えいこくのおとしばなし【英国の落とし噺】落語演目

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【どんな?】

酒好きが大酒競争を。
負けた男は悔しかった。
どうしてもそのからくりを知りたい。
酒豪自慢の噺。
種明かしは「ルバイヤート」。

【あらすじ】


倫敦近在、ウーリッチの兵営でのこと。

ある晩、さる陸軍大佐が宴会を開くことにした。

料理のあとには酒となって、話がはずむ。

一人の客が
「世間でまず、僕くらい酒をたんと飲む者はあるまい」
と、自慢を始める。

どれくらいいくのかい、と尋ねると、これこれこう、とこたえる。

たいしたことはないので、大佐が
「私の部下のジョンという兵士は、酒樽というあだ名がついていて、1本4合入りのビールを一度に15本は空にするだろう」
と、笑って話した。

客は自慢の鼻をへし折られそうなので、ムキになって
「そんならその兵士をここに連れてこいよ。飲めるか飲めないか、50ポンドの賭けだ」
と提案した。

よかろう、ということで、大佐がジョンを呼びにやる。

入り口でポカンと立っているジョンに、じつはかくかくしかじかと事情を話して
「もし15本、計6升のビールを飲み干せたら、たんまり小遣いをやるが、どうだ」
と持ち掛けた。

ジョンはしばらく思案した後、大佐にこう言った。

「あっしはたしかに酒好きですが、どのくらい飲めるかまだ試したことはありません。どうかだんな(大佐のこと)、とくと考えて返事しますんで、1時間だけお待ちくだせえ」
「いいだろう」

ということで、ジョンはお座敷(宴会場)を退いた。

1時間がたつと、ジョンが帰ってきた。

「ちょうだいいたしやす」

テーブルの上には、15本のビールがずらりと並べられた。

ジョン、給仕が次から次へと注ぐコップを、息も継がせずにきれいに15本分飲み干した。
あまりにあっと言う間だったので、一同はあっけにとられたが、賭けに負けた客は悔しくてならない。

ただの男がこんなにたくさん飲める道理がない、と。

「おまえが手妻使い(手品師)でなければ、なにか酒を飲んでも酔わない薬か、ありがたいお札やまじないでもあるんだろう。それを教えたまえ」

そう言って、客は兵士に詰め寄った。

ジョンは困って、
「ただの酒好きでさあ」
と言うばかり。

それでも客は、
「うそを言っちゃいかん。1時間の猶予をもらったのが、なによりの証拠じゃないか。その間、どこかへ行って薬を飲むか、なんぞまじないをしてきたに違いあるまい。キリキリ白状したまえ」
と、興奮ただならず。

ジョンは困り果て、もうお手上げという顔で
「じつはだんな、1時間の間に、飲めるかどうか、ちょっくら試しに、横町の酒屋でビール15本を飲んできましたんでさあ」

底本:初代快楽亭ブラック

【しりたい】

快楽亭ブラック

この噺の作者は、初代快楽亭ブラック(ヘンリー・ジェイムズ・ブラック、1858-1923)。

明治期に活躍した落語家です。

講釈師、奇術師でも活躍した、多才の人でした。

当時はまだ英領だったオーストラリアのアデレードで生まれました。

先祖はスコットランド人で、祖父の代までは陸海軍の軍人だったそうですが、父親がどこか異端だったようです。

ジョン・レディー・ブラックは、アジア各地を巡業する歌手でした。

慶応元年(1865)、横浜に上陸し、しばらくして後、「週刊ジャパン・ヘラルド」紙の記者となりました。

歌手から記者へ

新聞記者となった父を追い、母とともに来日したのが、息子のヘンリーでした。

父のジョンはその後、「日新真事誌」紙で明治政府の政策をさんざん非難したことで、同紙は廃刊となり、日本を見限って上海に逃げてしまいました。

18歳の息子は日本に残り、明治9年(1876)、奇術の三代目柳川一蝶斎一座に雇われて西洋奇術を始めました。「ハール・ブラック」という芸名でした。

いったん海外に出たヘンリーは、明治12年(1879)にはふたたび来日。

今度は、講談の二代目松林伯円(手島達弥→若林義行→若林駒次郎、1834-1905、新聞伯円、泥棒伯円)に誘われて、横浜馬車道の富竹亭で政治演説に出演したりしています。

