ぶしょうどこ【無精床】演目

【RIZAP COOK】

落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

髪結い床が舞台。こんな店があったら、行ってみたいもんです。怖いもの見たさで。

別題:ずぼら床屋  無性床

【あらすじ】

「無精床」と異名をとる髪結い床の親方。

大変にズボラな上、客を客と思わないので、誰も相手にせず、いつも店はガラガラ。

なにも知らず、空いてるからいいと迷い込んできた不運な客、元結いを切ってくれと言えば
「自分でほどきねえな。てめえでできるこたァ、てめえでやれ」

頭を湿すのに湯をくれと頼む。

「頭ァしめすゥゥ? 水でたくだんだい。うちじゃ、水のねえときは唾だ」
「きたねえな。水はどこだい?」
「自分で探しねえ」

隅にたががはじけた汚い樽があったが、中は苔で青々。水はボウフラがわいている。

親方が、きれいな水がよかったら横町の井戸で汲んでこいと言うので、小僧を頼もうとすると
「うちの小僧は水汲みに置いてるんじゃねえ。自分で汲んでこい」

「権助じゃねえや」
とぼやいて、泣く泣く樽の水で湿す。

その上、
「おい、小僧。生きた頭につかまりな」
と、焙烙のケツと、親方の向こう脛の毛しかやったことのない、十歳の小僧の稽古台にされてしまう。

小僧が高下駄をはいて剃刀を振り回すので、生きた心地がない。

痛いと思ったら、下駄の歯を削って、あがった(ナマクラ)剃刀。

飴屋が来るとよそ見し、しまいには居眠りするので、親方が怒ってポカリ。

「おい、親方、オレの頭だ」
「向こうまで手がとどかねえから、おまえで間に合わせた」

なんだかえらくしみるので、頭に手をやると
「あー、血がでてきたッ。どうしてくれる」
「小僧、紙と糊を持ってこいッ」
「どうすんだい?」
「張っとくんだ」

そのとき、入ってきた犬を親方が追い払おうとするので、わけを聞くと
「オレがこの前、よそ見して客の耳を片っぽ落っことすと、こいつが入ってきてペロっと食っちまった。それから人間の耳はうめえって考えやがったか、いつもよだれ垂らして入ってきやがる。おまえさん、かわいそうだから、片っぽおやり」

【しりたい】

大看板も好んだ噺  【RIZAP COOK】

原話は不詳で、古い江戸落語です。

かなり暴力的でサディスティックなので、よほど愛嬌たっぷりに演じないと、現代では反感を買うかもしれません。

戦前は、初代柳家権太楼が「ずぼら床屋」の演題で得意にしていました。権太楼は昭和初期の爆笑王といわれていました。

七代目林家正蔵の昭和5年(1930)のレコードも残っています。当時36歳。当代より若いのですが、テンポ軽快、円転洒脱。何事も精進が肝心です。先代三平もやっていました。親父譲りですね。

戦後は、五代目古今亭志ん生のがなんといっても秀逸。六代目円生、五代目小さんも「逃げ噺」的に重宝に演じました。

オチは、円生と小さんは血が出たところで切り、「冗談じゃねえ。どれくれえ切った」「なに、縫うほどじゃねえ」としています。

大江戸のスウィーニー・トッドたち  【RIZAP COOK】

客の耳まで斬り落とすとなると、かの有名なロンドンの殺人狂理髪師並みですが、それほどでなくとも「営業停止処分」の店はまだこんなに。

床屋の失敗噺はほかに「片側町」と「根上がり」があります。前者は、芝居好きの親方が、立ち回りのつもりで剃刀を振り回し、客の片鬢を剃り落とします。これでは表が歩けないと怒ると、「当分片側町(路の片側だけ町屋になっている)をお歩きなさい」

オチるもので、短いので「無精床」とオムニバスでつなげて演じることもあります。

後者の「根上がり」の親方は音曲、特に二上がり新内の熱狂的なオタク。これだけでオチはわかったようなもの。二上がり新内をうなりつつ髪を結い上げ、後で客が鏡を見ると、まげの根元が上に上がり、はけ先が前にブラブラ。

「へい、根上がり(=二上がり)でございます」

志ん生のくすぐりから  【RIZAP COOK】

無精が集まって無精会を作ろうと誰かが提案すると、「うーん、よそうじゃねえか。面倒くせえ」

ごもっともです。これは三代目桂三木助も「長短」のマクラに使っていました。

火事を消すのが面倒で、焼け死んだ親子。地獄で閻魔に、今度は獣に生まれ変わらせると言われ、親父が、全身真っ黒で鼻の頭だけ白い猫になりたいと希望。

なぜかってえと、「鼻をおマンマ粒と思ってネズミが食いにくるとこを、寝てェてこっちが食う」

両国名物「並び床」  【RIZAP COOK】

髪結い床については、くわしくは「浮世床」をご参照ください。

なお、江戸時代には両国に「並び床」というのがあり、土地の名物になっていました。バラックのような、客一人しか入れない狭い店が何軒も並んでいたもので、昼間のみの営業でした。案外この噺の床屋も、そうした並び床の一軒かも。

