だいしょや【代書屋】演目

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

代書屋とは今の行政書士や司法書士のこと。大正期のなんとものんきなお話です。

別題:代書

【あらすじ】

色街の箱屋に応募するので、履歴書の代書を頼みに来た男。

長男かと聞くと、兄貴が死んだので長男になったとトンチンカンな答えで、一字訂正・判。

生年月日を聞けば旅順陥落提灯行列の日を答えるし、職歴では、大正三年九月饅頭屋を開業しようとしたが、家賃が高いからやめた、で二行抹消。

同十二月露天商は二時間でやめた。

また二行抹消と、メチャクチャ。

署名しろ、と言うと無筆。

自署不能ニ付キ代書・判。

次に来たのは、六十がらみの上品な老人。

結納の受取を毛筆でという注文。

墨が悪い、と摺り直させ、代書事務所の看板を見て、やれ字の右肩が下がっている、心棒が歪んでいると難癖をつけたあげく、
「また今度」。

お次は、妹の渡航証明を頼みに来た外国人。

言葉がかみ合わず、四苦八苦。

よく聞いてみると、戸籍証明がメチャクチャなので、これでは受理されないと、死亡届、死亡届失期理由書、出生届、同じく失期理由書と、書類の山。

戸籍の再作成は(当時は)科料十円取られると聞いて、怒って行ってしまう。

骨折り損のくたびれもうけ。

最後は十二、三の丁稚。

今の老人宅からおじゃま料を届けに来たので、受け取りに署名と判がほしいという。

老人は中気で引退したが、滴堂という有名な書家とか。

書家の奉公人だけあって、この小僧もうるさい。

「それで『中』の心棒が歪んでます」

降参して小僧に代筆させると、これが見事な筆。

判だけお願いしますと言うので押そうとしたら、名前の横に「自署不能ニ付代書」。

底本:四代目桂米団治

【しりたい】

大阪の新作

四代目桂米団治(中濱賢三、1896-1951)が昭和13年(1938)頃に創作した新作落語です。当時は二代目桂米之助だった頃で、原題は「代書」でした。米団治は三代目桂米朝(中川清、1925-2015)の師匠で、キリスト教徒、行政書士の資格を持つ噺家でした。

大阪では、非常にポピュラーで息の長い人気作です。米朝始め、三代目桂春団治(河合一、1930-2016)、五代目桂文枝(長谷川多持、1930-2005)ほか多くの演者が手がけていますが、東京ではやり手がなかったのを七代目立川談志(松岡克由、1935-2011)が米朝直伝のものを東京風に改作して演じていました。

このあらすじでは、米団治のオリジナルの速記を参考にしました。

談志が改作

七代目立川談志のやり方がおもしろかったので、記しておきます。

最初の男を日本橋人形町に住む「小板橋喜八郎」とし、「旅順陥落」の珍問答などはおおむね原作通りですが、二人目の客を、親に見せるため女学校の卒業証書を「偽造」してくれと頼みに来る娘、三人目を、両親にけんかしないように書いてくれという子供に代えていました。オリジナルより掛け合いのくすぐりを多くして、より現代に通じる、笑いの多いものにしているのが特徴です。四人目の外国人との珍妙なやり取りの末、しまいに代書屋が混乱して「なんだか、ワカンナクなっちゃった」というオチにしています。

代書屋とは

代書人ともいいます。

大正9年(1920)、「代書人規則」として法制化されました。普通にいう代書人は、おもに官公庁に提出する公文書の作成を業務としますが、それとは別に、前年の大正8年(1919)に定められた「司法代書人」があり、こちらは裁判所や検事局あての書類を作成します。戦後、前者が「行政書士」、後者が「司法書士」となったわけです。

いずれにせよ、まだ識字者の少なかった大正末期から昭和初期にかけてはこの噺のように単なる履歴書や受取証の代筆をする零細な文字通りの「代書人」も多かったと思われます。

談志のくすぐり

(客と代書屋の問答で)
男「大正10年10月10日」
代「あ、そう。場所は?」
男「品川」
代「あ、そう。品川でと。なにをやったの?」
男「留と二人で女郎買いに行った日だ」

【語の読み】
丁稚 でっち
中気 ちゅうき

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さんとさんにんえし【三都三人絵師】演目

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  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

