雪中梅 せっちゅうばい 演目

【RIZAP COOK】

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

うーん、あまり出来のよくない人情噺ですねえ。

【あらすじ】

音羽桜木町に住む、日雇い稼ぎの多吉。

二十三歳になるが、母一人子一人で大変な孝行者。

その母が病気で寝付き、おまけに雨天続きで仕事がなく、年も越せないありさま。

かといって、気が小さく、知人の家を回っても金を貸してくれと、言い出せない。

そうこうするうちの大晦日の夜も更けて、牛込の改代町あたりりに差しかかると、ふと目についたのが穂積利助という手習いの師匠の屋敷。

酒宴の後らしく、裏口が開いているので、多吉はつい出来心で忍び込み、たちまち捕まってしまう。

泣いてわび、素性を残らず話したので、利助も同情し、親孝行はいいが、以後、決して盗みはならぬ、おまえは愚かなる者で、読み書きもできぬからそのような料簡も起こすのだから、今後は字も習えと、厳しくさとし、一両くれた上、餠や料理もどっさり持たせて帰す。

ところが、多吉が喜んで帰ってみると、母親が死んでいる。

今度は泣きの涙、その日のうちに葬式を出し、年が明けて四十九日まで、欠かさず墓参を続ける。

四十九日の日、帰ろうと隣の石塔を見ると、何か置いてあるので手に取ると大金が入った紙入れ。

本郷二丁目、絹谷彦右衛門という豪商の名刺が入っていたので、あわてて届けたところ、彦右衛門はその正直に感心して使用人に雇い、やがてめでたく一人娘の婿に納まるという出世話。

【RIZAP COOK】

【うんちく】

明治の新作人情噺

三代目春風亭柳枝(1852-1900)が作ったらしい、あまり出来がいいとはいえない人情噺です。

明治26年(1893)1月、柳枝自身の速記があるほかは口演記録はなく、今となっては、風俗資料としてのみ、貴重なものでしょう。こういうものはあらすじではなく、掲載記録そのものを紹介したほうがよいでしょう。

題名の雪中梅は、冬の寒さに耐え、雪中に花を咲かせる梅ですが、内容との関連は不明。主人公が不孝な境遇に耐えて、やがて花を咲かせる寓意とも考えられますが、あるいはこの柳枝の速記が正月に掲載されたので、単にめでたい意味で梅の一字を入れただけかもしれません。

同タイトルで末広鉄腸(1849-96)作の政治小説が、この七年前に出版されていますが、関連はなさそうです。

音羽桜木町

文京区音羽一丁目、関口二丁目、小日向二丁目にまたがっていました。護国寺の門前町で、元は寺領でしたが、元禄10年(1697)に町が開かれた際、大奥の中老桜木に町地が下賜されたところから、この地名がついたといわれます。

桜木町の路地を入ったところに私娼窟があり、揚げ代は「ちょんの間二百文」だったとか。志ん生の「お直し」で有名な「ケコロ」がせいぜい百文でしたから、えらく高いですね。

参考文献:『江戸文学地名辞典』(浜田義一郎編、東京堂出版、1997年)ほか

牛込改代町

新宿区改代町。江戸川橋の東南200mほどで、音羽桜木町とは目と鼻の先です。落語では「ちきり伊勢屋」にもちょっと登場します。改代町の南側一帯、神楽坂にかけては、旧幕時代にはぎっしりと武家屋敷、旗本屋敷が並んでいました。

【RIZAP COOK】

相撲の蚊帳 すもうのかや 演目

【RIZAP COOK】

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これまた、くだらないといえば実にくだらないネタですね。

別題:蚊帳相撲 こり相撲 妾の相撲

【あらすじ】

横町の米屋のだんな。

大の相撲好きで、町で会っても「関取」と呼ばないと、返事をしない。商売のことも、商談で出かけることを興行と呼ぶくらい。

十日の相撲なら、小屋を建てるところから壊すところまで、十二日間見ないと気が済まないほど。

今日も、贔屓の相撲が負けたのでご機嫌斜めで妾宅に帰ってくる。

あまりぐちるので、お妾さんがなんとか慰めようと、私と相撲を取って負かせば敵討ちをしたつもりになって気分が晴れるでしょうと、提案する。

それもいいだろうと、帯を締め込みに、蚊帳を四本柱に見立て、布団を土俵にハッケヨイ。

お妾さんは、裸にだんなのフンドシ一丁だけを腰に巻かれるというあられもない姿にされたが、恥ずかしがっても、自分が言いだしたことだからしかたがない。

だんなが立ち上がると、お妾さんは捕まれば投げられるから、蚊帳の中をぐるぐる逃げ回る。

それをだんなが追いかけて、まるで鬼ごっこ。

とうとう、だんなの上手がマワシに掛かり、エイとばかりに豪快な上手投げ。

弾みは怖いもので、ほうり投げられたお妾さんが、蚊帳にくるまったまま台所へ転がった。

だんな、仁王立ちになって土俵をにらみつけると、蚊帳がなくなったので、蚊の大群がここぞとばかり攻め寄せる。

「ブーン」
「ははあ、勝ったから、数万の蚊がうなってくれた」

底本:三代目柳家小さん

【RIZAP COOK】

【うんちく】

三語楼が改作

原話は文政7年(1824)刊『噺土産』中の「夫婦」。明治29年(1896)11月、三代目柳家小さんの速記が残り、このオリジナル版は「こり相撲」「妾の相撲」「蚊帳相撲」など、いろいろな別題があります。

大正末に、初代柳家三語楼(1875-1938)が「賽(妻)投げ」として改作しました。三語楼は、異色のナンセンス落語で売り出した落語家。古今亭志ん朝(美濃部強次)の名付け親でもありました。当時、志ん生が三語楼の弟子だったからなのですが。

三語楼版では、投げるのをお妾さんでなく本妻とし、夫婦げんかで奥方が外へ放り出されると、巡査が通りかかって家に同道。だんなに賭博容疑で署まで来てもらうと言います。なぜだと聞くと、「今、サイ(賽=妻)を投げたではないか」というダジャレオチ。まあ、ここまではぎりぎりで普通のお色気噺、寄席で演じられるギリギリの限界は保っていたのですが、後がもういけません……。

弟子の改作

三語楼門下で語ん平と言っていた二代目古今亭甚語楼(1903-71)が、戦後、師匠の「妻投げ」をまた改作。さらにきわどくし、お座敷などで演じました。

筋は変わらないものの、たとえば、だんなが細君をフンドシ一丁にする場面で「帯がアソコに食い込んでいるじゃないか」と言ったり、「わき毛が濃いねえ」などとからかった後、取り組んで「ここでおまえの前袋を取る」「私、殿方のように前に袋はございませんから、私がつかみましょう」。「これはいかん、いつもの気分になってきた」「まわし、じゃまですわね。はずしましょうか……」。

ところが、まだこれでは終わりません。改作三度目、とうとうポルノに。作者、演者不明。

ある男、毎夜毎夜、細君を喜ばそうと苦心中。折も折、悪友から、女の門口を大金玉でピタンピタンたたくと喜ぶと聞き、さっそく夏みかんの特大を買い込む。これが大当たりで、かみさんは連日連夜「死ぬ、死ぬ」と大狂乱。真夜中なので、巡邏中のおまわりがこれを聞きつけ、戸を蹴破って踏み込んでくる。すったもんだでようやく事情をのみこんだおまわり、「あー、以後再びにせ金を使うこと、まかりならん」。四度目は……、もうありません。

超特急、大相撲史

宝暦から明和年間(1751-72)には、相撲の中心は上方から江戸に移り、初めて江戸独自の一枚刷り番付が発行されたのは宝暦7年(1757)でした。相撲場は、蔵前八幡境内から深川八幡、芝神明社、神田明神、市ヶ谷八幡、芝西久保八幡などを転々とし、天保4年(1833)に本所回向院境内が常打ち場に。以来、両国国技館開館の明治42年(1909)まで72年間、「回向院の相撲」が江戸の風物詩として定着。当初は小屋がけで晴天八日間興行だったのが、安永7年(1778)からは十日間になりました。天明から寛政年間(1789-1801)に入ると東西の大関に谷風、小野川が並立。雷電為右衛門の出現もあって、史上空前の寛政相撲黄金時代が到来します。

時代が下って、この速記の明治29年(1906)ごろは、明治中期の梅(梅ケ谷)常陸(常陸山)時代の直前。当時、初代高砂浦五郎(1838-1900)の相撲組織改革により、明治22年(1889)1月、江戸以来の相撲会所が廃止され、大日本相撲協会(実際は東京のみ)が発足。翌年2月、初めて番付に横綱(初代西ノ海嘉治郎)が表記されるなど、幕末以来、一時すたれていた相撲人気が再び盛り返してきていました。四本柱が廃止されたのは、はるかのちの戦後、昭和27年(1952)秋場所からです。

【語の読みと注】
贔屓 ひいき
妾宅 しょうたく:愛人の家

【RIZAP COOK】

世界一周 せかいいっしゅう 演目

【RIZAP COOK】

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映画「タイタニック」もまっさお。100年ほど前の噺です。

【あらすじ】

お調子者の秀さん、隠居のところへ訪ねてきた。

「わっちもなにかして名前を上げたい」と思ったが、名案が思いつかないので勧工場をぶらつくと、五厘で古新聞の「やまと新聞」を売っていたから買って読んでみた。

歩いて世界一周をした外国人のことが出ていた。そこで自分も行きたくなって、横浜から船に乗った。

以下、世界珍旅行の模様を得々と語る。

船に乗ってみると、なんと、知っている連中がワンサカ。

髪結床のおやじに薬屋の隠居、清元のお師匠さんに落語家講釈師、相撲幇間官吏、百鬼夜行、森羅万象、神社仏閣、オッペケペーの川上音二郎までいて、にぎやかな旅立ち。

天津まで行くと、船がバラバラ。「テンシンバラバラ」というくらい。

そこで、船を借り換えて、ホンコンからシンガポールへ。

そこで主人と家来がけんかしていて、家来が勝った。

「そういうわけで?」
「それもそのはず。臣が放る(シンガポール)」
「もう尾かえる」

そこからインド洋を渡り、アラビア海からスエズ運河を経てフランスのマルセイユ、パリ見物して英国に渡り、ロンドンは煙突の煙でなにも見えないので、ロンドン(=どんどん)急いでアメリカへ。

大陸を横断して、サンフランシスコから帰りの船。

一時間四十マイルも出る快速船で、じきに帰れると喜んでいると、途中で大嵐。

風雨はだんだん激しくなり、なにやらメリメリいいだしたと思ったら、あっという間に暗礁に乗り上げ、船には大穴。

船長、もはやこれまでと甲板に現れ、申し訳にピストルでいさぎよく自害。

アーメンというのが、この世の別れ。人間をヤーメンて冥土へ出帆。

それを見て、われも冥土のお供と、機関士も客もみな刺し違え、鮮血淋漓、血潮紅葉と取り乱し、無残なりけるありさま。

「はあ、大変だな。お前は助かったのかい」
「折れた帆柱に体をゆわい付け、一生懸命捕まっているうちに、船は千尋の海底に。漂っていると横浜が見えてきたので、やれうれしやと思ううちに、帆柱がズブズブ。ワッチは逆さまに沈んでいく」
「それは困った」
「一世一代の声で『助けてくれえ』とどなると、隣のかみさんが起こしてくれた」

全部夢の話。万国絵図の上で寝ていたというお粗末。冷たいと思ったら、自分のヨダレ。

底本:初代談洲楼燕枝

【RIZAP COOK】

【うんちく】

上方スペクタクル噺の改作

初代談洲楼燕枝(1838-1900)の創作ですが、江戸の「ガリバー旅行記」ともいえる「唐茶屋」や上方落語のスペクタクル巨編「島めぐり」を文明開化向きにアレンジ、改作したというのが正確でしょう。燕枝は円朝のライバルで、柳派の人情噺の巨匠でした。

この「世界一周」のあらすじは、燕枝の死の直前、『文藝倶楽部』の明治33年(1900)2月号に掲載された最後の速記をテキストにしました。燕枝没後一世紀以上、やり手はありません。

オリジナルの速記では、隠居が「ドーンという音は?」と聞くと秀さんが「時計を見ましたら、十二時が五分ばかり廻って居ました」とオチています。これは、「ドーン」が明治の風物詩、午砲(ドン)を踏まえたと思われますが、肝心の「ドーン」の伏線が前になく、ただのミスでしょう。あらすじでは省略しました。

それでは、上方落語のスペクタクル巨編「島めぐり」のあらすじをご紹介します。「唐茶屋」については、その項をご参照ください。

「島めぐり」

正しくは「万国島めぐり」。

アホの喜六が隠居宅で、「朝比奈島めぐり」の絵本を見せてもらううち、女護が島へ行ってみたくなり、さっそく異国通いの船で密航。小人国に置き去りにされ、殿さまを印籠の中に放り込む。そのまま進むと、やがて巨人国。今度は逆に、巨人の印籠に放り込まれる。息苦しくて印籠を開けて気付け薬をのもうとすると、小人の殿さまが丸薬に腰掛けて切腹していた。

印籠からつまみ出され、巨人の子供のなぶりものにされた喜六。脱走を試みるも、お釈迦さまの掌の孫悟空よろしくすべて失敗。ところが、巨人の竜巻のような屁に吹き上げられ、天空に舞い上がる。

落下したところは、待望の女護が島。この国始まって以来の男の客というので、たちまちVIP待遇。

ここからご想像の通り、露の五郎兵衛好みのポルノ落語に。風呂場で股間のエテモノを、山なす野次馬に観察され、質問責め。

「これは、何に使う棒ですねん?」
「こりゃ、あんたらのヘソ下を掃除する掃除棒やがな」

そこで、掃除希望が殺到。掃除料を取ったあげく、連日連夜の奮戦で棒はすり減る一方。

オチは
「こない仰山掃除してたらオレの命がもたん」
または、女たちが大喜びで、
「値が値だけのものはある」

とうとう逃げ出して「唐茶屋」へ。

世界一周狂奏曲

ジュール・ヴェルヌ(1828-1906)がパリの「ル・タン」紙に「八十日間世界一周」を連載したのは1872年(明治5)ですが、その奇抜な着想に刺激されてか、1889年(明治22)、米女性記者ネリー・ブライが、この小説のコース通り、ただしニューヨークを出発点に西回りで72日6時間11分の世界一周レコードを樹立。それに続いて、同国のフィッツモリスらが1890年代を通じて次々と記録を更新し、ちょっとしたブームを巻き起こしました。1903年(明治36)には、ヘンリー・フレデリックが54日7時間2分、1907年(明治40)にはバーンレイ・キャンベルがシベリア鉄道回りで40日19時間30分と、列車・汽船の発達で、記録は日進月歩という時代でした。

