にんぎょうかい【人形買い】演目

 

初節句のお返しに人形を。いい年した大人が青っぱなのガキにそそのかされて。

あらすじ

長屋の神道者しんとうじゃの赤ん坊が初節句で、ちまきが配られたので、長屋中で祝いに人形を贈ることになった。

月番の甚兵衛が代表で長屋二十軒から二十五銭ずつ、計五円を集め、人形を選んでくることになったが、買い方がわからない。

女房に相談すると、「来月の月番の松つぁんは人間がこすからいから、うまくおだててやってもらいな」と言う。

馬鹿正直な甚兵衛がそれを全部しゃべってので、本人は渋い顔。

行きがかり上、しかたなく同行することになったが、転んでもただで起きない松つぁん、人形を値切り、冷や奴で一杯やる金をひねり出す腹づもり。

人形屋に着くと、店番の若だんなをうまく丸め込み、これは縁つなぎだから、この先なんとでも埋め合わせをつけると、十円の人形を四円に負けさせることに成功。

候補は豊臣秀吉のと神功皇后じんぐうこうごうの二体で、どちらに決めるかは長屋に戻り、うるさ方の易者と講釈師の判断を仰がなければならない。

そこで、さっき甚兵衛が汚い人形と間違えた、青っぱなを垂らした小僧に二体を担がせて店を出る。

ところがこの小僧、とんだおしゃべりで、この人形は実は一昨年の売れ残りで処分に困り、だんなが「店に出しておけばどこかの馬鹿が引っかかって買っていく」と吹っ掛けて値段をつけた代物で、あと二円は値切れたとバラしたから、二人はまんまとだまされたとくやしがる。

その上、若だんなが女中おもよに言い寄るシーンを話し、十銭せしめようとするのでまたまた騒然。

帰って易者に伺いを立てると、早速、卦を立て
「本年お生まれの赤さんは金性。太閤秀吉公は火の性で『火剋金』で相性はよろしからず。神功皇后さまは女体にわたらせられるから、水性。水と金は『金生水』と申して相性がよい。神功皇后になさい」
というご託宣。

二人が喜んで帰ろうとすると、
「見料五十銭置いていきなさい」

これで酒二合が一合に目減り。講釈師のところへ行くと
「そも太閤秀吉という人は、尾州愛知郡百姓竹阿弥弥助のせがれにして幼名を日吉丸……」
と、とうとうと「太閤記」をまくしたてる。

「それで先生、結局どっちがいいんで」
「豊臣家は二代で滅んだから、縁起がよろしくない。神功皇后がよろしかろう」

それだけ聞けば十分と、退散しようとすると
「木戸銭二人前四十銭置いていきなさい」

これで冷や奴だけになったと嘆いていると
「座布団二枚で十銭」

これで余得はなにもなし。

がっかりして、神道者に人形を届けにいくと、甚兵衛が、ちまきは砂糖をかけなくてはならないからかえって高くつくという長屋の衆の陰口を全部しゃべってしまう。

神道者は
「お心にかけられまして、あたくしを神職と見立てて、神宮皇后さまとはなによりもけっこうなお人形でございます。そも神功皇后さまと申したてまつるは、人皇十四代仲哀天皇の御后にて……」
と講釈を並べ立てるから、松つぁんあわてて
「待った待った、講釈料は長屋へのお返しからさっ引いてください」

【RIZAP COOK】

しりたい

三代目円馬が上方から  【RIZAP COOK】

上方落語で、三代目三遊亭円馬が明治末年に東京に移植しました。

隠れた円生の十八番  【RIZAP COOK】

円馬の元の型は、人形屋の主人が親切から負けてくれる演出でした。それを、三代目桂三木助と六代目三遊亭円生が直伝で継承し、それぞれ得意にしていました。円生のでは、長屋から集金せず、辰んべという男が博打で取った金を、前借するという段取りです。現在聞かれる音源は、東京のものは円生の吹き込みのみです。

インチキ祈禱師はいつの世も  【RIZAP COOK】

神道者は、神道系の祈祷師のことで、京都の白河家か吉田家の支配(管理)を受け、烏帽子えぼし狩衣かりぎぬ姿で鈴を振ってお祓いして回ります。俗に拝み屋、上方では「祓いたまえ屋」とも呼ばれましたが、仏教系の願人坊主同様、かなり胡散臭い手合いでした。読み方はいくつかありますが、江戸では「しんとうじゃ」と読むことが多かったようです。

江戸の人形屋  【RIZAP COOK】

人形屋は、大店は俗に十軒店じっけんだな、現在の日本橋室町三丁目付近に集まっていました。そのほか露店で主に土人形や市松人形を安く売る店がそこここにありましたが、この噺の人形は節句の武者人形で、相当値段が張りますから、十軒店のちゃんとした店でしょう。頭が木彫り、胴体は藁と紙の衣装人形です。

神功皇后  【RIZAP COOK】

仲哀天皇の皇后。熊襲くまそ侵攻に従って筑紫つくしに向かっているさなか急の崩御にも遭い、身重をもいとわず、韓半島の新羅しらぎに出向いて制圧、百済くだら高句麗こうくりも帰服させ、出産した幼帝とともに大和に凱旋、70年以上も摂政につとめた人、と記紀にはそういうことになっていますが、よくわかりません。幼帝は応神天皇です。新羅の王子アメノヒボコの系統ということですから、韓半島とのかかわりは強かったのでしょう。戦前は武内宿禰たけうちのすくねと並んで節句人形の人気キャラでした。武内宿禰たけうちのすくねは高齢の忠臣として、これまた記紀中の人物。両者とも国威発揚にかなった人物でしたが、いまは顧みられません。

【語の読みと注】
神道者 しんとうしゃ しんとうじゃ しんどうじゃ
十軒店 じっけんだな
神功皇后 じんぐうこうごう
武内宿禰 たけうちのすくね

【RIZAP COOK】

落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

【人形買い 三遊亭円生】

あたごやま【愛宕山】演目

京でだんなが野がけ。かわらけ代わりに小判投げ。見るや幇間が傘で降下。

あらすじ

ころは明治の初年。

だんなのお供で、朋輩の繁八や芸者連中とうちそろって京都見物に出かけた幇間の一八。

負けず嫌いで、なにを聞かれても
「朝飯前でげす」
と安請け合いをするのが悪い癖。

あらかた市内見物も済み、今度は愛宕山に登ろうという時に、だんなに、
「愛宕山は高いから、おまえにゃ無理だろう」
と言われたが、一八は
「冗談言っちゃいけませんよ。あたしだって江戸っ子です。あんな山の一つや二つ、朝飯前でげす」
と見栄を張ったばっかりに、死ぬ思いでヒイヒイ言いながら登る羽目になった。

弟弟子の繁八をなんとか言いくるめて脱走しようとするが、だんなは先刻お見通しで、繁八に見張りを言いつけてあるから、逃がすものではない。

おまけに、途中でだんなに
「早蕨(さわらび)の 握り拳を振り上げて 山の横面 春(=張る)風ぞ吹く」
という歌を自慢げに披露したまではいいが、
「それじゃ、サワラビってえのはなんのことだ」
と逆に聞かれて、シドロモドロ。

