【芸種】落語
【所属】日本芸術協会→落語芸術協会
【入門】1973年10月、四代目三遊亭圓遊(加藤勇、1902-1984)に、三遊亭勢遊で
【前座】1974年
【二ツ目】1979年4月、三遊亭笑遊。84年1月、師没後、三代目三遊亭若圓遊(→五代目三遊亭圓遊)に移門
【真打ち】1989年5月
【出囃子】麦ついて小麦ついて
【定紋】糸輪に覗き剣片喰
【本名】北島元道
【生年月日】1950年4月21日
【出身地】東京都江戸川区
【学歴】日本大学文理学部国文学科中退 ※落研 林家正雀と同期
【血液型】A型
【ネタ】
【出典】公式 落語芸術協会 Wiki
【蛇足】
タグ: 三遊亭円遊
ろくしゃくぼう【六尺棒】落語演目
【どんな?】
ほとんど二人だけ。
おやじと息子の対話噺。
【あらすじ】
道楽息子の孝太郎が吉原からご帰還。
店が閉め切ってあるので、戸口をどんどんたたく。
番頭と思いのほか、中からうるさいおやじの声。
「ええ、夜半おそくどなたですな。お買い物なら明朝願いましょう。はい、毎度あり」
「いえ、買い物じゃないんですよ……。あなたのせがれの孝太郎で」
さすがにまずいと思っても、もう手遅れ。
「……ああ、孝太郎のお友達ですか。手前どもにも孝太郎という一人のせがれがおりますが、こいつがやくざ野郎で、夜遊びに火遊び。あんな者を家に置いとくってえと、しまいにゃ、この身上をめちゃめちゃにします。世間へ済みませんから、親類協議の上、あれは勘当しましたと、どうか孝太郎に会いましたなら、そうお伝えを願います」
あしたっからもう家にいます、と謝ろうが、跡取りを勘当しちまって家はどうなる、と脅そうが、いっこうに効き目なし。
自殺すると最後の奥の手を出しても……。
「止めんなら、今のうちですよ……ううう、止めないんですか。じゃあ、もう死ぬのはやめます」
「ざまァ見やがれ……と言っていた、とお伝えを願います」
孝太郎、とうとう開き直って、できが悪いのは製造元が悪いので、悪ければ捨てるというのは身勝手だと抗議するが……。
「やかましい。他人事に言って聞かせりゃいい気になりやがって、よそさまのせがれさんは、おやじの身になって『肩をたたきましょう』『腰をさすりましょう』、おやじが風邪をひけば『お薬を買ってまいりましょう』と、はたで見ていても涙が出らァ。少しは世間のせがれを見習え」
親父が小言にかかると、孝太郎、
「養子をとってまでどうでも勘当すると言うなら、他人に家を取られるのはまっぴらなので、火をつけて燃やしてしまいましょう」
と脅迫する。
言葉だけでは効果がないと、マッチに火をつけてみせたから、戸のすきまからようすをうかがっていたおやじ、さすがにあわてだす。
六尺棒を持って、表に飛び出し
「この野郎、さァ、こんとちくしょう!」
幸太郎、追いかけられて、これではたまらんと逃げだした。
抜け裏に入って、ぐるりと回ると家の前に戻った。
いい具合に、おやじが開けた戸がそのままだったので、これはありがたいと中に入るとピシャッと閉め込み、錠まで下ろしてしまった。
そこへおやじが、腰をさすりながら戻ってくる。
「おい、開けろ」
「ええ、どなたでございましょうか」
「野郎、もう入ってやがる。おまえのおやじの孝右衛門だ」
「ああ、孝右衛門のお友達ですか。手前どもにも孝右衛門という一人のおやじがありますが、あれがまあ、朝から晩まで働いて、ああいうのをうっちゃっとくってえと、しまいにゃ、いくら金を残すかしれませんから、親類協議の上、あれは勘当いたしました」
立場がまるっきり逆転。
「やかましい、他人事に言って聞かせりゃいい気になりやがって、世間のおやじは、せがれさんが風邪でもひいたってえと『一杯のんだらどうだ。小遣いをやるから、女のとこへ遊びにでも行け』。はたで見ていても涙が出らァ。少しは世間のおやじを見習え」
それを聞いて、おやじ、
「なにを言いやがんでェ。そんなに俺のまねをしたかったら、六尺棒を持って追いかけてこい」
底本:初代三遊亭遊三
【しりたい】
三遊亭遊三
文化4年(1807)の口演記録が残る、古い噺です。
明治末期には、御家人上がりで元彰義隊士という異色の落語家、初代三遊亭遊三(小島長重、1839-1914)が得意にしていました。