志ん生も時折やってました。愉快なネタです。ヘンな関西弁も聞こえてきます。

別題:三人絵かき 京阪見物かみがたけんぶつ

あらすじ】  

江戸っ子の三人組が上方見物に来て、京の宿屋に泊まった。

その一人が寝過ごしているうちに、ほかの二人はさっさと市中見物に出かけてしまって、目覚めると誰もいない。

不実な奴らだと怒っていると、隣から声が聞こえる。

大坂の者と京者らしい。

よく聞いてみると、やれ鴨川かもがわの水は日本一で、江戸の水道はどぶ水だの、関東の屁毛垂へげたれだの、人種が下等だのと、江戸の悪口ばかり。

さあ頭にきた江戸の兄さん、威勢よく隣室へ乗り込む。

さんざん悪態をついたあと
「やい黒ん坊、てめえの商売はなんだ」
「名前があるわ。わたいは大坂の絵師で、武斎ちゅうもんで」
「ムサイだあ? きたねえ面だからムサイたあよく付けた。やい青ンゾー、出ろ」
「うちは許してや」
「出ねえと引きずり出すぞ。てめえは何者だ」
「うちは西京の画工で俊斎」
「ジュンサイだあ? 道理でヌルヌルした面だ」
「それであんたは?」
「オレか? オレも絵師よ」

もちろん、大ウソ。

こうなればヤケクソで、
「姓は日本、名は第一、江戸の日本第一大画伯たあ、俺のことだ」
と大見得を切る。

そこで、三都の絵師がせっかく一所にそろったのだから、ひとつ絵比べをしようじゃねえか、ということになった。

一人一両ずつ出し、一番いい絵を描いた者が三両取るという寸法。

俊斎が先に、木こりがノコを持って木を挽く絵を描いた。

「やい青ンゾー、てめえとても絵師じゃあメシがくえねえから死んじまえ」
「どこが悪い」
「木こりが持つのはノコじゃねえ。ガガリってえもんだ。それは勘弁してやるが、おが屑が描いてねえ」

これで、まず一両。

続いて武斎。

母親が子供に飯をくわせている図。

「やい、黒ん坊。てめえも絵師じゃ飯がくえねえが、二人並んで首ィくくるのもみっともねえから、てめえは身を投げろ。俺が後ろから突き飛ばしてやろう」

「これは、継子ならともかく、本当の子ならおっかさんが口をアーンと開いてやってこそ子供も安心して食べられる。それなのに、母親が気取って口を結んでいるとはどういうわけだ」

なるほどもっともなご託宣なので、武斎も、しかたなく一両出す。

いよいよ今度は、江戸っ子の番。

日本第一先生、もったいぶった顔で刷毛はけにたっぷり墨を含ませる。

ついでに二人の顔をパレット代わりに使い、真っ黒けにしてから、画箋を隅から隅まで黒く塗りつぶし、
「さあわかったか」
「さっぱりわからん」
「てめえたちのようなトンマにゃわかるめえ。こいつはな、暗闇から牛を引きずり出すところだ」

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しりたい】  

志ん生が復活した旅噺 【RIZAP COOK】

この噺自体の原話は不明ですが、長編の「三人旅」シリーズの終わりの部分、「京見物(京阪見物)」の一部になっています。

三代目春風亭柳枝(鈴木文吉、1852-1900)の明治26年(1893)の速記では「京阪見物かみがたけんぶつ」として、「東男」と称する市内見物の部分の後、「祇園会(祭)」の前にこの噺が挿入されています。

明治期にはほとんど「東男」や「祇園会」にくっつけて演じられましたが、二代目禽語楼小さん(大藤楽三郎、1848-98)は一席噺として速記を残しています。『百花園』明治24年(1891)8月20日号。

その後すたれていたのを、戦後、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)が復活。志ん生没後、やり手はほとんどいません。

