こごとねんぶつ【小言念仏】落語演目



  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

短くってすじもへったくれもない噺。
念仏の宗旨をちゃかしています。

別題:世帯念仏(上方)

あらすじ

親父が、仏壇の前で小言を言う。

ナムアミダブツ、ナムアミダブツ。

「鉄瓶が煮立っている」
「飯がこげている」
「花に水ゥやれ」
と、さんざんブツブツ言った後、
「表にドジョウ屋が通るから、ナマンダブ、ナマンダブ、買っときなさい、ナアミダブ、ドジョウ屋ァッナムアミダブ、鍋に酒ェ入れなさいナムアミダブ、一杯やりながらナムアミダブ、あの世ィ行きゃナマンダブ、極楽往生だナマンダブ、畜生ながら幸せなナムアミダブ、野郎だナマンダブ、暴れてるかナマンダブ、蓋取ってみなナムアミ、腹だしてくたばりゃあがった? ナムアミダブ、ナマンダブ、ざまァみゃがれ」

しりたい

仏教への風刺  【RIZAP COOK】

原話は不明で、上方落語「世帯念仏」を、そのまま東京に移したものです。移植の時期はおそらく明治期と思われます。

上方でもともと「宗論」「淀川(後生鰻)」などのマクラに振っていた小咄だったものが、東京で一席の独立した小品となりました。

念仏を唱えながらドジョウをしめさせるくだりは「後生鰻」と同じく、通俗化した仏教、とくにその殺生戒の偽善性を、痛烈に風刺したものといえるでしょう。

しかも、念仏ですから、浄土宗、浄土真宗、時宗、融通念仏宗などをちゃかしているわけです。「後生鰻」も念仏系の噺です。

小言  【RIZAP COOK】

これすらも、昨今は死語化しつつあるようですが、小言は「叱事(言)」の当て字。

特に小さな、些細なことを、重箱の隅をほじくるようにネチネチと説教するニュアンスが、「小」によく表れています。江戸では「小言坊」「小言八百」などの言葉があり、「カス(を食う)」というのも類語でした。

  【RIZAP COOK】

どじょう。「泥鰌」「鯲」とも記します。歴史的仮名遣いでは「どぢやう」「どぜう」です。

鰻にくらべて安価で、精のつくものとして、江戸のころは、八つ目うなぎとともに庶民層に好まれました。

我事と 鰌の逃げる 根芹かな
なべぶたへ 力を入る どじょう汁
念仏も 四五へん入る どじょう汁

さまざまに詠まれています。最後のは、煮ながらせめてもどじょうの極楽往生を願う心で、この噺のおやじよりはまだましですね。

どじょうを買うときは一升の升で量りますが、必死で踊り乱れるので、なかなか数が入らず、同じ値段でも損をすることになります。

こわそうに 鯲の升を 持つ女   初3

おっかなびっくりの女。この句は、女はおぼこで、どじょうの暴れるさまを慣れない男性器にたとえているのかもしれません。そこで、どじょうをおとなしくさせるまじないとして、碗の蓋の一番小さいものをヘソに当ててにらみつければ、たちどころにどじょうは観念し、同じ大きさの升でも二倍入ると、『耳嚢』(根岸鎮衛著)にあります。ホントでしょうか。

金馬や小三治の苦い笑い  【RIZAP COOK】

昭和に入って戦後まで、三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)の十八番でした。

明るい芸風の人だったので、風刺やブラックユーモアが苦笑にとどまり、不快感を与えなかったのでしょう。

短いため、さまざまな演者が今も手がけますが、柳家小三治(郡山剛蔵、1939-2021)の「小言念仏」は自然に日本人の嗜虐性を表現していて、うならせてくれました。

上方の「世帯念仏」は桂米朝(中川清、1925-2015)が継承していました。

東西ともオチは同じですが、四代目五明楼玉輔(原新左衛門または平野新左衛門、1856-1935、小言念仏の)の速記では「ドジョウ屋が脇見をしているすきに、二、三匹つかみ込め」と、オチています。

【語の読みと注】
世帯念仏 しょたいねんぶつ
耳嚢 みみぶくろ



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うどんや【うどん屋】落語演目

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【どんな?】

屋台の鍋焼きうどん屋。
客がつかずさんざんな寒い夜。
もうからない噺です。

別題:風邪うどん(上方)

あらすじ

ある寒い夜。

屋台の鍋焼きうどん屋が流していると、酔っぱらいが
「チンチンチン、えちごじしィ」
と唄いながら、千鳥足で寄ってくる。

屋台をガラガラと揺すぶった挙げ句、おこした火に手をかざして、ながながとからむ。

「おめえ、世間をいろいろ歩いてると付き合いも長えだろう。仕立屋の太兵衛ってのを知ってるか」
「いえ、存じません」

そんなところから始まって、
「太兵衛は付き合いがよく、かみさんは愛嬌者、一人娘の美ィ坊は歳は十八でべっぴん、今夜婿を取り、祝いに呼ばれると上座に座らされて茶が出て、変な匂いがすると思うと桜湯で、家のばあさんはあんなものをのんでも当たらないから不思議な腹で、床の間にはおれが贈ったものが飾ってあって、娘の衣装は金がかかっていて、頭に白い布を巻いて「おじさん、さてこのたびは」と立ってあいさつして、このたびはなんて、よっぽど学問がなくちゃあ言えなくて、小さいころから知っていて、おんぶしてお守りしてやって、青っぱなを垂らしてぴいぴい泣いていたのがりっぱになって、ああめでてえなあうどん屋」
というのを、二度繰り返す。

「水をくれ」
というから、
「へいオシヤです」
とうどん屋が出せば、
「水に流してというのを、オシヤに流してって言うかばか野郎
とからみ、やたらに水ばかりガブガブのむから、
「うどんはどうです」
と、うどん屋はそろそろ商売にかかると、
「タダか」
と聞きてくる。

「いえ、お代はいただきます」
「それじゃ、おれはうどんは嫌えだ。あばよッ」

今度は女が呼び止めたので、張り切りかけると
「赤ん坊が寝てるから静かにしとくれ」

「どうも今日はさんざんだ」
とくさっていると、とある大店の木戸が開いて
「うどんやさん」
とか細い声。

「ははあ、奥にないしょで奉公人がうどんの一杯も食べて暖まろうということか」
とうれしくなり、
「へい、おいくつで」
「ひとつ」

その男、いやにかすれた声であっさり言ったので、うどん屋はがっかり。

それでも、
「ことによるとこれは斥候で、うまければ代わりばんこに食べに来るかもしれない、ないしょで食べに来るんだから、こっちもお付き合いしなくては」
と、うどん屋も同じように消え入るような小声で
「へい、おまち」

客は勘定を置いて、またしわがれ声で、
「うどん屋さん、あんたも風邪をひいたのかい」

しりたい

小さん三代の十八番

上方で「風うどん」として演じられてきたものを、明治期に三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)が東京に移植。

その高弟の四代目柳家小さん(大野菊松、1888-1947)、七代目三笑亭可楽(玉井長之助、1886-1944)を経て、戦後は五代目小さんが磨きをかけ、他の追随を許しませんでした。

酔っ払いのからみ方、冬の夜の凍るような寒さの表現がポイントとされますが、五代目は余計なセリフや、七代目可楽のように炭を二度おこさせるなどの演出を省き、動作のみによって寒さを表現しました。

見せ場だったうどんをすするしぐさとともに、五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)によって、「うどんや」はより見て楽しむ要素が強くなったわけです。

原話はマツタケ売り

安永2年(1773)江戸板『座笑産ざしょうさん』の後編「近目貫きんめぬき」中の「小ごゑ」という小ばなしが原話です。

その設定は、男はマツタケ売り、客は娘となっています。

改作「しなそば屋」

大正3年(1914)の二代目柳家つばめ(浦出祭次郎、1875-1927)の速記では、酔っ払いがいったん食わずに行きかけるのを思い直してうどんを注文したあと、さんざんイチャモンを付けたあげく、七味唐辛子を全部ぶちまけてしまいます。

これを、昭和初期に六代目春風亭柳橋(渡辺金太郎、1899-1979)が応用し、軍歌を歌いながらラーメンの上にコショウを全部かけてしまう、改作「しなそば屋」としてヒットさせました。

夜泣きうどん事始

東京で夜店の鍋焼きうどん屋が現れたのは明治維新後。したがってこの噺はどうしても明治以後に設定しなければならないわけです。

読売新聞の明治14年(1881)12月26日付には、以下の記事が見えます。

「近ごろは鍋焼饂飩なべやきうどんが大流行で、夜鷹蕎麦よたかそばとてはふ人が少ないので、府下ぢうに鍋焼饂飩を売る者が八百六十三人あるが、夜鷹蕎麦を売る者はたった十一人であるといふ」

「夜鷹そば」(「時そば」参照)に代わって「夜泣きうどん」という呼び名も流行しました。三代目小さんが初めてこの噺を演じたときの題は、「鍋焼きうどん」でした。

大阪の製薬会社「うどんや風一夜薬本舗」は、ショウガと温かいうどんが解熱作用があるということで、風邪薬、しょうが飴、のど飴などを製造販売しています。

もとは、末広勝風堂という名で明治に創業しました。

「末広(いつまでも)」「勝風(風に勝つ)」と、明治らしいわかりやすい命名です。

「うどん」と「風邪」とは縁語なのですね。

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うきよねどい【浮世根問】落語演目


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【どんな?】

「根問」とつくのは、上方噺です。
「どーして? どーして?」としつこく尋ねるのが「根問」。
いまではめったに聴けない噺。ちょっと残念です。

あらすじ

三度に一度は他人の家で飯を食うことをモットーとしている、八五郎。

今日もやって来るなり「お菜は何ですか?」と聞く厚かましさに、隠居は渋い顔。

隠居が本を読んでいるのを見て八五郎、
「本てえのはもうかりますか」
と聞くので
「ばかを言うもんじゃない。もうけて本を読むものじゃない。本は世間を明るくするためのもので、おかげでおまえが知らないことをあたしは知っているのだから、なんでも聞いてごらん」
と隠居が豪語する。

そこで八五郎は質問責め。

まず、今夜嫁入りがあるが、女が来るんだから女入りとか娘入りと言えばいいのに、なぜ嫁入りかと聞く。

隠居、
「男に目が二つ、女に目が二つ、二つ二つで四目入りだ」
「目の子勘定か。八つ目鰻なら十六目入りだ」

話は正月の飾りに移った。

「鶴は千年、亀は万年というけど、鶴亀が死んだらどこへ行きます?」
「おめでたいから極楽だろう」
「極楽てえのはどこにあります?」
西方弥陀さいほうみだ浄土じょうど十万億土じゅうまんおくどだ」
「サイホウてえますと?」
「西の方だ」
「西てえと、どこです?」

隠居、うんざりして、
「もうお帰り」
と言っても八五郎、御膳が出るまで頑張ると動じない。

八五郎の言うのには、この間、岩田の隠居に 「宇宙をぶーんと飛行機で飛んだらどこへ行くでしょう」 と聞くと、 「行けども行けども宇宙だ」 とゴマかすので、 「じゃあ、その行けども行けども宇宙を、ぶーんと飛んだらどこへ行くでしょう?」と。

行けどもぶーん、行けどもぶーんで三十分。

岩田の隠居は喘息ぜんそく持ちだから、だんだん顔が青ざめてきた。

「その先は朦々もうもうだ」
「そんな牛の鳴き声みてえな所は驚かねえ。そこんところをぶーんと飛んだら?」
「いっそう朦々だ」
「そこんところをぶーん」

……モウモウブーン、イッソウブーンで、四十分。

「そこから先は飛行機がくっついて飛べない」
「そんな蠅取り紙のような所は驚かねえ。そこんところをぶーん」

岩田の隠居はついに降参。八五郎に五十銭くれた。

「おまえさんも極楽が答えられなかったら、五十銭出すかい?」
「誰がやるか。極楽はここだ」
と、隠居が連れていったのが仏壇。

こしらえものの蓮の花、線香をけば紫の雲。鐘と木魚が妙なる音楽、というわけ。

「じゃ、鶴亀もここへ来て仏になりますか?」
「あれは畜生だからなれない」
「じゃ、なにになります?」
「ごらん。この通りロウソク立てになってる」

底本:五代目柳家小さん

しりたい

根問

ねどい。「根問」とは、「根元まで問い詰める」「質問を繰り返す」「根掘り葉掘り聞く」「細かく尋ねる」といった意味です。

上方由来のことばですが、江戸の町でも使われていました。

「根問」とつく噺は、概して上方噺です。

七代目立川談志(松岡克由、1935-2011)は入門する前から「浮世根問」をそらんじて、近所の悪ガキ相手に聴かせていたそうです。その頃は「根問」を「ねもん」と読むものだと勝手に思っていたそうです。

ということは、昭和の東京では「根問」ということば、すでにすたれていたのかもしれませんね。

物語のない噺

上方噺の「根問もの」の代表作。明治期に東京に移されたものです。

上方では短くカットして前座の口ならしに演じられます。

初代桂春団治(皮田藤吉、1878-1934)の貴重な音源が残っています。

どこで切っても噺にはなるので、「物語のない噺」とされています。

えんえんと、「根問」が繰り返されるだけの、

「薬缶」と「浮世根問」

明治時代にはまだ、東京では「薬缶」と「浮世根問」の区別が曖昧あいまいでした。

たとえば、明治期の四代目春風亭柳枝(飯森和平、1868-1927)の速記はかなり長く、「無学者」の題で残っています。

いろいろな魚の名前の由来を聞いていく前半は、「薬缶」と共通しています。

とはいえ、「薬缶」の隠居は知ったかぶりの、えせ知識。「浮世根問」の隠居は、もの知りで誠実なご仁。八五郎のしつこさにへきえきしているわけ。

五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)によれば、同じ隠居でも、ぜんぜん違うタイプなのだそうです。

弟子筋の七代目立川談志(松岡克由、1935-2011)によれば、「違いがわからねえ」と言ってはいますが。

聴いてみると、たしかに小さんの見立てがかなっているように思えます。この噺のキモなのかもしれません。

ここでのあらすじは、師匠の四代目柳家さん(大野菊松、1888-1947)譲りで演じた、五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)のものを底本にしました。

二代にわたる小さんが上方のやり方を尊重し、この噺を独立した一編として確立したわけです。

「浮世根問」は、いまでは、物語のない噺で、柳家の芸とされています。

鶴亀のろうそく立て

オチの「ろうそく立て」については、今ではなんのことやらさっぱりわからなくなっているので、現行の演出ではカットし、最後までいかないことが多くなっています。

これは、寺などで使用した燭台で、亀の背に鶴が立ち、その頭の上にろうそくを立てるものです。

鶴亀はいずれも長寿を象徴しますから、要するに縁起ものでしょう。

目の子

「目の子勘定かんじょう」といって、公正を期すため、金銭などを目の前で見て数えることです。

黙阿弥もくあみの歌舞伎世話狂言「髪結新三かみゆいしんざ」で、大家の長兵衛が悪党の新三の目の前で小判を一枚一枚並べる場面が有名です。

原話について

もっとも古いものは、露の五郎兵衛(1643-1703)の『露休置土産ろきゅうおきみやげ』中の「鶴と鷺の評論」です。五郎兵衛は京都辻ばなしの祖です。

これは、二人の男が鶴の絵の屏風について論じ合い、一人が「この鳥は白鳥にしてはちょっと足が長い」と言うと、もう一人が「はて、わけもない。これは鷺だ」と反論します。見かねた主人が「これは鶴の絵ですよ」と口をはさむと、後の男が「人をばかにするでない。鶴なら、ろうそく立てをくわえているはずだ」。

安永5年(1776)、江戸で刊行された『鳥の町』中の小ばなし「根問」になると、以下のようになっています。

「鶴は千年生きるというが、本当かい?」
「そうさ。千年生きる証拠に、鎌倉には頼朝の放したという鶴がまだ生きているじゃないか」
「じゃ、千年たったらどうなる?」
「死ぬのさ」
「死んでどうなる?」
「十万億土(極楽)に行くのさ」
「極楽へ行ってどうする?」
「うるさい野郎だな。ろうそく立てになるんだ」

現行にぐっと近くなります。

四代目小さんがよく登場させていた、ご隠居です。「ろくろ首」にも出てきます。

噺に直接登場するわけではないのですが、噂話や立ち話などの中で間接的に出てくる、陰の登場人物です。「のりやのばばあ」にどこか似ています。

現在、この噺を演じるのは、柳家の系統でもあまりいません。

あえてあげれば、四代目春雨や雷蔵くらいでしょうか。柳家ではありませんが。

先の大戦後には、五代目小さんのほかには、三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)、二代目三遊亭円歌(田中利助、1890-1964)、七代目立川談志(松岡克由、1935-2011)などでした。



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やかん【薬缶】落語演目

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

なるほど、やかん命名の由来とは。
落語はまったくもってためになる、無学者もの

別題:浮世話 無学者 薬缶根問(上方)

【あらすじ】

この世に知らないものはないと広言する隠居。

長屋の八五郎が訪ねるたびに、別に何も潰れていないが、グシャ、グシャと言うので、一度へこましてやろうと物の名の由来を次から次へ。

ところが隠居もさるもの、妙てけれんなこじつけでケムにまく。

最初に、いろいろな魚の名前は誰がつけたかという質問で戦闘開始。

「おまえはどうしてそう、愚なることを聞く。そんなことは、どうでもよろしい」
「あっしは気になるんで。誰が名をつけたんです?」
「うるさいな。あれはイワシだ」

「イワシは下魚げぎょといわれるが、あれで魚仲間ではなかなか勢力がある」
とゴマかす。

「じゃ、イワシの名は誰がつけた」
と聞くと、ほかの魚が名をもらった礼に来て、
「ところであなたの名は」
と尋ねると、
「わしのことは、どうでも言わっし」

これでイワシ。

以下、まぐろは真っ黒だから。

ほうぼうは落ち着きがなく、ほうぼう泳ぎ回るから。

こちはこっちへ泳いでくるから。

ヒラメは平たいところに目があるから。

「カレイは平たいところに目が」
「それじゃヒラメと同じだ」
「うーん、あれはヒラメの家来で、家令かれいをしている」

うなぎはというと、昔はのろいのでノロといった。
あるときがノロをのみ込んで、
大きいので全部のめず四苦八苦。

鵜が難儀なんぎしたから、
鵜、難儀、鵜、難儀、鵜難儀でウナギ。

話は変わって日用品。

茶碗ちゃわんは、置くとちゃわんと動かないから茶碗。

土瓶どびんは土で、鉄瓶てつびんは鉄でできているから。

「じゃ、やかんは?」
「やでできて……ないか。昔は」
「ノロと言いました?」
「いや、これは水わかしといった」
「それをいうなら湯わかしでしょ」
「だからおまえはグシャだ。水を沸かして、初めて湯になる」
「はあ、それで、なぜ水わかしがやかんになったんで?」
「これには物語がある」

昔、川中島の合戦で、片方が夜討ちをかけた。

かけられた方は不意をつかれて大混乱。

ある若武者が自分のかぶとをかぶろうと、枕元を見たがない。

あるのは水わかしだけ。

そこで湯を捨て、兜の代わりにかぶった。

この若武者が強く、敵の真っただ中に突っ込む。

敵が一斉に矢を放つと、水わかしに当たってカーンという音。

矢が当たってカーン、矢カーン、やかん。

蓋は、ボッチをくわえて面の代わり。

つるはあごへかけての代わり。

やかんの口は、名乗りが聞こえないといけないから、耳代わり。

「あれ、かぶったら下を向きます。上を向かなきゃ聞こえない」
「その日は大雨。上を向いたら、雨が入ってきて中耳炎になる」
「それにしても、耳なら両方ありそうなもんだ」
「ない方は、枕をつけて寝る方だ」

【RIZAP COOK】

【しりたい】

やかんが釜山から漂着  【RIZAP COOK】

明和9年(1772)刊『鹿餅』中の「薬罐やかん」は、この噺の後半部分の、もっとも現行に近い原話ですが、これは、日本の薬罐がはるばる朝鮮半島の釜山プサンまで流れ着き、現地の人が「これは兜ではないか」と議論することになっています。

さまざまな伸縮自在  【RIZAP COOK】

一昔前は、知ったかぶりを「やかん」と呼んだほど、よく知られた噺でした。

題名に直結する「矢があたってカーン」以外は、自由にギャグが入れられる伸縮自在の噺なので、昔から各師匠方が腕によりをかけて、工夫してきました。名前の由来に入る前の導入部も、演者によってさまざまです。

「矢がカーン」の部分では、隠居が「矢があたって」と言う前に八五郎がニヤリと笑い、「矢が当たるからカーンだね」と先取りする演出もあります。

オチまでいかず、文字通り「矢カン」の部分で切ることも、時間の都合でよくあります。

「やかん」のくすぐりいろいろ  【RIZAP COOK】

●蛇はノソノソして、尻っぽばかりの虫なので屁といった。そのあとビーとなった。(五代目古今亭志ん生)

●クジラは、必ず九時に起きるので、クジらあ。

●ステッキは、西洋人のは飾り付きで「すてっき」だから。

●ランプは、風が吹くとラン、プーと消えるから。

●ひょっとこは、不倫して、ヒョットして子ができるのではと、口をとがらしてふさいでばかりいると、月満ちてヒョッと産まれた子の口も曲がっていた。だから「ヒョット・子」(以上、初代三遊亭円遊)

「浮世根問」について  【RIZAP COOK】

五代目柳家小さん(1915-2002、小林盛夫)がよく演じた「浮世根問うきよねどい」は、上方の「根問もの」の流れをくみます。

「薬缶」とモチーフは似ていますが、別系統の噺です。「薬缶」に比べると噺もずっと長く、質問もはるかに難問ぞろいです。

上方では、別に「薬缶根問」という噺があります。

根問  【RIZAP COOK】

「根」はルーツ、物事の根源を意味します。それを「問う」わけですから、要はいろいろなテーマについて質問し、知ったかぶりの隠居がダジャレを含めてでたらめな回答をする、という形式の噺のことです。

上方の根問ねどいものには、テーマ別に「商売根問」「歌根問」「絵根問」など、さまざまなバージョンがありました。
                       
「薬缶」は、形式は似ていても、単に語源を次々と聞いていくだけですから、「根問もの」よりもずっと軽いはなしになっています。

ついでに  【RIZAP COOK】

「根問」という題名は上方のものに限定されます。どんなに似た内容の噺でも、「薬缶」「千早振る」など東京起源のものは「根問」とは呼びません。

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

のめる【のめる】落語演目

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【どんな?】

軽い「くせ噺」。
小気味よくておもしろい。
時折演じられるので聴ける好機多々。

別題:二人癖(上方)

【あらすじ】

無尽に当たっても
「つまらねえ」
と言うので、
「当たってこぼすことはねえ」
ととがめると
「当たらねえやつはつまらねえ」
という。

お互いに悪い癖だから、一言でも口癖を言ったら、一回百円の罰金を取ろうと取り決めたが、なんとか「つまらねえ」を言わせて金をせしめようと、隠居に相談に来る。

その間にも
「百円ありゃア、一杯のめる」
と、もうやっている始末。

隠居、それなら印半纏に着替えて向こうの家に行き、手にちょっと糠をつけて
「練馬に叔母さんがいて、大根をいま百本もらった。沢庵に漬けようと思うんだが、あいにく四斗樽がないから、物置きを探すと醤油樽が出てきた。その中へ百本の大根を漬けようと思うが、つまるかねえ」
と持ちかけてみな、と策を授ける。

そうすると向こうが
「百本の大根といやあ、かなり嵩がある。それはどうしてもつまらない」
と、ここで引っかかるだろうと言うので、これはいいと、さっそく出かけていく。

その場になるとセリフを忘れてしまい、しどろもどろでようやく
「醤油樽へつまろうか」
までこぎつけた。

相手は
「そりゃあとてもつま」
まで言いかけてニヤリと笑い
「へえりきらねえ」

「つまろうか?」
「残るよ」
「つまろうか?」
「たががはじける」
「足で押し込んで」
「底が抜けるよ」

どうしてもダメ。

これから外出するというので、
「どこへ」
と聞くと、
「伊勢屋の婚礼だ」
という。

「婚礼? うまくやってやがる。のめるな」

逆にワナに落ち、百円せしめられる。

婚礼は真っ赤なうそ。

再び隠居に泣きつくと、
「今度は相手の遊びに来る時間を見計らい、将棋盤を前に、詰め将棋を考えている振りをしろ」
と言う。

持ち駒は歩が三枚に金、銀。

どうせ詰まないから、口を出してきた時を見計らって
「つまろうか?」
と聞くと、相手も夢中になっているだろうから、きっと引っかかるという作戦。

将棋などやったこともないから、盤と駒を借りてしきりにウンウンうなっていると、「つまらない」がやってきた。

間のいいことに、これが無類の将棋好き。

「待ちな待ちな。あたまへ金を打って、下がって……駒は? それっきり? 誰に教わった? 床屋の親方? からかわれたんだ。これじゃ、どうしてもつまらねえ」

これを言わせるために艱難辛苦したのだから、興奮して胸ぐらをつかむ。

「いてて、ばか、よせ。うーん、こりゃ一杯食った。てめえの知恵にしちゃできすぎだ。よし、決めを倍にして二百円やろう」
「ありがてえ、一杯のめる」
「おっと、それでさっ引きだ」

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【しりたい】

原話は「癖はなおらぬ」  【RIZAP COOK】

原話は古く、元禄14年(1701)、京都で刊行された『百登瓢箪』巻二「癖はなおらぬ」です。

これは、鼻を横なでする癖のある者と頭をたたく癖のある者が申し合わせて癖をやめることにしますが、つい話に熱中するうちに二人ともまたやらかすという、たわいない話です。

登場人物が二人という以外は、現行とは内容が違うので、遠い原型というくらいでしょうか。

くせの噺は、昔から小咄、マクラ噺としては多数あり、くせの種類も、口ぐせから動作までさまざまです。特に、動作では、八代目雷門助六が「しらみ茶屋」で見せた畳のケバむしり、鼻くそとばしの応酬が抱腹絶倒でした。ビジュアルな名人芸の見せ所なのでしょう。

なくて七癖、噺もいろいろ  【RIZAP COOK】

登場する人数も、一人(一人癖)、二人(二人癖)、三人(三人癖)と増えるにつれ、演じ分けも難しくなっていきます。あまり出ませんが、「四人癖」では、鼻こすり、眼こすり、そで引っ張り、「こいつはいい」(手をたたく)の四人が登場、四人が失敗して、勝った「こいつはいい」が最後に罰金で一杯やれるというので「なるほどこいつはいい」でオチになります。

「のめる」は、くせ噺としてはもっとも洗練されたもので、上方の演題はそのものずばり「二人癖」です。いずれにせよ、ルーツは民話、昔話にあるのでしょう。

名人連の二つ目噺  【RIZAP COOK】

東京では、大阪通りの「二人癖」で演じた、明治29年(1896)3月の三代目柳家小さんの速記があり、同時代の四代目橘家円喬も得意でした。円喬は三遊派の旗頭でした。

円喬のは、SPレコードからの復刻音源が残されています。オチは、円喬だけは変わっています。

「一本歯の下駄を頼みに行くんだ」
「一本歯の下駄なら(前に)のめるだろう」
「今ので差っ引きだ」

現在はこれを使う演者はいないでしょう。

六代目三遊亭円生が「軽い噺で、二つ目程度がやる噺」と述べていますが、なかなかどうして、昭和初期から戦後ではその円生のほか、八代目春風亭柳枝、三代目三遊亭金馬ら多くの大看板が手がけていて、現在もよく高座に掛けられます。

三代目金馬は「のめる」でなく「うめえ」を口癖にしていたので、当然演題は「二人癖」でした。

たくあん事始   【RIZAP COOK】

京都大徳寺の住職時代の沢庵宗彭(たくあんそうほう)が寛永16年(1639)に発明したとされますが、疑問があります。「じゃくあん」「たくわえづけ」からの転訛で、単に沢庵の名と結び付けられただけというのが、真説のようです。

その他、沢庵の創建した品川東海寺では、三代将軍家光の命名伝説もありますが、珍説は、沢庵の墓石がタクアン石に似ていたから、というもの。

東海寺では、タクアンの名をはばかって「百本」というそうですが、他の宗派(東海寺は臨済宗大徳寺派)や寺院でも、名僧への非礼を避け「香の物」などと呼ぶことが多いようです。

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ひゃくねんめ【百年目】落語演目

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【どんな?】

上方の噺。
大店の堅い番頭の裏の顔。
人間こうでなくちゃおもしろくないです。

あらすじ

ある大店の一番番頭、冶兵衛。

四十三だが、まだ独り身で店に居付き。

この年まで遊び一つしたことがない堅物で通っている。

茶屋遊びで午前さま(御前さまの洒落)になった二番番頭。

それをとがめた治兵衛のせりふはふるっている。

「芸者という紗は何月に着るのか、タイコモチという餠は煮て食うか焼いて食うか、教えてほしい」

この皮肉だ。

ある朝。

いつものように、治兵衛が小僧や手代にうるさく説教した。

「番町のお屋敷をまわってくる」

そう言って、番頭は外出した。

ところが、外で待っていたのは、幇間の一八。

今日は、こっそり入りびたっている柳橋の芸者、幇間連中を引き連れて、向島へ花見に繰り出そうという趣向。

菓子舗の二階で、とっておきの、大津絵を染めだした長襦袢、結城縮みの着物と羽織に着替え、屋形船を出す。

ところが、治兵衛は小心だ。

すれ違う舟から顔をのぞかれるとまずいので、ぴったり障子を締め切らせていたほど。

向島に着いた。

酒が入って大胆になる。

扇子を首に縛りつけて顔を隠し、長襦袢一枚に。

桜が満開の向島土手で、陽気に騒ぐ、一番番頭の治兵衛。

一方、こちらは大店のだんな。

おたいこ医者・玄伯をお供に、これまた花見にやってきている。

玄伯老が冶兵衛を認めた。

「あれはお宅の番頭さんでは」

そう言っても、だんなは平然としている。

「悪堅い番頭に、あんな派手なまねはできない」

まったく取り合わない。

そのうち、ひょんなはずみで二人は土手の上で鉢合わせ。

避けようとするだんなに、冶兵衛は芸者と勘違いしてむしゃぶりつき、はずみでばったり顔が合った。

いちばんこわい相手に現場を見られて、冶兵衛は動転。

「お、お久しぶりでございます。ごぶさたを申し上げております。いつもお変わりなく……」

酔いもいっぺんで醒めた冶兵衛。

逃げるように店に戻ると、風邪をひいたと寝込んでしまう。

あんな醜態をだんなに見られたからにはクビは確実だ、と頭を抱えた冶兵衛。

いっそ夜逃げしようかと、一晩悶々として、翌朝、帳場に座っても、生きた心地がない。

そこへ、だんなのお呼び。

「そら、おいでなすった」と、びくびくして母屋の敷居をまたぐ治兵衛。

意外にも、だんな、昨日のことはおくびにも出さず、天竺(インド)の栴檀の大木と天南草という雑草の話を始める。

栴檀は天南草を肥やしにして生き、天南草は栴檀の下ろす露で繁殖する。

持ちつ持たれつで、家ではあたし、店ではおまえさんが栴檀で、若い者が天南草。

天南草が枯れれば栴檀のおまえも枯れ、あたしも同じだから、厳しいのはいいが、もう少しゆとりを持ってやりなさいと、やんわりさとす。

「ところで、昨日はおもしろそうだったな」

いよいよきた。冶兵衛、取引先のお供でなどとしどろもどろの言いわけを。

だんなは少しも怒らない。

「金を使うときは、商いの切っ先が鈍るから、決して先方に使い負けてくれるな」

だんなはきっぱり。

「実は、帳簿に穴が空いているのではと気になり、密かに調べたが、これぽっちも間違いはなかった」

だんなは冶兵衛を褒めた。

「自分でもうけて、自分が使う。おまえさんは器量人だ。約束通り来年はおまえさんに店を持ってもらう」

そう言ってくれたので、冶兵衛は感激して泣き出す。

「それにしても、昨日『お久しぶりでございます』と言ったが、一つ家にいながらごぶさたてえのも……。なぜあんなことを言ったんだい」

だんなは不思議そう。

「へえ、堅いと思われていましたのをあんなざまでお目にかかり、もう、これが百年目と思いました」

底本:六代目三遊亭円生

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番頭

「番頭はん」というと、若き藤山寛美(稲垣完治、1929-90、喜劇役者)の阿呆丁稚に悩まされる、曽我廼家五郎八(西岡幸一、1902-98、松竹新喜劇役者)の絶妙の「受けの芝居」を、懐かしく思い出される方も多いかもしれません。

知らなけりゃ、それまでですが。

小僧(上方では丁稚)から手代を経て、番頭に昇格するわけです。

普通、中規模の商家で2人、大店になると3人以上いることもありました。

居付き(店に寝泊まり)の番頭と通い番頭があり、後者は所帯を持った若い番頭が裏長屋に住み、そこから店に通ったものです。

普通、番頭になって10年無事に勤め上げると、別家独立させるしきたりが、東京でも大阪でもありました。

この噺の治兵衛は、40歳を越してもまだ独身で、しかも、主人に重宝がられて別家独立が延び延びになり、店に居ついている珍しいケースです。

支配人

大店の一番番頭を、明治になると、「支配人」と呼びました。

明治41年(1908)の、三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)の速記でもそうなっています。のちにこの名称が、大会社の大物重役にも適用されるようになりました。

支配人、つまり大番頭ともなると、店の金の出納権限を握っているので、株式などの理財で個人的にもうけることも可能だったわけです。

江戸時代だと、こっそり店の金を「ドガチャカ」、つまり業務上横領して、米相場に投資するなどでしょう。

そういうリスクはあっても、主人といえども、店の金の運用には、番頭の意向を無視できませんでした。

そうやって自分ももうけ、店にも利益をもたらす番頭を「白ねずみ」と呼びました。これは、金銀の精、または福の神を意味します。

「帯久」にも出てきますが、特に功労のあった「白ねずみ」に店の屋号を与え、親類扱いで分家させることもよくありました。

上方落語の大ネタ

大阪では、幹部クラスの名人連しか演じられない大ネタを「切りネタ」と呼びますが、この噺はその切りネタの代表格でしょう。

上方落語のイメージが強いため、東京にはかなり最近紹介されたように思われがちなのですが、実は、江戸でも同題名で文化年間(1804-18)から口演されてきました。

六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900.9.3-79.9.3、柏木の)、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890.6.5-1973.9.21)が得意にしましたが、今回のあらすじは円生のものを参考にしました。

東西で、やり方に大きな違いはありませんが、たとえば大阪では、舞台が桜の宮で、番頭が、初めは2、3人の小人数で行こうと考えていたのに、ほかの芸妓に知れわたりやむなくはでな散財になった、というように、細部の設定が多少異なります。/

志ん生は、主人の天南草のセリフを省くなど、ごくあっさりと演じていました。

上方ではもちろん、三代目桂米朝(中川清、1925.11.6-2015.3.19)が絶品でしたし、五代目桂文枝(長谷川多持、1930.4.12-2005.3.12、三代目桂小文枝→)も得意としていました。

東京では、三代目古今亭志ん朝(美濃部強次、1938.3.10-2001.10.1)が円生譲りのやり方でたまに高座にかけました。

百年目

古来まれな、百年の長寿を保ったとしても、結局最後には死を免れないところから、究極の、もうどうにも逃れようもない命の瀬戸際をいいます。

敵討ちの口上などの紋切り型で、「ここで逢ったが百年目」というのは、昔からよく使われ、今も耳にする文句です。

意味を「百年に一度の奇跡」と解しがちですが、実は「(おまえにとっての)百年目で、もう逃れられない」という意味です。

番頭の絶望観を表すことばとして、このオチは見事に効いています。

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たいこばら【幇間腹】落語演目



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【どんな?】

昔は道楽者やばかでも医者になれたみたい。
現代とおなじか。

あらすじ】

道楽者の若だんな、家が金持ちであるのをいいことに、あらゆる悪行をし尽くして、もうすることがなくなってしまった。

そこで、はたと考え込み、
「こうやって道楽をして生涯を終わってしまうのは、実にもったいない。これからはせめて、同じことなら人助けになる道楽をしてみよう」
と妙な改心をした挙げ句、
「人助けならいっそ医者だが、なるのが大変だから、どうせなら簡単に免許が取れそうな鍼医はりいにでもなってやろう」
と、「でもしか医者」を思いつく。

思い立ったが吉日、とさっそく杉山流の鍼の先生に弟子入りしたが、書物の講釈ばかりして一行に鍼を持たせてくれない。

根がお調子者で気まぐれだから、じきに飽きてしまい、すぐにでも「人体実験」をしてみたくてたまらなくなった。

猫を突っついてみても練習にはならない。

やっぱり人間でなければと、そこで思い出したのが欲深の幇間の一八。

「金の五両もやれば文句はあるまい」
と喜び勇んで一八の家に出かけていく。

一八もこのところ不景気なので、久しぶりに現れた若旦那を見て
「さあ、いい獲物がかかった」
と大はりきり。

その上、若だんなに
「三百人も芸人とつき合った中で、頼りになるのはおまえ一人」
とおだてられ、つい調子に乗って
「若だんなのためなら一命も捨てます」
と口走ったのが運の尽き。

若だんなの
「一生の頼み」
と聞いて仰天したがもう遅く、いやいやながら五両で「実験台」を引き受けさせられてしまう。

「南無阿弥陀仏」
と唱え、
「今日がこの世の見納め」
と観念して横になると、舌なめずりの若だんな、初めてなので手が震える。

まずは一本、水落ちへブッスリ。

スッと入るのでおもしろくなって、全部入れちまったからさあ抜けない。

「こういう時はもう一本、友達のハリを打って、意見をして連れ戻してもらうよりしかたがない」
というので、もう一本。

またも抜けない。

「若い奴を迎えにやったから、ミイラ取りがミイラになって、いっしょに遊んじまってるんだ、ウン。今度は年寄りのハリを送って、連れ帰ってもらおう」
と、もう一本。

またまた抜けない。

どうしようもなくなって、爪を掛けてグーッと引っ張ったから、皮は破れて血はタラタラ。

あまりの痛さに一八が
「アレー」
と叫んだから、若だんな、びっくりして逃げ出してしまった。

「一八さん、どうしたい。切腹でもしたのかい」
「冗談じゃねえ。これこれこういうわけで、若だんなを逃がしちまって、一文にもならない」
「ああ、ならないわけだよ。破れだいこ(たいこ=幇間)だから、もう鳴らない」

しりたい

原話の方が過激?

もっとも古い原型は、安楽庵策伝あんらくあんさくでんの『醒睡笑せいすいしょう』(「子ほめ」「てれすこ」参照)巻二「賢だて第七話」。

ついで、元禄16年(1703)刊『軽口御前男かるくちごぜんおとこ』中の「言いぬけの(もがり)」です。

この二話ではともに、鍼を打って患者を殺し、まんまと逃げてしまいます。

前者では、鍼医が瀕死の病人の天突の穴(のどの下の胸骨のくぼみで、急所)にズブリとやり、病人の顔色が変わったので家族が騒ぎ出すのを一喝しておいて、鍼を抜くと同時に「さあ泣け」。

わっと泣き出したどさくさに、風をくらって退散、という業悪ぶりです。

時代がくだって明和9年(1772)刊『楽牽頭がくたいこ』中の「金銀の針」、安永5年(1776)刊の『年忘れ噺角力はなしずもう』中の「鍼の稽古」になると、ぐっと現行に近くなります。

「迎え鍼」のくすぐりも加わって、加害者は客、被害者が幇間になります。

若だんなの異名は「ボロッ買い」

この噺、もともとは上方から東京に移されたものです。

あまり大ネタ扱いされず、速記や音源も多くありません。

明治27年(1894)の二代目禽語楼小さん(大藤楽三郎、1848-98)の速記が残されているのは貴重です。

今回のあらすじは、その小さんのものを底本にしました。

この中で一八は尾羽おは打ち枯らした老幇間、若だんなは15歳から21歳の今日まで、ありとあらゆる女という女を賞味し尽くし、「人類ことごとく試してみて、牝馬のお尻まで犯してはみたが、まだ幇間のお尻を試したことは無い」。

江戸ことばで、誰とでも見境なく寝る意味の「ボロッ買い」という大変な代物という設定です。

現行と少し違うのは、出入りの按摩にそそのかされて「人体実験」を思いつくのと、若だんなが直接、一八宅に押しかけるところでしょう。

一八が承知する最後の決め手が「公債証書の五枚に地面(=土地)の一か所」というのが、いかにも時代です。

文楽、志ん生に教わる

八代目桂文楽(並河益義、1892.11.3-1971.12.12、黒門町、実は六代目)が「幇間腹」を覚えようと、「孝ちゃん」こと柳家甚語楼時代の五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890.6.5-1973.9.21)に教わりに行った、というエピソードがあります。昭和初期のことです。

ということは、その頃には、この噺は、大看板の師匠連で演じる者はなく、やっているのは無頼の悪名高い、悪友の甚語楼(五代目志ん生)くらいしかいなかった、ということのようです。

文楽は、結局ものにならず、いさぎよく「幇間腹」を断念します。

後年、あれほど幇間噺を得意にした文楽が、なぜモノにできなかったかは、よくわかりません。

あまりにもギャグだくさんでおにぎやかなだけの噺で、同じ幇間噺の「鰻の幇間」などと違って、自分の目指す幇間のペーソスや陰影が出しにくく、このまま覚えてもとうてい甚語楼には勝てないと思ったのかもしれません。興味深い逸話です。

杉山流

鍼医術しんいじゅつの一派で、天和2年(1682)、目の不自由だった杉山和一すぎやまわいち(1610-94、検校)が幕命を受け、鍼治講習所を設置したのが始まり。

江戸をはじめ全国に爆発的に普及しました。

志ん生の「幇間腹」

先の大戦後は、三代目春風亭柳好(松本亀太郎、1887-1956、野ざらしの、向島の、実は五代目)、五代目志ん生が得意にしました。

とはいえ、やはり、なんと言っても志ん生のものでしょうね。

志ん生は、後半の鍼を打ち込むくだりは、むしろあっさりと演じ、「迎え鍼」の部分では、二本目が折れたところで若だんなは逃げてしまいます。

その分、前半はみっちり。

たとえば若だんなの凝っているものがわからずに不安になって、「え? ゴルフ?」「え? ビリヤードですかァ? 」 と懸命にヨイショして聞き出そうとしたり、「おまえに鍼を打つ」と言われ、動揺をごまかすため、「そんなこたァ、嘘だー」と泣き出しそうな唄い調子で言ったり、「芸人はてめえだけじゃない」と若だんなに居直られると、また節をつけて「いやだよォ、あなたは」と媚びるなど、感情を押し隠さず、ナマの人間としての幇間を率直に表現する志ん生ならではの真骨頂でした。

志ん生はこの噺をごく若いころからよく演じていて、晩年の速記でも、一八が「マーチャン」(麻雀のこと)に凝っているという設定から、時代背景をを昭和初期のまま固定していたことがうかがわれます。

麻雀が日本で普及するのは、関東大震災(大正12年=1923)以降のことです。



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おおやままいり【大山詣り】落語演目



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【どんな?】

噺のおおよそは参詣の帰途が舞台。
宿で泥酔し、仲間から総スカンの熊。
熊が遂げる仕返しは凝ってます。

別題:百人坊主(上方)

あらすじ

長屋の講中で大家を先達に、大山詣りに出かけることになった。

今年のお山には罰則があって、怒ったら二分の罰金、けんかすると丸坊主にする、というもの。

これは、熊五郎が毎年、酒に酔ってはけんかざたを繰り返すのに閉口したため。

行きはまず何事もなく、無事に山から下り、帰りの東海道は程ケ谷(保土谷)の旅籠。

いつも、江戸に近づくとみな気が緩んで大酒を食らい、間違いが起こりやすいので、先達の吉兵衛が心配していると、案の定、熊が風呂場で大立ち回りをやらかしたという知らせ。

ぶんなぐられた次郎吉が、今度ばかりはどうしても野郎を坊主にすると息巻くのを、江戸も近いことだからとなだめるが、みんな怒りは収まらず、暴れ疲れ中二階の座敷でぐっすり寝込んでいる熊を、寄ってたかってクリクリ坊主に。

翌朝、目を覚ました熊、お手伝いたちが坊さん坊さんと笑うので、むかっ腹を立てたが、言われた通りにオツムをなでで呆然。

「他の連中は?」
「とっくにお立ちです」

熊は昨夜のことはなにひとつ覚えていないが、
「それにしてもひでえことをしやがる」
と頭に来て、なにを思ったか、そそくさと支度をし、三枚駕籠を仕立て途中でのんびり道中の長屋の連中を追い抜くや、一路江戸へ。

一足先に長屋に着くと、かみさん連中を集めて、わざと悲痛な顔で
「残念だが、おまえさん方の亭主は、二度と再び帰っちゃこねえよ」

お山の帰りに金沢八景を見物しようというので、自分は気乗りしなかったが、無理に勧められて舟に乗った。

船頭も南風が吹いているからおよしなさいと言ったのに、みんな一杯機嫌、いっこうに聞き入れない。

案の定、嵐になって舟は難破、自分一人助かって浜に打ち上げられた。

「おめおめ帰れるもんじゃないが、せめても江戸で待っているおまえさんたちに知らさなければと思って、恥を忍んで帰ってきた。その証拠に」
と言って頭の手拭を取ると、これが丸坊主。

「菩提を弔うため出家する」
とまで言ったから、かみさん連中信じ込んで、ワッと泣きだす。

熊公、
「それほど亭主が恋しければ、尼になって回向をするのが一番」
と丸め込み、とうとう女どもを一人残らず丸坊主に。

一方、亭主連中。

帰ってみると、なにやら青々として冬瓜舟が着いたよう。

おまけに念仏まで聞こえる。

熊の仕返しと知ってみんな怒り心頭。

連中が息巻くのを、吉兵衛、
「まあまあ。お山は晴天、みんな無事で、お毛が(怪我)なくっておめでたい」

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大山とは  【RIZAP COOK】

神奈川県伊勢原市、秦野市、厚木市の境にある標高1246mの山。

ピラミッドのような形でひときわ目立ちます。日本橋から18里(約71km)でした。

中腹に名僧良弁ろうべんが造ったといわれる雨降山あぶりさん大山寺だいせんじがありました。

雨降山とは、山頂に雲がかかって雨を降らせることからの銘々なんだそうです。

山頂に、剣のような石をご神体とする石尊大権現せきそんだいごんげんがあります。これは縄文時代以来の古い信仰です。時代が下る(奈良、平安期ですが)と、神仏混交、修験道の聖地となるのですね。

江戸時代以前には、修験者、華厳、天台、真言系の僧侶、神官が入り乱れてごろごろよぼよぼ。

それを徳川幕府が真言宗系に整理したのですが、それでもまだ神仏混交状態。

明治政府の神仏分離令(廃仏毀釈)の結果、中腹の大山寺が大山阿夫利おおやまあぶり神社に。仏の山から神の山になったわけです。

末寺はことごとく破壊されましたが、大正期には大山寺が復しました。今は真言宗大覚寺派の準本山となっています。

ばくちと商売にご利益  【RIZAP COOK】

大山まいりは、宝暦年間(1751-64)に始まりました。ばくちと商売にご利益があったんで、みんな出かけるんですね。

6月27日から7月17日までの20日間だけ、祭礼で奥の院の石尊大権現に参詣が許される期間に行楽を兼ねて参詣する、江戸の夏の年中行事です。

大山講を作って、この日のために金をため、出発前に東両国の大川端で「さんげ(懺悔の意)、さんげ」と唱えながら水垢離みずごり(体を清める)をとった上、納め太刀という木刀を各自が持参して、神前で他人の太刀と交換して奉納刀としました。

これは,大山の石尊大権現とのかかわりからきているんでしょうね。

お参りのルートは3つありました。

(1)厚木往還(八王子-厚木)
(2)矢倉沢往還(国道246号)
(3)津久井往還(三軒茶屋-津久井)

日本橋あたりから行くには(3)が普通でした。

世田谷区の三軒茶屋は大山まいりの通過点でにぎわったんです。

男の足でも4-6日はかかったというから、金も時間もかかるわけ。

金は、先達せんだつ(先導者)が月掛けで徴収しました。

帰りは伊勢原を経て、藤沢宿で1泊が普通です。

あるいは、戸塚、程ヶ谷(保土ヶ谷)、神奈川の宿のいずれかで、飯盛(私娼)宿に泊まって羽目をはずすことも多かったようです。

それがお楽しみで、群れて参詣するわけなんです。

江戸時代の参詣というのは、必ずこういう抜け穴(ホントに抜け穴)があったんですねえ。

だから、みなさん一生懸命に手ぇ合わすんですぇ。うまくできてます。

この噺のように、江ノ島や金沢八景など、横道にそれて遊覧することも。

こはい者 なし藤沢へ 出ると買ひ (柳多留14)

女人禁制で「不動から 上は金玉 ばかりなり」。最後の盆山(7月13-17日)は、盆の節季にあたり、お山を口実に借金取りから逃れるための登山も多かったそうです。

大山まいりは適度な娯楽装置だった、というわけ。

旧暦は40日遅れと知るべし  【RIZAP COOK】

落語に描かれる時代は、だいたいが江戸時代か明治時代かのどちらかです。

この噺は、江戸時代の話。これは意外に重要で、噺を聞いていて「あれ、明治の話だったのー」なあんていうこともしばしば。噺のイメージを崩さないためにも、時代設定はあらかじめ知っておきたいものです。

江戸時代は旧暦だから、6月27日といっても、梅雨まっさかりの6月27日ではないんです。旧暦に40日たすと、実際の季節になります。

だから、旧暦6月27日は、今の8月3日ごろ、ということに。お暑い盛りでのことなんですね。こんなちょっとした知識があると、落語がグーンと身近になるというものです。

元ネタは狂言から  【RIZAP COOK】

「六人僧」という狂言をもとに作られた噺です。

さらに、同じく狂言の「腹立てず」も織り交ぜてあるという説もあります。

「六人僧」は、三人旅の道中で、なにをされても怒らないという約束を破ったかどで坊主にされた男が、復讐に策略でほかの二人をかみさんともども丸坊主にしてしまう話です。

狂言には、坊主のなまぐさぶりを笑う作品が、けっこうあるもんです。

時代がくだって、井原西鶴(1642-93、俳諧、浮世草子)が各地の民話に取材して貞享2年(1685)に大坂刊「西鶴諸国ばなし」中の「狐の四天王」にも、狐の復讐で五人が坊主にされるという筋が書かれています。

スキンヘッドは厳罰  【RIZAP COOK】

四代目橘家円喬(柴田清五郎、1865-1912)は明治期の名人です。

江戸時代には坊主にされることがどんなに大変だったかを強調するため、円喬はこの噺のマクラで、マゲの説明を入念にしています。

円喬の速記は明治29年(1896)のもの。明治維新から30年足らず、断髪令が発布されてから四半世紀ほどしかたっていません。

実際に頭にチョンマゲをのっけて生活し、ザンギリにするのを泣いて嫌がった人々がまだまだ大勢生き残っていたはずなのです。

いかに時の移り変わりが激しかったか、わかろうというものです。

六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)も「一文惜しみ」の中で、「昔はちょんまげという、あれはどうしてもなくちゃならないもんで(中略)大切なものでございますから証明がなければ床屋の方で絶対にこれは切りません。『長髪の者はみだりに月代を致すまじきこと』という、髪結床の条目でございますので、家主から書付をもらってこれでくりくりッと剃ってもらう」と説明しています。

要するに、なにか世間に顔向けができないことをしでかすと、奉行所に引き渡すのを勘弁する代わりに、身元引受人の親方なり大家が、厳罰として当人を丸坊主にし、当分の謹慎を申し渡すわけです。

その間は恥ずかしくて人交わりもならず、寺にでも隠れているほかはありません。

武士にとってはマゲは命で、斬り落されれば切腹モノでしたが、町人にとっても大同小異、こちらは「頭髪には神が宿る」という信仰からきているのでしょう。

朝、自分の頭をなでたときの熊五郎のショックと怒りは、たぶん、われわれ現代人には想像もつかないでしょうね。

名人上手が磨いた噺  【RIZAP COOK】

四代目円喬は、坊主の取り決めを地で説明し、あとのけんかに同じことを繰り返してしゃべらないように気を配っていたとは、四代目柳家小さん(大野菊松、1888-1947)の回想です。

小さん自身は、取り決めを江戸ですると、かみさん連中も承知していることになるので、大森あたりで相談するという、理詰めの演出を残しました。 

そのほか、昭和に入って戦後にかけ、六代目円生、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)、八代目春風亭柳枝(島田勝巳、1905-59)、八代目三笑亭可楽(麹池元吉、1898-1964)、五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)、三代目古今亭志ん朝(美濃部強次、1938-2001)と、とうとうたる顔ぶれが好んで演じました。

三笑亭夢楽(渋谷滉、1925-2005)も師匠の八代目可楽譲りで若いころから得意にしていましたが、いまも若手を含め多くの落語家が手がける人気演目です。

上方では「百人坊主」  【RIZAP COOK】

落語としては上方が原産です。

上方の「百人坊主」は、大筋は江戸(東京)と変わりませんが、舞台は、修験道の道場である大和・大峯山の行場めぐりをする「山上まいり」の道中になっています。

主人公は「弥太公」がふつうです。

こちらでは、山を下りて伊勢街道に出て、洞川どろかわまたは下市の宿で「精進落とし」のドンチャン騒ぎをするうち、けんかが起こります。

東京にはいつ移されたかわかりませんが、江戸で出版されたもので「弥次喜多」の「膝栗毛」で知られる十返舎一九(重田貞一、1765-1831、戯作者、絵師)の滑稽本『滑稽しっこなし』(文化2=1805年刊)、滝亭鯉丈(池田八右衛門→八蔵、?-1841)の「大山道中栗毛俊足」にも、同じような筋立ての笑話があるため、もうこのころには口演されていたのかもしれません。

ただし、前項の円喬の速記では「百人坊主」となっているので、東京で「大山詣り」の名がついたのは、かなり後でしょう。

相模の女  【RIZAP COOK】

この噺の背景にはちょっと重要なパラダイムがひそんでいます。

「相模の下女は淫奔」という江戸人のお約束事です。川柳や浮世絵などでもさかんに出てきます。

相模国(神奈川県西部)出身の女性には失礼きわまりないことですがね。「池袋の下女は夜に行灯の油をなめる」といった類の話です。

大山は相模国にあります。

江戸の男たちは「相模に行けば、なにかよいことがあるかもね、むふふ」といった下心を抱きつつ勇んで向かったのでしょう。

大山詣りがにぎわうわけです。

投げ込んで くんなと頼む 下女が文  三24

枕を交わす男から寝物語に「明日大山詣りに行くんだぜ」と聞いた相模出身の下女は「ならばこの手紙を実家に持っていってよ」と頼んでいるところを詠んでいます。こんなことが実際にあったのか。あったのかもしれませんね。