とはいえ、この遊三はヘナヘナ侍の典型で、幕府賄方役人でありながら、のむ打つ買うの三道楽だけが一人前。
お城勤めよりも、寄席で一席うかがうのがむしろ本業で、彰義隊に駆り出されて立てこもった上野の山からも、さっさと逃走。
維新後、裁判官になりましたが、被告の女に色目を使われてフラフラ。
カラスをサギ、有罪を無理やり無罪にして、あっさりクビに。
これでせいせいしたと喜んで落語家に「戻った」という、あっぱれな御仁です。
十朱幸代さん(俳優)の曽祖父にあたる人です。十朱久雄(俳優)の祖父ですね。あたりまえですが。
遊三から志ん生へ
遊三は、美濃部戌行と初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)と三人、御家人仲間で、若き日の遊び友達だったそうです。
美濃部戌行は五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)の父親、初代円遊は明治の爆笑王です。
その関係からか、遊三は孝蔵少年(志ん生)をかわいがりました。
志ん生は「火焔太鼓」「疝気の虫」「六尺棒」などを遊三から会得しています。
遊三の明治41年(1908)の速記を見ると、このおやじ、ガンコを装っていても、一皮むけば実に大甘で、セガレになめられっ放し、ということがよくわかります。
本当に勘当する気などさらさらなく、むしろ心配で心配でならないのです。
志ん生の方は、遊三のギャグなどは十分残しながら、親子して「勘当ごっこ」で遊びたわむれてるような爆笑編に仕上げています。
なかでも、おやじがいちいち、返事に「明日ッから明日ッからてえのは、もう聞き飽きた……とお言伝てを願います」「どうしようと大きなお世話だ……とお言伝てを願います」というぐあいに、いちいち「お言伝て」をつけるところは抱腹絶倒です。
十代のころ、巡査だったおやじの金キセルを勝手に質入れしてしまい、おやじに槍で追いかけられそれっきり家に帰らなかった、というほろ苦い思い出が、この噺には生きているのでしょう。
六尺棒
樫材などで作る、泥棒退治用の棍棒です。
警察署の前には門番みたいに屈強な巡査が六尺棒を持って立っていますね。アレです。
六尺(約180cm)ですから、人の身長ほどの長さでしょうか。
これを使った棒術や杖術といった武芸もあるようですから、武器になる代物です。
志ん生のおやじは、維新後は「棒」と呼ばれた草創期の巡査で、巡邏(巡回)のときは、いつも長い木の棒を持ち歩いていたとか。
高座でこの噺を演じながら、志ん生は、遊三と同年の大正3年(1914)に亡くなった、遠い日の父親を思い出していたのかもしれません。
数少ない「対話劇」
落語は、講談と違って、複数の登場人物の会話を中心に進めていく芸です。
例外的に「地ばなし」といって、説明が中心になるものもありますが、大半は演者は「ワキ」でしかありません。
「六尺棒」は、その中でも登場人物が二人しかいない、おやじと息子のやりとりのみで展開する「対話劇」とでもいえるものです。
「対話劇」などと言っても、どだい、落語という話芸は対話が中心となるわけで、とりわけこの噺に対話の特徴が強い、という程度の話です。
それだけに、イキ、テンポ、間の取り方が命で、芸の巧拙が、これほどはっきりわかる噺はないかもしれません。
この種のものは、落語にはそう多くありません。
隠居と八五郎しか登場しない「浮世根問」はじめ、「穴子でからぬけ」「今戸焼」「犬の目」なども登場人物二人の噺ですが、どちらかというと小咄程度の軽い噺ばかりです。
「六尺棒」のように本格的な劇的構成を持ち、背景としての人物も登場しない噺はかなりまれです。
しろうとようしょく【素人洋食】落語演目
【どんな?】
洋食に凝った金満地主。
長屋の連中に食べさせる。
どこかで聴いたような噺。
「寝床」にそっくり。
これがまた笑えるのです。
【あらすじ】
文明開化の東京。
「いまだ旧平」という名の地主。
大変な金満家で、土地や家作(貸家)はもちろん、桑畑も持っているいいご身分。
