たちきり【立ち切り】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

美代吉と新三郎の粋なしんねこ。
そこに嫌われ男が逆上して割り込んで。
もとは上方の人情噺。聴かせる物語です。

別題:立ち切れ 立ち切れ線香(上方)

あらすじ

昔は、芸妓げいぎ花代はなだいを線香の立ち切る(=燃え尽きる)時間で計った。

そのころの話。

美代吉は、築地の大和屋抱えの芸妓。

新三郎は、質屋の若だんな。

二人は、互いに起請彫きしょうぼりをするほどの恋仲だ。

ある日。

湯屋ゆうやで若いが二人の仲を噂しあっているのを聞き、逆上したのが、あぶく。

美代吉に岡惚れの油屋の番頭、九兵衛のこと。

通称、あぶく。

この男、おこぜのようなひどいご面相なのだ。

美代吉があぶくを嫌がっていると、同じ湯船にあぶくがいるとも知らずに、若い衆がさんざん悪口を言った。

あぶくは、ますます収まらない。

さっそく、大和屋に乗り込んで責めつける。

美代吉は苦し紛れに、お披露目のため新三郎の親父から五十円借金していて、それが返せないのでしかたなく言いなりになっていると、でたらめを言ってごまかした。

自分はわけあって三年間男断ちをしているが、それが明けたらきっとだんなのものになると誓ったので、あぶくも納得して帰る。

美代吉は困った。

新さんに相談しようと手紙を書くが、もう一通、アリバイ工作をしようと、あぶくにも恋文を書いたのが運の尽き。

動転しているから、二人の宛名を間違え、新三郎に届けるべき手紙をあぶくの家に届けさせてしまう。

それを読んだあぶく。

文面には、あぶくのべらぼう野郎だの、あんな奴に抱かれて寝るのは嫌だのと書いてあるから、さては、とカンカン。

あぶくは、美代吉が新三郎との密会場所に行くために雇った船中に、先回りして潜んだ。

美代吉の言い訳も聞かばこそ、かわいさ余って憎さが百倍と、あぶくは匕首あいくち(鍔のない刀)で美代吉をブッスリ。

あわれ、それがこの世の別れ。

さて、美代吉の初七日。

新三郎が仏壇に線香をあげ、念仏を唱えていると、現れたのが美代吉の幽霊。

それも白装束でなく、生前のままの、座敷へ出るなりをしている。

新三郎が仰天すると、地獄でも芸者に出ていて大変な売れっ子だ、という。

なににしても久しぶりの逢い引き。

新三郎の三味線で、幽霊の美代吉が上方唄を。

いいムードでこれからしっぽり、という時、次の間から
「へーい、お迎え火」

あちらでは、芸妓を迎えにくる時の文句と聞いて、新三郎は
「あんまり早い。今来たばかりじゃないか」
「仏さまをごらんなさい。ちょうど線香がたち切りました」

底本:六代目桂文治

しりたい

上方人情噺の翻案

京都の初代松富久亭松竹しょうふくていしょうちく(生没年不詳)作と伝えられる、生っ粋の上方人情噺を、明治中期に東京に移植したもの。

移植者は三代目柳家小さん小さん(豊島銀之助、1857-1930)とも、六代目桂文治(1848-1928、平野次郎兵衛)ともいわれています。

文化3年(1806)刊の笑話本『江戸嬉笑』中の「反魂香」が、さらに溯った原話です。

東京では「入黒子いれぼくろ」と題した、明治31年(1898)12月の六代目桂文治の速記が最古の記録です。

その後、三代目春風亭柳枝(鈴木文吉、1852-1900、蔵前の柳枝)、八代目三笑亭可楽(麹池元吉、1898-1964)を経て、十代目柳家小三治(郡山剛蔵、1939-2021)が継承しました。

ここでのあらすじは、古い文治のものを参考にしました。ちょっと珍しい、価値あるあらすじです。

文治は、しっとりとした上方の情緒あふれる人情噺を、東京風に芝居仕立てで改作しています。

線香燃え尽き財布もカラッポ

芸者のお座敷も、お女郎の「営業」も、原則では、線香が立ち切れたところで時間切れでした。

線香が燃え尽きると、客が「お直しぃー」と叫び、新たな線香を立てて時間延長するのが普通でした。

落語「お直し」のような最下級の魔窟では、客引きの牛太郎ぎゅうたろう(店の従業員)の方が勝手に自動延長してしまう、ずうずうしさです。

明治以後は、時計の普及とともにさすがにすたれました。

この風習、東京でも新橋などの古い花柳界では、かなり後まで残っていたようです。

この噺の根っこには、男女の恋愛だろうが、しょせんは玄人(プロ)と客とのでれでれで、金の切れ目が縁の切れ目、線香が燃え尽きたらはいおしまい、という世間のおおざっぱな常識をオチに取り入れているわけですね。

上方噺「立ち切れ線香」

現在でも大阪では、大看板しか演じられない切りネタ(大ネタ)です。

あらすじは、以下の通り。

若だんなが芸者小糸と恋仲になり、家に戻らないのでお決まりの勘当かんどうとなるが、番頭の取り成しで百日の間、蔵に閉じ込められる。

その間に小糸の心底を見たうえで、二人をいっしょにさせようと番頭がはかるが、蔵の中から出した若だんなの恋文への返事が、ある日ぷっつり途絶える。

若だんなは蔵から出たあと、このことを知り、しょせんは売り物買い物の芸妓と、その不実をなじりながらも、気になって置き屋を訪れた。

事情を知らない小糸は、自分は捨てられたと思い込み、焦がれ死んだという。

後悔した若だんなが仏壇に手を合わせていると、どこからか地唄の「ゆき」が聞こえてくる。

「……ほんに、昔の、昔のことよ……」

これは小糸の霊が弾いているのだと若だんなが涙にくれる。

ふいに三味線の音がとぎれ、
「それもそのはず、線香が立ち切れた」

起請彫り

入れぼくろの風習からの発展形です。

江戸初期、上方の遊廓でおこりました。

遊女が左の二の腕の内側に相手の年齢の数のほくろを入れたり、男女互いが親指のつけ根にほくろを入れたりしたそうです。

互いの心に揺らぎはないという、証しのつもりなんですね。

人は、内なる思いをなにかの形で示さないと信じ合えない、悲しい生き物なのです。

「起請」とは「誓い」のことですから、このような名称になりました。

江戸中期(18世紀以降)になると、江戸でも流行しました。同じ江戸時代とはいっても、初期と中後期では人々のもの考え方や慣習も違ってきています。

それと、じわじわ入ってきた西洋の文物や考え方が江戸の日本に沁み込んでいきました。なにも、ペリーが来たから日本ががらりと変わったわけではありません。

江戸時代は平和が200年以上続いた時代でした。この平和な時間がなによりもすごい。

平和が100年ほど続くと、人間は持続して考えることができるのですね。そうなると、いろんなことを考えたり編み出したりするものなんでしょう。

そんな中で、江戸で生まれたのが「〇〇命」という奇習。今でもたまに見ることがあります。相手の名前を彫る気っ風のよさが身上です。平和ずっぽり時代の象徴といえましょう。鳩よりすごい。

ことばよみいみ
花代はなだい遊女や芸妓への遊興費
揚げ代あげだい芸妓や娼妓などを揚屋に呼んで遊ぶ代金。=玉代
揚げ屋あげや遊里で遊女屋から遊女を呼んで遊ぶ家
遊女屋ゆうじょや置き屋
置き屋おきや芸妓や娼妓を抱えておく家
芸妓げいぎ芸者、芸子
娼妓しょうぎ遊女、公娼
入れ黒子いれぼくろいれずみ
匕首あいくちつばのない短刀




  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

評価 :3/3。

どうかん【道灌】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

ご隠居と八五郎とのやりとり。
太田道灌の故事がためになる滑稽噺。
鸚鵡返しの、前座がよくやる噺です。

別題:太田道灌(上方) 横理屈

あらすじ

八五郎が隠居の家に遊びに行った。

地口(駄洒落)を言って遊んでいるうち、妙な張りまぜの屏風絵が目に止まる。

男が椎茸の親方みたいな帽子をかぶり、虎の皮の股引きをはいて突っ立っていて、側で女が何か黄色いものを持ってお辞儀している。

これは大昔の武将で歌詠みとしても知られた太田道灌が、狩の帰りに山中で村雨(にわか雨)に逢い、あばら家に雨具を借りにきた場面。

椎茸帽子ではなく騎射笠で、虎の皮の股引きに見えるのは行縢(むかばき)。

中から出てきた娘が黙って山吹の枝を差し出し引っ込んでしまった。

道灌、意味がわからずに戸惑っていると、家来が畏れながらと
「これは『七重八重花は咲けども山吹のみのひとつだになきぞ悲しき』という古歌をなぞらえて、『実の』と『蓑』を掛け、雨具はないという断りでございましょう」
と教える。

道灌は
「ああ、余は歌道にくらい」
と嘆き、その後一心不乱に勉強して立派な歌人になった、という隠居の説明。

「カドウ」は「和歌の道」の意。

八五郎、わかったのかわからないのか、とにかくこの「ナナエヤエー」が気に入り、自分でもやってみたくてたまらない。

表に飛び出すと、折から大雨。

長屋に帰ると、いい具合に友達が飛び込んできた。

しめたとばかり
「傘を借りにきたんだろ」
「いや、傘は持ってる。提灯を貸してくんねえかな。これから本所の方に用足しに行くんだが、暗くなると困るんだ」

そんな用心のいい道灌はねえ。

傘を貸してくれって言やあ、提灯を貸してやると言われ、しかたなく「じゃしょうがねえ。傘を貸してくんねえ」
「へっ、来やがったな。てめえが道灌で、オレが女だ。こいつを読んでみな」
「なんだ、ななへやへ、花は咲けどもやまぶしの、みそひとだると、なべとかましき……こりゃ都々逸か?」
「てめえは歌道が暗えな」
「角が暗えから、提灯を借りにきた」

しりたい

前座の悲哀「道灌屋」   【RIZAP COOK】

「道灌」は前座噺で、入門するとたいてい、このあたりから稽古することが多いようです。

前半は伸縮自在で、演者によってギャグその他、自由につくれるので、後に上がる先輩の都合で引き伸ばしたり、逆に短く切って下りたりしなければならない前座にとっては、まずマスターしておくべき噺なのでしょう。

八代目桂文楽(並河益義、1892-1971)が入門して、初めて教わったのもこの「道灌」。

一年間、「道灌」しか教えてくれなかったそうです。

雪の降る寒い夜、牛込の藁店という席に前座で出たとき、お次がまったく来ず、つなぎに立て続けに三度、それしか知らない「道灌」をやらされ、泣きたい思いをしたという、同師の思い出話。

そのとき付いたあだ名が「道灌屋」。

たいして面白くもないエピソードですが、文楽師の人となりが想像できますね。

志ん生や金馬の「道灌」

あらすじの参考にしたのは、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)の速記です。

どちらかというと後半の八五郎の「実演」に力を入れ、全体にあっさりと演じています。

かつての大看板でほかによく演じたのが、三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)でした。

金馬では、姉川の合戦のいくさ絵から「四天王」談義となり、ついで「太平記」の児島高徳こじまたかのりを出し、大田道灌に移っていく段取りです。

太田道灌   【RIZAP COOK】

太田道灌(1432-86)は、長禄元年(1457)、江戸城を築いたので有名です。

この人、上杉家の重臣なんですね。

主人である上杉(扇谷)定正に相模国糟谷で、入浴中に暗殺されました。

歌人としては、文明6年(1474)、江戸城で催した「江戸歌合」で知られています。

七重八重……   【RIZAP COOK】

『後拾遺和歌集』所載の中務卿なかつかさきょう兼明親王かねあきらしんのう(914-87、前中書王さきのちゅうしょおう)の歌です。

行縢   【RIZAP COOK】

むかばき。狩の装束で、獣皮で作られ、腰に巻いて下半身を保護するためのものです。

【道灌 立川談志】

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

評価 :1/3。

やどやのあだうち【宿屋の仇討ち】落語演目



  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

旅籠泊の「始終三人」。
あんまりうるさくてたまらない。
隣室の武士ににらまれた。
とうとう「仇討ち」に。
滑稽無比な噺です。

別題:庚申待 甲子待ち 宿屋敵(上方)

【あらすじ】

やたら威勢だけはいい魚河岸うおがしの源兵衛、清八、喜六の三人連れ。

金沢八景見物の帰りに、東海道は神奈川宿の武蔵屋という旅籠はたご草鞋わらじを脱ぐ。

この三人は、酒をのむのも食うのも、遊びに行くのもすべていっしょという悪友で、自称「始終三人」。

客引きの若い衆・伊八がこれを「四十三人」と聞き違え、はりきって大わらわで四十三人分の刺身をあつらえるなどの大騒ぎの末、「どうも中っ腹(腹が立つ)になって寝られねえんだよ」と、夜は夜で芸者を総あげでのめや歌え、果ては寝床の中で相撲までとる騒々しさ。

たまったものではないのが隣室の万事世話九郎ばんじせわくろうという侍。

三人がメチャクチャをするたびに
「イハチー、イハチー」
と呼びつけ、静かな部屋に替えろと文句をつけるが、すでに部屋は満室。

伊八が平身低頭でなだめすかし、三人に掛け合いにくる。

こわいものなしの江戸っ子も、隣が侍と聞いては分が悪い。

しかたなく、「さっきは相撲の話なんぞをしていたから身体が動いちまっんたんだ」と、今度はお静かな色っぽい話をしながら寝ちまおうということになった。

そこで源兵衛がとんでもない自慢話。

以前、川越で小間物屋をしているおじさんのところに世話になっていた時、仕事を手伝って武家屋敷に出入りしているうちに、石坂段右衛門という百五十石取りの侍のご新造と、ふとしたことからデキた。

二人で盃のやりとりをしているところへ、段右衛門の弟の大助というのに
「不義者見つけた、そこ動くな」
と踏み込まれた。

逆にたたき斬ったあげく、ご新造がいっしょに逃げてたもれと泣くのを、足弱がいては邪魔だとこれもバッサリ。

三百両かっぱらって逃げて、いまだに捕まっていないというわけ。

清八、喜六は素直に感心し
「源兵衛は色事師、色事師は源兵衛。スッテンテレツクテレツクツ」
神田囃子かんだばやしではやしたてる始末。

これを聞きつけた隣の侍、またも伊八を呼び
「拙者、万事世話九郎とは世を忍ぶ仮の名。まことは武州川越藩中にて、石坂段右衛門と申す者。三年探しあぐねた妻と弟の仇。今すぐ隣へ踏んごみ、血煙上げて……」

さあ大変。

もし取り逃がすにおいては同罪、一人も生かしてはおかんと脅され、宿屋中真っ青。

実はこの話、両国の小料理屋で能天気そうなのがひけらかしていたのを源兵衛がそのままいただいたのだが、弁解してももう遅い。

あわれ、三人はぐるぐる巻きにふん縛られ、「交渉」の末、宿屋外れでバッサリと決定、泣きの涙で夜を明かす。

さて翌朝。

昨夜のことをケロッとわすれたように、震えている三人を尻目に侍が出発しようとするので、伊八が
「もし、お武家さま、仇の一件はどうなりました」
「あ、あれは嘘じゃ」
「冗談じゃありません。何であんなことをおっしゃいました」
「ああでも言わにゃ、拙者夜っぴて(夜通し)寝られん」

【しりたい】

二つの流れ   【RIZAP COOK】

東西で二つの型があり、現行の「宿屋の仇討ち」は上方の「宿屋敵」を三代目柳家小さんが東京に移植、それが五代目小さんにまで継承されていました。

宿屋敵やどやがたき」では、兵庫の男たちがお伊勢参りの帰途、大坂日本橋にっぽんばしの旅籠で騒ぎを起こす設定です。

戦後、東京で「宿屋の仇討ち」をもっとも得意とした三代目桂三木助は、大阪にいた大正15年(1926)、師匠の二代目三木助から大阪のものを直接教わり、あらすじに取り入れたような独自のギャグを入れ、十八番に仕上げました。

三木助以後では、春風亭柳朝のものが、源兵衛のふてぶてしさで天下一品でしたが、残念ながら、現在残る録音はあまり出来のいいものではありません。

東京独自の「庚申待」   【RIZAP COOK】

もうひとつの流れが、東京(江戸)で古くから演じられた類話「庚申待」です。

これは、江戸日本橋馬喰町にほんばしばくろうちょうの旅籠に、庚申待ちのために大勢が集まり、世間話をしているところへ、大切な客がやって来たことから始まり、以下は「宿屋の仇討ち」と大筋では同じです。

五代目古今亭志ん生や六代目三升家小勝みますやこかつが演じましたが、今は継承者がいないようです。

庚申待ちという民間信仰   【RIZAP COOK】

庚申かのえさるの夜には、三尸さんしという腹中の虫が天に昇って、その人の罪過を告げるので、徹夜で宴を開き、いり豆を食べるならわしでした。もとは中国の道教の風習です。

庚申は六十日に一回巡ってくるので、年に六回あります。三尸の害を防ぐには、青面金剛しょうめんこんごう帝釈天たいしゃくてん猿田彦さるたひこをまつるのがよいとされました。柴又しばまたの帝釈天が有名です。

聴きどころ   【RIZAP COOK】

三木助版は、マクラからギャグの連続で、今でもおもしろさは色あせません。

なかでも、源兵衛らが騒ぐたびに武士が「イハチー」と呼びつけ、同じセリフで苦情を言う繰り返しギャグ、源兵衛の色事告白の妙な迫真性、二人のはやし立てるイキのよさなどは無類です。

テンポのよさ、場面転換のあざやかさは、芝居を見ているような立体感があります。

【蛇足】

 「宿屋の仇討ち」には、以下の3つの型があるといわれる。

 (1)江戸型  天保板「無塩諸美味」所収の小話「百物語」が原話といわれているもの。明治期には「甲子待きのえねまち」「庚申待かのえさるまち」として高座にかけられていた。明治28(1895)年に柳家禽語楼きんごろうがやった「甲子待」が速記で残っている。以前は「宿屋の仇討ち」というと、この噺をさしたそうだ。げんに、大正7(1918)年に出た海賀変哲かいがへんてつの「落語のさげ」での「宿屋の仇討ち」のあらすじは、この型が紹介されている。六代目三升家小勝、五代目古今亭志ん生がやった。最近では、五街道雲助あたりがマニア向けにやるだけ。今となっては珍しい。この型は、なんといっても江戸の風俗がにおい立つ。なかなかに捨て難い。ただ、速記本を読んでも、登場するしゃれの数々が古びており、笑う前にわからない。うなるだけで先に進まない。悔しいかぎり。

 (2)上方1型 「宿屋敵やどやがたき」といわれるもの。兵庫の若い衆がお伊勢参りの帰りに大坂・日本橋の宿屋でひともんちゃく、という筋。これを、明治期に三代目柳家小さんが東京に持ってきた。上方から帰る魚河岸の三人衆が東海道の宿で大騒ぎ、という筋に作り変えたのだ。七代目三笑亭可楽さんしょうていからくを経て五代目小さんに伝わった。

 (3)上方2型 上方型にはもうひとつある。それが、今回取り上げた噺だ。大阪の二代目桂三木助に習った三代目三木助が、東京に持ってきて磨き上げたもの。他と比べると秀逸だ。現在「宿屋の仇討ち」といえば、ほとんどがこの型なのもうなずける。とはいえ、筋から見ればどれも大同小異ではあるが。

 3人衆が夜更けに興に乗ってがなり立てる「神田囃子」。これについて少々。

 江戸の祭囃子まつりばやしといったら、神田囃子だ。京都の祇園囃子、大阪のだんじり囃子と並び称される。神田明神の祭礼に奏でられるわけだが、もとは里神楽さとかぐらの囃子から出たもの。享保(1716-36)年間に葛西(現在の葛飾区あたり)で起こった「葛西囃子」がネタ元だという。葛西の代官が地元の若者の健全育成をねらって香取明神かとりみょうじんの神主と図り、神楽の囃子を作り変えたものだという。ものの起こりは「大きなお世話」からだったわけ。

 「和歌囃子」、転じて「馬鹿囃子」などともいわれた。ローカルな音だった。葛西囃子が、天下祭といわれる幕府公認の祭である「山王祭」や「神田祭」に出演していった。赤浜のギター弾きが、いきなり国際音楽祭に参加するようなもの。その結果、葛西囃子の奏法が江戸の方々に広まった。それが神田囃子として普遍化していったのだ。

 権威と様式はあとからついて回るもので、明治末期まで、神田大工町には神田囃子の家元と称する新井喜三郎家があったという。

 大太鼓(大胴)1、締太鼓しめだいこ(シラベ)2、篠笛しのぶえ(トンビ)1、鉦(ヨスケ)1の5人一組で構成される。一般に演奏される曲式には「打ち込み」「屋台」「聖天しょうでん」「鎌倉」「四丁目」がある。これらを数回ずつ繰り返してひとつづりに演奏する。さらには、「神田丸」「亀井戸」「きりん」「かっこ」「獅子」といった秘曲もある。概して静かな曲が多いのだが、「みこし四丁目」などは「すってんてれつく」のにぎやかな調子。これを深夜にやられたのではいい迷惑だ。

 神田囃子の数々は、小唄、端唄はうた木遣きやり、俗曲などに大なり小なりの影響を与えている。その浮き立つような心地よい調子は、落語家の出囃子、あるいは大神楽などで時折、耳に飛び込んでくる。江戸の音である。

(古木優)



  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

やどやのとみ【宿屋の富】落語演目



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【どんな?】

金なし男が投宿し、金満ぶりをふかしまくる。
富くじに当たって、震え止まらず。

別題:千両富 富くじ 高津の富(上方)

あらすじ

日本橋は馬喰町ばくろうちょうの、あるはやらない旅籠はたご

そこに飛び込んできた客が、家には奉公人が五百人いて、あちこちの大名に二万両、三万両と貸しているの、漬け物に千両箱を十乗せて沢庵石にしているの、泥棒が入ったので好きなだけやると言ったのに、千両箱八十くらいしか持っていかなかったのと、好き放題に吹きまくる。

人のいい主人、これは大変な大金持ちだ、とすっかり感心。

「実は私どもは宿屋だけではやっていけないので、とみふだを売っているが、一枚余ったのを買ってくれないか」
と持ちかける。

値は一分いちぶで、一番富は千両、二番富は五百両。

「千両ぽっち当たってもじゃまでしょうがないから嫌だ」
と男が言うのを、主人がむりに説得、買ってもらった上、万一当たったら半分もらう、という約束まで取り付けた。

男は一人になると、
「なけなしの一分取られちゃった」
と、ぼやくこと、しきり。

「あれだけ大きなことを吹いたから、当分宿賃の催促はねえだろう。のむだけのんで食うだけ食って逃げちゃおう」
と開き直る。

翌朝。

「二万両返しにくる予定があるので、断ってくる」
と宿を出た男、なんとなく湯島天神の方に足が向く。

ちょうど富の当日で、境内では一攫千金いっかくせんきんを夢見るともがらが、ああだこうだと勝手な熱を吹いている。

ある男、自分は昨夜夢枕に立った神さまと交渉して、二番富に当たることになっているので
「当たったら一反いったんの財布を作って、五百両を細かくして入れ、吉原へ行きます」
と、素見ひやかしでなじみみの女郎と口説くぜつの上、あがって大散財し、女郎を身請けするまでを一人二役の大熱演。

「それでおまえさん、当たらなかったらどうすんの」
「うどん食って寝ちまう」

騒いでいるうち、寺社奉行立ち会いの上、いよいよ富の抽選開始。

子供のかん高い声で
「おん富いちばーん、子のォ、千三百、六十五ばァん」
と呼び上げる。

二番富になると、さっきの夢想男、持ち札が辰の二千三百四十一番なので、期待に胸をふくらませる。

「おん富にばーん、たつのォ、二千三百四十」
「ここですよ、女を身請けするか、うどん食って寝るかの別れ目は。一番ッ」
「七番」
「ふわー」

あわれ、引っくり返った。

一方、一文なしになった宿の客、当たり番号を見て
「オレのが子の千三百六十五番。少しの違いだな。うーん、子の、三百六十五番……三百六十五……うわっ、当たったッ、ウーン」

ショックで寒気がし、そのまま宿へ帰ると、二階で蒲団かぶってブルブル震えている。

旅籠のおやじも、後から天神の森に来て、やっぱり、
「子の千三百六十五……アリャリャリャリャー、ウワーッ」

こっちもブルブル震えて、飛ぶように家に帰ると、二階へすっとんで行き、
「あたあた、ああたの富、千両、当たりましたッ」
「うるせえなあ、貧乏人は。千両ばかりで、こんなにガタガタ……おまえ、座敷ィ下駄履いて上がってきやがったな。情けないやつだね」
「えー、お客さま、下で祝いの支度ができております。一杯おあがんなさい」
「いいよォ、千両っぱかりで」
「そんなこと言わずに」
と、ぱっと蒲団をめくると、客は草履ぞうりをはいたまま。

しりたい

毎日どこかで富くじが

各寺社が、修理・改築の費用を捻出するために興行したのが江戸時代の富くじで、単に「富」ともいいます。

文政年間(1818-30)の最盛期には江戸中で毎日どこかで富興行があったといいます。

有名なところは、湯島天神、椙森稲荷、谷中天王寺、目黒不動境内など。

これら寺社では、多い時は月に20日以上、小規模な富が行われました。

富久」で記したように、千両富となるとめったにありませんでした。

富くじは、明治に入ると廃止となりました。

先の大戦後の困窮した国民にわずかながらも一筋の希望をと、日本勧業銀行(現みずほ銀行)の管轄で「宝くじ」が昭和21年(1946)に始まり、現在にいたっています。

明治維新から先の大戦後までの77年間は、富くじの伝統は中断されていたことになるのでした。

陰富もあった

当たりの最低金額は一朱(1/16両)でした。

「突き富」の別名があるのは、木札が入った箱の中央の穴から錐で突き刺すからで、ほとんどの場合、邪気のない子供にさせました。

普通、二番富から先にやりますが、落語では演出上、細かい点は気にしません。

富はあくまで公儀(ここでは寺社奉行)の許可を得てその管轄下で行うものですが、幕末には「陰富」という非合法な興行が、旗本屋敷などで密かに催されるようになりました。

河竹黙阿弥の『天衣紛上野初花くもにまごううえののはつはな』に、今はカットされますが、「比企屋敷陰富の場」があり、大正15年(1926)11月の帝劇でただ1回上演されています。

これも上方から

上方落語の「高津の富」を、三代目柳家小さんが大阪の四代目桂文吾に教わり、明治末に東京に移しました。

その高弟の四代目小さん、七代目三笑亭可楽を経て五代目小さんに受け継がれましたが、小さんの型は、境内のこっけいなようすがなく、すぐに主人公が登場します。

オチは、あらすじで参照した五代目古今亭志ん生や次男の志ん朝は「客は草履をはいたままだった」と地(説明)で落としましたが、小さんのでは「あれっ、お客さんも草履はいてる」とセリフになります。

馬喰町は繁華街だった

ばくろうちょう。東京都中央区日本橋馬喰町。

現在はさほどではありませんが、当時は江戸随一の繁華街でした。

元禄6年(1693)に信濃善光寺の開帳(秘蔵物を見せて金を取ること)が両国回向院で行われたとき、参詣人が殺到して以来、旅籠町として発展しました。

お神酒徳利」にも登場します。



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あけがらす【明烏】落語演目



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 【どんな?】

堅物がもてるという、廓が育む理想形の物語。
ビギナーズラックでしょうか、はたまた普遍の成功譚。
こんな放蕩なら、一度は経験してみたいものです。

【あらすじ】

異常なまでにまじめ一方と近所で評判の日本橋田所町・日向屋半兵衛のせがれ時次郎。

今年十九だというに、いつも本にばかりかじりつき、女となれば、たとえ雌猫でも鳥肌が立つ。

今日も今日とて、お稲荷さまの参詣で赤飯を三杯ごちそうになったととくとくと報告するものだから、おやじの嘆くまいことか。

「堅いのも限度がある、いい若い者がこれでは、跡継ぎとしてこれからの世間づきあいにも差し支える」
と、かねてからの計画で、町内の札付きの遊び人・源兵衛と太助を「引率者」に頼み、一晩、吉原での遊び方を教えてもらうことにした。

「本人にはお稲荷さまのおこもりとゴマまし、お賽銭が少ないとご利益がないから、向こうへ着いたらお巫女さん方へのご祝儀は、便所に行くふりをしておまえが全部払ってしまいなさい、源兵衛も太助も札付きのワルだから、割り前なんぞ取ったら後がこわい」
と、こまごま注意して送り出す。

太助のほうはもともと、お守りをさせられるのがおもしろくない。

その上、若だんながおやじに言われたことをそっくり、「後がこわい」まで当人の目の前でしゃべってしまったからヘソを曲げるが、なんとか源兵衛がなだめすかし、三人は稲荷ならぬ吉原へ。

いかに若だんながうぶでも、文金、赭熊(しゃごま)、立兵庫(たてひょうご)などという髪型に結った女が、バタリバタリと上草履の音をさせて廊下を通れば、いくらなんでも女郎屋ということはわかる。

泣いてだだをこねるのを二人が
「このまま帰れば、大門で怪しまれて会所で留められ、二年でも三年でも帰してもらえない」
と脅かし、やっと部屋に納まらせる。

若だんなの「担当」は十八になる浦里という、絶世の美女。

そんな初々しい若だんななら、ワチキの方から出てみたいという、花魁からのお見立てで、その晩は腕によりをかけてサービスしたので、堅い若だんなも一か所を除いてトロトロ。

一方、源兵衛と太助はきれいさっぱり敵娼あいかたに振られ、ぶつくさ言いながら朝、甘納豆をヤケ食い。

若だんなの部屋に行き、そろそろ起きて帰ろうと言ってもなかなか寝床から出ない。

「花魁は、口では起きろ起きろと言いますが、あたしの手をぐっと押さえて……」
とノロケまで聞かされて太助、頭に血が昇り、甘納豆をつまんだまま梯子段からガラガラガラ……。

