がまのあぶら【蝦蟇の油】演目

  落語ことば 落語演目 千字寄席 落語あらすじ事典

ホント、昔はよく縁日で見かけたもんです、こういうの。

あらすじ

その昔、縁日にはさまざまな物売りが出て、口上を述べ立てていたが、その中でもハバがきいたのが、蝦蟇の油売り。

ひからびたガマ蛙を台の上に乗せ、膏薬が入った容器を手に、刀を差して、白袴に鉢巻、タスキ掛けという出て立ち。

「さあさ、お立会い。御用とお急ぎでない方は、ゆっくりと聞いておいで。遠目山越し笠のうち、物の文色(あいろ)と道理がわからぬ……」

さまざまに言い立てて、なつめという容器の蓋をパッと取り、「手前持ち出したるはこれにあるヒキセンソウはがまの油。……手前持ちいだしたるは四六のがまだ。四六、五六はどこでわかる。前足の指が四本、後足の指が六本。これを名づけて四六のがま。このがまの棲める所は、これより、はァるゥか北にあたる筑波山の麓にて、オンバコという露草を食らう。……このがまの油を取るには、四方に鏡を立て、下に金網を敷き、その中にがまを追い込む。がまはおのれの姿が鏡に映るのを見ておのれで驚き、たらーりたらりと脂汗を流す。これを下の金網にてすき取り、柳の小枝をもって、三七二十一日の間とろーり、とろりと煮詰めたるのがこのがまの油だ。赤いはシンシャヤシイの実、テレメンテエカにマンテエカ、金創には切り傷、効能は、出痔イボ痔、はしり痔ヨコネガンガサ、その他腫れ物一切に効く。いつもはひと貝で百文だが、今日はおひろめのため、小貝を添え、二貝で百文だ」と、怪しげな口上で見物を引きつけておいて、膏薬の効能を実証するため、刀で白紙を三十六枚に切ってみせた。

「……かほどに斬れる業物でも、差裏差表へがまの油を塗る時は、白紙一枚容易に斬れぬ。さ、このとおり、たたいて……斬れない。引いても斬れない。拭き取る時はどうかというと、鉄の一寸板もまっ二つ。触ったばかりでこれくらい斬れる。だがお立会い、こんな傷は何の造作もない。がまの油をこうして付ければ、痛みが去って血がピタリと止まる」

こんな案配で、むろんインチキだが、けっこう売り上げがいいので気を良くしたがまの油売り、売り上げで大酒をくらってベロンベロンに酔ったまま、例の口上。

ロレツが回らないので支離滅裂。それでもどうにか紙を切るところまではきたが、「さ、このとおり、たたいて……切れた。どういうわけだ?」

「こっちが聞きてえや」
「驚くことはない、この通りがまの油をひと付け付ければ、痛みが去って……血も……止まらねえ……。二付け付ければ、今度はピタリと……かくなる上はもうひと塗り……今度こそ……トホホ、お立会い」
「どうした」
「お立会いの中に、血止めはないか」

しりたい

はなしの成立と演者

「両国八景」という風俗描写を中心とした噺の後半部が独立したものです。酔っぱらいが居酒屋でからむのを、連れがなだめて両国広小路に連れ出し、練り薬売りや大道のからくり屋をからかった後、がまの油売りのくだりになります。

前半部分は先代(三代目)金馬が酔っぱらいが小僧をなぶる「居酒屋」という一席ばなしに独立させ、大ヒット作にしました。金馬は、がまの油の口上をそのまま「高田の馬場」の中でも使っています。

昭和期では三代目春風亭柳好が得意にし、六代目三遊亭円生、八代目林家正蔵も演じました。大阪では、「東の旅」の一部として桂米朝など大師匠連も演じました。

上方版ではガマの棲息地は「伊吹山のふもと」となります。

オチは現行のもののほか、「(血止めの)煙草の粉をお持ちでないか」とすることもあります。

本物は……?

本物の「がまの油」はセンソといい、れっきとした漢方薬です。ガマの分泌液を煮詰めて作るのですから、この口上もあながちデタラメとはいえません。ただし、効能は強心剤、いわゆる気付け薬です。一種の覚せい剤のような作用があるのでしょう。

口上中の「テレメンテエカ」は、正しくは「テレメンテエナ」で、ポルトガル語です。松脂を蒸留して作るテレビン油のこと。芳香があり、染料に用います。

六代目円生「最後の高座」

1979年(昭和54)8月31日、死を四日後にひかえた昭和の名人・六代目三遊亭円生は、東京・三宅坂の国立小劇場でのTBS落語研究会で、「蝦蟇の油」を回想をまじえて楽しそうに演じ、これが公式には最後の高座となりました。

この高座のテレビ放送で、端正な語り口で解説を加えていた、劇作家・榎本滋民氏も2003年(平成15)1月16日、亡くなっています。

マンテエカ

『昭和なつかし博物学』(周達生、平凡社新書)によると、マンテエカはポルトガル語源で豚脂、つまりラードのことで、薬剤として用いられたそうです。いやあ、知識というものはどこに転がっているかわかりませんな。不明を謝すとともに、周氏にはこの場を借りて御礼申し上げます。同書は、ガマの油売りの詳細な実態ほか、汲めども尽きぬ文化人類学的知識が盛りだくさんでおすすめの一冊です。

ディジー・ガレスピー

米ジャズの伝道師、ディジー・ガレスピー。ご当地シリーズの名曲「manteca」はキューバをイメージして彼が作ったものですが、「マンテカ」はこの噺の「マンテエカ」と同語源です。ポルトガル語、またはスペイン語でラード、豚の脂、転じて膨れた死体(脂肪の塊)をさします。隠語では大麻を呼ぶときもあります。かつてスペイン人が現地人を虐殺、そのごろごろした死体の山をマンテカと呼んだというのが曲名の由来だそうです。この作品は1947年につくられましたが、フリューゲルホルンを頬を膨らませて奏でるガレスピーは曲の合間に「もうジョージアには戻らない」と言っているそうで(私には聞こえませんが)、当時の米国内での黒人差別に仮託しているふしがうかがえます。と同時に、キューバのコンガ奏者(コンゲーロ)チャノ・ポソが編曲。みごとなアフロキューバンジャズのスタンダードにブラッシュアップしています。その後まもなく、ポソは射殺されました。マンテカになってしまいました。こんないわくつきの、楽しくもない、むしろ呪われたような曲ながら、不思議な進行と変化にとんだメロディーラインが脳波を心地よく刺激してくれ、まさに大麻のような習慣性を帯びてるものです。何度も何度も聴きたくなるのです。昭和48年(1973)から昭和60年(1985)まで大阪の朝日放送で放映されていた、お見合いバラエティー番組「プロポーズ大作戦」のメインテーマはキダタローの作曲でしたが、出だしがマンテカとぴったり。パクリですね。これも習慣性を帯びる番組になっていました。総じて、蝦蟇の油の効用と一脈通じていたのかもしれません。

落語好きが「manteca」をたのしむならば、やはり大西順子トリオでしょう

「ガマの油」でご難の志ん生

五代目古今亭志ん生が前座で朝太時分のこと。東京の二ツ目という触れ込みでドサ(=田舎)まわりをしているとき、正月に浜松の寄席で「がまの油」を出し、これが大ウケでした。

ところが、朝の起き抜けにいきなり、宿に四,五人の男に踏み込まれ、仰天。

「やいやい、俺たちゃあな、本物のガマの油売りで、元日はばかに売れたのに、二日目からはさっぱりいけねえ。どうも変だてえんで調べてみたら、てめえがこんなところでゴジャゴジャ言いやがったおかげで、ガマの油はさっぱりきかねえってことになっちまったんだ。おれたちの迷惑を、一体全体どうしてくれるんだッ」

ねじこまれて平あやまり、やっと許してもらったそうです。

志ん生が自伝「びんぼう自慢」で、懐かしく回想している「青春旅日記」の一節です。

落語ことば 落語演目 千字寄席 落語あらすじ事典

【蝦蟇の油 三遊亭円生】

自宅で始めて、年収1,300万円以上が可能

  落語ことば 落語演目 千字寄席 落語あらすじ事典

ねずみあな【鼠穴】演目

金にまつわる壮大かつシリアスな人間ドラマ、と思いきや……。ふざけんな!

【あらすじ】

酒と女に身を持ち崩した百姓の竹次郎。

おやじに譲られた田地田畑もみんな人手に渡った。

しかたなく、江戸へ出て商売で成功している兄のところへ尋ね、奉公させてくれと頼むが、兄はそれより自分で商売してみろと励まし、元手を貸してくれる。

竹次郎は喜び、帰り道で包みを開くと、たったの三文。

馬鹿にしやがってと頭に血が昇ったが、ふと気が変わり、地べたを掘っても三文は出てこないと思い直して、これで藁のさんだらぼっちを買い集め、ほどいて小銭をくくる「さし」をこしらえ、売りさばいた金で空俵を買って草鞋わらじを作る、という具合に一心不乱に働く。

その甲斐あって二年半で十両ため、女房も貰って女の子もでき、ついに十年後には浅草蛤町はまぐりちょうに蔵が三戸前みとまえある立派な店の主人におさまった。

ある風の強い日、番頭に火が出たら必ず蔵の目塗りをするように言いつけ、竹次郎が出かけたのはあの兄の店。

十年前に借りた三文と、別に「利息」として二両を返し、礼を述べると、兄は喜んで酒を出し、
「あの時におまえに五両、十両の金を貸すのはわけなかったが、そうすれば景気付けに酒をのんでしまいかねない。だからわざと三文貸し、それを一分にでもしてきたら、今度は五十両でも貸してやろうと思った」
と、本心を語る。

「さぞ恨んだだろうが勘弁しろ」
と詫びられたので、竹次郎も泣いて感謝する。

店のことが心配になり、帰ろうとすると兄は、
「積もる話をしたいから泊まっていけ。もしおめえの家が焼けたら、自分の身代を全部譲ってやる」
とまで言ってくれたので、竹次郎も言葉に甘えることにした。

深夜半鐘が鳴り、蛤町方向が火事という知らせ。

竹次郎がかけつけるとすでに遅く、蔵の鼠穴から火が入り、店は丸焼け。

わずかに持ち出したかみさんのへそくりを元手に、掛け小屋で商売してみたがうまく行かず、親子三人裏長屋住まいの身となった。

悪いことにはかみさんが心労で寝付き、どうにもならず、娘のお芳を連れて兄に五十両借りにいく。

ところが
「元の身代ならともかく、今のおめえに五十両なんてとんでもねえ」
と、けんもほろろ。

店が焼けたら身代を譲ると言ったとしても、
「それは酒の上の冗談だ」
と突っぱねられる。

「お芳、よく顔を見ておけ、これがおめえのたった一人のおじさんだ。人でねえ、鬼だ。おぼえていなせえッ」

親子でとぼとぼ帰る道すがら、七つのお芳が、
「あたしがお女郎じょろうさんになってお金をこしらえる」
とけなげに言ったので、泣く泣く娘を吉原のかむろに売り、二十両の金を得るが、その帰りに大切な金をすられてしまった。

絶望した竹次郎、首をくくろうと念仏を唱え、乗っていた石をぽんとけると、そのとたんに
「竹、おい、起きろ」

気がつくと兄の家。

酔いつぶれて夢を見ていたらしいとわかり、竹次郎、胸をなでおろす。

「ふんふん、えれえ夢を見やがったな。しかし竹、火事の夢は焼けほこるというから、来年、われの家はでかくなるぞ」
「ありがてえ、おらあ、あんまり鼠穴ァ気にしたで」
「ははは、夢は土蔵どぞう(=五臓ごぞう)の疲れだ」

