尿瓶 しびん 演目

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いまどきは「しびん」を知らない人もいるかも。

別題:しびんの花活け(上方)

【あらすじ】

田舎の侍が、道具屋をあさると、古いしびんを見つけた。

侍、これを花瓶と間違えて、
「明日国元に帰るが、土産物にしたいからぜひほしい」
という。

道具屋が
「それはしびんでございます」
と正直に言っても
「ああ、しびんという者が焼いたか」
と、いっこうに通じない。

そこで道具屋の安さん、このばかを一つ引っかけてやれと
「これは日本に二つとないものでございます。だんなさなのお目利きには感服いたします」
とおべんちゃらを並べ、
「五両」
と吹っ掛ける。

知らぬほど怖いものはなく、侍は
「安い」
と喜び、即金で買っていった。

花瓶と勘違いして、侍が宿で花をいけていると、知り合いの本屋があいさつに来て、
「それは小便をするしびんでございます」
と教えたから、さあ怒ったのなんの。

道具屋にどなり込み、
「手討ちに致すから首を出せ」
と刀の柄に手を掛けたから、安さんは真っ青になって震えた。

「病気の老母に、朝鮮人参という五両もする高い薬をのまさなければなりません。その金欲しさ、悪いこととは知りながら、ただのしびんを五両でお売りしました。母の喜ぶ顔を見ますれば、もうこの世に思い置くことはございませんから、その時まで命を預けてください」

もちろん、その場からドロンするつもりでのウソ八百。

侍は
「孝行のためとあらばさし許す」
と帰っていった。

おふくろなんぞ、もう三年前に死んでいる。

隣の吉つぁんが騒ぎを聞きつけてやって来て
「おい、首ゃあついているかい。それにしてもさすがはお侍、よく代金を返せと言わなかったな」
「それもそのはず。小便(売買契約破棄)はできねえ。しびんは向こうにある」

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【うんちく】

朝鮮人参

時代劇に登場する、高価な薬といえばこれ。享保年間(1716-36)に種子が朝鮮から渡来しました。根を乾燥したものが、漢方薬に用いられます。肝心の薬効は、強壮・健胃などで、疲労や虚脱、胃腸虚弱などに効果があるとされますが、むろん万能薬ではありません。

「仮名手本忠臣蔵」七段目の大星由良之助に、「人参のんで首くくるようなもの」というセリフがあります。これは、高価な人参を無理して手に入れて病人が回復しても、べらぼうな薬代の借金で結局は首をくくらなければならない、という皮肉で、ムダな骨折りという意味のことわざになっています。

この程度の薬でも町人にとっては「高嶺の花」で、江戸時代では事実上、無医、無薬同然、病気になればほとんどが「はいそれまでよ」だったわけです。

しびん

「しゅびん」ともいい、昔は陶製でした。

八代目桂文楽(黒門町の)も、マクラで説明しているのですが、江戸時代は瀬戸物屋で、たかだか20-25文が相場。

日用品なので、いくら侍でも知らないのはおかしいと言えなくはありませんが、現代同様、元来病人、老人の使うものなので、どこの家にもあるという品ではありませんでした。

文楽の隠れた十八番

三代目三遊亭円馬が、大阪在住中に仕込んだ上方落語「しびんの花活け」を東京風に直しました。円馬に芸を仕込まれた八代目桂文楽が直伝で継承、十八番の一つに仕立てたものです。文楽在世中は、東京ではほかにやり手はありませんでした。

本家の大阪では、橘ノ圓都(1883-1972)が持ちネタとし、道具屋は大坂の日本橋筋の露店、武士は鳥取藩士で演じました。

演題は、「こいがめ」と同様に汚いので、「花瓶」で演じられることもあります。

「小便」はご法度

というわけで、買わずに逃げる意味の「小便」は、もともと江戸ことばですが、現在でも業界では普通に使われているようです。

道義的には、商取引上は一種の詐欺行為と見なされるので、「引っ掛ける」から「小便」としゃれたものでしょう。もとは、露天商などの符丁でした。「左少弁」は、どうも怪しいものです。

「小便」の由来

原話は、宝暦3年(1753)刊の『軽口福徳利』中の「しゆびん」、続いて同13年(1763)刊『軽口太平楽』中の「しゅびんの花生」があげられます。いずれも大坂ルーツですが、もっとも古い原型は、元禄7年(1694)、江戸で刊行の『正直咄大鑑』赤之巻四「買て少弁」中の「商人の物売にねをつけてまけたるとき、かわぬを江戸ことばにしやうべんのするといふ由来」という、長ったらしい題の小咄もみられます。

これは、左少弁道明卿という公家の家人が主命で江戸に下り、日本橋の骨董屋で散々値切ったあげく買わなかったことから、常識をわきまえないのを「少弁」→「しょうべん」と呼んだ由来話です。これが「小便=買わずに行く」と転化したわけでしょうが、ともかく現行のオチの部分の元となっています。

宝暦年間の二つの原話は田舎者と無筆の者をからかう内容です。

前者は、田舎者がしびんを十個も買うのでわけを尋ねると、「故郷でそばを打つので、つゆを入れる猪口にする」という笑話。

後者は、逆に客がしびんと気付いて詰問するので、花瓶だとだまそうとした亭主がしどろもどろになり「いえ、そんな名のあるものではありません」とごまかすもの。

どちらも「小便」のくだりはありませんが、後者の方が現行により近い内容です。

【語の読みと注】
日本橋筋 にっぽんばしすじ

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指南書 しなんしょ 演目

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なかなかシャレた小品。こんな便利な書物があるといいんですが。

【あらすじ】

亭主のやきもちが原因で、夫婦げんかが絶えない夫婦。

おやじが心配して、檀那寺の和尚さんにせがれを預け、寺で精神修養させたところ、その甲斐あって、だんだん人間が変わってきた。

その和尚が重病にかかり、いよいよという時、若だんなに
「もう少しだけ、おまえには仕上がっていないところがある。それが心残りだが、これを渡しておくので、腹が立ったりした時は、どこでもこれを開いてみなさい」
と言い残して、息を引き取る。

その本の表紙には『指南書』と書いてあった。

修行のせいか、若だんなの心も練れて、それからは夫婦円満に暮らしていたが、ある時、叔父さんのところへ五十両届ける用事ができる。

大金を持っているから、道中話しかけてくる人間が、みんなうさんくさく見える。

「いっしょにしゃべりながら行きましょう」
と近づいてくる男がいるので、てっきりゴマノハエが金を狙ってきたのだと思って、例の指南書を開いてみると、
「旅は道づれ、世は情け」

船着場から舟に乗ろうという時、あと二人でいっぱいだという。

連れの男はぜひ乗ろうと勧めるが、まだ指南書を開くと、
「急がば回れ」

そこで、無理して遠回りして歩いて行くと、急に激しい雨。

指南書を見ると、
「急がずば 濡れざらましを 旅人の あとより晴るる 野路の村雨」
とあるので、雨宿りしていると、なるほど、間もなく雨は上がった。

叔父さんの家に着くと、びっくりしたように
「どうやって来た」
と聞くので
「歩いてきました」
と答えると
「それがよかった。さっきの夕立で渡し船がひっくり返り、人が大勢死んだらしい」

驚いて浜に行ってみると、最前の道連れの男の死骸も転がっている。

仏のお導きと胸をなで下ろし、叔父さんが
「一晩泊まっていけ」
と言うのを、
「女房が心配しているから」
と断って、急いで家に帰ってみると、もう夜更け。

見ると、かみさんが男と一つ床。

かっとして、重ねておいて四つにと思ったが、気を取り直してまた指南書を開けてみると
「七度尋ねて人を疑え」

女房を起こして
「おい、ここに寝ているのは誰だ」
「兄さんですよ。舟がひっくり返ったと聞いて、心配して来てくれたのさ」

次の朝。

義兄にわびを言って、土産の餅を皆で食べようとすると腐っている。

おかしいと思って、またまた指南書をひもとけば
「うまいものは宵に食え」

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【うんちく】

上方創作落語の祖

オリジナルは、大阪の二代目桂文之助(1859-1930)が、寺の法話をヒントに、明治後期にものした新作落語です。この人は、明治・大正における上方の創作落語のパイオニアとでもいうべき存在。

ほかにも、「動物園(ライオン)」「象の足跡」「電話の散在」など、今も高座に掛けられる、質の高い新作を多数残しています。落語家にはまれな品行方正で鳴る人であったらしく、「指南書」にもその生真面目さの一端がかいま見えています。京都の高台寺門前で今も続く甘酒屋「文之助茶屋」の創業者でもあります。

孫弟子が継承するも

東京にも移植されましたが、これといった特定の演者の音源や速記は見られません。

桂米朝も手掛けていましたが、文之助の子息、三代目笑福亭福松の門弟で、いわば孫弟子筋の初代森乃福郎が継承し、しばしば演じていました。この人は、ほかにも「象の足跡」ほか、多くの文之助落語を復活させましたが、惜しまれる早世(1998年、享年63)により、中絶。二代目福郎が師匠の遺志を継いで文之助落語を継承、高座に掛けています。

心理描写に富む上方演出

初代福郎に伝わった本家の上方演出では、東京の速記(三一書房『古典落語大系』収録)に比べて主人公の不安な心理を、リアルにきめ細かく描写しています。

とりわけラストの、愛妻の姦通を疑う場面の懊悩と動揺はあっさりした東京のものに比べ、悲痛といえるほど。このため、全体的にかなり長くなっています。

例えば、この場面では最初、指南書を見ると「ならぬ堪忍するが堪忍」が出てくるので、とても納得できず、いっそ四つ斬りにと思い詰めながら再度思い直して指南書を再びめくり、「七度尋ねて…」を得ることにしてあります。

上方では男が船に誘われるのは、大津から草津へ渡す矢橋船、土産に買うのは草津名物の「姥が餅」で、女房と寝ていたのは義兄でなく義母というのが、東京と異なるところです。

初代福郎がNHKで放送したとき、この「姥が餅」が特定の登録商標だという理由で、名前を出すことができなかったという逸話があります。

ロシア版「指南書」

この噺のパターンとかなりよく似ているのが、ロシア民話「よい言葉」です。そのあらすじは以下の通り。

金持ちの商人の子イワンは、父親の死後放蕩に身を持ち崩し、路頭に迷う身に。それでも美男だったので、賢く美しい妻をめとり、妻が織るじゅうたんを売って生計を立てている。妻はある日、イワンに、市場へ行って金でなく、ためになる「よい言葉」と引き換えにじゅうたんを売るよう言い渡す。そこでイワンはふしぎな老人に最初は「死を恐れるな」二度目は「首斬る前に起こして尋ねろ」という言葉を授かる。やがて、叔父の商用について航海に出たイワンは、海上で海の裁きの女神に招かれ、「死を恐れるな」という第一の箴言を思い出して、勇気を奮って海底にもぐり、女神の悩みをとんちで解決。報酬に、巨万の富を得る。イワンはさらに世界中を回って商いを続け、二十年後、大金持ちになって家路につくと、妻が二人の若者とベッドに横になっていた。思わずかっとなって、剣を引き抜いて姦夫姦婦を成敗しようとするが、ここで二番目の教訓を思い出し、妻を起こして問いただすと、若者二人は、自分の留守中に妻が出産した双子の息子だった、というわけで、めでたしめでたし。

つまるところ、人間が窮地に陥ったときの行動類型や藁にもすがりつきたくなる心理は、洋の東西を問わず変わらないということなのでしょう。

【語の読みと注】
檀那寺 だんなでら:菩提寺

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死ぬなら今 しぬならいま 演目

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死は人生最大の難問。でも、落語にかかれば、どうってことない。

【あらすじ】

しわいやのケチ兵衛という男。

爪に灯をともすようにして金を貯め込んできたが、いよいよ年貢の納め時が来た。

せがれを枕元に呼び、寿命というものはどうにもならない。

「わたしも、突き飛ばしておいて転がった人の上にずかずか乗るような醜いことまでして、これだけの財産をこしらえたが、もう長くないので、おまえに一つ頼みがある」
と言う。

「どうだろう、早桶ン中に三百両、小判で入れてもらえないか」

地獄の沙汰も金次第。

「わたしのような者は必ず地獄におちるだろうが、金をばらまけばひょっとして極楽へ行けるかもしれない」
というわけ。

せがれが承知すると安心したか、ごろっと痰がからまったと思うと、キュウとそのままになってしまった。

いわゆる、ゴロキュウ往生。

湯灌も済み、白い着物を着せた。

せがれが遺言通りに頭陀袋の中に三百両の小判を入れているところを親類の者が見て
「いくら遺言だからといって、そんなばかなことをしてはいけない」
と、知り合いの芝居の道具方に頼み、譲ってもらった大道具の小判とそっくり入れ替えてしまった。

こちらはケチ兵衛。

いつの間にか買収資金がニセ金に替わっているともつゆ知らず、閻魔の庁まで来ると、さっそく呼び出される。

浄玻璃の鏡にかけられると、今までの悪事がこれでもかこれでもかと映るわ映るわ。

「うーん、不届きなやつ」

閻魔大王が閻魔のような顔になったので、さあ、この時と、袖口に百両をそっと忍ばせると、その重みで大王の体がグラリ。

「あー、しかしながらあ、一代においてこれほどの財産をなすというのも、そちの働き、あっぱれである」

がらっと変わったから、鬼どもがぶつくさ不満タラタラ。

それではと、そいつらの袖の下にも等分に小判を忍ばせたので、ケチ兵衛、無事に天上し、極楽へスーッ。

ケチ兵衛のまいたワイロで、地獄は時ならぬ好景気。

赤鬼も青鬼も仕事などやめて、のめや歌えの大騒ぎ。

その金が回り回って、極楽へ来た。

ニセ小判であることはすぐに知れたから、極楽から貨幣偽造及び収賄容疑で逮捕状が出た。

武装警官がトラックに便乗して閻魔の庁を襲う。

閻魔大王以下、馬頭牛頭、見る目嗅ぐ鼻、冥界十王、赤鬼青鬼、ショウヅカの婆さんまで、残らずひっくくられて、刑務所へ。

地獄は空っぽ。

だから、「死ぬなら今」

底本:八代目林家正蔵(彦六)

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【うんちく】

彦六の残した珍品

民話、民間伝承を基にしたと思われますが、原話は不明です。もともとは上方落語です。八代目林家正蔵(彦六)と六代目三遊亭円生が大阪の二代目桂三木助から直伝されましたが、円生は手掛けず、彦六が事実上の東京移植者になりました。彦六の後は孫弟子の春風亭小朝が継承。

本家の大阪では、三代目桂文我から桂春之輔に伝わっています。音源は、残念ながら正蔵のものはなく、上方の桂文我のCDが出ています。いずれにせよ、東西とも継承者の少ない、珍品中の珍品といえるでしょう。

「倒叙型」演出も

推理小説では、犯人が当初から明らかにされる倒叙型という手法がありますが、八代目林家正蔵(彦六)は、たまにこの噺でオチを最初に言う演出をとることがありました。

今回のあらすじで参考にした『林家正蔵集』上巻(青蛙房、1974年)の速記では言っていないため、実際に高座で演ずる場合に客の反応や客ダネを見て判断していたものと思われます。オチが考えオチなので、客に対する配慮でもあったのでしょう。

こうした演出を採る噺は数少なく、東京落語ではほかには、やはり正蔵が手掛けた「蛸坊主」があるくらい。上方落語では「苫ケ島」「後家馬子」があります。

牛頭馬頭

ごずめず。地獄の常連です。劇画「子連れ狼」の道中陣ですっかりおなじみになりましたが、牛頭人身と馬頭人身の地獄の獄卒を合わせてこう呼んだものです。

見る目嗅ぐ鼻

みるめかぐはな。こちらも地獄の常連。閻魔の庁の裁判官で、先に小旗を付けた矛の上に、人の生首が突き刺さっているグロテスクな姿として描かれます。亡者の善悪をすべて見通すと伝えられています。

冥界十王

めいかいじゅうおう。閻魔大王を最高位とする、地獄の十人の幹部です。以下の通り。

閻魔大王
泰広王
初江王
宗帝王
五官王
変成王
太山王
平等王
都市王
五道転輪王

中央に閻魔が座り、左右にこのお歴々が着席することになっています。

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地獄八景 じごくばっけい 演目

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上方では米朝のが有名ですが、ここでは明治の円遊ので。ほとんど同じ。

【あらすじ】

根岸でのんびり日を送る大店の隠居。

そこに、隠居が最近ドイツの名医からもらったという「旅行薬」の噂を効いて、源さんと八っつぁんの二人連れが訪ねてくる。

隠居が、この薬を飲めば、一時間以内で好きなところへ行ってこられるから、試しにどこかへ行ってみないかと言うので、二人は渡りに舟と、地獄旅行としゃれ込む。

すっかり薬が回ると、何だかスーッとしていい気持ち。

いつの間にか、だだっ広い野原にいる。

洋服を着た人が立っていて
「きさまらは新入りだな。自分はこの国の人民保護係だ」
と言う。

ここはシャバを去ること、八万億土の仇し野の原。

吹く風は無常の風、ぬかるみの水は末期の水と名がつく。

役人が、きさまらはシャバで罪を犯したので、ここでザンゲをしなければならないと言う。

まず源さんが
「えー、私は間男しました」

「とんでもねえ奴だ。相手はだれのかみさんだ」
「ここにいるこいつで」
「チクショー、こないだから変だと思った」

これで大げんか。

「八五郎、きさまはなにをした」
「へえ、私は泥棒で」
「どこに入った」
「こいつのとこです」
というわけで、間男と差し引き。

もめながら三途の川まで来ると、ショウヅカの婆さんが、
「当節、地獄も文明開化で、血の池は肥料会社に売却して埋め立て、死出の山は公園に」
と、いろいろ教えてくれる。

いよいよ、三途の川の渡し。

死に方で料金が違う。

心中だと二人で死んだから二四が八銭、お産で死ねば三四が十二銭という具合。

着いたのが閻魔の庁。

役人が一人一人呼び上げる。

「磐梯山破裂、押しつぶされー」
「ホオー」
「ノルマントン沈没、土左衛門」
「ヘイー」
「肺病、胃病、リューマチ、脚気」
「ヘイ」

全部中に通ると、罪の申し渡しがある。

有罪全員が集められ
「その方ら、いずれも極悪非道、針の山に送るべき奴なれど、今日はお閻魔様の誕生日につき、罪一等を減じ、人呑鬼に呑ませる。さよう心得ろ」

塩をかけて食われることになったが、歯医者がいて、人呑鬼の歯をすっかり抜いちまったから、しかたなく丸飲み。

腹の中で、みんなで、あちこちの筋を引っ張ったので、さすがの人呑鬼もたまらず、トイレに行って全員下してしまった、というところで気がつくと、いつの間にか元の根岸の家。

「どうだ、地獄を見てきたか」
「もし、ご隠居、あの薬の正体はなんです」
「おまえらは腹から下されたから、あれは大王(大黄=下剤)の黒焼きだ」

底本:初代三遊亭円遊

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【うんちく】

本家は上方落語

天保10年(1839)刊の上方板笑話本『はなしの種』中の「玉助めいどの抜道」が上方落語「地獄八景(亡者戯)」の原型。

さらに遡れば、宝暦13年(1763)刊の『根南志具佐』を始め、宝暦から文化年間まで流行した地獄めぐり滑稽譚が源流です。

上方では長編連作旅シリーズ「東の旅」の番外編という扱いで、古くは、道中の点描で、軽業師が村祭りで興行中木から転落。そのまま地獄へ直行するのが発端になっていました。

あらすじの東京バージョンは珍しいのでご紹介しましたが、明治中期に初代三遊亭円遊が東京に移植・改作したものです。

あだし野の原

実在の仇し野(化野)は、京都府北嵯峨・念仏寺の、京都最古の土葬墓地です。八千体の石仏や石塔がひしめく荒涼たる風景は、「あだし野の露消ゆる時なく」と吉田兼好が『徒然草』に記しているように、この世の無常、ひいては地獄を感じさせます。それもそのはず、「あだし野」は特定の地名でなく、冥界を意味する言葉でした。

「八万億土」は、もともとこんな言葉はなく、西方十万億土の少し手前というくすぐりです。

ショウヅカの婆さん

脱衣婆のことです。地獄の入り口、三途の川の岸辺で亡者の衣服をはぎ取り、衣領樹の上にいる懸衣翁に渡す仕事の鬼婆。

「ショウヅカ」は「三途河」がなまったものとか。

落語では、「朝友」「地獄の学校」「死ぬなら今」など、地獄を舞台にしたものにはたいてい登場。「朝友」を除けば悪役のイメージは薄く、特にこの噺では、情報通の茶屋の婆さんという扱われ方です。

三途の川の渡し賃

普通は六文と考えられていました。棺桶(早桶)に六文銭を入れる習わしはそのためです。

磐梯山破裂

明治21年(1888)7月の、会津磐梯山の大噴火を指します。

ノルマントン号事件

明治29年(1896)10月24日、日本人乗客23名を乗せた英国貨物船ノルマントン号が紀州沖で沈没。水死したのが日本人のみだったため、全国で対英感情が悪化しました。

米朝十八番、すたれた円遊改作

円遊は、オチを含む後半はほとんど上方版と同じながら、発端をあらすじのように変え、明治25年(1892)4月の速記では「大王の黒焼」を受けて「道理でぢごく(=すごく)効きがよかった」と、ひどいダジャレオチにしています。

円遊版の特色は、あらすじでは略しましたが、当時すでに死亡していた多くの有名人が、続々と地獄に来ている設定になっていること。

川路利良(明治12年没)、三島通庸(21年没)、西郷隆盛(10年没)、その他三条、岩倉、大久保、木戸の維新の元勲連から、森有礼暗殺犯の西野文太郎、大津事件の津田三蔵、毒婦高橋お伝まで。明治のにおいが伝わってきます。

