第616回 TBS落語研究会  2019年10月25日 寸評

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席


2019年10月25日(金) 東京・国立小劇場 古木優

熊の皮 春風亭喜いち ★★

かけあいが平板。周りの客は寝ていた。二つ目なりたてだそうで、話し方には勢いがある。大いに可能性を感じた。噺を選べばよいのかも。登亭

田能久 入船亭扇辰 ★★★★★

マクラで客を引き込んでからは全編息もつかせない。流れる話柄に聴き酔えた。はずれのない噺ながら、客を最後までそらさないのも芸の内だろう。尾花

蒟蒻問答 三遊亭歌武蔵 ★★★★

「甲府い」でも驚いたが、どうしてこんなにうまいのだろう。しっかりした型で大いに見せてくれる。人物描写も自然。映像が湧き出た。のだや

天狗裁き 桂三木助 ★★

さすが小林家。かまない。高っ調子のスピード感ある流々とした話しぶりに酔いたかったが、人物がみんな同じ声帯で興醒め。立体感なくマンガ見てるよう。竹葉亭

たちきり 入船亭扇遊 ★★★★★

ぞくぞくするほど色っぽい。でも自然で。飽きない言葉の選び方に落語の芸の奥行きを感じた。大雨押して参じた甲斐あったというもの。つきじ宮川本廛

崇徳院 すとくいん 演目

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

若者が恋煩いで寝込む。昔は多かったようです。「わろてんか」にも。

別題:皿屋 花見扇

【あらすじ】

若だんながこのところ患いつき、飯も喉に通らないありさまで衰弱するばかり。

医者が
「これはなにか心に思い詰めていることが原因で、それをかなえてやれば病気は治る」
と言うので、しつこく問いただしても、いっこうに口を割らない。

ようやく、
「出入りの熊さんになら話してもいい」
と若だんなが言うので、大だんなは大急ぎで呼びにやる。

熊さんが部屋に入ってみると、若だんなは息も絶え絶え、葬儀屋にいったほうが早道というようす。

話を聞いても笑わないことを条件に、熊さんがやっと聞き出した病気のもとというのが、恋煩い。

二十日ばかり前に上野の清水さまに参詣に行った時、清水堂の茶店に若だんなが腰を掛けて景色を眺めていると、目の前にお供の女を三人つれたお嬢さんが腰を掛けた。

それがまた、水のしたたるようないい女で、若だんなが思わず見とれていると、娘もじっとこちらを見る。

しばらくすると、茶袱紗(ふくさ)を落としたのも気がつかず立ち上がるので、追いかけて手渡したちょうどその時、桜の枝から短冊が、糸が切れてはらりと落ちてきた。

見ると
「瀬を早み岩にせかるる滝川の」
と書いてある。

これは下の句が
「われても末に逢はむとぞ思ふ」
という崇徳院の歌。

娘はそれを読むと、なにを思ったか、若だんなの傍に短冊を置き軽く会釈して、行ってしまった。

この歌は、別れても末には添い遂げようという心なので、それ以来、なにを見てもあのお嬢さんの顔に見える、というわけ。

熊さん、
「なんだ、そんなことなら心配ねえ、わっちが大だんなに掛け合いましょう」
と安請け合いして、短冊を借りると、さっそく報告。

大だんな、
「いつまでも子供だ子供だと思っていたが」
とため息をつき、
「その娘をなんとしても捜し出してくれ」
と、熊に頼む。

「もし捜し出せなければ、せがれは五日以内に間違いなく死ぬから、おまえはせがれの仇、必ず名乗って出てやる」
と、脅かされたから、熊はもう大変。

熊は帰って、かみさんに相談。

かみさんは
「もし見つければあの大だんなのこと、おまえさんを大家にしてくれるかもしれない」
と、尻をたたく。

「とにかく手掛かりはこの歌しかないから、湯屋だろうが床屋だろうが往来だろうが、人の大勢いるところを狙って歌をがなってお歩き。今日中に見つけないと家に入れないよ」
と追い出される。

さあ、それから湯屋に十八軒、床屋に三十六軒。

「セヲハヤミセヲハヤミー」
とがなって歩いて、夕方にはフラフラ。

「ことによると、若だんなよりこちとらの方が先ィ行っちまいかねねえ」
と嘆いていると、三十六軒目の床屋で、突然飛び込んできた男が、
「出入り先のお嬢さんが恋煩いで寝込んでいて、日本中探しても相手の男を探してこいというだんなの命令で、これから四国へ飛ぶところだ」
と話すのが、耳に入った。

さあ、
「もう逃がさねえ」
と熊五郎、男の胸ぐらに武者振りついた。

「なんだ。じゃ、てめえん所の若だんなか。てめえを家のお店に」
「てめえこそ、家のお店に」
ともみ合っているうち、床屋の鏡を壊した。
「おい、話をすりゃあわかるんだ。家の鏡を割っちまってどうするんだ」
「親方、心配するねえ。割れても末に買わんとぞ思う」