開化が大嫌いで、いまだにチョンマゲを乗せ、人力車が通ると胸が悪くなるだの、馬車の音がすると頭痛がするなどと言っている。
それで、長屋の者に「デボチン頭の旧平」と陰口をたたかれている。
当人もうすうすそれを知っているから、
「オレに金を借りている連中ばかりなのに生意気だ、今に見返してやる」
と一念発起。
文明開化に百八十度転向して、なんとか流行の先端を行く洋食屋を開業することにした。
コックを雇うのはめんどうだから、だんなが自分で料理をすることに決めた。
勧工場(デパート)で一銭五厘の『西洋料理煮方法』なる怪しげな虎の巻を買ってきた。
要は魚油でなんでもかんでも炒めて、パンを食わせておけばいいのだからと、さっそく大家以下長屋の連中を招集した。
料理の実験台にすることに決めたのだ。
勝手に決められた奴らこそいい迷惑。
なんだかだと理由をこしらえて、誰も来やしない。
怒った旧平だんな、
「来ない奴は洋食ならぬ店立てをくわせた上、貸金を利息共全部取り立てる」
と脅した。
しかたなく、みんなが集まる。
「あのだんなのことだから、陰口をきいたのを根に持って毒を入れるかもしれない」
と、毒消しを用意したりしている。
六十三歳になる女性は
「老い先短い命だから」
と、せがれの身代わりに念仏を唱えて出てきたりと、命がけの大騒ぎ。
ところが、やたらパンばかり出てくるので、一同閉口。
台所からお経のようなうなり声が聞こえるから、
「どうしたか」
と聞くと、
「魚油と水が火に入って燃え上がったが、たった一人の相談役の道具屋の吉兵衛がいなくなり、だんなが困ってうなっている」
という。
「スプンとかいうものがほしい」
と注文が出た。
だんなは知らないのでスッポンと聞き違え、さっそく取り寄せて、生きているままテーブルに出した。
みんな食いつかれて大騒ぎ。
そんな一幕の後、ようやく吉兵衛が帰ってくる。
「みなさん、どうしました」
「やたらパンばかり出て困ります」
「パンの多いはず。長屋一同バタ(バター=ばか)にされた」
【うんちく】
洋食ことはじめ 【RIZAP COOK】
初めて日本人が洋食を口にしたのは、嘉永7年(=安政元、1854)、幕府の代表団がペリーの「黒船」に招かれての歓迎晩餐会。
ということに、これまではなっていましたが、最近は、そんな間抜けな説をとなえる人は、あまりいません。
すでに、長崎の阿蘭陀通詞(幕府の通訳、身分は幕臣)たちは、ふつうに洋食を食べていたのですから。
江戸中期(18世紀)には、彼らの間では一般的な生活習慣となっていました。
つまり、江戸時代にもすでに西洋文化をしっかり受容していた人たちが、一定数、確実にいたのです。
彼らの多くは、維新後、京都や東京などで西洋文化の橋渡しをする役割をしていきました。
明治維新後、肉食が解禁され、まず牛鍋屋が東京の各所に出現しました。
それ以前、慶応3年(1867)、『西洋衣食住』(福沢諭吉著)でマナー、ナイフやフォークなど食器の紹介がなされています。
明治4年(1871)には、横浜駒形町に本格的西洋料理店「開陽亭」がオープンしました。横浜居留地の西洋人相手の店でしたが。
明治5年(1872)、最初の本格的西洋料理レシピが掲載された『西洋料理通』(仮名垣魯文著)が刊行されました。
これに触発されたか、東京にも翌年、京橋区采女町(中央区銀座六丁目)に北村重威が「精養軒」を開店したのです。
これを手始めに、神田橋の三河屋、築地日新亭、茅場町海陽亭なども続々と開店していきました。
明治10年(1878)前後には数も増え、十軒ほどの洋食屋が記録されています。
この時期はまだ、日本人でこれらの店を利用するのは、役人、政治家、銀行家など、新興階級がほとんどでした。
初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)の速記掲載の4年前、明治19年(1886)には、築地精養軒でテーブルマナーの講習会が開かれます。
このあたりから、従前の「西洋料理」が「洋食」と言い慣わされるなど、ようやく一般にも普及し始めました。
明治30年代に入ると、洋食はますます定着しきます。