円遊のこの演出は時代を当て込んだものだけに、当然、以後継承者はなく、明治期にできた地獄噺は、オリジナルの大阪版以外はすべて滅びたといっていいでしょう。

戦後では桂米朝が、発端をフグにあたってフグに死んだ若だんなと取り巻き連のにぎやかな冥土道中にした上、より近代的なくすぐりの多いものに変え、「地獄八景亡者戯」として、一世のヒット作、十八番としています。

この米朝演出を、門弟の桂枝雀がさらにはでなスペクタクル落語に変え、昭和59年(1984)3月の歌舞伎座公演のトリでも大熱演しました。

枝雀のオチでは、体内を責めさいなまれた人呑鬼が悲鳴を上げるので、閻魔大王がしかたなく「極楽へやってやる」とだまして一同を外にひきずり出してしばりますが、うそをついたというので、閻魔自身が舌を抜かれるという皮肉なものです。

演題の読みはあくまで上方のものを踏襲して「じごくばっけい」と読むのが正式です。古くは「地獄めぐり」「明治の地獄」「地獄」など、さまざまな別題で演じられていました。

【語の読みと注】
根南志具佐 ねなしぐさ:風来山人、つまり平賀源内の作
脱衣婆 だつえば
衣領樹 えりょうじゅ
懸衣翁 けんえおう:三途の川のほとりにいるといわれる老人
三途河 さんづか
地獄八景亡者戯 じごくばっけいもうじゃのたわむれ

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鹿政談 しかせいだん 演目

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落協を出て間もない円生が1978年11月、早大でやったのを聴いたことあります。

【あらすじ】

奈良、春日大社の神の使いとされる鹿は、特別に手厚く保護されていて、たとえ過失でもこれを殺した者は、男なら死罪、女子供なら石子詰め(石による生き埋め)と、決まっている。

そのおかげで鹿どもはずうずうしくのさばり、人家の台所に入り込んでは食い荒らすので、町人は迷惑しているが、ちょっとぶん殴っただけでも五貫文の罰金が科せられるため、どうすることもできない。

興福寺東門前町の豆腐屋で、正直六兵衛という男。

あだ名の通り、実直で親孝行の誉れ高い。

その日、いつものようにまだ夜が明けないうちに起き出し、豆を挽いていると、戸口で何やら物音がする。

外に出てみると、湯気の立ったキラズ(おから=卯の花)の樽がひっくり返され、大きな犬が一匹、ごちそうさまも言わず、高慢ちきな面で散らばった奴をピチャピチャ。

「おのれ、大事な商売物を」
と、六兵衛、思わず頭に血がのぼり、傍の薪ザッポで、思いざまぶんなぐった。

当たり所が悪かったか、泥棒犬、それがこの世の別れ。

ところが、それが、暗闇でよく見えなかったのが不運で、まさしく春日の神鹿。

根が正直者で抜けているから、死骸の始末など思いも寄らず、家族ともどもあらゆる気付け薬や宝丹、神薬を飲ませたが、息を吹き返さない。

そのうち近所の人も起き出して大騒動になり、六兵衛はたちまち高手小手にくくられて目代(代官)の塚原出雲の屋敷に引っ立てられる。

すぐに目代と興福寺番僧・了全の連印で、願書を奉行に提出、名奉行・根岸肥前守の取り調べとなる。

肥前守、六兵衛が正直者であることは調べがついているので、なんとか助けてやろうと、
「その方は他国の生まれであろう」
とか、
「二、三日前から病気であったであろう」
などと助け船を出すのだが、六兵衛は
「お情けはありがたいが、私は子供のころからうそはつけない。鹿を殺したに相違ござりまへんので、どうか私をお仕置きにして、残った老母や女房をよろしく願います」
と、答えるばかり。

困った奉行、鹿の死骸を引き出させ
「うーん、鹿に似たるが、角がない。これは犬に相違あるまい。一同どうじゃ」
「へえ、確かにこれは犬で」

ところが目代、
「これはお奉行さまのお言葉とも思われませぬ。鹿は毎年春、若葉を食しますために弱って角を落とします。これを落とし角と申し」
「だまれ。さようななことを心得ぬ奉行と思うか。さほどに申すなら、出雲、了全、その方ら二人を取り調べねば、相ならん」

二人が結託して幕府から下される三千石の鹿の餌料を着服し、あまつさえそれを高利で貸し付けてボロ儲けしているという訴えがある。

鹿は餌代を減らされ、ひもじくなって町へ下り、町家の台所を荒らすのだから、神鹿といえど盗賊同然。打ち殺しても苦しくない。

「たってとあらば、その方らの給料を調べようか」
と言われ、目代も坊主もグウの音も出ない。

「どうじゃ。これは犬か」
「サ、それは」
「鹿か」
「犬鹿チョウ」
「なにを申しておる」

犬ならば、とがはないと、六兵衛はお解き放ち。

「これ、正直者のそちなれば、この度は切らず(きらず)にやるぞ。あぶらげ(危なげ)のないうちに早く引き取れ」
「はい、マメで帰ります」

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【うんちく】

上方落語を東京に移植

上方で名奉行の名が高かった「松野河内守」の逸話を基にした講釈種の上方落語を、二代目柳家(禽語楼)小さんが、明治24年(1891)に東京に移植したものです。

松野なる人物、歴代の大坂町奉行、京都町奉行、伏見奉行、奈良奉行、長崎奉行のいずれにも該当者がなく、名前の誤伝と思われますが、詳細は不明です。

円生十八番

東京では戦後、六代目三遊亭円生が得意にしたほか、主に音曲師として鳴らした七代目橘家円太郎(1902-77)もよく演じました。

二代目三遊亭円歌、六代目春風亭柳橋も手掛け、もともとの本場上方では、戦後は桂米朝の独壇場でした。

従来、舞台は奈良本町二丁目で演じられていましたが、円生が三条横町としました。

くすぐりの「犬鹿チョウ」のダジャレは、花札からの円生のくすぐり。

オチは、普通東京では「アブラゲのないうちに」を略します。

根岸肥前守

根岸肥前守鎮衛(1737-1815)は、優れた随筆家でもあり、奇談集『耳嚢』の著者として、あまりにも有名。

最近では、風野真知雄作「耳袋秘帖」シリーズの名探偵役として、時代小説ファンにはすっかりおなじみです。

奈良奉行を肥前守にしたのは円生ですが、実在の当人は、江戸町奉行在職(1798-1815)のまま没していて、奈良奉行在任の事実はありません。

落語では、ほかに「佐々木政談」にも登場します。

春日の神鹿

鹿を殺した者を死罪にするというのは、春日神社別当である、奈良興福寺の私法。

ただし、石子詰めは、江戸時代には実際には行われていません。

幕府は興福寺の勢力を抑えるため、奈良奉行を置いていましたが、歴代奉行が、興福寺と事を構えるのを嫌い、この噺の目代のように、利権で寺と結託している者もあって、本来、公儀の権力の侵犯であるはずの私法を、ほとんど黙認していたものです。

春日神社の鹿の数と、燈籠の数を数えられれば長者になれるという言い伝えが、古くからありました。

根岸肥前守の子孫

幕末に、根岸鎮衛の子孫と思われる、根岸衛奮という人物がいて、この人が安政5年(1858)から文久元年(1861)までの三年間、奈良奉行を勤めています。

六代目円生が、かどうかはわかりませんが、この噺の奉行を根岸肥前守としているのは、あるいは、この人と混同したか、承知の上で故意に著名な先祖の名を用いたのかもしれません。

【語の読みと注】
耳嚢 みみぶくろ

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碁泥 ごどろ 演目

スヴェンソンの増毛ネット

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典型的な滑稽噺。昔はマクラに使われていたそうです。

別題:碁盗人 碁打ち盗人(上方)

【あらすじ】

碁仇のだんな二人。

両方とも、それ以上に好きなのが煙草で、毎晩のように夜遅くまでスパスパやりながら熱戦を展開するうち、畳に焼け焦げを作っても、いっこうにに気づかない。

火の用心が悪いと、かみさんから苦情が出たので、どうせ二人ともザル碁だし、一局に十五分くらいしかかからないのだから、碁は火の気のない座敷で打って、終わるごとに別室で頭がクラクラするほどのんでのんでのみまくろう、と話を決める。

ところが、いざ盤を囲んでみると、夢中になってそんな約束はどこへやら。

「マッチがないぞ」
「たばこを持ってこい」

閉口したかみさん。

一計を案じ、マクワウリを小さく切って運ばせた。

二人とも全く気がづかないので、かみさんは安心して湯に出かける。

そのすきに入り込んだのが、この二人に輪をかけて碁好きの泥棒。

誰もいないようなので安心してひと仕事済ませ、大きな風呂敷包みを背負って失礼しようとした。

すると、聞こえてきたのがパチリパチリと碁石を打つ音。

矢も楯もたまらくなり、音のする奥の座敷の方に忍び足。

風呂敷包みを背負ったままノッソリ中に入り込むと、観戦だけでは物足らず、いつしか口出しを始める。

「うーん、ふっくりしたいい碁石だな。互先ですな。こうっと、ここは切れ目と、あーた、その黒はあぶない。それは継ぐ一手だ」
「うるさいな。傍目八目、助言はご無用、と。おや、あんまり見たことのない人だ、と。大きな包みを背負ってますねッと」
「おまは誰だい、と、一つ打ってみろ」
「それでは私も、おまえは誰だい、と」
「へえ、泥棒で、と」
「ふーん、泥棒。泥棒さん、よくおいでだねッ、と」

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【しりたい】

おじさん、そこおかしいよ!

原話は不詳です。上方落語「碁打ち盗人」を三代目柳家小さんが、大阪の桂文吾に教わり、大正2年(1913)ごろ、東京に移しました。

小さんは、はじめは「芝居道楽」などのマクラとして演じていましたが、後に独立させました。

大正2年と、晩年の13年(1924)の速記が残りますが、最初の演題は上方にならって「碁盗人」でした。

両国の立花家でこの噺を演じたところ、十五、六の少年に、碁を打つ手の行き方が、碁盤に対して高すぎると注意され、その後きちんと碁盤の高さを計ってやるようになったと、大正13年の方のマクラで述べています。生意気なガキですが、前世の談志だったかも?

小さん代々相伝の噺

小さんのうまさは、名人円喬に「もうあたしは『碁泥』は演らない」と言わしめたほどだったといいますが、同じようなことを「笠碁」に対して円朝が言ったという話もあるので、あるいは混同されて伝わった逸話かも知れません。

門弟の四代目小さん、孫弟子の五代目小さんと継承され、代々の小さん、柳派伝統の噺となりました。

戦後、三代目三遊亭小円朝も得意にしていましたが、小円朝は、最初の泥棒の助言に対して、主人が言葉で答えず、石を持った右手を耳の辺りで振ってみせるやり方でした。「本家」の上方では、現在はあまり演じられないようです。

煙草盆

たばこぼん。炭火を灰で埋めた小型の火鉢と、吸殻を捨てる竹筒(灰吹)を入れた四角の灰皿です。歌舞伎の小道具として、よく舞台で見られますね。

灰吹がほとんど見られなくなった現在、かつて五代目古今亭志ん生がやった、「畳に火玉が落ちたよ」「ハイ、フキましょう」というくすぐりも、理解されにくくなっています。

泥棒の語源

泥棒にもピンからキリまであります。

「おかめ団子」の主人公のように、本当に「出来心」でフラリと入ってしまうのが「空き巣ねらい」で、計画的に侵入する盗賊より罪が軽く、盗んだ金額にもよりますが、江戸時代には初犯なら百たたきで勘弁してもらえることが多かったようです。

「どろ」は「どら」「のら」と同義語で、もともと怠け者の意。怠惰で、まともに働く意欲がないから盗みに入るという解釈から。

古くは「泥た棒」「泥たん棒」「泥つく」とも呼び、イカサマ師やペテン師、スリなども合わせて「泥棒」ということがありました。

泥棒伯円

幕末から明治にかけて白浪(=盗賊)ものを得意にした講釈師、二代目松林伯円(1831-1905)は「泥棒伯円」とあだ名され、お上から「副業」にやっているのではないかと疑われたほど。

ところが、後に明治政府の肝いりで教導職となって「忠君愛国講談」に転向、明治天皇御前口演までやってのけました。彼が手掛けた泥棒は、鼠小僧、稲葉小僧始め、大物ばかりでコソ泥などいません。このことからも講談と落語の違いが明白です。

互先

実力が同じ者同士が、交互に白を持って先番になる取決めです。

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小言念仏 こごとねんぶつ 演目

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短くって、すじもへったくれもない噺。念仏系宗旨をちゃかしてます。

別題:世帯念仏(上方)

【あらすじ】

親父が、仏壇の前で小言を言う。

ナムアミダブツ、ナムアミダブツ。

「鉄瓶が煮立っている」
「飯がこげている」
「花に水ゥやれ」
と、さんざんブツブツ言った後、
「表にドジョウ屋が通るから、ナマンダブ、ナマンダブ、買っときなさい、ナアミダブ、ドジョウ屋ァッナムアミダブ、鍋に酒ェ入れなさいナムアミダブ、一杯やりながらナムアミダブ、あの世ィ行きゃナマンダブ、極楽往生だナマンダブ、畜生ながら幸せなナムアミダブ、野郎だナマンダブ、暴れてるかナマンダブ、蓋取ってみなナムアミ、腹だしてくたばりゃあがった? ナムアミダブ、ナマンダブ、ざまァみゃがれ」

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【しりたい】

仏教への風刺

原話は不明で、上方落語「世帯念仏」を、そのまま東京に移したものです。移植の時期はおそらく明治期と思われます。

上方でもともと「宗論」「淀川(後生鰻)」などのマクラに振っていた小咄だったものが、東京で一席の独立した小品となりました。

念仏を唱えながらドジョウをしめさせるくだりは「後生鰻」と同じく、通俗化した仏教、とくにその殺生戒の偽善性を、痛烈に風刺したものといえるでしょう。しかも、念仏ですから、浄土宗、浄土真宗、時宗系をちゃかしているわけです。「後生鰻」も念仏系の噺です。

小言

これすらも、昨今は死語化しつつあるようですが、小言は「叱事(言)」の当て字。

特に小さな、些細なことを、重箱の隅をほじくるようにネチネチと説教するニュアンスが、「小」によく表れています。江戸では「小言坊」「小言八百」などの言葉があり、「カス(を食う)」というのも類語でした。

どじょう。鰻にくらべて安価で、精のつくものとして、江戸のころは、八つ目うなぎとともに庶民層に好まれました。

我事と 鰌の逃げる 根芹かな
なべぶたへ 力を入る どじょう汁
念仏も 四五へん入る どじょう汁

さまざまな雑俳に詠まれています。

最後のは、煮ながらせめてもドジョウの極楽往生を願う心で、この噺のおやじよりは、まだましですね。

ドジョウを買うときは升で量りますが、必死で踊り狂うので、なかなか数が入らず、同じ値段でも損をすることになります。

そこで、ドジョウをおとなしくさせるまじないとして、碗の蓋の一番小さいものをヘソに当ててにらみつければ、たちどころにドジョウは観念し、同じ大きさの升でも二倍入ると、『耳嚢』(根岸鎮衛の随筆)にあります。ホントでしょうかね。

金馬や小三治の苦い笑い

昭和に入って戦後まで、三代目三遊亭金馬の十八番でした。明るい芸風の人だったので、風刺やブラックユーモアが苦笑にとどまり、不快感を与えなかったのでしょう。

短いため、さまざまな演者が今も手がけますが、柳家小三治のものが自然に日本人の嗜虐性を表現していてうならせます。

上方の「世帯念仏」は桂米朝が継承していました。

東西ともオチは同じですが、明治の五明楼玉輔の速記では「ドジョウ屋が脇見をしているすきに、二、三匹つかみ込め」と、オチています。

【語の読みと注】
世帯念仏 しょたいねんぶつ
耳嚢 みみぶくろ

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菊江の仏壇 きくえのぶつだん 演目

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上方噺の傑作です。東京ではあまり聴きませんが。大ネタです。

別題:白ざつま(上方噺)

【あらすじ】

ある大店のだんな。

奉公人にはろくなものも食わせないほどケチなくせに、信心だけには金を使う。

その反動か、せがれの若だんなは、お花という貞淑な新妻がいるというのに、外に菊江という芸者を囲い、ほとんど家に居つかない。

そのせいか、気を病んだお花は重病になり、実家に帰ってしまった。

そのお花がいよいよ危ないという知らせが来たので、だんなは若だんなを見舞いに行かせようとするが、番頭に、もしお花がその場で死にでもしたら、若だんなが矢面に立たされて責められると意見され、ふしょうぶしょう、自分が出かけていく。

実はこれ、番頭の策略。

ケチなだんながいないうちに、たまには奉公人一同にうまいものでもくわしてやり、気晴らしにぱっと騒ごう、というわけ。

若だんな、親父にまんまと嫌な役を押しつけたので、さっそく、菊江のところに行こうとすると番頭が止める。

「大だんなを嫁の病気の見舞いにやっておいて、若だんなをそのすきに囲い者のところへ行かせたと知れたら、あたしの立場がありません、どうせなら、相手は芸者で三味線のひとつもやれるんだから、家に呼びなさい」
と言う。

それもご趣向だと若だんなも賛成して、店ではのめや歌えのドンチャン騒ぎ。

そこへ丁稚の定吉が菊江を引っ張ってくるが、夕方、髪を洗っている最中に呼びに来られたので、散らし髪に白薩摩の単衣という、幽霊のようなかっこう。

菊江の三味線で場が盛り上がったころ、突然だんなが戻ってきたので、一同大あわて。

取りあえず、菊江を、この間、だんなが二百円という大金を出して作らせた、人の二、三人は入れるというばかでかい仏壇に隠した。

だんな、
「とうとうお花はダメだった」
と言い、かわいそうに、せがれのような不実な奴でも生涯連れ添う夫と思えば、一目会うまでは死に切れずにいたものを、会いに来たのが親父とわかって、にわかにがっくりしてそのままだ。

「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」
と、番頭がしどろもどろで止めるのも聞かず、例の仏壇の扉をパッと開けたとたん、白薩摩でザンバラ髪の女。

「それを見ろ、言わないこっちゃない。お花や、せがれも私も出家してわびるから、どうか浮かんどくれ、浮かんどくれ、ナムアミダブツ、ナムアミダブツ」
「私も消えとうございます」

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【しりたい】

源流は男色もの

直接の原話は文化5年(1808)刊『浪花みやげ』中の「ゆうれい」で、すでに現行の落語と筋はほとんど同じです。

これにはさらに原型と思われる笑話があり、享保16年(1731)ごろ刊の『男色山路露』中の「謡による恋」がそれです。これは、出典の書名から見てもわかるとおり、今でいうハードゲイのたぐい。

ある男が野郎(役者で男娼)を自宅に引き込み、よろしくお楽しみの最中、おやじが突然帰宅。あわてて男娼を仏壇に押し込みますが、「風呂敷」よろしく、おやじがその前に居座るので、出るに出られない男娼、そのうち小便がしたくなって……という、あまり趣味のよくないお笑いです。

上方の大ネタ

本家は上方落語で、大阪では桂米朝初め、三代目桂春団治、先代桂文枝など、上方を代表する実力者しかこなせない切りネタ(大ネタ)です。上方の舞台は船場の淀屋小路で、菊江はキタの新地の芸妓という設定になります。

東京版は馬生が復活

東京には明治20年代に初代三遊亭円右が「白ざつま」の演題で東京に移植したといわれます。明治29年(1896)に、円右と同門の円朝門下で、当時上方で活躍していた二代目三遊亭円馬(1918年没)が「白ざつま」の題で口演した速記が残ります。

東京ではその後あまり演じ手はなく、途絶えていたのを十代目金原亭馬生が元の「白ざつま」の題で復活しました。桂歌丸も手掛けていました。

白薩摩

薩摩がすりは本来は琉球(沖縄)産。

薄い木綿織物で、白地のものは夏の浴衣などに用いられます。「佃祭」の次郎兵衛もこれを着ていたのが原因で、幽霊に見違えられました。

死人の経帷子は、普通、絹もしくは麻で作るので材質は違いますが、同じ単衣で白地ということで、その上ザンバラ髪なので、幽霊と間違えるのは無理もありません。

【語の読みと注】
経帷子 きょうかたびら

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雁風呂 がんぶろ 演目

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これは珍しい、水戸黄門も落語に。ご一行漫遊の一席です。

別題:天人の松(上方噺)

【あらすじ】

かの有名な黄門、水戸光圀公。

ご隠居の身の気軽さで、供そろいわずか八人を引き連れて諸国を漫遊中、東海道は掛川の宿に来かかった。

ある質素な、老夫婦二人だけでやっている立場で休憩し、昼食をとっていると、田舎のことで庭に肥桶が置いてあると見え、プーンと臭い匂いが漂ってくる。

さりとて、障子を閉めてしまうと陰気臭くなるので、屏風か衝立を持ってくるようにおやじに言いつける。

恐縮したおやじが運んできた屏風の絵を見て、驚いた。

こんな粗末な立場にあるとは思えないような、土佐光信の屏風絵。

ただ、図柄が変わっていて、松の枝に雁。

屏風は一対だから、別のには松の大木が描かれてあろうと思われる。

松には鶴、雁には月を描くのが普通。

「ははあ、光信の奴、名声におごって、なにを描いてもよいと増長したか」
と光圀公、不快になって、帰館のあかつきには光信の絵はすべて取り捨てると言い出す。

そこへ相客。

上方者らしい、人品卑しからぬ町人の、主従二人連れ。

主人の方は屏風絵を見て感嘆し、
「さすがに光信さんや、松に雁とは、風流の奥義を極めた絵やなァ。これは秋の雁やのうて、春の帰雁や。なにも知らん奴が見たら、雁頼まれたら月を描き、鶴なら松を描くと思い込むやろが、そんな奴は眼あって節穴同然や。もう、他に二人とない名人やなァ」