日本では明治維新後、知識階級の間で洋行熱が高まり、早くも明治3年(1870)には、仮名垣魯文(1829-94)が、十返舎一九の「膝栗毛」の主人公・弥次喜多に英国まで旅をさせる戯作「西洋道中膝栗毛」初編を刊行しています。「八十日間世界一周」を川島忠之助(1853-1938)が初めて邦訳したのが、明治11-13年(1878-1880)でした。噺の中に出る「歩いて世界一周をした外国人」については未詳です。

川上音二郎

川上音二郎(1864-1911)は、「マダム貞奴」の夫、新派劇の草分けにして、「オッペケペ節」の書生芝居の創始者として知られますが、上方落語の桂文之助に入門して「浮世亭○○(マルマル)」の芸名を持つ寄席芸人でもありました。落語はやらなかったようです。

音二郎貞奴夫婦の洋行は、明治31年(1898)から34年(1901)まで足掛け四年に及びました。

やまと新聞

明治17年(1884)、「警察新報」として創刊。幕末の戯作者山々亭有人から、維新後にはジャーナリストに転じた条野採菊(1832-1902)によって、2年後、編集方針を一変して「やまと新聞」と改名。三遊亭円朝の速記掲載によって人気を得ました。円朝人気で発行部数を維持するため、円朝晩年のいくつかの作品は条野自らがこさえた作品だといわれています。

やまと新聞は、芸界や花柳界のゴシップ、スキャンダルを暴く大衆紙として長く大衆的人気を保ってきました。ライバルの「万朝報」が主に政界の醜聞を暴いたのに対し、こちらはもっぱら軟派に徹したため、読者層も分かれました。円朝の没年である明治33年(1900)あたりを境に、条野自身が経営や編集から退き、紙面は大きく変わりました。

大正期の第一次護憲運動を擁護する御用新聞とみなされて社屋を暴徒に襲撃されたり、大正12年(1923)の関東大震災では社屋を焼失したりして、大きく衰退しました。昭和前期には右翼国粋主義を主張する新聞と変貌し、昭和18年(1943)には右翼の児玉誉士夫に移りました。太平洋戦争末期、昭和20年(1945)5月、新聞統制などで廃刊となりました。児玉は昭和21年(1946)10月、児玉は「やまと新聞」を復刊しましたが、その後、「新夕刊」「日本夕刊新聞」「国民タイムズ」「夕刊東京スポーツ」「東京スポーツ」と名称を変更していきました。経営も児玉から高源重吉、三浦義一、永田雅一などに移っていきました。

警察系の新聞からスタートしたやまと新聞。時代に翻弄されながらも、つねに政府擁護の姿勢で変遷していったのが、この新聞の特徴といえるでしょう。

【語の読みと注】
山々亭有人 さんさんていありんど
万朝報 よろずちょうほう

【RIZAP COOK】

菅原息子 すがわらむすこ 演目

【RIZAP COOK】

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「芝居」といったら、歌舞伎に決まっていたころの噺ですね。

別題:芝居狂

【あらすじ】

芝居狂の若だんな。

今日も「菅原伝授手習鑑」を見物してご機嫌で帰宅。

いきなり
「女房ども、今戻った」
と、妙な声を張りあげて、物乞いと間違われる。

「俺がいい気持ちで気取っているんだから、おまえもつきあえ」
と女房に、無理やりに「こちの人、よく戻らさんしたな」という「寺子屋」の源蔵女房戸浪のセリフを強要する。

食膳を見ると
「ハテ、膳部の数が一脚多い」
と松王になり、アワビのふくら煮が出ると
「ナニ、死貝と生貝とは風味味わいの変わるもの、真っ赤な赤螺その手はくわぬ」
「お平はなんだ? 豆腐? 平は豆腐皿の鰈の焼き魚、何とて猪口はしたしなるらん」
などと、すべて「寺子屋」気取り。

かと思うと、いきなり椀の蓋を取って
「あ-ら、怪しやな。今汁椀の蓋を取ると、にわかに水気立ち上がりしは、凶事のしるしか吉事のしるしか、なににせよ怪しきこの場の、ありさま、じゃ、なあー」

これを聞いたおやじ、カンカンに怒って
「このばか野郎」
と飛び掛かったのを、若だんなヒョイと避け
「親びと、御免」
と、ほうり投げた。

「あれまあ、あなた、お父さんを投げて」
「女房喜べ、せがれがおやじに勝ったわやい」

【RIZAP COOK】

【うんちく】

マクラ噺

原話は不詳。芝居好きをからかった小咄が集まってできたものでしょう。落語としては上方ダネで、別題を「芝居狂」ともいいます。

明治から大正にかけ、初代春風亭柳橋、二代目三遊亭金馬、四代目三遊亭円馬ら、芝居噺を得意にした演者の速記が残ります。

芝居の噺のマクラによく付けられますが、近年はこの演題で、一席噺で演じられることはまれです。

二代目三遊亭金馬(碓井の金馬、1926年没)の大正4年(1915)の速記では、「浮かれ三番」のマクラで演じています。

金馬はこのあと、盗賊が料理屋に押し入って百円脅し取り、空腹で飯を要求すると、主人が「あなたは金を盗るのが商売、私は料理を売るのが商売だから、お代を出してくれ」と言うので、しかたなく百円払ってさっ引きになるという小咄を付けています。その泥棒も実は大の芝居好きで、待っていた子分が「親分、首尾は」と聞くと「シーッ、声(=鯉)が高い」というお笑いです。

おやじ流罪でせがれが死罪

菅原伝授手習鑑は、延喜元年(901)の菅原道真流罪事件に取材した、全五段の時代物浄瑠璃。延享3年(1746)8月21日、大坂竹本座初演。作者は翌年、竹田出雲、並木千柳、三好松絡、竹田小出雲の合作。歌舞伎初演は翌年9月、京都嵐座です。

「寺子屋」は四段目の切。今は敵の藤原時平方に仕えている舎人(とねり)・松王丸が、手習師匠の武部源蔵がかくまう菅丞相(道真)の一子・菅秀才の危急を救い、故主に忠義を立てるため、わが子・小太郎を身代わりにすべく、寺子屋に弟子入りさせます。

菅秀才の首を討って差し出せという時平の命に、菅丞相の門弟だった源蔵が懊悩しているところに、松王丸自身が検分役となって乗り込み、源蔵に小太郎を斬らせ、時平一味の目を欺くという悲劇です。

膳部の数

以下、すべて芝居のセリフのパロディです。

「膳部の数…」は松王が、寺子屋から帰る子供の数より、手習い机が一脚多いので、これは菅秀才のものに違いないとわざと言い立て、小太郎を身代わりにするきっかけにしようとする場面のセリフ、「机の数が一脚多い」から。

「生貝と死貝」も同じく、松王が源蔵に言う「生き顔と死に顔は相好の変るなぞと、身代わりのにせ首、その手は食わぬ」から。

「平は豆腐」は、松王が、三つ子の弟桜丸の忠義を引いて、源蔵夫婦に自分の菅丞相親子への真情を吐露するセリフ、「梅は飛び 桜は枯るる世の中に 何とて松のつれなかるらん」の地口です。

初代円遊の肉声

初代三遊亭円遊という落語家。実は三代目。明治の珍芸寄席四天王の筆頭にして、近代こっけい噺のパイオニア。「鼻の」「あばたの」「ステテコの」などあまたの異名を奉られていました。夏目漱石も抱腹絶倒した「元祖爆笑王」の、今に伝わる肉声がたった二種類の蝋管レコードに残され、CDにも復刻されています。

一つはこの「菅原息子」。死の四年前の明治36年(1903)、落語初のレコードとして、初代快楽亭ブラック、四代目橘家円喬などが、英グラモフォンに吹き込んだ記念すべきシリーズの一枚。ほかに米コロムビア吹き込みの「野ざらし」があります。百年以上前の、原始的な蝋管からの復刻音源ですが、やや鼻にかかった高っ調子、立て板に水の早いテンポ。わずか正味三分足らずですが、鳴り物入りで芝居の声色仕立て。このころはもう晩年で、人気も落ち目になっていたはずですが、さすがにただものではない円熟した技芸が、時を越えて伝わってきます。まぎれもなく「明治からのメッセージ」でした。

せがれがおやじに

オチの部分も、松王丸が女房千代に言うセリフ「女房よろこべ、せがれがお役に立ったわやい」のもじりです。

【語の読みと注】
赤螺 あかにし:タニシの一種
お平 おひら:浅く平たい朱塗りのお椀
菅原伝授手習鑑 すがわらでんじゅてならいかがみ
舎人 とねり

【RIZAP COOK】

あかんべいひゃっぱいなめろ【あかんべい百杯なめろ】むだぐち ことば

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反抗期に掛かった子供(特に男子)が親に用事を言いつけられ、万国共通の「アカンベー」で拒絶反応を示すとき、例の仕種と同時に付け加える悪態。

この場合、「あかんべい」は「あく(灰汁)の灰(はい、へえ)」のダジャレを含んでいて、そこから「百杯なめろ」が出るわけです。この悪態のパターンは「あかん弁慶屁でも景清」「赤弁天さん尻観音さん」ほか多数あります。

「あかんべい」自体も「あかんべん」「あべかこ」「あかべい」「あかめん」など、各地の方言によって変化しますが、語源はすべて「赤目」から。「あかんべえひゃっぱいなめろ」「あかんべいえ百杯なめろ」も同じ。

あがったりだいみょうじん【上がったり大明神】むだぐち ことば

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「上がったり」は、「商売上がったり」などと、現代でもよくボヤキとして使われます。職人や商人の仕事が行き詰まり、にっちもさっちもという状態。

「たり」は完了形なので、完全にダウン、再起不能という惨状。「上がる」はあごが上がるから来ているのでしょうが、むしろ「干上がる」の方がぴったりでしょう。それに神号の「大明神」を付けて、窮状も神様級。普通、○○大明神といえば、大げさなほめ言葉ですが、ここでは明らかにやけくその自嘲。

神様は神様でも、根こそぎむしり取る貧乏神としか思えません。

あいはこうやでございやす【あいは紺屋でございやす】むだぐち ことば

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「あい」は主に幼児語で、返事や同意を示す感動詞。これに染料の「藍」を掛け、さらにそこから紺屋を出したまぜっかえしの言葉です。

子供同士の他愛ない言い合いでよく聞かれ、雑俳にも「おちゃっぴい あいは紺屋に…」とあります。

「あい」は関東、「はい」は関西起源とされますが、英語でも挨拶の”Hi”が訛って”Ai”となったりするので、そのあたりは人類共通のものがあるようです。

「藍」に掛けた用例は「藍は紺屋の使い物」など。変形で「鮎(あい)」を使った例も、「鮎が高けりゃ鰯を買え」など、多数流布しています。

あいてほしさのたまてばこ【相手欲しさの玉手箱】むだぐち ことば

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食事や碁将棋に付き合ってくれる相手が欲しいときに言います。「あいてほしさ」は「開いて欲しさ」の洒落でもあり、これが「玉手箱」に繋がります。

同時にこれは、浦島伝説に由来の「開けてくやしき玉手箱」のもじりともなっています。つまり、悲劇的な結末となった浦島とは正反対に、「玉手箱」(宝石箱)に掛けて、何か心楽しい成り行きを期待する心でしょう。

用例としては、弥次喜多で有名な「東海道中膝栗毛」七編下、京見物のくだりに「まだ飯が食ひたらんさかい、あい手ほしさの玉手箱ぢゃわいな」とあります。

ああにあわめしこうこにちゃづけ【ああに粟飯香香に茶漬け】むだぐち ことば

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この後「うまくなくともたんとお上がり」と続きます。「ああ」という気のない生返事を受け、後に語呂合わせを重ねたものです。

古語で「多い」という意味の「あわに」という副詞があり、それに「ああに」と掛け、さらに、いくら食べても満腹にならない粟飯と茶漬けを出して「いくらでも言っていろ」とからかったわけです。

「ああに」は確証はありませんが、「あわびに」と掛ける駄洒落も入っているかも知れません。こう見るとなかなか一筋縄ではいかず、これを最初に考えた人間は、只者でなかったかも知れません。

ただどりさつまのかみ【只取り薩摩守】むだぐち ことば

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ただで大枚をふんだくるというのを、ただどり=ただのり(薩摩守忠度)と、「平家物語」の悲劇のキャラクターに引っ掛けただけの地口。

逆に巻き上げられた方の立場から「只取り山のの歩泣き石(ほととぎす)」といった類似表現もあります。このうち「歩泣き石」は、東海道怪談伝説の「小夜の中山夜泣き石」に掛けたものですが、「薩摩守」を含め、もとは縁台将棋から広まったものでしょう。

それにつけても平忠度というご仁、首を取られた上、何百年も無賃乗車や横領の代名詞呼ばわりされ続けるとは、よくよく悲運の人物ですね。

脛かじり すねかじり 演目

脛かじり技を磨こうライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ

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怪談、はたかた食人譚かと思いきや、ありゃ、なーんだ、落語かよ。

別題:いろ屋の花嫁(上方) かいな食い(上方)

ライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ

【あらすじ】

勘当された若だんな。

今は居候の身だが、いっこうに改心するようすがない。

預かり先の亭主、このままではためにならないと、若だんなを目黒鬼子母神の近藤作右衛門方の婿養子に世話する。

実は、若だんなはもうとっくに偵察してあるが、そこの娘は婚期を逸してもう二十五、六になるものの、大変な美人。

おまけに資産もある。

ところが、亭主の言うには、縁がつかなかったにはわけがあり、原因は不明だが、今まで何度か婿を取ったものの、三日と居ついたことがない、という。

若だんなは、そんな話には耳を貸さず、色と欲との二人連れで、さっそく飛びついた。

順調に話がまとまり、さて、婚礼の晩。

仲人は宵の口と客が帰った後、いよいよ待ちに待った床入りという時になって、娘は
「これからちょっと用事がありますから、少しの間お暇を」
と、妙なことを言うと、部屋から出て行ってしまう。

スカタンを食わされた若だんな、こんな夜中にどこへ行くのかと跡をつけると、なんと新妻は鬼子母神の墓場へ。

見ていると、新仏の石塔をのけ、土饅頭の中に手を入れて、死人の手をむしゃむしゃ食らう。

「ははあ、さてはこれが婿の居つかなかった原因か」
と、若だんな、

部屋に逃げ戻ってガタガタ震えていると、女が戻ってきた。

「あたしはもう寝ないで神田に帰ります。命ばかりはお助けを」
「さては、私が墓場でやっていたことを」
「へえ、なにかおいしそうにお召し上がりで」

女は、
「見られたのならしかたがありません。私は子供のころから、どういうわけか人の肉が好きで、母親に、代わりにザクロを食べさせられていたのですが、両親が鬼子母神に願掛けをして授かった子なので、その因果か人肉の味を思い切れません。それさえがまんしてくれれば、どんなことをしてでもあなたに尽くします」
と誓ったので、若だんなも承知して、めでたく夫婦になる。