「じゃ、坊ちゃん、おまえさんは暇なからだ、ゆっくり遊んでらっしゃい。あたしたちは先に帰りますから」
「あなた方、先へ帰れるなら帰ってごらんなさい。大門で留められる」

底本:八代目桂文楽

【しりたい】

極め付き文楽十八番

あまり紋切り型は並べたくありませんが、この噺ばかりはまあ、上記の通りでしかたないでしょう。

八代目桂文楽が二ツ目時代、初代三遊亭志う雀(のち八代目司馬龍生)に習ったものを、四十数年練り上げ、先の大戦後は、古今亭志ん朝が台頭するまで、文楽以外はやり手がないほどの十八番としました。

それ以前は、サゲ近くが艶笑がかっていたのを改め、おやじが時次郎を心配して送り出す場面に情愛を出し、さらに一人一人のしぐさを写実的に表現したのが文楽演出の特徴でした。

時代は明治中ごろとし、父親は前身が蔵前の札差で、維新後に問屋を開業したという設定になっています。

原話となった心中事件

「明烏○○」と表題がついた作品は、明和年間(1764-72)以後幕末にいたるまで、歌舞伎、音曲とあらゆるジャンルの芸能で大量生産されました。

その発端は、明和3年(1766)6月、吉原玉屋の遊女美吉野と、呉服屋の若だんな伊之助が、宮戸川(隅田川の山谷堀あたり)に身を投げた心中事件でした。

それが新内「明烏夢淡雪」として節付けされ、江戸中で大流行したのが第一次ブーム。

事件から半世紀ほど経た文政2年(1819)から同9年にかけ、滝亭鯉丈りゅうていりじょう為永春水ためながしゅんすいが「明烏後正夢あけがらすのちのまさゆめ」と題して人情本という、今でいう艶本小説として刊行。第二次ブームに火をつけると、これに落語家が目をつけて同題の長編人情噺にアレンジしました。

現行の「明烏」はおそらく幕末に、その発端を独立させたものでしょう。

大門で止められる

「大門」の読み方は、芝は「だいもん」、吉原は「おおもん」と呼びならわしています。

吉原では、大見世遊びのときには、まず引手茶屋にあがり、そこで幇間と芸者を呼んで一騒ぎした後、迎えが来て見世(女郎屋)に行くならわしでした。

この噺では、茶屋の方もお稲荷さまになぞらえられては決まりが悪いので、早々に時次郎一行を見世に送り込んでいます。

大門は両扉で、黒塗りの冠木門かぶきもん。夜は引け四つ(午前0時)に閉門しますが、脇にくぐり門があり、男ならそれ以後も出入りできました。

大門に入ると、仲の町という一直線の大通り。左には番所、右には会所がありました。

左の番所は、町奉行所から来た与力や同心が岡っ引きを連れて張り込み、客らの出入りを監視する施設です。門番所、面番所とも。

右の会所は、廓内の自治会施設。遊女の脱走を監視するのです。

吉原の初代の総名主である三浦屋四郎左衛門の配下、四郎兵衛が代々世襲名で常駐していたため、四郎兵衛会所と呼ばれました。

こんな具合ですから、治安のすこぶるよろしい悪所でした。

むろん「途中で帰ると大門で止められる」は真っ赤な嘘です。

甘納豆

八代目桂文楽ので、太助が朝、振られて甘納豆をヤケ食いするしぐさの巧妙さは、今も古い落語ファンの間で語り草です。

甘納豆は嘉永5年(1858)、日本橋の菓子屋が初めて売り出しました。

文楽直伝でこの噺に現代的なセンスを加味した古今亭志ん朝は、甘納豆をなんと梅干の砂糖漬けに代え、タネをプッと吐き出して源兵衛にぶつけるおまけつきでした。

日本橋田所町

現在の東京都中央区堀留町二丁目。

日本橋税務署のあるあたりです。

浦里時次郎

新内の「明烏夢淡雪」以来、「明烏」もののカップルはすべて「山名屋浦里・春日屋時次郎」となっています。

落語の方は、心中ものの新内をその「発端」という形でパロディー化したため、当然主人公の名も借りています。

うぶな者がもてて、半可通や遊び慣れた方が振られるという逆転のパターンは、『遊子方言』(明和7=1770年ごろ刊)以来、江戸の遊里を描いた「洒落本」に共通のもので、それをそのまま、オチに巧みに取り入れています。

【もっとしりたい】

八代目桂文楽のおはこ。文楽存命の間はだれもやらずにいた。のちに、馬生がやった。志ん朝がやった。小三治がやった。

明和3(1766)年6月3日 (一説には明和6年とも) 、吉原玉屋の花魁美吉野と、呉服太物商春日屋の次男伊之助が、白ちりめんのしごき(女性の腰帯。結ばないでしごいて使う)でしっかり体を結び合って宮戸川(隅田川の山谷堀辺) に入水した。これが宮戸川心中事件といわれるもの。

江戸時代、「呉服」は絹織物のこと、「太物」は綿や麻織物でつくった普段着のこと。呉服商と太物商は扱う品物が違ったため、区別されていたものです。

事件をもとに、初代鶴賀若狭掾が新内「明烏夢淡雪」として世に広めた。文政2年(1819)-7年(1824)には、滝亭鯉丈と為永春水が続編のつもりで人情本『明烏後正夢』を刊行。この本の発端を脚色したのが落語の「明烏」である。以降、「明烏」ものは、歌舞伎、音曲などあらゆる分野で派生されていった。

うぶな男がもてて半可通が振られるという型は、江戸の遊里を描いた洒落本にはありがちなもの。もてるもてないはどこか才のかげんで、修行しても始まらないようである。

この噺のすごい魅力は、まるごと「吉原入門」はたまた「吉原指南」になっているところ。吉原での遊び方のおおかたがわかるのだ。便利であるなあ。

(古木優)

八代目桂文楽(並河益義、1892-1971)

 



  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

評価 :3/3。

そこつながや【粗忽長屋】落語演目

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 【どんな?】

「粗忽」とはあわてん坊の意。
行き倒れの主が自分!? 
粗忽者はさて、どうする。

あらすじ

長屋住まいの八五郎と熊五郎は似た者同士で、兄弟同様に仲がいい。

八五郎は不精ぶしょうでそそっかしく、熊五郎はチョコチョコしていてそそっかしいという具合で、二人とも粗忽さでは、番付がもしあれば大関を争うほど。

八の方は信心はまめで、毎朝浅草の観音さまにお参りに行く。

ある日、いつもの通り雷門かみなりもんを抜け、広小路ひろこうじにさしかかると、黒山の人だかり。

行き倒れだという。

強引に死体を見せてもらうと、そいつは借りでもあって具合が悪いのか、横を向いて死んでいる。

恐ろしく長っ細い顔だが、こいつはどこかで見たような。

「こいつはおまえさんの兄弟分かい」
「ああ、今朝ね、どうも心持ちが悪くていけねえなんてね。当人はここで死んでるのを忘れてんだよ」
「当人? おまえさん、兄弟分が浅ましい最期さいごをとげたんで、取りのぼせたね。いいかい、しっかりしなさいよ」
「うるせえ。のぼせたもクソもあるもんけえ。うそじゃねえ明かしに、おっ死んだ当人をここへ連れて来らァ」

八五郎、脱兎だっとのごとく長屋へ駆け込むや、熊をたたき起こし、
「てめえ、浅草の広小路で死んだのも知らねえで、よくもそんなにのうのうと寝てられるな」
と息巻く。

「まだ起きたばかりで死んだ心持ちはしねえ」
と熊。

昨夜どうしていたかと聞くと、本所ほんじょの親類のところへ遊びに行き、しこたまのんで、吉原をヒヤカした後、田町でまた五合ばかり。その後ははっきりしないという。

「そーれ見ねえ。つまらねえものをのみ食いしやがるから、田町から虫の息で仲見世なかみせあたりにふらついてきて、それでてめえ、お陀仏だぶつになっちまったんだ」

そう言われると、熊も急に心配になった。

「兄貴、どうしよう」
「どうもこうもねえ。死んじまったものはしょうがねえから、これからてめえの死骸しがいを引き取りにいくんだ」
というわけで、連れ立ってまた広小路へ。

「あらら、また来たよ。あのね、しっかりしなさいよ。しょうがない。本人という人、死骸をよくごらん」

コモをまくると、いやにのっぺりした顔。

当人、止めるのも聞かず、死体をさすって、
「トホホ、これが俺か。なんてまあ浅ましい姿に……こうと知ったらもっとうめえものを食っときゃよかった。でも兄貴、何だかわからなくなっちまった」
「何が」
「抱かれてるのは確かに俺だが、抱いてる俺はいってえ、誰なんだろう」

しりたい

主観長屋?   【RIZAP COOK】

アイデンティティー(本人に間違いないこと)の不確かさを見事に突いた鮮やかなオチです。

七代目立川談志(松岡克由、1935-2011)は、主人公の思い込みの原因は「あまりにも強すぎる『主観』にある」という解釈で、「主観長屋」の題で演じましたが、この場合の「主人公」は八五郎の方で、いったん、こうと思い込んだが最後、刀が降ろうが槍が降ろうがお構いなし。1+1は3といったら3なのです。

対照的に相棒の熊は、自我がほぼ完璧に喪失していて、その表れがオチの言葉です。

どちらも誇張されていますが、人間の両極を象徴しています。

四代目柳家小さん(大野菊松、1888-1947)は、「死んでいるオレは……」と言ってはならないという教訓を残していますが、なるほど、この兄ィは、自分の生死さえ上の空なのですから当然でしょう。

代々の小さんに受け継がれた噺で、脳内に霞たなびく熊五郎が抱腹絶倒ほうふくぜっとうの十代目柳家小三治(郡山剛蔵、1939-2021)の芸風こそ、その直系を感じさせました。

三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)の貴重な音源が残っているほか、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)、五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)、七代目談志のものが多く出ています。

自身番のこと   【RIZAP COOK】

自身番屋じしんばんやは、町内に必ず一つはあり、防犯・防火に協力する事務所です。

昼間は普通、町役ちょうやく(おもに地主)の代理である差配さはい(大家)が交代で詰め、表通りに地借りの商家から出す店番たなばん1名、事務や雑務いっさいの責任者で、町費で雇う書役しょやく1名と、都合3名で切り盛りします。

行き倒れの死骸の処理は、原則として自身番の役目です。

身元引受人が名乗り出れば確認のうえ引き渡し、そうでなければお上に報告後回向院えこういんなどの無縁墓地に投げ込みで葬る義務がありました。

その場合の費用、死骸の運搬費その他は、すべて町の負担でした。

したがって、自身番にすれば、こういうおめでたい方々が現れてくれれば、かえって渡りに船だったかもしれません。

浅草広小路   【RIZAP COOK】

浅草寺の雷門前のあたりをいいました。雷門広小路とも。台東区浅草1丁目、2丁目。

浅草広小路には、女川菜飯めかわなめしという人気の飯屋がありました。

ここの菜飯は、東海道の石部・草津間にある目川めかわ村でつくられる菜飯の風味をまねていたそうです。

客寄せから、目川が女川に。値段は1膳12文、菜飯以外に田楽も出したそうです。



  成城石井.com  ことば 噺家 演目  千字寄席

はつてんじん【初天神】落語演目

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【どんな?】

悪ガキの上をいく、ピンボケなすれたおやじ、熊五郎の噺。

あらすじ

新しく羽織をこしらえたので、それをひけらかしたくてたまらない熊五郎。

今日は初天神なので、さっそくお参りに行くと言い出す。

かみさんが、
「それならせがれの金坊を連れていっとくれ」
と言う。

熊は
「口八丁手八丁の悪がきで、あれを買えこれを買えとうるさいので、いやだ」
とかみさんと言い争っている。

当の金坊が顔を出して
「家庭に波風が立つとよくないよ、君たち」

親を親とも思っていない。

熊が
「仕事に行くんだ」
とごまかすと
「うそだい、おとっつぁん、今日は仕事あぶれてんの知ってんだ」

挙げ句の果てに、
「やさしく頼んでるうちに連れていきゃ、ためになるんだけど」
と親を脅迫するので、熊はしかたなく連れて出る。

道々、熊は
「あんまり言うことを聞かないと、炭屋のおじさんに山に捨ててきてもらうぞ」
と脅すと
「炭屋のおじさんが来たら、逃げるのはおとっつぁんだ」
「どういうわけでおとっつぁんが逃げる」
「だって、借金あるもん」

弱みを全部知られているから、手も足も出ない。

そのうち案の定、金坊は
「リンゴ買って、みかん買って」
と始まった。

「両方とも毒だ」
と熊が突っぱねると
「じゃ、飴買って」

「飴はここにはない」
と言うと
「おとっつぁんの後ろ」
と金坊。

飴売りがニタニタしている。

「こんちくしょう。今日は休め」
「冗談いっちゃいけません。今日はかき入れです。どうぞ坊ちゃん、買ってもらいなさい」

二対一ではかなわない。

一個一銭の飴を、
「おとっつぁんが取ってやる」
と熊が言うと
「これか? こっちか?」
と全部なめてしまうので、飴売りは渋い顔。

金坊が飴をなめながらぬかるみを歩き、着物を汚したのでしかって引っぱたくと
「痛え、痛えやい……。なにか買って」

泣きながらねだっている。

「飴はどうした」
と聞くと
「おとっつぁんがぶったから落とした」
「どこにも落ちてねえじゃねえか」
「腹ん中へ落とした」

今度は凧をねだる。

往来でだだをこねるから閉口して、熊が一番小さいのを選ぼうとすると、またも金坊と凧売りが結託。

「へへえ、ウナリはどうしましょう。糸はいかがで?」

結局、特大を買わされて、帰りに一杯やろうと思っていた金を、全部はたかされてしまう。

金坊が大喜びで凧を抱いて走ると、酔っぱらいにぶつかった。

「このがき、凧なんか破っちまう」
と脅かされ、金坊が泣き出したので
「泣くんじゃねえ。おとっつぁんがついてら。ええ、どうも相すみません」

そこは父親で、熊は平謝り。

そのうち、今度は熊がぶつかった。

金坊は
「それ、あたいのおやじなんです。勘弁してやってください。おとっつぁん、泣くんじゃねえ。あたいがついてら」

そのうち、熊の方が凧に夢中になり
「あがった、あがったい。やっぱり値段が高えのはちがうな」
「あたいの」
「うるせえな、こんちきしょうは。あっちへ行ってろ」

金坊、泣き声になって
「こんなことなら、おとっつぁん連れて来るんじゃなかった」

しりたい

オチが違う原話

後半の凧揚げのくだりの原話は、安永2年(1773)、江戸で出版された笑話本『聞上手』中の小ばなし「凧」ですが、オチが若干違っています。

おやじが凧に夢中になるまでは同じですが、子供が返してくれとむずかるので、おやじの方のセリフで、「ええやかましい。われ(おまえ)を連れてこねばよかったもの(を)」。

ひねりがなく平凡なものですが、古くは落語でもこの通りにやっていたようです。

文化年間から口演か

古い噺で、上方落語の笑福亭系の祖といわれる初代松富久亭松竹(生没年不詳、19世紀の人)が前項の原話をもとに落語にまとめたものといわれています。

松竹は少なくとも文政年間(1818-30)以前の人とされるので、この噺は上方では文化年間(1804-18)にはもう演じられていたはずです。

松竹が作ったと伝わる噺には、このほか「松竹梅」「たちぎれ」「千両みかん」「猫の忠信」などがあります。

東京には、比較的遅く、大正に入ってから。三代目三遊亭円馬(橋本卯三郎、1882-1945、大阪→東京)が移植しました。

仁鶴の悪童ぶり

東京では十代目柳家小三治(郡山剛蔵、1939-2021)、三遊亭円弥(林光男、1936-2006)、上方では三代目桂米朝(中川清、1925-2015)でしたが、六代目笑福亭松鶴(竹内日出男、1918-86)から継承した三代目笑福亭仁鶴(1937-2021、岡本武士)も得意としていました。

オチは同じでも、上方の子供のこすっからさは際立っています。

みなさん、物故者ばっかりで残念です。

初天神

旧暦では1月25日。そのほか、毎月25日が天神の祭礼で、初天神は一年初めの天神の日をいいます。

現在でも同じ正月25日で、各地の天満宮が参拝客でにぎわいますが、大阪「天満の天神さん」の、キタの芸妓のお練りは名高いものです。

成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

評価 :1/3。

ももかわ【百川】落語演目

 

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【どんな?】

舞台は日本橋の料亭を舞台。
客と店の者とのちぐはぐなおなはし。
実話なんだそうです。

あらすじ

日本橋浮世小路うきよこうじにあった名代の料亭「百川ももかわ」。

葭町よしちょう桂庵けいあん千束屋ちづかやから、百兵衛ひゃくべえという新規の抱え人が送られてきた。

田舎者で実直そうなので、主人は気に入って、当分洗い方の手伝いを、と言っているときに二階の座敷から手が鳴る。

折悪しく髪いが来て、女中はみな髪を解いてしまっているので座敷に出せない。

困った旦那は、百兵衛に、
「来たばかりで悪いが、おまえが用を伺ってきてくれ」
と頼む。

二階では、祭りが近づいたというのに、隣町に返さなくてはいけない四神剣しじんけんを質入れして遊んでしまい、今年はそれをどうするかで、もめている最中。

そこへ突然、羽織を着た得体の知れない男が
「うっひぇッ」
と奇声を発して上がってきたから、一同びっくり。

百兵衛が
「わしゃ、このシジンケ(主人家)のカケエニン(抱え人)でごぜえます」
と言ったのを、早のみ込みの初五郎が「四神剣の掛け合い人」と聞き違え、さては隣町からコワモテが催促に来たかと、大あわて。

ひたすら言い訳を並べ立て、
「決して、あぁたさまの顔はつぶさねえつもりですから、どうぞご安心を」と平身低頭。

百兵衛の方は
「こうだなつまんねえ顔だけんども、はァ、つぶさねえように願えてえ」
と「お願いした」つもりが、初五郎の方は一本釘を刺されたと、ますます恐縮。

機嫌をそこねまいと、酒を勧める。

百兵衛が下戸だと断ると、それならと、初五郎は慈姑くわいのきんとんを差し出して、
「ここんところは一つ、慈姑(=具合)をぐっとのみ込んで(=見逃して)いただきてえんで」

ばか正直な百兵衛、客に逆らってはと、大きな慈姑のかたまりを脂汗あぶらあせ流して丸のみし、目を白黒させて、下りていった。

みんな腹を抱えて笑うのを、初五郎、
「なまじな奴が来て聞いたふうなことを言えばけんかになるから、なにがしという名ある親分が、わざとドジごしらえで芝居をし、最後にこっちの立場を心得たのを見せるため、わざときんとんをのみ込んで笑わしたに違いない」
と一人感心。

一方、百兵衛。

のどをひりつかせていると、二階からまた手が鳴ったので、またなにかのまされるかと、いやいやながらも二階に上がる。

「うっひぇッ」

その奇声に二階の連中は驚いたが、百兵衛が椋鳥むくどりでただの抱え人とわかると、
「長谷川町三光新道さんこうじんみち常磐津歌女文字ときわづかめもじという三味線の師匠を呼んでこい」
と、見下すように言いつける。

「名前を忘れたら、三光新道でかの字のつく名高い人だと聞けばわかるから、百川に今朝けさから河岸かしの若い者が四、五人来ていると伝えろ」と言われ、出かけた百兵衛。

やっぱり名を忘れ、教えられた通りに「かの字のつく名高い人」とそこらへんの職人に尋ねれば「鴨池かもじ先生のことだろう」と医者の家に連れていかれた。

百兵衛が
「かし(魚河岸)の若い方が、けさ(今朝)がけに四、五人き(来)られやして」
と言ったので、鴨池先生の弟子は「袈裟けさがけに斬られた」と誤解。

弟子はすぐさま、先生に伝える。

「あの連中は気が荒いからな。自分が着くまでに、焼酎と白布、鶏卵けいらん二十個を用意するように」
と使いの者に伝えるよう、弟子に言いつける。

百兵衛、にこにこ顔で戻ってきた。

百兵衛の伝言を聞いた若い衆、
「歌女文字の師匠は大酒のみだから、景気づけに焼酎をのみ、白布はさらしにして腹に巻き、卵をのんでいい声を聞かせようって寸法だ」
と、勝手に解釈しているところへ、鴨池先生があたふた駆け込んできた。

「間違えるに事欠いて、医者の先生を呼んできやがって。この抜け作」
「抜け作とは。どのくれえ抜けてますか」
「てめえなんざ、みんな抜けてらい」
「そうかね。かめもじ、かもじ、……いやあ、たんとではねえ。たった一字だ」

底本:六代目三遊亭円生

【RIZAP COOK】

【しりたい】

コマーシャルな落語  【RIZAP COOK】

実在の江戸懐石料理の名店、百川が宣伝のため、実際に店で起こった事件を落語化して流布させたとも、創作させたともいわれます。いずれにしても、こういう成り立ちの噺は、現在これだけでしょう。

ペリーも賞味  【RIZAP COOK】

「百川」は代々日本橋浮世小路に店を構え、「浮世小路」といえばまず、この店を連想するほどの超有名店でした。

もとは卓袱しっぽく(中華風鍋料理のはしり)料理店で、安永6年(1777)に出版された江戸名物評判記『評判江戸自慢』に「百川 さんとう 唐料理」とあります。

創業時期の詳細はわかりませんが、明治32年(1899)の「文藝倶楽部」に載った二代目古今亭今輔(見崎栄次郎、1859-98)の速記によると、芳町よしちょう(=葭町)にあった料亭「百尺」の分店だったとか。

天明年間(1781-89)には最盛期を迎え、文人墨客が書画会などを催す文化サロンとしても有名になりました。

この店の最後の華は、安政元年(1854)にペリー一行が日米和親条約を締結が再来航した際、百川一店のみ饗応を受け負ったことでした。幕命で、千両の予算で、だったそうです。こりゃ、すごい。

このときの宴会には、澤村甚三郎なる人物が、幕府要人の一人として変名で潜り込んでいました。何者か。藤堂藩の伊賀者(無足人ではない!)。在郷で忍者職をこなしながらのれっきとした武士でした。

べつに黒装束で潜入したわけではなく、侍のいでたちで、なにくわぬ顔で加わったのでした。

彼の任務遂行がどれほどのものだったのか。はっきち言ってたいしたことはない。あちらの将校とくだらない話(もちろん通訳を介して)をして、紙幣を一枚もらってきた程度のものでした。

幕末の政局にいかなる利をもたらしたのかは推して知るべしです。ただ言えるのは、澤村も百川の献立に舌鼓を打ったこと。これはすごい。むしろ、こっちのほうが価値ある「任務遂行」だったかもしれません。

そのときの百川の名菜献立が残っているそうです。なかでも、柿にみりんをあしらったデザートは、米将校らを喜ばせたとか。柿にみりん。悪くない新味かも。

そんな百川も明治元年(1868)には廃業しています。時勢のあおりでしょうか。

日本橋浮世小路  【RIZAP COOK】  

にほんばしうきよこうじ。中央区日本橋室町むろまち二丁目の東側を入った横丁。

明和年間以後の江戸後期には飲食店が軒を並べ、「百川」は路地の突き当たり右側にあったといいます。

現在、コレド室町の福徳神社あたりに、百川があったそうです。

四神剣  【RIZAP COOK】

しじんけん。祭りに使用した四神旗しじんきです。

四神は四方の神の意味で、青竜せいりゅう(東)、白虎びゃっこ(西)、朱雀すざく(南、朱=深い赤)、玄武げんぶ(北、玄=黒、武=亀と蛇の歩み)の図が描かれ、旗竿にほこがついていたため、この名があります。

神田祭、山王祭のような大祭には欠かせないもので、その年の当番の町が一年間預かり、翌年の当番に当たる町に引き継ぎます。五輪旗のようなものですね。

椋鳥  【RIZAP COOK】

むくどり。この噺の頃、魚河岸は日本橋にありました。河岸の若い衆は日本橋で飲み食いするものでした。

噺の中で若い衆は百兵衛を「椋鳥むくどり」と呼んでいます。椋鳥とは、秋から春にかけて江戸に出稼ぎに来た奉公人のことをいいます。たんに田舎者をののしるだけのことばではなく、地方から江戸に上がってきてそのまま居ついてしまった人たちをもさしました。

多くは人足などの力仕事に従事していました。渡り鳥の椋鳥のように集団で往復することから、江戸者はそのように呼びました。

さげすんだりののしったりする意味合いの強いことばではありません。

慈姑  【RIZAP COOK】

くわい。オモダカ科の多年草。小芋に似た地下の球根を食用とします。

渋を抜き、煮て食べます。原産が中国で、日本では奈良時代には食べられていたそうです。苦みが残って、あまり美味な食材でもなさそうですが。

その頃は、精力食品ながらも食べ過ぎると腎水を減らすと考えられていたようです。ところが江戸期に入ると、精力増強の側面は忘れ去られて、食べると水分を減らすということだけが強調されるようになりました。

江戸期を通して、慈姑は水分を取るもの、が通り相場でした。水がよく出る田んばに慈姑を植えると水を吸い取ってくれる、という笑い話さえ残るほど。

成分にカリウムが多いので利尿作用があるため、水を取ると思われていたのでしょう。天明の飢饉ききんでは救荒作物きゅうこうさくもつとして評価されたせいか、おせち料理に使われたりするのも人々にありがたい食物だから、ということからなのでしょう。

ちなみに、欧米では観賞専用で、食用にするのは東アジア圏だけだそうです。

慈姑のきんとん  【RIZAP COOK】

くわいのきんとん。この噺では「慈姑」そのものではなく「慈姑のきんとん」として登場しています。

慈姑のきんとんは、慈姑をすりつぶして使うのですが、この噺では慈姑が丸ごときんとんの中に入っているふうに描かれています。

一般に、慈姑のきんとんの意味するものは、見かけは栗きんとんに似ているのになかなかのどに通らないということ。

そこで、 理解や納得のしにくい事柄のたとえで使います。久保田万太郎(1889-1963、赤貝)の「樹蔭」には「命令とあれば、無理にものみこまなければならない慈姑のきんとんで」とあります。

久保田は「百川」を踏まえて使っていますね。

久保田は「春泥」で「だってあのこのごろ来た女中。――まるッきし分らないんだ、話が。――よッぽど慈姑のきんとんに出来上っているんだ。」と表現しています。

これだと、 そっけない、人当たりの悪い人間の意味で使っているようです。

山家やまがもんの百兵衛の影がちらつきます。久保田はよほどの「百川」好きだったのですね。

そこで結論。慈姑のきんとん=百兵衛、今風に言えば、慈姑のきんとんは百兵衛の表象である、ということなのだと思います。

長谷川町三光新道  【RIZAP COOK】

はせがわちょうさんこうじんみち。中央区日本橋堀留ほりどめ二丁目の大通り東側にある路地です。

入り口が目抜き通りに面している路地を江戸では新道じんみちと呼びました。

人形町末広の跡地には現在、読売IS(読売新聞社の系列会社でチラシ制作など)の社屋が建っていますが、この隣には刃物のうぶけやがあります。

道路の向かいから眺める光景は一瞬、江戸に導いてくれます。

玄冶店  【RIZAP COOK】

げんやだな。うぶけやは玄冶店げんやだなといわれるところにあります。

近くには、花街の頃から残っている料亭の濱田家はまだやがありますが、こちらも「玄冶店 濱田家」と称しています。

ミシュランガイドや防衛庁の密談(守屋次官と山田商会の)で、一般にも知られるようになりましたね。

玄冶店は、三代将軍家光の御典医だった岡本玄冶おかもとげんやの敷地でした。家光の疱瘡ほうそうを治したことから、そのご褒美にと土地を拝領。

玄冶は借家を建てて人々に貸したので、ここら一帯は玄冶店と呼ばれるようになりました。町名は新和泉町しんいずみちょう。玄冶店は俗称です。

歌舞伎『与話情浮名横櫛よわなさけうきなのよこぐし』の、与三郎がお富をゆする場は玄冶店の妾宅。

四代目橘家円喬(柴田清五郎、1865-1912)はこの地に住んでいたことから「玄冶店の師匠」とも呼ばれました。

天保期には歌川国芳うかがわくによし(井草孫三郎、1798-1861)が玄冶店に住んでいました。

三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839.4.1-1900.8.11)は少年時に国芳門となって絵師をめざしました。

国芳が日蓮宗の篤信家で絵も描かず連日連夜の題目三昧に気味悪がって、湯島大根畑の実家に戻ってしまいました。

ここらへんは、居職の人々が多く住んでいたようです。

円生が「家元」の噺  【RIZAP COOK】

前述した明治32年(1899)の今輔のものを除けば、古い速記は残されていません。

古くから三遊派(三遊亭)系統の噺で、この噺を戦後、一手専売にしていた六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900.9.3-79.9.3、柏木の)は、義父の五代目三遊亭円生(村田源治、1884-1940)から継承していました。

昭和40年代の一時期、若手落語家が競ってこの「百川」をやったことがありましたが、すべて「家元」円生に稽古してもらったものでした。

五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890.6.5-1973.9.21)も時折、演じました。

志ん生のオチは、若い衆のリーダーが市兵衛で、「百兵衛に市(=一)兵衛はかなわない」というもの。

これは「多勢に無勢はかなわない」をダジャレにした「たへえ(太兵衛)にぶへえ(武兵衛)はかなわない」という「永代橋」のオチを、さらにくずしたものでしょうが、あまりおもしろくはありません。