聞いた光圀公、自分の不明を思い知らされ、町人ながら風流なる者と感心して、近習に命じて男を呼ばせ、松と雁の取り合わせの由来を尋ねた。

初めは、えらいことがお武家さまのお耳に入ったと恐縮していた町人、たってと乞われて語り出したところによると、
「雁は海の向こうの常盤の国という暖国から渡ってきて、冬を函館の海岸で過ごし、春にまた帰っていくが、大きく体が重い鳥だから、海を渡る途中に墜落して命を落とすこともたびたびある。海上で体がくたびれると、常盤の国を出る時くわえてきた枝を海に落として、それを止まり木にして羽を休め、またくわえて、ようやく函館の松までたどり着く。松に止まると、枝をその下に落として、春まで日本全国を飛び回るが、その間に函館の猟師たちが、枝の数を数えて束にし、雁が南に帰る季節になると、また松の下に、その数だけ置いてやる。雁は自分の枝がわかるので、帰る時に各々それをくわえていく。猟師は残った枝を数え、ああ、またこれだけの雁が日本で命を落としたか、あわれなことだと、その枝を薪にして風呂を炊き、追善のため、金のない旅人や巡礼を入れて一晩泊め、なにがしかの金を渡して立たせてやる。これはその時の、帰雁が枝をくわえようとしている光景だ」
という。

すっかり感心した光圀公、身分を明かし、
「そちの姓名はなんと申す」
とご下問になる。

町人、びっくり仰天して、額を畳にこすりつけながら、おそるおそる
「私は大坂淀屋橋の町人で、分に過ぎたぜいたくとのおとがめを受け、家財没収の上、大坂三郷お構いに相なりましたる、淀屋辰五郎と申す者にござります」
と言上。

昔、柳沢美濃守さまに三千両お貸ししたが、ずっとお返しがなく、今日破産し浪々の身となったので、なんとかお返しを願おうと、供を連れてはるばる江戸までくだる途中、と聞いて、光圀公、雁風呂の話の礼にと、柳沢に、この者に三千両返しつかわすようにという手紙を書いてやり、その金でめでたく家業の再興がなったという、一席三千両のめでたい噺。

底本:初代談洲楼燕枝

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【しりたい】

上方版はオチ付き

「水戸黄門漫遊記」を題材にした講談をもとに作られた噺のようですが、はっきりしたネタ元は不明です。

もともとは上方噺で、別題を「天人の松」ともいいますが、上方版ではオチがついていて、「雁風呂の話一つで三千両とは、高い雁(かりがね=借り金)ですな」「そのはずじゃ。貸し金を取りにいく」とオチます。

現在、この噺を得意にしていた桂米朝は「雁風呂の講釈をしたおかげで、借金(しゃっきん)が取れますがな」「そらそうや、かりがね(雁=借り金)の話をしたんじゃ」としています。

このオチの部分の原話は、最古の噺本として知られる『醒睡笑』(安楽庵策伝著、寛永5年=1628年成立)巻一の「祝ひ過ぎるも異なもの」とみられ、「借り金」=「雁がね」の、まったく同じダジャレオチがみられます。

東京では円生

明治の落語界で三遊亭円朝と並び称された初代談洲楼燕枝の速記では、このあらすじの通り講談に近い形をとり、オチはついていません。

戦後は、六代目三遊亭円生が大阪の二代目桂三木助直伝で、オチのある上方系のやり方で演じました。

速記、音源とも、残されているのは上方の米朝版を除けば、円生のもののみです。

円生の芸談

「この噺でむずかしいところというと、副将軍である光圀公の描写、また辰五郎というのは大阪では有名な金持ちの息子ですから、言葉つきから何から品が悪くてはいけません。これを第一に心がけるということが大事だと思います」

雁風呂

噺に出てくる伝説の正確な出自は不明ですが、雁風呂もしくは雁供養の習慣は、本来、青森県・津軽の外ケ浜のものです。

したがって、函館としているこの噺とは食い違いますが、函館にもそんな習俗があっても不思議はありません。

このエピソード、昭和の終わりごろに、某洋酒メーカーのコマーシャルにも使われていました。

「雁風呂」は春の季語にもなり、「雁風呂の 燃ゆるままなる 淋しさよ」(一樹)ほか、多くの句があります。

函館の松

歌枕として著名で、六代目円生は淀屋の説明の中で、
「秋は来て 春かえり行く かりがねの はがい休めむ 函館の松」
という紀貫之の歌を出していました。

淀屋辰五郎

生没年は不詳です。鴻池と並ぶ大坂の豪商でしたが、この噺のとおり、あまりに金の使いっぷりがよすぎて公儀ににらまれ、資産没収のうえ大坂追放処分になったのが宝永2年(1705)。したがって、野暮をいえば、その五年前の元禄13年(1700)に没した水戸光圀と、ここで出会うことはないはずです。

上方では辰五郎の息子で演じるのが普通で、円生もこれにならっていました。

【語の読みと注】
肥桶 こえおけ
屏風 びょうぶ
衝立 ついたて

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剃刀 かみそり 演目

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 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

めったに聴けない珍品です。

別題:坊主の遊び 坊主茶屋(上方)

【あらすじ】

せがれに家を譲って楽隠居の身となったある商家のだんな。

頭を丸めているが、心は道楽の気が抜けない。

お内儀には早く死なれてしまって、愛人でも置けばいいようなものだが、それでは堅物の息子夫婦がいい顔をしない。

そこで、ピカピカ光る頭で、せっせと吉原に通いつめている。

今日も出入りの髪結いの親方といっしょに、夕方、紅灯の巷に繰り出した。

洒落っ気があり、きれい好きなので、注文しておいたヒゲ剃り用の剃刀を取りに髪結床に寄ったところ、親方が、吉原も久しぶりだからぜひお供を、ということで話がまとまったもの。

ところが、この親方、たいへんに酒癖が悪い。

いわゆる「からむ酒」というやつで、お座敷に上がってしこたま酒が入ると、もういけない。

花魁にむりやり酌をさせた上、
「てめえたちゃ花魁てツラじゃねェ、普通のなりをしてりゃあ、化け物と間違えられる」
だの、
「こんなイカサマな酒ェのませやがって、本物を持ってこい」
だのと、悪態のつき放題。

隠居がなだめると、今度はこちらにお鉢が回る。

「ツルピカのモーロクじじいめ、酒癖が悪い悪いと抜かしゃあがるが、てめえ悪いところまでのませたか、糞でもくらやァがれ」
とまで言われれば、隠居もがまんの限界。

大げんかになり、
「こんな所にいられるもんけえ!」
と捨てぜりふを吐いて、親方はそのまま飛び出してしまう。

座がシラけて、隠居はおもしろくないので、早々と寝ることにしたが、相方の花魁がいっこうにやってこない。

しかたなくフテ寝をして、夜中に目が覚めたとたん、花魁がグデングデンになって部屋に飛び込んでくる。

「だんな、お願いだから少し寝かしておくれ」
と、ずうずうしく言うので文句をつけると、
「うるさいよ。年寄りのくせに。イヤな坊さんだよ」
と、今度は花魁がからむ。

隠居は
「おもしろくもねえ。客を何だと思ってやがる。こんな奴には、目が覚めたら肝をつぶすような目に会わせてやろう」

持っていた例の剃刀で、寝込んでいる花魁の眉をソリソリソリ。

こうなるとおもしろくなって、髪も全部ソリソリソリソリ。

丸坊主にしてしまった。

夜が明けると、さすがに怖くなり、ひどい奴があるもの、隠居、はいさようならと、廓を脱出。

一方、花魁。

遣り手ばあさんに、
「お客さまがお帰りだよ」
と起こされ、寝ぼけ眼で立ち上がったから、すべって障子へ頭をドシーン。

思わず頭に手をやると
「あら、やだ。お客はここにいるじゃないか。じゃ、あたしはどこにいるんだろう」

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【しりたい】

原話の坊主は流刑囚

中国明代の笑話集『笑府』巻六で奇人変人の話を集めた「殊稟部」中にある「解僧卒」がネタ元、原典です。 

これは、兵卒が罪人の僧侶を流刑地まで護送する途中、悪賢い坊主は兵卒をうまく酔いつぶし、頭をくりくりに剃った上、自分の縄を解いてしばると、そのまま逃走。目覚めた兵卒が、自分の頭をなでてみて……という次第。オチは同じです。

江戸笑話二題 

江戸の笑話としては、正徳2年(1712)に江戸で刊行の『新話笑眉』中の「夜明のとりちがへ」がもっとも古い原話で、ついで寛政7年(1795)刊の『わらふ鯉』中の「寝坊」があります。

「夜明…」の方は、主人公は年をくって、もう売れなくなった陰間。このへんが見切り時と、引退披露を兼ねて盛大な元服を催し、したたかに酒をくらって酔いつぶれて寝いってしまいます。

朝目覚めて頭をなでると、月代を剃ってあるのでツルツル。寝ぼけていつもの癖でハゲの客と間違え、「もし、だんな。夜が明けました」。

それから八十年以上経った「寝坊」では、筋はほとんど現行の落語と同じで、主人公は坊主頭の医者。オチは、くりくり坊主にされた女郎が「ばからしい。ぬしゃ(=あなたは)まだ居なんすか(まだいたの?)」というもの。

志ん生演じた珍品

めったに聴けない珍品の部類です。

古くは四代目橘家円蔵、俗に品川の円蔵の大正4年(1915)の速記が残されています。

戦後では「坊主の遊び」の題で五代目古今亭志ん生、二代目三遊亭円歌が時々演じ、特に志ん生は短い郭噺として好んで取り上げたようです。本あらすじも、志ん生の速記を参考にしました。

志ん生は、しばしばオチを「坊さん(お客)はここにいるじゃないか」と短く切り、前半に「三助の遊び」の発端部をつけるのが常でしたが、主筋とのつながりはなく、単に時間を埋めるだけのものだったようです。

円歌は、坊主遊びの本場であった品川を舞台にしていました。継承して、三遊亭円歌も演じていました。

あざとい上方噺

上方の「坊主茶屋」は、大坂新町の「吉原」が舞台。ただし、こちらの吉原は、新町の外れの最下級の売春窟で、江戸でいうと「お直し」に登場する羅生門河岸の「蹴転」というところ。

女もひどいのが多く、梅毒で髪の毛は抜け、眉毛もなければ鼻もない代物。これをあてがわれて腹を立てた客が、「どうせ抜けているのやから」ときれいにクリクリ坊主にしてしまうという、悪質度では東京の隠居の比ではない噺。

その鼻欠け女郎の付け鼻を、客が団子と間違えて食わされてしまう場面は、東京人には付いていけないあざとさでしょう。

オチはいろいろ

「あらすじ」のオチがもっともスタンダードですが、昔から、演者によって、微妙に違うニュアンスのオチが工夫されています。

上方のものでは、古くから「そそっかしいお客や。頭を間違えて帰りはった」というオチもよく使われ、そのほか「湯灌して帰ってやった」(桂小文治)とか、「医者の手におえんさかい坊主にされたんや」(米朝)とかいうのもあります。

いずれにしても、「大山参り」の趣向と、「粗忽長屋」に似た異次元的錯覚を感じさせるオチを併せ持つ名品なのに、現在、あまり高座に掛けられないのは残念です。

頭丸めても

坊さんといっても、ここでは本物の僧侶ではなく、隠居して剃髪している商家のだんなが主人公です。江戸時代には東西とも隠居→剃髪の習慣は広く行われました。

隠居名を名乗ることも多く、上方では「○○斎」と付けるのが一般的でした。

本物の坊主の方も、廓遊びにかけてはかなりお盛んで、女犯は表向きは厳禁なので、同じ頭が丸いということで医者に化けて登楼する不届きな坊主も多かったとか。

「中宿(=茶屋)の 内儀おどけて 脈を見せ」という川柳もあります。隠居の方も、「新造は 入れ歯はずして みなという」など、からかわれ放題。

まあ、おさかんなのはけっこうですが、いつの時代も、やはり趣味はトシ相応が無難なようで。

【語の読みと注】
お内儀 おかみ
紅灯の巷 こうとうのちまた
髪結床 かみゆいどこ
花魁 おいらん
相方 あいかた:相手。合方とも
遣り手 やりて
陰間 かげま:少年男娼
元服 げんぷく
月代 さかやき
蹴転 けころ

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釜泥 かまどろ 演目

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 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

泥棒の噺。なんだかのんきでほのぼのしてますねえ。

別題:釜盗人(上方噺)

【あらすじ】

大泥棒、石川五右衛門の手下で、六出無四郎と腹野九郎平という二人組。

親分が釜ゆでになったというので、放っておけば今に捕まって、こちとらも天ぷらにされてしまう、と心配になった。

そこで、親分の追善と将来の予防を兼ね、世の中にある釜という釜を全部盗み出し、片っ端からぶちこわしちまおうと妙な計画を立てた。

さしあたり、大釜を使っているのは豆腐屋だから、そこからとりかかろうと相談がまとまる。

間もなく、豆腐屋ばかりに押し入り、金も取らずに大釜だけを盗んでいく盗賊が世間の評判になる。

なにしろ新しい釜を仕入れても、そのそばからかっさらわれるのだから、業界は大騒ぎ。

ある小さな豆腐屋。

じいさんとばあさんの二人きりで、ごく慎ましく商売をしている。

この店でも、のべつ釜を盗まれるので、じいさんは頭を悩ませている。

なにか盗難防止のいい工夫はないかと相談した結果、じいさんが釜の中に入り、酒を飲みながら寝ずの晩をすることになった。

ところが、いい心持ちになり過ぎて、すぐに釜の中で高いびき。

ばあさんもとっくに船をこいでいる。

と、そこに現れたのが、例の二人組。

この家では先だっても仕事をしたが、またいい釜が入ったというので、喜んでたちまち戸をひっぱずし、釜を縄で縛って、棒を通してエッコラサ。

「ばかに重いな」
「きっと豆がいっぺえへえってるんだ」

せっせと担ぎ出すと、釜の中の爺さんが目を覚まして
「ばあさん、寝ちゃあいけないよ」

泥棒二人が変に思っていると、また釜の中から
「ほい、泥棒、入っちゃいけねえ」

さすがに気味悪くなって、早く帰ろうと急ぎ足になる。

釜が大揺れになって、じいさんはびっくりして
「婆さん、地震か」

その声に二人はがまんしきれず、そっと下ろして蓋を開けると、人がヌッと顔を出したからたまらない。

「ウワァー」
と叫ぶと、なにもかもおっぽり出して、泥棒は一目散。

一方、じいさん。

まだ本当には目が覚めず、相変わらず
「婆さん、オイ、地震だ」

そのうちに釜の中に冷たい風がスーッ。

やっと目を開けて上を向くと、空はすっかり晴れて満点の星。

「ほい、しまった。今夜は家を盗まれた」

底本:六代目朝寝坊むらく

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【しりたい】

諺を地でいった噺

古くから、油断して失敗する意味で「月夜に釜を抜かれる」という諺があります。大元をたどれば、この噺は、この諺を前提に作られたと思われます。

寛延4年(1751)刊『開口新語』中の漢文体の笑話が原型ですが、直接の原話は安永2年(1773)刊の笑話本『近目貫』中の「大釜」です。

原話では、入られるのは味噌屋で、最初に強盗一人が押し入り、家財はおろか夜具まで一切合財とっていかれて、おやじがしかたなく、大豆を煮る大釜の中で寝ていると、味をしめた盗人が図々しくも翌晩、また入ってきて……ということになります。オチは現行と同じです。

上方落語では「釜盗人」と題しますが、東京のものと、大筋で変わりはありません。

明治にできた噺

もともと、小咄やマクラ程度に軽く演じられていたものが、明治後期から一席噺となったものです。

明治34年(1901)8月、「文藝倶楽部」所載の六代目朝寝坊むらくの速記がもっとも古く、現行のやり方は、オチも含めてほとんど、むらくの通りです。

同時代の大物では、四代目橘家円蔵の速記もあります。

戦後は、六代目春風亭柳橋、三代目三遊亭小円朝などが演じ、特に小円朝が得意にしていました。

小円朝は、釜ごと盗まれたじいさんが「おい、ばあさん」と夢うつつで呼ぶ声を、次第に大きくすることを工夫したという芸談を残しています。

現役では三遊亭円窓がよく手掛けています。

戦時中は禁演もどき

野村無名庵(1888-1945)の『落語通談』によれば、戦時中、時局に合わない禁演落語を定めた時、自粛検討会議の席で、泥棒噺にランクが付けられました。甲乙丙に分け、甲はまあお目こぼし、丙は最悪で無条件禁止。その結果、甲に「釜泥」「眼鏡屋」「穴泥」碁泥」「だくだく」「絵草紙屋」「探偵うどん」「熊坂」。

不道徳な部分を抹消すれば、という条件付きの乙に「出来心」「しめ込み」「夏泥」「芋俵」「つづら泥」「にかわ泥」「やかん泥」「もぐら泥」「崇禅寺馬場」、丙が「転宅」と決まったとか。泥棒に「不道徳」もヘチマもないでしょうが。

ところが、実際に設定され、「噺塚」に葬られた五十三種に、なんと泥棒噺は一つも入っていません。といっても、この五十三種は大半がエロ噺か不倫噺。「釜泥」など泥棒噺がその次のランクで、事実上「自粛」させられたことは間違いないでしょう。

禁演落語なんぞといっても、いいかげんなものです。

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金の味 かねのあじ 演目 

【RIZAP COOK】

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金属をなめる。緑青の、あの味。奇妙な嗜好をもった人の噺です。

別題:擬宝珠

【あらすじ】

日本橋あたりのご大家の若だんなが、三年越しの大病。跡取り息子なので両親も頭が痛い。

診てもらっても、医者は
「なにか心に思い詰めたことがかなえられれば治る」
と言うばかり。

そこでだんな、たまたまご機嫌伺いにまかり出た幇間の桜川長光に、
「礼ははずむから、せがれが思い悩んでいることを聞き出してほしい」
と頼んだ。

こいつはうまいと、さっそく若だんなにヨイショして聞き出そうとすると
「おまえ、あたしの願いをもし当てて見せたら、土地八百坪やるよ」
「へえ、鳥も通わぬ山奥で、三日目に虎に食われて死んじまうような所じゃあないでげしょうね」
「ばかァ言え、ちゃんとした神田の土地だよ」
「それじゃ、招魂社の鳥居を盗んでみたいとか」
「違うっ」

若だんなはおもむろに
「あたしの考えは深いことだから、おまえにはわかるまい、一緒においで」
と連れ出されのが、浅草寺の境内。

「おまえ、この二百円をやるから、頼みたいことがある。もし聞いて笑ったら、おまえと刺し違えて相果てるよ」
「物騒だね、こりゃ。なんです?」
「五重塔のてっぺんの、擬宝珠の青いところをなめてみたい」

思わず吹き出しかけた長光、若だんながピストルを出しかけたのであわてて、住職にこれこれと願い出ると、
「ウーン、唐土の莫耶という人が鉄の気を好んで、名剣を鍛えたという例もあるから、まんざらない話でもなかろう」
ということで許しが出た。

さっそく、鳶頭が出張して足場を組むという騒ぎで、境内は黒山の人だかり。

若だんな、勇んでてっぺんに登ると、ベロベロベロベロとうまそうになめるわ、なめるわ。

そこへ心配して駆けつけた両親、
「せがれは?」
「なめてらっしゃいます」
「こいつは驚いた。実はオレもばあさんも、擬宝珠が大好物なんだ。やっぱり血は争えねえなあ、ばあさん」
「あたしは、ニコライ堂のが一番おいしかったよ」
「神田橋のも京橋のもいけたなあ。めいめい味が変わっていて、いいや」

大変な一家があるものと、一同あきれていると、さすがに堪能したのか、若だんなが元気いっぱいになって下りてくる。

「おい、うまかったか」
「タクアンの味がしました」
「塩っ気が強かったか。タクアンの塩ならどのくらいだ。四升か五升か」
「いえ、六升(=緑青)の味がしました」

底本:初代三遊亭円遊

【RIZAP COOK】

【しりたい】

鋭い嗅覚 

もっとも古い原話は、元禄16年(1703)、大坂で刊行された初代米沢彦八の編著『軽口御前男』巻一「鼻自慢」という笑話です。くしくもこの年は赤穂浪士切腹の年です。

彦八(?-1714)は、初めて大坂生玉神社境内に葦簾ばりの小屋掛けで一席うかがった伝説の人で、上方落語の祖ともいえる存在です。

この「鼻自慢」は、題名からも推測されるようになめるのでなく、金物の匂いを嗅ぐのが好きな男の話。

男が四天王寺の塔の九輪を投石で打ち落とし、匂いをかいで、「三具足(仏前に置く花瓶、燭台、香炉)と同じ匂いだ」という、ごく当たり前なオチ。今なら文化財保護法違反で即御用です。

観音さま塩気足りず

その後、明和5年(1768)刊の『軽口春の山』中の「ねぶり好き」では、現行にだいぶ近づき、東寺の塔の九輪をなめたあと、「三条大橋の擬宝珠と同じ味だ」というご託宣。

さらに、安永2年(1773)刊『聞上手』中の「金物」になると、舞台は江戸になります。

現行通り、浅草五重塔の擬宝珠を味わって、「思ったほどうまくない。橋の擬宝珠から塩気を抜いたようなもんだな」という、ソムリエ顔負けの厳しい判定。これが、オチを除けば、東京版の直接の原型でしょう。上方落語の演出では、古くから東寺の塔をなめるのが普通です。