おかげで十円の祝儀をもらい損なう。

ようやく山頂にたどり着くと、ここでは、かわらけ投げが名物。

茶屋のばあさんから平たい円盤を買って、頂上からはるか下の的に向かって投げる。

だんなは慣れていて百発百中。

夫婦投げという二枚投げも自由自在だが、一八がまた「朝飯前」と挑戦しても、全くダメ。

そのうちだんな、酔狂にもかわらけの代わりに本物の小判を投げ始めたから、さあ一八は驚いた。

「もったいない」
と止めると、
「おまえには遊びの味がわからない」
と、とうとう三十枚全部放ってしまう。

拾った奴のものだと言うので、欲にかられた一八、だんなが止めるのも聞かばこそ、千尋の谷底目がけ、傘でふわりふわりと落下。血走りまなこで落ちていた三十枚全部かき集めた。

「おーい、金はあったかー」
「ありましたァー」
「全部てめえにやるぞー」
「ありがとうございますゥー」
「どうやって登るゥー」
「あっ、しまった」
「欲張りめ。狼に食われてしまえ」

奴さん、何を考えたか、素っ裸になると着物を残らすビリビリと引き裂き、長い紐をこしらえると、そいつを嵯峨竹に引っかけ、竹の弾力を利用して、反動で空高く舞い上がるや、
「ただいまっ」
「えらいっ、きさまを生涯贔屓(ひいき)にしてやるぞ」
「ありがとう存じますっ」
「金は?」
「あっ、忘れてきた」

【RIZAP COOK】

底本:八代目桂文楽

しりたい

黒門町!  【RIZAP COOK】

三代目円馬からの直伝で「黒門町」こと八代目文楽が継承し、磨きに磨いて、一字一句ゆるがない名人芸に仕上げました。

特に後半の、竹をたわめる場面は体力を要するので、晩年、侍医に止められましたが、文楽は最後まで「愛宕山」に固執したといいます。

ひいさん   【RIZAP COOK】

この噺に出てくるだんなは、文楽のパトロンだったひいさんこと樋口由恵がモデルです。樋口由恵(ひぐちよしえ、1895-1974)は山梨県増穂町(現富士川町)出身の経営者。大正期に上京、昭和初期に川崎陸送を創業し成功させた立志伝中の人です。

桂文楽の話を正岡容が聞き書きしてまとめた『芸談あばらかべっそん』(桂文楽、 青蛙房、1957年→朝日ソノラマ文庫、1967→ちくま文庫、1992年 )。こんなくだりが載っています。以下、ご参考まで。

私を大へんひいきにして下すったお方のひとりに樋口由恵さんとおっしゃるお方がございます。「東京新聞」の須田栄先生をやせさせたような感じの方です。
お家は甲府で、お父さんは樋口半六という県会議員もなすった方で、御本業は運送屋さんで、お邸の中にレールまでしいてあるという、すばらしい御商売振りなんです。
丁ど、大地震のすぐあとでしたネ、各派が一しょになって焼けのこった山の手の席をうっているころのことでした。
私は芝の席がトリでしたが、四谷の喜よしへ向嶋の待合から電話がかかって来ましてネ、
「ぜひ来て下さいよ。来て下さらないと。そのお客さまが大へんなんです」
と、こうなんです。
ところが生憎そのときはカケモチが何軒もあるので、
「折角ですが今晩は伺えません」
そういって断わると、一、二日してまた電話が、今度は幇間(たいこもち)からかかって来て、
「師匠助けるとおもって来て下さいな。でないと我々が困るんです」
と、こういうんです。
「じゃあ伺いましょう。けど、あと三軒歩きますから十一時過ぎになりますが……」
「それでもいいから、とにかく一ぺん来て下さい」
それから席を二、三すませていったから、もう十二時ちかくでしょう。
そのじぶんですから或いは十二時過ぎていたかもしれませんが、
「今晩は……」
と入ってゆくと、その待合じゅうがシーンとしているんです。
女将もでて来なけりゃ、第一、階下でシャダレがふてくされて、二、三人ねそべっている。
ところへさっき電話をかけて来た幇間がでて来て、
「よく来てました。ヒーさんてえお客さまなんですがネ、この間の晩、師匠がおいで頂けなかったでしょう。そうしたら、ヤイてめえンとこじゃ文楽はよべねえのかって、芸者が引叩かれる、つねられる、だもンで今夜もみんなイヤがってアアやって寄付かないんですよ」
いわれて私もいささかコワクなりましたが、ソーッと二階へ上がっていって障子の穴から透き見をしてみると、成程、皿小鉢がこわれて、そのお客さまはうなだれて、
「ウーム……ウーム」
とうなっています。
「今晩は……」
そこで私が低くこういいながら入っていったら、とたんに一と目みて、
「ヨーッ来たな」
そのマー喜びようたらないんです。
「オイオイ師匠がみえたじゃないか。何をしているんだ。早くそこらを片付けろ片付けろ」
って、急いで女中たちに皿小鉢を片付けさせて、ガラッと一ぺんに世界が変わったように明るくなってしまったんです。
「オイ文楽さん、私は前から君のファン(というコトバはまだなかったでしょうが)なんだよ」
といった塩梅で御祝儀を下すって、その晩は泊ってゆけとおっしゃるんですが、私ははじめてのお客の前で不見転を買うのはいやだから御辞退したんだが、先方さんはすぐ妓をよんで下すっていて、
「じゃこの妓じゃ師匠の気に入らないんだろう。面食(めんく)いだネこの人は……」
てんで、次々とかえては三人もよんで、
とうとう女将が私を次の間によんで、
「師匠が泊って下さらないと、またヒーさんがお怒りになりますから」
てんで、それから私も心得てすぐひけ(寝る)てえことにしましたら、
「ハハーあの妓はきに入ったんだな」
てんで、大へんなごきげんでかえっていった。連中みんなはじめてホッとしたそうで、何しろ大へんな荒れようだったんだから、そりゃマーそうでしょうよ。

米朝の「愛宕山」  【RIZAP COOK】

文楽演出を尊重しながらも、いかにも大阪らしい「愛宕山」を演じて、これも十八番、名人芸です。

桂米朝始め上方バージョンでは、東京と異なり、大阪ミナミの幇間の一八と繁八が、京都・室町のだんなのお供で野駆け(のがけ=ピクニック)に出かけ、ついでに愛宕山に参詣を、となります。だんながあまり大阪をくさす(ケチをつける)ので、腹を立てた二人が、だんながかわらけ投げをしているのを、「京の人間はシミったれやさかい、あんなもんしかよう放らん」と、いやみを言い、だんなが怒って小判を投げるという設定です。