江戸の床屋が頭をあたる光景は、今も歌舞伎世話狂言「髪結新三」の序幕で、リアルに再現されます。

「髪結い」は「かみい」と発音します。床屋が西洋式理髪店に変わった明治期にも、下町では「かみどこ」と呼んでいました。

月代  【RIZAP COOK】

さかやき。外国人が日本人と接したとき、いちばん奇妙に映ったものはこれだったんじゃないでしょうか。成人男性が前額部を除毛する慣習。

もとは、冠や烏帽子を四六時中かぶっていることから生じた合理的な風俗といえるでしょう。はじまりは、暑い季節に兜なんかをかぶっていると、熱が頭部にこもって具合が悪いので、放熱のために髪を剃ったということです。

江戸時代になると、支配者階級のこの風習が町民や百姓にも伝播していったのです。貴族でもないのにネクタイをする風習のようなものでしょうか。

月形に剃ったので「月代」という漢字で当てたといわれていますが、そればかりではありません。逆明、冠明、境毛、逆気、栄気など、さまざまな表記がありました。

この噺でわかりにくいのは、「頭を湿す」ということ。「頭を揉む」ともいうそうですが、床屋のおやじが肌に剃刀を当てると肌が荒れて痛いので、剃られる前に、客たちが腰高のたらいに汲んだお湯で頭皮をやわらげるのが、髪結い床での常識だった、ということです。これがあらかじめわかっていれば、この噺はおもしろくなりますね。なんと不衛生な床屋だとこと。

【語の読みと注】
髪結 かみい
焙烙 ほうろく
向こう脛 むこうずね
月代 さかやき

うきよどこ【浮世床】演目

【RIZAP COOK】

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

日がな一日、髪結い床でごろごろ。こんな人生も悪くない。

別題:片側町(上方)

あらすじ

髪結い床。

若い衆が集まってワイワイばか話の最中に、留さん一人、講談本に読みふけっている。

すぐ目を付けられて、退屈しているから読んで聞かせてくれと頼まれ、
「オレは読み出すと立て板に水で、止まらなくなるから、同じところは二度と読まねえ」
と豪語して始めたのはいいが、本当はカナもろくに読めないから、
「えー、ひとつ、ひ、ひとつ、ひとつ、あねがわかっ、せんのことなり……真柄、まからからから、しふろふざへもん」
「真柄十郎左衛門か?」
「そう、その十郎左衛門が、敵にむかむかむか……」
「金たらいを持ってきてやれ。むかつくとさ」
「敵にむ、向かって一尺八寸の大太刀を……まつこう」
「呼んだか?」
「なんだよ」
「今、松公って呼んだだろ」
「違う。真っ向だ」

一尺八寸は長くないから、大太刀は変だと言われ、これは横幅だとこじつけているうちに、向こうでは将棋が始まる。

一人が、王さまがないないと騒ぐので
「ああ、それならオレがさっきいただいた。王手飛車取りの時、『そうはいかねえ』って、てめえの飛車が逃げたから」
「おめえの王さまは、取られてないのにねえな」
「うん、さっき隠しておいた」
というインチキ将棋。

かと思うと、半公がグウグウいびきをかいている。

起こすと、
「女に惚れられるのは疲れてしょうがねえ」
と、オツなことを抜かしたと思うと、
「芝居で知り合ったあだな年増と、さしつさされつイチャついた挙げ句、口説の末にしっぽり濡れて、一つ床に女の赤い襦袢がチラチラ……」
と、えんえんとノロケ始める。

「女が帯を解き、いよいよ布団の中へ……」
「こんちくしょう、入ってきたのか」
「という時に、起こしゃあがったのは誰だ」

床屋の親方が、あんまり騒がしいので、
「少しは静かにしてくれ。気を取られているすきに、銭を置かずに帰っちまった奴がいる。印半纏のやせた……」
「それなら、畳屋の職人だ」
「道理で、床を踏み(=踏み倒し)に来やがったか」

底本:六代目三遊亭円生

【RIZAP COOK】

しりたい

意外にも上方ダネ  【RIZAP COOK】

一尺八寸の大太刀の部分の原話は安永2年(1773)刊『聞上手』中の「大太刀」、夢のくだりは同4年(1775)刊『春遊機嫌袋』中の「うたゝね」、オチの畳屋の部分は同2年刊『芳野山』中の「髪結床」と、いくつかの小ばなしが合体して、できた噺です。