円生没後は、五代目三遊亭円楽(吉河寛海、1932-2009)、十代目柳家小三治(郡山剛蔵、1939.12.17-2021.10.7)らが次代に伝えていました。

十代目金原亭馬生(美濃部清、1928-82)は「鴨池道哲先生」と言っていました。

三代目古今亭志ん朝(美濃部強次、1938-2001)のは絶品でした。

三遊亭円窓も伝えています。三遊亭歌司は、円生から小三治に伝わったものをさらった旨を前ぶりに語っています。

混乱ぶりがにじみ出ていて、独自の味があります。

カモジ先生  【RIZAP COOK】

この噺で、とんだとばっちりを被る鴨池先生。

実在も実在、本名が清水左近源元琳宜珍といういかめしさで、後年、江戸市井で開業したとき、改名して鴨池元琳かもいけげんりん

鴨池は「かもいけ」と読み、「かもじ」は、この噺のゴロ合わせに使えるように、落語家が無断で読み変えただけでしょう。

実にどうも、けしからんもんで。

十一代将軍家斉の御典医を務めたほどの漢方外料(=外科)の名医。

瘍科撮要ようかさつよう』全三巻を口述し、日本医学史に名を残しています。

本来なら町人風情が近寄れもしない身分ながら、晩年は官職を辞して市井で貧しい市民の治療に献身したそうです。

まさに「赤ひげ」そのものでした。

ついでに、八丁堀について

八丁堀は、町奉行付きの与力や同心の居住区でした。

与力は幕府からの拝領地に屋敷を構えていたのですが、その土地はとても広くて半分は使えないままとなります。

そこで与力の副業として、医家、儒学者、歌人、国学者などといった身元判明の諸家に土地を貸していました。

中村静夫「新作八丁堀組屋敷」には、幕末期、原鶴右衛門はらつるえもんの組屋敷に太田元礼(医)、藤島勾当、河辺東山(医)、鴨池元琳(医)が借地していたことが記されています。

他の組屋敷でも医家の借地が多く見られます。

与力が医家に多く貸すのは、御用絡みでけが人が出た場合に急場の施療を頼める心強さも下心にはあったのでしょう。

「袈裟がけに斬られた」事件は、鴨池先生には驚くほどのものではなかったのでしょう。

元吉原の地霊  【RIZAP COOK】

この噺を聴いた明治期東京の人々は「長谷川町三光新道の鴨池元琳先生」ときたら、すぐに岡本玄冶を思い起こしたことでしょう。

鴨池先生が八丁堀にいたことはわかっていますが、三光新道で開業していたかどうかは不明。ここは噺家の脚色かもしれません。

脚色でいいのです。

知られた御典医、岡本玄冶を連想させる噺家のたくらみだったのですから。

長谷川町の隣は元吉原の一帯です。

現在の日本橋人形町界隈。明暦3年(1657)8月には遊郭が浅草裏に移転したため、跡地には地霊がとり憑いたまま私娼窟と化しました。

土地はそんなにたやすく変容しないもの。

見えずとも、地の霊は残るのです。

近所には堺町さかいちょう葺屋町ふきやちょう

こちらは芝居町で、歌舞伎の中村座と市村座、浄瑠璃座や人形操座なんかもあります。

上方から移ってきた芸能系の人々によって町が形成されていった地区です。

その頃の歌舞伎役者は男娼も兼ねていましたから、元吉原変じての葭町には陰間茶屋かげまぢゃやができていきました。

1764年(明和元年)には12軒も。

ところが、1841年(天保12年)10月7日暁七つ半(午前5時)、堺町の水茶屋から起こった火事で、ここら一帯が丸焼けに。

芝居小屋はすべて浅草猿若町に移転させられました。

天保の改革の無粋で厳格な規制によって陰間茶屋は消え、葭町は芳町に変じて艶っぽくてほの明るい花街に模様替えされきました。

深川や霊巌島れいがんじまの花街から移ってきた芸妓たちによって新興の花街が生まれたのです。

明治、大正期には怪しげな私娼窟もありましたが、蠣殻町かきがらちょうが米相場の町に、兜町かぶとちょうが株式の町に変容し、成金が芸妓と安直に遊ぶ町に形成されていきました。

東京でいちばん粋な街です。今もこのあたりの路地裏を歩くと、どこか艶めいた空気を感じるのは、いまだ地霊がひっそりと息遣いしているせいかもしれません。

「百川」は取るに足りないのんきな噺に聴こえます。

じつは、日本橋一帯の表の顔と裏の顔が見え隠れする、きわめてあやしげな上級コースの噺に仕上がっているのだと思います。一度くらいじゃわかりません。

何度も何度も、いろんな噺家の「百川」を聴いていくと、見えてくるものがあります。

いいもんです。

【RIZAP COOK】

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席


評価 :3/3。

ろくろくび【ろくろ首】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

上方噺の与太郎噺。
どことなくユーモラスで、愛らしい感じの妖怪が主人公。

【あらすじ】

与太の入った、松公。

おじさんの家にぼーっとやって来て、モジモジしたあげく、突然大声で
「おかみさんが欲しいッ」

二十五になってもおふくろと二人暮らしで、ぶらぶら遊んでいる。

兄嫁がご膳差し向かいで兄貴を「あなたや」などと色っぽい声で呼ぶので、うらやましくなったらしい。

「そりゃいいが、おまえどうして食わせる?」
「箸と茶碗」
「どうしてかみさんを養ってくかってんだ」
「大丈夫だよ。おふくろとかみさんを働かせて……」
「てえげえにしろ、ばか野郎」

すると、おばさんが何か耳打ち。

「え? なに? こいつを? そうよなあ。こういうのは感じねえから、いいかもしれねえ」

そこでおじさん、
「もしおまえがその気なら」
と、けっこうづくめの養子の話をする。

さるお屋敷のお嬢さんで、年ははたち。両親は亡くなって乳母、女中二人と四人暮らし。資産はあるし、美人だし、と聞いて、松公は早くもデレデレ。

ところが、奇病がある。

草木も眠る丑三ツ時になると、首がスーッと伸び、行灯(あんどん)の油をペロペロなめるとか。

「お、おじさん、それ、どくどっ首」
「ろくろっ首だ」
「そんな遠くに首があったんじゃ、たぐらなくちゃならねえ」
「帆じゃねえや」

夜しか首は伸びないし、寝たら目を覚まさないからいいと、松公、能天気に行く気になった。

おじさん、あいさつもできなければまとまらないと、松公の褌にひもを結び、乳母が出てきてなにか行ったとき、一回引っ張れば「さようさよう」、二回なら「ごもっともごもっとも」、三回なら「なかなか」と返事するんだと教え込み、
「これでまとまりゃ、人間の廃物利用だ」
と松公を連れてお屋敷へ。

ところが、乳母が
「ご両親さまが草葉の陰でお喜びでございましょう」
と、あいさつすると松公、
「ごもっともごもっともォ。あとはなかなか」
と後まで言ってしまい、おじさんは冷や汗。

庭を見ると猫がいたので
「柔らかくてうまそうな猫だ」
とヒゲを抜く。

そのうち、お嬢さんが庭を通る。

「お、おじさん、あの首が」
「しッ、聞こえるじゃねえか」

よく見ると大変にいい女なので、松公うれしくなり
「あなたッ、おまえさん、さようさようッ」

お嬢さん、顔を赤くして逃げてしまう。

おじさんが小言を言っていると、猫が褌に取りついて、松公、
「さようさよう、なかなか、ごもっともごもっともッ」
と大騒ぎ。

縁があったか、話がまとまって吉日を選び、婚礼の夜。

こういう者でも床が違うから寝つかれず、夜中に目を覚ました。

時計がチンチンと二つ打つ。

「ごもっともごもっとも」
と寝ぼけていると、隣のお嬢さんの首がスーッ。

松公
「伸びたァー」
と肝をつぶしてそのまま飛び出し、おじさんの家の戸をドンドン。

「あばばば、伸びたーッ」
「ばか野郎。静かにしろ。伸びるのを承知で行ったんじゃねえか」
「承知だってダメだよ。初日から。あんなのだめだ」
「なにがあんなのだ。第一、おまえ、夫婦のちぎりは結んだんだろ?」
「なんだい、そのちぎりって」
「そんなことはっきり言えるか。家へけえれ」
「あたい、おふくろんとこに帰る」
「この野郎。どのツラ下げておふくろんとこィ帰れる。大喜びで、明日はいい便りの聞けるように、首を長くして待っているじゃねえか」
「えっ、大変だ。家へも帰れねえ」

底本:五代目柳家小さん

【しりたい】

ろくろ

ろくろとは、物をつるしあげる滑車。

「ろくろ首」とは、その宙高く伸びた形から名がついた妖怪です。

江戸の古い洒落で、「ろくろ首のへど」とは「長い」の意味。

歌舞伎「髪結新三」の「永代橋の場」のセリフに、「ろくろのような首をして」とあるように、首の長い人を揶揄するたとえにも使われました。

首の正体

この妖怪、どうも中国にルーツがあるようで、あちらでは「飛頭蛮」と書きます。

水木しげる(武良茂、1922-2015)によれば、ろくろ首はたいてい女で、一説には夜中に寝ている男の精気を吸い取るとか。

さる大名が参勤で道中、本陣に泊まっているとき、馬番が居眠りしているスキに、牡馬がろくろ首に股間からすっかり精を吸われ、翌日フラフラで使いものにならなかったという、笑話ともエロ噺とも、はた怪談ともつかない昔話があるそうです。

これをみると、どうも淫乱な女性のカリカチュアのようですが、夜な夜な魂が肉体を離れる「離魂病」だというオカルト的解釈もあります。

いやな話ですが、ろくろ首には首に青あざがあるという説があるので首つり死体から連想されたのでは、と考えられなくもありません。

上方の「後日談」

この噺、幕末から大阪で演じられていたものを明治期に三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)が東京に移しました。

直接の原典ではありませんが、「ろくろ首」の小咄は明和9年(1772)刊『楽牽頭がくたいこ』中の「ろくろ首」ほか、たくさんあります。

上方落語では、まだこの続きがあって、アホが逃げたので離婚の交渉になり、すったもんだの末、蚊帳を吊る夏だけ「別居」することに。

「首の出入りに、蚊が入って困るのや」とオチになります。

上方版だと、仲人の「先方をキズものにして、いまさら嫌とは言わせない」というセリフがあるので、怖くてもしっかり「コト」だけは済ませていたのがわかります。

その点、江戸っ子のいくじのないこと。

東京では代々の柳家小さんが本家として得意にしたほか、三代目桂三木助(小林七郎、1902-61)もよく演じました。

オチはいろいろ

オチは演者によって何通りかあり、四代目小さん(大野菊松、1888-1947)は「じゃ、おふくろもろくろ首だ」としていましたが、五代目小さん(小林盛夫、1915-2002)があらすじのように改めました。

三木助のは、「そんなこと言わねえで、お屋敷に帰れ。お嬢さんが首を長くして待っている」というものでした。

インチキも楽じゃない

江戸時代、浅草・奥山などの盛り場では、よく「ろくろ首」の見世物が出ました。

これはむろん、からくりもしくはお座敷芸の二人羽織よろしく、複数の人間を使ったインチキでした。

それにしても、具体的にどういう仕掛けでゴマカシたのか、一度見てみたいものです。

「ろくろ首」小咄三題

●その1  『楽牽頭』中の「ろくろ首」

ろくろ首が酒をごちそうになり、「これはうらやましい。あなたなぞは、酒を味わう楽しみが長いでしょう」と言われ、「いや、そのかわり、オカラを食べるときは味気ない」        

●その2 『言軍話江戸嬉笑』中の「ろくろ首」   文化3=1806年刊

長崎・丸山遊郭のお女郎になじんだ男。請け出して女房にしようと話が決まったが、実はあの女はろくろ首だと耳打ちされ、恐怖のあまり夜逃げした。女は怒って、体は長崎のまま、首だけどこまでも伸ばして、男を追いかける。追いつ追われつ、海越え山越え、とうとう松前(北海道)まで追い詰めた。さすがの化物もくたびれ果て、腹が減って、そこらの芋畑からサトイモを掘り出してむさぼり食ったので、松前の頭はなんともないが、長崎の尻がブーブー。

●その3  『露新軽口ばなし集』中の「言いさうな事」  元禄11=1698年刊

盲目の瞽女の首が夜な夜な伸びると聞いて見に行った男。夜中に伸びた首があんどんにぶつかりそうになると、思わず「右、右」。

ことばよみいみ
丑三ツ時うしみつどき午前2時頃
行灯あんどん
ふんどし
瞽女ごぜ

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

評価 :0/3。

かじかざわ【鰍沢】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

江戸の商人が身延参詣の帰り。
吹雪で宿を借りたら命狙われた。
毒を盛られいやはや雪中逃避行。
続編は「晦の月の輪」で。円朝噺。

別題:鰍沢雪の夜噺 鰍沢雪の酒宴 月の輪お熊 参照噺:鰍沢二席目

あらすじ

おやじの骨を甲州こうしゅう身延山みのぶさん久遠寺くおんじに納めるため、参詣かたがたはるばる江戸からやってきた新助。久遠寺は日蓮宗の本山だ。

帰り道に山中で大雪となり、日も暮れてきたので道に迷って、こんな場所で凍え死ぬのは真っ平だから、どんな所でもいいから一夜を貸してくれる家はないものかと、お題目だいもくを唱えながらさまよううち、遠くに人家の灯、生き返った心地で宿を乞う。

上総戸かずさどを開けて出てきたのは、田舎にまれな美しい女。年は二十八、九か。

ところが、どうしたことか、のどから襟元にかけ、月の輪型の傷跡がある。

家の中は十間ほどの土間。

その向こうの壁に獣の皮が掛かっていて、欄間には火縄の鉄砲。

猟師の家とみえる。

こんな所だから食べる物もないが、寝るだけなら、と家に入れてくれ、囲炉裏の火にあたって人心地つくうち、ふとした会話から女が江戸者だとわかる。

それも浅草の観音さまの裏あたりに住んでいたという……。

「あの、違ったらお詫びしますが、あなた、吉原は熊蔵丸屋の月の戸花魁(おいらん)じゃあ、ありませんか」
「えっ? おまえさん、だれ?」

男にとっては昔、初会惚れした忘れられない女。

ところが、裏を返そうと二度目に行ってみると、花魁が心中したというので、あんなに親切にしてくれた人がと、すっかり世の無常を感じて、それっきり遊びもやめてしまったと、しみじみ語ると、花魁の方も打ち明け話。

心中をし損ない、喉の傷もその時のものだという。

廓の掟でさらされた後、品川の岡場所に売られ、ようやく脱走してこんな草深い田舎に逃れてきたが、今の亭主は熊撃ちをして、その肝を生薬屋きぐすりやに売って細々ほそぼそと生計を立てている身。

「おまえはん、後生ごしょうだから江戸へ帰っても会ったことは内密にしてください」
としんみりと言うので、新助は情にほだされ、ほんの少しですがと金包みを差し出す。

「困るじゃあありませんか」
と言いつつ受け取った女の視線が、ちらりとその胴巻きをかすめたことに、新助は気づかない。

もと花魁おいらん、今は本名お熊が、体が温まるからと作ってくれた卵酒に酔いしれ、すっかりいい気持ちになった新助は、にわかに眠気を催し、別間に床を取ってもらうと、そのまま白川夜船しらかわよふね

お熊はそれを見届け、どこかへ出かけていく。

入れ違いに戻ってきたのが、亭主の伝三郎。

戸口が開けっ放しで、女房がいないのに腹を立て、ぶつくさ言いながら囲炉裏を見ると、誰かが飲んだらしい卵酒の残り。

体が冷えているので一気にのみ干すと、そこへお熊が帰ってくる。

亭主の酒を買いに行ったのだったが、伝三郎が卵酒をのんだことを知ると真っ青。

「あれには毒が……」
と言う暇もなく伝三郎の舌はもつれ、血を吐いてその場で人事不省じんじふせいになる。

客が胴巻きに大金を忍ばせていると見て取り、毒殺して金を奪おうともくろんだのが、なんと亭主を殺す羽目に。

一方、別間の新助。

目が覚めると、にわかに体がしびれ、七転八倒の苦しみ。

それでもなんとか陰からようすを聞き、事情を悟ると、このままでは殺されると、動かぬ体をひきずるように裏口から外へ。

幸い、毒酒をのんだ量が少なかったか、こけつまろびつ、お題目を唱えながら土手をよじ登り、下を見ると東海道は岩淵に落ちる鰍沢の流れ。

急流は渦巻いてドウドウというすさまじい水勢。

後ろを振り向くと、チラチラと火縄の火。

亭主の仇とばかり、お熊が鉄砲を手に追いかけてくる。

雪明りで、下に山いかだがあるのを見ると、新助はその上にずるずると滑り落ちる。

いかだは流され、岩にぶつかった拍子にバラバラ。

たった一本の丸太にすがり、震えてお題目を唱えていると、上からお熊が狙いを定めてズドン。

弾丸はマゲをかすって向こうの岩に命中した。

「ああ、大難を逃れたも、お祖師そしさまのご利益りやく。たった一本のお材木(=題目)で助かった」

底本:四代目三遊亭円生、四代目橘家円喬

しりたい

三題噺から創作  【RIZAP COOK】

三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)の作。

幕末には、お座敷や特別の会の余興に、客が三つの題を出し、落語家が短時間にそれらを全部取り入れて一席の噺をまとめるという三題ばなしが流行しました。この噺は、円朝がそのような席で「小室山の御封」「玉子酒」「熊の膏薬」の三つのキーワードから即座にまとめたものです。

三題噺からできた落語では、円朝がつくったといわれる「芝浜」があります。

原話は道具入り芝居噺として作られ、その幕切れは「名も月の輪のお熊とは、食い詰め者と白浪の、深きたくみに当たりしは、のちの話の種子島が危ないことで(ドンドンと水音)あったよなあ。まず今晩はこれぎり」となっています。

というのは、これまでの通説でした。最近の研究ではちょっと違ってきています。以下をお読みください。

文久年間に「粋狂連すいきょうれん」のお仲間、河竹黙阿弥かわたけもくあみ(吉村芳三郎、1816-93)がつくったものを円朝が譲り受けた、というのが、最近のおおかたの説です。

歌舞伎の世界では日蓮宗の篤信家が多かったこと、幕末期の江戸では浄土宗と日蓮宗の話題を出せばウケがよいため、信心がなくても日蓮宗を話材に取り上げることが多々ありました。

黙阿弥の河竹家は浄土真宗で、菩提寺は浅草北島町の源通寺げんつうじです。

興行で提携していた四代目市川小団次(栄次郎、1812-66)こそが法華信心(日蓮宗系)の篤信家だったのです。黙阿弥は作者に徹していたわけですね。

このころの円朝は、異父兄・玄昌げんしょうの住持する日暮里の南泉寺なんせんじ(臨済宗妙心寺派)などで 座禅の修行をしていましたから、日蓮系とは無縁だったはず(晩年は日蓮宗に改宗)。

ですから、当時の円朝はお題目とは無縁だったのですが、江戸の町では、浄土宗(念仏系)と法華信心(日蓮、題目系)との信心対立が日常茶飯事で、なにかといえば「南無阿弥陀仏」「南無妙法蓮華経」が人の口の端について出る日々。

円朝も「臨済禅だから無関係」といっているわけにはいかなかったようですね。人々が信じる宗派を噺に取り込まなくては芸の商売になりませんし。黙阿弥と同じ立場です。

江戸期にはおおざっぱに、上方落語には念仏もの(浄土宗、浄土真宗、時宗など)が多く登場し、江戸落語には題目もの(法華宗など)が多く取り上げられる、といわれています。この噺もご多分に漏れなかったようです。

「鰍沢」と名人たち  【RIZAP COOK】

円朝は維新後の明治5年(1873)、派手な道具入り芝居噺を捨て、素噺すばなし一本で名人に上り詰めました。

「鰍沢」もその関係で、サスペンスがかった人情噺として演じられることが多くなりました。

円朝門下の数々の名人連に磨かれ、三遊派の大ネタとして、戦後から現在にいたるまで受け継がれてきました。

明治の四代目橘家円喬たちばなやえんきょう(柴田清五郎、1865-1912)の迫真の名演は今も伝説的です。

明治22年(1888)6月20日刊『百花園』には四代目三遊亭円生(立岩勝次郎、1846-1904)が「鰍沢雪の酒宴」という題で残してあります。このあらすじでは、これもテキストの一部に使いました。

近年では八代目林家正蔵(岡本義、1895-1982、彦六)に正統が伝わり、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)も晩年好んで演じました。

元の形態の芝居噺としては、彦六が特別な会で復活したものの、門弟の林家正雀しょうじゃく(井上茂、1951-)に継承されたほかはやり手はいないようです。

志ん生の「鰍沢」  【RIZAP COOK】

志ん生は、自らが円朝→円喬の系統を継ぐ正統の噺家であるという自負からか、晩年、「円朝全集」(春陽堂版)を熟読し、「塩原多助」「名人長二」「鰍沢」など、円朝がらみの長編人情噺を好んで手がけました。

志ん生の「鰍沢」は、全集の速記を見ると、名前を出しているのはお熊だけで、旅人も亭主も無人称なのが特色ですが、残念ながら成功したとは言いがたい出来です。リアルで緻密な描写を必要とする噺の構造自体が、志ん生の芸風とは水と油なのでしょう。

音源は、病後の最晩年ということもあり、口が回らず、無残の一語です。五十代の志ん生が語る「鰍沢」を一度聞いてみたかったと思います。

続編は「晦の月の輪」  【RIZAP COOK】

歌舞伎作者の黙阿弥作で、やはり円朝が芝居噺として演じたとされる、この噺の続編らしきものが「鰍沢二席目」です。

正式には「みそかの月の輪」といい、やはり三題噺(「花火」「後家」「峠茶屋」)から作られたものといわれます。

毒から蘇生した伝三郎が、お熊と信濃しなの明神峠みょうじんとうげで追いぎを働いているところへ、偶然新助が通りかかり、争ううちに夫婦が谷底へ転落するという筋立てです。

明治以後、演じられた形跡もなく、芝居としての台本もありません。岩波書店版『円朝全集』別巻2に収められています。

鰍沢とは  【RIZAP COOK】

現在の山梨県南巨摩みなみこま郡鰍沢町。甲州は甲斐国かいのくに(山梨県)。東海道から甲府に至る交通の要衝ようしょうです。

古くから富士川沿いの川港として物資の集積点となり、栄えました。

「鰍沢の流れ」は富士川の上流のことです。

東海道岩淵在は現在の静岡県庵原いはら郡富士川町にあたります。

「鰍沢」は人情噺には珍しく、新助が急流に転落したあと「今のお材木(=お題目)で助かった」というオチがついています。

おせつ徳三郎」のオチと同じなので、これを拝借したものでしょう。

晒し刑  【RIZAP COOK】

男女が心中を図って亡くなった場合は死骸取り捨てで三ノ輪の浄閑寺じょうかんじや亀有の善応寺ぜんのうじなどの投げ込み寺に葬られました。

どちらかが生き残った場合は下手人げしゅにんの刑として処刑されました。

両方とも生き残った場合は、日本橋南詰みなみづめ東側に三日間、さらし刑にされました。

これは悲惨です。

縄や竹などで張られた空き地に、かや棕櫚しゅろなどでいた三方開きに覆いの中にむしろを敷いて、その上に座らせられて、罪状が記された捨て札、横には刺す股、突く棒、袖搦そでがらみみといった捕り方道具を据えられて、往来でさんざんに晒されます。

物見高い江戸っ子の娯楽でもありました。

江戸っ子は無責任で残酷です。四日後、男女は別々に非人に落とされていきます。

日本橋 馬鹿をつくした 差し向かい
江戸のまん中で わかれる情けなさ
死すべき時 死なざれば 日本橋
日本に 死にそこないが 二人なり
日本橋 おしわけてみる 買った奴
四日目は 乞食で通る 日本橋
吉原の 咄をさせる 小屋頭

「江戸のまん中」「日本」は日本橋のこと。

吉原で「買った奴」がまざまざと眺める光景は世間の非情と滑稽を点描しています。

「乞食」とは非人のことでしょう。江戸っ子には乞食も非人も同類の認識だったのがわかります。「小屋頭」とは非人頭のこと。

浅草では車善七くるまぜんしち、品川では松右衛門まつえもんと決まっていました。

吉原で遊女をしていた頃の話を根掘り葉掘り聞こうとする非人頭も、ずいぶんといやらしい了見です。

そんなこんなの非道体験を経た後、伝三郎とお熊は鰍沢に人知れず消えていったわけです。

彼らの心境も多少は推しはかれるかもしれません。

上総戸

かずさど。粗末な板戸のこと。上総国は千葉県中部一帯です。「上総」を冠する言葉にはほかに、上総節かずさぶし上総部屋かずさべや上総木綿かずさもめんなどがあります。

上総節は、「上総節のツツテンはさわぎの中にうれひをあらわし」(面美多動身おもいたつみ、郭通交、寛政二)とあって、にぎやかな調子ながらもどこか切なさを感じさせる、今風にいえば、サンバやボサノヴァのような曲調だったようです。

ちなみに、寛政年間は松平定信の改革が厳しくて、吉原が弾圧を受けて閑古鳥だったために深川が新しい遊里として栄えた時期でした。「面美多動身」は「おもいたつみ」と読ませて、その頃の江戸の東南である深川を描いた洒落本です。ここを俗に「たつみ」と呼びます。「郭通交」は文人気取りながら、「くるわがよい」を自認した通人。この時期は「粋」の美意識がばかばかしくも異様なほどに研ぎ澄まされた頃。その頃を代表する作品です。

上総部屋は、大名屋敷に巣食う中間ちゅうげん小者こものがたむろする大部屋のこと。上総出身者が多かったからのようです。小者は武家の雑役をこなす下僕ですが、狭義には中間より格下に、広義には中間と同じくくりで見られています。足軽、若党→中間→小者の順で格が下がっていきます。中間や小者は折助おりすけとも呼ばれました。

上総木綿は、上総国でつくられた木綿のこと。丈が短いのが特徴だったため、「上総木綿で丈なし」「上総木綿で情がない」などと言って、深川遊里のはやりことばでした。

上総戸、上総節、上総部屋、上総木綿と、どれをとっても、粗末、粗品、劣性といったマイナスイメージを抱かせる熟語となっています。もっとも、江戸の人から見た偏見にすぎません。江戸の人からすれば、常陸も上総も相模も同じような低質で俗悪な世界だったわけです。まことのひどいもんですが、ここが理解できないと江戸文化なるものはどうもわかりにくくなります。

ことばよみいみ
浄閑寺 じょうかんじ荒川区南千住二丁目の浄土宗寺院。投げ込み寺でした
善応寺ぜんのうじ足立区中川三丁目の真言宗寺院。投げ込み寺でした

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

評価 :3/3。

ちはやふる【千早振る】落語演目

五代目古今亭志ん生

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

無学者もの。
知ったかぶりの噺。
苦し紛れのつじつまあわせ。
あっぱれです。

別題:木火土金水 龍田川 無学者 百人一首(上方)

あらすじ

あるおやじ。

無学なので、学校に行っている娘にものを聞かれても答えられず、困っている。

正月に娘の友達が集まり、百人一首をやっているのを見て、花札バクチと間違えて笑われる始末。

その時、在原業平ありわらのなりひらの「千早ちはやふる 神代かみよも聞かず たつた川 からくれないに 水くぐるとは」という歌の解釈を聞かれ、床屋から帰ったら教えてやるとごまかして、そのまま自称物知りの隠居のところに駆け込んだ。

隠居もわからないのでいい加減にごまかそうとしたが、おやじは引き下がらない。

で、苦し紛れに
龍田川たつたがわってのはおまえ、相撲取りの名だ」
とやってしまった。

もうここまできたら、毒食らわば皿までで、引くに引けない。隠居の珍解釈が続く。

龍田川が田舎から出てきて一心不乱にけいこ。

酒も女もたばこもやらない。

その甲斐あってか大関にまで出世し、ある時客に連れられて吉原に夜桜見物に出かけた。

その時ちょうど全盛の千早太夫ちはやだゆう花魁道中おいらんどうちゅうに出くわし、堅い一方で女に免疫のない大関龍田川、いっぺんに千早の美貌に一目ぼれ。

さっそく、茶屋に呼んで言い寄ろうとすると、虫が好かないというのか
「あちきはいやでありんす」
と見事に振られてしまった。

しかたがないので、妹女郎の神代太夫かみよだゆうに口をかけると、これまた
「姉さんがイヤな人は、ワチキもイヤ」
とまた振られた。

つくづく相撲取りが嫌になった龍田川、そのまま廃業すると、故郷に帰って豆腐屋になってしまった。

「なんで相撲取りが豆腐屋になるんです」
「なんだっていいじゃないか。当人が好きでなるんだから。親の家が豆腐屋だったんだ」

両親にこれまで家を空けた不幸をわび、一心に家業にはげんで十年後。

龍田川が店で豆を挽いていると、ボロをまとった女の物乞いが一人。

空腹で動けないので、オカラを恵んでくれという。

気の毒に思ってその顔を見ると、なんとこれが千早太夫のなれの果て。

思わずカッとなり
「大関にまでなった相撲をやめて、草深い田舎で豆腐屋をしているのは、もとはといえばおまえのためだ」
と。

「オカラはやれない」
と言って、ドーンと突くと千早は吹っ飛び、弾みで井戸にはまってブクブクブク。

そのまんまになった。

これがこの歌の解釈。

千早に振られたから「千早ふる」、神代も言うことを聞かないから「神代も聞かず 龍田川」、オカラをやらなかったから「からくれないに」。

「じゃ、水くぐるってえのは?」
「井戸へ落っこって潜れば、水をくぐるじゃねえか」

しりたい

「ちはやふる……」  【RIZAP COOK】

「千早振る」は「神」にかかる枕詞で、もちろん本当の解釈は以下のようなものです。

 (不思議なことの多かった)神代でさえ、龍田川の水が 紅葉の美しい紅でくくり染め (=しぼり染め)にされるとは聞いたこともない。

とまあ、意味を知ればおもしろくもおかしくもない歌です。隠居の珍解釈の方がよほど共感を呼びそうです。

龍田川は、奈良県生駒郡斑鳩いかるが町の南側を流れる川で、古来、紅葉の名所で有名でした。

原話とやり手  【RIZAP COOK】

今でも、前座から大看板まで、ほとんどの落語家が手掛けるポピュラーな噺です。

「薬缶」と同系統で、知ったかぶりの隠居がでたらめな解釈をする「無学者もの」の一つです。

古くは「木火土金水(もっかどごんすい)」という、小ばなしのオムニバスの一部として演じられることが多く、その場合、この後「薬缶」につなげました。

安永5年(1776)刊『鳥の町』中の「講釈」を、初代桂文治(伊丹屋惣兵衛、1773-1815)が落語にしたものです。明治期では三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)の十八番でした。