底本:三代目桂三木助

【しりたい】

類話「花見扇」

初代桂文治(1773-1815)作の上方落語を東京に移植したものです。文治の作としてはほかに「洒落小町」「たらちね」があります。

ただし、江戸にもほとんど筋が同じの「花見扇」(皿屋)という噺があり、どちらも種本は同じと思われますが、はっきりしません。

オチの部分が異なっていて、「花見扇」では、だんなに頼まれた本屋の金兵衛が、床屋で鳶頭の胸ぐらを夢中でつかんだため、「苦しい。放せ」「いや、放さねえ。合わせ(結婚させ)る」というオチでした。

先方が皿屋の娘という設定のこの噺は、今はすたれましたが、人情噺「三年目」の発端だったともいわれます。

「瀬を早み……」

百人一首第七十七歌です。もとは『詞花集』の収められています。

崇徳院(1119-64)は、鳥羽天皇第一皇子で、即位して崇徳天皇。父・鳥羽上皇の横車から異母弟・近衛天皇に譲位させられ、その没後も、今度は同母弟が後白河天皇として即位したので、腹心・藤原頼長とはかって保元の乱(1156)を起こしましたが、事破れて讃岐に流され、憤死しました。

歌意は「川の流れが急なので、水が滝になって岩に当たり、二つに割れる。しかし、貴女との仲は割れることなく、添い遂げよう」です。

鳶頭

かしら。「とびがしら」と読みがちですが、この二字で「かしら」と呼びならわしています。町火消の組頭で、頭取の下。各町内に一人はいました。町の雑用に任じ、ドブさらいからもめごとの仲裁まで一切合財引き受けていました。特に、地主や出入りの商家の主人には、手当てや盆暮れの祝儀をもらっている手前、何か事があると、すぐ駆けつけてしゃしゃり出ます。落語にはいやというほど登場しますが、あまりりっぱなのはいません。

三木助の十八番

戦後は、三代目桂三木助の十八番で、清水寺で短冊が舞い落ちてくるくだりは、三木助の工夫です。

上方では、高津(こうづ)神社絵馬堂前の設定で、桂米朝は、茶屋の料紙に娘が書き付けるやり方でした。

上野の清水さま

寛永寺境内に現存する、清水観音堂のことです。寛永8年(1631)、寛永寺寺域内の摺鉢山に建立されたもので、同11年、寿昌院焼失後、現在地であるその跡地に移りました。京の清水寺を模した舞台造りで有名で、桜の名所。本尊の千手観音像は恵心僧都の作です。

三井の大黒 みついのだいこく 演目

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名人噺。能たる鷹は爪を隠す。甚五郎はときおり爪をさらします。

別題:左小刀 出世大黒 左甚五郎

【あらすじ】

名人の噺。飛騨の名工・左甚五郎の。

伏見に滞在中に、江戸の三井(越後屋)の使いが来て、運慶作の恵比寿と一対にする大黒を彫ってほしいと依頼される。

手付に三十両もらったので、甚五郎、借金を済ました残りで江戸に出てきた。

関東の大工仕事を研究しようと、日本橋を渡り、藍染(あいぞめ)川に架かる橋に来かかると、板囲いの普請場で、数人の大工が仕事をしている。

のぞいてみると、あまり仕事がまずいので
「手切り釘こぼし……皆半人前やな。一人前は飯だけやろ」

これを聞きつけて怒ったのが、血の気の多い大工連中、寄ってたかって袋だたき。

棟梁の政五郎が止めに入り、上方の番匠(ばんじょう=大工)と聞くと、同業を悪く言ったおまえさんもよくないと、たしなめる。

まだ居場所が定まらないなら、何かの縁だからあっしの家においでなさいと、勧められ、甚五郎、その日から日本橋橘町の政五郎宅に居候。

とにかく口が悪いので、政五郎夫婦は面食らうが、当人は平気な顔。名前を聞かれ、まさか、日本一の名人でございとは名乗れないから、箱根山に名前を置き忘れたとごまかすので、間が抜けた感じから「ぬうぼう」とあだ名で呼ばれることになった。

翌朝、甚五郎はさっそく、昨日の藍染川の仕事場に出向いたが、若い衆、
「名前を忘れるようなあんにゃもんにゃには下見板を削らしておけ」
ということになった。

これは小僧上がりの仕事なので、大工の作法を知らないと、むっとしたが、棟梁への義理から腹に納め、削り板に板を乗せると、粗鉋(あらしこ)で二枚削り。

これを合わせて水に浸け、はがして、またぴたりと合わせると、さっさと帰ってしまう。

後でその板をみると、二枚が吸いつくように離れない。

話を聞いた政五郎、若い者の無作法をしかり、「離れないのは板にムラがないからで、これは相当な名人に違いない」と悟る。

その年の暮れ。

政五郎は居候を呼んで、
「江戸は急ぎ仕事が求められるから、おまえさんの仕事には苦情がくると、打ち明け、上方に帰る前に、歳の市で売る恵比寿大黒を彫って小遣い稼ぎをしていかないか」
と勧めるので、甚五郎、ぽんと手を打ち
「やらしてもらいたい」