江の島   【RIZAP COOK】

大山詣りの帰りの道筋に選ばれます。近場の行楽地ですが、霊験あらたかな場所でもあります。

浪へ手を あわせて帰る 残念さ   十八02

これだけで江の島を詠んでいるとよくわかるものですなんですね。「浪へ手をあわせて」でなんでしょうかね。島全体が霊場だったということですか。

江の島は ゆふべ話して けふの旅   四33

江の島は 名残をおしむ 旅でなし   九25

江の島へ 硫黄の匂ふ 刷毛ついで   初24

硫黄の匂いがするというのは、箱根の湯治帰りの人。コースだったわけです。大山詣りも同じですね。

江の島へ 踊子ころび ころびいき   十六01

「踊子」とは元禄期ごろから登場する遊芸の女性です。酒宴の席で踊ったり歌ったりして興を添えるのをなりわいとする人。

日本橋橋町あたりに多くいました。

文化頃に「芸者」の名が定着しました。各藩の留守居役とのかかわりが川柳に詠まれます。

江の島で 一日やとふ 大職冠   初15

大職冠たいしょくかん」とは、大化年間(最新の学説ではこの元号は甚だあやしいとされていますが)の孝徳天皇の時代に定めれらた冠位十二階の最高位です。

のちの「正一位しょういちい」に相当します。実際にこの位を授けられたのは藤原鎌足かまたりですが、「正一位」は稲荷神の位でもあります。

謡曲「海士あま」からの連想です。

ここでは鎌足と息子の不比等ふひとを当てています。

ことばよみいみ
良弁ろうべん華厳宗の僧。東大寺の開山。689-774
雨降山あぶりさん大山寺の寺号。神奈川県伊勢原市にある真言宗大覚寺派の寺院。大山不動。本尊は不動明王。開基(創立者)は良弁。高幡山金剛寺、成田山新勝寺とで「関東の三大不動」。
神仏習合しんぶつしゅうごう神道と仏教が調和的に折衷され、融合、同化、一体化された信仰。神仏に対する信仰を一体化する考え方をもさす。「神と仏は一体」という考え。神社境内に寺院を建てたり、寺院境内に神社があったり、神前で祝詞奏上と読経がセットでいとまれたり、神体と仏像がいっしょに祀られる状態。明治維新まではそれが普通だった。

【RIZAP COOK】



成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

ごしょううなぎ【後生鰻】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

小動物を放つと功徳(よい報い)が。
本末転倒のばかばかしさ。
珍妙無比の最高傑作です。
これはもう志ん生のが絶品。

別題:放生会ほうじょうえ 淀川(上方)

【RIZAP COOK】

あらすじ

さる大家たいけ(金持ち)の主人。

すでにせがれに家督(財産)を譲って隠居の身だが、これが大変な信心家で、殺生せっしょう(生き物を殺す)が大嫌い。

夏場に蚊が刺していても、つぶさずに、必死にかゆいのをがまんしているほど。

ある日、浅草の観音さまへお参りに行った帰りがけ、天王橋のたもとに来かかった。

ちょうど、そこの鰻屋のおやじが蒲焼きをこしらえようと、ぬるりぬるりと逃げる鰻と格闘中。

隠居、さっそく義憤を感じて、鰻の助命交渉を開始する。

「あたしの目の黒いうちは、一匹の鰻も殺させない」
「それじゃあ、ウチがつぶれちまう」
と、すったもんだの末、二円で買い取って、前の川にボチャーン。

「あー、いい功徳くどくをした」

翌日。

同じ鰻屋で、同じように二円で。

ボチャーン。

「あー、いい功徳をした」

その翌日はスッポンで、今度は八円とふっかけられた。

「生き物の命はおアシには換えられない、買いましょう」
「ようがす」
というわけで、またボチャーン。

これが毎日で、喜んだのは鰻屋。

なにしろ隠居さえ現れれば、仕事もしないで確実に日銭が転がり込むんだから、たちまち左うちわ。

仲間もうらやんで、
「おい、おめえ、いい隠居つかめえたな。どうでえ、あの隠居付きでおめえの家ィ買おうじゃねえか」
などという連中も出る始末。

ところがそのうち、当の隠居がぱったりと来なくなった。

少しふっかけ過ぎて、ほかの鰻屋にまわったんじゃないかと、女房と心配しているところへ、久しぶりに向こうから「福の神」。

「ちょっとやせたんじゃないかい」
「患ってたんだよ。ああいうのは、いつくたばっちまうかしれねえ。今のうちに、ふんだくっとこう」

ところが、毎日毎日隠居を当てにしていたもんだから、商売は開店休業。

肝心の鰻もスッポンも、一匹も仕入れていない。

「生きてるもんじゃなきゃ、しょうがねえ。あの金魚……ネズミ……しょうがねえな、もう来ちゃうよ。うん、じゃ、赤ん坊」

生きているものならいいだろうと、先日生まれたわが子を裸にして、割き台の上に乗っけた。

驚いたのは隠居。

「おいおい、その赤ちゃん、どうすんだ」
「へえ、蒲焼きにするんで」
「ばか野郎。なんてことをしやがる。これ、いくらだ」

隠居、生き物の命にゃ換えられないと、赤ん坊を百円で買い取り、前の川にボチャーン。

「あー、いい功徳をした」

底本:五代目古今亭志ん生

【RIZAP COOK】

しりたい

後生  【RIZAP COOK】

ごしょう。昔はよく「後生が悪い」とか「後生がいい」とかいう言い方をしました。後生とは仏教の輪廻転生説でいう、来世のこと。

現世で生き物の命を助けて功徳(よい行い=善行)を積めば、生まれ変わった来世は安楽に暮らせると、この隠居は考えたわけです。

五代将軍徳川綱吉(1646-1709)の「生類憐みの令」も、この思想が権力者により、ゆがんだ、極端な形で庶民に強制された結果の悲劇です。

悲劇と言い切れるかどうか。昨今は、綱吉の治世が再評価されてつつあります。社会福祉優先、文化優先の善政であった、と。これは別の機会に。

  【RIZAP COOK】

江戸市中に鰻の蒲焼きが大流行したのは、天明元年(1781)の初夏でした。てんぷらも、同じ年にブームになっています。

それまでは、鰻は丸焼きにして、たまり醤油などをつけて食べられていたものの、脂が強いので、馬方など、エネルギーが要る商売の人間以外は食べなかったとは、よく言い習わされている説ですね。

それまでも、眼病治療には効果があるので、ヤツメウナギの代わりとして、薬食いのように食べられることは多かったようです。

屈指のブラック名品  【RIZAP COOK】

オチが効いています。

こともあろうに、落語にモラルを求める野暮で愚かしい輩は、ごらんの結末ゆえに、この噺を排撃しようとしますが、料簡違いもはなはだしい。

このブラックなオチにこそ、えせヒューマニズムをはるかに超えた、人間の愚かしさへの率直な認識が見られます。

一眼国」と並ぶ、毒と諷刺の効いたショートショートのような名編の一つでしょう。

志ん生、金馬のやり方  【RIZAP COOK】

上方落語の「淀川」を東京に移したものです。明治期では、四代目橘家円喬(柴田清五郎、1865-1912)の速記が残っています。

先の大戦後では、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)、三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)、三代目三遊亭小円朝(芳村幸太郎、1892-1973)がそれぞれの個性で得意にしていました。

志ん生、金馬は、信心家でケチな隠居が、亀を買って放してやろうとし、一番安い亀を選んだので、残った亀が怒って、「とり殺してやるっ」という小ばなしをマクラにしていました。

小円朝は、ふつう隠居が「いい功徳をした」と言うところを、「ああ、いい後生をした」とし、あとに「凝っては思案にあたわず」と付け加えるなど、細かい工夫、配慮をしていました。

この噺は、別題を「放生会ほうじょうえ」といいます。

これは旧暦八月十五日に生き物を放してやると功徳を得られるという、仏教行事にちなんだものです。

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

たぬさい【狸賽】落語演目



 




  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

男、子狸にチョボイチのさいころに化けさせてどんな目でも出させる。
賭場とばで男は大当たり。最後の勝負では「目を読むな」と制される。
開いた目は五。男は「梅鉢だッ。天神さまだ」とやった。
勝負ッ。狸が冠かぶりしゃく持ってふんぞりかえってた。

別題:狸 たぬき賽(上方)

あらすじ

ある博打打ちの男。

誰か夜中に訪ねてきたので開けてみると、なんと子狸。

昼間、悪童たちにいじめられているのを男に助けられたので、その恩返しに来たのだという。

「なんでもお役に立つから、しばらく置いてください」
というので、家に入れて試してみると、なんにでも化けられるので、なるほどこれは便利。

小僧に化けて家事一切をやってくれたり、葉書を札に化けさせて、米をかすり取ってきたり。

そこで男が思いついたのが今夜の「ご開帳」。

チョボイチだから、狸をサイコロに化けさせて持っていけば、自分の好きな目が出放題、というわけ。

さっそく訓練してみると、あまり転がすと目が回るなどと、頼りないが、何とか仕込んで、勇躍賭場へ。

強引に胴を取ると、男が張る目張る目がみんな大当たりで、たちまち男の前には札束の山。

ところが、やたら
「今度は一だ」
「三だよッ、三だ三だ三だ」
などと、いちいちしつこく指示を出すので、一同眉に唾をつけ始める。

儲けるだけ儲けて退散しようとすると、最後の勝負というので先に張られてしまい、てめえが変なことを言うとその通りの目が出るから、もう目を読むなと釘をさされる。

開いた目は五。

五と言えないので、
「うーん、今度はなんだ、梅鉢だ。えー、まーるくなって、一つ真ん中になるだろ。加賀さまだ。加賀さまの紋が梅鉢で、梅鉢は天神さま。なッ。天神さまだよ、頼むぜッ」

「勝負ッ」
と転がすと、狸が冠かぶって、しゃく持ってふんぞりかえってた。

「この野郎!」

底本:五代目古今亭志ん生、五代目柳家小さん

しりたい

さまざまな狸噺  【RIZAP COOK】

原話は、宝暦13年(1763)刊の笑話本『軽口太平楽』中の「狸」です。

本来、軽く短い噺なので、「狸の札」「狸の釜」「狸の鯉」などの同類の狸噺とオムニバスで続ける場合があります。

「狸賽」を入れた四話をまとめて、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890.6.5-1973.9.21)のように「狸」と題することもあります。

それぞれ、狸が恩返しに来るという発端は共通していて、化けて失敗するものが違うだけです。

「狸の鯉」は、狸を鯉に化けさせ、親方の家に持っていくと料理されそうになり、「鯉」が積んだ薪を伝わって窓から逃げたので「あれが鯉の薪(=滝)のぼりです」と地口で落とすもの。

「狸の札」は、札に化けさせられ、相手のガマ口に入れられた狸が苦しくなって逃げ帰り、「ついでにガマ口の銭も持ってきました」というもの。

「狸の釜」は、釜に化けて和尚に売られた狸が火にかけられて逃げ出し、小坊主があれは狸だったと報告すると、「道理で半金かたられた」「包んだ風呂敷が八丈でございます」とオチるもので、狸の睾丸が八畳敷きというのと、布地の八丈縞を掛けたもの。

ぶんぶく茶釜伝説のパロディーです。

今では、あまり演じられません。

珍品、小さんの狸  【RIZAP COOK】

明治期では四代目橘家円喬(柴田清五郎、1865-1912)の速記があります。

五代目志ん生も得意にしましたが、代々の柳家小さん系に伝わる噺です。

まあ、三代目から五代目の小さんが、そろって狸に似ていたという縁もあるでしょうが。

五代目柳家小さん(小林盛夫、1915.1.2-2002.5.16)が演じると、狸を助ける場面、狸とのやりとり、「サイン」を打ち合わせるくだりなどがわりにあっさり演じた志ん生に比べて詳しくて、特に、オチの部分を、笏を持った天神のしぐさで表現するのが特色でした。

その抱腹絶倒の表情は、いまだに記憶に強烈に残っています。

小さんは「狸の札」を「狸賽」のマクラに用い、つなげて演じることも多く、その際は「狸」の題名で演じていました。

志ん生の方は、同じ「狸」の演題でも、「狸の鯉」とつなげることが多かったようです。

五代目小さんの弟子筋を中心に、若手にもよく演じられる噺です。

チョボイチ  【RIZAP COOK】

一つ粒ともいいます。

サイコロ一つを使ってやる、きわめてギャンブル性の強いバクチです。

胴元の出した目に張ると、配当は四倍になります。

同じチョボでも狐チョボになると、サイコロ三つで勝負します。

志ん生が絶妙だった「今戸の狐」にも出てきます。隠語の「狐」がからみます。

上方では  【RIZAP COOK】

発端が、少し東京と異なります。

バクチに負けた旅人が、空腹のあまり狸塚に子供たちが供えたぼた餅をつまみ食いすると狸が現れて因縁をつけてきます。

もしサイコロに化けて自分の言う通りの目を出してくれたら、ぼた餅など山のように食わしてやる、と持ちかけ、狸の賽を持ってバクチ場へ行くという段取りです。

オチは小さんと同じく、天神さまのしぐさオチになります。

原話の『軽口太平楽』中の小咄では、こうです。

化け狸が住み着いた貸家に越してきた男を、狸がありとあらゆる妖怪に化けて脅しますが、いっこうに動じないので、とうとう根負けして降参。男の頼みを聞いてサイコロに化けることに。

オチは少し変わっています。

男が五の目を出させようと「梅の花、梅の花」と言うと、狸が勘違いして(梅に縁ある)ウグイスに化けてしまいます。

これがオチ。

「この野郎!」   【RIZAP COOK】

あらすじの最後の「この野郎!」は、五代目志ん生が加えたものです。

はっきりしたオチにはなっていません。

これだと噺がまだあとに続きそうで、すわりは悪いものの、印象に残るちょっとおもしろい終わり方ですね。




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こんにゃくもんどう【蒟蒻問答】落語演目



葷酒山門に入るを許さずともいわず!?


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【どんな?】

蒟蒻屋と托鉢僧との問答。
無言の話芸。
仕方噺の極致。

別題:餅屋問答(上方)

あらすじ

八王子在のある古寺は、長年住職のなり手がなく、荒れるに任されている。

これを心配した村の世話人・蒟蒻屋の六兵衛は、江戸を食い詰めて自分のところに転がり込んできている八五郎に、出家してこの寺の住職になるように勧めたので、当人もどうせ行く当てのない身、二つ返事で承知して、にわか坊主ができあがった。

二、三日はおとなしくしていた八五郎だが、だんだん本性をあらわし、毎日大酒を食らっては、寺男の権助と二人でくだを巻いている。

金がないので
「葬式でもない日にゃあ、坊主の陰干しができる。早く誰かくたばりゃあがらねえか」
とぼやいているところへ、玄関で
「頼もう」
と声がする。

出てみると蘆白笠あじろがさを手にしたお坊さん。

越前永平寺の僧で沙弥托善しゃみたくぜんと名乗り、
「諸国行脚の途中立ち寄ったが、看板に『葷酒くんしゅ山門さんもんるを許さず』とあるので禅寺と見受けた、ぜひ、ご住職に一問答お願いしたい」
と言う。

なんだかわけがわからないが、権助が言うには、
「問答に負けると如意棒にょいぼうでぶったたかれた上、笠一本で寺から追い出される」
とのこと。

住職は留守だと追っ払おうとしたが、
「しからば、命の限りお待ち申す」
という。

大変な坊主に見込まれたものだと、八五郎が逃げ支度をしていると、やって来たのが六兵衛。

事情を聞くと、
「俺が退治してやろう」
と身代わりを買って出た。

「問答を仕掛けてきたら、黙ったままでいるから、和尚は目も見えず口も利けないと言え。それで承知しやがらなかったら、せき払いを合図に飛びかかってぶち殺しちめえ」

翌日。

住職に成りすました六兵衛と托善の対決。

「法界に魚あり、尾もなく頭もなく、中の鰭骨きこつを保つ。大和尚、この義はいかに」

六兵衛もとより、なんにも言わない。

坊主、無言の行だと勘違いして、しからば拙僧せっそうもと、手で○を作ると六兵衛、両手で大きな○。

十本の指を突き出すと、片手で五本の指を出す。

三本の指にはアッカンべー。

托善、
「恐れ入ったッ!!」
と逃げ出した。

八五郎が追いかけてわけを聞くと
「なかなか我らの及ぶところではござらん。『天地の間は』と申すと『大海たいかいのごとし』というお答え。『十方世界じっぽうせかいは』と申せば『五戒ごかいで保つ』と仰せられ、『三尊さんそん弥陀みだは』との問いには『目の下にあり』。いや、恐れ入りました」

六兵衛いわく
「ありゃ、にせ坊主に違えねえ。ばかにしゃあがって。俺が蒟蒻屋だてえことを知ってやがった。指で、てめえんとこの蒟蒻はこれっぱかりだってやがるから、こォんなに大きいと言ってやった。十でいくらだと抜かすから、五百だってえと、三百に負けろってえから、アカンベー」

【RIZAP COOK】

しりたい

実在した沙弥托善  【RIZAP COOK】

この噺、千住焼き場の僧侶から落語家になったといわれる二代目林屋正藏(沢善正蔵、19世紀前半、三代目説も)が、嘉永年間(1848-54)に作ったものだそうです。

噺の中であやうく殺されかかる(?)旅の禅僧・托善(沙弥は出家し立ての少年僧のこと)は、正蔵の修行僧時代の名です。

原典については、このほかに、やはり禅僧出身の二代目三笑亭可楽(本名不詳、?-1847、中橋の→楽翁)とする説、もっとずっと古く、貞享年間(1684-88)刊の笑話本『当世はなしの本』中の「ばくちうち長老になる事」とする説もあります。

仏教と落語の深い関係  【RIZAP COOK】

「落語家の元祖」といわれる安楽庵策伝あんらくあんさくでん(平林平太夫、1554-1642)からして、浄土宗の高僧でしたし、「寿限無」「後生鰻」「宗論」など、仏教の教説に由来する噺は少なくありません。

仏教と落語の結びつきは、きわめて強いのです。

落語はもともと、浄土真宗の節談説教ふしだんせっきょう(僧が言葉に抑揚を付け、美声とジェスチャーで演技するように語りかける説教)から起こったといわれているのです。

関山和夫(1929-2013)の一連の著作が根拠となります。

前座、二つ目、真打ちなどという語も、節談説教の世界では当たり前のように使われていました。

明治後期、浅草の本願寺でたまたまその光景を覗いた四代目橘家円喬(柴田清五郎、1865-1912)がびっくりしたという話は、それ以前のどこかの時点で仏教と落語のかかわりが途切れた証しでしょう。

とはいえ、落語協会会長だった(中澤信夫、1932-2017)が日蓮宗門の僧籍(中澤圓法)にあったのは、落語の伝統からして別に珍しいことではない、ということになります。

ビジュアルで楽しむ仕方噺  【RIZAP COOK】

「蒟蒻問答」では、後半の六兵衛と托善の禅問答は無言で、パントマイムのみになります。

このように、動作のみによって噺の筋を展開するものを「仕方噺しかたばなし」といいます。目で見る落語のことです。

いまなら、ビジュアル噺とでもいえば、伝わりがよいかもしれません。

愛宕山」「狸賽」「死神」「麻のれん」など、一部分に仕方噺を取り入れている噺は多いのです。

ただ、「蒟蒻問答」ほど長くて、しかもストーリーの重要部分をジェスチャーだけで進めるものは、ほかにありません。

苦肉の実況解説付き  【RIZAP COOK】

そのため、実際に寄席やテレビなど目の前で見ている客はいいのですが、レコードやラジオなどで耳だけで聞いていると、噺のもっともオイシイ部分で音声がとぎれてしまい、なにがなんだかわからなくなってしまいます。

そこで、この噺を得意にした五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890.6.5-1973.9.21)がこの噺をラジオ放送したときは、苦肉の策で、なんと歌舞伎並みの同時解説がつきました。「山藤章二の志ん生ラクゴニメ」の音源も同じのを使っています。

このように手間がかかるためか、昔から「蒟蒻問答」のレコードや放送は数少なく、現在出ているCDは、志ん生、八代目正蔵のものくらいです。

ホントはくだらない禅問答  【RIZAP COOK】

噺では、六兵衛のジェスチャーを托善が勝手に誤解し、一人で恐れ入って退散してしまいますが、最初の「法界に魚あり……」は、魚という字から頭と尾(上下)を取れば、残るのは「田」。そこから、鰭骨きこつ(=中骨)、つまり|の部分を取り除けば、「日」の字になります。単なる言葉遊びです。これこそハッタリというものでしょう。

次の「十方世界じっぽうせかい」は、東、西、南、北、うしとら(北東)、たつみ(東南)、ひつじさる(南西)、いぬい(西北)の八方位に、上、下を加えた十の世界のことで、広大無辺の宇宙を表します。全世界をさします。

五戒ごかい」は禅の戒律(おきて)で、殺さない殺生戒せっしょうかい、盗まない偸盗戒ちゅうとうかい、エッチしない邪淫戒じゃいんかい、うそつかない妄語戒もうごかい、酒を飲まない飲酒戒いんしゅかい。その五つをさします。

葷酒山門に入るを  【RIZAP COOK】

葷酒くんしゅ山門さんもんるを許さず」は禅寺の表看板として紋切型ですね。

くん」とはネギやニンニなど臭気を放つ野菜のことです。以下は、三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)の思い出話。

明治の昔、大阪の二代目桂文枝(渡辺儀助、1844-1916→桂文左衛門)が上京して、柳派の寄席に出演。ところがさらに、対立する三遊派の席にも出て稼ごうとすると止められました。楽屋内の張り紙に「文枝、三遊に入るを許さず」と。

ことばよみいみ
仕方噺しかたばなし動作の説明だけで筋を展開する噺
鰭骨きこつ魚のひれを支えている骨。中骨。「鰭」は「ひれ」
うしとら北東。音読みは「ごん」
たつみ東南。辰巳とも。音読みは「そん」
ひつじさる南西。音読みは「こん」
いぬい西北。音読みは「けん」
葷酒くんしゅネギやニンニなど臭気を放つ野菜(葷)と酒。禅寺では「不許葷酒入山門」(葷酒山門に入るを許さず)とある。修行僧の心を乱すもととされるから




  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

しんぶんきじ【新聞記事】落語演目

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【どんな?】

新聞が新鮮だった明治期。
殺人事件と天ぷらで一席の噺が。

別題:阿弥陀が池(上方、改作)

あらすじ】 

あわて者で少しぼーっとした八五郎。

ご隠居のところでバカを言っているうちに、
「おまえ、新聞は読むか」
と聞かれる。

「へえ、月初めに一月分」
「そりゃ古新聞だろ。じゃ、まだ今朝のを見てないな」

急に隠居の声が低くなって、
「おまえの友達の天ぷら屋の竹さんが、昨夜、夜中に泥棒に殺された」
という。

竹さんが寝ていると、枕元でガサガサ物音がするので電気をつけると、身のたけ六尺(180cm)はあろうという大男。

そいつがギラリと日本刀を抜いて、
「静かにしろ」
と脅したが、竹さん、なまじ剣術の心得があるものだから、護身用のかしの棒を取るとピタリと正眼に構えた。

泥棒は逆上して、ドーンと突いてくる。竹さん、ヒラリとかわして馬乗りになり、縛ろうとすると、泥棒がのんでいたあいくちで胸元をグサッ! 

「あっ」
と後ろへのけぞって一巻の終わり。

家は右往左往の大騒ぎで、そのすきに泥棒は逃げ出した。

しかし、悪いことはできないもので、五分たつかたたないうちにアゲられた。

それもそのはず、天ぷら屋……。

なんのことはない、落とし噺でからかわれただけ。

ところが八五郎、これを聞いてすっかり感心し、自分もやってみたくなった。

当の本人の家で
「天ぷら屋の竹が殺されたよ」
とやって、ほうほうのていで逃げ出した。

それでもまだりずに、もう一人のところへ上がり込んだ。

隠居の
「おい、ばあさん、八っつあんが来たよ。茶を出してやんな」
のセリフからそっくり始めたから、
「おい、なんでウチの女房をばあさんにしやがるんだ」
とケンツクを食らわされてミソをつける。

こうなれば、もう乗りかけた船。

強引に殺人事件を吹きまくるが、ところどころおかしくなり、泥棒の身のたけが一尺六寸(48cm)になったり、あいくちが出てこないで包丁になったり、竹さんがヒラリとタイをかわした、のタイが思い出せずに、二つ並んでいる→布袋大黒ほていだいこく恵比寿えびすさま→釣り竿→魚→たいで連想ゲームまでやってのける。

ようやく最後の、五分たつかたたないうちに、というところまで行き着いたが、またも肝心の「あげられた」が出ない。

四苦八苦していると、向こうが先に
「アゲられただろ。天ぷら屋だからな」
とやってしまった。

それを言いたいためだけに連想ゲームまで演じたのだから、立つ瀬がない。

「ところでおめえ、その話の続きを知ってるかい? 竹さんのかみさんが、亭主が死んで、もう二度とだんなは持たないと、尼さんになったてえのは」
「どうして」
「もとが天ぷら屋のかみさんだけに、衣をつけたがらあ」

底本:三代目三遊亭円歌

しりたい】 

上方落語の改作   【RIZAP COOK】

昭和初期、二代目昔々亭桃太郎せきせきていももたろう(山下喜久雄、1910-70、自称二十四代目)が「百田芦生ももたあしお」の筆名で作ったものです。

上方噺の「阿弥陀あみだが池」の改作で、桃太郎は元ネタの後半の筋立てをうまく取り入れ、東京風にすっきり仕上げています。

桃太郎没後は四代目柳亭痴楽(藤田重雄、1921-1993.12.1)に継承され、ついで三代目三遊亭円歌(中澤信夫、1932-2017)のレパートリーにもなりました。ギャグも豊富で、筋立てもおもしろいので、多くの若手が手がけています。

「阿弥陀が池」   【RIZAP COOK】

日露戦争後に初代桂文屋ぶんや(1867-1909)が作ったといわれ、今も上方落語の代表作となっています。

「新聞記事」と筋は似ていますが、ちょいと違います。

ヨタ話のネタの主人公は戦死した将校夫人の尼さん。忍んで来る泥棒が偶然夫の元部下で、それがわかって許しをうと、「おまえが来たのも仏教の輪廻りんね。誰かが行けと教えたのであろう」「阿弥陀が行け言いました」という、尼寺のある場所(阿弥陀が池のほとり)と掛けた洒落話で隠居にだまされる筋立てです。ブンヤがつくったからシンブンキジに似ているわけですね。どおりで。

桃太郎のこと   【RIZAP COOK】

作者の二代目昔々亭桃太郎は、初代柳家金語楼きんごろう(山下敬太郎、1901-72)の実弟です。

昭和初期から戦後にかけ、「桃太郎さんでございます」という開口一番のフレーズとともに、「桃太郎後日」など自作自演の明るい新作落語で親しまれました。

兄弟ともに才能あふれていたのですね。実弟は時折、東条英機に落語を聴かせていたとか。三代目桃太郎が時折高座で話してますが、おもしろいですねえ。

噺のカンどころ   【RIZAP COOK】

「おうむと呼ばれる、くり返しの面白さで笑わせるはなしだけに、しこみ、つまり前半の部分の演じ方がむずかしいところなのです」
                                       

(三代目三遊亭円歌)

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

せんりょうみかん【千両みかん】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

真夏の大店。
病に伏した若だんな。
みかんを食べたいと言い出す。
ご下命の番頭は四苦八苦。

【あらすじ】

ある呉服屋の若だんなが急に患いつき、食事も受け付けなくなった。

大切な跡取り息子なので両親も心配して、あらゆる名医に診てもらうが、決まって
「これは気の病で、なにか心に思っていることがかないさえすれば、きっと全快する」
と言うばかり。

そこで、だんなは番頭の佐兵衛を呼んで、
「おまえはせがれを小さい時分からめんどうを見ているんだから、気心は知れている。なにを思い詰めているか聞き出してほしい。なんだろうとせがれの命には換えられないから、きっとかなえてやる」
という命令。

若だんなに会って聞きただすと、
「どうせかなわないことだから、かえって不孝になるので、言わずにこのまま死んでいく」
と、なかなか口を割らない。

どうせどこかの女の子に恋患いでもしたんだろうと察して、
「必ずどうにかしますから」
とようやく白状させてみると、
「それじゃ、おまえだけに言うがね、実は、……みかんが食べたい」

あっけに取られた番頭、そんなことなら座敷中みかんで埋めてあげますと請け合って、喜んで主人に報告。

ところがだんな、難しい顔で、
「とんでもないことを言ったもんだ。じゃ、きっと買ってくるな」
「もちろんです」
「どこにみかんがある」

それもそのはず、時は真夏、土用の八月。

はっと気づいたが、もう遅い。

「おまえが今さら、ないと言えば、せがれは気落ちして死んでしまう。そうなれば主殺し。はりつけだ。きっと召し連れ訴えてやるからそう思え。それがイヤなら……」

それがイヤなら、江戸中探してもみかんを手に入れてこいと脅され、佐兵衛、かたっぱしから果物屋を当たるが、今と違って、どこにもあるわけがない。

ハリツケ柱が目にちらつく。

しまいに金物屋に飛び込む始末。

同情した主人から、神田多町の問屋街へ行けばひょっとすると、と教えられ、わらにもすがる思いで問い合わせると
「あります」
「え、ある? ね、値段は?」
「千両」

蔵にたった一つ残った、腐っていないみかんが、なんと千両。

とても出すまいと思ってだんなに報告すると
「安い。せがれの命が千両で買えれば安いもんだ」

これに佐兵衛はびっくり。

「あのケチなだんなが、みかん一つに惜しげもなく千両。皮だって五両ぐらい。スジも二両、一袋百両。あー、もったいない」
と思いつつもみかんを買ってきた。

喜んで食べた若だんな、三袋残して、
「これを両親とお祖母さんに」
と言う。

「オレが来年別家してもらう金がせいぜい三十両……。この三袋で……えーい、長い浮き世に短い命、どうなるものかいっ」

番頭、みかん三袋持ってずらかった。

【しりたい】

古い上方落語   【RIZAP COOK】

明和9年(1772)刊の笑話本『鹿子餅こもち』中の「蜜柑みかん」を、大阪の松(笑)福亭系の祖で、文政、天保期(1818-44)に活躍した初代松富久亭松竹しょうふくていしょちくが落語に仕立てたものです。

生没年など初代についての詳しいことはよくわかっていません。

オチにすぐれ、かつての大坂船場せんばの商家の人間模様も織り込んだ、古い上方落語の名作です。東京に移されたのは比較的新しく、戦後と思われます。

東西の演者   【RIZAP COOK】

東京では八代目林家正蔵(岡本義、1895.5.16-1982.1.29、→彦六)、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890.6.5-1973.9.21)が演じました。

正蔵は、みかん問屋を万屋惣兵衛よろずやそうべえとしました。「万惣まんそう」は神田多町かんだたちょうの老舗問屋で、のちに千疋屋せんびきやと並ぶ有名なフルーツパーラーになりました。現在は閉店中。

志ん生のくすぐりでは、金物屋かなものやで番頭が、引き回しやハリツケの場面を聞かされて腰を抜かすくだりが抱腹ですが、この部分は上方の演出を踏襲しています。

上方の三代目桂米朝(中川清、1925.11.6-2015.3.19)のは、事情を説明すると問屋が同情してタダでくれると言うのを、番頭が大店おおだなの見栄で、金に糸目はつけないとしつこいので、問屋も意地になって千両とふっかける、という段取りでした。

青物市場   【RIZAP COOK】

みかんを始め、青果を扱う市場は、江戸では神田多町、大坂では天満てんまで、多数の問屋が並び、それぞれこの噺の東西の舞台です。

神田多町の方は、開設は元禄元年(1688)です。

それ以前の慶長年間(1596-1615)に、草創名主くさわけなぬし河津五郎太夫かわづごろうだゆうという人が、すでに野菜市を開いていたとのことです。

大坂・天満は、京橋片原町きょうばしかたはらまち(大阪市都島区片町)にあった市を承応しょうおう2年(1653)に現在の天満橋北詰きたづめに移したものです。

天満には当時からみかん専門店がありました。

「夏は、穴ぐらか、それとも夏でもひんやりする土蔵の中で、何重にも特殊な梱包をして、残そうとしたのでしょうか。囲うということをやった」(桂米朝)

みかん   【RIZAP COOK】

栽培は古く、垂仁すいにん天皇のころ、田道間守たじまのもり常世とこよの国につかわし、非時香菓ときじくのかくのこのみを求めさせたというくだりが『日本書紀』にありますが、事実のわけはありません。

ただし、飛鳥時代にはすでに栽培されていて、「万葉集」にも数歌に詠みこまれています。

当時はユヅ、ダイダイなどかんきつ類一般を「たちばな」と呼びました。

時代は飛んで、江戸に紀州(和歌山県)の有田みかんが初入荷したのは、寛永11年(1634)11月。

その時にもう、京橋に初のみかん問屋が開業しています。

価値観の横滑り  【RIZAP COOK】

とまれ、この噺は人情噺のようでいて人情噺でない、不思議な感覚を覚える噺ですね。

現代人の感性からすると、価値観を横滑りさせた番頭の最後の独白が、しごくもっともと感じられるせいでしょうか。

たった一房のみかんをねこばばして、すたこらとんづらする番頭の後ろ姿。痛快のようだけど、鼻くそほどのばかばかしい刹那感覚。どこか心中にも似ています。

志ん生の人生観をしっかり見せつけられた思いです。

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

ほりのうち【堀の内】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

法華宗が噺の中心。
ここまで粗忽だと物事がいっこうに進みません。
法華噺でもあり、粗忽噺でもあり。

別題:あわてもの 粗忽者 粗忽者一家 愛宕詣り いらちの愛宕詣り(上方)

あらすじ

粗忽者そこつものの亭主。

片方草履ぞうりで、片方駒げたを履いておいて「足が片っぽ短くなっちまった。

薬を呼べ。医者をのむ」と騒いだ挙げ句に、「片方脱げばいい」と教えられ、草履の方を脱ぐ始末。

なんとか粗忽を治したいと女房に相談すると、信心している堀の内のお祖師さまに願掛けをすればよいと勧められる。

出掛けに子供の着物を着ようとしたり、おひつの蓋で顔を洗ったり、手拭いと間違えて猫で顔を拭き、ひっかかれたりの大騒ぎの末、ようやく家を出る。

途中で行き先を忘れ、通りがかりの人にいきなり
「あたしは、どこへ行くんで?」

なんとかたどり着いたはいいが、賽銭をあげるとき、財布ごと投げ込んでしまった。

「泥棒ッ」
と叫んでも、もう遅い。

しかたなく弁当をつかおうと背負った包みを開けると、風呂敷だと思ったのがかみさんの腰巻き、弁当のつもりが枕。

帰って戸を開けるなり
「てめえの方がよっぽどそそっかしいんだ。枕を背負わせやがって。なにを笑ってやんでえ」
とどなると
「おまえさんの家は隣だよ」

「こりゃいけねえ」
と家に戻って
「どうも相すみません」

かみさん、あきれて
「お弁当はこっちにあるって言ったのに、おまえさんが間違えたんじゃないか。腰巻きと枕は?」
「あ、忘れてきた」

かみさんに頼まれ、湯に子供を連れて行こうとすると
「いやだい、おとっつぁんと行くと逆さに入れるから」
「今日は真っ直ぐに入れてやる。おとっつぁんがおぶってやるから。おや、大きな尻だ」
「そりゃ、あたしだよ」

湯屋に着くと、番台に下駄を上げようとしたり、もう上がっているよその子をまた裸にしようとして怒られたり、ここでも本領発揮。

平謝りして子供を見つけ、
「なんだ、こんちくしょうめ。ほら、裸になれ」
「もうなってるよ」
「なったらへえるんだ」
「おとっつぁんがまだ脱いでない」

子供を洗ってやろうと背中に回ると
「あれ、いつの間にこんな彫り物なんぞしやがった。おっそろしく大きなケツだね。子供の癖にこんなに毛が生えて」
と尻の毛を抜くと
「痛え、何しやがるんだ」

鳶頭と子供を間違えていた。

「冗談じゃねえやな。おまえの子供は向こうにいらあ」
「こりゃ、どうもすみませんで……おい、だめだよ。おめえがこっちィ来ねえから。……ほら見ねえ。こんなに垢が出らあ。おやおや、ずいぶん肩幅が広くなったな」
「おとっつぁん、羽目板洗ってらあ」

しりたい

小ばなしの寄せ集め  【RIZAP COOK】

粗忽そこつ(あわて者)の小ばなしをいくつかつなげて一席噺にしたものです。

隣家に飛び込むくだりは、宝暦2年(1752)刊の笑話本『軽口福徳利かるくちふくどくり』中の「粗忽な年礼」、湯屋の部分は寛政10年(1798)刊『無事志有意ぶじしうい』中の「そゝか」がそれぞれ原話です。

くすぐりを変えて、古くから多くの演者によって高座にかけられてきました。

たとえば、湯に行く途中に間違えて八百屋に入り、着物を脱いでしまうギャグを入れることも。

伸縮自在なので、時間がないときにはサゲまでいかず、途中で切ることもよくあります。

『無事志有意』は烏亭焉馬うていえんば(中村英祝、1743-1822)の作です。

焉馬は、本所相生町あいおいちょうの大工で、和泉屋和助いずみやわすけ立川焉馬たてかわえんば立川談洲楼たてかわだんじゅうろう談洲楼焉馬だんじゅうろうえんば鑿釿言墨曲尺のみのちょうなごんすみかねなどの名を持っていました。

天明6年(1786)、向島の料亭、武蔵家権之方で「噺の会」を主宰しました。

一方の寄席の始まりといわれています。

墓所は、本所表町(墨田区東駒形1丁目)の最勝寺。天台宗の寺院で、目黄不動の通称で知られています。

門弟には、初代朝寝房夢羅久あさねぼうむらく(里見晋兵衛、1777-1831)、初代立川金馬(日吉善蔵、生没年不詳、→二代目朝寝坊むらく)、初代立川談笑(足袋屋庄八、?-1811)、初代談語楼銀馬(松塚幸太郎、生没年不詳)、初代三遊亭円生(橘屋松五郎、1768-1838、堂前の)、二代目烏亭焉馬(山崎嘗次郎、1792-1862)などがいました。

上方版「いらちの愛宕詣り」  【RIZAP COOK】

落語としては上方ダネです。「いらち」とは、大阪であわて者のこと。

前半は東京と少し違っていて、いらちの喜六が京の愛宕山へ参詣に行くのに、正反対の北野天満宮に着いてしまったりのドタバタの後、賽銭は三文だけあげるようにと女房に言い含められたのに、間違えて三文残してあと全部やってしまう、というように細かくなっています。

最後は女房に「不調法いたしました」と謝るところで終わらせます。

堀の内のお祖師さま  【RIZAP COOK】

東京都杉並区堀の内3丁目の日円山妙法寺。日蓮宗(江戸時代は法華宗と呼んでいました)の名刹です。

「お祖師さま」とは日蓮をさします。江戸ことばで「おそっさま」と読みます。

妙法寺は、もとは真言宗の尼寺で、目黒・円融寺の末寺でした。元和年間(1615-24)に日円上人が開基して法華宗(日蓮教団)に改宗。

明和年間(1764-72)に中野の桃園が行楽地として開かれて以来、厄除けの祖師まいりとして繁盛しました。

こちらの「お祖師さま」は日蓮上人42歳の木像、通称「厄除け大師」にちなみます。

法華宗の本気度  【RIZAP COOK】

「開帳」とは、厨子(仏像を安置するケース)のとばりを開いて、中に納められた本尊の秘仏を拝ませることです。

地方の由緒ある寺院が江戸に出向いて開帳するようなことを「出開帳」と呼びました。

今の美術館などでの展覧会のような催しです。

もちろん、「開帳」の第二義は、「女性の腰巻があらわになること」ですが、これはまた別の機会に。

法華宗(日蓮教団)の出開帳は、宝永2年(1705)の京都・本圀寺の江戸出開帳が最初だそうです。『武江年表』などで見ると、この年から明治6年(1873)までに行われた出開帳は131件だったそうです。

これは、出開帳全体の約半分だったとか。開帳の中身の約6割は、日蓮の肖像、つまり祖師像だったといいます。

これで法華宗の諸寺は何を示すかといえば、厄除け祖師といったように、厄除け、開運、火除け、延命、子安、日切り願満などを掲げました。

法華宗は他宗派と違って、期限の通例60日を延長するすることも、人寄せのため境内に見世物小屋などを設けることもせず、それでも参詣者は集うたといわれます。

法華宗(日蓮教団)を無視して、江戸の町は語れません。

参考文献:日本思想大系34『近世仏教の思想』月報所収「近世日蓮教団の祖師信仰」(高木豊)



  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

けいこや【稽古屋】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

音曲噺。
鳴り物入りでにぎやかに。
太っ腹な滑稽がえんえんと。

別題:稽古所 歌火事(上方) 

あらすじ

少し間の抜けた男、隠居のところに、女にもてるうまい方法はないかと聞きにくる。

「おまえさんのは、顔ってえよりガオだね。女ができる顔じゃねえ。鼻の穴が上向いてて、煙草の煙が上ェ出て行く」

顔でダメなら、金。

「金なら、ありますよ」
「いくら持ってんの」
「しゃべったら、おまえさん、あたしを絞め殺す」
「なにを言ってんだよ」
「おばあさんがいるから言いにくい」
というから、わざわざ湯に出させ、猫まで追い出して、
「さあ、言ってごらん」
「三十銭」

どうしようもない。

隠居、こうなれば、人にまねのできない隠し芸で勝負するよりないと、横丁の音曲の師匠に弟子入りするよう勧める。

「だけどもね、そういうとこィ稽古に行くには、無手じゃ行かれない」
「薪ざっぽ持って」
「けんかするんじゃない。膝突きィ持ってくんだ」

膝突き、つまり入門料。

強引に隠居から二円借りて出かけていく。

押しかけられた師匠、芸事の経験はあるかと聞けば、女郎買いと勘違いして「初会」と答えるし、なにをやりたいかと尋ねてもトンチンカンで要領を得ない。

師匠は頭を抱えるが、とりあえず清元の「喜撰」を、ということになった。

「世辞で丸めて浮気でこねて、小町桜のながめに飽かぬ……」
と、最初のところをやらせてみると、まるっきり調子っ外れ。

これは初めてではむりかもしれないと、短い「すりばち」という上方唄の本を貸し、持って帰って、高いところへ上がって三日ばかり、大きな声で練習するように、そうすれば声がふっ切れるからと言い聞かせる。

「えー、海山を、越えてこの世に住みなれて、煙が立つる……ってとこは肝(高調子)になりますから、声をずーっと上げてくださいよ」
と細かい指示。

男はその晩、高いところはないかとキョロキョロ探した挙げ句、大屋根のてっぺんによじ登って、早速声を張り上げた。

大声で
「煙が立つゥ、煙が立つーゥ」
とがなっているので、近所の連中が驚いて
「おい辰っつあん、あんな高え屋根ェ上がって、煙が立つって言ってるぜ」
「しようがねえな。このごろは毎晩だね。おーい、火事はどこだー」
「煙が立つゥー」
「だから、火事はどこなんだよォー」
「海山越えて」
「そんなに遠いんじゃ、オレは(見に)行かねえ」

底本::五代目古今亭志ん生

しりたい

音曲噺  【RIZAP COOK】

おんぎょくばなし。「おんぎょく」と濁ります。この噺は、今は絶滅したといってもいい、音曲噺の名残りをとどめた、貴重な噺です。

音曲噺とは、高座で実際に落語家が、義太夫、常磐津、端唄などを、下座の三味線付きでにぎやかに演じながら進めていく形式の噺です。

したがって、そちらの素養がなければ絶対にできないわけです。

今残るのは、この「稽古屋」の一部と、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)が得意にした「豊竹屋」くらいのものでしょう。

昔の寄席には「音曲師」という芸人が大勢いて、三味線を片手に、渋い声でありとあらゆる音曲や俗曲をおもしろおかしく弾き語りしていたものです。

音曲噺というジャンルも、そうした背景のもとに成立しました。

明治・大正の頃までは、演じる側はもちろん、聞く客の方も、大多数は稽古事などを通して、長唄や常磐津、清元などが自然の教養として日常生活に溶け込んでいたからこそ、こうした噺を自然に楽しめたのでしょうね。

上方の「稽古屋」  【RIZAP COOK】

発端の隠居とのやりとりは、上方で最も多く演じられてきた「稽古屋」から。初代桂春団治(皮田藤吉、1878-1934)が得意にしました。

主人公でアホの喜六(東京の与太郎)が稽古所へ出かけるまでの大筋は同じです。

大阪のは隠居(甚兵衛)や師匠とのやりとりにくすぐりが多く、兄弟子の稽古を見ているうちに、子供の焼イモを盗み食いするなどのドタバタのあと、「稽古は踊りだすか、唄だすか」「どっちゃでもよろし。色事のできるやつを」「そんなら、私とこではできまへん」「なんで」「恋は指南(=思案)のほかでおます」と、ダジャレオチになります。

東京では、春風亭小朝がこのやり方で演じます。

「稽古所」  【RIZAP COOK】

次の「喜撰」を習うくだりは、東京でも演じられてきた音曲噺で、別題「稽古所」。オチはありません。

最後の屋根に上がってがなるくだりからオチまでは、明治末に四代目笑福亭松鶴(森村米吉、1869-1942、→笑福亭松翁)が上京した際、「歌火事」と題して演じたものです。

先の大戦後、初代桂小南(岩田秀吉、1880-1947)、ついで二代目桂小文治(稲田裕次郎、1893-1967)が「稽古屋」として、松鶴のやり方で東京で演じました。

以上三種類の「稽古屋」を、最後の「歌火事」を中心に五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)が一つにまとめ、音曲噺というより滑稽噺として演じました。

今回のあらすじは、その志ん生のものをテキストにしました。

これが、次男の古今亭志ん朝(美濃部強次、1938-2001)に継承されていたものです。

バレ噺の「稽古屋」  【RIZAP COOK】

もう一つ、正体不明の「稽古屋」と題した速記が残っています。

こんな噺です。

常磐津の師匠をめぐって二人の男が張り合い、振られた方が、雨を口実に強引に泊まり込んだ上、暗闇にまぎれて情夫になりすまし、師匠の床に忍び込んでまんまと思いを遂げます。最後はバレますが、とっさに二階から落ちて頭を打ったことにしてゴマかし、女の母親が「痛いのなら唾をおつけなさい」と言うと、「はい、入れるときつけました」と卑猥なオチになります。

むろん演者は不明。音曲の場面もなく、たぶん大正初年にできたバレ噺の一つと思われます。

音曲の師匠  【RIZAP COOK】

ここに登場するのは、義太夫、長唄、清元、常磐津と、なんでもござれの「五目の師匠」。

今はもう演じ手のない「五目講釈」という噺もあります。

「五目」は上方ことばで「ゴミ」のことで、転じて、いろいろなものがごちゃごちゃ、ショウウインドウのように並んでいるさまをいいます。

こういう師匠は、邦楽のデパートのようなものです。

街場によくある、鰻屋なのに天丼もカツ丼も出すという類の店と同じく、素人向きに広く浅く、なんでも教えるので重宝がられました。

次は、音曲噺ついでに「豊竹屋」でもいかがでしょうか。

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

すどうふ【酢豆腐】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

町内の若い衆が暑気払いを。金がない。
「なんかねえかなぁ」
与太郎が釜に放り込んだ豆腐の残り。腐ってる。
キザな若だんなに「舶来物」と。食わせる魂胆。
鼻をつまんで若だんな。「乙でげす」
上方に上って「ちりとてちん」に。

別題:あくぬけ 石鹸 ちりとてちん(上方)

【あらすじ】

夏の暑い盛り。

例によって町内の若い衆がより集まり、暑気払いに一杯やろうと相談がまとまる。

ところがそろってスカンピンで、金もなければ肴にするものもない。

ちょうど通りかかった半公を、
「美い坊がおまえに岡ぼれだ」
とおだてて、糠味噌の古漬けを買う金二分を強奪したが、これでほかになにを買うかで、またひともめ。

一人が、昨日の豆腐の残りがあったのを思い出し、与太郎に聞いてみると、
「この暑い中、一晩釜の中に放り込んだ」
と言うから、一同呆然。

案の定、腐ってカビが生え、すっぱいにおいがして食えたものではない。

そこをたまたま通りかかったのが、横町の若だんな。

通人気取りのキザな野郎で、デレデレして男か女かわからないので、嫌われ者。

「ちょうどいい、あいつをだまして腐った豆腐を食わしちまおう」
と、決まり、口のうまい新ちゃんが代表で
「若だんなァ、なんですね。素通りはないでしょ。おあがんなさいな」
「おやっ、どうも。こーんつわ」

呼び込んで、おまえさんの噂で町内の女湯はもちきりだの、昨夜はちょいと乙な色模様があったんでしょ、お身なりがよくて金があって男前ときているから、女の子はうっちゃっちゃおきません、などと、歯の浮くようなお世辞を並べ立てると、若だんな、いい気になって
「君方の前だけど、セツなんぞは昨夜は、ショカボのベタボ(初会惚れのべた惚れ)、女が三時とおぼしきころ、この簪を抜きの、鼻ん中へ……四時とおぼしきころ、股のあたりをツネツネ、夜明け前に……」
とノロケ始める。

とてもつきあっていられないので
「ところで若だんな、あなたは通な方だ。夏はどういうものを召し上がります」
と水を向けると、人の食わないものを食ってみたいというので、これ幸い、
「舶来品のもらい物があるんですが、食い物だかなんだかわからないから、見ていただきてえんで」
と、例の豆腐を差し出した。

若旦那、鼻をつまみながら
「もちろん、これはセツら通の好むもの。一回食ったことがごわす」
「そんなら食ってみてください」
「いや、ここでは不作法だから、いただいて帰って夕げの膳に」

逃げようとしても、逃がすものではない。

一同がずらりと取り囲む中、引くに引けない若だんな。

「では、方々、失礼御免そうらえ。ううん、この鼻へツンとくるのが……ここです、味わうのは。この目にぴりっとくる……目ぴりなるものが、ぷっ、これはオツだね」

臭気に耐えられず、一気に息もつかさず口に流し込んだ。

「おい、食ったよ。いやあ、若だんな、恐れ入りました。ところで、これは、なんてエものです」
「セツの考えでは、これは酢豆腐でげしょう」
「うまいね、酢豆腐なんぞは。たんとおあがんなさい」
「いや、酢豆腐はひと口にかぎりやす」

底本:八代目桂文楽



  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

【しりたい】

若だんなは半可通

この奇妙キテレツな言葉は、明和年間(1764-71)あたりから出現した「通人」(通とも)が用いた言い回しを誇張したものです。

通人というのは、もともとは蔵前の札差のだんな衆で、金力も教養も抜きん出ているその連中が、自分たちの特有の文化サロンをつくり、文芸、芸術、食道楽その他の分野で「粋」という江戸文化の真髄を極めました。

彼らが吉原で豪遊し、洗練された遊びの限りを尽くすさまが「黄表紙」や「洒落本」という、おもに遊里を描いた雑文芸で活写され、「十八大通」などともてはやされたわけです。洒落本は「通書」と呼ばれるほどでした。

それに対して、世の常として「ニセ通」も現れます。それがこの若だんなのような手合いで、本物の通人のように金も真の教養もないくせに形だけをまね、キザにシナをつくって、チャラチャラした格好で通を気取ってひけらかす鼻つまみ連中。

これを「半可通」と呼び、山東京伝(1761-1816)が天明5年(1785)に出版した「江戸生艶気樺焼」で徹底的にこの輩を笑い者にしたため、すっかり有名になりました。

半可通は半可者とも呼び、安永8年(1779)刊の『大通法語』に「通と外通(やぼ)との間を行く外道なり。さるによって、これを半可ものといふ」とあるように、まるきり無知の野暮でもないし、かといって本物の教養もないという、中途半端な存在と定義されています。

ゲス言葉

明治41年(1908)9月の『文藝倶楽部』に掲載された初代柳家小せん(鈴木万次郎、1883-1919)の速記から、若旦那の洗練の極みの通言葉を拾ってみます。

「よッ、恐ろ感すんでげすね君は。拙の眼を一見して、昨夜はおつな二番目がありましたろうとは単刀直入……利きましたね。夏の夜は短いでしょうなかと止めをお刺しになるお腕前、新ちゃん、君もなかなか、つうでげすね。そも昨夜のていたらくといっぱ……」

読んだだけでは独特のイントネーションは伝わりませんが、歌舞伎十八番の「助六」に、こうした言葉を使う「股くぐりの通人」(実質は半可通)が登場することはよく知られます。

先代河原崎権十郎のが絶品でした。扇子をパタパタさせてシャナリシャナリ漂い、文化の爛熟、頽廃の極みのような奇人です。もしご覧になる機会があれば、彼らがどんな調子で話したか、よくおわかりいただけることでしょう。

ここでも連発される「ゲス」は、ていねい語の「ございます」が「ごいす」「ごわす」となまり、さらに「げえす」「げす」と崩れたものです。

活用で「げエせん」「げしょう」などとなりますが、遊里で通人や半可通が使ったものが、幇間ことばとして残りその親類筋の落語界でも日常語として明治期から昭和初期まではひんぱんに使われました。赤塚不二夫(赤塚藤雄、1935-2008)のくすぐりマンガでは、泥棒までが使っていました。

原話

宝暦13年(1763)刊『軽口太平楽』中の「酢豆腐」、安永2年(1773)刊『聞上手』中の「本粋」、同7年(1778)刊『福の神』中の「ちょん」と、いろいろ原典があります。

最古の「酢豆腐」では、わざわざ腐った豆腐を買ってふるまい、その上食わせる側が「これは酢豆腐だ」とごまかす筋で、現行よりかなり悪辣になっています。それでも客が無理して食べ、「これは素人の食わぬもの」と負け惜しみを言うオチです。

後の二つは食わせるものが、それぞれ腐ってすえた飯、味噌の中へ鰹節を混ぜたものとなっています。

石鹸を食わせる「あくぬけ」

現行の「酢豆腐」は、前述の初代柳家小せんが型を完成させました。

それを継承して昭和に入って戦後にかけ、八代目桂文楽(並河益義、1892-1971)が十八番にしましたが、この芸では、なにやら半可通が幇間じみるのが気になります。こんなんでよいものかどうか。

六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)、古今亭志ん朝(美濃部孝蔵、1890-1973)が得意としました。志ん朝の若だんなは嫌味がなく、むしろおっとりとした能天気さがよく出ていました。

「あくぬけ」「石鹸」と題するものは別の演出で、石鹸を食わせます。

こちらは四代目橘家円蔵(松本栄吉、1864-1922、品川の師匠)から、二代目三遊亭円歌(田中利助、1890-1964)、三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)に伝わっていました。

「あくぬけ」のオチは、「若だんな、それは石鹸で……」「いや、いいんです。体のアクがぬけます」というものです。

上方、小さん系の「ちりとてちん」

「酢豆腐」の改作で最もポピュラーなのが、三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)門下だった初代柳家小はん(鶴見正四郎、1873-1953)が豆腐をポルトガル(またはオランダ)の菓子だとだます筋に変えた「ちりとてちん」です。

