ゆうじょかい【幽女買い】落語演目

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

遊女と幽女。ただのしゃれ。暇人の手わざでなけりゃこんな噺は始まりません。

別題:魂祭 亡者の遊興

【あらすじ】

急に暗いところに来てしまった太助、三月前に死んだはずの源兵衛に声をかけられてびっくり。

「おめえは確かに死んだよな」
と念を押すと
「おめえ、おれの通夜に来たろ」

太助が通夜の席で
「世の中にこんな助平で女郎買いの好きな奴はなくて、かみさんは子供を連れて出ていくし、これ幸いと女を次々に引きずり込んだはいいが、悪い病気をもらって、目はつぶれる、鼻の障子は落ちる、借金だらけで満足な葬式もできない始末だから、どっちみち地獄おちは間違いない。弔いはいいかげんにして、焼いて粉にして屁で飛ばしちまおう」
とさんざん悪口を言ったのを、当人に全部聞かれている。

死骸がまだそこにあるうちは聞こえるという。

太助、死んだ奴がどうしてこんなところにいるのか、まだわからない。

「てめえも死んだからヨ」
「おれが死んだ? はてな」

そう言われれば、かみさんが枕元で医者に
「間違いなく死にました? 生き返らないでしょうね?……先生、お通夜は半通夜にしてみんな帰しますから、あの、今晩……」
なんぞと抜かしていたのを思い出した。

「ちきしょうめッ」
と怒っても、もう後の祭り。

ここのところ飢餓や地震で亡者が多くなり、閻魔えんまの庁でも忙しくて手が回らず、源兵衛も「未決」のまま放っておかれているという。

浄玻璃じょうはりの鏡も研ぐ時間がないため、娑婆しゃば悪業あくごうがよく写らないのを幸い、そのうちごまかして極楽へ通ってしまう算段を聞き、太助も一口乗らせてもらうことにした。

お互いに死んだおかげで、すっかり病気も治って元気いっぱい。

白団子をさかなに祝杯をあげるうち、こっちにも吉原ならぬ死吉原があり、遊女でなく幽女買いができるので、ぜひ繰り込もうとうことになった。

三枚駕籠さんまいかごの代わりに早桶はやおけ大門おおもんに乗りつけると、人魂ひとだま入りの提灯ちょうちんがおいでおいで。

ここでは江戸町えどちょう冥土町めいどちょう揚屋町あげやまちはあの世町。

見世も、松葉屋は末期屋まつごや、鶴屋は首つる屋と名が変わる。

女郎はというと、張り見世からのぞくと、いやに痩せて青白い顔。

ここではそれが上玉じょうだまだとか。

女が
「ちょいとそこの新亡者しんもうじゃ、あたしが往生さしてあげるからさ」
と袖をひくので揚がると
「へいッ、仏さまお二人ッ」

わっと陰気に枕団子の付け焼きで、まず一杯。

座敷では芸者が首から数珠じゅずをぶらさげ、りんと木魚もくぎょ
「チーン、ボーン」。

幇間たいこ
「えーご陰気にひとつ」
と、坊主姿で百万遍ひゃくまんべん

お引けになると、御詠歌ごえいかが聞こえ、生あたたかい風がスーッ。

「うらめしい」
「待ってました。幽ちゃん」

夜が明けると
「『おまはんが好きになったよ』って女が離れねえ。『いっそ二人で生きたいね』『生きて花実はなみが咲くものか』なんて」
と妙なノロケ。

帰りがけにのどがかわいたので、「末期の水」を一杯のみ干し、
「やっかいになった。また来るよ」
「冥土ありがとうございます」

表へ出ると向こうから
「お迎え、お迎え」

しりたい

縁起の悪さで五つ星!

上方落語の「けんげしゃ茶屋」と並び、私(高田)としては正月の初席でやってほしい噺の双璧そうへきなのですが、立川談志のあとはなぜか、ほとんどやり手がなさそうなのが残念しごく。

談志演出での、主人公二人の、地獄におちて当然の強悪ごうあくぶりには本当に感服させられました。

とりわけ、「焼いて屁で飛ばしちまう」には笑えます。

後半は、単に現実の茶屋遊びを地獄に置き換え、縁起の悪い言葉を並べただけで、ややパワーが落ちますが、談志が前半の通夜の太助の悪口あっこうと、女房と医者のちちくりあいを創作しただけで、この噺は聴くに値するものになりました。

どなたか、後半をもう少しおもしろくつくってもらえればいいのですが。

浄玻璃の鏡

地獄の閻魔えんまの庁で、亡者もうじゃ娑婆しゃばでの行状ぎょうじょうをありありと映し出す鏡。

昔の鏡は金属製でくもりやすく、そのつど鏡研師かがみとぎしがせなければなりませんでした。

三枚駕籠

三枚肩さんまいかたともいい、一丁いっちょう駕籠かごに三人の駕籠舁かごかきが付き、交代で担ぎます。急用のとき、またはくるわ通いで見栄みえを張る場合などに雇いました。

お迎え

盆に、精霊流しょうりょうながしの余りをもらい歩く物ごいの声と、吉原で茶屋の者が客を迎えに来る声を掛けたものです。

古いやり方と速記

明治中期、「魂祭たままつり」の題で演じた六代目桂文治ぶんじ(桂文治、1843-1911、→三代目桂楽翁)、「亡者もうじゃ遊興あそび」とした二代目三遊亭小円朝こえんちょう(芳村忠次郎、1858-1923、初代金馬→)の速記が残っています。

文治では、地獄の茶屋で、隣のもてぶりに焼き餅を焼き、若い衆に文句を言う官員と職人の二人を登場させていますから、あるいはこの噺は「五人廻し」のパロディーとして作られたのかもしれません。

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だくだく【だくだく】落語演目

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

泥棒と書き割り家の主が「つもり」ごっこ。やってる間に「血が……」と。

別題:書割盗人(上方)

【あらすじ】

あるドジな泥棒、どこに押し入っても失敗ばかりしている上、吉原の女に入れ上げて、このところ財布の中身がすっからかん。

「せめて十円ばっかりの物を盗んで、今夜は女に大きい顔をしてえもんだ」
というので、仕事場を物色しながら、浅草馬道のあたりを通りかかると、明かりがぼんやりついていて、戸が半分開きかかった家がある。しめたッとばかり、そろりと忍び込んでみると、家中に豪華な家具がずらり。

桐の火鉢、鉄砲、鳶の道具一式、真鍮の薬罐……。道具屋かしらん。

それにしちゃァ、妙なようすだと思って、抜き足で近づいてよくよく見てみると
「なんでえ、こりゃあ。みんな絵に描いたやつだ。こいつァ芝居の道具師の家だな」

なるほど、芝居の書き割りに使う絵以外、この家には本物の家具などまったくない。

きれいさっぱりがんどう。

「ははーん、この家に住んでる奴ァ、商売にゃあちげえねえだろうが、家財道具一切質に入れやがって、決まりが悪いもんだから、見栄を張ってこんなものを置いてやがるんだな」
と合点すると、泥棒、がっかりするよりばかばかしくなったが、しかたがない。