それから細工場に二階を借り、備州檜のいいのを選ぶと、さっそくこもって仕事にかかる。

何日かたち、甚五郎が風呂へ行っている間に政五郎がのぞくと、二十組ぐらいはできたかと思っていたのが一つもない。

隅を見ると、風呂敷をかけたものがある。

取ると、二尺はある大きな大黒。

これが、陽に当たってぱっちり目を開けた。

そのとき、下から呼ぶ声。

出てみると、駿河町の三井の使い。

手紙で、大黒ができたと知らせを受けたという。

政五郎、やっと腑に落ち、
「なるほど、大智は愚者に似るというが」
と感心しているところへ、当人が帰ってくる。

甚五郎、代金の百両から、お礼にと、政五郎に五十両渡した。

「恵比寿さまになにか歌があったと聞いたが」
「『商いは濡れ手で粟のひとつかみ』というのがございますが」

そこで、さらさらと「守らせたまえ二つ神たち」と書き添えると、いっしょに三井に贈ったという、甚五郎伝の一節。

底本:六代目三遊亭円生

【しりたい】

左甚五郎

甚五郎(1594-1641)は江戸前期の彫刻・建築の名匠です。異名を左小刀(さしょうとう)といい、京都の御所大工でしたが、元和6年(1620)、江戸へ出て、将軍家御用の大工として活躍する一方、彫刻家としても、日光東照宮の眠り猫、京都知恩院の鶯張りなど、歴史に残る名作を生み出し、晩年は高松藩の客分となりました。

落語や講談では「飛騨の甚五郎」が通り相場で、姓の「左」は「飛騨」が正しいとする説もありますが、実際は播磨国・明石の出身ともいい、詳しい出自ははっきりしません。

落語では「竹の水仙」「ねずみ」に登場するほか、娘が甚五郎作の張形(女性用の淫具)を使ったため「処女懐胎」してしまうバレ噺「甚五郎作」があります。

要するに、江戸時代には、国宝級の名作はすべて「甚五郎作」にされてしまうぐらい、左甚五郎は「名人の代名詞」だったわけです。

三木助最後の高座

講談から落語化されたもので、戦後では六代目三遊亭円生と三代目桂三木助が、ともに十八番としました。

とりわけ三木助は、同じ甚五郎伝の「ねずみ」も事実上の創作に近い脚色をするなど、甚五郎にはことのほか愛着を持っていたようで、この噺もたびたび高座に掛けました。

三木助最後の高座となった、昭和35年(1961)11月の東横落語会の演目も、この「三井の大黒」でした。

三木助没後は高弟の入船亭扇橋、さらにその門下の扇遊へと継承されてました。

藍染川と今川橋

藍染川は神田鍛冶町から紺屋町を通り、神田川に合流した掘割です。紺屋町の染物屋が、布をさらしたことからこう呼ばれました。

明治18年(1885)に埋め立てられています。

六代目円生は「今川橋」の出来事として演じましたが、実際の今川橋は、藍染川南東の八丁堀に架かっていた橋で、日本橋本白銀町(ほんしろがねちょう)二丁目と三丁目を渡していました。

下見板

噺の中で甚五郎がくっつけてしまう「下見板」は、家の外壁をおおうための横板で、大工の見習いが練習に、まず削らされるものでした。甚五郎が怒ったのも、無理はありません。

駿河町の三井

初代・三井八郎右衛門高利が延宝元年(1673)、日本橋本町一丁目に呉服屋を開業。天和2年(1682)の大火で、翌年、駿河町(東京都中央区日本橋室町一、二丁目)に移転、「現金掛値なし」を看板にぼろもうけしました。

近日息子 きんじつむすこ 演目

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上方噺。三十近い、このどら息子、ばかなんだか、こざかしいんだか。

【あらすじ】

三十歳近くになるが、ぼんくらな一人息子に、おやじが説教している。

芝居の初日がいつ開くか見てきてくれと頼むと、帰ってきて明日だと言うから、楽しみにして出かけてみると「近日開演」の札。

「バカヤロ、近日てえのは近いうちに開けますという意味だ」
とおやじが叱ると、
「だっておとっつぁん、今日が一番近い日だから近日だ」

なにしろふだんから、気を利かせるということをまるで知らない。

「おとっつぁんが煙管(きせる)に煙草を詰めたら煙草盆を持ってくるとか、えへんと言えば痰壺を持ってくるとか、それくらいのことをしてみろ。そのくせ、しかるとふくれっ面ですぐどっかへ行っちまいやがって」
とガミガミ言っているうち、おやじ、かわやに行きたくなったので、
「紙を持ってこい」
と言いつけると、出したのは便箋と封筒。