明治39年(1906)9月発行の『東京案内』(東京市役所編)には、神田、日本橋、京橋を中心にした、比較的大規模な西洋料理店42軒が掲載されています。
この噺で、長屋のお歴々の悪夢のタネとなるパンは、かなり早く、寛政7(1795)年刊の『長崎見聞録』にすでに紹介されています。
この本は通詞とは関係なく刊行されていますから、西洋人の珍妙ぶりばかりが強調された手あかのついた風俗本でした。
やがて、相つぐ外国船の登場から武士を中心とした連中の国防意識が高まると、いざというときの兵糧用として乾パンが注目を集めました。
ペリー来航の2年後、安政2年(1855)には、水戸藩が長崎へ製法習得のため、家臣を派遣した記録があります。
通詞の生活に比べるとかなり遅れています。
このパンなるものは、固いビスケットに近いものだったようです。
その後も戊辰戦争(1868-69)を経て、乾パンは日本陸軍の軍隊食として定着します。
本格的なパン販売の広告は、慶応3年(1867)、横浜で発行の「万国新聞」に早くも見えます。
明治5年(1872)刊の『西洋料理指南』に「焙麦餅はわが飯と一般のものにして、方今横浜又は築地において製して売るなり」とあります。
普及は洋食そのものよりずっと早かったようです。
明治6年(1873)から7年(1874)になると、東京市内に雨後のタケノコのごとくパン店が増殖しました。
『明治事物起原』(石井研堂)によると、このころ「ばかの番付」で「米穀を食せずしてパンを好む日本の人」が大関に張り出されたとか。
バターとなると、前述の慶応3年(1867)の新聞広告に「ボットル」として販売広告があります。
おそらく輸入品で、ごく例外的なものでしょう。
国産は明治7年に試作されたものの、日本人の口に合わなかったか、なかなか普及しませんでした。
白牛酪 【RIZAP COOK】
明治13年(1880)の広告に「牛乳、粉ミルク、バター、クリーム、白牛酪」を製造販売する旨が見えます。
「白牛酪」はチーズのことです。
人々がおずおずと口に入れ始めたのは、明治20年代に入ってからでした。
日本人の舌にもっとも抵抗が強かったのは、乳製品です。
昭和30年代になっても、バターやチーズを受けつけない人は、都市部にもけっこういました。
円遊の開化カリカチュア 【RIZAP COOK】
この噺は、初代三遊亭円遊が「素人鰻」をよりモダンに改作したものです。
明治24年(1891)1月に雑誌『百花園』に掲載されているので、創作は前年ということでしょう。
初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)は、明治の爆笑王で、大きな鼻が目立ったため「鼻の円遊」と呼ばれたりしていました。下の写真を見ても、そんなに大きい鼻だったのかどうか。
それでも、鼻をもいで「捨ててこ、捨ててこ」と踊ったそうです。
ステテコ踊りとして、高座での人気は沸騰しました。
三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)の高弟で、四天王の一人です。
「寝床」のだんなの義太夫を、洋食に置き換えた趣もあります。
主人公のような、断髪令が出ようがどうしようが、ガンとしてマゲを切らない士族や江戸町人は、明治末年に至るまで少なくなかったようです。
そんな旧弊の権化が百八十度転向して、洋食に凝りだすというおかしみは、今も昔も変らぬ日本人の「変わり身の早さ」をおもしろがって、当てこすっているようです。
キワモノとされるためか、円遊以後、後継者はありません。
円遊の速記は、今となっては、落語というよりも、当時の世相を語る貴重な資料といったところでしょう。
パンばかりをやたらに食わせるシーンは、「素人鰻」の六代目円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の師匠)の演出で、蒲焼きができず、コウコと酒ばかり出すくだりを、ほうふつとさせます。

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