大阪に移植され、初代桂春団治(皮田藤吉、1878-1934)も得意にしました。

東京では、五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)、二代目桂文朝(田上孝明、1942-2005)などがこちらの型で演じました。

オチは「どんな味でした」と聞かれて「豆腐の腐ったような味」と落とすのが普通です。

「これは酢豆腐ですが、あなた方には腐った豆腐です」としている演者もあります。

ことばよみいみ
おついいことも悪いことも
かんざし髪にとめる金具
江戸生艶気樺焼 
えどうまれうわきのかばやき山東京伝の黄表紙。3冊。天明5年(1785)刊。挿し絵は北尾政演。つまり、山東京伝本人による。版元は蔦屋重三郎
拙 せつわたし

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

 

きんじつむすこ【近日息子】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

近日を明日と思い込んでいる息子。
大家の親父が嘆く。親父の不機嫌ぶりを見た。
息子は「変だ」と医者を。葬儀屋まで。
長屋連中が悔やみに。でも、親父はピンピン。
忌中札には「近日」と。あらら。上方噺。

【あらすじ】

三十歳近くになるが、ぼんくらな一人息子に、親父が説教している。

芝居の初日がいつ開くか見てきてくれと頼むと、帰ってきて明日だと言うから、楽しみにして出かけてみると「近日開演」の札。

「バカヤロ、近日てえのは近いうちに開けますという意味だ」
と親父がしかると、
「だっておとっつぁん、今日が一番近い日だから近日だ」

なにしろ、ふだんから、気を利かせるということをまるで知らない。

「おとっつぁんが煙管きせる煙草たばこを詰めたら煙草盆を持ってくるとか、えへんと言えば痰壺たんつぼを持ってくるとか、それくらいのことをしてみろ。そのくせ、しかるとふくれっ面ですぐどっかへ行っちまいやがって」
とガミガミ言っているうち、親父、厠かわやに行きたくなったので、
「紙を持ってこい」
と言いつけると、出したのは便箋と封筒。

「まったくおまえにかかると、よくなった体でも悪くなっちまう」
と、また小言を言えば、せがれ、プイといなくなってしまった。

しばらくして医者の錆田さびた先生を連れて戻ってきたから、わけを聞くと
「お宅の息子さんが『おやじの容態が急に変わったので、あと何分ももつまいから、早く来てくれ』と言うから、取りあえずリンゲルを持って」
「えっ? あたしは何分ももちませんか」
「いやいや、一応お脈を拝見」
というので、みても、せがれが言うほど悪くないから、医者は首をかしげる。

それを見ていた息子、急いで葬儀屋へ駆けつけ、ついでに坊主の方へも手をまわしたから、説教の薬が効きすぎた。

長屋の連中も、大家おおやが死んだと聞きつけて、
「あのばか息子が早桶はやおけ担いで帰ってきたというから間違いないだろう、そうなると悔やみに行かなくっちゃなりません」
と相談する。

そこで口のうまい男がまず
「このたびはなんとも申し上げようがございません。長屋一同も、生前ひとかたならないお世話になりまして、あんないい大家さんが亡くなるなん……」
と言いかけてヒョイと見上げると、ホトケが閻魔えんまのような顔で、煙草をふかしながらにらんでいる。

「へ、こんちは、さよならっ」
「いいかげんにしろ。おまえさん方まで、ウチのばか野郎といっしょになって、あたしの悔やみに来るとは、どういう料簡だっ」
「へえ、それでも、表に白黒の花輪、葬儀屋がウロついていて、忌中札まで出てましたもんで」
「え、そこまで手がまわって……ばか野郎、表に忌中札きちゅうふだまで出しやがって」
とおやじが怒ると、
「へへ、長屋の奴らもあんまし利口じゃねえや。よく見ろい、忌中のそばに近日と書いてあらァ」

底本:三代目桂三木助

【しりたい】

「近日」は芝居用語

江戸時代の芝居興行では、予定通りに幕が開かないことがしばしばでした。

金主きんぬし(スポンサー)と座主ざぬし(プロデューサー)のトラブル、資金繰りの不能、役者の「もっといい役をつけろ!」というクレームや、ライバル役者同士の序列争いなど、さまざまな原因です。

それを見越して、初日のだいぶ前から、「近日開演」の札を出して予防線を張っていたものです。

「近日札」といいました。

大阪・道頓堀の劇場街では、昭和に入っても戦争前まで、このしきたりが残っていたそうです。

古くは、上方ではこれを「前繰さきぐり」とも呼びました。

民話が原型

「病人に坊主」という民話が原型といわれます。

小ばなしでは、先走って寺に知らせるくだりは安永2年(1774)、上方で刊行された笑話本『茶の子餅』中の「忌中」、オチの「近日札」の部分は、その前年、つまり安永2年(1773)、江戸で刊行の仕形噺本『口拍子くちびょうし』中の「手まはし」がそれぞれ原話です。

二つをミックスして、落語に仕立てたのでしょう。

特に後者は、すでに現在の「近日息子」の後半とほとんど同じです。

三木助の当たり噺

もとは上方の噺です。

吹き替え息子」(干物箱)と同じく、「息子」という言い回しも大阪のものです。

東京で口演されるようになったのは明治40年(1907)頃からです。

東京の落語家はほとんど手がけず、もっぱら上方から下ってきた二代目桂三木助(松尾福松、1884-1943)などが、大阪のものをそのまま演じていた程度でした。

大阪での修行時代に二代目桂春団治(河合浅次郎、1894-1953)からこの噺を伝授された三代目桂三木助(小林七郎、1902-61)が戦後になってから磨きをかけ、独特の現代的くすぐりをふんだんに入れて大当たり。

十八番に仕上げました。三代目三木助は生粋の江戸っ子です。三木助演出の特徴は、年代を大正末期に設定してあるため、長屋の連中の会話がデスマス調でていねいなこと。

登場人物も「錆田」に「長谷川」と、新作落語のような印象が新鮮な点でしょう。

三木助のくすぐりから

●(長屋の住人の会話。昨夜乙が湯屋で会った大家が死んだと聞いて)

甲「なんですか? ゆうべ湯に行って帰りにざるを二杯食べると、今朝死ねませんか」
乙「死ねないって理屈はないでしょうけどねえ」
甲「あのね、イースーピン(一四筒)が通ってもチーピン(七筒)が通らない場合があるン」

「イースーピン」のくすぐりは、戦後の麻雀ブームでサラリーマンや学生客に大ウケだったとか。

●(早桶をかついできた息子)

「おとっつあん、ちょっと入ってみてねえ、そいで具合が悪いようだったら、あの、今のうちならね、(寝棺と)取り換えてくれるって」

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あくびしなん【あくび指南】落語演目



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【どんな?】

あくびのお稽古に行こうという、江戸っ子の突拍子。
よほど暇なのでしょうか、ちょっとあこがれちゃいます。
でもまあ、じつにくだらないお噺で。いいですねえ。

別題:あくびの稽古(上方)

あらすじ

町内の、もと医者が住んでいた空家に、最近変わった看板がかけられた。

墨黒々と「あくび指南所」。

「常盤津や長唄、茶の湯の稽古所は聞いたことがあるが、あくびの稽古てのは聞いたことがねえ、金を取って教えるからにゃあ、どこか違っているにちがいないから、ちょいと入ってみようじゃねえか」
と、好奇心旺盛な男、渋る友達を無理やり引っ張って、
「へい、ごめんなさいまし」

応対に出てきたのが品のよさそうな老人。

夫婦二人暮らしで、取り次ぎの者もいないらしい。

お茶を出され
「こりゃまた、けっこうな粗茶で……。すると、こちらが愚妻さんで」
とまぬけなことを口走ったりした後、相棒が、
「ばかばかしいから俺は嫌だ」
というので、熊一人で稽古ということになる。

師匠の言うことには、
「ふだんあなた方がやっているあくびは、あれは駄あくびといって、一文の値打ちもない。あくびという人さまに失礼なものを、風流な芸事にするところに趣がある」
との講釈。

すっかり関心していると
「それではまず季節柄、夏のあくびを。夏はまず、日も長く、退屈もしますので、船中のあくびですかな。……その心持ちは、八つ下がり大川あたりで、客が一人。船頭がぼんやり煙草をこう、吸っている。体をこうゆすって。……船がこう揺れている気分を出します。『おい、船頭さん、船を上手へやってくんな。……日が暮れたら、堀からあがって吉原でも行って、粋な遊びのひとつもしよう。船もいいが、一日乗ってると、退屈で、退屈で、……あーあ、ならねえ』とな」
「へえ。……えー、吉原へ……こないだ行ったら勘定が足りなくなって」
「そんなことはどうでもよろしい」
「船もいいが一日乗っていると、退屈で退屈で……ハークショイッ」

これをえんえんと聞かされている相棒、あまりの阿呆らしさに、
「あきれけえったもんだ。教わる奴も奴だが、教える方もいい年しやがって。さんざ待たされているこちとらの方が、退屈で退屈で、あーあ……ならねえ」
「ほら、お連れさんの方がお上手だ」

底本:三代目三遊亭小円朝

しりたい

たくさんあった指南噺   【RIZAP COOK】

かつては「地口指南」「泥棒指南」など、多くの指南ものの噺がありました。

今ではこの「あくび指南」と「磯の鮑」(別題「女郎買いの教授」)を除けば、すたれてしまいました。

この噺を含めて指南ものは、安永年間(1772-81)以後、町人の間に経済的な余力ができて、習い事が盛んになっっていった時期に出てきたものです。

「あくび指南」も、文化年間(1804-17)にはすでに口演されていました。

「喧嘩指南」というのもあり、弟子入り早々、先制攻撃で師匠に「マゴマゴしてやがると張り倒すぞ」とやると、師匠が「うん、てめえはものになる」というもの。

これは、「あくび指南」のマクラ小ばなしとして生き残っています。

同じくマクラとして、師匠が釣り糸に糸を垂らした弟子を下からひっぱり落としたので、「先生ひどい。今のはなんの魚がかかったんです?」「今のは河童だ」とオチる「釣り指南」を付けることもあります。

「下手くそにやれ」   【RIZAP COOK】

五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)、三代目三遊亭小円朝(芳村幸太郎、1892-1973)、三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)などが、よく演じました。

金馬によれば、この噺は昔から、待っている友達(登場人物)より、聞いている客の方があくびをするように、ことさらまずく演じるのが口伝だといいます。

まずくやって客を退屈させるのが口伝とは。

ジョークなのか、奥深い演出なのか。わかりません。

昔、ある落語家がこの噺でオチ近くになったとき、客が大あくびをしたので、「あのお客さまはご器用な方だ」と即興でオチをつけて、そのまま高座を下りたとか。

四代目柳家小さん(大野菊松、1888-1947)は、「後でオチのあくびが引き立つように師匠のあくびは、ごくあっさりとやるのがコツ」と芸談を残しています。

十代目柳家小三治(郡山剛蔵、1939-2021)は、若い頃からこの噺をおもしろくやっていました。志ん生の影響を受けたんだそうです。

ところが、師匠の五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)からは「あんなに笑わせちゃいけねえんだ」と渋い顔をされたとか。

金馬や四代目小さんなんかと通じるお説ですね。

小三治のあのとぼけたおかしさ。いっそう笑いを増幅させたのでしょう。なつかしい。

現在でも東西問わずよく口演され、音源も数多い噺です。

上方のものでは、二代目桂枝雀(前田達、1939-99)が漫画的で報復絶倒、あくびをしている余裕など与えないおかしさでした。でも、これではだめなんですね、きっと。

原話は「あくび売り」   【RIZAP COOK】

安永5年(1776)、大坂板『立春噺大集』坤巻一の二「あくびの寄合」が原話です。

あくび売りが「薩摩のあくび」「仙台のあくび」「今橋筋のあくび」などをかごに入れて売り歩く趣向です。

これが上方落語「あくびの稽古」となり、かなり早く江戸にも移されたと思われます。

上方では、入れ事として「風呂に入って月をながめるときのあくび」「将棋で相手の長考を待つときのあくび」など、演者によってさまざまに工夫されていました。

川船   【RIZAP COOK】

隅田川を遊びで行き来するのは「川遊山かわゆさん」です。

「屋形船」という名称をよく聞きますが、これは、元禄年間(1688-1703)の前までは大いに流行した船で、主に武士連中が乗るものでした。

その後はすたれてしまいました。

落語で語られる時代は、寄席が始まった寛政10年(1798)以降です。

となると、屋形船はもう存在しません。

あるのは「屋根」と「猪牙」。

川遊山に使われたのは、600艘ほどあった屋根船と、屋根のなくて揺れがひどくて高速の猪牙船で、こちらは700艘あったそうです。

屋根船は船頭が1人か2人でこぐ「日よけ船」とも呼ばれるもので、4人ほどの客が乗れました。

屋根があっても、武士でなければ障子はご法度で、代わりに竹のすだれを下げたそうです。

ドラマや映画の雰囲気とはだいぶ違いますね。

ただ、船頭に酒手さかて(チップ)をはずめば、船頭は隠してあった障子を出しててききっちり閉めて、首尾の松あたりにもやい、適当な頃合いまでどこかに消えてしまうという味なこともしてくれたそうです。

首尾の松は、浅草御蔵にあった川遊山の目印となった松をいいます。

こんな客が多くて、ここはひっきりなしに船がもやう場所だったようです。

この噺での船はどちらでしょうか。まあ、どちらでもよいのでしょうが、屋根船のほうが無聊を慰めるにはお手頃かもしれませんね。

浅草御蔵、四番堀と五番堀の間には首尾の松

指南所   【RIZAP COOK】

今でも荒川区界隈ではそんなものですが、街場の人々は子供たちに習い事をさせるものでした。

子供たちばかりか、大人もいろいろな指南を受けたがるのが下町の美風でした。

指南所は、稽古所、稽古屋などともいいます。

芸は身を助けるという街場の知恵だったわけでしょう。

色っぽい独り身の女師匠が出てくるのは「汲み立て」「猫忠」ですね。

どの町内にも一人はいたといわれるほど、ごく普通のなりわいでした。

これをお目当てに通う野郎連中は、張って張りぬく経師屋連きょうじやれん、あわよくばと心願うはあわよか連、機会を見つけて野獣の本性をむき出しにする狼連おおかみれんなどが横行するのだそうです。ホントかどうかはわかりませんが。志ん生なんかはそんなことをよく言っていました。

「張る」とは見張って付け狙うことで、経師屋は書画、屏風、ふすまなどを表装する職人のことですが、ここでは紙を張るのと、女を張るのを掛けているのです。落語ではよく出てくる表現ですね。

六代目蝶花楼馬楽(河原三郎、1908-87) 四代目小さんの弟子でした
春風亭一之輔
十代目柳家小三治(郡山剛蔵、1939-2021) ちょっと若い頃の



  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

もぐらどろ【もぐら泥】落語演目

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【どんな?】

明治の初め頃を舞台にした噺です。
三遊亭円生がやっていました。

別題:おごろもち盗人(上方)

【あらすじ】

大晦日だというのに、女房がむだ遣いしてしまい、やりくりに困っているだんな。

ぶつくさ言いながら帳簿をつけていると、縁の下で、なにやらゴソゴソ。

いわゆる「もぐら」という泥棒で、昼間のうち、物乞いに化けて偵察しておき、夜になると、雨戸の敷居の下を掘りはじめる。

ところが、昼間印をつけた桟までの寸法が合わず、悪戦苦闘。

だんなが
「ええと、この金をこう融通してと、ああ、もう少しなんだがなあ」
とこぼしていると、下でも
「もう少しなんだがなあ」

「わずかばかりで勘定が追っつかねえってのは、おもしろくねえなあ」
「わずかばかりで届かねえってのは、おもしろくねえなあ」

これが聞こえて、かみさんはなにも言っていないというので、おかしいとヒョイと土間をのぞくと、そこから手がにゅっと出ている。

ははあ、こいつは泥棒で、桟を弾いて入ろうってんだと気づいたから、
「とんでもねえ野郎だ。こっちが泥棒に入りたいくらいなんだ」

捕まえて警察に突き出し、あわよくば褒賞金で穴埋めしようと、だんなは考えた。

だんな、そっと女房に細引きを持ってこさせると、やにわに手をふん縛ってしまった。

泥棒、しまったと思ってももう遅く、どんなに泣き落としをかけてもかんべんしてくれない。

おまけにもぐり込んできた犬に小便をかけられ、縁の下で泣きっ面に蜂。

そこへ通りかかったのが廓帰りの男で、行きつけの女郎屋に三円の借金があるのでお履き物を食わされた(追い出された)ところ。

おまけに兄貴分に、明日ぱっと遊ぶんだから、それまでに五円都合しとけと命令されているので、金でも落ちてないかと、下ばかり見て歩いている。

「おい、おい」
「ひえッ、誰だい。脅かすねえ」
「大きな声出すな。下、下」

見ると、縁の下に誰か寝ている。

酔っぱらいかと思うと、
「ちょっとおまえ、しゃごんで(しゃがんで)くれねえか。実は、オレは泥棒なんだ」

一杯おごるから、腹掛けの襷の中からがま口を出し、その中のナイフをオレに持たしてくれ、と頼まれる。

男は
「どこんとこだい。……あ、あったあった。こん中に入ってんのか。へえ、だいぶ景気がいいんだな」
「いくらもねえ。五十銭銀貨が六つ、二円札が二枚、みんなで五円っかねえんだ」

五円と聞いて男、これはしめたと、がま口ごと持ってスタスタ。

「あッ、ちくしょう、泥棒ーう」

【しりたい】

古きよき時代とともに  【RIZAP COOK】

原話は不詳で、上方では「おごろもち盗人」といいます。「おごろもち」は、関西でもぐらのこと。

昭和初期に五代目三遊亭円生(村田源治、1884-1940、デブの)がよく演じ、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)もたまにやりました。

速記が残るのは、六代目蝶花楼馬楽(河原三郎、1908-87)くらい。

東西とも、現在ではあまり演じられません。

オチは皮肉がきいていて、なかなかいいので、すたれるには惜しい噺なのですが。

「第十七捕虜収容所」泥は時代遅れ  【RIZAP COOK】

こうした、軒下に穴を掘って侵入する手口を文字通り「もぐら」と称しました。

もちろん「泥」にかぎらず、戦争映画などでよく見る通り、捕虜収容所や刑務所からの脱走も、穴を掘って鉄条網の向こうに出る「もぐら」方式がもっとも確実だったのですが……。

特に都会で、軒下というものがほとんど姿を消し、、穴を掘ろうにも土の地面そのものがなくなった現代、こうしたクラシックな泥棒とともに、この噺も姿を消す運命にあったのは、当然でしょう。

「ギザ」の使いみちは?  【RIZAP COOK】

50銭銀貨は、明治4年(1871)、表がドラゴン、裏に太陽を刻印したものが大小2種類発行されたのが最初です。俗に「旭日龍」と呼ばれました。

明治39年(1906)のリニューアルで表の龍が消え、通称は「旭日」に。ついで大正11年(1922)、従来より小型で銀の含有量の少ない「鳳凰」デザインのものに統一。

これは「ギザ」「イノシシ」とも呼ばれ、昭和13年(1938)、戦時経済統制で銀貨が姿を消すまで、事実上、流布した最高額の補助貨幣でした。

どんなに使いでがあったかを、大正11年前後の商品価格で調べてみると、50銭銀貨1枚で釣りがきたものは……。

寿司・並2人前、鰻重、天丼・並各1人前、もりそば5-6枚、卵8個、トンカツ3皿、二級酒4合、ビール大瓶1本、ゴールデンバット10本入り8個、炭5kg。湯銭大人1人10日分。

お履き物  【RIZAP COOK】

廓で、長く居続ける客を早く帰すため、履き物に灸をすえるまじないがあったことから、女郎屋を追い立てられる、または出入り差し止めになることを「お履き物を食わされる」といいました。

五代目古今亭志ん生は、たんに「おはきもん」と言っていました。

くすぐりから  【RIZAP COOK】

かみさんが、あとで泥棒仲間に仕返しで火でもつけられたら困るから、逃がしてしまえとだんなに言う。

泥「(調子にのって)ほんとだい、ほんとだい。仲間が大勢いて無鉄砲だから、お宅に火を つけちゃ申し訳ねえ」
亭「つけるんならつけてみろい。どうせオレの家じゃねえや」

……ごもっとも。             

                                       六代目蝶花楼馬楽

【RIZAP COOK】

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うまのす【馬のす】落語演目

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【どんな?】

意外に珍しい、釣りの噺。
オチがうまく機能しているのかが不明です。 

別題:馬の尾(上方)

あらすじ

釣好きの男。

今日も女房に文句を言われながら、こればかりは止められないと、ウキウキして出かけていく。

釣り場に着くと、さっそく道具の点検。オモリよし、浮きよし、ところが肝心のテグスがダメになっている。

出先で替えはない。

困っていると、馬方が馬を引いて通りかかる。

そこで馬がどうしても言うことを聞かず、前に進まなくなったので、しかたなく木につないで、男に「ちょっとの間お願い申します」と見張りを押しつけると、そのまま行ってしまった。

「ああ、ダメだよ。おい、そんなところに……あああ、行っちまいやがった」

舌打ちしたが、何の気なしに馬の尻尾を見て、はたと手を打つ。

こいつは使えそうだと引っ張ると、なかなか丈夫そう。

三本、釣糸代わりにちょうだいしたところへ、友達の勝ちゃん。

馬の尻尾を抜いたと聞くと、いやに深刻な顔をして
「おまえ、えれえことをした。馬の尻尾を抜いたらどういうことになるか知らないな」
と思わせぶりに言う。

不安になって、教えてくれと頼んでも
「オレだってタダ習ったんじゃねえんだから、親しき中にもなんとやらで、酒でも一杯ごちそうしてくれれば教えてやる」
と条件をつける。

酒はないと言っても、今朝、かみさんがよそからもらった極上の一升瓶をぶらさげているのを見られている。

知りたさと不安はつのるばかりなので、しかたなく承知して、勝公を家に連れていく。

腰を据えた勝公、酒はのみ放題、枝豆は食い放題。

じれた相棒がせっついても、話をそらしていっこうに教えようとしない。

そればかりか、オレも同じように馬の尻尾の毛を抜いてると、年配の人に、これこれこういう祟りがあると聞いて、恐ろしさに震え上がっただの、気を持たせるだけ持たせ、ついに酒も枝豆もきれいに空にしてしまった。

「ごちそうさん。さあ、馬の尻尾のわけ、教えてやろう」
「どうなるんだい」
「馬の尻尾……抜くとね」
「うん」
「馬が」
「馬が」
「痛がるんだよ」

底本:八代目桂文楽

しりたい

ふしぎな怖さを覚える噺   【RIZAP COOK】

どこがどうということもない、たわいないといえばたわいない噺なのですが、オチの「痛がるんだよ」を聴いてしまった後も、なんとはなしに、これで終わりではないのではないか、まだ、とてつもなく恐ろしいなにかが隠されているのではと、薄気味悪さ、不気味さがぬぐいきれません。みなさんはいかがでしょうか。

相手がなにも言わないから、よけい不安がつのります。たぶん、脅かす常套手段でしょうが、そうでないかもしれません。

馬のすは本来、白馬の尾をいい、この噺の馬も、当然そうでしょうが、実を言うと、飯島友治は、日本人は古来、白い動物に神秘性や呪力を感じていて、それを恐怖し畏怖する本能が受け継がれている、という説を述べています。

この噺の「えれえことをした」ということばも、その恐怖の象徴というのです。さて、どんなものでしょうか。

八代目文楽の「逃げ噺」   【RIZAP COOK】

れっきとした東京の噺家ながら長く大阪で活躍した三代目三遊亭円馬(橋本卯三郎、1882-1945、大阪→東京)の直伝で、八代目桂文楽(並河益義、1892-1971、黒門町、実は六代目)が得意にしていました。

とはいっても、これは、大ネタの十八番と違って、夏場の、客が「セコ」なときなどに短く一席やってお茶をにごす、いわゆる「逃げ噺」です。

六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900.9.3-79.9.3、柏木の)の「四宿の屁」などもそうですが、大看板は必ずこうした「逃げ噺」を持っています。文楽も、ある夏はトリ(=主任、興行の責任者)の席以外は毎日「馬のす」で通したこともあったといいます。

文楽の写実芸   【RIZAP COOK】

この噺、もともとは上方ダネですが、小品といえども、後半の枝豆を食べる仕種に「明烏」の甘納豆を食べる伝説的な名場面同様、文楽一流の巧緻な写実芸が発揮されていました。

短い噺で、本来は小ばなしとしてマクラに振られるに過ぎなかったのを、前述の円馬が独立した一席に仕立て、文楽がそれを受け継いで、それなりに磨きをかけたものです。

文楽も「大仏餅」のような大物人情噺をじっくり演じる時間があるときには、そのマクラに「馬のす」を添えることがありました。

馬のす   【RIZAP COOK】

「馬尾毛」とも書き、一説には、群馬県多野郡の万馬というところの方言ともいいます。先に紹介の通り、白馬の尾で、上方では味噌こし網に用いました。

テグスとはテングス?   【RIZAP COOK】

天蚕糸と書き、絹製の釣り糸で、テグス蚕の幼虫から取り出すので、この名があります。

釣りの出てくる噺はほかに、「野ざらし」「おしの釣り」「釣り指南」があり、そのほか、「船徳」「あたま山」にも釣り竿や釣り師が登場しますが、あまり多くありません。これは、江戸も幕末になるまでは、釣りは主に武士のたしなみで、庶民の娯楽としては、いまひとつ浸透していなかったためかもしれません。



  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

たちきり【立ち切り】落語演目

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【どんな?】

美代吉と新三郎の粋なしんねこ。
そこに嫌われ男が逆上して割り込んで。
もとは上方の人情噺。聴かせる物語です。

別題:立ち切れ 立ち切れ線香(上方)

あらすじ

昔は、芸妓げいぎ花代はなだいを線香の立ち切る(=燃え尽きる)時間で計った。

そのころの話。

美代吉は、築地の大和屋抱えの芸妓。

新三郎は、質屋の若だんな。

二人は、互いに起請彫きしょうぼりをするほどの恋仲だ。

ある日。

湯屋ゆうやで若いが二人の仲を噂しあっているのを聞き、逆上したのが、あぶく。

美代吉に岡惚れの油屋の番頭、九兵衛のこと。

通称、あぶく。

この男、おこぜのようなひどいご面相なのだ。

美代吉があぶくを嫌がっていると、同じ湯船にあぶくがいるとも知らずに、若い衆がさんざん悪口を言った。

あぶくは、ますます収まらない。

さっそく、大和屋に乗り込んで責めつける。

美代吉は苦し紛れに、お披露目のため新三郎の親父から五十円借金していて、それが返せないのでしかたなく言いなりになっていると、でたらめを言ってごまかした。

自分はわけあって三年間男断ちをしているが、それが明けたらきっとだんなのものになると誓ったので、あぶくも納得して帰る。

美代吉は困った。

新さんに相談しようと手紙を書くが、もう一通、アリバイ工作をしようと、あぶくにも恋文を書いたのが運の尽き。

動転しているから、二人の宛名を間違え、新三郎に届けるべき手紙をあぶくの家に届けさせてしまう。

それを読んだあぶく。

文面には、あぶくのべらぼう野郎だの、あんな奴に抱かれて寝るのは嫌だのと書いてあるから、さては、とカンカン。

あぶくは、美代吉が新三郎との密会場所に行くために雇った船中に、先回りして潜んだ。

美代吉の言い訳も聞かばこそ、かわいさ余って憎さが百倍と、あぶくは匕首あいくち(鍔のない刀)で美代吉をブッスリ。

あわれ、それがこの世の別れ。

さて、美代吉の初七日。

新三郎が仏壇に線香をあげ、念仏を唱えていると、現れたのが美代吉の幽霊。

それも白装束でなく、生前のままの、座敷へ出るなりをしている。

新三郎が仰天すると、地獄でも芸者に出ていて大変な売れっ子だ、という。

なににしても久しぶりの逢い引き。

新三郎の三味線で、幽霊の美代吉が上方唄を。

いいムードでこれからしっぽり、という時、次の間から
「へーい、お迎え火」

あちらでは、芸妓を迎えにくる時の文句と聞いて、新三郎は
「あんまり早い。今来たばかりじゃないか」
「仏さまをごらんなさい。ちょうど線香がたち切りました」

底本:六代目桂文治

しりたい

上方人情噺の翻案

京都の初代松富久亭松竹しょうふくていしょうちく(生没年不詳)作と伝えられる、生っ粋の上方人情噺を、明治中期に東京に移植したもの。

移植者は三代目柳家小さん小さん(豊島銀之助、1857-1930)とも、六代目桂文治(1848-1928、平野次郎兵衛)ともいわれています。

文化3年(1806)刊の笑話本『江戸嬉笑』中の「反魂香」が、さらに溯った原話です。

東京では「入黒子いれぼくろ」と題した、明治31年(1898)12月の六代目桂文治の速記が最古の記録です。

その後、三代目春風亭柳枝(鈴木文吉、1852-1900、蔵前の柳枝)、八代目三笑亭可楽(麹池元吉、1898-1964)を経て、十代目柳家小三治(郡山剛蔵、1939-2021)が継承しました。

ここでのあらすじは、古い文治のものを参考にしました。ちょっと珍しい、価値あるあらすじです。

文治は、しっとりとした上方の情緒あふれる人情噺を、東京風に芝居仕立てで改作しています。

線香燃え尽き財布もカラッポ

芸者のお座敷も、お女郎の「営業」も、原則では、線香が立ち切れたところで時間切れでした。

線香が燃え尽きると、客が「お直しぃー」と叫び、新たな線香を立てて時間延長するのが普通でした。

落語「お直し」のような最下級の魔窟では、客引きの牛太郎ぎゅうたろう(店の従業員)の方が勝手に自動延長してしまう、ずうずうしさです。

明治以後は、時計の普及とともにさすがにすたれました。

この風習、東京でも新橋などの古い花柳界では、かなり後まで残っていたようです。

この噺の根っこには、男女の恋愛だろうが、しょせんは玄人(プロ)と客とのでれでれで、金の切れ目が縁の切れ目、線香が燃え尽きたらはいおしまい、という世間のおおざっぱな常識をオチに取り入れているわけですね。

上方噺「立ち切れ線香」

現在でも大阪では、大看板しか演じられない切りネタ(大ネタ)です。

あらすじは、以下の通り。

若だんなが芸者小糸と恋仲になり、家に戻らないのでお決まりの勘当かんどうとなるが、番頭の取り成しで百日の間、蔵に閉じ込められる。

その間に小糸の心底を見たうえで、二人をいっしょにさせようと番頭がはかるが、蔵の中から出した若だんなの恋文への返事が、ある日ぷっつり途絶える。

若だんなは蔵から出たあと、このことを知り、しょせんは売り物買い物の芸妓と、その不実をなじりながらも、気になって置き屋を訪れた。

事情を知らない小糸は、自分は捨てられたと思い込み、焦がれ死んだという。

後悔した若だんなが仏壇に手を合わせていると、どこからか地唄の「ゆき」が聞こえてくる。

「……ほんに、昔の、昔のことよ……」

これは小糸の霊が弾いているのだと若だんなが涙にくれる。

ふいに三味線の音がとぎれ、
「それもそのはず、線香が立ち切れた」

起請彫り

入れぼくろの風習からの発展形です。

江戸初期、上方の遊廓でおこりました。

遊女が左の二の腕の内側に相手の年齢の数のほくろを入れたり、男女互いが親指のつけ根にほくろを入れたりしたそうです。

互いの心に揺らぎはないという、証しのつもりなんですね。

人は、内なる思いをなにかの形で示さないと信じ合えない、悲しい生き物なのです。

「起請」とは「誓い」のことですから、このような名称になりました。

江戸中期(18世紀以降)になると、江戸でも流行しました。同じ江戸時代とはいっても、初期と中後期では人々のもの考え方や慣習も違ってきています。

それと、じわじわ入ってきた西洋の文物や考え方が江戸の日本に沁み込んでいきました。なにも、ペリーが来たから日本ががらりと変わったわけではありません。

江戸時代は平和が200年以上続いた時代でした。この平和な時間がなによりもすごい。

平和が100年ほど続くと、人間は持続して考えることができるのですね。そうなると、いろんなことを考えたり編み出したりするものなんでしょう。

そんな中で、江戸で生まれたのが「〇〇命」という奇習。今でもたまに見ることがあります。相手の名前を彫る気っ風のよさが身上です。平和ずっぽり時代の象徴といえましょう。鳩よりすごい。

ことばよみいみ
花代はなだい遊女や芸妓への遊興費
揚げ代あげだい芸妓や娼妓などを揚屋に呼んで遊ぶ代金。=玉代
揚げ屋あげや遊里で遊女屋から遊女を呼んで遊ぶ家
遊女屋ゆうじょや置き屋
置き屋おきや芸妓や娼妓を抱えておく家
芸妓げいぎ芸者、芸子
娼妓しょうぎ遊女、公娼
入れ黒子いれぼくろいれずみ
匕首あいくちつばのない短刀




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やどやのとみ【宿屋の富】落語演目



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【どんな?】

金なし男が投宿し、金満ぶりをふかしまくる。
富くじに当たって、震え止まらず。

別題:千両富 富くじ 高津の富(上方)

あらすじ

日本橋は馬喰町ばくろうちょうの、あるはやらない旅籠はたご

そこに飛び込んできた客が、家には奉公人が五百人いて、あちこちの大名に二万両、三万両と貸しているの、漬け物に千両箱を十乗せて沢庵石にしているの、泥棒が入ったので好きなだけやると言ったのに、千両箱八十くらいしか持っていかなかったのと、好き放題に吹きまくる。

人のいい主人、これは大変な大金持ちだ、とすっかり感心。

「実は私どもは宿屋だけではやっていけないので、とみふだを売っているが、一枚余ったのを買ってくれないか」
と持ちかける。

値は一分いちぶで、一番富は千両、二番富は五百両。

「千両ぽっち当たってもじゃまでしょうがないから嫌だ」
と男が言うのを、主人がむりに説得、買ってもらった上、万一当たったら半分もらう、という約束まで取り付けた。

男は一人になると、
「なけなしの一分取られちゃった」
と、ぼやくこと、しきり。

「あれだけ大きなことを吹いたから、当分宿賃の催促はねえだろう。のむだけのんで食うだけ食って逃げちゃおう」
と開き直る。

翌朝。

「二万両返しにくる予定があるので、断ってくる」
と宿を出た男、なんとなく湯島天神の方に足が向く。

ちょうど富の当日で、境内では一攫千金いっかくせんきんを夢見るともがらが、ああだこうだと勝手な熱を吹いている。

ある男、自分は昨夜夢枕に立った神さまと交渉して、二番富に当たることになっているので
「当たったら一反いったんの財布を作って、五百両を細かくして入れ、吉原へ行きます」
と、素見ひやかしでなじみみの女郎と口説くぜつの上、あがって大散財し、女郎を身請けするまでを一人二役の大熱演。

「それでおまえさん、当たらなかったらどうすんの」
「うどん食って寝ちまう」

騒いでいるうち、寺社奉行立ち会いの上、いよいよ富の抽選開始。

子供のかん高い声で
「おん富いちばーん、子のォ、千三百、六十五ばァん」
と呼び上げる。

二番富になると、さっきの夢想男、持ち札が辰の二千三百四十一番なので、期待に胸をふくらませる。

「おん富にばーん、たつのォ、二千三百四十」
「ここですよ、女を身請けするか、うどん食って寝るかの別れ目は。一番ッ」
「七番」
「ふわー」

あわれ、引っくり返った。

一方、一文なしになった宿の客、当たり番号を見て
「オレのが子の千三百六十五番。少しの違いだな。うーん、子の、三百六十五番……三百六十五……うわっ、当たったッ、ウーン」

ショックで寒気がし、そのまま宿へ帰ると、二階で蒲団かぶってブルブル震えている。

旅籠のおやじも、後から天神の森に来て、やっぱり、
「子の千三百六十五……アリャリャリャリャー、ウワーッ」

こっちもブルブル震えて、飛ぶように家に帰ると、二階へすっとんで行き、
「あたあた、ああたの富、千両、当たりましたッ」
「うるせえなあ、貧乏人は。千両ばかりで、こんなにガタガタ……おまえ、座敷ィ下駄履いて上がってきやがったな。情けないやつだね」
「えー、お客さま、下で祝いの支度ができております。一杯おあがんなさい」
「いいよォ、千両っぱかりで」
「そんなこと言わずに」
と、ぱっと蒲団をめくると、客は草履ぞうりをはいたまま。

しりたい

毎日どこかで富くじが

各寺社が、修理・改築の費用を捻出するために興行したのが江戸時代の富くじで、単に「富」ともいいます。

文政年間(1818-30)の最盛期には江戸中で毎日どこかで富興行があったといいます。

有名なところは、湯島天神、椙森稲荷、谷中天王寺、目黒不動境内など。

これら寺社では、多い時は月に20日以上、小規模な富が行われました。

富久」で記したように、千両富となるとめったにありませんでした。

富くじは、明治に入ると廃止となりました。

先の大戦後の困窮した国民にわずかながらも一筋の希望をと、日本勧業銀行(現みずほ銀行)の管轄で「宝くじ」が昭和21年(1946)に始まり、現在にいたっています。

明治維新から先の大戦後までの77年間は、富くじの伝統は中断されていたことになるのでした。

陰富もあった

当たりの最低金額は一朱(1/16両)でした。

「突き富」の別名があるのは、木札が入った箱の中央の穴から錐で突き刺すからで、ほとんどの場合、邪気のない子供にさせました。

普通、二番富から先にやりますが、落語では演出上、細かい点は気にしません。

富はあくまで公儀(ここでは寺社奉行)の許可を得てその管轄下で行うものですが、幕末には「陰富」という非合法な興行が、旗本屋敷などで密かに催されるようになりました。

河竹黙阿弥の『天衣紛上野初花くもにまごううえののはつはな』に、今はカットされますが、「比企屋敷陰富の場」があり、大正15年(1926)11月の帝劇でただ1回上演されています。

これも上方から

上方落語の「高津の富」を、三代目柳家小さんが大阪の四代目桂文吾に教わり、明治末に東京に移しました。

その高弟の四代目小さん、七代目三笑亭可楽を経て五代目小さんに受け継がれましたが、小さんの型は、境内のこっけいなようすがなく、すぐに主人公が登場します。

オチは、あらすじで参照した五代目古今亭志ん生や次男の志ん朝は「客は草履をはいたままだった」と地(説明)で落としましたが、小さんのでは「あれっ、お客さんも草履はいてる」とセリフになります。

馬喰町は繁華街だった

ばくろうちょう。東京都中央区日本橋馬喰町。

現在はさほどではありませんが、当時は江戸随一の繁華街でした。

元禄6年(1693)に信濃善光寺の開帳(秘蔵物を見せて金を取ること)が両国回向院で行われたとき、参詣人が殺到して以来、旅籠町として発展しました。

お神酒徳利」にも登場します。

https://www.youtube.com/watch?v=e0XsLufrcVs



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ながさきのこわめし【長崎の赤飯】落語演目

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【どんな?】

上方の人情噺。
突拍子もないこと。
「長崎の赤飯」といいます。

別題:上方芝居(上方)

【あらすじ】

日本橋金吹町の質両替商、金田屋金左衛門。

勘当した一人息子の金次郎はどこでどうしていることかともらすと、女房の許には季節の変わり目に手紙が届いている、という。

女房の言うことには、金左衛門が勘当するや、伊勢の弥左衛門の家に預けたとか。

弥左衛門が商用で長崎に赴いた折に同行した金次郎、回船問屋・長者屋の娘お園に見初められ身を固めたとのこと。

それをきいた金左衛門、番頭の久兵衛に「おとっつぁん、一生の大病」と、手紙を書かせる。

開封した金次郎は身重のお園を気にしながらも急ぎ長崎をたった。

わが家に戻った金次郎の姿を見て、金左衛門夫婦は大喜びだが、またも長崎に行かれては寂しいので、久兵衛と画策。

八丁堀岡崎町の町方取締与力、渡辺喜平次の娘おいちと添わせるべく手はずを整えた。婚礼が近づいた日、身重のお園が物乞いの姿に身をやつして現れる。

これは女一人で江戸までの旅路も物乞い姿なら遂げやすかろうということから。

金左衛門も久兵衛もヒキガエルの化け物のようななりのお園に驚き、金次郎は死んだ、と告げる。

落胆するお園。

そこへ金次郎が帰ってきた。

金左衛門らの不実にまたも落胆するお園だが、身繕いをし、支度を整えれば元の美しい姿に。金左衛門もこの娘なら嫁に許そうという気にころりと変わった。

そこへ喜平次が訪ね、お園を連れ去ってしまう。

金左衛門は、
「おいちさまをひとまずもらいなさい。その間に手を回してお園さんを返してもらい、家風が合わないといっておいちさまを出せばいい」

婚礼の晩。

現れた花嫁はおいちではなく、お園だった。

金左衛門は
「こりゃどうも。お料理が粗末でいけないからすぐ取り換えて」

関所破りを改めようとしたが、お園の思いが強いことを知った喜平次のはからいで、このような具合に。

おいちはかねて望みの尼になる。

お園は男子を産み、金太郎と名付けた。

この子に長者屋を継がせ、金次郎は金田屋を相続。

金太郎の初節句に、十軒店から人形を買って長崎に送ると、長崎から赤飯が返礼に届いた。

底本:六代目三遊亭円生

【RIZAP COOK】

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

【しりたい】

二つの系統

原話は井原西鶴の作品といわれますが、未確認です。

上方落語として文化年間(1804-18)から口演された古い噺で、明治期に五代目金原亭馬生(1864-1946)が東京に移植したものです。

馬生は大阪出身で、副業に玩具屋をやっていたため「おもちゃ屋の馬生」とあだ名されました。

この噺は系統が二つあります。一つの系統はこの「長崎の赤飯」。

五代目馬生直伝で、六代目三遊亭円生が一手専売で演じ、円生在世中は当人も言っていますが、ほかには誰も演じ手はありませんでした。

その円生没後、弟子の円窓に継承されたものの、ほとんどすたれていました。

その後、鈴々舎馬桜ほかが高座に掛け、若手も手掛けるようになって、ようやく復活をみています。

別の系統は、八代目林家正蔵(彦六)が演じた「上方芝居」です。

これは、前半、女が老けづくりをし、物乞いに変装して若だんなに会いに来るところが「長崎の赤飯」と共通しています。

ルーツは同じと思われますが、いつ枝分かれし、誰が脚色して改作したかは不明です。

大阪で演じられた形跡はなく、明治期では、四代目橘家円喬、初代三遊亭円右と、円朝門の名人が得意にしました。

二人と同門の三遊一朝老人から、八代目正蔵(彦六)が若き日に教わり、晩年、時々高座に掛けました。

もっとも、こちらは、発端とオチはまったく違っていて、女は若だんなが上方見物に行ったとき、芝居小屋でけんかした相手との手打ちの座敷に出た、春吉という芸妓という設定です。

二人は親に無断で夫婦約束をしますが、若だんなが江戸へ帰ってから音沙汰がないので、春吉はしびれを切らして出てきます。

ところが、若だんなは奥州へ行って留守なので、仕方なく死んだことにし、麻布絶口木蓮寺に墓があると偽って、小春を連れて行きます。

オチは「お見立て」と同じで、「どれでも好きなの(墓石)を選んでください」となっています。

初代円右はこれをさらに怪談仕立てに変え、春吉がニセの墓前で自害、のちに化けて出ることにしたので、「長崎の強飯」とはますます違った噺になりました。

長崎のこわめし

オチは、江戸の古い慣用表現で、突拍子もないことを言うと「長崎から赤飯が来る」などと言いました。

同じ意味で「天竺から古ふんどしが来る」とも。

ありえない話の意味から転じて、「気長な」「間延びしたこと」のたとえにも使われました。

この噺のオチのニュアンスでは、後者の方を効かせているのでしょう。

「こわめし」は今の「おこわ」の語源で、もち米で炊いた冠婚葬祭用の飯のことです。

日本橋金吹町

にほんばしかなぶきちょう。中央区本石町三丁目の内。日銀本店の真向かいあたりです。

元禄(1688-1704)以前に、この地に金座が置かれていたことから、起こった町名といわれます。

当時は文字通り「かねふきちょう」と読んだとか。

元禄年間、金座はすぐ南の今の日銀の位置に移り、明治維新に至りました。

【RIZAP COOK】

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ろくろくび【ろくろ首】落語演目

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【どんな?】

上方噺の与太郎噺。
どことなくユーモラスで、愛らしい感じの妖怪が主人公。

【あらすじ】

与太の入った、松公。

おじさんの家にぼーっとやって来て、モジモジしたあげく、突然大声で
「おかみさんが欲しいッ」

二十五になってもおふくろと二人暮らしで、ぶらぶら遊んでいる。

兄嫁がご膳差し向かいで兄貴を「あなたや」などと色っぽい声で呼ぶので、うらやましくなったらしい。

「そりゃいいが、おまえどうして食わせる?」
「箸と茶碗」
「どうしてかみさんを養ってくかってんだ」
「大丈夫だよ。おふくろとかみさんを働かせて……」
「てえげえにしろ、ばか野郎」

すると、おばさんが何か耳打ち。

「え? なに? こいつを? そうよなあ。こういうのは感じねえから、いいかもしれねえ」

そこでおじさん、
「もしおまえがその気なら」
と、けっこうづくめの養子の話をする。

さるお屋敷のお嬢さんで、年ははたち。両親は亡くなって乳母、女中二人と四人暮らし。資産はあるし、美人だし、と聞いて、松公は早くもデレデレ。

ところが、奇病がある。

草木も眠る丑三ツ時になると、首がスーッと伸び、行灯(あんどん)の油をペロペロなめるとか。

「お、おじさん、それ、どくどっ首」
「ろくろっ首だ」
「そんな遠くに首があったんじゃ、たぐらなくちゃならねえ」
「帆じゃねえや」

夜しか首は伸びないし、寝たら目を覚まさないからいいと、松公、能天気に行く気になった。

おじさん、あいさつもできなければまとまらないと、松公の褌にひもを結び、乳母が出てきてなにか行ったとき、一回引っ張れば「さようさよう」、二回なら「ごもっともごもっとも」、三回なら「なかなか」と返事するんだと教え込み、
「これでまとまりゃ、人間の廃物利用だ」
と松公を連れてお屋敷へ。

ところが、乳母が
「ご両親さまが草葉の陰でお喜びでございましょう」
と、あいさつすると松公、
「ごもっともごもっともォ。あとはなかなか」
と後まで言ってしまい、おじさんは冷や汗。

庭を見ると猫がいたので
「柔らかくてうまそうな猫だ」
とヒゲを抜く。

そのうち、お嬢さんが庭を通る。

「お、おじさん、あの首が」
「しッ、聞こえるじゃねえか」

よく見ると大変にいい女なので、松公うれしくなり
「あなたッ、おまえさん、さようさようッ」

お嬢さん、顔を赤くして逃げてしまう。

おじさんが小言を言っていると、猫が褌に取りついて、松公、
「さようさよう、なかなか、ごもっともごもっともッ」
と大騒ぎ。

縁があったか、話がまとまって吉日を選び、婚礼の夜。

こういう者でも床が違うから寝つかれず、夜中に目を覚ました。

時計がチンチンと二つ打つ。

「ごもっともごもっとも」
と寝ぼけていると、隣のお嬢さんの首がスーッ。

松公
「伸びたァー」
と肝をつぶしてそのまま飛び出し、おじさんの家の戸をドンドン。

「あばばば、伸びたーッ」
「ばか野郎。静かにしろ。伸びるのを承知で行ったんじゃねえか」
「承知だってダメだよ。初日から。あんなのだめだ」
「なにがあんなのだ。第一、おまえ、夫婦のちぎりは結んだんだろ?」
「なんだい、そのちぎりって」
「そんなことはっきり言えるか。家へけえれ」
「あたい、おふくろんとこに帰る」
「この野郎。どのツラ下げておふくろんとこィ帰れる。大喜びで、明日はいい便りの聞けるように、首を長くして待っているじゃねえか」
「えっ、大変だ。家へも帰れねえ」

底本:五代目柳家小さん

【しりたい】

ろくろ

ろくろとは、物をつるしあげる滑車。

「ろくろ首」とは、その宙高く伸びた形から名がついた妖怪です。

江戸の古い洒落で、「ろくろ首のへど」とは「長い」の意味。

歌舞伎「髪結新三」の「永代橋の場」のセリフに、「ろくろのような首をして」とあるように、首の長い人を揶揄するたとえにも使われました。

首の正体

この妖怪、どうも中国にルーツがあるようで、あちらでは「飛頭蛮」と書きます。

水木しげる(武良茂、1922-2015)によれば、ろくろ首はたいてい女で、一説には夜中に寝ている男の精気を吸い取るとか。

さる大名が参勤で道中、本陣に泊まっているとき、馬番が居眠りしているスキに、牡馬がろくろ首に股間からすっかり精を吸われ、翌日フラフラで使いものにならなかったという、笑話ともエロ噺とも、はた怪談ともつかない昔話があるそうです。

これをみると、どうも淫乱な女性のカリカチュアのようですが、夜な夜な魂が肉体を離れる「離魂病」だというオカルト的解釈もあります。

いやな話ですが、ろくろ首には首に青あざがあるという説があるので首つり死体から連想されたのでは、と考えられなくもありません。

上方の「後日談」

この噺、幕末から大阪で演じられていたものを明治期に三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)が東京に移しました。

直接の原典ではありませんが、「ろくろ首」の小咄は明和9年(1772)刊『楽牽頭がくたいこ』中の「ろくろ首」ほか、たくさんあります。

上方落語では、まだこの続きがあって、アホが逃げたので離婚の交渉になり、すったもんだの末、蚊帳を吊る夏だけ「別居」することに。

「首の出入りに、蚊が入って困るのや」とオチになります。

上方版だと、仲人の「先方をキズものにして、いまさら嫌とは言わせない」というセリフがあるので、怖くてもしっかり「コト」だけは済ませていたのがわかります。

その点、江戸っ子のいくじのないこと。

東京では代々の柳家小さんが本家として得意にしたほか、三代目桂三木助(小林七郎、1902-61)もよく演じました。

オチはいろいろ

オチは演者によって何通りかあり、四代目小さん(大野菊松、1888-1947)は「じゃ、おふくろもろくろ首だ」としていましたが、五代目小さん(小林盛夫、1915-2002)があらすじのように改めました。

三木助のは、「そんなこと言わねえで、お屋敷に帰れ。お嬢さんが首を長くして待っている」というものでした。

インチキも楽じゃない

江戸時代、浅草・奥山などの盛り場では、よく「ろくろ首」の見世物が出ました。

これはむろん、からくりもしくはお座敷芸の二人羽織よろしく、複数の人間を使ったインチキでした。

それにしても、具体的にどういう仕掛けでゴマカシたのか、一度見てみたいものです。

「ろくろ首」小咄三題

●その1  『楽牽頭』中の「ろくろ首」

ろくろ首が酒をごちそうになり、「これはうらやましい。あなたなぞは、酒を味わう楽しみが長いでしょう」と言われ、「いや、そのかわり、オカラを食べるときは味気ない」        

●その2 『言軍話江戸嬉笑』中の「ろくろ首」   文化3=1806年刊

長崎・丸山遊郭のお女郎になじんだ男。請け出して女房にしようと話が決まったが、実はあの女はろくろ首だと耳打ちされ、恐怖のあまり夜逃げした。女は怒って、体は長崎のまま、首だけどこまでも伸ばして、男を追いかける。追いつ追われつ、海越え山越え、とうとう松前(北海道)まで追い詰めた。さすがの化物もくたびれ果て、腹が減って、そこらの芋畑からサトイモを掘り出してむさぼり食ったので、松前の頭はなんともないが、長崎の尻がブーブー。

●その3  『露新軽口ばなし集』中の「言いさうな事」  元禄11=1698年刊

盲目の瞽女の首が夜な夜な伸びると聞いて見に行った男。夜中に伸びた首があんどんにぶつかりそうになると、思わず「右、右」。

ことばよみいみ
丑三ツ時うしみつどき午前2時頃
行灯あんどん
ふんどし
瞽女ごぜ

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かまどろ【釜泥】落語演目

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【どんな?】

泥棒の噺。
のんきでほのぼのしてますねえ。

別題:釜盗人(上方)

あらすじ

大泥棒、石川五右衛門の手下で、六出無四郎と腹野九郎平という二人組。

親分が釜ゆでになったというので、ほおっておけば今に捕まって、こちとらも天ぷらにされてしまう、と心配になった。

そこで、親分の追善と将来の予防を兼ね、世の中にある釜という釜を全部盗み出し、片っ端からぶちこわしちまおうと妙な計画を立てた。

さしあたり、大釜を使っているのは豆腐屋だから、そこからとりかかろうと相談がまとまる。

間もなく、豆腐屋ばかりに押し入り、金も取らずに大釜だけを盗んでいく盗賊が世間の評判になる。

なにしろ新しい釜を仕入れても、そのそばからかっさらわれるのだから、業界は大騒ぎ。

ある小さな豆腐屋。

じいさんとばあさんの二人きりで、ごく慎ましく商売をしている。

この店でも、のべつ釜を盗まれるので、じいさんは頭を悩ませている。

なにか盗難防止のいい工夫はないかと相談した結果、じいさんが釜の中に入り、酒を飲みながら寝ずの晩をすることになった。

ところが、いい心持ちになり過ぎて、すぐに釜の中で高いびき。

ばあさんもとっくに船をこいでいる。

と、そこに現れたのが、例の二人組。

この家では先だっても仕事をしたが、またいい釜が入ったというので、喜んでたちまち戸をひっぱずし、釜を縄で縛って、棒を通してエッコラサ。

「ばかに重いな」
「きっと豆がいっぺえへえってるんだ」

せっせと担ぎ出すと、釜の中の爺さんが目を覚まして
「ばあさん、寝ちゃあいけないよ」

泥棒二人が変に思っていると、また釜の中から
「ほい、泥棒、入っちゃいけねえ」

さすがに気味悪くなって、早く帰ろうと急ぎ足になる。

釜が大揺れになって、じいさんはびっくりして
「婆さん、地震か」

その声に二人はがまんしきれず、そっと下ろして蓋を開けると、人がヌッと顔を出したからたまらない。

「ウワァー」
と叫ぶと、なにもかもおっぽり出して、泥棒は一目散。

一方、じいさん。

まだ本当には目が覚めず、相変わらず
「婆さん、オイ、地震だ」

そのうちに釜の中に冷たい風がスーッ。

やっと目を開けて上を向くと、空はすっかり晴れて満点の星。

「ほい、しまった。今夜は家を盗まれた」

底本:六代目朝寝坊むらく

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しりたい

諺を地でいった噺

古くから、油断して失敗する意味で「月夜に釜を抜かれる」という諺があります。

大元をたどれば、この噺は、この諺を前提に作られたと思われます。

寛延4年(1751)刊『開口新語かいこうしんご』中の漢文体の笑話が原型ですが、直接の原話は安永2年(1773)刊の笑話本『近目貫きんめぬき』中の「大釜」です。

原話では、入られるのは味噌屋で、最初に強盗一人が押し入り、家財はおろか夜具まで一切合財とっていかれて、おやじがしかたなく、大豆を煮る大釜の中で寝ていると、味をしめた盗人がずうずうしくも翌晩、また入ってきて……ということになります。オチは現行と同じです。