同じ取り持ち稼業でも、大阪の幇間は決してイエスマンでなく、反骨精神旺盛だったようですね。

かわらけ投げ  【RIZAP COOK】

江戸でも、王子の飛鳥山、谷中の道灌山でさかんに行われていました。

日ぐらしは 壱文ずつが 飛んでいき
かわらけが 逸れて桜の 花が散り

春の行楽の風物詩でした。「日ぐらし」とは日暮らしの里。現在の荒川区日暮里あたりをさします。

京都の愛宕山  【RIZAP COOK】

京都市右京区上嵯峨北西部にあり、海抜は924m(3049尺)とけっこう高い山です。京都市の北東の比叡山(848m)と並ぶ霊峰です。愛宕山は五つの峰(朝日山、大鷲峰、龍上山、高雄山、鎌倉山)からなる総称をいいます。中国の五台山にならって、「愛宕五峰」「愛宕五坊」などと呼ばれました。

朝日峰の山頂には、本宮にイザナミを、若宮に火産霊神(軻遇突智命)をまつる愛宕神社があります。若宮の神はイザナミの子で、イザナミが出産した際にホトをやけどしてしまい、その傷がもとで死んでしまいます。怒ったイザナギは十拳剣でこの神を刺し殺します。剣から滴り落ちた血から神々が生まれました。

愛宕神社は、神仏習合(神祇信仰と仏教が融合した信仰形態)だった頃は白雲寺と呼ばれていました。明治初期の神仏分離令で廃寺となり、愛宕神社にさまがわりしました。

朝日峰  愛宕権現白雲寺→愛宕神社 変容存続
大鷲峰  月輪寺 存続 天台宗
高雄山  神護寺 存続 真言宗
龍上山  日輪寺 廃寺
鎌倉山  伝法寺 廃寺

ここは修験道の道場でもありました。さらには、塞の神信仰(土地の境界を守る神への信仰)や陰陽道、天狗信仰、勝軍地蔵信仰(軍神)、おまけに火の神を仰ぐところから火除けの信仰も篤く、信仰の百貨店のようなさまでした。

「火迺要慎(ひのようじん)」と記された愛宕神社の火伏せ札は、京都の台所や厨房に張られています。「愛宕の三つ参り」として、三歳までにお詣りすると生涯火災に遭遇することがないと伝えられています。

重要なのは火伏せの神として尊崇されていることです。明治期より前には、火除け、火伏せの神はより多く信仰されていました。一年を通じてにぎわいましたが、特に、陰暦6月24日の愛宕千日詣では有名です。京都の人々には「伊勢へ七度、熊野へ三度、愛宕山には月参り」とうたわれました。火の神さまは愛宕神社以外には、秋葉山本宮秋葉神社(浜松市)を頂点とする秋葉神社や野々宮神社(京都市右京区、東京都港区など)でまつられています。

『都名所図会』には、「月ごとの縁日にも老人は皿竹輿をかりてたすけられ、婦人童子のわかちもなく、万仭のけわしきをいとわず、坂路の茶店に休らえば、白雲目の前を横とう。あるいは、土器なげに興じて足の重きを忘れる」とあるほど。

登山の途中で一八がひけらかす「早蕨の……」の狂歌は、当人が知っていたかどうかは定かではありませんが、江戸天明狂歌のパイオニア、蜀山人大田南畝(1749-1823)の作です。

東京の愛宕山は港区愛宕一丁目にありますが、こちらは京の愛宕大権現を慶長8年(1603)に勧請しました。東京支店ですね。

かしくのこぼればなし  【RIZAP COOK】

「私はこれをかしく師匠(引用者注:二代目文の家かしく、のち三代目笑福亭福松。1884-1962)に習ったのですが『愛宕山へいっぺん行って来なあきまへんな』と言うと『行ったらやれんようになるで。この噺嘘ばっかりやさかい』と言われて……」 

『米朝ばなし 上方落語地図』(桂米朝、毎日新聞社→講談社文庫、1981年)

何度も記しますが、古い同題の上方噺を三代目三遊亭円馬が東京風に脚色しました。円馬から八代目桂文楽に伝わる。文楽のおはこでした。

東京の噺家が語る上方を舞台にした噺の一。「三十石船」などほかにもありますが、中国人俳優が日本人役として登場するハリウッド映画のような珍妙ぶり。愛宕山とは、もちろん京都のです。東京のではありません。修験道の聖地。山頂には愛宕神社があります。「堀の内」の上方版「いらちの愛宕まいり」もここが舞台となっています。

茶店の傘  【RIZAP COOK】

この手の茶店には傘が常備されてありました。そこからの発想なのでしょう。借りたら返さなくてはいけないわけで、ということは、その店を再訪しなくてはいけないため、せちがらい現代社会には耐えられず、消えていく風習となっていったのですね。

【語の読みと注】
朋輩 ほうばい
火産霊神 ほむすびのかみ
軻遇突智命 かぐつちのみこと
十拳剣 とつかのつるぎ
皿竹輿 さらかご
万仭 ばんじん

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きんめいちく【金明竹】演目

骨董を題材にした前座噺。小気味いい言い立てが聴きどころです。耳に楽しいですね。こういうのも落語のおもしろいところです。

【あらすじ】

骨董屋のおじさんに世話になっている与太郎。

少々頭に霞がかかっているので、それがおじさんの悩みのタネ。

今日も今日とて、店番をさせれば、雨宿りに軒先を借りにきた、どこの誰とも知れない男に、新品の蛇の目傘を貸してしまってそれっきり。

おじさんは
「そういう時は、傘はみんな使い尽くして、バラバラになって使い物にならないから、焚き付けにするので物置へ放り込んであると断るんだ」
と叱った。

すると、鼠が暴れて困るので猫を借りに来た人に
「猫は使いものになりませんから、焚き付けに……」
とやった。

「ばか野郎、猫なら『さかりがついてとんと家に帰らなかったが、久しぶりに戻ったと思ったら、腹をくだして、そそうがあってはならないから、またたびを嘗めさして寝かしてある』と言うんだ」

おじさんがそう教える。

おじさんに目利きを頼んできた客に、与太郎は、
「家にも旦那が一匹いましたが、さかりがついて……」

こんな調子で小言ばかり。

次に来たのは上方者らしい男だが、なにを言っているのかさっぱりわからない。

「わて、中橋の加賀屋佐吉方から参じました。先度、仲買の弥市の取次ぎました道具七品のうち、祐乗、光乗、宗乗三作の三所もの。並びに備前長船の則光、四分一ごしらえ横谷宗岷小柄付きの脇差し、柄前はな、旦那はんが古鉄刀木といやはって、やっぱりありゃ埋れ木じゃそうにな、木が違うておりまっさかいなあ、念のため、ちょっとお断り申します。次は、のんこの茶碗、黄檗山金明竹、ずんどうの花いけ、古池や蛙飛び込む水の音と申します。あれは、風羅坊正筆の掛け物で、沢庵、木庵、隠元禅師はりまぜの小屏風、あの屏風はなあ、もし、わての旦那の檀那寺が、兵庫におましてな、この兵庫の坊主の好みまする屏風じゃによって、かようお伝え願います」
「わーい、よくしゃべるなあ。もういっぺん言ってみろ」