【しりたい】

夢は五臓の疲れ   【RIZAP COOK】

五臓は心・肝・肺・腎・。陰陽五行説で、万物をすべて木・火・土・こん・水の五性に分類する思想の名残です。「夢は五臓のわずらい」ともいいます。

それにしても、普通、夢の「悪役」(しかも現実には恩人)に面と向かって、馬鹿正直に「あんたが人非人に変わる夢を見ました」なんぞとしゃべりませんわなあ。

なんぞ、含むところがあるのかと思われてもしかたありません。精神科医なら、どう診断するでしょう。

ハッピーエンドの方が、実は夢だった、とでもひっくり返せば、少しはマシな「作品」になるでしょうが。誰か改作しないですかね。

浅草蛤町   【RIZAP COOK】

東京都江東区門前仲町の一部です。三代将軍・家光公に蛤を献上したのが町名の起こりで、樺太探検で名高い間宮林蔵(1775–1844)の終焉の地でもあります。

三戸前   【RIZAP COOK】

「戸前」は、土蔵の入口の戸を立てる場所。そこから、蔵の数を数える数詞になりました。「三戸前みとまえ」は蔵を三つ持つこと。蔵の数は金持ちのバロメーターでした。

さんだらぼっち   【RIZAP COOK】

俵の上下に付いた、ワラで編んだ丸いふた。桟俵さんだわらともいいます。

演者   【RIZAP COOK】

大正から昭和にかけての名人・三代目三遊亭円馬えんばから立川ぜん、六代目三遊亭円生えんしょうと継承されました。円生は昭和28年に初演して以来、ほとんど一手専売にしていましたが、五代目円楽一門に伝わり、立川談志一門もけっこうやっています。十代目柳家小三治もよく演じましたが、田舎ことばは、この人がもっとも愛嬌があって達者でしたね。

あ、それと   【RIZAP COOK】

十代目小三治師匠といえば、昭和14年(1939)12月生まれで都立青山高校卒であることは有名ですが、東宝が、いや、日本が誇るアジアン・ビューティー、若林映子あきこさんも同年12月生まれで青山高校を出ています。お二人は同級生だったそうです。若い頃の小三治師匠に「郡山クン、おつかれさま」とかなんとか言って楽屋に差し入れを持って来てくれてたのでしょうか。勝手に想像しちゃいます。彼女は「不良少女モニカ」とか呼ばれてたんだとか。ベルイマンの、ですかい。

日本の美宝、若林映子さん。これぞ美女の最高峰

落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

ももかわ【百川】演目

日本橋の料亭を舞台にした、ちぐはぐなおなはし。実話だそうです。

あらすじ

日本橋浮世小路うきよこうじにあった名代の料亭「百川ももかわ」。

葭町よしちょう桂庵けいあん千束屋ちづかやから、百兵衛ひゃくべえという新規の抱え人が送られてきた。

田舎者で実直そうなので、主人は気に入って、当分洗い方の手伝いを、と言っているときに二階の座敷から手が鳴る。

折悪しく髪結いが来て、女中はみな髪を解いてしまっているので座敷に出せない。

困っただんな、百兵衛に、
「来たばかりで悪いが、おまえが用を伺ってきてくれ」
と頼む。

二階では、祭りが近づいたというのに、隣町に返さなくてはいけない四神剣しじんけんを質入れして遊んでしまい、もめている最中。

そこへ突然、羽織を着た得体の知れない男が
「うひぇッ」
と奇声を発して上がってきたから一同びっくり。

百兵衛が
「わしゃ、このシジンケ(主人家)のカケエニン(抱え人)でごぜえます」
と言ったのを、早のみ込みの初五郎が「シジンケンの掛け合い人」と聞き違え、さては隣町からコワモテが催促に来たかと、大あわて。

ひたすら言い訳を並べ立て、
「決して、あぁたさまの顔はつぶさねえつもりですからどうぞご安心を」と平身低頭。

百兵衛の方は
「こうだなつまんねえ顔だけんどもはァ、つぶさねえように願えてえ」
と「お願いした」つもりが、初五郎の方は一本釘を刺されたと、ますます恐縮。

機嫌をそこねまいと、酒を勧める。

百兵衛が下戸だと断ると、それならと、慈姑くわいのきんとんを差し出し
「ここんところは一つ、ぐっとのみ込んでいただきてえんで」

ばか正直な百兵衛、客に逆らってはと、大きな慈姑のかたまりを脂汗あぶらあせ流して丸のみし、目を白黒させて下りていった。

みんな腹を抱えて笑うのを、初五郎、
「なまじな奴が来て聞いたふうなことを言えばけんかになるから、なにがしという名ある親分が、わざとドジごしらえで芝居をし、最後にこっちの立場を心得たのを見せるため、わざときんとんをのみ込んで笑わしたに違いない」
と一人感心。

一方、百兵衛。

のどをひりつかせていると、二階からまた手が鳴ったので、またなにかのまされるかと、いやいや引き返す。

二階の連中驚いたが、やっと百兵衛がただの抱え人とわかると、
「長谷川町三光新道さんこうじんみち常磐津歌女文字ときわづかめもじという三味線の師匠を呼んでこい」
と言いつける。

名前を忘れたら、三光新道でかの字のつく名高い人だと聞けばわかるから、百川に今朝けさから河岸かしの若い者が四、五人来ていると伝えろと言われ、出かけた百兵衛。

やっぱり名を忘れ、教えられた通りに尋ねると、鴨池かもじという医者の家に連れていかれた。

百兵衛が
「かし(魚河岸)の若い方が、けさ(今朝)がけに四、五人き(来)られやして」
と言ったので、鴨池先生、「袈裟がけに斬られた」と誤解。

「自分が着くまでに、焼酎と白布、鶏卵けいらん二十個を用意するように」
と、百兵衛に言いつける。

この伝言を聞いた若い衆、
「師匠は大酒のみだから、景気づけに焼酎をのみ、白布はさらしにして腹に巻き、卵をのんでいい声を聞かせようって寸法だ」
と、勝手に解釈しているところへ、鴨池先生があたふた駆け込んできた。
「間違えるに事欠いて、医者の先生を呼んできやがって。この抜け作」
「どのくれえ抜けてますか」
「てめえなんざ、みんな抜けてらい」
「そうかね。かめもじ、かもじ、……いやあ、たんとではねえ。たった一字だけだ」

底本:六代目三遊亭円生

【RIZAP COOK】

【しりたい】

コマーシャルな落語  【RIZAP COOK】

実在の江戸懐石料理の名店、百川が宣伝のため、実際に店で起こった事件を落語化して流布させたとも、創作させたともいわれます。いずれにしても、こういう成り立ちの噺は、現在これだけでしょう。

ペリーも賞味  【RIZAP COOK】

「百川」は代々日本橋浮世小路に店を構え、「浮世小路」といえばまず、この店を連想するほどの超有名店でした。もともとは卓袱(中華風鍋料理のはしり)料理店で、安永6年(1777)に出版された江戸名物評判記『評判江戸自慢』に「百川 さんとう 唐料理」とあります。創業時期は詳しくはわかりませんが、明治32年(1899)の「文藝倶楽部」に載った二代目古今亭今輔の速記によると、芳町にあった料亭「百尺」の分店だったとか。天明年間(1781-89)には最盛期を迎え、文人墨客が書画会などを催す文化サロンとしても有名になりました。この店の最後の花は、安政元年(1854)にペリー一行が再来日した際、幕命で千両の予算で百川一店のみ饗応を受け持ったことでしょう。そのときのメニューがまだ残っているといいますが、中でも柿にみりんをあしらったデザートは、彼らを喜ばせたとか。明治初年に廃業しました。

日本橋浮世小路  【RIZAP COOK】  

にほんばしうきよこうじ。中央区日本橋室町二丁目の東側を入った横丁で、明和年間以後の江戸後期には飲食店が軒を並べ、「百川」は路地の突き当たり右側にあったといいます。

四神剣  【RIZAP COOK】

しじんけん。祭りに使用した四神旗です。四神は四方の神の意味で、青龍(東)白虎(西)朱雀(南)玄武(北、玄=亀)の図が描かれ、旗竿に鉾がついていたため、この名があります。神田祭、山王祭のような大祭には欠かせないもので、その年の当番の町が一年間預かり、翌年の当番に当たる町に引き継ぎます。五輪旗のようなものですね。

長谷川町三光新道  【RIZAP COOK】

はせがわちょうさんこうじんみち。中央区日本橋堀留二丁目の大通り東側にある路地です。入り口が目抜き通りに面している路地を江戸では新道と呼びました。

円生が「家元」の噺  【RIZAP COOK】

前述した明治32年(1899)の今輔のものを除けば、古い速記は残されていません。古くから三遊派(三遊亭)系統の噺で、この噺を戦後、一手専売にしていた六代目円生は、義父の五代目円生から継承していました。昭和40年代の一時期、若手落語家が競ってこの「百川」をやったことがありましたが、すべて「家元」円生に稽古してもらったもの。

五代目古今亭志ん生も時々演じました。志ん生のオチは、若い衆のリーダーが市兵衛で、「百兵衛に市(=一)兵衛はかなわない」というもの。これは「多勢に無勢はかなわない」をダジャレにした「たへえ(太兵衛)にぶへえ(武兵衛)はかなわない」という「永代橋」のオチを、さらにくずしたものでしょうが、あまり感心しません。

円生没後は、五代目三遊亭円楽、柳家小三治らが次代に伝えていました。古今亭志ん朝のは絶品でした。三遊亭円窓も伝えています。

カモジ先生はえらい人  【RIZAP COOK】

この噺で、とんだとばっちりを被る鴨池先生。実在も実在、本名が清水左近源(みなもとの)元琳宜珍といういかめしさで、後年、江戸市井で開業したとき、改名して鴨池元琳(がんりん)。鴨池は「かもいけ」と読み、「かもじ」は、この噺のゴロ合わせに使えるように、落語家が無断で読み変えただけでしょう。実にどうも、けしからんもんで。

十一代将軍・家斉の御殿医を勤めたほどの、江戸後期の漢方外料(=外科)の名医中の名医。『瘍科撮要』という全三巻の医書を口述しています。したがって、本来なら町人風情が近寄れもしない身分ながら、晩年は官職を辞して市井で貧しい市民の治療に献身したという、まさに「赤ひげ」そのものだったとか。

【語の読みと注】
百川 ももかわ
葭町 よしちょう
桂庵 けいあん
千束屋 ちづかや
四神剣 しじんけん
下戸 げこ
慈姑 くわい
歌女文字 かめもじ
鴨池 かもじ
卓袱 しっぽく
新道 じんみち
太兵衛 たへえ
武兵衛 ぶへえ

【RIZAP COOK】

落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

【百川 六代目三遊亭円生】

【RIZAP COOK】

ゆやばん【湯屋番】演目

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

若だんな勘当の噺。日本橋の湯屋で番頭に。女湯目当ての空騒ぎ模様。よござんす。

あらすじ

道楽の末、勘当中の若だんな、出入りの大工・熊五郎宅の二階に居候の身。

お決まりでかみさんがいい顔をしない。

飯も、お櫃を濡れしゃもじでペタペタたたき、平たくなった上っ面をすっと削ぐから、中ががらんどう。

亭主の熊は、
「ゴロゴロしていてもしかたがないから、奉公してみたらどうです」
と言い出した。

ちょうど友達の鉄五郎が、日本橋槙町で奴湯という銭湯をやっていて、奉公人を募集中だという。

若だんな、とたんに身を乗り出し、
「女湯もあるかい」
「そりゃあります」
「へへ、行こうよ」

紹介状を書いてもらい、湯屋にやってきた若だんな。

いきなり女湯へ飛び込み
「こんちわァ」

度肝を抜かれた主人が、まあ初めは外廻りでもと言うと、札束を懐に温泉廻りする料簡。

木屑拾いとわかると
「色っぽくねえな。汚な車を引いて汚な半纏汚な股引き、歌右衛門のやらねえ役だ」
「それじゃ煙突掃除しかない」
と言うと
「煙突小僧煤之助なんて、海老蔵のやらねえ役だ」
と、これも拒否。

