ちょうじゃばんづけ【長者番付】演目

ライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

これも古い上方噺。「東の旅」シリーズの一話です。

【あらすじ】

江戸っ子の二人組。

旅の途中、街道筋の茶店でひどい酒をのまされたので、頭はくらくら、胸はムカムカ。

迎え酒に一杯いい酒をひっかけたいと思っていると、山道の向こうに白壁で土蔵造りの家が見えてきた。

兄貴分が、あれは造り酒屋に違いないから、あそこでうんとのましてやると励まし、おやじに一升ばかり売ってほしいと交渉すると
「一升や二升のはした酒は売らねえ」
と断られる。

どのくらいならいいのかと聞くと、
「そうさな。馬に一駄、船で一艘ぐれえかな」

一駄は四斗樽が二丁、船一艘なら五、六十丁というから、兄貴分の怒ったの怒らないの。

「人をばかにするのもいい加減にしろッ。こちとらァ江戸っ子だ。馬に一駄も酒ェ買い込ん道中ができるかッ。うんつくめのどんつくめッ」

その勢いにおそれをなしたか、おやじは謝り、酒は売るから腰掛けて待っていてくれと言っておいて、こっそり大戸を下ろしてしまった。

気づいたときは遅く、薪ざっぽうを持った男たちが乱入。

さては袋だたきかと身がまえると、おやじ
「さっきおまえさまの言った『うんつくのどんつく』というなあ、どういうことか、聞かしてもれえてえ」
と大変な鼻息。

兄貴分、これはまずいと思いながら、後ろに張ってある長者番付に目を止め、
「江戸ではそれを運つく番付という」
と口から出まかせ。

「江戸の三井と大坂の鴻池は東西の長者の大関だが」
と前置きして、ウンツクのウンチクをひとくさり。

「鴻池の先祖は伊丹で造り酒屋をしていたが、そのころはまだ清酒というものがなかった。あるとき、雇った酒造りの親方があまり金をせびるので、断ると、腹いせに火鉢を酒樽に放り込んで逃げた。ところが、運は不思議で、灰でよどみが下に沈み、澄んだ酒ができた」

これを売って大もうけ、運に運がついて大身代ができたから、大運つくのど運つく。

一方、三井の先祖は越後新発田の浪人で、六部で諸国を廻っていたとき、荒れ寺に泊まると、夜中に井戸から火の玉が三つ。

調べると、井戸底に千両箱が三つ沈んでいた。

これをもとに松坂で木綿を薄利多売し、これも大もうけして、やがて江戸駿河町に呉服屋を開き、運に運に運がついて今では大長者。

おまえのところも今に長者になるから、運つくのど運つくとほめたのがわからねえかと、居直る。

暖簾から顔を出したかみさんは、女ウンツク、青っぱなを垂らした孫は孫運つくで、今に大運つくになると与太を並べると、おやじは大喜び。

酒をふるまった上、
「今度造り酒屋で酒を買いたいときは、利き酒をしたいと言えばいい」
と教える。

江戸では大ばか野郎をウンツクというが、まんまとだまされやがったとペロリと下を出した二人、ご機嫌で街道筋に出ると、後ろから親父が追いかけてくる。

「おめえさまがたをほめるのを忘れていただ。江戸へ帰ったら、りっぱな大ウンツクのどウンツクになってくだせえ」
「なにを抜かしゃあがる。オレたちはウンツクなんぞ大嫌えだ」
「えっ、嫌えか? 生まれついての貧乏人はしようがねえ」

【しりたい】

上方種長編の一部

古くから親しまれた上方落語の連作長編シリーズ「東の旅」の一話で、清八と喜六の極楽コンビが伊勢参宮の途中、狐に化かされる「七度狐」に続く部分です。「うんつく」「うんつく酒」の題で演じられてきました。