与太郎になぶられ、三べん繰り返されて、男はしゃべり疲れて帰ってしまう。

おばさんも聞いたが、やっぱりわからない。
おじさんが帰ってきたが、わからない人間に報告されても、よけいわからない。

「仲買の弥市が気がふれて、遊女が孝女で、掃除が好きで、千ゾや万ゾと遊んで、終いにずん胴斬りにしちゃったんです。小遣いがないから捕まらなくて、隠元豆に沢庵ばっかり食べて、いくら食べてものんこのしゃあ。それで備前の国に親船で行こうとしたら、兵庫へ着いちゃって、そこに坊さんがいて、周りに屏風を立てまわして、中で坊さんと寝たんです」
「さっぱりわからねえ。どこか一か所でも、はっきり覚えてねえのか」
「たしかか、古池に飛び込んだとか」
「早く言いなさい。あいつに道具七品が預けてあるんだが、買ってったか」
「いいえ、買わず(蛙)です」

【しりたい】

ネタ本は狂言  【RIZAP COOK】

前後半で出典が異なり、前半の笠を借りに来る部分は、狂言「骨皮」をもとに、初代石井宗淑(?-1803)が小咄「夕立」としてまとめたものをさらに改変したとみられます。類話に享和2年(1802)刊の十返舎一九作「臍くり金」中の「無心の断り」があり、現行にそっくりなので、これが落語の直接の祖形でしょう。一九はこれを、おなじみ野次喜多の『続膝栗毛』にも取り入れています。「夕立」との関係は、「夕立」が著者没後の天保10年(1839)の出版(「古今秀句落し噺」に収録)なのでどちらがパクリなのかはわかりません。

後半の珍口上は、初代林屋正蔵(1781-1842)が天保5年(1834)刊の自作落語集『百歌撰』中に入れた「阿呆の口上」が原話で、これは与太郎が笑太郎となっているほかは弥市の口上の文句、「買わず」のオチともまったく同じです。

前半はすでに文化4年(1807)刊の落語ネタ帳『滑稽集』(喜久亭寿曉)に「ひん僧」の題で載っているので、江戸落語としてはもっとも古いものの一つですが、前後を合わせて「金明竹」として一席にまとめられたのは明治時代になったからと思われます。

「骨皮」のあらすじ  【RIZAP COOK】

シテが新発意でワキが住職。檀家の者が寺に笠を借りに来るので、新発意が貸してやり、住職に報告したところ、ケチな住職が「辻風で骨皮バラバラになって貸せないと断れ」と叱る。次に馬を借りに来た者に笠の口上で断ると、住職は「バカめ。駄狂い(発情による乱馬)したと断れ」今度はお経を頼みに来た者に、「住職は駄狂い」と断ったので、聞いた住職が怒り、新発意が、お師匠さまが門前の女とナニしているのは「駄狂い」だと口答えして大ゲンカになる筋立て。

ボタンの掛け違いの珍問答は、民話の「一つ覚え」にヒントを得たとか。

「夕立」のあらすじ  【RIZAP COOK】

主人公(与太郎)は権助、ワキが隠居。笠、猫と借りに来るくだりは現行と同じです。三人目が隠居を呼びに来ると、「隠居は一匹いますが、糞の始末が悪いので貸せない」隠居が怒って「疝気が起こって行けないと言え」と教えると次に蚊いぶしに使う火鉢を借りに来たのにそれを言い、どこの国に疝気で動けない火鉢があると、また隠居が叱ると権助が居直って「きんたま火鉢というから、疝気も起こるべえ」

石井宗淑は医者、幇間、落語家を兼ねる「おたいこ医者」で、長噺の祖といわれる人。

東京に逆輸入  【RIZAP COOK】

この噺、前半の「骨皮」の部分は、純粋な江戸落語のはずながらなぜか幕末には演じられなくなっていて、かえって上方でよく口演されました。明治になってそれがまた東京に逆輸入され、後半の口上の部分が付いてからは、四代目橘家円喬、さらに三代目三遊亭円馬が得意にしました。円喬は特に弥市の京都弁がうまく、同じ口上を三回リピートするのに、三度とも並べる道具の順序を変えて演じたと、六代目円生が語っています。

代表的な前座の口慣らしのための噺として定着していますが、戦後は五代目古今亭志ん生、六代目三遊亭円生、三代目三遊亭金馬など、多数の大看板が手掛けました。なかでも金馬は、昭和初期から戦後にかけ、流麗な話術で「居酒屋」と並び十八番としました。CDは、三巨匠それぞれ残っていて、現役では柳家小三治のがありますが、口上の舌の回転のなめらかさでは金馬がピカ一だったでしょう。志ん生は、前半部分を再び独立させて演じ、後半はカットしていました。

祐乗  【RIZAP COOK】

後藤祐乗(1440-1512)は室町時代の装剣彫刻の名工です。足利義政の庇護を受け、特に目貫にすぐれた作品が多く残ります。光乗はその曾孫(1529-1620)で、やはり名工として織田信長に仕えました。

長船  【RIZAP COOK】

長船は鎌倉時代の備前国の刀工・長船氏で、祖の光忠以下、長光、則光など、代々名工を生みました。

宗珉  【RIZAP COOK】

横谷宗珉(1670-1733)は江戸時代中期の金工で、絵画風彫金の考案者。小柄や獅子牡丹などの絵彫を得意にしました。

金明竹  【RIZAP COOK】

中国福建省原産の黄金色の名竹です。福建省の黄檗山万福寺から日本に渡来し、黄檗宗の開祖となった隠元禅師(1592-1673)が、来日して宇治に同名の寺を建てたとき、この竹を移植し、それが全国に広まりました。観賞用、または筆軸、煙管の羅宇などの細工に用います。隠元には多数の工匠が同行し、彫刻を始め日本美術に大きな影響を与えましたが、金明竹を使った彫刻もその一つです。

漱石がヒントに?  【RIZAP COOK】

『吾輩は猫である』の中で、二絃琴の師匠の飼い猫・三毛子の珍セリフとして書かれている「天璋院様の御祐筆の妹の御嫁に行った先きの御っかさんの甥の娘」は、落語マニアで三代目小さんや初代円遊がひいきだった漱石が「金明竹」の言い立てからヒントを得たという説(半藤一利氏)がありますが、落語にはこの手のくすぐりはかなりあり、なんとも言えません。

【語の読みと注】
新発意 しんぼち:出家して間もない僧
疝気 せんき
石井宗淑 いしいそうしゅく
後藤祐乗 ごとうゆうじょう
目貫 めぬき:刀の目釘に付ける装身具
長船 おさふね
横谷宗珉 よこやそうみん
小柄 こづか
黄檗山 おうばくさん
隠元 いんげん
煙管 きせる
羅宇 らお
天璋院 てんしょういん

