しながわしんじゅう【品川心中】落語演目

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

品川宿のお染も寄る年波には勝てず。いっそ、客の誰かと心中しちまえ、と……。

落語の名作。長いので「上」と「下」に分かれています。たっぷりどうぞ。

あらすじ

【上】

品川の白木屋という見世でずっと板頭を張ってきたお染。

寄る年波には勝てず、板頭とは名ばかり。

次第に客も減り、目前に迫る紋日のために必要な四十両を用立ててくれそうな、だんなもいない。

勝ち気な女だけに、恥をかくくらいならいっそ死んでしまおうと決心したが、一人より二人の方が、心中と浮き名が立ち、死に花が咲くから、適当な道連れはいないかと、なじみ帳を調べると、目に止まったのが、神田の貸本屋の金蔵。

独り者だし、ばかで大食らいで、助平で、欲張り。

あんな奴ァ殺した方が世のためと、
「これにきーめた」

金蔵、勝手に決められちまった。

お染は、さっそく金蔵あてに、
「身の上の相談事があるから、ぜひぜひ来てほしい」
という手紙がいく。

お染に岡惚れしている金蔵は、手紙を押しいただくと、喜んで品川にすっ飛んでくる。

ところが、当のお染が廻しに出たままなかなか帰らず、金蔵がふてくされて寝たふりをしている。

いつの間にか戻ってきたお染、なんと自分の遺書をしたためているので、金蔵は仰天。

家にあるもの一切合切たたき売っても、金蔵にこしらえられる金はせいぜい一両がいいとこ。

どうにもならないというので、つねづね年季が明けたら夫婦になると言っている手前、つい、
「いっしょに死んでやる」
と言ってしまった。

お染はしてやったりと大喜びで、さっそく明日の晩決行と決まる。

この世の名残と、その晩、お染がはりきってご奉仕したため、金蔵はもうフラフラ。

帰ると、二人分の死装束の白無垢と安い脇差を買う。

世話になっている出入りの親分の家に、この世のいとま乞い。

まさか
「心中します」
とは言えないから、
「西の方に出かけて帰ってくるのは盆の十三日」
とか、わけのわからないことを言って、まぬけなことに肝心の脇差を忘れていってしまう。

その晩は、「勘定は六道の辻まで取りにこい」とばかり、金蔵のみ放題の食い放題。

あげくの果ては、酔いつぶれて寝込んでしまった。

そのばか面の寝顔を見て、お染はこんな野郎と冥土の道行きをしなければならないかと思うとつくづく情けなくなるが、選んだ以上どうしようもない。

たたき起こして、用意のカミソリで片を付けようとするが、気の小さい金蔵、いざとなるとブルブル震えてどうにもならない。

「じゃ、おまえさん、いっしょに死ぬというのはウソだったんだね、そんな不実な人なら、あたしは死んだ後、七日たたないうちに取り殺してやる」
と脅し、引きづるように品川の浜へ。

「おまえばかりを殺しゃあしない、南無阿弥陀仏」
と金蔵を突き落として、続いてお染も飛び込もうとすると、気配に気づいた若い者が抱き留める。

「待った。お染さん、悪い料簡を起こしちゃいけねえ。たった今、山の御前が五十両届けてくれなすって、おまえさんの喜ぶ顔が見たいとお待ちかねだ」
「あーら……でももう遅いよ。金さんが先に……」
「金さん? 貸本屋の金蔵ですかい? あんなもんなら、ようがす」

金が整ったと知ると、お染は死ぬのがばかばかしくなり、浜に向かって
「ねえ金ちゃん、こういうわけで、あたしゃ少し死ぬのを見合わせるわ。人間一度は死ぬから、いずれあの世でお目にかかりますから。それでは長々失礼」

失礼な奴もあるもの。

金蔵、飛び込んだところが遠浅だったため助かったが、おかげで若い衆とお染の話を海の中で聞き、さあ怒るまいことか。

「こんちくしょう、あのあまァ、どうするか見てやがれ」

やっとの思いで浜に上がったが、髪はザンバラ、何かで切ったのか、顔面は血と泥がこびりつき、着物はぐっしょり。

まさに亡者のような姿で、ふらふらになって親分の家へ。

ちょうどその時、親分宅ではガラッポンと勝負事の真っ最中。

戸口でガタリと音がしたので、「すわ、手入れだ」と大あわて。

糠味噌の中に突っ込んだ手でなすの漬け物をあわててつかみ、自分の金玉がもげたと勘違いする奴も出て、さんざん。

ところが、金蔵とわかって、一同ひと安心。

その中で一人だけ、泰然と座っている者がいる。

「なんだ、みんな、だらしがねえ。……伝兵衛さんを見ろ。さすがにお侍さんだ。びくともしねえで座っておいでた」
「いや、面目ない。とっくに腰が抜けております」

【下】

金蔵から、心中のし損ないでお染が裏切った一件を聞いた親分、
「ひどい女だ」
と同情し、
「そいつはひとつ仕返しをしてやる」
と請け合い、
「まだお染はてめえが死んだと思い込んでいるから、怪談仕立てでだましてやろう」
と計画を練る。

まず、金蔵が大引け前に、白木屋に引き返す。

現れた金蔵に、お染は幽霊かと思ってびっくりする。

金蔵は
「十万億土の原っぱのような所まで行ったが、お地蔵さまに帰れと言われて引き返してきた」
と打ち合わせ通り陰気な声で言い、線香を焚いて白団子と水をくれと縁起の悪いことを並べ、
「気分が悪いから寝かせてくれ」
と奥の間に引きこもってしまう。

そこへ現れたのが親分と、金蔵の弟に化け込んだ子分の民公。

お染に会って
「実は金公が土左衛門で上がったが、おめえが金公と年季が明けたら、いっしょになると言って交わした起請文が、ヘソのところへべったりへばりついていた。おめえのことを思って死んだんだと思うから、通夜にはおめえも来てもらって、線香の一本も手向けてやってもらいたい」
と泣いてみせる。

お染は、
「たった今しがた金蔵が来たばかりだよ」
と、ばかにしてせせら笑う。

そこで、証拠に金蔵の位牌をここに持ってきたと民公が懐を探って、
「確かにあったのにない、ない」
と芝居をしてみせる。

論より証拠と、お染が、金蔵の寝ている部屋に二人を案内すると、かねての打ち合わせ通り金蔵は隠れていて、布団の中には「大食院好色信士」と戒名が書かれた位牌が一つ。

さてはと、さすがのお染も青くなり、金蔵を突き落として、自分だけ都合よく心中をやめたことを洗いざらい白状。

「こいつは間違いなく恨みが残っていて、てめえは取り殺される」
と親分が脅すので、お染はもうオロオロ。

そこで最後の仕上げ。

「おめえがせめても髪を下ろして、すまなかったと謝まれば、金公も浮かぶに違いねえ」

お染が恐ろしさのあまり、根元からぷっつり髪を切り、その上、回向料として五両出したところで、当の金蔵がノッソリ登場。

「あーら、こんちくしょう、人をだましたんだね。なんぼなんでも人を坊主にして、どうするのさ」
「そう怒るな。てめえがあんまり客を釣る(=だます)から、比丘びく(=魚籠びくに)されたんだ」

底本:六代目三遊亭円生

しりたい

めったに聴けない「下」  【RIZAP COOK】

三遊派に古くから伝わる郭噺の大ネタです。

先の大戦後も、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の師匠)、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)ほか、ほとんどすべての大看板が演じており、もちろん現在も、よく高座に掛けられます。

