江戸落語の始まり
成城石井.com ことば 噺家 演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席
【芸種】はなし
【活躍地】江戸
【定紋】
【本名】安次郎
【生没年月日】慶安2年(1649)-元禄12年8月13日(1699.9.6)
【出身地】大坂または京
【前歴】塗師 漆塗りの職人
【ネタ】新作
【出典】Wiki
【蛇足】以下の通り。
慶安2年(1649)-元禄12年(1699)。江戸落語の祖。江戸で初めて、座敷仕方咄を演じた人とされています。
出身は大坂とも京ともいわれていますが、よくわかりません。上方から江戸に下ってきた人のようです。
鹿野武左衛門とは武士っぽい名ですが、これは咄の席での名前。本名は安次郎とかで、職業は塗師。漆塗りの職人でした。
日本橋の堺町や長谷川町(日本橋堀留)あたりの職人町に住んでいました。
人前でのおしゃべりがうまかったようで、座敷仕方咄を演じてはいつしか人気者に。身ぶり手ぶりでおもしろおかしく聴かせることを、仕方咄と言います。
そして、元禄6年(1693)。その4月下旬のこと。
江戸中でソロリコロリ(コレラ)が蔓延し、1万人余りが亡くなりました。当時の江戸は80万人ほどだったそうですから、ものすごい致死率でした。
そのさなか。
「この病いには南天の実と梅干しを煎じて飲めば効くと、とある馬が言っていた」
そんな噂がまことしやかに広まったのでした。
「そんな、馬鹿な」
「馬がしゃべるなんてなあ」
「エドじゃあるめえし」
「ここは江戸だぜ」
でも、そのあおりで、南天の実と梅干しは、いつもの値段の20~30倍に高騰。
ついでに出た『梅干まじないの書』なる本、これがまた大ベストセラーに。
頃は、平和ボケをよしとする、五代将軍綱吉の時代です。
人心をかき乱すのは、ともかくご法度なんです。
忖度まじりでいぶかしんだ南町奉行の能勢頼相(出雲守)は、配下に探索させます。
そしたら、出てきた。浪人者の筑紫団右衛門と、神田須田町の八百屋惣右衛門の共同謀議だったことが。
主犯とされた筑紫団右衛門は、市中引き回しの上、斬罪。
ひっえー。従犯の八百屋惣右衛門は流罪に。
ざざざッ。厳しいお裁きでした。
これで一件落着かと思いきや、残された謎がありました。
しゃべる馬の件です。
取り調べで二人は、こんなことを言っていました。
咄本『鹿の巻筆』の中の「堺町馬の顔見世」を読んで、ヒントを得たんだ、と。
咄本というのは、軽口(しゃれ)や落語などを記した本のこと。
笑うための本ですね。
だから、まともに受け取らないのが世間の常識でしょうに。
え、なに、これが?
『鹿の巻筆』の著者は、なんと鹿野武左衛門でした。
武左衛門は伊豆大島に流罪。
版元の本屋弥吉も江戸追放。
本は焼き捨てられました。
焚書流落。落語本を焼き落語家を流す、というかんじですね。
とんだとばっちりです。
武左衛門が島から帰ってきたのは元禄12年(1699)4月でしたが、まもなくの8月には51歳で亡くなってしまいました。
いやあ、もったいない。
武左衛門は落語界初の殉職者となりました。かわいそう。
若い頃の武左衛門は、石川流宣と小咄の会なんかをつくって、人気を得ました。
中橋広小路(八重洲)あたりで、小屋掛け興行をやったりもして。
人気がついて、うなぎのぼりとなって、ファンが庶民から富裕層へと移ります。
お武家や豪商に呼ばれて、お屋敷内で仕方咄を演じるようになっていったようです。
町奉行が切歯扼腕したのは、ここのところでした。な、なんでェ?
宇井無愁氏は、こんなふうに解釈しています。
街頭を辻咄を取締る与力同心も、武家屋敷内では取締れない。いわんや武士たる者が笑話などに興じて、他愛もなくあごの紐をゆるめるのは、幕府当局のもっとも忌むところであった。さりとて、表立った実害がないかぎり、取締る理由がない。そこでこの事件を奇貨として流言に結びつけ、「実害」をデッチあげたのが当局の本心ではなかったか。
宇井無愁『落語のみなもと』(中公新書、1983年)
なるほど。当局の考えそうなことですね。
ついでに座敷咄なる珍芸も壊してしまえ、というお奉行の陰湿で粘着質な思いも。
存外、町民はしたたかで、当局のきな臭い下心を先回りにかぎ取りました。
その証拠に、この事件以降、江戸では武左衛門のような落語家は登場しません。
暗黙のご法度となったのです。
江戸って、けっこうな恐怖政治だったのですね。
その後、寛政10年(1798)になって、やっとこ寄席が登場します。
岡本万作の神田豊島町藁店の寄席。
それに対抗して、三笑亭可楽(山生亭花楽)による下谷柳の稲荷社境内にも寄席が。
二つの寄席が立つまでに、なんと100年もの間、沈黙の季節が続いていたことに。
ほとぼりが冷めるのに、1世紀かかったのですね。江戸時代おそるべし、です。
【蛇足】
「堺町馬の顔見世」
『鹿の巻筆』所収の「堺町馬の顔見世」は、「武助馬」のもとになった咄といわれています。以下、引用しましょう。