【RIZAP COOK】

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はなよめのへ【花嫁の屁】演目

もとは、小咄かマクラ程度の軽い噺だったものです。

【あらすじ】

ある田舎で婚礼があった。

ところが、いよいよ三三九度という時、花嫁が衆人環視の中、「プーッ」と一発。

面目ないと、あっという間に裏の井戸に身を投げた。

すると、花嫁の両親も、娘の不始末のおわびと、同じく井戸にドボン。

今度は婿さんが、嫁の一家だけ死なせては義理が立たないと、これも井戸へ飛び込んだ。

これを見ていた婿さんの両親、せがれと嫁が死ぬならあたしたちもと、これまた井戸底に直行。

最後に残った仲人夫婦、みなさんがお飛び込みなら、あたしたちもこうしてはいられないと、後を追って飛び込もうとしたら、井戸のところに赤い札で「満員」。

【RIZAP COOK】

【しりたい】

時代を感じさせるオチ

オチは、路面電車に、当時(明治末から大正初期)「満員」の赤札が下がったことからきています。

噺としてはおもしろいのですが、時代色がつき過ぎ、現代の客にはまるで理解できないので、このあたりをうまく改作しないと、とうてい高座には掛けられないでしょう。

当時の東京の市電はやたらに故障し、満員になると、どんなに客が待っていてもあっさり通過してしまうので、評判は最悪だったとか。

大正中期ですが、「東京節」(添田さつき)の一節には、こんなものが。

東京の名物満員電車
いつまで待ってても乗れやしねえ 
乗るにゃケンカ越し命がけ 
やっとこさと空いたのが来やがっても 
ダメ、ダメと手を振って 
そのまま乗せずに行きゃあがる 
なんだ、故障車か
ボロ電車め

誰かやらないか?

速記、音源はおろか、口演記録もまったくない幻の珍品です。

三代目三遊亭円馬が明治末期、立花家左近時代に作ったという掌編で、マクラにでも使っていたのでしょう。

それにしては、実に皮肉な、カラシがきいた逸品で、埋もれさせるにはちと惜しいブラック落語です。

円馬に前座・二つ目時代に仕込まれた八代目桂文楽が自伝『あばらかべっそん』中で梗概を紹介しています。

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ねこただ【猫忠】演目

明治中期に上方から。当初は「猫の忠信」でしたが、お得意の縮めた呼称に。

あらすじ

美人の清元の師匠に、下心見え見えで弟子入りしている、次郎吉と六兵衛の二人。

次郎が、師匠と兄貴分の吉野屋常吉がいちゃついているのをのぞき、稽古を辞めると息巻くので、六さん、「常兄ィは堅い人なのにおかしいな」と首をひねり、二人で確かめに行くと、案の定、差し向かいで盃をさしつさされつ。

悔しいから、常吉のかみさんに告げ口して、夫婦げんかをあおってやろうと、相談する。

たまたま、今度のおさらい会で師匠が着る衣装を縫っていたかみさん、二人が「師匠が『お刺身の冷たいのは毒だよ』なんぞと口ん中でペロペロと温かにして、兄貴の口へ……」などと並べるのを聞いて「けんかをしずめてくれるのが情けなのに、わざわざ波風を立てに来るのはどういうつもりだい」と、怒り出す。

亭主は今の今、奥で寝ている、という。

噺を聞きつけて当の常吉がノッソリ現れたから、二人は仰天。

いきさつを聞いた常吉。

そういえば、最近床屋に行くと「やっぱり他人じゃないんで、唄のお仕込が違うんでしょう」などと妙なことを言われるので、オレの姿を借りて、師匠の家に入り込んでいる奴がいるのかもしれないと、思いめぐらす。

二人を連れて現場に駆けつけ、障子の隙間からのぞいてみると、なるほど、自分に瓜二つの男が師匠としっぽり濡れているから、驚いた。

これは狐狸妖怪に違いないと、二人に「先ィ入って、向こうで盃をくれたら、油断を見澄まして野郎の耳を触ってみろ。獣は耳を触られると動くから、そうしたら大声で『ぴょこぴょこッ』とでもどなれ」と、言いつける。

二人がおそるおそる声をかけると、酔っぱらった声で「よう、次郎と六じゃねえか。こっちィ入んねえ」

気のせいか、声の調子が違う。

酒を出されると「ひょっとして、馬の小便じゃねえか」と、二人はびくびく。

ご返盃に相手が手を出したところを押さえつけ、耳を触ると案の定、ぴくぴく動く。

「ぴょこぴょこだッ」
と叫ぶ声で、本物の常吉が飛び込んできたので、師匠は
「あら、常さんが二人」
と、仰天。

「やい、おれ……いや、てめえは化性のもんだな。真の吉野屋常吉、吉常(=義経)が調べる。白状しろ」

妖怪はすっかり恐れ入り、
(芝居がかりで)「はいはい、申します申します。わたくしの親は、あれ、あれあれあれ、あれに掛かりしあの三味線、わたくしはあの三味線の子でございます」

師匠の三味線の革にされた親を慕ってきた、とさめざめ泣く。ヒョイと見ると、正体を現した大きな猫がかしこまっている。

「兄貴、今度のおさらいは『千本桜』の掛け合いだろう。狐忠信てのはあるが、猫がただ酒をのんだから、猫がただのむ(=猫の忠信)だ。あっしが駿河屋次郎吉で駿河の次郎。こいつは亀屋六兵衛で亀井の六郎。兄貴が弁慶橋に住む吉野屋の常さんで吉常(義経)。千本桜ができたね」
「肝心の静御前がいねえ」
「師匠が延静だから静御前」

師匠が「あたしみたいなお多福に、静が似合うものかね」と言うと、側で猫が「にゃあう(似合う)」

【RIZAP COOK】

しりたい

著作権料は誰のもの?  【RIZAP COOK】

もともと古い上方落語で、大阪の笑福亭系の祖とされる、松富久亭松竹の創作といわれてきましたが、実は原話は、文政12年(1829)江戸板の初代林屋(家)正蔵著『たいこの林』中の「千本桜」で、ほとんど現行と同じです。

松竹という人、今もって生没年、経歴、年代不詳で、それどころか、実在自体が確認できない、「落語界の写楽」ともいえる謎の噺家です。

それでいて、松竹の手になるといわれる噺は多く、この「猫忠」のほか、「初天神」「松竹梅」「千両みかん」「たちぎれ」など、ほとんど現在でも、東西でよく演じられる名作、佳作ばかりです。

江戸の正蔵が始祖とすると、噺の伝播は江戸→大坂であって、松竹説は怪しくなるのですがともかく、噺としては上方で確立しており、松竹の年代も不明なため、東西どっちがパクったか、真相は藪の中。

猫又にでも、聞いてくださいな。

東西のやり方  【RIZAP COOK】

芝居噺の名手だった、六代目桂文治が明治中期に上方の型を東京に移植。初めは「猫の忠信」の題で演じられましたが、東京ではのちに縮まって「猫忠」とされ、それが現代では定着しました。

その文治の明治30年(1897)の速記を始め、八代目文治、大阪の五代目・六代目松鶴、六代目三遊亭円生とさまざまな名人の速記が残っています。

東西で大きな異同はありませんが、上方では初めに次郎吉が師匠の家を覗く場面があります。上方は見あらわしに乗り込むとき、最初に常吉ではなく、女房がいっしょに行くところが東京と異なり、大阪では女師匠が義太夫、東京では常磐津か清元である点も違っています。