上方落語では「釜盗人」と題しますが、東京のものと、大筋で変わりはありません。

明治にできた噺

もともと、小咄やマクラ程度に軽く演じられていたものが、明治後期から一席噺となったものです。

四代目麗々亭柳橋は、明治7年(1874)、父親の三代目麗々亭柳橋をみようみまねでまねた芸のつおもりで、初代春風亭小柳で、神田区新銀町(千代田区神田司町2丁目辺)の寄席豆蒔亭で「釜泥」をやりました。当時14歳。小咄のつもりでやったのでしょうね。

明治34年(1901)8月、「文藝倶楽部」所載の六代目朝寝坊むらく(永瀬徳久、1859-1907)の速記がもっとも古く、現行のやり方は、オチも含めてほとんど、むらくの通りです。

同時代の大物では、四代目橘家円蔵(松本栄吉、1864-1922、品川の師匠)の速記もあります。

先の大戦後は、六代目春風亭柳橋(渡辺金太郎、1899-1979)、三代目三遊亭小円朝(芳村幸太郎、1892-1973)などが演じ、特に小円朝が得意にしていました。

小円朝は、釜ごと盗まれたじいさんが「おい、ばあさん」と夢うつつで呼ぶ声を、次第に大きくすることを工夫した、という芸談を残しています。

その後は、六代目三遊亭円窓(橋本八郎、1940-2022)がよく手掛けていました。

戦時中は禁演もどき

野村無名庵(野村元雄、1888-1945、落語評論家)の『落語通談』によれば、戦時中、時局に合わない禁演落語を定めた時、自粛検討会議の席で、泥棒噺にランクが付けられました。

甲乙丙に分け、甲はまあお目こぼし、丙は最悪で無条件禁止、ということに。

その結果、甲には「釜泥」「眼鏡屋」「穴泥」碁泥」「だくだく」「絵草紙屋」「探偵うどん」「熊坂」が。

不道徳な部分を抹消すれば、という条件付きの乙には「出来心」「しめ込み」「夏泥」「芋俵」「つづら泥」「にかわ泥」「やかん泥」「もぐら泥」「崇禅寺馬場」が。

丙には「転宅」と決まったとか。

泥棒に不道徳もヘチマもないでしょうが。

ところが、実際に設定された結果、「噺塚」に葬られた五十三種には、なんと泥棒噺は一つも入っていません。

この五十三種は、大半がエロ噺か不倫噺でした。

「釜泥」など泥棒噺はエロ噺や不倫噺の次のランクで、事実上「自粛」させられたことは間違いないでしょう。

エロよりドロはまあいいか、てなもんで。

禁演落語なんぞといっても、しょせんはこんな程度のものです。思想や宗教の弾圧などと比べれば、かわいいもんです。

戦時下ではあっても、落語の心映えがまだ許される、のどかな時代だったのかもしれません。

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

しりもち【尻餅】落語演目

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【どんな?】

切羽詰まった大晦日の極貧夫婦。
女房の尻をたたき餅つきにみせる。
苦いバレ噺もどき。

あらすじ

亭主が甲斐性かいしょうなしで、大晦日おおみそかだというのに、餠屋もちやも頼めない貧乏所帯びんぼうじょたい

女房が、せめて近所の手前、音だけでもさせてほしいと文句を言う。

これは、少しでも金を都合してきてくれという心なのだが、能天気な亭主、これを間に受けて、自作自演で景気よく餠屋に餠をかせている芝居をしようと言い出す。

夜、子供が寝たのを見計らい、そっと外に出て、聞こえよがしに大声で
「えー、親方、毎度ありがとうございます」
と叫び、子供にお世辞せじを言ったりする場面も一人二役で大奮闘。

いやがるかみさんに着物をまくらせ、手に水をつけて尻をペッタン、ペッタン。

そのうち、尻は真っ赤になる。

かみさんはしばらくがまんしていたが、とうとう、
「あの、餠屋さん、あと、幾臼いくうすあるの?」
「へい、あと二臼ふたうすです」
「おまえさん、後生ごしょうだから餠屋さんに頼んで、あとの二臼はおこわにしてもらっとくれ」

しりたい

原話は「笑府」から

中国明代みんだいの笑話本『笑府しょうふ』に類話があるといわれています。これは、明和めいわ5年(1768)に抄訳しょうやくが刊行され、それ以降につくられた多くの落語や小咄こばなしのネタ本になっていますが、具体的にどの話が「尻餅」に相当するのか、いまひとつはっきりしません。

「尻をたたく」というシチュエーションでいえば、新婚初夜に派手に「泣き声」が聞こえたので、客が後で冷やかすと、実はそれは花婿が、新婦に尻をたたかれて発した声だったという、『笑府』閨風部けいふうぶ艶笑えんしょう小ばなし「婿呼痛せいこつう」がそれかもしれません。

おこわと白蒸

もとは上方落語で、オチは東京では「お強にしとくれ」ですが、上方は「白蒸しろむしでたべとくれ」です。

白蒸は、糯米もちごめを蒸して、まだいていない状態のもので、なるほど、「もうたたかないどくれ」という意味ではこちらの方が明快でしょう。

上方では笑福亭系の噺です。五代目笑福亭松鶴(竹内梅之助、1884-1950)、六代目笑福亭松鶴(竹内日出男、1918-86)の十八番でした。東京では、あらすじでもテキストにした八代目三笑亭可楽(麹池元吉、1898-1964)のやり方が現行の基本になっています。

可楽はこの前に「掛け取り万歳」の後半部を付け、この夫婦の貧乏と能天気を強調しておくやり方でした。

餅屋

江戸時代、ふつう餅搗もちつきは12月26日から。これを餅搗始もちつきはじめといいました。この日から大晦日おおみそかまで、「引摺ひきずり」といって、餅屋が何人かで道具を持ち、得意先を回って歩きます。

正月の餅はおろか、鏡餅かがみもちも買えない切羽詰せっぱつまった状況というのは、落語では「三百餅」「子ころし」などにも描かれます。

「尻餅」の直接の原話である、享和2年(1802)刊の江戸板笑話本『へそくり金』中の「餅搗もちつき」では、貧乏な医者が下男の三介の尻をたたく設定になっています。

ほのかなエロティシズム

東京でも上方でも、女房の尻をまくって亭主が「白い尻だなあ」と、思わず見とれたように言う(生唾なまつばをのみ込む?)セリフがあります。

江戸時代には、アノ時の「後ろから」の体位は、畜生道ちくしょうどうということで禁断だったわけで、この亭主も、所帯を持って初めて、まじまじとその部分を拝み、新鮮な感動をおぼえたのでしょう。

いずれにしても、この「餅搗」、禁断のセックスの暗喩あんゆと勘ぐれば、エロの色調もより濃厚になってきそうです。とはいうものの、さほどのもんじゃありません。



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ひとりさかもり【一人酒盛】落語演目



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【どんな?】

上方噺。
酒好きにはこたえられません。

別題:一人酒

【あらすじ】

これから仕事に出かけようという時に、急用だからとのみ友達の熊五郎に呼び出された留公。

無理して来てみると、たった今、上方に行っていた知人から、土産に酒をもらったから、二人でのみたいと、誘ったという。

造り酒屋から直接、一升だけ分けてもらった酒の元(原酒)で、めったに手に入らない、いい酒とか。

本当なら全部あげたいが、ほかに一軒世話になった家があって、そこへ半分持っていかなければならないから、五合で勘弁してくれと、置いていったという。

「のみ友達は大勢いるが、留さんは一番気が合うから呼んだ」
とお世辞を言われ、酒に目がなく、お人よしの留公はニコニコ。

いい酒がのめると聞いて、仕事などどうでもよくなった。

熊が、炭火を起こして燗をつけてくれの、魚屋に行って刺し身を見つくろってこいのと、自分をアゴで使い始めたのもいっこうに気にせず、台所の板をひっぺがして漬け物を出し、また燗をつけ、のみたい一心でかいがいしく動きまわる。

今か今かと、「のめ」と言ってくれるのを待っているのだが、熊は一人でガブガブのみ、勝手なご託ばかり並べ立てるだけ。

ついにがまんしかねて、留が
「うまいかい?」
とせいいっぱいのカマをかけても、グイグイ一息にのみ干してから
「のんでるときに、なにか言っちゃいけねえ」
と、熊の耳にも入らない。

「いい酒だね、うまくって、酔い心地がよくって、醒めぎわがいい。七十五日どころか、三年ぐらい生き延びちゃった。おい、もう一度燗をつけてくれ」

「いっしょにのみてえのは留さんだけだ」
と繰り返すので、ついまたつけてやってしまう。

そのうち刺し身をムシャムシャ食い出し、これも独り占め。

そろそろ完全にベロベロになってきて、なにかうたえと、からむからぶつくさ言うと、
「なに、もそもそ言ってるんだよォ。酒のんだら、のんだ心持ちになんなきゃいけないよォ」

留、カッカしてきて燗番を忘れ、酒が沸騰。

熊、
「どじ助のまぬけ、こんなに煮っくりかえしちまって」
と毒づきながら、酒をフウフウ吹きながらのむ。

そこで五合はおつもり。

「無冠の太夫おつもり」
などと一人駄洒落で悦に入り
「一人でのんじゃもったいないから、おめえを呼んでやったんだ。ありがたく思え。どうだ、うめえだろう」
などと言うに及び、留の怒りが爆発。

「なにォ言いやがんでえ、ベラボウめ。うめえもまずいもあるかい。忙しいのに呼びに来やがって、てめえ一人で食らいやがって。てめえなんぞとは、もう生涯付き合わねえや。つらあ見やがればか野郎ッ」

畳をけり立てて、帰ってしまう。

隣のかみさんがのぞいて
「ちょいと熊さん、どうしたんだよ。けんかでもしたのかい」
「うっちゃっときなよ。あいつは酒癖が悪いんだ」

底本:六代目三遊亭円生

【しりたい】

六代目松鶴の酒乱噺

上方の噺で、酒のみの地を生かした六代目笑福亭松鶴(竹内日出男、1918-86)の十八番でした。

東京でこの噺を得意にした六代目三遊亭円生がどちらかといえば、根は好人物という人物造形だったのに対し、松鶴の主人公は酒乱そのものでした。

大阪では、もともと、紙切りや記憶術などの珍芸を売り物にしていた桂南天(1972年、83歳で没)が得意にし、そのやり方は桂米朝が直伝で継承していました。

南天や米朝のでは、主人公は引っ越してきたばかりの独り者で、訪ねてきた友達に荷物の後片付けまですっかりやらせ、その後「一人酒盛」のくだりに入ります。

円朝の名人芸

『明治世相百話』には、明治28年(1895)秋、すでに引退していた三遊亭円朝が、浜町の日本橋倶楽部で催された「円朝会」に出席、トリにこの「一人酒盛」を演じたことが記されています。

著者は山本笑月(1873-1936)。明治を代表するジャーナリストの一人。浅草花やしきの創設者、山本金蔵の長男で、長谷川如是閑や大野静方は実弟です。条野採菊が経営するやまと新聞から朝日新聞に移り、文芸部長、社会部長などをつとめました。病を得て退社した後は、療養生活と江戸明治文化の研究に励みました。

『明治世相百話』は昭和58年(1983)に中公文庫から復刊されました。これさえも今では絶版ですが、古本でまだ入手できます。この本には円朝の意外な面が活写されてあります。

山本笑月によると、円朝は、「被害者」の男を、後半まったく無言とし、顔つきや態度だけで高まる怒りを表現、円朝の顔色が青くなって、真実怒っているように見えた、ということです。名人芸のきわみでしょうか。

東京では円朝の高弟、二代目三遊亭円橘が最も得意にしました。六代目円生は、子供のころ円橘の高座を聴いた記憶と、三代目蝶花楼馬楽の短い速記をもとに構成したそうです。

七十五日どころか

七十五日は「ほんのわずかな期間」という意味。「人のうわさも七十五日」「初物を食えば七十五日生き延びる」などと、江戸ではよく「七十五日」を使いますが、この数字の根拠は不明です。六代目円生も「よくわかりません」と言っています。

この噺に関しては、酒はすぐ醒めるから、命が延びてもほんのわずか、と逆説的な意味を含むのかもしれません。

おつもり

正確には「積もりっこ」で、杯を納めることです。酒席で、その酌を最後に終わりにするときに「おつもりで」と使います。ここではさらに、『平家物語』の登場人物、無官太夫の平敦盛を掛けたダジャレでもあります。

ことばよみいみ
留公とめこう「とめの野郎」くらいの意
ご託ごたくご託宣の略。くどくど。「ごた」とも
平敦盛たいらのあつもり源平合戦時の平家の武将



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だいしょや【代書屋】落語演目

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【どんな?】

代書屋は今の行政書士や司法書士のこと。
大正時代の、のんきでのどかなお話です。

別題:代書

【あらすじ】

色街の箱屋に応募するので、履歴書の代書を頼みに来た男。

長男かと聞くと、兄貴が死んだので長男になったとトンチンカンな答えで、一字訂正・判。

生年月日を聞けば旅順陥落提灯行列の日を答えるし、職歴では、大正三年九月饅頭屋を開業しようとしたが、家賃が高いからやめた、で二行抹消。

同十二月露天商は二時間でやめた。

また二行抹消と、メチャクチャ。

署名しろ、と言うと無筆。

自署不能ニ付キ代書・判。

次に来たのは、六十がらみの上品な老人。

結納の受取を毛筆でという注文。

墨が悪い、と摺り直させ、代書事務所の看板を見て、やれ字の右肩が下がっている、心棒が歪んでいると難癖をつけたあげく、
「また今度」。

お次は、妹の渡航証明を頼みに来た外国人。

言葉がかみ合わず、四苦八苦。

よく聞いてみると、戸籍証明がメチャクチャなので、これでは受理されないと、死亡届、死亡届失期理由書、出生届、同じく失期理由書と、書類の山。

戸籍の再作成は(当時は)科料十円取られると聞いて、怒って行ってしまう。

骨折り損のくたびれもうけ。

最後は十二、三の丁稚。

今の老人宅からおじゃま料を届けに来たので、受け取りに署名と判がほしいという。

老人は中気で引退したが、滴堂という有名な書家とか。

書家の奉公人だけあって、この小僧もうるさい。

「それで『中』の心棒が歪んでます」

降参して小僧に代筆させると、これが見事な筆。

判だけお願いしますと言うので押そうとしたら、名前の横に「自署不能ニ付キ代書」。

底本:四代目桂米団治

【しりたい】

大阪の新作

四代目桂米団治(中濱賢三、1896-1951)が昭和13年(1938)頃に創作した新作落語です。

当時は二代目桂米之助だった頃で、原題は「代書」でした。米団治は三代目桂米朝(中川清、1925-2015)の師匠で、キリスト教徒、行政書士の資格を持つ噺家でした。

大阪では、非常にポピュラーで息の長い人気作です。

米朝始め、三代目桂春団治(河合一、1930-2016)、五代目桂文枝(長谷川多持、1930-2005)ほか多くの演者が手がけていますが、東京ではやり手がなかったのを七代目立川談志(松岡克由、1935-2011)が米朝直伝のものを東京風に改作して演じていました。

このあらすじでは、米団治のオリジナルの速記を参考にしました。

談志が改作

七代目立川談志のやり方がおもしろかったので、記しておきます。

最初の男を日本橋人形町に住む「小板橋喜八郎」とし、「旅順陥落」の珍問答などはおおむね原作通りですが、二人目の客を、親に見せるため女学校の卒業証書を「偽造」してくれと頼みに来る娘、三人目を、両親にけんかしないように書いてくれという子供に代えていました。オリジナルより掛け合いのくすぐりを多くして、より現代に通じる、笑いの多いものにしているのが特徴です。四人目の外国人との珍妙なやり取りの末、しまいに代書屋が混乱して「なんだか、ワカンナクなっちゃった」というオチにしています。

代書屋とは

代書人ともいいます。

大正9年(1920)、「代書人規則」として法制化されました。

普通にいう代書人は、おもに官公庁に提出する公文書の作成を業務としますが、それとは別に、前年の大正8年(1919)に定められた「司法代書人」があり、こちらは裁判所や検事局あての書類を作成します。戦後、前者が「行政書士」、後者が「司法書士」となったわけです。

まだ識字者の少なかった大正末期から昭和初期にかけては、この噺のように単なる履歴書や受取証の代筆をする零細な文字通りの「代書人」も多かったと思われます。

談志のくすぐり

(客と代書屋の問答で)
男「大正10年10月10日」
代「あ、そう。場所は?」
男「品川」
代「あ、そう。品川でと。なにをやったの?」
男「留と二人で女郎買いに行った日だ」

ことばよみいみ
丁稚でっち
中気ちゅうき

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ぎがん【義眼】落語演目

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 【どんな?】

目がらみの噺。
江戸では眼病の男が多かったとか。

別題:入れ目 のぞき医者(上方)

あらすじ

ある男、目の具合がどうもよくないので、医者に相談するが、ますます見えなくなるばかり。


眼科の先生もしまいには面倒くさくなり、えいとばかり悪い方の目をスッポリ抜き取り、代わりに義眼をはめ込んでごまかしてしまった。

「あー、どうです具合は?……そりゃよかった。それから、入れた方の目は夜は必要ないンだから、取りましてね、枕元に水を置いて、浮かべときなさい。そうすりゃ長持ちするから」

入れ歯と間違えているようだが、当人すっかり喜んで、その夜、吉原のなじみの女郎のところへ見せびらかしに行く。

男前が上がったというので、その晩は大変なモテよう。

さて、こちらは隣部屋の客。

反対に相方の女が、まるっきり来ない。

女房とけんかした腹いせのお女郎買いなのに、こっちも完璧に振られ、ヤケ酒ばかり喰らい、クダを巻いている。


「なんでえ、えー、あの女郎は……長えぞオシッコが。牛の年じゃあねえのか?それにしても、隣はうるさいねえ。え、『こないだと顔が変わった』ってやがる。七面鳥のケツじゃあるめえし、え、そんなにツラが変わるかいッ!こんちくしょうめ!」


焼き餠とヤケ酒でのどがかわき、ついでにどんなツラの野郎か見てやろうと隣をのぞくと、枕元に例の義眼を浮かべた水。


色男が寝ついたのを幸いにしのびこんで、酔い覚めの水千両とばかり、ぐいっとのみ干したからたまらない。


翌日からお通じはなくなるわ、熱は出るわで、どうにもしようがなくなって、医者に駆け込んだ。


さて……「あー、奥さん、お宅のご主人のお通じがないのは、肛門の奥の方に、なにかさまたげてるものがありますな」

サルマタを取って、双眼鏡で肛門をのぞくなり、先生、「ぎゃん」と叫んで表へにげだした。

男の女房が後を追いかけてきて、
「先生、いったいどうなさったんです」
「いやあ驚いた。今、お宅のご主人の尻の穴をのぞいたら、向こうからも誰かにらんでた」

底本:五代目古今亭志ん生

しりたい

「いれめ」とも  【RIZAP COOK】

「義眼」と記して「いれめ」と読んだりもします。

短いけれども、楽しいナンセンスにあふれた展開、オチの秀逸さで、落とし噺としては、最もすぐれたもののひとつといえるでしょう。

五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)が時々、心から楽しそうに演じていた噺で、速記を読んだだけで吹き出してしまうほど。

意外にも、初代三遊亭円左えんざ(小泉熊山、1853-1909、狸の)が得意にしていました。明治の大看板で人情噺の大家です。それを、初代柳家三語楼さんごろう(山口慶三、1875-1938)がさらにギャグを加え、オチも円左の「尻の穴ににらまれたのは初めてだ」から、よりシュールな現行のものに変えました。

三語楼は大正、昭和初期の爆笑王でした。五代目志ん生の最後の師匠でも有名です。

三語楼から志ん生に、さらに、初代柳家権太楼ごんたろう(北村市兵衛、1897-1955)に継承されました。

権太楼も、昭和初期に「猫と金魚」などの爆笑落語で売れた人です。

権太楼のレコードは、尻をメガネでのぞく場面が、なんと効果音入りという凝ったものだったとか。

志ん生の音源発掘!  【RIZAP COOK】

志ん生の、未公表のきわめて貴重な音源・映像・写真を多数含む『講談社DVDBOOK・志ん生復活!落語大全集』(2004-05)全13巻が発売されました。

第5巻に「義眼」が収録されています。

カセットテープ版として、日本クラウンから発売されたものを改めて収録したものです。

この巻には長男の馬生とのリレー落語「宿屋の富」(初公開)も収録。志ん生フリークには楽しめる一冊です。

【義眼 古今亭志ん生】



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たらちね【垂乳根】落語演目

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【どんな?】

長屋の八五郎に京の名家の娘が。 お育ちの違いがちぐはぐ。 笑いを誘う上方噺。

別題:延陽伯(上方)

【あらすじ】

長屋でただ一人の独り者の八五郎のところに、大家が縁談を持ちかけてきた。 年は十九で、近所の医者の姪だという。 器量は十人並み以上、夏冬の着物もそろえているという、まことに結構な話。 結構すぎて眉唾なくらい。 「そんな女が、あっしのような男のところへ来るわけがない。なんか、キズでもあるんじゃないですか」 「ないと言いたいが、たった一つだけある」 もとは京の名家の出で、言葉が女房言葉。 馬鹿丁寧すぎてまるきりわからないという。 この間も、目に小石が入った時「ケサハドフウハゲシュウシテ、ショウシャガンニュウス」つまり「今朝は怒風激しゅうして、小砂眼入す」と、のたもうたそうな。 そんなことはなんでもないと八五郎が承諾したので、その日のうちに祝言となった。 なるほど美人なので、八五郎は大喜びだが、いざ話す段になると、これが相当なもの。 名を聞くと 「そも我が父は京都の産にして姓は安藤名は慶三あざなを五光、母は千代女と申せしが、わが母三十三歳の折、ある夜丹頂の鶴の夢を見てはらめるがゆえに、たらちねの胎内を出でしときは鶴女と申せしがそれは幼名、成長の後これを改め清女と申しはべるなぁりいー」 「ナアムミョウ、チーン、ご親類の方からご焼香を」 これではかみ合わない。 ネギが一文字草、米はしらげと、通訳がいるくらい。 朝起きれば起きたで 「アーラ、わが君、しらげのありかはいずこなりや」 頼むから、そのアーラワガキミてえのはやめてくれと言っているところへ、葱屋がやって来た。 「こーれ、門前に市をなすあきんど、一文字草を朝げのため買い求めるゆえ、門の敷居に控えておれ」 「へへへー」 ようやく味噌汁ができたが、 「アーラわが君。日も東天に出御ましまさば、うがい手水に身を清め、神前仏前へ燈灯(みあかし)を備え、御飯も冷飯に相なり候へば、早く召し上がって然るべう存じたてまつる、恐惶謹言」 「飯を食うのが恐惶謹言なら、酒ならよって(=酔って)くだんの如しか」

【しりたい】

女房言葉

宮中の女官が用いた言葉です。 代表的な女房言葉には、 かもじ =髪 いしいし =団子 おすもじ =寿司 あも =餅 うちまき =米 あか =小豆 こもじ =鯉 しゃもじ =杓子 ごふじょう(御不浄) =便所 おみおつけ(御御御つけ) =味噌汁 などがあります。 「しゃもじ」「おみおつけ」などは、すでにわれわれの日常語になってしまっているかんじですね。

たらちね

垂乳根と書き、「母」に掛かる枕詞です。父の枕詞は「たらちを(垂乳男)」です。

東西の演出

大阪の「延陽伯」が東京に移されたものです。 大阪では、女は武家娘という設定なので、漢語をやたらに使いますが、東京では京女ということで、女房ことばや京ことばを使うことになっています。

「せんにせんだんにあって」

明治27年(1884)4月の「百花園」誌上に掲載された四代目橘家円喬(柴田清五郎、1865-1912)の速記では、女の珍言葉の部分がさらに長く、「天は梵天地は奈落比翼連理とどこまでも……」などとあります。 まったく解読不能なのが、「せんにせんだんにあって是を学ばざれば 金たらんと欲す」(原文通り、ふつうは「賤妾浅短にあって是れ学ばざれば勤たらんと欲す」とやるところ) というフレーズです。 「落ちこぼれ古典教師」さんが「正解」案を提供してくださいました。深謝。

続編「つる女」

大阪では、「つる女」という「たらちね」の後日談があります。 今はもう、誰も演じ手はないようですが。 なかなか言葉が普通にならない細君が、大家の夫婦喧嘩の仲裁に入り、「御内儀には白髪秋風になびかせたまう御身にて、嫉妬に狂乱したまうは、省みて恥ずかしゅうは思し召されずや。早々にお静まりあってしかるべく存じたてまつる」とケムに巻き、火を消します。 「どないして急にピタリと治まったんやろ?」 「つる(鶴女=東京の清女)の一声」

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やすべえぎつね【安兵衛狐】落語演目

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【どんな?】

上方噺。
明治の中頃。
三代目柳家小さんが伝えました。

別題:道灌山 墓見 天神山(上方)

【あらすじ】

六軒長屋があり、四軒と二軒に分かれている。

四軒の方は互いに隣同士で仲がよく、二軒の方に住んでいる「偏屈の源兵衛」と「ぐずの安兵衛」、通称グズ安も仲がいい。

ところが、二つのグループは犬猿の仲。

ある日、四軒の方の連中が、亀戸に萩を見に繰り出そうと相談する。

同じ長屋だし、グズ安と源兵衛にも一応声をかけようと誘いにいくが、グズ安は留守で、源兵衛の家へ。

この男、独り者であだ名の通りのへそ曲がり。

人が黒と言えば白。

案の定、
「萩なんぞ見たってつまらねえ。オレはこれから墓見に行く」
と、にべもない。

四人はあきれて行ってしまう。

源兵衛、本当は墓などおもしろくないが、口に出した以上しかたがないと、瓢の酒をぶら下げて、谷中天王寺の墓地までやってきた。

どうせ墓で一杯やるなら女の墓がいいと「安孟養空信女」と戒名が書かれた塔婆の前で、チビリチビリ。

急に塔婆が倒れ、後ろに回ってみると穴があいている。塔婆で突っ付くと、コツンと音がするので、見ると骨。

気の毒になって、何かの縁と、酒をかけて回向してやった。

その晩。

真夜中に
「ごめんくださいまし」
と女の声。

はておかしい、と出てみると、じつにいい女。

実は昼間のコツで、生前酒好きだったので、昼間あなたがお酒をかけてくれて浮かばれたからご恩返しにきました、と言う。

あとはなりゆきで、源兵衛、能天気にもこの世ならぬ者を女房にした。

この幽霊女房、まめに働くが、夜明けとともにスーッと消えてしまう。

さて、グズ安。

ゆうべ源兵衛の家の前を通ったら、女の酌でご機嫌に一杯やっていたので、翌朝、嫌みを言いに行くと、実はこれこれだという。

ノロケを聞かされ、自分も女房を見つけようと、同じように酒を持って天王寺へ。

なかなか手頃な墓が見当たらず、奥まで行くと、猟師が罠で狐をとったところ。

グズ安、皮をむいちまうと聞いて、かわいそうだと無理に頼み、一円出して狐を逃がしてやる。

その帰り、若い娘が声をかけるので、グズ安はびっくり。

聞いてみると、昔なじみのお里という女の忘れ形見で、おコンと名乗る。

実はこれがさっきの狐の化身。

身寄りがないというので、家に連れていき、女房にした。

騒ぎだしたのが、長屋の四人。

最近、偏屈とグズが揃って女房をもらったのはいいが、片方は昼間見たことがない。もう片方は、口がこうとんがって、言葉のしまいに必ず「コン」。

これはどう見ても魔性の者だと、安兵衛が留守の間に家に押しかける。

「まあ、安兵衛は用足しに出かけたんですよ。コン」

やっぱり変。

思い切って
「あなたはいい女だけど、ひょっとして何かの身では」
と、言いも果てず、狐女房、グルグル回って、引き窓から飛んでいってしまった。

こうなると、亭主の安兵衛も狐じゃねえかと疑わしい。

そこで、近所のグズ安の伯父さんに尋ねるが、耳が遠くていっこうにラチがあかない。

思い切り大きな声で
「あのね、安兵衛さんは来ませんかね」
「なに、安兵衛? 安兵衛はコン」
「あ、伯父さんも狐だ」

【RIZAP COOK】

【しりたい】

志ん生、極めつけの爆笑編  【RIZAP COOK】

上方落語の切りネタ(大ネタ)「天神山」を、三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)が、東京に移植したものです。

前半は「野ざらし」にそっくりで、実際、上方の「天神山」は、「骨つり」(野ざらし)に、「葛の葉子別れ」「保名」の芝居噺を即席に付けたものという、宇井無愁(宮本鉱一郎、1909-92、上方落語研究)の説がありますが、三代目桂米朝(中川清、1925-2015)はこれを否定しています。

先の大戦後は、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)の極めつけ。志ん生がどこからこの噺を仕込んだのかは不明です。

三代目小さんの「墓見」と題した明治40年の速記では最後に登場するのが、安兵衛の父親となっているほかはほぼ志ん生のものと変わらない演出です。

考えてみると、前半と後半がまったく別の話で、全体としてまとまりを欠く噺ですが、さすがに志ん生。

速いテンポとくすぐりにつぐくすぐりの連続で、いささかもダレさせないみごとな手練です。  

現役では、滝川鯉昇ほかが手掛けていますが、まあ、志ん生を超える気遣いはないでしょう。

志ん生が「葛の葉」の題で演じたことがあるという説がありますが、いつごろのことなのかわかりません。

「天神山」はオチが三か所  【RIZAP COOK】

本家・大阪の「天神山」は、桂米朝門下の二代目桂枝雀(前田達、1939-1999)、または三代目笑福亭仁鶴(1937-2021、岡本武士)などが手掛けました。今も多くの噺家が演じています。

舞台は大坂・天王寺門前の安居の天神と、その向かいの一心寺の墓地。

主要キャストの「ヘンチキの源兵衛」の偏屈ぶりは、東京よりはるかに徹底的。

頭は半分伸ばして半分坊主、しびんに酒を入れ、おまるに飯を入れるえげつなさ。

上方は、そのヘンチキがシャレコウベを持ち帰り、夜中に現れた幽霊と夫婦になる段取りです。

オチは、演者がどの部分で切るかによって三通りに分かれます。

まず、東京同様、長屋の者が押しかけて正体がバレ、狐女房が「もうコンコン」と姿を消す部分。

ついで、こちらは東京にはない部分です。

女房に去られた保平(東京の安兵衛)が、障子に書き残された「恋しくば尋ねきてみよ南なる天神山の森の中まで」の歌を見て、狂乱して後を追うくだりで切ります。

ここは、浄瑠璃の『蘆屋道満大内鑑』「保名狂乱」のパロディー仕立ての芝居噺になります。

昔は、このくだりで「保名」の振りで立ち踊りする噺家も多かったとか。

オチは地口で、「蘆屋道満」「葛の葉」をもじり、「貸家道楽大裏長屋、ぐずの嬶ほったらかし」。

最後は「安兵衛狐」と同じ、長屋の者と保平の伯父のトンチンカンな会話で「あ、叔父さんも狐や」でオチ。

江戸名所、亀戸の萩  【RIZAP COOK】

亀戸天神は江東区亀戸3丁目にあります。春は梅、藤、秋は萩の名所としてにぎわいました。

狐釣り  【RIZAP COOK】

罠を仕掛けて狐を捕獲するのを狐釣りともいいました。

皮をはいで胴服、つまり狐皮の下着用に売るわけですが、西洋だとスポーツなのに対し、こちらはれっきとしたお仕事です。

「狐ェ捕ってどうすんです?」
「皮ァむくんだよォ」
「狐が痛がるでしょ」

そんな志ん生のやり取りが笑わせました。

志ん生のくすぐりから  【RIZAP COOK】

(長屋の某がグズ安の伯父さんに)
某「あこら、ほんとに聞こえねえんだ。やいじじい、ひとつなぐってやろうか」
伯「ふふーん、ありがとう」
某「あり……おめえみてえなものはね、あの、もうね、くたばっちゃえ」
伯「そう言ってくれんのはおまいばかりだ」
某「あ、しょうがないよこりゃ……自分で死ね」
伯「あは、それもいいや」

【語の読みと注】
塔婆 とうば
回向 えこう
嬶 かか

【RIZAP COOK】

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

くもかご【蜘蛛駕籠】落語演目

 

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

「駕籠は足が八本ある」
「本当の蜘蛛駕籠だ」
せこい客のおかしな道中話。

別題:雀駕籠 住吉駕籠(上方)

あらすじ

鈴が森で客待ちをしている駕籠屋の二人組。

ところが、昨日ここに流れてきた前棒がおめでたい野郎で、相棒がかわやに行っている間に、ほんの数メートル先から、塵取りを持ってゴミ捨てに来た茶店のおやじをつかまえて
「だんな、へい駕籠」

屁で死んだ亡者のように付きまとい、むりやり駕籠に乗せようとして
「まごまごしてやがると、二度とここで商売させねえからそう思え」
とどなられて、さんざん。

次に来たのが身分のありそうな侍で、
「ああ駕籠屋、お駕籠が二丁じゃ」
「へい、ありがとう存じます」

前の駕籠がお姫さま、後ろがお乳母どの、両掛けが二丁、お供まわりが四、五人付き添って、と言うから、てっきり上客と、喜び勇んで仲間を呼びに行きかけたら、
「そのような駕籠が通らなかったか」

またギャフン。

その次は酔っぱらい。

女と茶屋に上がり、銚子十五本空にして、肴の残りを竹の皮に包んで持ってきたことや、女房のノロケをえんえんと繰り返し、おまけにいちいち包みを懐から出して開いてみせるので、駕籠屋は閉口。

やっと開放されたと思うと、今度は金を持っていそうなだんなが呼び止めるので、二人は一安心。

酒手もなにもひっくるめて二分で折り合いがつき、天保銭一枚別にくれて、出発前にこれで一杯やってこいといってくれた。

駕籠屋が大喜びで姿を消したすきに、なんともう一人が現れて、一丁の駕籠に二人が乗り込んだ。

この二人、江戸に帰るのに話をしながら行きたいが、歩くのはめんどうと、駕籠屋をペテンに掛けたというわけ。

帰ってきた駕籠屋、やせただんなと見えたのにいやに重く、なかなか棒が持ち上がらないので変だと思っているところへ、中からヒソヒソ話し声が聞こえるから、簾をめくるとやっぱり二人。

文句を言うと、
「江戸に着いたらなんとでもしてやるから」
と頼むので、しかたなくまたヨロヨロと担ぎ出す。

ところが、駕籠の中の二人、興が乗って相撲の話になり、とうとうドタンバタンと取っ組み合いを始めたからたまららない。

たちまち底が抜け、駕籠がすっと軽くなった。

下りてくれと言っても、
「修繕代は出すからこのままやれ、オレたちも中でかついで歩くから」
と、とうとう世にも不思議な珍道中が出現。

これを見ていた子供が、
「おとっつぁん、駕籠は足何本ある?」
「おかしなことォ聞くな。前と後で足は四本に決まってる」
「でも、あの駕籠は足が八本あるよ」
「うーん、あれが本当の蜘蛛駕籠だ」

底本:五代目柳家小さん、三代目桂米朝

しりたい

盛りだくさん

駕籠の底が抜けて、客が歩く部分の原話は享保12年(1727)刊の笑話本『軽口初賣買』中の「乗手の頓作」ですが、実在した大坂船場の豪商で奇人として有名だった河内屋太郎兵衛の逸話をもとにしたものともいわれます。河内屋太郎兵衛は「河太郎」の略称で人口に膾炙され、「河太郎物」と呼ばれる一連の噺が残っています。18世紀後半、大坂の人です。

上方では「住吉駕籠」として有名です。住吉街道を舞台にしていることからの銘々です。東京には、おそらく明治期に三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)が移したものでしょう。

上方の演出ははでで、登場人物も東京より多彩です。

夫婦連れが駕籠屋をからかったりはいいとしても、酔っ払いが吐いて駕籠に「小間物」を広げるシーンなどはあざとく、潔癖な江戸っ子は顔をしかめるものでしょう。

雀駕籠

上方のやり方では、駕籠に客を乗せてからの筋は二つに分かれます。

一つは現行の、駕籠の底が抜けるものです。

別筋で、今はすたれましたが、「雀駕籠」と題するものがあります。

スピードがあまりに速いので、宙を飛ぶようだから宙=チュンで雀駕籠、という駕籠屋の自慢を聞いた客が、無理やり駕籠屋にいろいろな鳥の鳴きまねをさせ、「今度はウグイスでやってくれ」「いえ、ウグイスはまだ籠(=駕籠)慣れまへん」とオチるものがありました。

東京では小さん系

三代目小さんの速記は残されていません。その門弟の初代柳家小はん(鶴見正四郎、1873-1953)が高座に掛けていたのを、五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)が継承して演じていました。

大阪よりかなりあっさりとはしているものの、酔っ払いがしつこく同じセリフを繰り返してからむくだりなどは「うどんや」と同じく、そのままなので、カットしない場合は、かなりねちっこくなっていたのは否めません。

上方はもとより本家で、五代目笑福亭松鶴(竹内梅之助、1884-1950)、六代目笑福亭松鶴(竹内日出男、1918-86)、五代目桂文枝(長谷川多持、1930-2005)、三代目桂米朝(中川清、1925-2015)ほか、多くの演者が手掛けました。

雲助

流れ者の駕籠かきのことで、そのいわれは雲のように居所が定まらないからとも、蜘蛛のように網を張って客をつかまえるから、また、雲に乗るように速く爽快だからとも、いろいろな説があります

「蜘蛛駕籠」は雲助の駕籠の意味で、「雲駕籠」とも書きました。

歌舞伎「鈴が森」で白井権八にバッタバッタと斬られるゴロツキの雲助どものイメージがあったため、今日にいたるまで悪い印象が定着していますが、落語では東西どちらでも、いたって善良に描かれています。

むしろそれが実態だったらしく、桂米朝も噺の中で、「こういう(住吉街道のような人通りの多い)ところの駕籠屋は、街中の辻駕籠同様、いたってタチがよかったもので」と弁護しています。

両掛けが二丁

両掛けは武士の旅行用の柳行李やなぎごうり(衣類籠)で、天秤棒の両端に掛けて、供の者にかつがせるのでこの名があります。

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

そこつのくぎ【粗忽の釘】落語演目



  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

これまた滑稽噺の極北。
のんきであわてん坊。
憎めません。

別題:我忘れ 宿がえ(上方)

【あらすじ】

粗忽者の亭主。

引っ越しのときは、おれに任せろと、家財道具一切合切背負ってしまって動けない。

おまけに、あわてて荷物といっしょに家の柱まで縛ってしまう始末。

結局、ツヅラだけ背負って、先に家を出たはいいが、いつまでたっても帰らない。

かみさんが先に着いて気をもんでいると、朝早く出たのが、げんなりした顔でやっと現れたのが夕方。

なんでも、大通りへ出て四つ角へ来ると、大家の赤犬とどこかの黒犬がけんかしているので、義理上
「ウシウシ」
と声を掛けると、赤の方が勢いづき、ぴょいと立ち上がった拍子に自分が引っくり返った。

ツヅラを背負っているので起き上がれず、もがいているのを通りがかりの人に助けてもらったとたん、自転車とはち合わせ。

勢いで自転車が卵屋に飛び込み、卵を二百ばかり踏みつぶす、という騒動。

警官が来て取り調べのため、ずっと交番に行っていたという次第。

ようやく解放されたが、自分が探してきた家なのに、今度は新居を忘れた。

しかたがないから引っ返して、
「大家に頼んで連れて来てもらった」
というわけ。

かみさんはあきれ果てたが、
「とにかく箒を掛ける釘を打ってもらわなければ」
と亭主に金槌を渡す。

亭主は
「大工で専門家なので、これくらいは大丈夫だろう」
と安心していたら、場所を間違え、瓦釘という長いやつを壁に打ち込んでしまった。

長屋は棟続きなので、
「隣に突き抜けて物を壊したかもしれない」
とかみさんが心配し
「おまえさん、落ちつけば一人前なんだから」
と言い含めて聞きに行かせると、亭主、向かいの家に入ってしまい、いきなり
「やい、半人前なんて人間があるか」
と、どなってしまう。

すったもんだでようやく隣に行けば行ったで、隣のかみさんに、
「お宅は仲人があって一緒になったのか、それともくっつき合いか」
などと、聞いた挙げ句、
「実はあっしどもは……」
と、ノロケかたがたなれそめ話。

「いったい、あなた、家に何の用でいらしたんです」と聞かれて、ようやく用件を思い出す。

調べてもらうと、仏壇の阿弥陀さまの頭の上に釘。

「お宅じゃ、ここに箒をかけますか?」
と、トンチンカンなことを言うので、
「あなたはそんなにそそっかしくて、よく暮らしていけますね。ご家内は何人で?」
「へえ、女房と七十八になるおやじと……いけねえ、中気で寝てるんで、もとの二階へ忘れてきた」
「親を忘れてくる人がありますか」
「いえ、酔っぱらうと、ときどき我を忘れます」

底本:三代目三遊亭小円朝

【しりたい】

江戸の引っ越し事情

「小言幸兵衛」「お化け長屋」でも、新しく店(たな=長屋のひと間)を借りに来るようすが描かれますが、だいたいは、たとえば大工なら棟梁か兄貴分が請け人(身元引受人、保証人)になります。

夜逃げでもないかぎり、元の大家にきちんと店賃を皆済した上、保証人になってもらう場合も当然ありました。

大家は町役を兼ね、町内の治安維持に携わっていましたから、店子がなにかやらかすと責任を取らされます。

そこで、入居者や保証人の身元調査は厳重でした。

この噺のように、新居まで付き添ってくれるというのはよほど親切な大家でしょうが、違う町に移る場合は、新しい大家が当人の名前、職業、年齢、家族構成などすべてを町名主に届け、名主が人別帳にんべつちょう(戸籍簿)に記載して、奉行所に届ける仕組みになっていました。

店賃

たなちん。この噺のあらすじは、三代目三遊亭小円朝(芳村幸太郎、1892-1973)の速記を参考にしましたが、自転車が登場することでわかる通り、明治末から大正初期という設定です。

この当時はインフレで物価騰貴が激しかったようです。

『値段の風俗史』(朝日文庫)で見ると、二部屋、台所・便所付きの貸家または長屋で、明治32年(1899)で75銭、同40年(1907)で2円80銭、大正3年(1914)で5円20銭と、7-8年ごとに倍倍ゲームではねあがっています。

さかのぼって江戸期を見ると、長屋の店賃は文化・文政期(1804-30)で、通りに面した表店(おもてだな)で月1分程度、二部屋・九尺二間の裏店うらだなで400文ほど。幕末の慶応年間(1865-68)で六百文ですから、まっとうにやっていれば、十分暮らしていけたでしょう。

自転車の価格、卵のねだん

自転車は明治22年(1889)ごろから輸入されました。国産品は明治40年代からで、50-150円しました。

前記の店賃でいうと、なんと最低1年半分に相当します。

卵は大正2年(1912)ごろで1個20銭。昔はけっこう贅沢品でした。

200個ぶっつぶせば、都合40円の損害です。

粗忽噺の代表格

江戸時代から口演されてきた古い噺。文化4年(1807)にはすでに記録があります。

粗忽長屋」「粗忽の使者」「松曳き」「堀の内」「つるつる」などと並んで代表的な粗忽噺ですが、伸縮自在なため古くからさまざまなくすぐりやオチが考えられました。

最近では、このあらすじのように明治・大正の設定で演じられることが多くなっています。

明治期では、円朝門下の初代三遊亭円左(小泉熊山、1853-1909、狸の)が、前の家との距離を、視線の角度と指で示すなどの工夫を加えました。

オチはくだらないので、現行では「ここに箒をかけますか?」で切る場合が多くなっています。

「ここまで箒をかけに来なくちゃならない」などとする場合もあります。

故人では六代目春風亭柳橋(渡辺金太郎、1899-1979)、五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)がよく演じ、三笑亭夢楽(渋谷滉、1925-2005)も小円朝直伝で得意にしていました。

ウケやすい噺なので、若手もよくやります。



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うえきやむすめ【植木屋娘】落語演目



  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

上方噺。松鶴、米朝、枝雀などが演じてきました。
明治期に東京にも移されて、江戸風な物語に変身。

【あらすじ】

とあるお寺の門前。

植木屋の看板を出しているのは、元は武士だったという幸右衛門だ。

せっかちだが、腕がよくて、店は順調に繁盛している。

多くの得意先を持つようになって、若い衆も数人雇って、いまは植木屋幸右衛門世間に通っている。

女房のおさじと娘のおみつの3人家族。

娘はべっぴんで、幸右衛門のなによりのご自慢だ。

おみつは今年17歳になる。来年は18、再来年は19歳。

幸右衛門は、婿養子を迎えてぼちぼち隠居したいと考えている。

それというのも、幸右衛門には心に決めた男がいるから。

その男とは、懇意にしている奥のお寺に、住み込みで修行している伝吉。

男前の若い衆だ。

伝吉が奥のお寺に来てからというもの、幸右衛門はその人柄に惚れ込んでいる。

「伝吉さん、伝吉さん」と、なにかと伝吉を頼りにしているのだ。

そんなこんなで、幸右衛門は奥のお寺に日参する。

「かかあ、植木に虫が付いたら、おれは植木屋だからなんとでもできるが、娘に付く虫はおれの手に負えねえ。娘屋じゃねえからな」

幸右衛門、ばかなことを言っては、おさじに自分の思いを話している。

聴いた女房は大きくうなずく。

そばのおみつも、まんざらではないようなそぶり。

それを見た幸右衛門は、善は急げと、奥のお寺に飛び込んだ。

「伝吉さんをおくれ」

藪から棒の申し出に、奥のお寺の和尚はいぶかしむ。

「伝吉は、さる武家の嫡男で修養のために預かっているだけなのじゃ。婿養子に入るなどできない相談じゃな」

素っ気ない返事に、幸右衛門は意気消沈して家に戻った。

こうなれば、作戦変更。

既成事実を作るしかない。

「これだ!」

幸右衛門は一計を案じて、おさじに話した。

その計略とは。

伝吉を家へ招待して酒席を設ける。

最初は4人で歓談する。

すぐに夫婦は用事を言い出して中座する。

おみつと伝吉だけに。

二人きりでのっぴきならないかかわりをつくらせちまおう。

以上、計略完了。

ある日。

伝吉が招きに応じて、幸右衛門の家にやってきた。

「おさじ、湯屋で向かいのばばあと待ち合わせてんだろ。早く行ってこい」
「伝吉さんが来るというので今、行ってきたところですよ」
「ばかやろ、おめえがめかし込んでどうする。もう一度、湯のはしごをしてこいてんだ」

幸右衛門、女房のおさじを外に出させる。

伝吉と一献やりとりしたところで、今度は幸右衛門。

「あ、いけねえ。得意先へ植木を持って行くのを忘れちまった。おれも中座するが、娘と続けておいてくだせえ。すぐに戻ってきやすから、待っといておくれよ。……だけど、そんなにすぐではありませんぜ。なにかをする時間はたっぷりあるてもんで。うふふ。娘をよろしく、で」

そう言って、幸右衛門は外へ出た。

幸右衛門は裏へ回って、焼き板塀に顔をくっつけて節穴から部屋をのぞく。

顔を黒くして自分の家をのぞいている幸右衛門を見て、近所の連中がけげんに思う。

そこを幸右衛門、「えへへ」と笑ってごまかし、さらなる二人のようすをうかがうことに。

おみつと伝吉、二人は仲睦まじく話をしている。ただそれだけ。

おみつが酒を断るので、伝吉も酒を控えて、二人の気分は盛り上がらないでいる。

伝吉がおみつの手でも握ったら、とたんに飛び込んでいって、めおとの約束をさせようかと。

そんな幸右衛門の思いも、はずれる。

「娘に酒を教えておけばよかったなあ」

幸右衛門は、いまさら後悔しても手遅れだ。

やがて伝吉がおみつに言い出す。

「親方、門遅いですね。ぼちぼちおひらきにしましょうか」

そう言って、伝吉は腰を上げるしまつ。

おみつおみつで、ぼーっとして、なにもせずにただ見送るだけ。

「ばかやろ、引き止めろてんだ」

幸右衛門が胸の内で叫んでも、もう手遅れ。

作戦はみごと、失敗に終わった。

そこへ、湯あたりしたおさじが、ふらふらになって戻ってきた。

「どこへ行ってたんだよ。おい。この大事な時に。おめえのしつけがよすぎて、ぶちこわしだぜ」

幸右衛門は、おさじにうっぷんをぶつけるだけで、もう、あとのまつり。

数日後。

向かいのばばあが駆け込んでくる。

「おみつちゃんが身ごもってるよ」

おさじはびっくり。

「なんで」
「なんでって、湯屋でたしかめたんだよ」

その顛末を聞いて、激怒する幸右衛門。

おさじは幸右衛門をなだめて二階へ上がらせる。

はしご段の下で、幸右衛門に聞こえるように、おさじがおみつをただす。

娘ははらぼて(妊娠)を認めた。

「相手は奥のお寺の伝吉さんです」

母親が驚く。

「なんだって。相手は奥のお寺の伝吉さんだって?」

おさじが大声で叫ぶと、幸右衛門が二階から転げ落ちてきた。

「おお、おみつ、よくやった。よく取った。今から奥のお寺へ行って話をまとめてくるぜ」

幸右衛門は外へ飛び出し、奥のお寺に向かっていった。

「和尚さん、伝吉さんを養子にもらいたい」
「あれは五百石の家督を継がなくてはならんのじゃ」
「うちのおみつは、はらぼてになっちまって」
「なに、伝吉があんたの娘のはらを……か」
「大きくしてくれたんだ。うちの根分けから接ぎ木から、みんな仕込んで、な」
「それはありがたいことじゃが、あれは五百石の家督を相続しないと」
「それもなるようにする。五百石でも八百石でも継がせるんで」
「いくらなんでも、お侍の家を取ったり継いだりは」
「取ったり継いだりは、うちの秘伝なんで」

【しりたい】

オチが不思議

オチがなんだかわかりにくいです。

要は、幸右衛門が段取りする日の前から、伝吉とおみつはできていた、ということなのですね。

「案ずるより産むがやすし」とは、まさにこのことでしょうか。

噺の背景

もとは上方噺です。

ところが、明治期に東京に移ってきて、いかにも江戸風の噺にさまがわりしました。

それというのも、江戸の八割は武家地(六割)と寺社地(二割)がしていて、この大半は庭があったわけですから、植木の需要はかなりのもとなっていました。

足軽や同心のような下級武士でも宅地には庭を持っていたわけで、彼らが庭を利用した植木(園芸)を内職(副業)に精出していたからです。

江戸の町では、江戸時代の前期には椿、桜、つつじなど花木中心でしたが、後期には菊、朝顔、桜草、菖蒲など花卉かき(くさばな)中心に流行が変わっていきました。

前期では、染井で多種の花木が栽培されて、駒込、千駄木、根津といった本郷台地の東斜面に広がりました。

後期では、本郷台地西斜面での菊、堀切での菖蒲、巣鴨、庚申塚、板橋(中山道沿い)の農家が桜草を栽培して、街場に売りに行っていたのでした。

このような流れに追随するかように、江戸住まいの下級武士の間で、植木が副業として発展していきました。

武士は下級であっても庭を広く持っているものです。そこに植栽して売る、という応用をしたのですね。

好例は、大久保のつつじです。

いまの新宿区百人町ですが、江戸時代には、大久保百人組と呼ばれた、伊賀組鉄砲百人同心の組屋敷がありました。

彼らは経済的に困窮していました。

しかも彼らは組織的集団的行動に長けていました。

一糸乱れることなくつつじを栽培しては、観覧させたり売ったりして、小金を稼いだのです。

つつじは染井や巣鴨も有名でしたが、大久保に比べれば、その千分の一といわれるほど、大久保のつつじは第一だったようです。

江戸のこのような光景は、幕末維新期に来日したロバート・フォーチュン(1812-80、英庭師)やラザフォード・オールコック(1809-97、英医師、外交官)などには大いに注目するところとなりました。

フォーチュンもオールコックも、名うてのプラントハンターです。

やがて、ロンドンのキュー植物園や英ヴィーチ商会を中心とした、ヨーロッパの花卉ブームに大きな影響を与えていったのでした。

『江戸名所図会』大久保の躑躅

植木屋

植木屋というのは、庭園の管理、造庭、植物の育成、販売を、一括で行う職人をさします。

植物の形状を整え、もっとも美しい状態で花を咲かせる栽培技法、奇種植物の採集、新品種の創出など、時代ごとの状況や流行に応じて、園芸にかかわる技術と美意識をたかめていくのが、当時の植木屋の役回りでした。

このように、たんなる職人とも言い難く、花木・花卉にかかわるすべてについてのめんどうをみるのが、植木屋という職業の本質でした。

言い方を変えれば、対象となる事物を総合的、総括的にかかわるのが当時の職人だったということなのでしょう。

この噺は、東京に移り上方噺を活躍した二代目桂小南(谷田金次郎、1920-96)がやっていました。師匠筋の二代目桂小文治(稲田裕次郎、1893-1967)の型を引き継いでいました。



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うそつきむら【うそつき村】落語演目

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【どんな?】

村人全員が「うそつき」という壮大な噺です。

別題:鉄砲勇助(上方)

【あらすじ】

「神田の千三ツ」と異名を取る、うそつき男。

だんなの家に久しぶりに現れ、
「信州の方へ行ってきたが、あんまり寒いので湖で鴨の足に氷が張って飛び立てなくなっているのを幸い、鎌で足だけ残してかたっぱしから刈り取った」
とか、
「そのあとに芽が出たのでカモメだ」
とか、さっそく並べ放題。

ところが、だんな、
「向島の先に、うそつき村というのがあり、そこのやつらは一人残らずうそをつくが、その中でも、鉄砲の弥八という男は、おまえよりずっと上手だ」
と言うので、千三ツ、名誉にかけてそいつを負かしてみせると、勇躍、うそつき村に乗り込んだ。

さっそく、村人に弥八の家を聞いたが、さすがにうそつきぞろい。

向かい側の引っ込んだ家だの、松の木の裏だのとでたらめばかりで、いっこうに見当がつかない。

子供なら少しはましかと、遊んでいた男の子に聞くと、
「弥八はオレのおとっつあんだ」
と言う。

そこで
「おまえんとこの親父は、見込みがありそうだと聞いたんで、弟子にしてやろうと江戸から来たんだ」
と、ハッタリをかますと、子供をさるもの、
「親父は富士山が倒れそうになったのでつっかい棒に行って留守だし、おっかさんは近江の琵琶湖まで洗濯に行った」
と、なかなかの強敵。

