ごもくこうしゃく【五目講釈】落語演目



  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

でたらめな講釈、「若だんな勘当もの」の一つです。

「寝床」と「船徳」がごっちゃに。

別題:居候講釈 端物講釈

あらすじ】  

お決まりで、道楽の末に勘当となった若だんな。

今は、親父に昔世話になった義理で、さる長屋の大家が預かって居候の身。

ところがずうずうしく寝て食ってばかりいるので、かみさんが文句たらたら。

板挟みになった大家、
「ひとつなにか商売でもおやんなすったらどうか」
と水を向けると、若だんな、
「講釈師になりたい」
と、のたまう。

「それでは、あたしに知り合いの先生がいますから、弟子入りなすったら」
大家がと言うと
「私は名人だから弟子入りなんかすることはない、すぐ独演会を開くから長屋中呼び集めろ」
と、大変な鼻息。

若だんな、五十銭出して、
「これで菓子でも買ってくれ」
と気前がいいので、
「まあそんなら」
とその夜、いよいよ腕前を披露することにあいなった。

若だんな、一人前に張り扇を持ってピタリと座り、赤穂義士の討ち入りを一席語り出す。

「ころは元禄十五年極月ごくげつなかの四日、軒場に深く降りしきる雪の明かりは見方のたいまつ」
と出だしはよかったが、そのうち雲行きが怪しくなってくる。

大石内蔵助が吉良邸門外に立つと
「われは諸国修行の勧進かんじんなり。関門開いてお通しあれと弁慶が」
といつの間にか、安宅あたかの関に。

「それを見ていた山伏にあらずして天一坊てんいちぼうよな、と、首かき斬らんとお顔をよく見奉れば、年はいざようわが子の年輩」
熊谷陣屋くまがいじんや

そこへ政岡まさおかが出てくるわ、白井権八しらいごんぱちが出るわ、果ては切られ与三郎まで登場して、もう支離滅裂のシッチャカメッチャ。

「なんだいあれは。講釈師かい」
「横町の薬屋のせがれだ」
「道理で、講釈がみんな調合してある」

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しりたい】  

またも懲りない若だんな  【RIZAP COOK】

原話は、安永5年(1776)刊『蝶夫婦ちょうつがい』中の「時代違いの長物語」です。

これは、後半のデタラメ講釈のくだりの原型で、歌舞伎の登場人物を、それこそ時代もの、世話ものの区別なく、支離滅裂に並べ立てた噴飯物ふんぱんもの。いずれにしても、客が芝居を熟知していなければなにがなにやら、さっぱりわからないでしょう。

前半の発端は「湯屋番」「素人車」「船徳」などと共通の、典型的な「若だんな勘当もの」のパターンです。道楽が過ぎたさまは「寝床」にも似ています。

江戸人好みパロディー落語  【RIZAP COOK】

四代目春風亭柳枝(飯森和平、1868-1927)の、明治31年(1898)の速記が残っています。

柳枝は「子別れ」「お祭り佐七」「宮戸川」などを得意とした、当時の本格派でした。姉の養子が三代目桂三木助(小林七郎、1902-61)でした。 

寄席の草創期から高座に掛けられていた、古い噺ですが、柳枝がマクラで、「お耳あたらしい、イヤ……お目あたらしいところをいろいろとさし代えまして」と断っているので、明治も中期になったこの当時にはすでにあまり口演されなくなっていたのでしょう。

講談や歌舞伎が庶民生活に浸透していればこそ、こうしたパロディー落語も成り立つわけで、講釈(講談)の衰退とともに、現在ではほとんど演じられなくなった噺です。

CD音源は五代目三遊亭円楽(吉河寛海、1932-2009)のものが出ています。

興津要おきつかなめ(1924-99、江戸文学)はこの噺について「連想によってナンセンス的世界を展開できる楽しさや、ことば遊び的要素があるところから江戸時代の庶民の趣味に合致したもの」と述べています。