上方では、悪態の意気で六代目笑福亭松鶴が優れていました。

東京への移植者とその時期は不明ですが、戦後は三代目桂三木助、八代目春風亭柳枝が得意とし、五代目小さんもたまに演じました。

原話は、安永5年(1776)刊の笑話本『鳥の町』中の「金物見世」。皮肉にもこれは江戸板なので、東→西→東とキャッチボールされたことになります。

この小咄では「うんつく」でなく「とうへんぼく」がキーワードであることでも、ルーツが江戸であることがうかがわれます。

演出の異同

噺中の三井と鴻池のエピソードは、時間の関係でどちらかを切ることもあります。東京風の演出では、上方の「煮売屋」を改作した「二人旅」のオチ近くのくだりを圧縮して「長者番付」の前に付け、続けて演じることもあります。「二人旅」については、その項をご参照ください。

「東の旅」の順番

「東の旅」の順番では、伊勢路に入り、「野辺歌」「法会」「もぎとり」「軽業」「煮売屋」「七度狐」に続いて、この「うんつく」(長者番付)になり、この後、連れがもう一人増えて「三人旅」で、伊勢参宮のくだりは一応完結します。

うんつく

この噺の、上方落語の演題でもあります。

うんつくは運尽と書き、「運尽くれば知恵の鏡も曇る」ということわざから、上方言葉で「阿呆」「野暮」の意味が付きました。

したがって、「ど運尽く」は「大ばか」。「ど」は上方の罵言なので、本来は江戸落語にない語彙です。上方落語のものがそのまま残ったのでしょう。

ところが、後にはこれをもじって、本当に「運付く」で幸運の意味が加わったからややこしくなりました。同音異義語のいたずら悪戯です。

造り酒屋

造り酒屋は本酒屋ともいい、醸造元で、卸専門の店ではこの噺のように小売はしない建前でしたが、地方には、小売酒屋を兼ねている店も多く見られました。

清酒事始め

噺の中で、鴻池が作ったというのはヨタです。実は享保年間(1716-36)、灘の山邑太左衛門が苦心の末発明し、「政宗」として売り出したのが最初。全国に普及したのは、その1世紀も後の文化年間(1804-18)なので、江戸時代も終わり近くなるまで、一部の地方では濁り酒しか知らなかったことになります。

【語の読みと注】
暖簾 のれん
煮売屋 にうりや
山邑太左衛門 やまむらたざえもん

ライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ

たばこのひ【莨の火】演目

【RIZAP COOK】

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

もとは上方の噺。それを、彦六が持ってきたんだそうです。

【あらすじ】

柳橋の万八という料理茶屋にあがった、結城ごしらえ、無造作に尻をはしょって甲斐絹の股引き、白足袋に雪駄ばきという、なかなか身なりのいい老人。

欝金木綿の風呂敷包み一つを座敷に運ばせると、男衆の喜助に言いつけて駕籠屋への祝儀二両を帳場に立て替えさせ、さっそく芸者や幇間を総揚げに。

自分はニコニコ笑って、それを肴にのんでいるだけ。

その代わり、芸者衆の小遣いに二十両、幇間に十両、茶屋の下働き全員に三十両と、あまりたびたび立て替えさせるので、帳場がいい顔をしない。

「ただいま、ありあわせがございません、と断れ」
と、喜助に言い渡す。

いよいよ自分の祝儀という時にダメを出された喜助、がっかりしながら老人に告げると
「こりゃあ、わしが無粋だった。じゃ、さっきの風呂敷包みを持ってきておくれ」

包みの中には、小判がぎっしり。

これで立て替えを全部清算したばかりか、余ったのを持って帰るのもめんどうと、太鼓と三味線を伴奏に、花坂爺さんよろしく、小判を残らずばらまいて
「ああ、おもしろかった。はい、ごめんなさいよ」