「まったくおまえにかかると、よくなった体でも悪くなっちまう」
と、また小言を言えば、せがれ、プイといなくなってしまった。

しばらくして医者の錆田先生を連れて戻ってきたから、わけを聞くと
「お宅の息子さんが『おやじの容態が急に変わったので、あと何分ももつまいから、早く来てくれ』と言うから、取りあえずリンゲルを持って」
「えっ? あたしは何分ももちませんか」
「いやいや、一応お脈を拝見」
というので、みても、せがれが言うほど悪くないから、医者は首をかしげる。

それを見ていた息子、急いで葬儀社へ駆けつけ、ついでに坊主の方へも手をまわしたから、説教の薬が効きすぎた。

長屋の連中も、大家が死んだと聞きつけて、
「あのばか息子が早桶担いで帰ってきたというから間違いないだろう、そうなると悔やみに行かなくっちゃなりません」
と相談する。

そこで口のうまい男がまず
「このたびは何とも申し上げようがございません。長屋一同も、生前ひとかたならないお世話になりまして、あんないい大家さんが亡くなるなん……」
と言いかけてヒョイと見上げると、ホトケが閻魔のような顔で、煙草をふかしながらにらんでいる。

「へ、こんちは、さよならっ」
「いいかげんにしろ。おまえさん方まで、ウチのばか野郎といっしょになって、あたしの悔やみに来るとは、どういう料簡だっ」
「へえ、それでも、表に白黒の花輪、葬儀屋がウロついていて、忌中札まで出てましたもんで」
「え、そこまで手がまわって……ばか野郎、表に忌中札まで出しゃがって」
とおやじが怒ると、
「へへ、長屋の奴らもあんまし利口じゃねえや。よく見ろい、忌中のそばに近日と書いてあらァ」

底本:三代目桂三木助

【しりたい】

「近日」は芝居用語

江戸時代の芝居興行では、金主(=スポンサー)と座主(=プロデューサー)のトラブル、資金繰りの不能、役者の「もっといい役をつけろ!」というクレームや、ライバル役者同士の序列争いなど、さまざまな原因で、予定通りに幕が開かないことがしばしばでした。

そこで、それを見越して、初日のだいぶ前から、「近日開演」の札を出して予防線を張っていました。

これを「近日札」といって、大阪・道頓堀の劇場街では、昭和に入っても戦争前まで、このしきたりが残っていたそうです。古くは上方でこれを「前繰(さきぐり)」とも呼びました。

民話からつくられた噺

「病人に坊主」という民話が原型といわれます。

小ばなしでは、先走って寺に知らせるくだりは安永3年(1774)、上方で刊行された笑話本『茶の子餅』中の「忌中」、オチの「近日札」の部分は、その前年に江戸で刊行の『仕形噺口拍子』中の「手まはし」がそれぞれ原話で、この二つをミックスして落語に仕立てたのでしょう。

特に後者は、すでに現在の「近日息子」の後半とほとんど同じです。

三木助の当たり噺に

もともと上方落語で、「吹き替え息子(干物箱)」と同じく「息子」という言い方も大阪のものです。

東京で口演されるようになったのは明治40年ごろからですが、東京の落語家はほとんど手掛けず、もっぱら上方くだりの二代目桂三木助などが、大阪のものをそのまま演じていた程度でした。

大阪での修行時代に二代目桂春団治からこの噺を伝授された生粋の江戸っ子・三代目桂三木助が戦後磨きをかけ、独特の現代的くすぐりをふんだんに入れて大当たり。十八番に仕上げました。

三木助演出の特徴は、年代を大正末期に設定してあるため、長屋の連中の会話がデスマス調でていねいなことや、名前も錆田に長谷川と、新作落語のような印象が新鮮な点でしょう。

三木助のくすぐりから

●(長屋の住人の会話。昨夜乙が湯屋で会った大家が死んだと聞いて)

甲「なんですか? ゆうべ湯に行って帰りにざるを二杯食べると、今朝死ねませんか」
乙「死ねないって理屈はないでしょうけどねえ」
甲「あのね、イースーピン(一四筒)が通ってもチーピン(七筒)が通らない場合があるン」

「イースーピン」のくすぐりは、戦後の麻雀ブームでサラリーマンや学生客に大ウケだったとか。

●(早桶をかついできた息子)

「おとっつあん、ちょっと入ってみてねえ、そいで具合が悪いようだったら、あの、今のうちならね、(寝棺と)取り替えてくれるって」

竃幽霊 へっついゆうれい 演目

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昔は、へっついから幽霊がよく出たもんです。そう、出そうでしょ、あそこ。