その上、
「薪が五把あったけど、三つ食べたから、おじさん、残りをおあがり。炭団はどうだい」
ときたから、子供がこれなら親父はもっとすごいだろうから、とてもかなわないと、千三ツは尻尾を巻いて退却。

「おじさん、そっち行くとウワバミが出るよ」
「なにを言ってやがる」

そこへ親父が帰ってきたので、せがれはこれこれと報告し
「おとっつあん、どこへ行ってたんだい」
「オレか。世界がすっぽり入る大きな桶を見てきた」
「おいらも、大きな竹を見たよ。山の上から筍が出て、それがどんどん伸びて、雲の中に隠れちまった」
「うん、それで?」
「少したつと、上の方から竹が下りてきて、それが地面につくと、またそれから根が生えて、雲まで伸びて、また上から」
「そんな竹がないと、世界が入る桶のたがが作れない」

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【しりたい】

鉄砲勇助

文化年間から口演される古い噺ですが、特定の原話は未詳です。

『聴耳草紙』ほかに見られる、各地のホラ吹き民話などを基にしたものと思われます。

いずれにしても、この種のホラ話は世界中にいくつも分布しています。

虚言や大風呂敷は、人類普遍の病だという証でしょうか。

本来は上方落語「鉄砲勇助」です。

これが東京に移植され、「弥次郎」と「うそつき村」の二つに分かれたという説があります。

上方では、「花の頓狂島ヤタケタ(でたらめ)郡うそつき村」という珍妙な名の村の、鉄砲勇助というホラ吹き名人に、大坂のうそ自慢男が挑戦しに来る設定です。

各演者の独自の工夫を除けば、東西ともくすぐりやホラの大筋、オチなどは変わりません。

上方の演題「鉄砲勇助」は、「テンポ(うそ)を言う」という上方言葉からのシャレです。

江戸(東京)の主人公弥八の異名「鉄砲」も、ここからきています。

「弥八」の「八」は、もとより「うそっパチ」の「八」でしょう。

千三ツ

「せんみつ」ともいい、うそつきの代名詞。

千のうち三つしか真実を言わない者の意味ですが、この表現は東京独自のものです。古くは「万八、千三ツ」と対語で使われました。

明和から安永(1764-81)にかけ、「万八」が流行語になり、「万八講釈」などという派生語も生まれました。

「千三ツ」の方はその語呂合わせとして考えられたようですが、本家の万八は早くすたれ、「千三ツ」だけが明治維新以後まで生き残りました。

いずれにしても「万ナシ」「千ゼロ」でないところに極悪人ではないという、シャレのセンスがうかがえますね。

意外な大看板も

「弥次郎」は現在もさかんに高座にかかりますが、「うそつき村」の方は、東京では一席噺としてはあまり聴かれません。

前座噺やマクラ噺扱いの軽い噺です。

大看板では、上方の六代目笑福亭松鶴(竹内日出男、1918-86)、東京の三代目三遊亭小円朝(芳村幸太郎、1892-1973)、三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)などが演じました。

セルビアのひげなし男

セルビアでは、ひげなし男はうそつきで腹黒いと、古くから考えられていたようです。

ヴーク・カラジッチの編纂したセルビア民話集に「うそつき村」とちょうど同パターンで、子供と水車小屋の粉ひき男が大ボラ比べをする話があります。

その男がひげなしです。

この一戦、やはり悪ガキの圧勝。独壇場で、セルビアの弥八は手も足も出ません。

そのホラ話の内容は以下の通り。

○巣箱のミツバチが一匹いなくなったので、雄鶏に鞍をおいて探しに出ると、ある人がミツバチに犂をひかせ、畑を耕していた。

○取り返して家に帰ると、ちょうど父親が生まれたところ。

○洗礼用の聖水をもらおうと、天までのびたキビの茎を登って天国へ。

○天国からまっさかさまに墜落、腰まで地面にめり込んで抜けないので、仕方なく家に飛んで帰り、鍬を取ってきて自分を掘り起こした。 

○家で飼っている雌馬は、体長二日、馬幅一日。

○井戸に水汲みに行くと、水が凍っていたので、自分の頭を引き抜き、頭で氷を叩き割る。

いやあ、いくらでも出てきます。

ホラにも宗教や民族性の違いがよく表れています。世界ホラ吹き選手権をやったら、ちょっとおもしろいかもしれません。



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つぼさん【壷算】落語演目

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【どんな?】

この奇妙な計算!
頭がこんがらかってしまいます。
有名な上方噺です。

別題:壷算用(上方)

【あらすじ】

少し抜けた男、かみさんから、二荷入りの大きさの水がめを買ってこいと、命じられる。

一人では持てないし、おまえさんは人間が甘くて買い物が下手だから、兄貴分の源さんに一緒に行ってもらえと、これもかみさんのご指名なので、交渉役に頼んで、二人で出かけていく。

源さんはなかなかシタタカ。

足元を見られないことが買い物のコツというわけで、さっそく、おやじと戦闘開始。

なぜか、一荷入りの小さい方はいくらだと聞くと、勉強して二円五十銭。

じゃ勉強しないと……やっぱり二円五十銭。

同じじゃねえかと、一つ食らわして、今日はこの男に頼まれて来たんだから、言い値で買ったのでは申し訳が立たない、商人は損して得取れで、これから先、友達が瀬戸物を買う時にはきっとここへ連れてきて埋め合わせをするから、今日は二円に負けときねえ、負けてくれるな、ウン、と念押しまで一方的にしたから、おやじ、相手のペースにはまって、お買い物がお上手ですなあ、ようがす、となる。

「決まったよ。おい、金出しな」
「だって兄貴、一荷入りじゃ」
「いいから出しとけ。おい二円、ここに置くぜ」

さらには
「黙って担いでいな、そうすりゃ、この一荷入りが二荷入りに化けるから」
となにか企みがあるようで、左に曲がって左に曲がると、何のことはなく元の瀬戸物屋へ。

「おや、お忘れ物で」
「いやね、この野郎が間抜けだから、本当は二荷入りが欲しいんだとさ」

そこで再交渉。

二荷入りは倍値だから、本来五円だが、さっき一荷入りを二円に値切ったので、その倍の四円とさせた上で、狭い台所で二つあってもじゃまだから小さい方を元値で取ってくれと源さん、おやじが承知すると
「さっき、二円渡したな。で、この一荷入りの水がめを二円で取ってもらう。てえと、二円と二円で四円。それでもの二荷入り水がめ、もらってくぜ」

おやじ、なんだか変だと思ったが計算は合っているようなので、
「へい」
と答えてしまったが、どう考えてもおかしい。

「おいしっかりしなよ。算盤を持て。いいか、持ったらオレが渡した金二円、入れてみな。……取ってもらった一荷入りの水がめ、二円入れてみたら四円になるだろ」

当たり前で、いくらやっても四円。

客を閉め出し、腰を据えて何度計算しても四円。

しまいにおやじ、ベソをかいて、
「すいません、親方、前にお持ちになった一荷入りの水がめ、持って帰って下さいな」
「一荷入りはいらねえんだよ」
「その代わり、いただいたこの二円もお返ししますから」

底本:六代目三枡家小勝ほか

【しりたい】

タネ本は世界中に

清代の笑話集『笑林広記』古艶部の中の「取金」が役人と薬屋の話として、そっくり同じパターンで、これが一応、直接の原典とみられます。

寛延4年(1751)に京都で出版された、中国小ばなしを翻案した漢文体の笑話集「準訳開口新語」中にこの話がコピーされていますが、実はその四年前、延享4年(1747)刊の「軽口瓢金苗・上」中の「算用合ふて銭足らず」では、だます男が一人というだけであとは現行の噺とまったく同じ筋です。

中国のみならず、この手のサギばなしは、トルコの笑話「ナスレディン・ホジャ物語」を始め、世界中に流布しているようで、吉四六(きっちょむ)が登場する日本の頓智昔話「壺を買う」も同工異曲です。

何やらゴチャゴチャするようですが、要するに、古今東西民族を問わず、人間は繰り返し同じ悪事をたくらんでいるということですね。

本家は上方の噺

本来の題は「壺算用」で、ナニワの爆笑王・初代桂春団治のレコードも残されています。

壺算用は坪算用ともいい、大工が坪数を見積り損なうところから大阪で勘違いの意味。それが「壺」に誤用されたようです。

三代目三遊亭円馬によって東京に移植されたのは、明治末か大正初期で、そう遠い昔ではありません。

オチはオリジナルでは、「これは、どういう勘定だんね?」「これがほんまの壺算用や」というもので、東京でも古くはこれがそのまま踏襲されましたが、「壺算用」の意味が通じにくいので、六代目三升家小勝が現行のように改めました。

なお、大阪では、マクラ程度に短くやるときは詐欺男を一人にし、一席噺でコンビを出す場合は前半に、アホが瀬戸物屋で伏せてある壺を見て、口がないとひっくり返し、今度は「底が抜けた」と大騒ぎするドタバタを付けます。

憎めぬ「知能犯」

錯覚を利用して代金をごまかすパターンは「時そば」も同じですが、いずれも、ますます巧妙、あくらつと化した現代の「振り込め詐欺」などと比べると、本当に他愛なく、かわいいものです。

悪事には違いありませんが、貧しかった時代、こうしたシタタカさも、庶民のせいいっぱいの「生活防衛」の知恵だったのかもしれません。

とにかく、いくら昔でも、こすからい商人をだますわけですから、しゃべりをテンポよく、とんとんと運ばなければ話になりません。その意味で、けっこう腕がいる、難しい噺でしょう。



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とよたけや【豊竹屋】落語演目

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【どんな?】

義太夫大好き男とでたらめ口三味線野郎。
二人の極め付き、夢の競演。
上方噺の音曲噺。
豊竹豆仮名太夫だった六代目円生のお得意。

あらすじ

下手の横好きで、義太夫に凝っている豊竹屋節右衛門という男。

なんでも見聞きしたものをすぐ節をつけて、でたらめの義太夫にしてしまうので、かみさんはいつも迷惑している。

あくびにまで節をつける始末。

朝起こされると
「おとといからの寝続けに、まだ目がさめぬゥ、ハァ(と欠伸して)、あくびィ、かかるところに春藤玄蕃、くび見る役はァ、まつおうまるゥ」
と、さっそく「寺子屋」をひとうなり。

あちこち飛んで、
「その間遅しとォ、駆けいるお染、逢いたかったァ……」
と野崎村に変わったと思うと
「武田方の回し者、憎い女と引き抜いてェ」
と「十種香」になり、いつの間にか
「母の皐月がァ、七転八倒ォ、やややややァッ」
と「太功記」十段目・尼崎の場。

「ちちちちちっつん、つんつん、巡礼姿の八右衛門、後に続いて八幡太郎、かっぽれかっぽれ甘茶でかっぽれェ」
と、しまいにはなんだかわからない。

朝飯になると、碗の蓋を取るなり
「ちちん、お碗の蓋ァ、開くゥればァッ、味噌汁八杯豆腐、煮干の頭の浮いたるはァ、あやしかりけるゥ、ぶるるるッ」
と、興奮して蛮声を張り上げ、お膳を引っくり返す騒ぎ。

そこへ訪ねてきた男、これまた
「てん、ちょっとお尋ね申します、豊竹屋節右衛門さんンンは、こちらかええッ」
と、妙な節回し。

同類が現れたと、かみさんは頭を抱える。

この男、浅草三筋町三味線堀に住む花林胴八といって、でたらめの口三味線を弾くのが好きという、負けず劣らずの義太夫狂。

節右衛門の噂を聞いて、手合わせしたいと訪ねてきたもの。

三味線とはちょうどいいと、かみさんの渋い顔もどこ吹く風、節右衛門は大喜び。

さっそく二人の「競演」が始まった。

隣のお婆さんが洗濯する音が聞こえると
「ばあさァんせんだあくゥ、ううゥゥゥ」
「は、じゃっじゃっじゃっじゃじゃ。しゃぽォん」
「にじゅうごにちのォ、ごォえェんにィち」
「はっ、てんじんさん」
「ちんをふったわァ、ごォみィやァ、かァえ」
「ハッ、ちりちりん、ちんりんちんりん、ちりつんでゆくゥ」
「うまいッ。きょねんのくれのォ、おォおみォそおか、米屋と酒屋に責められェ、てェ」
「てんてこまい、てんてこまい」

いよいよ乗ってきて、
「子供の着物を親が着てェ」
「ハッ、つんつるてん」
「そばに似れどもそばでなくゥ、うどォんに似れども、うどんでなく、酢をかけ蜜かけたべェるのは」
「とォころてん、かァんてん」
「おなかこォわァしてェ、かよォうのォはッ」
「せっちんせっちん」
と、やっていると、棚から鼠が三匹。

「あれあれ、むこうの棚に、ねずみが三ついでてむつまじィく、ひとつのそなえをォ、引いてゆゥく」
と、節付けすると、鼠まで節をつけて
「チュウチュウチュウチュウ」

「いやあ、節右衛門さんとこのねずみだけあって、よく弾き(=引き)ますな」
「いやあ、ちょっとかじるだけで」

底本:六代目三遊亭円生

しりたい

貴重な音曲噺

原話は不詳ですが、貞享4年(1687)刊の笑話本『はなし大全』中巻ノ二の「口三味線」がそれらしき原型のようです。大坂で、天保年間(1830-44)から口演されてきた、今に残る貴重な音曲噺です。いつ、だれが東京に移植したかは、不明です。演題は、浄瑠璃の一派で、豊竹越前少掾(1681-1764)が享保16(1731)年に創始した豊竹派をもじったものです。

円生の十八番

義太夫の素養がなくてはできないため、戦後、音曲噺がすたれてからは、幼時「豊竹豆仮名太夫」を名乗って義太夫語りだった、六代目三遊亭円生の独壇場でした。

円生は最晩年、まるで後継者を捜し求めるように頻繁にこの噺を高座に掛け、国立劇場のTBS落語研究会(1978年12月26日)を始め、残された音源は11種、CDは6種という、ちょっとした記録です。入船亭扇橋、林家正雀、古今亭志ん輔など、手掛ける人が出ました。

円生の工夫

円生の芸談によると、昔は現行の話の前に、節右衛門が湯屋で義太夫をうなりすぎてふらふらになる場面がつくこともあったといいます。東京でも、柳派はこのやり方でした。円生は、口三味線で胴八が洒落る場面で「隣のじいさん抱き火鉢」「たどん」とやっていたのを婆さんの洗濯に変えています。

通じないオチ

「ちょっとかじるだけ」というオチは、人形浄瑠璃の符丁で三味線を弾くことを「かじる」と呼んだことから。もう現在では、よほどの文楽マニアでないと通じないでしょう。

義太夫四題 

噺の中で披露される演目は、いずれも今日、文楽、歌舞伎のレパートリーとして著名なものですが、複数の浄瑠璃の登場人物が、入り乱れてごたまぜで現れるのが落語の落語たるところで、こういう滑稽は「五目講釈」にも登場します。

「寺子屋」は『菅原伝授手習鑑』の四段目の切です。松王丸は、大宰府に流罪となった旧主・菅丞相(菅原道真)の一子・菅秀才の命を救うため、わが子を身代わりに立てる悲劇の人物。春藤玄蕃は、菅秀才の首実験のため派遣される役人で敵役。おやじが流罪なのに縁座の子供が打ち首という摩訶不思議な芝居。

「野崎村」は、世話浄瑠璃『新版歌祭文』全二段の上の切。

「十種香」は、『本朝二十四孝』四段目の中で、長尾謙信の息女八重垣姫が、恋する武田勝頼の回向に香を焚く場。

八右衛門は『恋飛脚大和往来』(近松門左衛門)の新口村の段の登場人物。八幡太郎義家は『奥州安達原』(近松半二)の登場人物。町人と武将がごちゃまぜに出る混乱ぶりです。

三味線堀

台東区小島一丁目にあった堀。形が三味線に似ていたことからこう呼ばれました。寛永7年(1630)、鳥越川の掘削によってできたもので、閑静な景勝地でした。戦後、川も堀も無残に埋め立てられ、今は跡形もありません。

フィクションでは、昭和37年(1962)の東映映画『怪談三味線堀』の舞台となったほか、『その男』(池波正太郎)の主人公、剣客の杉虎之助が生まれ育った地でした。

花林胴八

カリン(マルメロ)の木で三味線の胴を作ることから、それをもじった名です。

【語の読みと注】
新口村 にのくちむら
花林胴八 かりんどうはち



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とろろん【とろろん】落語演目

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【どんな?】

にぎやかで陽気。
東海道の丸子宿(鞠子宿)が舞台の一席。
上方噺の音曲噺です。

あらすじ

無尽に当たって懐が温かい、神田堅大工町の八五郎。

ひとつ伊勢参りでもして散財しようという気を起こし、弟分の熊と文次を誘って、東海道を西へ。

途中、馬子とばかを言いながら毬子(=丸子)宿までやって来る。

今夜の泊まりは一力屋という旅籠だが、あいにく下で寄合があるので、しばらく二階座敷でご同座を願いたいと頼まれる。

同宿は三人で、大坂者が一人に、上州から出てきたという婆さん、それに梅ヶ谷の弟子で梅干という相撲取り。

あいさつが済んだところへ女中が
「あんたがたハァ、毬子の名物をあがりますかな」
と聞きにくる。

「なんだ」
と聞くと
「トルルルー」
とか。

「ばか野郎、毬子名物ならとろろ汁じゃねえか」
と少しはもののわかった八五郎が教えたが、また
「マンマがバクハンでもようごぜえますか?」
と聞くので、そそっかしい文次が
「バッカラカン」
と聞き間違え
「格好の悪い丼じゃねえか」
と思い込んで、ひと騒ぎ。

麦飯のお櫃は来たが、いくら待ってもとろろが来ない。

二人が
「バッカラカンてやがって、人をばかにしてやがるから、下にケンツクを食わせよう」
と怒るのを、八五郎が
「寄合で忙しくて手がまわらないんだろう」
となだめ、
「下で思い出すように、なんでもトロトロとつく唄をうたって催促しようぜ」と提案する。

八五郎が甚句で
「トントンチリチリツンテントン、泊まり合わせしこの家の二階、麦の馳走はよけれども、なにもなくては食べられぬ、なんで食べよぞこの麦を、押してけ持ってけ三段目」
とやると
「押してけ持ってけ」
が悪く、せっかく来かかったのが戻されてしまう。

「それでは」
と婆さんが、昔取った杵柄、巫女の口寄せを。

「慈悲じゃ情けじゃお願いじゃ、どうぞ宿屋の女子衆よ、とろろを手向けてくださりませ」
「縁起でもねえ。手向けられてたまるか」

今度は大坂者に
「なにかやってくれ」
と頼むと、これは浄瑠璃で
「デンデンデンチトンチン、チントンシャン、シャンシャンジャジャジャ」
と雌馬の小便のよう。

真っ赤にうなって
「麦の馳走はよけれども、おかずのうては食べられぬ。オオオオ」

とうとう泣きだす。

相撲取りが一人ゲラゲラ笑っているので
「おめえもやらねえか」
と催促すると
「最前からおもしろうございました。実はわしは相撲じゃありません」
「なんだ」
「祭文語りで」
「どうりで小せえ相撲取りだと思った」

ほら貝と錫杖を前の宿屋に忘れたというので、口だけで
「なにでべよぞンガエこのン麦をエー、おかずがのうては、ンガエ、食べンエンらンれンぬ、お察しあれや宿屋のご主人、なにで食べよングエこのン麦をングエ」
とやると、主人がすり鉢を持って
「とろろんとろろん」

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東西で異なるオチ

原話は不詳。上方の古い音曲噺「出られん」を東京に移植したものです。

移植者や年代はわかりませんが、大正3年(1914)6月、『文藝倶楽部』に掲載された三代目古今亭今輔(1869-1924)の速記が残ります。

上方のオチは、題名通り主人が下から「出られん」と言うもので、浪花節の古型である「デロレン祭文」と掛けた地口。一方、あらすじでご紹介したように東京では、「デロレン」を「トロロン」と呼んだので地口も丸子名物のとろろとしゃれたわけです。

小南の復活と工夫

東京では長く途絶えていましたが、先の大戦後、二代目桂小南(1996年没)が大阪風の演出で復活、十八番にしました。

小南では、隣の大尽風を吹かせる男に当てこするためなぞ掛けで嫌がらせした後、祭太鼓の合いの手でとろろを催促。隣をのぞくと、お大尽が「テントロロン」と、頬かぶりでひょっとこ踊りを踊っていた、という地(説明)のオチを工夫しました。

小南没後は、再び後継者がいなくなっています。

祭文語り

さいもんがたり。祭文は浪花節の原型または古型で、上方では別名「デロレン左衛門(祭文)」と呼ばれました。

もともと、祭のときに、独特の節回しで神仏に報告する役割を担いましたが、山伏姿の門づけ芸人がほら貝と銀杖を伴奏に、街頭でデロレンデロレンとうたい歩き、全国に普及したものです。

のちに芸能化して歌祭文になり、幕末に浪花節(浪曲)へと進化をとげました。

口寄せ

霊媒のこと。

「そもそも、つつしみ敬って申したてまつるは、上に梵天、帝釈、四大天王……」と、さまざまな神仏の名を唱えたのち、死者を呼び出すのが普通の段取りでした。

婆さんの「とろろを手向けてくださりませ」は、憑依した亡者のことばのもじりです。

甚句

おもに相撲甚句のことで、「錦の袈裟」にも登場しました。

都々逸と同じく、七七七五のリズムを持ちます。

丸子のとろろ汁

丸子(毬子)は東海道二十一番目の宿場で、今の静岡市の内。

名物のとろろ汁は、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』や芭蕉の句でも。

梅若菜 毬子の宿の とろろ汁

さまざまな道中名所記でおなじみです。

自然薯のとろろを味噌汁で溶くのが特徴で、それを麦飯にかけて饗する質朴な味わいです。

【語の読みと注】
無尽 むじん
旅籠 はたご
寄合 よりあい
手向け たむけ
霊媒 れいばい
自然薯 じねんじょ



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じごくばっけい【地獄八景】落語演目

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【どんな?】

上方では米朝のが有名です。
ここでは明治の円遊ので。
ほとんど同じ。

別題:地獄 地獄八景亡者の戯れ

【あらすじ】

根岸でのんびり日を送る大店の隠居。

そこに、隠居が最近ドイツの名医からもらったという「旅行薬」の噂を効いて、源さんと八っつぁんの二人連れが訪ねてくる。

隠居が、この薬を飲めば、一時間以内で好きなところへ行ってこられるから、試しにどこかへ行ってみないかと言うので、二人は渡りに舟と、地獄旅行としゃれ込む。

すっかり薬が回ると、何だかスーッとしていい気持ち。

いつの間にか、だだっ広い野原にいる。

洋服を着た人が立っていて
「きさまらは新入りだな。自分はこの国の人民保護係だ」
と言う。

ここはシャバを去ること、八万億土のあだし野の原。

吹く風は無常の風、ぬかるみの水は末期の水と名がつく。

役人が、きさまらは娑婆しゃばで罪を犯したので、ここでザンゲをしなければならないと言う。

まず源さんが
「えー、私は間男まおとこしました」

「とんでもねえ奴だ。相手はだれのかみさんだ」
「ここにいるこいつで」
「チクショー、こないだから変だと思った」

これで大げんか。

「八五郎、きさまはなにをした」
「へえ、私は泥棒で」
「どこに入った」
「こいつのとこです」
というわけで、間男と差し引き。

もめながら三途の川まで来ると、ショウヅカの婆さんが、
「当節、地獄も文明開化で、血の池は肥料会社に売却して埋め立て、死出の山は公園に」
と、いろいろ教えてくれる。

いよいよ、三途の川の渡し。

死に方で料金が違う。

心中だと二人で死んだから二四が八銭、お産で死ねば三四が十二銭という具合。

着いたのが閻魔の庁。

役人が一人一人呼び上げる。

「磐梯山破裂、押しつぶされー」
「ホオー」
「ノルマントン沈没、土左衛門」
「ヘイー」
「肺病、胃病、リューマチ、脚気」
「ヘイ」

全部中に通ると、罪の申し渡しがある。

有罪全員が集められ
「その方ら、いずれも極悪非道、針の山に送るべき奴なれど、今日はお閻魔さまの誕生日につき、罪一等を減じ、人呑鬼に呑ませる。さよう心得ろ」

塩をかけて食われることになったが、歯医者がいて、人呑鬼の歯をすっかり抜いちまったから、しかたなく丸飲み。

腹の中で、みんなで、あちこちの筋を引っ張ったので、さすがの人呑鬼もたまらず、トイレに行って全員下してしまった、というところで気がつくと、いつの間にか元の根岸の家。

「どうだ、地獄を見てきたか」
「もし、ご隠居、あの薬の正体はなんです」
「おまえらは腹から下されたから、あれは大王(大黄=下剤)の黒焼きだ」

底本:初代三遊亭円遊

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【うんちく】

本家は上方落語

天保10年(1839)刊の上方板笑話本『はなしの種』中の「玉助めいどの抜道」が上方落語「地獄八景(亡者戯)」の原型。

さらに遡れば、宝暦13年(1763)刊の『根南志具佐』を始め、宝暦から文化年間まで流行した地獄めぐり滑稽譚が源流です。

上方では長編連作旅シリーズ「東の旅」の番外編という扱いで、古くは、道中の点描で、軽業師が村祭りで興行中木から転落。そのまま地獄へ直行するのが発端になっていました。

あらすじの東京バージョンは珍しいのでご紹介しましたが、明治中期に初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)が東京に移植・改作したものです。

あだし野の原

実在のあだし野(化野)は、京都府北嵯峨・念仏寺の、京都最古の土葬墓地です。

八千体の石仏や石塔がひしめく荒涼たる風景は、「あだし野の露消ゆる時なく」と兼好が『徒然草』に記しているように、この世の無常、ひいては地獄を感じさせます。

それもそのはず、「あだし野」は特定の地名でなく、冥界を意味する言葉でした。

「八万億土」は、もともとこんな言葉はなく、西方十万億土の少し手前というくすぐりです。

生塚の婆さん

しょうづかのばあさん。脱衣婆のことです。地獄の入り口、三途の川の岸辺で亡者の衣服をはぎ取り、衣領樹の上にいる懸衣翁に渡す仕事の鬼婆。

「ショウヅカ」は「三途河」がなまったものとか。

落語では、「朝友」「地獄の学校」「死ぬなら今」など、地獄を舞台にしたものにはたいてい登場。「朝友」を除けば悪役のイメージは薄く、特にこの噺では、情報通の茶屋の婆さんという扱われ方です。

三途の川の渡し賃

普通は六文と考えられていました。

棺桶(早桶)に六文銭を入れる習わしはそのためです。

磐梯山破裂

明治21年(1888)7月の、会津磐梯山の大噴火を指します。

ノルマントン号事件

明治29年(1896)10月24日、日本人乗客23名を乗せた英国貨物船ノルマントン号が紀州沖で沈没。水死したのが日本人のみだったため、全国で対英感情が悪化しました。

米朝十八番、すたれた円遊改作

円遊は、オチを含む後半はほとんど上方版と同じながら、発端をあらすじのように変え、明治25年(1892)4月の速記では「大王の黒焼」を受けて「道理でぢごく(=すごく)効きがよかった」と、ひどいダジャレオチにしています。

円遊版の特色は、あらすじでは略しましたが、当時すでに死亡していた多くの有名人が、続々と地獄に来ている設定になっていること。

川路利良(明治12年没)、三島通庸(21年没)、西郷隆盛(10年没)、その他三条、岩倉、大久保、木戸の維新の元勲連から、森有礼暗殺犯の西野文太郎、大津事件の津田三蔵、毒婦高橋お伝まで。明治のにおいが伝わってきます。

円遊のこの演出は時代を当て込んだものだけに、当然、以後継承者はなく、明治期にできた地獄噺は、オリジナルの大阪版以外はすべて滅びたといっていいでしょう。

先の大戦後では、三代目桂米朝(中川清、1925-2015)が、発端をフグにあたってフグに死んだ若だんなと取り巻き連のにぎやかな冥土道中にした上、より近代的なくすぐりの多いものに変え、「地獄八景亡者戯」として、一世のヒット作、十八番としています。

この米朝演出を、門弟の二代目桂枝雀(前田達、1939-99)がさらにはでなスペクタクル落語に変え、昭和59年(1984)3月の歌舞伎座公演のトリでも大熱演しました。

枝雀のオチでは、体内を責めさいなまれた人呑鬼が悲鳴を上げるので、閻魔大王がしかたなく「極楽へやってやる」とだまして一同を外にひきずり出してしばりますが、うそをついたというので、閻魔自身が舌を抜かれるという皮肉なものです。

演題の読みはあくまで上方のものを踏襲して「じごくばっけい」と読むのが正式です。

古くは「地獄めぐり」「明治の地獄」「地獄」など、さまざまな別題で演じられていました。

【語の読みと注】
根南志具佐 ねなしぐさ:風来山人、つまり平賀源内の作
脱衣婆 だつえば
衣領樹 えりょうじゅ
懸衣翁 けんえおう:三途の川のほとりにいるといわれる老人
三途河 さんずか
地獄八景亡者戯 じごくばっけいもうじゃのたわむれ



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たこぼうず【蛸坊主】落語演目

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【どんな?】

お坊さんが登場する噺。
ちょっと珍しいですかね。

【あらすじ】

不忍池の端にある料理屋、景色はよし味はよし、器もサービスも満点で大評判。

ある日、坊さんの四人組が座敷にどっかと上がり込んだ。

「われわれは高野一山の修業僧だが、幼少の折から戒律堅固に過ごしているから、なまぐさものは食らわない、精進料理を出してくれ」
と注文する。

出された料理に舌鼓を打っていた四人、急に主人を呼び出し、料理や器をほめた後、このお碗の汁はおいしいが、出汁はなにを使っているかと、尋ねる。

「はい、世間さまではよく土佐とおっしゃいますが、てまえどもでは親父の代から、薩摩を使っておりますので」
「はあ、そりゃいったい、なんのことで?」
「鰹節の産地でございます」

鰹節とは何で作るのかと重ねて問われて、主人は青ざめたが、もう遅い。

「とんだことで、ご勘弁を願います」
と平謝りし、
「すぐに清めの塩を持ってこさせ、昆布の出汁で作り直させます」
と言い訳しても、坊さん四人はいっかな聞かない。

かえって居丈高になり、
「魚類の出汁を腹の中へ入れてしまっては、口などすすいでも清まるものではない。われわれ四人は戒律堅固に暮らしていたのが、この碗を食したために修業が根こそぎだめになった。もう高野山には帰れないから、この店で一生養ってもらう」
と、無理難題。

新手のゆすりとわかった時には、もう手遅れ。

坊さんは寺社奉行のお掛かりで、町奉行所に訴えてもどうにもならない。

困り果てていると、向こうの座敷で食事をしていた、鶴のように痩せた老僧がこれを聞きつけた。

主人を呼んで、
「愚僧が口を聞いて信ぜよう」
と申し出たので、主人は藁にもすがる思いで頼む。

ほかの座敷の町人連中、
「なにやら坊さんが四枚そろったが、けんかになりそうだから、ドサクサに紛れて勘定を踏み倒しちまおう」
と、ガヤガヤうるさい。

老僧、四人の座敷へおもむくと、
「料理をうまくしたいという真心がかえって仇となったので、刺し身を食らっても豆腐だと思えば修業の妨げにはなりますまい」
と、おだやかに説くが、四人は相手にしない。

老僧、急に改まって
「最初から高野一山の者とおっしゃるが、貴僧たちはこの愚僧の面体をご存じか」

知らないと答えると、大音声で
「あの、ここな、いつわり者めがッ」
(芝居がかりで)「そも高野と申す所は、弘仁七年空海上人の開基したもうところにして、高野山金剛峯寺と名づけたる真言秘密の道場。諸国の雲水一同高野に登りて修業をなさんとする際、この真覚院の印鑑なくして足を止めることができましょうや。高野の名をかたって庶民を苦しめるにせ坊主、いつわり坊主、なまぐさ坊主、蛸坊主」
「これ、蛸坊主と申したな。そのいわれを聞こう」
「そのいわれ聞きたくば」
と、四人が取りついた手を振り払い、怪力で池の中にドボーン。片っ端から放り込んでしまった。

四人とも足を出して、池の中にズブズブズブ。

「そーれ、蛸坊主」

底本:八代目林家正蔵(彦六)

【うんちく】

東京では彦六 【RIZAP COOK】

原話は不詳で、本来は純粋な上方落語です。

明治以来、大阪方が「庇を貸して母屋を乗っ取られた」演目は数多いのですが、この噺ばかりは、東京はほんのおすそ分けという感じです。

桂米朝、露の五郎兵衛、桂文我ほか、レパートリーとしているのは、軒並み西の噺家。

東京では、八代目林家正蔵(彦六)が、かつてこの噺を得意にしていた大阪の二代目桂三木助(1884-1943)に習い、舞台を江戸に移して演じたのみです。正蔵の口演は映像が残されているので、古格の芝居噺の型を、今も偲ぶことができます。

あまりおもしろい噺ではないうえ、後半は鳴り物入りで芝居噺となる古風さも手伝ってか、正蔵没後は東京では今のところ、継承者がいません。

舞台設定はいろいろ 【RIZAP COOK】

二代目三木助は、大坂茶臼山ちゃうすやま(大坂の陣の古戦場)の「雲水」という普茶料理ふちゃりょうりの店を舞台としていました。これが、上方の古い型だったのでしょう。

正蔵は、ここに紹介したように、上野不忍池のほとりとし、店の名は特定していません。でも、幕末の池之端あたりには、この噺に登場するような大きな料亭が軒を並べていました。

「不忍池にすると、上野(=寛永寺)の宗旨は天台ですから、そこへ真言の僧が来るのはおかしいということになりますが、これはまァ見物にでも来たとすれば、そう無理はないと思います」
という、正蔵の芸談が残っています。

場所一つ設定するのも、いいかげんにはできないもののようです。

上方でも、桂米朝は、舞台を生玉神社近くの池のほとり、老僧の名を「修学院」としていました。

雲水 【RIZAP COOK】

一般には、托鉢たくはつしながら旅の修行を続ける禅宗系の僧侶をさします。ここでは、老僧の言葉にあるように、高野聖こうやひじりと呼ばれる諸国修行の真言僧です。

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らくだ【らくだ】落語演目

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【どんな?】

長屋の嫌われ者が急死。
兄貴分がむりむりに葬式を。
巻き込まれる屑屋の豹変ぶりで立場が逆転。
上方噺。

別題: 駱駝らくだ葬礼そうれん 駱駝の友達

あらすじ

駱駝らくだ」の異名をとる馬さんは、乱暴で業腹ごうはらで町内の鼻つまみ者。

ある夜、フグに当たって、ひとり、あえない最期を遂げた。

翌朝、兄弟分の、これまた似たようなろくでもない男が、らくだの死体を発見した。

葬式ともらいを出してやろうというわけで、らくだの家にあった一切合切の物を売り飛ばして早桶代にすることに決めた。

通りかかった屑屋の久蔵を呼び込んで買わせようとしたが、一文にもならないと言われる。

そこで、長屋の連中に香奠こうでんを出させようと思い立ち、屑屋を脅し、月番のところへ行かせた。

みんならくだが死んだと聞いて万々歳だが、香奠を出さないとなると、らくだに輪をかけたような凶暴な男のこと、なにをするかわからないのでしぶしぶ、赤飯でも炊いたつもりでいくらか包む。

それに味をしめた兄弟分、いやがる屑屋を、今度は大家おおやのところに、今夜通夜つやをするから、酒と肴と飯を出してくれと言いに行かせた。

店賃たなちんを一度も払わなかったあんなゴクツブシの通夜に、そんなものは出せねえ」
「嫌だと言ったら、らくだの死骸にかんかんのうを踊らせに来るそうです」
「おもしれえ、退屈で困っているから、ぜひ一度見てえもんだ」

大家は、いっこうに動じない。

屑屋の報告を聞いて怒った男、それじゃあというので、屑屋にむりやり死人しびとを背負わせ、大家の家に運び込んだので、さすがにけちな大家も降参し、酒と飯を出す。

横町の豆腐屋を同じ手口で脅迫し、早桶代わりに営業用の四斗樽よんとだるをぶんどってくると、屑屋、もうご用済みだろうと期待するが、男はなかなか帰してくれない。

酒をのんでいけと言う。

女房子供が待っていて鍋の蓋が開かないから帰してくれと頼んでも、俺の酒がのめねえかと、すごむ。

モウ一杯、モウ一杯とのまされるうち、だんだん紙屑屋の目がすわってきた。

「やい注げ、注がねえとぬかしゃァ」

酒乱の気が出たので、さしものらくだの兄弟分もビビりだし、立場は完全に逆転。

完全に酒が回った紙屑屋。

「らくだの死骸をこのままにしておくのは心持ちが悪いから、俺の知り合いの落合の安公やすこうに焼いてもらいに行こうじゃねえか。その後は田んぼへでも骨をおっぽり込んでくればいい」

安公に渡す手間賃は、途中にある池田屋という質屋でこの四斗樽を質入れして始末する、という算段。

相談がまとまり、死骸の髪をむしり取って丸めた上、樽に押し込んで、首の骨なんかは折り曲げて、二人差しにないで出発した。

途中の池田屋では案の定、葬式ともらいは質入れできないと抗うところを、内会ないけえ(非合法の博打)の噂をささやけば、質屋の番頭がさらに嫌がって、追っ払いに二両をくれた。

この二両を安に渡せば焼けると、高田馬場を経て落合の火葬場へとっとと向かった。

落合の火葬場に。

お近づきの印に安公と三人でのみ始めたが、いざ焼く段になると、死骸がない。

どこかへ落としたのかと、二人はもと来た道をよろよろと引き返す。

願人坊主がんにんぼうずが一人、酔って寝込んでいたから、死骸と間違えて桶に入れ、焼き場で火をつけると、坊主が目を覚ました。

「アツツツ、ここはどこだ」
「ここは火屋ひやだ」
冷酒ひやでいいから、もう一杯くれ」

底本:五代目古今亭志ん生

【RIZAP COOK】

しりたい

上方落語を東京に  【RIZAP COOK】

元ネタは上方落語の「駱駝らくだ葬礼そうれん」です。

「駱駝の葬礼」では、死人は「らくだの卯之助」、兄貴分は「脳天熊」ですが、東京では、死人は「らくだの馬」、兄貴分は無名です。

「らくだ」は江戸ことばで、体の大きな乱暴者を意味しました。

三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)が東京に移植したものです。明治大正の滑稽噺の名人で名高い噺家ですね。

三代目小さんが京都で修行していた頃、四代目桂文吾(鈴永幸次郎、1865-1915)にならったものとされており、こちらも有名な逸話です。

宮松へ行けばらくだの尾まで聞け

「宮松」とは茅場町薬師境内にあった寄席の宮松亭のことで、第一次落語研究会(1905-23)のセンターでした。

三代目小さんは第一次落語研究会の中心人物で、上方由来の噺をさかんにおろしていました。

「らくだ」もそのひとつだったのですね。

川柳に詠まれるほどさかんに演じられていたのが、三代目小さんの「らくだ」だったということでしょう。

聴きどころ

この噺の聴きどころはなんといっても、気の弱い紙屑屋が男の無理いで飲まされ、男との支配被支配の関係が、酒の力でいつの間にか立場が逆転するおかしさです。

後半の願人坊主のくだりはオチもよくないので、今ではカットされることが多くなっています。

これも五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)の十八番の一つで、志ん生は発端を思い切りカットすることもありました。

「生き返らねえように、アタマつぶしとけ」は、志ん生でしか言えない殺し文句です。

実際には、いろんな噺家がやってはいますが、志ん生ほどの凄愴せいそうと滑稽は浮かび上がりません。

いかにも五代目志ん生らしい、身も蓋もない噺のイメージがあり、古今亭の系統の噺かと思ってしまいます。

とはいえ、三代目小さん由来ですから、四代目柳家小さん(大野菊松、1888-1947)も五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)も演じてきて、柳家の系統の噺のひとつなんです。

とうぜん、十代目柳家小三治(郡山剛蔵、1939-2021)にまでもつながっていたわけです。

長い噺のため、最後までやる演者はあまりいませんが、柳家小三治は最後までやっていました。40分ないし45分でできる噺なんだそうです。

三代目小さんという噺家は、つまらなそうな顔つきで聴き手を抱腹絶倒の坩堝るつぼに陥れたそうですから、これはもう、小三治の芸風と深くかかわっていますね。

らくだの髪の毛をむしりとる演出は、五代目志ん生、八代目三笑亭可楽(麹池元吉、1898-1964)が継承しています。

五代目三遊亭円生(村田源治、1884-1940、デブの)と六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)は、長屋の中の女暮らしの家から剃刀かみそりを借りてきてる演出にしています。

上品ですが、この噺全体を支える粗雑で豪胆な雰囲気は消えてしまいます。

昭和初期にエノケン劇団が舞台化し、戦後映画化もされています。まあ、これはもう、どうでもよい話です。

「らくだ」の構成

この噺の構成は、以下の通りです。

①男、兄弟分のらくだが長屋で死んでいるの見つける。
②長屋の前を屑屋が通りかかる。
③男は葬式代捻出のため、らくだの家財を屑屋に売ろうとするが、なにもない。
④男は月番へ香奠を集めるよう、屑屋を使わせ、月番はやむなく応じる。
⑤男は大家へ酒と煮しめを出すよう、屑屋を使わせるが、大家は拒否する。
⑥男は大家宅で、屑屋にらくだの死骸を背負わせかんかんのうを踊らせる。
⑦大家は気味悪がって、酒と煮しめの用意を約束する。
⑧男は豆腐屋へ屑屋を使わせ、四斗樽をせしめる。
⑨香奠、酒、煮しめが届き、男は嫌がる屑屋に酒を強要する。
⑩屑屋は三杯目から豹変し、二人の立場が逆転する。
⑪友達づくで焼かせようと、らくだを入れた四斗樽を二人でかつぎ落合に出発。
⑫通り道の質屋では、内会の噂と四斗樽の質入れで強請ゆすって二両をせしめる。
⑬落合で、二両と四斗樽を受け取った安公が焼こうとしたら死骸がない。
⑭二人は道中を戻り、泥酔の願人坊主をらくだと間違えて運び戻る。
⑮安公が焼き始めると、坊主が熱さで目が覚めた。「ひやでいいからもう一杯」

これを全部ていねいにやれば、軽く1時間以上はかかってしまいます。

多くの噺家は、男と屑屋との立場逆転のあざやかな⑩で終わりにしています。

「ひやでいいからもう一杯」のオチを聴かせるならば40分、質屋強請ゆすりを含めれば45分でできるんだそうです。小三治や小里ん師はこっちのコース。

屑屋のパシリのもたもたは、月番、大家、豆腐屋(演者によっては八百屋)と、3回あります。聴き手にはここがくどくてダレるもの。

ここをうまく刈り取れば、30分以内でオチまでいける、というのがプロの観点とか。

質屋ゆすりも端折はしょられますが。放送主体ではこちらがえじきになります。質屋強請りのくだりはあまり聴きません。

三遊亭小遊三師がNHK「日本の話芸」でやっていたものでも質屋強請りはありませんでした。この番組は30分ですし。

質屋強請りと焼き場に軸足を置いた演じ方もありで、おもしろい演出になります。

五代目小さんはこれを嫌がって省きましたが、弟子の柳家小里ん師は省かない視点です。

かんかんのう  【RIZAP COOK】

らくだの兄弟分が、紙屑屋を脅して死骸むくろを背負わせ、大家の家に乗り込んで、かんかんのうを踊らせるシーンが、この噺のクライマックスになっています。

「かんかんのう」は「看々踊り」ともいい、清楽の「九連環」が元の歌です。

九連環は古代中国で発明された「知恵の輪」だそうです。日本では「かんかんのう(看々踊)」といわれた、歌と踊りのセットです。

文政3年(1820)に長崎から広まって、大坂、名古屋、江戸へとで流行していきました。飴売りがおもしろおかしく町内を踊り歩いてさらに爆発的流行して、文政5年(1822)には禁止令が出たほど。一時下火になってくすぶっていましたが、明治初期に花柳界で流行しました。つまり、文政年間から途絶えずはやっていたのでしょう。

「かんかんのうをきめる」という江戸ことばがあります。これは夜這いに成功したことを言うのですが、「かんかんのう」の踊りで四つん這いのかっこうをするところからの発想のようです。

さて。

「九連環」の歌が元歌で「かんかんのう」が生まれましたが、歌詞もメロディーも変形されています。

以下、「かんかんのう」の歌詞を紹介します。福建語の珍妙な語感が特徴です。福建語は台湾語と同系で、音韻が日本語にも一部同じものがあります。長崎に来た中国人は、じつは福建人ばかりでした。江戸期の中国文化や文物というのは福建省経由のものです。

かんかんのう きうれんす きゅうはきゅうれんす さんしょならえ さあいほう
にいかんさんいんぴんたい やめあんろ めんこんふほうて しいかんさん
もえもんとわえ ぴいほう ぴいほう

歌の中身は花柳界で放歌する卑猥な内容だそうです。日本人はこの歌を聴いても意味などわからず、ただ音の奇妙に惹かれたようです。どこかコミカルに聴こえ、踊りもコミカルに見えたのですね。詳しくは明清楽資料庫をご覧ください。

かんかんのう
梅ヶ枝の手水鉢

志ん生のくすぐり3選

五代目志ん生の「らくだ」でのくすぐりは、ほかの噺家のそれをはるかに圧倒しています。凄愴で滑稽なんです。

志ん生流を踏襲する噺家もいますが、本家を知っているとなんだかなぞっているようで、いまいち。以下が、きわめつきの3選です。読むだけでも笑っちゃいます。

●屑屋がらくだの死を知った場面

「へえ、ふぐに当たって……まあ、どうもふぐってえものも当てるもんですな、こりゃァ。当てましたなぁ、ふぐが」
「おい、福引きみてえなこと言うなよ」

●屑屋が月番の家に行った場面

「いえね、らくださんがね、ええ、ふぐに当たって死んじゃったんです」
「らくだがァ……。死んだァ。本当か、おい、そんなこと言って、人を喜ばせるんじゃないかい」
「いえ、喜ばせやしませんよ」
「そうかい、へえ、生き返りゃあしねえかァ」
「いや、生き返りませんよ」
「いやァ、あの野郎、ずうずうしいから生き返ってくるかもしれねえぞ。あたまァ、よくつぶしといたらどうだい」

●屑屋がらくだの髪の毛をむしる場面

ぐんだよゥ、もっと。もっと注げよ、もっと……。しみったれめ、けつを上げろ、尻をォ、てめえの尻じゃねえ、徳利の尻をあげんだい……なにを言ってやんだい、こんちくしょう。へええ、なんだい、なんだい、なんだ。らくだァ……、らくだがなんだってんだ。べらぼうめぇ。らくだもきりんもあるかァ。こんちくしょう、まごまごしやがるってえと、おっぺしょって、鼻ァかんじゃうぞう、ほんとうにィ、屑屋さんの久さん、知らねえかってんだ」

くううぅ、たまりませんなあ、志ん生。ぞっろぺいです。

https://www.youtube.com/watch?v=eFDS4J35ldU



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くわがた【鍬潟】落語演目

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【どんな?】

珍しい相撲ネタの噺です。
巨人と赤ん坊のような極端な対比の大一番。

【あらすじ】

身長が二尺二寸(68cm)という小さな男。

何か背が伸びる方法はないかと、隣の長屋の甚兵衛に相談した。

甚兵衛、
「背丈はどうにもならないが、おまえさんが奮起すれば、大男にも負けないだけの働きができる」
と言って、昔の大坂相撲の鍬潟という力士の話をする。

鍬潟も、なんと三尺二寸(97cm)の、超ミニサイズ力士。

ところが、ある時、江戸で無敵の大関雷電為右衛門を破って、満天下をあっと言わせた。

雷電は、六尺五寸(197cm)、四五貫(170kg)はあろうという、雲つく大男。

身長は、ゆうに倍以上、巨人と赤ん坊。

まともならぶつかっただけで、バラバラにされてしまう。

ところが、鍬潟、一計を案じて体中に油を塗り、立ち上がると土俵の中をチョロチョロと逃げ回る。

雷電、あせって捕まえようとするが、油でツルツル滑る上、なにせ小さいからどこにいるのかわからない。

さんざん追い駆けっこをした挙げ句、滑ってつんのめったところを、鍬潟が足にくいついたので、雷電たまらず土俵下へ、という、前代未聞の一番。

満場は爆笑の渦へ。

のちに、この雷電と義兄弟の縁を結び、名力士として名をなしたという話。

これを聞いて、小男は一念発起した。

「ワシも第二の鍬潟になれるかも」
と、相撲部屋に入って修行を積むが、ある日、稽古疲れで家に帰ると高イビキ。

起こされると、布団から手足が出ていたから、稽古のおかげで背が伸びたと喜んだ。

女房、
「足が出るわけさ。そりゃ座布団だもの」

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【しりたい】

大酒の甲斐もなく

原話は安永6年(1777)に大坂で刊行された笑話本『新撰噺番組』巻五の「一升入る壺は一升」です。

これは、子供並みに小さな男が、なんとか背を伸ばしたいと、日夜神に祈ると、ある晩、不思議な童子が夢枕に。童子は男に、「飯、餅、酒を一斗(10升=18L)ずつ飲食し、目覚めたあと背伸びをすれば、なんじの背は布団から足が出るくらいにはなるぞよ」と、妙なご託宣。男は下戸だったのに、大きくなりたい一心。命がけで酒をのみ干し、馬のように食らって目覚めると、アーラ不思議、本当に足がにゅっと布団の外へ。やれありがたいと狂喜して立ち上がると、背は元のまま。後ろを振り返ると、寝ていたのは座布団の上。

オチの部分がそっくりですが、この小咄の題は、しょせん、人には生得の定められた器しか与えられないという教訓でしょう。

円生の逃げ噺

上方噺で、東京にいつ移植されたかは不詳です。上方の演出では、発端が少し違っています。

道頓堀の芝居小屋に、関取が顔パスの無料で入場。見ていた二尺二寸の小男が、巨体の陰に隠れていっしょに入ろうとし、つまみ出されます。そこで、男がくやしがって一念発起。相撲取りになってやろうと決心するわけです。

東京では、大正から昭和初期に五代目三遊亭円生(村田源治、1884-1940、デブの)が得意にしました。五代目は「デブの円生」とあだ名されたほど、相撲取りなみに恰幅のいい落語家でした。

先の大戦後は、養子となった六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)が継承。客種が悪いときに演じる「逃げ噺」の一つにしていました。円生自身、相撲に造詣が深く、相撲ネタの「阿武松」「花筏」なども十八番でした。

類話「小粒」

類話「小粒」では、こうなります。

ある小男が大きくなりたい一心で芝山の仁王尊に願掛けします。すると、仁王さまが夢枕に立ち、「なんじの信心の威徳により、背丈を三寸伸ばしてとらす」とありがたいお告げ。目覚めて、半信半疑で足を伸ばすと、蒲団から足がニュッ。やれありがたやとはね起きると、布団を横にして寝ていた、というものです。

原話の形には、こちらの方が近いですが、オチのダメ押しが効いています。

上方噺「野崎まいり」

小男がからかわれる噺では、上方の「野崎まいり」があります。

野崎まいりの慣習、船上と土手の上の悪口合戦。船の小男がさんざん悪態をつかれ、くやしまぎれに「山椒は小粒で、ひりりと辛いわい」と言い返そうとして、「さんしょは、ええと、ひりりと辛いわい」。土手の男が、「やい、教えてもろたんならちゃんと言え。小粒が抜けとるわい」と言うと、小男、川の中をキョロキョロ探して「えっ? ど、どこに」

雷電について

雷電為右衛門(1767-1825)は信濃(長野県)出身。最高位は大関。松江藩主松平家の抱え力士で、怪力無双、優勝相当25回。生涯成績は254勝10敗2分14預かり5無勝負、勝率9割6分2厘。文化8年(1811)2月、43歳で引退。全盛時は197cm、170kg。43、44、38連勝、各1回。

横綱や大関には一度も負けず、生涯10敗は、小結に1敗した以外はすべて平幕や十両相手のポカ負けというところから、この噺のようなヨタ噺が考えられたのでしょう。

相撲至上最強といわれる、伝説の強豪ですが、横綱とならなかったのは、免許を出す吉田司家が外様の肥後細川家の家臣だったので、松平家が申請しなかったためと伝えられます。

鍬潟について

もちろん架空の力士です。

江戸時代には、小人力士や巨人力士、子供力士などを見世物的に巡業の看板にすることはあっても、実際に割りを組んで相撲を取らせることはしませんでした。

【語の読みと注】
雷電為右衛門 らいでんためえもん



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しょうふくていつるこう【笑福亭鶴光】噺家

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【芸種】落語
【所属】落語芸術協会 松竹芸能
【入門】1967年4月、六代目笑福亭松鶴(竹内日出男、1918-86)に、笑福亭鶴光で。68年2月、初舞台。88年、落語芸術協会に加入
【出囃子】春はうれしや
【定紋】五枚笹
【本名】小林幸男
【生年月日】1948年1月18日
【出身地】大阪府大阪市
【学歴】天王寺第二商業高校中退
【血液型】O型
【ネタ】試し酒 など
【出典】公式 落語芸術協会 Wiki
【蛇足】上方落語協会にも所属。下ネタ連発の大御所



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こうこうとう【孝行糖】落語演目



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【どんな?】

親孝行の与太郎が飴売りに。
長屋総出で応援する社会更生の麗しい一編。

あらすじ

今年二十一になるが、頭の中がうすぼんやりしている与太郎。

親孝行のほうびに、おかみから青緡五貫文あおざしごかんもんをちょうだいした。

大家がこれを機会に、この金を元手にして、なんとか与太郎の身の立つように小商いでも考えてやりたいと、長屋の衆に相談する。

一人が、昔、役者の嵐璃寛あらしりかん中村芝翫なかむらしかんの顔合わせが評判を呼んだのに当て込んで、璃寛糖りかんとう芝翫糖しかんとうという飴を売り出してはやらせた人がいるから、それにならって、与太郎に飴を売らせたらどうか、と提案。

璃寛糖は、頭巾ずきんをかぶりかねと太鼓を前につるして、
「チャンチキチン、スケテンテン」
というのを合い方に、
璃寛糖りかんとうの本来は、うるち小米こごめに寒ざらし、かやァに銀杏ぎんなん肉桂にっき丁子ちょうじ、チャンチキテン、スケテンテン。昔、むかし、唐土もろこしの、二十四孝にじゅうしこうのその中で、ほら老莱子ろうらいしといえる人、親を大事にしようとて、ほら、こしらえあげたる孝行糖、食べてみな、ほらおいしいよ、また売れたったら、うれしいねっ」
と歌って歩いたもの。今回、与太郎は孝行でほうびをもらったのだから、名前も「孝行糖」、文句はそっくり借りることにしよう、というので一同賛成し、それからというもの、総出で与太郎に歌を暗記させた。