盗むものがなにもなければ、せめて盗んだ気にでもなって帰ってやるかと、もともと嫌いではないので、急に芝居っ気が起こってきた。

「ええっと、まず箪笥の引き出しをズーッと開けると着物が一枚あったつもり。その下に博多の紺献上の、十円はする帯があったつもり。ちょいと端を見ると銀側の男物と女物の時計が二つあったつもり」

だんだん熱が入ってきて、こっちの引き出しをちょいと開けるとダイヤ入りの金の指輪があったつもり。
向こうに掛かっている六角時計を取って盗んだつもり。
こっちを見ると応挙先生の掛け軸があるから、みんな取っちまったつもり。

しまいには自分でこしらえだした。

「みんな風呂敷に入れたつもり、そうっと表に出たつもり」

ちょうど目を覚ましたのがこの家の主人。

どこのどいつだと目をこすって見ると、泥棒が熱演中。

そこが芝居者。

おもしろいから俺もやってやろうというので
「長押に掛けたる槍をりゅうとしごいて泥棒の脇腹をプツーリ突いたつもり」
とやると、泥棒が
「うーん、無念。わき腹から血がだくだく出たつもり」

底本:初代三遊亭円遊

【しりたい】

原話

小ばなしがふくらんだ噺です。

安永年間刊の笑話本『芳野山』中の「盗人」、『折懸柳』中の「絵」などが原話と考えられています。

浅草馬道

台東区花川戸、浅草辺の大通り。

由来は、浅草寺の僧が馬の稽古をしたところから。(『江戸から東京へ』矢田挿雲)

遊客が白馬に乗って吉原まで通ったからという俗説もあります。

三代目金馬の回想から

五代目志ん生の四人目の師匠(落語家としては三人目)で、大正昭和の爆笑王だった初代柳家三語楼が、この噺をやって高座から下りようとすると、客が「あーあ、おもしろかったつもり」と声をかけたので、三語楼が「客にウケたつもり」とやって平然と引っ込んだという、シャレたお話です。

さらに

後年、先代柳亭痴楽も同じことを言われ、今度は「いやな客の横っ面を張り倒したつもり」ときつい捨てゼリフで引っ込んだとか。

噺家がいちいち怒ったのではしゃれになりませんが、相当カチンときたごようすで。

なにやら、この噺にかぎって、同じことは何度も繰り返されているようですね。

そのつど落語家が、どう言い返したか調べられるとちょいとおもしろいつもり、なのですが。

現代の日常生活にも、場をやわらげるユーモアとしてアレンジできそうな気がします。ただし、連発はシラけますが。

明治の円遊が開発

明治中期に改作落語とすててこ踊りで売れに売れた初代三遊亭円遊が、短いながらギャグを充実させ、人気作に仕立てました。

あらすじのテキストとしたのは、その円遊の明治26年(1893)の「百花園」に掲載された速記です。

オチの「血がだくだく……」は、現行と異なり、泥棒でなく、家のあるじが言っています。

軽い噺なので、現在も前座など、若手によってよく演じられます。

家の主人を芝居の道具師でなく、八五郎とし、大阪やり方にならって、家具を絵師に頼んで描いてもらう場面を前に付ける演出もあります。

書割盗人

かきわりぬすっと。上方の噺では「書割盗人」という演目となります。

泥棒の独り言の、本来の古い形は、「……つもり」ではなく「……した体(てい)」ですが、今では東京風にしないとわからないでしょう。

オチではこちらは血を出さず、「うわっ、やられたっと死んだ体」となります。

博多の紺献上

幾何学模様(多角形や円などの図案化)に縞模様を織りだした帯地です。由来は、博多の黒田の殿さまが幕府に献上したところから、この名があります。

応挙先生

円山応挙(1733-95)のことです。

江戸中期の絵師で、精細な自然観察にもとづく写生画が特徴。足の見えない、すご味のある幽霊画は有名ですね。

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

かじかざわ【鰍沢】落語演目

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席 円朝作品

【どんな?】

身延参詣の帰り、宿を借りたら命狙われ雪中の逃避行。

円朝噺。続編は「晦の月の輪」。

別題:鰍沢雪の夜噺 鰍沢雪の酒宴 月の輪お熊

あらすじ

おやじの骨を甲州こうしゅう身延山みのぶさん久遠寺くおんじに納めるため、参詣かたがたはるばる江戸からやってきた新助。久遠寺は日蓮宗の本山だ。

帰り道に山中で大雪となり、日も暮れてきたので道に迷って、こんな場所で凍え死ぬのは真っ平だから、どんな所でもいいから一夜を貸してくれる家はないものかと、お題目だいもくを唱えながらさまよううち、遠くに人家の灯、生き返った心地で宿を乞う。

出てきたのは、田舎にまれな美しい女。年は二十八、九か。

ところが、どうしたことか、のどから襟元にかけ、月の輪型の傷跡がある。

家の中は十間ほどの土間。

その向こうの壁に獣の皮が掛かっていて、欄間には火縄の鉄砲。

猟師の家とみえる。

こんな所だから食べる物もないが、寝るだけなら、と家に入れてくれ、囲炉裏の火にあたって人心地つくうち、ふとした会話から女が江戸者だとわかる。

それも浅草の観音さまの裏あたりに住んでいたという……。

「あの、違ったらお詫びしますが、あなた、吉原は熊蔵丸屋の月の戸花魁(おいらん)じゃあ、ありませんか」
「えっ? おまえさん、だれ?」

男にとっては昔、初会惚れした忘れられない女。

ところが、裏を返そうと二度目に行ってみると、花魁が心中したというので、あんなに親切にしてくれた人がと、すっかり世の無常を感じて、それっきり遊びもやめてしまったと、しみじみ語ると、花魁の方も打ち明け話。

心中をし損ない、喉の傷もその時のものだという。

廓の掟でさらされた後、品川の岡場所に売られ、ようやく脱走してこんな草深い田舎に逃れてきたが、今の亭主は熊撃ちをして、その肝を生薬屋きぐすりやに売って細々ほそぼそと生計を立てている身。

「おまえはん、後生ごしょうだから江戸へ帰っても会ったことは内密にしてください」
としんみりと言うので、新助は情にほだされ、ほんの少しですがと金包みを差し出す。

「困るじゃあありませんか」
と言いつつ受け取った女の視線が、ちらりとその胴巻きをかすめたことに、新助は気づかない。

もと花魁おいらん、今は本名お熊が、体が温まるからと作ってくれた卵酒に酔いしれ、すっかりいい気持ちになった新助は、にわかに眠気を催し、別間に床を取ってもらうと、そのまま白川夜船しらかわよふね