金属嗜好症

実態は不明です。類話に、お嬢さんが癪の薬にとヤカンをなめたがる「梅見の薬罐」がありますが、銅(もしくは鉄、錫)に一種の麻薬的効果があるのかどうか疑問です。

鉄なら、あるいはミネラル不足のため、体が無意識に要求するのかもしれませんが、銅に空気中の水分と二酸化炭素が付着して生じる「緑青」は明らかに猛毒のはずです。

毒と知って「逆療法」として用いたか、または、醤油の飲み比べなども行われた幕末デカダンの名残りなのでしょうか。

擬宝珠

ぎぼうしゅ。ぎぼうし。もともとはネギの花の別名であるため、これに似た形の、欄干の柱に付ける飾りをいいました。

擬宝珠のある橋は大橋で、日本橋など市街の中心部にしかないため、明治大正までは、東京の繁華街の寄席に出演できる一流の芸人を「擬宝珠の芸人」と称しました。

莫耶

古代中国、呉の刀工干将とその妻莫耶が、呉王(一説に楚王)の妃が鉄の精を宿して産んだ鉄塊を、夫婦協力して名剣に鍛えたという故事から「干将莫耶の剣」といいます。

この故事は、歌舞伎の時代狂言にはたびたび登場します。

たとえば「実盛物語」では、平清盛の魔手から源氏の源義賢の室・葵御前と遺児を守るため、実盛が、葵御前が人の腕を産んだと強弁。その先例として、長々とこの莫耶の剣の講釈をし、鉄の塊を出産したためしがあるのだから、腕が産まれるのも不思議ではないとマカフシギな論証で、敵方をケムに巻きます。

喬太郎の芸

この噺、明治期は初代三遊亭円遊(鼻の円遊)、大正に入って初代柳家小せんが得意としました。今回のあらすじでは、明治25年(1892)の円遊の速記を参考にしましたが、円遊はテリガラフ(テレグラフ=電信)、ステンショ、鹿鳴館など、文明開化の風俗をふんだんに取り入れています。

戦後は三代目三遊亭小円朝が演じました。

あまりやり手がありませんでしたが、2005年7月の「落語研究会」で柳家喬太郎が好演。主人公を思い切りヘンタイ的に演じ、この噺の新境地を開く、画期的な高座でした。今では「擬宝珠」といえば、喬太郎を連想してしまいます。

【語の読みと注】
幇間 たいこもち
招魂社 しょうこんしゃ:靖国神社
擬宝珠 ぎぼうしゅ
唐土 もろこし
莫耶 ばくや
癪 しゃく:胃けいれん

【RIZAP COOK】

風の神送り かぜのかみおくり 演目

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なあんだ、だじゃれが言いたくて作った噺、かな。

【あらすじ】

町内に悪い風邪が流行したので、まじないに「風(=風邪)の神送り」をすることになった。

奉加帳を回し、その夜、町内総出でにぎやかに掛け声。

鳴り物に合わせて
「そーれ、かーぜのかーみ、送れ、どんどん送れ」
「送れ、送れ、かあぜのかあみ送れ」
という具合に、一人一人順番に送りながら最後の人間で風の神を川に放り込むという趣向。

ところが、
「かーぜのかーみー、おくれ」
と言うと、
「おなごりィ、おーしい」
と誰かが引き止めてしまったから、みんなカンカン。

寄ってたかって引きずり出すと、覆面をしているので、むしり取ったら薬屋の若だんな。

「とんでもねえ野郎だ」

やっとこ、若だんなが改心して、ようやく風の神を川の中へ。

ちょうどその時、大川で夜網をしている二人が大物を釣り上げた。

引き上げると人間。

「おい、てめえは何だ」
「オレは風の神だ」
「あァ、夜網(=弱み)につけ込んだな」

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【しりたい】

原話は藪医者ばなし

安永5年(1776)、大坂で刊行の落語本『夕涼新話集』中の「風の神」が原話です。

あらすじは、以下の通り。

新春早々患者が寄り付かず、食うや食わずで悲鳴をあげている藪医者が、風邪が流行りだしたと聞いて大喜び。これで借金とおさらばできると、同じ境遇の藪仲間二、三人と陽気にお祝いをしていると、外で鉦や太鼓の音。聞いてみると、「これは風の神送り(=追放)の行事です」と言うので藪医者はくやしがり「ええ、いらんことを。無益な殺生だ」

米朝、彦六が復活

本来、上方落語としてポピュラーな噺でしたが、上方では長くすたれていたのを、桂米朝が昭和42年(1967)に復活。

東京では、二代目桂三木助の直伝で八代目林家正蔵(彦六)が専売特許としました。

それ以前にも、前半の薬屋の若だんなまでのくだりは、小咄程度の軽い噺として、明治期に二代目談洲楼燕枝、三代目蝶花楼馬楽などが演じていました。

オチについては、正蔵(彦六)が、昔は「風の神が弱みにつけこむ」といった俚言があり、それを踏まえたのではないかと述べていますが、出典ははっきりしません。

風の神

風の神は風邪をはやらせる疫病神です。

江戸の頃、悪性のインフルエンザによる死亡率は、特に幼児や老人といった抵抗力の弱い者にとって、コレラ、赤痢、ジフテリアに劣らぬ高さだったでした。個々人による祈祷や魔除けのまじないのほかに、この噺のような町内単位の行事が行われたのは、無理もないところでした。

『武江年表』で「風邪」を検索すれば、幕末の嘉永3年(1850)、4年(1851)、安政元年(1854)、4年(1857)、万延元年(1860)、慶応3年(1867)と、立て続けに流行の記事が見えます。この際、幕府から「お助け米」が出ています。

風の神送れ

「風の神送り」のならわしは、本来は物乞いを雇って、灰墨を顔に塗って風の神に見立てたり、鬼や人形を作って町中で練り歩き、鉦太鼓でにぎやかに「風の神送れ」(上方では「送ろ」)と隣の町内に追い払うもの。

そうして、順送りにし、最後は川に流してしまうわけです。

江戸末期になると、しだいに簡略化され、明治初期には完全にすたれたといいます。

音曲噺「風の神」

風の神の新入りが義太夫語りの家に忍び込み、失敗するという音曲噺「風の神」がありましたが、現在は演じ手がありません。

【語の読みと注】
奉加帳 ほうがちょう
藪医者 やぶいしゃ
鉦 かね
談洲楼燕枝 だんしゅうろうえんし
蝶花楼馬楽 ちょうかろうばらく

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親子茶屋 おやこぢゃや 演目

【RIZAP COOK】

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親父も粋な男でした、という、鉢合わせの噺。

【あらすじ】

ちょうど、夜桜も見ごろの春のころ。

せがれが吉原に居つづけして、三日ぶりに堂々と帰ってきたので、親父 おやじ)はカンカン。

「花見に行っていた」
とごまかすので、
「どこに泊まりがけで花見をしてくる奴がある。去年おふくろが死んだのだから、その分親父に孝行して心配をかけないようにするのが本当だ」
と説教し、
「今夜は無尽で遅くなるから、しっかり留守番して、どこへも出かけちゃあならねえ」
と言い置いて、出かけていく。

無尽の後世話人連中と一杯やって、すっかりご機嫌になった親父、ほろ酔いかげんで山谷から馬道の土手にかかると、急に吉原の夜桜が見たくなる。

大門を入ると、例によって大変なにぎわい。

つい、遊び気分にひかされて茶屋に入り、結局、芸者、幇間を揚げて、年がいもなく、のめや歌えのドンチャン騒ぎ。

一方、おもしろくないのが家に「監禁」されたせがれ。

どうせまた今夜、花魁と約束がしてあるので、親父が帰らないうちに、顔だけでも見せてこようと、番頭をゴマかして家を飛び出し、宙を飛ぶように吉原のなじみの茶屋へ。

お内儀に
「いつもの連中を呼んでくれ」
と言うと、
「あいにく今夜は六十ぐらいのご隠居さんが貸し切りで、幇間も芸者もみんなそっちのお座敷にかかりっきりで」という。

「へえ、粋な爺さんもいるもんだ、家の親父に爪のアカでものましたい」
と感心して、
「どうだい、それならいっそ、その隠居といっしょに遊ぼうじゃないか」
「ようございます」
とお内儀が座敷に話を通すと、親父も乗り気。

幇間が趣向をこしられ、チャラチャラチャンとお陽気な歌でステテコ踊りから、サッと襖を開けると、目の前にせがれ。

「お父っつぁん」
「清次郎か。ウーム、これから、必ずバクチはならんぞ」

【RIZAP COOK】

【しりたい】

原型をそのまま伝承

親子でヘベレケとなる「親子酒」とともに、小咄としてはもっとも古典的で、原型がほぼそっくり、現行の落語に伝わっている数少ない噺です。

原話は明和4年(1767)刊の笑話本『友達ばなし』中の「中の町」。落語としては上方種で、現在でも上方落語色が強く、四代目桂米団治を経て、高弟の桂米朝に伝わりました。大坂の舞台は島之内の遊廓で、鳴り物入り、より華やかではでな演出がとられています。東京は文治が代々明治期では、六代目桂文治の速記が残るほか、八代目文治も演じましたが、東京では手がける演者は少なく、大阪のものばかりです。オチは「必ず飲み過ぎはならんぞ」とする場合もあります。

名物、吉原の夜桜

仲の町の夜桜は、灯籠、吉原俄とともに吉原三大名物の一つでした。起源は寛延元年(1748)、石井守英という絵師が江ノ島弁財天のご神体修復を志した時、吉原の廓主連がその費用を請け負い、江ノ島の桜は古来からの名物なので、それに便乗して翌年3月、修復後初のご開帳を前に廓内にも花を植えることにしたことに遡ります。この植樹が宣伝を兼ねていたことは間違いなく、堺町の芝居ともタイアップして、華々しいイベントを繰り広げたことが、吉原細見に見えます。

明治中期には、三河島の植木屋惣八という者が毎年植樹を請け負っていたことが、六代目桂文治のマクラにあります。無尽無尽講ともいい、講親と呼ばれる世話人が、仲間を集めて掛け金を募り、そのプールした金を講中の仲間が必要に応じて借り合うもの。いわば共済基金のようなものです。定期的に寄り合いを開いて入札を行い、大山参り、富士まいりなどの費用としても利用されました。頼母子講も同じようなものです。

六代目桂文治のくすぐり

●若だんなが茶屋のお内儀に遅れた言い訳
「ジが起こった(=怒った)んで出られなかった」
「お痛みじゃありませんか?」
「その痔じゃねえ。オヤジだ」

【RIZAP COOK】

おふみ 演目

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高座ではあまりかからない、珍しい噺です。

別題:お文さん(上方) 万両(上方)

【あらすじ】

日本橋あたりの酒屋のだんな。

愛人のいることがおかみさんにばれ、今後、決して女の家には近寄らないと誓わされた。

ある日、赤ん坊を懐に抱いた男が、店に酒を買いにくる。

ついでに祝い物を届けたいから、先方に誰かいっしょについてきてほしいと言うので、店では小僧の定吉をお供につけた。

ある路地裏まで来ると、男は定吉に、
「少し用事ができたから、しばらく赤ん坊を預かってほしい」
と頼み、小遣いに二十銭くれたので、子供好きの定吉は大喜び。

懸命にあやしながら待っていたが、待てど暮らせど男は現れない。

定吉が困ってベソになったところへ、番頭がなぜかおあつらえ向きに路地裏へ現れて、定吉と赤ん坊を店に連れて帰る。

さては捨て子だというので、店では大騒ぎ。

案の定、男が買った樽に、
「どうか育ててほしい」
という置き手紙がはさんであった。

おかみさんは、もう子供はできないだろうとあきらめかけていた折なのですっかり喜び、家の子にすると言って聞かない。

だんなも承知し、
「育てるからには乳母を置かなくてはならない」
と、さっそく、蔵前の桂庵まで出かけていった。

ところが、だんなが足を向けたのは、なんと、切れたはずの例の女の家。

所は柳橋同朋町。

実は、これはだんなの大掛かりな狂言。

愛人のおふみに子供ができてしまったので始末に困り、おふみの伯父さんを使って捨て子に見せ掛け、おかみさんをだまして合法的に(?)赤ん坊を家に入れてしまおう、という魂胆だった。

その上、おふみを乳母に化けさせて住み込ませよう、という図々しさ。

もちろん、番頭もグル。

こうして、うまうまと母子とも家に引き取ってしまう。

奥方はすっかりだまされ、毎日赤ん坊に夢中。

そのせいか、日ごろの焼き餅焼きも忘れて「乳母」のおふみまで気に入ってしまう。

一方、だんなはその間、最後の工作。

問題は定吉で、これも、ふだん、だんなに買収され、愛人工作にかかわっていたため、妾宅にも出入りし、もちろんおふみの顔を知っている。

で、魚心あれば水心。

「口をつぐめば小遣いをやる」
と約束して、こちらも落着。

だが、定吉はふだんからおふみに慣れているから、ついおふみを「さま」付けで呼んでしまうので、あぶなっかしい。

「いいか、乳母に『さま』なんぞつける奴はねえ。うっかり口をすべらして『さま』付けなんぞしてみろ、ハダカで追い出すからそう思え」

数日は無事に過ぎたが、ある日、おかみさんがひょっと気づくと、だんながいない。

「ちょいと、定吉や。だんなはどこにおいでだね」
「ちょいとその、おふみさ、もとい、おふみを土蔵によんでいらっしゃいます」

昼日中から乳母と二人で土蔵とは怪しいと、おかみさん、忘れていた嫉妬が急によみがえり、鬼のような形相で土蔵へ駆け込む。

ガラリと戸を開けると、早くも気配を察しただんな、
「我先や人や先、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、今日とも知らず明日とも知らず、遅れ先立つ人は本の雫」

おかみさんは面食らって、
「ちょいと定吉、どういうことだい。おふみじゃないじゃあないか。だんなさまが読んでいるのは、一向宗の『おふみさま』だよ」
「でも、『さま』をつけると、ハダカで追い出されます」

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【しりたい】

「権助魚」とのかかわり

原話は不詳で、上方落語で「万両」または「お文さん」と呼ばれる切りねたが東京に移植されたもの。移植者、時期などは不明ですが、明治32年(1899)、40年(1907)の二代目三遊亭小円朝の速記が残っています。この小円朝は、五代目古今亭志ん生の最初の師匠です。「いだてん」にも出ていました。

上方の「万両」の演題は、舞台である大坂船場の酒屋の名からとったものです。上方版では、下女がだんなとおふみの濡れ場を目撃、ご寮人さんに告げ口して、ことがバレる演出になっています。

この噺にはもともと、現在は「権助魚」「熊野の牛王」として独立して演じられる「発端」がついていて、明治23年(1890)、二代目古今亭今輔が「おふみ」の題でこの発端部分を演じた速記が残っています。後半との筋のつながりはなく、いかにもとって付けたようで、本当にもともと一つの噺だったかどうかさえ怪しいものです。

おふみさま

浄土真宗東本願寺派(大谷派)で、本願寺八世蓮如上人が真宗(一向宗)の教義を民衆向きにやさしく述べた書簡文154編を総称していうものです。門徒は経典のように暗記し唱えます。

ここでは、だんなの女の名が同じ「おふみ」であることがミソです。これが当然伏線になっていますが、ストーリーに起伏があって、なかなかおもしろい噺なのに、現在演じ手がいないのは、特定の宗派の教義に基づくオチが、一般にはわかりにくくなっているせいでしょう。場所の設定が 柳橋同朋町 であることも念仏系宗派(浄土宗、浄土真宗、時宗など)とのかかわりをにおわせていますね。

かんぐれば、この噺は、本願寺の熱烈な門徒により教派の布教宣伝用に作られたのではと、思えないではありません。げんにその手のはなしはいくらでもあります。それもはなしの成り立ちのひとつととらえられます。

落語世界の登場人物で、浄土真宗の熱烈な信者といえば「後生鰻」の隠居、「宗論」のオヤジが双璧です。

桂庵

けいあん。慶庵、口入れ屋とも。就職斡旋所です。

男女の奉公人の斡旋、雇われる側の職業紹介を兼ね、縁談の斡旋までしたとか。人の出入りが激しいためか、花街、遊廓の近くに集まっていました。

江戸で最も有名なのは「百川」に登場する葭町の千束屋ですが、岡本綺堂(劇作家)は、この店の所在地を麻布霞町といっています(『風俗江戸物語』による)。おそらく支店なのでしょう。

「おふみ」では、蔵前第六天社の「雀屋」に設定することが多くなっています。

【語の読みと注】
桂庵 けいあん:就職斡旋所。慶庵、口入れ屋とも
形相 ぎょうそう
切りねた きりねた:真打しか演じられない大ネタ
ご寮人さん ごりょんさん:若奥さん。上方中流以上の商家で

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立ち切り たちきり 演目

★auひかり★

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築地の美代吉と新三郎のいきなしんねこ四畳半。もとは上方の人情噺です。

別題:立ち切れ線香(上方)

【あらすじ】

昔は芸妓の花代を線香の立ち切る(=燃え尽きる)時間で計ったが、そのころの話。

築地の大和屋抱えの芸妓美代吉は、質屋の若だんな新三郎と恋仲。

互いに起請彫りをするほどだが、ある日、湯屋で若い衆が二人の仲を噂しあっているのを聞き、逆上したのが、美代吉に岡惚れの油屋番頭九兵衛、通称あぶく。

この男、おこぜのようなひどいご面相なので、美代吉が嫌がっていると同じ湯船にいるとも知らず、若い衆がさんざん悪口を言ったので、ますます収まらない。

さっそく、大和屋に乗り込んで責めつけると、美代吉は苦し紛れに、お披露目のため新三郎の親父から五十円借金していて、それが返せないのでしかたなく言いなりになっていると、でたらめを言ってごまかした。

自分はわけあって三年間男断ちをしているが、それが明けたらきっとだんなのものになると誓ったので、久兵衛も納得して帰る。

美代吉は困って、新さんに相談しようと手紙を書くが、もう一通、アリバイ工作をしようと、久兵衛にも恋文を書いたのが運の尽き。

動転しているから、二人の宛名を間違え、新三郎に届けるべき手紙を久兵衛の家に届けさせてしまう。

それを見た久兵衛、文面に久兵衛のべらぼう野郎だの、あんな奴に抱かれて寝るのは嫌だのと書いてあるから、さてはとカンカン。

美代吉が新三郎との密会場所に行くために雇った船中に潜み、美代吉の言い訳も聞かばこそ、かわいさ余って憎さが百倍と、匕首で、美代吉をブッスリ。

あわれ、それがこの世の別れ。

さて、美代吉の初七日に、新三郎が仏壇に線香をあげ、念仏を唱えていると、現れたのが美代吉の幽霊。

それも白装束でなく、生前のままの、座敷へ出るなりをしている。

新三郎が仰天すると、地獄でも芸者に出ていて、大変な売れっ子だという。

なににしても久しぶりの逢い引きなので、新三郎の三味線で幽霊が上方唄、いいムードでこれからしっぽり、という時、次の間から
「へい、お迎え火」

あちらでは、芸妓を迎えにくる時の文句と聞いて新三郎
「あんまり早い。今来たばかりじゃないか」
「仏さまをごらんなさい。ちょうど線香がたち切りました」

底本:六代目桂文治

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【しりたい】

上方人情噺の翻案

京都の初代松富久亭松竹(生没年不詳)作と伝えられる、生っ粋の上方人情噺を、明治中期に東京に移植したもので、移植者は三代目柳家小さんとも、六代目桂文治ともいわれています。

文化3年(1806)刊の笑話本『江戸嬉笑』中の「反魂香」が、さらに溯った原話です。

東京では「入黒子」と題した明治31年(1898)12月の六代目桂文治の速記が最古の記録で、その後三代目春風亭柳枝、八代目三笑亭可楽を経て、柳家小三治が継承しています。あらすじは、古い文治のものを参考にしました。文治は、ねっとりとした上方の情緒あふれる人情噺を、東京風に芝居仕立てで改作しています。

「芸者」は吉原だけ

江戸時代までは、正式に「芸者」と呼ぶのは吉原のみの特権でした。ほかの花街では「酌人」という建前でした。

線香燃え尽き財布もカラッポ

芸者のお座敷も、お女郎の「営業」も原則、線香が立ち切れたところで時間切れでした。線香が燃え尽きると、客が「お直し」と叫び、新たな線香を立てて時間延長するのが普通でしたが、「お直し」のような最下級の魔窟では、客引きの牛太郎の方が勝手に自動延長してしまう図々しさです。明治以後は、時計の普及とともにさすがにすたれましたが、東京でも新橋などの古い花柳界では、かなり後までこの風習が残っていたといいます。

上方噺「立ち切れ線香」

現在でも大阪では、大看板しか演じられない切ネタです。

あらすじは、以下の通り。

若だんなが芸者小糸と恋仲になり、家に戻らないのでお決まりの勘当となるが、番頭の取り成しで百日の間、蔵に閉じ込められる。

その間に小糸の心底を見たうえで、二人をいっしょにさせようと番頭がはかるが、蔵の中から出した若だんなの恋文への返事が、ある日ぷっつり途絶える。

若だんなは蔵から出たあと、このことを知り、しょせんは売り物買い物の芸妓と、その不実をなじりながらも、気になって置屋を訪れると、事情を知らない小糸は捨てられたと思い込み、焦がれ死にに死んだという。航海した若だんなが仏壇に手を合わせていると、どこからか地唄の「ゆき」が聞こえてくる。