狙いは一つだけ。

強引に頼み込んで、主人が昼飯に行く間、待望の番台へ。

ところが当て外れで女湯はガラガラ。

見たくもない男湯ばかりがウジャウジャいる。

鯨のように湯を吹いているかと思えば、こっちの野郎は汚いケツで、おまけに毛がびっしり。

どれも、いっそ湯船に放り込み、炭酸でゆでたくなるようなのばかり。

戸を釘付けにして、男を入れるのよそう、と番台で、現実逃避の空想にふけりはじめる。

女湯にやってきた、あだな芸者が連れの女中に
「ごらん。ちょいと乙な番頭さんだね」
と話すのが発端。

お世辞に糠袋の一つも出すと
「ぜひ、お遊びに」
とくりゃあ、しめたもの。

家の前を知らずに通ると女中が見つけ、
「姐さん、お湯屋の番頭さんですよ」

呼ぶと女は泳ぐように出てくる。

「お上がりあそばして。今日はお休みなんでしょ」
「へい。釜が損じて早仕舞い」
じゃ色っぽくないから、
「墓参りに」
がいい。

「お若いのに感心なこと。まあいいじゃありませんか」
「いえ困ります」

番台で自分の手を引っ張っている。

盃のやりとりになり、女が
「今のお盃、ゆすいでなかったの」
と、すごいセリフ。

じっとにらむ目の色っぽさ。

「うわーい、弱った」
「おい、あの野郎、てめえのおでこたたいてるよ」

そのうち外はやらずの雨。

女は蚊帳をつらせて
「こっちへお入んなさいな」

ほどよくピカッ、ゴロゴロとくると、女は癪を起こして気を失う。

盃洗の水を口移し。

女がぱっちり目を開いて
「今のはうそ」

ここで芝居がかり。

「雷さまはこわけれど、あたしのためには結ぶの神」
「ヤ、そんなら今のは空癪か」
「うれしゅうござんす、番頭さん」

ここでいきなりポカポカポカ。

「なにがうれしゅうござんすだい。馬鹿、間抜け。おらァけえるんだ。下駄を出せ」

犬でもくわえていったか、下駄がない。

「そっちの本柾のをお履きなさい」
「こりゃ、てめえの下駄か?」
「いえ、中のお客ので」
「よせやい。出てきたら文句ゥ言うだろう」
「いいですよ。順々に履かせて、一番おしまいは裸足で帰します」

しりたい

若だんな勘当系の噺

落語では、若だんなとくれば、「明烏」「千両みかん」のような少数の変わりダネを除いて、おおかた吉原狂い→親父激怒→勘当→居候と、コースは決まっています。

「火事息子」「清正公酒屋」「唐茄子屋政談」「船徳」「へっつい幽霊」「宮戸川」「山崎屋」「五目講釈」「素人車」などなど、懲りないドラ息子の「奮戦記」は多数ありますが、中でもこの「湯屋番」は、その見事なずうずうしさで、勘当若だんな系の噺ではもっともよく知られています。

古くから口演されてきましたが、明治の初代三遊亭円遊がギャグ満載の爆笑噺に改造、ついで三代-五代目柳家小さんが、現行のスタンダードな型をつくりました。

鼻の円遊の「湯屋番」

明治の「鼻の円遊」こと初代三遊亭円遊の速記では、若だんなが歩きながら、湯屋を乗っ取って美人のお内儀といちゃつく想像を巡らすところが現行の演出と異なります。

最後のオチは、若だんなが湯銭をちょろまかして懐に入れ、美女とごちそうを食べる想像するのを主人が見つけ、「その勘定は誰がする?」「先方の(空想の)女がいたします」としています。

四代目、五代目小さんの「湯屋番」

ここでのあらすじは、五代目小さんの速記を参考にしました。

男湯を見てげんなりするくだり、番台での一人芝居など、ギャグも含めてほとんど四代目小さんが完成した型で、それが五代目小さんにそのまま継承されました。

四代目小さんは、明治44年(1911)の帝劇開場を当て込み、若だんなが豪勢な浴場を建て、朝野の名士がやって来る幻想にひたる改作「帝国浴場」を創作しました。

もちろん、遠い昔のキワモノなので、今はまったく忘れられています。

六代目円生の「湯屋番」

めったにやりませんでしたが、やればまったく手を抜かず、四十分はかかる長講で、今レコードを聴いても一瞬もダレさせない、見事な出来です。(ま、これは編集の妙ではありますが)

かみさんが亭主に文句を言う場面から始まり、若だんなが、湯屋の亭主が近々死ぬ予定を勝手に立て、美人の神さんの入り婿に直る下心で自分から湯屋に行くと言い出すところが、円生演出の特色です。

空想の中で都都逸をうたいすぎてのぼせ、色っぽい年増のかみさんに介抱されて一目ぼれするノロケをえんえんと語る場面は圧巻です。

湯屋の名を、古くは三遊派が「桜湯」、柳派が「奴湯」と決まっていましたが、六代目円生は「浜町の梅の湯」でやっていました。

居候あれこれ

他人の家に食客(しょっかく、いそうろう)として転がり込む迷惑な人種のことですが、別名「かかりうど」「権八」、また、縮めて「イソ」とも呼ばれます。「誰々方に居り候」という、手紙文から出た言葉です。

居候の川柳は多く、有名な「居候三杯目にはそっと出し」ほか、「居候角な座敷を丸く掃き」「居候たばという字をよけてのみ」「出店迷惑さま付けの居候」など、いろいろあります。落語のマクラでは適宜、これらを引用するのが決まりごとです。

最後の句の「出店」は「でだな」で、居候の引き受け先のことです。

風呂屋じゃなくて湯屋

江戸では風呂屋でなく、「湯屋」。これはもう、絶対です。

さらに縮めて「湯」で十分通じます。明治・大正まで、東京の下町では、女子供は「オユーヤ」と呼んでいました。

天正19年(1591)に、伊勢与一という者が、呉服橋御門の前に架かる銭瓶橋のあたりで開業したのが江戸の湯屋の始まりとされます。ただし、当時は上方風の蒸し風呂でした。

日本橋槇町

現在は東京都中央区八重洲二丁目、京橋一丁目。東京駅八重洲口の真向かいです。

南槙町、北槙町に分かれ、付近に材木商が多かったところからついた地名といわれます。北槙町一帯は、元は火除地でした。

【湯屋番 五代目柳家小さん】

おびきゅう【帯久】演目

日本橋の商人、和泉屋与兵衛と帯屋久七との金にからむ大岡政談の一編です。

別題:和泉屋与兵衛(上方) 名奉行(上方) 指政談(上方)

あらすじ

享保5年、春のこと。

日本橋本町四丁目に和泉屋与兵衛いずみやよへえという呉服屋があった。

主人は温厚な人柄で、町内の評判もよく、店はたいそうな繁盛ぶり。

本町二丁目にも帯屋という、これも呉服屋があるが、対照的にこちらは、主人久七きゅうしちの性格が一癖あるのに加え、店も陰気な雰囲気で、「売れず屋」という異名がついてしまうぐらい、さっぱりはやらない。

とうとう三月の晦日みそかの決済もできず、久七が和泉屋に二十両の金を借りにきた。

人のいい与兵衛は、「商人は相身互あいみたがい」と、証文、利息もなしで快く用立てた上、ごちそうまでして帰す。

二十日ほどして返しにきたが、これに味をしめたか、たて続けにだんだん高額の金を無心しにくるようになった。

その都度、二十日ほどできちんと返済に来たので、十一月に百両という大金を借りに来た時も、与兵衛はあっさりと貸してしまう。

今度は、一月たっても梨のつぶて。

さすがに気になりだしたころ、大晦日になって、やっと返しにきた。

ところが、座敷に通して久七が金を出し、入帳したところで、番町の旗本から与兵衛に緊急の呼び出し。

大晦日でてんてこ舞いの折から、与兵衛があわただしく出かけると、不用意にも金はそのまま、久七一人座敷に残された。

久七、悪心あくしんが兆し、これ幸いと金を懐に入れ、なに食わぬ顔でさようなら。

帰宅した与兵衛は金がないのに気づき、さてはと思い至ったが、確かな証拠もないので、自分の不注意なのだとあきらめてしまう。

帯屋の方では、百両浮いたのが運のつき始め。

新年早々、景品をつけて大奉仕したので、たちまち大繁盛。

一方、和泉屋はこれがケチのつき始めで、三月に一人娘が、次いで五月にはおかみさんがぽっくりみまかった。

追い打ちをかけるようにその年の暮れ、享保きょうほう六年十二月十日の神田三河町の大火で、蔵に戸前とまえもろとも店は全焼。

あえなく倒産した。

与兵衛は、以前に分家してあった武兵衛という忠義な番頭に引き取られるが、どっと病の床につく。

武兵衛もまた、他人のけ判をしたことから店をつぶし、今はうらぶれて、下谷長者町に裏長屋住まいの身だが、懸命に旧主の介抱をするうち、十年の歳月が流れた。

ようやく全快した与兵衛、自分はもうなんの望みもないが、長年貧しい中、自分を養ってくれた武兵衛に、もう一度店を再興させてやりたいと、武兵衛が止めるのも聞かず、帯屋に金を借りにいく。

相手も昔の義理に感じて善意で報いてくれるだろう、という期待だが、当の帯屋は冷酷無残でけんもほろろ。

「銭もらい」
とののしり、
「びた一文も貸す金はない」
と言い放つ。

思わず、かっとして百両の件を持ちだし、
「人間ではない」
とののしると、
「因縁をつけるのか」
と、久七は煙管で与兵衛の額を打ち、表にたたき出す。

与兵衛は悔しさのあまり、帯屋の裏庭の松の木で首をくくってやろうとふと見ると、不用心にもかんなくずが散らばっているので、いっそ放火して思いを晴らそうと火をつけたが、未遂のうちに取り押さえられる。

事情を聞いた町役人は同情し、もみ消してくれるが、久七は近所の噂から、百両の一件が暴かれるのを恐れ、先手を打って奉行所に訴え出る。

これで与兵衛は火つけの大罪でお召し捕り。

名奉行、大岡越前守さまのお裁きとなる。下調べの結果、帯屋の強悪ぶりがわかり、百両も久七が懐に入れたと目星をつけた。

越前守はお白州で、
「その方、大晦日で間違いが起こらぬものでもないと、親切づくで春ながにでも改めて持参いたそうと持ち帰ったのを忘れておったのではないか」
とカマをかけるが、久七は
「絶対に返しました」
とシラを切る。

そこで、久七に右手を出させ、人指し指と中指を紙で巻いて張り付け、判を押す。

「これはものを思い出す呪いである。破却する時はその方は死罪、家は闕所けっしょ、そのむね心得よ」

久七は、紙が破れれば首が飛ぶというので、飯も食えない。

三日もすると音を上げて青ざめ、出頭して、まだ返していないと白状する。

奉行はその場で元金百両出させた上、十年分の利息百五十両を払うように久七に命じた。

持ち合わせがないとべそをかくと、百両を奉行所で立て替えた上、残金五十両を年賦一両ずつ払うよう、申し渡す。

「……さて、和泉屋与兵衛。火付けの罪は逃れられぬ。火あぶりに行うによって、さよう心得よ」

これを聞いて、久七が喜んだのなんの。

「さすがは名奉行の大岡さま。どうかこんがりと焼いていただきましょう」
「なれど、五十両の年賦金、受け取りし後に刑を行う」

これだと、和泉屋がフライになるまで五十年も待たねばならない。あわてたのは久七。

「恐れながら申し上げます。ただちに五十両払いますので、どうかすぐに和泉屋をお仕置きに」
「だまれッ。かく証文をしたためたるのち、天下の裁判に再審を願うとは不届き千万。その罪軽からず」
「うへえッ、恐れいりました」

奉行、与兵衛に
「その方、まことに不憫ふびんなやつ。何歳にあいなる」
「六十一でございます」
還暦かんれきか。いやさ、本卦ほんけ(=本家)じゃのう」
「今は分家の居候いそうろうでございます」

底本:六代目三遊亭円生

【RIZAP COOK】

しりたい

大岡政談がネタ本  【RIZAP COOK】

講談の大岡政談ものと、『明和雑記』中の名奉行、曲淵景漸まがりぶちかげつぐ(曲淵甲斐守)の逸話をもとに、上方で落語化されたものです。

曲淵景漸は、隠居年齢ともいえる41歳で大坂西町奉行に就任して甲斐守の受領名を拝名しました。明和6年(1769)には江戸北町奉行に出世して、約18年間その職を務め、江戸の治安統治に尽力しました。その間、田沼意知おきとも刃傷にんじょう事件を裁定し、犯人である佐野政言まさことを取り押さえなかった若年寄や目付などに出仕停止などの処分を下したという人です。

『明和雑記』は和歌や俳諧について見聞したことを記した雑記随筆。作者は尾張藩士で俳人の東条有儘とうじょうゆうじんです。大坂の風聞雑記が中心です。明和元年(1764)、朝鮮通信使が大坂に立ち寄ったところから書き起こされています。

「名奉行」と題して、明治末に『文藝倶楽部』に載った大阪の二代目桂文枝(のち文左衛門)の速記をもとに、六代目三遊亭円生が東京風に改作し、昭和32年(1957)10月、上野・本牧亭での独演会で初演しました。円生没後は三遊亭円窓が復活させて演じています。立川志の輔もまた。