「私もずいぶん人を食っていると言われるが、いったい、体のうちじゃあ、どこが一番おいしいんでしょう」
「そうですね、まず腕が一番です」
「それは無理もない。あたしも親父の脛をかじった」

【うんちく】

上方落語を改作

オチの部分の「親のすねをかじる」の原話は、安永3年(1774)刊『茶のこもち』中の「子息」。

別の原話として、宇井無愁(上方落語研究家)は、安永同5年(1776)刊『売言葉』中の「猫また」を挙げています。これは、遊女と同衾中の男が、夜中に、女が行灯の陰で人の腕をむさぼり食っているのを目撃、これは猫またかと恐れおののきますが、翌朝見ると、それはトウモロコシの殻だった、というオチで、「脛かじり」との関連性は薄いようです。

上方落語「かいな食い」「いろ屋の花嫁」が、明治中期に東京に移植されたもので、初代三遊亭円遊(爆笑王、鼻の)が鬼子母神伝説を加味して改作しました。明治23年(1890)の円遊の速記が残り、移植者も同人と思われますが、はっきりしません。

上方の「かいな食い」は伝説とは無関係で、勘当された若だんなが養子に行く設定は同じですが、女は単に人間の生血、死血を吸いたい病で、赤子の死骸を棺桶(または墓地)から引きずり出して食らうなど、よりリアルで、猟奇性が強いものとなっています。

現在、演じ手は東西ともに絶えています。

鬼子母神伝説

鬼子母神とは、インドの仏教説話中の鬼女です。サンスクリット語でハーリーティといい、「歓喜母」「愛子母」とも記されています。

インド、王舎城の夜叉(=鬼神)の娘で、絶世の美女でしたが、鬼神の王、般闍迦の妻になり、千人(一説に一万人)の子を産みました。人の子(一説に自分の子)を殺して食べるのを常としていたので、人々はおそれおののき、仏陀にすがると、仏陀は、鬼子母神がかわいがっていた末子の嬪迦羅を隠します。鬼母は狂乱し、仏陀を訪ねて助けを乞うと、仏陀は「千(万)の子がいてさえ、たった一人の子を失ってそなたは悲しんでいるが、多くて五、六人しかいない子の一人を殺された母親の悲しみを考えねばならない」と諭しました。鬼母は、今後決して子供を食うことはせず、すべての子供の守護神となることを誓ったので、仏陀は嬪迦羅を返してやりました。

仏陀が、また病気が出ぬようにと、味と色が人肉に似たザクロの実を与えたことから、鬼子母神像は、常に右手に吉祥果を持ち、左手に子供の嬪迦羅を抱いています。鬼女像もありますが、多くはギリシアのアフロディテを思わせる豊満な美女像とされます。

「清正公酒屋」で、せがれがおやじに鬼子母神伝説を説明し、「あたしは千人どころか一粒種だから、勘当なんぞはできません」と開き直る場面がありますが、日本でも鬼子母神は子授け、安産、幼児養育の守り神として各地で信仰されています。

鬼子母神を祀るのは神社ではありません。仏教説話由来ですから、とうぜんお寺です。しかも、日蓮宗が率先して鬼子母神をまつります。鬼子母神の名称が落語などに出てくれば、日蓮宗の教えやお寺を想起すると噺の理解が早いでしょう。

死体嗜好

バーバリズム(人肉食)は、死体嗜好症(ネクロフィリア)と結びついてヨーロッパ各地にも多く、しばしば猟奇的な殺人事件が報告されますが、一種の精神障害といわれます。

【語の読みと注】
嬪迦羅 ビャンガラ
腕 かいな
般闍迦 ハンジャカ
吉祥果 きっしょうか:ザクロ

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崇谷 すうこく 演目

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今となっては聴くこともできない噺。崇谷は人名で、18世紀が舞台。

【あらすじ】

水戸藩に使えていた、英林斎藤原崇谷という名高い絵師。

今は浪人で、本所の中之郷原庭町で気ままな暮らしをしている。

この先生、浅草観音堂の奉納額に「源三位頼政、鵺退治」の絵を書いたことで有名な天下の名人だが、気まぐれの変人で大酒呑み。

諸侯からの依頼が引きもきらないが、気が向かないと千両積まれてもダメ。

かと思えば、近所の子供に頼まれれば気さくに書いてやる、という具合。

弟子志願者も大勢いたが、絵はさっぱり教えないわ、弟子から小遣いは取り上げるわ、酔いつぶれているのを起こせばゲンコツを飛ばしてコブだらけにするわで、一人去り二人去り、今では虚仮の一念の内弟子二人だけ。

ある夜。

雲州候松平出羽守の命で、近習の中村数馬という若侍が、崇谷に絵の依頼に来る。

若殿の初節句なので、墨絵の鍾馗を描いてほしいという望み。

ところが、先生、例の通り朝から五升酒をくらって気持ちよさそうに寝ていたのをたたき起こされたからヘソを曲げ、数馬をコブだらけにした上、
「頼みたければ、出羽守じきじきに来い」
だのと、言いたい放題。

数馬はかっとして切り捨てようと思ったが、ぐっと堪えてその日は帰り、主君に復命すると、出羽守少しも怒らず、
「今一度頼んでまいれ」
と命じたので、数馬は翌日また中之郷原庭町を訪ねる。

崇谷は相変わらずのんだくれていて、
「大名は嫌いだ」
とごねるので、数馬が、
「どうしてもダメなら切腹する」
と脅すと、崇谷は二人の弟子に、
「武士の切腹が実地で見られるのだから、修行には願ってもない機会だ」
と言いだす始末。

これには数馬も降参して、再度懇願すると、その忠心に動かされたか、崇谷もやっと承知。

駕籠に酒を持ち込んでグビグビやりながら、赤坂の上屋敷へとやってきた。

先生、殿さまの前に出ても、あいさつの途中で寝てしまう体たらくだが、出羽守が礼儀正しくことを分けて頼んだので気をよくしたか、茶坊主に墨をすらせ、その顔をパレット代わり。

筆の代わりに半紙の反故紙で無造作に書きなぐったものを三間離れて見ると、鍾馗が右手に剣、左手に鬼の首をつかんで睨み付けた絵が生きて飛び出さんばかり。

「さすがに英林斎先生」
と感服した殿さま、今度は
「草木なき裸山を四季に分けて描いてほしい」
と注文。

崇谷、これも見事に描いて見せたので、
「さすがに名人」
と、浴びるほど酒をふるまって
「素人は山を描くのが難しいと申すが、画工といえどやはり描きにくいか」
「私はなにを描いても同じことだが、私の家の裏の、七十七歳の爺はそう申しております」
「して、その者も画工か」
「いえ、駕籠かきです」

底本:二代目柳家(禽語楼)小さん

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【うんちく】

「そばの殿さま」雲州候

松江藩第七代藩主、松平治郷(1751-1818)は、明和4(1767)年に襲封。石高は十八万五千石。藩財政の建て直しに努め、農政を改革、飢饉対策として、領国に信州からそばを移植、これが現在の出雲そばの濫觴です。

不昧公と号され、風流人で茶道を好み、大名茶を大成しました。この噺にもみられるとおり、芸術にも理解と造詣が深かったことで有名です。「そばの殿さま」のあの方です。

どこかで聴いたオチ

講釈(講談)を基に作られたと思われますが、はっきりしません。明治23年(1890)11月、『百花園』に掲載された二代目柳家(禽語楼)小さんの速記がありますが、その後の後継者はいないようです。

オチの部分の原話は、元禄16年(1703)刊『軽口御前男』(初代米沢彦八・編著)中の「山水の掛物」とみられます。

これは、須磨という腰元が給仕をしていて雪舟の掛け軸の絵を見て涙をこぼすので、客が不審に思って訳を尋ねると、「私の父親も山道をかいて死にました」。「そなたの父も絵師か」と聞くと、「いえ、駕籠かきでした」というもの。このオチは「抜け雀」と同じです。

崇谷という人

本姓は高崇谷(1730-1804)で、別号は屠龍翁、楽只斎、湖蓮舎、曲江、翆雲堂などさまざま。噺中の英林斎というのは不詳です。江戸中期の絵師で、佐脇崇之の門人でした。この噺に登場する額については、『武江年表』の天明7年(1787)の項に、「五月、屠龍翁高崇谷、浅草寺観音堂へ頼政猪早太鵺退治の図を画きたる額を納む。(中略)人物の活動、普通の画匠の及ぶ所にあらず」と記録されています。

土佐狩野両派の手法を採り入れ、町絵師ながら、次代の浮世絵師に大きな影響を与えました。多くの門弟を育て、明和から寛政年間(1764-1801)にかけて活躍。墓所は浅草西福寺・智光院にあります。

【語の読みと注】
中之郷原庭町 なかのごうはらにわちょう
鵺 ぬえ
虚仮 こけ:うそ、絵空事
鍾馗 しょうき
松平治郷 まつだいらはるさと
濫觴 らんしょう
不昧公 ふまいこう

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さよならさんかくまたきてしかく【さよなら三角また来て四角】むだぐち ことば

古くから日本全国に広く流布した、児童の遊び歌の代表的なもの。さよなら→三角→四角という語呂合わせは、落語「一目上がり」の「讃→詩→語」という数字のしゃれに通じるものです。遊び惚けた子供たちが日没前に別れるときに、名残惜し気に掛け合う挨拶にも使われていました。

山田典吾監督作品「はだしのゲン」(1976年)では、子供たちの別れの場面でこれが歌われています。この時のメロディは「からす、なぜ泣くの」の替え歌になっていて、「あばよ さようなら さよならまたきてしかく しかくは とうふで とうふはしろい」と、さらに連想の要素が加わっていました。

どうでありまのすいてんぐう【どうで有馬の水天宮】 むだぐち ことば

水天宮に願掛けライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ

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「どうで」は「どのみち」「どっちみち」という意味の強調語。「有馬」は地名と「有り」を掛けた駄洒落で、煎じ詰めればただ「ある」という肯定を大げさに洒落のめしただけ。

「有馬の水天宮」は、文政元年(1818)、久留米藩主有馬頼徳が芝赤羽橋外の同藩上屋敷内に久留米から勧請した水難の守り神。以後、江戸の庶民にも広く信仰されました。明治になってからは蠣殻町に引っ越して、今の水天宮となりました。この洒落が広まったのは文政年間以後です。

同じ意味で「どうで有馬の大入道」とも。こちらは言葉遊びで「大あり、大あり」。「どうで有馬の」の方は、使われ方の状況次第で微妙にニュアンスが変わることがあります。例えば、飲兵衛が目の前でいい酒をなみなみと注がれた時は「おっと、ありがたい」の意味にもなるわけですね。

榎本健一の一座には「有馬是馬」という芸名の役者がいました。「あれまこれま」の洒落のつもりでしょう。

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水道のゴム屋 すいどうのごむや 演目

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昭和6年(1931)ごろの東京の下町風俗がうまく出ていますね。新作落語です。

【あらすじ】

水道やガスのゴム管を、戸別訪問で売り歩いている、十二、三歳の小僧。

「こんちは、水道のゴムはいりませんか」
と黄色い声で売り回っても、からかわれるばかりで、なかなか商売にならない。

今日も、まずいきなり、
「てめえはなんだな、オレに恥をかかせるつもりだなッ。家には水道がねえんだ」
と、すごまれた。

二軒目では、ばあさんが耳が遠く、聞き間違われてラチがあかない。

三軒目では
「近頃感心な小僧だ。年はいくつだ」
「十三でございます」
「柄が大きいから十五、六に見えるな。学校へ行ったか」
「五年まで行きましたが、おとっつぁんが大病をしたので奉公しました」
「そいつは惜しいことをした。親を大切にしてやれ。どこだ、故郷は」
「東京で」
「なんだ、江戸っ子じゃねえか。その心持ちを忘れるなよ。今におまえが大きくなったら、水道のゴム会社かなにかの社長にならなくちゃならねぇ。あっははは、年はいくつだ」

これを三回繰り返し、しまいには「近ごろ感心な小僧だ」からセリフを全部覚えてしまった。

「物覚えのいい小僧だ。オレんとこはいらねえ」

次の奥方は、だんなの浮気で修羅場の真っ最中。

「復讐してやるわ。あなた、ガスのゴムも持ってるでしょう。そこのメーターのところから計ってちょうだい」
「さいならッ」

ガス自殺の手伝いをさせられそうになり、あわてて逃げ出す。

お次は、浪曲をうなっている男。

「水道屋にゃあ、縄張りってものがあるだろう」
と、妙なことを言い出す。

「しっかりしろい。おまえが親からもらった荒神山を、安濃徳が自分のものにしようてんだ。『人の落ち目につけこんでェ、覚えていろよ安濃徳ゥ』」
と、虎造十八番の「荒神山」をうなり出す。

「だんな、浪花節がお上手で」
「よし、その一言が気に入った」
「買ってくれますか」
「オレんとこじゃあァ、買わねえんだァ」
と浪曲で断られた。

最後は、インテリ風の男。

「一尺いくらだ」
と聞くので、
「十九銭」
と答えると、二尺はいくら、三尺、四尺、五尺……と暗算をさせられ、果てに、
「しからば、百七十三尺六寸では?」
と、妙に細かく刻む。

小僧が四苦八苦して計算していると
「そういう時にはこういう調法なものがある。これは最近、九九野八十一先生が考案した完全無欠の計算器」
と、妙なものを取り出して、ベラベラ効能書きを並べた挙げ句、とうとう小僧に無理に売りつけて、さようなら。

小僧、さっそくいじり始めたが、
「売らずにこっちが五十銭で買って帰ったんだから、零を五十で割ると、おやおや、答えが零だ。なら、べつに損はないや」

【うんちく】

作者は水道局出身

六代目三升家小勝の新作です。「のっぺらぼう」の作者でもある人です。小勝は、八代目桂文楽門下の俊秀で創作の才に富み、この噺は入門間もない前座(桂文中)時代の昭和6年(1931)ごろの作です。

