成城石井.com ことば 噺家 演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席
【どんな?】
夜道、職人が田舎侍に斬られた、らしい。
首はどぶ板の上でしゃべってる。
胴体は気づかず歩いてる。
おいおい。これは困ったなぁ。
【あらすじ】
露天博打ですってんてんにされた職人。
寒さにふるえ、
「ついてねえ」
と、ぐちりながら
「土手は寒かろォォ」
と、やけで都々逸をうなって道を急いでいると、ふいに
「それへめえる町人、しばらく待て」
と呼び止められる。
驚いて、暗がりをすかして見ると、大柄な侍。
むかっ腹が立って
「なんの用だか知らなえが、江戸は火事早えんだ、とんとんやっつくれ」
と、まくしたてると
「身供は今日、国元より初めてまかり越した。麹町へはどうめえるか、教えろ」
男、田舎侍と侮って八つ当たり気味に
「この野郎、おおたばなことォぬかしゃあがって。どうでもめえれ。東ィ行ってわからなきゃあ西、西で知れなきゃ北、東西南北探せ。どっか出らあ。ぐずぐずしやがると、たんたんで鼻かむぞ」
「無礼を申すと手は見せんぞ。長いのが目に入らんか。……二本差しておるぞ」
「てやんでえ田子作め。見せねえ手ならしまっとけ。手妻使いじゃあるめえし、そんな長いもんが目に入るか。二本差しがどうしたんでえ。二本差しがこわくて田楽で飯が食えるか。気のきいた鰻なんぞァ四本も五本もさしてらァ。まごまごしゃあがると引っかくぞ」
男、侍にいきなり痰と唾をひっかけた。
これがご紋どころへ、べっとり。
侍、堪忍袋の緒が切れて
「おのれ無礼者ッ」
と、長いのをすっと抜く。
さすがに驚いて、ばたばたと逃げてかかると、追いかけた侍、
「えいっ」
と、掛け声もろとも居合いでスパッと斬り、あっという間に鞘に納めると、謡をうたって行ってしまった。
男、「つらァみやがれ」と、悪態をついているうちに、なんだか首筋がひんやり。
首がだんだん左回りに回ってずれてくる。
そのうち完全に真横を向き、息が漏ってきた。
「野郎、いったい何しゃあがったか」と、首筋をしごくと赤い血がベットリ。
「野郎、斬りゃあがった」
と、あわてて下を向くと、とたんに首は前に転げ、胴体だけが掛け出し、橋を渡ったところでバッタリ。
そこへ、威勢よく鼻唄をうなった男が来かかる。
酒が入って懐が温かいらしい。首だけで見上げると、友達の熊。
いきなり声をかけられたが、姿が見えないのでキョロキョロ。
「どこにいるんだ?」
「足もと」
見ると首だけがどぶ板に乗っかって、しゃべっている。
「どうしたんだよ。……おやおや、だから言わねえこっちゃねえ。くだらねえサンピンにかかわるなって。で、胴はどうした? 橋向こう? そりゃ、てえへんだ」
熊が
「今日は博打の目が出て、二、三十両もうかった」
と自慢すると、首が
「五両貸してくれ」
と、頼む。
「そらあ、友達だから貸さねえもんでもねえが、その金でどうしようってんだ?」
「へへっ、橋向こうに胴を取りに行く」
【しりたい】
クビが飛んでも動いてみせるわ
前半は「首提灯」と同じで、原話は安永3年(1774)刊の笑話本『軽口五色帋』中の「盗人の頓智」ほかの小咄です。「首提灯」をお読みください。
江戸落語と思いきや、噺としては上方種です。長く大阪で活躍した三代目三遊亭円馬(橋本卯三郎、1882-1945、大阪→東京)が東京に移植しました。
先の大戦後は、三代目三遊亭小円朝(芳村幸太郎、1892-1973)が持ちネタにしましたが、ポピュラーな「首提灯」と前半がほとんど同じなので、小円朝没後はほとんど演じられません。
一つには、「館林」「首提灯」と同様に首を斬られてもしゃべるという奇想天外さを持ちながら、斬られてからのセリフが長すぎるため、せっかくの新鮮な印象が薄れてしまうということも、あるのでしょう。
おおたば
「この野郎、おおたばなことォぬかしゃァがってェ」
と、タンカの先陣を切りますが、おおたばは「大束」で、本来は「並々でないことを安易に安っぽく扱うこと」。
ところが、どこかで意味の誤用が定着したのか、それと正反対の「大げさなこと」という意味に変わりました。
さらにそこから、「傲慢」「尊大」「横柄」「大言壮語」という意味がついたのですから、ややっこしいかぎりです。
この場合は悪態ですから、当然第二の意味ですが、「もっとご丁寧に頼むのが礼儀なのに、町人と侮って、安易にぬかしゃあがって」という意味にも取れなくはありません。
蛇足ながら、ネイティブの発音では「おおたば」の「ば」は「ば」と「ぼ」の中間の破裂音です。
胴取り
バクチで親になることで、オチは、もちろんそれと掛けた洒落です。
浅黄裏
あさぎうら。「棒鱈」「首提灯」を聴いてもわかりますが、ご直参の旗本には一目置いていた江戸っ子も「浅黄裏」と蔑称する田舎侍は野暮の象徴です。
江戸勤番ともいい、参勤交代で藩主について国許から出てきた藩士です。
同じ藩中でも、江戸詰めの者は、中には江戸の藩邸で生まれ、勤務はずっと在府で、国許を知らないことさえあったのですから、その立ち居ふるまいや暮らしぶりの違いは相当なものでした。
江戸勤番でも、「立ち返り」といってそのまま引き返す者と、藩主の在府中、江戸に留まる者とに分かれていました。
やがては、浅黄裏どもに完膚なきまでにやられ、江戸を思いのままにされてしまったのですから、ベランメエも口ほどにもありません。
露天博打
野天丁半ともいい、ほとんどイカサマでした。江戸では浅草の大鳥神社境内が本場。
三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)の「怪談牡丹燈籠」の伴蔵の啖呵、「二三の水出しやらずの最中、野天丁半ぶったくり」は有名で、水出しも最中も露天博打の種類です。