円生は『三遊亭円生全集』(青蛙房)中で、大岡政談では加賀屋四郎右衛門と駿河屋三郎兵衛の対決として、ほとんど同類のネタがあることを紹介しています。

米朝の十八番  【RIZAP COOK】

大阪では古くから演じられ、桂米朝が得意にしていました。大阪のやり方は円生のものとほとんど変わりませんが、和泉屋の所在地が東横堀三丁目、帯屋が同二丁目で、奉行は松平大隅守となっています。

米朝は発端の火事を、宝暦6年(1756)夏の大坂・瓦町の大火(銭亀の火事)としています。

火あぶり  【RIZAP COOK】

江戸中期からは放火のみに科されました。千住小塚原または鈴ヶ森で執行され、財産は没収(闕所)、引回しが付加され、文字通り「こんがり」焼かれた上、男は止め焚(罪人が焼死後再び火をつけ、鼻と陰嚢を焼く)までされました。

焼死体は三日二夜さらされました。火付けの罪科がここまで過酷なのも、いかに幕府が、一夜で江戸の町が灰になってしまう大火を恐れたかのあらわれでしょう。その流れは脈々と生きていて、放火の罪が重いのは現行法でも変わりません。

町火消

本卦  【RIZAP COOK】

本卦返りで、満60歳(数え61)で、生まれたときの干支に返ること。還暦のことです。

陰陽道で十干(甲乙丙丁戊己庚辛壬癸)と十二支(子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥)を組み合わせ、その(10と12)最小公倍数で60年ごとに干支が一回りするため、誕生時と同じ干支が回ってくる、数え61歳を本卦返りとし、赤い着物を贈って祝う風習は今でもありますね。子供に返るという意味で赤い着物なのだそうです。

分家  【RIZAP COOK】

分家は本来は親戚筋の店で、奉公人ののれん分けは「別家」と呼んで区別しますが、この噺の武兵衛のように、忠節で店への功労があった大番頭を、特別に親類扱いで同店名を許し、「分家」と認めることがありました。

つっこみ  【RIZAP COOK】

あらすじでは略しましたが、お白洲で、奉行が最初、利息の返済を「月賦にするか」と久七にただし、年賦がいいというので、「それでは年十両か」「もう少しご猶予を」「では五両か」「もう少しご勘弁を」と値切り、年一両に落ち着くというやり取りがあります。

しかし、これでは、奉行の腹をもし久七が察知して、最初の条件で承諾すれば、数年で与兵衛はフライですから、危ない橋で、噺の盲点といえます。奉行の智略、貫禄で押し切らないと、名裁判にも難癖がつきかねません。

【語の読みと注】
享保5年 きょうほうごねん:1720年
請け判 うけはん:連帯保証人
闕所 けっしょ:お取りつぶし
曲淵景漸 まがりぶちかげつぐ
田沼意知 たぬまおきとも
佐野政言 さのまさこと
東条有儘 とうじょうゆうじん
本卦 ほんけ
本卦返り ほんけがえり:還暦
十干 じっかん
十二支 じゅうにし
陰陽道 おんみょうどう

【RIZAP COOK】

落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

やまざきや【山崎屋】演目

道楽にはまってしまったご大家の若旦那。これはもう、三遊亭円生と林家彦六で有名な噺です。

【あらすじ】

日本橋横山町の鼈甲問屋、山崎屋の若旦那、徳三郎は大変な道楽者。

吉原の花魁に入れ揚げて金を湯水のように使うので、堅い一方の親父は頭を抱え、勘当寸前。

そんなある日。

徳三郎が、番頭の佐兵衛に百両融通してくれと頼む。

あきれて断ると、若旦那は
「親父の金を筆の先でちょいちょいとごまかしてまわしてくれりゃあいい。なにもおまえ、初めてゴマかす金じゃなし」
と、気になる物言いをするので、番頭も意地になる。

「これでも十の歳からご奉公して、塵っ端ひとつ自侭にしたことはありません」
と、憤慨。

すると若旦那、ニヤリと笑い、
「この間、湯屋に行く途中で、丸髷に襟付きのお召しという粋な女を見かけ、後をつけると二階建ての四軒長屋の一番奥……」
と、じわりじわり。

女を囲っていることを見破られた番頭、実はひそかに花魁の心底を探らせ、商家のお内儀に直しても恥ずかしくない実のある女ということは承知なので
「若旦那、あなた、花魁をおかみさんにする気がおありですか」
「そりゃ、したいのはやまやまだが、親父が息をしているうちはダメだよ」

そこで番頭、自分に策があるからと、若旦那に、半年ほどは辛抱して堅くしているようにと言い、花魁の親元身請けで請け出し、出入りの鳶頭に預け、花魁言葉の矯正と、針仕事を鳶頭のかみさんに仕込んでもらうことにした。

大晦日。

小梅のお屋敷に掛け取りに行くのは佐兵衛の受け持ちだが、
「実は手が放せません。申し訳ありませんが、若旦那に」
と佐兵衛が言うと旦那、
「あんなのに二百両の大金を持たせたら、すぐ使っちまう」
と渋る。

「そこが試しで、まだ道楽を始めるようでは末の見込みがないと思し召し、すっぱりとご勘当なさいまし」
と、はっきり言われて旦那、困り果てる。

しかたがないと、「徳」と言いも果てず、若旦那、脱兎のごとく飛び出した。

掛け金を帰りに鳶頭に預け、家に帰ると
「ない。落としました」

旦那、使い込んだと思い、カンカン。

打ち合わせ通りに、鳶頭が駆け込んできて、若旦那が忘れたからと金を届ける。

番頭が、旦那自ら鳶頭に礼に行くべきだと進言。

これも計画通りで、花魁を旦那に見せ、屋敷奉公していたかみさんの妹という触れ込みで、持参金が千両ほどあるが、どこかに縁づかせたいと水を向ければ、欲にかられて旦那は必ずせがれの嫁にと言い出すに違いない、という筋書き。

その通りまんまとだまされた旦那、一目で花魁が気に入って、かくしてめでたく祝言も整った。

旦那は徳三郎に家督を譲り、根岸に隠居。

ある日。

今は本名のお時に帰った花魁が根岸を訪ねる。

「ところで、おまえのお勤めしていた、お大名はどこだい?」
「あの、わちき……わたくし、北国でござんす」
「北国ってえと、加賀さまかい? さだめしお女中も大勢いるだろうね」
「三千人でござんす」
「へえ、おそれいったな。それで、参勤交代のときは道中するのかい?」
「夕方から出まして、武蔵屋ィ行って、伊勢屋、大和、長門、長崎」
「ちょいちょい、ちょいお待ち。そんなに歩くのは大変だ。おまえにゃ、なにか憑きものがしているな。諸国を歩くのが六十六部。足の早いのが天狗だ。おまえにゃ、六部に天狗がついたな」
「いえ、三分で新造が付きんした」

【しりたい】

原話は大坂が舞台   【RIZAP COOK】

安永4年(1775)刊の漢文体笑話本『善謔随訳』中の小咄が原話です。この原典には「反魂香」「泣き塩」の原話もありました。

これは、さる大坂の大きな米問屋の若旦那が、家庭内暴力で毎日、お膳をひっくり返して大暴れ。心配した番頭が意見すると(以下、江戸語に翻訳)、「ウチは米問屋で、米なら吐いて捨てるほどあるってえのになんでしみったれやがって、毎日粟飯なんぞ食わしゃあがるんだ。こんちくしょうめ」。そこで番頭がなだめていわく、「ねえ若旦那、新町の廓の某って男をご存じでござんしょ? その人はね、大きな女郎屋のあるじで、抱えの女はそれこそ、天下の美女、名妓が星の数ほどいまさあね。でもね、その人は毎晩、お手手でして満足していなさるんですよ」

わかったようなわからんような。どうしてこれが「原話」になるのか今ひとつ飲み込めない話ですが、案外こっちの方がおもしろいという方もいらっしゃるかもしれませんな。

円生、正蔵から談志まで  【RIZAP COOK】

廓噺の名手、初代柳家小せんが明治末から大正期に得意にし、明治43年(1910)7月、『文藝倶楽部』に寄せた速記が残ります。このとき、小せんは27歳で、同年4月、真打ち昇進直後。今、速記を読んでも、その天才ぶりがしのばれます。五代目から六代目三遊亭円生、八代目林家正蔵(彦六)に継承され、円生、正蔵が戦後の双璧でしたが、意外にやり手は多く、三代目三遊亭金馬、その孫弟子の桂文朝、談志も持ちネタにしていました。円生、正蔵の演出はさほど変わりませんが、後者では番頭のお妾さんの描写などが、古風で詳しいのが特徴です。

オチもわかりにくく、現代では入念な説明がいるので、はやる噺ではないはずですが、なぜか人気が高いようで、林家小のぶ、古今亭駿菊、桃月庵白酒はともかく、二代目快楽亭ブラックまでやっています。察するに、噺の古臭さ、オチの欠点を補って余りある、起伏に富んだストーリー展開と、番頭のキャラクターのユニークさが、演者の挑戦意欲をを駆り立てるのでしょう。

北国  【RIZAP COOK】

ほっこく。吉原の異称で、江戸の北方にあったから。通人が漢風気取りでそう呼んだことから、広まりました。

これに対して品川は「南」と呼ばれましたが、なぜか「南国」とはいいませんでした。これは品川が公許でなく、あくまで宿場で、岡場所の四宿の一に過ぎないという、格下の存在だからでしょう。噺中の「道中」は花魁道中のこと。「千早振る」参照。

小梅のお屋敷  【RIZAP COOK】

若旦那が掛け取りに行く先で、おそらく向島小梅村(墨田区向島一丁目)の水戸藩下屋敷でしょう。掘割を挟んで南側一帯には松平越前守(越前福井三十二万石)、細川能登守(肥後新田三万五千石)ほか、諸大名の下屋敷が並んでいたので、それらのどれかもわかりません。

どこであっても、日本橋の大きな鼈甲問屋ですから、女手が多い大名の下屋敷では引く手あまた、得意先には事欠かなかったでしょう。

小梅村は日本橋から一里あまり。風光明媚な郊外の行楽地として知られ、江戸の文人墨客に愛されました。村内を水戸街道が通り、水戸徳川家が下屋敷を拝領したのも、本国から一本道という絶好のロケーションにあったからです。水戸の中屋敷は根津権現社の南側一帯(現在の東大グラウンドと農学部の敷地)にありました。「孝行糖」参照。

親許身請け  【RIZAP COOK】

おやもとみうけ。親が身請けする形で、請け代を浮かせることです。

「三分で新造がつきんした」  【RIZAP COOK】

オチの文句ですが、これはマクラで仕込まないと、とうてい現在ではわかりません。宝暦(1751-64)以後、太夫が姿を消したので遊女の位は、呼び出し→昼三→付け廻しの順になりました。以上の三階級を花魁といい、女郎界の三役といったところ。「三分」は「昼三」の揚げ代ですが、この値段ではただ呼ぶだけ。

新造は遊女見習いで、花魁に付いて身辺の世話をします。少女の「禿」を卒業したのが新造で、番頭新造ともいいました。

正蔵(彦六)のくすぐり  【RIZAP COOK】

番「それでだめなら、またあたくしが狂言を書き替えます」
徳「へええ、いよいよ二番目物だね。おまえが夜中に忍び込んで親父を絞め殺す」

この師匠のはくすぐりにまで注釈がいるので、くたびれます。

日本橋横山町  【RIZAP COOK】

現在の中央区日本橋横山町。袋物、足袋、呉服、小間物などの卸問屋が軒を並べていました。現在も、衣料問屋街としてにぎわっています。かつては、横山町二丁目と三丁目の間で、魚市が開かれました。落語には「おせつ徳三郎」「お若伊之助」「地見屋」「文七元結」など多数に登場します。「文七元結」の主人公は「山崎屋」とまったく同じ横山町の鼈甲問屋の手代でした。日本橋辺で大店が舞台の噺といえば、「横山町」を出しておけば間違いはないという、暗黙の了解があったのでしょう。

【語の読みと注】
鼈甲 べっこう
花魁 おいらん
掛け取り かけとり:借金の取り立て
新造 しんぞ:見習い遊女
禿 かむろ
二番目物 にばんめもの:芝居の世話狂言。濡れ場や殺し場