「…ほんに、昔の、昔のことよ……」

これは小糸の霊が弾いているのだと若だんなが涙にくれると、ふいに三味線の音がとぎれ、
「それもそのはず、線香が立ち切れた」

【語の読みと注】
花代 はなだい:芸妓や娼妓などへの揚げ代
揚げ代 あげだい:芸妓や娼妓などを揚屋に呼んで遊ぶ代金。=玉代
揚げ屋 あげや:遊里で遊女屋から遊女を呼んで遊ぶ家
遊女屋 ゆうじょや:置き屋
置き屋 おきや:芸妓や娼妓を抱えておく家
芸妓 げいぎ:芸者、芸子
娼妓 しょうぎ:遊女、公娼
起請彫り きしょうぼり:腕に「〇〇命」や親指の付け根に入れ黒子
入れ黒子 いれぼくろ:いれずみ
匕首 あいくち
入黒子 いれぼくろ

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大どこの犬 おおどこのいぬ 演目

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 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

動物が主人公の上方噺。大富豪に飼われていた犬の物語です。

別題:鴻池の犬(上方)

【あらすじ】

日本橋石町の、さる乾物屋で、朝、表戸を開けようとすると、なにかが引っ掛かっているのか、開かない。

小僧が裏口から回って見てみると、戸袋のところに箱が置いてあり、中には白と黒とぶちの犬の赤ん坊。

川の中に放り込んでも寝覚めが悪いから、飼ってやることにしたが、そのうち、黒いのを小僧が大変かわいがり、兄弟同然にして育てた。

ある日、商人風の男が尋ねてきて、主人にお宅の黒犬を譲ってほしいと、五両差し出す。

飼い主の小僧は品川に使いに行って留守なので、一日返事を待ってもらったが、翌日の昼、男がやってきても小僧はまだ戻らない。

これ以上引き延ばすことはできないので、事情によっては独断で決めようと主人がわけを尋ねた。

男は大坂鴻池の、東京の出店の者。

主人の坊ちゃんがかわいがっていた黒犬が死んだので代わりを探しているが、その犬は熊そっくりに喉に月の輪型の差し毛があり、そっくりなのがなかなか見つからずに困っていたところ、たまたま、ご当家の犬が同じ所に同じ形の月の輪があるのを見てお願いにあがった、決して殺して生き血を取るというような料簡はなく、大坂へ連れて帰って坊ちゃんの遊び相手をするだけだから、ぜひ譲ってほしいと事を分けて頼むので、主人も、鴻池のような大家にもらわれれば、クロもぜいたくができ、出世だからと、その場で承知して犬を引き渡す。

大坂にもらわれたクロは、下にも置かず大切にされ、エサがいいせいか、毛もつやつやとして、体もずんずん大きくなった。

いつしか近所の犬どものボスになり、「鴻池のクロ」といえば知らぬ者はないぐらいのはぶり。

ある日、クロが門前で日向ぼっこをしていると、見慣れない、みすぼらしい灰色の犬がよたよたと現れる。

おっそろしく汚いので
「てめえは何者だ」
「へえ、このへんに鴻池のクロさんてえ方が」
「クロはオレだ」
「あっ、兄さん、お懐かしゅうございます」

よく見ると、犬は末の弟のシロ。

兄弟感激して対面をして、わけを尋ねると、自分がもらわれた後、それを知った小僧が大変に怒って、腹いせにシロと中の弟のブチは家を追いだされた、という。

二匹で食うや食わず、掃き溜めでゴミあさりをしていた。

突然、野犬狩りの太い棒が飛んできて、ブチは
「キャーン」
と言ったのが、この世の別れ。

シロは一匹になって、上の兄貴を頼ろうと艱難辛苦の末、ボロボロになって大坂にたどり着いたとやら。

聞いたクロ、
「オレに任せておけばもう心配いらねえ。エサはゲップが出るほどもらえるし、オレの犬小屋は人間サマが寝られるくらい広いから、二、三匹来たって驚きゃしねえ、大船に乗った気でいろ」
と請け合い、
「クーロ、クロクロクロクロ」
と呼ばれるたびに、鯛だのカステラだのを、弟に持ってきてやる。

シロは食べたことのないものばかりで、目をシロクロ。

また
「クーロ、クロクロ」
と兄貴が呼ばれたから、今度はどんなものを持ってくるかと期待して待っていると、今度はしおしおと手ぶらで、
「坊ちゃんのオシッコだった」

【しりたい】

上方落語の逆輸入版

原話は、安永2年(1773)刊の笑話本『聞上手』中の「犬のとくゐ」。 

これは、オチを含む後半部分の原型で、黒とブチ、二匹の犬の会話になっています。「黒こいこい」と呼ぶ声がするので、何かエサでももらえるのだろうとブチに促されて黒が行ってみると、「子供の小便だった」というたわいないもので、これは、上方で子供に小便させる時の「クロクロクロ」(またはシーコイコイ)を利かせたものです。

この原話を含む笑話本は、江戸のものですが、落語としては上方で、「鴻池の犬」として磨かれました。

桂米朝は「題名を明かさずに演じた方が、初めの捨て子のくだりがおもしろい」と述べています。オチは、今では「クロクロ」がわかりにくいので、米朝は「コイコイコイ」とやっています。

東京版は「彦六十八番」

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明治30年(1897)ごろ、初代三遊亭円左が東京に「逆輸入」しました。円左は大阪のものをそのままやっていましたが、のちに三代目三遊亭円馬が「大どこの犬」と改題して東京風に演じ直し、鴻池を岩崎、犬が最初に拾われる場所を、大坂南本町から江戸日本橋石町と変えました。

円馬の芸の愛弟子だった八代目桂文楽は手掛けることなく、東京では戦後、上方の桂文次郎直伝のものを八代目林家正蔵(彦六)が再構成し、十八番にしました。

正蔵は、もらわれ先を再び大坂鴻池に戻し、犬がはるばると東海道を下っていくことにして、噺に奥行きとスケールを出していました。その没後は、三遊亭円窓が継承して演じるほか、最近は、地味ながらアットホームな一種の人情譚として若手の高座にも取り上げられているようです。

鴻池善右衛門

鴻池の始祖新六は、講談で名高い山中鹿之助の次男と伝えられます。

その子、初代善右衛門が、摂津鴻池村で造り酒屋を営んだことから家名がつき、初代は海運業に進出する傍ら、明暦2年(1656)、大坂内久宝寺町に両替屋を開き、延宝2年(1674)、現在の大阪市東区今橋2丁目に本拠を移しました。

以来、大名貸しや新田開発などで巨富を築き、「今橋の鴻池」といえば、全国どこでも富豪の代名詞で通るほどになりました。

上方落語では「三十石」「莨の火」「占い八百屋」などに数多くその名が出ていて、明治までで十代を数えます。

十代目善右衛門(1841-1920)は、明治10年(1877)に第十三国立銀行を設立するなど、明治大正の関西財界に君臨しました。

黒犬の生き血

難病治療に効果があると信じられました。ヨーロッパでも黒犬は魔力を持つものと見なされ、黒ミサや呪術でしばしば生贄とされていました。

大どこ

東京版のタイトルですが、大金持ちの意味です。「オオドコロ(大所)」が略されたものでしょう。「犬になるとも大どこ(所)の犬になれ」という諺があり、意味は「寄らば大樹の陰」と同じです。

【語の読みと注】
石町 こくちょう
鴻池 こうのいけ

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近江八景 おうみはっけい 演目

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うんちく垂れ流しのはなし。ちょいとオチが苦しいですが、けっこう笑えます。

【あらすじ】

ある男。

ゆうべ吉原に繰り込んだ兄弟分に、その同じ店の、自分のなじみのお女郎のようすを根堀り葉掘り、しつこく聞いてくる。

その女とは年期が明ければ夫婦になると口約束はしてあるものの、そこはお女郎のこと、自分が行かない時になにをしているか、気になってたまらないわけ。

案の定、別に色男がいるらしいと聞いて、兄さん、カンカン。

しかもその色男、白雪姫ではないが、色白で髪黒々と、目がぱっちりとして男振りもよく、背が高くもなく低くもなく、という、まあ、ライバルとしては最悪。

なお悪いことに、女はもっか、この男に血道をあげ、牛を馬に乗り換えて夫婦約束まで取り交わしている、ということまで知れた。

「おまえのツラじゃあ血道は上がらないわ。女の血道があばら骨で止まるね。おまえのは道普請ヅラ、市区改正ヅラ」

兄弟分にまで言われ放題。

「男は顔じゃねえ」
と強がってみても、内心はカリカリなので、女の本心を、横丁の占いの名人に見立ててもらうことにした。

易者の先生、おもむろに算木筮竹をチャラチャラさせ、
「えー、出ました。易は沢火革。革は改めるということだから、おまえさんのところにこの女が来年の春には来るね」

さあ、男は大喜び。

「聞いたか、オタンチンめ。アッタカクだ。アッタカクってえのは、女房来ればお粥を炊いて暖まるってこった。ざまあみろ」

ところが、まだ続きがあった。

「ああ、お待ち。沢火革を変更すると水火既済となる。つまりだ、来るには来ても、ほかに夫婦約束をした者がいるから、しまいには出ていくから、まあ、おあきらめなさい」
「ベラボウめ。なにが名人だい。せっかく暖めといて、勝手に変更されてたまるか。だいいち、そのスイカキセイってのが気に入らねえ。てめえ、八卦見だってんなら、近江八景で見てくれ。さもなきゃ道具をたたっこわすぞ」
と、女から来た
「あんたを一目三井寺から、心は矢橋にはやれども」
という、近江八景尽くしの恋文を突きつける。

脅されて先生、しかたなく
「それではこの易を近江八景で見ようなれば、女が顔に比良の暮雪ほどお白粉を付けているのを、おまえは一目三井寺より、わがものにしようと心は矢橋にはやるゆえ、滋賀唐崎の夜雨と惚れかかっても、先の女が夜の月。文の便りも堅田より、気がそわそわと浮御堂、根が道落雁の強い女だから、どう瀬田いはまわしかねる。これは粟津に晴嵐がよかろう、おい待った、帰るなら見料を、おアシを置いておいで」
「近江八景には膳所(=金)はねえ」

底本:六代目三遊亭円生

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【しりたい】

上方の発祥

原話は不詳で、同題の上方落語を東京に移植したものです。上方落語研究家の故・宇井無愁は、この噺の類話として、安永10年(1781)刊『民話新繁』中の「鞜の懸」を挙げています。

これは、鞜(=靴)屋の手代が、さる公家のところへ盆前の掛け取りに行くと、公家が、手代が持参した主人の書付を見て、「書き出す十三匁 鞜の代 内二百文 七月に取る」と、和歌になっていたので喜び、さっそく、「近江路や 鞜の浦舟 かぢもなく 膳所の松原 まはるまで待て」。要するに、「ゼゼができるまで待て」と返歌したという能天気な話ですが、「膳所」と「ゼゼ」の駄ジャレということ以外、「近江八景」との関連性ははっきりしません。

上方のやり方では、松島遊廓の紅梅という女に惚れた男が、大道易者に見立ててもらう筋です。艶書になっている近江八景づくしも、東京の易者のより名文で、「恋しき君のおもかげを、しばしがほどは見い(=三井)もせで、文の矢ばせの通い路や、心かただ(=堅田)の雁ならで、われからさき(=唐崎)に夜(=寄る)の雨……」といった名調子です。

風流すぎて、継承者なし

東京では、明治の四代目春風亭柳枝が手掛け、移植したのはこの人では、とも見られますが、不明です。

次いで古いところでは、六代目林家正蔵(今西の正蔵、1929年没)の、おそらく大正初期の吹き込みによるレコードが残されていますが、これは珍品、骨董品の部類。

昭和以後では、六代目三遊亭円生が得意にし、「円生百席」にも録音している通り、いかにも円生好みの粋できれいな噺です。三代目三遊亭金馬、五代目三升家小勝もたまに演じ、金馬のレコードもありますが、あまりに風流すぎ、今では手を出す人はいない、と言いたいところですが、じつは古今亭志ん朝がやっていました。

近江八景

近江八景を整理します。

三井寺の晩鐘
石山の秋月
堅田の落雁
粟津の晴嵐
矢橋の帰帆
比良の暮雪
唐崎の夜雨
瀬田の夕照

「堅田の落雁」は「浮御堂」と変わることがあります。初代安藤広重の続絵が有名です。

洒落のうち、「心が矢橋(やばせ)」は、「心だけがあせって矢のように(相手の所に)走る(=馳せる)」を掛けたもの。

「唐崎の夜雨と惚れかかる」は「雨が降りかかる」の駄ジャレ。「粟津に晴嵐」は「逢わずに添わん」の地口。

「膳所」は、もちろん銭の幼児語と掛けてあるわけですが、膳所(滋賀県膳所市)が近江八景に入っていないので、このオチが成立するわけです。

「瀬田いは廻しかねる」は、「世帯が回しかねる」、つまり家計がピンチということですが、「瀬田が唐橋(=世帯が空走り。金欠のこと)」とする場合もありました。

円生好みの粋な味わい

この噺、易の名人が登場する人情噺「ちきり伊勢屋」の冒頭によく似ているので、六代目円生は『円生全集別巻』の補説で、あるいはこの噺は「ちきり伊勢屋」の前半を独立させた上、近江八景の部分を後から付けたものではないか、と述べています。

ところで、円生の「掛取り万歳」には、芝居好きの酒屋に近江八景づくしで借金の言い訳をする場面があります。

その項と重複しますが、以下、そのやり取りをノーカットで。

主「その言い訳はこれなる扇面」
酒「なに、扇をもって言い訳とな……『雪はるる、比良の高嶺の夕まぐれ、花の盛りを過ぎし頃かな』……こりゃこれ、近江八景の歌。この歌もって、言い訳とは」
主「心やばせと商売に、浮御堂(=憂き身を)やつす甲斐もなく、膳所(=ゼゼ)はなし城は落ち、堅田に落つる雁(かりがね=借り金)の、貴殿に顔を粟津(=合わす)のも、比良の暮雪の雪ならで、消ゆる思いを推量なし、今しばし唐崎の」
酒「松で(=待って)くれろというなぞか。シテ、その頃は?」
主「今年も過ぎて来年の、あの石山の秋の月」
酒「九月…下旬か」
主「三井寺の鐘を合図に」
酒「きっと勘定いたすと申すか」
主「まず、それまではお掛取りさま」
酒「この家のあるじ八五郎」
主「来春お目に」
両人「かかるであろう」

明らかにこの入れごとは「近江八景」の趣向を取り入れたものでしょう。

パクリ文化

「〇〇八景」は、もともと10世紀に北宋で選ばれた「瀟湘八景」がモデルです。これに影響を受けて、広く東アジア一帯に「八景」文化が残っています。

たとえば、茨城県高萩市には「松岡八景」というのがあります。江戸時代、当時の領主中山信敬が儒者亀里亀章に選ばせたものだそうですが、元ネタがあるのでそれに見合った場所を選定するだけの労力で済みます。

竜子の晴嵐
二本松の秋月
関根の夕照
永田の落雁
能仁寺の晩鐘
天南堂の暮雪
荒崎の夜雨
高戸の帰帆

元祖「瀟湘八景」のパクリです。こんなが日本中いたるところにあり、今では饅頭や最中なんかが販売されています。経済と交通の発達で18世紀に開花した地方文化のあらわれとして、お国自慢と中国の風流文化とがむすびついた結果といえます。

念のため、「瀟湘八景」を載せておきます。瀟湘とは、洞庭湖から流れ出る瀟水と湘江の合流するあたりをいいます。古くから風光明媚で豊かな水郷地帯として知られています。湖南省長沙市のあたりです。

瀟湘夜雨 しょうしょうやう:瀟湘の上にもの寂しく降る夜の雨の風景
平沙落雁 へいさらくがん:秋の雁が鍵状に干潟に舞い降りる風景
煙寺晩鐘 えんじばんしょう:夕霧に煙る遠くの寺の鐘の音を聞く夜
山市晴嵐 さんしせいらん:山里が山霞に煙って見える風景
江天暮雪 こうてんぼせつ:日暮れの河の上に降る雪の風景
漁村夕照 ぎょそんせきしょう:夕焼けに染まるうら寂しい漁村風景
洞庭秋月 どうていしゅうげつ:洞庭湖の上にさえ渡る秋の月
遠浦帰帆 えんぽきはん:帆かけ舟が夕暮れに遠くから戻る風景

「近江八景」も「松岡八景」も出元は同じ、というわけです。

【語の読みと注】
算木 さんぎ:易で使う四角の棒。約9cm、6本でセット
筮竹 ぜいちく:易で使う竹ひご状の棒。35cm~55cm、50本でセット
沢火革 たくかかく:易の結果で、衝突から変化が起きる状態
水火既済 すいかきせい:易の結果で、小さい願い事はかなう状態
膳所 ぜぜ
鞜の懸 くつのかけ
浮御堂 うきみどう
矢橋 やばせ
瀟湘八景 しょうしょうはっけい

【古今亭志ん朝 近江八景】

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浦島屋 うらしまや 演目

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浦島太郎のパロディー。きてれつ千万、すこぶるのんきな噺です。

別題:水中の球 小倉船(上方)

【あらすじ】

横浜の弁天通りで鼈甲屋を営む、浦島多左衛門のせがれ、太郎。 この若だんな、ハイカラ好きで、人がやらないことをやってみたいと、いつも考えている。 「いっそ、親父を女郎に売って、おふくろを兵隊にしてしまおうか」 などと考えている矢先、ご機嫌伺いに現れたのが、幇間の桜川船八。 この男の悲運はここが始め。 若だんなは、 「今度こそ極めつけの大きなことをやってみようと思っている」 「へえ、なんでゲス」 「水中旅行さ」 大きなガラス球の潜水艇があるからそれに乗って行く、という。 なんでも、金魚鉢の親玉のような代物で、大きさは二畳敷。 最近、有名な理学士の先生が発明したのを、安く借りられる手はずだとか。 郵船会社に頼んで、船で上からぶら下げてもらえば、管が付いていて息もできるし、ゆうゆうと海底探検が楽しめるというので、船八、ぜひお供をと飛びついた。 そういう次第で、若だんなは万事手配りし、両親にいとま乞いすると、船八ともども汽笛一声新橋を、はや、わが汽車は離れたり。 あっという間に、安芸の宮島までやって来た。 さっそく海中に潜り、いろいろな珍しい魚を見物して喜んでいると、向こうから金ピカの着物を着た男が近づいて「われは竜神なり」とあいさつ。 なんでも、龍宮の乙姫が、日本から美男子両人が海底旅行に来るとの話を伝え聞き、ぜひお連れせよとの命令だという。 案内されて着いてみると、近ごろは龍宮も文明開化で開け、市区改正なども行って、メインストリートは酒屋に汁粉屋に寺に洋館と、なんでもあって、なかなかにぎやか。 人力車は車海老が引いている。 宮殿に着くと下にも置かない大歓迎。 乙姫さまは当たり前だが絶世の美女で、そのほか腰元も美人ぞろいなので、二人が鼻の下を伸ばしていると、乙姫は玉手箱を贈り物にくれる。 命令一下で、数寄屋橋を始め東京中の橋という橋があいさつに来たりで、のめや歌えの大騒ぎ。 そのうち、若だんなはシャバが恋しくなりだし、船八と相談して、二人で玉手箱を持ち、蓬莱の亀にまたがってトンズラ。 「それ、浦島が脱走した」 と追手がかかったので、あわてた拍子に玉手箱を落として壊してしまった。 たちまち二人はハゲ頭に総白髪。 それでもようやく横浜の店にたどり着くと、だいぶようすが変わっていて、中から鉦をたたく音。 二人が入って行くと、腰の曲がった爺さんと婆さんが現れ、見るなり「幽霊だっ」と騒ぐ。 よくよく話を聞けば、二人が行方不明になってからはや半世紀。 親父は九十、おふくろは八十五。 ちょうど若だんなの五十回忌法要の最中で、生まれたばかりだったせがれはもう五十。 後を継いで子供、若だんなには孫までいる。 これでめでたく三夫婦そろい。 船八、 「だんな、あちらからお戻りになったのはまったく年の功でしたね」 「いや、亀の甲で帰った」

底本:初代三遊亭円遊

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色あせた「円遊流」

原話は延享4年(1747)刊の笑話本『軽口花咲顔』中の「水いらず」です。この小咄の筋は以下の通り。 若だんなの言いつけで、海底に沈んだ難破船の黄金を探すために、ガラス玉に入って水中に潜った男が、見つけた金銀を早く取れとせかされ、「あっ、手が出ない」とオチになります。 この原話をほぼ踏襲した形で、従来同題で演じられていた噺を、大坂の林家系の祖といわれる林屋蘭丸(生没年不詳、文化文政期か)が上方落語「小倉船」としてまとめたものともいわれますが、この人の実在自体がはっきりせず、真偽は不明のままです。 初代三遊亭円遊が明治中期に東京にこの話を移すとともに、時代に合わせて改作したものと見られます。円遊の速記は「水中の球」と題した、明治25年(1892)のものが残っています。 「体内旅行」などと同じく、明治維新後、急激に流れ込んだ科学的知識を、いかにも聞きかじりで中途半端に取り入れ、発想自体は古めかしいままだったので、現実の世の中の進歩に取り残されたこの種の噺は、短期間で飽きられ、すたれました。この噺も円遊以後は口演速記がありません。