お熊はそれを見届け、どこかへ出かけていく。

入れ違いに戻ってきたのが、亭主の伝三郎。

戸口が開けっ放しで、女房がいないのに腹を立て、ぶつくさ言いながら囲炉裏を見ると、誰かが飲んだらしい卵酒の残り。

体が冷えているので一気にのみ干すと、そこへお熊が帰ってくる。

亭主の酒を買いに行ったのだったが、伝三郎が卵酒をのんだことを知ると真っ青。

「あれには毒が……」
と言う暇もなく伝三郎の舌はもつれ、血を吐いてその場で人事不省じんじふせいになる。

客が胴巻きに大金を忍ばせていると見て取り、毒殺して金を奪おうともくろんだのが、なんと亭主を殺す羽目に。

一方、別間の新助。

目が覚めると、にわかに体がしびれ、七転八倒の苦しみ。

それでもなんとか陰からようすを聞き、事情を悟ると、このままでは殺されると、動かぬ体をひきずるように裏口から外へ。

幸い、毒酒をのんだ量が少なかったか、こけつまろびつ、お題目を唱えながら土手をよじ登り、下を見ると東海道は岩淵に落ちる鰍沢の流れ。

急流は渦巻いてドウドウというすさまじい水勢。

後ろを振り向くと、チラチラと火縄の火。

亭主の仇とばかり、お熊が鉄砲を手に追いかけてくる。

雪明りで、下に山いかだがあるのを見ると、新助はその上にずるずると滑り落ちる。

いかだは流され、岩にぶつかった拍子にバラバラ。

たった一本の丸太にすがり、震えてお題目を唱えていると、上からお熊が狙いを定めてズドン。

弾丸はマゲをかすって向こうの岩に命中した。

「ああ、大難を逃れたも、お祖師そしさまのご利益りやく。たった一本のお材木(=題目)で助かった」

底本:四代目三遊亭円生、四代目橘家円喬

しりたい

三題噺から創作  【RIZAP COOK】

三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)の作。

幕末には、お座敷や特別の会の余興に、客が三つの題を出し、落語家が短時間にそれらを全部取り入れて一席の噺をまとめるという三題ばなしが流行しましたが、円朝がその席で「鉄砲」「毒消しの護符」「玉子酒」の三つのキーワード(一説には「小室山の護符」「熊の膏薬」「玉子酒」とも)から即座にまとめたものです。

三題噺からできた落語では、円朝がつくったといわれる「芝浜」があります。

原話は道具入り芝居噺として作られ、その幕切れは、「名も月の輪のお熊とは、食い詰め者と白浪の、深きたくみに当たりしは、のちの話の種子島危ないことで(ドンドンと水音)あったよなあ。まず今晩はこれぎり」となっています。

とうのは、これまでの通説です。

最近の研究では、ちょっと違ってきています。

文久年間に「粋狂連すいきょうれん」のお仲間、河竹黙阿弥かわたけもくあみ(吉村芳三郎、1816-93)がつくったものを円朝が譲り受けた、というのが、最近のおおかたの説です。

歌舞伎の世界では日蓮宗の篤信家が多かったこと、幕末期の江戸では浄土宗と日蓮宗の話題を出せばウケがよいため、信心がなくても日蓮宗を話材に取り上げることがありました。

黙阿弥の河竹家は浄土真宗で、菩提寺は浅草北島町の源通寺げんつうじです。

興行で提携していた四代目市川小団次(栄次郎、1812-66)こそが日蓮宗の篤信家だったのです。黙阿弥は作者に徹していたわけですね。

このころの円朝は、異父兄・玄昌げんしょうの住持する日暮里の南泉寺なんせんじ(臨済宗妙心寺派)などで 座禅の修行をしていましたから、日蓮宗とは無縁だったはず(晩年は日蓮宗に改宗)。

ですから、当時の円朝はお題目とは無縁だったのですが、江戸の町では、浄土宗(念仏系)と日蓮宗(題目系)との信心対立が日常茶飯事で、なにかといえば「南無阿弥陀仏」「南無妙法蓮華経」が人の口の端について出る日々。

円朝も「臨済禅だから無関係」といっているわけにはいかなかったようですね。

人々が信じる宗派をはなしに取り込まなくては芸の商売になりませんし。黙阿弥と同じ立場です。

江戸期にはおおざっぱに、上方落語には念仏もの(浄土宗、浄土真宗、時宗など)が多く登場し、江戸落語には題目もの(日蓮宗、法華宗など)が多く取り上げられる、といわれています。このはなしもご多分に漏れなかったようです。

「鰍沢」と名人たち  【RIZAP COOK】

円朝は維新後の明治5年(1873)、派手な道具入り芝居噺を捨て、素噺すばなし一本で名人に上り詰めました。

「鰍沢」もその関係で、サスペンスがかった人情噺として演じられることが多くなりました。

円朝門下の数々の名人連に磨かれ、三遊派の大ネタとして、戦後から現在にいたるまで受け継がれてきました。

明治の四代目橘家円喬たちばなやえんきょう(柴田清五郎、1865-1912)の迫真の名演は、今も伝説的です。

近年では八代目林家正蔵(岡本義、1895-1982、彦六)に正統が伝わり、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)も晩年好んで演じました。

元の形態の芝居噺としては、彦六が特別な会で復活したものの、門弟の林家正雀しょうじゃく(井上茂、1951-)に継承されたほかは、やり手はいないようです。

志ん生の「鰍沢」  【RIZAP COOK】

志ん生は、自らが円朝→円喬の系統を継ぐ正統の噺家であるという自負からか、晩年、「円朝全集」(春陽堂版)を熟読し、「塩原多助」「名人長二」「鰍沢」など、円朝がらみの長編人情噺を好んで手がけました。

志ん生の「鰍沢」は、全集の速記を見ると、名前を出しているのはお熊だけで、旅人も亭主も無人称なのが特色ですが、残念ながら成功したとは言いがたい出来です。リアルで緻密な描写を必要とする噺の構造自体が、志ん生の芸風とは水と油なのでしょう。

音源は、病後の最晩年ということもあり、口が回らず、無残の一語です。五十代の志ん生が語る「鰍沢」を一度聞いてみたかったと思います。

続編は「晦の月の輪」  【RIZAP COOK】

歌舞伎作者の黙阿弥作で、やはり円朝が芝居噺として演じたとされる、この噺の続編が「鰍沢二席目」です。

正式には「みそかの月の輪」といい、やはり三題噺(「花火」「後家」「峠茶屋」)から作られたものといわれます。

毒から蘇生した伝三郎が、お熊と信濃しなの明神峠みょうじんとうげで追いぎを働いているところへ、偶然新助が通りかかり、争ううちに夫婦が谷底へ転落するという筋立てです。