ただ、「上」だけでも長いうえ、「下」となると陰気で、噺としてもあまりおもしろくないということで、昔からあまり演じられません。

その中で、三代目三遊亭円馬(橋本卯三郎、1882-1945、大阪→東京)は皮肉を含んで「下」のみを演じていました。

八代目桂文楽(並河益義、1892-1971)は、その円馬に多数の噺を教わり、もっとも私淑していました。

でも、「品川心中」は音源は残しているものの、好きな噺ではなかったようです。

昭和の大看板では珍しく、めったにやりませんでした。

「下」では、六代目円生と五代目志ん生の速記が残されています。貴重です。

品川宿  【RIZAP COOK】

東海道の親宿(起点)として古くから栄えました。

新宿、板橋、千住と並んで、江戸近郊で非公認の大規模な遊郭を持つ四つの宿場(四宿)の筆頭です。

吉原の「北国」に対し、江戸の南ということで、通称は「南」。

宿場は徒歩新宿、北本宿、南本宿に分かれていました。

目黒川の向こう岸の南本宿は「橋向こう」といって小見世が多く、この噺の「白木屋」も南本宿です。

居残り佐平次」の舞台になった相模屋(土蔵相模)、歌舞伎「め組の喧嘩」の事件の発端となる「島崎楼」など、有名な大見世はすべて北側にかたまっていました。

宿場の成立は、享保年間(1716-36)です。

飯盛り(宿場女郎)を置くことを許可され、本格的に遊郭として発足したのは、万治2年(1659)のことでした。

宿場よりも遊郭のほうが早かったことになります。

品川は芝・増上寺ほかの僧侶の「隠れ遊び」の本場でもありました。

六代目円生が「品川心中」のマクラでいくつか挙げている川柳。

品川は 衣衣の 別れなり

自堕落や 岸打つ波に 坊主寝る

表向き、僧侶は女犯厳禁ですから、同じ頭を丸めているということで、医者に化けて登楼するという、けしからん花和尚(なまぐさ坊主)が後を絶たなかったわけです。

品川を舞台にした噺は意外に少なく、「居残り佐平次」とこの「品川心中」のほかは艶笑落語の「品川の豆」ぐらいです。

演者によって「剃刀」「三枚起請」などの廓噺を、吉原から品川に代えて演じることもあります。

板頭  【RIZAP COOK】

いたがしら。女郎屋で、最も月間の稼ぎのいい、ナンバーワンの売れっ子のことです。

吉原では「お職」と呼ばれましたが、品川ほかの岡場所(非公認の遊廓)では、その名称は許されず、遊女の名札の板が、その月の稼ぎ高の順に並べられるところから、そのトップを板頭と呼んだわけです。

紋日、物日  【RIZAP COOK】

もんび、ものび。

五節季や八朔(➡江戸入り)、月見、三社祭りなどのハレの年中行事には、着物や浴衣を新調し、手ぬぐいに祝儀をつけて、若い衆や遣り手などの廓の裏方に配るなど、女郎にとってはかなりの金がかかりました。

売れていない女郎には大変ですが、これをやらないと恥をかき、住み替え(今よりランクの落ちる岡場所へ移る)でもしなければなりませんでした。

この噺のお染の悩みは、それだけ切実だったわけです。

貸本屋  【RIZAP COOK】

江戸時代には、一軒構えの本屋はありませんでした。

もっぱら貸本屋が紺の前掛けをして、廓や大店などの得意先を回ったものです。

幕末太陽傳  【RIZAP COOK】

映画『幕末太陽傳』(川島雄三監督、日活、1957年)は、文久2年(1862)、幕末の世情騒然としていたころの品川、それも土蔵相模を舞台に、落語の「居残り佐平次」「品川心中」「三枚起請」「お見立て」を巧みにアレンジした、世界の喜劇映画史に残る最高傑作です。

土蔵相模とは、屋号は「相模屋」で壁が土蔵づくりだったために、こう呼ばれていたそうです。

労咳(結核)病みの主人公・佐平次(フランキー堺)の「羽織落とし」のお座敷芸が評判でした。

「品川心中」のくだりでは、なんといっても、遊郭へ春本(エロ本)を売りに来る、小沢昭一(小澤昭一、1929-2012)が演じる「あばたの金造」が絶品です。

映画では「金造」でした。

小沢は当時29歳だったそうです。とても見えませんが。

「これが唐人のアレで……」といやらしく笑う、小沢のあば金を見るだけでも、この作品は一見の価値あり。

たいていの落語家は及びません。

         幕末太陽傳を見ずして落語ファンと言うなかれ!☞

比丘尼される  【RIZAP COOK】

「下」のオチですが、今ではわかりにくいでしょう。

よく考えると単純で、「釣る(だます)」から「魚籠」を出し、女を坊主にしたため、それと「比丘尼(尼僧)」をダジャレで掛けただけです。

「比丘尼」は、安永年間(1772-81)まで新大橋付近に出没した尼僧姿の売女「歌比丘尼」の意味もあります。

品川遊郭の女郎であるお染が坊主にされて、最下級の「歌比丘尼」にまで堕ちたという侮辱もこめられているはずです。

【語の読みと注】
板頭:いたがしら:筆頭女郎
四宿:ししゅく:品川、新宿、板橋、千住の宿場
北国:ほっこく:吉原の異称
徒歩新宿:かちしんしゅく:品川
八朔 はっさく:8月1日。徳川家康が入ってきた日とか
お職:おしょく:吉原での筆頭女郎
労咳 ろうがい:肺結核
魚籠:びく:釣った魚を入れておく容器
比丘:びく:僧
比丘尼:びくに:尼僧

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よかちょろ【よかちょろ】演目

【RIZAP COOK】

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【どんなはなし?】

なんだか意味不明の「よかちょろ」。道楽息子の噺です。

別題:山崎屋・上

あらすじ

若旦那の道楽がひどく、一昨日使いに行ったきり戻らないので、大旦那はカンカン。

番頭に、おまえが信用しないとよけい自棄になって遊ぶからと、与田さんの掛け取りにやるように言ったのがいけないと、八つ当たり。

今日こそみっちり小言を言うから、帰ったら必ず奥へ寄越すように、言いつける。

実はこっそり帰っている若旦那、おやじが奥へ入るとちゃっかり現れ、番頭にさんざん花魁のノロケを聞かせた挙げ句、ずうずうしくも、これからおやじに意見してくるという。

「おやじは、癇癪持ちだから、すぐ煙管の頭でポカリとくるが、あたしの体は花魁からの預かり物で、顔に傷をつけるわけにはいかない。もし花魁が傷のわけを知ったら『なんて親です。おやじというのは人間の脱け殻で、死なないように飯をあてがっとけばいいんです。そういうおやじは片づけてくださいッ』」

興奮してきて番頭の首を締め上げ、大声を出すので奥に筒抜けで、
「番頭ォ」
とどなる声。

「あたしがやりこめて、煙管が飛んできたら体をかわすから、おまえが代わりに首をぬっと出しな」
「ご免こうむります」

嫌がるのをぽかりとなぐり、一回二円で買収し、おやじの前へ。

「おとっつぁん、ご機嫌よろしゅう」
「ちっともご機嫌よくないッ。黙って聞いてりゃいい気になりゃあがってッ。おまえみたいなのは、兄弟があれば家に置く男じゃないんだ」

与田さんとこで勘定は取ってきたかと追及すると、確かに十円札で二百円もらったが、使っちまったと、いう。

おやじ、唖然として、
「たった一日や半日で二百円の大金を使い切れるものじゃない」
と言うと、
「ちゃんと筋道の通った、むだのない出費です」
と、譲らない。

いよいよ頭に来て
「なら、内訳を言ってみろ。十銭でも計算が違ったら承知しないからな」

若だんな、いわく、
「まず髭剃り代が五円」

大正のそのころで、一人三十銭もあれば顔中髭でもあたってくれる。

「おとっつぁんのは普通の床屋で、あたしのは、花魁が『あたしが湿してあげます。こっちをお向きなさいったら』って」
と、おやじの顔をグイと両手でこっちへ向けたから、おやじは毒気を抜かれてしまう。