これらの原話はいずれも江戸で出版されているのに、意外なことに落語そのものは上方で発達し、明治末期に初代柳家小せんが東京に「逆輸入」しました。

演題の「浮世床」は、式亭三馬(1776-1822)と滝亭鯉丈の合作の同名の滑稽本(初編、文化10年=1813年刊)から採られているとみられます。

無筆(=非識字)に近い者が見栄を張ってでたらめ読みし、からかわれるくだりの原型は『浮世床』にあり、これも原典の一つといえるでしょう。

先代三平の音源も  【RIZAP COOK】

戦後は六代目三遊亭円生と三代目三遊亭金馬が得意としました。その他数多くの落語家によって手掛けられています。先代林家三平のレコードも昭和56年(1981)にビクターから発売されましたが、CD化はされず、レコードは現在は廃盤です。

円生の芸談  【RIZAP COOK】

六代目三遊亭円生はこの噺について、「テンポと呼吸をくずさないこと」という貴重な芸談を残しています。

片側町  【RIZAP COOK】

床屋の親方が客の片鬢(びん)を剃り落とし、「これじゃ表を歩かれねえ」と文句を言われると、「なーに、片側をお歩きなさい」とオチる、「片側町」という小ばなしを含むこともあります。これは、現在は同じ床屋ばなしの「無精床」に入れることが多くなっています。

オチの「床を踏む」というのは、畳屋が新畳のへりを踏んでならして落ち着かせること。そのことばと、髪結い賃の「踏み倒し」を掛けたものですが、これも、今ではかなりわかりにくくなっているでしょう。

髪結い床の歴史  【RIZAP COOK】

起源は古く、応仁の乱(1467-77)後、男がかぶりものを常時着けない習慣ができたので、月代(さかやき)を剃って髪を整える必要が生じ、職業的な髪結いが生まれました。

天正年間(1573-92)にはもう記録があり、一人一文で結髪したため、別名「一銭職」と呼ばれました。

黙阿弥の歌舞伎世話狂言「髪結新三(かみいしんざ)」の「一銭職と昔から、下がった稼業の世渡りに……」というよく知られたセリフは、ここからきています。

万治元年(1658)から、髪結い床は江戸で一町内に一軒と定められましたが、享保年間(1716-36)には千軒あまり、幕末の嘉永年間(1848-54)になると二千四百軒に増えたといわれています。

この噺の中でも詳しく説明されるのですが、江戸の髪結い床は、通常は親方一人に中床(下剃り=助手)、小僧の計三人です。中床を置かず、小僧一人の床屋もありました。

二階は噺に出てくるように社交場になっていて、順番を待つ間、碁将棋、ばか話などで息抜きをする場でもありました。

髪結い賃は、大人三十二文、子供二十四文が幕末の相場です。

明治になっても「かみどこ」という呼び名と、江戸以来の古い床屋の面影や性格は、下町ではまだ色濃く残っていて、町内のゴシップの発信地でもありました。

髪結い床が登場する噺は「無精床」「十徳」「お釣りの間男」「崇徳院」など、多数あります。

じっとく【十徳】演目

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 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

噺全編、これ駄洒落の集合体。ばかばかしいだけですが。

【あらすじ】

ふだん物知り顔な男。

髪結床で仲間に「このごろ隠居の着ている妙ちくりんな着物は何と言う」と聞かれたが、答えられず、恥をかいたのがくやしいと、早速隠居のところへ聞きに言った。

隠居は「これを十徳という。そのいわれは、立てば衣のごとく、座れば羽織のごとく、ごとくごとくで十徳だ」と教え、「一石橋という橋は、呉服町の呉服屋の後藤と、金吹町の金座御用の後藤が金を出し合って掛けたから、ゴトとゴトで一石だ」とウンチクをひとくさり。

「さあ、今度は見やがれ」と床屋に引き返したはいいが、着いた時にはきれいに忘れてしまって大弱り。

「ええと、立てば衣のようだ、座れば羽織のようだ、ヨウだヨウだで、やだ」
「いやならよしにしねえ」
「そうじゃねえ、立てば衣みてえ、座れば羽織みてえ、みてえみてえでむてえ」
「眠たけりゃ寝ちまいな」
「違った、立てば衣に似たり、座れば羽織に似たり、ニタリニタリで、うーん、これはしたり」