【RIZAP COOK】

落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

たにぶんちょうのでん【谷文晁の伝】円朝

江戸後期の南画家、谷文晁の、名をなした頃からの逸話で構成した名人ものです。

【あらすじ】

谷文晁は、大名の伊予いよ大洲おおず藩の大名、加藤文麗に師事してきた。文麗の死後は師匠につかず、狩野探幽だけを崇拝してひとえに精進する。

ある日。

札差の伊勢屋が酒井抱一ほういつと文晁に筑波山と富士山の屏風絵を依頼。抱一は飲酒三昧で筆をとらず。文晁はすぐに描いた。

伊勢屋からの謝礼全額で、文晁は金粉を買いりっぱな屏風に仕上げた。

町奉行の根岸鎮衛やすもりの注文では、蛭子大黒えびすだいこくの双幅を納めた。

その折、根岸から蛭子講の由来を教えられた。文晁は蛭子を祀り蛭子講を催したくなった。それが昂じて、呉服屋恵比寿屋の暖簾のれんがほしくなった。根岸に胸の内を明かすと、根岸は「盗め」と言う。

翌日。

文晁は恵比寿屋に赴き、正直に恵比寿の暖簾を盗みに来た旨を伝える。不思議なことに、支配人からは来訪を感謝され、料理を供され、暖簾をもらい受けて帰宅した。

その暖簾を、文晁は表装して、根岸や恵比寿屋主人を招いて祝った。

その後、文晁は絵所改役となり、天保十二年、七十八歳で逝去した。

【しりたい】

円朝の「名人もの」

もちろん、文晁の全生涯を語ったものではありません。円朝が関心を持った逸話でつないでいます。

明治31年(1898)1月3日から中外商業新報(日本経済新聞の前身)に「小説」として9回にわたり連載されました。

「名人もの」とは、一芸に精通した人物が一途に生きる姿を描く、円朝作品群の一ジャンルです。

このジャンルには、「怪談乳房榎」に始まり、「荻の若葉」「名人競」「名人長二」などがあげられます。「谷文晁の伝」もその流れの一角を構成します。

円朝の師は3人いた

九回の語りものだから、物足りなさは残ります。

この作品で円朝は、文晁の生き方を自分自身になぞらえているふしがうかがえます。文麗没後の文晁は、江戸初期に活躍した狩野探幽に私淑しました。

円朝も二代目円生に師事しました。

こんな逸話が残っています。

初代古今亭志ん生が、円朝(当時は小円太)は二代目円生には過ぎたる弟子だと察し、古今亭に移るよう誘ったのですが、円朝は固辞したそうです。

律儀でやさしい人だったのですね。

にんぎょうかい【人形買い】演目

 

初節句のお返しに人形を。いい年した大人が青っぱなのガキにそそのかされて。

あらすじ

長屋の神道者しんとうじゃの赤ん坊が初節句で、ちまきが配られたので、長屋中で祝いに人形を贈ることになった。

月番の甚兵衛が代表で長屋二十軒から二十五銭ずつ、計五円を集め、人形を選んでくることになったが、買い方がわからない。

女房に相談すると、「来月の月番の松つぁんは人間がこすからいから、うまくおだててやってもらいな」と言う。

馬鹿正直な甚兵衛がそれを全部しゃべってので、本人は渋い顔。

行きがかり上、しかたなく同行することになったが、転んでもただで起きない松つぁん、人形を値切り、冷や奴で一杯やる金をひねり出す腹づもり。

人形屋に着くと、店番の若だんなをうまく丸め込み、これは縁つなぎだから、この先なんとでも埋め合わせをつけると、十円の人形を四円に負けさせることに成功。

候補は豊臣秀吉のと神功皇后じんぐうこうごうの二体で、どちらに決めるかは長屋に戻り、うるさ方の易者と講釈師の判断を仰がなければならない。

そこで、さっき甚兵衛が汚い人形と間違えた、青っぱなを垂らした小僧に二体を担がせて店を出る。

ところがこの小僧、とんだおしゃべりで、この人形は実は一昨年の売れ残りで処分に困り、だんなが「店に出しておけばどこかの馬鹿が引っかかって買っていく」と吹っ掛けて値段をつけた代物で、あと二円は値切れたとバラしたから、二人はまんまとだまされたとくやしがる。

その上、若だんなが女中おもよに言い寄るシーンを話し、十銭せしめようとするのでまたまた騒然。

帰って易者に伺いを立てると、早速、卦を立て
「本年お生まれの赤さんは金性。太閤秀吉公は火の性で『火剋金』で相性はよろしからず。神功皇后さまは女体にわたらせられるから、水性。水と金は『金生水』と申して相性がよい。神功皇后になさい」
というご託宣。

二人が喜んで帰ろうとすると、
「見料五十銭置いていきなさい」

これで酒二合が一合に目減り。講釈師のところへ行くと
「そも太閤秀吉という人は、尾州愛知郡百姓竹阿弥弥助のせがれにして幼名を日吉丸……」
と、とうとうと「太閤記」をまくしたてる。

「それで先生、結局どっちがいいんで」
「豊臣家は二代で滅んだから、縁起がよろしくない。神功皇后がよろしかろう」

それだけ聞けば十分と、退散しようとすると
「木戸銭二人前四十銭置いていきなさい」

これで冷や奴だけになったと嘆いていると
「座布団二枚で十銭」

これで余得はなにもなし。

がっかりして、神道者に人形を届けにいくと、甚兵衛が、ちまきは砂糖をかけなくてはならないからかえって高くつくという長屋の衆の陰口を全部しゃべってしまう。

神道者は
「お心にかけられまして、あたくしを神職と見立てて、神宮皇后さまとはなによりもけっこうなお人形でございます。そも神功皇后さまと申したてまつるは、人皇十四代仲哀天皇の御后にて……」
と講釈を並べ立てるから、松つぁんあわてて
「待った待った、講釈料は長屋へのお返しからさっ引いてください」

【RIZAP COOK】

しりたい

三代目円馬が上方から  【RIZAP COOK】

上方落語で、三代目三遊亭円馬が明治末年に東京に移植しました。

隠れた円生の十八番  【RIZAP COOK】

円馬の元の型は、人形屋の主人が親切から負けてくれる演出でした。それを、三代目桂三木助と六代目三遊亭円生が直伝で継承し、それぞれ得意にしていました。円生のでは、長屋から集金せず、辰んべという男が博打で取った金を、前借するという段取りです。現在聞かれる音源は、東京のものは円生の吹き込みのみです。

インチキ祈禱師はいつの世も  【RIZAP COOK】

神道者は、神道系の祈祷師のことで、京都の白河家か吉田家の支配(管理)を受け、烏帽子えぼし狩衣かりぎぬ姿で鈴を振ってお祓いして回ります。俗に拝み屋、上方では「祓いたまえ屋」とも呼ばれましたが、仏教系の願人坊主同様、かなり胡散臭い手合いでした。読み方はいくつかありますが、江戸では「しんとうじゃ」と読むことが多かったようです。

江戸の人形屋  【RIZAP COOK】

人形屋は、大店は俗に十軒店じっけんだな、現在の日本橋室町三丁目付近に集まっていました。そのほか露店で主に土人形や市松人形を安く売る店がそこここにありましたが、この噺の人形は節句の武者人形で、相当値段が張りますから、十軒店のちゃんとした店でしょう。頭が木彫り、胴体は藁と紙の衣装人形です。

神功皇后  【RIZAP COOK】

仲哀天皇の皇后。熊襲くまそ侵攻に従って筑紫つくしに向かっているさなか急の崩御にも遭い、身重をもいとわず、韓半島の新羅しらぎに出向いて制圧、百済くだら高句麗こうくりも帰服させ、出産した幼帝とともに大和に凱旋、70年以上も摂政につとめた人、と記紀にはそういうことになっていますが、よくわかりません。幼帝は応神天皇です。新羅の王子アメノヒボコの系統ということですから、韓半島とのかかわりは強かったのでしょう。戦前は武内宿禰たけうちのすくねと並んで節句人形の人気キャラでした。武内宿禰たけうちのすくねは高齢の忠臣として、これまた記紀中の人物。両者とも国威発揚にかなった人物でしたが、いまは顧みられません。

【語の読みと注】
神道者 しんとうしゃ しんとうじゃ しんどうじゃ
十軒店 じっけんだな
神功皇后 じんぐうこうごう
武内宿禰 たけうちのすくね

【RIZAP COOK】

落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

【人形買い 三遊亭円生】

きんめいちく【金明竹】演目

骨董を題材にした前座噺。小気味いい言い立てが聴きどころです。耳に楽しいですね。こういうのも落語のおもしろいところです。

【あらすじ】

骨董屋のおじさんに世話になっている与太郎。

少々頭に霞がかかっているので、それがおじさんの悩みのタネ。

今日も今日とて、店番をさせれば、雨宿りに軒先を借りにきた、どこの誰とも知れない男に、新品の蛇の目傘を貸してしまってそれっきり。

おじさんは
「そういう時は、傘はみんな使い尽くして、バラバラになって使い物にならないから、焚き付けにするので物置へ放り込んであると断るんだ」
と叱った。

すると、鼠が暴れて困るので猫を借りに来た人に
「猫は使いものになりませんから、焚き付けに……」
とやった。

「ばか野郎、猫なら『さかりがついてとんと家に帰らなかったが、久しぶりに戻ったと思ったら、腹をくだして、そそうがあってはならないから、またたびを嘗めさして寝かしてある』と言うんだ」

おじさんがそう教える。

おじさんに目利きを頼んできた客に、与太郎は、
「家にも旦那が一匹いましたが、さかりがついて……」

こんな調子で小言ばかり。

次に来たのは上方者らしい男だが、なにを言っているのかさっぱりわからない。

「わて、中橋の加賀屋佐吉方から参じました。先度、仲買の弥市の取次ぎました道具七品のうち、祐乗、光乗、宗乗三作の三所もの。並びに備前長船の則光、四分一ごしらえ横谷宗岷小柄付きの脇差し、柄前はな、旦那はんが古鉄刀木といやはって、やっぱりありゃ埋れ木じゃそうにな、木が違うておりまっさかいなあ、念のため、ちょっとお断り申します。次は、のんこの茶碗、黄檗山金明竹、ずんどうの花いけ、古池や蛙飛び込む水の音と申します。あれは、風羅坊正筆の掛け物で、沢庵、木庵、隠元禅師はりまぜの小屏風、あの屏風はなあ、もし、わての旦那の檀那寺が、兵庫におましてな、この兵庫の坊主の好みまする屏風じゃによって、かようお伝え願います」
「わーい、よくしゃべるなあ。もういっぺん言ってみろ」

与太郎になぶられ、三べん繰り返されて、男はしゃべり疲れて帰ってしまう。

おばさんも聞いたが、やっぱりわからない。
おじさんが帰ってきたが、わからない人間に報告されても、よけいわからない。

「仲買の弥市が気がふれて、遊女が孝女で、掃除が好きで、千ゾや万ゾと遊んで、終いにずん胴斬りにしちゃったんです。小遣いがないから捕まらなくて、隠元豆に沢庵ばっかり食べて、いくら食べてものんこのしゃあ。それで備前の国に親船で行こうとしたら、兵庫へ着いちゃって、そこに坊さんがいて、周りに屏風を立てまわして、中で坊さんと寝たんです」
「さっぱりわからねえ。どこか一か所でも、はっきり覚えてねえのか」
「たしかか、古池に飛び込んだとか」
「早く言いなさい。あいつに道具七品が預けてあるんだが、買ってったか」
「いいえ、買わず(蛙)です」

【しりたい】

ネタ本は狂言  【RIZAP COOK】

前後半で出典が異なり、前半の笠を借りに来る部分は、狂言「骨皮」をもとに、初代石井宗淑(?-1803)が小咄「夕立」としてまとめたものをさらに改変したとみられます。類話に享和2年(1802)刊の十返舎一九作「臍くり金」中の「無心の断り」があり、現行にそっくりなので、これが落語の直接の祖形でしょう。一九はこれを、おなじみ野次喜多の『続膝栗毛』にも取り入れています。「夕立」との関係は、「夕立」が著者没後の天保10年(1839)の出版(「古今秀句落し噺」に収録)なのでどちらがパクリなのかはわかりません。