【あらすじ】

ある道具屋から買ったへっつい(かまど)から幽霊が出るというので、買う客買う客みな一日ともたずに青い顔で返品に来る。

道具屋の親方、毎日一分二朱で売って三割安で戻ってくるから、初めはもうかると喜んでいたが、そのうち評判が立ち、ほかの品物もぱたりと売れなくなった。

困って夫婦で相談の上、だれか度胸のいいばかがいたら、三両付けて引き取ってもらうことにした。

これを聞きつけたのが裏の長屋に住む遊び人の熊五郎。

「幽霊なんざ目じゃねえ」
とばかり、隣の勘当中の生薬屋の若だんな徳兵衛さんを誘って、半分の一両二分もらった上、とりあえず徳さんの長屋に運び込むことにする。

こわがる徳さんに、幽霊は自分が引き受けて、もうけは折半するからと因果を含めて、二人で担いで家の戸口まで来ると、徳さんがよろけてへっついの角をドブ板にぶつけた。

その拍子に転がり出たのが、なんと三百両の大金。

「ははァ、これに気が残って出やがるんだ」
と合点して、その金を折半、若だんなは吉原へ、熊公は博打場へそれぞれ直行したが、翌日の夕方、帰ってみると二人ともきれいにすってんてん。

しかたがないから寝ることにしたが、その晩、徳さんの枕元へ青い白い奴がスーっと出て
「金返せェ」

「ギャーッ」
と叫ぶのを飛び込んできた熊公がなだめすかし
「こりゃあ、金をたたき返してやらないと毎晩でも出るな」
と思案する。

翌日。

徳さんの親元から三百両を借りてきた熊、へっついを自分の部屋に運び込むと、夕方から
「出やがれ、幽霊ッ」
とどなっている。

丑三ツ時になると、へっついから青白い陰火がボーッと出て
「へい、お待ちどうさま」

「鰻ィあつらえたんじゃねえや、恨めしいとか何とか言え」
と毒づくと
「へえ、それが恨めしくないんで」
とくる。

そこで幽霊が「身の下」はないから身の上を語るところによれば、生前は鳥越に住んでいた留といって、表向きは左官で裏は博打打ち。

それも、チョウ(丁)よりほかに張ったことはないそうな。

ある日。

めずらしく賭場で三百両もうけたが、友達が借りに来てうるさいので、金をへっついの中に隠したまま、その夜フグに当たってあえない最期、という次第。

熊は
「話はわかった。このへっついは俺がもらったんだから、百五十両ずつ立てんぼだ」
とむりやり半額にして返してやる。

「おめえ、不服か。実はこっちも心持が中途半端でいけねえ。いっそ、どっちかへ押しつけちまおう」
「ようがす」

熊の提案に、幽霊もかつてはくろうとなので、興奮して手をユラユラさせながら承知した。

二ッ粒の丁半で、出た目は半。

幽霊は丁しか張らないので、熊の勝ち。

「親方、もう一丁頼みます」
「勘弁してもらおう。もうてめえに金がねえじゃねえか」
「親方、あっしも幽霊です。決して足は出しません」

【しりたい】 

原話は墓でバクチ

安永2年(1773)刊の『俗談今歳花時』中の「幽霊」という小ばなしが原話です。

これは、火事で「真黒やき」になった仲間の一周忌追善に、バクチ狂いだった故人をしのび、墓場でチョボイチをご開帳していると、懐かしいサイの音に誘われ、当人が幽霊となって出現。さっそく仲間に加わって、死装束をカタに三百文張りますが、あえなく負けて意気消沈、早々と消え支度。「ナゼもっとせ(し)ないぞ」「イヤモ(う)、幽霊(=ゆうべ)も三百はりこんだ」

これは、寒中に裸で物ごいするすたすた坊主が唄って歩く「夕べも三百張り込んだ」のもじり、ダジャレにすぎません。まことにどうも、バクチあたりなことで。

上方落語を東京に

この噺も、今東京に残る噺の多くと同じく上方種で、上方落語「竃の幽霊」または「かまど幽霊」を明治末か大正初期に、三代目三遊亭円馬が東京に移したものです。

上方のオチは、熊が巻上げた金を元手に賭場で奮戦していると、またまた幽霊が出現。「まだこの金に未練があるのか」「いえ、テラをお願いに参じました」となります。

寺と博打のテラ銭を掛けたもので、前に金を巻上げた後、熊が幽霊に、石塔くらいは立ててやるから、迷わず成仏しろと言い渡した言葉を受けてのものです。

上方のやり方では、熊は完全にイカサマを使うことになっていて、その辺が東京と違ってあざといところ。

東京でも五代目柳家小さんは、このサゲを用いていました。

円生、三木助が双璧

五代目志ん生、四代目、五代目小さんも演じましたが、レコード、速記の数からも、戦後はやはり六代目円生、三代目三木助がこの噺の双璧といえるでしょう。

なかでも三木助は、幽霊に仰天してへっついを返しに来る男を大阪弁に変え、いちいち言葉尻に「道具屋」「道具屋」とつけるなど、独自の滑稽味を出して十八番としました。

リアルはご法度

ただ、この三木助は若い頃、身を持ち崩して「隼の七」と異名を取った本物の博徒だったこともあり、熊の目つきのこわさや、あまりにもリアルなサイを振る動作が、客や楽屋内に薄気味悪がられ、初期の評判はよくなかったようです。

現に、四代目小さんがこの噺について、「サイを振る手つきはまずくていい、こういうところは人にほめられるな」と戒めています。これは同じバクチ噺の「狸賽」などでも同じでしょう。

「クマ」五郎は普通名詞?