「あれは天狗か」
と、仰天した喜助が跡をつけると、老人の駕籠は木場の大金持ち奈良茂の屋敷前で止まった。

奈良茂ならごひいき筋で、だんなや番頭、奉公人の一人一人まで顔見知りなのに、あの老人は覚えがない。

不思議に思って、そっと大番頭に尋ねると、あの方はだんなの兄で、気まぐれから家督を捨て、今は紀州で材木業を営む、通称「あばれだんな」。

奇人からついた異名とのこと。

ときどき千両という「ホコリ」が溜まるので、江戸に捨てに来るのだ、という。

事情を話すと「立て替えを断った? それはまずかった。黙ってお立て替えしてごらん。おまえなんざあ、四斗樽ん中へ放り込まれて、糠の代わりに小判で埋めてもらえたんだ」

腰が抜けた喜助、帰って帳場に報告すると、これはこのまま放ってはおけないと、芸者や幇間を総動員、山車をこしらえ、人形は江戸中の鰹節を買い占めてこしらえ、鷹頭の木遣りや芸者の手古舞、囃子で景気をつけ、ピーヒャラドンドンとお陽気に奈良茂宅に「お詫び」に参上。

これでだんなの機嫌がなおり、二、三日したらまた行くという。

ちょうど三日目。

あばたれだんなが現れると、総出でお出迎え。

「ああ、ありがとうありがとう。ちょっと借りたいものが」
「へいッ、いかほどでもお立て替えを」
「そんなんじゃない。たばこの火をひとつ」

【しりたい】

上方落語を彦六が移植

上方落語の切りネタ(大ネタ)「莨の火」を昭和12年に八代目林家正蔵(彦六)が二代目桂三木助の直伝で覚え、東京に移植したものです。

正蔵(当時は三遊亭円楽)は、このとき「唖の釣り」もいっしょに教わっていますが、東京風に改作するにあたり、講談速記の大立者、悟道軒円玉(1865-1940)に相談し、主人公を奈良茂の一族としたといいます。

東京では彦六以後、継承者はいません。

上方版モデルは廻船長者

本家の上方では、初代桂枝太郎(1866-1927)が得意にしました。地味ながら現在でもポピュラーな演目です。

上方の演出では、主人公を、和泉佐野の大物廻船業者で、菱垣廻船の創始者飯一族の「和泉の飯のあばれだんな」で演じます。和泉佐野は古く、戦国時代末期から、畿内の廻船業の中心地でした。

飯は屋号を唐金屋といい、元和年間(1615-24)に、江戸回り航路の菱垣廻船で巨富を築き、寛文年間(1661-73)には廻船長者にのし上がっていました。

鴻池は新興のライバルで、東京版で主人公が「奈良茂の一族」という設定だったように、上方でも飯のだんなが鴻池の親類とされていますが、これは完全なフィクションのようです。

上方の舞台は、大坂北新地の茶屋綿富となっています。

江戸の料理茶屋

宝暦から天明年間(1751-89)にかけて、江戸では大規模な料理茶屋(料亭)が急速に増え、文化から文政年間(1804-30)には最盛期を迎えました。

有名な山谷の懐石料理屋八百善は、それ以前の享保年間(1716-36)の創業です。文人墨客の贔屓を集めて文政年間に全盛期を迎えています。

日本橋浮世小路の百川、向島の葛西太郎、洲崎の升屋などが一流の有名どころでした。

江戸のバンダービルト

奈良茂は江戸有数の材木問屋でした。初代奈良屋茂左衛門(?-1714)は、天和3年(1683)、日光東照宮の改修用材木を一手に請け負って巨富を築き、その豪勢な生活ぶりは、同時代の紀伊国屋文左衛門と張り合ったものです。初代の遺産は十三万両余といわれ、霊岸島に豪邸を構えて孫の三代目茂左衛門源七の代まで栄えました。その後、家運が徐々に衰えましたが、幕末まで一流店として存続しました。

【語の読みと注】
欝金 うこん
駕籠 かご
肴 さかな
奈良茂 ならも
菱垣廻船 ひがきかいせん
百川 ももかわ

【RIZAP COOK】

癇癪 かんしゃく 演目

【無料カウンセリング】ライザップがTOEICにコミット!