円生は延静で演じましたが、「延」が付くのは清元の師匠で、家元の延寿太夫の一字を取ったもの。「百川」に登場の歌女文字師匠のように「文字」が付けば常磐津です。

「千本桜」四段目の口の舞踊「道行初音旅」は、義太夫と清元もしくは常磐津の掛け合いになるので、噺にこうした師匠が登場するわけです。

東ではやはり、この人  【RIZAP COOK】

昭和に入って戦後にかけ、東京でのこの噺の第一人者はやはり、六代目三遊亭円生でした。円生は三代目三遊亭円馬から習っています。オチは、円生以外は東西ともほとんど「ニャウニャウ」と二声でしたが、円生は円馬に倣って、すっきりと一声に改めました。東京ではほかに、三代目桂三木助も演じました。

「義経千本桜」のパロディー   【RIZAP COOK】

『義経千本桜』は人形浄瑠璃(文楽)の作品です。全五段の時代浄瑠璃で、通称「千本」とも。『菅原伝授手習鑑』『仮名手本忠臣蔵』と並ぶ三大浄瑠璃の一つとされています。初演は延享4(1747)年11月、大坂・竹本座、作者は『仮名手本忠臣蔵』と同じチームで、竹田出雲、並木千柳、三好松洛の合作です。

この噺は、人物名がすべて「千本桜」の役名のもじり。オチ近くの化け猫のセリフは、四段目の切「河連法眼館」(通称「狐忠信」)のパロディーで、芝居の狐の、「わたくしはあの、鼓の子でござります」のもじりです。詳しくは「初音の鼓」をご参照ください。

5世尾上菊五郎演じる忠信を描いた錦絵/画・豊原国周 、国立国会図書館所蔵

弁慶橋  【RIZAP COOK】

東京都中央区岩本町二丁目のあたり。神田の藍染川に架かっていた橋ですが、幕末にはもうありませんでした。付近には駿河町、亀井町など、源義経の四天王にちなんだ町名が並んでいました。藍染川、駿河町については「三井の大黒」参照。「ちきり伊勢屋」の弁慶橋は同じ千代田区にあるのですが、ここではありません。

初音の鼓 三井の大黒 ちきり伊勢屋

【RIZAP COOK】

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しながわしんじゅう【品川心中】演目

落語の名作です。長いので「上」と「下」に分かれています。たっぷりどうぞ。

あらすじ

【上】

品川の白木屋という見世でずっと板頭を張ってきたお染。

寄る年波には勝てず、板頭とは名ばかり。

次第に客も減り、目前に迫る紋日のために必要な四十両を用立ててくれそうな、だんなもいない。

勝ち気な女だけに、恥をかくくらいならいっそ死んでしまおうと決心したが、一人より二人の方が、心中と浮き名が立ち、死に花が咲くから、適当な道連れはいないかと、なじみ帳を調べると、目に止まったのが、神田の貸本屋の金蔵。

独り者だし、ばかで大食らいで、助平で、欲張り。

あんな奴ァ殺した方が世のためと、
「これにきーめた」

金蔵、勝手に決められちまった。

お染は、さっそく金蔵あてに、
「身の上の相談事があるから、ぜひぜひ来てほしい」
という手紙がいく。

お染に岡惚れしている金蔵は、手紙を押しいただくと、喜んで品川にすっ飛んでくる。

ところが、当のお染が廻しに出たままなかなか帰らず、金蔵がふてくされて寝たふりをしている。

いつの間にか戻ってきたお染、なんと自分の遺書をしたためているので、金蔵は仰天。

家にあるもの一切合切たたき売っても、金蔵にこしらえられる金はせいぜい一両がいいとこ。

どうにもならないというので、つねづね年季が明けたら夫婦になると言っている手前、つい、
「いっしょに死んでやる」
と言ってしまった。

お染はしてやったりと大喜びで、さっそく明日の晩決行と決まる。

この世の名残と、その晩、お染がはりきってご奉仕したため、金蔵はもうフラフラ。

帰ると、二人分の死装束の白無垢と安い脇差を買う。

世話になっている出入りの親分の家に、この世のいとま乞い。

まさか
「心中します」
とは言えないから、
「西の方に出かけて帰ってくるのは盆の十三日」
とか、わけのわからないことを言って、まぬけなことに肝心の脇差を忘れていってしまう。

その晩は、「勘定は六道の辻まで取りにこい」とばかり、金蔵のみ放題の食い放題。

あげくの果ては、酔いつぶれて寝込んでしまった。

そのばか面の寝顔を見て、お染はこんな野郎と冥土の道行きをしなければならないかと思うとつくづく情けなくなるが、選んだ以上どうしようもない。

たたき起こして、用意のカミソリで片を付けようとするが、気の小さい金蔵、いざとなるとブルブル震えてどうにもならない。

「じゃ、おまえさん、いっしょに死ぬというのはウソだったんだね、そんな不実な人なら、あたしは死んだ後、七日たたないうちに取り殺してやる」
と脅し、引きづるように品川の浜へ。

「おまえばかりを殺しゃあしない、南無阿弥陀仏」
と金蔵を突き落として、続いてお染も飛び込もうとすると、気配に気づいた若い者が抱き留める。

「待った。お染さん、悪い料簡を起こしちゃいけねえ。たった今、山の御前が五十両届けてくれなすって、おまえさんの喜ぶ顔が見たいとお待ちかねだ」
「あーら……でももう遅いよ。金さんが先に……」
「金さん? 貸本屋の金蔵ですかい? あんなもんなら、ようがす」

金が整ったと知ると、お染は死ぬのがばかばかしくなり、浜に向かって
「ねえ金ちゃん、こういうわけで、あたしゃ少し死ぬのを見合わせるわ。人間一度は死ぬから、いずれあの世でお目にかかりますから。それでは長々失礼」

失礼な奴もあるもの。

金蔵、飛び込んだところが遠浅だったため助かったが、おかげで若い衆とお染の話を海の中で聞き、さあ怒るまいことか。

「こんちくしょう、あのあまァ、どうするか見てやがれ」

やっとの思いで浜に上がったが、髪はザンバラ、何かで切ったのか、顔面は血と泥がこびりつき、着物はぐっしょり。

まさに亡者のような姿で、ふらふらになって親分の家へ。

ちょうどその時、親分宅ではガラッポンと勝負事の真っ最中。

戸口でガタリと音がしたので、「すわ、手入れだ」と大あわて。

糠味噌の中に突っ込んだ手でなすの漬け物をあわててつかみ、自分の金玉がもげたと勘違いする奴も出て、さんざん。

ところが、金蔵とわかって、一同ひと安心。

その中で一人だけ、泰然と座っている者がいる。

「なんだ、みんな、だらしがねえ。……伝兵衛さんを見ろ。さすがにお侍さんだ。びくともしねえで座っておいでた」
「いや、面目ない。とっくに腰が抜けております」

【下】

金蔵から、心中のし損ないでお染が裏切った一件を聞いた親分、
「ひどい女だ」
と同情し、
「そいつはひとつ仕返しをしてやる」
と請け合い、
「まだお染はてめえが死んだと思い込んでいるから、怪談仕立てでだましてやろう」
と計画を練る。