明治13年(1880)には、改めて二代目伯円に入門し、「英人ブラック」と名乗りました。

政府の許可が必要だったり、高座に出たところで、知人などからが猛反対したりして、結局は、廃業して英語塾を開いたりもしています。

それでも、人前での熱演が忘れられず、演芸界の舞い戻ることに。

明治17年(1884)、不度は、三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)、三代目三遊亭円生(嶋岡[野本]新兵衛、1839-81)らの三遊派に入りました。

「快楽亭ブラック」を名乗ったのは、明治24年(1891)3月からです。

明治26年(1893)4月には、浅草猿若町菓子店の娘、石井アカと結婚して婿養子となりました。

のち、ヘンリーの男色癖を理由に離婚しますが、ここで彼は念願の日本国籍を取得し、「石井貌剌屈」と改名しました。

ドナルド・キーンの「鬼怒鳴門」もそうですが、欧米人の帰化名が日本人の感覚と少々の異なるのはなぜでしょう。

ブラックは創作の噺家でした。これがすごい。

その手法は、どこか円朝の創作法に似ています。なにがしかの影響があったはずです。

西洋の小説を翻案した短編小説や、それを素材に噺をつくり出したのを手始めに、次第に自作の噺をつくるようにまでなります。

べらんめえ調をあやつる青い眼の噺家。

これが、寄席客には奇異に映り、人気を博しました。

噺ばかりか、その途中に手品を見せたりも。

歌舞伎の舞台に端役で飛び入り出演も。

明治29年(1896)には、日本初の催眠術実演も行っています。

ブラックと録音技術

明治36年(1903)に英グラモフォン社の録音技師フレッド・ガイズバーグが来日します。

通訳を介さずに会話ができる利点を生かして、ブラックは落語、浪曲、かっぽれなど諸芸を録音円盤に録音することを誘います。

日本初のレコード録音です。

四代目橘家円喬(柴田清五郎、1865-1912)、初代三遊亭円右(沢木勘次郎、1860-1924、→二代目円朝)、初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)、三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)、初代浪花亭愛造(黒屋貞吉、1870-1906)、豊年斎梅坊主(松本梅吉、1854-1927)などの肉声が残ることになりました。

円朝は間に合いませんでしたが。

ブラックの、この功績はあまりあるほど偉大でした。

外国人の凋落

明治40年(1907)頃から、ブラックの人気が凋落していきます。

お雇い外国人が一掃されて、国家が軍艦を自前でつくれるようになる時期と、不思議に一致します。

ブラックは自殺未遂事件まで起こすほどに落ちぶれます。

それでもなんとか生き抜いたのですが、人気は落ちたまま。

大正12年(1923)9月19日、白金三光町の自宅で亡くなりました。脳卒中でした。

関東大震災を経験したのですね。64歳。生き抜きました。えらいもんです。

横浜の外国人墓地に、父の隣に埋葬されました。

この親子を調べると、明治期日本の本性が見えてきます。

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いちすけざけ【市助酒】落語演目

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【どんな?】

酒好きの市助は番小屋勤め。ねぎらいの酒で寝てしまい。
寒夜は熱燗をぐいいと、てな気持ちにさせてくれる噺。

あらすじ

親父の跡を継ぎ、町内の番小屋で火の番兼走り使いをしている市助という男。

まじめな男だが、酒好きなのが玉に瑕。

ある夜も酔っぱらって火の用心とでかい声を張り上げ、夜回りに歩いていると、質屋の伊勢屋の店から灯が漏れているので、戸をドンドンたたき
「火の用心、ええ火の用心、火の用心」
と、しつこく叫んで、番頭の藤兵衛に追い払われる。