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【しりたい】

遊び心に富むダジャレ噺  【RIZAP COOK】

オチの部分の原話は、安永2年(1773)刊『御伽草』中の「十徳のいわれ」で、そっくりそのままです。

江戸にはシャレ小咄が多く、ばかばかしいようで遊び心とウイットに富み、楽しいものです。

落語の「一目上がり」などもそうですが、数でシャレるものがあります。たとえば。

「屋島の戦で、平教経が義経を見て、勝負をしそうになった。義経は臆して、『よそうよそう』で八艘飛び」
「西と書いて産前産後と解く。その心は二四は三前三後」

いろいろあります。

本来、前座噺ですが、大看板では八代目春風亭柳枝(1959年没)がよく演じました。

上方ではこの後、「ごとくごとくで十徳やろ」と先回りされ、困って、「いや、たたんでとっとくのや」と落とします。

これはしたり  【RIZAP COOK】

オチに使われていますが、今ではどうでしょう。

「これは悪しき(=悪い)ことしたり」の真ん中が取れた言葉といわれ、「しまった」と「驚いた」の両義に使われます。

この噺では前者でしょうが、ダジャレなので、あまり詮索しても意味はありません。

「仮名手本忠臣蔵」五段目・山崎街道鉄砲渡しの場で、狩人となっている早野勘平が、かつての同僚の千崎弥五郎に偶然出会い、両人膝をたたいて「これはしたり」と言います。この場合は後者の意味で、歌舞伎ではこのパターンは紋切り型で繰り返し使われます。

十徳  【RIZAP COOK】

脇を縫いつけた、羽織に似た着物です。おもに儒者、絵師、医者らが礼服として用いました。本当の語源は、「直綴」からの転訛で、脇を綴じてある意味でしょう。

鎌倉時代末期に始まるといわれ、古くは武士も着用しました。江戸時代には腰から下にひだを付け、普段着にもなりますが、袴ははかないのが普通でした。

そもそもは、鎌倉末期に素襖より下級の小素襖のことです。高貴な人が外出する時に輿舁きや供侍が上着の上から掛けて、腰回りを帯で締めて四幅袴を履くようになりました。室町時代には上下ともに侍の旅行用衣服に転じ、江戸時代には袴が省略されて、儒者、医師、俳諧師、絵師、茶人など、剃髪した人の外出着や礼服と変化していきました。黒無紋の精好、絽、紗といった布地で仕立て、脇を縫い綴じ、共切れの平ぐけの短い紐を付けて、腰から下にひだをこしらえています。見るからに浮世離れした風流人の上品な風情です。これが変化していって、羽織となってきます。

後藤は江戸の「造幣局」  【RIZAP COOK】

金座は勘定奉行に直属です。家康が貨幣制度の整備を企てて日本橋に金座を設け、新両替町(現・中央区銀座一-四丁目)に駿府から銀座を移転。家臣の後藤庄三郎光次に両方を統括させ、金貨・銀貨を鋳造・鑑定させたのが始まりです。

金座の設置は文禄4(1595)年、銀座は慶長17(1612)年とされます。後藤庄三郎は代々世襲で、大判小判を俗に「光次」と呼んだのはそのためです。

金座は当初、日本橋金吹町(「長崎の赤飯」参照)に設けられ、後藤の配下で、実際に貨幣に金を吹きつける役目の業者を「金吹き」と呼びましたが、元禄8(1695)年にこれを廃止。

新たに鋳造所を本郷に移転・新築しましたが、間もなく火事で全焼し、同11(1698)年、後藤の官宅があった、金吹町のすぐ真向かい、日本橋本石町二丁目の現日銀本店敷地内へ再移転しました。

一石橋  【RIZAP COOK】

正確には「いちこくばし」と読みます。中央区日本橋本石町一丁目から、同八重洲一丁目までの外堀通りを南北に渡し、北詰に日銀本店、その東側に三越があります。

この橋上から自身と常磐橋、呉服橋、鍛冶橋、銭亀橋、日本橋、江戸橋、道三橋と、隅田川を代表する八つの橋を一望する名所で、別名を「八ツ橋」「八つ見の橋」といったゆえんですが、現在は情けなくも高速道路の真下です。

噺の中の「ゴトとゴトで一石」は俗説です。このダジャレ説のほか、橋のたもとに米俵を積み上げ、銭一貫文と米一石を交換する業者がいたからとする説も。どちらも信用されていなかったらしく、「屁のような由来一石橋のなり」と、川柳で嘲笑される始末でした。

もう一つの「呉服屋の後藤」は、幕府御用を承る後藤縫之助で、「北は金 南は絹で橋をかけ」と、これまた川柳に詠まれました。

一石橋の南の呉服橋はこの後藤の官宅に由来し、橋自体、元は「後藤橋」と呼ばれていたとか。一石橋の南詰に安政4年(1857)、迷子札に代わる「まひごのしるべ石」が置かれ、現存しています。

【語の読みと注】
直綴 じきとつ
素襖 すおう
小素襖 こずおう
輿舁き こしかき
供侍 ともざむらい
四幅袴 よのばかま
剃髪 ていはつ
無紋 むもん
精好 せいごう
絽 ろ
紗 しゃ
共切れ ともぎれ
平ぐけ ひらぐけ
羽織 はおり

【RIZAP COOK】

【十徳 八代目春風亭柳枝】

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