本来は、「千早振る」の前に、「つくばねの嶺より落つるみなの川……」の歌を珍解釈する「陽成院ようぜいいん」がつけられていました。

オチの異同  【RIZAP COOK】

あらすじのテキストにしたのは、五代目古今亭志ん生の速記です。

志ん生が「水をくぐるじゃねえか」で切っているのは、むしろ珍しい部類でしょう。

普通はこのあと、「じゃ、『とは』ってえのはなんです?」「それは、ウーン、千早の本名だった」と苦しまぎれのオチになります。

花魁道中  【RIZAP COOK】

起源は古く、吉原がまだ日本橋葺屋町にほんばしふきやちょうにあった「元吉原」といわれる寛永年間(1624-44)にさかのぼるといわれます。

本来は遊女の最高位「松の位」の太夫が、遊女屋から揚屋あげや(のちの引手茶屋。上客を接待する場)まで出向く行列をいいましたが、宝暦年間(1751-64)を最後に太夫が絶えると、それに次ぐ位の「呼び出し」が仲の町を通って茶屋に行く道中を指すようになりました。

廓が点灯する七ツ半(午後5時)ごろから始まるのが普通でした。

陽成院  【RIZAP COOK】

陽成院の歌、「つくばねの みねより落つる みなの川 恋ぞつもりて ふちとなりぬる」の珍解釈。京都の陽成院という寺で開かれた勧進相撲で、筑波嶺と男女の川が対戦。男女の川が山の向こうまで投げ飛ばされたから「筑波嶺の峰より落つる男女の川」。見物人の歓声が天皇の耳に入り、筑波嶺に永代扶持米をたまわったので、「声ぞつもりて扶持となりぬる」。しまいの「ぬる」とは何だと突っ込まれて、「扶持をもらった筑波嶺が、かみさんや娘に京の『小町香』、要するに香水を買ってやり、ぺたぺた顔に塗りたくったから、『塗る』だ」

蛇足ながら、陽成院とは第57代の陽成天皇(869-949)が譲位されて上皇になられてのお名前です。この天皇、在位中にあんまりよろしくないことを連発されたため、時の権力者、藤原氏によってむりむり譲位させられてしまいました。

天皇としての在位は876年から884年のたった8年間でした。その後の人生は長かったわけで、なんせ8歳で即位されたわけですから、やんちゃな天子だったのではないでしょうか。そんなこと、江戸の人は知りもしません。百人一首のみやびなお方、というイメージだけです。

ちなみに、この時代の「譲位」というのは政局の切り札で、天皇から権力を奪う手段でした。本人はまだやりたいと思っているのに、藤原氏などがその方を引きずりおろす最終ワザなのです。

五代目古今亭志ん生

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

評価 :1/3。

おおやままいり【大山詣り】落語演目

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

噺のおおよそは参詣の帰途が舞台。
宿で泥酔し、仲間から総スカンの熊。
熊が遂げる仕返しは凝ってます。

別題:百人坊主(上方)

あらすじ

長屋の講中で大家を先達に、大山詣りに出かけることになった。

今年のお山には罰則があって、怒ったら二分の罰金、けんかすると丸坊主にする、というもの。

これは、熊五郎が毎年、酒に酔ってはけんかざたを繰り返すのに閉口したため。

行きはまず何事もなく、無事に山から下り、帰りの東海道は程ケ谷(保土谷)の旅籠。

いつも、江戸に近づくとみな気が緩んで大酒を食らい、間違いが起こりやすいので、先達の吉兵衛が心配していると、案の定、熊が風呂場で大立ち回りをやらかしたという知らせ。

ぶんなぐられた次郎吉が、今度ばかりはどうしても野郎を坊主にすると息巻くのを、江戸も近いことだからとなだめるが、みんな怒りは収まらず、暴れ疲れ中二階の座敷でぐっすり寝込んでいる熊を、寄ってたかってクリクリ坊主に。

翌朝、目を覚ました熊、お手伝いたちが坊さん坊さんと笑うので、むかっ腹を立てたが、言われた通りにオツムをなでで呆然。

「他の連中は?」
「とっくにお立ちです」

熊は昨夜のことはなにひとつ覚えていないが、
「それにしてもひでえことをしやがる」
と頭に来て、なにを思ったか、そそくさと支度をし、三枚駕籠を仕立て途中でのんびり道中の長屋の連中を追い抜くや、一路江戸へ。

一足先に長屋に着くと、かみさん連中を集めて、わざと悲痛な顔で
「残念だが、おまえさん方の亭主は、二度と再び帰っちゃこねえよ」

お山の帰りに金沢八景を見物しようというので、自分は気乗りしなかったが、無理に勧められて舟に乗った。

船頭も南風が吹いているからおよしなさいと言ったのに、みんな一杯機嫌、いっこうに聞き入れない。

案の定、嵐になって舟は難破、自分一人助かって浜に打ち上げられた。

「おめおめ帰れるもんじゃないが、せめても江戸で待っているおまえさんたちに知らさなければと思って、恥を忍んで帰ってきた。その証拠に」
と言って頭の手拭を取ると、これが丸坊主。

「菩提を弔うため出家する」
とまで言ったから、かみさん連中信じ込んで、ワッと泣きだす。

熊公、
「それほど亭主が恋しければ、尼になって回向をするのが一番」
と丸め込み、とうとう女どもを一人残らず丸坊主に。

一方、亭主連中。

帰ってみると、なにやら青々として冬瓜舟が着いたよう。

おまけに念仏まで聞こえる。

熊の仕返しと知ってみんな怒り心頭。

連中が息巻くのを、吉兵衛、
「まあまあ。お山は晴天、みんな無事で、お毛が(怪我)なくっておめでたい」

しりたい

大山  【RIZAP COOK】

神奈川県伊勢原市、秦野市、厚木市の境にある標高1246mの山。

ピラミッドのような形でひときわ目立ちます。日本橋から18里(約71km)でした。

中腹に名僧良弁ろうべんが造ったといわれる雨降山あぶりさん大山寺だいせんじがありました。

雨降山とは、山頂に雲がかかって雨を降らせることからの銘々なんだそうです。

山頂に、剣のような石をご神体とする石尊大権現せきそんだいごんげんがあります。これは縄文時代以来の古い信仰です。時代が下る(奈良、平安期ですが)と、神仏混交、修験道の聖地となるのですね。

江戸時代以前には、修験者、華厳、天台、真言系の僧侶、神官が入り乱れてごろごろよぼよぼ。

それを徳川幕府が真言宗系に整理したのですが、それでもまだ神仏混交状態。

明治政府の神仏分離令(廃仏毀釈)の結果、中腹の大山寺が大山阿夫利おおやまあぶり神社に。仏の山から神の山になったわけです。

末寺はことごとく破壊されましたが、大正期には大山寺が復しました。今は真言宗大覚寺派の準本山となっています。

ばくちと商売にご利益  【RIZAP COOK】

大山まいりは、宝暦年間(1751-64)に始まりました。ばくちと商売にご利益があったんで、みんな出かけるんですね。

6月27日から7月17日までの20日間だけ、祭礼で奥の院の石尊大権現に参詣が許される期間に行楽を兼ねて参詣する、江戸の夏の年中行事です。

大山講を作って、この日のために金をため、出発前に東両国の大川端で「さんげ(懺悔の意)、さんげ」と唱えながら水垢離みずごり(体を清める)をとった上、納め太刀という木刀を各自が持参して、神前で他人の太刀と交換して奉納刀としました。

これは,大山の石尊大権現とのかかわりからきているんでしょうね。

お参りのルートは3つありました。

(1)厚木往還(八王子-厚木)
(2)矢倉沢往還(国道246号)
(3)津久井往還(三軒茶屋-津久井)

日本橋あたりから行くには(3)が普通でした。

世田谷区の三軒茶屋は大山まいりの通過点でにぎわったんです。

男の足でも4-6日はかかったというから、金も時間もかかるわけ。

金は、先達せんだつ(先導者)が月掛けで徴収しました。

帰りは伊勢原を経て、藤沢宿で1泊が普通です。

あるいは、戸塚、程ヶ谷(保土ヶ谷)、神奈川の宿のいずれかで、飯盛(私娼)宿に泊まって羽目をはずすことも多かったようです。

それがお楽しみで、群れて参詣するわけなんです。

江戸時代の参詣というのは、必ずこういう抜け穴(ホントに抜け穴)があったんですねえ。

だから、みなさん一生懸命に手ぇ合わすんですぇ。うまくできてます。

この噺のように、江ノ島や金沢八景など、横道にそれて遊覧することも。

こはい者 なし藤沢へ 出ると買ひ (柳多留14)

女人禁制で「不動から 上は金玉 ばかりなり」。最後の盆山(7月13-17日)は、盆の節季にあたり、お山を口実に借金取りから逃れるための登山も多かったそうです。

大山まいりは適度な娯楽装置だった、というわけ。

旧暦は40日遅れ  【RIZAP COOK】

落語に描かれる時代は、だいたいが江戸時代か明治時代かのどちらかです。

この噺は、江戸時代の話。これは意外に重要で、噺を聞いていて「あれ、明治の話だったのー」なあんていうこともしばしば。噺のイメージを崩さないためにも、時代設定はあらかじめ知っておきたいものです。

江戸時代は旧暦だから、6月27日といっても、梅雨まっさかりの6月27日ではないんです。旧暦に40日たすと、実際の季節になります。

だから、旧暦6月27日は、今の8月3日ごろ、ということに。お暑い盛りでのことなんですね。こんなちょっとした知識があると、落語がグーンと身近になるというものです。

元ねたは狂言から  【RIZAP COOK】

「六人僧」という狂言をもとに作られた噺です。

さらに、同じく狂言の「腹立てず」も織り交ぜてあるという説もあります。

「六人僧」は、三人旅の道中で、なにをされても怒らないという約束を破ったかどで坊主にされた男が、復讐に策略でほかの二人をかみさんともども丸坊主にしてしまう話です。

狂言には、坊主のなまぐさぶりを笑う作品が、けっこうあるもんです。

時代がくだって、井原西鶴(1642-93、俳諧、浮世草子)が各地の民話に取材して貞享2年(1685)に大坂刊「西鶴諸国ばなし」中の「狐の四天王」にも、狐の復讐で五人が坊主にされるという筋が書かれています。

スキンヘッドは厳罰  【RIZAP COOK】

明治の名人、四代目橘家円喬(柴田清五郎、1865-1912)は、江戸時代には坊主にされることがどんなに大変だったかを強調するため、この噺のマクラでマゲの説明を入念にしています。

円喬の速記は明治29年のもの。明治維新から30年足らず、断髪令が発布されてから四半世紀ほどしかたっていません。

実際に頭にチョンマゲをのっけて生活し、ザンギリにするのを泣いて嫌がった人々がまだまだ大勢生き残っていたはずなのです。

いかに時の移り変わりが激しかったか、わかろうというものです。

六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)も「一文惜しみ」の中で、「昔はちょんまげという、あれはどうしてもなくちゃならないもんで(中略)大切なものでございますから証明がなければ床屋の方で絶対にこれは切りません。『長髪の者はみだりに月代を致すまじきこと』という、髪結床の条目でございますので、家主から書付をもらってこれでくりくりッと剃ってもらう」と説明しています。

要するに、なにか世間に顔向けができないことをしでかすと、奉行所に引き渡すのを勘弁する代わりに、身元引受人の親方なり大家が、厳罰として当人を丸坊主にし、当分の謹慎を申し渡すわけです。

その間は恥ずかしくて人交わりもならず、寺にでも隠れているほかはありません。

武士にとってはマゲは命で、斬り落されれば切腹モノでしたが、町人にとっても大同小異、こちらは「頭髪には神が宿る」という信仰からきているのでしょう。

朝、自分の頭をなでたときの熊五郎のショックと怒りは、たぶん、われわれ現代人には想像もつかないでしょうね。

多くの名人がみがいた噺  【RIZAP COOK】

四代目円喬は、坊主の取り決めを地で説明し、あとのけんかに同じことを繰り返してしゃべらないように気を配っていたとは、四代目柳家小さん(大野菊松、1888-1947)の回想です。

小さん自身は、取り決めを江戸ですると、かみさん連中も承知していることになるので、大森あたりで相談するという、理詰めの演出を残しました。 

そのほか、昭和に入って戦後にかけ、六代目円生、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)、八代目春風亭柳枝(島田勝巳、1905-59)、八代目三笑亭可楽(麹池元吉、1898-1964)、五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)、三代目古今亭志ん朝(美濃部強次、1938-2001)と、とうとうたる顔ぶれが好んで演じました。

三笑亭夢楽(渋谷滉、1925-2005)も師匠の八代目可楽譲りで若いころから得意にしていましたが、いまも若手を含め多くの落語家が手がける人気演目です。

上方の「百人坊主」  【RIZAP COOK】

落語としては上方が本場です。

上方の「百人坊主」は、大筋は江戸(東京)と変わりませんが、舞台は、修験道の道場である大和・大峯山の行場めぐりをする「山上まいり」の道中になっています。

主人公は「弥太公」がふつうです。

こちらでは、山を下りて伊勢街道に出て、洞川どろかわまたは下市の宿で「精進落とし」のドンチャン騒ぎをするうち、けんかが起こります。

東京にはいつ移されたかわかりませんが、江戸で出版されたもので「弥次喜多」の「膝栗毛」で知られる十返舎一九(重田貞一、1765-1831、戯作者、絵師)の滑稽本『滑稽しっこなし』(文化2=1805年刊)、滝亭鯉丈(池田八右衛門→八蔵、?-1841)の「大山道中栗毛俊足」にも、同じような筋立ての笑話があるため、もうこのころには口演されていたのかもしれません。

ただし、前項の円喬の速記では「百人坊主」となっているので、東京で「大山詣り」の名がついたのは、かなり後でしょう。

相模の女  【RIZAP COOK】

この噺の背景にはちょっと重要なパラダイムがひそんでいます。

「相模の下女は淫奔」という江戸人のお約束事です。川柳や浮世絵などでもさかんに出てきます。

相模国(神奈川県西部)出身の女性には失礼きわまりないことですがね。「池袋の下女は夜に行灯の油をなめる」といった類の話です。

大山は相模国にあります。

江戸の男たちは「相模に行けば、なにかよいことがあるかもね、むふふ」といった下心を抱きつつ勇んで向かったのでしょう。

大山詣りがにぎわうわけです。

投げ込んで くんなと頼む 下女が文  三24

枕を交わす男から寝物語に「明日大山詣りに行くんだぜ」と聞いた相模出身の下女は「ならばこの手紙を実家に持っていってよ」と頼んでいるところを詠んでいます。こんなことが実際にあったのか。あったのかもしれませんね。

江の島   【RIZAP COOK】

大山詣りの帰りの道筋に選ばれます。近場の行楽地ですが、霊験あらたかな場所でもあります。

浪へ手を あわせて帰る 残念さ   十八02

これだけで江の島を詠んでいるとよくわかるものですなんですね。「浪へ手をあわせて」でなんでしょうかね。島全体が霊場だったということですか。

江の島は ゆふべ話して けふの旅   四33

江の島は 名残をおしむ 旅でなし   九25

江の島へ 硫黄の匂ふ 刷毛ついで   初24

硫黄の匂いがするというのは、箱根の湯治帰りの人。コースだったわけです。大山詣りも同じですね。

江の島へ 踊子ころび ころびいき   十六01

「踊子」とは元禄期ごろから登場する遊芸の女性です。酒宴の席で踊ったり歌ったりして興を添えるのをなりわいとする人。

日本橋橋町あたりに多くいました。

文化頃に「芸者」の名が定着しました。各藩の留守居役とのかかわりが川柳に詠まれます。

江の島で 一日やとふ 大職冠   初15

大職冠たいしょくかん」とは、大化年間(最新の学説ではこの元号は甚だあやしいとされていますが)の孝徳天皇の時代に定めれらた冠位十二階の最高位です。

のちの「正一位しょういちい」に相当します。実際にこの位を授けられたのは藤原鎌足かまたりですが、「正一位」は稲荷神の位でもあります。

謡曲「海士あま」からの連想です。

ここでは鎌足と息子の不比等ふひとを当てています。

【語の読みと注】
良弁 ろうべん
雨降山 あぶりさん
大山寺 だいせんじ

【RIZAP COOK】

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

評価 :2/3。

うどんや【うどん屋】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

屋台の鍋焼きうどん屋。
客がつかずさんざんな寒い夜。
もうからない噺です。

別題:風邪うどん(上方)

あらすじ

ある寒い夜。

屋台の鍋焼きうどん屋が流していると、酔っぱらいが
「チンチンチン、えちごじしィ」
と唄いながら、千鳥足で寄ってくる。

屋台をガラガラと揺すぶった挙げ句、おこした火に手をかざして、ながながとからむ。

「おめえ、世間をいろいろ歩いてると付き合いも長えだろう。仕立屋の太兵衛ってのを知ってるか」
「いえ、存じません」

そんなところから始まって、
「太兵衛は付き合いがよく、かみさんは愛嬌者、一人娘の美ィ坊は歳は十八でべっぴん、今夜婿を取り、祝いに呼ばれると上座に座らされて茶が出て、変な匂いがすると思うと桜湯で、家のばあさんはあんなものをのんでも当たらないから不思議な腹で、床の間にはおれが贈ったものが飾ってあって、娘の衣装は金がかかっていて、頭に白い布を巻いて「おじさん、さてこのたびは」と立ってあいさつして、このたびはなんて、よっぽど学問がなくちゃあ言えなくて、小さいころから知っていて、おんぶしてお守りしてやって、青っぱなを垂らしてぴいぴい泣いていたのがりっぱになって、ああめでてえなあうどん屋」
というのを、二度繰り返す。

「水をくれ」
というから、
「へいオシヤです」
とうどん屋が出せば、
「水に流してというのを、オシヤに流してって言うかばか野郎
とからみ、やたらに水ばかりガブガブのむから、
「うどんはどうです」
と、うどん屋はそろそろ商売にかかると、
「タダか」
と聞きてくる。

「いえ、お代はいただきます」
「それじゃ、おれはうどんは嫌えだ。あばよッ」

今度は女が呼び止めたので、張り切りかけると
「赤ん坊が寝てるから静かにしとくれ」

「どうも今日はさんざんだ」
とくさっていると、とある大店の木戸が開いて
「うどんやさん」
とか細い声。

「ははあ、奥にないしょで奉公人がうどんの一杯も食べて暖まろうということか」
とうれしくなり、
「へい、おいくつで」
「ひとつ」

その男、いやにかすれた声であっさり言ったので、うどん屋はがっかり。

それでも、
「ことによるとこれは斥候で、うまければ代わりばんこに食べに来るかもしれない、ないしょで食べに来るんだから、こっちもお付き合いしなくては」
と、うどん屋も同じように消え入るような小声で
「へい、おまち」

客は勘定を置いて、またしわがれ声で、
「うどん屋さん、あんたも風邪をひいたのかい」

しりたい

小さん三代の十八番

上方で「風うどん」として演じられてきたものを、明治期に三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)が東京に移植。

その高弟の四代目柳家小さん(大野菊松、1888-1947)、七代目三笑亭可楽(玉井長之助、1886-1944)を経て、戦後は五代目小さんが磨きをかけ、他の追随を許しませんでした。

酔っ払いのからみ方、冬の夜の凍るような寒さの表現がポイントとされますが、五代目は余計なセリフや、七代目可楽のように炭を二度おこさせるなどの演出を省き、動作のみによって寒さを表現しました。

見せ場だったうどんをすするしぐさとともに、五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)によって、「うどんや」はより見て楽しむ要素が強くなったわけです。

原話はマツタケ売り

安永2年(1773)江戸板『座笑産ざしょうさん』の後編「近目貫きんめぬき」中の「小ごゑ」という小ばなしが原話です。

その設定は、男はマツタケ売り、客は娘となっています。

改作「しなそば屋」

大正3年(1914)の二代目柳家つばめ(浦出祭次郎、1875-1927)の速記では、酔っ払いがいったん食わずに行きかけるのを思い直してうどんを注文したあと、さんざんイチャモンを付けたあげく、七味唐辛子を全部ぶちまけてしまいます。

これを、昭和初期に六代目春風亭柳橋(渡辺金太郎、1899-1979)が応用し、軍歌を歌いながらラーメンの上にコショウを全部かけてしまう、改作「しなそば屋」としてヒットさせました。

夜泣きうどん事始

東京で夜店の鍋焼きうどん屋が現れたのは明治維新後。したがってこの噺はどうしても明治以後に設定しなければならないわけです。

読売新聞の明治14年(1881)12月26日付には、以下の記事が見えます。

「近ごろは鍋焼饂飩なべやきうどんが大流行で、夜鷹蕎麦よたかそばとてはふ人が少ないので、府下ぢうに鍋焼饂飩を売る者が八百六十三人あるが、夜鷹蕎麦を売る者はたった十一人であるといふ」

「夜鷹そば」(「時そば」参照)に代わって「夜泣きうどん」という呼び名も流行しました。三代目小さんが初めてこの噺を演じたときの題は、「鍋焼きうどん」でした。

大阪の製薬会社「うどんや風一夜薬本舗」は、ショウガと温かいうどんが解熱作用があるということで、風邪薬、しょうが飴、のど飴などを製造販売しています。

もとは、末広勝風堂という名で明治に創業しました。

「末広(いつまでも)」「勝風(風に勝つ)」と、明治らしいわかりやすい命名です。

「うどん」と「風邪」とは縁語なのですね。

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

評価 :2/3。

きんめいちく【金明竹】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

骨董を題材にした前座噺。
小気味いい言い立てが聴きどころです。
耳に楽しい一席。

別題:長口上 骨皮 夕立 与太郎

【あらすじ】

骨董屋こっとうやのおじさんに世話になっている与太郎よたろう

少々頭にかすみがかかっているので、それがおじさんの悩みのタネ。

今日も今日とて、店番をさせれば、雨宿りに軒先を借りにきた、どこの誰とも知れない男に、新品のじゃ傘を貸してしまって、それっきり。

おじさんは
「そういう時は、傘はみんな使い尽くして、バラバラになって使いものにならないから、き付けにするので物置ものおきへ放り込んであると断るんだ」
しかった。

すると、ねずみが暴れて困るので、猫を借りに来た人に
「猫は使いものになりませんから、焚き付けに……」
とやった。

「ばか野郎、猫なら『さかりがついてとんと家に帰らなかったが、久しぶりに戻ったと思ったら、腹をくだして、粗相そそうがあってはならないから、またたびをめさして寝かしてある』と言うんだ」

おじさんがそう教える。

おじさんに目利めききを頼んできた客に、与太郎は、
「家にも旦那が一匹いましたが、さかりがついて……」

こんな調子で、小言ばかり。

次に来たのは上方者かみがたものらしい男だが、なにを言っているのかさっぱりわからない。

「わて、中橋なかばし加賀屋佐吉かがやさきち方から参じました。先度せんど、仲買いの弥市やいちの取り次ぎました道具七品どうぐななしなのうち、祐乗ゆうじょう宗乗そうじょう光乗こうじょう三作の三所物みところもの、並びに備前長船びぜんおさふね則光のりみつ四分一しぶいちごしらえ横谷宗珉よこやそうみん小柄こつか付きの脇差わきざし柄前つかまえはな、旦那はんが鉄刀木たがやさんやといやはって、やっぱりありゃ埋もれ木じゃそうにな、木が違うておりまっさかいなあ、念のため、ちょっとお断り申します。自在じざいは、黄檗山おうばくさん金明竹きんめいちく寸胴ずんどうの花いけには遠州宗甫えんしゅうそうほめいが入っております。織部おりべ香合こうごう、のんこの茶碗ちゃわん古池ふるいけかわずとびこむ水の音、と申します。あれは、風羅坊正筆ふうらぼうしょうひつの掛け物で、沢庵たくあん木庵もくあん隠元禅師いんげんぜんじ貼り交ぜの小屏風こびょうぶ、あの屏風びょうぶはなあ、もし、わての旦那の檀那寺だんなでらが、兵庫ひょうごにおましてな、この兵庫ひょうご坊主ぼうずの好みまする屏風びょうぶじゃによって、表具ひょうぐへやって兵庫ひょうご坊主ぼうず屏風びょうぶにいたしますと、かようにおことづけを願います」
「わーい、よくしゃべるなあ。もういっぺん言ってみろ」

与太郎になぶられ、三べん繰り返されて、男はしゃべり疲れて帰ってしまう。

おばさんも聞いたが、やっぱりわからない。
おじさんが帰ってきたが、わからない人間に報告されても、よけいわからない。

「仲買いの弥市が気がふれて、遊女ゆうじょ孝女こうじょで、掃除そうじが好きで、千ゾや万ゾと遊んで、しまいに寸胴斬ずんどぎりにしちゃったんです。小遣いがないから捕まらなくて、隠元豆いんげんまめ沢庵たくあんばっかり食べて、いくら食べてものんこのしゃあ。それで備前びぜんの国に親船おやふねで行こうとしたら、兵庫ひょうごへ着いちゃって、そこに坊さんがいて、周りに屏風びょうぶを立てまわして、中で坊さんと寝たんです」
「さっぱりわからねえ。どこか一か所でも、はっきり覚えてねえのか」
「たしかか、古池に飛び込んだとか」
「早く言いなさい。あいつに道具七品が預けてあるんだが、買ってったか」
「いいえ、買わず(蛙)です」

【しりたい】

ネタ本は狂言  【RIZAP COOK】

前後半で出典が異なり、前半の笠を借りに来る部分は、狂言「骨皮」をもとに、初代石井宗叔いしいそうしゅく(?-1803)が小咄「夕立」としてまとめたものをさらに改変したとみられます。

類話に享和2年(1802)刊の十返舎一九作「臍くり金」中の「無心の断り」があり、現行にそっくりなので、これが落語の直接の祖形でしょう。

一九はこれを、おなじみ野次喜多の『続膝栗毛』にも取り入れています。

「夕立」との関係は、「夕立」が著者没後の天保10年(1839)の出版(『古今秀句落し噺』に収録)なので、どちらがパクリなのかはわかりません。

後半の珍口上は、初代林屋正蔵はやしやしょうぞう(1781-1842)が天保てんぽう5年(1834)刊の自作落語集『百歌撰ひゃっかせん』中に入れた「阿呆あほう口上こうじょうナ」が原話。

これは与太郎が笑太郎しょうたろうとなっているほかは弥市の口上の文句、「買わず」のオチともまったく同じです。

前半はすでに文化4年(1807)刊の落語ネタ帳『滑稽集』(喜久亭寿曉きくていじゅぎょう)に「ひん僧」の題で載っているので、江戸落語としてはもっとも古いものの一つです。

前後を合わせて「金明竹」として一席にまとめられたのは、明治時代になってからと思われます。

「骨皮」のあらすじ  【RIZAP COOK】

シテが新発意しんぼち(出家したての僧)で、ワキが住職。

檀家の者が寺に笠を借りに来るので、新発意が貸してやり、住職に報告したところ、ケチな住職が「辻風で骨皮バラバラになって貸せないと断れ」と叱る。次に馬を借りに来た者に笠の口上で断ると、住職は「バカめ。駄狂い(発情による乱馬)したと断れ」。今度はお経を頼みに来た者に、「住職は駄狂い」と断った。聞いた住職が怒り、新発意が「お師匠さまが門前の女とナニしているのは『駄狂い』だ」と口答えして、大ゲンカになる筋立て。

ボタンの掛け違いの珍問答は、民話の「一つ覚え」にヒントを得たとか。

「夕立」のあらすじ  【RIZAP COOK】

主人公(与太郎)は権助、ワキが隠居。笠、猫と借りに来るくだりは現行と同じです。

三人目が隠居を呼びに来ると、「隠居は一匹いますが、糞の始末が悪いので貸せない」。隠居が怒って「疝気が起こって行けないと言え」と教えると次に蚊いぶしに使う火鉢を借りに来たのにそれを言い、どこの国に疝気で動けない火鉢があると、また隠居が叱ると権助が居直って「きんたま火鉢というから、疝気も起こるべえ」

石井宗叔いしいそうしゅくは医者、幇間、落語家を兼ねる「おたいこ医者」で、長噺の祖といわれる人。

東京に逆輸入  【RIZAP COOK】

この噺、前半の「骨皮ほねかわ」の部分は、純粋な江戸落語のはずながらなぜか幕末には演じられなくなっていて、かえって上方でよく口演されました。

明治になってそれがまた東京に逆輸入され、後半の口上の部分が付いてからは、四代目橘家円喬えんきょう(柴田清五郎、1865-1912)、さらに三代目三遊亭円馬(橋本卯三郎、1882-1945、大阪→東京)が得意にしました。

円喬は特に弥市の京都弁がうまく、同じ口上を三回リピートするのに、三度とも並べる道具の順序を変えて演じたと、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)が語っています。

代表的な前座の口慣らしのための噺として定着していますが、先の大戦後は五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)、六代目円生、三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)など、多数の大看板が手がけました。

なかでも金馬は、昭和初期から戦後にかけ、流麗な話術で「居酒屋」と並び十八番としました。CDは三巨匠それぞれ残っています。

口上の舌の回転のなめらかさでは金馬がピカ一だったでしょう。志ん生は、前半部分を再び独立させて演じ、後半はカットしていました。十代目柳家小三治(郡山剛蔵、1939-2021)のもあります。

