【どんな?】
町人が剣術、とは、江戸中期からは珍しくない光景だったようです。
最近は「士農工商」というのがなかったといわれています。先代文治のおはこ。
別題:上州館林
【あらすじ】
町人の半さん。
剣術を少しばかり稽古してすっかり夢中になり、もう道場の先生の右腕にでもなったつもりでいる。
そこである日。
半さん、諸国を修業してまわり、腕を上げてきたい、と先生に申し出る。
本気で、商売をやめて剣術遣いになるつもりらしい。
先生心配になって、自分の武者修行の時の体験談をひとくさり。
ある時、上州館林のご城下を歩いていると、一軒の造り酒屋の前に人だかりがし、何やら騒いでいる。
聞いてみると、まだ夕方なのに泥棒が入り、そいつが抜き身を振り回して店の者を脅し、土蔵に入り込んだ。
外から鍵をかけ、雪隠詰めにしたものの、入ってくる奴がいれば斬り殺そうと待っているので、誰でも首が惜しいから、召し捕ろうとする者もいない、とのこと。
先生、
「しからば拙者が」
と。
そこが武芸者。
飯六杯に味噌汁三杯も食って、腹ごしらえの上、生け捕りにしてくれようと、主人を呼んで、空き俵二俵を用意させ、左手で戸を開ける。
右手で俵を中に放り込んだ。
向こうは腹が減って気が立っているから、俵にぱっと斬りつけるところを、小手をつかんで肩に担いで岩石落とし、みごと退治した、という一席。
しかし、泥棒の腕がナマクラだったから幸いしたが、腕が立っていたらどうなったかわからない。
「おまえも、もう少し腕を磨いた上で」
と先生がさとすので、半さんもそんなものかと思い直して、帰っていく。
しかし。
「オレも先生のような目にあってみたい」
と、未練たらたらな半さん。
独り言をいいながら歩いていくと、ちょうど夕方。
町の居酒屋の前に人だかり。
聞いてみると、侍に酔っぱらいがからんでけんかを吹っかけた。
「斬るほどのこともない」
と峰打ちを食わせたが、酔っぱらいがまだしつこくむしゃぶりつくから、侍は
「めんどうくさい」
と酒屋の土蔵に逃げ込んでしまった、という。
さあ、ここが腕の見せどころ、と半さん。
「あのお侍は悪くはないんだから、おまえが出て騒ぎを大きくすることはない」
と止められても聞かばこそ、先生のまねをして
「しからば拙者が生け捕りにいたしてくれる。所は上州館林。そやつを捨ておけば数日の妨げ。主人、炊き立ての飯を出せ」
腹ごしらえまでそっくりまねて、いよいよ生け捕りの計略。
俵を持ってこさせると、土蔵の戸を右手で開け、左手で俵を放り込む。
向こうは血迷っているから、ぱっと斬りつけ……て、こない。
もう一俵放り込んでも中は、しーん。
こりゃ約束が違う。
「中でどうしているんだろう」
と言いながら、首をにゅっと入れた。
とたん、侍の刀が鞘走り、半公の首がゴロゴロ。
「先生、うそばっかり」
【うんちく】
切れのいいシュール落語
首が口をきくという、同工異曲の噺に「胴取り」があります。
オチの切れ味、構成とも、問題なくこちらが優れています。
原話は不詳で、別題を「上州館林」。
昭和初期には八代目桂文治が得意にし、同時代には六代目林家正蔵(1929年没)も演じました。
先の大戦後、文治の没後は、惜しいことにこれといった後継者はありません。
六代目正蔵は、首が口をきくのが非現実的というので、半公はたたきつけられるだけにしていました。
演者自身が、現実を飛び越える落語の魅力を理解できず、噺をつまらなくしてしまう最悪の例でしょう。
ヤットウヤットウ
江戸の町道場は、権威と格式はあっても、総じて経営が苦しいものです。
背に腹はかえられず、教授を望む者は、身分にかかわらず門弟にした道場が多く出てきました。
武士と町民の身分差のたてまえから、幕府はしばしば百姓や町人の町道場への入門を禁じました。
ただ、江戸は武士の町です。