阿佐田哲也のギャンブル小説で、雀ゴロ(麻雀専門のバイニン、博打打ち)が「クマゴロウ」と呼ばれていたのをご記憶の方も多いと思います。

博徒、特にイカサマ師の異称を「クマ」と呼ぶのは相当古くかららしく、細工を施してある賽を「熊女」などともいいました。

そのせいか、「竃幽霊」の主人公は東西問わず、誰が演じても熊五郎です。

三代目三木助の人物設定では、熊は白無垢鉄火、つまり表面は堅気の素人を装って、裏に回れば遊び人ということにしてあります。

「クマ」の語源はよくわかりませんが、あるいは、熊手でかき寄せるように賭場でテラ銭をさらうところからきているのかもしれません。

芝浜 しばはま 演目

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河岸に向かう浜で財布を拾う。山手線芝浜駅ができたらグッときたのに。

【あらすじ】

芝は金杉に住む魚屋の勝五郎。

腕はいいし人間も悪くないが、大酒のみで怠け者。

金が入ると片っ端から質入してのんでしまい、仕事もろくにしないから、年中裏店住まいで店賃(たなちん)もずっと滞っているありさま。

今年も師走で、年越しも近いというのに、勝公、相変わらず仕事を十日も休み、大酒を食らって寝ているばかり。

女房の方は今まで我慢に我慢を重ねていたが、さすがにいても立ってもいられなくなり、真夜中に亭主をたたき起こして、このままじゃ年も越せないから魚河岸へ仕入れに行ってくれとせっつく。

亭主はぶつくさ言って嫌がるが、盤台もちゃんと糸底に水が張ってあるし、包丁もよく研いであり、わらじも新しくなっているという用意のよさだから文句も言えず、しぶしぶ天秤棒を担ぎ、追い出されるように出かける。

外に出てみると、まだ夜は明けていない。

カカアの奴、時間を間違えて早く起こしゃあがったらしい、ええいめえましいと、勝五郎はしかたなく、芝の浜に出て時間をつぶすことにする。

海岸でぼんやりとたばこをふかし、暗い沖合いを眺めているうち、だんだん夜が明けてきた。

顔を洗おうと波打ち際に手を入れると、何か触るものがある。

拾ってみるとボロボロの財布らしく、指で中をさぐると確かに金。

二分金で四十二両。

さあ、こうなると、商売どころではない。

当分は遊んで暮らせると、家にとって返し、あっけにとられる女房の尻をたたいて、酒を買ってこさせ、そのまま酔いつぶれて寝てしまう。

不意に女房が起こすので目を覚ますと、年を越せないから仕入れに行ってくれと言う。

金は四十二両もあるじゃねえかとしかると、どこにそんな金がある、おまえさん夢でも見てたんだよ、と、思いがけない言葉。

聞いてみるとずっと寝ていて、昼ごろ突然起きだし、友達を呼んでドンチャン騒ぎをした挙げ句、また酔いつぶれて寝てしまったという。

金を拾ったのは夢、大騒ぎは現実というから念がいっている。

今度はさすがに魚勝も自分が情けなくなり、今日から酒はきっぱりやめて仕事に精を出すと、女房に誓う。

それから三年。

すっかり改心して商売に励んだ勝五郎。

得意先もつき、金もたまって、今は小さいながら店も構えている。

大晦日、片付けも全部済まして夫婦水入らずという時、女房が見てもらいたいものがあると出したのは紛れもない、あの時の四十二両。

実は亭主が寝た後思い余って大家に相談に行くと、拾った金など使えば後ろに手が回るから、これは奉行所に届け、夢だったの一点張りにしておけという忠告。

そうして隠し通してきたが、落とし主不明でとうにお下がりになっていた。

おまえさんが好きな酒もやめて懸命に働くのを見るにつけ、辛くて申し訳なくて、陰で手を合わせていたと泣く女房。

「とんでもねえ。おめえが夢にしてくれなかったら、今ごろ、おれの首はなかったかもしれねえ。手を合わせるのはこっちの方だ」

女房が、もうおまえさんも大丈夫だからのんどくれと、酒を出す。

勝、そっと口に運んで、
「よそう。……また夢になるといけねえ」

【しりたい】

三題噺から

三遊亭円朝が幕末に、「酔っ払い」「芝浜」「財布」の三題で即席にまとめたといわれる噺です。(「鰍沢」参照)

戦後、三代目桂三木助が、四代目柳家つばめと劇評家・安藤鶴夫のアドバイスで、白魚船のマクラ、夜明けの空の描写、オチ近くの夫婦の情愛など、独特の江戸情緒をかもし出す演出で十八番とし、昭和29年度の芸術祭賞を受賞しましたが……。