ナントカの一つ覚えで、かえって普通の人より早く覚えたので、町内で笛、太鼓、身なりともにそっくりしたくしてやって、与太郎はいよいよ飴売りに出発。

親孝行の徳か、この飴を買って食べさせると子供が孝行になるという噂が広がって大評判。

売れると商売にも張り合いが出るもので、与太郎、雨の日も風の日も休まず、
「スケテンテン、コーコートー」
と流して歩く。

ある日、相変わらず声を張り上げながら、水戸さまの屋敷前を通りかかる。

江戸市中で一番やかましかったのがここの門前で、少しでもぐずぐずしていると、たちまち門番に六尺棒ろくしゃくぼうで「通れ」と追い払われる。

ところがもとより与太郎、そんなことは知らないから、能天気に
「孝行糖の本来は、粳の小米に寒ざらし……」
とやったから、門番、
「妙な奴が来たな。とおれっ」
「むかしむかし、もろこしの、二十四孝のその中で」
「行けっ」
「食べてみな、おいしいよ」
「ご門前じゃによって鳴り物はあいならん」
「チャンチキチン」
「ならんというんだ」
「スケテンテン」
「こらっ」
「テンドコドン」

……叱言を鳴り物の掛け声に使ったから、たちまち六尺棒でめった打ち。

通りかかった人が、
「逃げろ、逃げろ……どうぞお許しを。空ばかでございますが、親孝行な者……これこれ、こっちィこい」
「痛えや、痛えや」
「痛いどころじゃねえ。首斬られてもしょうがねえんだ。……どこをぶたれた」
と聞くと与太郎、頭と尻を押さえて
「ココォと、ココォと」

底本:三代目三遊亭金馬

しりたい

実在した与太郎

孝行糖売りは明治初期、大阪にいたという説があります。

実はそのずっと以前、弘化こうか3年(1846)2月ごろから藍鼠色あいねずいろ霜降しもふりたけのこを描いた半纏はんてんを着て、この噺の与太郎とまったく同じ唄をうたいながら江戸の町を売り歩いていた飴屋がいたことが、『藤岡屋日記ふじおかやにっき』に記されています。

政商だった藤岡屋由蔵よしぞうの見聞記です。まず、当人に間違いありません。

青緡五貫文

唐茄子屋政談」「松山鏡」にも登場しますが、銭五貫文は幕末の相場でおよそ一両一分。四千八百文にあたります。

現在の相場で約10万円。

それを青く染めた麻縄の銭挿し(これが青緡あおざし)に通して、孝行のほうびに町奉行より下されます。「青緡五貫文」といったら、なにか特別のことをしてお奉行さまから授かった特別な人、というイメージがついてまわるのです。

それにしても、賞状や勲章ではなくお金をくれるなんて、江戸幕府はずいぶん即物的な感覚だったのですね。

水戸さまの屋敷前

水戸藩の上屋敷。現在の後楽園遊園地、東京ドーム、小石川後楽園、飯田橋職業安定所を含む文京区後楽一丁目全部を占めました。

このうち、東京ドームの場所には、明治維新後、陸軍砲兵工廠こうしょうが建てられ、昭和12年(1937)、その移転後の跡地に旧後楽園球場が建設されました。

コワーイ門番

藩邸の門番は一般には身分は若党で、最下級の士分です。

水戸藩上屋敷は「日暮らし門」と呼ばれた華麗な正門が有名で、左甚五郎ひだりじんごろう作の竜の彫刻をあしらっていました。正門から江戸川堤まで「水戸さまの百軒長屋」といい、ずらりと中級藩士の住む長屋が続いていました。

門番だけでなく、こうした中・下級藩士による「町人いびり」も、ままあったようです。

これも上方由来

明治初期に作られた上方落語の「新作」といわれますが、作者は未詳。

三代目三遊亭円馬(橋本卯三郎、1882-1945)が東京に移植。

先の大戦後は三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)の十八番として知られ、二代目三遊亭金翁(松本 龍典、1929-2022、四代目金馬→)が継承して得意にしていました。

「本場」の大阪では、現在は演じ手がないようです。



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すねかじり【脛かじり】落語演目

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【どんな?】

怪談、はたかた食人譚か。
と思いきや。
ありゃりゃ、なーんだ、落語かよ。

別題:いろ屋の花嫁(上方) かいな食い(上方)

ライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ

【あらすじ】

勘当された若だんな。

今は居候の身だが、いっこうに改心するようすがない。

預かり先の亭主、このままではためにならないと、若だんなを目黒鬼子母神の近藤作右衛門方の婿養子に世話する。

実は、若だんなはもうとっくに偵察してあるが、そこの娘は婚期を逸してもう二十五、六になるものの、大変な美人。

おまけに資産もある。

ところが、亭主の言うには、縁がつかなかったにはわけがあり、原因は不明だが、今まで何度か婿を取ったものの、三日と居ついたことがない、という。

若だんなは、そんな話には耳を貸さず、色と欲との二人連れで、さっそく飛びついた。

順調に話がまとまり、さて、婚礼の晩。

仲人は宵の口と客が帰った後、いよいよ待ちに待った床入りという時になって、娘は
「これからちょっと用事がありますから、少しの間お暇を」
と、妙なことを言うと、部屋から出て行ってしまう。

スカタンを食わされた若だんな、こんな夜中にどこへ行くのかと跡をつけると、なんと新妻は鬼子母神の墓場へ。

見ていると、新仏の石塔をのけ、土饅頭の中に手を入れて、死人の手をむしゃむしゃ食らう。

「ははあ、さてはこれが婿の居つかなかった原因か」
と、若だんな、

部屋に逃げ戻ってガタガタ震えていると、女が戻ってきた。

「あたしはもう寝ないで神田に帰ります。命ばかりはお助けを」
「さては、私が墓場でやっていたことを」
「へえ、なにかおいしそうにお召し上がりで」

女は、
「見られたのならしかたがありません。私は子供のころから、どういうわけか人の肉が好きで、母親に、代わりにザクロを食べさせられていたのですが、両親が鬼子母神に願掛けをして授かった子なので、その因果か人肉の味を思い切れません。それさえがまんしてくれれば、どんなことをしてでもあなたに尽くします」
と誓ったので、若だんなも承知して、めでたく夫婦になる。

「私もずいぶん人を食っていると言われるが、いったい、体のうちじゃあ、どこが一番おいしいんでしょう」
「そうですね、まず腕が一番です」
「それは無理もない。あたしも親父の脛をかじった」

うんちく

上方落語を改作 【RIZAP COOK】

オチの部分の「親のすねをかじる」の原話は、安永3年(1774)刊『茶のこもち』中の「子息」。

別の原話として、宇井無愁(宮本鉱一郎、1909-92、上方落語研究)は、安永同5年(1776)刊『売言葉』中の「猫また」を挙げています。これは、遊女と同衾中の男が、夜中に、女が行灯の陰で人の腕をむさぼり食っているのを目撃、これは猫またかと恐れおののきますが、翌朝見ると、それはトウモロコシの殻だった、というオチで、「脛かじり」との関連性は薄いようです。

上方落語「かいな食い」「いろ屋の花嫁」が、明治中期に東京に移植されたもので、初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)が鬼子母神伝説を加味して改作しました。明治23年(1890)の円遊の速記が残っており、移植者も円遊かと思われますが、はっきりしません。

上方の「かいな食い」は伝説とは無関係で、勘当された若だんなが養子に行く設定は同じですが、女は単に人間の生血、死血を吸いたい病で、赤子の死骸を棺桶(または墓地)から引きずり出して食らうなど、よりリアルで、猟奇性が強いものとなっています。

現在、演じ手は東西ともに絶えています。

鬼子母神伝説 【RIZAP COOK】

鬼子母神とは、インドの仏教説話中の鬼女です。サンスクリット語でハーリーティといい、「歓喜母」「愛子母」とも記されています。

インド、王舎城の夜叉(鬼神)の娘で、絶世の美女でしたが、鬼神の王、般闍迦の妻になり、千人(一説に一万人)の子を産みました。人の子(一説に自分の子)を殺して食べるのを常としていたので、人々はおそれおののき、仏陀にすがると、仏陀は、鬼子母神がかわいがっていた末子の嬪迦羅を隠します。鬼母は狂乱し、仏陀を訪ねて助けを乞うと、仏陀は「千(万)の子がいてさえ、たった一人の子を失ってそなたは悲しんでいるが、多くて五、六人しかいない子の一人を殺された母親の悲しみを考えねばならない」と諭しました。鬼母は、今後決して子供を食うことはせず、すべての子供の守護神となることを誓ったので、仏陀は嬪迦羅を返してやりました。

仏陀が、また病気が出ぬようにと、味と色が人肉に似たザクロの実を与えたことから、鬼子母神像は、常に右手に吉祥果を持ち、左手に子供の嬪迦羅を抱いています。鬼女像もありますが、多くはギリシアのアフロディテを思わせる豊満な美女像とされます。

「清正公酒屋」で、せがれがおやじに鬼子母神伝説を説明し、「あたしは千人どころか一粒種だから、勘当なんぞはできません」と開き直る場面がありますが、日本でも鬼子母神は子授け、安産、幼児養育の守り神として各地で信仰されています。

鬼子母神を祀るのは神社ではありません。仏教説話由来ですから、とうぜんお寺です。しかも、日蓮宗が率先して鬼子母神をまつります。鬼子母神の名称が落語などに出てくれば、日蓮宗の教えやお寺を想起すると噺の理解が早いでしょう。

死体嗜好 【RIZAP COOK】

バーバリズム(人肉食)は、死体嗜好症(ネクロフィリア)と結びついてヨーロッパ各地にも多く、しばしば猟奇的な殺人事件が報告されますが、一種の精神障害といわれます。

【語の読みと注】
嬪迦羅 ビャンガラ
腕 かいな
般闍迦 ハンジャカ
吉祥果 きっしょうか:ザクロ

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よりあいざけ【寄合酒】落語演目

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【どんな?】

金がないのにわいわいがやがや。
がさつで喧しくてにぎやかな噺。

別題:ん廻し 田楽食い(上方)

【あらすじ】

町内の若い衆が、金がないので肴をめいめい持ち寄りでのむことにしたが、これが大混乱。

数の子を煮てしまう奴がいたり、山芋を糠味噌に漬けたり、せっかく乾物屋の餓鬼をチョロまかしてせしめた鰹節を、二十本もいっぺんにかいてしまって、大釜でグラグラ。

うどん屋をやるんじゃないと、ぼやいていると、そのダシで行水してしまい、後は全部捨ててバケツ一杯だけ残した奴が現れ、世話人は頭を抱える。

しかたがないのでそのバケツを持ってこいと言うと、いま褌を洗濯しているのがいると、いう。

「すまねえ。知らないから。絞って持っていこうか?」
「冗談じゃねえ」

とっておきの鯛は、料理しているところにどこかの犬がきて、ちょんと座って動かないので、
「そんなのは頭を一発食らわして追っ払え」
と言われて頭を食べさせ、
「胴体を食らわせろ」
と言うから胴体をやってしまい、まだ動かないので尻尾まで食らわせて、とうとう全部犬の腹へ。

大騒ぎしているところへ豆腐屋から田楽が焼き上がってくる。

運がつくように、「ん」がつく言葉を一つ言うごとに田楽を一枚食わせると取り決めた。

各自ない頭を絞り、しまいには
「オレ、せんねんしんぜんえんのもんぜんにげんえんにんげんはんみょうはんしんはんきんかっぱんきんかんばんぎんかんばん、きんかんばんこんぼんまんきんたんきんかんばんこんじんはんごんたんひょうたん、かんばんきほうてん」
とお経のような文句を一息に並べ立て、五十六本せしめる奴も出る始末。

負けずに、算盤を用意しろと大きく出た男
「半鐘でジャンジャン、ボンボンボン、あっちでジャンジャンジャンジャン、こっちでジャンジャンジャンジャンジャン、消防自動車が鐘をカンカンカンカンと五百」
「おい、こいつに生の田楽を食わせろ」
「なぜ」
「消防のまねだから、焼かずに食わせるんだ」

底本:六代目三遊亭円生

【しりたい】

ルーツは元和年間

原話になる小ばなしは数多くあります。ルーツは古く、大坂夏の陣の終わった直後の元和年間(1615-24)に刊行された『戯言養気集』中の「うたの事」が最古の形です。

ここではすでに「ん」の音の入った単語を並べ、田楽を取り合うパターンが確立しています。

その後、寛永5年(1628)刊の安楽庵策伝(平林平太夫、1554-1642)著『醒睡笑』中の「児の噂」でも、僧たちの「ん」の字遊びの中に、田楽欲しさに稚児が割り込むという筋になっています。

小ばなしによっては「ん」の言い合いではなく、ゲームが謎掛けやダジャレ(たとえば医者の本尊で薬師如来=八串もらえるなど)になる場合もあります。

田楽食いのパターンは終始変わっていません。

初代春団治の十八番

上方噺では、「田楽食い」として長く親しまれ、後半の「ん」の字の言い合いから、「ん廻し」の別題もあります。

初代桂春団治(皮田藤吉、1878-1934)の爆笑編で知られ、レコードも残されています。

そのやり方が二代目桂春団治(河合浅次郎、1894-1953)、さらに三代目桂春団治(河合一、1930-2016)に継承されたほか、父の五代目笑福亭松鶴(竹内梅之助、1884-1950)譲りで、六代目笑福亭松鶴(竹内日出男、1918-86)も得意にしていました。

東京には明治期に移され、先の大戦後は、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)のものでした。

古くは、後半の「ん廻し」に重点が置かれました。

どちらかといえば近年、東京でさかんに演じられるようになって、前半の、材料をメチャクチャにするくだりがより派手に演じられるようになり、その分、笑いも多くなっているようです。

ますます短くなる噺

オチは、本来、この先があって、「矢を射て、当たるとタイコがドン、ドンドンドン……」と際限なく繰り返す男がいるので、「そんなにたくさんっじゃ、焼くのが間に合わねえ」「いいよ、焼かず(=矢数)で食う」というものでしたが、長くなるので春団治が現行のところで切り、円生もこれにならっていました。

田楽のくだりまでいかず、時間の関係でさらに短く切る場合も最近は多く、ますます本来の「ん廻し」の要素が薄れてきています。

田楽

起源については、「味噌蔵」で紹介した通りです。

なお、田楽は店構えの豆腐屋のほか、上燗屋じょうかんやとも呼ばれた屋台のおでん屋、田楽茶屋という専門店でも売っていました。

田楽茶屋は、出合茶屋であいぢゃや(ラブホテル)を兼業していることが多かったといいます。

田楽と男女の濡れ事、何か縁がなさそうでしっくりきませんが、なに、どちらも焼けることに変わりはないようで。

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にしきのけさ【錦の袈裟】落語演目

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【どんな?】

町内の若い衆が錦の褌締めて吉原に。
質流れの錦で仕立てた褌は一着足りず。
あぶれた与太は寺から錦の袈裟を。
蓋を開けたら与太ばかりがもてる。
異形の廓噺。上方から。

別題:金襴の袈裟 ちん輪 袈裟茶屋(上方)

【あらすじ】

町内の若い衆わけえし
「久しぶりに今夜吉原なかに繰り込もうじゃねえか」
と相談がまとまった。

それにつけてもしゃくにさわるのは、去年の祭り以来、けんか腰になっている隣町の連中。

やつらが、近頃、吉原で芸者を総揚げして大騒ぎをしたあげく、緋縮緬ひぢりめん長襦袢ながじゅばん一丁になってカッポレの総踊りをやらかして、
「隣町のやつらはこんな派手なまねはできめえ」
とさんざんにばかにしたという、うわさ。

そこで、ひとつこっちも、意地づくでもいい趣向を考えて見返してやろうということに。
相談の末、向こうが緋縮緬ならこちらはもっと豪華な錦のふんどしをそろいであつらえ、相撲甚句じんくに合わせて裸踊りとしゃれこもう、と。

幸い、質屋に質流れの錦があるので、それを借りてきて褌に仕立てる。

ただ、あいにく一人分足りず、少し足りない与太郎があぶれそうになった。

与太郎は、女郎じょおろ買いに行きたい一心。

鬼よりこわい女房におそるおそるおうかがいを立て、仲間のつき合いだというので、やっと許してもらったはいいが、肝心の錦の算段がつかない。

そこで、かみさんの入れ知恵を。

与太郎、寺の和尚に
「親類に狐がついたが、錦の袈裟を掛けてやると落ちるというから、一晩だけぜひ貸してくれ」
と頼み込むという作戦に。

なんとか、これで全員そろった。

一同、その晩は、予定通りにどんちゃん騒ぎ。

お引け前になって、一斉に褌一つになり、裸踊りを始めた。

驚いたのは、廓の連中一同。

特に与太郎のは、もとが袈裟だけに、前の方に袈裟輪けさわという白い輪がぶーらぶら。

そこで
「あれは、実はお大名で、あの輪は小便なさる時、お手が汚れるといけないから、おせがれをくぐらせて固定するちん輪だ」
ということになってしまった。

そんなわけで、与太郎はお殿さま、他の連中は家来だというので、その晩は与太郎一人が大もて。

残りは、全部きれいに振られた。

こうなると、おもしろくないのが「家来」連中。

翌朝。

ぶつくさ言いながら、殿さまを起こしに行く。

当人は花魁おいらんとしっぽり濡れて、
「起きたいけど花魁が起こしてくれない」
と、のろけまで言われて、踏んだり蹴ったり。

「おい花魁、冗談じゃねえやな。早く起こしねえな」
「ふん、うるさいよ家来ども。お下がり。ふふん、この輪なし野郎」

どうにもならなくて、「家来」は与太郎を寝床から引きずり出そうとする。

与太郎が
「花魁、起こしておくれよ」
「どうしても、おまえさんは、今朝ァ、帰さないよ」
「いけないッ、けさ(袈裟=今朝)返さねえとお寺でおこごとだッ」

底本:初代柳家小せん

【しりたい】

上方版の主人公は幇間

上方落語の「袈裟茶屋」を東京に移したものとみられますが、移植者や時期は不明です。

「袈裟茶屋」は、錦の袈裟を借りるところは同じですが、登場するのはだんな二人に幇間ほうかん(たいこもち)で、細かい筋は東京の噺とかなり違います。

東京のでは、いちばんのお荷物の与太郎が最後は一人もてて、残りは全部振られるという、「明烏」と同じ判官ほうがんびいき(弱者に味方)のパターンです。

上方では、袈裟を芸妓げいこ(芸者)に取られそうになって、幇間が便所に逃げ出すというふうに、逆にワリを食います。

東京では、この噺もふくめて、長屋一同が集団で繰り出すという設定が多いですが、上方はそれがあまりなく、「袈裟茶屋」でも主従3人です。

このように、一つ一つの噺を比較しただけでも、なにか東西の気質かたぎ(気風)の違いがうかがわれますね。

基礎づくりは初代小せん

四代目橘家円蔵(松本栄吉、1864-1922、品川の師匠)の速記を見ると、振られるのは色男の若だんな二人、主人公は熊五郎となっています。

東京移植後間もなくの頃で、大阪の設定に近いことがわかります。

円蔵のでは、オチは「そんなら、けさは帰しませんよ」「おっと、いけねえ。和尚へすまねえから」となっています。

これを現行の形に改造したのは、大正期の初代柳家小せん(鈴木万次郎、1883-1919、盲小せん)とみられます。

先の大戦後、この噺の双璧だった五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)は、ともに若手のころ、小せんに直接教わっています。

それが現在も、現役の噺家に受け継がれているわけです。

かっぽれ

幕末の頃、上方で流行した俗曲です。「活惚れ」と書きます。

江戸初期、江戸にみかんを運んだ大坂の豪商・紀伊国屋文左衛門をたたえるために作られたものが、はじまりなんだそうです。

かっぽれかっぽれ
甘茶でかっぽれ
塩茶でかっぽれ
沖の暗いのに白帆が見える
ヨイトコリャサ
あれは紀の国
みかん船

こんな歌詞に乗って珍妙なしぐさで踊るもので、通称「住吉踊り」。

明治初期に東京で豊年斎梅坊主ほうねんさいうめぼうず(松本梅吉、1854-1927、初代かっぽれ梅坊主)が、願人坊主の大道芸だったかっぽれ芸をより洗練された踊りに仕上げて大流行しました。

新富座では九代目市川団十郎(堀越秀、1838-1903)も踊りました。

尾崎紅葉(尾崎徳太郎、1868-1903)も、じつは若い頃には梅坊主に入門していたんだとか。

尾崎紅葉は、「金色夜叉」で一世を風靡した明治の小説家です。

この作品、じつはアメリカの小説に元ネタがあったことがすでにわかっていますが、それは別の機会に記しましょう。

紅葉は、若気のいたりだったのでしょうか。

袈裟

サンスクリット語(梵語)の「カサーヤ(kasaya)」からきています。もとの意味は煩悩ですが、そこから不正雑色の意味となります。「懐色」と訳しています。

なんだか、わかったようなわからないような。

インドやチベットでは、お坊さんの服のことです。

中国や日本では、左肩から右腋の下にかけて衣の上をおおう長方形の布をさします。

これは、青、黄、赤、白、黒の五色を使わずに、布を継ぎ合わせます。

大小によって、五条、七条、九~二十五条の三種類があります。三番目の九~二十五条のタイプが錦の袈裟といわれるものです。

こんな具合ですから、国や宗派によってさまざまな種類が生まれました。

与太郎が借りたのは上方題の「ちん輪」ですから、輪袈裟わげさという種類のものです。

これは、天台宗、真言宗、浄土真宗で使われています。禅宗で使われるような、威儀細いぎぼそ掛絡からといった略式のものもあります。

貪欲どんよく瞋恚しんい(怒り)・痴愚ちぐの三毒を捨て去ったしるしにまといます。

僧侶の修行が進み、徳を積んで悟りを開くにしたがって、まとう袈裟の色も変わります。

緑→紫→緋といった具合に。

甚句

甚句郎の略で、幕末に流行した俗謡です。

七七七五調で四句形式が普通ですが、相撲甚句は七五調の変則で長く「ドスコイドスコイ」の囃しことばがつきます。

これを洗練したものが、三味線の合い方(伴奏)でお座敷で唄われました。

【蛇足】

ついでに生きてる与太郎が女にもててしまう。珍しい噺だ。

もてるはずもない男が遊び場に行ったら仲間よりもててしまったというプロットは、どこか「明烏」にも似ている。

若い衆が派手に息張る雰囲気は、いまも下町あたりでは飽かず繰り広げられている。下町風土記なのだ。

ばかばかしいが、当人たちには男気を張る勢いなのだろう。

落語の格好の題材となる。

海賀変哲は『落語の落』で、「褌のくだりであまり突っ込んで話すと野卑に陥る点もあるから、そのへんはサラサラと話している」と書いている。

たしかに、褌やら吉原やらが出てくるのだから、そこにこだわると善男善女の集う寄席では聞けたものでなくなる。

「ちん輪」という野卑な別題もある。

この噺は初代柳家小せん(鈴木万次郎、1883-1919、盲小せん)が絶妙だったという。

大正8年(1919)の小せんの速記を読んでも、いまのスタイルと変わらない。

会話の応酬と洒落の連発で、スピーディーなのだ。

五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)や六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)は、小せんから習った。

円生の師匠は四代目橘家円蔵(松本栄吉、1864-1922、品川の師匠)で、当時100人以上の弟子を擁する巨大派閥の領袖だった。

円蔵もこの噺が得意だったのに、円生は人気の小せんから習っている。

この噺は、上方でも「袈裟茶屋」として演じられる。上方から東京に流れた説と、東京から上方に流れた説があるらしいが、どうだろう。

どちらでもかまわない。笑うにはおかまいなしだし。いいかげんなものなんだなあ。

古木優

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きくえのぶつだん【菊江の仏壇】落語演目

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【どんな?】

上方噺の傑作です。
東京ではあまり聴きません。
大ネタです。

別題:仏壇 白ざつま

あらすじ

ある大店のだんな。

奉公人にはろくなものも食わせないほどケチなくせに、信心だけには金を使う。

その反動か、せがれの若だんなは、お花という貞淑な新妻がいるというのに、外に菊江という芸者を囲い、ほとんど家に居つかない。

そのせいか、気を病んだお花は重病になり、実家に帰ってしまった。

そのお花がいよいよ危ないという知らせが来たので、だんなは若だんなを見舞いに行かせようとするが、番頭に、もしお花がその場で死にでもしたら、若だんなが矢面に立たされて責められると意見され、ふしょうぶしょう、自分が出かけていく。

実はこれ、番頭の策略。

ケチなだんながいないうちに、たまには奉公人一同にうまいものでもくわしてやり、気晴らしにぱっと騒ごう、というわけ。

若だんな、親父にまんまと嫌な役を押しつけたので、さっそく、菊江のところに行こうとすると番頭が止める。

「大だんなを嫁の病気の見舞いにやっておいて、若だんなをそのすきに囲い者のところへ行かせたと知れたら、あたしの立場がありません、どうせなら、相手は芸者で三味線のひとつもやれるんだから、家に呼びなさい」
と言う。

それもご趣向だと若だんなも賛成して、店ではのめや歌えのドンチャン騒ぎ。

そこへ丁稚の定吉が菊江を引っ張ってくるが、夕方、髪を洗っている最中に呼びに来られたので、散らし髪に白薩摩の単衣という、幽霊のようなかっこう。

菊江の三味線で場が盛り上がったころ、突然だんなが戻ってきたので、一同大あわて。

取りあえず、菊江を、この間、だんなが二百円という大金を出して作らせた、人の二、三人は入れるというばかでかい仏壇に隠した。

だんな、
「とうとうお花はダメだった」
と言い、かわいそうに、せがれのような不実な奴でも生涯連れ添う夫と思えば、一目会うまでは死に切れずにいたものを、会いに来たのが親父とわかって、にわかにがっくりしてそのままだ。

「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」
と、番頭がしどろもどろで止めるのも聞かず、例の仏壇の扉をパッと開けたとたん、白薩摩でザンバラ髪の女。

「それを見ろ、言わないこっちゃない。お花や、せがれも私も出家してわびるから、どうか浮かんどくれ、浮かんどくれ、ナムアミダブツ、ナムアミダブツ」
「私も消えとうございます」

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しりたい

源流は男色もの

直接の原話は文化5年(1808)刊『浪花みやげ』中の「ゆうれい」で、すでに現行の落語と筋はほとんど同じです。

これにはさらに原型と思われる笑話があり、享保16年(1731)ごろ刊の『男色山路露』中の「謡による恋」がそれです。

これは、出典の書名から見てもわかるとおり、今でいうハードゲイのたぐい。

ある男が野郎(役者で男娼)を自宅に引き込み、よろしくお楽しみの最中、おやじが突然帰宅。あわてて男娼を仏壇に押し込みますが、「風呂敷」よろしく、おやじがその前に居座るので、出るに出られない男娼、そのうち小便がしたくなって……という、あまり趣味のよくないお笑いです。

上方の大ネタ

本家は上方落語で、大阪では三代目桂米朝(中川清、1925-2015)初め、三代目桂春団治(河合一、1930-2016)、五代目桂文枝(長谷川多持、1930-2005)など、上方を代表する実力者しかこなせない切りネタ(大ネタ)です。

上方の舞台は船場の淀屋小路で、菊江はキタの新地の芸妓という設定になります。

東京版は馬生が復活

東京には明治20年代に初代三遊亭円右(沢木勘次郎、1860-1924、→二代目円朝)が「白ざつま」の演題で東京に移植したといわれます。

明治29年(1896)に、円右と同門(円朝)で、当時上方で活躍していた二代目三遊亭円馬(竹沢釜太郎、1854-1918)が「白ざつま」の題で口演した速記が残っています。

東京ではその後あまり演じ手はなく、途絶えていたのを十代目金原亭馬生(美濃部清、1928-82)が元の「白ざつま」の題で復活しました。

桂歌丸(椎名巌、1936-2018)も手掛けていました。

白薩摩

薩摩がすりは本来は琉球(沖縄)産。

薄い木綿織物で、白地のものは夏の浴衣などに用いられます。「佃祭」の次郎兵衛もこれを着ていたのが原因で、幽霊に見違えられました。

死人の経帷子は、普通、絹もしくは麻で作るので材質は違いますが、同じ単衣で白地ということで、その上ザンバラ髪なので、幽霊と間違えるのは無理もありません。

【語の読みと注】
経帷子 きょうかたびら

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かぼちゃや【かぼちゃ屋】落語演目



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【どんな?】

とんまな奴。
なんだか味わい深くてほのぼの。
唐茄子はかぼちゃのことです。
与太郎噺。

【あらすじ】

二十歳になっても、頭に霧がかかっている与太郎。

おじさんが心配して、商売を覚えさせようと、唐茄子とうなすを売らせることにした。

元値が大が八銭、小七銭。

勘定のしやすいように、大小十個ずつかごに振り分けてやり、
「これは元値だから、よく上を見て(掛け値をして)売れ」
と、よく言い聞かせて送り出す。

与太郎、裏通りでいきなり
「かぼちゃぁ」
と蛮声を張り上げたので、そこにいた男、自分の顔を言われたと思って目を白黒。

「へっ、かぼちゃよりジャガイモに似てらぁ」

品物は新しいかと聞かれて
「新しいとも。今まで生きてた」

大二つ買って
「二十銭で釣りをくれ」
と言うと
「釣りはねえから、二十銭にまけとかぁ」

上にまける始末。

「上を見て」がわからないから、もとの七銭と八銭で売って、文字通り平和に空を見上げている。

見かねて男が相長屋の衆に売りさばいてくれ、安いからたちまち売り切れたが、もうけは一銭もなし。

おじさん、ようすを聞いて
「おまえのばかは慢性だな」
万世橋まんせばしの次は須田町すだちょう
「停留所じゃねえ」

そんなことじゃ女房子が養えないからもう一度行ってこい、と追い出す。

もとの所へ来ると
「唐茄子ばっかり食っちゃいられねえ。まあ安いから、八銭のをまた三つ」
「今度は十銭」

掛け値の意味を教わったと聞き、
「ぼんやりだな。おまえ、いくつだ?」
「六十だ」
「見たとこ二十歳ぐれえだな」
「二十は元値で、四十は掛け値だ」

【しりたい】

もとは「みかん屋」

上方の「みかん屋」を、四代目柳家小さん(大野菊松、1888-1947)が小三治時分の大正初年に東京に移しました。

小さんも当初は「みかん屋」でしたが、日本橋常盤木倶楽部ときわぎくらぶでの第一次落語研究会で、売り物を唐茄子に変えました。

「みかん屋」で与太郎が「今年のみかんは唐茄子のように大きい」と言うくすぐりがあります。

初代三遊亭円右(沢木勘次郎、1860-1924)が人情噺の「唐茄子屋政談」を得意にしていたこともあり、洒落で変えてみたと、小さんは語っています。円右は当時の大看板で、円朝の孫弟子です。二代目円朝を継いだのですが、高座に上がることなく亡くなりました。

オチも含め、大筋は売り物が違うだけで、「みかん屋」もまったく変わりません。

東京では五代目小さん(小林盛夫、1915-2002)とその門下に伝わり、CDでは五代目と談志のものがありますが、現在の上方ではあまりやり手がいないようです。

原話は『醒睡笑』

オチの「掛け値」のくだりの原話は、安楽庵策伝の『醒睡笑』(「子ほめ」参照)巻五「人はそだち」第十九話です。

あきんどの持ちたる子を見て、「これの息子は、ことしいくつぞや」。 親のいひける、「あれはそら値十三といふて、定の値十二ぢゃ」。

唐茄子野郎と言われたら

唐茄子はかぼちゃを小型化し、甘味を強くした改良品種で、明和年間(1764-72)から出回りました。

唐茄子もかぼちゃも、初物でも安値で、「初かぼちゃ女房はいくらでも買う気」という川柳があります。

そのせいか、「かぼちゃ(唐茄子)野郎」といえば、安っぽい間抜け野郎の代名詞。

与太郎が唐茄子を売らされるのには必然性があるわけです。

五代目小さんのくすぐり

●おじさんが小言で与太郎に

おじ「遊んでちゃなあ、飯が食われない。なんで飯を食うか知ってるか?」与太「箸と茶碗じゃねえか」
おじ「当たりめえだ」
与太「だって、ライスカレーはシャジで食う」

●かごが空になって

客「ありがとうございますとか、なんとか言え」
与太「どういたしまして」



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しびん【尿瓶】落語演目



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【どんな?】

江戸期に知らない人がいるなんて!
現代とおんなじじゃないですか。
この噺のおかしみはどう伝えられるのかな。

別題:花瓶 尿瓶の花生け(上方)

【あらすじ】

田舎の侍が、道具屋をあさると、古いしびんを見つけた。

侍、これを花瓶と間違えて、
「明日国元に帰るが、土産物にしたいからぜひほしい」
という。

道具屋が
「それはしびんでございます」
と正直に言っても
「ああ、しびんという者が焼いたか」
と、いっこうに通じない。

そこで道具屋の安さん、このばかを一つ引っかけてやれと
「これは日本に二つとないものでございます。だんなさなのお目利きには感服いたします」
とおべんちゃらを並べ、
「五両」
と吹っ掛ける。

知らぬほど怖いものはなく、侍は
「安い」
と喜び、即金で買っていった。

花瓶と勘違いして、侍が宿で花をいけていると、知り合いの本屋があいさつに来て、
「それは小便をするしびんでございます」
と教えたから、さあ怒ったのなんの。

道具屋にどなり込み、
「手討ちに致すから首を出せ」
と刀の柄に手を掛けたから、安さんは真っ青になって震えた。

「病気の老母に、朝鮮人参という五両もする高い薬をのまさなければなりません。その金欲しさ、悪いこととは知りながら、ただのしびんを五両でお売りしました。母の喜ぶ顔を見ますれば、もうこの世に思い置くことはございませんから、その時まで命を預けてください」

もちろん、その場からドロンするつもりでのウソ八百。

侍は
「孝行のためとあらばさし許す」
と帰っていった。

おふくろなんぞ、もう三年前に死んでいる。

隣の吉つぁんが騒ぎを聞きつけてやって来て
「おい、首ゃあついているかい。それにしてもさすがはお侍、よく代金を返せと言わなかったな」
「それもそのはず。小便(売買契約破棄)はできねえ。しびんは向こうにある」

【RIZAP COOK】

うんちく

朝鮮人参  【RIZAP COOK】

時代劇に登場する、高価な薬といえばこれ。享保年間(1716-36)に種子が朝鮮から渡来しました。

根を乾燥したものが、漢方薬に用いられます。

肝心の薬効は、強壮・健胃などで、疲労や虚脱、胃腸虚弱などに効果があるとされますが、むろん万能薬ではありません。

「仮名手本忠臣蔵」七段目の大星由良之助に、「人参のんで首くくるようなもの」というセリフがあります。

これは、高価な人参を無理して手に入れて病人が回復しても、べらぼうな薬代の借金で結局は首をくくらなければならない、という皮肉で、ムダな骨折りという意味のことわざになっています。

この程度の薬でも町人にとっては「高嶺の花」で、江戸時代では事実上、無医、無薬同然、病気になればほとんどが「はいそれまでよ」だったわけです。

しびん  【RIZAP COOK】

「しゅびん」ともいい、昔は陶製でした。

八代目桂文楽(並河益義、1892-1971)もマクラで説明しているのですが、江戸時代は瀬戸物屋で、たかだか20-25文が相場。

日用品なので、いくら侍でも知らないのはおかしいと言えなくはありません。

現代同様、元来病人、老人の使うものなので、どこの家にもあるという品ではありませんでした。

文楽の隠れた十八番  【RIZAP COOK】

三代目三遊亭円馬(橋本卯三郎、1882-1945、大阪→東京)が、大阪在住中に仕込んだ上方落語「しびんの花活け」を東京風に直しました。

円馬に芸を仕込まれた八代目桂文楽が直伝で継承、十八番の一つに仕立てたものです。

文楽在世中は、東京ではほかにやり手はありませんでした。

本家の大阪では、橘ノ円都(池田豊次郎、1883-1972)が持ちネタとし、道具屋は大坂の日本橋筋の露店、武士は鳥取藩士で演じました。

演題は「こいがめ」と同様に汚いので、「花瓶」で演じられることもあります。

「小便」はご法度  【RIZAP COOK】

買わずに逃げる意味の「小便」は、もともと江戸ことばですが、現在でも業界では普通に使われているようです。

道義的には、商取引上は一種の詐欺行為と見なされるので、「引っ掛ける」から「小便」としゃれたものでしょう。

もとは、露天商などの符丁でした。

「左少弁」は、どうも怪しいものです。

「小便」の由来  【RIZAP COOK】

原話は、宝暦3年(1753)刊の『軽口福徳利』中の「しゆびん」、続いて同13年(1763)刊『軽口太平楽』中の「しゅびんの花生」があげられます。

いずれも大坂ルーツです。

もっとも古い原型には、元禄7年(1694)、江戸で刊行の『正直咄大鑑』赤之巻四「買て少弁」中の「商人の物売にねをつけてまけたるとき、かわぬを江戸ことばにしやうべんのするといふ由来」という、長ったらしい題の小咄もみられます。

これは、左少弁道明卿という公家の家人が主命で江戸に下り、日本橋の骨董屋でさんざん値切ったあげく買わなかったことから、常識をわきまえないのを「少弁」→「しょうべん」と呼んだ由来話です。

これが「小便=買わずに行く」と転化したわけでしょうが、ともかく現行のオチの部分の元となっています。

宝暦年間の二つの原話は田舎者と無筆の者をからかう内容です。

前者は、田舎者がしびんを十個も買うのでわけを尋ねると、「故郷でそばを打つので、つゆを入れる猪口にする」という笑話。

後者は、逆に客がしびんと気付いて詰問するので、花瓶だとだまそうとした亭主がしどろもどろになり「いえ、そんな名のあるものではありません」とごまかすもの。

どちらも「小便」のくだりはありませんが、後者の方が現行により近い内容です。

【語の読みと注】
日本橋筋 にっぽんばしすじ

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かつぎや【かつぎ屋】落語演目

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【どんな?】

正月ネタの噺。
縁起でもないことばがドッカンドッカン。
「縁起かつぎ」の「かつぎ」です。

別題:七福神 正月丁稚(上方)

【あらすじ】

呉服屋の五兵衛だんなは、大変な縁起かつぎ。

元旦早々、番頭始め店の者に、
「元旦から仏頂面をしていては縁起がよくない」
「二日の掃き初めが済まないうちに、箒に触るのはゲンが悪い」
などと、うるさく説教してまわるうち、飯炊きの作蔵がのっそりと現れた。

「魔除けのまじないになるから、井戸神さまに橙を供えてこい」
と、言いつける。

「ただ供えるんじゃない。歌を添えるんだ。『新玉の 年立ち返る あしたには 若柳水を 汲みそめにけり、これはわざとお年玉』。いいか」

間もなく、店中で雑煮を祝う。

そこへ作蔵が戻ってきた。

「ご苦労。橙を供えてきたか」
「りっぱにやってきたでがす」
「なんと言った」
「目の玉の でんぐりげえる 明日には 末期の水を 汲みそめにけり、これはわざとお入魂」
「ばか野郎」

ケチを付けられて、だんなはカンカン。

そこで手代が、餅の中から折れ釘が出てきたのは、金物だけに金がたまるしるしと、おべんちゃら。

作蔵が、またしゃしゃり出た。

「そうでねえ。身上を持ちかねるというこんだ」

そうこうするうち、年始客が来だしたので、だんな自ら、書き初めのつもりで記帳する。

伊勢屋の久兵衛というと長いからイセキュウというように、縮めて読み上げるよう言いつけたはいいが、アブク、シブト(=死人)、ユカンなど、縁起でもない名ばかり。

それぞれ、油屋久兵衛、渋屋藤兵衛、湯屋勘兵衛を縮めたものだから、怒るに怒れない。

そこへ現れたのが、町内の皮肉屋、次郎兵衛。

ここのだんながゲンかつぎだから、一つ縁起の悪いことを並べ立て、嫌がらせをしてやろうという趣向。

案の定、友達が首をくくって死んだので弔いの帰りだの、だんながいないようだが、元旦早々おかくれになったのは気の毒だだのと、好き放題に言った挙げ句、
「いずれ湯灌場で会いましょう。はい、さようなら」

だんなはとうとう寝込んでしまう。

なお悪いことに、ゲン直しに呼んだはずの宝船絵売りが、値段を聞くと一枚シ文、百枚シ百文と、シばかりを並べるので、いらないと断ると、
「あなたの所で買ってくれなきゃ、一家で路頭に迷うから、今夜こちらの軒先を借りて首をくくるから、そう思いねえ」
と脅かされて、踏んだり蹴ったり。

次に、また別の宝船屋。

今度は、いろいろ聞くと家が長者町、名は鶴吉、子供の名は松次郎にお竹と、うって変わって縁起がいいので、だんなは大喜び。

たっぷり祝儀をはずむ。

「えー、ごちそうに相なりまして、お礼におめでたい洒落を」
「うん、それは?」
「ご当家を七福神に見立てましょう。だんなのあなたが大黒柱で大黒様、お嬢さまはお美しいので弁天さま」
「うまいねえ、それから?」
「それで七福神で」
「なぜ?」
「あとは、お店が呉服(五福)屋さんですから」

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【しりたい】

原話は多数

極端な縁起かつぎをからかった笑話は、各地の民話にも数多く残されていますが、笑話集で最古とみられる原典は、寛永5年(1628)刊の安楽庵策伝著『醒睡笑』巻一の「祝ひ過ぎるも異なもの」と題した一連の小咄とみられます。

この章は23話からなり、ほとんどがこの噺のプロット通り、主人公がせっかく縁起をかついでいるのに、無神経な連中に逆に縁起の悪いことばかり並べられて全部ぶち壊しになってしまうパターンです。

古くは、三遊亭円朝の速記もあります。

明治22年(1889)の二代目禽語楼小さん(大藤楽三郎、1848-98)の速記では「かつぎや五平」と題していますが、これは、「御幣かつぎ(=縁起かつぎ)」のシャレでしょう。

上方では丁稚が悪役

上方版の「正月丁稚」では、丁稚の定吉が不吉なことを並べる役で、後半は、番頭始め店の者がゲン直しに「裏を閉めて、裏閉め(=浦島)太郎は八千歳」など、厄払いのダジャレを並べます。

オチは定吉が、布団を出して「夜具(=厄)払いましょう」と言うもので、古い江戸落語の「厄払い」の類話にもなっています。

上方落語では、だんなが愛人にしている芸者の縁起かつぎをからかって、正月早々不吉なことばかり並べる「けんげしゃ茶屋」もあります。

古風な噺で、先代の桂文枝が絶品でしたが、「けんげしゃ」は京ことばで「かつぎや」と同じです。

元日は掃除は禁物?

江戸には古くから、元旦には箒を持たない(=掃除をしない)慣習がありました。

明和2年(1765)刊の『川柳評万句合勝句刷』に「箒持つ 下女は叱られ はじめをし」とあります。

このタブーのいわれはは不明確ですが、箒を逆さに立てて手拭いを被せ、客を早く帰らせるまじないがあったので、あるいは箒の呪力により、福の神を追い払ってしまうことをおそれたからかもしれません。

若柳水

わかやぎみず。若水ともいい、旧年の邪気を取り除き、人を若返らせる願いをこめた習慣です。

虫除け

むしよけ。腹痛を防ぐまじない。「わざと」は「心ばかりの」の意味です。

宝船の絵

正月になると、宝船売りが、七福神の乗った船の図に、廻文歌「長き夜の とをのねぶりの 皆目覚め 波のりぶねの 音のよきかな」を書き添えた刷り物を売り歩きました。

上から読んでも下から読んでも同じですね。

正月二日の夜、これを枕の下に引き、吉夢の初夢を見るようにとのまじないでした。

歌舞伎「松浦の太鼓」で、吉良邸討ち入り前夜、すす竹売りに身をやつした大高源吾(俳名子葉)が俳句の師宝井其角に出会い、其角の「年の瀬や 水の流れと 人の身は」という前句に「明日待たるる その宝船」と付け、密かに決意を披露する場があります。

類話「しの字ぎらい」

同じ題材を扱った噺に、隠居が、「死」につながるというので「し」のつく言葉を使うことを下男に禁止する類話「しの字ぎらい」があります。

これは、「かつぎや」の噺のマクラ及び最初の宝船屋とのくだりを独立、ふくらませたものと考えられます。

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ごんすけざかな【権助魚】落語演目

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【どんな?】

女通いのだんな、権助を金で口止め。
おかみさんは金で権助を吐かせようと。
権助、高額のだんなになびく。
田中さんと向島で網打ち、ということに。
権助は魚屋で鰹片身、伊勢海老、目刺し、蒲鉾を。
「どこの川に蒲鉾が泳いでる」
「網をブッて捕った時、みんな死んでた」

別題:熊野の牛王

【あらすじ】

だんながこのところ外に女を作っているらしい、と嗅ぎつけたおかみさん。

嫉妬しっとで黒こげになり、いつもだんなのお供をしている飯炊きの権助ごんすけを呼んで、問いただす。

権助はシラを切るので、饅頭まんじゅうと金三十銭也の出費でたちまち買収に成功。

両国広小路りょうごくひろこうじあたりで、いつもだんなが権助に「絵草紙を見ろ」と言い、主命なのでしかたなく店に入ったすきに逃走する事実を突き止めた。

「今度お伴をしたら間違いなく後をつけて、だんなの行き先を報告するように」
と命じたが……。

なにも知らないだんな。

いつもの通り、
「田中さんのところへ行く」
と言って、権助を連れて出かける。

この田中某、正月には毎年権助にお年玉をくれる人なので、いわば三者共謀だ。

例によって絵草紙屋の前にさしかかる。

今日に限って権助、だんながいくら言っても、
「おらあ見ねえ」
の一点張り。

「ははあ」
と察しただんな、手を変え、
「餠を食っていこう」
と食い気で誘って、餠屋の裏路地の家に素早く飛び込んだ……かに見えたが、そこは買収されている権助、見逃さずに同時に突入。

ところが、だんなも女も、かねてから、いつかはバレるだろうと腹をくくっていたので泰然自若たいぜんじじゃく

「てめえが、家のかみさんに三十銭もらってるのは顔に出ている。かみさんの言うことを聞くなら、だんなの言うことも聞くだろうな」

逆に五十銭で買収。

駒止こまどめで田中さんに会って、これから網打ちに行こうと、船宿から船で上流まで行き、それから向島に上がって木母寺もくぼじから植半うえはんでひっくり返るような騒ぎをして、向こう岸へ渡っていったから、多分吉原でございましょう、茶屋は吉原の山口巴やまぐちともえ、そこまで来ればわかると言え」
と細かい。

「ハァー、向島へ上がってモコモコ寺……」
「そうじゃねえ、木母寺だ」

その上、万一を考えて、別に五十銭を渡し、これで証拠品に魚屋で川魚を買って、すぐ帰るのはおかしいから日暮れまで寄席かどこかで時間をつぶしてから帰れ、とまあ、徹底したアリバイ工作。

権助、指示通り日暮れに魚屋に寄るが、買ったものはかつおの片身に伊勢海老、目刺しに蒲鉾。

たちまちバレた。

「……黙って聞いてれば、ばかにおしでないよ。みんな海の魚じゃないか。どこの川に蒲鉾が泳いでるんだい」
「ハア、どうりで網をブッて捕った時、みんな死んでた」

【しりたい】

ゴンスケは一匹狼?