明治以後、演じられた形跡もなく、芝居としての台本もありません。

岩波書店版「円朝全集」には別巻2に収められています。

鰍沢とは  【RIZAP COOK】

現在の山梨県南巨摩みなみこま郡鰍沢町。甲州は甲斐国かいのくに(山梨県)。東海道から甲府に至る交通の要衝ようしょうです。

古くから富士川沿いの川港として物資の集積点となり、栄えました。

「鰍沢の流れ」は富士川の上流のことです。

東海道岩淵在は現在の静岡県庵原いはら郡富士川町にあたります。

「鰍沢」は人情噺には珍しく、新助が急流に転落したあと「今のお材木(=お題目)で助かった」というオチがついています。

おせつ徳三郎」のオチと同じなので、これを拝借したものでしょう。

晒し刑  【RIZAP COOK】

男女が心中を図って亡くなった場合は死骸取り捨てで三ノ輪の浄閑寺じょうかんじや亀有の善応寺ぜんのうじなどの投げ込み寺に葬られました。

どちらかが生き残った場合は下手人げしゅにんの刑として処刑されました。

両方とも生き残った場合は、日本橋南詰みなみづめ東側に三日間、さらし刑にされました。

これは悲惨です。

縄や竹などで張られた空き地に、かや棕櫚しゅろなどでいた三方開きに覆いの中にむしろを敷いて、その上に座らせられて、罪状が記された捨て札、横には刺す股、突く棒、袖搦そでがらみみといった捕り方道具を据えられて、往来でさんざんに晒されます。

物見高い江戸っ子の娯楽でもありました。

江戸っ子は無責任で残酷です。四日後、男女は別々に非人に落とされていきます。

日本橋 馬鹿をつくした 差し向かい
江戸のまん中で わかれる情けなさ
死すべき時 死なざれば 日本橋
日本に 死にそこないが 二人なり
日本橋 おしわけてみる 買った奴
四日目は 乞食で通る 日本橋
吉原の 咄をさせる 小屋頭

「江戸のまん中」「日本」は日本橋のこと。

吉原で「買った奴」がまざまざと眺める光景は世間の非情と滑稽を点描しています。

「乞食」とは非人のことでしょう。江戸っ子には乞食も非人も同類の認識だったのがわかります。「小屋頭」とは非人頭のこと。

浅草では車善七くるまぜんしち、品川では松右衛門まつえもんと決まっていました。

吉原で遊女をしていた頃の話を根掘り葉掘り聞こうとする非人頭も、ずいぶんといやらしい了見です。

そんなこんなの非道体験を経た後、伝三郎とお熊は鰍沢に人知れず消えていったわけです。

彼らの心境も多少は推しはかれるかもしれません。

【語の読みと注】
浄閑寺 じょうかんじ:荒川区南千住二丁目の浄土宗寺院。投げ込み寺でした
善応寺 ぜんのうじ:足立区中川三丁目の真言宗寺院。投げ込み寺でした

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席 円朝作品

やまざきや【山崎屋】落語演目

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【どんな?】

道楽にはまってしまったご大家の若だんな。

これはもう、三遊亭円生と林家彦六で有名な噺です。

【あらすじ】

日本橋横山町の鼈甲問屋、山崎屋の若だんな、徳三郎は大変な道楽者。

吉原の花魁に入れ揚げて金を湯水のように使うので、堅い一方の親父は頭を抱え、勘当寸前。

そんなある日。

徳三郎が、番頭の佐兵衛に百両融通してくれと頼む。

あきれて断ると、若だんなは
「親父の金を筆の先でちょいちょいとごまかしてまわしてくれりゃあいい。なにもおまえ、初めてゴマかす金じゃなし」
と、気になる物言いをするので、番頭も意地になる。

「これでも十の歳からご奉公して、塵っ端ひとつ自侭にしたことはありません」
と、憤慨。

すると若だんな、ニヤリと笑い、
「この間、湯屋に行く途中で、丸髷に襟付きのお召しという粋な女を見かけ、後をつけると二階建ての四軒長屋の一番奥……」
と、じわりじわり。

女を囲っていることを見破られた番頭、実はひそかに花魁の心底を探らせ、商家のお内儀に直しても恥ずかしくない実のある女ということは承知なので
「若だんな、あなた、花魁をおかみさんにする気がおありですか」
「そりゃ、したいのはやまやまだが、親父が息をしているうちはダメだよ」

そこで番頭、自分に策があるからと、若だんなに、半年ほどは辛抱して堅くしているようにと言い、花魁の親元身請けで請け出し、出入りの鳶頭に預け、花魁言葉の矯正と、針仕事を鳶頭のかみさんに仕込んでもらうことにした。

大晦日。

小梅のお屋敷に掛け取りに行くのは佐兵衛の受け持ちだが、
「実は手が放せません。申し訳ありませんが、若旦那に」
と佐兵衛が言うと旦那、
「あんなのに二百両の大金を持たせたら、すぐ使っちまう」
と渋る。

「そこが試しで、まだ道楽を始めるようでは末の見込みがないと思し召し、すっぱりとご勘当なさいまし」
と、はっきり言われてだんな、困り果てる。

しかたがないと、「徳」と言いも果てず、若旦那、脱兎のごとく飛び出した。

掛け金を帰りに鳶頭に預け、家に帰ると
「ない。落としました」

旦那、使い込んだと思い、カンカン。

打ち合わせ通りに、鳶頭が駆け込んできて、若旦那が忘れたからと金を届ける。

番頭が、旦那自ら鳶頭に礼に行くべきだと進言。

これも計画通りで、花魁を旦那に見せ、屋敷奉公していたかみさんの妹という触れ込みで、持参金が千両ほどあるが、どこかに縁づかせたいと水を向ければ、欲にかられて旦那は必ずせがれの嫁にと言い出すに違いない、という筋書き。

その通りまんまとだまされた旦那、一目で花魁が気に入って、かくしてめでたく祝言も整った。

旦那は徳三郎に家督を譲り、根岸に隠居。

ある日。

今は本名のお時に帰った花魁が根岸を訪ねる。

「ところで、おまえのお勤めしていた、お大名はどこだい?」
「あの、わちき……わたくし、北国でござんす」
「北国ってえと、加賀さまかい? さだめしお女中も大勢いるだろうね」
「三千人でござんす」
「へえ、おそれいったな。それで、参勤交代のときは道中するのかい?」
「夕方から出まして、武蔵屋ィ行って、伊勢屋、大和、長門、長崎」
「ちょいちょい、ちょいお待ち。そんなに歩くのは大変だ。おまえにゃ、なにか憑きものがしているな。諸国を歩くのが六十六部。足の早いのが天狗だ。おまえにゃ、六部に天狗がついたな」
「いえ、三分で新造が付きんした」