だんなはこれを聞くと、
「飲んべえでも、ちゃんと役目を果たしているのだし、本来なら町内の各表店で火の番に人を出さなければならないお定めなのを、市助を雇ってやらせている、寒い夜の見回りで、酒でものまなければわずらってしまう稼業なのだから、もっとねぎらってやらなければいけない」
と、さとす。

藤兵衛は反省して、
「明日の晩、市助が来たら酒をおごってやろう」
と待っていたが、どういうわけかなかなか現れない。

市助の方でも、伊勢屋をしくじったと思ったから、なるべく店の前を避けて回っていたが、とうとう見つかった。

藤兵衛はさっそく店に呼び入れて、恐縮するのを無理にのませると、酒が回ってだんだん気が大きくなった市助、
「番頭さんは実に親切でいい方だ。お店の台所まで指図して火の用心を心掛けなさるし、犬にまで情け深く、煙管も銀のいいのをお使いだ」
とおべんちゃらを並べたあげく、
「もう一杯、もう一杯」
とねだって、かれこれ五合。

すっかりいい機嫌で帰る。

番小屋に戻るとそのまま寝てしまったが、見回りの時刻だと若い衆にたたき起こされ、寝ぼけ眼で酔いも醒めないまま、また回り始めた。

藤兵衛が見つけて、
「あの後、またどこかで飲りやがったのだろう、また戸をたたかれて、小言の種をまかないうち、こっちからあいさつしてやろう」

「市助さん、あー、ご苦労。あたしのとこはしっかり気をつけてるよ」
「なあに、お宅は焼けたって、ようございます」

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しりたい

原話

原話は元禄14年(1701)刊の上方笑話本『百登瓢箪ひゃくなりびょうたん』中の「番太郎」、安永2年(1773)刊の『再成餅ふたたびもち』」中の「火の用心」。

原話二話のうち、後者はごく短いもので、番太郎が裏長屋を火の番で回っているとき、ある家から呼びいれられる筋で、オチも同じですが、ごちそうになるのは、貧乏長屋らしく、ねぎ雑炊二杯と、ごくわびしいものです。

上方落語の大ネタ「下役酒」として発展した噺を、三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)が東京に移植したものです。

番小屋

隣町との境の四つ辻に町木戸があり、その開閉と不審者の通報、火事の際の半鐘打ちなどに任じる木戸番(番太郎)の住む木戸番屋、町費で雇う書役(町役)の詰める自身番屋がありました。

前者は普通荒物屋や駄菓子屋を営み、後者には、地借りで表通りに店を出す商人が順番に宿直(店番)しましたが、主人の代理で番頭や手代などが詰めることが多かったとか。

火の用心の見回りは、本来は店番の仕事ですが、この噺では、これを非公式にあぶれ者の市助を雇い、使い走りをやらせているわけです。

火の番は「二番煎じ」にも登場しますが、木戸が閉まる四ツ過ぎ(午後10時頃)から明け六ツ(午前5時頃)まで、一晩中、特にこの噺の伊勢屋のような大店には一軒一軒回って「火の用心さっしゃりましょう」と呼びかけます。

噺の発端では、伊勢屋から深夜になっても明かりが漏れているので、市助が不用心だと気を回したわけです。

半鐘が鳴った場合は、火の番は太鼓を叩いて火元の方角を触れてまわる義務がありました。

やはり「本家」は大阪

現在、東京ではあまり演じられません。

上方では比較的ポピュラーで、自身酒のみで、「一人酒盛り」など酒の噺を得意としていた六代目笑福亭松鶴(竹内日出男、1918-86)が得意としていました。

オチは、東京のものは、前に番頭に怒鳴られたので気を使うあまり、おべんちゃらで「お宅は言わなくてもちゃんとしておられますから」というところを言葉の上で失敗したとされます。

やや唐突過ぎて、シャレになりません。

上方の方は「滅相な、ご当家ではどうでも大事ございません」とオチています。

こちらの方がまだ自然ですが、その分、平凡になります。

「大事ございません」だけならまともで、「どうでも」をつけたからあらぬ意味にとられるというわけです。

こうした言葉の機微を感じとれなければ、かえって、なんのことかわからなくなるでしょうね。

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