が少年に夢中になり、夜中、寝入ったところに夜這いをかけようと、そっと起き出すが、同じ獲物を狙っていた何人かが跡を付ける。

足音に動転した坊主、壁に大手を広げ、へばりついたので、若衆が目を覚ます。問いただされて、
「はい、蜘蛛のまねをして遊んでます」。

その後、寛政元年(1789)刊の笑話本『御祓川』中の「壬生の開帳」で、かなり現行に近づきますが、文化3年(1806)刊『東海道中膝栗毛』(十返舎一九)五編・上からも趣向をいただいているようです。

これは、夜這いに忍び出た弥次郎兵衛が、落ちてきた棚を担いでしまい、やってきた喜多八にこれをうまく押し付けて逃げてしまう話です。

上方では「口入れ屋」で  【RIZAP COOK】

上方では、古くから「口入れ屋」として口演されてきました。

いつごろ伝えられたか、江戸でも少し違った型で、幕末には高座に掛けられていたようです。

明治以後、東京でも、上方の型をそのまま踏襲する演者と、古い東京(江戸)風の演出をとる者とに分かれました。

前者は、東京では三代目三遊亭円馬(橋本卯三郎、1882-1945)が初演。上方から流れてきた人らしく「口入れ屋」の演題を用いました。

四代目柳家小さん(大野菊松、1888-1947)、九代目桂文治(1892-1978、高安留吉、留さん)もこちらで演じました。

後者は「初夢」、または「引越しの夢」と題したもので、明治27年(1894)3月の二代目禽語楼小さん(大藤楽三郎、1848-98)の速記が残っています。

東西で異なる型  【RIZAP COOK】

東西で、商家の奉公人が新入りの女中のところに夜ばいに行くという筋立ては変わりませんが、大ざっぱな違いは、上方ではこの前に、船場の布屋という古着屋に、口入れ屋(=桂庵)から女中が送り込まれる場面が発端としてつくことです。

また、女が毒婦という設定はなく、御寮人さんが、若い男の奉公人ばかりの商家に、美人の女中は風紀に悪いと、不細工なのばかり雇うのに、好色・強欲な一番番頭がカリカリ。

丁稚に十銭やっていい女を連れてこさせ、その後口八丁手八丁で口説く場面がつくことも特徴です。

狂言まわしの丁稚のませ振り、三番番頭が「湯屋番」の若だんなよろしく、女中との逢瀬を夢想して一人芝居するなど、いかにも大阪らしい、濃厚であざとい演出です。

上方の演題の「口入れ屋」は、東京の桂庵、今でいう職業紹介所のことです。詳しくは「化け物つかい」「百川」もお読みください。

六代目円生の極めつけ  【RIZAP COOK】

先の大戦後、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)が、六代目五明楼国輔(1854-?)から直伝された東京型で、ねっとりと演じました。「円生百席」に吹き込んだものは、特に極めつけの熱演です。

円生没後は、門下の五代目円楽(吉河寛海、1932-2009)や六代目三遊亭圓窓(橋本八郎、1940-2022)などに継承されました。

その後も、よく高座に掛けられています。

鼠入らず  【RIZAP COOK】

もう説明がなければわらない時代になりました。

要するに、ネズミが入らないように細工した食器棚のこと。

吊り調度です。

吊り調度とは、底板を畳や板敷に置かずに天井から壁に寄って吊り下げた家具です。狭い長屋では便利な発想でした。

これは茶室のしつらえから起こった工法ですから、庶民ばかりか富裕な家でも使われていました。

おおざっぱには、室内空間の上の方には食器などを吊り調度で置き、下の方(床上)には瓶や桶を置くという発想が、江戸期では当たり前でした。

上方噺では、一番番頭と二番番頭が、「薪山」と称した、奉公人の箱膳を積んでおく膳棚を担ぐハメになります。かなり大きな戸棚です。

箱膳は、かぶせ蓋の質素な塗りの四角形の箱。中には食器を入れて、食事の時には蓋を裏にして載せ、食事が終わるとめいめいが食器を洗って、蓋をして膳棚に収納する、というものです。

たいした違いではありませんが、東西の風土の違いが微妙に現れていますね。

二代目桂枝雀(前田達、1939-99)のでは、その後三番番頭が、今度は台所の井戸の淵からターザンよろしく、天窓の紐にぶら下がって二階に着地しようとして失敗。

あえなく井戸にボッチャーン……というハチャメチャ騒動になります。

番頭の好色  【RIZAP COOK】

商家への奉公は、男性なら、早ければ数え年七歳ごろから小僧(上方では丁稚)で入り、十五歳前後で元服して手代となり、番頭に進みます。ここまでは住み込みです。

番頭で実績を重ねると主人から近所に家を借りて所帯を持つことも許されます。

これを通い番頭と言いましたが、この頃にはもう白髪交じりの中年になっているのが通り相場です。

歌舞伎ではよく番頭は好色家に描かれたりしていますが、女に縁薄い生活のためです。なかには、かわいい小僧との衆道に陥る者もいたりして、悩み多き職業でした。詳しくは「藪入り」をお読みください。