【しりたい】

原話は大坂が舞台   【RIZAP COOK】

安永4年(1775)刊の漢文体笑話本『善謔随訳』中の小咄が原話です。

この原典には「反魂香」「泣き塩」の原話もありました。

これは、さる大坂の大きな米問屋の若旦那が、家庭内暴力で毎日、お膳をひっくり返して大暴れ。心配した番頭が意見すると(以下、江戸語に翻訳)、「ウチは米問屋で、米なら吐いて捨てるほどあるってえのになんでしみったれやがって、毎日粟飯なんぞ食わしゃあがるんだ。こんちくしょうめ」。そこで番頭がなだめていわく、「ねえ若旦那、新町の廓の某って男をご存じでござんしょ? その人はね、大きな女郎屋のあるじで、抱えの女はそれこそ、天下の美女、名妓が星の数ほどいまさあね。でもね、その人は毎晩、お手手でして満足していなさるんですよ」

わかったようなわからんような。

どうしてこれが「原話」になるのか今ひとつ飲み込めない話ですが、案外こっちの方がおもしろいという方もいらっしゃるかもしれませんな。

円生、正蔵から談志まで  【RIZAP COOK】

廓噺の名手、初代柳家小せんが明治末から大正期に得意にし、明治43年(1910)7月、『文藝倶楽部』に寄せた速記が残ります。

このとき、小せんは27歳で、同年4月、真打ち昇進直後。

今、速記を読んでも、その天才ぶりがしのばれます。

五代目から六代目三遊亭円生、八代目林家正蔵(彦六)に継承され、円生、正蔵が戦後の双璧でした。

意外にやり手は多く、三代目三遊亭金馬、その孫弟子の桂文朝、談志も持ちネタにしていました。

円生、正蔵の演出はさほど変わりませんが、後者では番頭のお妾さんの描写などが、古風で詳しいのが特徴です。

オチもわかりにくく、現代では入念な説明がいるので、はやる噺ではないはずですが、なぜか人気が高いようで、林家小のぶ、古今亭駿菊、桃月庵白酒はともかく、二代目快楽亭ブラックまでやっています。

察するに、噺の古臭さ、オチの欠点を補って余りある、起伏に富んだストーリー展開と、番頭のキャラクターのユニークさが、演者の挑戦意欲をを駆り立てるのでしょう。

北国  【RIZAP COOK】

ほっこく。吉原の異称で、江戸の北方にあったから。

通人が漢風気取りでそう呼んだことから、広まりました。

これに対して品川は「南」と呼ばれましたが、なぜか「南国」とはいいませんでした。

これは品川が公許でなく、あくまで宿場で、岡場所の四宿の一に過ぎないという、格下の存在だからでしょう。

噺中の「道中」は花魁道中のこと。「千早振る」参照。

小梅のお屋敷  【RIZAP COOK】

若旦那が掛け取りに行く先で、おそらく向島小梅村(墨田区向島一丁目)の水戸藩下屋敷でしょう。

掘割を挟んで南側一帯には松平越前守(越前福井三十二万石)、細川能登守(肥後新田三万五千石)ほか、諸大名の下屋敷が並んでいたので、それらのどれかもわかりません。

どこであっても、日本橋の大きな鼈甲問屋ですから、女手が多い大名の下屋敷では引く手あまた、得意先には事欠かなかったでしょう。

小梅村は日本橋から一里あまり。風光明媚な郊外の行楽地として知られ、江戸の文人墨客に愛されました。

村内を水戸街道が通り、水戸徳川家が下屋敷を拝領したのも、本国から一本道という絶好のロケーションにあったからです。

水戸の中屋敷は根津権現社の南側一帯(現在の東大グラウンドと農学部の敷地)にありました。「孝行糖」参照。

親許身請け  【RIZAP COOK】

おやもとみうけ。親が身請けする形で、請け代を浮かせることです。

「三分で新造がつきんした」  【RIZAP COOK】

オチの文句ですが、これはマクラで仕込まないと、とうてい現在ではわかりません。

宝暦(1751-64)以後、太夫が姿を消したので遊女の位は、呼び出し→昼三→付け廻しの順になりました。

以上の三階級を花魁といい、女郎界の三役といったところ。

「三分」は「昼三」の揚げ代ですが、この値段ではただ呼ぶだけ。

新造は遊女見習いで、花魁に付いて身辺の世話をします。少女の「禿」を卒業したのが新造で、番頭新造ともいいました。

彦六のくすぐり  【RIZAP COOK】

番「それでだめなら、またあたくしが狂言を書き替えます」
徳「へええ、いよいよ二番目物だね。おまえが夜中に忍び込んで親父を絞め殺す」

この師匠のはくすぐりにまで注釈がいるので、くたびれます。

日本橋横山町  【RIZAP COOK】

現在の中央区日本橋横山町。

袋物、足袋、呉服、小間物などの卸問屋が軒を並べていました。

現在も、衣料問屋街としてにぎわっています。

かつては、横山町二丁目と三丁目の間で、魚市が開かれました。

落語には「おせつ徳三郎」「お若伊之助」「地見屋」「文七元結」など多数に登場します。

「文七元結」の主人公は「山崎屋」とまったく同じ横山町の鼈甲問屋の手代でした。

日本橋辺で大店が舞台の噺といえば、「横山町」を出しておけば間違いはないという、暗黙の了解があったのでしょう。

【語の読みと注】
鼈甲 べっこう
花魁 おいらん
掛け取り かけとり:借金の取り立て
新造 しんぞ:見習い遊女
禿 かむろ
二番目物 にばんめもの:芝居の世話狂言。濡れ場や殺し場

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こうやたかお【紺屋高尾】落語演目

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【どんな?】

「幾代餅」は志ん生系。映画「の・ようなもの」のプロットに使われていました。

別題:幾代餅 かめのぞき 紺屋の思い染め 駄染高尾

あらすじ

神田紺屋町の染め物職人、久蔵。

親方のところに十一の年から奉公して、今年二十六にもなるが、いまだに遊びひとつ知らず、まじめ一途の男。

その久蔵がこの間から患って寝ついているので、親方の吉兵衛は心配して、出入りの、お玉が池の竹内蘭石という医者に診てもらうことにした。

この先生、腕の方は藪だが、遊び込んでいて、なかなか粋な人物。

蘭石先生、久蔵の顔を見るなり
「おまえは恋患いをしているな。相手は今吉原で全盛の三浦屋の高尾太夫。違うか」

ズバリと見抜かれたので、久蔵は仰天。

これは不思議でもなんでもなく、高尾が花魁道中している錦絵を涎を垂らして眺めているのだから、誰にでもわかること。

久蔵はあっさり、
「この間、友達に、話の種だからと、初めて吉原の花魁道中を見に連れていかれたのですが、その時、目にした高尾太夫の、この世のものとも思えない美しさに魂を奪われ、それ以来、なにを見ても高尾に見えるんです」
と告白。

「ああいうのを一生一度でも買ってみたいものですが、相手は大名道具と言われる松の位の太夫、とても無理です」
とため息をつくと、先生、
「なに、いくら太夫でも売り物買い物のこと、わしに任せておけば会わせてやるが、初会に座敷に呼ぶだけでも十両かかるぞ」
と言う。