青ンゾー 【RIZAP COOK】

「青ん蔵」とも書きます。ヒョロヒョロで顔が青いという印象で、京都人をののしっているわけです。

上方落語「三十石」でも、船の中で大坂人が京都人をばかにして、「京は青物ばかり食ろうて往生(王城)の地や」と言う場面があります。

語源は北関東訛りの「アオンゾ」もしくは「アオンベイ」だといいます。

五代目志ん生は、「てめえはつらが長えから、あご僧だ」と言っていますが、これが志ん生の工夫なのか単なる勘違いかはわかりません。

同じく大坂の絵師をののしる「黒ん坊」は、芝居で舞台の介添えをする「黒子」のことです。

屁毛垂れ 【RIZAP COOK】

へげたれ。江戸っ子をののしる言葉ですが、甲斐性なし、阿呆あほうを指す上方言葉です。江戸者に使う時は、屁ばかり垂れている関東の野蛮人の意味と思われます。

ガガリ 【RIZAP COOK】

大型のノコギリのことで、ガカリとも呼びます。用具に詳しいところから、この「江戸はん」は大工と見られます。

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たばこのひ【莨の火】演目

 落語ことば 落語演目 千字寄席 落語あらすじ事典

もとは上方の噺。林家彦六が持ってきたといわれています。

あらすじ

柳橋の万八まんぱちという料理茶屋にあがった、結城拵ゆうきごしらえ、無造作に尻をはしょって甲斐絹かいき股引ももひき、白足袋しろたび雪駄せったばきという、なかなか身なりのいい老人。

欝金木綿うこんもめんの風呂敷包み一つを座敷に運ばせると、男衆の喜助に言いつけて駕籠屋かごやへの祝儀しゅうぎ二両を帳場に立て替えさせ、さっそく芸者や幇間たいこを総揚げに。

自分はニコニコ笑って、それをさかなにのんでいるだけ。

その代わり、芸者衆の小遣いに二十両、幇間に十両、茶屋の下働き全員に三十両と、あまりたびたび立て替えさせるので、帳場がいい顔をしない。

「ただいま、ありあわせがございません、と断れ」
と、喜助に言い渡す。

いよいよ自分の祝儀という時にダメを出された喜助、がっかりしながら老人に告げると
「こりゃあ、わしが無粋ぶすいだった。じゃ、さっきの風呂敷包みを持ってきておくれ」

包みの中には、小判がぎっしり。

これで立て替えを全部清算したばかりか、余ったのを持って帰るのもめんどうと、太鼓と三味線を伴奏に、花咲爺はなさかじいさんよろしく、小判を残らずばらまいて
「ああ、おもしろかった。はい、ごめんなさいよ」

「あれは天狗か」
と、仰天した喜助が跡をつけると、老人の駕籠は木場の大金持ち奈良茂ならもの屋敷前で止まった。

奈良茂ならご贔屓筋ひいきすじで、旦那や番頭、奉公人の一人一人まで顔見知りなのに、あの老人は覚えがない。

不思議に思って、そっと大番頭に尋ねると、あの方は旦那の兄で、気まぐれから家督を捨て、今は紀州で材木業を営む、通称「あばれ旦那」。

奇人からついた異名とのこと。

ときどき千両という「ホコリ」が溜まるので、江戸に捨てに来るのだ、という。

事情を話すと「立て替えを断った? それはまずかった。黙ってお立て替えしてごらん。おまえなんざあ、四斗樽ん中へ放り込まれて、ぬかの代わりに小判で埋めてもらえたんだ」

腰が抜けた喜助、帰って帳場に報告すると、これはこのまま放ってはおけないと、芸者や幇間を総動員、山車だしをこしらえ、人形は江戸中の鰹節を買い占めてこしらえ、鳶頭の木遣りや芸者の手古舞、囃子で景気をつけ、ピーヒャラドンドンとお陽気に奈良茂宅に「お詫び」に参上。

これで旦那の機嫌がなおり、二、三日したらまた行くという。

ちょうど三日目。

あばたれ旦那が現れると、総出でお出迎え。

「ああ、ありがとうありがとう。ちょっと借りたいものが」
「へいッ、いかほどでもお立て替えを」
「そんなんじゃない。たばこの火をひとつ」

しりたい

上方落語を彦六が移植

上方落語の切りネタ(大ネタ)「莨の火」を昭和12年(1932)に八代目林家正蔵(彦六、1895-1982、岡本義)が、大阪の二代目桂三木助(1884-1943、松尾福松)の直伝で覚え、東京に移植したものです。

正蔵(当時は三代目三遊亭円楽)は、このとき「おしの釣り」もいっしょに教わっていますが、東京風に改作するにあたり、講談速記の大立者、初代悟道軒円玉ごどうけんえんぎょく(1866-1940、浪上義三郎)に相談し、主人公を奈良茂の一族としたといいます。