言い立ての中身

この噺の言い立て、要は道具七品を説明しているのです。整理してみましょう。

その1 備前長船則光の脇差
脇差とは一般的な日本刀よりも短い刀剣。後藤祐乗(1440-1512、初代)、後藤宗乗(1461-1538、二代)、後藤光乗(1529-1620、四代)は後藤家の金工。後藤は金細工の流派。三所物とは、刀の柄の目貫、小柄、笄の三品で、備前長船の柄のこしらえ(飾り)。目貫は柄の中央の表裏に据えられた小さな金具。小柄は刀の鞘に付けられた細工用の小刀。笄は刀の差表に挿しておき、髪をなでつけるのに用いるもの。拵えとは刀の外装。横谷宗珉の四分一分(銀と銅の合金、その割合で、灰黒色の金物)とは小柄の拵のこと。柄前とは刀の柄、刀の柄の体裁、柄のつくりをさします。柄前は鉄刀木ではなく埋もれ木。埋もれ木とは地層中に埋もれて化石ようになった樹木。ここでは、三所物と脇差で一品と数えているようです。

その2 金明竹の自在鉤
自在鉤じざいかぎとは、囲炉裏いろりの上にぶら下がっている金属製の鉤をつなげた竹のこと。金明竹とは、マダケの栽培品種。かん(茎のこと)、枝は黄色を帯び、緑条が入ります。竹の皮は黄色。別名は、しまだけ、ひょんちく、あおきたけ、きんぎんちく、べっこうちく。

その3 金明竹の花いけ
金明竹を寸胴に切った素朴な花いけ。寸胴は上から下まで同じように太いこと。遠州宗甫は小堀遠州のこと。小堀遠州(1579-1647)は茶人。宗甫の銘(器物に刻み記した作者の名前)が入った花いけですが、華道遠州という生花の流派があります。小堀遠州を祖と仰いでいます。これとは別に、茶道には遠州流という流派があります。

その4 織部の香合
織部は古田織部(1544-1614)。武将で茶人。利休七哲の一人です。織部が作った香合。香合とは茶道で香を入れる蓋付き容器です。

その5 のんこの茶碗
のんことは、楽焼らくやき本家の三代目楽吉左衛門家当主の楽道入らくどうにゅう(1599-1656)の俗称。ここでは、道入の作った楽焼茶碗のことです。

その6 松尾芭蕉の掛け軸
風羅坊とは松尾芭蕉(1644-94)の坊号。正筆は真筆。芭蕉が書いた掛け軸ということですね。

その7 沢庵、木庵、隠元禅師貼り交ぜの小屏風
三人の僧侶がそれぞれに記した書を、ひとつの屏風に貼り合わせたもの。貼り交ぜの常識では、隠元隆琦いんげんりゅうき(1592-1673)、木庵性瑫もくあんしょうとう(1611-84)、即非如一そくひじょいつ(1616-1671)の三人が一般的で、これは煎茶に用いる道具です。三者とも黄檗宗の高僧です。沢庵宗澎たくあんそうほう(1573-1646)のは抹茶に用いるもの。ですから、沢庵、木庵、隠元の貼り交ぜはありません。こういうところは落語的ですね。

祐乗  【RIZAP COOK】

後藤祐乗ごとうゆうじょう(1440-1512)は室町時代の装剣彫刻の名工です。足利義政あしかがよしまさ庇護ひごを受け、特に目貫めぬきにすぐれた作品が多く残ります。

後藤光乗ごとうこうじょう(1529-1620)はその曽孫そうそんで、やはり名工として織田信長に仕えました。

長船  【RIZAP COOK】

長船おさふねは鎌倉時代の備前国びぜんのくに(岡山県)の刀工・長船氏。備前派、長船派といわれる刀工グループです。

祖の光忠みつただは鎌倉時代の人。子の長光ながみつ(1274-1304)、弟子の則光のりみつなど、代々名工を生みました。

宗珉  【RIZAP COOK】

横谷宗珉よこやそうみん(1670-1733)は江戸時代中期の金工きんこうで、絵画風彫金ちょうきんの考案者。小柄こつか獅子牡丹ししぼたんなどの絵彫りを得意にしました。

金明竹  【RIZAP COOK】

中国福建省ふっけんしょう原産の黄金色の名竹です。

福建省の黄檗山万福寺おうばくさんまんぷくじから日本に渡来し、黄檗宗おうばくしゅうの開祖となった隠元隆琦いんげんりゅうき(1592-1673)が、来日して宇治に同名の寺を建てたとき、この竹を移植し、それが全国に広まりました。

観賞用、または筆軸、煙管きせる羅宇らおなどの細工に用います。隠元には多数の工匠が同行し、彫刻を始め日本美術に大きな影響を与えましたが、金明竹を使った彫刻もその一つです。

漱石がヒントに?  【RIZAP COOK】

『吾輩は猫である』の中で、二絃琴にげんきんの師匠の飼い猫・三毛子みけこの珍セリフとして書かれている「天璋院てんしょういん様の御祐筆ごゆうひつの妹の御嫁に行った先きの御っかさんの甥の娘」。

これは、落語マニアで三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)や初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)がひいきだった漱石が「金明竹」の言い立てからヒントを得たという説(半藤一利はんどうかずとし氏)があります。

落語にはこの手のくすぐりがかなりあるもので、なんとも言えません。



  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

 

評価 :2/3。

こうふい【甲府い】落語演目

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【どんな?】

甲州から浅草に出た善吉はすられて無一文に。
法華の豆腐屋に救われた縁で奉公十年。
人柄が見込まれ、入り婿に。
夫婦は家業に精出す。やがて身延山に。
「甲府ぃ、お参り、願ほどきぃ」

別題:お礼まいり 出世豆腐 出世の島台 法華豆腐

【あらすじ】

甲府育ちの善吉ぜんきち

早くから両親をなくし、伯父おじ夫婦に育てられたが、今年二十になったので、江戸に出てひとかどの人間になり、育ての親に恩を返したいと、身延山みのぶさんに断ち物をして願を掛け、上京してきた。

生き馬の目を抜く江戸のこと、浅草寺せんそうじ境内けいだい巾着きんちゃくをすられ、無一文むいちもんに。

腹を減らして市中しじゅうをさまよったが、これではいけないと葭町よしちょう千束屋ちづかやという口入れ屋をめざすうち、つい、とある豆腐屋の店先でオカラを盗みぐい。

若い衆わけえしが袋だたきにしようというのを、主人が止めた。

事情を聞いてみると、善吉はこれこれこういうわけと涙ながらに語ったので、主人が気の毒に思い、ちょうど家も代々の法華宗ほっけしゅうで、 「これもお祖師そしさまの引き合わせだ」 と善吉を家に奉公させることにした。

仕事は、豆腐の行商。

給金きゅうきんは出ないが、商高あきないだかに応じて歩合ぶあいが取れるので励みになる。

こうして足掛け三年、影日向かげひなたなく懸命に 「豆腐ィ、胡麻ごま入り、がんもどき」 と売って歩いた。

愛想あいそがよく、売り声もなかなか美声だから客もつき、主人夫婦も喜んでいる。

ある日、娘のお孝も年ごろになったので、一人娘のこと、ほおっておくと虫がつくから、早く婿むこを取らさなければならないと夫婦で相談し、宗旨しゅうしも合うし、まじめな働き者ということで、善吉に決めた。

幸い、お孝も善吉に気があるようす。

問題は本人だとおかみさんが言うと、気が短い主人、まだ当人に話もしていないのに、善吉が断ったと思い違いして怒り出し 「なにっ、あいつが否やを言える義理か。半死半生でオカラを盗んだのをあわれに思い、拾ってやった恩も忘れて増長しやがったな。薪雑把まきざっぽ持ってこい」 と大騒ぎ。

目を白黒させた善吉だが、自分ふぜいが、と遠慮しながらも、結局、承知し、めでたく豆腐屋の養子におさまった。

それから夫婦で家業に励んだから、店は繁盛。

土地を二か所も買って、居付いつき地主に。

そのうち、年寄り夫婦は隠居。

ある日、善吉が隠居所へ来て、もう江戸へ出て十年になるが、まだ甲府の在所ざいしょへは一度も帰っていないので、 「両親の十三回忌じゅうさんかいきと身延さまへのお礼を兼ね、里帰りさせてほしい」 と申し出る。

お孝もついて行くというので、喜んで旅支度たびじたくしてやり、翌朝出発。

「ちょいと、ごらんな。縁日にも行かない豆腐屋の若夫婦が、今日はそろって、もし若旦那、どちらへお出かけで?」 と聞かれて善吉が振り向き 「甲府(=豆腐)ィ」 と言えば、お孝が 「お参り(=胡麻入り)、願ほどき(=がんもどき)」

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

【しりたい】

古い江戸前人情噺

古くから口演されている、江戸前の噺ですが、原話はまったくわかっていません。

「出世の島台」と題した、明治33年(1900)の六代目桂文治(桂文治、1843-1911、四代目桂文治の息)の速記が残っています。大筋は現行とほとんど変わりません。六代目文治は円朝と同時代の噺家です。

明治以来、人情噺の大ネタとして、多くの名人連が手掛けましたが、先の大戦後は、八代目春風亭柳枝(島田勝巳、1905-59)、八代目三笑亭可楽(麹池元吉、1898-1964)がとくによく高座に掛けました。意外なのは、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)がやったこと。珍しくくすぐりも入れず、ごくまじめに演じています。

CDでは、この三者のほか、古今亭志ん朝(美濃部強次、1938-2001)も手掛けました。今どきウケる噺ではなさそうではありますが、それでも芸の力技か、三遊亭歌武蔵(若森正英、1968-)もたまに泣かせます。こちらもCDがあります。

身延山

鰍沢」にも登場しますが、寺号は久遠寺。日蓮宗の総本山です。

流罪を許されて身延に隠棲いんせいした日蓮(1222-82)が、この地域の豪族、波木井はきい氏から寄進を受けて開いたものです。

日蓮の没後、中興の祖と称される第十一世日朝にっちょう(1422-1500)が、現在の山梨県南巨摩郡みなみこまぐん身延町に移してますます発展させました。

日蓮宗の本拠としては、江戸・池上の本門寺ほんもんじがあるので、江戸の信徒(檀越だんのつ)は通常、ここに参詣すればよいとされました。池上は日蓮の亡くなった地です。

江戸時代には、「日蓮宗」という名称はまだ一般的ではなく、「法華」「法華宗」と呼ぶことが多かったようです。

江戸の豆腐屋

江戸市中に豆腐屋が急増したのは、宝永ほうえい年間(1704-11)といわれています。

宝永3年(1706)5月、市中の豆腐屋7人が大豆相場の下落にもかかわらず高値売りをして処罰されたという記録もあります。

居付き地主

自分の土地や家屋に住んでいる者、すなわち地主のことです。土地家屋を人に貸し、自分は他の町に住んでいる者を「他町地主」といいました。

落語にひんぱんに登場する「大家」は差配さはいともいい、地主に雇われ、長屋の管理を委託されている人のことです。

大商店主を兼ねた居付き地主のうちには、大家を介さず、自分で直接、家作を管理する者も多かったようです。その場合、地主と大家を兼ねていることになります。

こうした居付き地主が貸すのは、長屋でも表長屋おもてながやです。通りに面し、多くは二階建てです。

大工の棟梁とうりゅう鳶頭とびのかしらなど、町人でも比較的地位のある者が住みました。「三軒長屋」のイセカンが、典型的な居付き地主です。

改作「お福牛」

野村無名庵むめいあん(野村元雄、1888-1945)は『落語通談』に記しています。

斯界の古老扇橋は、この噺を今様にでっち直して、お福牛と題するものを作った。

この「古老扇橋」とは、声色こわいろ(声帯模写)の名人としても知られた、八代目入船亭扇橋(宗匠の扇橋、進藤大次郎、1865-1944)のことでしょう。「でっち直す」という言い方もおもしろいですね。

改作といっても速記も残らず、作った年代もわかりません。『落語通談』によれば、筋は大同小異とのこと。この『落語通談』は、初出が1943年9月刊。中公文庫版(1982年)は品切れですが、古本市場でまだ入手できるかも。

豆腐屋を牛乳屋に代え、主人公は苦学生となっています。

主人公は牛乳屋に婿入りし、牧場経営もして大成功。終わりに故郷の伯父が亡くなり、遺産を受け取るため帰郷することに。

オチは、しゅうと夫婦が留守を心配して、牧場の牛は大丈夫かと聞くと「お案じなさいますな。ウシ(=ウチ)は女房にまかせてあります」という、くだらないダジャレオチです。

紙芝居にもなった「模範落語」

『落語通談』によれば、オリジナルの「甲府い」は「鰍沢」とつなげて、先の大戦中、報国紙芝居ほうこくかみしばいにもなったとのこと。

いかにこの噺の主人公が、当時の軍部や当局(内務省や文部省など)にとって「期待される人間像」の典型であったかがわかろうというもの。でも、泣かせます。

野村無名庵は当時の政府の片棒をかついで、昭和15年(1940)、「不道徳」な噺53種を「禁演落語」に設定した中心人物です。忖度そんたくの人でした。空襲の犠牲となりました。

『落語通談』には、こんなことも記しています。

何にしても納まりの目出度い勧善の落語で、禁演五十三種を悪い方として西へ廻して見立番附の出来たとき、善い方すなわち東の方の、大関へあげられたのはこの甲府ィであった。

そういう噺、つまりは、悪くない噺なんですね。

日蓮が開いた、鎌倉新仏教のひとつです。最高の教えは「法華経」にある、というのが日蓮の教えです。「南無妙法蓮華経」と唱える宗派です。題目ですね。後醍醐天皇からは、法華宗という名称をいただきました。鎌倉新仏教の特徴は「易行いぎょう」です。修行や教えがわかりやすくてカンタン、ということ。 女性や一般人にも、手を差し伸べたのです。

とはいえ、当時の人々からは胡散臭うさんくさく思われていたようです。信者が増えたのは応仁の乱以降。 死が日常的になった頃からでした。次第に大きくなって、江戸時代にはものすごい勢力となっていました。当時は、法華、法華宗などと呼ばれてたものです。

法華のライバルは、念仏宗。これは、歌舞伎や落語ではお決まりの知識です。念仏宗とは、「南無阿弥陀仏」という、念仏を唱える宗派のこと。浄土宗、浄土真宗、時宗、融通念仏宗などが、念仏宗と呼ばれていました。

江戸の町では、法華と念仏が、信者獲得に必死でした。「宗論」は、両宗派の対立が噺になっています。法華の各宗派が束になって「日蓮宗」となったのは、明治5年(1872)のこと。

その後、紆余曲折あって名称が変更に。「宗教法人・日蓮宗」となるには、昭和16年(1941)まで待たねばなりませんでした。日蓮宗、歴史的には新しい名称だったのですね。日蓮宗の寺格はこんなかんじです。寺格とは、宗派内の寺の等級のこと。宗派最高の寺院は、身延山久遠寺で、総本山とされています。山梨県にあります。

ここの住職は、法主と呼ばれます。その下に、日蓮や日蓮宗に関わりの深い重要な寺院として、大本山があります。 大本山は、以下の七寺院です。誕生寺たんじょうじ(千葉県)、 清澄寺せいちょうじ(千葉県)、 中山法華経寺なかやまほけきょうじ(千葉県) 、北山本門寺(静岡県) 、池上本門寺(東京都) 、妙顕寺みょうけんじ(京都府) 、本圀寺ほんこくじ(京都府) 。

日蓮の出身地が房総半島だったからか、圧倒的に関東に集中しているのがわかります。

大本山の下には由緒寺院があって、これは42寺院あります。「堀の内」で有名な妙法寺は、由緒寺院に入ります。ほかに霊跡寺院があって、これは大本山の7寺院と由緒寺院の7寺院の計14寺院が、そう呼ばれています。

妙法寺のホームページには「本山」とあります。総本山→大本山→本山の序列です。由緒寺院はすべて本山です。霊跡寺院には大本山が7寺院、本山が7寺院あります。ということは、本山は計49寺院ある、ということになります。ややこしいです。

日蓮宗は、いまでは約5200寺、信者は330万人を抱えます。信者を檀越と呼びます。「だんのつ」「だんおつ」と呼びます。

有名な檀越は、ざっと思いついても、以下のような方々があげられます。

狩野永徳(1543-90) 、長谷川等伯(1539-1610)、 葛飾北斎(1760-1849)、 太田南畝(1749-1823)、 橋本雅邦(1835-1908)、 辰野金吾(1854-1920)、 石橋湛山(1884-1973)、 芥川龍之介(1892-1927)、 宮沢賢治(1896-1933)、 美空ひばり(1937-1989) ……。

芸人や芸能稼業には多く、珍しくもありません。

三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900、※晩年の4年間)、四代目橘家円喬(柴田清五郎、1865-1912)、三代目三遊亭円右(粕谷泰三、1923-2006)、二代目古今亭円菊(藤原淑、1929-2012)、三代目三遊亭円歌(中沢信夫、1932-2017) ……。

とまあ、数え上げたら、きりないほど。もっと、もっと。

【語の読みと注】 薪雑把 まきざっぱ まきざっぽう:切ったり割ったりした薪。まき。



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評価 :1/3。

てんたく【転宅】落語演目



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【どんな?】

泥棒より数枚上手な女の話。
この泥棒のお人よしぶりには口あんぐり。

あらすじ

おめかけさんが「権妻ごんさい」と呼ばれていた明治の頃。

船板塀に見越みこしの松の妾宅しょうたくに、だんなが五十円届けて帰った後、これを聞きつけて忍び込んだのが間抜けな泥棒。

お膳の残りものをムシャムシャ食っているところを、おめかけさんのお梅に見つかり、
「さあ、ダンツクが置いてった五十円、蛇が見込んだ雨蛙。四の五の言わずに出せばよし、いやだ応だと抜かしゃがると、伊達には差さねえこの大だんびら、うぬがどてっ腹へズブリズブリとお見舞い申すぞ」
と居直ったが、このおめかけさん、いっこうに動じないばかりか、
「あたしも実は元はご同業で、とうにだんなには愛想が尽きているから、あたしみたいな女でよかったら、連れて逃げておくれ」
と言い出したから、泥棒は仰天。

「五十円はおろか、この家にはあたしの蓄えも入れて千円あるから、この金を持って駆け落ちし、世界一周した後、おまえさんに芸者屋でもやってもらう」
と色仕掛けで迫る。

泥棒、でれでれになって、とうとう、めおとの約束を。

「そう決まったら今夜は泊まっていく」
と泥棒がずうずうしく言い出すと、
「あら、今夜はいけないよ。二階にはだんなの友達でえらく強いのが、酔っぱらって寝てるんだから」

明日の朝に忍んでいく約束をしたが、
「亭主のものは女房のもの。このお金は預かっておくよ」
と稼いだなけなしの二十円を巻き上げられる始末。

で、その翌朝。

うきうきして泥棒が妾宅にやってくると、あにはからんや、もぬけのカラ。

あわてて隣の煙草屋のおやじに聞くと、
「いや、この家には大変な珍談がありまして、昨夜から笑いつづけなんです」

女は実は、元は旅稼ぎの女義太夫がたり。ほうぼうで遊んできた人だから、人間がすれている。間抜け野郎の泥棒を口先でコロッとだまし、あの後、だんなをすぐに呼びにやったところ、あとでなにか不都合があるといけないというので、泥棒から巻き上げた金は警察に届け、明け方のうちに急に転宅(=引っ越し)した、とか。

「えっ、引っ越した。義太夫がたりだけに、うまくかたられた(=だまされた)」

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しりたい

たちのぼる明治の匂い

「権妻」「転宅」ともに明治初期から使われだした言葉。まぎれもなく明治の新時代につくられた噺です。

初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)が得意にしました。

この円遊は明治を代表する噺家で、大きい鼻のために「鼻の円遊」とも、落語の後の余興として奇妙な踊りを披露したため「ステテコの圓遊」とも呼ばれていました。

円遊は、文明開化の新風俗を当て込み、鉄道馬車を登場させたり、オチも「あそこにシャボンが出ています」と変えるなどとしていました。

同時代で音曲の弾き語りや声色などで人気のあった二代目古今亭今輔(見崎栄次郎、1859-1898)は、女が「目印にタライを置いておく」と言い、オチは「転宅(=洗濯)なさいましたか。道理でタライが出ています」としています。

ちなみに、二代目今輔は右目が不自由だったことから「めっかちの今輔」と当時の資料には出てきます。

やはり、ひとつの時代の風俗に密着しているだけに、いつまでも生き残るには難しい噺かもしれません。

三代目三遊亭円遊(伊藤金三、1878-1945)も得意ネタにしていました。こちらのネタでも同じような運命をたどっています。

権妻

本妻に対しての愛人、妾、おめかけさんをいいます。

「権」を「けん」ではなく「ごん」と読みます。

「ごん」と読む場合は、「権大納言ごんだいなごん」「権禰宜ごんねぎ」というように、「次の」「二番目の」をさす敬称となります。

愛人に対してわざとしゃれて使ったものです。明治時代の特徴です。

船板塀に見越しの松

「黒板塀に……」ともいいます。当時の典型的な妾宅しょうたくの象徴として、三代目瀬川如皐じょこう(六三郎、1806-81)の代表的な歌舞伎世話狂言『源氏店げんじだな』(お富与三郎)にも使われました。

瀬川如皐は歌舞伎作者です。

船板塀は、廃船となった船底板をはめた塀で、ふつう「忍び返し」という、とがった竹や木を連ねた泥棒よけが上部に付いていました。

見越みこしの松は、目印も兼ねて塀際に植え、外から見えるようにしてあります。

いずれも芸者屋の造りをまね、主に風情を楽しむために置かれたものです。

「ドウスル!」女義太夫

「娘義太夫」「タレギダ」ともいいます。これも幕末に衰えていたのが、明治初年に復活したものです。

明治中期になると全盛期を迎え、取り巻きの書生連が義太夫の山場にかかると、「ドウスル、ドウスル」と声をかけたので、「ドウスル連」と呼ばれました。

ちなみに、「タレギダ」の「タレ」は女性の隠語、「ギダ」は義太夫のことで、娘義太夫を意味しています。内訳を知るとばかばかしいだけ。

娘義太夫は、今でいうアイドルのはしりで、その人気のほどは、木下杢太郎(1885-1945)の詩「街頭初夏」(明治43年)にも。

濃いお納戸の肩衣の
花の「昇菊、昇之助」
義太夫節のびら札の
藍の匹田しったもすずしげに

この噺のおめかけさんのように旅回りの女芸人となると、泥水もさんざんのみ、売春まがいのこともするような、かなり凄絶な境遇だったのでしょう。

そこから這い上がってきたのですから、したたかにもなるわけです。

それにしても

この噺、男女の愛欲を貫くよりも、泥棒を犯罪者とみなして追及するほうを優先しています。

明治期の世俗価値観が強く出ていて、いまいちどうも、とびきりのおもしろさはありません。

とはいえ、妾囲いを是とする風潮は許容しているわけです。

落語は、社会の不備や政治の不正に物申す、発信元の役割を果たしたわけではなかったようです。

自由民権運動では、講談や浪曲が媒体として使われはしても、落語は使われませんでした。

現代でも、聴者はそんなところを落語に求めていません。ただげらげら笑いたいだけなんですよね。私(古木)もです。



  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

評価 :2/3。

ときそば【時そば】落語演目

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【どんな?】

落語と言えばこれでしょうか。
みんなが知ってる「なんどきだい」のアレ。
名人がやるとがぜん映えますね。
侮れない噺なんです。

別題:時うどん(上方)

あらすじ

夜鷹そばとも呼ばれた、屋台の二八にはちそば屋。

冬の寒い夜、屋台に飛び込んできた男、
「おうッ、何ができる? 花巻きにしっぽく? しっぽくゥ、しとつ、こしらえてくんねえ。寒いなァ」
「今夜はたいへんお寒うございます」
「どうでえ商売は? いけねえか? まあ、アキネエってえぐらいだから、飽きずにやんなきゃいけねえ」
と最初から調子がいい。

待って食う間中、
「看板が当たり矢で縁起がいい、あつらえが早い、割り箸を使っていて清潔だ、いい丼を使っている、鰹節をおごっていてダシがいい、そばは細くて腰があって、ちくわは厚く切ってあって……」
と、歯の浮くような世辞をとうとうと並べ立てる。

食い終わると
「実は脇でまずいそばを食っちゃった。おまえのを口直しにやったんだ。一杯で勘弁しねえ。いくらだい?」
「十六文で」
「小銭は間違えるといけねえ。手ェ出しねえ。それ、一つ二つ三つ四つ五つ六つ七つ八つ、今、何どきだい?」
「九ツで」
「とお、十一、十二……」

すーっと行ってしまった。

これを見ていたのがぼーッとした男。

「あんちきしょう、よくしゃべりやがったな。はなからしまいまで世辞ィ使ってやがら。てやんでえ。値段聞くことねえ。十六文と決まってるんだから。それにしても、変なところで時刻を聞きやがった、あれじゃあ間違えちまう」
と、何回も指を折って
「七つ、八つ、何どきだい、九ツで」
とやった挙げ句
「あ、少なく間違えやがった。何刻だい、九ツで、ここで一文かすりゃあがった。うーん、うめえことやったな」

自分もやってみたくなって、翌日早い時刻にそば屋をつかまえる。

「寒いねえ」
「へえ、今夜はだいぶ暖かで」
「ああ、そうだ。寒いのはゆんべだ。どうでえ商売は? おかげさまで? 逆らうね。的に矢が……当たってねえ。どうでもいいけど、そばが遅いねえ。まあ、オレは気が長えからいいや。おっ、感心に割り箸を……割ってあるね。いい丼だ……まんべんなく欠けてるよ。のこぎりに使えらあ。鰹節をおごって……ぶあっ、塩っからい。湯をうめてくれ。そばは……太いね。ウドンかい、これ。まあ、食いでがあっていいや。ずいぶんグチャグチャしてるね。こなれがよくっていいか。ちくわは厚くって……おめえんとこ、ちくわ使ってあるの? 使ってます? ありゃ、薄いね、これは。丼にひっついていてわからなかったよ。月が透けて見えらあ。オレ、もうよすよ。いくらだい?」
「十六文で」
「小銭は間違えるといけねえ。手を出しねえ。それ、一つ二つ三つ四つ五つ六つ七つ八つ、今、何どきだい?」
「四ツで」
「五つ六つ七つ八つ……」

しりたい

夜鷹そば   【RIZAP COOK】

夜鷹は、本所吉田町や柳原土手やなぎはらどてを縄張りにした、「野天営業」の街娼ですが、その夜鷹がよく食べたことからこの名がつきました。

ですから、本来は夜鷹の営業区域に屋台を出す夜泣きそば屋だけに限った名称だったはずなのです。

夜泣きそば(夜鷹)は一杯16文と相場が決まっていて、異名の二八そばは二八の十六からきたとも、そば粉とつなぎの割合からとも諸説あります。

夜鷹そばの値上げ

種物たねものが充実して、夜鷹そばが盛んになったのは文化ぶんか年間(1804-18)から。

ちなみに、夜鷹の料金は一回24文で、それより8文安かったわけですが、幕末には20文に、さらに24文に値が上がりました。

明治になると、新興の「夜泣きうどん屋」に客を奪われ、すっかり衰退しました。

何どきだい?   【RIZAP COOK】

冬の夜九ツ刻ここのつどきはおよその刻、午前0-2時。

江戸時代の時刻は明け六ツから、およそ2時間ごとに五四九八七、六五四九八七とくり返します。

後の間抜け男が現れたのは四ツですから、夜の10-0時。

あわてて2時間早く来すぎたばっかりに、都合8文もぼられたわけです。

ひょっとこそば   【RIZAP COOK】

この噺を得意にしていた三代目桂三木助(小林七郎、1902-61)は、マクラに「ひょっとこそば」の小ばなしを振っています。

客が食べてみるとえらく熱いので、思わずフーフー吹く、「あァたのそのお顔が、ひょっとこでござんす」

これは、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)もやりました。

蛇足   【RIZAP COOK】

それまでそばの代金の数え方を「ひいふうみい」とする演者が多かったのを、時刻との整合から、「一つ、二つ」と改めたのは三代目三木助でした。

なるほど、こうでなければそば屋はごまかされません。今ではほとんど三木助通りです。

たしか、先代・春風亭柳橋だったと記憶しますが、「何どきだい?」「へい九ツで」のところで、お囃子のように、二人が間を置かず、「なんどきだーいここのつでー」とやっていたのが、たまらないおかしさでした。

これだと、そば屋も承知でいっしょに遊んでいるようで、本当は変なのですが。

もっとも古い原話   【RIZAP COOK】

享保きょうほう11年(1726)、京都で刊行された笑話本『軽口初笑かるくちはつわらい』中の「他人は喰より」がもっとも古い形です。

それによると、主人公は中間ちゅうげん(武家屋敷の奉公人)、そば(そばきり)の値段は六文で、「四ツ、五ツ、六ツ……」と失敗します。

享保のころは、まだ物価が安かったということでしょう。

この噺は夜鷹そばの屋台が登場するため、生粋きっすいの江戸の噺と思われがちですが、実は上方落語の「時うどん」を、明治中期に三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)が東京に移したものです。

なんだかんだいっても、弟子の真打ち襲名披露で三代目古今亭志ん朝(美濃部強次、1938-2001)が本牧亭でやった「時そば」、これはすこぶるの絶品でした。

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評価 :1/3。

かわずちゃばん【蛙茶番】落語演目

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【どんな?】

町内で繰り広げられる素人の芝居。
腹を抱えて笑っちゃいます。

別題:素人芝居 舞台番

【あらすじ】

町内の素人芝居で「天竺徳兵衛」の「忍術ゆずり場」を出すことになった。

大盗賊の徳兵衛が、赤松満祐の幽霊から忍術の極意を伝授され、ドロンドロンとガマに化ける場面である。

ところが、そのガマの役にくじ引きで当たってしまったのが、伊勢屋の若だんな。

やりたくないから、当然、仮病を使って出てこない。

困った世話役の番頭、しかたなく芝居好きの丁稚の定吉をなだめすかし、ガマ賃をやる約束で、ようやく代役を承知させる。

安心したのもつかの間、今度は、舞台のソデで客の騒ぎを鎮める役である舞台番をつとめる建具屋の半公が来ない。

この男、通称バカ半、ハネ半と呼ばれるほどお調子者。

とにかく舞台番がいないと幕が開かないので、定吉に呼びに行かせると、この前、だんなに
「今度、化物芝居の座頭に頼む」
と言われたのがしゃくで、
「誰が行ってやるもんか」
と大変な剣幕。