後半の珍口上は、初代林屋正蔵(1781-1842)が天保5年(1834)刊の自作落語集『百歌撰』中に入れた「阿呆の口上」が原話で、これは与太郎が笑太郎となっているほかは弥市の口上の文句、「買わず」のオチともまったく同じです。

前半はすでに文化4年(1807)刊の落語ネタ帳『滑稽集』(喜久亭寿曉)に「ひん僧」の題で載っているので、江戸落語としてはもっとも古いものの一つですが、前後を合わせて「金明竹」として一席にまとめられたのは明治時代になったからと思われます。

「骨皮」のあらすじ  【RIZAP COOK】

シテが新発意でワキが住職。檀家の者が寺に笠を借りに来るので、新発意が貸してやり、住職に報告したところ、ケチな住職が「辻風で骨皮バラバラになって貸せないと断れ」と叱る。次に馬を借りに来た者に笠の口上で断ると、住職は「バカめ。駄狂い(発情による乱馬)したと断れ」今度はお経を頼みに来た者に、「住職は駄狂い」と断ったので、聞いた住職が怒り、新発意が、お師匠さまが門前の女とナニしているのは「駄狂い」だと口答えして大ゲンカになる筋立て。

ボタンの掛け違いの珍問答は、民話の「一つ覚え」にヒントを得たとか。

「夕立」のあらすじ  【RIZAP COOK】

主人公(与太郎)は権助、ワキが隠居。笠、猫と借りに来るくだりは現行と同じです。三人目が隠居を呼びに来ると、「隠居は一匹いますが、糞の始末が悪いので貸せない」隠居が怒って「疝気が起こって行けないと言え」と教えると次に蚊いぶしに使う火鉢を借りに来たのにそれを言い、どこの国に疝気で動けない火鉢があると、また隠居が叱ると権助が居直って「きんたま火鉢というから、疝気も起こるべえ」

石井宗淑は医者、幇間、落語家を兼ねる「おたいこ医者」で、長噺の祖といわれる人。

東京に逆輸入  【RIZAP COOK】

この噺、前半の「骨皮」の部分は、純粋な江戸落語のはずながらなぜか幕末には演じられなくなっていて、かえって上方でよく口演されました。明治になってそれがまた東京に逆輸入され、後半の口上の部分が付いてからは、四代目橘家円喬、さらに三代目三遊亭円馬が得意にしました。円喬は特に弥市の京都弁がうまく、同じ口上を三回リピートするのに、三度とも並べる道具の順序を変えて演じたと、六代目円生が語っています。

代表的な前座の口慣らしのための噺として定着していますが、戦後は五代目古今亭志ん生、六代目三遊亭円生、三代目三遊亭金馬など、多数の大看板が手掛けました。なかでも金馬は、昭和初期から戦後にかけ、流麗な話術で「居酒屋」と並び十八番としました。CDは、三巨匠それぞれ残っていて、現役では柳家小三治のがありますが、口上の舌の回転のなめらかさでは金馬がピカ一だったでしょう。志ん生は、前半部分を再び独立させて演じ、後半はカットしていました。

祐乗  【RIZAP COOK】

後藤祐乗(1440-1512)は室町時代の装剣彫刻の名工です。足利義政の庇護を受け、特に目貫にすぐれた作品が多く残ります。光乗はその曾孫(1529-1620)で、やはり名工として織田信長に仕えました。

長船  【RIZAP COOK】

長船は鎌倉時代の備前国の刀工・長船氏で、祖の光忠以下、長光、則光など、代々名工を生みました。

宗珉  【RIZAP COOK】

横谷宗珉(1670-1733)は江戸時代中期の金工で、絵画風彫金の考案者。小柄や獅子牡丹などの絵彫を得意にしました。

金明竹  【RIZAP COOK】

中国福建省原産の黄金色の名竹です。福建省の黄檗山万福寺から日本に渡来し、黄檗宗の開祖となった隠元禅師(1592-1673)が、来日して宇治に同名の寺を建てたとき、この竹を移植し、それが全国に広まりました。観賞用、または筆軸、煙管の羅宇などの細工に用います。隠元には多数の工匠が同行し、彫刻を始め日本美術に大きな影響を与えましたが、金明竹を使った彫刻もその一つです。

漱石がヒントに?  【RIZAP COOK】

『吾輩は猫である』の中で、二絃琴の師匠の飼い猫・三毛子の珍セリフとして書かれている「天璋院様の御祐筆の妹の御嫁に行った先きの御っかさんの甥の娘」は、落語マニアで三代目小さんや初代円遊がひいきだった漱石が「金明竹」の言い立てからヒントを得たという説(半藤一利氏)がありますが、落語にはこの手のくすぐりはかなりあり、なんとも言えません。

【語の読みと注】
新発意 しんぼち:出家して間もない僧
疝気 せんき
石井宗淑 いしいそうしゅく
後藤祐乗 ごとうゆうじょう
目貫 めぬき:刀の目釘に付ける装身具
長船 おさふね
横谷宗珉 よこやそうみん
小柄 こづか
黄檗山 おうばくさん
隠元 いんげん
煙管 きせる
羅宇 らお
天璋院 てんしょういん

【RIZAP COOK】

落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

もんざぶろういなり【紋三郎稲荷】演目

紋三郎稲荷とは笠間稲荷のことなんですね。抑揚の崩壊した茨城県が江戸落語に登場するとはビックリ。

【あらすじ】

常陸国笠間八万石、牧野越中守の家臣、山崎平馬。

参勤交代で江戸勤番に決まったが、風邪をひき、朋輩より二、三日遅れて国元を出発した。

もう初冬の旧暦十一月で、病み上がりだから、かなり厚着をしての道中。

取手の渡しを渡ると、往来に駕籠屋が二人。

病後でもあり、風も強いので乗ることにし、駕籠屋が八百文欲しいと言うのを、気前よく酒手込みで一貫文はずんだ。

途中、心地よくうとうとしているうち、駕籠屋の後棒が先棒に、この節は値切らなければ乗らない客ばかりなのに、言い値で乗るとはおかしい、お稲荷さまでも乗っけたんじゃねえかと話しているのが、耳に入った。

はて、どういうわけでそう言うのかとよく考えると、寒いので背割羽織の下に、胴服といって狐の毛皮を着込んでいる。

その毛皮の尻尾がはみ出し、駕籠の外に先が出ているから、稲荷の化身の狐と間違われたことに気づく。

洒落気がある平馬、からかってやろうと尻尾を動かすと、駕籠屋は仰天。

そこで、わしは紋三郎(稲荷)の眷属(=親類)だと出まかせを言ったから、駕籠屋はすっかり信じ込む。

その上、途中の立て場でべらべら吹聴するので、ニセ稲荷はすっかり閉口。

松戸の本陣の主人、高橋清左衛門なる者が大変に紋三郎稲荷を信仰しているため、平馬はそこに連れていかれる。

下りて駕籠賃を渡すと駕籠屋、
「木の葉に化けるなんてことは……」
「たわけたことを申せ。それは野狐のすることだ」

主人の清左衛門、駕籠屋から話を聞いて大喜び。

羽織袴で平馬の部屋に現れ
「紋三郎稲荷さまにお宿をいただくのは、冥加に余る次第にございます。中庭にささやかながらお宮をお祭りし、ご夫婦のお狐さまも祠においであそばします」
とあいさつしたから、平馬は
「駕籠屋のやつ、ここの親父にまでしゃべった、どうも弱った」
と思ったが、いっそしばらく化け込もうと決める。

清左衛門が、夕食はおこわに油揚げなどと言いだすので、平馬はあわてて
「そんなものは初心者の狐のもので、わしほどになると何でも食うから、酒のよいのと、ここの名物の鯰鍋、鯉こくもよい」

えらくぜいたくな狐だと思いながら、粗相があってはと、主人みずから給仕する歓待ぶり。

平馬、酔っぱらって調子に乗り、この間は王子稲荷と豊川稲荷の仲裁をしたなどと吹きまくる。

そのうち近所の者が、稲荷さまがお泊りと聞いて大勢「参拝」に押しかけたというので、平馬、
「それは奇特なことである。もし供物、賽銭などあらば申し受けると伝えよ」
「へへー」

喜んだ在所の衆、拝んでは部屋に再選を放り込んでいくので、平馬は片っ端から懐へ。

もうかったので、バレないうちにずらかろうと、縁側から庭に下り、切戸を開けると一目散。

祠の下で見ていた狐の亭主、
「おっかあ」
「なんだい、おまいさん」
「化かすのは、人間にはかなわねえ」

【RIZAP COOK】

【しりたい】

円生十八番、若手が復活  【RIZAP COOK】

原話は、寛政10年(1798)刊『無事志有意』中の「玉」。明治から大正にかけ、「品川の円蔵」こと四代目橘家円蔵が得意にした噺で、これを門下の三遊亭円玉(1866-1921)が受け継ぎ、当時若手の、のちの二代目円歌と六代目円生に伝えました。円歌のレコードも残っていますが、その没(1964年)後は円生の独壇場で、CD「円生百席」収録の音源が現在、唯一のスタンダードとなっています。

その円生も「実は私は師匠のは一度も聞いたことがありません」と述べているので円蔵もめったにやる噺ではなかったのでしょう。円生は、それまで笠間藩主を「牧さま」としていたのを史実通りに改めています。「牧野さま」で。

円生没後、継承者がありませんでした。2003年1月、TBS落語研究会で柳家一琴が演じ、その後、入船亭扇辰ほか、若手がぼつぼつ手掛けるようになりました。

紋三郎稲荷  【RIZAP COOK】

茨城県笠間市の笠間稲荷の通称です。胡桃下の稲荷ともいいます。「紋三郎」の通称の由来は、常陸国笠間藩牧野家初代藩主・牧野貞通(寛延2=1749年没)の一族・牧野紋三郎にちなむものとされます。

祭神は宇迦之御魂神で、創建は白雉年間(650-654)。稲荷神は外来の神で、稲荷社のご神体はどこもだいたいはこの神さまです。「ウカ」は「ウケ」とも通じて、食や豊かさを象徴します。伏見稲荷、豊川稲荷と共に、日本三大稲荷の一つとされています。異説は多いのですがとりあえず。初詣は茨城県内では鹿島神宮を抜いて第1位の動員80万人を数えます。現在も五穀豊穣の祭神として信仰を集めているということですね。坂本九は結婚式を笠間稲荷で挙げました。坂本家は笠間稲荷の信心篤い一家だったのですね。そのかかわりからでしょうか、笠間市内の駅のジングルは「上を向いて歩こう」が流れます。

背割羽織  【RIZAP COOK】

別名「ぶっさき羽織」「ぶっさばき」とも呼びます。武士が乗馬や旅行の際に着用した、背中の中央から下を縫い合わせていない羽織です。

稲荷信仰  【RIZAP COOK】

京都市伏見区の伏見稲荷大社を中心とした信仰。神社は2970社、摂社や末社は32000社を超えるといわれています。しめて35000社。八幡社の20,000社をはるかにしのいでいます。東日本に広く分布しているようです。稲荷神は渡来系の秦氏の氏神のため、もとは外来の神さまなのでしょう。秦氏は中央アジアから韓半島を経て渡ってきたといわれますから、稲荷神の本当の神はそこらへんの神さまなのかもしれません。一般にはウカノミタマノカミ(古事記では宇迦之御魂神、日本書紀では倉稲魂大神)とされています。「ウカ」とか「ウケ」とかという古語は食物や豊かさを意味します。中世には伊勢神宮外宮にまつられるトヨウケビメ(古事記では豊宇気毘売神、日本書紀では不登場)と同じ神とされるようになりました。とはいえ、稲荷神社の祭神がウカノミタマノカミであるというのは室町後期以降です。つまり、この神社の神は何者なのかは本当のところはよくわかりません。日本の神さまはいまだによくわからないのがけっこうあります。稲荷というくらいですから農業神だったようですが、米が流通や商業とも深くかかわることから、商業神、漁業神、福神として平安時代から篤信されてきました。豊かさをつかさどる神さまということで現代まで崇信されてきたのですね。このような稲荷信仰の効用から想像すれば、秦氏は東西の十字路で豊穣と富裕の象徴とされるサマルカンドあたりから移ってきたのかもしれません。