小勝は、文七を経て昭和12年(1937)5月、真打昇進で二代目桂右女助を襲名。右女助時分は新作で売れに売れましたが、二つ目のころから人気者でした。

「水道のゴム屋」は、創作から5年温めて、まだ二つ目の昭和11年(1936)、キングレコードから「水道のホース屋」としてSP発売。大当たりとなり、客席から「ゴム屋!」と声がかかるほどの大ヒット。これが出世の糸口でした。この題材は、小勝が入門前に東京市水道局の工務課に勤務する技師だったことから、知識を生かしてものしたものです。

なかなか売れず、浪曲で「オレんとこじゃ買わねえんだ」と断られるくだりは、明らかに古典落語の「豆屋」を下敷きにしていて、マヌケオチのオチの部分は「壷算」「花見酒」などの踏襲でしょう。

特に山の手の「モダンガール」風の奥さんが「ウチのひとったらうそつきよ、色魔よ、復讐してやるわ。精神的な復讐してやるわ」と、ヒステリックに小僧にわめき散らすところが当時のメロドラマ映画と重なり、大受けだったようです。

当時、まだまだ十分普及していない家庭用上水道事情を知る上で貴重な資料ですが、未成年労働者といい、あまりに隔世の感がありすぎ、現在では口演する余地のない噺です。

小勝の晩年

右女助(当時)は、「ゴム屋」に続き、「妻の釣り」「操縦日記」、酔っ払いをカリカチュアした「トラ」シリーズなどの新作を数多く自作自演。

古典でも「初天神」など、子供の登場する噺や「穴泥」「天災」ほか、軽いこっけい噺など、明るく軽快なテンポで、太平洋戦争をはさんで昭和20年代のラジオ時代まで人気を博しました。

昭和31年(1956)3月、六代目小勝を襲名しますが、そのころから時代の波に乗れず、下り坂に。58歳の脂ののった年齢で脳出血に倒れ、以後高座に復帰できないまま、昭和46年(1971)12月29日、師匠の八代目文楽の死からわずか17日後、後を追うように亡くなりました。享年63。

新聞記者 しんぶんきしゃ 演目

つらい夜討ち朝駆けスヴェンソンの増毛ネット

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新聞記者が珍しい職業だったころのくだらない話。今では時代遅れの職種ですね。

【あらすじ】

明治の中ごろ。

根岸お行の松の近くに「雷號堂」と表札を揚げた家があったが、主人はなにをやっているのか、正体不明。

朝は八時に起き、夕方まで部屋に閉じこもったきり。

それからどこかへ出かけて、夜中の二時三時、時には明け方まで帰らない。

女っ気は全くなく、ただ権助という用人を一人置いているだけ。

家に出入りする人種も、商人や官員、職人や芸人とさまざま。

この権助、大河内久左衛門というごりっぱな本名があるので、
「権助権助と呼ぶのはやめてくらっせえ」
と頼んでも、主人は
「なに、権助というのはあの白井権八の弟で、やっぱり女にもてた色男の名前だから、おまえにゃ、ふさわしい」
とはぐらかすうち、権助はふとだんなの正体が気にかかり、
「あんたの商売はいったいなんだ」
と尋ねると
「オレの商売は、実は商売往来にはない」

権助、これはひょっとしたらと思っているところへ、やってきたのが荒川という髭男。

鼻が高く、眼光鋭い。

荒川は
「この間の三千円の一件に早く片をつけたいから、ゆっくり内談をしたい」
と言うので、主人は権助に酒の用意をさせ、八畳の座敷でヒソヒソ話。

これはますます怪しいと、権助が立ち聞きしていると
「実は三千円持っているあの磯之丞の跡をつけ、仕込み杖で土手っ腹ァえぐって、金をいただいて長崎へ行き、あの久左衛門も生けておいては後日の祟りだから、寝ているところを、喉をダンビラで。死骸は橡の木の下に」
「なるほど、これは名案」
と、とんでもない会話が聞こえてきたので、権助、いきなり飛び出し
「どうか、お暇をくだせえ」
「どうしてだ」
「あんたの心に聞いたらわかるだんべえ」

わけを言わなければ暇はやらないと言われ
「今あんた方、おらを殺すと言いなさった」
と責めると、だんなは笑って
「そいつはおまえの勘違いだ。実は、荒川も私も新聞に出ている連載小説の筋立ての算段をしているだけだ」
と明かす。

「そんなことはどうでもええだ。こんな家にいると同類だと思われちゃなんねえ。お暇をおくんなせえ」
「われわれは記者だよ」
「えっ、あんな方、汽車で逃げる? そいじゃ、おらあ汽船で逃げよう」

はげた記者にはスヴェンソンの増毛ネット

【うんちく】

最初の新聞小説

明治8年(1875)、『東京平仮名絵入新聞』に三日間連載された「岩田八十八の話」(前田香雪)で、実際の殺人事件をスキャンダラスに小説化したものです。

以後、こうした通俗的新聞小説は、政治家のスキャンダル暴露記事とともに、小新聞の売り物となっていきました。

新聞ことはじめ

最初の日刊紙は、明治3年(1870)12月発刊の『横浜毎日新聞』といわれます。

以後、政治関係のニュースや論説中心の大新聞『東京日日』(明治5)や『郵便報知』(同)、通俗記事中心の小新聞『読売』(同7)や『大坂朝日』(同12)などに分かれていきます。

発想はダジャレから

明治32年(1899)9月、初代三遊亭円左が速記を雑誌『百花園』に掲載したものです。

内容としては、当時の新進メディアであった新聞、ハイカラな職業としての記者を登場させる新味をねらっただけの凡庸な作で、明治中期の風俗資料という以上の価値はないでしょう。

発想は、記者と汽車のダジャレからきたもので、そんなものからとにかく一席にしてしまう豪腕?には感じ入ります。

【語の読みと注】
小新聞 こしんぶん
大新聞 おおしんぶん

それでもモテたいならスヴェンソンの増毛ネット

神仏論 しんぶつろん 演目

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これは珍しい。日本にもあったらしい、宗教戦争のお話。

別題:神道の茶碗 新渡の茶碗

【あらすじ】

石町新道で、骨董屋を営む夫婦。

かみさんが一向宗、亭主が神道の熱心な信者。

朝起きると亭主が
「天照皇大神宮、春日大明神、住吉大明神」
と唱えれば、かみさんは
「南無阿弥陀仏、ナムアミダブツ」

そんなことだから、家の中はのべつ宗教戦争。

夏に亭主がノミを捕まえ、
「こいつは人の血を盗む憎い奴だから死罪に処するが、ひねりつぶしても生き返るし、火にくべれば神棚を穢すからハリツケにする」
と言うのを、女房がだまして逃がしてしまったから、また一騒動。

「生き物の命を取るのは、殺生戒を破るからいけない」
とかみさんはいう。

「盗みなら、あなたの方がよっぽど」
「オレがなにを盗んだ」
「あなた、二、三日前に女中のお初のところに夜這いに行ったじゃありませんか。ああいうのを豆泥棒といいます」

釈迦が自分の股の肉を削いで鷹に与え鳩を助けたという故事を長々と並べ立て
「このハゲ頭。ちっとはお慎みなさい」
と、やっつけるものだから、亭主は頭にきて、
「日本は神国、このありがたい国に生まれながら天竺の仏を祟めるのはけしからん」
と、反撃開始。

古事記の国生み神話の講釈を並べるうちに、だんだん脱線。

「八百屋お七を見ろ。宗旨が法華だから、七字の題目の頭を取って親がお七と名付けたが、あの通り火あぶりになった。法華の餓鬼は火あぶりになるんだ。梅川忠兵衛の浄瑠璃を聞いたか。忠兵衛は一向宗の門徒で、あの通り引回しの上、獄門だ」

しだいにエスカレートし、ついに亭主が女房の胸ぐらを取って、実力行使。

「アーレー、喉の仏さまが痛い」
「人の体に仏があってたまるか」

ポカポカと殴る。

あわてて女中が止めに入っていったんは収まったが、女房、お茶を一杯飲んで
「あつつつ、これお竹、熱いじゃないか。喉の仏様を火傷したよ」
と言うと、亭主、
「ざまあ見やがれ。喉仏を火傷するはずだ。茶碗が新渡(しんとう=神道)だもの」

底本:四代目春風亭柳枝

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【うんちく】

豆泥棒、梅川忠兵衛など

夫婦げんかの言い合いに登場する言葉のうち、昔はごく普通の日常語として使われていた言い回しや故事も、現在では外国語のスラング並みに、ほとんど注釈がいるハメになりました。

●「豆泥棒」は、間男または夜這いのこと。

●「釈迦が、自分の股の肉を削いで……」は、インドの釈迦転生説話「ジャータカ物語」が原典。

●「梅川忠兵衛」は、近松門左衛門作の「冥途の飛脚」、菅専助作「けいせい大和飛脚」の主人公。現在でもよく歌舞伎・文楽で上演される、悲劇のカップルです。

骨董屋と道具屋

ともに古物商ですが、一般に骨董屋は高級品で古美術品に近いものまで扱いました。

道具屋になると、「火焔太鼓」「道具屋」に登場するようにかなりインチキくさいものまで売っていて、「キリ」の方になると、店舗を持たない露天商も多かったわけです。

新渡

この噺の別題でもありますが、オチのダジャレのタネだけに、あらかじめ説明しておかないと、現在ではどうにもなりません。

新渡は古物商の用語で、外国(古くはおもに中国)から江戸時代以後に渡来した品物のこと。

ちなみに、室町時代以前の渡来物を「古渡(ことう、こわたり)」、その中間の室町、戦国、安土桃山時代のものを「中渡」と呼びました。

師弟の因縁

この四代目春風亭柳枝は、のち隠居名・華柳を名乗りましたが、昭和2年4月20日、NHKのラジオ出演中に脳溢血で倒れ、そのままなくなりました。享年58歳。

ところが、32年後の昭和34年9月23日、この人の弟子でだった八代目柳枝が、やはり同じようにラジオ放送中に、師匠とまったく同じ脳出血で人事不省に陥り、同年10月8日に死去。

オカルトめいたことを連想させる、因縁話です。

原話は不詳

原話はまったく不祥で、明治以後は口演記録もなく、まったくすたれた噺です。別題を「神道の茶碗」「新渡の茶碗」とも。

四代目春風亭柳枝が小柳枝時代の明治31年(1898)3月、雑誌『百花園』に載せた速記が、現存する唯一の記録です。柳枝は明治中期から昭和の初めにかけて、品格のある芸風で一家をなした人です。

演者がマクラで、「腹の中へ大事に仕舞って置きましたのを、お勧めに委(まか)して申し上げます」と断っているので、あるいはこの人の若いころの創作かもしれません。

明治の初めはいわゆる「廃仏毀釈」の嵐が吹きすさび、神道が「ハバをきかせていた」時代なので、それを揶揄するような噺も多く生まれたと思われ、この噺も、何らかの実話をもとにしているのかも知れませんが、推測の域を出ません。

古色蒼然とはしていますが、宗教上のいがみあいというのは現在でもいたるところにあり、アレンジ次第では復活してもおもしろそうです。

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心中の心中 しんじゅうのしんじゅう 演目

心中の前にスヴェンソンの増毛ネット

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悲劇の温床「心中」も落語の手にかかっては……。

別題:情死の情死 花見心中

【あらすじ】

明治元年、夏。

京から江戸に出て呉服の行商をしている善次郎。

土地慣れないから得意先もつかず、七月の暑い最中で、母親と二人暮らしだから、どうにも立ちいかない。

京へ帰ろうにも路銀もないありさまなので、恥を忍んで借金に行った先でも、すげなく断られたばかりか、
「生きていたって甲斐性がない奴は豆腐の角へ頭をぶつけて死んでしまった方がいい」
と、ののしられる。

とぼとぼと向島の土手に来かかり、いっそ首をくくろうと桜の枝に帯を結んで手を掛けると、枕橋の方からバタバタと足音。

見とがめられてはと、あわてて桜の木に登って隠れていると、若い男と女。

親の許さぬ仲とかで、しょせん生きてはいられないと話がまとまり、男の方が、死骸の始末金にと家から持ち出してきたという百両の金を桜の木下に置くと
「覚悟はよいか」
「南無阿弥陀仏」
と、刀をスパッと引き抜く。

上にいる善次郎、驚いた拍子に、二人の頭の上にドサッと落っこちた。

びっくりした二人は、金をそのまま置いて逃げてしまう。

しかたなくその金を持って、大家の所に相談に行ったが、頃はご維新のさ中。

奉行所も解体同然だから、
「どうでもしたらよかろう」
と取りあってくれない。

善次郎はためらいながらもその金で借金を返し、残りを元手に懸命に働いた甲斐あって、数年後には蔵付きの立派な呉服屋を開店することができた。

月日は流れて、明治7年。

善次郎が帳場に座っていると、年の頃、三十四、五、黒の山高帽子に南部の糸織のお召しという、りっぱななりの紳士が、似合いの奥方といっしょに店先で反物を見ている。

その顔を見て善次郎は、はっと驚く。

それもそのはず、その夫婦はあの時の心中者。

飛び出して行ってあの時の話をし
「そういうわけで、あんたはんらは私にとっては命の親。あのお金は利息を添えてお返しせななりまへん」
と言うと、だんなの方も、
「実はあの時、人が上から降ってきたのに仰天し、二人で枕崎まで逃げたが、親戚の者の取りなしで無事夫婦になり、今では子供もいる身」
と語る。

「それではあなたが、あの時の。よく落ちてくだすった。私たちの命の親」
「あほらしい。あんたの方が親や」
「いいや、おまえさん親」
「なに、あんた親」
とやっていると、奥から母親が
「してみると、あたしのためには継子かしらん」

底本:四代目橘家円喬

生きてるうちが花スヴェンソンの増毛ネット

【うんちく】

明治の名人が創作

別題「花見心中」。四代目橘家円喬がものした新作とみられます。明治29年(1996)2月の『百花園』に速記が掲載されましたが、原題表記は「情死の情死」となっています。

榎本滋民が指摘しているとおり、速記をよく読むと、細かい年代のミスが多いのですが、そこは落語で、言うだけヤボでしょう。

わかりにくいオチ

現在ではすたれ、高座にかかることはありません。明治維新前後の世相がよく描写されていて、今となっては貴重な資料です。

オチは、「命の恩人」という意味で「命の親」と言ったのを、ばあさんが取り違え、「客がせがれの親なら、あたしはママハハか」と頭をひねるマヌケオチ。

最後の「-のためには」は、「-にとっては」という意味の、古風な江戸ことばです。

奉行所も解体同然

二人が大家に相談に行き、世が世なら、さっそくお白洲で、名奉行のお裁きという場面ですが、あいにくもう幕府は崩壊。奉行所もあってなきがごとしという、情けない無政府状態です。