まず、金蔵が大引け前に、白木屋に引き返す。

現れた金蔵に、お染は幽霊かと思ってびっくりする。

金蔵は
「十万億土の原っぱのような所まで行ったが、お地蔵さまに帰れと言われて引き返してきた」
と打ち合わせ通り陰気な声で言い、線香を焚いて白団子と水をくれと縁起の悪いことを並べ、
「気分が悪いから寝かせてくれ」
と奥の間に引きこもってしまう。

そこへ現れたのが親分と、金蔵の弟に化け込んだ子分の民公。

お染に会って
「実は金公が土左衛門で上がったが、おめえが金公と年季が明けたら、いっしょになると言って交わした起請文が、ヘソのところへべったりへばりついていた。おめえのことを思って死んだんだと思うから、通夜にはおめえも来てもらって、線香の一本も手向けてやってもらいたい」
と泣いてみせる。

お染は、
「たった今しがた金蔵が来たばかりだよ」
と、ばかにしてせせら笑う。

そこで、証拠に金蔵の位牌をここに持ってきたと民公が懐を探って、
「確かにあったのにない、ない」
と芝居をしてみせる。

論より証拠と、お染が、金蔵の寝ている部屋に二人を案内すると、かねての打ち合わせ通り金蔵は隠れていて、布団の中には「大食院好色信士」と戒名が書かれた位牌が一つ。

さてはと、さすがのお染も青くなり、金蔵を突き落として、自分だけ都合よく心中をやめたことを洗いざらい白状。

「こいつは間違いなく恨みが残っていて、てめえは取り殺される」
と親分が脅すので、お染はもうオロオロ。

そこで最後の仕上げ。

「おめえがせめても髪を下ろして、すまなかったと謝まれば、金公も浮かぶに違いねえ」

お染が恐ろしさのあまり、根元からぷっつり髪を切り、その上、回向料として五両出したところで、当の金蔵がノッソリ登場。

「あーら、こんちくしょう、人をだましたんだね。なんぼなんでも人を坊主にして、どうするのさ」
「そう怒るな。てめえがあんまり客を釣る(だます)から、比丘(=魚籠)にされたんだ」

底本:六代目三遊亭円生

しりたい

めったに聴けない「下」  【RIZAP COOK】

三遊派に古くから伝わる郭噺の大ネタです。戦後も六代目三遊亭円生、五代目古今亭志ん生ほか、ほとんどすべての大看板が演じており、もちろん現在もよく高座に掛けられます。

ただ、「上」だけでも長いうえ、「下」となると陰気で、噺としてもあまりおもしろくないということで、昔からあまり演じられません。

その中で、三代目三遊亭円馬は皮肉に「下」のみ演じていました。八代目桂文楽は、その円馬に多数の噺を教わり、もっとも私淑していましたが、「品川心中」は音源は残しているものの、好きな噺ではなかったようで、昭和の大看板では珍しく、めったにやりませんでした。

「下」では、六代目円生と五代目志ん生の速記が残されています。貴重です。

品川宿  【RIZAP COOK】

東海道の親宿(起点)として古くから栄えました。新宿、板橋、千住と並んで、江戸近郊で非公認の大規模な遊郭を持つ四つの宿場(四宿)の筆頭です。

吉原の「北国」に対し、江戸の南ということで、通称は「南」。宿場は徒歩新宿、北本宿、南本宿に分かれ、目黒川の向こう岸の南本宿は「橋向こう」といって小見世が多く、この噺の「白木屋」も南本宿です。

「居残り佐平次」の舞台になった相模屋(土蔵相模)、歌舞伎「め組の喧嘩」の事件の発端となる「島崎楼」など、有名な大見世はすべて北側にかたまっていました。

宿場の成立は享保年間(1716-36)ですが、飯盛り(宿場女郎)を置くことを許可され、本格的に遊郭として発足したのは万治2年(1659)でした。宿場よりも遊郭のほうが早かったことになります。

品川は芝・増上寺ほかの僧侶の「隠れ遊び」の本場でもありました。

六代目円生が「品川心中」のマクラでいくつか挙げている川柳。

品川は 衣衣の 別れなり
自堕落や 岸打つ波に 坊主寝る

表向き、僧侶は女犯厳禁ですから、同じ頭を丸めているということで、医者に化けて登楼するという、けしからん坊主が後を絶たなかったわけです。

品川を舞台にした噺は意外に少なく、「居残り佐平次」とこの「品川心中」のほかは艶笑落語の「品川の豆」ぐらいです。

演者によって、「剃刀」「三枚起請」などの廓噺を吉原から品川に代えて演じることもあります。

板頭  【RIZAP COOK】

いたがしら。女郎屋で、最も月間の稼ぎのいい、ナンバーワンの売れっ子のことです。

吉原では「お職」と呼ばれましたが、品川ほかの岡場所(非公認の遊廓)では、その名称は許されず、遊女の名札の板が、その月の稼ぎ高の順に並べられるところから、そのトップを板頭と呼んだわけです。

紋日、物日  【RIZAP COOK】

もんび、ものび。五節季や八朔(➡江戸入り)、月見、三社祭りなどのハレの年中行事には、着物や浴衣を新調し、手ぬぐいに祝儀をつけて、若い衆や遣り手などの廓の裏方に配るなど、女郎にとってはかなりの金がかかりました。

売れていない女郎には大変ですが、これをやらないと恥をかき、住み替え(よりランクの落ちる岡場所へ移る)でもしなければなりませんでした。

この噺のお染の悩みは、それだけ切実だったわけです。

貸本屋  【RIZAP COOK】

江戸時代は一軒構えの本屋はなく、もっぱら貸本屋が紺の前掛けをして、郭や大商店などの得意先を回りました。

幕末太陽傳  【RIZAP COOK】

昭和32年(1957)の映画『幕末太陽傳』(監督川島雄三、日活)は、文久2年(1862)、幕末の世情騒然としたころの品川、土蔵相模を舞台に、落語の「居残り佐平次」「品川心中」「三枚起請」「お見立て」を巧みにアレンジした、喜劇映画史上に残る傑作です。

土蔵相模とは、屋号は「相模屋」で、壁が土蔵づくりだったために、こう呼ばれていたそうです。

労咳病みの主人公・佐平次(フランキー堺)の「羽織落とし」のお座敷芸が評判でしたが、「品川心中」の部分では、なんといっても、遊郭へ春本(エロ本)を売りに来る当時29歳の小沢昭一の「あばたの金蔵」が絶品です。

「これが唐人のアレで……」といやらしく笑うこの小沢のあば金を見るだけでも、この映画は一見の価値あり。たいていの落語家はとうてい及びません。

比丘尼される  【RIZAP COOK】

「下」のオチですが、今ではわかりにくいでしょう。よく考えると単純で、「釣る(「だます」の意味あり)」から「魚籠」を出し、女を坊主にしたため、それと「比丘尼(=尼僧)」をダジャレで掛けただけです。