久蔵の三年分の給料だ。

しかし、それを聞くと、希望が出たのか、久蔵はにわかに元気になった。

それから三年というもの、男の一念で一心不乱に働いた結果たまった金が九両。

これに親方が足し増してくれて、合わせて十両持って、いよいよ夢にまで見た高尾に会いに行くことになったが、いくら金を積んでも紺屋職人では相手にしてくれない。

流山のお大尽ということにして、蘭石先生がその取り巻き。

帯や羽織もみな親方にそろえてもらい、すっかりにわか大尽ができあがった。

さて、吉原。

下手なことを口走ると紺屋がバレるから、久蔵、感激を必至で押さえ、先生に言われた通り、なんでも
「あいよ、あいよ」

茶屋に掛け合ってみると、折よく高尾太夫の体が空いていたので、いよいよご対面。

太夫だから個室。

その部屋の豪華さに呆気にとられていると、高尾太夫がしずしずと登場。

傾城座りといい、少し斜めに構えて、煙管で煙草を一服つけると
「お大尽、一服のみなんし」
「へへーっ」

久蔵、思わず平伏。

太夫ともなると、初会では客に肌身は許さないから、今日はこれで終わり。

花魁が型通り
「ぬし(主)は、よう来なました。今度はいつ来てくんなます」
と聞くと、久蔵、なにせこれだけで三年分の十両がすっ飛び、今度といったらまた三年後。その間に高尾が身請けされてしまったら、これが今生の別れだと思うと感極まり、思わず正直に自分の素性や経緯を洗いざらいしゃべってしまう。

ところが、それを聞いて怒るどころか、感激したのは高尾太夫。

「金で源平藤橘四姓の人と枕を交わす卑しい身を、三年も思い詰めてくれるとは、なんと情けのある人か……わちきは来年の二月十五日に年季が明けるから、女房にしてくんなますか」
と言われ、久蔵、感激のあまりり泣きだした。

この高尾が、紺屋のかみさんとなって繁盛するという、「紺屋高尾」の由来話。

底本:四代目柳亭左楽、六代目三遊亭円生

しりたい

藍染め   【RIZAP COOK】

布染めや糸染めを手がける職業を紺屋といいました。

糸染めだけを商売とするのは青屋といいました。

紺でも青でも、それ以外の色を染め出しても、染め物業は紺屋、青屋といっていました。

防虫防蛇の効果がある藍が染め物の代表格だったからです。

藍は色あせにくく、作業衣に向き、庶民衣装の基本の色だったからです。

発酵させた葉藍(蒅=すくも)を臼でつき、藍玉にして瓶に注ぎ、水と石灰を付け足して藍汁をとつくります。

瓶に添えた火壷で加熱しながら、ゆででつぶした甘藷(または水)で溶かした黒砂糖を添加して蓋をし、蓋をとってはかき回したりして、藍汁に光沢が出て泡(これを花と呼びます)が立つまで。しめて八日間かかる藍染め作業です。

作業場(染め場)には愛染明王を祀り(「愛染」を「あいぞめ」と読める音から)、四六時中、藍汁をなめてその具合を確認しながらの忍耐強い作業から、藍は生まれていきます。

職人の指は藍がしみついているのです。

高尾太夫代々   【RIZAP COOK】

高尾は代々吉原の名妓で、歌舞伎十八番「助六」でおなじみの三浦屋の抱え女郎です。

詳しい年代は不詳ですが、宝永(1704-11)から正徳(1711-16)にかけてが全盛といわれます。

紺屋の名は、実際は九郎兵衛とも伝わっています。

九郎兵衛の妻となった紺屋高尾または駄染め高尾は、三代目、または五代目ともいわれています。確証はありません。

高尾太夫は、吉原の三浦屋の抱え遊女の源氏名です。

これは複雑で、しかのも不詳や異説が多く、記すのもはばかられます。

七代、九代、十一代で混乱しているため、通称で呼んだりしています。

あえて整理してみましょう。

一般的な流布説をまとめました。

初代 通称なし。元吉原時代(1617-57)
二代 万治高尾、仙台高尾。伊達綱宗との巷説で。ここから新吉原時代に
三代 紺屋高尾、駄染め高尾。水谷高尾の一説も
四代 浅野高尾。浅野紀伊守(壱岐守とも)が身請けした巷説で
五代 紺屋高尾の異説も
六代 榊原高尾、越後高尾。姫路藩主榊原政岑が身請けし巷説で。越後高田に移封
七代 六つ指高尾。足の指が六本あったことで例外的に足袋を履いていた巷説で
八代 浅野高尾とも
九代 水茶屋高尾。采女が原(中央区東銀座)の水茶屋女になった巷説で
十代 榊原高尾とも
十一代 榊原高尾とも