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

近代人の小言幸兵衛。他人に当たり散らす、怒りんぼうの噺です。

【あらすじ】

大正のころ。

ある大金持ちのだんなは、有名な癇癪持ち。

暇さえあれば家中点検して回り、
「あそこが悪い、ここが悪い」
と小言ばかり言うので、奥方始め家の者は戦々恐々。

今日も、その時分にはまだ珍しい自家用車で御帰宅遊ばされるや、書生や女中をつかまえて、やれ庭に水が撒いていないの、天井にクモの巣が張っているのと、微に入り細をうがって文句の言い通し。

奥方には、
「茶が出ていない、おまえは妻としての心掛けがなっていない」
と、ガミガミ。

おかげで、待っていた客がおそれをなして、退散してしまった。

それにまた癇癪を起こし、
「主人が帰ったのに逃げるとは無礼な奴、首に縄付けて引き戻してこい」
と言うに及んで、さすがに辛抱強い奥方も愛想をつかした。

「妻を妻とも思わない、こんな家にはいられません」
と、とうとう実家へ帰ってしまう。

実家の父親は、出戻ってきた娘のグチを聞いて、そこは堅い人柄。

「いったん嫁いだ上は、どんなことでも辛抱して、亭主に気に入られるようにするのが女の道だ、『けむくとも 末に寝やすき 蚊遣かな』と雑俳にもある通り、辛抱すれば、そのうちに情けが通ってきて、万事うまくいくのが夫婦だから、短気を起こしてはいけない」
と、さとす。

「いっぺん、書生や女中を総動員して、亭主がどこをどうつついても文句が出せないぐらい、家の中をちゃんと整えてごらん」
と助言し、娘を送り返す。

奥方、父親に言われた通り、家中総出で大掃除。

そこへだんなが帰ってきて、例の通り
「おい、いかんじゃないか。入り口に箒が立てかけて」
と見ると、きれいに片づいている。

「おい、帽子かけが曲がって、いないか。庭に水が、撒いてある。ウン、今日は大変によろしい。おいッ」
「まだなにかありますか」
「けしからん。これではオレが怒ることができんではないか」

【無料カウンセリング】ライザップがTOEICにコミット!

【しりたい】

作者は若だんな

益田太郎冠者(本名・太郎、1875-1953)が明治末に、初代三遊亭円左(1911没)のためにつくった落語です。

作者の父親は三井財閥の大番頭として明治大正の財界に重きをなした男爵益田孝(1848-1938)。

せがれの方は帝劇の重役兼座付作者で、主に軽喜劇と女優劇のための台本を執筆しました。

「女天下」「心機一転」「ラブ哲学」「新オセロ」などの作品がありますが、特に大正9年(1920)、森律子主演のオペレッタ「ドッチャダンネ」の劇中歌として作詞作曲した「コロッケの唄」は流行歌となり、今にその名を残しています。

落語も多数書いていますが、現在演じられるのはこの「かんしゃく」くらいです。

富豪の日常を描写

明治末から大正期に運転手付きの自家用車を持ち、豪壮な大邸宅で大勢の書生や女中にかしづかれ、そのころはまだ珍しい扇風機まで持っているこのだんなの生活は、そのまま作者の父親のそれを模写したものと見ていいでしょう。現代的感覚からすると、もはや古色蒼然。さほどおもしろくもありませんが、わずかに主人公の横暴ぶりを、演者の腕によって誇張されたカリカチュアとして生かせると、掘り出し物になるかもしれません。

文楽の十八番

初演の円左の速記は残っていません。円左没後は、三代目三遊亭円馬を経て戦後、八代目文楽が一手専売、十八番のひとつにしました。ひところはよく、客席から「かんしゃく!」と、リクエストされたとか。作られたのは明治期ですが、文楽が作者の許可と監修のもとに細部を整え、大正ロマン華やかなりしころに時代設定したものでしょう。

【無料カウンセリング】ライザップがTOEICにコミット!