困った番頭、一計を案じて定吉に、
「半公が岡惚れしている小間物屋のみい坊が、『役者なんかしないで舞台番と逃げたところが半さんらしくていい』と誉めていたと言って、だまして連れてこい」
と言いつける。

これを聞いて有頂天になった半公、どうせならと、自慢の緋縮緬のフンドシを質屋から急いで請け出し、湯屋で入念に「男」を磨く。

ところが、催促に来た定吉に
「早く来ないとみいちゃんが帰っちまう」
とせかされ、あわてて湯から上がって外へ飛び出したのはいいが、肝心のフンドシを締め忘れ、マル出しのまま気づかずに……。

さて、半公が息せききって駆けつけ、ようやく開幕。

客はもちろん、舞台番なんぞに目もくれない。

半公、ソデからみいちゃんをキョロキョロ探すが、いるワケがない。

しかたなく、フンドシの趣向だけでも見せようと
「しょっしょっ、騒いじゃいけねえ」
と客が静かに芝居を見ているのに、一人で騒ぎ立てる。

あまりのうるささに一同ひょいと舞台番を見ると、半公の股間から妙なものがカマ首をもたげている。

「あれは作り物じゃない」
と場内騒然。

「ようよう、半公、日本一! 大道具!」

誉められた半公、喜んでいっそうはでに尻をまくり、客席の方に乗り出した……。

この間にも芝居は進んで、いよいよ見せ場の忍術ゆずり場。

ドロンドロンと大どろになるが、ガマの定吉が出てこない。

「おいおい、ガマはどうした。おい、定、早く出なきゃあだめだよ」
「へへっ、出られません」
「なぜ」
「あすこで、青大将がねらってます」

底本:三代目三遊亭金馬ほか

しりたい

茶番

もとは歌舞伎のの大部屋の役者が、毎年5月29日の曽我祭の日に酒宴を催し、その席で、当番がおもしろおかしく口上をのべたのが始まりです。

それを「酒番」といいましたが、享保年間(1716-36)の末に、下戸の初代澤村宗十郎が酒席を茶席に代えたので、酒番も茶番になったわけです。

宝暦年間(1751-64)になると、遊里や戯作者仲間、一般町人の間にもこの「口上茶番」が広まり、いろいろな道具を並べてシャレながら口上を言う「見立て茶番」、素人芝居に口上茶番の趣向を加味した「素人茶番」も生まれました。

この噺のイベントはその「素人茶番」、別名「立茶番」です。

「芝居」と銘打つとお上がうるさいので、あくまでタテマエは茶番とし、商家の祝い事や町内の催しものに、アトラクションとして盛んに行われました。

落語では、ほかに「権助芝居」があります。

天竺徳兵衛

ここに登場する芝居は、正式な外題を「天竺徳兵衛韓噺てんじくとくべえいこくばなし」といいます。現在も市川猿之助一座のレパートリーになっています。

四代目鶴屋南北(1755-1829)が、文化元年(1804)七月の河原崎座に書き下ろした作品です。

日本がまだ海外渡航できた寛永10年(1633)の頃。インド(天竺)に渡航して「天竺聞書」を出版した徳兵衛。徳兵衛が天下をねらい、ガマの妖術をあやつる大盗賊に仕立てた、壮大な歌舞伎狂言です。

19世紀初頭の南北にとって、それより200年も前に海外で活躍した徳兵衛の生涯は奇異に映ったはず。

「昔は外海に勝手に出かけられたのに、今といったらもう……」という心持ちでしょうか。

ご時勢のめぐりあわせを通して、徳兵衛のような勝手気ままな生き方にあこがれたのかもしれません。

金馬の「サクラ」作戦

この噺は、「素人芝居」という長い噺の後半が独立したものです。

オリジナルは、明治29年(1896)の四代目橘家円喬(柴田清五郎、1865-1912)。円喬の速記が残っています。

先の大戦後は、三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)の十八番でした。

その金馬がまだ円洲といった大正末期のこと。神田・立花亭の独演会でこの噺を演じたとき。客席に潜ませた子分の春風亭小柳、のちの三代目桂三木助(小林七郎、1902-61)に「ガマが出ないじゃないか」と叫ばせ、待ってましたとばかり、「あそこで青大将がねらってます」とサゲて下りるという、派手な演出をしたそうです。

初代談洲楼燕枝

この噺、バレ噺の色が濃いのが特徴です。

明治のころ、これを口演した初代談洲楼燕枝(長島傳次、1837-1900)を始め、昭和20年まで、かなりの落語家が警察署に呼ばれて油をしぼられたそうです。

燕枝は、三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)のライバルとして有名な人で、柳派の頭目でした。

明治33年(1900)という年は、燕枝が2月に、円朝が8月に逝って、柳派も三遊派もともに巨星堕つの感が当時の新聞各紙からうかがえます。

円朝は語り起こしの速記で自作を数多く残していますが、燕枝は自ら執筆して自作を残しています。

島鵆沖白浪しまちどりおきつしらなみ」「天保奇談孝行車」「西海屋騒動」「御所車花五郎」といったオリジナル作ばかりか、翻案の「侠客小金井桜」「岡山奇聞筆之命毛」「善悪草園生咲分」も残っています。

「島鵆沖白浪」だけは、十代目金原亭馬生(美濃部清、1928-82)が一部を、柳家三三が全編を通しでやったこともあります。

円朝のように全集もなく、燕枝は現在では、きわめて疎遠な存在とみなされています。

これほどポテンシャルの高い噺家も珍しいですし、円朝との対比と考察するのでも興味津々の存在です。研究者がもっとアプローチしてもいいのでしょうが。

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みそぐら【味噌蔵】落語演目

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【どんな?】

驚くべきしみったれが主人公。
ここまでくればおみごとです。

あらすじ】 

驚異的なしみったれで名高い、味噌屋みそやの主人の吝嗇屋しわいや吝兵衛けちべえ

嫁などもらって、まして子供ができれば経費がかかってしかたがないと、いまだに独り身。

心配した親類一同が、どうしてもお内儀かみさんを持たないなら、今後一切付き合いを断る、商売の取引もしないと脅したので、泣く泣く嫁を取った。

赤ん坊ができるのが嫌さに、婚礼の晩から新妻にいづまを二階に上げっぱなしで、自分は冬の最中だというのに、薄っぺらい掛け蒲団一枚で震えながら寝る。

が、どうにもがまんできなくなり、二階の嫁さんのところに温まりに通ったのが運の尽き。

たちまち腹の中に、その温まりの塊ができてしまった。

振りかかった災難に頭を抱えた吝兵衛、番頭に相談すると、臨月が来たらかみさんを腹の赤ん坊ごと実家に押しつけてしまえばいいと言う。

そうすれば費用はみなあちら持ちだと聞いて、ケチなだんなはやっと一安心。

十月十日がたって、無事男子を安産の知らせが届いたので、吝兵衛、小僧の定吉さだきちをお供に出かけることにする。

重箱を定吉に持たせるが、これは、宴席のごちそうをこっそり詰めてくる算段。

出掛けに、もし近所から火事が出たら、商売物の味噌で蔵の目塗めぬりをするよう番頭に言いつける。

これは焼けたのをはがして、奉公人のおかずにするため。

だんなが出かけると、奉公人一同、この機会にのみ放題食い放題、日ごろのうっぷんを晴らそうと番頭に申し出る。

なにしろ、この家では、朝飯の味噌汁が薄くて実なし。

自分の目玉が映っているのを田螺と間違えるほどだから、むりもない。

番頭が、勘定かんじょうは帳面をドガチャカごまかすことに決め、寿司に刺身、鯛の塩焼きに酢の物と、ごちそうをあつらえる。

最後に木の芽田楽をどんどん届けさせることにし、相撲甚句すもうじんく磯節いそぶしと、陽気などんちゃん騒ぎ。

こちらはだんな。定吉が重箱を忘れたので、小言を言いながら戻ってみると、大騒ぎをしている家がある。

ああいうのはだんなの心がけが悪いと言いながらも胸騒ぎがして、節穴からのぞいてみると案の定自分の家。

手代の甚助が、ウチのだんなは外から下駄を拾ってこさせ、焚き付けに使うだの、ドガチャカだのと言いたい放題。

番頭が
「だんながもし途中で帰ったら、鯛の塩焼きを見せれば、だんなは塩焼きはイワシしか知らないから、たまげて人事不省じんじふせいに陥る。寝かせちまって、あとは夢を見たんでしょうとゴマかせばいい」
と言うのが聞こえたから、吝兵衛はカンカン。

ドンドンと戸をたたき
「おい、あたしだ」

一同、酔いもいっぺんに醒め、急いで膳を片づけたがもう遅い。

「この入費は給金からさっ引くから、生涯ただ働きを覚悟しろ。ドガチャカなんぞさせてたまるか」
と怒っているところへ戸をたたく音。

「ええ、焼けてまいりました」

さては火事だと驚き
「どこから焼けました」
「横町の豆腐屋から焼けてまいりました」
「よっぽど焼けましたか」
「二、三丁焼けました。これからどんどん焼けてきます」

これは火足が速いと、慌てて戸を開けると、プーンと田楽でんがく味噌の匂い。

「いけねえ。味噌蔵ィ火が入った」

しりたい】 

ケチ兵衛再び登場

あたま山」についで「しわい屋風雲録」ともいえるケチ噺。同類には「吝嗇屋」「片棒」「死ぬなら今」「位牌屋」などがあります。

田楽

名前の由来は、中世の田楽法師が、サオの上で踊る形に似ているところから。武士が大小を差した姿を「田楽串」、槍でくし刺しになるのを「田楽刺し」といいました。どちらもその形状からです。

室町時代からあったといわれ、朝廷では、大晦日のすす払いの日に田楽を酒のさかなにする習慣がありました。

木の芽田楽は、山椒の香をきかせたものです。

両国の川開きには、橋の両詰めに田楽売りが屋台を並べました。

ほかの噺では「寄合酒」にも登場します。

演者など

戦後では三代目桂三木助かつらみきすけ(小林七郎、1902-61)のが有名でした。

三木助はギャグを現代風につくりかえて大ウケ。「あらすじ」にも取り入れた、
「鯛の塩焼きで人事不省におちいる」
などは、漢語をモダンに使う同師ならではのものです。

門下の入船亭扇橋いりふねていせんきょう(橋本光永、光石、1931-2015)が継承しました。

落語通の支持が大きかった八代目三笑亭可楽さんしょうていからく(麹池元吉、1898-1964)も、だんなが帰ったとき番頭が「幻滅の悲哀を感じる」、責められると「心境の変化で……」など、妙に哲学的なギャグを連発し、どんちゃん騒ぎの場面で三界節の鳴り物を入れて美声を聞かせるなど、全体に地味な演出をカバーして好評でした。

目塗り

火事息子」「鼠穴」にも登場しますが、蔵を防火用に土などで塗り固めることです。

目塗り用に粘土を樽に詰めたものを「用心土」といい、火事の多い江戸ではどこの商店でも必ず常備していました。

味噌で目塗りというのも、非常の場合は実際にあったそうです。

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ふどうぼう【不動坊】落語演目

 

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【どんな?】

講釈師が死んだ。
大家、残った女房に縁談をと。
ぞっこんの吉公。
上方噺。明治期に上京。
わいわいにぎやか。
けっこうえげつない噺ですが。

別題:不動坊火焔 幽霊稼ぎ 

【あらすじ】

品行方正で通る、じゃが屋の吉兵衛。

ある日、大家が縁談を持ち込んできた。

相手は相長屋の講釈師・不動坊火焔の女房お滝で、最近亭主が旅回りの途中で急にあの世へ行ったので、女一人で生活が立ちいかないから、どなたかいい人があったら縁づきたいと、大家に相談を持ちかけてきた、という。

ついては、不動坊の残した借金がかなりあるのでそれを結納代わりに肩代わりしてくれるなら、という条件付き。

実は前々からお滝にぞっこんだった吉公、喜んで二つ返事で話に飛びつき、さっそく、今夜祝言と決まった。

さあ、うれしさで気もそぞろの吉公。

あわてて鉄瓶を持ったまま湯屋に飛び込んだが、湯舟の中でお滝との一人二役を演じて大騒ぎ。

『お滝さん、本当にあたしが好きで来たんですか?』
『なんですねえ、今さら水臭い』
『だけどね、長屋には独り者が大勢いますよ。鍛治屋の鉄つぁんなんぞはどうです?』
『まァ、いやですよ。あんな色が真っ黒けで、顔の裏表がはっきりしない』
『チンドン屋の万さんな?』
『あんな河馬みたいな人』
『じゃあ、漉返し屋の徳さんは?』
『ちり紙に目鼻みたいな顔して』

湯の中で、これを聞いた当の徳さんはカンカン。

長屋に帰ると、さっそく真っ黒けと河馬を集め、飛んでもねえ野郎だから、今夜二人がいちゃついているところへ不動坊の幽霊を出し、脅かして明日の朝には夫婦別れをさしちまおうと、ぶっそうな相談がまとまった。

この三人、そろって前からお滝に気があったから、焼き餅も半分。

幽霊役には年寄りで万年前座の噺家を雇い、真夜中に四人連れで吉公の家にやってくる。

屋根に登って、天井の引き窓から幽霊をつり降ろす算段だが、万さんが、人魂用のアルコールを餡コロ餠と間違えて買ってきたりの騒動の後、噺家が
「四十九日も過ぎないのに、嫁入りとはうらめしい」
と脅すと、吉公少しも動ぜず、
「オレはてめえの借金を肩代わりしてやったんだ」
と逆ねじを食わせたから、幽霊は二の句が継げず、すごすご退散。

結局、「手切れ金」に十円せしめただけで、計画はおジャン。

怒った三人が屋根の上から揺さぶったので、幽霊は手足をバタバタ。

「おい、十円もらったのに、まだ浮かばれねえのか」
「いえ、宙にぶら下がってます」

底本:三代目柳家小さん

【しりたい】

パクリのパクリ  【RIZAP COOK】

明治初期、二代目林家菊丸(?-1901?)作の上方落語を、三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)が東京に移植しました。

溯れば、原話は、安永2年(1773)刊『再成餅』中の「盗人」とされますが、内容を見るとどこが似ているのか根拠不明で、やはり菊丸のオリジナルでしょう。

菊丸の創作自体、「樟脳玉」の後半(別題「源兵衛人玉」「捻兵衛」)のパクリではという疑惑が持たれています(宇井無愁説)。

そのネタ元がさらに、上方落語「夢八」のいただきではと言われているので、ややこしいかぎりです。

菊丸は創作力に秀でた才人で、この噺のほか、現在も演じられる「後家馬子」「猿廻し」「吉野狐」などをものしたと伝えられます。

晩年は失明し、不遇のうちに没したようです。

本家大阪の演出  【RIZAP COOK】

桂米朝(中川清、1925-2015)によれば、菊丸のオリジナルはおおざっぱな筋立て以外は、今ではほとんど痕跡をとどめず、現行のやり方やくすぐりは、すべて後世の演者の工夫によるものとか。

登場人物の名前は「登場しない主役」の不動坊火焔と、すき返し屋の徳さん以外はみな東京と異なります。

新郎が金貸しの利吉、脅しの一味が徳さんのほか、かもじ洗いのゆうさん、東西屋の新さん。幽霊役が不動坊と同業で講釈師の軽田胴斎となっています。

利吉は、まじめ人間の東京の吉兵衛と異なり、徹底的にアホのキャラクターに描かれるので、上方版は銭湯のシーンを始め、東京のよりにぎやかで、笑いの多いものとなっています。

上方では幽霊の正体が最後にバレます。

そのきっかけは、フンドシをつないだ「命綱」が切れて幽霊が落下、腰を打って思わず「イタッ」と叫ぶ段取りです。

オチに四苦八苦  【RIZAP COOK】

あらすじのオチは、東京に移植された際、三代目小さんが作ったもので、現行の東京のオチはほとんどこちらです。

明治42年(1909)10月の「不動坊火焔」と題した小さんの速記では、「てめえは宙に迷ってるのか」「途中にぶら下がって居ります」となっています。

オリジナルの上方のオチは、すべてバレた後、「講釈師が幽霊のマネして銭取ったりするのんか」「へえ、幽霊(=遊芸)稼ぎ人でおます」というもの。

これは明治2年(1869)、新政府から寄席芸人に「遊芸稼ぎ人」という名称の鑑札が下りたことを当て込んだものです。

同時に大道芸人は禁止され、この鑑札なしには、芸人は商売ができなくなりました。

つまり、この噺が作られたのは明治2年前後ということになります。

この噺はダジャレで出来が悪い上、あくまで時事的なネタなので、時勢に合わなくなると演者はオチに困ります。

そこで、上方では幽霊役がさんざん謝った後、新郎の耳に口を寄せ「高砂や……」の祝言の謡で落とすことにしましたが、これもイマイチ。

試行錯誤の末、最近の上方では、米朝以下ほとんどはマクラで「遊芸稼ぎ人」の説明を仕込んだ上でオリジナルの通りにオチています。

当然、オチが違えば切る個所も違ってくるわけです。

二代目桂枝雀(前田達、1939-99)は、昭和47年(1972)の小米時代に、幽霊役が新郎に25円で消えてくれと言われ、どうしようかこうしようかとぶつぶつ言っているので、「なにをごちゃごちゃ言うとんねん」「へえ、迷うてます」というオチを工夫しました。

のちに、東京式の「宙に浮いとりました」に戻しています。

ほかにも、違ったオチに工夫している演者もいます。

どれもあまりしっくりはこないようです。

前座の蛮勇  【RIZAP COOK】

東京では、三代目小さんから四代目柳家小さん(大野菊松、1888-1947)、五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)に継承された小さんの家の芸です。

五代目小さんはこの噺を前座の栗之助時分、覚えたてでこともあろうに、神田の立花でえんえん45分も「熱演」。

のちの八代目林家正蔵(岡本義、1895-1982、彦六)に、こっぴどく叱られたという逸話があります。

九代目桂文治(1892-1978、高安留吉、留さん)も得意にしていました。

現在でも東西で多くの演者が手掛けています。

人魂の正体  【RIZAP COOK】

昔の寄席では、怪談噺の際に焼酎を綿に染み込ませて火を付け、青白い陰火を作りました。

その後、前座の幽霊(ユータ)が客席に現れ、脅かす段取りです。

黙阿弥の歌舞伎世話狂言「加賀鳶」の按摩道玄の台詞「掛け焔硝でどろどろと、前座のお化けを見るように」は有名です。

この噺は明治期が舞台なので、焼酎の代わりにハイカラにアルコールと言っています。

古くは「長太郎玉」と呼ばれる樟脳玉も使われ、落語「樟脳玉」の小道具になっています。

引き窓  【RIZAP COOK】

屋根にうがった明かり取りの窓で、引き綱で開閉しました。

歌舞伎や文楽の「双蝶々曲輪日記」の八段目(大詰め)「引窓」で、芝居に重要な役割を果たすと共にその実物を見ることができます。

五代目小さんのくすぐり  【RIZAP COOK】

(吉公が大家に)「……もう、寝ても起きてもお滝さん、はばかりィ入ってもお滝さん……仕事も手につきませんから、なんとかあきらめなくちゃならないと思って、お滝さんは、あれはおれの女房なんだと、不動坊に貸してあるんだと……ええ、あのお滝さんはもともとあっしの女房で……」

不動明王   【RIZAP COOK】

不動とは不動明王の略です。不動とはどんな存在か。仏像から見ていきましょう。

仏像は四種類に分かれています。

如来 真理そのもの
菩薩 真理を人々に説いて救済する仏
明王 如来や菩薩から漏れた人々を救う存在
天 仏法を守る神々

この種類分けは仏像の格付けとイコールです。不動明王はいくつかの種類分けがされています。五大明王とか八大明王とか。

ここでは五大明王について記します。

不動明王 中央 大日如来の化身
降三世明王 東 阿閦如来の化身
軍荼利明王 南 宝生如来の化身
大威徳明王 西 阿弥陀如来の化身
金剛夜叉明王 北 不空成就如来の化身

寺院で五大明王の像を配置すると、必ず不動明王がそのセンターに位置します。

それだけ高い地位にあるのです。

さらには、明王がすべて如来の化身とされています。

如来で最高位の大日如来の化身が不動明王になっています。

明王は、如来や菩薩の救いから漏れた人々を救う、敗者復活戦の主催者のような役割を担っています。

有象無象を救済するため、怒った顔をしているのです。

忿怒の表情というやつで、怖そうな存在です。

右手に宝剣、左手に羂索。羂索とは人々を漏れなく救うための縄です。

背後には火焔光背という、炎を表現しています。

強そう。でも怖そう。

そんなイメージです。

不動信仰はおもしろいことに、関西よりも関東地方に篤信の歴史があります。

平将門の怨霊を鎮める意味があったと考えられているからです。

将門は御霊信仰のひとつ。

御霊信仰とは、疫病や天災を、非業の死を遂げた人物などの御霊の祟りとしておそれ、御霊を鎮めることで平穏を回復しようとする信仰をいいます。

漏れた人々をも救おうとする不動明王の信仰は、関東で将門の御霊信仰と結びついたのです。

【語の読みと注】
相長屋 あいながや:同じ長屋に住むこと。
相店 あいだな:相長屋に同じ
結納 ゆいのう
漉返し すきがえし:紙すき
東西屋 とうざいや:チンドン屋
加賀鳶 かがとび
双蝶々曲輪日記 ふたつちょうちょうくるわにっき
大日如来 だいにちにょらい
降三世明王 ごうさんぜみょうおう
阿閦如来 あしゅくにょらい
軍荼利明王 ぐんだりみょうおう
宝生如来 ほうしょうにょらい
大威徳明王 だいいとくみょうおう
阿弥陀如来 あみだにょらい
金剛夜叉明王 こんごうやしゃみょうおう
不空成就如来 ふくうじょうじゅにょらい
忿怒 ふんぬ
腱索 けんさく けんじゃく

 

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

そこつのくぎ【粗忽の釘】落語演目



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【どんな?】

これまた滑稽噺の極北。
のんきであわてん坊。
憎めません。

別題:我忘れ 宿がえ(上方)

【あらすじ】

粗忽者の亭主。

引っ越しのときは、おれに任せろと、家財道具一切合切背負ってしまって動けない。

おまけに、あわてて荷物といっしょに家の柱まで縛ってしまう始末。

結局、ツヅラだけ背負って、先に家を出たはいいが、いつまでたっても帰らない。

かみさんが先に着いて気をもんでいると、朝早く出たのが、げんなりした顔でやっと現れたのが夕方。

なんでも、大通りへ出て四つ角へ来ると、大家の赤犬とどこかの黒犬がけんかしているので、義理上
「ウシウシ」
と声を掛けると、赤の方が勢いづき、ぴょいと立ち上がった拍子に自分が引っくり返った。

ツヅラを背負っているので起き上がれず、もがいているのを通りがかりの人に助けてもらったとたん、自転車とはち合わせ。

勢いで自転車が卵屋に飛び込み、卵を二百ばかり踏みつぶす、という騒動。

警官が来て取り調べのため、ずっと交番に行っていたという次第。

ようやく解放されたが、自分が探してきた家なのに、今度は新居を忘れた。

しかたがないから引っ返して、
「大家に頼んで連れて来てもらった」
というわけ。

かみさんはあきれ果てたが、
「とにかく箒を掛ける釘を打ってもらわなければ」
と亭主に金槌を渡す。

亭主は
「大工で専門家なので、これくらいは大丈夫だろう」
と安心していたら、場所を間違え、瓦釘という長いやつを壁に打ち込んでしまった。

長屋は棟続きなので、
「隣に突き抜けて物を壊したかもしれない」
とかみさんが心配し
「おまえさん、落ちつけば一人前なんだから」
と言い含めて聞きに行かせると、亭主、向かいの家に入ってしまい、いきなり
「やい、半人前なんて人間があるか」
と、どなってしまう。

すったもんだでようやく隣に行けば行ったで、隣のかみさんに、
「お宅は仲人があって一緒になったのか、それともくっつき合いか」
などと、聞いた挙げ句、
「実はあっしどもは……」
と、ノロケかたがたなれそめ話。

「いったい、あなた、家に何の用でいらしたんです」と聞かれて、ようやく用件を思い出す。

調べてもらうと、仏壇の阿弥陀さまの頭の上に釘。

「お宅じゃ、ここに箒をかけますか?」
と、トンチンカンなことを言うので、
「あなたはそんなにそそっかしくて、よく暮らしていけますね。ご家内は何人で?」
「へえ、女房と七十八になるおやじと……いけねえ、中気で寝てるんで、もとの二階へ忘れてきた」
「親を忘れてくる人がありますか」
「いえ、酔っぱらうと、ときどき我を忘れます」

底本:三代目三遊亭小円朝

【しりたい】

江戸の引っ越し事情

「小言幸兵衛」「お化け長屋」でも、新しく店(たな=長屋のひと間)を借りに来るようすが描かれますが、だいたいは、たとえば大工なら棟梁か兄貴分が請け人(身元引受人、保証人)になります。

夜逃げでもないかぎり、元の大家にきちんと店賃を皆済した上、保証人になってもらう場合も当然ありました。

大家は町役を兼ね、町内の治安維持に携わっていましたから、店子がなにかやらかすと責任を取らされます。

そこで、入居者や保証人の身元調査は厳重でした。

この噺のように、新居まで付き添ってくれるというのはよほど親切な大家でしょうが、違う町に移る場合は、新しい大家が当人の名前、職業、年齢、家族構成などすべてを町名主に届け、名主が人別帳にんべつちょう(戸籍簿)に記載して、奉行所に届ける仕組みになっていました。

店賃

たなちん。この噺のあらすじは、三代目三遊亭小円朝(芳村幸太郎、1892-1973)の速記を参考にしましたが、自転車が登場することでわかる通り、明治末から大正初期という設定です。

この当時はインフレで物価騰貴が激しかったようです。

『値段の風俗史』(朝日文庫)で見ると、二部屋、台所・便所付きの貸家または長屋で、明治32年(1899)で75銭、同40年(1907)で2円80銭、大正3年(1914)で5円20銭と、7-8年ごとに倍倍ゲームではねあがっています。

さかのぼって江戸期を見ると、長屋の店賃は文化・文政期(1804-30)で、通りに面した表店(おもてだな)で月1分程度、二部屋・九尺二間の裏店うらだなで400文ほど。幕末の慶応年間(1865-68)で六百文ですから、まっとうにやっていれば、十分暮らしていけたでしょう。

自転車の価格、卵のねだん

自転車は明治22年(1889)ごろから輸入されました。国産品は明治40年代からで、50-150円しました。

前記の店賃でいうと、なんと最低1年半分に相当します。

卵は大正2年(1912)ごろで1個20銭。昔はけっこう贅沢品でした。

200個ぶっつぶせば、都合40円の損害です。

粗忽噺の代表格

江戸時代から口演されてきた古い噺。文化4年(1807)にはすでに記録があります。

粗忽長屋」「粗忽の使者」「松曳き」「堀の内」「つるつる」などと並んで代表的な粗忽噺ですが、伸縮自在なため古くからさまざまなくすぐりやオチが考えられました。

最近では、このあらすじのように明治・大正の設定で演じられることが多くなっています。

明治期では、円朝門下の初代三遊亭円左(小泉熊山、1853-1909、狸の)が、前の家との距離を、視線の角度と指で示すなどの工夫を加えました。

オチはくだらないので、現行では「ここに箒をかけますか?」で切る場合が多くなっています。

「ここまで箒をかけに来なくちゃならない」などとする場合もあります。

故人では六代目春風亭柳橋(渡辺金太郎、1899-1979)、五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)がよく演じ、三笑亭夢楽(渋谷滉、1925-2005)も小円朝直伝で得意にしていました。

ウケやすい噺なので、若手もよくやります。



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しにがみ【死神】落語演目

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【どんな?】

米津玄師も唸る幽冥落語の逸品。
元ネタはドイツやイタリア由来とか。
ローソク使った寿命の可視化が真骨頂。

別題:全快 誉れの幇間

あらすじ

借金で首が回らなくなった男、金策に駆け回るが、誰も貸してくれない。

かみさんにも、金ができないうちは家には入れないと追い出され、ほとほと生きるのがイヤになった。

一思いに首をくくろうとすると、後ろから気味の悪い声で呼び止める者がある。

驚いて振り返ると、木陰からスッと現れたのが、年の頃はもう八十以上、痩せこけて汚い竹の杖を突いた爺さん。

「な、なんだ、おめえは」
「死神だよ」

逃げようとすると、死神は手招きして、「こわがらなくてもいい。おまえに相談がある」と言う。

「おまえはまだ寿命があるんだから、死のうとしても死ねねえ。それより もうかる 商売をやってみねえな。医者をやらないか」

もとより脈の取り方すら知らないが、死神が教えるには
「長わずらいをしている患者には必ず、足元か枕元におれがついている。足元にいる時は手を二つ打って『テケレッツノパ』と唱えれば死神ははがれ、病人は助かるが、枕元の時は寿命が尽きていてダメだ」
という。