大坂以上に江戸の男女差は激しかった(軍事都市の江戸は女性が圧倒的に少なかった)ため、商家の住み込みの女日照りは小さな問題ではなかったようです。

【語の読みと注】

桂庵 けいあん:職業紹介所



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きくえのぶつだん【菊江の仏壇】落語演目

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【どんな?】

上方噺の傑作です。東京ではあまり聴きませんが。大ネタです。

別題:仏壇 白ざつま

あらすじ

ある大店のだんな。

奉公人にはろくなものも食わせないほどケチなくせに、信心だけには金を使う。

その反動か、せがれの若だんなは、お花という貞淑な新妻がいるというのに、外に菊江という芸者を囲い、ほとんど家に居つかない。

そのせいか、気を病んだお花は重病になり、実家に帰ってしまった。

そのお花がいよいよ危ないという知らせが来たので、だんなは若だんなを見舞いに行かせようとするが、番頭に、もしお花がその場で死にでもしたら、若だんなが矢面に立たされて責められると意見され、ふしょうぶしょう、自分が出かけていく。

実はこれ、番頭の策略。

ケチなだんながいないうちに、たまには奉公人一同にうまいものでもくわしてやり、気晴らしにぱっと騒ごう、というわけ。

若だんな、親父にまんまと嫌な役を押しつけたので、さっそく、菊江のところに行こうとすると番頭が止める。

「大だんなを嫁の病気の見舞いにやっておいて、若だんなをそのすきに囲い者のところへ行かせたと知れたら、あたしの立場がありません、どうせなら、相手は芸者で三味線のひとつもやれるんだから、家に呼びなさい」
と言う。

それもご趣向だと若だんなも賛成して、店ではのめや歌えのドンチャン騒ぎ。

そこへ丁稚の定吉が菊江を引っ張ってくるが、夕方、髪を洗っている最中に呼びに来られたので、散らし髪に白薩摩の単衣という、幽霊のようなかっこう。

菊江の三味線で場が盛り上がったころ、突然だんなが戻ってきたので、一同大あわて。

取りあえず、菊江を、この間、だんなが二百円という大金を出して作らせた、人の二、三人は入れるというばかでかい仏壇に隠した。

だんな、
「とうとうお花はダメだった」
と言い、かわいそうに、せがれのような不実な奴でも生涯連れ添う夫と思えば、一目会うまでは死に切れずにいたものを、会いに来たのが親父とわかって、にわかにがっくりしてそのままだ。

「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」
と、番頭がしどろもどろで止めるのも聞かず、例の仏壇の扉をパッと開けたとたん、白薩摩でザンバラ髪の女。

「それを見ろ、言わないこっちゃない。お花や、せがれも私も出家してわびるから、どうか浮かんどくれ、浮かんどくれ、ナムアミダブツ、ナムアミダブツ」
「私も消えとうございます」

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源流は男色もの

直接の原話は文化5年(1808)刊『浪花みやげ』中の「ゆうれい」で、すでに現行の落語と筋はほとんど同じです。

これにはさらに原型と思われる笑話があり、享保16年(1731)ごろ刊の『男色山路露』中の「謡による恋」がそれです。

これは、出典の書名から見てもわかるとおり、今でいうハードゲイのたぐい。

ある男が野郎(役者で男娼)を自宅に引き込み、よろしくお楽しみの最中、おやじが突然帰宅。あわてて男娼を仏壇に押し込みますが、「風呂敷」よろしく、おやじがその前に居座るので、出るに出られない男娼、そのうち小便がしたくなって……という、あまり趣味のよくないお笑いです。

上方の大ネタ

本家は上方落語で、大阪では三代目桂米朝(中川清、1925-2015)初め、三代目桂春団治(河合一、1930-2016)、五代目桂文枝(長谷川多持、1930-2005)など、上方を代表する実力者しかこなせない切りネタ(大ネタ)です。

上方の舞台は船場の淀屋小路で、菊江はキタの新地の芸妓という設定になります。

東京版は馬生が復活

東京には明治20年代に初代三遊亭円右(沢木勘次郎、1860-1924、→二代目円朝)が「白ざつま」の演題で東京に移植したといわれます。

明治29年(1896)に、円右と同門(円朝)で、当時上方で活躍していた二代目三遊亭円馬(竹沢釜太郎、1854-1918)が「白ざつま」の題で口演した速記が残っています。

東京ではその後あまり演じ手はなく、途絶えていたのを十代目金原亭馬生(美濃部清、1928-82)が元の「白ざつま」の題で復活しました。

桂歌丸(椎名巌、1936-2018)も手掛けていました。

白薩摩

薩摩がすりは本来は琉球(沖縄)産。

薄い木綿織物で、白地のものは夏の浴衣などに用いられます。「佃祭」の次郎兵衛もこれを着ていたのが原因で、幽霊に見違えられました。

死人の経帷子は、普通、絹もしくは麻で作るので材質は違いますが、同じ単衣で白地ということで、その上ザンバラ髪なので、幽霊と間違えるのは無理もありません。

【語の読みと注】
経帷子 きょうかたびら

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しょうふくてい つるこう【笑福亭 鶴光】噺家

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

【芸種】落語
【所属】落語芸術協会
【入門】
【前座】
【二ツ目】
【真打ち】
【出囃子】
【定紋】
【本名】
【生年月日】
【出身地】
【学歴】
【血液型】
【ネタ】
【出典】落語芸術協会HP
【蛇足】

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席