高尾の素性も履歴も、まるでわかっていないことがわかります。

これが現状です。

わざわざこんなものを調査する、まともな研究者がいないのですね。

残念です。紺屋高尾は三代、五代でダブっています。

浅野高尾は四代、八代でダブり。

榊原高尾にいたっては、六代、十代、十一代で。こうなると、ほとんどあやしいとしかいえません。

高尾太夫を史実で探るのはナンセンス。伝説や物語でしか通用しません。

落語の世界でたっぷり楽しみましょう。

三代目の「水谷高尾」   【RIZAP COOK】

三代目高尾には異説があります。その名を水谷高尾という、もう一人の高尾像が伝えられています。

この人、もっともドラマチックな人生を経めぐったのではないでしょうか。

これだって、史実かどうかといわれれば、はなはだあやしいかぎりですが。

ただ、おもしろい人生です。

いろいろ着色したくなりますね。

新吉原の三浦屋で三代目高尾太夫を名乗っていた遊女が、水戸家の為替御用達、水谷六兵衛(水谷庄左衛門とも)に身請けされました。

この人は武士ではなく商人です。六兵衛の下人、当時六十八歳だった平右衛門と不義に陥って出奔。

その後、浄瑠璃語りの半太夫の妻となるも、家を出て牧野駿河守の側女に。

中小姓の河野平馬と通じて出奔。

めぐりめぐって深川の髪結いの女房となりながらも、やがては役者の袖岡政之助とつながったそうです。

最後には、神田三崎町の元結売りの妻となったそうですが、ここも落ち着かず。いつの日か、下谷大音寺前の茶屋、鎌倉屋の前で倒死していたといいます。

すごい人生です。

この女性は「三九高尾」とも呼ばたとか。達筆だったそうで、「ん」の字に特徴があったので、「はね字高尾」とも呼ばれたそうです。

万事こんな調子で尾ひれが付いていくのです。

さらには、島田重三郎(「反魂香」参照)とも恋仲だったという巷説まで付いて、盛り盛り高尾です。

花魁   【RIZAP COOK】

おいらん。吉原の遊女、女郎の別称です。最高位の「太夫」となれたのは二百人に一人といわれます。

享保(1716-36)ごろまでは、吉原では遊女のランクは、
(1)太夫
(2)格子
(3)散茶
(4)梅茶
(5)局
の順で、太夫と格子がトップクラスでした。

この(1)と(2)を合わせて、部屋持ち女郎の意味で「おいらん」(花魁は中国語の当て字)という名称が付きました。

語源は「おいら(自分)のもの」からとか。だいたい明和年間(1764-72)から使われ出したものです。

のちに、単に姉女郎に対する呼びかけ、さらには下級女郎に対しても平気で使われるようになりました。

これは、早く宝暦年間(1751-64)にトップ2の太夫と格子が絶えたのを端緒に、なし崩しに呼び名が下へ下がっていったためです。

ただし、どんな時代でも「おいらん」は吉原の女郎に限られました。

花魁については「盃の殿さま」の「吉原花魁盛衰記」にも記しておきました。

落語よりも浪曲で   【RIZAP COOK】

遊女は客にほれたといい
客はきもせでまたくるという
うそとうそとの色里で
恥もかまわず身分まで
よう打ち明けてくんなました
金のある人わしゃきらい
あなたのような正直な方を捨ておいて
ほかに男をもったなら
女冥利に尽きまする
いやしい稼業はしていても
わしもやっぱり人の子じゃ
情けに変わりがあるものか
義理という字は墨で書く

これは初代篠田実(1898-1985)の「紺屋高尾」です。

大正から昭和にかけての浪曲師。本名です。

京都府福知山市の出身。

大正12年(1923)9月、埋め草にかつて録音してあった「紺屋高尾」が、傾いたレコード会社が震災後のどさくさに苦し紛れに発売。

それが空前の大ヒットとなりました。

ヒコーキレコードという会社(その後日蓄と合併)が起死回生、V字回復をを演じました。

昭和初期には全国津々浦々でこの一節がうなられていたわけです。

というか、「紺屋高尾」といえば、落語よりも浪曲で知られていました。

ありんす言葉   【RIZAP COOK】

吉原では、古くから独特の廓(さと)言葉が使われていました。

この噺の高尾が使う「なます」「ありんす」「わちき」などの語彙がそれで、「ありんす」言葉ともいいました。

起源ははっきりしませんが、京の島原遊廓で諸国から集められた女たちが、里心がついて逃走しないよう、吉原の帰属意識をもたせるために考え出されたものといわれます。

エスペラント同様の人工語であるわけです。

したがって、島原(京)や新町(大坂)の遊女も当然同じような言葉を使っていたわけです。

江戸が18世紀後半以後、文化の中心になると「吉原詞」として全国に知れ渡り、独自の表現や言い回しが生まれていきました。

「行きまほう(=行きましょう)」「くんなまし」「そうざます」などもそうです。

昭和30年代に東京山の手の奥サマが使う「ざあます言葉」というのがさかんに揶揄されました。

実は、女郎言葉の名残だったわけです。

なんともいやはや、お皮肉なことでありんす。

極めつけ円生十八番   【RIZAP COOK】

この噺、実話をもとにしたものとされますが、詳細は不詳です。

戦後では六代目三遊亭円生の独壇場でした。

「かめのぞき」のくだりは、高尾が瓶にまたがるため、水に「隠しどころ」が映るというので、客が争ってのぞき込む、というエロチックな演出がとられることが昔はありました。

円生はその味を生かしつつ、ストレートな表現を避け、「ことによると……映るんじゃないかと」と、思わせぶりで演じるところが、なんとも粋でした。

この噺はふつう、オチらしいオチはありません。

四代目柳亭左楽(オットセイの左楽、「松竹梅」)は、与三という男が高尾の顔を見に行きたいが、染めてもらうものがないため、長屋のばあさんに手拭いを借りにいくものの、みな次から次へと持っていくからもうないと断られ、たまたま黒猫が通ったので「おばさん、これ借りるよ」「なんだって黒猫を持っていくんだ」「なに、色揚げ(色の褪めた布を染め直す)してくる」とオチていました。円生もときにこれを踏襲して落としていました。

後日談   【RIZAP COOK】

この後、久蔵と高尾が親方の夫婦養子になって跡を継ぎ、夫婦そろってなんとか店を繁盛させたいと、手拭いの早染め(駄染め)というのを考案し、客がまた高尾の顔見たさに殺到したので、たちまち江戸の名物になったという後日談を付けることがあります。

高尾が店に出て、藍瓶をまたいで染めるのを客が待ちます。

高尾が下を向いていて顔が見えないので、客が争って瓶の中をのぞき込んだことから染め物に「かめのぞき」という名がついたという由来話で締めくくります。

前項のエロ演出は、もちろんこれの「悪のり」です。

類話に「幾代餅」   【RIZAP COOK】

まったく同じ筋ですが、人物設定その他が若干異なります。

「紺屋高尾」の改作と思われますが、はっきりしません。

五代目古今亭志ん生の系統は「幾代餅」でやっていました。

志ん生の弟子、古今亭円菊も、その弟子の古今亭菊之丞も。十代目金原亭馬生の弟子、五街道雲助もご多分に漏れず「幾代餅」です。雲助の弟子、桃月庵白酒も。志ん朝は「幾代餅」でも「紺屋高尾」でもやっていました。

志ん朝の弟子、古今亭志ん輔も。別系統ながら、柳家さん喬柳家権太楼もよい味わいです。

類話はもう一つ。「搗屋無間」も同工異曲の噺といってよいかもしれません。

「幾代餅」のあらすじ   【RIZAP COOK】

日本橋馬喰町一丁目の搗き米屋の奉公人、清蔵。人形町の絵草紙屋で見た、吉原の姿海老屋の幾代太夫の一枚絵に恋患いし、仕事も手につかない。

親方六右衛門の助言で一念発起、一年とおして必死に働いた。

こさえた金が十三両二分。ちょっと足りない。そこに六右衛門が心づけて、しめて十五両に。

六右衛門は近所の幇間医者、籔井竹庵に事情を話して、吉原への手引きを頼んだ。

竹庵、蹴転のあそびから大籬のあそびまでの通人だ。

竹庵の手引きで、野田の醤油問屋の若旦那という触れ込みで清蔵は吉原に。

初会ながらも情にほだされた幾代太夫は、年季明けに清蔵の元に、という約束。

明けた三月、幾代は清蔵に嫁いだ。

親方の六右衛門は清蔵を独立させ、両国広小路に店を持たせた。

店のうまい米を使って二人が考案した「幾代餅」が大評判となり名物となった。

二人は幸せに暮らし天寿を全うした、というめでたい一席。

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ちはやふる【千早ふる】落語演目

【どんな?】

無学者もの。知ったかぶりの噺。苦し紛れのつじつまあわせ。あっぱれです。

別題:百人一首(上方)