権助は、落語国限定のお国訛りをあやつって江戸っ子をケムにまく、商家の飯炊き男です。

与太郎のように周りから見下される存在ではなく、江戸の商家の、旧弊でせせこましい習俗をニヒルに茶化してあざ笑う、世間や制度の批判者として登場します。「権助提灯」参照。

権助芝居」でも、町内の茶番(素人芝居)で泥棒役を押し付けようとする番頭に、「おらァこう見えても、田舎へ帰れば地主のお坊ちゃまだゾ」と、胸を張って言い放ち、せいいっぱいの矜持を示す場面があります。

蛇足ですが、少年SF漫画「21エモン」では、この「ゴンスケ」が、守銭奴で主人を主人とも思わない、中古の芋掘り専用ロボットとして、みごと「復活」を遂げていました。

作者の藤子・F・不二雄(藤本弘、1933-96)は大の落語ファンとして有名でした。ほかにも落語のプロットをさまざまな作品に流用しています。

「21エモン」は『週刊少年サンデー』(小学館、1968-69年)などで連載されました。

噺の成り立ち

上方が発祥で、「お文さん」「万両」の題名で演じられる噺の発端が独立したものですが、いつ、だれが東京に移したかは不明です。

明治の二代目三遊亭小円朝(芳村忠次郎、1858-1923)や二代目古今亭今輔(名見崎栄次郎、1859-1898)が「お文さま」「おふみ」の演題で速記を残しています。

前後半のつながりとしては、後半、「おふみ」の冒頭に権助が魚の一件でクビになったとしてつじつまを合わせているだけで、筋の関連は直接ありません。

古くは、「熊野の牛王ごおう(護符)」の別題で演じられたこともありました。

この場合は、おかみさんが権助に白状させるため、熊野神社の護符をのませ、それをのんで嘘をつくと血を吐いて死ぬと脅し、洗いざらいしゃべらせた後、「今おまえがのんだのは、ただの薬の効能書だよ」「道理で能書(=筋書き)をしゃべっちまった」と、オチになります。

絵草紙屋

役者絵、武者絵などの錦絵を中心に、双六や千代紙などのオモチャ類も置いて、あんどん型の看板をかかげていました。

明治中期以後、絵葉書の流行に押されて次第にすたれました。

明治21年(1888)ごろ、石版画の美女の裸体画が絵草紙屋の店頭に並び評判になった、と山本笑月(1873-1936)の『明治世相百話』(1936年、第一書房→中公文庫)にあります。

山本笑月は東京朝日新聞などで活躍したジャーナリスト。

深川の材木商の生まれで、長谷川如是閑(長谷川萬次郎、1875-1969)や大野静方(山本兵三郎、1882-1944)の実兄にあたります。

長谷川如是閑は日本新聞や大阪朝日新聞などので活躍したジャーナリスト、大野静方は水野年方門の日本画家です。

「おふみ」の後半

日本橋の大きな酒屋で、だんなが外に囲った、おふみという女に産ませた隠し子を、万事心得た番頭が一計を案じ、捨て子と見せかけて店の者に拾わせます。

ついでに、だんな夫婦にまだ子供がいないのを幸い、子煩悩な正妻をまんまとだまし、おふみを乳母として家に入れてしまおうという悪辣あくらつな算段なのですが……。

いやまあ、けっこう笑えます。おあとはどうなりますやら。

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かみそり【剃刀】落語演目

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【どんな?】

めったに聴けない珍品です。

別題:隠れ遊び 散髪茶屋 坊主の遊び 坊主茶屋(上方)

【あらすじ】

せがれに家を譲って楽隠居の身となったある商家のだんな。

頭を丸めているが、心は道楽の気が抜けない。

お内儀には早く死なれてしまって、愛人でも置けばいいようなものだが、それでは堅物の息子夫婦がいい顔をしない。

そこで、ピカピカ光る頭で、せっせと吉原に通いつめている。

今日も出入りの髪結いの親方といっしょに、夕方、紅灯の巷に繰り出した。

洒落っ気があり、きれい好きなので、注文しておいたヒゲ剃り用の剃刀を取りに髪結床に寄ったところ、親方が、吉原も久しぶりだからぜひお供を、ということで話がまとまったもの。

ところが、この親方、たいへんに酒癖が悪い。

いわゆる「からむ酒」というやつで、お座敷に上がってしこたま酒が入ると、もういけない。

花魁にむりやり酌をさせた上、
「てめえたちゃ花魁てツラじゃねェ、普通のなりをしてりゃあ、化け物と間違えられる」
だの、
「こんなイカサマな酒ェのませやがって、本物を持ってこい」
だのと、悪態のつき放題。

隠居がなだめると、今度はこちらにお鉢が回る。

「ツルピカのモーロクじじいめ、酒癖が悪い悪いと抜かしゃあがるが、てめえ悪いところまでのませたか、糞でもくらやァがれ」
とまで言われれば、隠居もがまんの限界。

大げんかになり、
「こんな所にいられるもんけえ!」
と捨てぜりふを吐いて、親方はそのまま飛び出してしまう。

座がシラけて、隠居はおもしろくないので、早々と寝ることにしたが、相方の花魁がいっこうにやってこない。

しかたなくフテ寝をして、夜中に目が覚めたとたん、花魁がグデングデンになって部屋に飛び込んでくる。

「だんな、お願いだから少し寝かしておくれ」
と、ずうずうしく言うので文句をつけると、
「うるさいよ。年寄りのくせに。イヤな坊さんだよ」
と、今度は花魁がからむ。

隠居は
「おもしろくもねえ。客を何だと思ってやがる。こんな奴には、目が覚めたら肝をつぶすような目に会わせてやろう」

持っていた例の剃刀で、寝込んでいる花魁の眉をソリソリソリ。

こうなるとおもしろくなって、髪も全部ソリソリソリソリ。

丸坊主にしてしまった。

夜が明けると、さすがに怖くなり、ひどい奴があるもの、隠居、はいさようならと、廓を脱出。

一方、花魁。

遣り手ばあさんに、
「お客さまがお帰りだよ」
と起こされ、寝ぼけ眼で立ち上がったから、すべって障子へ頭をドシーン。

思わず頭に手をやると
「あら、やだ。お客はここにいるじゃないか。じゃ、あたしはどこにいるんだろう」

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【しりたい】

原話の坊主は流刑囚

中国明代の笑話集『笑府』巻六で奇人変人の話を集めた「殊稟部」中にある「解僧卒」がネタ元、原典です。 

これは、兵卒が罪人の僧侶を流刑地まで護送する途中、悪賢い坊主は兵卒をうまく酔いつぶし、頭をくりくりに剃った上、自分の縄を解いてしばると、そのまま逃走。目覚めた兵卒が、自分の頭をなでてみて……という次第。オチは同じです。

江戸笑話二題 

江戸の笑話としては、正徳2年(1712)に江戸で刊行の『新話笑眉』中の「夜明のとりちがへ」がもっとも古い原話で、ついで寛政7年(1795)刊の『わらふ鯉』中の「寝坊」があります。

「夜明…」の方は、主人公は年をくって、もう売れなくなった陰間。このへんが見切り時と、引退披露を兼ねて盛大な元服を催し、したたかに酒をくらって酔いつぶれて寝いってしまいます。

朝目覚めて頭をなでると、月代を剃ってあるのでツルツル。寝ぼけていつもの癖でハゲの客と間違え、「もし、だんな。夜が明けました」。

それから八十年以上たった「寝坊」では、筋はほとんど現行の落語と同じで、主人公は坊主頭の医者。オチは、くりくり坊主にされた女郎が「ばからしい。ぬしゃ(=あなたは)まだ居なんすか(まだいたの?)」というもの。

志ん生演じた珍品

めったに聴けない珍品の部類です。

古くは四代目橘家円蔵(松本栄吉、1864-1922、品川の)の大正4年(1915)の速記が残っています。

先の大戦後では、「坊主の遊び」の題で五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)、二代目三遊亭円歌(田中利助、1890-1964)が時々演じました。

特に志ん生は、短い郭噺として好んで取り上げていたようです。

本あらすじも、志ん生の速記を参考にしました。

志ん生は、しばしばオチを「坊さん(お客)はここにいるじゃないか」と短く切り、前半に「三助の遊び」の発端部をつけるのが常でしたが、主筋とのつながりはなく、単に時間を埋めるだけのものだったようです。

円歌は、坊主遊びの本場であった品川を舞台にしていました。継承して、三遊亭円歌も演じていました。

あざとい上方噺

上方の「坊主茶屋」は、大坂新町の「吉原」が舞台。

ただし、吉原は、新町の外れの最下級の売春窟で、「お直し」に登場する羅生門河岸の蹴転けころというところ。

女もひどいのが多く、梅毒で髪の毛は抜け、眉毛もなければ鼻もない代物。これをあてがわれて腹を立てた客が、「どうせ抜けているのやから」ときれいにクリクリ坊主にしてしまうという、悪質度では東京の隠居の比ではない噺。

その鼻欠け女郎の付け鼻を、客が団子と間違えて食わされてしまう場面は、東京人には付いていけないあざとさでしょう。

オチはいろいろ

「あらすじ」のオチがもっともスタンダードですが、昔から、演者によって、微妙に違うニュアンスのオチが工夫されています。

上方のものでは、古くから「そそっかしいお客や。頭を間違えて帰りはった」というオチもよく使われ、そのほか「湯灌ゆかんして帰ってやった」(桂小文治)とか、「医者の手におえんさかい坊主にされたんや」(米朝)とかいうのもあります。

いずれにしても、「大山参り」の趣向と、「粗忽長屋」に似た異次元的錯覚を感じさせるオチを併せ持つ名品なのに、現在、あまり高座に掛けられないのは残念です。

頭丸めても

坊さんといっても、ここでは本物の僧侶ではなく、隠居して剃髪している商家のだんなが主人公です。江戸時代には東西とも隠居→剃髪の習慣は広く行われました。

隠居名を名乗ることも多く、上方では「○○斎」と付けるのが一般的でした。「斎」は「身を清めて神に仕える」意。

隠居すれば、俗世の煩わしさから離れて明窓浄机でひねもす穏やかに暮らすだろう、くらいの意味があるのでしょう。

ただ馬齢を重ねたからって、さほど変わるものではありませんが。

本物の坊主の方も、廓遊びにかけてはかなりお盛んで、女犯は表向きは厳禁なので、同じ頭が丸いということで医者に化けて登楼する不届きな坊主も多かったとか。

「中宿(=茶屋)の 内儀おどけて 脈を見せ」という川柳もあります。隠居の方も、「新造は 入れ歯はずして みなという」など、からかわれ放題。

まあ、おさかんなのはけっこうですが、いつの時代も、やはり趣味はトシ相応が無難なようです。

【語の読みと注】
お内儀 おかみ
紅灯の巷 こうとうのちまた
髪結床 かみゆいどこ
花魁 おいらん
相方 あいかた:相手。合方とも
遣り手 やりて
陰間 かげま:少年男娼
元服 げんぷく
月代 さかやき
蹴転 けころ

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くしゃみこうしゃく【くしゃみ講釈】落語演目

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【どんな?】

胡椒は南蛮渡来の高級品。
江戸ではすでに知られた調味料でした。

別題:くっしゃみ講釈(上方) 音楽会(改作) くしゃみ義太夫(改作)

あらすじ

ある講釈師の先生。

芸はたいしたことはないくせに気位ばかり高く、愛想がないので、町内の常連に嫌われている。

なにしろ、道で会うと、あいさつ代わりに頭をそっくり返らせるし、出番の時、客が寝ていると
「講釈が読みにくいっ。それほど眠たきゃ家へ帰って寝たらよかろう」
と嫌味を言って恥をかかせる。

そんなこんなで堪忍袋の緒が切れた二人組、どうにかして講釈が読めねえように妨害してやろうと相談した。

ぶん殴るのはたやすいが、芸人を殴ってもこっちが笑われる。

それより、高座の前にかぶりつきで陣取り、落語家と違って講釈師は釈台という机を置いているから真下が見えないのを幸い、胡椒の粉を下から一斉にぶっ放せば、きっとそいつを吸い込んで、むせてくしゃみが出て講釈が読めなくなる。

そこで、
「先生、この前は寝ていてすまねえことをした。こういううまい講釈は聞いてられねえから、おらァ帰る」
と立って、あと四、五人抱え込んでいっしょに立ち上がれば、高座はメチャクチャ。

それで意趣返しするという趣向。そこでみんな胡椒を買い込み、夜になると予定通り講釈場へ乗り込む。

そうとは知らない先生、例の通り張り扇で釈台バタバタたたき、
「……時は何時なんめり元亀三年壬甲の年十月十四日、武田晴信入道信玄、其の勢三万五千余人を引率して甲府を雷発に及び、遠州周知郡乾の城主天野宮内左衛門景連、蘆田下野守、この両人を案内者とし、先手山県三郎兵衛昌景に五千余騎を差し添えて、同国飯田、多々羅の両城攻めかかる……」
と、三方ヶ原の戦いを読み始めた。

「……これぞ源三位兵庫頭政入道雷円の御胤、甲陽にて智者の聞こえある……」
「それっ、やっつけろ」

そろそろ潮時とばかり、一人の合図で一斉に胡椒を扇で口座に扇ぎ上げる。

「……その下に黒糸おどしの大鎧、同じ毛五枚しころ、金の向い兎の前立打ったる兜を猪首にいか物づくりの太刀を横たえ、黒……ハックシ、羅紗の陣……ハクショ……黒唐革のサイハイハックシ、これではハックシ、とてもクシュッ、講釈はハックシ、よめまハクション、せん、今晩はこれで御免を」
「やい、ハックシハックシやりゃあがって。唾がはねたじゃねえか、まぬけ。明日は用があるから来られねえ。今夜中に戦の決着ゥ付けろい」
「だめです。外からコショウ(故障)が入りました」

底本:二代目三遊亭小円朝

しりたい

胡椒と日本人

胡椒の日本伝来は古く、平安時代初期にさかのぼるのだそうです。

もちろん、シルクロードから唐に伝来したもののおこぼれを、遣唐船あたりが持ち帰ったのでしょう。

その後、室町時代には、中国(明)経由でさかんに輸入され、主に僧坊で、精進料理の薬味として使われました。

江戸期に入って、海外渡航が禁止されるまでの間、ポルトガル船やオランダ船、スペイン船などが大量に持ち込み、いっそうの普及を見ました。

海外貿易が自由にできなくなると、胡椒の輸入量は激減し、その代用品として七色唐辛子が普及していったのです。

平戸藩主の松浦鎮信(1549-1614)が、オランダ貿易を平戸に誘致するために、慶長14年(1609)、胡椒を買い占め、そのため相場が高騰したといわれます。

近松門左衛門(1653-1724)の浄瑠璃中の詞章には「本妻の悋気とうどんに胡椒はお定まり」ともあります。

正徳3年(1713)3月初演の歌舞伎十八番「助六」でも、主人公が出前のうどんにたっぷり胡椒をふった上、くゎんぺら(かんぺら)門兵衛の頭にぶちまける場面があります。

当時はこうした食べ方が一般的だったのでしょう。

胡椒丸のみ

江戸には、うろ覚えを意味する「胡椒丸のみ」という俚諺がありました。「胡椒丸呑」です。

胡椒もかまずに丸のみしてはその辛さがわからないところから、物事をよく咀嚼、理解していないさまを言います。その発想、おもしろいですね。

初代春団治の十八番

本来は上方落語で、「くっしゃみ講釈」の題で親しまれました。

「芸のためなら女房も泣かした」、初代桂春団治(皮田藤吉、1878-1934)のお得意で、レコードも残されています。

春団治は「胡椒のこ」と言っています。

なるほど、これを聞くと、大阪人がしかつめらしい軍談講釈(師)を生理的に嫌ったのがよくわかります。

上方のやり方は、胡椒が売り切れていたので唐辛子粉をふりまき、「なんぞ、私に故障(=落ち度)があるのですか」「胡椒がないから、唐辛子をくべたんや」とオチになります。

三代目桂米朝(中川清、1925-2015)など、多くの演者が手がけてきました。

東京では三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)が得意にしていました。

金馬没後は、ほとんど、オチは大阪通りになっています。

改作として、二代目三遊亭円歌(田中利助、1890-1964)の「くしゃみ義太夫」、六代目春風亭柳橋(渡辺金太郎、1899-1979)の「音楽会」があります。



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たつみのつじうら【辰巳の辻占】落語演目



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【どんな?】

心中噺。
落語のは歌舞伎や文楽と違います。
本性丸出しで小気味よく。
辰巳とは東南。深川のことです。

別題:辻占 辻占茶屋(上方)

【あらすじ】

道楽者の猪之助が、おじさんのところに金の無心に来る。

辰巳(深川)の静というお女郎に首ったけで、どうしても身請けをして女房にしたいが、三百円の金が要るという。

つい今し方、猪之助の母親が来て、さんざん泣いて帰ったばかりなので、その手前、説教はしてみたものの、このおじさん、若いころ少しはその道に覚えのある身で、言って聞かせても当人がのぼせていて、どうにもならないと見て取ると、
「金を出す前に女の料簡を試してみろ」
と、一計を授ける。

翌日、猪之助がいやに深刻な顔で見世に現れた。

「どうしたの」
「実は借金が返せねえので、おじさんの判をちょろまかして金を融通したのがバレて、赤い着物を着なくちゃならねえ。この上は、死ぬよりほかないので、別れに来た」
「まあ、おまはんが死ぬなら、あたしも一緒に」

行きがかり上、そう言うしかしかたがない。

「それでいつ?」
「今晩」
「あら、ちょいと早過ぎるワ。日延べはできないの」
「できない」

……しまったと思ってももう遅く、その夜二人で大川にドカンボコンと身を投げることになってしまった。

静の方はいやいやながらなので、のろのろ歩いているうちに石につまづいて、
「あー、痛。この石がもっけの幸い」
とばかり、「南無阿弥陀仏」と声だけはやたら大きく、身代わりに石を川へドボーン。

男の方は、その音を聞いててっきり静が飛び込んだと思い込み、大変なことをしでかしたと青くなる。

「どのみち、オレは泳げねえ、でえいち、仕組んだおじさんが全部悪いんだから……どうしようか」
と迷ううち、こちらも石に蹴っつまづいて、
「……えい、そうだ。静、オレも行くからな……。悪く思うなよ」

やっぱり同じように身代わりに、石をドボーン。

静はこれを聞いて、
「あーら、飛び込んだわ。あのばかが。あー寒い。帰ろうっと」

両方がそろそろっと、寒さに震えながら戻ってくると、地獄宿の看板の行燈の前で、バッタリ。

「あっ、てめえ、静」
「あーら、猪之はん。ごきげんよう」
「ばか野郎。太ェアマだ」
「娑婆(しゃば=この世)で会って以来ねェ」

底本:四代目橘家円喬

【しりたい】

原話は男色の心中

最古の原話は、寛永13年(1636)刊の笑話集『きのふはけふのものがたり』」の一編です。

これは若衆と念者、つまり男同士の心中騒ぎです。衆道(男同士の性愛)です。

衆道は当時、一部の社会では一般的だったので、そこでは男同士の心中も珍しくありませんでした。

これが男女に変わったのは、宝永2年(1705)刊の初代露の五郎兵衛著『露休置土産』中の「心中の大筈者」です。

いやいやながらの心中行で、両人ともいざとなって逃げ出すという結末は、最初から一貫して同じです。

大阪では「辻占茶屋」と題し、音曲仕立てでにぎやかに演じます。

東京には明治中期に移植され、四代目橘家円喬(柴田清五郎、1865-1912)の速記が残っています。

先の大戦後は三代目桂三木助(小林七郎、1902-61)の十八番で、十代目金原亭馬生(美濃部清、1928-82)も得意としていました。

現在では、ほとんど手掛ける人がいなくなりました。滅びるには惜しい、なかなか小味で粋な噺なのですがね。

辻占

もとは、往来の人の言葉で吉凶を占うことです。ここでは、「辻占菓子」を指します。

せんべい、饅頭などの中に、恋占いのおみくじを入れたもので、遊里の茶屋などのサービス品でした。

噺の中で、主人公・猪之助が女を待つ間、退屈しのぎに菓子の辻占をひいてみる場面があることから、女の心を試すという展開とかけて、この題名がつけられました。

江戸時代には、町々を流し、おみくじを売り歩く「辻占売り」もいました。

辰巳

深川の岡場所(幕府非公認の遊郭)のこと。

深川は江戸の辰巳の方角(東南)にあたるので、こう呼ばれたのです。

元は洲崎すさきともいい、承応2年(1653)に富岡門前町が開かれて以来、「七場所」と称する深川遊郭が発展しました。

地獄宿

素人女性を使った、非合法の隠し売春宿のこと。地獄図を描いた絵看板が目印で、そこで「営業」する女を「地獄娘じごくむす」と呼びました。『東海道四谷怪談』にも出てきます。

オチで女が発する「娑婆しゃばで会って以来」というのは、遊里の通言で「お久しぶり」の意味です。

もとは、吉原を極楽に見立てて、その外の俗世間を「娑婆」と呼んだものです。



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おやこぢゃや【親子茶屋】落語演目

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【どんな?】

親父も粋な男でした、という、鉢合わせの噺。

あらすじ

ちょうど、夜桜も見ごろの春のころ。

せがれが吉原に居つづけして、三日ぶりに堂々と帰ってきたので、親父はカンカン。

「花見に行っていた」
とごまかすので、
「どこに泊まりがけで花見をしてくる奴がある。去年おふくろが死んだのだから、その分親父に孝行して心配をかけないようにするのが本当だ」
と説教し、
「今夜は無尽で遅くなるから、しっかり留守番して、どこへも出かけちゃあならねえ」
と言い置いて、出かけていく。

無尽の後世話人連中と一杯やって、すっかりご機嫌になった親父、ほろ酔いかげんで山谷から馬道の土手にかかると、急に吉原の夜桜が見たくなる。

大門を入ると、例によって大変なにぎわい。

つい、遊び気分にひかされて茶屋に入り、結局、芸者、幇間を揚げて、年がいもなく、のめや歌えのドンチャン騒ぎ。

一方、おもしろくないのが家に「監禁」されたせがれ。

どうせまた今夜、花魁と約束がしてあるので、親父が帰らないうちに、顔だけでも見せてこようと、番頭をゴマかして家を飛び出し、宙を飛ぶように吉原のなじみの茶屋へ。

お内儀に
「いつもの連中を呼んでくれ」
と言うと、
「あいにく今夜は六十ぐらいのご隠居さんが貸し切りで、幇間も芸者もみんなそっちのお座敷にかかりっきりで」という。

「へえ、粋な爺さんもいるもんだ、家の親父に爪のアカでものましたい」
と感心して、
「どうだい、それならいっそ、その隠居といっしょに遊ぼうじゃないか」
「ようございます」
とお内儀が座敷に話を通すと、親父も乗り気。

幇間が趣向をこしられ、チャラチャラチャンとお陽気な歌でステテコ踊りから、サッと襖を開けると、目の前にせがれ。

「お父っつぁん」
「清次郎か。ウーム、これから、必ずバクチはならんぞ」

【RIZAP COOK】

【しりたい】

原型をそのまま伝承  【RIZAP COOK】

親子でヘベレケとなる「親子酒」とともに、小咄としてはもっとも古典的で、原型がほぼそっくり、現行の落語に伝わっている数少ない噺です。

原話は明和4年(1767)刊の笑話本『友達ばなし』中の「中の町」。

落語としては上方種で、現在でも上方落語色が強く、四代目桂米団治を経て、高弟の桂米朝に伝わりました。

大坂の舞台は島之内の遊廓で、鳴り物入り、より華やかではでな演出がとられています。

東京は文治が代々明治期では、六代目桂文治の速記が残るほか、八代目文治も演じましたが、東京では手がける演者は少なく、大阪のものばかりです。

オチは「必ず飲み過ぎはならんぞ」とする場合もあります。

名物、吉原の夜桜  【RIZAP COOK】

仲の町の夜桜は、灯籠、吉原俄とともに吉原三大名物の一つでした。

起源は寛延元年(1748)、石井守英という絵師が江の島弁財天のご神体修復を志した時、吉原の廓主連がその費用を請け負い、江の島の桜は古来からの名物なので、それに便乗して翌年3月、修復後初のご開帳を前に廓内にも花を植えることにしたことに遡ります。

この植樹が宣伝を兼ねていたことは間違いなく、堺町の芝居ともタイアップして、華々しいイベントを繰り広げたことが、吉原細見に見えます。

明治中期には、三河島の植木屋惣八という者が毎年植樹を請け負っていたことが、六代目桂文治のマクラにあります。

無尽無尽講ともいい、講親と呼ばれる世話人が、仲間を集めて掛け金を募り、そのプールした金を講中の仲間が必要に応じて借り合うもの。

いわば共済基金のようなものです。定期的に寄り合いを開いて入札を行い、大山参り、富士まいりなどの費用としても利用されました。

頼母子講も同じようなものです。

六代目桂文治のくすぐり  【RIZAP COOK】

●若だんなが茶屋のお内儀に遅れた言い訳

「ジが起こった(=怒った)んで出られなかった」
「お痛みじゃありませんか?」
「その痔じゃねえ。オヤジだ」

茶屋にもいろいろありまして  【RIZAP COOK】

茶屋にはさまざまな種類がありました。美人ばかり雇っている店もあれば、表も裏も融通無碍な店も。

川柳が取り上げるのは、なかでも目立った印象に残る茶屋ということでしょうね。

べら坊で居所の無い二十軒   十一10

「二十軒」とは浅草仲見世の隣にあった「二十軒茶屋」の略称。最初は三十六軒あったので「歌仙茶屋」と呼ばれました。「お福茶屋」とも。享保年間に二十軒ほどになったので、こう呼ばれるようになりましたが、文化には十六軒、天保には十軒、明治30年には一軒に。それでも「二十軒」といえば、ここの茶屋をさしたそうです。美人を雇っていることが特徴でした。「二十軒=美人茶屋」というイメージでしょうか。これも落語や川柳のお約束です。

ほれるかほれるかと茶をくらつて居   十二42

これはわかりやすいですね。今も変わらずの句。

手前まあ内はどこだと楊枝見世   五34

「楊枝見世」は浅草奥山にあった楊枝の店。ここも美人を置いていました。娘の住所を聞いているところ。繁盛したわけです。

楊枝屋は残米も売り緡も売り   二十二18

「緡」は銭の穴を通して百文、四百文、一貫文にまとめるための細い藁縄のこと。楊枝屋で売っていました。とりわけ欲しくもないのに美人見たさに買いに行く風景ですね。

美しさ男へたんと五倍子が売れ   十六36

「五倍子」は「五倍子鉄漿」のこと。五倍子とは、ヌルデの葉にアリマキが寄生して、その刺激によってできたこぶ。タンニンを含み、染色、インクなどの原料になるものです。鉄漿は、鉄を酸化させてできた暗褐色の液で、お歯黒に使いました。五倍子の粉を鉄漿にひたして作った黒い染料が五倍子鉄漿です。真っ黒です。この句は五倍子を売る店(五倍子店)の美人の売り子に惹かれて買いに来る亭主たちの長い鼻の下を詠んでいるそうですが、わかりますかね。

大和茶でただの話もくどくやう   十六36

「大和茶」とは「大和茶屋」のこと。浅草などにあって、美人を接客に雇っていたそうです。今のキャバクラみたいな店だったようです。

水茶屋と見せ内証はこれこれさ   十七23

裏表ある水茶屋ははやるなり   二十一10

水茶屋とはいっても、裏でのサービスもいろいろあったようです。江戸時代はなんでもありなんですね。

茶屋女せせなげほどな流れの身   六02

「せせなげ」は下水やどぶ。「流れの身」とは「川竹の流れの身」のことで、遊女の境涯をさします。「川竹の身」とか「流れの身」とかは清らかな川の流れのイメージなのですが、遊女を連想させる鍵語です。この句に詠まれた茶屋女は遊女ほどに清らか(?)ではないながらも、つまり下水の流れのような境涯ながらも、同じ春を売る身の上だ、ということを言っているようです。なんとも雅味のある句でしょう。

【語の読みと注】
緡 さし
五倍子 ふし
鉄漿 かね

【RIZAP COOK】

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おふみ【おふみ】落語演目

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【どんな?】

高座ではあまり掛からない、珍しい噺です。

別題:捨て子の母 万両(上方)

あらすじ

日本橋あたりの酒屋のだんな。

愛人のいることがおかみさんにばれ、今後、決して女の家には近寄らないと誓わされた。

ある日、赤ん坊を懐に抱いた男が、店に酒を買いにくる。

ついでに祝い物を届けたいから、先方に誰かいっしょについてきてほしいと言うので、店では小僧の定吉をお供につけた。

ある路地裏まで来ると、男は定吉に、
「少し用事ができたから、しばらく赤ん坊を預かってほしい」
と頼み、小遣いに二十銭くれたので、子供好きの定吉は大喜び。

懸命にあやしながら待っていたが、待てど暮らせど男は現れない。

定吉が困ってベソになったところへ、番頭がなぜかおあつらえ向きに路地裏へ現れて、定吉と赤ん坊を店に連れて帰る。

さては捨て子だというので、店では大騒ぎ。

案の定、男が買った樽に、
「どうか育ててほしい」
という置き手紙がはさんであった。

おかみさんは、もう子供はできないだろうとあきらめかけていた折なのですっかり喜び、家の子にすると言って聞かない。

だんなも承知し、
「育てるからには乳母を置かなくてはならない」
と、さっそく、蔵前の桂庵まで出かけていった。

ところが、だんなが足を向けたのは、なんと、切れたはずの例の女の家。

所は柳橋同朋町。

実は、これはだんなの大掛かりな狂言。

愛人のおふみに子供ができてしまったので始末に困り、おふみの伯父さんを使って捨て子に見せ掛け、おかみさんをだまして合法的に(?)赤ん坊を家に入れてしまおう、という魂胆だった。

その上、おふみを乳母に化けさせて住み込ませよう、という図々しさ。

もちろん、番頭もグル。

こうして、うまうまと母子とも家に引き取ってしまう。

奥方はすっかりだまされ、毎日赤ん坊に夢中。

そのせいか、日ごろの焼き餅焼きも忘れて「乳母」のおふみまで気に入ってしまう。

一方、だんなはその間、最後の工作。

問題は定吉で、これも、ふだん、だんなに買収され、愛人工作にかかわっていたため、妾宅にも出入りし、もちろんおふみの顔を知っている。

で、魚心あれば水心。

「口をつぐめば小遣いをやる」
と約束して、こちらも落着。

だが、定吉はふだんからおふみに慣れているから、ついおふみを「さま」付けで呼んでしまうので、あぶなっかしい。

「いいか、乳母に『さま』なんぞつける奴はねえ。うっかり口をすべらして『さま』付けなんぞしてみろ、ハダカで追い出すからそう思え」

数日は無事に過ぎたが、ある日、おかみさんがひょっと気づくと、だんながいない。

「ちょいと、定吉や。だんなはどこにおいでだね」
「ちょいとその、おふみさ、もとい、おふみを土蔵によんでいらっしゃいます」

昼日中から乳母と二人で土蔵とは怪しいと、おかみさん、忘れていた嫉妬が急によみがえり、鬼のような形相で土蔵へ駆け込む。

ガラリと戸を開けると、早くも気配を察しただんな、
「我先や人や先、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、今日とも知らず明日とも知らず、遅れ先立つ人は本の雫」

おかみさんは面食らって、
「ちょいと定吉、どういうことだい。おふみじゃないじゃあないか。だんなさまが読んでいるのは、一向宗の『おふみさま』だよ」
「でも、『さま』をつけると、ハダカで追い出されます」

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しりたい

「権助魚」とのかかわり

原話は不詳で、上方落語で「万両」または「お文さん」と呼ばれる切りねたが東京に移植されたもの。

移植者、時期などは不明ですが、明治32年(1899)、40年(1907)の二代目三遊亭小円朝(芳村忠次郎、1858-1923、初代金馬→)の速記が残っています。

この小円朝は、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)の最初の師匠です。大河ドラマ「いだてん」にも出ていました。

上方の「万両」の演題は、舞台である大坂船場の酒屋の名からとったものです。

上方版では、下女がだんなとおふみの濡れ場を目撃、ご寮人さんに告げ口して、ことがバレる演出になっています。

この噺にはもともと、現在は「権助魚」「熊野の牛王」として独立して演じられる「発端」がついていて、明治23年(1890)、二代目古今亭今輔(名見崎栄次郎、1859-1898)が「おふみ」の題でこの発端部分を演じた速記が残っています。

後半との筋のつながりはなく、いかにもとって付けたようで、本当にもともと一つの噺だったかどうかさえ怪しいものです。

おふみさま

浄土真宗東本願寺派(大谷派)で、本願寺八世蓮如上人が真宗(一向宗)の教義を民衆向きにやさしく述べた書簡文154編を総称していうものです。

門徒は経典のように暗記し唱えます。

ここでは、だんなの女の名が同じ「おふみ」であることがミソです。

これが当然伏線になっていますが、ストーリーに起伏があって、なかなかおもしろい噺なのに、現在演じ手がいないのは、特定の宗派の教義に基づくオチが、一般にはわかりにくくなっているせいでしょう。

場所の設定が 柳橋同朋町 であることも念仏系宗派(浄土宗、浄土真宗、時宗など)とのかかわりをにおわせていますね。

かんぐれば、この噺は、本願寺の熱烈な門徒により教派の布教宣伝用に作られたのではと、思えないでもありません。

げんにその手のはなしはいくらでもあります。

それもはなしの成り立ちのひとつととらえられます。

落語世界の登場人物で、浄土真宗の熱烈な信者といえば「後生鰻」の隠居、「宗論」のオヤジが双璧です。

桂庵

けいあん。慶庵、口入れ屋とも。就職斡旋所です。

男女の奉公人の斡旋、雇われる側の職業紹介を兼ね、縁談の斡旋までしたとか。

人の出入りが激しいためか、花街、遊廓の近くに集まっていました。

江戸で最も有名なのは「百川」に登場する葭町よしちょう千束屋ちづかやです。

岡本綺堂(岡本敬二、1872-1939、劇作家)は、この店の所在地を麻布霞町といっています(『風俗江戸物語』による)。おそらく支店なのでしょう。

「おふみ」では、蔵前第六天社の「雀屋」に設定することが多くなっています。

【語の読みと注】
桂庵 けいあん:就職斡旋所。慶庵、口入れ屋とも
形相 ぎょうそう
切りねた きりねた:真打しか演じられない大ネタ
ご寮人さん ごりょんさん:若奥さん。上方中流以上の商家で

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おしのつり【唖の釣り】落語演目



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【どんな?】

もう聴けない噺です。
物語の底力に魅力横溢なので、
こちらで笑ってください。

【あらすじ】

ばかの与太郎に、釣りをする奴はばかと言われた七兵衛、思わずむっとして、殺生禁断せっしょうきんだん不忍池しのばずのいけで鯉を密猟し、売りさばいてもうけていることをばらしてしまう。

弱みを握られ、その夜、与太郎を連れて「仕事」に行く羽目に。

そこで七兵衛、
「見張りの役人に見つかったら、どうせ4発はぶたれるから、出る涙を利用し『長の患いの両親に、精のつく鯉を食べさせたいが金がなく、悪いこととは知りながら孝行のため釣りました。親の喜ぶ顔さえ見れば名乗って出るつもりでした』と泣き落とせば、孝行奨励はお上の方針、見逃してくれる」
と知恵をつける。

ところが与太郎、あまりに簡単に釣れたので大はしゃぎ。

案の定、捕まって10発も余計にぶたれたが、教えられた泣き落としがなんとか効き、お目こぼしでほうほうの体で逃げていく。

一方、七兵衛、池の反対側でせっかくこっそり釣っていたのに、与太郎のとばっちりで見つかり、これまたポカポカポカ。

恐怖と痛さで腰が抜け、ついでにあごも外れてしまう。

とっさにこれを利用して、アーウーアーウーと身振り手振りを交えて大熱演。

役人、
「口がきけない奴ではしかたがない」
と、これまためでたく釈放。

許してつかわす、と言われて思わず
「ありがたいッ」

【しりたい】

これも上方発祥

口の不自由な者が最後に口を利くというオチの部分の原話はかなり古く、京都辻ばなしの祖とされる初代露の五郎兵衛(1643-1703)が元禄11年(1698)に刊行した『露新軽口つゆしんかるくちばなし』中の笑話「又言ひさうなもの」です。

この人は、日蓮宗の談義僧だんぎそう(仏教の教えをわかりやすく語る僧)の出身でした。

おしゃべりが得意だったわけです。

上方落語「唖の魚釣り」として細部が整えられ、東京には八代目林家正蔵(岡本義、1895-1982、彦六)が、大阪の二代目桂三木助(松尾福松、1884-1943)に教わったものを移しました。

場所は、大阪では天王寺の池とし、東京では正蔵あたりは寛永寺の池としていますが、具体的には言わないのが一般的のようです。

正蔵は、大阪で甚兵衛といっている主人公の名を七兵衛と変えましたが、これは身振り手振りで名前が出やすいように、という配慮なんだそうです。

殺生禁断

江戸時代、寺社の池はどこも仏教の殺生戒せっしょうかいにより、殺生禁断が寺社奉行より申し渡されていましたが、上野の近辺は寛永寺の将軍家御霊屋みたまやがあるため、不忍池では禁忌が特に厳しく徹底されていたわけです。

下手をすれば密漁者は死罪に処さなければならないので、番人もなるべく未遂で済まそうと警戒怠りなかったのでしょう。

蛇足ですが、松竹新喜劇の人気演目『浪花の鯉の物語』(平戸敬二作)は、やはり狩猟禁止の大坂・厳島神社の鯉の密漁騒動をめぐる人情喜劇で、あるいは落語になんらかのヒントを得ているのかもしれません。

オチが同じ「ひねりや」

正蔵も芸談で触れていますが、今はもうやり手のいない、古い江戸落語「ひねりや」はオチが「唖の釣り」と同じで、明治33年(1900)の初代三遊亭円左(小泉熊山、1853-1909)の速記が残っています。

円左は円朝の弟子で、明治33年は円朝の没年にあたります。

あらすじは、町内一のひねり屋(=変わり者、あまのじゃく)捻屋素根右衛門ひねりやすねえもんが、沢庵石たくあんいし注連縄しめなわを張って拝んだ結果、素根吉すねきちという男の子を授かります。

この子が成長するとひきこもりになり、本ばかり読んでいるので、親父おやじが「明烏あけがらす」よろしく、道楽をしないと勘当だと脅すので、しぶしぶ大八車で吉原へ。

これが親父まさりのひねくれで、さんざん妙なものを注文したあげく、目が三つあるような変わった花魁おいらんを出してくれたら、ご祝儀しゅうぎに二十両、花魁には百両はずむと言い出したので、欲にかられた帳場では目は不自由ながら耳は聞こえるという女郎を「急造」して座敷に出します。

にわか花魁、百両欲しさに目をむいて身振り手振りで大奮闘。ムームー言っているうち、女の名前を「権兵衛」と聞き違えた素根吉若だんな、喜んで百両出すと、女は感激のあまり「ああら、ちょいと、ありがとう」「おや、口をきいた」。

すたれさせるにはもったいないエスプリの利いた噺です。

時代の趨勢、「唖の釣り」同様まったく演じられません。

「唖の釣り」はもはや無理だとしても、「ひねりや」は工夫次第で復活できるかもしれません。



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おおどこのいぬ【大どこの犬】落語演目



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【どんな?】

動物が主人公の上方噺。
大富豪に飼われていた犬の物語です。

別題:鴻池の犬(上方)

【あらすじ】

日本橋石町の、さる乾物屋。

朝、表戸を開けようとすると、なにかが引っ掛かっているのか、開かない。

小僧が裏口から回って見てみると、戸袋のところに箱が置いてあり、中には白と黒とぶちの犬の赤ん坊。

川の中に放り込んでも寝覚めが悪いから、飼ってやることにしたが、そのうち、黒いのを小僧が大変かわいがり、兄弟同然にして育てた。

ある日、商人風の男が尋ねてきて、主人にお宅の黒犬を譲ってほしいと、五両差し出す。

飼い主の小僧は品川に使いに行って留守なので、一日返事を待ってもらったが、翌日の昼、男がやってきても小僧はまだ戻らない。

これ以上引き延ばすことはできないので、事情によっては独断で決めようと主人がわけを尋ねた。

男は大坂鴻池の、東京の出店の者。

主人の坊ちゃんがかわいがっていた黒犬が死んだので代わりを探しているが、その犬は熊そっくりに喉に月の輪型の差し毛があり、そっくりなのがなかなか見つからずに困っていたところ、たまたま、ご当家の犬が同じ所に同じ形の月の輪があるのを見てお願いにあがった、決して殺して生き血を取るというような料簡はなく、大坂へ連れて帰って坊ちゃんの遊び相手をするだけだから、ぜひ譲ってほしいと事を分けて頼むので、主人も、鴻池のような大家にもらわれれば、クロもぜいたくができ、出世だからと、その場で承知して犬を引き渡す。

大坂にもらわれたクロは、下にも置かず大切にされ、エサがいいせいか、毛もつやつやとして、体もずんずん大きくなった。

いつしか近所の犬どものボスになり、「鴻池のクロ」といえば知らぬ者はないぐらいのはぶり。

ある日、クロが門前で日向ぼっこをしていると、見慣れない、みすぼらしい灰色の犬がよたよたと現れる。

おっそろしく汚いので
「てめえは何者だ」
「へえ、このへんに鴻池のクロさんてえ方が」
「クロはオレだ」
「あっ、兄さん、お懐かしゅうございます」

よく見ると、犬は末の弟のシロ。

兄弟感激して対面をして、わけを尋ねると、自分がもらわれた後、それを知った小僧が大変に怒って、腹いせにシロと中の弟のブチは家を追いだされた、という。

二匹で食うや食わず、掃き溜めでゴミあさりをしていた。

突然、野犬狩りの太い棒が飛んできて、ブチは
「キャーン」
と言ったのが、この世の別れ。

シロは一匹になって、上の兄貴を頼ろうと艱難辛苦の末、ボロボロになって大坂にたどり着いたとやら。

聞いたクロ、
「オレに任せておけばもう心配いらねえ。エサはゲップが出るほどもらえるし、オレの犬小屋は人間サマが寝られるくらい広いから、二、三匹来たって驚きゃしねえ、大船に乗った気でいろ」
と請け合い、
「クーロ、クロクロクロクロ」
と呼ばれるたびに、鯛だのカステラだのを、弟に持ってきてやる。

シロは食べたことのないものばかりで、目をシロクロ。

また
「クーロ、クロクロ」
と兄貴が呼ばれたから、今度はどんなものを持ってくるかと期待して待っていると、今度はしおしおと手ぶらで、
「坊ちゃんのオシッコだった」

【しりたい】

上方落語の逆輸入版

原話は、安永2年(1773)刊の笑話本『聞上手』中の「犬のとくゐ」。 

これは、オチを含む後半部分の原型で、黒とブチ、2匹の犬の会話になっています。

「黒こいこい」と呼ぶ声がするので、何かエサでももらえるのだろうとブチに促されて黒が行ってみると、「子供の小便だった」というたわいないもので、これは、上方で子供に小便させる時の「クロクロクロ」(またはシーコイコイ)を利かせたものです。

この原話を含む笑話本は、江戸のものですが、落語としては上方で、「鴻池の犬」として磨かれました。

三代目桂米朝(中川清、1925-2015)は「題名を明かさずに演じた方が、初めの捨て子のくだりがおもしろい」と述べています。

オチは、今では「クロクロ」がわかりにくいので、米朝は「コイコイコイ」とやっています。

東京版は「彦六十八番」

明治30年(1897)ごろ、初代三遊亭円左(小泉熊山、1853-1909、狸の)が東京に「逆輸入」しました。

円左は大阪のものをそのままやっていました。

のちに三代目三遊亭円馬(橋本卯三郎、1882-1945、大阪→東京)が「大どこの犬」と改題して東京風に演じ直し、鴻池を岩崎、犬が最初に拾われる場所を、大坂南本町から江戸日本橋石町と変えました。

円馬の芸の愛弟子だった八代目桂文楽(並河益義、1892-1971)は手掛けることなく、東京では戦後、上方の桂文次郎直伝のものを八代目林家正蔵が再構成し、十八番にしました。

正蔵は、もらわれ先を再び大坂鴻池に戻し、犬がはるばると東海道を下っていくことにして、噺に奥行きとスケールを出していました。

その没後は、六代目三遊亭圓窓(橋本八郎、1940-2022)が継承して演じました。

最近は、地味ながらアットホームな一種の人情譚として若手の高座にも取り上げられているようです。

鴻池善右衛門

鴻池の始祖新六は、講談で名高い山中鹿之助の次男と伝えられます。

その子、初代善右衛門が、摂津鴻池村で造り酒屋を営んだことから家名がつき、初代は海運業に進出する傍ら、明暦2年(1656)、大坂内久宝寺町に両替屋を開き、延宝2年(1674)、現在の大阪市東区今橋2丁目に本拠を移しました。

以来、大名貸しや新田開発などで巨富を築き、「今橋の鴻池」といえば、全国どこでも富豪の代名詞で通るほどになりました。

上方落語では「三十石」「莨の火」「占い八百屋」などに数多くその名が出ていて、明治までで十代を数えます。

十代目善右衛門(1841-1920)は、明治10年(1877)に第十三国立銀行を設立するなど、明治大正の関西財界に君臨しました。

黒犬の生き血

難病治療に効果があると信じられました。

ヨーロッパでも黒犬は魔力を持つものと見なされ、黒ミサや呪術でしばしば生贄とされていました。

大どこ

東京版のタイトルですが、大金持ちの意味です。

「オオドコロ(大所)」が略されたものでしょう。

「犬になるとも大どこ(所)の犬になれ」という諺があり、意味は「寄らば大樹の陰」と同じです。

【語の読みと注】
石町 こくちょう
鴻池 こうのいけ



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おみきどっくり【お神酒徳利】落語演目

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【どんな?】

インチキ易で消えた徳利を見つけた(?)番頭。
その後の展開が西まで広がって。

別題:占い八百屋(上方)

あらすじ

日本橋の馬喰町ばくろうちょう一丁目に刈豆屋吉左衛門かりまめやきちざえもんという旅籠はたごがあった。

先祖が徳川家康から拝領した、銀のあおいの紋付きの一対のお神酒徳利を家法にして代々伝えてきたが、大切なものなので一年一回、大晦日おおみそか煤取すすとり(大掃除)の時しか出さない。

ある年の大晦日、その煤取りの最中に、台所に水をのみにきた番頭の善六がひょいと見ると、大切なお神酒徳利が流しに転がっている。

入れものがないので、そばの大きな水瓶みずがめに放り込んで蓋をした。うっかり者の番頭、それっきり忘れてしまった。

店ではいよいよお神酒をあげようとすると、徳利がなくなっているので大騒ぎ。

ところが善六、帰宅して、はっと水瓶のことを思い出し、すぐ報告をと思うのだが、痛くもない腹をさぐられるのも……と困っていると、しっかり者の女房が知恵を授ける。

女房の父親がたまたま易者えきしゃをしているので、それに引っかけて、筮竹ぜいちくはバレやすいから、商売柄、算盤そろばんをパチパチやって、ニワカ素人易者のふりをして言い当てて見せればいい、というわけ。

善六、店に戻ると、さっそく女房に言われた通り、いいかげんに易をたて、水瓶の蓋を取って徳利を「発見」してみせたので、主人は大喜び。

善六は易の大先生だと、店中の評判になる。

たまたま宿泊していて、この評判を聞きつけたのが大坂今橋いまばし鴻池こうのいけの番頭。

「主人の十七になる娘が三年この方大病で、あらゆる名医を頼み、加持祈禱かじきとうも尽くしたが効果がなく困っていたところなので、ご当家にそんな大先生がおられるなら、ぜひ大坂に来ていただきたい」
とたっての願い。

善六、頭を抱えるがもう遅い。

帰って、また女房に相談すると、
「寿命のことは私にはわかりませんとかなんとかゴマかして、礼金の三十両もせしめておいで」
と尻をたたくので、不承不承ふしょうぶしょう、承知して、東海道を下ることとなった。

途中の神奈川宿かながわしゅく新羽屋源兵衛にっぱやげんべえという本陣。

泊まろうとすると、家内になにやら取り込みがあるようす。

聞けば、宿泊中の薩州さっしゅうの侍の、密書入りの巾着きんちゃくが盗まれたとかで、主人が疑いをかけられて役所へひかれたという。

善六のことを聞くと、店中大喜び。

「ぜひ大先生にお願いを」
と言われて善六はゲンナリ。

もうこれまでと逃げ支度じたくにかかった時、部屋の障子しょうじがスーっと開いて、色青ざめた女がおずおずと入ってくる。

聞くと、
「近在の百姓の娘で、この宿やどで働いているのですが、父親の病気を直したい一心からつい出来心で巾着に手を出してしまいました」
という。

「ご高名な易の先生が来ているというので、もう逃げられないと思い、こうして出てきました。どうぞお慈悲を」
と泣くので、善六、これぞ天運、と内心ニンマリ。

威厳を取りつくろって、巾着が、稲荷いなりさまのお宮が嵐でつぶれて床板が積み重ねてある間に隠してあることをうまく聞き出した。

これは稲荷のたたりだ、と言いつくろって、巾着を首尾よく掘り出して見せたので、善六、もう神さま扱い。

女には礼金から五両与えて逃がしてやり、拝まれながら大坂へ出発した。

着いた鴻池でも、下へもおかない大歓迎。

しかし、そろそろ「仕事」にとりかからなければならないと、また気が重くなりだしたその夜、善六の夢枕に不思議な白髭しろひげの老人が立った。

これが実は、正一位稲荷大明神しょういちいいなりだいみょうじん

神奈川宿での一件以来、霊験れいげんあらたかな神社と評判で、はやりにはやって宮の造営もできたとかで、褒美ほうびとして娘の「治療法」を教えてくれる。

稲荷に言われた通り、乾隅いぬいすみ(西北の方角)の柱四十二本目を三尺五寸(106cm=卒塔婆そとうばの長さ)掘り下げると、一尺二寸(36.36cm)の観音かんのん像が現れた。

それを祭ると、病人はたちまち全快。

さあ、鴻池の喜びはひとかたでなく、望みのものをお礼に、と。

それならと、馬喰町に旅籠を一軒持たせてもらい繁盛した、という。

算盤占いだけに、生活がケタ違いによくなった、という話。

出典:六代目三遊亭円生

しりたい

世界中に流布する類話

上方落語のルーツ研究では右に出る者がない宇井無愁ういむしゅうの『落語の根多ねた』によると、日本各地に類話があるばかりか、朝鮮、中国、トルコ、コーカサスにも類似した民話があるとのことです。

「ごくあたりまえのことが無知の目には奇蹟とうつり、世間の無知が人気者を作り出すという諷刺になっている」(同書)という、相対価値観のパターンは共通しているのかもしれません。

やり方に二つの系統

この噺のやり方(演出)には、二つの系統があります。

一つは、上方噺「占い八百屋」を三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)が東京に移して、それが四代目柳家小さん(大野菊松、1888-1947)、五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)へと継承された、小さん系の型。

もう一つは、五代目金原亭馬生(宮島市太郎、1864-1946年、赤馬生、おもちゃ屋の)からの直伝で、この噺を押しも押されもせぬ十八番に仕上げた、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)のやり方です。

柳系と三遊系と分けてしまえば、いつものことですが。元は上方由来の噺ですから、そんなのとも違いますかね。

上のあらすじは、円生のものをテキストにしました。

この噺を得意とした三代目桂三木助(小林七郎、1902-61)ははほぼ円生通りのやり方でした。

ただ、オチが「これも神奈川の稲荷大明神のおかげだね」「なあに、カカア大明神のおかげだ」となっています。

大阪、小さん系はいたずらから

小さんの方は前半が異なり、上方の通りで主人公は八百屋。

出入り先のお店で女中をからかってやろうとわざと徳利の片割れを水がめに隠しますが、ゲンが悪いと大騒ぎになって言い出せなくなり、やむなく算盤占いで……というのが発端です。

ここでは徳利は貴重品でも何でもありません。

在所の弟の訴訟事を占ってほしいという主人の頼みで三島宿(上方では明石宿)まで出かけ、途中の宿屋で頼まれた泥棒探しを運良く解決したものの、たちまち近在から依頼が殺到。

たまらなくなって逃走し、「今度は先生が紛失した」というオチです。

類話「出世の鼻」とのかかわり

出世の鼻」(別題「鼻利き源兵衛」)という噺は、「お神酒徳利」に似ていますが、別話です。

主人公の八百屋が、算盤占いの代わりに、紛失物のにおいを鼻で嗅ぎ出すという触れ込みで、幸運にも大金持ちに成り上がるという異色作です。

馬喰町の旅籠

宿屋の富」でも記しましたが、日本橋馬喰町は江戸随一の宿屋街です。

東海道筋からの旅人はもとより、江戸に全国から集まった「お上りさん」はほとんど、ここらへんの旅宿に草鞋わらじを脱ぎました。

「八十二軒御百姓宿」といい、幕府公認、公許の旅籠街で、大坂では高津こうづがこれにあたります。

この場合の「百姓ひゃくせい」は「万民、人民」というほどの意味です。

大きく分けて、百姓宿と旅人宿がありました。

百姓宿は公事宿くじやどで、訴訟・裁判のために上京する者を専門に泊め、勘定奉行所の監督下で必要書類の作成など、事務手続きも代行しました。

旅人宿は、公事宿の機能をを兼ねる旅籠もありましたが、主に一般の旅人を宿泊させました。

ただし、こちらは町奉行所の管轄下で、怪しい者、手配の犯人が潜伏していないかなど、客を監視して逐一お上に通報する義務を負っていたところが、「公許」の旅籠街たるところです。

馬喰町の旅籠は「宿屋の仇討ち」にも登場します。

円生の噺中の「刈豆屋吉左衛門」は馬喰町の総取締で、実在の人でした。

五代目小さんのくすぐり

●八百屋が宿の待遇に文句をつけて

「客が着いたら、女房に閨房けいぼう(ベッド)のおとぎ(お相手)をさせましょう、くらい言え」

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うしのよめいり【牛の嫁入り】落語演目

自宅で始めて、年収1,300万円以上が可能

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【どんな?】

今度の与太郎はちょいと知恵が働くんですが、それがまた一騒動の素。

別題:おたおたの太助(上方)

【あらすじ】

小伝馬町の質屋の娘。

年ごろになるが、なかなかの器量よしで、その上、芸事は絵から俳諧、歌はおろか、弓馬、槍剣の道まで心得ているという噂の高い才女。

一人娘なので、そろそろ養子を迎えなければならず、孝行者なので、早くいい婿が見つかって両親を安心させたいと、向島の牛の御前に願掛けをして日参している。

町内の若い衆の噂を聞きつけた、本所松坂町に住む紙くず拾いの与太郎。ほかの与太郎とは少々違って頭が冴えているので、女をなんとかして手に入れてやろうと、牛の御前に先回りし、麻の風呂敷をかぶって頭にお椀を乗っけ、笏代わりにシャモジを手に持って、娘が来るのを待った。

なにも知らない娘、いつものように社前に立ち、賽銭をあげて柏手を打つ。

「なにとぞ私によい御養子をお授けください」
と熱心に祈る。

そこへ与太郎が賽銭箱の間からスクッと立ち上がり
「ああ、これ、我こそは牛の御前なり。その方は親孝行なるに感じ、利益によって養子を一人授けるなり」

娘は仰天。

願いがかなえられたと大喜びで
「ありがたいことでございます。そのご養子はどこのお方でしょう」
「本所松坂町紙くず拾いの与太郎と申す者なり。この者は粋でりっぱでちゃんとして、東男のぬしさんに惚れたが無理かションがいな、あーら疑いあるべからず」

たちまち娘は、このまだ見ぬ男に恋わずらい。

親には恥ずかしくて言いだせないから、悶々としたまま床につき、食事も喉へは通らない。

心配しただんな、乳母をやってようやく聞き出すと、かわいい娘のためと、さっそく番頭の久蔵を呼び、その「本所松坂町の古紙回収業の与太郎さんは粋で立派でちゃんとして、東男の主さんに惚れたが無理かションがいな、あーら疑うべからず」という寿限無並みに長い名前の男に会ってこいと命じる。

久蔵が見ると、えらく汚い男なのでがっかりしたが、当人がそうだというのだから間違いはなかろうと、帰ってだんなに報告した。

だんな、それは身なりでなく人柄がいいのだろうと、「あーら疑うべからず」を婿にすることに決めたが、娘の体がまだよくないから、車では揺れてだめだと、長持ちに空気穴を空けて、夜具一式と一緒に娘を入れ、大勢だと評判になるから、善兵衛と喜助の二人に担がせて、松坂町に送り届けることにした。

二人が途中の牛屋で一杯やっている間に、本所の牛方が子牛をひいて通る。

牛屋の前に下ろしてある長持ちの中からうめき声がするので、のぞくと娘っ子が入っている。

これは人さらいだと早合点して、娘を引っ張り出すと、身代わりに子牛を入れ、娘を連れて行ってしまった。

すっかりできあがった二人。

長持ちを与太郎の家に届けると、すぐ帰ってしまったので、与太郎はゾクゾクしながら中をまさぐる。

えらく臭くて太った娘だと思って別の所を触ると、そこが子牛の尻尾。

「ウーン、大変に長い髪だ。大方下げ髪で来たんだろう」

底本: 初代三遊亭円遊

自宅で始めて、年収1,300万円以上が可能

【しりたい】

民話の落語化か

東京バージョンのこの「牛の嫁入り」は、明治23年(1890)の初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)の速記が残るのみ。今はすたれた噺です。

もともと上方落語の「おたおたの太助」を東京に移したものといわれますが、この元ネタ自体、オチが円遊版と同じという以外、今では詳細がまったくわからなくなっています。

したがって、原話も、東京に伝わった経緯・時期も不明です。

ただ、民話に同じ題名のものがあるため、上方のものも含め、ルーツはやはり民話や昔話にあると思われます。

類話「お玉牛」

娘と牛が寝床ですりかわるという後半の筋と似ているのが、現在でも上方で口演される「お玉牛」です。

これは、武士の娘お玉が、父親が悪人に陥れられたため父娘で都落ちし、紀州と大和の国境の堀越村へ流れ着きますが、土地の乱暴者あばばの茂平に強引に言い寄られ、今夜にも夜這いをかけられるハメに。お玉の訴えを聴いた世話人の与次兵衛が機転で、その夜、お玉の寝床に牛を寝かせておいたので、何も知らず、舌なめずりで忍んできた茂平は牛に抱きつき、肝をつぶして逃げ出します。オチは「どや、お玉をうんと言わしたか」「いや、モーと言わした」というものですが、これも民話ダネとみられるので、「おたおたの太助」や「牛の嫁入り」とルーツは同じでしょう。

こちらは、古くは東京でも同題で後半のみを、上方通りに演じたこともあったようです。

違ったやり方も

現在は東京では演じられず、また、円遊以後の演者についてもはっきりしませんが、古いやり方としては、娘ではなく父親が願掛けして与太郎の化けた神の「御託宣」を開くやり方もあったといいます。

驚いた与太郎が大家の家に逃げ込み、「暗闇から牛を引っ張り出しました」とするオチや、舞台を亀戸天神(与太郎も天神に化ける)にしていた演者も。

牛の御前

正式には牛島神社で、墨田区向島1丁目の隅田公園内に移されています。関東大震災の焼失前は、向島5丁目の墨堤常夜灯下にありました。牛の御前は祭神のスサノオノミコトのことです。

小伝馬町

中央区日本橋小伝馬町。時代劇でもよく知られた小伝馬町大牢のあった町ですね。

【語の読みと注】
牛の御前 うしのごぜん:牛島神社
笏 しゃく
賽銭 さいせん

自宅で始めて、年収1,300万円以上が可能

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いはいや【位牌屋】落語演目

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【どんな?】

すさまじいケチんぼうの噺。
ブラック噺の極北です。
オチがきいてます。

別題:位牌丁稚

【あらすじ】

ケチでは人後に落ちないだんな。

子どもが生まれ、番頭の久兵衛が祝いに来ても、
「経費がかかるのに何がめでたい」
と小言を言う。

なにしろ、この家では奉公人に魚などくわせたことはなく、三年前に一人、目を悪くしたとき、まじないにメダカを三匹呑ませただけなのだから、とても赤飯に尾頭付きどころの騒ぎではない。

八百屋が摘まみ菜を売りに来ると、八貫五百の値段を、
「八貫を負けて五百で売れ」
と言って怒らせ、帰ると、こぼれた菜を小僧に拾わせて味噌漉しいっぱいにしてしまう。

今朝の、芋屋との会話。

五厘だけ買った。

だんな「小僧を使いにやったが、まだ帰らないから、ちょいと煙草を貸しとくれ」
芋屋「おあがんなさい」
だんな「いい煙草だ。いくらだい? 一銭五厘? 商人がこんな高い煙草のんじゃいけない。家はどこだい?」
芋屋「神田堅大工町です」
だんな「家内多か?」
芋屋「女房とせがれが一人で」
だんな「買い出しはどこでしなさる」
芋屋「多町でします」
だんな「弁当なぞはどうしている?」
芋屋「出先の飯屋で食います」
だんな「そりゃもったいない。梅干しの一つも入れて弁当を持って出なさい。茶とタクアンぐらいはあげるから、ウチの台所でおあがり。いや、うまかった。食うのがもったいないから置き物にしたいぐらいだ。時に、これを一本負けておきな」

この会話をそっくり繰り返す。

三回目に「家はどこだい」と始めたところで、芋屋は悪態をついて帰ってしまう。

嫌がられても五厘で二回負けさせ、たばこをタダで二服。

そのだんな、小僧の定吉に、注文しておいた位牌を取りに仏師屋へやる。

それも裸足で行かせ、
「向こうにいい下駄があったら履いて帰ってこい」
と言いつけるものすごさ。

定吉と仏師屋の親父の会話。

定吉「小僧を使いにやったが、まだ帰らないから、ちょいとたばこを貸しとくれ」
親父「てめえが小僧じゃねえか」
定吉「商人がこんな高いたばこをのんじゃいけねえ。家はどこだい?」
親父「ここじゃねえか」
定吉「家内多か?」

全部まねして、今度は位牌をほめる。

「いい位牌だ。食べるのはもったいないから、置き物にしたいくらいだ。形がいい。時に、これ一本負けときな」
「おい、持ってっちゃいけねえ」

ちゃっかり位牌を懐に入れ、オマケの小さな位牌もぶんどって、一目散に店へ。

「下駄は履いてきたか」
「あ、あわてたから片っぽだけ」
「しょうがねえ。そりゃなんだ」
「位牌です」
「同じオマケなら、なぜ大きいのをぶんどってこない」

だんなが小言を言うと、定吉は
「なーに、生まれた坊ちゃんのになさい」

底本:六代目三遊亭円生

【しりたい】

吉四六話が原話

後半の、位牌を買いに行くくだりの原話は、文政7年(1824)、江戸で刊行された『新作咄土産』中の「律義者」。

現行とオチまでまったく同じですが、前半のケチ噺は、宇井無愁(宮本鉱一郎、1909-92、上方落語研究)によると、豊前地方(大分県)の代表的なとんち民話、吉四六話を二編ほどアレンジしたものということです。