最後の江戸町奉行は、北が石川河内守、南が佐久間ばん(ばんは金偏に番)五郎。南北両奉行所を官軍に引き渡したのは、慶応4年(1868)5月22日で、明治改元はこの年の10月23日。折しも江戸は、彰義隊騒ぎで大混乱の最中。この一週間前、5月17日に上野の戦争が勃発し、5日前に片づいたばかり。

円喬は「明治元年夏」と説明していますが、実際はまだ慶応4年。町人みな小さくなって家に隠れ住み、多くの者が大八車に家財を積んで江戸を逃げ出そうとして時に、心中騒ぎを起こすとはのんきな野郎があったものです。

このころの奉行所与力や同心の乱れぶりは相当なもの。幕府も、万一、彰義隊に駆け込む者があっては大変と気を使ったものの、そんな心配は無用。『戊辰物語』(岩波文庫)によると、満足に馬に乗れる者などほとんどなく、十手を振って、房が顔の前で、いかにかっこよく開くかのコンクールをやっていたというテイタラク。こりゃあ、負けるわな。

南部の糸織

かつての心中者が、維新の騒ぎを切り抜け、7年後、さっそうと登場。南部の糸織は、南部紬のお召しで、『壬生義士伝』(浅田次郎)で主人公の故郷、旧南部藩領(岩手県)特産の、よった絹糸で作る織物です。「お召し」は、その中で練り糸で表面にしわを寄せた最高級品で、お召し縮緬とも呼びます。

枕橋

旧名は源森橋。墨田区吾妻橋1丁目から向島1丁目の墨田公園までを渡しています。源森川(のち北十軒堀)を寛文3年(1663)に掘削する際、関東奉行伊奈半十郎の監督で架けられました。

のちに、橋向こうに水戸藩下屋敷まで新橋が架かり、源森橋の名を譲って枕橋と改名。その「新・源森橋」の方は、その後、新小梅橋と改称されましたが、二つ合わせて枕橋と呼ぶ習慣もあったとか。なにやらややこしい話です。対岸の山の宿から、枕橋詰の桟橋まで、渡し舟が出ていました。

スヴェンソンの増毛ネット

城木屋 しろきや 演目

お豆料理は

【RIZAP COOK】

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

ここでいう「豆」は女性をさす隠語です。念のため。

別題:お駒丈八 白木屋 白子屋政談

【あらすじ】

日本橋新材木町の呉服屋、城木屋庄左衛門が死に、あとにお常と、十八になる一人娘のお駒が残された。

お駒は界隈で評判の器量良しだが、こともあろうにそのお駒に、醜男の番頭丈八が邪恋を抱いた。

丈八は四十四歳になるが、背はスラッと低く、色はまっ黒けで、顔の表と裏がわからない、という、大変な代物。

ところが当人は本気で、お駒の婿は自分と一人決めをし、恋文を送りつけたが、もちろん、お駒は梨のつぶて。

それが、母親のお常の手に渡ってしまったので、丈八はお常に手ひどくしかりつけられ、
「どうせクビになるならば破れかぶれ、いっそのこと」
と、店の金五十両を盗み出して、吉原で全部使い果たしてしまう。

この上は、お駒を殺して自分も死ねば、心中と言われて浮き名が立つと、夜中にこっそりお駒の部屋に忍び込んだ。

お駒の寝顔を見て急に惜しくなり、さらって逃げようとゆり起こす。

承知したらよし、嫌と言ったら殺っちまおうと、刀で頬っぺたをピタピタたたいたから、お駒が目を覚まして悲鳴を上げる。

かわいさ余って憎さが百倍、やっと突くと、狙いが外れて床板まで突き通してしまい、抜けなくなって、そのまま刀と煙草入れの遺留品を残して逃走。

これから足がついて、丈八はお召し捕り。

お白州に引き出され、南町奉行、大岡越前守のお裁きを待つ身となった。

奉行に
「不届き至極な奴。娘駒とその方のなれ初めを申せ」
と尋問され、ごまかそうと
「十返舎一九の『東海道中膝栗毛』の挿絵を見ておりますと、お駒さんが参りまして『これはなにか』と聞きますので『岡部の宿で夜這いに行くところです』『夜這いとは何じゃ』『いずれ今宵』と、それにかこつけて豆泥棒(夜這い)に参りまして」
「豆泥棒とはなんじゃ」
「へえ、お駒さんは素人娘で白豆、商売女は黒豆で、十二、三の小娘はおしゃらく豆、十五、六がはじけ豆、天人はソラ豆」

一喝されて
「娘御を駿河細工と思えども、籠の鳥にて手出しならねば」
という艶書の文句の意味を問われると
「もとの起こりが膝栗毛、もうとう海道から思い詰め、鼻の下も日本橋、かのお駒さんの色、品川に迷いまして、川さきざきの評判にも、あんないい女を神(かん)奈川に持ったなら、さぞほどもよし程ケ谷と」
と東海道尽くしでしゃれるので、奉行は
「その方、東海道を巨細(=詳しく)に存じおるが、生国はどこじゃ」
「へい、駿河のご城下で」
「うむ、ここな府中(不忠)者め」

まめは肝心

【RIZAP COOK】

【うんちく】

大岡政談の落語化

「今戸の狐」に登場した乾坤坊良斎が、大岡政談に白子屋事件をからめて創作した長編人情噺「白子屋政談」を落語化し、こっけい噺に仕立てたものです。

落語としての作者(改作者)は不祥ですが、「東海道五十三次」「名奉行」(または「評判娘」)「伊勢の壷屋の煙草入れ」という題での三題噺として作られたともいいます。

白子屋の悲劇

日本橋新材木町、稲荷新道の材木問屋、白子屋庄三郎の娘お熊は、母親お常の乱費のため傾いた店を立て直すため、持参金五百両を当てにした両親によって大伝馬町の大地主川喜田弥兵衛の番頭又四郎をむりやり婿に取らされます。又四郎は、身持ちが固いだけが取り得の、つまらない男。いやでたまらないところに、店の番頭で、渋い中年男の忠八にたらしこまれ、気がつけばお熊の腹はポコリン、ポコリン。これでは店の信用にかかわると、母親は、今度は又四郎を離縁して追い出そうとしますが、持参金がネックでそれもできません。そこで、女中二人に手伝わせ、ある夜、又四郎の寝首をかこうとして失敗。関係者はあえなく、全員逮捕されました。

名奉行大岡越前守さまのお裁きで、享保12年(1727)2月25日、「一審即決上告を許さず、弁護人これを付せず、審理は公開せず」の暗黒裁判で判決が下ります。母お常は殺人未遂の主犯で死罪。お熊と忠八は不義密通で死罪、磔。お女中二人は主殺し未遂で死罪、逆さ磔。父庄三郎は闕所。

23歳のお熊は絶世の美女で、引き回しで裸馬に乗せられ、千住小塚原の刑場に向かう途中、白無垢に黄八丈の小袖、首に水晶の念珠というなんとも色っぽい風情だったとか。

沿道を埋め尽くした野次馬連中。ああ、もったいねえと生唾ゴクン。これは、大岡越前が実際に裁いた数少ない事件で、その後、浄瑠璃「恋娘昔八丈」や、人情噺でのち黙阿弥の芝居にもなった「髪結新三」などに脚色され、今にその名を残しています。

志ん生から歌丸まで

明治期では、三代目春風亭柳枝(1851-1900)の、明治24年(1891)9月の速記が残ります。「白木屋」「お駒丈八」の別題があります。

東海道尽くしの言い立てが聴かせどころで、軽く、粋なパロディ噺なので、昭和に入っても名人連が好んで取り上げ、五代目古今亭志ん生、六代目三遊亭円生、三代目三遊亭金馬らがよく演じました。桂歌丸もレパートリーにしていました。

志ん生の豆尽くし

「東海道尽くし」と並んで、この噺は「豆尽くし」が眼目。豆はもちろん、女性自身の隠語で、五代目志ん生はこの部分だけを、艶笑小咄として、独立して演じていました。

これも志ん生が得意にした「駒長」で、「白子屋政談」の登場人物の名前が借用されています。

忘れがたい豆の味

【RIZAP COOK】

素人洋食 しろうとようしょく 演目

 落語演目の索引 落語あらすじ事典 web千字寄席

どこかで聴いたような、デキのよろしくない噺。「寝床」じみてます。

【あらすじ】

文明開化の東京。

「いまだ旧平」という名の地主。

大変な金満家で、土地や家作(貸家)はもちろん、桑畑も持っているいいご身分だが、開化が大嫌いで、いまだにチョンマゲを乗せ、人力車が通ると胸が悪くなるだの、馬車の音がすると頭痛がするなどと言うので、長屋の者に、「デボチン頭の旧平」と陰口をたたかれている。

当人もうすうすそれを知っているから、
「オレに金を借りている連中ばかりなのに生意気だ、今に見返してやる」
と一念発起、文明開化に百八十度転向して、なんとか流行の先端を行く洋食屋を開業することにした。

コックを雇うのはめんどうだから、だんなが自分で料理をすることに決めた。

勧工場(デパート)で一銭五厘の『西洋料理煮方法』なる怪しげな虎の巻を買ってきて、要は魚油でなんでもかんでも炒めて、パンを食わせておけばいいのだからと、さっそく大家以下長屋の連中を招集し、料理の実験台にすることに決めた。

勝手に決められた奴こそいい迷惑で、なんだかだと理由をこしらえて誰も来ない。

怒った旧平だんな、
「来ない奴は洋食ならぬ店立てをくわせた上、貸金を利息共全部取り立てる」
と脅すので、しかたなく、みんな集まる。

「あのだんなのことだから、陰口をきいたのを根に持って毒を入れるかもしれない」
と、毒消しを用意したり、六十三になる女性が
「老い先短い命だから」
と、せがれの身代わりに念仏を唱えて出てきたりと、命がけの大騒ぎ。

ところが、やたらパンばかり出てくるので、一同閉口。

台所からお経のようなうなり声が聞こえるから、
「どうしたか」
と聞くと、「魚油と水が火に入って燃え上がったが、たった一人の相談役の道具屋の吉兵衛がいなくなり、だんなが困ってうなっている」
という。

「スプンとかいうものがほしい」
と注文が出たが、だんなは知らないのでスッポンと聞き違え、さっそく取り寄せて、生きているままテーブルに出した。

みんな食いつかれて大騒ぎ、という一幕の後、ようやく吉兵衛が帰ってくる。

「みなさん、どうしました」
「やたらパンばかり出て困ります」
「パンの多いはず。長屋一同バタ(バター=ばか)にされた」

【うんちく】

洋食ことはじめ 

初めて日本人が洋食を口にしたのは、記録上は、嘉永7年(=安政元、1854)、幕府の代表団がペリーの「黒船」に招かれての歓迎晩餐会、ということにこれまではなっていましたが、最近は、そんな間抜けな説をとなえる人はあまりいません。

すでに長崎の阿蘭陀通詞(幕府の通訳、身分は幕臣)たちはふつうに洋食を食べていました。江戸中期には彼らの間では一般的な生活習慣となっていました。つまり、江戸時代にもすでに西洋文化をしっかり受容していた人たちが一定数いたのです。彼らの多くは、維新後、東京なので西洋文化の橋渡しをする人たちとなりました。

明治維新後、肉食が解禁され、まず牛鍋屋が東京の各所に出現しました。

それ以前、慶応3年(1867)、『西洋衣食住』(福沢諭吉)でマナー、ナイフやフォークなど食器の紹介がなされ、明治4年(1871)には、横浜駒形町に本格的西洋料理店「開陽亭」がオープンしました。横浜居留地の西洋人相手の店でしたが。

明治5年(1872)、最初の本格的西洋料理レシピが掲載された『西洋料理通』(仮名垣魯文)が刊行されました。

これに触発されたか、東京にも翌年、京橋区采女町(今の銀座六丁目あたり)に北村重威が「精養軒」を開店したのを手始めに、神田橋の三河屋、築地日新亭、茅場町海陽亭などが開店しました。

明治10年(1878)前後には数も増え、十軒ほどの洋食屋が記録されています。この時期はまだ、日本人でこれらの店を利用するのは、役人、政治家、銀行家など、新興上層階級がほとんどでした。

初代三遊亭円遊の速記掲載の4年前、明治19年(1886)には、築地精養軒でテーブルマナーの講習会が開かれます。このあたりから、従前の「西洋料理」が「洋食」と言い慣わされるなど、ようやく一般にも普及し始めました。

明治30年代に入ると、洋食はますます定着し、39年(1906)9月発行の『東京案内』(東京市役所編)には、神田、日本橋、京橋を中心にした、比較的大規模な西洋料理店42軒が掲載されています。

この噺で、長屋のお歴々の悪夢のタネとなるパンは、かなり早く、寛政7(1795)年刊の『長崎見聞録』にすでに紹介されています。この本は通詞とは関係なく刊行されていますから、西洋人の珍妙ぶりばかりが強調された手あかのついた風俗本でした。

やがて、相つぐ外国船の登場から武士を中心とした連中の国防意識が高まると、いざというときの兵糧用として乾パンが注目を集めました。ペリー来航の2年後、安政2年(1855)には、水戸藩が長崎へ製法習得のため、家臣を派遣した記録があります。通詞のせいかつに比べるとかなり遅れています。

このパンなるものは、固いビスケットに近いものだったようです。その後も戊辰戦争を経て、乾パンは日本陸軍の軍隊食として定着します。

本格的なパン販売の広告は、慶応3年(1867)、横浜で発行の「万国新聞」に早くも見えますが、明治5年刊の『西洋料理指南』に「焙麦餅はわが飯と一般のものにして、方今横浜又は築地において製して売るなり」とあるように、普及は洋食そのものよりずっと早かったようです。

明治6年(1873)から7年(1874)になると、東京市内に雨後のタケノコのごとくパン店が増殖しました。『明治事物起原』(石井研堂)によると、このころ「ばかの番付」で「米穀を食せずしてパンを好む日本の人」が大関に張り出されたとか。

バターとなると、前述の慶応3年の新聞広告に「ボットル」として販売広告があります。おそらく輸入品で、ごく例外的なものでしょう。

国産は明治7年に試作されたものの、日本人の口に合わなかったか、なかなか普及しませんでした。

白牛酪

明治13年(1880)の広告に「牛乳、粉ミルク、バター、クリーム、白牛酪」を製造販売する旨が見えます。「白牛酪」はチーズのことです。

庶民がおずおず口に入れ始めたのは、明治20年代に入ってからでした。日本人の舌にもっとも抵抗が強かったのは乳製品です。昭和30年代になっても、バターやチーズを受け付けない人が都市部にもけっこういました。