あらすじ

あるおやじ。

無学なので、学校に行っている娘にものを聞かれても答えられず、困っている。

正月に娘の友達が集まり、百人一首をやっているのを見て、花札バクチと間違えて笑われる始末。

その時、在原業平ありわらのなりひらの「千早ちはやふる 神代かみよも聞かず たつた川 からくれないに 水くぐるとは」という歌の解釈を聞かれ、床屋から帰ったら教えてやるとごまかして、そのまま自称物知りの隠居のところに駆け込んだ。

隠居もわからないのでいい加減にごまかそうとしたが、おやじは引き下がらない。

で、苦し紛れに
龍田川たつたがわってのはおまえ、相撲取りの名だ」
とやってしまった。

もうここまできたら、毒食らわば皿までで、引くに引けない。隠居の珍解釈が続く。

龍田川が田舎から出てきて一心不乱にけいこ。

酒も女もたばこもやらない。

その甲斐あってか大関にまで出世し、ある時客に連れられて吉原に夜桜見物に出かけた。

その時ちょうど全盛の千早太夫ちはやだゆう花魁道中おいらんどうちゅうに出くわし、堅い一方で女に免疫のない大関龍田川、いっぺんに千早の美貌に一目ぼれ。

さっそく、茶屋に呼んで言い寄ろうとすると、虫が好かないというのか
「あちきはいやでありんす」
と見事に振られてしまった。

しかたがないので、妹女郎の神代太夫かみよだゆうに口をかけると、これまた
「姉さんがイヤな人は、ワチキもイヤ」
とまた振られた。

つくづく相撲取りが嫌になった龍田川、そのまま廃業すると、故郷に帰って豆腐屋になってしまった。

「なんで相撲取りが豆腐屋になるんです」
「なんだっていいじゃないか。当人が好きでなるんだから。親の家が豆腐屋だったんだ」

両親にこれまで家を空けた不幸をわび、一心に家業にはげんで十年後。

龍田川が店で豆を挽いていると、ボロをまとった女の物乞いが一人。

空腹で動けないので、オカラを恵んでくれという。

気の毒に思ってその顔を見ると、なんとこれが千早太夫のなれの果て。

思わずカッとなり
「大関にまでなった相撲をやめて、草深い田舎で豆腐屋をしているのは、もとはといえばおまえのためだ」
と。

「オカラはやれない」
と言って、ドーンと突くと千早は吹っ飛び、弾みで井戸にはまってブクブクブク。

そのまんまになった。

これがこの歌の解釈。

千早に振られたから「千早ふる」、神代も言うことを聞かないから「神代も聞かず 龍田川」、オカラをやらなかったから「からくれないに」。

「じゃ、水くぐるってえのは?」
「井戸へ落っこって潜れば、水をくぐるじゃねえか」

しりたい

「ちはやふる……」  【RIZAP COOK】

「千早ふる」は「神」にかかる枕詞で、もちろん本当の解釈は以下のようなものです。

 (不思議なことの多かった)神代でさえ、龍田川の水が 紅葉の美しい紅でくくり染め (=しぼり染め)にされるとは聞いたこともない。

とまあ、意味を知ればおもしろくもおかしくもない歌です。隠居の珍解釈の方がよほど共感を呼びそうです。

龍田川は、奈良県生駒郡斑鳩いかるが町の南側を流れる川で、古来、紅葉の名所で有名でした。

原話とやり手  【RIZAP COOK】

今でも、前座から大看板まで、ほとんどの落語家が手掛けるポピュラーな噺です。

「薬缶」と同系統で、知ったかぶりの隠居がでたらめな解釈をする「無学者もの」の一つです。

古くは「木火土金水(もっかどごんすい)」という、小ばなしのオムニバスの一部として演じられることが多く、その場合、この後「薬缶」につなげました。

安永5年(1776)刊『鳥の町』中の「講釈」を、初代桂文治(伊丹屋惣兵衛、1773-1815)が落語にしたものです。明治期では三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)の十八番でした。

本来は、「千早ふる」の前に、「つくばねの嶺より落つるみなの川……」の歌を珍解釈する「陽成院ようぜいいん」がつけられていました。

オチの異同  【RIZAP COOK】

あらすじのテキストにしたのは、五代目古今亭志ん生の速記です。

志ん生が「水をくぐるじゃねえか」で切っているのは、むしろ珍しい部類でしょう。

普通はこのあと、「じゃ、『とは』ってえのはなんです?」「それは、ウーン、千早の本名だった」と苦しまぎれのオチになります。

花魁道中  【RIZAP COOK】

起源は古く、吉原がまだ日本橋葺屋町にほんばしふきやちょうにあった「元吉原」といわれる寛永年間(1624-44)にさかのぼるといわれます。

本来は遊女の最高位「松の位」の太夫が、遊女屋から揚屋あげや(のちの引手茶屋。上客を接待する場)まで出向く行列をいいましたが、宝暦年間(1751-64)を最後に太夫が絶えると、それに次ぐ位の「呼び出し」が仲の町を通って茶屋に行く道中を指すようになりました。

廓が点灯する七ツ半(午後5時)ごろから始まるのが普通でした。

陽成院  【RIZAP COOK】

陽成院の歌、「つくばねの みねより落つる みなの川 恋ぞつもりて ふちとなりぬる」の珍解釈。京都の陽成院という寺で開かれた勧進相撲で、筑波嶺と男女の川が対戦。男女の川が山の向こうまで投げ飛ばされたから「筑波嶺の峰より落つる男女の川」。見物人の歓声が天皇の耳に入り、筑波嶺に永代扶持米をたまわったので、「声ぞつもりて扶持となりぬる」。しまいの「ぬる」とは何だと突っ込まれて、「扶持をもらった筑波嶺が、かみさんや娘に京の『小町香』、要するに香水を買ってやり、ぺたぺた顔に塗りたくったから、『塗る』だ」

蛇足ながら、陽成院とは第57代の陽成天皇(869-949)が譲位されて上皇になられてのお名前です。この天皇、在位中にあんまりよろしくないことを連発されたため、時の権力者、藤原氏によってむりむり譲位させられてしまいました。天皇の在位は876年から884年のたった8年間でした。その後の人生は長かったわけで、なんせ8歳で即位されたわけですから、やんちゃな天子だったのではないでしょうか。

おおみせ【大見世】ことば

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 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

吉原で、もっとも格式の高い遊女を置くみせ。大籬おおまがき

まがき」とは格子戸こうしどのこと。その高さで、大籬や半籬はんまがきなどと店の格式を区分していました。

【噺例 文七元結ぶんしちもっとい

吉原で佐野槌さのづちと呼ばれりゃ大見世おおみせだ。

佐野槌、角海老かどえび三浦屋みうらやなどは大見世の代表格です。大見世の下には、中見世なかみせ小見世こみせなどあって、最下位は蹴転けころというのも。「お直し」ですね。

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