「小倉船」

本家上方の「小倉船」のあらすじは、以下の通り。 九州小倉と大坂を往復する船に乗り込んだ男が、三十両の大金を海に落としたので、あわてて大きなガラスのフラスコに入り、潜って探すうちにフラスコが割れ、海底に沈むとそこが龍宮。乙姫がこの男を浦島と間違えて歓迎したので、いい気になって楽しんでいると、本物の浦島が亀に乗って現れたので逃げようと駕籠に乗るが、駕籠かきが猩猩で「駕籠賃は少々(猩猩)だが、酒手が高い」とオチるものです。 この噺は上方落語では、連作シリーズの「西の旅」の一部で、厳密には金を海に落とすところまでが「小倉船」、そのあと、フラスコで金を探しに海中にもぐるくだりになり、この部分は「フラスコ」または「水中の黄金」「天国旅行」とも呼ばれます。結びの竜宮のくだりは、上方の別題は「竜宮界竜の都」です。 東京の改作「浦島屋」が、時流に便乗しようとしてかえって早く消えたのに対し、「小倉船」の方は、古風な演出をそのまま残したためか「希少価値」で、現在も演じられます。 桂米朝の速記が『桂米朝コレクション』(ちくま文庫)第二集に収録されています。現在では「フラスコ」「竜宮界」をひっくるめて「小倉船」で演じるのが一般的です。戦後、東京に在住して上方落語をオリジナルで演じた桂小文治が得意にし、そのため東京でも、今では「小倉船」の方がよく知られています。

郵船会社事始

維新後、明治政府は海運業を発展させるため、郵船業、海運業を一手に三菱に独占させました。その後明治14年(1881)の北海道官有物払い下げ事件で政府と三菱への攻撃が高まり、翌年、三井系の共同運輸会社が設立されましたが、政府は三菱汽船と合併させ、明治19年(1886)に日本郵船が発足、財閥による郵船事業の独占体制が固まりました。

市区改正

明治2年(1869)、明治政府による「朱引き」が行われ、東京の市街地の境界が定められました。これは、幕府の行政区画であった「御朱引内」を踏襲したものですが、明治4年(1871)、さらに市内を六大区・九十七小区に分け、6年(1873)には朱引内(旧江戸市街)六大区、朱引外五大区に改編。明治11年(1878)には、朱引内が十五区に再編成され、ほぼ大筋が固まりました。 【語の読みと注】 鼈甲屋 べっこうや 鉦 かね 駕籠かき かごかき 猩猩 しょうじょう:中国の想像上の怪獣。オランウータンみたいな 酒手 さかて:①酒の代金。②心づけの金銭 自宅で始めて、年収1,300万円以上が可能

梅見の薬缶 うめみのやかん 演目

【RIZAP COOK】

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「勘違い」がテーマのはなしですね。

別題:癪の合薬 薬缶なめ 茶瓶ねずり(上方)

【あらすじ】

町内の源さんと八つぁん。

髪結床でバカ話をしているうちに、ちょうど向島の花屋敷の臥龍梅が見ごろなので、梅見としゃれこもうと話がまとまり、さっそく舟に乗り込む。

ちょうど相客に、十八くらいのきれいなお嬢さん。

どこか大店の娘らしく、侍女を連れている。

源さん、たちまちでれでれで、よせばいいのにずうずうしく話しかける。

この男、お世辞にもモテるタイプでなく、おまけに四十を過ぎて、もう頭がピカピカ。

それでも口八丁、なんだかだとお世辞を並べて気を引こうとするが、女の方がなにやら、ようすがおかしい。

いやにジロジロと、源さんの顔を見つめてばかり。

そのうち、舟が向こう岸に着き、娘の一行は三囲神社の土手を下りていく。二人がいぶかしがりながら言問橋のたもとまで来ると、後ろから先ほどの侍女が追いかけてきて、源さんに、
「お嬢さんが、いま三囲の茶店で待っているので、ぜひおいで願いたい。お願いしたいことがあります」
と頼んだから、さあ源さんは有頂天。

うまくすると、あのお嬢さんに見初められて入婿にでも、とワクワクし、ぶつぶつ文句をいう八つぁんを五円でなだめて、いそいそと二人で茶屋まで出かけていく。

ところが、案の定というか当然というか、侍女が言い出したことには、お嬢さんがこのごろ癪の持病が出て困っているが、癪には銅をなめるのが一番。

だが、このへんにはなく、難渋していたところ、あなたの頭は見たところ薬缶そっくりで、なめれば銅同様の効き目がありそうだから、ぜひにというわけ。

さあ喜んだのが八。

「どうせそんなこったろうと思った、てめえのツラはどう見ても情夫 まぶ)てえツラじゃねえ」
と、調子に乗って
「その男の頭はたいへんうまいと評判ですから、たっぷりおなめなさい」

源さん、悔しがってももう遅い。

不承不承、頭を差し出すと、お嬢さん、遠慮なくベロベロとナメナメ。

そのうち急に発作が起きたと見え、薬缶頭をガブリ。
「あら、お気の毒さま。どこもお傷がついてはおりませんか」
「なーに、傷はつきましたが、漏ってはいません」

底本:初代三遊亭円遊

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【しりたい】

スキンヘッドは口に苦し?

「金の味」、別題「擬宝珠」では、銅をなめたくなる金属嗜好症がテーマなのですが、この噺は逆に、ある種の病気には銅をなめるのがよい、という俗信に基づくものです。

原話と思われる小咄は三種あります。

最も古いのは万治2年(1659)刊の『百物語』巻下ノ四にある無題のもので、これはある男が意気がって山椒を大量になめ、むせかえって苦し紛れに、山椒でむせたときには銅をなめればよいと、通りがかりの侍の薬缶頭にいきなりかぶりつきます。

無礼者ッと、バッサリ斬られそうになりますが、往来の町衆が栄耀食いでなく、薬食いなのでご勘弁を」と取りなしてくれ、なんとか収まるというお笑い。

宝永7年(1710)刊『軽口都男』中の「薬罐」では、ハゲあたまの大金持ちの屋敷に夜、三人組の盗賊が侵入。おやじが物音で目覚め、賊が外へ盗品を運び出すのを出窓からそっとうかがっていると、月光でアタマが光り輝き、ヤカンと間違えた盗賊は、これもついでに頂こうと、むんずとつかんだので、仰天したおやじが大声でわめきます。

そうなればブッスリやる方が早いのに、賊の方もあわてて、「山椒にむせたので、通りがかりにだんなの頭を見て、やかんと勘違いしてつい、なめようと……」と、わけのわからない言い訳をするもの。

続いて明和9年(1772)刊の『鹿の子餅』中の「盗人」は、これを短くしたもので、盗人が盗品を運び出す穴を土蔵に空け、目覚めた主人が不審に思って、ピカピカ頭を穴から出したのを外にいる一味が勘違い。「あ、ヤカンから先か」というオチです。これは落語「薬缶泥」の直接の原話でもあります。

こうした小咄を、怪談ばなしの始祖でもある初代林屋(家)正蔵(1781-1842)が一席噺にまとめたというのが野村無明庵(戦前の落語研究家)が『落語通談』で述べている説ですが、根拠に乏しく、あまりあてにはなりません。

本家上方の「茶瓶ねずり」

上方落語「茶瓶ねずり」が東京に移されたものが現行の型です。「ねずる」は、しゃぶる、なめるの意。上方のやり方では、女中を連れて野歩きしていた奥方が、へびを見て持病の癪 しゃく)を起こします。

癪は茶瓶(=薬缶)をなめれば治るというので、女中が、通りかかった薬缶頭の武士に決死の覚悟で頼んで、代用に頭をなめさせてもらうというものです。オチは供の下男と侍の会話で、東京と同じです。

あらすじは、明治26年(1893)の初代三遊亭円遊の速記を参照しましたが、これは今ではちょっと珍しい演出。東京では現在は「薬缶なめ」の演題が普通で、その場合、円遊の前半のお色気をカットした上、癪を起こすのを大家のかみさんとし、あとはほぼ上方通りに演じます。

古いオチの型と演者

オチは、古くは、侍の下男が「あなたが謡をうたって歩くから、狐が化かしたんでしょう」と言うと侍が、「狐か。道理で野干 野狐の古称。やかんと掛けた)を好んだ」とオチていましたが、分かりにくいので円遊が変えたものでしょう。

東京では長く絶えていたのを柳家小三治が復活。ただ、それ以前に、戦後東京に定住し、上方落語を広く東京に紹介した桂小文治が「癪の合薬」の名で演じました。

臥龍梅

江東区亀戸三丁目にあった伊勢屋喜右衛門の別荘「清香庵」は、「梅屋敷」の異称で知らぬ者はなかったほどの梅の名所でした。

中でも、竜がとぐろを巻くように枝がうねっているところから「臥龍梅」と名づけられた白梅は、江戸一番と賞され、シーズンには見物人が絶えなかったとか。

この梅は、吉原の名妓、初代高尾太夫から喜右衛門の先祖が譲り受けたもので、その命名者は徳川光圀でした。水戸黄門で知られた人す。

夏目漱石の有名な「修善寺大患」とともに必ず語られる明治43年(1910)の大水害で惜しくも枯れましたが、幕末に編まれた年代記『武江年表』の寛政4年(1792)の項に、「七月二十一日、亀戸梅屋敷の梅旧根消失するよし、『江戸砂子書入』といふ草書にあり」とあるので、それ以前に少なくとも一度は枯れ、接ぎ木したようです。

【語の読みと注】
臥龍梅 がりょうばい
大店 おおだな
三囲神社 みめぐりじんじゃ
言問橋 ことといばし
癪 しゃく:胃けいれん
擬宝珠 ぎぼし
栄耀食い えようぐい:美食
薬食い くすりぐい:治療食

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嘘つき村 うそつきむら 演目

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村人全員が「うそつき」という壮大な噺です。

別題:鉄砲勇助(上方)

【あらすじ】

「神田の千三ツ」と異名を取る、うそつき男。

だんなの家に久しぶりに現れ、
「信州の方へ行ってきたが、あんまり寒いので湖で鴨の足に氷が張って飛び立てなくなっているのを幸い、鎌で足だけ残してかたっぱしから刈り取った」
とか、
「そのあとに芽が出たのでカモメだ」
とか、さっそく並べ放題。

ところが、だんな、
「向島の先に、うそつき村というのがあり、そこのやつらは一人残らずうそをつくが、その中でも、鉄砲の弥八という男は、おまえよりずっと上手だ」
と言うので、千三ツ、名誉にかけてそいつを負かしてみせると、勇躍、うそつき村に乗り込んだ。

さっそく、村人に弥八の家を聞いたが、さすがにうそつきぞろい。

向かい側の引っ込んだ家だの、松の木の裏だのとでたらめばかりで、いっこうに見当がつかない。

子供なら少しはましかと、遊んでいた男の子に聞くと、
「弥八はオレのおとっつあんだ」
と言う。

そこで
「おまえんとこの親父は、見込みがありそうだと聞いたんで、弟子にしてやろうと江戸から来たんだ」
と、ハッタリをかますと、子供をさるもの、
「親父は富士山が倒れそうになったのでつっかい棒に行って留守だし、おっかさんは近江の琵琶湖まで洗濯に行った」
と、なかなかの強敵。

その上、
「薪が五把あったけど、三つ食べたから、おじさん、残りをおあがり。炭団はどうだい」
ときたから、子供がこれなら親父はもっとすごいだろうから、とてもかなわないと、千三ツは尻尾を巻いて退却。

「おじさん、そっち行くとウワバミが出るよ」
「なにを言ってやがる」

そこへ親父が帰ってきたので、せがれはこれこれと報告し
「おとっつあん、どこへ行ってたんだい」
「オレか。世界がすっぽり入る大きな桶を見てきた」
「おいらも、大きな竹を見たよ。山の上から筍が出て、それがどんどん伸びて、雲の中に隠れちまった」
「うん、それで?」
「少したつと、上の方から竹が下りてきて、それが地面につくと、またそれから根が生えて、雲まで伸びて、また上から」
「そんな竹がないと、世界が入る桶のたがが作れない」

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【しりたい】

鉄砲勇助

文化年間から口演される古い噺ですが、特定の原話は未詳です。『聴耳草紙』ほかに見られる、各地のホラ吹き民話などを基にしたものと思われます。いずれにしても、この種のホラ話は世界中に、それこそ無数に分布していて、うそつきや大風呂敷は人類普遍の病だという証です。

本来は上方落語「鉄砲勇助」で、これが東京に移植され、「弥次郎」と「うそつき村」の二つに分かれたという説があります。

上方では、「花の頓狂島ヤタケタ(でたらめ)郡うそつき村」という珍妙な名の村の、鉄砲勇助というホラ吹き名人に、大坂の嘘自慢男が挑戦しに来る設定ですが、各演者の独自の工夫を除けば、東西ともくすぐりやホラの大筋、オチなどは変わりません。

上方の演題「鉄砲勇助」は、「テンポ(うそ)を言う」という上方言葉からのシャレで、江戸(東京)の主人公弥八の異名「鉄砲」も、ここからきています。「弥八」の「八」は、もとより「うそっパチ」の「八」でしょう。

千三ツ

「せんみつ」ともいい、うそつきの代名詞。千のうち三つしか真実を言わない者の意味ですが、この表現は東京独自のものです。古くは「万八、千三ツ」と対語で使われました。

明和から安永(1764-81)にかけ、「万八」が流行語になり、「万八講釈」などという派生語も生まれました。

「千三ツ」の方はその語呂合わせとして考えられたようですが、本家の万八は早くすたれ、「千三ツ」だけが明治維新以後まで生き残りました。いずれにしても「万ナシ」「千ゼロ」でないところに極悪人ではないという、シャレのセンスがうかがえますね。

意外な大看板も

「弥次郎」は現在もさかんに高座に掛かりますが、「村」の方は、東京では一席噺としてはあまり聴かれません。

前座噺やマクラ噺扱いの軽い噺ですが、大看板では、上方では六代目笑福亭松鶴、東京では三代目三遊亭小円朝、三代目三遊亭金馬も演じました。

セルビアのひげなし男

セルビアでは、ひげなし男はうそつきで腹黒いと、古くから考えられていたようです。ヴーク・カラジッチの編纂したセルビア民話集に「うそつき村」とちょうど同パターンで、子供と水車小屋の粉ひき男が大ボラ比べをする話がありますが、その男がひげなしです。この一戦、やはり悪ガキの圧勝。独壇場で、セルビア弥八は手も足も出ません。

そのホラ話の内容は以下の通り。

○巣箱のミツバチが一匹いなくなったので、雄鶏に鞍をおいて探しに出ると、ある人がミツバチに犂をひかせ、畑を耕していた。

○取り返して家に帰ると、ちょうど父親が生まれたところ。

○洗礼用の聖水をもらおうと、天までのびたキビの茎を登って天国へ。

○天国からまっさかさまに墜落、腰まで地面にめり込んで抜けないので、仕方なく家に飛んで帰り、鍬を取ってきて自分を掘り起こした。 

○家で飼っている雌馬は、体長二日、馬幅一日。

○井戸に水汲みに行くと、水が凍っていたので、自分の頭を引き抜き、頭で氷を叩き割る。

いやあ、いくらでも出てきます。ホラにも宗教や民族性の違いが、よく表れています。世界ホラ吹き選手権をやったら、ちょっとおもしろいかも。

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牛の丸薬 うしのがんやく 演目

スヴェンソンの増毛ネット

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短い噺です。でも、けっこう複雑。

別題:牛の丸子(上方)

【あらすじ】

大和炬燵の古くなったのをいじっているうちに、これで丸薬を作ってひともうけしてやろうと思いついた甚兵衛。

炬燵に水を加えて土団子をこしらえ、仲間の喜六と二人で田舎に売りに行く。

牛の流行病の特効薬だと、甚兵衛が農民を言いくるめていくうちに、喜六が煙管で胡椒の粉を牛にかがせ、くしゃみを連発するとすかさず「丸薬」を飲ませた上、水を浴びせて胡椒を洗い流し、治してみせる。

トリックにひっかかった百姓、まんまとだまされてあたりに触れ回ったため、我も我もと殺到して、みごとに売り切れる。

思惑が当たった甚兵衛と喜六、笑が止まらない。

「全部売れた。ハハハハハ」
「あんまり笑うな。バレる」
「ハハハハ」
「笑うなってのに」
「しかし甚兵衛さん、懐が暖まったもんだね」
「当たり前だ。もとはコタツなんだから」

スヴェンソンの増毛ネット

【しりたい】

上方落語を東京に移植

上方落語「牛の丸子」を、八代目桂文治が東京に移したものです。おそらく、昭和に入ってからでしょう。

戦後、大阪から東京に出て活躍した二代目桂小文治がオリジナル版を初めて紹介。その後、九代目文治が、ここに示したような純粋な「べらんめえ版」で演じましたが、現在、東京ではやり手がありません。

「がんじ」は今でいう錠剤のことですが、わかりにくいので、現在はこの題名は使われていません。

米朝説、民話のにおい

「壷算」などと同様、一種の詐欺噺で、民話がルーツと思われますが、原話は不明です。

ちくま文庫版『桂米朝コレクション4』に、現在唯一、この噺の古格を伝えている桂米朝の速記及び解説があります。その中で同師は、「私はなんとなく民話とのつながりを感じます。(中略)大昔は、悪賢い狡い人間は、ある意味で尊敬されていたのではないか。時代とともに、古い昔がたりに教訓的なものが付加されてゆき、すべて勧善懲悪的なはなしになっていったのかと思われるのです」と、述べています。

上方版二つの流れ

米朝は五代目笑福亭松鶴(1950年没)と四代目桂文団治(1962年没)両巨匠のものを聞き覚えしたとのことですが、この噺は実際、大阪では笑福亭系統と桂派、二通りのやり方の流れがあったようです。

再び米朝師の前掲書を引用すると、「五世松鶴型の演出が文団治型と大きく違うところは、キセルにこしょうを詰めて牛の鼻に吹き込むことを、その村にかかるまで一切言わずに、土の丸薬をいったいどうするのか、聴客にもその時まで知らさないやり方」ということで、ご自身はこちらで演じているとのことです。

この噺の後継者は、米朝門下の桂枝雀と、五代目松鶴の孫弟子にあたる仁鶴。

大和炬燵

黒土の素焼で、小型のアンカです。上部が丸く、布が張ってあり、中は火鉢になっていて、たどんを入れて暖めたもの。昭和初期まで、関西では使われていました。

【語の読みと注】
大和炬燵 やまとごたつ:土製の小型の四角いあんか
煙管 きせる
胡椒 こしょう
丸子 がんじ:丸薬、錠剤

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市助酒 いちすけざけ 演目

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寒い夜は熱燗をぐうーっと、てなかんじの噺ですね。

【あらすじ】

親父の跡を継ぎ、町内の番小屋で火の番兼走り使いをしている市助という男。

まじめな男だが、酒好きなのが玉に瑕。

ある夜も酔っぱらって火の用心とでかい声を張り上げ、夜回りに歩いていると、質屋の伊勢屋の店から灯が漏れているので、戸をドンドンたたき
「火の用心、ええ火の用心、火の用心」
と、しつこく叫んで、番頭の藤兵衛に追い払われる。

だんなはこれを聞くと、
「飲んべえでも、ちゃんと役目を果たしているのだし、本来なら町内の各表店で火の番に人を出さなければならないお定めなのを、市助を雇ってやらせている、寒い夜の見回りで、酒でものまなければわずらってしまう稼業なのだから、もっとねぎらってやらなければいけない」
と諭す。

藤兵衛は反省して、
「明日の晩市助が来たら酒をおごってやろう」
と待っていたが、どういうわけかなかなか現れない。

市助の方でも、伊勢屋をしくじったと思ったから、なるべく店の前を避けて回っていたが、とうとう見つかった。

藤兵衛はさっそく店に呼び入れて、恐縮するのを無理にのませると、酒が回ってだんだん気が大きくなった市助、
「番頭さんは実に親切でいい方だ。お店の台所まで指図して火の用心を心掛けなさるし、犬にまで情け深く、煙管も銀のいいのをお使いだ」
とおべんちゃらを並べたあげく、
「もう一杯、もう一杯」
とねだって、かれこれ五合。

すっかりいい機嫌で帰る。

番小屋に戻るとそのまま寝てしまったが、見回りの時刻だと若い衆にたたき起こされ、寝ぼけ眼で酔いも醒めないまま、また回り始めた。

藤兵衛が見つけて、
「あの後またどこかで飲りやがったのだろう、また戸をたたかれて、小言の種をまかないうち、こっちからあいさつしてやろう」

「市助さん、あー、ご苦労。あたしのとこはしっかり気をつけてるよ」
「なあに、お宅は焼けたって、ようございます」

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原話

原話は元禄14年(1701)刊の上方笑話本『百登瓢箪』中の「番太郎」、安永2年(1773)刊の『再成餅(ふたたびもち)』」中の「火の用心」。

原話二話のうち、後者はごく短いもので、番太郎が裏長屋を火の番で回っているとき、ある家から呼びいれられる筋で、オチも同じですが、ごちそうになるのは、貧乏長屋らしく、ねぎ雑炊二杯と、ごくわびしいものです。

上方落語の大ネタ「下役酒」として発展した噺を、三代目柳家小さんが東京に移植したものです。

番小屋

隣町との境の四つ辻に町木戸があり、その開閉と不審者の通報、火事の際の半鐘打ちなどに任じる木戸番(番太郎)の住む木戸番屋、町費で雇う書役(町役)の詰める自身番屋がありました。

前者は普通荒物屋や駄菓子屋を営み、後者には、地借りで表通りに店を出す商人が順番に宿直(店番)しましたが、主人の代理で番頭や手代などが詰めることが多かったとか。

火の用心の見回りは、本来は店番の仕事ですが、この噺ではこれを非公式にあぶれ者の市助を雇い、「小使」としてやらせているわけです。

火の番は「二番煎じ」にも登場しますが、木戸が閉まる四ツ過ぎ(午後10時頃)から明け六ツ(午前5時頃)まで、一晩中、特にこの噺の伊勢屋のような大店には一軒一軒回って「火の用心さっしゃりましょう」と呼びかけます。