円遊の開化カリカチュア

このサイトでもたびたびご紹介した、明治の爆笑王・初代(「鼻の」)三遊亭円遊が、古典落語の「素人鰻」をよりモダンに改作したもので、明治24年1月に「百花園」に掲載されているので、創作は前年でしょう。

「寝床」のだんなの義太夫を、洋食に置き換えた趣もあります。

主人公のような、断髪令が出ようがどうしようが、ガンとしてマゲを切らない士族や江戸町人は、明治末年に至るまで少なくなかったようです。

そんな旧弊の権化が百八十度転向して、洋食に凝りだすというおかしみは、今も昔も変らぬ日本人の「変わり身の早さ」をおもしろがって、当てこすっているようです。

キワモノなので、もちろん円遊以後、後継者はありません。円遊の速記は、今となっては落語というより、当時の貴重な学術的文献といったところでしょう。

パンばかりやたらに食わせるシーンは、「素人鰻」の六代目円生の演出で、蒲焼ができず、コウコと酒ばかり出すくだりを髣髴とさせます。

素人相撲 しろうとずもう 演目

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 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

勧工場というのは、今のデパートのことですね。

別題:大丸相撲(上方)

【あらすじ】

明治の初め、東京でも素人相撲がはやったことがある。

その頃の話。

ある男が相撲に出てみないかと勧められて、オレは大関だと豪語している。

こういうのに強い奴はいたためしがなく、この間、若い衆とけんかをしてぶん投げたと言うから
「病人じゃなかったのか」
「ばかにするねえ」
「血気の若えもんだ」
「いくつくらいの?」
「七つが頭ぐれえで」

こういう手合いばかりだから、いざ本番で少しでも大きくて強そうな奴が相手だと、尻込みして逃げてしまう。

「向こうはばかに大きいからイヤだ」
「本場所は小さい者が大きい者と取るじゃねえか」
「おやじの遺言で、けがするのは親不孝だから、大きい奴と取ったら草葉の陰から勘当だと言われてる」
「てめえのおやじはあそこで見てるじゃねえか」
「なに、ゆくゆくは死ぬからそのつもりだ」

与太郎も土俵に上がれとけしかけられるが、
「おばさんから、相撲を取ってけがしたら小遣いをあげないと言われてるんで、いいか悪いか横浜まで電報を打って」
とひどいもの。

そこに、やけに小さいのが来て、
「私が取る」
と言うので
「おい、子供はだめだ」
「あたしは二十三です」

どうしても、と言うから、しかたなくマワシを付けさせて土俵に上げると、その男、大男の前袋にぶら下がったりしてチョロチョロ動いて翻弄し、引き落としで転がしてしまう。

「それ見ろ。小さいのが勝った。煙草入れをやれ、紙入れも投げろ。羽織も放っちまえ」
「おい、人のを放っちゃいけねえ。てめえのをやれ」
「しみったれめ」
「おまえがしみったれだ、しかし強いねえ。あれは誰が知っているかい?」
「あれは勧工場の商人だ」
「道理で負けないわけだ」

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【うんちく】

お江戸の素人相撲 

辻相撲、草相撲とも呼ばれる素人相撲。地方では、草相撲の盛んな地域はよくありますが、江戸では、相撲は見るもので、本来はするものではありませんでした。

それでも、祭りの奉納相撲としては、地域によって行われたらしく、『江戸年中行事』(三田村鳶魚編)に、「貞享度(1684-88)において、七月十五日の浅草蔵祭、同十六日の雑司ヶ谷の法明寺、享保度(1716-36)には五月五日の大鳥大明神祭」など、主に郊外を中心に行われたとあります。

ただし、「これらが草相撲なのか否かはにわかに断ぜられない」とのこと。

円喬は速記のマクラで、素人相撲を次のように、流行の一つとして説明しています。

「……よくこの、はやりすたりと申します。しかし此のはやりものも、あんまりパッとはやりますものは、すたるところへ行くとたいそう早いもので」

それに続き、茶番狂言、女義太夫、寄席くじなど、一時的に流行してすたれた物を列挙しているので、いずれ素人相撲も、明治30年代かぎりで、あまり長続きしなかったと見えます。

『武江年表』に、幕末の文久3年(1863)、下谷常在寺や本郷真光寺その他の境内で、子供相撲が盛んに催されたという記事があります。この連中が壮年になるのが、明治20-30年代。昔取った杵柄か、と思えないでもありません。

類話「大安売り」

よく似た噺に「大安売り」があります。こちらは反対に、コロコロよく負ける力士が出て、それが安売り店の主人。「なるほど、道理でよくまける」と、オチが反対になります。

東京では、相撲取り出身という異色の経歴と巨体が売り物の、三遊亭歌武蔵の持ちネタとして知られます。大阪では、先代桂文枝が高座にかけていました。「素人相撲」(大丸相撲)の方は、今はあまり演じ手がないようです。

原話について

原話は二種類あり、古い方が、正徳6年(=享保元、1716)に京都で刊行の『軽口福蔵主』巻一中の「現金掛値なし」、次に、安永年(1778)江戸板の『落話花之家抄』中の「角力」です。後者はオチもそっくりで、完全な原型とみられます。

志ん生も演じた噺

戦後では、終生、四代目橘家円喬に私淑していた五代目古今亭志ん生が、独自のオチを工夫して、たまに演じていました。

志ん生のは、「よく押しがきくねえ」「きくわけだ。漬け物屋のセガレだから」というものでした。

オリジナルは上方落語

明治30年代に、四代目橘家円喬が上方落語「大丸相撲」を東京に移したらしく、明治34年(1901)7月の『文藝倶楽部』に、同人の速記が載っています。

上方の方は、背景が村相撲で、商人風の男が飛び入りしてどんどん勝ち抜いていくので、「強いやっちゃなあ。どこの誰や?」「大丸呉服店の手代や}「道理でまけん」というオチです。

大阪では、大丸は掛け値しないことで有名だったので、こういうオチになったのを、円喬はそれを、明治の東京新風俗の「勧工場」に模したわけです。

勧工場の没落

その後、商品の質が落ちたことで評判も落ち、明治40年代になると、新興の三越、高島屋、白木屋ほかの百貨店に客を奪われて衰退。大正に入ると、ほとんどが姿を消しました。

勧工場の特徴は掛け値せず定価で売ったことで、これは当時としては新鮮でした。この噺のオチ「まけない」は、そこから来ています。

現在、新橋橋詰にある「博品館」の前身は勧工場で、場所もこの位置です。

勧工場

家庭用品、文房具、衣類などをそろえた、今でいうデパートやスーパーのはしりです。

明治10年(1877)に開かれた、第一回内国勧業博覧会の残品を売りさばくために設けられたものです。大阪では、「勧商場」と呼びました。

明治11年(1878)1月創設の、東京府立第一勧工場を皮切りに、明治25年ごろまでに、京橋、銀座、神田神保町、日本橋、上野広小路など、東京中の盛り場に雨後の筍のように建てられました。

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あいくち【匕首】ことば

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つばのない短刀。ひしゅ、くすんごぶ(九寸五分)とも。短刀。よろいどおし(鎧通し)。切腹に使います。

九寸五分は、長さからの名称。25cmほど。

この刀を使う時、おもしろいことに、歌舞伎でも文楽でも富本節でも「キリキリ」という擬音が必ずついてまわります。キリ=斬り、とでも言いたいのでしょうか。

ひしゅとは匕首の読みです。

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素人が演じる芝居を茶番といいます。芝居=歌舞伎だった頃の噺。

別題:五段目 吐血

【あらすじ】

町内の素人芝居で、「仮名手本忠臣蔵」五段目、山崎街道の場を出すことになった。

例によって、オレも勘平、オイラも勘平、あたしも勘平と、主役ばかりやりたがり、さんざん役もめをした挙げ句、しかたがないのでくじ引きで配役を決め、伊勢屋の若だんなが幸運にも勘平に「当選」した。

鉄砲渡しで千崎弥五郎が花道から客席に落っこちたり、猪役に当たった建具屋の源さんが、おもしろくないから、いやがらせに舞台でチンチンやお預けをしたりといろいろあって、やっと勘平の出になる。

舞台で斧定九郎が与市兵衛を殺して五十両を奪い、金を数えて終わってほくそ笑んだところで、揚げ幕から勘平が猪を狙ってドンと鉄砲を撃つと、弾が定九郎に命中。

定九郎の役者が、あらかじめ口に含んでいた玉子紅を噛み、胸に仕込んでおいた糊紅をなでると、口から血がダラダラ、胸から腹にかけて血だらけになってウーンと倒れたところへバタバタになって、さっそうと勘平が花道へ登場。

という、おなじみのいい場面になるはずだったが、ならない。

小道具が口火をなくしてしまったので、いつまで待っても鉄砲の音がしないから、定九郎がじれて、舞台をグルグル三べんもまわった挙げ句、かんしゃくを起こして
「テッポ、テッポ」
と怒鳴ったからたまらない。

たちまち口の中の玉子紅が破れて、弾にも当たらず血がダラダラ。

見物が仰天して
「おい、鉄砲は抜きか」
「いや、今日は吐血で死ぬんだ」

底本:、四代目橘家円喬

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【うんちく】

オムニバスの一部

「仮名手本忠臣蔵」を題材としたオムニバスの一部分で、このあらすじの部分のみを演じる場合は、普通「吐血」「五段目」と称します。

「素人芝居」の演題は、四代目橘家円喬が明治29年(1896)6月、雑誌『百花園』に速記を載せた際のものです。円喬はこの後「蛙茶番」につなげています。

「田舎芝居」と題して芝居噺の趣向を取り入れた同時代の六代目桂文治は、この忠臣蔵五段目の失敗話を「大序」「四段目」に続いて最終話とするなど、昔から、部分部分の組み合わせや構成は演者によって異なります。詳しくは、「田舎芝居」の項をご参照ください。「五段目」のこの部分だけの原話は不詳です。

「忠臣蔵」各段ごとに小咄

歌舞伎や文楽の「仮名手本忠臣蔵」は、人口に膾炙しているだけに、その各段にちなんだ落語や小咄が、かつては作られていました。

「大序」「二段目」「五段目」「七段目」「九段目」がそれですが、このうち独立した一席噺として扱われたのは「七段目」くらいでしょう。

本ブログでは、本編の「五段目」、「七段目」に加え、「田舎芝居」の項で、「大序」「四段目」の梗概を紹介しています。「九段目」は独立項目を設けていませんので、以下に明治25年(1892)の二代目(禽語楼)小さんの速記をもとに、簡単にあらすじを記しておきます。

「九段目」あらすじ

近江屋という呉服屋の隠居の賀の祝いに 素人芝居で忠臣蔵九段目「山科閑居」を 出すことになったが、主役の加古川本蔵を演じる者が風邪でダウンし、代役に、夜は医者、昼はタバコ屋という小泉熊山(ゆうざん)を立てた。ところが、大星力弥 に槍で突かれて手負いになる場面で、 血止めに自家製の刻みたばこを使ったので、客が「よう本蔵、血止めたばことは芸が細かい」とほめると「なあに、手前切り(自分で粗く刻んだたばこ)です」とオチになる。

オチが今ではわかりづらく、今ではほとんど口演されません。これも別題を「素人芝居」といい、ややこしいかぎりです。 

落語を地でいったヘボ芝居

十七代目中村勘三郎(1909-88)は、『中村勘三郎楽屋ばなし』(関容子)の中で、岳父六代目尾上菊五郎(1885-1949)に聞いた昔の役者の失敗談として、「五段目」のオチのまま(大道具の鉄砲が鳴らずに、定九郎が仕方なく舌をかんで「自殺」)の話を語っています。

これが実話だったのかどうかは、定かではありません。昔のヘボ役者のしくじり話は、梨園にはいくらでも伝わっているようです。

同じ菊五郎の座談として伝わっている話に、「忠臣蔵」三段目の喧嘩場、高師直(こうのもろのお)と塩冶判官(えんやはんがん)のやりとりで、 判「気が違うたか、ムサシノカミ」、師「だまれ、ハンガン」と言うべきところを、判官が間違えて、判「気が違うたか、たくみのかみィ」とやってしまい、これにあせった師直が、師「だまれ、モロノオ」。

これで芝居はメチャクチャ、という一席がありました。

オレも勘平

現在でも芝居噺のマクラによく使われる「勘平がずらりと花道に並んで、これで「カンペイ式(=観兵式)もめでたく済んだ」というくすぐりを四代目円蔵も用いていますが、「観兵式」がどんなものかわからなくなっている現在、くすぐりとして通じなくなっています。

二代目小さんは、四代目円蔵よりさらに一時代前の人ですが、前述「九段目」のマクラで、並んだのは「勘平の子でございましょう」とやっています。どのみちおもしろくもなんともありませんが、こちらのほうがまだわかりやすいでしょう。

この噺、戦後は円蔵の弟子だった六代目三遊亭円生が、師匠の演出を継承して「五段目」として高座に掛け、音源も残されています。

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【志ん生のひとこと】002 古木優

二十四、五から三十くらいまででしたね。その頃は、どうしてもわたしといっしょになるてえ女が来て、しょうがなかった。

『サンケイ読物』1956年1月8日号「かたい話やわらかい話」から。


■福田蘭堂との対談で、福田が「師匠がいちばん女のほうではなやかなりし頃はいくつです?」の問いにこたえてのひとこと。志ん生は上のひとことのあとに「わたしの仲人がね、おまえさん、もう女房もらったらいいでしょうって言ってきた。いいかげんな返事をしているうちに半月ほどして、ほかの女をズルズルベッタリに引っ張り込んでいっしょにいたんです。そこへね、とつぜん、前の話の女を引っ張ってこられたんです、仲人に。しかたがないから、いっしょにいた女を戸棚ン中にしまいこんじゃって……。実はそのとき、仲人に連れてこられたのが今のかかあなんです」と告白しています。戸棚の中に女を隠す、とは。これって、「今戸の狐」をなんとなく彷彿とさせるじゃありませんか。志ん生の噺っていうのは、ディテールが実体験からの連想なのですね。

福田蘭堂は青木繁の息子で、石橋エータローの実父にあたる人。青木繁は洋画家、石橋エータローはクレージーキャッツのメンバーで料理家です。

2020年2月2日 古木優

素人占い しろうとうらない 演目

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 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

勘当された若だんな。「お天道さまと米の飯は」とまぬけでのんき。

【あらすじ】

紀伊国屋という綿屋の若だんな。

略して紀綿さんと呼ばれているが、大変な道楽者で、吉原の花魁に入れ揚げてとどのつまりは、勘当。

「お天道さまと米の飯はどこでも付いて回る」
と「唐茄子屋政談」の若だんなとちょうど同じことを言って、家を飛び出し、花魁の所へ転がり込むが、金の切れ目が縁の切れ目、ていよく追い出され、結局、見世に出入りの印判屋の喜兵衛の家で居候を決め込む身とはなった。