「比丘尼」は、安永年間(1772-81)まで新大橋付近に出没した尼僧姿の売女「歌比丘尼」の意味もあり、品川遊郭の女郎であるお染が坊主にされて、最下級の「歌比丘尼」にまで堕ちたという侮辱もこめられているはずです。

【語の読みと注】
板頭:いたがしら:筆頭女郎
四宿:ししゅく:品川、新宿、板橋、千住の宿場
北国:ほっこく:吉原
徒歩新宿:かちしんしゅく
八朔 はっさく:8月1日
お職:おしょく:吉原での筆頭女郎
労咳 ろうがい:肺結核
魚籠:びく
比丘:びく:僧
比丘尼:びくに:尼僧

【RIZAP COOK】

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へっついゆうれい【竃幽霊】演目

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昔は、へっついから幽霊がよく出たもんです。そう、出そうでしょ、あそこ。

【あらすじ】

ある道具屋から買ったへっつい(かまど)から幽霊が出るというので、買う客買う客みな一日ともたずに青い顔で返品に来る。

道具屋の親方、毎日一分二朱で売って三割安で戻ってくるから、初めはもうかると喜んでいたが、そのうち評判が立ち、ほかの品物もぱたりと売れなくなった。

困って夫婦で相談の上、だれか度胸のいいばかがいたら、三両付けて引き取ってもらうことにした。

これを聞きつけたのが裏の長屋に住む遊び人の熊五郎。

「幽霊なんざ目じゃねえ」
とばかり、隣の勘当中の生薬屋の若だんな徳兵衛さんを誘って、半分の一両二分もらった上、とりあえず徳さんの長屋に運び込むことにする。

こわがる徳さんに、幽霊は自分が引き受けて、もうけは折半するからと因果を含めて、二人で担いで家の戸口まで来ると、徳さんがよろけてへっついの角をドブ板にぶつけた。

その拍子に転がり出たのが、なんと三百両の大金。

「ははァ、これに気が残って出やがるんだ」
と合点して、その金を折半、若だんなは吉原へ、熊公は博打場へそれぞれ直行したが、翌日の夕方、帰ってみると二人ともきれいにすってんてん。

しかたがないから寝ることにしたが、その晩、徳さんの枕元へ青い白い奴がスーっと出て
「金返せェ」

「ギャーッ」
と叫ぶのを飛び込んできた熊公がなだめすかし
「こりゃあ、金をたたき返してやらないと毎晩でも出るな」
と思案する。

翌日。

徳さんの親元から三百両を借りてきた熊、へっついを自分の部屋に運び込むと、夕方から
「出やがれ、幽霊ッ」
とどなっている。

丑三ツ時になると、へっついから青白い陰火がボーッと出て
「へい、お待ちどうさま」

「鰻ィあつらえたんじゃねえや、恨めしいとか何とか言え」
と毒づくと
「へえ、それが恨めしくないんで」
とくる。

そこで幽霊が「身の下」はないから身の上を語るところによれば、生前は鳥越に住んでいた留といって、表向きは左官で裏は博打打ち。

それも、チョウ(丁)よりほかに張ったことはないそうな。

ある日。

めずらしく賭場で三百両もうけたが、友達が借りに来てうるさいので、金をへっついの中に隠したまま、その夜フグに当たってあえない最期、という次第。

熊は
「話はわかった。このへっついは俺がもらったんだから、百五十両ずつ立てんぼだ」
とむりやり半額にして返してやる。

「おめえ、不服か。実はこっちも心持が中途半端でいけねえ。いっそ、どっちかへ押しつけちまおう」
「ようがす」

熊の提案に、幽霊もかつてはくろうとなので、興奮して手をユラユラさせながら承知した。

二ッ粒の丁半で、出た目は半。

幽霊は丁しか張らないので、熊の勝ち。

「親方、もう一丁頼みます」
「勘弁してもらおう。もうてめえに金がねえじゃねえか」
「親方、あっしも幽霊です。決して足は出しません」

【しりたい】 

原話は墓でバクチ

安永2年(1773)刊の『俗談今歳花時』中の「幽霊」という小ばなしが原話です。

これは、火事で「真黒やき」になった仲間の一周忌追善に、バクチ狂いだった故人をしのび、墓場でチョボイチをご開帳していると、懐かしいサイの音に誘われ、当人が幽霊となって出現。さっそく仲間に加わって、死装束をカタに三百文張りますが、あえなく負けて意気消沈、早々と消え支度。「ナゼもっとせ(し)ないぞ」「イヤモ(う)、幽霊(=ゆうべ)も三百はりこんだ」

これは、寒中に裸で物ごいするすたすた坊主が唄って歩く「夕べも三百張り込んだ」のもじり、ダジャレにすぎません。まことにどうも、バクチあたりなことで。

上方落語を東京に

この噺も、今東京に残る噺の多くと同じく上方種で、上方落語「竃の幽霊」または「かまど幽霊」を明治末か大正初期に、三代目三遊亭円馬が東京に移したものです。

上方のオチは、熊が巻上げた金を元手に賭場で奮戦していると、またまた幽霊が出現。「まだこの金に未練があるのか」「いえ、テラをお願いに参じました」となります。

寺と博打のテラ銭を掛けたもので、前に金を巻上げた後、熊が幽霊に、石塔くらいは立ててやるから、迷わず成仏しろと言い渡した言葉を受けてのものです。

上方のやり方では、熊は完全にイカサマを使うことになっていて、その辺が東京と違ってあざといところ。

東京でも五代目柳家小さんは、このサゲを用いていました。

円生、三木助が双璧

五代目志ん生、四代目、五代目小さんも演じましたが、レコード、速記の数からも、戦後はやはり六代目円生、三代目三木助がこの噺の双璧といえるでしょう。

なかでも三木助は、幽霊に仰天してへっついを返しに来る男を大阪弁に変え、いちいち言葉尻に「道具屋」「道具屋」とつけるなど、独自の滑稽味を出して十八番としました。

リアルはご法度

ただ、この三木助は若い頃、身を持ち崩して「隼の七」と異名を取った本物の博徒だったこともあり、熊の目つきのこわさや、あまりにもリアルなサイを振る動作が、客や楽屋内に薄気味悪がられ、初期の評判はよくなかったようです。

現に、四代目小さんがこの噺について、「サイを振る手つきはまずくていい、こういうところは人にほめられるな」と戒めています。これは同じバクチ噺の「狸賽」などでも同じでしょう。

「クマ」五郎は普通名詞?

阿佐田哲也のギャンブル小説で、雀ゴロ(麻雀専門のバイニン、博打打ち)が「クマゴロウ」と呼ばれていたのをご記憶の方も多いと思います。

博徒、特にイカサマ師の異称を「クマ」と呼ぶのは相当古くかららしく、細工を施してある賽を「熊女」などともいいました。

そのせいか、「竃幽霊」の主人公は東西問わず、誰が演じても熊五郎です。

三代目三木助の人物設定では、熊は白無垢鉄火、つまり表面は堅気の素人を装って、裏に回れば遊び人ということにしてあります。

「クマ」の語源はよくわかりませんが、あるいは、熊手でかき寄せるように賭場でテラ銭をさらうところからきているのかもしれません。