武士の感化で、町人にも尚武の気風が強くなっています。
さらには、当時の江戸は、治安も悪かったのです。
自衛の意味で、柔や剣術を身につけたい、という町人が江戸中期ごろから、増え始めていました。
町人の間では、稽古の掛け声から、剣術を「ヤットウ」と呼びならわしていました。
幕末には、物騒な世相への不安からか、江戸には四大道場には志願者が殺到でした。
四大道場とは。
士学館 鏡新明智流 桃井春蔵 日本橋南茅場町→南八丁堀大富町
玄武館 北辰一刀流 千葉周作 日本橋品川町→神田於玉ヶ池
練兵館 神道無念流 斎藤弥九郎 九段坂下俎橋付近→九段坂上
練武館 心形刀流 伊庭秀業 下谷和泉橋通
練武館を除いて、三大道場とも。
練武館は佐幕系だったので、明治期にはずされたようです。
明治という時代は、けっこう作為的で恣意的だったのですね。
これらの道場の勃興で、町人は原則だめのたてまえは、次第に怪しくなってきました。
町道場の「授業」時間は、午前中かぎりが普通でした。
「士農工商」
道場の先生も武士でない出身も多く、習う者も町内の若い衆で、幕末に新選組が登場する素地は、江戸中期から次第につくられていったようです。
江戸時代とはいっても、18世紀に江戸前期と江戸後期に区別できるほど、社会史、経済史、文化史といった方面で明らかな断裂が生じています。
江戸前期までの日本は銀の輸出国でしたが、18世紀半ば以降には銀の輸入が始まります。
その頃には、石見銀山から採掘できなくなってくるのです。銀の枯渇です。
高校の教科書からも「士農工商」の用語が載らなくなり始めたようです。
この言葉、中国には紀元前1000年頃にはあったそうです。
『漢書』(班固編著、紀元70年頃)には「士農工商、四民に業あり」と載っています。
とはいえ、ただ昔からあった言葉というだけで、江戸時代にひんぱんに使われたわけでもありません。
実際にも、「士農工商」という四階層の身分制度があったわけではありません。
この噺のように、江戸中期以降、町人が剣術の心得を持つのは決して珍しくはないのです。
身分制があったのは、あえていえば、武士とその他(農工商が入る)という区分です。
都市部では武士と町人
農山村では武士と百姓(農工商が入る)
それでさえ、消費しかしない(生産活動をしない)武士が困窮の果てに、自らの武士の利権を「その他」の人々に売ることは、ときにある現象でした。
こうなると、四民は入り交じり状態。これが幕末だったわけです。
全国の「志士」と称する輩を見ると、足軽どころか、農民、神主、商人、漁民など、まさに草莽の連中でした。
この時点で、すでに身分制は崩壊状態だったのでしょう。
問題は、四民とは別に扱われていた穢多、非人などの人々です。
この人たちを明治という社会に組み込むかが、政府の大きな課題だったようです。
これはあちこちで問題が勃発。看過できない問題でした。
話を戻します。
「士農工商」という言葉。
これはもう、明治時代に日本の歴史を編纂する際、蒙昧な国民に江戸時代を説明しやすくするため、歴史学者がちゃっかり使ったものなんだそうです。
その伝でいくと、「幕府」も「藩」も同様です。そう、「鎖国」も。
「鎖国」は志筑忠雄(1760-1806)が使った人だ、と言われています。
志筑は、長崎の商人出身の蘭学者です。
当時の日本人が「今の日本は鎖国なんだぜ」なんて、日常生活で使っていたわけでもありません。
これは、明治の学者が教科書用に転用した、ご都合主義の日本史用語です。
1990年代以降、このような「明治の呪縛」から私たちを少しずつ解放しようという研究が、歴史学の世界で進んでいます。
遠からず、教科書から「鎖国」の二文字が消える日、きっと来ることでしょう。
【語の読みと注】
雪隠詰め せっちんづめ
伊庭道場 いばどうじょう
桃井道場 もものいどうじょう