若だんながあんまりにも怠け者でずうずうしいから、案の定、かみさんが怒り出す。

喜兵衛は板挟みで、若だんなに
「なにか商売を」
と勧めると、今度の若だんなは
「易者になりたい」
と言い出す。

みかん箱を一つ借り、白布を掛けて見台、魚串が筮竹。

家の半分を借りて「人相手相墨色判断」と看板を書いてもらい、名も平安時代の陰陽師安倍晴明をもじって「今晴明」というごたいそうなのを付けた。

最初に来たのは女で、三味線のお師匠さん。

母親に琴も教えたらどうかと言われ、やった方がいいか見てもらいたいと言うので、無理はコトだからおやめなさいとくだらない駄じゃれでごまかし、三味線だけに心を太棹に持って辛抱が肝心と、落語家のようなことを言って帰す始末。

次は鳶頭の娘。縁談があるが、うまくいくか見てほしいと頼む。

娘が違うと言うのに、強引に娘は火性、先方の男は水性ということにしてしまって、
「だんなは水性だから、鰻と同じ穴っぱいり(浮気)の好きな質、おまえさんは火だから、カッカと焼くので、釣り合わないからおやめなさい。それよりいっそ、芸者にでも出て」
と、めちゃくちゃを言うので、娘は怒って帰ってしまう。

あとから若い者が押しかけ
「この野郎、てめえが易者か。家の姉御をおつゥまぜっ返しゃあがったな」

ポカポカポカと殴られ、コブだらけにされた若だんな。

自業自得とはいえ、すっかり易者に懲り、今度は医者をやると言い出す。

また看板を書き換え、今度は
「施しに五銭で診察する」
と宣伝したので、さっそく客が来る。

女が腰がつると言うと、にわか医者
「それは疝気」
「疝気は男の」
「女だって疝気だ。橙の粉にマタタビをなめなさい」

喜兵衛に女は寸白と教えられ
「おまえさんは医者をやったことがあるね」
「やらなくたってわかります」

そこへ蔵前の万屋という茶問屋から、
「奥方が風邪をこじらせたのでみてくれ」
と言ってくる。

金になりそうだからさっそく出かけて、かっこうをつけるため、お茶を所望。

「これはけっこうで。ご主人はどういうご流儀で?」
「千家でございます」
「それでわかった。奥さまは寸白でしょう」

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【うんちく】

後継者のいない噺

大正4年(1915)9月刊『三遊連柳連名人落語十八番』に、六代目金原亭馬生の速記が掲載されています。

この馬生は、後年、四代目古今亭志ん生を襲名。五代目志ん生の二人目の師匠です。

歯切れのいい江戸前の芸風で人気がありましたが、襲名後わずか一年あまりの大正15年(1926)1月、48歳の若さで亡くなりました。

戦後では、初代林家三平や八代目橘家円蔵の師匠で、七代目橘家円蔵(あのねの円蔵)がたまに演じましたが、彼の没後、東京ではほとんどやり手はいません。

ならぬ勘当するが勘当

とうの昔に死語と化しましたが、勘当には二通りありました。

ほとんどの場合、こらしめのため、家に出入りを禁ずるという形をとり、落語の居候の若だんなはみなこれです。

ただ、どうにも手がつけられず、犯罪などで親族に累を及ぼす場合は、親類同意の上で除籍します。

これで、勘当された者は無籍、つまり無宿人となります。その名を記載したのが久離勘当帳、または言上帳ともいいました。「久離を切って勘当する」というのは、親父の脅しの常套文句でした。

これは町名主が管理し、復籍する際はそこから名前を消します。ついでに、これが「帳消し」の語の起こりです。

懲りない若だんな

毎度おなじみ、懲りない若だんな。

今回は易者志望で、また一騒動。原話は不詳ですが、民話がルーツともいわれます。前半は「湯屋番」「素人車」などと同じく、勘当→居候という一連のパターンなので、誰かがバリエーションを変えて改作したのかもしれません。

「きめんさん」で演じることがあるのは、主人公が紀伊国屋という綿屋の息子だからで、上方ではこの題で演じられます。医者の息子という設定もあります。

【語の読みと注】
花魁 おいらん
居候 いそうろう
筮竹 ぜいちく
太棹 ふとざお
鳶頭 とびのかしら
姉御 あねご
疝気 せんき
寸白 すばこ:女の生理病
久離 きゅうり

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樟脳玉 しょうのうだま 演目

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 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

これはもう、お笑い版の降霊術ですね。

【あらすじ】

古紙回収をなりわいとする捻兵衛は、正直者で気が弱く愛妻家。

その女房おきんがぽっくりあの世へ。

捻兵衛はショックのあまり、それ以来商売にも出ず、メソメソと泣きながら念仏三昧。

ここに、人の不孝に便乗して、小金の一つも稼ごうという料簡の二人組。

おきんは元武家屋敷に奉公していた関係で、所帯を持った時持参した着物類がどっさりある上、捻兵衛自身も金を相当貯め込んでいるという噂。

二人組の計画はおきんの幽霊をでっち上げた上、動揺した捻兵衛に
「おかみさんが出るのは着物と金に気が残っているせいだから、わっちらが寺へ納めてあげましょう」
とうまく言いくるめて、全部いただいてしまおうというもの。

まず、長太郎玉を用意し、夜そいつに火を着けて青白い火の玉をこしらえ、捻兵衛宅の天井の引き窓から糸を付けて垂らし、仏壇に手を合わせている鼻っ先にユーラユーラと振ってみせる。

案の定、捻兵衛肝をつぶして
「南無阿弥陀仏、ナムアミダブ、あたしも後からすぐ行くから、どうぞ浮かんどくれ」

まずは、序幕成功とほくそえんだ二人、翌朝、弟分の熊が何食わぬ顔で捻兵衛に会い、
「あんなりっぱな葬式をしたから仏さんもきっと成仏したでしょう」
と、水を向けると、「浮かんでいない」と言う。

ここぞと、
「それはおかみさんが着物に気が残っているからですぜ」
と計画通り持ちかけ、まんまとだまして高価な形見の着物を一枚残らずかすめ取ってしまった。

ところが肝心の金は
「あっ、忘れちまったッ」

しかたがないのでもう一幕やることにし、今度はもっと大きいのを用意して、ユーラリ、ユラリ。

見当があやまって、火の玉が捻兵衛の頭に。

「ナムアミダブツ、アチチチチチ」

また翌朝、熊がようすを探りに行く。

「へい、まだウチの奴は浮かんでません。もっと大きな火の玉が出て、あたしは火傷をこさえました」
「そいつはすみません、もとい、そりゃあ、まだお金に気が残っているんでしょう」
「いえ、葬式で使って、もう一文もありません」

熊は未練たらしく、
「でも、なにかあるでしょう」
と押すと、捻兵衛、押入れからお雛さまを出して、しばらく考え込み、
「熊さん、わかりました。女房はこれに気を残しています」
「へーえ、なぜ」
「昨夜の魂の匂いがします」

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【うんちく】

長太郎玉

衣服保存に使う樟脳粉を丸めたもの。

縁日で、子供用のおもちゃとして売っていた、樟脳粉の丸めたものです。掌に乗せても熱くなく、芝居では焼酎火とともに人魂に使われていました。

蛇足ですが、「樟脳玉」の方は、大阪では、主人公の名が源兵衛となっているので、演題も「源兵衛玉」「源兵衛人玉」として演じられます。ストーリーはまったく同じです。

いずれにしても、落語には珍しい愛妻家が登場することから、この噺は民話がルーツだとする説もあります。東京の円遊が強引に結びつけただけで、「源兵衛玉」と「夢八」はもともと別話でしょう。「源兵衛玉」が江戸から大坂に移植されたものなのか、それとも、逆にオリジナルは上方の方なのかは、はっきりしません。

捻兵衛

後日談として、初代三遊亭円遊が創作した「捻兵衛」があります。初代円遊は明治の爆笑王として知られます。上方落語の「夢八」に酷似していて、円遊が「夢八」のストーリーを取って「樟脳玉」の続編としたのではないかといわれます。

あらすじは、以下の通り。

捻兵衛がここ二、三日姿を見せないので、大家に頼まれて八五郎が様子を見に行くと、なんとブランコ往生を遂げている。ところが、魔がさしたのか、死骸がブキミな声でしゃべりだし、八公に、ヨイトコセーを踊れ、さもないと喉笛を食い破ると脅すので、ガタガタ震えながら鉦をたたいて踊ると、振動で帯が切れ、ホトケが八公の上に落下。八五郎、死骸と堅く抱き合ったまま、あえなく気絶。長屋の連中が来て、やっと蘇生させると「おや、いつの間にか首くくりが増えた」

こちらは、東京では現在はやり手がありませんが、大阪の「夢八」の方はまだ演じられていて、二代目桂小南や、露の五郎兵衛のが手掛けていました。

かつては円生だけ

原話は不詳ですが、文化年間(1804-18)から口演されてきた古い江戸落語です。明治末から大正にかけて、二代目古今亭今輔(1859-98)などがよく演じていましたが、その後すたれていたのを戦後六代目三遊亭円生が復活させ、同人以外演じ手のないほど、十八番としていました。

音源も、円生のみで昭和36年(1961)の初録音を手始めに5種類もあります。その没後、しばらくまた後継者がいなかったのを桂歌丸が復活して手掛け、今では、ぼつぼつ中堅も若手も高座に掛けるようになりました。

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【志ん生のひとこと】001 古木優

ほんとの落語は四千ぐらいあるね。わたしなんぞは一年毎日別なやつをやれるね。

『娯楽よみうり』1957年2月1日号「おしゃべり道中」から。

■対談で大宅壮一から「大体、しゃべるネタというのは、幾つぐらい持てばいいんですか」と聴かれてのひとこと。 四千もあるとは知りませんでしたが。 志ん生の持ちネタは普通の落語家よりも多かったと言われています。「やれる」噺と「持ちネタ」とは別の問題なのでしょう。音源に残らず、志ん生の口の端にこぼれたままになった噺。ほごでもしくじりでもいいから聴いてみたかったなあとつくづく思います。「おしゃべり道中」は大宅壮一がホストの対談連載、志ん生は第64回を飾るゲストでした。お互いに気合入っています。志ん生が「お直し」で文部大臣賞をもらったことが当時の話題だったため、白羽の矢が立ったようです。「一億総白痴化」「口コミ」「駅弁大学」「恐妻」など新語の発明家にして時代の狙撃手、大宅壮一は当時最強最良のジャーナリストでした。1957年。「戦後」が終わって高度経済成長のレールを走り出すあわい。周りはけたたましいばかりの活気。志ん生も大宅もとっても活きのよかった頃だったのでしょう。二人のおしゃべりも躍っています。大宅壮一が亡くなったのは1970年11月22日。三島事件の三日前でした。本年2020年は没後50年となります。憂国忌も。「娯楽よみうり」という雑誌は「週刊読売」とは別に刊行されていました。しょっぱい読売が大盤振る舞いのなりふり。時代を感じさせます。当時の活字文化も、志ん生や大宅同様、躍っていたんですね。

2020年1月2日 古木優

正直清兵衛 しょうじきせいべえ 演目

生まれたてにはむりかなスヴェンソンの増毛ネット

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

もう半分」とつながりのありそうな噺。こっちはむごたらしいのです。

【あらすじ】

本所林町三丁目で八百屋を営む、清兵衛。

今年十七になる、おしげという娘と二人暮らしだが、大変に正直者なので、「正直清兵衛」とあだ名にまで呼ばれている。

酒好きなので、今日も杉酒屋の忠右衛門という居酒屋で、つつましくチビリチビリとやっている。

雪が降ってきたので
「早めに帰る」
と言って清兵衛が店を出た。

そのあと、今日は早じまいをしようと、かみさんが後片付けをしていると、戸口になにか落ちている。

よく見ると、中に十五両もの金が入った汚い財布。

清兵衛が落としていったに違いない。

だが、これは天からの授かりものと夫婦でほくそ笑み、さっそくネコババすることに決めて、たんすの後ろに隠した。

そこへ案の定。

清兵衛が息せき切って駆け込んでくる。

「確かにここに十五両の金を忘れたに違いないから、返してくれ」
と頼むのを忠右衛門、
「そんなものは知らない」
と突っぱねるばかりか、
「おまえのようなじいさんが十五両もの大金を持っているわけがねえ、お上でも怪しいと思うだろうから、そっちにも嫌疑がかかる、訴え出るなら勝手にしねえ」
と、逆ねじをくわせた。

涙ながらに清兵衛、
「あの金は去年の秋、自分が大病した時に、薬代で全財産使ってしまって途方に暮れていると、孝心あつい娘のおしげが、吉原京町二丁目の朝日丸屋に身を売って、おとっつぁんの商売の元手にとこしらえてくれた金だ」
と、話す。

しかし、なおも忠右衛門が「知らない」と言い通すので、清兵衛はあきらめ、とぼとぼ雪の中を引き返して行った。

金のいきさつを聞いて、心穏やかでなくなった忠右衛門。

あのじじいは正直者と評判だから、いつ「お恐れながら」とお上に訴え出ないとも限らないし、こっちもすねに傷を持つ身。というのは、桶川の問屋場で帳付けをしていた頃、遠州浜松在の一の宮から来た六蔵という男から預かった十両の金を横領し、そのため六蔵が井戸へ身を投げたので、悪評判が立って、在所にいられなくなり、江戸へ流れてきた、といういきさつがあったから。