アンツルも三木助も自己陶酔が鼻につき、あまりにもクサすぎるとの評価が当時からあったようです。まあ、聞く人によって、好き嫌いは当然あるでしょう。

芝浜の河岸

現在の港区芝浦一丁目付近に、金杉浜町という漁師町がありました。

そこに雑魚場という、小魚を扱う小規模な市があり、これが勝五郎の「仕事場」だったわけです。

宿屋の仇討ち やどやのあだうち 演目

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旅籠泊の「始終三人」。あんまりうるさくて武士ににらまれ。痛快なお噺です。

別題:庚申待ち 宿屋敵(上方)

【あらすじ】

やたら威勢だけはいい魚河岸の源兵衛、清八、喜六の三人連れ。

金沢八景見物の帰りに、東海道は神奈川宿の武蔵屋という旅籠にわらじを脱ぐ。

この三人は、酒をのむのも食うのも、遊びに行くのもすべていっしょという悪友で、自称「始終三人」。

客引きの若い衆・伊八がこれを「四十三人」と聞き違え、はりきって大わらわで四十三人分の刺身をあつらえるなどの大騒ぎの末、夜は夜で芸者を総あげでのめや歌え、果ては寝床の中で相撲までとる騒々しさ。

たまったものではないのが隣室の万事世話九郎という侍。

三人がメチャクチャをするたびに
「イハチー、イハチー」
と呼びつけ、静かな部屋に替えろと文句を付けるが、すでに部屋は満室。

伊八が平身低頭でなだめすかし、三人に掛け合いにくる。

恐いものなしの江戸っ子も、隣が侍と聞いては分が悪い。

しかたなくさっきは相撲の話なんぞをしていたから身体が動いちまっんたんだ、今度はお静かな色っぽい話をしながら寝ちまおうということになった。

そこで源兵衛がとんでもない自慢話。

以前、川越で小間物屋をしているおじさんのところに世話になっていた時、仕事を手伝って武家屋敷に出入りしているうちに、石坂段右衛門という百五十石取りの侍のご新造と、ふとしたことからデキた。

二人で盃のやりとりをしているところへ、段右衛門の弟の大助というのに
「不義者見つけた、そこ動くな」
と踏み込まれた。

逆にたたき斬ったあげく、ご新造がいっしょに逃げてたもれと泣くのを、足弱がいては邪魔だとこれもバッサリ。

三百両かっぱらって逃げて、いまだに捕まっていないというわけ。

清八、喜六は素直に感心し
「源兵衛は色事師、色事師は源兵衛。スッテンテレツクテレツクツ」
と神田囃子ではやしたてる始末。

これを聞きつけた隣の侍、またも伊八を呼び
「拙者、万事世話九郎とは世を忍ぶ仮の名。まことは武州川越藩中にて、石坂段右衛門と申す者。三年探しあぐねた妻と弟の仇。今すぐ隣へ踏んごみ、血煙上げて……」

さあ大変。

もし取り逃がすにおいては同罪、一人も生かしてはおかんと脅され、宿屋中真っ青。

実はこの話、両国の小料理屋で能天気そうなのがひけらかしていたのを源兵衛がそのままいただいたのだが、弁解してももう遅い。

あわれ、三人はぐるぐる巻きにふん縛られ、「交渉」の末、宿屋外れでバッサリと決定、泣きの涙で夜を明かす。

さて翌朝。

昨夜のことをケロッとわすれたように、震えている三人を尻目に侍が出発しようとするので、伊八が
「もし、お武家さま、仇の一件はどうなりました」
「あ、あれは嘘じゃ」
「冗談じゃありません。何であんなことをおっしゃいました」
「ああでも言わにゃ、拙者夜っぴて(夜通し)寝られん」

【しりたい】

二つの流れ

東西で二つの型があり、現行の「宿屋の仇討ち」は上方の「宿屋敵」を三代目柳家小さんが東京に移植、それが五代目小さんにまで継承されていました。

「宿屋敵」では、兵庫の男たちがお伊勢参りの帰途、大坂日本橋の旅籠で騒ぎを起こす設定です。

戦後、東京で「宿屋の仇討ち」をもっとも得意とした三代目桂三木助は、大阪にいた大正15年(1926)、師匠の二代目三木助から大阪のものを直接教わり、あらすじに取り入れたような独自のギャグを入れ、十八番に仕上げました。

三木助以後では、春風亭柳朝のものが、源兵衛のふてぶてしさで天下一品でしたが、残念ながら、現在残る録音はあまり出来のいいものではありません。

東京独自の「庚申待ち」

もうひとつの流れが、東京(江戸)で古くから演じられた類話「庚申待ち」です。

これは、江戸日本橋馬喰町の旅籠に、庚申待ちのために大勢が集まり、世間話をしているところへ、大切な客がやって来たことから始まり、以下は「宿屋の仇討ち」と大筋では同じです。