教王護国寺(東寺)の鎮守でもあり、真言宗系とも深く結びついてきました。神仏習合思想における稲荷神は、江戸時代までは仏教における十一面観音や聖観音を本地仏(本来の姿の仏)とされるとともに、江戸時代以降は荼枳尼天(夜叉、護法善神)とも同一視されてきました。伏見稲荷大社の神宮寺(江戸末期までは普通にあった神社付属の寺)である愛染寺でも荼枳尼天が祀られていました。明治元年(1868)の神仏分離後も、稲荷神を荼枳尼天としてまつる寺院があります。その代表例は、豊川稲荷妙厳寺(愛知県豊川市、曹洞宗)と最上稲荷妙教寺(岡山市北区、日蓮宗)。最上稲荷では最上位経王大菩薩、八大龍王尊、三面大黒尊天の本地であるとされています。

このように稲荷神は、時代を経るとともに融通無碍にさまざまな神仏と融合合体して信仰を集めてきました。これほどの篤信盛況ぶりは、稲とかかわる神であることで日本人に最も強い結びつきを示す神であったこと、秦氏や東寺といった巨大勢力と結ばれていたこと、下級宗教家によって、稲荷ずし、お狐さま、正一位(稲荷神の神階で最高位)といったわかりやすく布教されていったことが大きいのでしょう。

【語の読みと注】
常陸 ひたち:茨城県
朋輩 ほうばい
取手 とりで
駕籠屋 かごや
洒落気 しゃれけ
胡桃下 くるみした
宇迦之御魂神 うかのみかまのかみ:稲荷の神さま
白雉 はくち

落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

ほうちょう【包丁】演目

まぬけなワルを描いた噺。落語のもうひとつの醍醐味です。

別題:えびっちゃま 出前包丁 庖丁間男(上方)

【あらすじ】

居候になっていた先の亭主がぽっくり死んで、うまく後釜に納まった常。

前の亭主が相当の小金をため込んでいたので、それ以来、五円や十円の小遣いには不自由せず、着物までそっくりちょうだいして羽振りよくやっていたが、いざ金ができると色欲の虫が顔を出し、浅草新道の清元の師匠といつしかいい仲になった。

だんだん老けてきた二十四、五になる女房の静と比べ、年は十九、あくぬけて色っぽい師匠に惚れてしまったので、こうなるとお決まりで、女房がじゃまになってくる。

どうにかしてたたき出し、財産全部をふんだくって師匠といっしょになりたいと考えているところに、ひょっこり現れたのが、昔の悪友の寅。

こちらの方はスカンピン。

常は鰻をおごって寅に相談を持ちかけるが、その筋書きというのがものすごい。

亭主の自分がわざと留守している間に、寅が友達だと言ってずうずうしく入り込み、うまくかみさんをたらし込んで、今にも二人がしっぽり濡れるというころあいを見計らって、出刃包丁を持って踏み込み、「間男見つけた、重ねておいて四つにする」と言えば、もうどうにもならないだろう、という計略。

じゃまな女房を離縁の上、「洲崎や吉原に売れば水金引いても二、三百にはなるだろうが、年増なので品川や大千住で手取り八十円だろう。二人で山分けだ」と持ちかけたので、こうなると色と欲との二人連れ。

寅は飛びつく。

当日。

新道で「貸し夜具」をなりわいとする常の家。

予定通り、寅が静をくどこうとするが、この女、聞かばこそで、やたらに頭をポカポカこづくものだから、寅はコブだらけ。

閉口して、あろうことか、悪計の一切合切を白状してしまう。

「まあ、なんて奴だろう。もうあいつには愛想が尽きましたから、寅さん、おまえさん、こんなおばあさんでよければ、あたしを女房にしておくれでないか」
「よーし、そうと決まったら、野郎、表へ引きずり出して」

瓢箪から駒。

寅がすっかり寝返って、二人で今度は本当にしっぽりと差しつ差されつ酒を飲んでいるところへ、台本が差し替えられているとも知らない常さん、
「間男見つけた」
と、威勢よく踏み込んだとたん
「ふん、出ていくのはおまえだよ」

したたかにぶんなぐられ、下着一枚で表に放り出された。

やっと起き上がると
「ひでえことしやがる。さあ、出刃を返せ」
「なんだ、まだいやがった。切るなら切ってみろ」
「横丁の魚屋へ返してくるんだい」

【RIZAP COOK】

【しりたい】

恵比寿さま 鰻でタイを釣りそこね?  【RIZAP COOK】

上方落語「庖丁間男」を明治期に東京に移したもので、移植者は三代目三遊亭円馬とされます。

明治31年(1898)11月の四代目柳亭左楽の速記が残っていて、この年円馬はまだ16歳なので、この説はあやしいものです。

左楽は「出刃包丁」の題で演じていますが、明治期までは東京での演題は「えびっちゃま」。

にやにや笑って相手の言うことをまともに聞かないことを恵比寿のにこやかな笑いに例えた慣用表現ですが、オチにこの語を使ったことからとも言われ、はっきりはわかりません。

左楽の古い速記では、常が寅を鰻屋に誘うとき、「霊岸島の大黒屋、和田、竹葉、神田川、芝の松金、浅草の前川へ行くというわけにはいかないから」と明治30年代の人気店を挙げています。

昭和の両巨匠の競演  【RIZAP COOK】

戦後では六代目三遊亭円生、五代目古今亭志ん生の二名人が得意としました。

本来は音曲噺で、円生は橘家橘園という音曲師に習っています。

現在、速記・音源ともほとんど円生のもので、残念ながら志ん生のはありません。

円生からは一門の五代目円楽、円弥、円窓らに継承。志ん生からは長男の十代目金原亭馬生に受け継がれていました。

水金  【RIZAP COOK】

みずがね。元の意味は、文字通り、湯水のように使いきる金のことですが、ここでは、常が「水金引いても…」と言っているので、女の斡旋手数料を意味します。

「水」は「廓の水が染み込んで…」という慣用句があるとおり、今でいう「水商売」のこと。


落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

ひとつあな【一つ穴】演目

権助の登場する噺。古い江戸落語です。

落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

【あらすじ】

ある金持ちのだんな。

ケチな上に口が悪いので、奉公人には評判がよろしくない。

そのだんなにお決まりで、外に女ができたという噂。

お内儀さんは心穏やかでない。

飯炊きの権助を五十銭で口説き落とし、今度だんなが夜外出するとき、跡をつけて女の所在と素性を突き止めてくるよう、言いつける。

まもなく、二、三日ぶりに帰宅しただんなが、また本所の知人宅へ出かけると言いだした。

さああやしいと、細君は強引に権助をお供に押しつける。

だんなが途中でうまく言い繕い、帰そうとする。

権助は
「人間は老少不定、いつどこで行き倒れになるかわからねえ」
などと屁理屈をこね、どこまでもついてくる。

ところがその権助の姿がふいに見えなくなったので、だんなは安心して、両国の広小路から、本所とは反対方向に清澄通りを左折していく……。

巻かれたふりをして、こっそり尾行する権助に気づかず、だんなは、大橋という大きな茶屋の横町を曲がり、角から二軒目で抜け裏のある、格子造りの小粋な家に入っていった。

権助が黒塀の節穴からのぞくと、二十一、二で色白のいい女。

だんながでれでれになり、細君の顔を見ると飯を食うのもイヤだの、ウチの飯炊きのツラは鍋のケツだのと、言いたい放題のあげ句、昼間だというのにぴしゃっと障子を閉めてしまったのを見て、権助はカンカン。

さっそく、ご本宅に駆け込んで、ご注進に及んだ。

もちろん、お内儀さんも権助以上にカンカン。

現場を押さえるため、今すぐに先方に乗り込むと息巻く。

権助はさすがに心配になったが、下手に止めるとおまえも一つ穴の狐だと言われ、しかたなくお供をして妾宅に乗り込んでいく。

一方、こちらはだんな。

一杯機嫌でグウグウ寝込んでいるところへ、お妾さんの金切り声でたたき起こされる。

寝ぼけ眼でひょいと枕元を見上げると、紛れもない細君が恨めしそうな顔でにらんでいるので仰天したが、もう後の祭り。

初めはしどろもどろ言い訳し、なんとかこの場を逃れようとするが、お内儀は聞かばこそ。

ネチネチと嫌みを言うので、しまいにはこちらの方も頭にきて、居直った挙げ句、ポカリとやったから、さあ大変。

大げんかになる。

見かねて仲裁に権助が飛び込んできたからだんな、ますます怒って、
「てめえは裏切り者だ、犬畜生だ」
と、ののしる。

こうなると、売り言葉に買い言葉。

「おらあ国に帰ると、天下のお百姓だ。どこが犬だ」
「なにを言いやがる。あっちでもこっちでも尻尾ォ振ってるから犬だ」
「ああそれで、おめえは犬といい、お内儀さんは一つ穴の狐だと言った」

【RIZAP COOK】

【しりたい】

今は昔、名人綺羅星のごと 【RIZAP COOK】

原話は不詳で、幕末にはもう口演されていた生粋の江戸噺。

ことわざからでっちあげられた噺は、ほかには「大どこの犬」「長崎の強飯」「みいらとり」くらいで、案外、あるようでないものです。

この噺、古い速記がやたらに多く、明治28年(1895)12月の四代目橘家円喬を始め、四代目円蔵、初代円右、二代目小円朝と、明治・大正の名人がずらり。

昭和から戦後でも、八代目桂文治、八代目春風亭柳枝、六代目三遊亭円生が得意にしましたが、今は見る影もなし。

わずかに、柳枝、円生両人に師事した三遊亭円窓、本法寺で禁演落語の会を開いていた「ロイド眼鏡の円遊」くらいでしょうか。

噺にも、はやりすたりがあるということでしょう。

円生の芸談  【RIZAP COOK】

円生は、この噺のカンどころとして、権助が塀から濡れ場を覗いて独白するくだりを挙げ、「向こうの言っている言葉を、いちいち復唱するように」と芸談を残している通り、描写が写実的で詳細でした。

そういえば、お内儀が権助に、だんなの尾行を強要する前半部は「権助魚」「悋気の独楽」などと共通しているので、噺として独自色を出すためには、後半の濃密なエロ描写を眼目にするほかないのでしょう。

円喬以来、演出はさほど変わっていませんが、二代目小円朝のように、発端部分をばっさり切って、権助が帰ってきた場面から入る演者もありました。

名誉の禁演落語  【RIZAP COOK】

当然ながらこの噺、戦時中の「禁演落語」の内で、昭和16年(1941)10月30日、浅草・本法寺の噺塚に「祭られた」栄えある53演目の一つ(穴?)です。

もっとも、これほど濃密なエロ具合では、禁演になる以前に、昭和10年代には「問題外」だったでしょうね。

一つ穴の狐  【RIZAP COOK】

もはや死語と言っていいでしょう。現在は「同じ穴のむじな」として、辛うじて生き残っている慣用句です。

同腹、同類、共謀者を指す古い江戸ことばですが、動物が替わって「一つ穴の古狸」「一つ穴のむじな」となる場合もあり、いずれも意味は同じです。

これらは、巣穴を掘る習性のあることと、古くから人を化かすといわれるのが共通点です。

「一つ」にも、独立して同じ共犯の意味があり、歌舞伎でよく「○○と一つでない証拠をお目にかけん」などと力んで、腹に刀を突き立てたりします。

【語の読みと注】

お内儀 おかみ
大橋 たいきょう
妾宅 しょうたく

【RIZAP COOK】

ひっこしのゆめ【引越しの夢】演目

こういう悪女がいたら、一度お目にかかりたいところ。

別題:初夢 口入れ屋(上方)

【あらすじ】

たいへんに堅物の商家の主人。

奉公人に女のことで間違いがあってはならぬと、日が落ちると猫の子一匹外には出さない、湯にも行かせない、という徹底ぶり。

おかげで吉原にも行けず、欲求不満の若い手代や小僧が、店の女に夜な夜ないたずらを仕掛けるので、とうとう女の奉公人が居つかなくなってしまった。

困った果てに一計を案じただんな、口入れ屋にとびきり不器量な女だけを斡旋するように頼んだが、これも効き目なし。

しかたなく、今度は悪さをする連中を痛い目にあわそうと、特別性悪な女を、という注文。

そこで雇われてきたのがお梅という、二十五、六のいい女。

これが注文通り、たいていの男は手玉に取るという、相当な代物だが、そうとは知らない店の連中、一目見たきりぼうっとなり、なんとか一番にお梅をモノにしようと、それぞれ悪企みをめぐらす。