あとは
「『よかちょろ』を四十五円で願います」

「安くてもうかるものだ」
というので、
「ふうん、おまえはそれでも商人のせがれだ。あるなら見せなさい」
「へい。女ながらもォ、まさかのときはァ、ハッハよかちょろ、主に代わりて玉だすきィ……しんちょろ、味見てよかちょろ、しげちょろパッパ。これで四十五円」

あきれ返って、そばの母親に
「二十二年前に、おまえの腹からこういうもんができあがったんだ。だいたいおまえの畑が悪いから」
「おとっつぁんの鍬だってよくない」
と、ひともめ。

「孝太郎が自分の家のお金を喜んで使ってるんだから、それをお小言をおっしゃるのはどういう料簡です。それに、あなたと孝太郎は年が違います」
「親子が年が同じでたまるかい」
「いいえ、あなたも二十二のときがありました。あなたが二十二であたしが十九で、お嫁に来たとき三つ違い。今でも三つ違い」
「なにを、ばかなことを言ってるんだ」

これから若旦那勘当とあいなる。

底本:八代目桂文楽

しりたい

遊三、文楽

「山崎屋」の発端部分を、初代三遊亭遊三が明治20年(1887)前後に、当時流行の「よかちょろ節」を当て込んで滑稽落語に改作したものですが、現在では別話と見なされます。

遊三以後はほとんど演じ手がなく、昭和以後は八代目桂文楽の独壇場でしたが、その没後は継承者はいません。

遊三では、このあと、母親が父親とのなれそめをえんえんとのろけたあげく夫婦げんかになり、おやじが今聞いた「よかちょろ」の歌詞をもう忘れているというので、「パッパというところがありますよ。お父さんパッパ」「ハッハ、よかちょろパッパ」となっていますが、わかりづらい(英語のパパ=パッパを効かしたものか?)ので、文楽が以下をカットしています。

文楽晩年の演出ではオチはありませんが、かつては、若だんながこれ以外の出費を並べて二百円ちょうどにしたので、おやじがケムにまかれて「うん、してみると無駄が少しもない」と落とすやり方もありました。

山崎屋

長編で、道楽者の若旦那が番頭の知恵でおやじをだまし、めでたく吉原の花魁を身請けしてかみさんにするという筋です。

「よかちょろ」のもとになった発端部分は、若旦那の花魁のノロケを、そっくり小僧がまねしてしかられる、というたわいないお笑いです。本体の「山崎屋」でも、この部分はかなり早くから演じられなくなっていました。

よかちょろ節

明治21年(1888)ごろ流行した俗曲です。

芸者だませば七代たたる
パッパよかちょろ
たたるはずだよ猫じゃもの
よかちょろ
スイカズワノホホテ
わしが知っちょる
知っちょる
言わでも知れちょるパッパ

こういう歌詞が伝わりますが、意味は不明。

この噺のとは違いますが、とにかく「パッパよかちょろ」が付けばいいとかなり替え歌ができたようです。

「よか」と「ちょろ」

「よかちょろ」の「ちょろ」は、東京ことばの「ちょろ」または「ちょろっか」で、「安易」「たやすい」の意味。

「よか」は薩摩なまりに引っかけたものでしょう。つまり、「いいよいいよ、ちょろいもんだ」ということ。

遊三の現存の速記は明治40年(1907)のものです。噺中の替え歌「女ながらも……」の元唄は不明で、おそらく内容から、日清か日露の戦時中のものと思われます。

スイカズワ

「猫」は芸者の異称で、猫皮の三味線を商売道具にし、客を「化かす」ところから。「スイカズワのホホテ」は、おそらく「すいかづら(忍冬=ツルクサ、カヅラの一種)の這うて」の誤記・誤聞で、ツルクサが長く這うように、相手をずっと思い続ける意味なのでしょう。「玉かづら→這(延)う」は万葉時代からの代表的な枕詞です。

「いいよいいよ、おまえたちの仲はお見通しだ。ワシがなにもかにものみこんでいるから心配するな」という内容の、粋な唄ですね。

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にかいぞめき【二階ぞめき】演目

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【どんなはなし?】

自宅の二階に吉原をこさえた若旦那。ここまでなりきれれば、吉原熱中症!

あらすじ

若旦那が毎晩、吉原通いをするものだから堅物かたぶつ親父おやじはかんかん。

世間の手前「勘当する」と言い出す。

番頭が心配して意見をしにくるが、この道楽息子、まるで受け付けない。

「女がどうのこうのじゃないんで、吉原のあの気分が好きなんだから、毎日行かずにはいられない、吉原全部を家に運んでくれれば、行かない」と言う。

これには番頭も驚いたが
「それで若旦那の気がすむなら」
と二階を吉原の通りそっくりに改造し、灯まで入れて、ひやかし(そぞろ歩き)ができるようにした。

棟梁とうりゅうの腕がいい上、吉原まで行って実地検分してきたので本物そっくりで、若旦那は大喜び。

番頭に
「服装が大事だから古渡こわた唐桟とうざんを出せ」
「夜露は毒だからっかぶりをしていく」
などと騒いだあげく
「じゃ、行ってくるよォ。だれが来ても上げちゃァいけないよォ」

二階の吉原へ、とんとんとん。

上ってみると、茶屋行灯ちゃやあんどんに明かりは入っているし、張り見世みせもあるし、そっくりなのだが、残念なことに、人がいない。

……当たり前だ。

そこで、人のいなくなった大引おおびけ(午前二時)過ぎという設定で、一人で熱演し始める。

『ちょいとあァた』
『なんでえ、ダメだよ、今夜は』
『そんなこと言わないで。あのコがお茶ひいちゃうから』

忙しいこと。背景音楽を新内しんないから都々逸どどいつへ。

「別れにヌシの羽織がァ、かくれんぼォ…ッと」

ここで花魁おいらんが登場。

『ちょいと、兄さん、あがっとくれよッ』
『やだよ』
『へん、おアシがないんだろ。この泥棒野郎』
『ドロボーたァなんでィ』
『まァまァ』

止めに入った若衆わけえしと花魁、一人三役で大立ち回り。

『この野郎、さあ殺せッ』

一階のおやじ、大声を聞きつけて、
「たまに家にいると思えば……」
と苦い顔。

ところがよく聞いてみると、なにか三人で喧嘩しているもよう。

あわてて小僧の定吉を呼んで
「二階へ行ってせがれを連れてこい」
と命じる。

定吉、上がってみると
「あれッ、ずいぶんきれいになっちゃたなあ。明かりもついてやがる」

頬っかぶりをした人がいるので、「泥棒かしらん」と思ってよく見ると、これが若旦那。

なにやら自分で自分の胸ぐら取って「さあ殺しゃあがれ」とやっている。

「しょうがねえなあ。ねえ、若旦那」
「なにをしやがる。後ろから小突きやがって。前から来い。だれだって? なあんだ。定か。悪いところで会ったなあ。おい、おめえな、ここでおれに会ったことは、家ィ帰っても、おやじにゃあ、黙っててくんねえ」

しりたい

ぞめき

「騒」と書きます。動詞形は「ぞめく」です。古い江戸ことばで、「大勢でわいわい騒ぎながら歩くこと」を意味します。

そこから転じて、「おもに吉原などの遊里を見世に上らずに、遊女や客引きの若い衆をからかいながら見物する」という意味になりました。

これを「ひやかし(素見)」ともいい、こちらの方が一般によく使われました。

要するに、遊興代がないのでそうするよりしかたがないのですが、そればかりともいえず、ひやかし(ぞめき)の連中と張り見世、つまりショウウィンドーにずらりと並ぶ遊女たちとの丁々発止のやりとりは、吉原の独特の文化、情緒となって、洒落本(遊里を描いた話)や芝居、音曲などのかっこうの題材となりました。

原話では少しつつましく……

もっとも古い原典は、延享4年(1747)、江戸で刊行された笑話本『軽口花咲顔かるくちはなえがお』中の「二階の遊興」ですが、オチを含め、現行の落語と大筋は変わりません。