五代目古今亭志ん生や六代目三升家小勝が演じましたが、今は継承者がいないようです。

庚申待ち

庚申(かのえさる)の夜には、三尸(さんし)という腹中の虫が天に昇って、その人の罪過を告げるので、徹夜で宴を開き、いり豆を食べるならわしでした。もとは中国の道教の風習です。

庚申は六十日に一回巡ってくるので、年に六回あります。三尸の害を防ぐには、青面金剛や帝釈天猿田彦をまつるのがよいとされました。柴又の帝釈天が有名です。

聴きどころ

三木助版は、マクラからギャグの連続で、今でもおもしろさは色あせません。

なかでも、源兵衛らが騒ぐたびに武士が「イハチー」と呼びつけ、同じセリフで苦情を言う繰り返しギャグ、源兵衛の色事告白の妙な迫真性、二人のはやし立てるイキのよさなどは無類です。

テンポのよさ、場面転換のあざやかさは、芝居を見ているような立体感があります。

【もっと知りたい】

 「宿屋の仇討ち」には、以下の3つの型があるといわれる。

 (1)江戸型  天保板「無塩諸美味」所収の小話「百物語」が原話といわれているもの。明治期には「甲子待(きのえねまち)」「庚申待(こうしんまち)」として高座にかけられていた。明治28(1895)年に柳家禽語楼がやった「甲子待」が速記で残っている。以前は「宿屋の仇討ち」というと、この噺をさしたそうだ。げんに、大正7(1918)年に出た海賀変哲の「落語の落(さげ)」での「宿屋の仇討ち」のあらすじは、この型が紹介されている。六代目三升家小勝、五代目古今亭志ん生がやった。最近では、五街道雲助あたりがマニア向けにやるだけ。今となっては珍しい。この型は、なんといっても江戸の風俗がにおい立つ。なかなかに捨て難い。ただ、速記本を読んでも、登場するしゃれの数々が古びており、笑う前にわからない。うなるだけで先に進まない。悔しいかぎり。

 (2)上方1型 「宿屋敵(やどやがたき)」といわれるもの。兵庫の若い衆がお伊勢参りの帰りに大坂・日本橋の宿屋でひともんちゃく、という筋。これを、明治期に三代目柳家小さんが東京に持ってきた。上方から帰る魚河岸の三人衆が東海道の宿で大騒ぎ、という筋に作り変えたのだ。七代目三笑亭可楽を経て五代目小さんに伝わった。

 (3)上方2型 上方型にはもうひとつある。それが、今回取り上げた噺だ。大阪の二代目桂三木助に習った三代目三木助が、東京に持ってきて磨き上げたもの。他と比べると秀逸だ。現在「宿屋の仇討ち」といえば、ほとんどがこの型なのもうなずける。とはいえ、筋から見ればどれも大同小異ではあるが。

 3人衆が夜更けに興に乗ってがなり立てる「神田囃子」。今回はこれについて少々。

 江戸の祭囃子といったら、神田囃子だ。京都の祇園囃子、大阪のだんじり囃子と並び称される。神田明神の祭礼に奏でられるわけだが、もとは里神楽(さとかぐら)の囃子から出たもの。享保(1716-36)年間に葛西(葛飾区あたり)で起こった「葛西囃子」がネタ元だという。葛西の代官が地元の若者の健全育成をねらって香取明神の神主と図り、神楽の囃子を作り変えたものだという。ものの起こりは「大きなお世話」からだったわけ。

 「和歌囃子」、転じて「馬鹿囃子」などともいわれた。ローカルな音だった。葛西囃子が、天下祭といわれる幕府公認の祭である「山王祭」や「神田祭」に出演していった。烏森のギター弾きが、いきなり国際音楽祭に参加するようなもの。その結果、葛西囃子の奏法が江戸の方々に広まった。それが神田囃子として普遍化していったのだ。

 権威と様式はあとからついて回るもので、明治末期まで、神田大工町には神田囃子の家元と称する新井喜三郎家があったという。

 大太鼓(大胴)1、締太鼓(シラベ)2、篠笛(トンビ)1、鉦(ヨスケ)1の5人一組で構成される。一般に演奏される曲式には「打ち込み」「屋台」「聖天」「鎌倉」「四丁目」がある。これらを数回ずつ繰り返してひとつづりに演奏する。さらには、「神田丸」「亀井戸」「きりん」「かっこ」「獅子」といった秘曲もある。概して静かな曲が多いのだが、「みこし四丁目」などは「すってんてれつく」のにぎやかな調子。これを深夜にやられたのではいい迷惑だ。

 神田囃子の数々は、小唄、端唄、木遣、俗曲などに大なり小なりの影響を与えている。その浮き立つような心地よい調子は、落語家の出囃子、あるいは大神楽などで時折、耳に飛び込んでくる。押しも押されぬ江戸の音である。(古木優)