上方落語「位牌丁稚」が東京に移されたものとみられますが、詳細は不明です。

昭和以後では、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)、三代目三遊亭小円朝(芳村幸太郎、1892-1973)などが、時折「逃げ噺」の一つとして演じました。

位牌屋

仏師屋ともいいます。

「仏師」は仏像を彫刻する人、もしくは描く人で、それぞれ木仏師、絵仏師と呼びました。

後世、それらが衰退し、江戸時代に入ると、死者の霊を祭る位牌が一般に普及したため、位牌を作って売る者を仏師屋と呼ぶようになったわけです。

人間は死ねば仏になるから、位牌も仏像も同じ感覚で扱われたため、この名称が転化したものと考えられます。

ブラック噺

かなりすごいオチで、これゆえにこそ、この噺は凡百のケチ噺と区別され、ブラックユーモアの落語として異彩を放っているわけです。

世の善男善女の非難をかわすため、この「生まれた坊ちゃんのになさい」という最後っ屁につき、「たんなるあほうな小僧の、無知による勘違い」と言い繕う向きもありますが、どうしてどうして、確信犯です。

かなりの悪意と嫉妬と呪詛が渦を巻いていると解釈する方が自然でしょう。

それをナマで表してしまえばシャレにならず、さりげなく、袖の下にヨロイをチラチラと見せつけるのが芸の力というものでしょうね。

【語の読みと注】
吉四六 きっちょむ
宇井無愁 ういむしゅう:上方落語研究家
豊前 ぶぜん:大分県

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なつどろ【夏どろ】落語演目

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【どんな?】

お人よし泥棒から金を巻き上げる、長屋住まいのしたたか男。
痛快無比のあべこべ模様。
上方噺。

別題:置きどろ(上方) 打飼盗人(上方)

あらすじ

ある夏の夜。

路地裏の貧乏長屋にコソ泥が侵入した。

目をつけたのは、蚊燻しを焚きっ放しにしている家。

小汚いが、灯を点けずに寝ているからは、食うものも食わないで金を溜め込んでいるに違いないと、当たりをつけた。

火の用心が悪いと、お節介を言いながら中に入ると、男が一人で寝ている。

起こして
「さあ、金を出せ」
とすごんでも、男は、
「ああ、泥棒か。なら、安心だ」
と、全く動じない。

男は日雇いの仕事人で、昨日の明け方まで五円あったが、博打で巻き上げられて、今は一文なし。

取られるものなど、なにもないという。

「しらばっくれるな。これでも一軒の家を構えていて、なにもないはずがねえ。銀貨かなにかボロッきれにでも包んで隠してあるだろう。オレが消してやらなかったら、てめえは今ごろ蚊燻しが燃え上がって焼け死んじまったんだ。いわば命の恩人だ」
「余計なことをしやがる」

二尺八寸のだんびらは伊達には差さないと脅しても
「てめえ、なにも差してねえじゃねえか」

このところ雨が続いて稼業に出られず、食うものもないので水ばかりのんで寝ているという。

「いっそ、おめえの弟子にしてくれ」
と頼まれ、泥棒は閉口。

その上
「縁あって上がってきたんだ。すまねえが三十銭貸してくれ」
と、逆に金をせびられた。

「どうせ、ただ取る商売だ。貸したっていいだろう。かわいそうだと思って」
「ばか言え。盗人にかわいそうもあるか」
「どうしても貸さねえな。路地を閉めれば一本道だ。オレが泥棒ッてどなれば、長屋中三十六人残らず飛んでくる。相撲取りだって三人いるんだ」

逆に脅かされ、しかたなく三十銭出すと、今度はおかず代にもう二十銭貸せと、言う。

「とんでもねえ」
と断ると
「どうしても貸さねえな。路地を閉めれば一本道だ」

また始まったから、しぶしぶ二十銭。

すると、またまた今度は
「蚊帳を受け出す金三十銭頼む。質にへえってるんだ。貸さねえと、路地を閉めたら一本道……」

泥棒はもうお手上げ。合計八十銭ふんだくられた。

「ありがてえ。これは借りたんだ。今度来たときに」
「誰が来るもんか」
「そう言わずにちょいちょいおいで。オレは身内がねえから、親類になってくれ」
「ばかあ言え。どなると聞かねえぞ」

泥棒がげんなりして引き上げると、アワを食ったのか煙草入れを置いていった。

男は煙草を吸わないので、もらってもしかたがないと後を追いかけて
「おーい、泥棒ォ」
「こんちくしょう。まぬけめ。泥棒ってえやつがあるか」
「でも、おめえの名前知らねえから」

底本:三代目柳家小さん

しりたい

上方から東京へ

原話は安永8年(1779)刊『気の薬』中の小咄「貧乏者」です。

原話では、「出張先」のあまりの悲惨な現状に泥棒がいたく同情、現行の落語と逆に金子二百疋を恵んでくれる筋です。

オチは「おたばこ入れが落ちておりました」。

上方噺の「打飼盗人」を大正末期に初代柳家小はん(鶴見正四郎、1873-1953)が東京に移したと言われますが、はっきりしません。

上方の題名は、オチが「カラの打飼忘れたある」となっていることからきています。

打飼

うちかえ。布を袋状に縫い合わせた旅行用の胴巻きのことです。

胴巻きとは、腹巻きのことです。ややこしいです。

いろいろなオチ

昭和に入ってからは、三代目三遊亭小円朝(芳村幸太郎、1892-1973)が得意にしました。

小円朝は「忍び込んでからの泥棒の目の動きが難しい噺」と、芸談を残していますが、同師は家のあるじをを大工とし、暑いのでフンドシ一本で寝ている設定にしました。

そのオチは、泥棒が引き上げるところで切り、「陽気の変わり目に、もういっぺん来てくんねえ」としていました。

同世代では三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)も演じましたが、そのほかオチは、演者によってかなり異なります。

たばこ入れが落ちていた説明を略した上で「おーい」「どなるやつがあるか」「たばこ入れが落ちてた」と、意表をついた上、原話通りに落とすもの。

「あとの家賃(用の金)はいつ持ってきてくれる?」と、さらにずうずうしいもの。

「また質入れしたころ来てくんねえ」とするものなど。

さまざまに工夫されています。

ここでのあらすじの「おめえの名前を知らねえから」は、小はんの師匠、三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)の作ったものです。

このオチが東京ではもっとも一般的でしょう。

だんびら

一般には「段平」と記します。刀で、刃が幅広いもの。たんに刀をもさします。「だびら」とも言ったりします。

「だびらひろ」となると、刀の身の幅が広いこと、「だびらせば」は刀の身の幅が狭いことをさします。

「徒広」が語源とされています。

セリフの「二尺八寸……」は芝居の泥棒の常套句です。

「転宅」の泥棒が、この大仰なセリフのフルバージョンをまくしたてています。

これから「出動予定」で商売用に丸暗記したい方はその項を参照してください。

ダンビラを振りかざして見得を切る芝居の泥棒。『100年前の東京』(マール社)より

煙草入れ

安永年間(1772-81)から普及し、幕末に近づくにつれしだいに贅沢なものが好まれるようになりました。

落語に登場の飯炊き男、権助が持っているのは熊の革の煙草入れと相場が決まっていて、これはいかにもぴったりな感じです。

【語の読みと注】
二百疋 にひゃっぴき:二千文=二分=一両の二分の一
打飼盗人 うちがえぬすっと
胴巻き どうまき:腹巻き
徒広 ただびろ

https://www.youtube.com/watch?v=az_OLGrPn4M

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ににんたび【二人旅】落語演目

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 【どんな?】

謎かけは落語のお楽しみのひとつ。
ふんだんに謎かけが飛び出す噺です。

別題:煮売屋(上方)

あらすじ

気楽な二人連れの道中。

一人が腹が減って、飯にしようとしつこく言うのを、謎かけで気をそらす。

例えば
「二人で歩いていると掛けて、なんと解く?」
「豚が二匹と犬っころが十匹と解く」
「その心は?」
「豚二ながらキャンとう者(二人ながら関東者)」

そのうち、即興の都々逸になり
「雪のだるまをくどいてみたら、なんにも言わずにすぐ溶けた」
「山の上から海を眺めて桟橋から落ちて、泳ぎ知らずに焼け死んだ」
と、これもひどい代物。

ぼうっとした方が人に道を尋ねると、それが案山子だったりして、さんざんぼやきながらやっととある茶店へ。

行灯に、なにか書いてある。

「一つ、せ、ん、め、し、あ、り、や、な、き、や」
「そうじゃねえ。一ぜんめしあり、やなぎ屋じゃねえか」

茶店の婆さんに酒はあるかと聞くと
「いいのがあるだよ。じきさめ、庭さめ、村さめとあるだ」
「へえっ、変わった銘だな。なんだい、そのじきさめってのは」
「のんだ先からじきに醒めるからじきさめだ」
「それじゃ、庭さめは?」
「庭に出ると醒めるんだ」

村さめは、村外れまで行くうちに醒めるから。

まあ、少しでも保つ方がいいと「村さめ」を注文したが、肴が古いと文句を言いながらのんでみると、えらく水っぽい。

「おい、ばあさん、ひでえな。水で割ってあるんだろう」
「なにを言ってるだ。そんだらもったいないことはしねえ。水に酒を落としますだ」

底本:五代目柳家小さん

しりたい

煮売屋

上方落語「煮売屋にうりや」を四代目柳家小さんが東京に移したもので、東京で演じられるようになったのは、早くても大正後期以後でしょう。

「煮売屋」は、長い連作シリーズ「東の旅」のうち、「七度狐」と題されるくだりの一部です。

「七度狐」はさらに細かく題名がついていて、発端が、おなじみ清八と喜六の極楽コンビがお伊勢参りの道中、奈良見物のあと、野辺で尻取り遊びなどしてふざけ合う「野辺歌」から「煮売屋」に続き、このあと、イカの木の芽あえを盗んで捨てたすり鉢が化け狐の頭に当たったことから怒りを買って化かされる「尼寺つぶし」へと入ります。

煮売屋は、ここでは道中ですから、宿外れの立て場酒屋ということになります。

上方では独立して演じられることは少なく、一席にする場合は、侍を出し、煮売屋のおやじとの、このあたりでは夜な夜な白狐が出るというやりとりをコンビが聞きかじり、隣の荒物屋で侍気取りの口調で口真似するという滑稽をあとに付けます。

小さんの工夫

道中のなぞ掛け、都々逸を付けたのは四代目小さん(大野菊松、1888-1947)の工夫で、上方の「野辺歌」のくだりを参考にしたと思われます。

それ以前に、三代目三遊亭円馬(橋本卯三郎、1882-1945)が上方の「七度狐」をそのまま江戸っ子二人組として演じた速記があります。

円馬は東京の噺家ながら長く大阪に在住して当地で活躍しました。

その中で二人が珍俳句をやりとりするくだりがあるので、そのあたりもヒントになっているのでしょう。

四代目の演出は、そのまま五代目小さん(小林盛夫、1915-2002)、さらにその門下へと受け継がれ、現在もよく口演されます。

都々逸

どどいつ。文政年間(1818-30)に発祥し、流行した俗謡です。

前身は「よしこの節」で、その囃し詞「どどいつどんどん」から名が付きました。

歌詞は噺に登場する通り、七七七五が普通で、江戸独特の洒落や滑稽を織り交ぜたものです。

昭和初期から先の大戦後にかけては、初代柳家三亀松(伊藤亀太郎、1901-1968、池之端の師匠)が「お色気都々逸」で一世を風靡しました。

【語の注】
都々逸 どどいつ
案山子 かかし
行灯 あんどん

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ちょうちんや【提灯屋】落語演目

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【どんな?】

町内に新しい店。
無筆でなんの店かわからず。
それが提灯を造って売る店で。
上方から東京にもってきた噺。
滑稽噺の秀作です。

あらすじ

無筆が多かった昔の話。

町内でチンドン屋が、広告を配って歩いている。

長屋の連中、広告を見てやってきたと言えば向こうで喜び、お銚子の一本も出すかもしれないと、さっそく出かける相談。

ところがあいにく、誰も字が読めず、何屋なのかわからない。

そば屋ならもっとのびた字を書きそうなものだし、寿司屋なら握った字を書いてあるはず、てんぷら屋か、はたまた中華料理か、変わったところで、大阪ではすっぽんをまるというから、こう字が丸まったところを見てすっぽん屋かしら、いや、かしわ(鶏)料理屋だろうと、食い意地が張って、片っ端から食い物屋の名前を並べ立てても、らちが明かない。

そこへ米屋の隠居が来たので、読んでもらうと、これが食い物ではなく、提灯屋の新規開店の広告。

一同がっかり。

「当日より向こう七日間は開店祝いとして、提灯のご紋、笠の印等は無代にて書き入れ申し候。柏町一丁目五番地、提灯屋ブラ右衛門」と、あった。

万一、書けない紋があるときは、お望みの提灯をタダでくれるというので、「大きなことを抜かしゃあがる。それなら証拠の広告を持って、タダでもらってこようじゃねえか」と、一座の兄貴分が計略を巡らす。

とても書けないような紋を言い立て、へこましてやろうという算段だ。

まず一人目が、
「鍾馗さまが大蛇を輪切りにした紋を書いてみろ」
と判じ物で迫り、降参させる。

鍾馗さまは剣を持っていて、うわばみを胴斬りにしたから、まっ二つに分かれて片方がうわ、もう片方がばみ。併せて、剣かたばみ、というわけ。

二人目は
「仏壇の地震てんだが、書けるか?」

仏壇に地震がくれば、りんもどうもひっくり返るから、りんどう崩し。

これで、ぶら提灯を二つせしめた。

三人目は「髪結床看板が湯に入って熱い」という、妙な紋。

髪結床の看板はねじれていて、熱いからうめろというので、合わせてねじ梅。

四人目は
「おめえだな、提灯をただくれるてえのは」
と、最初からもらったも同然というずうずうしさ。

この男のが長い。
「算盤の掛け声が八十一で、商売を始めて、もうかったが持ちつけない銭を持って、急に道楽を始めた。家に帰らないから嫁さんが意見がましいことを言う。なに言ってやんでえベラボウめ。男の働きだ。ぐずぐず言うならてめえなんぞ出ていけってんで、かみさんを離縁しちまった」
という紋。

謎解きは、八十一は九九、もうかったから利があり、これでくくり。かみさんが去っていったから、合わせてくくりざる。

出す提灯、出す提灯、みんなタダで持っていかれた提灯屋、もうなんとでも言ってきやがれ、とヤケクソ。

一方、町内は提灯行列。

そこへ、隠居までやってきた。

さあ、こいつが元締めかと、提灯屋はカンカン。

隠居、よりにもよって一番高い高張提灯がほしいと抜かす。しかも二つも家まで届けろというから、念がいっている。

「で、紋だが」
「ほうら、おいでなすった。鍾馗さまが大蛇を輪切りにして、仏壇の地震でもって、八十一が商売始めて、もうかってかみさんを離縁したって言おうてんだろう」
「落ち着きなさい。私の紋は丸に柏だ」
「うーん、元締めだけあって、無理難題を言ってきやがる。丸に柏、丸に柏と……あッ、わかった。すっぽんにニワトリだろう」

しりたい

提灯屋の集団

噺の中に「傘の印」とあるように、傘を合わせてあきなっているところも多く、その場合、傘の形をした看板に「ちゃうちん」と記してありました。より詳しくは「花筏」をお読みください。

もちろん、この噺でわかるように、紋の染物屋も兼ねた、三業種兼業のマルチ企業だったわけです。

判じ物

判じ物は、狭義では絵や文字から、隠された意味を解かせるもので、現在の絵解きパズルに当たります。単なるなぞなぞ、なぞかけを意味することもあり、この噺で持ち込まれる難題は、そちらに当たります。

江戸っ子はシャレ好きで、地口、なぞかけなど、さまざまなクイズを楽しみ、時には賭けの対象にしました。

代表的ななぞかけには、

宵越しのテンプラ→揚げ(=上げ)っぱなし 
金魚のおかず→煮ても焼いても食えない 
やかんの蛸→手も足も出ない

などがあります。「宵越しのテンプラ」などは、現在でもエスカレーターが上りだけで下りがないビルなどに使えそうですね。

『浮世断語』(三代目三遊亭金馬著、河出文庫から復刻)」はいちおしです。

江戸っ子学の宝庫で、こうしたなぞかけ、判じ物についてわかりやすく解説し、実例も豊富に載っています。

残る速記は五代目小さんのだけ

落語としては上方が本家で、東京に移植したのは三代目三遊亭円馬(橋本卯三郎、1882-1945、大阪→東京)と言われますが、はっきりしません。

円馬から四代目柳家小さん(大野菊松、1888-1947)を経て、五代目小さん(小林盛夫、1915-2002)に継承されました。現在、小さん一門を中心に演じられていますが、手掛ける者は多くはないようです。

速記、音源とも、長らく五代目のものだけでしたが、柳家小三治(郡山剛蔵、1939-2021)、三遊亭小遊三などのCDも出ています。上方では、露の五郎兵衛が演じていました。

発掘された原話

原話はずっと不明とされていましたが、武藤禎夫(1926-、東大→朝日新聞社→共立女子短大、近世舌耕芸)は、明和6年(1769)刊『珍作鸚鵡石』中の「難題染物」を原型としてあげています。

これは、提灯屋は登場しませんが、大坂・嶋の内に「難題染物」の看板を掲げる店があり、そこの主人が無類の囲碁好き。今日も友人と碁盤を囲んでいるときに「一つ足らん狐の一声」という紋の注文が来ます。わからずに考え込むと、友人が、「九曜の紋(大円の周りを八つの小円が囲む)なら十に一つ足らず、狐の一声なら『コン』で、合わせて紺の九曜」と、教えるというすじです。

紋を注文するのに、なぞかけで出すという趣向が、確かに「提灯屋」の原話と思わせる小咄です。

【語の読みと注】
鍾馗 しょうき
判じ物 はんじもの:謎かけ

スヴェンソンの増毛ネット

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どうとり【胴取り】落語演目

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【どんな?】

夜道、職人が田舎侍に斬られた、らしい。
首はどぶ板の上でしゃべってる。
胴体は気づかず歩いてる。
おいおい。これは困ったなぁ。

あらすじ

露天博打ですってんてんにされた職人。

寒さにふるえ、
「ついてねえ」
と、ぐちりながら
「土手は寒かろォォ」
と、やけで都々逸をうなって道を急いでいると、ふいに
「それへめえる町人、しばらく待て」
と呼び止められる。

驚いて、暗がりをすかして見ると、大柄な侍。

むかっ腹が立って
「なんの用だか知らなえが、江戸は火事早えんだ、とんとんやっつくれ」
と、まくしたてると
「身供は今日、国元より初めてまかり越した。麹町へはどうめえるか、教えろ」

男、田舎侍と侮って八つ当たり気味に
「この野郎、おおたばなことォぬかしゃあがって。どうでもめえれ。東ィ行ってわからなきゃあ西、西で知れなきゃ北、東西南北探せ。どっか出らあ。ぐずぐずしやがると、たんたんで鼻かむぞ」
「無礼を申すと手は見せんぞ。長いのが目に入らんか。……二本差しておるぞ」
「てやんでえ田子作め。見せねえ手ならしまっとけ。手妻使いじゃあるめえし、そんな長いもんが目に入るか。二本差しがどうしたんでえ。二本差しがこわくて田楽で飯が食えるか。気のきいた鰻なんぞァ四本も五本もさしてらァ。まごまごしゃあがると引っかくぞ」

男、侍にいきなり痰と唾をひっかけた。

これがご紋どころへ、べっとり。

侍、堪忍袋の緒が切れて
「おのれ無礼者ッ」
と、長いのをすっと抜く。

さすがに驚いて、ばたばたと逃げてかかると、追いかけた侍、
「えいっ」
と、掛け声もろとも居合いでスパッと斬り、あっという間に鞘に納めると、謡をうたって行ってしまった。

男、「つらァみやがれ」と、悪態をついているうちに、なんだか首筋がひんやり。

首がだんだん左回りに回ってずれてくる。

そのうち完全に真横を向き、息が漏ってきた。

「野郎、いったい何しゃあがったか」と、首筋をしごくと赤い血がベットリ。

「野郎、斬りゃあがった」
と、あわてて下を向くと、とたんに首は前に転げ、胴体だけが掛け出し、橋を渡ったところでバッタリ。

そこへ、威勢よく鼻唄をうなった男が来かかる。

酒が入って懐が温かいらしい。首だけで見上げると、友達の熊。

いきなり声をかけられたが、姿が見えないのでキョロキョロ。

「どこにいるんだ?」
「足もと」

見ると首だけがどぶ板に乗っかって、しゃべっている。

「どうしたんだよ。……おやおや、だから言わねえこっちゃねえ。くだらねえサンピンにかかわるなって。で、胴はどうした? 橋向こう? そりゃ、てえへんだ」

熊が
「今日は博打の目が出て、二、三十両もうかった」
と自慢すると、首が
「五両貸してくれ」
と、頼む。

「そらあ、友達だから貸さねえもんでもねえが、その金でどうしようってんだ?」
「へへっ、橋向こうに胴を取りに行く」

しりたい

クビが飛んでも動いてみせるわ

前半は「首提灯」と同じで、原話は安永3年(1774)刊の笑話本『軽口五色帋』中の「盗人の頓智」ほかの小咄です。「首提灯」をお読みください。

江戸落語と思いきや、噺としては上方種です。長く大阪で活躍した三代目三遊亭円馬(橋本卯三郎、1882-1945、大阪→東京)が東京に移植しました。

先の大戦後は、三代目三遊亭小円朝(芳村幸太郎、1892-1973)が持ちネタにしましたが、ポピュラーな「首提灯」と前半がほとんど同じなので、小円朝没後はほとんど演じられません。

一つには、「館林」「首提灯」と同様に首を斬られてもしゃべるという奇想天外さを持ちながら、斬られてからのセリフが長すぎるため、せっかくの新鮮な印象が薄れてしまうということも、あるのでしょう。

おおたば

「この野郎、おおたばなことォぬかしゃァがってェ」
と、タンカの先陣を切りますが、おおたばは「大束」で、本来は「並々でないことを安易に安っぽく扱うこと」。

ところが、どこかで意味の誤用が定着したのか、それと正反対の「大げさなこと」という意味に変わりました。

さらにそこから、「傲慢」「尊大」「横柄」「大言壮語」という意味がついたのですから、ややっこしいかぎりです。

この場合は悪態ですから、当然第二の意味ですが、「もっとご丁寧に頼むのが礼儀なのに、町人と侮って、安易にぬかしゃあがって」という意味にも取れなくはありません。

蛇足ながら、ネイティブの発音では「おおたば」の「ば」は「ば」と「ぼ」の中間の破裂音です。

胴取り

バクチで親になることで、オチは、もちろんそれと掛けた洒落です。

浅黄裏

あさぎうら。「棒鱈」「首提灯」を聴いてもわかりますが、ご直参の旗本には一目置いていた江戸っ子も「浅黄裏」と蔑称する田舎侍は野暮の象徴です。

江戸勤番ともいい、参勤交代で藩主について国許から出てきた藩士です。

同じ藩中でも、江戸詰めの者は、中には江戸の藩邸で生まれ、勤務はずっと在府で、国許を知らないことさえあったのですから、その立ち居ふるまいや暮らしぶりの違いは相当なものでした。

江戸勤番でも、「立ち返り」といってそのまま引き返す者と、藩主の在府中、江戸に留まる者とに分かれていました。

やがては、浅黄裏どもに完膚なきまでにやられ、江戸を思いのままにされてしまったのですから、ベランメエも口ほどにもありません。

露天博打

野天丁半ともいい、ほとんどイカサマでした。江戸では浅草の大鳥神社境内が本場。

三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)の「怪談牡丹燈籠」の伴蔵の啖呵、「二三の水出しやらずの最中、野天丁半ぶったくり」は有名で、水出しも最中も露天博打の種類です。

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さんとさんにんえし【三都三人絵師】落語演目



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【どんな?】

志ん生も時折。愉快なネタです。

ヘンな関西弁も聞こえてきます。

別題:三人絵かき 京阪見物かみがたけんぶつ

あらすじ】  

江戸っ子の三人組が上方見物に来て、京の宿屋に泊まった。

その一人が寝過ごしているうちに、ほかの二人はさっさと市中見物に出かけてしまって、目覚めると誰もいない。

不実な奴らだと怒っていると、隣から声が聞こえる。

大坂の者と京者らしい。

よく聞いてみると、やれ鴨川かもがわの水は日本一で、江戸の水道はどぶ水だの、関東の屁毛垂へげたれだの、人種が下等だのと、江戸の悪口ばかり。

さあ頭にきた江戸の兄さん、威勢よく隣室へ乗り込む。

さんざん悪態をついたあと
「やい黒ん坊、てめえの商売はなんだ」
「名前があるわ。わたいは大坂の絵師で、武斎ちゅうもんで」
「ムサイだあ? きたねえ面だからムサイたあよく付けた。やい青ンゾー、出ろ」
「うちは許してや」
「出ねえと引きずり出すぞ。てめえは何者だ」
「うちは西京の画工で俊斎」
「ジュンサイだあ? 道理でヌルヌルした面だ」
「それであんたは?」
「オレか? オレも絵師よ」

もちろん、大ウソ。

こうなればヤケクソで、
「姓は日本、名は第一、江戸の日本第一大画伯たあ、俺のことだ」
と大見得を切る。

そこで、三都の絵師がせっかく一所にそろったのだから、ひとつ絵比べをしようじゃねえか、ということになった。

一人一両ずつ出し、一番いい絵を描いた者が三両取るという寸法。

俊斎が先に、木こりがノコを持って木を挽く絵を描いた。

「やい青ンゾー、てめえとても絵師じゃあメシがくえねえから死んじまえ」
「どこが悪い」
「木こりが持つのはノコじゃねえ。ガガリってえもんだ。それは勘弁してやるが、おが屑が描いてねえ」

これで、まず一両。

続いて武斎。

母親が子供に飯をくわせている図。

「やい、黒ん坊。てめえも絵師じゃ飯がくえねえが、二人並んで首ィくくるのもみっともねえから、てめえは身を投げろ。俺が後ろから突き飛ばしてやろう」

「これは、継子ならともかく、本当の子ならおっかさんが口をアーンと開いてやってこそ子供も安心して食べられる。それなのに、母親が気取って口を結んでいるとはどういうわけだ」

なるほどもっともなご託宣なので、武斎も、しかたなく一両出す。

いよいよ今度は、江戸っ子の番。

日本第一先生、もったいぶった顔で刷毛はけにたっぷり墨を含ませる。

ついでに二人の顔をパレット代わりに使い、真っ黒けにしてから、画箋を隅から隅まで黒く塗りつぶし、
「さあわかったか」
「さっぱりわからん」
「てめえたちのようなトンマにゃわかるめえ。こいつはな、暗闇から牛を引きずり出すところだ」

スヴェンソンの増毛ネット

しりたい】  

志ん生が復活した旅噺 【RIZAP COOK】

この噺自体の原話は不明ですが、長編の「三人旅」シリーズの終わりの部分、「京見物(京阪見物)」の一部になっています。

三代目春風亭柳枝(鈴木文吉、1852-1900)の明治26年(1893)の速記では「京阪見物かみがたけんぶつ」として、「東男」と称する市内見物の部分の後、「祇園会(祭)」の前にこの噺が挿入されています。

明治期にはほとんど「東男」や「祇園会」にくっつけて演じられましたが、二代目禽語楼小さん(大藤楽三郎、1848-98)は一席噺として速記を残しています。『百花園』明治24年(1891)8月20日号。

その後すたれていたのを、先の大戦後、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)が復活。志ん生の没後、やり手はほとんどいません。

青ンゾー 【RIZAP COOK】

「青ん蔵」とも書きます。ヒョロヒョロで顔が青いという印象で、京都人をののしっているわけです。

上方落語「三十石」でも、船の中で大坂人が京都人をばかにして、「京は青物ばかり食ろうて往生(王城)の地や」と言う場面があります。

語源は北関東訛りの「アオンゾ」もしくは「アオンベイ」だといいます。

五代目志ん生は、「てめえはつらが長えから、あご僧だ」と言っていますが、これが志ん生の工夫なのか単なる勘違いかはわかりません。

同じく大坂の絵師をののしる「黒ん坊」は、芝居で舞台の介添えをする「黒子」のことです。

屁毛垂れ 【RIZAP COOK】

へげたれ。江戸っ子をののしる言葉ですが、甲斐性なし、阿呆あほうを指す上方言葉です。

江戸者に使う時は、屁ばかり垂れている関東の野蛮人の意味と思われます。

ガガリ 【RIZAP COOK】

大型のノコギリのことで、ガカリとも呼びます。用具に詳しいところから、この「江戸はん」は大工と見られます。



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にせきん【贋金】落語演目



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【どんな?】

廃れた噺ですが、おもしろいですね。珍品落語です。

別題:酒の癖 錦屋の火事(上方)

あらすじ

ころは明治。

大酒飲みで名の通った某士族の家に、出入りの道具屋、金兵衛が、先日売った書画の残金三円を掛け取りにやってくる。

この殿さま、酔うと誰彼かまわずからむ癖があるやっかいな代物で、今日も朝からぐでんぐでんになった挙げ句、奥方や女中を悩ませている。

さっそく標的になった金兵衛、おそるおそる催促するが、殿さまは聞かばこそ。

三円ばかりの金をもらうという料簡だからきさまは大商人になれん、俺はきさまをひいきに思えばこそ金はやれんと、酔いに任せて吹き放題。

のまされるうちに金さんにも酔いが回ってきて、殿さまのためならご恩返しに首でも命でも捨てまさァ、と、言ってしまう。

「その一言に相違なければ、その方にちと頼みがある」
「だからさァ、首でも命でもあげますってのに」

その頼みというのが、実にとんでもないことで、友達が今度、おのおのが珍しいものを持ち寄って楽しむ会を催すことになり、そこで自分も珍物を出品したいが、それについて思い出したのがきさまの金玉。

「きさまのがタヌキ並みであることを知っておるによって、ぜひ切り取って譲ってもらいたい。明朝八時までに持ってくれば、代金五十円やる。いやなら即刻お出入り禁止にする」
ときた。

すっかり酔いが醒めた金兵衛、しどろもどろになったがもう遅い。

泣く泣く、チン物提供を約束させられてしまった。

翌日。

飲み明かして二日酔いの殿さま。

これが昨日のことはすっかり忘れてしまっている。

そこへ、青い顔をした金兵衛がやって来て
「お約束通り、金を切ってきました」

さあ、困ったのは、殿さま。

なにしろ、そんな約束はキレイさっぱり忘れているうえ、こんなものを持ちこまれても外聞が悪い。

しかたがないので、治療代五十円に、借金分兼口止め料三円も付けてようやく帰ってもらったが、そこでつくづく自分の酒乱を反省し、酒をのむたびに五十円の金玉を買ったのではたまらないので、すっぱりと酒を止めると、言いだす。

それにしても気の毒なのは金兵衛、と改めて包みの中をのぞいてみると、これが金玉とは真っ赤ないつわりで、蛸の頭を二つ生ゆでにして毛を刺しただけ。

「あいつめ、五十円ごまかしたな」

それから三日とたたないうちに、金兵衛はお召し捕り。「贋金づかい」というので、お仕置きになった。

底本:二代目(禽語楼)小さん

【RIZAP COOK】

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【しりたい】

貨幣贋造は厳罰   【RIZAP COOK】

江戸時代の「公事方御定書」ではもちろん死罪。

それが緩和され、死刑の適用範囲が減った明治3年(1870)の「新律綱領」、明治15年(1882)の刑法でも死刑。

ビクトリア朝英国でも、アメリカでも縛り首。

かつてはどこの国でも死刑を科していたものですが、いまは死刑廃止の趨勢です。

柳家の噺を三遊宗家が復活か  【RIZAP COOK】

オチの部分は文化4年(1807)刊の笑話本『按古落当世』中の小咄が原話です。

古くから柳家小さん系の噺で、明治24年6月の『百花園』に二代目(禽語楼)小さんが「酒の癖」と題して速記を載せています。

上方では「錦屋の火事」の題で演じられていました。

二代目小さん以後、三代目小さん、三代目蝶花楼馬楽と弟子、孫弟子に継承されました。

三遊系の三代目三遊亭円馬らも演じ、戦後、二代目小さんの速記をもとに六代目円生が復活しました。

禁演落語の一  【RIZAP COOK】

昭和16年(1941)10月31日、長瀧山本法寺(日蓮宗、台東区寿町2-9-7)の「はなし塚」に葬られた53種の禁演落語の一つでした。

落語家たちが忖度して、自ら高座に掛けるのを止めていた落語のことです。

モノがモノなので、艶笑落語という理由ではなく、この非常時に不謹慎な、という自粛もあったでしょう。

【語の読みと注】
公事方御定書 くじかたおさだめがき
按古落当世 あごおとせ



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ちょうじゃばんづけ【長者番付】落語演目

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【どんな?】

これも古い上方噺。「東の旅」シリーズの一話です。

別題:うんつく酒(上方)

【あらすじ】

江戸っ子の二人組。

旅の途中、街道筋の茶店でひどい酒をのまされたので、頭はくらくら、胸はムカムカ。

迎え酒に一杯いい酒をひっかけたいと思っていると、山道の向こうに白壁で土蔵造りの家が見えてきた。

兄貴分が、あれは造り酒屋に違いないから、あそこでうんとのましてやると励まし、おやじに一升ばかり売ってほしいと交渉すると
「一升や二升のはした酒は売らねえ」
と断られる。

どのくらいならいいのかと聞くと、
「そうさな。馬に一駄、船で一艘ぐれえかな」

一駄は四斗樽が二丁、船一艘なら五、六十丁というから、兄貴分の怒ったの怒らないの。

「人をばかにするのもいい加減にしろッ。こちとらァ江戸っ子だ。馬に一駄も酒ェ買い込ん道中ができるかッ。うんつくめのどんつくめッ」

その勢いにおそれをなしたか、おやじは謝り、酒は売るから腰掛けて待っていてくれと言っておいて、こっそり大戸を下ろしてしまった。

気づいたときは遅く、薪ざっぽうを持った男たちが乱入。

さては袋だたきかと身がまえると、おやじ
「さっきおまえさまの言った『うんつくのどんつく』というなあ、どういうことか、聞かしてもれえてえ」
と大変な鼻息。

兄貴分、これはまずいと思いながら、後ろに張ってある長者番付に目を止め、
「江戸ではそれを運つく番付という」
と口から出まかせ。

「江戸の三井と大坂の鴻池は東西の長者の大関だが」
と前置きして、ウンツクのウンチクをひとくさり。

「鴻池の先祖は伊丹で造り酒屋をしていたが、そのころはまだ清酒というものがなかった。あるとき、雇った酒造りの親方があまり金をせびるので、断ると、腹いせに火鉢を酒樽に放り込んで逃げた。ところが、運は不思議で、灰でよどみが下に沈み、澄んだ酒ができた」

これを売って大もうけ、運に運がついて大身代ができたから、大運つくのど運つく。

一方、三井の先祖は越後新発田の浪人で、六部で諸国を廻っていたとき、荒れ寺に泊まると、夜中に井戸から火の玉が三つ。

調べると、井戸底に千両箱が三つ沈んでいた。

これをもとに松坂で木綿を薄利多売し、これも大もうけして、やがて江戸駿河町に呉服屋を開き、運に運に運がついて今では大長者。

おまえのところも今に長者になるから、運つくのど運つくとほめたのがわからねえかと、居直る。

暖簾から顔を出したかみさんは、女ウンツク、青っぱなを垂らした孫は孫運つくで、今に大運つくになると与太を並べると、おやじは大喜び。

酒をふるまった上、
「今度造り酒屋で酒を買いたいときは、利き酒をしたいと言えばいい」
と教える。

江戸では大ばか野郎をウンツクというが、まんまとだまされやがったとペロリと下を出した二人、ご機嫌で街道筋に出ると、後ろから親父が追いかけてくる。

「おめえさまがたをほめるのを忘れていただ。江戸へ帰ったら、りっぱな大ウンツクのどウンツクになってくだせえ」
「なにを抜かしゃあがる。オレたちはウンツクなんぞ大嫌えだ」
「えっ、嫌えか? 生まれついての貧乏人はしようがねえ」

【しりたい】

上方種長編の一部

古くから親しまれた上方落語の連作長編シリーズ「東の旅」の一話です。

清八と喜六の極楽コンビが伊勢参宮の途中、狐に化かされる「七度狐」に続く部分です。

「うんつく」「うんつく酒」の題で演じられてきました。

上方では、悪態の意気で六代目笑福亭松鶴が優れていました。

東京への移植者とその時期は不明ですが、戦後は三代目桂三木助、八代目春風亭柳枝が得意とし、五代目小さんもたまに演じました。

原話は、安永5年(1776)刊の笑話本『鳥の町』中の「金物見世」。

皮肉にもこれは江戸板なので、東→西→東とキャッチボールされたことになります。

この小咄では「うんつく」でなく「とうへんぼく」がキーワードであることでも、ルーツが江戸であることがうかがわれます。

演出の異同

噺中の三井と鴻池のエピソードは、時間の関係でどちらかを切ることもあります。

東京風の演出では、上方の「煮売屋」を改作した「二人旅」のオチ近くのくだりを圧縮して「長者番付」の前に付け、続けて演じることもあります。

「二人旅」については、その項をご参照ください。

「東の旅」の順番

「東の旅」の順番では、伊勢路に入り、「野辺歌」「法会」「もぎとり」「軽業」「煮売屋」「七度狐」に続いて、この「うんつく」(長者番付)になり、この後、連れがもう一人増えて「三人旅」で、伊勢参宮のくだりは一応完結します。

うんつく

この噺の、上方落語の演題でもあります。

うんつくは運尽と書き、「運尽くれば知恵の鏡も曇る」ということわざから、上方言葉で「阿呆」「野暮」の意味が付きました。

したがって、「ど運尽く」は「大ばか」。「ど」は上方の罵言なので、本来は江戸落語にない語彙です。上方落語のものがそのまま残ったのでしょう。

ところが、後にはこれをもじって、本当に「運付く」で幸運の意味が加わったからややこしくなりました。同音異義語のいたずら悪戯です。

造り酒屋

造り酒屋は本酒屋ともいい、醸造元で、卸専門の店ではこの噺のように小売はしない建前でしたが、地方には、小売酒屋を兼ねている店も多く見られました。

清酒事始め

噺の中で、鴻池が作ったというのはヨタです。

実は享保年間(1716-36)、灘の山邑太左衛門が苦心の末発明し、「政宗」として売り出したのが最初。

全国に普及したのは、その1世紀も後の文化年間(1804-18)なので、江戸時代も終わり近くなるまで、一部の地方では濁り酒しか知らなかったことになります。

【語の読みと注】
暖簾 のれん
煮売屋 にうりや
山邑太左衛門 やまむらたざえもん



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ぞろぞろ【ぞろぞろ】落語演目



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【どんな?】

「黄金の壷」「瘤取り爺さん」のような噺。「ぞろぞろ」違いがミソ。

【あらすじ】

浅草田圃たんぼの真ん中にある、太郎稲荷たろういなりという小さな社。

今ではすっかり荒れ果てているが、その社前に、これもともどもさびれて、めったに客が寄りつかない茶店がある。

老夫婦二人きりでほそぼそとやっていて、茶店だけでは食べていけないから、荒物あらものや飴、駄菓子などを少し置いて、かろううじて生計をたてている。

じいさんもばあさんも貧しい中で信心深く、稲荷社への奉仕や供え物はいつも欠かさない。

ある日のこと。

夕立があり、外を歩く人が一斉にこの茶屋に雨宿りに駆け込んできた。

雨がやむまで手持ちぶさたなので、ほとんどの人が茶をすすり駄菓子を食べていく。

こんな時でないと、こう大勢の客が来てくれることなど、まずない。

一度飛び出していった客が、また戻ってきた。

外がつるつる滑って危なくてしかたがない、という。

ふと天井からつるした草鞋わらじを見て、
「助かった。一足ください」
「ありがとう存じます。八文で」

一人が買うと、
「俺も」
「じゃ、私も」
というので、客が残らず買っていき、何年も売り切れたことのない草鞋が、一時に売り切れになった。

夫婦で、太郎稲荷さまのご利益りやくだと喜び合っていると、近所のげんさんが現れ、鳥越とりこえまでこれから行くから草鞋を売ってくれと頼む。

「すまねえ。たった今売り切れちまって」
「そこにあるじゃねえか。天井を見ねえな」

言われて見上げると、確かに一足ある。

源さんが引っ張って取ろうとすると、なんと、ぞろぞろっと草鞋がつながって出てきた。

それ以来、一つ抜いて渡すと、新しいのがぞろり。

これが世間の評判になり、太郎稲荷の霊験れいげんだと、この茶屋はたちまち名所に。

浅草田町あさくさたまちあたりの、はやらない髪床かみどこの親方。

客が来ないので、しかたなく自分のひげばかり抜いている。

知人に太郎稲荷のことを教えられ、ばかばかしいが、退屈しのぎと思ってある日、稲荷見物に出かける。

行ってみると、押すな押すなの大盛況。

茶店のおかげで稲荷も繁盛し、のぼり、供え物ともに、以前がうそのよう。

爺さんの茶店には黒山の人だかりで、記念に草鞋を買う人が引きも切らない。

親方、これを見て、
「私にもこの茶店のおやじ同様のご利益を」
と稲荷に祈願、裸足参はだしまいりをする。

満願の七日目、願いが神に聞き届けられたか、急に客が群れをなして押し寄せる。

親方、うれしい悲鳴をあげ、一人の客のヒゲに剃刀かみそりをあてがってすっと剃ると、後から新しい髭が、ぞろぞろっ。

【しりたい】

彦六ゆかりの稲荷綺譚

もとは上方落語で、落語界屈指の長寿を保った初代橘ノ円都たちばなのえんと(1883-1972)が得意にし、上方での舞台は赤手拭稲荷あかてぬぐいいなり(大阪市浪速区稲荷2-6-26)でした。

東京では、早く明治期に四代目橘家円蔵(松本栄吉、1864-1922)が手がけ、その演出を継承した八代目林家正蔵(彦六=岡本義、1895-1982)が、これも上野の稲荷町に住んでいた縁があってか(?)さらに格調高く磨き上げ、十八番にしました。

四代目円蔵とは、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)の師匠で「品川の師匠」といわれた人です。

戦後では三代目三遊亭小円朝(芳村幸太郎、1892-1973)も演じましたが、舞台は四谷・お岩稲荷としていました。

笑いも少なく、地味な噺なので、両師の没後はあまり演じ手がいません。

太郎稲荷盛衰記 

太郎稲荷は、浅草田圃の立花家(筑後柳川藩、11万9600石)下屋敷の敷地内にありました。

当時の年代記『武江年表』(斎藤月岑著)の享和3年(1803)の項に、その年2月中旬から、利生りしょうがあらたかだというので、太郎稲荷が急にはやりだし、江戸市中や近在から群集がどっと押しかけたと記されています。

あまりに人々が殺到するので、屋敷でも音を上げたとみえ、とうとう開門日を朔日さくじつ(1日)、15日、28日およびうまの日と制限したほどでした。

文化元年(1804)にはますます繁盛し、付近には茶店や料理屋が軒を並べました。

この噺にある通り、さびれていたほこらがりっぱに再建されたばかりか、もとの祠を「隠居さま」とし、新しく別に社を立てたといいます。

ところが、稲荷ブームは流行病のようなもので、文化3年(1806)3月4日、芝車町しばくるまちょうから発した大火で灰燼かいじんし、それから二度と復興されませんでした。

太郎稲荷のおもかげ

井上安治いのうえやすじ(1864-89)が、明治初期の太郎稲荷を描いています。満月が照らす荒涼とした風景はぐっとくる懐かしさをこみ上げさせます。井上は小林清親(1847-1915)の一番弟子で、浮世絵師、版画家として優れた作品を残しています。

樋口一葉(1872-96)の「たけくらべ」でも、主人公・美登利が太郎稲荷に参拝する場面がありました。

浅草田圃太郎稲荷 井上安治 東京都立中央図書館所蔵



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らいおん【ライオン】落語演目

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【どんな?】

明治40年(1907)の上方噺「動物園」が原型。
いまや年季の入った古典落語のひとつです。

別題:動物園(上方)

【あらすじ】

失業中の男。

ヤケになって、このところほとんど家にも帰らない。

いよいよ切羽詰まり、知人の家へ相談に行くと、月に二百円(明治の終わりの!)稼げるいい商売があるから、やってみないかと誘われた。

その職場というのが、今度新しくできた動物園。

「へえ、聞いてますが、世にも珍しい白いライオンがいるとかいう」
「実は、そのライオンになってもらいたい」

要するに、これはインチキ。

そんなライオンがいるわけがないから、ぬいぐるみでこしらえたが、実によくできていて、本物のライオンみたいだ。

そこで、その中に人間を入れ、ノッシノッシと歩かせて、客をたぶらかし、呼び物にしてたんまり稼ごうという魂胆。

「勤務」は朝の9時から午後4時までで、うまくいけばボーナス3千円も出るし、ライオンのエサ用に客が買った牛肉も、全部おまえのものになる、という。

もちろん、お上に聞こえれば手が後ろに回るから、女房子供にも絶対に秘密。

こういうヤバい商売でなければ、そんな大金をくれるわけがない。

「ナニ、要領を覚えりゃ簡単さ。ライオンてえのは、猛獣だから落ち着いて歩かなくちゃいけない。胴を左右にひねって、少し右肩を下げて……」

ともかく、歩き方を教わると、イチかバチかやってみる気になり、開場当日の朝、行ってみると、満員の盛況。

この動物園はサーカスと同じ興行方式で、あやしげな弁士が登場。

「ここにご覧に入れまするは、当館の呼び物、世にも珍しい真っ白いライオン……」

口上を述べると、楽隊もろとも緞帳が上がる。

ぬいぐるみの中の先生、次第に興奮してきて、「月200円ならいい商売だ。生涯ライオンで暮らそうか」などと、勝手なことを思いながら、大熱演。

すると、また例の弁士が現れた。

「ええー、こちらにご覧に入れまするは、東洋の猛獣の王、虎でござーい。本来は黒と黄のブチでございますが、ここにおります虎は珍しい黒白のブチでございます」

口上が終わると、「ウオウー」と、ものすごいうなり声。

「えー。今日は特別余興といたしまして、ライオンと虎の戦いをご覧に入れます」

柵を取り外したから、驚いたのはライオン。

虎がノソリノソリと入ってくる。

「うわーッ、話がうますぎると思った」

これがこの世の見納めと、
「南無阿弥陀仏ッ」
と唱えると、虎が耳元で
「心配するな。オレも200円でやとわれた」

【しりたい】

上方の創作落語  【RIZAP COOK】

大阪の二代目桂文之助(1859-1930)が、明治40年ごろ「動物園」と題して自作自演。

ただし、元ネタは英国の笑話とか。オリジナルでは、反対に主人公が虎になります。

どちらにせよ、着想が奇抜でオチも意外性に富むので、古くから人気があり、東京でも八代目春風亭柳枝、七代目雷門助六、六代目春風亭柳橋などが好んで演じました。

現在でも主流は上方落語です。桂米朝一門が若手に至るまで、多くの落語家のレパートリーです。

東京では、七代目助六が「ライオンの見世物」、八代目柳枝と柳橋はオリジナル通り「動物園」。三遊亭金馬は「ライオン」で演じます。

動物園事始  【RIZAP COOK】

動物の見世物は、江戸時代にはおもに両国橋西詰の仮設見世物小屋で公開されました。

大型動物では、虎、豹、象、狒狒、鯨などさまざまありましたが、「唐獅子」として古くから存在を知られていたはずのライオンは旧幕時代の記録はなく、明治以後の輸入です。

虎は江戸初期から公開され、慶安元年(1648)の記録があります。

明治4年(1871)に湯島聖堂で最初の博覧会が催され、サンショウウオと亀を公開。さらに翌々年(1873)、ウィーン万国博出品のため、国内の珍獣が集められ、一般公開されました。

こうしたイベントのたびに、徐々に動物が増え、博覧会場が手狭になった関係で、明治15年3月、日本初の西洋式動物園が上野に開園。

ライオンの上野動物園への初輸入は明治35年(1902)。その後、キリン、カバなども続々お目見えしました。入場料は開園当初、大人1銭、子供5厘。

次いで、明治36年(1903)4月に京都市動物園(岡崎公園内)、大正4年(1915)元旦に大阪・天王寺動物園が、それぞれ開園しています。

【語の読みと注】
弁士 べんし:無声映画などで内容の説明する人

【RIZAP COOK】

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たばこのひ【莨の火】落語演目

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【どんな?】

もとは上方の噺。林家彦六が持ってきたといわれています。

あらすじ

柳橋の万八まんぱちという料理茶屋にあがった、結城拵ゆうきごしらえ、無造作に尻をはしょって甲斐絹かいき股引ももひき、白足袋しろたび雪駄せったばきという、なかなか身なりのいい老人。

欝金木綿うこんもめんの風呂敷包み一つを座敷に運ばせると、男衆の喜助に言いつけて駕籠屋かごやへの祝儀しゅうぎ二両を帳場に立て替えさせ、さっそく芸者や幇間たいこを総揚げに。

自分はニコニコ笑って、それをさかなにのんでいるだけ。

その代わり、芸者衆の小遣いに二十両、幇間に十両、茶屋の下働き全員に三十両と、あまりたびたび立て替えさせるので、帳場がいい顔をしない。

「ただいま、ありあわせがございません、と断れ」
と、喜助に言い渡す。

いよいよ自分の祝儀という時にダメを出された喜助、がっかりしながら老人に告げると
「こりゃあ、わしが無粋ぶすいだった。じゃ、さっきの風呂敷包みを持ってきておくれ」

包みの中には、小判がぎっしり。

これで立て替えを全部清算したばかりか、余ったのを持って帰るのもめんどうと、太鼓と三味線を伴奏に、花咲爺はなさかじいさんよろしく、小判を残らずばらまいて
「ああ、おもしろかった。はい、ごめんなさいよ」

「あれは天狗か」
と、仰天した喜助が跡をつけると、老人の駕籠は木場の大金持ち奈良茂ならもの屋敷前で止まった。

奈良茂ならご贔屓筋ひいきすじで、旦那や番頭、奉公人の一人一人まで顔見知りなのに、あの老人は覚えがない。

不思議に思って、そっと大番頭に尋ねると、あの方は旦那の兄で、気まぐれから家督を捨て、今は紀州で材木業を営む、通称「あばれ旦那」。

奇人からついた異名とのこと。

ときどき千両という「ホコリ」が溜まるので、江戸に捨てに来るのだ、という。

事情を話すと「立て替えを断った? それはまずかった。黙ってお立て替えしてごらん。おまえなんざあ、四斗樽ん中へ放り込まれて、ぬかの代わりに小判で埋めてもらえたんだ」

腰が抜けた喜助、帰って帳場に報告すると、これはこのまま放ってはおけないと、芸者や幇間を総動員、山車だしをこしらえ、人形は江戸中の鰹節を買い占めてこしらえ、鳶頭の木遣りや芸者の手古舞、囃子で景気をつけ、ピーヒャラドンドンとお陽気に奈良茂宅に「お詫び」に参上。

これでだんなの機嫌がなおり、二、三日したらまた行くという。

ちょうど三日目。

あばたれ旦那が現れると、総出でお出迎え。

「ああ、ありがとうありがとう。ちょっと借りたいものが」
「へいッ、いかほどでもお立て替えを」
「そんなんじゃない。たばこの火をひとつ」

しりたい

上方落語を彦六が移植

上方落語の切りネタ(大ネタ)「莨の火」を昭和12年(1932)に八代目林家正蔵(岡本義、1895-1982、彦六)が、大阪の二代目桂三木助(松尾福松、1884-1943)の直伝で覚え、東京に移植したものです。

正蔵(当時は三代目三遊亭円楽)は、このとき「おしの釣り」もいっしょに教わっていますが、東京風に改作するにあたり、講談速記の大立者、初代悟道軒円玉ごどうけんえんぎょく(浪上義三郎、1866-1940)に相談し、主人公を奈良茂の一族としたといいます。

東京では彦六以後、継承者はいません。

上方版モデルは廻船長者

本家の上方では、初代桂枝太郎(岩本宗太郎、1866-1927)が得意にしました。地味ながら現在でもポピュラーな演目です。

上方の演出では、主人公を、和泉いずみ佐野さのの大物廻船かいせん業者で、菱垣廻船ひがきかいせんの創始者飯一族の「和泉の飯のあばれだんな」で演じます。

「飯の」とは食野家めしのけのこと。江戸中期から幕末まで和泉国日根ひのね郡佐野(大阪府泉佐野市)をベースに繁栄した豪商の一家です。 屋号は「和泉屋」です。同地で栄えた唐金家からかねけととつねにセットに語られました。

江戸期の全国長者番付『諸国家業自慢』でも上位に載っています。ちなみに、和泉佐野は戦国末期から畿内の廻船業の中心地でした。

この一家は、元和年間(1615-24)に江戸回り航路の菱垣廻船で巨富を築き、寛文年間(1661-73)には廻船長者にのし上がっていました。

鴻池こうのいけは新興のライバルで、東京版で主人公が「奈良茂の一族」という設定だったように、上方でも飯の旦那が鴻池の親類とされていますが、これは完全なフィクションです。

上方の舞台は、大坂北新地の茶屋ちゃや綿富わたとみとなっています。

江戸の料理茶屋

宝暦から天明年間(1751-89)にかけて、江戸では大規模な料理茶屋(料亭)が急速に増え、文化から文政年間(1804-30)には最盛期を迎えました。

有名な山谷さんやの懐石料理屋八百善やおぜんは、それ以前の享保きょうほう年間(1716-36)の創業です。文人墨客ぶんじんぼっかくの贔屓を集めて文政年間に全盛期を迎えています。

日本橋浮世小路の百川ももかわ、向島の葛西太郎かさいたろう洲崎すざき升屋ますやなどが一流の有名どころでした。

江戸のバンダービルト

奈良茂は江戸有数の材木問屋でした。

もとは深川ふかがわで足袋商いなどをしていた小店者でしたが、四代目奈良屋茂左衛門勝豊かつとよ(?-1714)のときに、天和3年(1683)、日光東照宮の改修用材木を一手に請け負って巨富を築きました。

その豪勢な生活ぶりは、同時代の紀伊国屋文左衛門(1669?-1734)と張り合ったといわれていますが、多分に伝説的な話で、信憑性はありません。

噺の格好の材料にはなりました。初代から三代目までは小商いでした。

四代目の遺産は十三万両余といわれ、霊岸島に豪邸を構えて孫の七代目あたりまでは栄えていました。

その後、家運は徐々に衰えましたが、幕末まで存続していたそうです。

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