こちらはそう大掛かりな「改築」をするわけでなく、若旦那が二階のふすまや障子に茶屋の暖簾のれんに似たものをつるし、それに「万屋」「吉文字屋」などと書き付けて、遊びの追憶にふけっている、という安手やすでの設定です。

そのあと一人三役の熱演中、小便に行きたくなって階段を下りる途中で小僧に出くわし、オチのセリフになりますが、落語のように、現実を完全に忘れ去るほどでなく、いたってつつましいものです。

その後、落語としては上方で発達したので、二階を遊郭(大坂では新町)にしてしまうという現実離れした、派手と贅沢は、完全に上方の気風によって付け加えられたといってよいでしょう。

志ん生好みの噺

落語の古い口演記録として、きわめて貴重な、万延2年(1861=文久元)の、上方の桂松光のネタ帳『風流昔噺ふうりゅうむかしばなし』に、この噺と思われる「息子二階のすまい ここでおうたゆうな」という記述があり、すでにこのころには上方落語として演じられていたことがわかります。

これを明治期に、三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)が東京に「逆輸入」したとされますが、古い速記やレコードは一切なく、残っているのは七代目立川談志(松岡克由、1935-2011)や五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)のものです。

志ん生がこの噺を誰に教わったかは不明ですが、おそらく、三代目小さん門下の初代柳家小せん(鈴木万次郎、1883-1919)でしょう。小せんは廓噺の天才です。「五人廻し」参照。

寄席や落語会で志ん生は、「二階ぞめき」をどれほどかけたことでしょうか。それだけに、志ん生の得意噺のうちでも、もっとも志ん生好みの噺といえます。自分が若き日に通いつめた、かぐわしき吉原への追慕もさることながら、志ん生がなにより愛したのは、この若旦那の一途さ、それを許してしまう棟梁、その他周囲の人々の洒落っ気や懐の深さではなかったでしょうか。

志ん生監修:正しい吉原の歩き方・序

「ひやかし」の語源は……。「昔、吉原の、近在に、紙漉場かみすきばがあって、紙屋の職人が、紙を水に浸して、待ってんのが退屈だから、紙の冷ける間ひと廻り回ろう-てんで、『ひやかし』という名前がついてきたんですな」とのことです。

ところで、ただ単に吉原をぶらつくといっても、おのずとそこには厳しいルールとマナーがあります。洗練された文化を体現し、粋な男になるためには、情熱と努力、そしてなにより年期が大切なのです。

次の若旦那の一言がすべてを物語っています。「俺ァ女はどうでもいいんだよ。うん。俺ァ吉原ってものが好きなんだよ」 好きこそものの上手なれ。

それでは、志ん生師匠指導「ひやかし道」の基本から。

正しい吉原の歩き方:まずは正しい服装

どの道も、修行はまず形からです。

それにふさわしい服装をして初めて、魂が入ります。

相撲取りはあの格好だからこそ相撲取り。スーツで土俵入りはできません。

その1

必ず古渡こわた唐桟とうざんを着用のこと。

唐桟は、ふつうは木綿の紺地に赤や浅黄あさぎ縦縞たてじまをあしらい、平織(縦糸・横糸を一本ずつ交差させたシンプルな織り方)に仕立ててあります。室町時代にインドから渡来した古いデザインなので、「古渡り」の名があります。縦縞という模様は粋の典型です。浮世絵に描かれた雨模様も同じ。細い縦線をすてきと感じる感覚が粋といえます。

はでな上に身幅が狭く、上半身がきゅっとしまっていかにもすっきりしたいい形なので、色街遊びには欠かせません。

その2

着物は必ずたもとを切った平袖にします。

いわばノースリーブです。

これは、吉原を漂っていると、必ず同じ格好のひやかし客とぶつかります。

そうすると、ものも言わずに電光石火でパンチが飛んできますから、袂があると応戦が遅れ、あえなくのされてしまいます。それでは男の面目丸つぶれ。

そこで、平袖にして常に拳を固めて懐に忍ばせ(これをヤゾウといいます) 、突き当たった瞬間、 間髪入れずに右フックを見舞わなければなりません。そのための備えなのです。

その3

必ず「七五三の尻はしょり」をします。

七五三とは、 七の図、つまり腰の上端、フンドシまたはサルマタの締め際まで 着物のすそをはしょり、内股をちらりとのぞかせることで、 鉄火な(威勢のいい)男の色気を見せつけます。

仕上げに、渋い算盤玉柄の三尺帯をきりりと締めれば一丁あがり。

ただし、くれぐれもフンドシを締め忘れないよう注意のこと。

公然わいせつで八丁堀の旦那にしょっ引かれます。

その4

最後に、手拭てぬぐいで頬かむりをすれば準備完了。

ただし、 この場合もどんな柄でもいいというわけにはいきません。

ひやかしに 最適なのは亀のぞきという、ごく淡い、品のいい藍色地に染めたものです。頬かむりは、深夜に出かけるため、夜露を防ぐ意味も ありますが、なによりも、かの有名な芝居の「切られ与三」が源氏店の 場でしているのがこの「亀のぞき」であることからも分かるように、 ちょっと斜に構えた男の色気を出すためには必携のアイテムです。

これで、夜の暗さとあいまって、あなたも海老蔵に見えないこともありません。

ただし、間違っても黒地で盗人結びになどしないこと。

八丁堀のだんなにしょっ引かれます。

その5

以上で、スタイルはOK。

あと、基本的な心得としては、その2でも触れましたが、必ず、100%間違いなく、一回の出撃でけんかが最低三度は起こりますから、無事に生きて帰るためにも、先制攻撃の覚悟を常に持つこと。

どんなに客引きの若い衆に泣き落とされ、はたまた張り見世のお茶ひき(あぶれ)女郎に誘惑され、果ては銭なしの煙草泥棒野郎とののしられても、絶対に登楼などしないという、固い決意と意志を持ってダンディズムを貫くことが大切です。

とまあ、こういうスタイルで若旦那は「出かけた」わけですが……。

この二階の改築費用、どのぐらいについたか、他人事ながら心配です。おまけに、当主の親父は知らぬが仏。この店の身代も、この分では十年ももつかどうか……。

いつの世も、かく破滅の淵をのぞかないと、道楽の道は極められないようで。

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

ごにんまわし【五人廻し】演目

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

【どんなはなし?】

明治の噺。古典落語とは関東大震災以前の作品のことなんですね。

宝泉華

あらすじ

上方ではやらないが、吉原始め江戸の遊廓では、一人の花魁おいらんが一晩に複数の客をとり、順番に部屋を廻るのが普通で、それを「廻し」といった。

これは明治初めの吉原の話。

売れっ子の喜瀬川花魁きせがわおいらん

今夜は四人もの客が待ちぼうけを食ってイライラし通しだが、待てど暮らせど誰の部屋にもいっこうに現れない。

宵にちらりと見たばかりの三日月女郎などはまだかわいいほうで、これでは新月女郎の月食女郎。

若い者、といっても当年四十六になる牛太郎ぎゅうの喜助は、客の苦情に言い訳するのに青息吐息。

最初にクレームを付けたのは、職人風のお兄さん。

おいらんに、空っケツになるまでのみ放題食い放題された挙げ句、思わせぶりに「すぐ来るから待っててね」と言われて夜通し、バターンバターンと草履ぞうりの音がするたびに今度こそはと身を乗り出しても、あわれ、すべて通過。