市村芝居へ去る霜月より出る斎藤甚五兵衛といふ役者、まへ方は米河岸にて刻み烟草売なり、とっと軽口縹緻もよき男なれば、兎角役者よかるべしと人もいふ、我も思ふなれば、竹之丞太夫元へ伝手を頼み出けり、明日より顔見世に出るといふて、米河岸の若き者ども頼み申しけるは、初めてなるに何とぞ花を出して下されかしと頼みける、目をかけし人々二三十人いひ合せて、蒸籠四十また一間の台に唐辛子をつみて、上に三尺ほどなる造りものの蛸を載せ甚五兵衛どのへと貼紙して、芝居の前に積みけるぞ夥し、甚五兵衛大きに喜び、さてさて恐らくは伊藤正太夫と私、一番なり、とてもの事に見物に御出と申しければ、大勢見物に参りける。されど初めての役者なれば人らしき芸はならず、切狂言の馬になりて、それもかしらは働くなれば尻の方になり、彼の馬出るより甚五兵衛といふほどに、芝居一統に、いよ馬さま馬さまと暫く鳴りも静まらずほめたり、甚五兵衛すこすこともならじと思ひ、いゝんいいながら舞台うちを跳ね廻った。
伊藤正太夫は、一座の座頭、あるいは人気役者なのでしょう。甚五兵衛も人気で、積みもの(ご祝儀、プレゼント)も多かったようすが記されています。
『鹿の巻筆』には39の話が載っています。貞享3年(1686)頃の刊行です。当時の実在の人物が多く登場しているのが特徴だとか。市村竹之丞もその一人。ほかには、出来島吉之丞、松本尾上、中村善五郎など。役者が多いんですね。ということは、伊藤正太夫も斎藤甚五兵衛実在だったのかもしれませんね。
鹿野武左衛門と同様に、江戸落語の祖として、西東太郎左衛門という人が『本朝話者系図』(全亭武生こと三世三笑亭可楽著)に載っています。天和年間(1681-84)の人だったということですから、武左衛門と同じ頃に活躍していたようです。あまり聞きませんがね。
ちなみに、国立劇場調査養成部編のシリーズ本として、『本朝話者系図』(日本芸術振興会、2015年)は、今ではたやすく読めるようになっています。便利な世の中です。
「~の祖」について、関山和夫氏がきっぱり言っていることがありますね。この表現は江戸後期になってよく使われたのだそうです。それぞれのジャンルに大きな業績を残した人の尊称をさします。重要なのは、「~の祖」が「まったくその人から始まった」という意味ではない、ということなんだそうです。たしかに。そりゃ、そうですね。いましめます。
参考文献:関山和夫「随筆・落語史上の人々 5 鹿野武左衛門」
塗師
「ぬりし」が訛って「ぬし」になったようですが、古くから「ぬし」と言っていました。塗るといっても、漆塗りのことです。塗師は漆塗りの職人、今は漆芸家と呼んだりしている職業の人です。
『七十一番職人歌合』という歌集があります。明応9年(1500)頃につくられたものです。室町時代というか、戦国時代のどさくさの頃の歌集です。
べつに、職人が詠んだわけではありません。彼らは忙しくてそんなことなどできません。
天皇や公家たちが、職人たちに自らを仮託して、「月」と「恋」を歌題に左右に分かれて歌を競って優劣を下す、物合という形式の歌集です。やんごとない人たちというのは、すさまじいほどに暇だったのですね。その歌集の三番に「塗士」が載っています。塗師のことです。
以下は、「画中詞」と呼ばれる、詞画きです。絵のちょっとした解説じみた文をさします。
よげに候 木掻のうるしげに候 今すこし火どるべきか
よさそうです。掻き取ったばかりの新しい漆のようです。いま少々、火にあぶって、漆の水分を蒸発させるべきだろうか。
そんな意味合いです。
いつまでも蛤刃なるこがたなのあふべきことのかなはざるらん
しぼれども油がちなる古うるしひることもなき袖をみせばや
このように二首載って、競っているわけです。
歌集は全体、あまり高い文学性は感じられません。ただ、職業尽くしで構成された、奇異で珍奇なおもしろさがあります。
それが、いまとなっては楽しいし、当時のさまざまな職業のさまを垣間見ることができる、史料の宝庫でもあるのです。
最後に、以下のような判が下っています。
左右、ともに心詞きゝて面白く聞こゆ よき持にこそはべるめれ
どうということもない文言です。歌集には絵が挟まれています。それが下のもの。
右の男は侍烏帽子をかぶっています。職人が侍烏帽子をかぶるのは珍しいことではありません。小袖に袴。腕をまくっています。
右手には、漆刷毛を持った坊主頭の男。雇われ人でしょうか。小袖に袴、片肌ぬぎです。二人が行っているのは、吉野紙の漆漉し紙で漆を漉しているところ。下には受け鉢があって、手前に曲げ物の漆桶などが見えます。
漆の作業工程には「やなし」と「くろめ」の二工程があるそうです。
「やなし」は漆を均質にする作業。「くろめ」は生漆の水分を除く作業です。
塗師の作業のポイントは、塗ることと乾かすことだそうです。これを何回も繰り返すことで、上質の漆工芸品が生まれるのですね。単純のようですが、作業のていねいぶりが必須で、めんどうで辛抱強い仕事のようです。
さて、鹿野武左衛門。
これらの作業中もぺちゃくちゃおしゃべりなんかして、師匠や兄貴から「おまえがいると、このなりわいも飽きずでにできるなあ」などと、喜ばれていたのかもしれませんね。
参考文献:新日本古典文学大系61『七十一番職人歌合 新撰狂歌集 古今夷曲集』