これを知っていれば百発百中、名医の評判疑いなしで、もうかり放題である。

半信半疑で家に帰り、ダメでもともとと医者の看板を出したが、間もなく日本橋の豪商から使いが来た。

「主人が大病で明日をも知れないので、ぜひ先生に御診断を」
と頼む。

行ってみると果たして、病人の足元に死神。

「しめたッ」
と教えられた通りにすると、アーラ不思議、病人はケロりと全快。

これが評判を呼び、神のような名医というので往診依頼が殺到し、たちまち左ウチワ。

ある日、こうじ町の伊勢屋宅からの頼みで出かけてみると、死神は枕元。

「残念ながら助かりません」
と因果を含めようとしたが、先方はあきらめず、
「助けていただければ一万両差し上げる」
という。

最近愛人に迷って金を使い果たしていた先生、そう聞いて目がくらみ、一計を案じる。

死神が居眠りしているすきに蒲団をくるりと反回転。

呪文を唱えると、死すべき病人が生き返った。

さあ死神、怒るまいことか、たちちニセ医者を引っさらい、薄気味悪い地下室に連れ込む。

そこには無数のローソク。

これすべて人の寿命。

男のはと見ると、もう燃え尽きる寸前。

「てめえは生と死の秩序を乱したから、寿命が伊勢屋の方へ行っちまったんだ。もうこの世とおさらばだぞ」
と死神の冷たい声。

泣いて頼むと、
「それじゃ、一度だけ機会をやる。てめえのローソクが消える前に、別のにうまくつなげれば寿命は延びる」

つなごうとするが、震えて手が合わない。

「ほら、消える。……ふ、ふ、消える」

しりたい

異色の問題作

なにしろ、この噺のルーツや成立過程をめぐって、とうとう一冊の本になってしまったくらい。西本晃二『落語「死神」の世界』(青蛙房、2002年)です。

一応、原話はグリム童話「死神の名付け親」です。

それを劇化したのがイタリアのルイージ・リッチとフェデリコ・リッチ兄弟のオペレッタ「クリスピーノと死神」で、この筋か、または、グリム童話「死神の名付け親」の筋を、三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)が福地桜痴(源一郎、1841-1906、幕臣→劇作家、東京日日新聞社長、衆院議員)あたりから聞き込んで、落語に翻案したものといわれています。

東西の死神像

ギリシアやエジプトでは、生と死を司る運命もしくは死の神。

キリスト教世界の死神は、よく知られた白骨がフードをかぶり、大鎌を持った姿で、悪魔、悪霊と同一視されます。古来、日本にはこんなイメージがありません。日本では死神があんまり出てこないのです。

この噺で語られる死神はというと、ぼろぼろの経帷子きょうかたびらをまとったやせた老人で、亡者もうじゃの悪霊そのもの。しかし、こんなのは日本文化にはなじまないもの。明らかに明治期に西洋から入ってきた死神の図像的な翻案です。

とはいえ、円朝は死神像をでたらめにこさえたわけでもありません。

江戸時代も後期になると、聖書を漢訳本で読んだ国学者たちの間で醸成していった西洋と日本の掛け合わせ折衷文化が庶民の日常にもじわじわと及ぼしてきます。ついには、これまでの日本人がまったく抱いてこなかった「死を招く霊」が登場するのです。

たとえば、下図は『絵本百物語』(桃山人著、竹原春泉斎画、天保12年=1841年)の「死神」。このようにすっとんきょうな、乞食のようなじいさんのような姿の死神像も一例です。

日本の「死神」は古くからあまりイメージされてきていませんから、人々の心の中に一定のイメージがあるわけではありませんでした。それでも「死神」というからには死を連想させるわけで、老人、病人、貧者の姿がおさまりよいのでしょう。異形のなりではありますが。

円朝の「死神」では、筋の上では西洋の翻案のためか、ギリシア風の死をつかさどる神とい、新しいイメージが加わっているようにも見えます。日本では死神に対する誰もが抱く共通した図象イメージがなかったことが、円朝にはかえっておあつらえ向きだったことでしょう。

ローソクを人の寿命に見立てる考えなども、日本人にはまったくなかった発想でした。ここでの死神は、じつは、明治=近代の意識丸出しのそれなんですね。

「古典落語」といいながらも、大正期にできた噺までも許容しているわけです。古典落語を注意深く聴いていると、「近代」が潜り込んでいることに気づくときがあります。

芝居の死神

三代目尾上菊五郎(1784-1849、音羽屋)以来の、音羽屋の家の芸で、明治19年(1886)3月、五代目尾上菊五郎(寺島清、1844-1903)が千歳座の「加賀かがとび」で演じた死神は、「頭に薄鼠うすねず色の白粉を塗り、下半身がボロボロになった薄い経帷子にねぎの枯れ葉のような帯」という姿でした。

不気味に「ヒヒヒヒ」と笑い、登場人物を入水自殺に誘います。客席の円朝はこれを見て喝采したといいます。この噺の死神の姿と、ぴったり一致したのでしょう。

二代目中村鴈治郎(林好雄、1902-83、成駒屋)がテレビで落語通りの死神を演じましたが、不気味とユーモアが渾然一体で絶品でした。八五郎役は森川正太(新井和夫、1953-2020)。

鴈治郎が演じた死神は、「日本名作怪談劇場」。昭和54年(1979)6月20日-9月12日、東京12チャンネル(テレビ東京)で放送された全13回の怪談ドラマの中の一話でした。

以下が放送分です。「死神」は第10話だったようです。夏の暑いところを狙った企画だったのですね。

第1話「怪談累ヶ淵」(6月20日放送)
第2話「怪談大奥(秘)不開の間」(6月27日放送)
第3話「四谷怪談」(7月4日放送)
第4話「怪談吸血鬼紫検校」(7月11日放送)
第5話「怪談佐賀の怪猫」(7月18日放送)
第6話「怪談利根の渡し」(7月25日放送)
第7話「怪談玉菊燈籠」(8月1日放送)
第8話「怪談夜泣き沼」(8月8日放送)
第9話「怪談牡丹燈籠」(8月15日放送)
第10話「怪談死神」(8月22日放送)
第11話「怪談鰍沢」(8月29日放送)
第12話「怪談奥州安達ヶ原」(9月5日放送)
第13話「高野聖」(9月12日放送)

ハッピーエンドの「誉れの幇間」

初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)は、「死神」を改作して「誉れの幇間たいこ」または「全快」と題し、ろうそくの灯を全部ともして引き上げるというハッピーエンドに変えています。

円遊の「全快」は、善表という幇間が主人公です。

「死神」のやり方

円朝から初代三遊亭円左(小泉熊山、1853-1909、狸の)が継承、先の大戦後は六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)、五代目古今亭今輔(鈴木五郎、1898-1976、お婆さんの)が得意にしました。

円生は、死神の笑いを心から愉快そうにするよう工夫し、オチも死神が「消える」と言った瞬間、男が前にバタリと倒れる仕種で落としました。

十代目柳家小三治(郡山剛蔵、1939-2021)のは、男がくしゃみをした瞬間にろうそくが消えるやり方でした。

 



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やまざきや【山崎屋】落語演目



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【どんな?】

道楽にはまってしまったご大家の若だんな。
これはもう、円生と彦六ので有名な噺です。

【あらすじ】

日本橋横山町の鼈甲問屋、山崎屋の若だんな、徳三郎は大変な道楽者。

吉原の花魁に入れ揚げて金を湯水のように使うので、堅い一方の親父は頭を抱え、勘当寸前。

そんなある日。

徳三郎が、番頭の佐兵衛に百両融通してくれと頼む。

あきれて断ると、若だんなは
「親父の金を筆の先でちょいちょいとごまかしてまわしてくれりゃあいい。なにもおまえ、初めてゴマかす金じゃなし」
と、気になる物言いをするので、番頭も意地になる。

「これでも十の歳からご奉公して、塵っ端ひとつ自侭にしたことはありません」
と、憤慨。

すると若だんな、ニヤリと笑い、
「この間、湯屋に行く途中で、丸髷に襟付きのお召しという粋な女を見かけ、後をつけると二階建ての四軒長屋の一番奥……」
と、じわりじわり。

女を囲っていることを見破られた番頭、実はひそかに花魁の心底を探らせ、商家のお内儀に直しても恥ずかしくない実のある女ということは承知なので
「若だんな、あなた、花魁をおかみさんにする気がおありですか」
「そりゃ、したいのはやまやまだが、親父が息をしているうちはダメだよ」

そこで番頭、自分に策があるからと、若だんなに、半年ほどは辛抱して堅くしているようにと言い、花魁の親元身請けで請け出し、出入りの鳶頭に預け、花魁言葉の矯正と、針仕事を鳶頭のかみさんに仕込んでもらうことにした。

大晦日。

小梅のお屋敷に掛け取りに行くのは佐兵衛の受け持ちだが、
「実は手が放せません。申し訳ありませんが、若だんなに」
と佐兵衛が言うとだんな、
「あんなのに二百両の大金を持たせたら、すぐ使っちまう」
と渋る。

「そこが試しで、まだ道楽を始めるようでは末の見込みがないと思し召し、すっぱりとご勘当なさいまし」
と、はっきり言われてだんな、困り果てる。

しかたがないと、「徳」と言いも果てず、若だんな、脱兎のごとく飛び出した。

掛け金を帰りに鳶頭に預け、家に帰ると
「ない。落としました」

だんな、使い込んだと思い、カンカン。

打ち合わせ通りに、鳶頭が駆け込んできて、若だんなが忘れたからと金を届ける。

番頭が、だんな自ら鳶頭に礼に行くべきだと進言。

これも計画通りで、花魁を旦那に見せ、屋敷奉公していたかみさんの妹という触れ込みで、持参金が千両ほどあるが、どこかに縁づかせたいと水を向ければ、欲にかられて旦那は必ずせがれの嫁にと言い出すに違いない、という筋書き。

その通りまんまとだまされただんな、一目で花魁が気に入って、かくしてめでたく祝言も整った。

だんなは徳三郎に家督を譲り、根岸に隠居。

ある日。

今は本名のお時に帰った花魁が根岸を訪ねる。

「ところで、おまえのお勤めしていた、お大名はどこだい?」
「あの、わちき……わたくし、北国でござんす」
「北国ってえと、加賀さまかい? さだめしお女中も大勢いるだろうね」
「三千人でござんす」
「へえ、おそれいったな。それで、参勤交代のときは道中するのかい?」
「夕方から出まして、武蔵屋ィ行って、伊勢屋、大和、長門、長崎」
「ちょいちょい、ちょいお待ち。そんなに歩くのは大変だ。おまえにゃ、なにか憑きものがしているな。諸国を歩くのが六十六部。足の早いのが天狗だ。おまえにゃ、六部に天狗がついたな」
「いえ、三分で新造が付きんした」

【しりたい】

原話は大坂が舞台   【RIZAP COOK】

安永4年(1775)刊の漢文体笑話本『善謔随訳』中の小咄が原話です。

この原典には「反魂香」「泣き塩」の原話もありました。

これは、さる大坂の大きな米問屋の若旦那が、家庭内暴力で毎日、お膳をひっくり返して大暴れ。心配した番頭が意見すると(以下、江戸語に翻訳)、「ウチは米問屋で、米なら吐いて捨てるほどあるってえのになんでしみったれやがって、毎日粟飯なんぞ食わしゃあがるんだ。こんちくしょうめ」。そこで番頭がなだめていわく、「ねえ若旦那、新町の廓の某って男をご存じでござんしょ? その人はね、大きな女郎屋のあるじで、抱えの女はそれこそ、天下の美女、名妓が星の数ほどいまさあね。でもね、その人は毎晩、お手手でして満足していなさるんですよ」

わかったようなわからんような。

どうしてこれが「原話」になるのか今ひとつ飲み込めない話ですが、案外こっちの方がおもしろいという方もいらっしゃるかもしれませんな。

円生、正蔵から談志まで  【RIZAP COOK】

廓噺の名手、初代柳家小せん(鈴木万次郎、1883-1919、盲小せん)が明治末から大正期に得意にし、明治43年(1910)7月、『文藝倶楽部』に寄せた速記が残ります。

このとき、小せんは27歳で、同年4月、真打ち昇進直後。

今、速記を読んでも、その天才ぶりがしのばれます。

五代目三遊亭円生(村田源治、1884-1940、デブの)から六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)、八代目林家正蔵(岡本義、1895-1982、彦六)に継承され、円生、正蔵が戦後の双璧でした。

意外なことにやり手は多く、三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)、その孫弟子の二代目桂文朝(田上孝明、1942-2005)、あるいは七代目立川談志(松岡克由、1935-2011)も持ちネタにしていました。

円生、正蔵の演出はさほど変わりませんが、後者では番頭のお妾さんの描写などが、古風で詳しいのが特徴です。

オチもわかりにくく、現代では入念な説明がいるので、はやる噺ではないはずですが、なぜか人気が高いようで、林家小のぶ、古今亭駿菊、桃月庵白酒はともかく、二代目快楽亭ブラックまでやっています。

察するに、噺の古臭さ、オチの欠点を補って余りある、起伏に富んだストーリー展開と、番頭のキャラクターのユニークさが、演者の挑戦意欲をを駆り立てるのでしょう。

北国  【RIZAP COOK】

ほっこく。吉原の異称で、江戸の北方にあったから。

通人が漢風気取りでそう呼んだことから、広まりました。

これに対して品川は「南」と呼ばれましたが、なぜか「南国」とはいいませんでした。

これは品川が公許でなく、あくまで宿場で、岡場所の四宿の一に過ぎないという、格下の存在だからでしょう。

噺中の「道中」は花魁道中のことです。「千早振る」参照。

小梅のお屋敷  【RIZAP COOK】

若だんなが掛け取りに行く先で、おそらく向島小梅村(墨田区向島1丁目)の水戸藩下屋敷でしょう。

掘割を挟んで南側一帯には松平越前守(越前福井32万石)、細川能登守(肥後新田3万5千石)ほか、諸大名の下屋敷が並んでいたので、それらのどれかもわかりません。

どこであっても、日本橋の大きな鼈甲問屋ですから、女手が多い大名の下屋敷では引く手あまた、得意先には事欠かなかったでしょう。

小梅村は日本橋から一里あまり。風光明媚な郊外の行楽地として知られ、江戸の文人墨客に愛されました。

村内を水戸街道が通り、水戸徳川家が下屋敷を拝領したのも、本国から一本道という絶好のロケーションにあったからです。

水戸の中屋敷は根津権現社の南側一帯(現在の東大グラウンドと農学部の敷地)にありました。「孝行糖」参照。

親許身請け  【RIZAP COOK】

おやもとみうけ。親が身請けする形で、請け代を浮かせることです。

「三分で新造がつきんした」  【RIZAP COOK】

オチの文句ですが、これはマクラで仕込まないと、とうてい現在ではわかりません。

宝暦(1751-64)以後、太夫が姿を消したので遊女の位は、呼び出し→昼三→付け廻しの順になりました。

以上の三階級を花魁といい、女郎界の三役といったところ。

「三分」は「昼三」の揚げ代ですが、この値段ではただ呼ぶだけ。

新造は遊女見習いで、花魁に付いて身辺の世話をします。少女の「禿」を卒業したのが新造で、番頭新造ともいいました。

彦六のくすぐり  【RIZAP COOK】

番「それでだめなら、またあたくしが狂言を書き替えます」
徳「へええ、いよいよ二番目物だね。おまえが夜中に忍び込んで親父を絞め殺す」

この師匠のはくすぐりにまで注釈がいるので、くたびれます。

日本橋横山町  【RIZAP COOK】

現在の中央区日本橋横山町。

袋物、足袋、呉服、小間物などの卸問屋が軒を並べていました。

現在も、衣料問屋街としてにぎわっています。

かつては、横山町2丁目と3丁目の間で、魚市が開かれました。

落語には「おせつ徳三郎」「お若伊之助」「地見屋」「文七元結」など多数に登場します。

「文七元結」の主人公は「山崎屋」とまったく同じ横山町の鼈甲問屋の手代でした。

日本橋辺で大店が舞台の噺といえば、「横山町」を出しておけば間違いはないという、暗黙の了解があったのですね。

ことばよみいみ
鼈甲べっこうウミガメの一種タイマイの甲羅の加工品
花魁おいらん吉原の高位の遊女
掛け取りかけとり借金の取り立て
新造しんぞ見習い遊女
禿かむろ遊女見習いの幼女。おかっぱ髪から
二番目物にばんめもの芝居の世話狂言。濡れ場や殺し場



  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

しばはま【芝浜】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

明け方、浜で財布を拾った間抜けな棒手振り。
大金手にして奈落の幕開け。賢い女房が悪運うっちゃる。
三題噺のせいかむちゃくちゃな筋運び。円朝噺。

別題:うまいり 芝浜の皮財布 芝浜の財布

あらすじ

芝は金杉に住む魚屋の勝五郎。

腕はいいし人間も悪くないが、大酒のみで怠け者。

金が入ると片っ端から質入してのんでしまい、仕事もろくにしないから、年中裏店住まいで店賃もずっと滞っているありさま。

今年も師走で、年越しも近いというのに、勝公、相変わらず仕事を十日も休み、大酒を食らって寝ているばかり。

女房の方は今まで我慢に我慢を重ねていたが、さすがにいても立ってもいられなくなり、真夜中に亭主をたたき起こして、このままじゃ年も越せないから魚河岸へ仕入れに行ってくれとせっつく。

亭主はぶつくさ言って嫌がるが、盤台もちゃんと糸底に水が張ってあるし、包丁もよく研いであり、わらじも新しくなっているという用意のよさだから文句も言えず、しぶしぶ天秤棒を担ぎ、追い出されるように出かける。

外に出てみると、まだ夜は明けていない。

カカアの奴、時間を間違えて早く起こしゃあがったらしい、ええいめえましいと、勝五郎はしかたなく、芝の浜に出て時間をつぶすことにする。

海岸でぼんやりとたばこをふかし、暗い沖合いを眺めているうち、だんだん夜が明けてきた。

顔を洗おうと波打ち際に手を入れると、何か触るものがある。

拾ってみるとボロボロの財布らしく、指で中をさぐると確かに金。

二分金で四十二両。

さあ、こうなると、商売どころではない。

当分は遊んで暮らせると、家にとって返し、あっけにとられる女房の尻をたたいて、酒を買ってこさせ、そのまま酔いつぶれて寝てしまう。

不意に女房が起こすので目を覚ますと、年を越せないから仕入れに行ってくれと言う。

金は四十二両もあるじゃねえかとしかると、どこにそんな金がある、おまえさん夢でも見てたんだよ、と、思いがけない言葉。

聞いてみるとずっと寝ていて、昼ごろ突然起きだし、友達を呼んでドンチャン騒ぎをした挙げ句、また酔いつぶれて寝てしまったという。

金を拾ったのは夢、大騒ぎは現実というから念がいっている。

今度はさすがに魚勝も自分が情けなくなり、今日から酒はきっぱりやめて仕事に精を出すと、女房に誓う。

それから三年。

すっかり改心して商売に励んだ勝五郎。

得意先もつき、金もたまって、今は小さいながら店も構えている。

大晦日、片付けも全部済まして夫婦水入らずという時、女房が見てもらいたいものがあると出したのは紛れもない、あの時の四十二両。

実は亭主が寝た後思い余って大家に相談に行くと、拾った金など使えば後ろに手が回るから、これは奉行所に届け、夢だったの一点張りにしておけという忠告。

そうして隠し通してきたが、落とし主不明でとうにお下がりになっていた。

おまえさんが好きな酒もやめて懸命に働くのを見るにつけ、辛くて申し訳なくて、陰で手を合わせていたと泣く女房。

「とんでもねえ。おめえが夢にしてくれなかったら、今ごろ、おれの首はなかったかもしれねえ。手を合わせるのはこっちの方だ」

女房が、もうおまえさんも大丈夫だからのんどくれと、酒を出す。

勝、そっと口に運んで、
「よそう。……また夢になるといけねえ」

しりたい

三題噺から

三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)が幕末に、「酔っ払い」「芝浜」「財布」の三題で即席にまとめたといわれる噺です。➡鰍沢

先の大戦後、三代目桂三木助(小林七郎、1902-61)が、四代目柳家つばめ(深津龍太郎、1892-1961)と安藤鶴夫(花島鶴夫、1908-69、小説、評論)のアドバイスで、白魚船のマクラ、夜明けの空の描写、オチ近くの夫婦の情愛など、独特の江戸情緒をかもし出す演出で十八番とし、昭和29年度の芸術祭賞を受賞しましたが……。

アンツルも三木助も自己陶酔が鼻につき、あまりにもクサすぎるとの評価が当時からあったようです。

まあ、聴く人によって、好き嫌いは当然あるでしょう。

芝浜の河岸

現在の港区芝浦1丁目付近に、金杉浜町という漁師町がありました。

そこに雑魚場という、小魚を扱う小規模な市があり、これが勝五郎の「仕事場」だったわけです。

桜の皮

今と違って、昔は、活きの悪い魚を買ってしまうこともありました。

あす来たら ぶてと桜の 皮をなめ   五25

魚屋に鮮度の落ちた鰹を売りつけられた時には、桜の皮をなめること。毒消しになると信じられていました。

いわし売り

そうは言っても、鰹以上に鰯は鮮度の落ちるのが早いものです。

気の迷いさと 取りかへる いわし売   六19

長屋のかみさんが鰯の目利きをしている光景のようです。

「気の迷いさ」とは魚屋の常套句なんですね。

鰯はちょっと変わった魚です。たとえがおもしろい。「鰯」と言ったら、錆びた刀の意味にも使われます。「赤鰯」とも。

たがや」などに登場します。武士をあざける象徴としての言葉です。

本阿弥の いわしは見れど 鯨見ず   十三

鰯と鯨の対比とは大仰な。鰯は取るに足りない意味で持ちだされます。

「いわしのかしらも信心から」ということわざは今でも使われます。江戸時代に生まれた慣用句です。

「取るに足りないつまらないものでも、信心すればありがたいご利益や効験があるものだ」といった意味ですね。

いわし食った鍋

「鰯煮た鍋」「鰯食った鍋」という慣用句も使われました。

「離れがたい間柄」といった意味です。

そのココロは、鰯を煮た鍋はその臭みが離れないから、というところから。

いわし煮た 鍋で髪置 三つ食ひ   十

「髪置」とは「かみおき」で、今の七五三の行事の、三歳の子供が初めて髪を蓄えること。

今は「七五三」とまとめて言っていますが、江戸時代にはそれぞれ独自の行事でした。「帯解」は「おびとき」で七歳の女児の行事、「袴着」は「はかまぎ」で三歳の男児の行事、これはのちに五歳だったり七歳だったりと変化しました。

それと、三歳女児の「髪置」。三つともお祝い事であることと、11月15日あたりの行事であることで、明治時代以降、「七五三」と三つにまとめられてしまいました。

それだけ、簡素化したわけです。といった前提知識があると、上の川柳もなかなかしみじみとした含蓄がにじみ出るものです。「大仏餅」参照。

「芝浜だけに……」

2020年に開業した山手線の新駅がありました。

場所は、品川駅と田町駅の間にです。名称は結局のところ、「高輪ゲートウェイ駅」に決まりました。

ふりかえれば、駅名を公募で決めることが、2018年6月に発表されました。ネット上ではさまざまな予想が談論風発でした。

地域は芝浦です。落語演目の「芝浜」がいいのではないか、と予想する人が多数いたのは当然の現象でしょう。

ウェブ上での投票数で「芝浜駅」は3位でした。

1位でなかったのは、この演目がまだ一般には浸透していないあかしでしょう。噺ができてもう160年にもなるのに。惜しい。

結果は「高輪ゲートウェイ駅」でした。

「夢になっちゃったね。芝浜だけに」

ネット上での投稿が、こんなことばであふれかえったものでした。いまとなっては懐かしい椿事です。ある噺家さんは「えん高輪たかなわゲートウェイ」と。さすがですなあ。

ゲートシティは大崎ですね

ことばよみ意味
店賃たなちん家賃



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あおな【青菜】落語演目

【RIZAP COOK】



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【どんな?】

お屋敷で聞きかじった隠し言葉を、長屋でまねる植木屋。
訪れた熊を相手に、植木屋が「おーい、奥や」
女房が「鞍馬山から牛若丸がいでましてその名を九郎判官義経」
女房が先に言ってしまったから、植木屋は「うーん、弁慶にしておけ」

別題:弁慶

あらすじ

さるお屋敷で仕事中の植木屋、一休みでだんなから「酒は好きか」と聞かれる。

もとより酒なら浴びるほうの口。

そこでごちそうになったのが、上方かみがた柳影やなぎかげという「銘酒」だが、これは実は「なおし」という安酒の加工品。

なにも知らない植木屋、暑気払いの冷や酒ですっかりいい心持ちになった上、鯉の洗いまで相伴して大喜び。

「時におまえさん、菜をおあがりかい」
「へい、大好物で」

ところが、次の間から奥さまが
「だんなさま、鞍馬山くらまやまから牛若丸うしわかまるいでまして、名を九郎判官くろうほうがん
と妙な返事。

だんなもだんなで
「義経にしておきな」

これが、実は洒落で、菜は食べてしまってないから「菜は食らう(=九郎)」、「それならよしとけ(=義経)」というわけ。

客に失礼がないための、隠し言葉だという。

植木屋、その風流にすっかり感心して、家に帰ると女房に
「やい、これこれこういうわけだが、てめえなんざ、亭主のつらさえ見りゃ、イワシイワシってやがって……さすがはお屋敷の奥さまだ。同じ女ながら、こんな行儀のいいことはてめえにゃ言えめえ」
「言ってやるから、鯉の洗いを買ってみな」

もめているところへ、悪友の大工の熊五郎。

こいつぁいい実験台とばかり、女房を無理やり次の間……はないから押し入れに押し込み、熊を相手に
「たいそうご精がでるねえ」
から始まって、ご隠居との会話をそっくり鸚鵡返おうむがえし……しようとするが……。

「青いものを通してくる風が、ひときわ心持ちがいいな」
「青いものって、向こうにゴミためがあるだけじゃねえか」
「あのゴミためを通してくる風が……」
「変なものが好きだな、てめえは」
「大阪の友人から届いた柳影だ。まあおあがり」
「ただの酒じゃねえか」
「さほど冷えてはおらんが」
「燗がしてあるじゃねえか」
「鯉の洗いをおあがり」
「イワシの塩焼きじゃねえか」
「時に植木屋さん、菜をおあがりかな」
「植木屋はてめえだ」
「菜はお好きかな」
「大嫌えだよ」

タダ酒をのんで、イワシまで食って、今さら嫌いはひどい。

ここが肝心だから、頼むから食うと言ってくれと泣きつかれて
「しょうがねえ。食うよ」
「おーい、奥や」

待ってましたとばかり手をたたくと、押し入れから女房が転げ出し、
「だんなさま、鞍馬山から牛若丸がいでまして、その名を九郎判官義経」
と、先を言っちまった。

亭主は困って
「うーん、弁慶にしておけ」

底本:五代目柳家小さん

【RIZAP COOK】

しりたい

青菜とは   【RIZAP COOK】

三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)が、上方から東京に移した噺です。

東京(江戸)では主に菜といえば、一年中見られる小松菜をいいます。

冬には菜漬けにしますが、この噺では初夏ですから、おひたしにでもして出すのでしょう。

値は三文と相場が決まっていて、「青菜(は)男に見せるな」という諺がありました。

これは、青菜は煮た場合、量が減るので、びっくりしないように亭主には見せるな、の意味ですが、なにやら、わかったようなわからないような解釈ですね。

柳影は夏の風物詩   【RIZAP COOK】

柳影とは、みりんとしょうちゅうを半分ずつ合わせてまぜたものです。

江戸では「直し」、京では「やなぎかげ」と呼びました。

夏のもので、冷やして飲みます。暑気払いによいとされていました。

みりんが半分入っているので甘味が強く、酒好きには好まれません。夏の風物詩、年中行事のご祝儀ものとしての飲み物です。

これとは別に「直し酒」というのがあります。粗悪な酒や賞味期限を過ぎたような酒をまぜ香りをつけてごまかしたものです。

イワシの塩焼き   【RIZAP COOK】

鰯は江戸市民の食の王様で、天保11年(1840)正月発行の『日用倹約料理仕方角力番付』では、魚類の部の西大関に「目ざしいわし」、前頭四枚目に「いわししほやき(塩焼き)」となっています。

とにかく値の安いものの代名詞でしたが、今ではちょっとした高級魚です。

隠語では、女房ことば(「垂乳根」参照)で「おほそ」、僧侶のことばでは、紫がかっているところから、紫衣からの連想で「大僧正」と呼ばれました。

判官   【RIZAP COOK】

源義経は源義朝の八男ですから、八郎と名乗るべきなのですが、おじさんの源為朝が鎮西八郎為朝と呼ばれることから、遠慮して「九郎」と称していたといわれています。

これは、「そういわれていた」ことが重要で、ならばこそ、後世の人々は「九郎判官義経」と呼ぶわけです。

それともうひとつ。判官は、律令官制で、各官司(役所)に置かれた4階級の幹部職員の中の三番目の職位をいいます。

4階級の幹部職員とは四等官制と呼ばれるものです。

上から、「かみ」「すけ」「じょう」「さかん」と呼ばれました。

これを役所ごとに表記する文字さまざまです。表記の主な例は以下の通り。

かみ長官伯、卿、大夫、頭、正、尹、督、帥、守
すけ次官副、輔、亮、助、弼、佐、弐、介
じょう判官祐、丞、允、忠、尉、監、掾
さかん主典史、録、属、疏、志、典、目
四等官の内訳

この一覧の字づらを覚えておくとなにかと便利なのですが、それはともかく。

義経は、朝廷から検非違使の尉に任ぜられたことから、「九郎判官義経」と呼ばれるのです。

もっとも、兄の頼朝の許可をもらうことなく受けてしまったため、兄からにらまれ始め、彼らの崩壊のきっかけともなりました。

朝廷のおもわくは二人の仲を裂かせて弱体化させようとするところにありました。

戦うことにしか関心がなくて政治の闇に疎い、武骨で好色な青年はいいカモだったのでしょう。

「判官」は「はんがん」が普通の呼び方ですが、検非違使の尉の職位を得た義経に関しては「ほうがん」と呼びます。

検非違使では「ほうがん」と呼んだらしいのです。

検非違使は「けびいし」と読み、都の警察機関です。

ちなみに、「ほうがんびいき」とは「判官贔屓」のことです。

兄に討たれた義経の薄命を同情することから、弱者への同情や贔屓ぶりを言うわけです。

弁慶、そのココロは   【RIZAP COOK】

オチの「弁慶」は「考えオチ」というやつで、「立ち往生」の意味を利かせています。

今では、『義経記』に描かれる弁慶立ち往生の故事がわかりづらくなったり、「途方にくれる、困る」という意味の「立ち往生」が死語化している現在では、説明なしには通じなくなっているかもしれません。