頭にくるのも無理はない。

男が喜助に
「おい、こら、玉代返せ」
「これも吉原の法でございますから」

その一言に、男が気色けしきばんだ。

「なにをー。勘弁ならねえことを、ぬかしやがったな。吉原の法でござい、といわれて、はいそうですか、と引っ込む、おあにいさんじゃねえんだ。おぎゃあと生まれた時から大門おおもんくぐってるんだ。吉原のことについちゃ、なんでも知らねえことはねえぞ。なあ、そもそも吉原というところはな、元和げんな三年に庄司甚右衛門しょうじじんえもんてえおせっかい野郎がな、繁華な土地に廓は具合が悪いてんで、ご公儀に願ってできたんだ。もとは日本橋の葺屋町ふきやちょうにあったんだが、配置替えを命じられてここに移ってきたんだ。ここはもともと葭、茅の茂った原だった。だから葭原といったのを、縁起商売だから、キチゲンと書いて吉原。日本橋の方を元吉原もとよしわら、こっちを新吉原しんよしわらといったてぇんだ。わかったか。土手どてから見返り柳、五十間を通って大門をくぐれば、仲之町なかのちょうだ。まず左手に伏見町ふしみちょうだ。その先は江戸町えどちょう一丁目、二丁目、それから揚屋町あげやちょう角町すみちょう、奥が京町きょうまち一丁目、二丁目。これが五丁町ごちょうまちってえんだ。いいか、この吉原に茶屋が何軒あって、女郎屋じょうろやが何軒、大見世おおみせが何軒、中見世ちゅうみせが何軒、小見世こみせが何軒あって、どこの見世は女郎じょうろが何人で、どこの誰が間夫まぶにとらわれているのか、どこの見世のなんという者がいつどこから住み替えてきたのか、源氏名げんじなから本名からどこの出身かまで、ちゃーんとこっちはわかってるんでえ。横丁の芸者が何人いてよ、どういうきっかけで芸者になってどういう芸が得意で、幇間たいこもちが何人いて、どういう客を持っているか、こっちはなんでも知ってるんだ。台屋だいやの数が何十軒あって、おでん屋はどことどことどこにあって、どこのおでん屋のツユが甘いか辛いかだの、どこのおでん屋のハンペンはうめえが、チクワがうまくねえとか、ちゃーんとこっちは心得てんだ。雨がふらあ、雨が。この吉原のどこに水たまりができるなんて、てめえなんぞドジだから知るめえ。どこんところにどんな形でどんな大きさの水たまりがあるのか、ちゃーんと知ってるからな。目えつぶったって、そういう中に足を入れねえで歩いていかれるんだ。水道尻すいどじりにある犬のくそだってな、クロがしたのか、ブチがしたのか、チャがしたのか、はなからニオイをかぎ分けようっておあにいさんだ。モモンガァ、チンケートー、脚気衝心かっけしょうしん、肺結核、発疹チフス、ペスト、コレラ、スカラベッチョー。まごまごしゃあがると頭から塩ォかけて食らうから、そう思え。コンチクショウ」

喜助、ほうほうの体で逃げ出すと、次は役人らしい野暮天男。

四隣沈沈しりんじんじん空空寂寂くうくうじゃくじゃく閨中寂寞けいちゅうじゃくまくとやたら漢語を並べ立てて脅し、閨房けいぼう中の相手をせんというのは民法にでも出ておるのか、ただちに玉代を返さないとダイナマイトで……と物騒。

平謝りで退散すると今度は通人らしいにやけた男。

黄色い声で、
「このお女郎買いなるものはでゲスな、そばに姫が待っている方が愉快とおぼし召すか、はたまた何人も花魁方が愉快か、尊公のお胸に聞いてみたいねえ、おほほほ」
と、ネチネチいや味を言う。

その次は、最初の客に輪を掛けた乱暴さで、てめえはなんぞギュウ(牛太郎)じゃあもったいねえ、牛クズだから切り出し(細切れ)でたくさんだ、とまくしたてられた。

やっとの思いで喜瀬川花魁を捜し当てると、なんと田舎大尽の杢兵衛もくべえ旦那の部屋に居続け。

少しは他の客の所へも廻ってくれ、と文句を言うと
「いやだよ、あたしゃあ」

お大尽、
「喜瀬川はオラにおっ惚れていて、どうせ年季が明ければヒイフ(夫婦)になるだからっちゅうて、オラのそばを離れるのはいやだっちゅうだ」
と、いい気にノロケて、
「玉代をけえせ(返せ)っちゅうんならオラが出してやるから、帰ってもらってくれ」
と言う。

一人一円だから都合四円出して喜助を追い払うと、花魁が
「もう一円はずみなさいよ」

あたしにも一円くれ、というので、出してやると、喜瀬川が
「もらったからにはあたしのものだね。……それじゃあ、改めてこれをおまえさんにあげる」
「オラがもらってどうするんだ」
「これ持って、おまはんも帰っとくれ」

しりたい

みどころ  【RIZAP COOK】

明治初期の吉原遊郭の様子を今に伝える、貴重な噺です。「五人廻し」と題されていますが、普通、登場する客は四人です。

やたらに漢語を連発する明治政府の官人、江戸以来(?)のいやみな半可通など、当時いたであろう人々の肉声、時代の風俗が、廓の雰囲気とともに伝わってきます。

とりわけ、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)のような名手にかかると、それぞれの人物の描き分けが鮮やかです。

それにしても、当時籠の鳥と言われた女郎も、売れっ子(お職)ともなると、客の選り好みなど、結構わがままも通り、勝手放題にふるまっていたことがわかります。

廓噺と初代小せん  【RIZAP COOK】

吉原遊郭の情緒と、客と女郎の人間模様を濃厚に描く廓噺は、江戸の洒落本しゃれぼんの流れを汲み、かつては数多く作られ演じられましたが、現在では一部の噺を除いてすたれました。洒落本は、遊郭を舞台にして「通人つうじん」についておもしろおかしく描いた読み物です。18世紀後半に流行しました。

「五人廻し」始め、「居残り佐平次」「三枚起請」など、今に残るほとんどの廓噺の原型を作り、集大成したのが、初代柳家小せん(鈴木万次郎、1883-1919)です。

歌人の吉井勇(1886-1960)にも愛された小せん。薄幸の天才落語家です。若い頃から将来を期待されましたが、あまりの吉原通いで不幸にも梅毒のため盲目となり、足も立たなくなって、おぶわれて楽屋入りするほどに衰え果てました。それでも、最後まで高座に執念を燃やし、大正8年(1919)5月26日、36歳の若さで亡くなるまで、後の五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)や六代目円生ら「若手」に古き良き時代の廓噺くるわばなしを伝え残しました。

「五人廻し」の演出  【RIZAP COOK】

現行のものは、初代小せんが残したものがひな型です。

登場人物は六代目円生では、江戸っ子官員、半可通はんかつう田舎大尽いなかだいじん(金持ち)で、幻のもう一人は、喜瀬川の情夫まぶということでしょう。古くはもう一人、しまいに花魁を探してくれと畳を裏返す男を出すこともありました。「web千字寄席」のあらすじでは古い速記を参照して、その客を四人目に入れておきました。

ギャグでは、三人目の半可通が、「ここに火箸が真っ赤に焼けてます……これを君の背中にじゅう……ッとひとつ、押してみたい」と喜助を脅すのが小せんのもので、今も生きています。

円生は、最初の江戸っ子が怒りのあまり、「そも吉原てえものの始まりは、元和三年の三月に庄司甚右衛門……明治五年、十月の幾日いっかに解放(=娼妓解放令)、貸座敷と名が変って……」と、えんえんと吉原二百五十年史を講義してしまいます。そのほか、「半人前てえ人間はねえ。坐って半分でいいなら、ステンショで切符を坐って買う」というこれも小せん以来の、いかにも明治初期らしいギャグ、また、「てめえのへそに煙管きせるを突っ込む」(三代目三遊亭円馬)などがあります。