噺の発端では、伊勢屋から深夜になっても明かりが漏れているので、市助が不用心だと気を回したわけです。

その他、半鐘が鳴った場合は、火の番は太鼓を叩いて火元の方角を触れてまわる義務がありました。

やはり「本家」は大阪

現在、東京ではあまり演じられません。上方では比較的ポピュラーで、自身酒のみで、「一人酒盛り」など酒の噺を得意としていた六代目笑福亭松鶴(1986年没)が得意としていました。

オチは、東京のものは、前に番頭に怒鳴られたので気を遣うあまり、おべんちゃらで「お宅は言わなくてもちゃんとしておられますから」というところを言葉の上で失敗したとされますが、やや唐突過ぎてシャレになりません。

上方の方は「滅相な、ご当家ではどうでも大事ございません」とオチていて、こちらの方がまだ自然ですが、その分平凡になります。「大事ございません」だけならまともで、「どうでも」をつけたからあらぬ意味にとられるというわけで、こうした言葉の機微を感じとれなければ、かえって何のことか分からなくなるでしょうね。

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四段目 よだんめ 演目

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『忠臣蔵』四段目、判官切腹の場が題材。芝居好きのおかしさ爆発。

別題:芝居道楽 野球小僧 足あがり(上方) 蔵丁稚(上方)

【あらすじ】

小僧の定吉は芝居好き。

今日もお使いに出たきり戻らないので、だんなはカンカン。

この前、だんなが後をつけて、芝居小屋に入るのを見届けているので、言い訳はきかない。

「今日こそはみっちり小言を言います」
と、だんなが待ち構えているのも知らず、定吉、ご機嫌でご帰還。

問いただされると、
「日本橋の加賀屋さんへ伺っておりまして、『今日は伺いかねる用がありますから、両三日中に伺いますのでよろしく』と、おっしゃいました」
と言い訳するが、当の加賀屋のだんながつい先刻まで来ていたのだから、とうにバレている。

それでもめげずに、
「あたしは芝居なんて嫌いです。男が白粉をつけてベタベタするなんて、実に、この、けしからんもんで」

往生際が悪いので、だんなは一計を案じ、
「そんなに嫌いなら、明日奉公人を残らず歌舞伎座に連れていくが、おまえは留守番だ」
と言い渡す。

定吉が焦り出すのを見て、
「今度の歌舞伎座の『忠臣蔵』は、歌右衛門の師直と勘三郎の与市兵衛の評判がいいそうだ」
とカマをかけると、たちまち罠にかかった。

「女方の歌右衛門が敵役の師直なんぞ、やるわけがねえ。あたしは今見てきました」
「この野郎ッ。こういうやつだ。今日という今日は勘弁なりません」

二、三日蔵へ。

「出してはなりません」
と、だんなの厳命で、定吉はとうとう幽閉の身。

しかたなく、今日見てきた『忠臣蔵』四段目・判官切腹の場を一人芝居で演じて気を紛らわしているうち、車輪になって熱が入り、
「御前ッ」
「由良之助かァ、待ちかねたァ」
とやったところで、腹が減ってどうしようもなくなった。

番頭が握り飯をこっそり差し入れてくれると約束したのに、忘れてしまったらしく、いっこうに届かない。

こうなれば、本格的に芝居をして空腹を忘れようと、蔵の箪笥を探すと、うまい具合に裃とお膳が出てきた。          

その上、ご先祖が差した九寸五分の短刀まであったから、定吉、大喜びで、お膳を三宝代わりに
「力弥、由良之助は」
「いまだ参上、つかまつりませぬ」
「存上で対面せで、無念なと伝えよ。いざご両所、お見届けくだされ」
と九寸五分を腹へ。

そこへ女中がようすを見にきて、定吉が切腹すると勘違い。

あわててご注進すると、だんなも仰天。

「子供のことだから、腹がすいて変な料簡を起こしたんだ、間違いがあってはならない」
と、自分で鉢を抱えて、蔵の前にバタバタバタ。

戸前をガラリと開けると
「ご膳(御前)ッ」
「蔵のうちで(由良之助)かァ」
「ははッ」
「待ちかねたァ」

底本:六代目三遊亭円生

【しりたい】

日本一の猪?

天明8年(1788)刊の笑話本『千年草』中の「忠信蔵」が原話で、上方落語「蔵丁稚」が東京に移されたものです。

原話の小咄では、商家の若だんなが丁稚を連れてお呼ばれに行き、早く着きすぎたので二人とも腹ペコ。そこで声色で忠臣蔵ごっこをして気をまぎらわそうとし、熱が入って「いまだ参上……」のセリフになったとき二階で「もし、御膳をあげましょう」の声。若だんなが「まま(飯)待ちかねたわやい」というもの。

上方の「蔵丁稚」は、船場の商家が舞台で、筋は同じですが、桂米朝では、だんなが「雁治郎と仁左衛門が五段目の猪をやる。日本一のイノシシや」とだまします。

東京のやり

明治32年(1899)の六代目桂文治の速記では「碁泥」につなげて演じられています。定吉が芝居小屋で赤ん坊の尻をこっそりつねって泣かせ、そのたびにあやそうと乳母が差し出す食べ物を失敬するという場面が前についていますが、この部分は現在は省かれます。

昭和に入ってからは、八代目春風亭柳枝、二代目三遊亭円歌がよく演じましたが、現在はそれほど演じられていないようです。

仮名手本忠臣蔵

人形浄瑠璃としては赤穂浪士の討ち入りから半世紀ほどを経た寛延元年(1748)8月、大坂竹本座で初演されました。

竹田出雲、並木千柳、三好松洛の合作で、歌舞伎では翌寛延2年2月、江戸森田座の上演が僅差でもっとも早いようです。記念すべき初代の大星由良之助役は山木京四郎、塩冶判官役は花井才三郎と、記録にあります。

四段目・判官切腹の場は、前段の高師直(=吉良上野介)への刃傷で切腹を命じられた塩冶判官(=浅野内匠頭)が九寸五分の短刀を腹に突き立てたとたん、花道からバタバタと大星由良之助(=大石内蔵助)が駆けつける名場面です。

江戸では、「忠臣蔵」を知らぬ者などないので、単に「蔵」だけで十分通用しました。

改作と類話

二代目三遊亭円歌が芝居を現代風に野球に代え、「野球小僧」と改作したものを演じていました。

上方では、発端は「蔵丁稚」と同じですが、番頭が店の金を使い込んで女と芝居を見ていることを丁稚がだんなにバラし、番頭がクビになる「足あがり」があります。

忠臣蔵の噺

「忠臣蔵」を題材とした噺は多くあります。「二段目」「五段目」「六段目」「七段目」「九段目」についても同題の噺があるほか、十段目についても艶笑小咄「天河屋義平」があります。現在演じられるのはこの「四段目」と「七段目」くらいで、たまに別題「吐血」の「五段目」が「蛙茶番」ほか、芝居を扱った噺のマクラに振られます。

【語の読みと注】
蔵丁稚 くらでっち
師直 ものなお
高師直 こうのもろなお
与市兵衛 よいちべえ
箪笥 たんす
裃 かみしも
塩冶判官 えんやはんがん
大星由良之助 おおぼしゆらのすけ

一人酒盛 ひとりさかもり 演目

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上方噺。酒好きにはこたえられません。

別題:一人酒

【あらすじ】

これから仕事に出かけようという時に、急用だからとのみ友達の熊五郎に呼び出された留公。

無理して来てみると、たった今、上方に行っていた知人から、土産に酒をもらったから、二人でのみたいと、誘ったという。

造り酒屋から直接、一升だけ分けてもらった酒の元(原酒)で、めったに手に入らない、いい酒とか。

本当なら全部あげたいが、ほかに一軒世話になった家があって、そこへ半分持っていかなければならないから、五合で勘弁してくれと、置いていったという。

「のみ友達は大勢いるが、留さんは一番気が合うから呼んだ」
とお世辞を言われ、酒に目がなく、お人よしの留公はニコニコ。

いい酒がのめると聞いて、仕事などどうでもよくなった。

熊が、炭火を起こして燗をつけてくれの、魚屋に行って刺し身を見つくろってこいのと、自分をアゴで使い始めたのもいっこうに気にせず、台所の板をひっぺがして漬け物を出し、また燗をつけ、のみたい一心でかいがいしく動きまわる。

今か今かと、「のめ」と言ってくれるのを待っているのだが、熊は一人でガブガブのみ、勝手なご託ばかり並べ立てるだけ。

ついにがまんしかねて、留が
「うまいかい?」
とせいいっぱいのカマをかけても、グイグイ一息にのみ干してから
「のんでるときに、なにか言っちゃいけねえ」
と、熊の耳にも入らない。

「いい酒だね、うまくって、酔い心地がよくって、醒めぎわがいい。七十五日どころか、三年ぐらい生き延びちゃった。おい、もう一度燗をつけてくれ」

「いっしょにのみてえのは留さんだけだ」
と繰り返すので、ついまたつけてやってしまう。

そのうち刺し身をムシャムシャ食い出し、これも独り占め。

そろそろ完全にベロベロになってきて、なにかうたえと、からむからぶつくさ言うと、
「なに、もそもそ言ってるんだよォ。酒のんだら、のんだ心持ちになんなきゃいけないよォ」

留、カッカしてきて燗番を忘れ、酒が沸騰。

熊、
「どじ助のまぬけ、こんなに煮っくりかえしちまって」
と毒づきながら、酒をフウフウ吹きながらのむ。

そこで五合はおつもり。

「無冠の太夫おつもり」
などと一人駄洒落で悦に入り
「一人でのんじゃもったいないから、おめえを呼んでやったんだ。ありがたく思え。どうだ、うめえだろう」
などと言うに及び、留の怒りが爆発。

「なにォ言いやがんでえ、ベラボウめ。うめえもまずいもあるかい。忙しいのに呼びに来やがって、てめえ一人で食らいやがって。てめえなんぞとは、もう生涯付き合わねえや。つらあ見やがればか野郎ッ」

畳をけり立てて、帰ってしまう。

隣のかみさんがのぞいて
「ちょいと熊さん、どうしたんだよ。けんかでもしたのかい」
「うっちゃっときなよ。あいつは酒癖が悪いんだ」

底本:六代目三遊亭円生

【しりたい】

六代目松鶴の酒乱噺

上方の噺で、酒のみの地を生かした六代目松鶴の十八番でした。

東京でこの噺を得意にした六代目三遊亭円生がどちらかといえば、根は好人物という人物造形だったのに対し、松鶴の主人公は酒乱そのものでした。

大阪では、もともと、紙切りや記憶術などの珍芸を売り物にしていた桂南天(1972年、83歳で没)が得意にし、そのやり方は桂米朝が直伝で継承していました。

南天や米朝のでは、主人公は引っ越してきたばかりの独り者で、訪ねてきた友達に荷物の後片付けまですっかりやらせ、その後「一人酒盛」のくだりに入ります。

円朝の名人芸

『明治世相百話』には、明治28年(1895)秋、すでに引退していた三遊亭円朝が、浜町の日本橋倶楽部で催された「円朝会」に出席、トリにこの「一人酒盛」を演じたことが記されています。

著者は山本笑月(1873-1936)。明治を代表するジャーナリストの一人。浅草花やしきの創設者、山本金蔵の長男で、長谷川如是閑や大野静方は実弟です。条野採菊が経営するやまと新聞から朝日新聞に移り、文芸部長、社会部長などをつとめました。病を得て退社した後は、療養生活と江戸明治文化の研究に励みました。『明治世相百話』は昭和58年(1983)に中公文庫から復刊されました。今では絶版ですが、古本でまだ入手できます。この本には円朝の意外な面が活写されてあります。

山本笑月によると、円朝は、「被害者」の男を、後半まったく無言とし、顔つきや態度だけで高まる怒りを表現、円朝の顔色が青くなって、真実怒っているように見えた、ということです。名人芸のきわみでしょうか。

東京では円朝の高弟、二代目三遊亭円橘が最も得意にしました。六代目円生は、子供のころ円橘の高座を聴いた記憶と、三代目蝶花楼馬楽の短い速記をもとに構成したそうです。

七十五日どころか

七十五日は「ほんのわずかな期間」という意味。「人のうわさも七十五日」「初物を食えば七十五日生き延びる」などと、江戸ではよく「七十五日」を使いますが、この数字の根拠は不明です。六代目円生も「よくわかりません」と言っています。

この噺に関しては、酒はすぐ醒めるから、命が延びてもほんのわずか、と逆説的な意味を含むのかもしれません。

おつもり

正確には「積もりっこ」で、杯を納めることです。酒席で、その酌を最後に終わりにするときに「おつもりで」と使います。ここではさらに、『平家物語』の登場人物、無官太夫の平敦盛を掛けたダジャレでもあります。

【語の読みと注】
留公 とめこう
ご託 ごたく:ご託宣の略。くどくど。「ごた」とも
平敦盛 たいらのあつもり

二人旅 ににんたび 演目

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謎かけは落語の代表的なジャンル。謎かけがふんだんの噺です。

別題:煮売屋(上方)

【あらすじ】

気楽な二人連れの道中。

一人が腹が減って、飯にしようとしつこく言うのを、謎かけで気をそらす。

例えば
「二人で歩いていると掛けて、なんと解く?」
「豚が二匹と犬っころが十匹と解く」
「その心は?」
「豚二ながらキャンとう者(二人ながら関東者)」

そのうち、即興の都々逸になり
「雪のだるまをくどいてみたら、なんにも言わずにすぐ溶けた」
「山の上から海を眺めて桟橋から落ちて、泳ぎ知らずに焼け死んだ」
と、これもひどい代物。

ぼうっとした方が人に道を尋ねると、それが案山子だったりして、さんざんぼやきながらやっととある茶店へ。

行灯に、なにか書いてある。

「一つ、せ、ん、め、し、あ、り、や、な、き、や」
「そうじゃねえ。一ぜんめしあり、やなぎ屋じゃねえか」

茶店の婆さんに酒はあるかと聞くと
「いいのがあるだよ。じきさめ、庭さめ、村さめとあるだ」
「へえっ、変わった銘だな。なんだい、そのじきさめってのは」
「のんだ先からじきに醒めるからじきさめだ」
「それじゃ、庭さめは?」
「庭に出ると醒めるんだ」

村さめは、村外れまで行くうちに醒めるから。

まあ、少しでも保つ方がいいと「村さめ」を注文したが、肴が古いと文句を言いながらのんでみると、えらく水っぽい。

「おい、ばあさん、ひでえな。水で割ってあるんだろう」
「なにを言ってるだ。そんだらもったいないことはしねえ。水に酒を落としますだ」

底本:五代目柳家小さん

【しりたい】

煮売屋

上方落語「煮売屋」を四代目柳家小さんが東京に移したもので、東京で演じられるようになったのは、早くても大正後期以後でしょう。「煮売屋」は、長い連作シリーズ「東の旅」のうち、「七度狐」と題されるくだりの一部です。

「七度狐」はさらに細かく題名がついていて、発端が、おなじみ清八と喜六の極楽コンビがお伊勢参りの道中、奈良見物のあと、野辺で尻取り遊びなどしてふざけ合う「野辺歌」から「煮売屋」に続き、このあと、イカの木の芽あえを盗んで捨てたすり鉢が化け狐の頭に当たったことから怒りを買って化かされる「尼寺つぶし」へと入ります。

煮売屋は、ここでは道中ですから、宿外れの立て場酒屋ということになります。

上方では独立して演じられることは少なく、一席にする場合は、侍を出し、煮売屋のおやじとの、このあたりでは夜な夜な白狐が出るというやりとりをコンビが聞きかじり、隣の荒物屋で侍気取りの口調で口真似するという滑稽をあとに付けます。

小さんの工夫

道中のなぞ掛け、都々逸を付けたのは四代目小さんの工夫で、上方の「野辺歌」のくだりを参考にしたと思われます。

ただ、それ以前に、東京の噺家ながら長く大阪に在住して当地で活躍した三代目三遊亭円馬が上方の「七度狐」をそのまま江戸っ子二人組として演じた速記があり、その中で二人が珍俳句をやりとりするくだりがあるので、そのあたりもヒントになっているのでしょう。

四代目の演出は、そのまま五代目小さん、さらにその門下へと受け継がれ、現在もよく口演されます。

都々逸

どどいつ。文政年間(1818-30)に発祥し、流行した俗謡です。前身は「よしこの節」で、その囃し詞「どどいつどんどん」から名が付きました。歌詞は噺に登場する通り、七七七五が普通で、江戸独特の洒落や滑稽を織り交ぜたものです。昭和初期から戦後にかけては、柳家三亀松が「お色気都々逸」で一世を風靡しました。

【語の注】
都々逸 どどいつ
案山子 かかし
行灯 あんどん

ろくろ首 ろくろくび 演目

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上方噺。どことなくユーモラスで、愛らしい感じの妖怪が主人公。

【あらすじ】

与太郎の松公。

おじさんの家にぼーっとやって来て、モジモジしたあげく、突然大声で
「おかみさんが欲しいッ」

二十五になってもおふくろと二人暮らしで、ぶらぶら遊んでいる。

兄嫁がご膳差し向かいで兄貴を「あなたや」などと色っぽい声で呼ぶので、うらやましくなったらしい。

「そりゃいいが、おまえどうして食わせる?」
「箸と茶碗」
「どうしてかみさんを養ってくかってんだ」
「大丈夫だよ。おふくろとかみさんを働かせて……」
「てえげえにしろ、ばか野郎」

すると、おばさんが何か耳打ち。

「え? なに? こいつを? そうよなあ。こういうのは感じねえから、いいかもしれねえ」

そこでおじさん、
「もしおまえがその気なら」
と、けっこうづくめの養子の話をする。

さるお屋敷のお嬢さんで、年ははたち。両親は亡くなって乳母、女中二人と四人暮らし。資産はあるし、美人だし、と聞いて、松公は早くもデレデレ。

ところが、奇病がある。

草木も眠る丑三ツ時になると、首がスーッと伸び、行灯(あんどん)の油をペロペロなめるとか。

「お、おじさん、それ、どくどっ首」
「ろくろっ首だ」
「そんな遠くに首があったんじゃ、たぐらなくちゃならねえ」
「帆じゃねえや」

夜しか首は伸びないし、寝たら目を覚まさないからいいと、松公、能天気に行く気になった。

おじさん、あいさつもできなければまとまらないと、松公の褌にひもを結び、乳母が出てきてなにか行ったとき、一回引っ張れば「さようさよう」、二回なら「ごもっともごもっとも」、三回なら「なかなか」と返事するんだと教え込み、
「これでまとまりゃ、人間の廃物利用だ」
と松公を連れてお屋敷へ。

ところが、乳母が
「ご両親さまが草葉の陰でお喜びでございましょう」
と、あいさつすると松公、
「ごもっともごもっともォ。あとはなかなか」
と後まで言ってしまい、おじさんは冷や汗。

庭を見ると猫がいたので
「柔らかくてうまそうな猫だ」
とヒゲを抜く。

そのうち、お嬢さんが庭を通る。

「お、おじさん、あの首が」
「しッ、聞こえるじゃねえか」

よく見ると大変にいい女なので、松公うれしくなり
「あなたッ、おまえさん、さようさようッ」

お嬢さん、顔を赤くして逃げてしまう。

おじさんが小言を言っていると、猫が褌に取りついて、松公、
「さようさよう、なかなか、ごもっともごもっともッ」
と大騒ぎ。

縁があったか、話がまとまって吉日を選び、婚礼の夜。

こういう者でも床が違うから寝つかれず、夜中に目を覚ました。

時計がチンチンと二つ打つ。

「ごもっともごもっとも」
と寝ぼけていると、隣のお嬢さんの首がスーッ。

松公
「伸びたァー」
と肝をつぶしてそのまま飛び出し、おじさんの家の戸をドンドン。

「あばばば、伸びたーッ」
「ばか野郎。静かにしろ。伸びるのを承知で行ったんじゃねえか」
「承知だってダメだよ。初日から。あんなのだめだ」
「なにがあんなのだ。第一、おまえ、夫婦のちぎりは結んだんだろ?」
「なんだい、そのちぎりって」
「そんなことはっきり言えるか。家へけえれ」
「あたい、おふくろんとこに帰る」
「この野郎。どのツラ下げておふくろんとこィ帰れる。大喜びで、明日はいい便りの聞けるように、首を長くして待っているじゃねえか」
「えっ、大変だ。家へも帰れねえ」

底本:五代目柳家小さん

【しりたい】

ろくろ

ろくろとは、物をつるしあげる滑車。「ろくろ首」とは、その宙高く伸びた形から名がついた妖怪です。江戸の古い洒落で、「ろくろ首のへど」とは「長い」の意味。

歌舞伎「髪結新三」の「永代橋の場」のセリフに、「ろくろのような首をして」とあるように、首の長い人を揶揄するたとえにも使われました。

首の正体

この妖怪、どうも中国にルーツがあるようで、あちらでは「飛頭蛮」と書きます。水木しげるによると、ろくろ首はたいてい女で、一説には夜中に寝ている男の精気を吸い取るとか。

さる大名が参勤で道中、本陣に泊まっているとき、馬番が居眠りしているスキに、牡馬がろくろ首に股間からすっかり精を吸われ、翌日フラフラで使いものにならなかったという、笑話ともエロ噺とも、はた怪談ともつかない昔話があるそうです。

これをみると、どうも淫乱な女性のカリカチュアのようですが、夜な夜な魂が肉体を離れる「離魂病」だというオカルト的解釈もあります。

いやな話ですが、ろくろ首には首に青あざがあるという説があるので首つり死体から連想されたのでは、と考えられなくもありません。

上方の「後日談」

この噺、幕末から大阪で演じられていたものを明治期に三代目柳家小さんが東京に移しました。直接の原典ではありませんが、「ろくろ首」の小咄は明和9年(1772)刊『楽牽頭』中の「ろくろ首」ほか、たくさんあります。