東京では彦六以後、継承者はいません。

上方版モデルは廻船長者

本家の上方では、初代桂枝太郎(1866-1927、岩本宗太郎)が得意にしました。地味ながら現在でもポピュラーな演目です。

上方の演出では、主人公を、和泉いずみ佐野さのの大物廻船かいせん業者で、菱垣廻船ひがきかいせんの創始者飯一族の「和泉の飯のあばれだんな」で演じます。

「飯の」とは食野家めしのけのこと。江戸中期から幕末まで和泉国日根ひのね郡佐野(大阪府泉佐野市)をベースに繁栄した豪商の一家です。 屋号は「和泉屋」です。同地で栄えた唐金家からかねけととつねにセットに語られました。江戸期の全国長者番付『諸国家業自慢』でも上位に載っています。ちなみに、和泉佐野は戦国末期から畿内の廻船業の中心地でした。この一家は、元和年間(1615-24)に江戸回り航路の菱垣廻船で巨富を築き、寛文年間(1661-73)には廻船長者にのし上がっていました。鴻池こうのいけは新興のライバルで、東京版で主人公が「奈良茂の一族」という設定だったように、上方でも飯の旦那が鴻池の親類とされていますが、これは完全なフィクションです。

上方の舞台は、大坂北新地の茶屋ちゃや綿富わたとみとなっています。

江戸の料理茶屋

宝暦から天明年間(1751-89)にかけて、江戸では大規模な料理茶屋(料亭)が急速に増え、文化から文政年間(1804-30)には最盛期を迎えました。

有名な山谷さんやの懐石料理屋八百善やおぜんは、それ以前の享保きょうほう年間(1716-36)の創業です。文人墨客ぶんじんぼっかくの贔屓を集めて文政年間に全盛期を迎えています。

日本橋浮世小路の百川ももかわ、向島の葛西太郎かさいたろう洲崎すざき升屋ますやなどが一流の有名どころでした。

江戸のバンダービルト

奈良茂は江戸有数の材木問屋でした。もとは深川ふかがわで足袋商いなどをしていた小店者でしたが、四代目奈良屋茂左衛門勝豊かつとよ(?-1714)のときに、天和3年(1683)、日光東照宮の改修用材木を一手に請け負って巨富を築きました。その豪勢な生活ぶりは、同時代の紀伊国屋文左衛門(1669?-1734)と張り合ったといわれていますが、多分に伝説的な話で、信憑性はありません。噺の格好の材料にはなりました。初代から三代目までは小商いでした。四代目の遺産は十三万両余といわれ、霊岸島に豪邸を構えて孫の七代目あたりまでは栄えていました。その後、家運は徐々に衰えましたが、幕末まで存続していたそうです。

【RIZAP COOK】

くもかご【蜘蛛駕籠】演目

 

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「駕籠は足が八本ある」「本当の蜘蛛駕籠だ」せこい客のおかしな道中話。 

別題:雀駕籠 住吉駕籠(上方)

あらすじ

鈴が森で客待ちをしている駕籠屋の二人組。

ところが、昨日ここに流れてきた前棒がおめでたい野郎で、相棒がかわやに行っている間に、ほんの数メートル先から、塵取りを持ってゴミ捨てに来た茶店のおやじをつかまえて
「だんな、へい駕籠」

屁で死んだ亡者のように付きまとい、むりやり駕籠に乗せようとして
「まごまごしてやがると、二度とここで商売させねえからそう思え」
とどなられて、さんざん。

次に来たのが身分のありそうな侍で、
「ああ駕籠屋、お駕籠が二丁じゃ」
「へい、ありがとう存じます」

前の駕籠がお姫さま、後ろがお乳母どの、両掛けが二丁、お供まわりが四、五人付き添って、と言うから、てっきり上客と、喜び勇んで仲間を呼びに行きかけたら、
「そのような駕籠が通らなかったか」

またギャフン。

その次は酔っぱらい。

女と茶屋に上がり、銚子十五本空にして、肴の残りを竹の皮に包んで持ってきたことや、女房のノロケをえんえんと繰り返し、おまけにいちいち包みを懐から出して開いてみせるので、駕籠屋は閉口。

やっと開放されたと思うと、今度は金を持っていそうなだんなが呼び止めるので、二人は一安心。

酒手もなにもひっくるめて二分で折り合いがつき、天保銭一枚別にくれて、出発前にこれで一杯やってこいといってくれた。

駕籠屋が大喜びで姿を消したすきに、なんともう一人が現れて、一丁の駕籠に二人が乗り込んだ。

この二人、江戸に帰るのに話をしながら行きたいが、歩くのはめんどうと、駕籠屋をペテンに掛けたというわけ。

帰ってきた駕籠屋、やせただんなと見えたのにいやに重く、なかなか棒が持ち上がらないので変だと思っているところへ、中からヒソヒソ話し声が聞こえるから、簾をめくるとやっぱり二人。