オチは各自で工夫していて、小せんは、杢兵衛大尽の代わりに相撲取りを出し、「マワシを取られて振られた」とやっています。

二代目禽語楼小さん(大藤楽三郎、1848-98)の古い速記では「ワチキは一人で寝る」、六代目円生では、大尽がフラレた最後の一人で、オチをつけずに終わっていますし、五代目志ん生は大尽が二人目、最後に情夫を出して、これも「帰っとくれ」と振られる皮肉な幕切れです。

新吉原の図

新吉原の俯瞰図です。真ん中の仲之町通りを中心に整然と区画されています。店や建物は変わっても、区画そのものは現在もさほど変わっていません。

新吉原

甚助

甚助じみていけねえ。

この噺には、そんなフレーズが登場します。吉原ならではの言葉です。「甚助じんすけ」とは、①すけべえ、②やきもちやき。吉原で「甚助」と言われたら、まずは①ととらえるべきでしょう。①の使い方は、「腎張り」の擬人化用法です。「腎張り」とは、腎が強すぎる→性欲の強い人→多淫な人→好色家→すけべえ、といった意味になります。②とは少々異なります。「甚助」はほかの噺にも出てきます。

【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

にしきのけさ【錦の袈裟】演目

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

【どんなはなし?】

町内の若い衆がこぞって、錦の褌を締めて吉原に繰り出すことを考えた。

質流れの錦を仕立てて褌をつくったが、一人分足りない。

あぶれた与太郎は、お寺の坊さんから錦の袈裟を借りて乗り込む。

そのせいか、与太郎ばかりがもててしまった。

もとは上方の噺。これも廓噺なんでしょうかね。

別題:袈裟茶屋(上方) ちん輪

もっと知りたい方は、【あらすじ】と【しりたい】をどうぞ。

あらすじ

町内の若い衆が 「久しぶりに今夜吉原に繰り込もうじゃねえか」 と相談がまとまった。 それにつけてもしゃくにさわるのは、去年の祭り以来、けんか腰になっている隣町の連中が、近頃、吉原で芸者を総揚げして大騒ぎをしたあげく、緋縮緬の長襦袢一丁になってカッポレの総踊りをやらかし 「隣町のやつらはこんな派手なまねはできめえ」 とさんざんにばかにしたという、うわさ。 そこで、ひとつこっちも、意地づくでもいい趣向を考えて見返してやろうという相談の末、向こうが緋縮緬ならこちらはもっと豪華な錦の褌をそろいであつらえ、相撲甚句に合わせて裸踊りとしゃれこもう、ということになる。 幸い、質屋に質流れの錦があるので、それを借りてきて褌に仕立てるが、あいにく一人分足りず、少し足りない与太郎があぶれそうになった。 与太郎、女郎買いに行きたい一心で、鬼よりこわい女房におそるおそるおうかがいを立て、仲間のつき合いだというので、やっと許してもらったはいいが、肝心の錦の算段がつかない。 そこでかみさんの入れ知恵で、寺の和尚に 「親類に狐がついたが、錦の袈裟を掛けてやると落ちるというから、一晩だけぜひ貸してくれ」 と頼み込み、なんとかこれで全員そろった。 一同、予定通りその晩は、どんちゃん騒ぎ。 お引け前になって、一斉に褌一つになり、裸踊りを始めたから、驚いたのは廓の連中一同。 特に与太郎のは、もとが袈裟だけに、前の方に袈裟輪という白い輪がぶーらぶら。 そこで 「あれは実はお大名で、あの輪は小便なさる時、お手が汚れるといけないから、おせがれをくぐらせて固定するちん輪だ」 ということになってしまった。 そんなわけで、与太郎はお殿さま、他の連中は家来だというので、その晩は与太郎一人が大もて。 残りは全部きれいに振られた。 こうなるとおもしろくないのが「家来」連中。 翌朝、ぶつくさ言いながら殿さまを起こしに行くと、当人は花魁としっぽり濡れて、起きたいけど花魁が起こしてくれないと、のろけまで言われて踏んだり蹴ったり。 「おい花魁、冗談じゃねえやな。早く起こしねえな」 「ふん、うるさいよ家来ども。お下がり。ふふん、この輪なし野郎」 どうにもならなくて、寝床から引きずり出そうとすると、与太郎が 「花魁、起こしておくれよ」 「どうしても、おまえさんは、今朝帰さないよ」 「いけないッ、けさ(袈裟=今朝)返さねえとお寺でおこごとだッ」

底本:初代柳家小せん

【しりたい】

上方版の主人公は幇間

上方落語の「袈裟茶屋」を東京に移したものとみられますが、移植者や時期は不明です。 「袈裟茶屋」は、錦の袈裟を借りるところは同じですが、登場するのは旦那2人に幇間ほうかん(たいこもち)で、細かい筋は東京の噺とかなり違います。 たとえば、東京のでは、いちばんのお荷物の与太郎が最後は一人もてて、残りは全部振られるという、「明烏」と同じ判官ほうがんびいき(弱者に味方)のパターンですが、上方では、袈裟を芸妓げいこ(芸者)に取られそうになって、幇間ほうかん(たいこもち)が便所に逃げ出すというふうに、逆にワリを食います。 東京ではこの噺もふくめて、長屋一同が集団で繰り出すという設定が多いですが、上方はそれがあまりなく、「袈裟茶屋」でも主従3人です。 このように、一つ一つの噺を比較しただけでも、なにか東西の気質かたぎ(気風)の違いがうかがわれますね。

基礎づくりは初代小せん

四代目橘家円蔵の明治時代の速記を見ると、振られるのは色男の若旦那2人、主人公は熊五郎となっていて、まだ東京移植後間もなく、大阪の設定に近いことがわかります。 円蔵のでは、オチは「そんなら、けさは帰しませんよ」「おっと、いけねえ。和尚へすまねえから」となっています。 これを現行の形に改造したのは、大正期の盲小せんこと初代柳家小せんとみられます。 戦後この噺の双璧だった五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)は、ともに若手のころ、小せんに直接教わっています。 それが現在も、現役の噺家に受け継がれているわけです。

かっぽれ

幕末の頃、上方で流行した俗曲です。「活惚れ」と書きます。 江戸初期、江戸にみかんを運んだ大坂の豪商・紀伊国屋文左衛門をたたえるために作られたものが、はじまりなんだそうです。 かっぽれかっぽれ 甘茶でかっぽれ 塩茶でかっぽれ 沖の暗いのに白帆が見える ヨイトコリャサ あれは紀の国 みかん船 こんな歌詞に乗って珍妙なしぐさで踊るもので、通称・住吉踊り。明治初期に東京で初代かっぽれ梅坊主が、より洗練された踊りに仕上げて大流行しました。新富座では九代目市川団十郎(堀越秀、1838-1903)も踊りました。 寛一お宮の愛憎を描いた『金色夜叉』で有名な文豪、尾崎紅葉(尾崎徳太郎、1868-1903)も、じつは若い頃には梅坊主に入門していたんだとか。若気のいたりでしょうかね。

袈裟

サンスクリット語(梵語)の「カサーヤ(kasaya)」からきています。もとの意味は煩悩ですが、そこから不正雑色の意味となります。「懐色」と訳しています。なんだか、わかったようなわからないような。 インドやチベットでは、お坊さんの服のことです。 中国や日本では、左肩から右腋の下にかけて衣の上をおおう長方形の布をさします。 これは、青、黄、赤、白、黒の五色を使わずに、布を継ぎ合わせます。 大小によって、五条、七条、九~二十五条の三種類があります。三番目の九~二十五条のタイプが錦の袈裟といわれるものです。 こんな具合ですから、国や宗派によってさまざまな種類が生まれました。 与太郎が借りたのは上方題の「ちん輪」ですから、輪袈裟わげさという種類のものです。 これは、天台宗、真言宗、浄土真宗で使われています。禅宗で使われるような、威儀細いぎぼそ掛絡からといった略式のものもあります。 貪欲どんよく瞋恚しんい(怒り)・痴愚ちぐの三毒を捨て去ったしるしにまといます。 僧侶の修行が進み、徳を積んで悟りを開くにしたがって、まとう袈裟の色も変わります。 緑→紫→緋といった具合に。