上方落語では、まだこの続きがあって、アホが逃げたので離婚の交渉になり、すったもんだの末、蚊帳を吊る夏だけ「別居」することに。「首の出入りに、蚊が入って困るのや」とオチになります。

上方版だと、仲人の「先方をキズものにして、いまさら嫌とは言わせない」というセリフがあるので、怖くてもしっかり「コト」だけは済ませていたのがわかります。その点、江戸っ子のいくじのないこと。

東京では代々の柳家小さんが本家として得意にしたほか、三代目桂三木助もよく演じました。

オチはいろいろ

オチは演者によって何通りかあり、四代目小さんは「じゃ、おふくろもろくろ首だ」としていましたが、五代目小さんがあらすじのように改めました。

三木助のは、「そんなこと言わねえで、お屋敷に帰れ。お嬢さんが首を長くして待っている」というものでした。

インチキも楽じゃない

江戸時代、浅草・奥山などの盛り場では、よく「ろくろ首」の見世物が出ました。これはむろん、からくりもしくはお座敷芸の二人羽織よろしく、複数の人間を使ったインチキでした。それにしても、具体的にどういう仕掛けでゴマカシたのか、一度見てみたいものです。

「ろくろ首」小咄三題

●その1  『楽牽頭』中の「ろくろ首」

ろくろ首が酒をごちそうになり、「これはうらやましい。あなたなぞは、酒を味わう楽しみが長いでしょう」と言われ、「いや、そのかわり、オカラを食べるときは味気ない」        

●その2 『言軍話江戸嬉笑』中の「ろくろ首」   文化3=1806年刊

長崎・丸山遊郭のお女郎になじんだ男。請け出して女房にしようと話が決まったが、実はあの女はろくろ首だと耳打ちされ、恐怖のあまり夜逃げした。女は怒って、体は長崎のまま、首だけどこまでも伸ばして、男を追いかける。追いつ追われつ、海越え山越え、とうとう松前(北海道)まで追い詰めた。さすがの化物もくたびれ果て、腹が減って、そこらの芋畑からサトイモを掘り出してむさぼり食ったので、松前の頭はなんともないが、長崎の尻がブーブー。

●その3  『露新軽口ばなし集』中の「言いさうな事」  元禄11=1698年刊

盲目の瞽女の首が夜な夜な伸びると聞いて見に行った男。夜中に伸びた首があんどんにぶつかりそうになると、思わず「右、右」。

【語注】
丑三ツ時 うしみつどき:午前2時頃
行灯 あんどん
褌 ふんどし
瞽女 ごぜ

夏の医者 なつのいしゃ 演目

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上方噺。機転がきくようで、その実、おまぬけな。愛すべき人物です。

【あらすじ】

夏の真っ盛り。

鹿島村の勘太が患って食欲がなく、飯を茶碗七、八杯しか食えない。

年だし、もういけないかもしれないと、せがれが思っていると、見舞いに来たおじさんが、
「隣の一本松村の玄伯先生に往診してもらえばよかんべえ」
と言う。

せがれ、さっそく留守を頼んで、ばっちょう笠に襦袢一枚、山すそを回って六里の道を呼びに行く。

尋ね当てると、玄伯先生が褌一つで草取りをしていたので、さっそく頼み込み、せがれが薬籠を持って、二人で隣村を出た。

山越えの方が近道だと先生が言うので、あえぎあえぎ登ったが、頂上まで来ると二人とも滝を浴びたような汗。

休憩して汗が引っ込んだところで、さあ出かけべえと立ったとたん、
「先生、先生」
「はいはい、ここだよ」
「あんか、いっぺんに暗くなったでねえか」

急に日が暮れたわけでもなし、はておかしい、と思ううち、周囲がなにやら温かくなってきた。

両手で手探りして先生はたと思い当たり
「あっ、こりゃいかねえ。この山に年古く住むうわばみがいるてえことは聞いちゃいたが、こりゃ、のまれたか」
「どうするだ、先生」
「どうするだっちって、こうしていると、じわじわ溶けていくべえ」

脇差を忘れてきて、腹を裂いて出ることもできないので、先生しばらく思案して、せがれに預けた薬籠の中から下剤を出させ、それをまいてみると、効果はてきめん。

うわばみは七転八倒。

苦しいからあっちへばたり、こっとへばたりと左右に揺れる。

「薬効いてきたなこりゃ。向こうに灯が見えべえ。尻の穴に違えねえから、もちっとだ」

ようやく二人は下されて、草の中に放り出された。

転がるように山を下り、先生、さっそく診察すると、ただの食あたりとわかった。

「なんぞ、えかく食ったじゃねえけ?」
「あ、そうだ。チシャの胡麻よごし食いました。とっつぁま、えかく好物だで」
「それはいかねえ。夏のチシャは腹へ障ることあるだで」

薬を調合しようとすると、薬籠はうわばみの腹の中に忘れてきて、ない。

困った先生、もう一度のまれて取ってこようと、再び山の上へ。

うわばみ、土用のさ中に下剤をかけられたので、すっかり弱って頬の肉がこけ、松の大木に首をだらんと掛けてあえいでいる。

「あんたにのまれた医者だがな、腹ん中へ忘れ物をしたで、もういっぺんのんでもれえてえがな」
「いやあ、もういやだ。夏の医者は腹へ障る」

底本:六代目三遊亭円生

【しりたい】

上方起源の医者ばなし

明和2年(1765)、京都で出版された『軽口独狂言』中の「うわばみの毒あたり」、ついで安永5年(1776)、大坂刊の『立春噺大集』中の「医者の才覚」が主な原話です。

前者はオチが「夏坊主は腹の毒じゃ」となっていて、当時の医者の多くが僧形だったことに掛けています。

内容から想像されるように、さらに遡れば、全国に広く流布した民話がもとになっているようです。

上方では古くは、フカが婆さんをのみ込む「兵庫船」と混同されて医者がウワバミならぬフカにのまれ、「こんな臭え医者のんだことねえ」とオチることもあったそうですが、現在は用いられません。

巧妙円生、爆笑枝雀

東京でもかなり古くから演じられ、四代目橘家円蔵から六代目三遊亭円生に直伝で継承されました。

円蔵はちしゃには触れず、単に「夏の医者にはこりた」とオチていましたが、その伏線の不備を円生が上方の演出を加味して現行に改め、巧妙な田舎ことばで十八番にしました。

大阪では、桂枝雀のものが、はでなオーバーアクションで、これまた当り芸でした。

チシャの胡麻よごし

チシャは「萵苣」と書き、萵苣筍と葉萵苣があります。この噺ではたぶん葉萵苣で、西洋ではレタス、日本では小松菜が同族の品種です。上方落語に「ちしゃ医者」という噺がありますが、まったく別話です。

ばっちょう笠

「番匠笠」のなまったことばです。竹の皮を張った、浅く大きな笠で、延宝年間(1673-81)から作られました。江戸では駕籠屋がよくかぶりました。

下剤

江戸時代には、普通、大黄の粉末を用いました。桂米朝の十八番「地獄八景亡者の戯れ」では「大王(=大黄、閻魔大王と掛けた)のんで下してしまう」と、ダジャレオチに用いられています。

薬籠

やくろう。医者の携帯用の薬箱です。桐の小箱で、引き出しがあり、その中は細かく仕切られていました。普通、往診の際は供に持たせます。

「自家薬籠中のもの」という慣用句は、医者は自分の薬籠中のどこにどんな薬がしまってあるかわからないと商売にならないことから、物事を完全に知り尽くしていること、狭義ではある分野の知識や技術を完璧に自分のものとして使いこなせていることをいいます。

六代目円生の芸談

「ここに出てくる玄伯老は、医者といっても、山頂で休むときも作物の話をしているようなお医者様で、本職は百姓なのですから、そういう気分を出すことが大切でしょう」

【語の注】
薬籠 やくろう
番匠笠 ばんじょうがさ→ばっちょうがさ
萵苣筍 ちしゃとう
葉萵苣 はちしゃ
大黄 だいおう

松山鏡 まつやまかがみ 演目

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おのが姿を、いまだ見たことのない人々のちぐはぐなお話です。

別題:羽生村の鏡(上方)

【あらすじ】

鏡というものを誰も見たことのない、越後の松山村。

村の正直正助という男、四十二になるが、両親が死んで十八年間、ずっと墓参りを欠かしたことがない。

これがお上の目にとまり、孝心あつい者であるというので、青緡五貫文のほうびをちょうだいすることになった。

村役人に付き添われて役所に出頭すると、地頭が、なにかほうびの望みはないかと尋ねるが、正助は、
「自分の親だから当たり前のことをしているだけだし、着物をもらっても野良仕事にはじゃまになるし、田地田畑はおとっつぁまからもらったのだけでも手に余る」
と辞退する。

金は、あれば遊んでしまうので毒だからと、どうしても受け取らない。

困った地頭が
「どんな無理難題でもご領主さまのご威光でかなえてとらすので、なんなりと申せ」
と、しいて尋ねると、正助、
「それならば、おとっつぁまが死んで十八年になるが、夢でもいいから一度顔を見たいと思っているので、どうかおとっつぁまに一目会わしてほしい」
と言い出す。

これには弱ったが、今さらならんと言うわけにはいかないので、地頭は名主の権右衛門に
「正助の父は何歳で世を去った」
と尋ねる。

行年四十五で、しかも顔はせがれに瓜二つと確かめると、さっと目配せして、鏡を一つ持ってこさせた。

この鏡は三種の神器の一つ、やたのかがみ(八咫鏡)のお写し(複製)で、国の宝。

「この中を見よ」
と言われ、ひょいとのぞくと、鏡を知らない正助、映っていた自分の顔を見て、おやじが映っていると勘違い。感激して泣きだした。

地頭は
「子は親に 似たるものをぞ 亡き人の 恋しきときは 鏡をぞ見よ」
と歌を添えて
「それを取らせる。余人に見せるな」
と下げ渡す。

正直正助、それからというもの、納屋の古葛籠の中に鏡を入れ、女房にも秘密にして、朝夕、
「おとっつぁま、行ってまいります」
「ただ今けえりました」
とあいさつしている。

女房のお光、これに気づき、どうもようすがおかしいと、亭主の留守に葛籠をそっとのぞいて驚いた。

これも鏡を見たことがないから、映った自分の顔を情婦と勘違い。

嫉妬に狂って泣き出し、
「われ、人の亭主ゥ取る面かッ、狸のようなツラしやがって、このアマ、どこのもんだッ」
と大騒ぎ。

正助が帰るとむしゃぶりつき
「なにをするだッ、この狸アマッ」
「ぶちゃあがったなッ、おっ殺せェ」
とつかみ合いの夫婦げんかになる。

ちょうど、表を通りかかった隣村の尼さんが、驚いて仲裁に入る。

両方の事情を聞くと尼さん、
「ようし、おらがそのアマっこに会うべえ」
と、鏡をのぞくと
「ふふふ、正さん、お光よ、けんかせねえがええよゥ。おめえらがあんまりえれえけんかしたで、中の女ァ、決まりが悪いって坊主になった」

底本:八代目桂文楽

【しりたい】

ルーツはインド

古代インドの民間説話を集めた仏典『百喩経』巻三十五「宝篋の鏡の喩(たとえ)」が最古の出典といわれます。中国で笑話化され、清代の笑話集『笑府』誤謬部中の「看鏡」に類話があります。その前にも、朝鮮を経て日本に伝わり、鎌倉初期の仏教説話集『宝物集』ほか、各地の民話に、鏡を見て驚くという同趣旨の話が採り入れられました。これらをもとに謡曲「松山鏡」、狂言「土産の鏡」が作られ、すべてこの噺の源流となっています。

江戸の小咄では、正徳2年(1712)刊の『笑眉』中の「仏前の宝鏡」が最初で、これは、鏡を拾おうとした男が「下から人が見ていた」ので取るのをやめた、というたわいないものですが、時代が下って文政7年(1824)刊の漢文体笑話本『訳準笑話』中の小咄では現行の落語と、大筋は夫婦げんかも含めてそっくりになっています。

文楽も志ん生も

明治29年(1896)の二代目三遊亭円橘の速記が残るほか、明治末から大正にかけては、三代目三遊亭円馬が上方の演出を加味して得意とし、それを直伝で八代目桂文楽が継承しました。地味ながら、隠れた十八番といっていいでしょう。

文楽とくれば、ライバル五代目古今亭志ん生も負けじと演じ、両者とも音源を残しています。志ん生のは、まあどうということもありませんが、夫婦げんかで亭主にかみつくかみさんの歯が「すっぽんの歯みてえな一枚歯」というのがちょっと笑わせます。三代目三遊亭小円朝、志ん生の長男、十代目馬生も演じました。

累伝説のパロディー

上方では「羽生村の鏡」と題します。筋は東京と変わりませんが、舞台を累怪談で有名な下総羽生村とします。これは、同村では昔、鏡を見ることがタブーだったという伝承に基づき、累伝説の一種のパロディーをねらったものと思われます。

松山村

新潟県東頸城郡松之山町。たまに伊予松山で演じられることもあります。

『北越雪譜』(岩波文庫など)にも登場しますが、なぜこの越後の雪深い寒村が舞台に選ばれたかは不明です。

ただ、重要な原点である謡曲、狂言がともに同村を舞台にしているので、そのあたりで何らかの実話があったのかも知れません。

地頭

じとう。鎌倉時代の地頭と異なり、江戸時代のそれは諸大名の家臣で、その土地を知行している者の尊称です。領主の名代で、知行地の裁判や行政を司ります。つまり天領の代官のようなものでしょう。村役人は、名主、組頭、百姓代の村方三役をいいます。

孝行のほうび

「青緡五貫文」は「孝行糖」にも登場しました。要するに、幕府の朱子学による統治のバックボーンとなった孝子奨励政策の一環です。

原典の一つである謡曲「松山鏡」では、亡母を慕って毎日鏡で自分の顔を見て、母親の面影をしのぶ娘の孝心の威徳により、地獄におとされようとした母の魂が救われて成仏得脱するという筋なので、この噺の孝行譚の要素はここらあたりからきたのでしょう。

丸刈りは厳罰

「大山まいり」でも触れましたが、江戸時代、俗人が剃髪して丸刈りになるのは、謹慎して人と交わりを絶つ証で、大変なことでした。

男でさえそうですから、女の場合はまして、髪を切るのは尼僧として仏門に入る以外は、たとえば不義密通の償いなどで助命する代りに懲罰として丸刈りにされる場合がほとんどでした。昔は「髪は女の命」といわれ、むごい見せしめとされたわけです。

これは万国共通とみえ、フランスなどで戦時中、ナチに協力したり、ドイツ兵の情婦になっていた女性をリンチで丸刈りにした例がありました。イタリア映画『マレーナ』でそういうシーンが見られました。落語では「大山まいり」「坊主の遊び(剃刀)」がお女郎さんを丸刈りにする噺です。

インチキなまり

八代目文楽が自伝『あばらかべっそん』でこの噺について次のように語っています。

「……完全な越後の言葉でしゃべると全国的には分からなくなってしまいます。ですから、やはり落語の田舎言葉でやるよりないと思いますネ。(中略)じつは我々の祖先が今いったようなことを考えて、うそは百も承知で各国共通の田舎言葉をこしらえてくれたのだとおもっています」

落語発祥のこの「インチキなまり」はいちいち方言を調べるのがめんどうな小説家にとっても調法なものらしく、今でもしばしば散見します。

語の注】
あおざし 青緡、青繦:銭の穴に紺染めの麻縄を差し通して銭を結び連ねたもの。
かんもん 貫文:銭1000文を1貫。江戸期では960文を1貫。
ほうきょうのかがみのたとえ 宝篋の鏡の喩
ひがしくびきぐん 東頸城郡
やたのかがみ 八咫鏡
つづら 葛籠
北越雪譜 ほくえつせっぷ:江戸後期の地誌。鈴木牧之著
累伝説 かさねでんせつ

夏どろ なつどろ 演目

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泥棒から金を巻き上げる、長屋住まいのしたたか男。痛快です。上方噺。

別題:置きどろ(上方) 打飼盗人(上方)

【あらすじ】

ある夏の夜。

路地裏の貧乏長屋にコソ泥が侵入した。

目をつけたのは、蚊燻しを焚きっ放しにしている家。

小汚いが、灯を点けずに寝ているからは、食うものも食わないで金を溜め込んでいるに違いないと、当たりをつけた。

火の用心が悪いと、お節介を言いながら中に入ると、男が一人で寝ている。

起こして
「さあ、金を出せ」
とすごんでも、男は、
「ああ、泥棒か。なら、安心だ」
と、全く動じない。

男は日雇いの仕事人で、昨日の明け方まで五円あったが、博打で巻き上げられて、今は一文なし。

取られるものなど、なにもないという。

「しらばっくれるな。これでも一軒の家を構えていて、なにもないはずがねえ。銀貨かなにかボロッきれにでも包んで隠してあるだろう。オレが消してやらなかったら、てめえは今ごろ蚊燻しが燃え上がって焼け死んじまったんだ。いわば命の恩人だ」
「余計なことをしやがる」

二尺八寸のだんびらは伊達には差さないと脅しても
「てめえ、なにも差してねえじゃねえか」

このところ雨が続いて稼業に出られず、食うものもないので水ばかりのんで寝ているという。

「いっそ、おめえの弟子にしてくれ」
と頼まれ、泥棒は閉口。

その上
「縁あって上がってきたんだ。すまねえが三十銭貸してくれ」
と、逆に金をせびられた。

「どうせ、ただ取る商売だ。貸したっていいだろう。かわいそうだと思って」
「ばか言え。盗人にかわいそうもあるか」
「どうしても貸さねえな。路地を閉めれば一本道だ。オレが泥棒ッてどなれば、長屋中三十六人残らず飛んでくる。相撲取りだって三人いるんだ」

逆に脅かされ、しかたなく三十銭出すと、今度はおかず代にもう二十銭貸せと、言う。

「とんでもねえ」
と断ると
「どうしても貸さねえな。路地を閉めれば一本道だ」

また始まったから、しぶしぶ二十銭。

すると、またまた今度は
「蚊帳を受け出す金三十銭頼む。質にへえってるんだ。貸さねえと、路地を閉めたら一本道……」

泥棒はもうお手上げ。合計八十銭ふんだくられた。

「ありがてえ。これは借りたんだ。今度来たときに」
「誰が来るもんか」
「そう言わずにちょいちょいおいで。オレは身内がねえから、親類になってくれ」
「ばかあ言え。どなると聞かねえぞ」

泥棒がげんなりして引き上げると、アワを食ったのか煙草入れを置いていった。

男は煙草を吸わないので、もらってもしかたがないと後を追いかけて
「おーい、泥棒ォ」
「こんちくしょう。まぬけめ。泥棒ってえやつがあるか」
「でも、おめえの名前知らねえから」

底本:三代目柳家小さん

【しりたい】

上方から東京へ

原話は安永8年(1779)刊『気の薬』中の小咄「貧乏者」です。原話では、「出張先」のあまりの悲惨な現状に泥棒がいたく同情、現行の落語と逆に金子二百疋を恵んでくれる筋です。オチは「おたばこ入れが落ちておりました」。上方噺の「打飼盗人」を大正末期に柳家小はんが東京に移したと言われますが、はっきりしません。上方の題名は、オチが「カラの打飼忘れたある」となっていることからきています。

打飼

うちかえ。布を袋状に縫い合わせた旅行用の胴巻きのことです。胴巻きとは、腹巻きのことです。ややこしいです。

いろいろなオチ

昭和に入ってからは、三代目三遊亭小円朝が得意にしました。小円朝は「忍び込んでからの泥棒の目の動きが難しい噺」と、芸談を残していますが、同師は家のあるじをを大工とし、暑いのでフンドシ一本で寝ている設定にしました。そのオチは、泥棒が引き上げるところで切り、「陽気の変わり目に、もういっぺん来てくんねえ」としていました。

同世代では三代目金馬も演じましたが、そのほかオチは、演者によってかなり異なり、たばこ入れが落ちていた説明を略した上で「おーい」「どなるやつがあるか」「たばこ入れが落ちてた」と、意表をついた上、原話通りに落とすもの、「あとの家賃(用の金)はいつ持ってきてくれる?」と、さらにずうずうしいもの、「また質入れしたころ来てくんねえ」とするものなど、さまざまに工夫されています。

ここでのあらすじの「おめえの名前を知らねえから」は、小はんの師匠、三代目柳家小さんの作ったもので、このオチが東京ではもっとも一般的でしょう。

だんびら

一般には「段平」と記します。短刀で、刃が幅広いもの。たんに刀をもさします。「だびら」とも言ったりします。「だびらひろ」となると、刀の身の幅が広いこと、「だびらせば」は刀の身の幅が狭いことをさします。「徒広」が語源で、セリフの「二尺八寸……」は芝居の泥棒の常套句です。「転宅」の泥棒がこの大仰なセリフのフルバージョンをまくしたてていますので、これから「出動予定」で商売用に丸暗記したい方はその項を参照してください。

ダンビラを振りかざして見得を切る芝居の泥棒。『100年前の東京』(マール社)より

煙草入れ

安永年間(1772-81)から普及し、幕末に近づくにつれしだいに贅沢なものが好まれるようになりました。落語に登場の飯炊き男、権助が持っているのは熊の革の煙草入れと相場が決まっていて、これはいかにもぴったりな感じです。

【語の読み】
二百疋 にひゃっぴき:二千文=二分=一両の二分の一
打飼盗人 うちがえぬすびと
胴巻き どうまき:腹巻き
徒広 ただびろ