上方では人におごられることを「弁慶」というので、(これは上方落語「舟弁慶」のオチにもなっています)このシャレにはその意味も加わっているでしょう。

弁慶は、『吾妻鏡』には「弁慶法師」と1回きりの登場だそうです。

まあ、鎌倉幕府の視点からはどうでもよい存在だったのでしょう。

負け組ですから。

それでも、主君を支える忠義な男、剛勇無双のスーパースターとしては、今でも最高の人気を得ています。

小里ん語り、小さんの芸談   【RIZAP COOK】

この噺は柳家の十八番といわれています。

ならば、芸談好きの代表格、五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)の芸談を聴いてみましょう。弟子の小里ん師が語ります。

植木屋が帰ったとき、「湯はいいや。飯にしよう」って言うでしょ。あそこは、「一日サボってきた」っていう気持ちの現れなんだそうです。「お客さんに分かる分からないは関係ない。話を演じる時、そういう気持ちを腹に入れておくことを、自分の中で大事にしろ」と言われましたね。だから、「湯はいいや。飯にしよう」みたいな言葉を、「無駄なセリフ」だと思っちゃいけない。無駄だといって刈り込んでったら、落語の科白はみんななくなっちゃう。そこを、「なんでこの科白が要るんだろうって考えなきゃいけない。落語はみんなそうだ」と師匠からは教えられました

五代目小さん芸語録柳家小里ん、石井徹也(聞き手)著、中央公論新社、2012年

なるほどね。芸態の奥は深いです。

「青菜」の演者

三代目小さんが持ってきた話ですから、四代目柳家小さん(大野菊松、1888-1947)も得意にしていました。四代目から五代目に。

柳家の噺家はよくやります。

もちろん、十代目柳家小三治(郡山剛蔵、1939-2021)も引き継いでいます。文句なしです。絶品です。還暦を過ぎた頃からのが聴きごたえあります。



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うまやかじ【厩火事】落語演目

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【どんな?】

髪結いの女房と三道楽ばか亭主。
女房が皿を割った。
皿か、女房か。
究極の選択です。

【あらすじ】

女髪結いで、しゃべりだすともう止まらないお崎が、仲人なこうどのだんなのところへ相談にやってくる。

亭主の八五郎とは七つ違いのあねさん女房で、所帯を持って八年になるが、このところ夫婦げんかが絶えない。

それというのも、この亭主、同業で、今でいう共稼ぎだが、近ごろ酒びたりで仕事もせず、女房一人が苦労して働いているのに、少し帰りが遅いと変に勘ぐって当たり散らすなど、しまつに負えない。

もういいかげん愛想あいそが尽きたから別れたい、というわけ。

ところが、だんなが
「女房に稼がせて自分一人酒をのんで遊んでいるような奴は、しょせん縁がないんだから別れちまえ」
と突き放すと、お崎はうって変わって、
「そんなに言わなくてもいいじゃありませんか」
と、亭主をかばい始め、はては、
「あんな優しい、いい人はない」
と、逆にノロケまで言い出す始末。

あきれただんな、
「それじゃひとつ、八の料簡を試してみろ」
と、参考に二つの話を聞かせる。

その一。

昔、もろこし(中国)の国の孔子という偉い学者が旅に出ている間に、うまやから火が出て、かわいがっていた白馬が焼け死んでしまった。

どんなおしかりを受けるかと青くなった使用人一同に、帰ってきた孔子は、馬のことは一言も聞かず、
「家の者に、けがはなかったか」

これほど家来を大切に思ってくださるご主人のためなら命は要らない、と一同感服したという話。

その二。

麹町こうじまちに、さる殿さまがいた。

「猿の殿さまで?」
「猿じゃねえ。名前が言えないから、さる殿さまだ」

その方が大変瀬戸物に凝って、それを客に出して見せるのに、奥さまが運ぶ途中、あやまって二階から足をすべらせた。

殿さま、真っ青になって、
「皿は大丈夫か。皿皿皿皿」
と、息もつかず三十六回。

あとで奥さまの実家から、
「妻よりも皿を大切にするような不人情な家に、かわいい娘はやっておかれない」
と離縁され、殿さまは一生寂しく独身で過ごした、という話。

「おまえの亭主が孔子さまか麹町か、なにか大切にしているものを、わざと壊して確かめてみな。麹町の方なら望みはねえから別れておしまい」

帰ったお崎、たまたま亭主が、「さる殿さま」よりはだいぶ安物だが、同じく瀬戸物の茶碗を大事にしているのを思い出し、それを持ち出すと、台所でわざとすべって転ぶ。

「……おい、だから言わねえこっちゃねえ。どこも、けがはなかったか?」
「まあうれしい。猿じゃなくてモロコシだよ」
「なんでえ、そのモロコシてえのは」
「おまえさん、やっぱりあたしの体が大事かい?」
「当たり前よ。おめえが手にけがでもしてみねえ、あしたっから、遊んでて酒をのめねえ」

【しりたい】

題名は『論語』から

厩とは、馬小屋のこと。

文化年間(1804-18)から口演されていたという、古い江戸落語です。

演題の「厩火事」は『論語』郷党きょうとう編十二からつけられています。

うまやけたり。ちょうより退き、『人を傷つけざるや』とのみ、いひて問いたまはず」

江戸時代には『論語』『小倉百人一首』などが町人の共有する教養でした。引用も多いのですね。

明治の速記では、初代三遊亭遊三(小島長重、1839-1914)、三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)のものが残っています。

文楽の十八番

戦後は八代目桂文楽(並河益義、1892-1971)が、お崎の年増の色気や人物描写の細やかさで、押しも押されぬ十八番としました。

ライバル五代目志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)も得意にし、お崎のガラガラ女房ぶりで沸かせました。

志ん生は、マクラの「三角関係」(出雲の神さまが縁結びの糸をごちゃごちゃにする)で笑わせ、「どうしてあんな奴といっしょになったの?」「だって、一人じゃさぶい(寒い)んだもん」という小ばなしで男女の機微を見事に表現し、すうっと「厩火事」に入りました。

女髪結い

寛政年間(1789-1801)の初め、三光新道さんこうじんみち(中央区日本橋人形町三丁目あたり)の下駄屋お政という女が、アルバイトに始めたのが発祥とされています。

文化年間から普及しましたが、風俗紊乱びんらんのもととなるとの理由で、天保の改革に至るまで、たびたびご禁制になっています。

噺にもランクあり

雷門福助(川井初太郎、1901-86)は晩年には名古屋で活躍しましたが、「落語界のシーラカンス」といわれた噺家でした。

この人の回想によれば、兄弟子で師匠でもある八代目桂文楽(並河益義、1892-1971)に「『厩火事』を稽古してください」と頼むと、「ああいいよ、早く真打ちになるんだよ。真打ちになったら稽古してやる」と言われた、ということです。

それだけ、ちょっとやそっとでは歯が立たない噺ということで、昔は、二つ目が「厩火事」なぞやろうものなら「張り倒された」。

それが今では、二つ目どころか前座でも平気で出しかねません。

いい時代になりました。聴かされるほうはつらいですが。

芝居の「皿屋敷」は

同じ「皿屋敷」でも、一枚の皿が欠けたため腰元お菊をなぶり殺しにする青山鉄山は麴町の猿よりさらに悪質。

これに対して、岡本綺堂おかもときどう(1872-1939)の戯曲『番町皿屋敷』の青山播磨はモロコシ……ですが、芝居だけに一筋縄ではいかず、播磨はりまは自分の真実の恋を疑われ、自分を試すために皿を割られた怒りと悲しみで、残りの皿を全部粉々にした後、お菊を成敗します。

昭和初期の名横綱・玉錦三右衛門たまにしきさんえもん(1903-38)はモロコシだったようで、大切にしていた金屛風きんびょうぶを弟子がぶっ壊しても怒らず、「おまえたちにけがさえなきゃいい」と、鷹揚おうようなところを見せたそうです。さすがです。

 

 

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にらみがえし【にらみ返し】落語演目

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【どんな?】

小さん系の噺。
伝統の「ビジュアル落語」として有名。
聴くだけではありません。
演者の表情をもお楽しみです。

あらすじ

大晦日箱提灯はこわくなし

長屋の熊五郎、貧乏暮らしで大晦日になると、弓提灯の掛け取りがこわい。

家にいて責められるのが嫌さに、日がな一日うろついて帰ると、その間、矢面に立たされたかみさんはカンカン。

「薪屋にも米屋にも、うちの人が帰りましたら夜必ずお届けしますと、言い訳して帰したのに、金策もしないでどうするつもりなんだい」
と、責めたてる。

もめているところへ、その薪屋。本日三度目の「ご出張」。

熊が
「払えねえ」
と開き直ると、薪屋は怒って、
「払うまで帰らない」
と、すごむ。

熊は
「どうしても帰らねえな。おっかあ、面に心張り棒をかえ。薪ざっぽうを持ってこい」

さらには
「払うまで半年、そこで待っててもらうが、飯は食わせねえから、遺言があったら言え、しかたがねえから葬式ぐらいはオレが出してやる」

薪屋はあえなく降参。

おまけに、借金を払った(つもり)の受取まで書かされ、
「おい、十円札で払ったから、釣りを置いてけ」

一人やっと撃退したものの、あと何人相手にしなきゃならねえかと、熊はうんざり。

そのとき表で
「ええ、借金の言い訳しましょう」
という声。

変わった商売だが、これはもっけの幸いと呼び入れると、言い訳屋は
「どんな強い相手も追っ払ってごらんに入れます」
と自信満々。

一時間二円だという。

どうにか小銭をかき集めて払うと、言い訳屋
「すみませんが、ご夫婦で押し入れに入っていていただきましょう。クスリと一声を出されても、こっちの仕事がうまくいきませんから、交渉中は黙っていただくよう」

しばらくすると、米屋。

「えー、熊さんは、親方はお留守で?」

見ると、見慣れない男が煙草を吸いながら、無言でにらみつけるだけ。

何を聞いても返事をしない。米屋はこわがって帰ってしまう。

次は酒屋。同じようにすごすご退散。

また次は、高利貸の代理人で、那須という男。

「何ですか、君は。恐ろしい顔だな。ご親戚ですか。おい君、黙っておってはわからん。無礼だね。君……」

何を言っても、ものすごい目でにらむばかり。

さすがの海千山千の取立人も、気味が悪くなって帰った。

喜んで熊が礼を言うと、ちょうど十二時を打った。

「時間が来ましたようで、これで失礼を」
「弱ったな。あと二、三人来るんだが、もう三十分ばかり」
「いや、せっかくですが、お断りします」
「どうして」
「これから、自宅の方をにらみに帰ります」

出典:七代目三笑亭可楽

【RIZAP COOK】

【しりたい】

師走の弓提灯 【RIZAP COOK】

弓提灯は、弓なりに曲げた竹を上下に引っ掛け、張って開くようにしたものです。

小型・縦長で、携帯に便利なことから、特に大晦日、商家の掛け取りが用いました。

江戸の師走の風物詩ではありますが、取り立てられる側は、さぞ、これを見ると肝が冷えたことでしょう。

これに対し、箱提灯は大型で丸く、武家屋敷などで使われました。

上方噺を東京に 【RIZAP COOK】

原話は、安永6年(1777)刊の笑話本『春帒はるぶくろ』中の「借金乞しゃくきんこい」です。「春」とは「春袋」で、正月に児女がつくる縁起物の縫い袋のこと。「借金乞」とは借金取り立て人のこと。

ここでの話は、後半のにらみの場面の、そっくりそのままの原型になっていて、オチも同じです。

もとは上方噺です。

それを「らくだ」と同様、四代目桂文吾(1865-1915)から三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)が移してもらい、東京に移植しました。

皮肉にも、大正以後は本家の大阪ではほとんど演じ手がなく、もっぱら東京の柳派、小さん一門の持ちネタになりました。

三代目小さんから七代目三笑亭可楽(玉井長之助、1886-1944、玉井の)、八代目三笑亭可楽(麹池元吉、1898-1964)を経て、五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)の十八番の一つ。小三治までつながりました。

前半の薪屋を撃退するくだりは「掛け取り万歳」と同じで、オチはこれまた類話の「言い訳座頭」と同じです。

「見せる落語」の典型 【RIZAP COOK】

蒟蒻問答」と同じく、噺のヤマを仕種で見せる典型的な「ビジュアル落語」です。

速記となると、活字化されたものは七代目可楽によるもの。

「講談倶楽部」昭和9年(1934)1月号に載ったもののみ。

『昭和戦前傑作落語全集』(講談社、1981年)に収録されました。本あらすじも、これを参考にしています。

【RIZAP COOK】



  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

うなぎのたいこ【鰻の幇間】落語演目

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【どんな?】

売れない野幇間の一八。
だんなに取り付いて鰻をせしめようと作戦に。
これぞ代表作。文楽と志ん生、どちらも秀逸。

別題:鰻屋の幇間 釣り落とし

あらすじ

真夏の盛り。

炎天下の街を、陽炎のようにゆらゆらとさまよいながら、なんとかいい客を取り込もうとする野幇間の一八にとって、夏はつらい季節。

なにしろ、金のありそうなだんなはみな、避暑だ湯治だと、東京を後にしてしまっているのだから。

今日も一日歩いて、一人も客が捕まらない。このままだと幇間の日干しが出来上がるから、こうなったら手当たり次第と覚悟を決め、向こうをヒョイと見ると、どこかで見かけたようなだんな。

浴衣がけで手拭を下げて……。

はて、どこで会ったか。

この際、そんなことは気にしていられないので、
「いよっ、だんな。その節はご酒をいただいて、とんだ失礼を」
「いつ、てめえと酒をのんだ」
「のみましたヨ。ほら、向島で」
「なに言ってやがる。てめえと会ったのは清元の師匠の弔いで、麻布の寺じゃねえか」

話がかみ合わない。

だんなが、
「俺はこの通り湯へ行くところだが、せっかく会ったんだから鰻でも食っていこうじゃねえか」
と言ってくれたので、一八はもう夢見心地。

で、そこの鰻屋。

だんなが、
「家は汚いよ」
と釘をさした通り、とても繁盛しているとは見えない風情。

「まあ、この際はゼイタクは禁物、とにかくありがたい獲物がかかった」
と一八、腕によりをかけてヨイショし始める。

「いいご酒ですな。……こりゃけっこうな香の物で……。そのうちお宅にお伺いを……お宅はどちらで?」
「先のとこじゃねえか」
「あ、ああ、そう先のとこ。ずーっと行って入り口が」
「入り口のねえ家があるもんか」

そのうちに、蒲焼きが来る。

大将、ちょっとはばかりへ行ってくると、席を立って、なかなか戻らない。

一八、取らぬ狸で、
「ご祝儀は十円ももらえるかもしらん、お宅に出入りできたら、奥方からもなにか……」
と、楽しい空想を巡らすが、あまりだんなが遅いので、心配になって便所をのぞくと、モヌケのから。

「えらいっ! 粋なもんだ、勘定済ましてスーッと帰っちまうとは」

ところが、仲居が
「勘定お願いします」
とくる。

「お連れさんが、先に帰るが、二階で羽織着た人がだんなだから、あの人にもらってくれと」
「じょ、冗談じゃねえ。どうもセンから目つきがおかしいと思った。家ィ聞くとセンのとこ、センのとこってやがって……なんて野郎だ」

その上、勘定書が九円八十銭。「だんな」が六人前土産を持ってったそうだ。

一八、泣きの涙で、女中に八つ当たりしながら、なけなしの十円札とオサラバし、帰ろうとするとゲタがない。

「あ、あれもお連れさんが履いてらっしゃいました」

底本:八代目桂文楽

しりたい

文楽十八番  【RIZAP COOK】

明治中期の実話がもとといわれますが、詳細は不明です。

「あたしのは一つ残らず十八番です!」と豪語したという八代目桂文楽(並河益義、1892-1971)の、その十八番のうちでも自他共に認める金箔付きがこの噺、縮めて「ウナタイ」。

文楽以前には、遠く明治末から大正中期にかけ、初代柳家小せん(鈴木万次郎、1883-1919、盲小せん)が得意にしていました。

文楽は小せんのものを参考に、40年以上も、セリフの一語一語にいたるまで磨きあげ、野幇間の哀愁を笑いのうちにつむぎ出す名編に仕立てました。

幇間  【RIZAP COOK】

幇間は、宝暦年間(1751-64)から使われ出した名称です。

幇間の「幇」は「助ける」という意味で、遊里やお座敷で客の遊びを取り持ち、楽しませ、助ける稼業ですね。

ほかに「タイコモチ」「太夫」「男芸者」「末社」「太鼓衆」「ヨイショ」などと呼ばれました。

太夫は、浄瑠璃の河東節や一中節の太夫が幇間に転身したことから付いた異称です。

「ヨイショ」という呼び方も一般的で、これは幇間が客を取り持つとき、決まって「ヨイショ」と意味不明の奇声を発することから。

「おべんちゃらを並べる」意味として、今も生き残っている言葉です。

もっともよく使われる「タイコモチ」の語源は諸説あってはっきりしません。

太閤秀吉を取り巻いた幇間がいたから、「タイコウモチ」→「タイコモチ」となったというダジャレ説もありますが、これはあまり当てになりませんな。

「おタイコをたたく」というのも前項「ヨイショ」と同じ意味です。

おだん  【RIZAP COOK】

だんな、つまり金ヅルになるパトロンを「おだん」、客を取り巻いてご祝儀にありつく営業を「釣り」、客を「魚」というのが、幇間仲間の隠語です。

「おだん」は落語家も昔から使います。

この噺の一八は、客を釣ろうとして、「鰻」をつかんでしまいぬらりぬらりと逃げられたわけですが、一八の設定は野幇間で、今風でいえばフリー。

「のだいこ」と読みます。そう、「坊ちゃん」に登場のあの「野だいこ」ですね。

正式の幇間は各遊郭に登録済みで、師匠のもとで年季奉公五年、お礼奉公一年でやっと座敷に顔を出せたくらいで座敷芸も取り持ちの技術も、野幇間とは雲泥の差でした。

噺家と天狗(素人噺家)との差くらいでしょうか。

志ん生流と文楽流  【RIZAP COOK】

五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)の「鰻の幇間」は、文楽演出を尊重し踏襲しながらも、志ん生独特のさばき方で、すっきりと噺のテンポを早くした、これも逸品でした。

文楽の、なにかせっぱつまったような悲壮感に比べ、志ん生の一八はどこかニヒルが感じられます。

ヨイショが嫌いだったという、いわば幇間に向かない印象にもかかわらず、別の意味で野幇間の無頼ぶりをよく出しています。

オチは文楽が「お供さんが履いていきました」で止めるのに対し、志ん生はさらに「それじゃ、オレの履いてきたのを出してくれ」「あれも風呂敷に包んで持っていきました」と、ダメを押しています。

両者を聴き比べてみるのは、落語の楽しみのひとつですね。

さらに。三代目古今亭志ん朝(美濃部強次、1938-2001)の至芸も聴きたくなります。軸足はどっちにあったのでしょう。

【語の読みと注】
野幇間 のだいこ
一八 いっぱち



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おなおし【お直し】落語演目

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【どんな?】

吉原育ちで外知らずの男女。
切羽詰まって後ろめたい商売を。
辛くて悲しいのになぜか大笑い。

あらすじ

盛りを過ぎた花魁と客引きの若い衆が、いつしか深い仲に。

廓では「同業者」同志の色恋はきついご法度。

そこで隠れて忍び逢っていたが、いつまでも隠し通せない。

主人に呼ばれ、
「困るじゃないか。おまえたちだって廓の仁義を知らないわけじゃなし。ええ、どうするんだい」

結局、主人の情けで、女は女郎を引退、取り持ち役の「やり手」になり、晴れて夫婦となって仲良く稼ぐことになった。

そのうち、小さな家も借り、夫婦通いで、食事は見世の方でさせてもらうから、金はたまる一方。

ところが、好事魔多し。

亭主が岡場所通いを始めて仕事を休みがちになり、さらに博打に手を染め、とうとう一文なしになってしまった。

女房も、主人の手前、見世に顔を出しづらい。

「ええ、どうするつもりだい、いったい」
「どうするって……しようがねえや」

亭主は、友達から「蹴転けころ」をやるように勧められていて、もうそれしか手がない、と言う。

吉原の外れ、羅生門河岸で強引に誰彼なく客を引っ張り込む、最下級の女郎の異称。

女が二畳一間で「営業」中、ころ合いを見て、客引きが「お直し」と叫ぶと、その度に二百が四百、六百と花代がはねあがる。

捕まえたら死んでも離さない。

で、
「蹴転はおまえ、客引きがオレ」

女房も、今はしかたがないと覚悟するが、
「おまえさん、焼き餠を焼かずに辛抱できるのかい」
「できなくてどうするもんか」

亭主はさすがに気がとがめ
「おまえはあんなとこに出れば、ハキダメに鶴だ」
などとおだてを言うが、女房の方が割り切りが早い。

早速、一日目に酔っぱらいの左官を捕まえ、腕によりをかけてたらし込む。

亭主、タンカを切ったのはいいが、やはり客と女房の会話を聞くと、たまらなくなってきた。

「夫婦になってくれるかい?」
「お直し」
「おまえさんのためには、命はいらないよ」
「お直し」
「いくら借金がある? 三十両? オレが払ってやるよ」
「直してもらいな」

客が帰ると、亭主は我慢しきれず、
「てめえ、本当にあの野郎に気があるんだろ。えい、やめたやめた、こんな商売」
「そう、あたしもいやだよ。……人に辛い思いばかりさせて。……なんだい、こん畜生」
「怒っちゃいけねえやな。何もおまえと嫌いで一緒になったんじゃねえ。おらァ生涯、おめえと離れねえ」
「そうかい、うれしいよ」
とまあ、仲直り。

むつまじくやっていると、さっきの酔っぱらいがのぞき込んで、
「おい、直してもらいねえ」

底本:五代目古今亭志ん生

しりたい】

蹴転  【RIZAP COOK】

けころ。吉原に限らず、江戸の各所に出没していた最下級の私娼の総称です。

「蹴転ばし」の略。「蹴倒し」ともいいました。すぐに寝る意味で、そういう意がこめられたうえでの最下級なのですね。

泊まりはなくて百文一切り、所要時間は今の時計で10分程度だったといいます。

10分では短すぎるので、たいていの客は改めて延長を希望します。これが「お直し」です。

裏路地の棟割り長屋のような粗末な木造の、4尺5間の間口、2尺の戸、2尺5寸の羽目板、3尺の土間、これら全部含めても2畳ほどの狭い部屋で商売をするのです。

「切り見世」「局見世」と呼ばれていました。

吉原にかぎらず、岡場所にはあったものですが、吉原で蹴転は、お歯黒どぶ(囲いの下水)の岸にあったので、「河岸見世」と呼ばれていました。

吉原の蹴転は寛政年間(1789-1801)にはもう絶えたようです。寛政改革では吉原が大打撃をこうむっていますから、そのさなかにつぶされていったのですね。

切り見世は突き放すようにいとまごい

お直しを食らい素百のさて困り

銭がなけよしなと路地へ突き出され

羅生門河岸  【RIZAP COOK】

つまり吉原の京町二丁目南側、「お歯黒どぶ」といわれた真っ黒な溝に沿った一角を本拠にしていました。

「羅生門」とは、蹴転が客の腕を強引に捕まえ、放さなかったことから、源頼光四天王の一人、渡辺綱が鬼女の隻腕を斬り落とした伝説の地名になぞらえてつけられた名称とか。

「一度つかんだら放さない」というニュアンスが込められているのがミソです。

こわごわとしたかんじがしますね。

表向きは、ロウソクの灯が消えるまで二百文が相場ですが、それで納まるはずはありません。

この噺のように、「お直し、お直しお直しィッ」と、立て続けに二百文ずつアップさせ、結局、客をすってんてんにひんむいてしまうという、ライトな魔窟だったわけです。

志ん生のおはこ  【RIZAP COOK】

この噺は、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890.6.5-1973.9.21)が復活させ、昭和31年度(1956)の芸術選奨を受賞しました。

志ん生亡き後は、次男の三代目古今亭志ん朝(美濃部強次、1938.3.10-2001.10.1)がさらに磨きのかかった噺にこさえました。

【語の読みと注】
蹴転 けころ:最下級の商売女性
一切り ひときり:一段落
切り見世 きりみせ:蹴転がいる場所
局見世 つぼねみせ:蹴転がいる場所
河岸見世 かしみせ:吉原の蹴転がいる場所
素百 すびゃく:百文ぽっきり



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てんさい【天災】落語演目



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【どんな?】

八五郎が心学先生に心服。
鸚鵡返しで長屋にまき散らし俄先生に。
典型的な心学噺です。

別題:先妻 俄心学 人の悪き(上方)

【あらすじ】

隠居の家に気短な八五郎がいきなり飛び込んできて
「女房のとおふくろのと、離縁状を二本書いてくれ」
と言う。

鯵を猫に盗まれたことから夫婦げんかになり、 止めに入ったおふくろをけっ飛ばしてきた というので、あきれた隠居、
長谷川町新道はせがわちょうじんみちの煙草屋裏に、紅羅坊名丸べにらぼうなまる(⇒べらぼうになまけるのもじり)という偉い心学しんがくの先生がいるから話を聞いて精神修行をし、心を和らげてこい」
と紹介状を書いて送り出す。

八五郎は先方に着くや、
「ヤイ、べらぼうになまける奴、出てきやがれッ」
とどなり込んだから先生も驚いた。

紹介状を見て
「おまえさんは気が荒くて、よく人とけんかをするそうだが、短気は損気。堪忍の成る堪忍は誰もする。ならぬ堪忍するが堪忍、気に入らぬ風もあろうに柳かな」
「堪忍の袋を常に首へかけ破れたら縫え破れたら縫え」
と諭すが、いっこうに通じない。

先生が
「往来で人に突き当たられたらどうするか」
と聞くと、八は
「殴りつける」
と言うし、
「もし軒下を歩いていて屋根瓦が落ちてきてけがをしたら」
と問うと
「そこの家に暴れ込まァ」
「家の人がしたのではないぞ」
「しなくたってかまわねえ」
「それでは、表で着物の裾に水を掛らけられたら? 子供なら堪忍しますか」
「しねえ。その家に暴れ込む」

「それでは」と先生。

「五町四方もある原っぱでにわかの夕立、びっしょり濡れて避ける所もないときは、誰を相手にけんかする?」
と突っ込むと、さすがの八五郎もこれには降参。

「それ、ごらん。そこです。天災というもので、災難はちゃんとその日にあることに決まっている。先の屋根から落ちた瓦もそうです。わざわざこちらからかかりに行くようなもので、災難天災といいます。人間は天災てえことを知って、何事も勘弁しなければいけません」

わかったのかわからないのか、ともかく八五郎、すっかり心服して、
「なるほどお天道さまがすると思えば腹も立たない、天災だ天災だ」
と、すっかり人間が丸くなって帰る。

なにやら隣の家で言い争っているので、何事かと聞くと、吉兵衛が、かみさんの知らぬ間に女を連れ込んでもめているという。

ここぞと止めに入った八五郎、
「まあ落ち着け。ぶっちゃあいけねえ。奈良の堪忍、駿河堪忍」
「なんだよ」
「気に入らぬ風も蛙かな。ずた袋よ。破れたら縫うだろう?」
「だからなんでえ」
「原ン中で夕立ちにあって、びっしょり濡れたらどうする? 天災だろう」「なに、天災じゃねえ。先妻だ」

底本:二代目古今亭今輔、八代目林家正蔵(彦六)

【しりたい】

心学

京都の石田梅岩(1685-1744)が創始しました。「心学」は梅岩の人生哲学と、それをもとにした民衆教化運動の、両方を指します。

この噺を見るかぎり、単なる運命肯定、「諦めの勧め」と理解されやすいのですが、実際は、人間の本性を率直にとらえ、人間の尊厳を通俗的なたとえで平易に説いた教えです。

そこから四民平等、商業活動の正当性を最初に提唱したのも梅岩一派だったといわれています。

石門心学ともいい、梅岩門下によって天保年間(1830-44)にいたるまで、町人を中心に大いに興隆しました。

この噺のように、師弟の辛抱強い問答によって教義を理解させる方法が特徴で、原則として教習料はタダでした。

意外な人気作

原話は不詳。かなり古くから江戸で口演されてきた噺のようです。

明治22年(1889)の二代目古今亭今輔(名見崎栄次郎、1859-1898)の速記が残っています。原型に近いものとして。

三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)から四代目柳家小さん(大野菊松、1888-1947)、五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)へと伝わりました。

八代目林家正蔵(岡本義、1895-1982、彦六)のは、晩年の三代目小さんからの直伝だそうです。

地味で笑いも少なく、短いので前座噺の扱いを受けることもあって、滅亡寸前と思いきや、意外に人気があって、現在も比較的よく演じられています。

心学噺、ほかには

心学の登場する噺は、昔はかなりあったようです。

現在は「中沢道二」「由辰」が生き残っているほか、「堪忍袋」も心学の教義が根底にあるといわれます。

上方の「人の悪き」は、「人の悪きはわが悪きなり」と教わって、帰りに薪屋の薪を割らせてもらい、「人の割る木はわが割る木なり」と地口(ダジャレ)で落とすものです。

「天災」とよく似ていますが、同じ心学噺でも別系統のようです。

心学は江戸中期に町人に人気を得た倫理観です。武士中心の近世社会の下でなんとか生きていく町人(都市生活者)と百姓(町人以外の人々)に具体的な生き方を示したものです。明治に入ると、急速にすたれてしまいました。いちおうの平等社会が用意されたからです。

こんな具合ですから、心学噺は現代の価値観からは物足りなさを強く感じるわけです。その結果、省みられることが少なくなりました。



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