甚句

甚句郎の略で、幕末に流行した俗謡です。 七七七五調で四句形式が普通ですが、相撲甚句は七五調の変則で長く「ドスコイドスコイ」の囃しことばがつきます。 これを洗練したものが、三味線の合い方(伴奏)でお座敷で唄われました。

【蛇足のコラム】

ついでに生きてる与太郎が女にもててしまう。珍しい噺だ。 もてるはずもない男が遊び場に行ったら仲間よりもててしまったというプロットは、どこか「明烏」にも似ている。若い衆が派手に息張る雰囲気は、いまも下町あたりでは飽かず繰り広げられている。下町風土記なのだ。 ばかばかしいが、当人たちには男気を張る勢いなのだろう。落語の格好の題材となる。 海賀変哲は『落語の落』で、「褌のくだりであまり突っ込んで話すと野卑に陥る点もあるから、そのへんはサラサラと話している」と書いている。 たしかに、褌やら吉原やらが出てくるのだから、そこにこだわると善男善女の集う寄席では聞けたものでなくなる。 「ちん輪」という野卑な別題もある。この噺は初代柳家小せん(鈴木万次郎、1883-1919、盲小せん)が絶妙だったという。 大正8年(1919)の小せんの速記を読んでも、いまのスタイルと変わらない。会話の応酬と洒落の連発で、スピーディーなのだ。 五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)や六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)は、小せんから習った。円生の師匠は四代目橘家円蔵(松本栄吉、1864-1922、品川の師匠)で、当時100人以上の弟子を擁する巨大派閥の領袖だった。円蔵もこの噺が得意だったのに、円生は人気の小せんから習っている。 この噺は、上方でも「袈裟茶屋」として演じられる。上方から東京に流れた説と、東京から上方に流れた説があるらしいが、どうだろう。どちらでもかまわない。笑うにはおかまいなしだ。いいかげんなものなんだなあ。

(古木優)

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

あけがらす【明烏】演目

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

 

 堅物がもてるという、廓が育む理想形。ビギナーズラック、はたまたの成功譚。

【あらすじ】

異常なまでにまじめ一方と近所で評判の日本橋田所町・日向屋半兵衛のせがれ時次郎。

今年十九だというに、いつも本にばかりかじりつき、女となれば、たとえ雌猫でも鳥肌が立つ。

今日も今日とて、お稲荷さまの参詣で赤飯を三杯ごちそうになったととくとくと報告するものだから、おやじの嘆くまいことか。

「堅いのも限度がある、いい若い者がこれでは、跡継ぎとしてこれからの世間づきあいにも差し支える」
と、かねてからの計画で、町内の札付きの遊び人・源兵衛と太助を「引率者」に頼み、一晩、吉原での遊び方を教えてもらうことにした。

「本人にはお稲荷さまのおこもりとゴマまし、お賽銭が少ないとご利益がないから、向こうへ着いたらお巫女さん方へのご祝儀は、便所に行くふりをしておまえが全部払ってしまいなさい、源兵衛も太助も札付きのワルだから、割り前なんぞ取ったら後がこわい」
と、こまごま注意して送り出す。

太助のほうはもともと、お守りをさせられるのがおもしろくない。

その上、若だんながおやじに言われたことをそっくり、「後がこわい」まで当人の目の前でしゃべってしまったからヘソを曲げるが、なんとか源兵衛がなだめすかし、三人は稲荷ならぬ吉原へ。

いかに若だんながうぶでも、文金、赭熊(しゃごま)、立兵庫(たてひょうご)などという髪型に結った女が、バタリバタリと上草履の音をさせて廊下を通れば、いくらなんでも女郎屋ということはわかる。

泣いてだだをこねるのを二人が
「このまま帰れば、大門で怪しまれて会所で留められ、二年でも三年でも帰してもらえない」
と脅かし、やっと部屋に納まらせる。

若だんなの「担当」は十八になる浦里という、絶世の美女。

そんな初々しい若だんななら、ワチキの方から出てみたいという、花魁からのお見立てで、その晩は腕によりをかけてサービスしたので、堅い若だんなも一か所を除いてトロトロ。

一方、源兵衛と太助はきれいさっぱり敵娼(あいかた)に振られ、ぶつくさ言いながら朝、甘納豆をヤケ食い。

若だんなの部屋に行き、そろそろ起きて帰ろうと言ってもなかなか寝床から出ない。

「花魁は、口では起きろ起きろと言いますが、あたしの手をぐっと押さえて……」
とノロケまで聞かされて太助、頭に血が昇り、甘納豆をつまんだまま梯子段からガラガラガラ……。

「じゃ、坊ちゃん、おまえさんは暇なからだ、ゆっくり遊んでらっしゃい。あたしたちは先に帰りますから」
「あなた方、先へ帰れるなら帰ってごらんなさい。大門で留められる」

底本:八代目桂文楽

【しりたい】

極め付き文楽十八番

あまり紋切り型は並べたくありませんが、この噺ばかりはまあ、上記の通りでしかたないでしょう。

八代目桂文楽が二ツ目時代、初代三遊亭志う雀(のち八代目司馬龍生)に習ったものを、四十数年練り上げ、戦後は、古今亭志ん朝が台頭するまで、文楽以外はやり手がないほどの十八番としました。

それ以前は、サゲ近くが艶笑がかっていたのを改め、おやじが時次郎を心配して送り出す場面に情愛を出し、さらに一人一人のしぐさを写実的に表現したのが文楽演出の特徴でした。

時代は明治中ごろとし、父親は前身が蔵前の札差で、維新後に問屋を開業したという設定になっています。

原話となった心中事件

「明烏○○」と表題がついた作品は、明和年間(1764-72)以後幕末にいたるまで、歌舞伎、音曲とあらゆるジャンルの芸能で大量生産されました。

その発端は、明和3年(1766)6月、吉原・玉屋の遊女美吉野と、人形町の呉服屋の若旦那伊之助が、宮戸川(隅田川の山谷堀あたり)に身を投げた心中事件でした。

それが新内「明烏夢淡雪」として節付けされ、江戸中で大流行したのが第一次ブーム。

事件から半世紀ほど経た文政2年(1819)から同9年にかけ、滝亭鯉丈と為永春水が「明烏後正夢」と題して人情本という、今でいう艶本小説として刊行。第二次ブームに火をつけると、これに落語家が目をつけて同題の長編人情噺にアレンジしました。

現行の「明烏」はおそらく幕末に、その発端を独立させたものでしょう。

大門で止められる

「大門」の読み方は、芝は「だいもん」、吉原は「おおもん」と呼びならわしています。

吉原では、大見世遊びのときには、まず引手茶屋にあがり、そこで幇間と芸者を呼んで一騒ぎした後、迎えが来て見世(女郎屋)に行くならわしでした。

この噺では、茶屋の方もお稲荷さまになぞらえられては決まりが悪いので、早々に時次郎一行を見世に送り込んでいます。

大門は両扉で、黒塗りの冠木(かぶき)門。夜は引け四つ(午前0時)に閉門しますが、脇にくぐり門があり、男ならそれ以後も出入りできました。

大門に入ると、仲の町という一直線の大通り。左には番所、右には会所がありました。

左の番所は、町奉行所から来た与力や同心が岡っ引きを連れて張り込み、客らの出入りを監視する施設です。門番所、面番所とも。

右の会所は、廓内の自治会施設。遊女の脱走を監視するのです。吉原の初代の総名主である三浦屋四郎左衛門の配下、四郎兵衛が代々世襲名で常駐していたため、四郎兵衛会所と呼ばれました。