文句を言うと、
「江戸に着いたらなんとでもしてやるから」
と頼むので、しかたなくまたヨロヨロと担ぎ出す。

ところが、駕籠の中の二人、興が乗って相撲の話になり、とうとうドタンバタンと取っ組み合いを始めたからたまららない。

たちまち底が抜け、駕籠がすっと軽くなった。

下りてくれと言っても、
「修繕代は出すからこのままやれ、オレたちも中でかついで歩くから」
と、とうとう世にも不思議な珍道中が出現。

これを見ていた子供が、
「おとっつぁん、駕籠は足何本ある?」
「おかしなことォ聞くな。前と後で足は四本に決まってる」
「でも、あの駕籠は足が八本あるよ」
「うーん、あれが本当の蜘蛛駕籠だ」

底本:五代目柳家小さん、三代目桂米朝

しりたい

盛りだくさん

駕籠の底が抜けて、客が歩く部分の原話は享保12年(1727)刊の笑話本『軽口初賣買』中の「乗手の頓作」ですが、実在した大坂船場の豪商で奇人として有名だった河内屋太郎兵衛の逸話をもとにしたものともいわれます。

上方落語「住吉駕籠」として有名で、これは住吉街道を舞台にしていることからですが、東京には、おそらく明治期に三代目柳家小さんが移したものでしょう。

上方の演出ははでで、登場人物も東京より多彩です。夫婦連れが駕籠屋をからかったりはいいとしても、酔っ払いが吐いて駕籠に「小間物」を広げるシーンなどはあざとく、潔癖な江戸っ子は顔をしかめるものでしょう。

雀駕籠

上方のやり方では、駕籠に客を乗せてからの筋は二つに分かれます。

一つは現行の、駕籠の底が抜けるものです。別筋で、今はすたれましたが、「雀駕籠」と題するものがあります。

スピードがあまりに速いので、宙を飛ぶようだから宙=チュンで雀駕籠、という駕籠屋の自慢を聞いた客が、無理やり駕籠屋にいろいろな鳥の鳴きまねをさせ、「今度はウグイスでやってくれ」「いえ、ウグイスはまだ籠(=駕籠)慣れまへん」とオチるものがありました。

東京では小さん系

三代目小さんの速記は残されていませんが、その門弟の柳家小はんが高座に掛けていたのを五代目小さんが継承して演じていました。

大阪よりかなりあっさりとはしているものの、酔っ払いがしつこく同じセリフを繰り返してからむくだりなどは「うどんや」と同じく、そのままなので、カットしない場合は、かなりねちっこくなっていたのは否めません。

上方はもとより本家で、五代目、六代目笑福亭松鶴、先代文枝、米朝ほか、多くの演者が手掛けています。

雲助

流れ者の駕籠かきのことで、そのいわれは雲のように居所が定まらないからとも、蜘蛛のように網を張って客をつかまえるから、また、雲に乗るように速く爽快だからとも、いろいろな説があります

「蜘蛛駕籠」は雲助の駕籠の意味で、「雲駕籠」とも書きました。

歌舞伎「鈴が森」で白井権八にバッタバッタと斬られるゴロツキの雲助どものイメージがあったため、今日にいたるまで悪い印象が定着していますが、落語では東西どちらでも、いたって善良に描かれています。

むしろそれが実態だったらしく、桂米朝も噺の中で、「こういう(住吉街道のような人通りの多い)ところの駕籠屋は、街中の辻駕籠同様、いたってタチがよかったもので」と弁護しています。

両掛けが二丁

両掛けは武士の旅行用の柳行李(やなぎごうり=衣類籠)で、天秤棒の両端に掛けて、供の者にかつがせるのでこの名があります。

くしゃみこうしゃく【くしゃみ講釈】演目

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胡椒は南蛮渡来の高級品ながら、知られた調味料だったんですね。

別題:音楽会(改作) くしゃみ義太夫(改作)

あらすじ

ある講釈師の先生。

芸はたいしたことはないくせに気位ばかり高く、愛想がないので、町内の常連に嫌われている。

なにしろ、道で会うと、あいさつ代わりに頭をそっくり返らせるし、出番の時、客が寝ていると
「講釈が読みにくいっ。それほど眠たきゃ家へ帰って寝たらよかろう」
と嫌味を言って恥をかかせる。