五目  【RIZAP COOK】

もともとは、上方語で「ゴミ」。

転じて、いろいろなものがごちゃごちゃと並んでいること。

現在は「五目寿司」など料理にその名が残っています。

遊芸で「五目の師匠」といえば、専門はなにと決まらず、片っ端から教える人間で、江戸でも大坂でも町内に必ず一人はいたものです。



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えいたいばし【永代橋】落語演目

【どんな?】

実際にあった永代橋崩落の事故に材をとったくだらない噺です。

別題:多勢に無勢

【あらすじ】

下谷車坂町に住む露店古着商の太兵衛と、同居人の小間物屋、武兵衛。

兄弟同様のつきあいだが、そろって粗忽者。

今日は深川八幡の祭礼の日。

武兵衛はこのところ実入りがいいので、久しぶりに散財しようと、太兵衛夫婦に留守番を頼み、いそいそと出かけていく。

太兵衛が、自分のことは棚に上げて、おまえはそそっかしいから気をつけろと言っても、うわの空。

永代橋に来かかると大変な人込み。

押すな押すなで、身動きができずにいると、突然、胸にどんとぶつかってきた者がいる。

「いてっ、この野郎、気をつけろいっ」

胸をさすりながらふと懐に手を入れると、金がたんまり入った紙入れが、きれいにすられている。

追いかけようときょろきょろしても、後の祭り。

いまいましいが帰るほかなく、とぼとぼ引き返す途中、ぱったり会ったのが贔屓のだんな。

今度、両国米沢町に待合を開いたので、ぜひ寄ってほしいという。

だんなの家でしこたま酔っぱらい、すっかりご機嫌になったころ、表で何やら人の叫ぶ声。

女中を聞きにやると、たった今、永代橋が人の重みで落ち、たいそう人が溺れ死んで大騒ぎだという。

あのままスリにやられなかったらオレも今ごろはと、さすがに能天気な武兵衛も真っ青。

話変わって、こちらは太兵衛。

武兵衛が帰らないので心配していると、永代橋が落ちたという知らせ。

さてはと、翌朝探しに出ようとする矢先、番所から、武兵衛が橋から落ちて溺れ死んだので、死骸を引き取りにこいとのお達し。

あわてて家を飛び出したとたんに、一杯機嫌の武兵衛とぱったり。

「言わねえこっちゃねえ。おめえは昨夜溺れ死んだんだから、今すぐ一緒に死骸を引き取りに行くんだ」
「こりゃ大変だ」

どっちもどっち。

連れ立って番所に乗り込んだから、話がトンチンカンになる。

武兵衛が死骸を見て、
「これはあたしじゃない」
と言い出したので、太兵衛はいらいらして、武兵衛の背中をポカリ。

もめていると役人が見かねて、これに見覚えがあるかと出したのが昨夜すられた紙入れ。

どうやらスリが身代わりに溺れたのを、武兵衛の書きつけから、お上で本人と勘違いしたらしい。

「それ見ろ。オレでもないものを早合点して、背中をぶちやがって、腹の虫が納まらねえ。お役人さま、どっちが悪いか、お裁きをねがいます」
「うーん、いくら言ってもおまえは勝てん」
「なぜ」
「太兵衛(多勢)に武兵衛(無勢)はかなわない」

底本:六代目三遊亭円生

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【しりたい】

永代橋崩落

文化4年8月19日(1807年9月20日)。数日来の長雨がやっと止み、江戸の空はからりと晴れ、蒸し暑い朝でした。

この日は、天明5年(1785)以来22年ぶりに、社殿修復記念を兼ねた深川八幡祭礼が行われるというので、前景気は過熱。

そのうえ身延山が便乗イベントで、深川霊巌寺で出開帳を催したので、朝から江戸中の人出は永代橋を目ざし、一時に深川に集まっていました。

午前10時過ぎ、橋向こうに一番山車が見えたので、雨で四日間、祭りが順延してイライラが募っていた数十万の群集が、橋に向かって殺到。

たちまち東の橋詰から十二間余りが墜落、あとは地獄絵図が展開。

死者は行方不明者を含めると、1500人を超えたといわれる、大惨事になりました。

深川の 底は八幡 地獄にて 落ちて永代 浮ぶ瀬もなし
永代と 架けたる橋は 落ちにけり 今日は祭礼 明日は葬礼

惨事には付きもので、不吉な予兆があったこと、偶然助かった者のエピソードなどが残っています。

東西橋詰の死体置場では、死骸の着物で絹の部、木綿の部に分け、年齢からも老人、中年、子供と分類して、引き取り人に捜させたとか。

当時、両国橋を除いて、永代も吾妻も仮普請で橋幅も狭く、惨事が起こらない方が不思議な状態でした。

珍しい実録噺

「佃祭」と同様、実際に起こったカタストロフィーを題材にしたもので、落語では数少ない実録ものです。

成立の詳細は不明ですが、実際に祭礼に行く途中で二両二分掏られたため、偶然命が助かった本郷の麹屋の体験を脚色したともいわれます。

根岸鎮衛の『耳嚢』巻六の「陰徳危難を遁れし事」という「佃祭り」の原話も、何らかの下敷きとなっていると思われます。

古くは、「多勢に無勢」と題した明治33年(1900)の初代三遊亭金馬(のち二代目小円朝)の速記が残ります。

先の大戦後は、六代目三遊亭円生、八代目林家正蔵(彦六)が高座にかけ、特に正蔵は得意にしていました五代目三遊亭円楽も好んで演じていました。

このオチを利用した「梅の春」という音曲噺が、後年作られました。

梅の春

もとは清元で、天明のころ(1781-89)、長州藩の分家、長門府中藩主の毛利元義が途中まで造り、後を狂歌の王様、大田蜀山人が付けて、清元名人の太兵衛が節付けしたものです。

その冒頭の詞章は、

四方にめぐる
あふぎ巴や文車の
ゆるしの色もきのふけふ
心ばかりははる霞
引くもはづかし爪じるし

というもので、この後、「わかめ刈るてふ春景色」までこしらえ、元義が行き詰ったのを、蜀山人が受けて、「浮いて- かもめ)のひい、ふう、みい、よう……」 と付けたというエピソードがあります。

これを基にに作られた同題の音曲噺は、清元「梅の春」の語り初めの会に招かれた絵師の喜多武清が、名人の太兵衛に「お天道様」と声が掛かるのを嫉妬して、「自分はいくら努力してもお天道さまとは呼ばれない。もう絵を描くのが嫌になった」と愚痴ると弟子が、「太兵衛 =多勢)に武清(=無勢)はかないません」と、「永代橋」と同じオチになるものです。

永代橋

現在の橋は、江東区深川永代一丁目から中央区新川二丁目の間に架けられていますが、もともとは、その一町(約109m)上流の、佐賀一丁目から、日本橋箱崎町三丁目にわたって架橋されていました。

架橋は元禄11年(1698)とされ、それ以前は「深川大渡し」と呼ばれた渡し場がありました。

享保4年(1719)に洪水で破損し、そのまま取り壊されるところを付近の町人の誓願で、経費はすべて町の負担、さらに橋銭二文を通行人から徴収し、維持費に当てる条件で補修・存続が決まりました。この橋銭は、文化4年の崩落事件後、廃止されています。

【語の読みと注】
粗忽者 そこつもの
贔屓 ひいき
根岸鎮衛 ねぎしやすもり:町奉行、『耳嚢』著者 1747-1815
耳嚢 みみぶくろ
遁れし のがれし
喜多武清 きたぶせい
四方 よも
文車 ふぐるま

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