こんな具合ですから、治安のすこぶるよろしい悪所でした。むろん「途中で帰ると大門で止められる」は真っ赤な嘘です。

甘納豆

八代目桂文楽ので、太助が朝、振られて甘納豆をヤケ食いするしぐさの巧妙さは、今も古い落語ファンの間で語り草です。

甘納豆は嘉永5年(1858)、日本橋の菓子屋が初めて売り出しました。

文楽直伝でこの噺に現代的なセンスを加味した古今亭志ん朝は、甘納豆をなんと梅干の砂糖漬けに代え、タネをプッと吐き出して源兵衛にぶつけるおまけつきでした。

日本橋田所町

現在の東京都中央区堀留町二丁目。日本橋税務署のあるあたりです。

浦里時次郎

新内の「明烏夢淡雪」以来、「明烏」もののカップルはすべて「山名屋浦里・春日屋時次郎」となっています。

落語の方は、心中ものの新内をその「発端」という形でパロディー化したため、当然主人公の名も借りています。

うぶな者がもてて、半可通や遊び慣れた方が振られるという逆転のパターンは、『遊子方言』(明和7=1770年ごろ刊)以来、江戸の遊里を描いた「洒落本」に共通のもので、それをそのまま、オチに巧みに取り入れています。

【もっとしりたい】

ご存じ、8代目桂文楽のおはこ。文楽存命中はだれもやれず、のちに志ん朝がやった。もっとうまかった。

明和3(1766)年6月3日 (一説には明和6年とも) 、吉原玉屋の花魁美吉野と、人形町の呉服太物商春日屋の次男伊之助が、白ちりめんのしごき(女性の腰帯。結ばないでしごいて使う)でしっかり体を結び合って宮戸川(隅田川の山谷堀辺) に入水した。

これが、宮戸川心中事件といわれるもの。事件をもとに、初代鶴賀若狭掾が新内「明烏夢淡雪」として世に広めた。

さらに、文政2年(1819)-7年(1824)には、滝亭鯉丈と為永春水が続編のつもりで人情本『明烏後正夢』を刊行。この本の発端を脚色したのが落語の「明烏」である。以降、「明烏」ものは、歌舞伎、音曲などあらゆる分野で派生された。

うぶな男がもてて半可通が振られるという類型は、江戸の遊里を描いた洒落本には共通のもの。もてるもてないはどこか宿命めいている。修行の必要などなさそうだ。

(古木優)

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

ゆうじょかい【幽女買い】演目

  【RIZAP COOK】  落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席 寄席

遊女と幽女。ただのしゃれ。暇人の手わざでなけりゃこんな噺は始まりません。

別題:魂祭 亡者の遊興

あらすじ

急に暗いところに来てしまった太助、三月前に死んだはずの源兵衛に声をかけられてびっくり。

「おめえは確かに死んだよな」
と念を押すと
「おめえ、おれの通夜に来たろ」

太助が通夜の席で
「世の中にこんな助平で女郎買いの好きな奴はなくて、かみさんは子供を連れて出ていくし、これ幸いと女を次々に引きずり込んだはいいが、悪い病気をもらって、目はつぶれる、鼻の障子は落ちる、借金だらけで満足な葬式もできない始末だから、どっちみち地獄おちは間違いない。弔いはいいかげんにして、焼いて粉にして屁で飛ばしちまおう」
とさんざん悪口を言ったのを、当人に全部聞かれている。

死骸がまだそこにあるうちは聞こえるという。

太助、死んだ奴がどうしてこんなところにいるのか、まだわからない。

「てめえも死んだからヨ」
「おれが死んだ? はてな」

そう言われれば、かみさんが枕元で医者に
「間違いなく死にました? 生き返らないでしょうね?……先生、お通夜は半通夜にしてみんな帰しますから、あの、今晩……」
なんぞと抜かしていたのを思い出した。

「ちきしょうめッ」
と怒っても、もう後の祭り。

ここのところ飢餓や地震で亡者が多くなり、閻魔えんまの庁でも忙しくて手が回らず、源兵衛も「未決」のまま放っておかれているという。

浄玻璃じょうはりの鏡も研ぐ時間がないため、娑婆しゃば悪業あくごうがよく写らないのを幸い、そのうちごまかして極楽へ通ってしまう算段を聞き、太助も一口乗らせてもらうことにした。

お互いに死んだおかげで、すっかり病気も治って元気いっぱい。

白団子をさかなに祝杯をあげるうち、こっちにも吉原ならぬ死吉原があり、遊女でなく幽女買いができるので、ぜひ繰り込もうとうことになった。

三枚駕籠さんまいかごの代わりに早桶はやおけ大門おおもんに乗りつけると、人魂ひとだま入りの提灯ちょうちんがおいでおいで。

ここでは江戸町えどちょう冥土町めいどちょう揚屋町あげやまちはあの世町。

見世も、松葉屋は末期屋まつごや、鶴屋は首つる屋と名が変わる。

女郎はというと、張り見世からのぞくと、いやに痩せて青白い顔。

ここではそれが上玉じょうだまだとか。

女が
「ちょいとそこの新亡者しんもうじゃ、あたしが往生さしてあげるからさ」
と袖をひくので揚がると
「へいッ、仏さまお二人ッ」

わっと陰気に枕団子の付け焼きで、まず一杯。

座敷では芸者が首から数珠じゅずをぶらさげ、りんと木魚もくぎょ
「チーン、ボーン」。

幇間たいこ
「えーご陰気にひとつ」
と、坊主姿で百万遍ひゃくまんべん

お引けになると、御詠歌ごえいかが聞こえ、生あたたかい風がスーッ。

「うらめしい」
「待ってました。幽ちゃん」

夜が明けると
「『おまはんが好きになったよ』って女が離れねえ。『いっそ二人で生きたいね』『生きて花実はなみが咲くものか』なんて」
と妙なノロケ。

帰りがけにのどがかわいたので、「末期の水」を一杯のみ干し、
「やっかいになった。また来るよ」
「冥土ありがとうございます」

表へ出ると向こうから
「お迎え、お迎え」

しりたい

縁起の悪さで五つ星!

上方落語の「けんげしゃ茶屋」と並び、私(高田)としては正月の初席でやってほしい噺の双璧そうへきなのですが、立川談志のあとはなぜか、ほとんどやり手がなさそうなのが残念しごく。談志演出での、主人公二人の、地獄におちて当然の強悪ごうあくぶりには本当に感服させられました。

とりわけ、「焼いて屁で飛ばしちまう」には笑えます。

後半は、単に現実の茶屋遊びを地獄に置き換え、縁起の悪い言葉を並べただけで、ややパワーが落ちますが、談志が前半の通夜の太助の悪口あっこうと、女房と医者のちちくりあいを創作しただけで、この噺は聴くに値するものになりました。

どなたか、後半をもう少しおもしろくつくってもらえればいいのですが。

浄玻璃の鏡

地獄の閻魔えんまの庁で、亡者もうじゃ娑婆しゃばでの行状ぎょうじょうをありありと映し出す鏡。昔の鏡は金属製でくもりやすく、そのつど鏡研師かがみとぎしがせなければなりませんでした。

三枚駕籠

三枚肩さんまいかたともいい、一丁いっちょう駕籠かごに三人の駕籠舁かごかきが付き、交代で担ぎます。急用のとき、またはくるわ通いで見栄みえを張る場合などに雇いました。

お迎え

盆に、精霊流しょうりょうながしの余りをもらい歩く物ごいの声と、吉原で茶屋の者が客を迎えに来る声を掛けたものです。

古いやり方と速記

明治中期、「魂祭たままつり」の題で演じた六代目桂文治ぶんじ、「亡者もうじゃ遊興あそび」とした二代目三遊亭小円朝こえんちょうの速記が残っています。

文治では、地獄の茶屋で、隣のもてぶりに焼き餅を焼き、若い衆に文句を言う官員と職人の二人を登場させていますから、あるいはこの噺は「五人廻し」のパロディーとして作られたのかもしれません。

【幽女買い 立川談志】

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