そんなこんなで堪忍袋の緒が切れた二人組、どうにかして講釈が読めねえように妨害してやろうと相談した。

ぶん殴るのはたやすいが、芸人を殴ってもこっちが笑われる。

それより、高座の前にかぶりつきで陣取り、落語家と違って講釈師は釈台という机を置いているから真下が見えないのを幸い、胡椒の粉を下から一斉にぶっ放せば、きっとそいつを吸い込んで、むせてくしゃみが出て講釈が読めなくなる。

そこで、
「先生、この前は寝ていてすまねえことをした。こういううまい講釈は聞いてられねえから、おらァ帰る」
と立って、あと四、五人抱え込んでいっしょに立ち上がれば、高座はメチャクチャ。

それで意趣返しするという趣向。そこでみんな胡椒を買い込み、夜になると予定通り講釈場へ乗り込む。

そうとは知らない先生、例の通り張り扇で釈台バタバタたたき、
「……時は何時なんめり元亀三年壬甲の年十月十四日、武田晴信入道信玄、其の勢三万五千余人を引率して甲府を雷発に及び、遠州周知郡乾の城主天野宮内左衛門景連、蘆田下野守、この両人を案内者とし、先手山県三郎兵衛昌景に五千余騎を差し添えて、同国飯田、多々羅の両城攻めかかる……」
と、三方ケ原の戦いを読み始めた。

「……これぞ源三位兵庫頭政入道雷円の御胤、甲陽にて智者の聞こえある……」
「それっ、やっつけろ」

そろそろ潮時とばかり、一人の合図で一斉に胡椒を扇で口座に扇ぎ上げる。

「……その下に黒糸おどしの大鎧、同じ毛五枚しころ、金の向い兎の前立打ったる兜を猪首にいか物づくりの太刀を横たえ、黒……ハックシ、羅紗の陣……ハクショ……黒唐革のサイハイハックシ、これではハックシ、とてもクシュッ、講釈はハックシ、よめまハクション、せん、今晩はこれで御免を」
「やい、ハックシハックシやりゃあがって。唾がはねたじゃねえか、まぬけ。明日は用があるから来られねえ。今夜中に戦の決着ゥ付けろい」
「だめです。外からコショウ(故障)が入りました」

底本:二代目三遊亭小円朝

しりたい

胡椒と日本人

胡椒の日本伝来は古く、平安時代初期にさかのぼるとか。もちろん、シルクロードから唐に伝来したもののおこぼれを遣唐船あたりが持ち帰ったのでしょう。

その後、室町時代には、中国(明)経由でさかんに輸入され、主に僧坊で、精進料理の薬味として使われました。

江戸期に入ると、鎖国令が出るまでの間、ポルトガル船やオランダ船、スペイン船などが大量に持ち込み、いっそう普及しました。

鎖国となると、胡椒の輸入量は減り、その代用品として七色唐辛子が普及しました。

平戸藩主の松浦鎮信(1549-1614)が、オランダ貿易を平戸に誘致するために、慶長14年(1609)、胡椒を買い占め、そのため相場が高騰したとか。

近松門左衛門(1653-1724)の浄瑠璃中の詞章に「本妻の悋気とうどんに胡椒はお定まり」とあります。

正徳3年(1713)3月初演の歌舞伎十八番「助六」でも、主人公が出前のうどんにたっぷり胡椒をふった上、くゎんぺら(かんぺら)門兵衛の頭にぶちまける場面があります。

当時はこうした食べ方が一般的だったのでしょう。

胡椒丸のみ

江戸には、うろ覚えを意味する「胡椒丸のみ」という俚諺がありました。胡椒もかまずに丸のみしてはその辛さがわからないところから、物事をよく咀嚼、理解していないさまを言います。

初代春団治の十八番

本来は上方落語で、「くっしゃみ講釈」の題で親しまれました。「芸のためなら女房も泣かした」、初代桂春団治のお得意で、レコードも残されています。

春団治は「胡椒のこ」と言っていますが、なるほど、これを聞くと、大阪人がしかつめらしい軍談講釈(師)を生理的に嫌ったのがよくわかります。

上方のやり方は、胡椒が売り切れていたので唐辛子粉をふりまき、「なんぞ、私に故障(=落ち度)があるのですか」「胡椒がないから、唐辛子をくべたんや」とオチになります。

桂米朝、桂春団治ら、多くの演者が手がけてきました。

東京では三代目三遊亭金馬が得意にしていましたが、金馬没後は、ほとんどオチは大阪通りになっています。

改作として、二代目三遊亭円歌の「くしゃみ義太夫」、六代目春風亭柳橋の「音楽会」があります。