この上、余罪が露顕すれば首が胴についていないので、用心にしくはないと清兵衛の後を追いかけ、金が見つかったと渡すふりをして、あいくちでズブリ。

しかし、たたりはあるもので、その月、女房のお里が懐妊した。

十月十日たって生まれたのが、玉のような男の子、ではなかったから、産婆が腰を抜かした。

顔にしわが寄って、頭は白髪。

これがお里を見て、ニヤリとすごい顔で笑う。

さては清兵衛の生まれ変わりかと、夫婦は青くなったが、いくら悪党でも親子の情。

殺しきれずに育てたが、やがてこの子が成人の後忠右衛門夫婦を殺すという、因果は巡る糸車。

スヴェンソンの増毛ネット

【うんちく】

問屋場

といやば。宿場はずれで、宿泊の斡旋、伝馬、荷馬、駕籠などを調達し、旅行者や荷物の運送を取り扱う、公設の会所です。

大名行列の宿割りや、下座触れといって、大名行列が通るときに、沿道の旅人や土地の者に、土下座をしておくように触れ回る役目もありました。

問屋場の責任者を長、下役を手代と呼びました。噺の中で忠右衛門がしていた帳付けは、出納帳に出入りの金を書き付ける仕事です。

「問屋駕籠」は、宿駅の問屋場に常備している粗末な駕籠で、これは、非常の、急な必要に備えるためでした。

「もう半分」の姉妹編

天保年間(1830-44)につくられた長編怪談噺「正直清兵衛雪埋木」の抜き読みですが、全編は現在伝わっていません。

興津要は、井原西鶴の『本朝二十不孝』巻三(貞享3=1686年刊)中の「当社の案内申す程をかし」を原話としていました。

これは、油売りを殺して金を奪い、その娘といっしょになって子ができたが、その子が油を飲み、殺人のいきさつを物語るという因果話です。

もう半分」はあらすじが似ているので、原話は同じで、「正直清兵衛」の一部が分かれて改作されたのではないかと思われます。

この噺は大詰めの敵討ちの場面を中心に二世河竹新七(黙阿弥)の手で歌舞伎に脚色され、安政4年(1857)5月、「敵討噂古市」の外題で、市村座で初演されています。

怪老人「百歳正蔵」

明治40年(1907)7月、『文藝倶楽部』に載った五代目林家正蔵の速記が、現存する唯一のものです。

この正蔵、異名の「百歳正蔵」が示す通り、芸よりなにより、今なお破られていない落語家の最長寿レコード保持者として語り伝えられています。

当人は速記の冒頭で「私は当年八十四歳の老人でございますが」と語っています。文政7年(1824)11月11日生まれが現在の一応の定説で、大正12年(1923)3月6日没、享年百。ただし、当人も正確な年はわからなかったらしく、数え百二歳説もあります。

五代目古今亭志ん生が、正蔵の享年を「一束十五(115)」としているのは、いくらなんでもオーバーでしょうが。

この正蔵、志ん生が若き日、ドサ回りでいっしょになった時は少なくも、もう九十に手が届く年。それが……。「下座のおばさんのところへ夜ばいに行った」と。「大変な爺ィがあったものであります」と、志ん生が脱帽している「怪人」でした。

「正直清兵衛」、正蔵爺さんが冥土へ持っていったと見え、彼の没後はまったくと途絶えています。

杉酒屋

入り口に、丸く切った杉板を看板代わりに掛けてある安酒屋です。

【語の読みと注】
長 おさ:問屋場の責任者
手代 てだい:問屋場の下役
敵討噂古市 かたきうちうわさのふるいち

清兵衛さんにもスヴェンソンの増毛ネット

将棋の殿さま しょうぎのとのさま 演目

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主君にはさからえない時代の話。とどのつまりは暇なんですね。

【あらすじ】

ある殿さま、ふとしたことから将棋に懲り、家来を相手に毎日熱中する。

それはいいが、自分が負けそうになると決まって「お取り払い」、つまり、王手の駒を強制的に除かせたり、「お飛び越し」、飛車が金銀を飛び越えて成ってしまったりと、やりたい放題。

文句を言うと、
「主の命に背くか」
と居直るので始末に負えない。

これでは連戦連勝は当たり前で
「うーん、その方たちは弱いのう。鍛えてつかわさんため、今日からは負けたる者は、この鉄扇で頭を打つからさよう心得よ」

始まれば、お取り払いにお飛び越しで、殿さまは負ける気遣いはないから、家来の頭はたちまちコブだらけ。

そこへ現れたのが御意見番の三太夫という、骨のある爺さん。

しばらく病気で出仕しなかったが、お飛び越しの一件を聞くと、これは怪しからんと憤慨し、さっそく殿さまの前へ。

殿さま、子供の頃から育てられているので、三太夫は大の苦手。

いやな爺が来た、と渋い顔をするが、三太夫はいっこうにかまわず
「将棋は畳の上の戦、軍学の修練にもなり、武士の嗜みとしては大いにけっこう。このじいも、年は取ってもまだまだお上のごときナマクラには負け申さん。たちまち、お上のおつむりをコブだらけにしてお目にかけるが、もしお上がお勝ち遊ばし、それがしの白髪頭をお打ちになっても、戦場で鍛えし鋼のごとき頭、ご遠慮は無用」
と挑発した。

それで殿さまも熱くなり、このくそ爺、ほえヅラをかくなと、試合開始。

家臣一同、あのうるさいのがコブだらけになるところを見たいと、ワクワクして見守る中、みるみる殿さまの形勢悪くなり、案の定
「これ、その歩で桂馬を取ってはならん。主命じゃ。控えよ」
「これはけしからん。戦場においては、君臣の区別はござらん。桂馬は侍、歩は雑兵。それが一騎当千の侍を討ち取るときは、末頼もしき奴。帰城の折りは取り立てつかわしたく存じますに、敵の大将がとやかく申したからとて、その言葉に従えましょうや」

理屈でくるから、どうにもならない。

お飛び越しを命じると
「飛車は軍師、その軍師が陣法に従わず、卑怯未練にも道なき所を飛び越して参るとは言語道断。首をはねて梟木に掛けますから、お引き渡しを」と、くる。

とどのつまり、殿さまは実力通り雪隠詰め。

剣の心得のある三太夫に思い切り打たれて、殿さま、涙ポロポロ。

「うーん、一同の者、盤を焼き捨てい。明日より将棋を指す者は、切腹申しつける」

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【うんちく】

上さまの御前で

講談の「大久保彦左衛門将棋の意見」を落語化したものといわれますが、異説には「江戸寄席落語の祖」初代三笑亭可楽(1777-1833)の作で、可楽はこともあろうにこの噺を、十一代将軍家斉の御前で口演したとか。

演る方も命知らずなら、聴く上さまの方もなかなかシャレがわかる……とほめたくなりますが、いくらなんでもこれは伝説でしょう。

ともかく、寄席草創期の化政期からある古い噺で、明治期では二代目(禽語楼)小さんの明治22年(1889)9月付の速記があります。

この二代目小さんは、自身も士族出身だったこともあり、この噺を含めて殿さま噺を得意にしていました。

古い速記では他に、昭和9年(1934)の八代目桂文治のものがあります。

上方では「落語の殿さま」

上方の「大名将棋」では、殿さまが「紀州侯」と特定されているほかは、東京のやり方と変りませんが、この後があります。

将棋に懲りた殿さま、今度はこともあろうに落語に凝りだしたから、一難去ってまた一難。その場が氷河期と化すようなダジャレの連発に一同が凍り付いていると「みなの者笑え」と、例によって無理難題。笑わないとまた鉄扇だと、仕方なく無理にワキの下をくすぐりあって笑うと、殿さま、いい気になって、「鶴がいて亀がいて、鶴は千年亀は万年、東方朔は九千歳……」と、締めのダジャレがいつの間にか厄払い(「厄払い」参照)のセリフに。そこで家来一同「笑いまひょ、笑いまひょ」。

最後はやはり「払いまひょ」の地口で、厄払いでオチます。

大名のサディズム

家来をあらぬ趣味で苦しめる殿さま噺に「そばの殿さま」がありますが、異色なのが三遊亭円朝「華族の医者」です。

医術に凝った元殿さまが、怪しげな薬で家来を虫の息にしてしまい、「それは幸い。今度は解剖じゃ」。明治維新を迎えても、「殿さま、ご乱心」は一向に変わりがなかったようです。もっとも、無茶苦茶の度合は、「幇間腹」の若だんなの方が上を行きますが。

幕府の将棋保護

幕府が寺社奉行管轄下に「将棋所」を設けたのが慶長12年(1607)。大橋宗桂(1555-1634)をその司としました。

禄高は五十石二人扶持で、以来、大橋家は将棋の宗家として代々宗桂を名乗り、明治まで十二代を数えました。

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出世の鼻 しゅっせのはな 演目

【RIZAP COOK】

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すたれてしまった明治の噺。工夫次第でおもしろくなりそう。

【あらすじ】

下谷長者町に住む、棒手振りの八百屋源兵衛。

ある日、仕事の帰りに両国橋に来かかると、大川で屋形船が芸者を揚げてどんちゃん騒ぎをしているのを見た。

つくづく貧乏暮らしがいやになり、
「あれも一生これも一生、こいつぁ宋旨を替えにゃあならねえ」
とばかり、その場で商売道具の天秤棒を川に放り捨ててしまった。

家に帰った源さん、なにを思ったか、驚く女房を尻目に、家財道具一切たたき売り、日本橋通一丁目の、有名な白木屋という呉服屋の真向かいで、間口九間、土蔵付きの広い売家を強引に手付け五両で借り、「近江屋三河屋松阪屋」という珍妙な三つ名前の屋号の看板まで出した。

ただし、商売はなにもせず、日がな一日はったりに大きな声で
「畳屋はどうした。大工はまだか」
と、どなるだけ。

そんなある日、向かいの白木屋に、りっぱな身なりの侍が現れ、
「先祖が拝領した布地の銘を調べてほしい」
と、預けていく。

誰もわからないまま店先にぶらさげていたその布が、三日後、風に飛ばされて行方不明になったので、店中大騒ぎ。

布が白木屋の二つの蔵の間の戸口に引っ掛かるのを偶然見ていた源兵衛、好機到来とばかり店に乗り込み、どんな紛失物でもかぎ当てる鼻占い師といつわって、まんまとありかを当ててみせ、礼金五百両でたちまち左ウチワ。

すっかり白木屋の主人の信用を得た源兵衛。

半年ほどたって、白木屋の京の本店お出入り先の関白殿下が、定家卿の色紙と八咫の御鏡を盗まれたので京に行ってその二品をかぎ出してほしいと、主人から頼まれる。

まあ、白木屋の金で上方見物でもしてこようと太い料簡で都にやってきた源兵衛、仕事そっちのけで、ブラブラ遊んで過ごしているが、宮中のトイレまでかいで回らなければならないので、「従五位近江守源兵衛鼻利」と位までちょうだいし、とんだにわか公家ができあががった。

ある日、暑い中を衣冠束帯を付けさせられ、うんざりしながら庭をかいで回っていると、木のうろから突如飛び出す怪しの人影一つ。

聞いてみると、その男、関白の家から例の二品を盗んだ犯人で、十里以内のものはみなかぎ出すという名高い方が探索に見えると聞き、もはや逃げられないと観念した、

命ばかりはお助けを、と、平身低頭。

柳の下にドショウが二匹。

無事二品が戻り、関白は大喜び。

「あっぱれな奴、望みのものをほうびに取らせる」
「金をください」
「金はたっぷりつかわす。なにか望みは」
「望みは金」
「いやしい奴。金のほかには」

こうして、源兵衛は吉野山に御殿を賜ったが、洛中洛外はその噂で持ちきり。

「一度でいいからその鼻が見たいものや」
「鼻(花)が見たけりゃ吉野山へござれ」

【RIZAP COOK】

【うんちく】

円楽が復活するも

原話は不詳で、おそらく民話がルーツでしょう。

明治25年(1892)の二代目(禽語楼)小さんの速記が残りますが、同趣向の「お神酒徳利」に押されてすたれ、昭和50年代に三遊亭円楽が復活したものの、その後は後継者もありません。

大正期に、大阪の曽我廼家五郎が「一堺漁人」の筆名で書き下ろした脚本「鼻の六兵衛」は、やはり鼻でかぎわけるのが得意な男の出世譚で、劇団の当たり狂言になりましたが、落語とのかかわりは不明です。

同じ鼻利き男が登場する噺に「鼻きき長兵衛」がありますが、こちらは後半が「寄合い酒」の後半(「ん廻し」)と同じで、まったく別話です。

白木屋盛衰記

白木屋の開祖、大村彦太郎は、近江国長浜で材木屋を営んでいましたが、志を立てて江戸に出、寛文2年(1662)、通二丁目に小間物屋を開店。

三年後、通一丁目に進出して呉服店を兼業。以来、事業を拡大して越後屋(三越)、大丸と肩を並べる大店に発展しました。

屋号の「白木」は、材木屋だったときの名残で、杉や檜を白木と総称することから付けられたとか。

縁起をかついで「かする」という言葉を家訓で禁じ、白木屋にかぎり、絣の着物を奉公人に着せない習慣がありました。

明治36年(1903)、通一丁目の本店敷地に「白木屋百貨店」を開業。

日本橋の顔として繁盛しましたが、昭和7年(1932)12月16日の「白木屋火災」で全焼、大打撃を蒙ります。このとき、女店員がズロースをはいていなかったため、着物のすその乱れを気にして飛び降りられず、十名の死者を出したことで、一挙に女性用下着が普及したのは、のちの話です。

昭和23(1948)年の「白木屋争議」などで経営が傾き、昭和31(1956)年に東急傘下に。デパートはそのまま「白木屋」の名で存続しましたが、結局昭和42(1967)年、東急百貨店日本橋店に衣替えし、事実上三百年の歴史に終止符を打ちました。

あれも一生これも一生

このくだりは、歌舞伎の場面をそのまま借りています。

河竹黙阿弥で、慶応2(1866)年2月守田座初演の「船打込橋間白浪(ふねにうちこむ はしまのしらなみ)」序幕で、主人公の鋳掛屋松五郎が、屋形船のドンチャン騒ぎを見て、みみっちい堅気暮らしに嫌気が差し、心機一転盗賊になろうと決心する場面のセリフです。

下谷長者町

台東区上野三丁目。一、二丁目とあり、名前とは裏腹に、江戸有数のスラムでした。

町名は昔、このあたりに朝日長者という分限者が住んでいたことにちなみます。

幕府の公有地でしたが、明暦の大火(1657)後町割りが許可されました。

落語「掛取万才」の「貧乏をしても下谷の長者町 上野の鐘のうなるのを聞く」という狂歌でおなじみです。

「通」は江戸のブロードウェイ

神田万世橋あたりから日本橋、京橋を経て芝金杉にいたる、江戸を南北に貫く大通りを単に「通り」または「通町」と呼びました。

江戸の者ならこれだけで通じるからで、吉原を「ナカ」というのと同じ、いかにもムダを嫌う江戸っ子らしい表現です。

町名としては通り一-四丁目まであり、一丁目は現在の中央区日本橋通一丁目。

初代歌川(安藤)広重が「名所江戸百景」の一として、通一丁目の白木屋呉服店前の繁華街を生き生きと描きました。安政5(1858)年夏の情景です。

長くこの地にあった東急日本橋店も1999年1月に閉店。現在、コレド日本橋がそびえています。

【語の読みと注】
八咫 やた
絣 かすり
船打込橋間白浪 ふねにうちこむはしまのしらなみ

【RIZAP COOK】