一番手は番頭の清兵衛。五十を越して独り身だが、まだ色気は十分。

飯を食いに行くふりをしてお梅のそばに寄り、ネチネチとかき口説く。

先刻承知、海千山千のお梅がしなだれかかり、股のところをツネツネするものだから、たちまりデレデレになり、「予約金」を一包み置いて、今夜の密会を約束して帰っていく。

続いては、手代の平助。

遊び慣れたふりをするが、お梅にかかっては赤子も同然。

清兵衛と同様、金を巻き上げられ、約束の時刻はまったく同じ。

以下、来る者来る者みんなオモチャにされ、金を包んで置いていく。

初日の夜も二日目の夜も、男という男は全員、すきあらばと一晩中寝ないものだから、誰一人首尾を果たせない。

昼間はそろいもそろって寝不足で、あちこちでいびきが聞こえる始末。

三日目の深夜、むっくりと起き上がったのは清兵衛で、抜き足差し足で台所まで来る。

お梅もわるもので、台所から自分の部屋へのはしごを外しておいたのも、知らぬが仏。

清兵衛はキョロキョロ探したあげく、釣ってある鼠入らずの棚に手を掛けて登ろうとしたから、たちまちガラガラッと棚が崩れ、鼠入らずを担いだまま、逃げるに逃げられなくなった。

続いてやって来たのが平助で、やっぱり同様に、清兵衛が担いでいるもう一方に手を掛けたから、二人とも泣くに泣かれぬ鉢合わせ。

もがく声を聞きつけた小僧がだんなにご注進したので「それッ、泥棒が入った」と、大騒ぎに。

だんなが駆けつけると、清兵衛と平助が、二人で鼠入らずを担いで目を開いたままグーグー。

「二人ともどうしたっていうんだ」
「へい、引っ越しの夢を見ました」

【RIZAP COOK】

【しりたい】

「膝栗毛」からも拝借  【RIZAP COOK】

もっとも古い原話は、寛永5(1628)年成立の安楽庵策伝著「醒睡笑」巻七「廃忘」その四で、男色がテーマです。

美少年の若衆が、ある寺へ寺小姓奉公に。

そこの坊主が少年に夢中になり、夜中、寝入ったところに夜這いをかけようと、そっと起き出すが、同じ獲物を狙っていた何人かが跡を付ける。

足音に動転した坊主、壁に大手を広げ、へばりついたので、若衆が目を覚ます。問いただされて、
「はい、蜘蛛のまねをして遊んでます」。

その後、寛政元年(1789)刊の笑話本『御祓川』中の「壬生の開帳」で、かなり現行に近づきますが、文化3年(1806)刊『東海道中膝栗毛』(十返舎一九)五編・上からも趣向をいただいているようです。

これは、夜這いに忍び出た弥次郎兵衛が、落ちてきた棚を担いでしまい、やってきた喜多八にこれをうまく押し付けて逃げてしまう話です。

上方では「口入れ屋」で  【RIZAP COOK】

上方では、古くから「口入れ屋」として口演されてきましたが、いつごろ伝えられたか、江戸でも少し違った型で、幕末には高座に掛けられていたようです。

明治以後、東京でも、上方の型をそのまま踏襲する演者と、古い東京(江戸)風の演出をとる者とに分かれました。

前者は東京では三代目三遊亭円馬が初演。上方通り「口入れ屋」の演題を用い、四代目柳家小さん、九代目桂文治もこちらで演じました。

後者は「初夢」、または「引越しの夢」と題し、明治27年(1894)3月の二代目(禽語楼)小さんの速記が残っています。

東西で異なる型  【RIZAP COOK】

東西で、商家の奉公人が新入りの女中のところに夜ばいに行くという筋立ては変わりませんが、大ざっぱな違いは、上方ではこの前に、船場の布屋という古着屋に、口入屋(=桂庵)から女中が送り込まれる場面が発端としてつくことです。

また、女が毒婦という設定はなく、御寮人さんが、若い男の奉公人ばかりの商家に、美人の女中は風紀に悪いと、不細工なのばかり雇うのに、好色・強欲な一番番頭がカリカリ。

丁稚に十銭やっていい女を連れてこさせ、その後口八丁手八丁で口説く場面がつくことも特徴です。

狂言まわしの丁稚のませ振り、三番番頭が「湯屋番」の若だんなよろしく、女中との逢瀬を夢想して一人芝居するなど、いかにも大阪らしい、濃厚であざとい演出です。

上方の演題の「口入れ屋」は、東京の桂庵、今でいう職業紹介所のことです。「化物つかい」「百川」参照。

六代目円生の極めつけ  【RIZAP COOK】

戦後、六代目三遊亭円生が、六代目五明楼国輔(1854-?)から直伝された東京型で、ねっとりと演じました。「円生百席」に吹き込んだものは特に極めつけの熱演です。

円生没後は門下の五代目円楽や円窓などに継承されました。その後も、よく高座に掛けられています。

鼠入らず  【RIZAP COOK】

もう説明がなければわらない時代になりました。

要するに、ネズミが入らないように細工した食器棚のこと。

吊り調度です。吊り調度とは、底板を畳や板敷に置かずに天井から壁に寄って吊り下げた家具です。狭い長屋では便利な発想でした。これは茶室のしつらえから起こった工法ですから、庶民ばかりか富裕な家でも使われていました。

おおざっぱには、室内空間の上の方には食器などを吊り調度で置き、下の方(床上)には瓶や桶を置くという発想が、江戸期では当たり前でした。

上方噺では、一番番頭と二番番頭が、「薪山」と称した、奉公人の箱膳を積んでおく膳棚を担ぐハメになります。かなり大きな戸棚です。

箱膳は、かぶせ蓋の質素な塗りの四角形の箱。中には食器を入れて、食事の時には蓋を裏にして載せ、食事が終わるとめいめいが食器を洗って、蓋をして膳棚に収納する、というものです。

たいした違いではありませんが、東西の風土の違いが微妙に現れていますね。

桂枝雀のでは、その後三番番頭が、今度は台所の井戸の淵からターザンよろしく、天窓の紐にぶら下がって二階に着地しようとして失敗。あえなく井戸にボッチャーン……というハチャメチャ騒動になります。

番頭の好色  【RIZAP COOK】

商家への奉公は、男性なら、早ければ数え年七歳ごろから小僧(丁稚)で入り、十五歳前後で元服して手代となり、番頭に進みます。ここまでは住み込みです。

番頭で実績を重ねると主人から近所に家を借りて所帯を持つことも許されます。

これを通い番頭と言いましたが、この頃にはもう白髪交じりの中年になっているのが通り相場です。

歌舞伎ではよく番頭は好色家に描かれたりしていますが、女に縁薄い生活のためです。なかには、かわいい小僧との衆道に陥る者もいたりして、悩み多き職業でした。「藪入り」参照。

大坂以上に江戸の男女差は激しかった(軍事都市の江戸は女性が圧倒的に少なかった)ため、商家の住み込みの女日照りは小さな問題ではなかったようです。

【語の読みと注】

桂庵 けいあん:職業紹介所

落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

ねこただ【猫忠】演目

明治中期に上方から。当初は「猫の忠信」でしたが、お得意の縮めた呼称に。

あらすじ

美人の清元の師匠に、下心見え見えで弟子入りしている、次郎吉と六兵衛の二人。

次郎が、師匠と兄貴分の吉野屋常吉がいちゃついているのをのぞき、稽古を辞めると息巻くので、六さん、「常兄ィは堅い人なのにおかしいな」と首をひねり、二人で確かめに行くと、案の定、差し向かいで盃をさしつさされつ。

悔しいから、常吉のかみさんに告げ口して、夫婦げんかをあおってやろうと、相談する。

たまたま、今度のおさらい会で師匠が着る衣装を縫っていたかみさん、二人が「師匠が『お刺身の冷たいのは毒だよ』なんぞと口ん中でペロペロと温かにして、兄貴の口へ……」などと並べるのを聞いて「けんかをしずめてくれるのが情けなのに、わざわざ波風を立てに来るのはどういうつもりだい」と、怒り出す。

亭主は今の今、奥で寝ている、という。

噺を聞きつけて当の常吉がノッソリ現れたから、二人は仰天。

いきさつを聞いた常吉。

そういえば、最近床屋に行くと「やっぱり他人じゃないんで、唄のお仕込が違うんでしょう」などと妙なことを言われるので、オレの姿を借りて、師匠の家に入り込んでいる奴がいるのかもしれないと、思いめぐらす。

二人を連れて現場に駆けつけ、障子の隙間からのぞいてみると、なるほど、自分に瓜二つの男が師匠としっぽり濡れているから、驚いた。

これは狐狸妖怪に違いないと、二人に「先ィ入って、向こうで盃をくれたら、油断を見澄まして野郎の耳を触ってみろ。獣は耳を触られると動くから、そうしたら大声で『ぴょこぴょこッ』とでもどなれ」と、言いつける。

二人がおそるおそる声をかけると、酔っぱらった声で「よう、次郎と六じゃねえか。こっちィ入んねえ」

気のせいか、声の調子が違う。

酒を出されると「ひょっとして、馬の小便じゃねえか」と、二人はびくびく。

ご返盃に相手が手を出したところを押さえつけ、耳を触ると案の定、ぴくぴく動く。

「ぴょこぴょこだッ」
と叫ぶ声で、本物の常吉が飛び込んできたので、師匠は
「あら、常さんが二人」
と、仰天。

「やい、おれ……いや、てめえは化性のもんだな。真の吉野屋常吉、吉常(=義経)が調べる。白状しろ」

妖怪はすっかり恐れ入り、
(芝居がかりで)「はいはい、申します申します。わたくしの親は、あれ、あれあれあれ、あれに掛かりしあの三味線、わたくしはあの三味線の子でございます」

師匠の三味線の革にされた親を慕ってきた、とさめざめ泣く。ヒョイと見ると、正体を現した大きな猫がかしこまっている。

「兄貴、今度のおさらいは『千本桜』の掛け合いだろう。狐忠信てのはあるが、猫がただ酒をのんだから、猫がただのむ(=猫の忠信)だ。あっしが駿河屋次郎吉で駿河の次郎。こいつは亀屋六兵衛で亀井の六郎。兄貴が弁慶橋に住む吉野屋の常さんで吉常(義経)。千本桜ができたね」
「肝心の静御前がいねえ」
「師匠が延静だから静御前」

師匠が「あたしみたいなお多福に、静が似合うものかね」と言うと、側で猫が「にゃあう(似合う)」

【RIZAP COOK】

しりたい

著作権料は誰のもの?  【RIZAP COOK】

もともと古い上方落語で、大阪の笑福亭系の祖とされる、松富久亭松竹の創作といわれてきましたが、実は原話は、文政12年(1829)江戸板の初代林屋(家)正蔵著『たいこの林』中の「千本桜」で、ほとんど現行と同じです。

松竹という人、今もって生没年、経歴、年代不詳で、それどころか、実在自体が確認できない、「落語界の写楽」ともいえる謎の噺家です。

それでいて、松竹の手になるといわれる噺は多く、この「猫忠」のほか、「初天神」「松竹梅」「千両みかん」「たちぎれ」など、ほとんど現在でも、東西でよく演じられる名作、佳作ばかりです。

江戸の正蔵が始祖とすると、噺の伝播は江戸→大坂であって、松竹説は怪しくなるのですがともかく、噺としては上方で確立しており、松竹の年代も不明なため、東西どっちがパクったか、真相は藪の中。

猫又にでも、聞いてくださいな。

東西のやり方  【RIZAP COOK】

芝居噺の名手だった、六代目桂文治が明治中期に上方の型を東京に移植。初めは「猫の忠信」の題で演じられましたが、東京ではのちに縮まって「猫忠」とされ、それが現代では定着しました。

その文治の明治30年(1897)の速記を始め、八代目文治、大阪の五代目・六代目松鶴、六代目三遊亭円生とさまざまな名人の速記が残っています。

東西で大きな異同はありませんが、上方では初めに次郎吉が師匠の家を覗く場面があります。上方は見あらわしに乗り込むとき、最初に常吉ではなく、女房がいっしょに行くところが東京と異なり、大阪では女師匠が義太夫、東京では常磐津か清元である点も違っています。

円生は延静で演じましたが、「延」が付くのは清元の師匠で、家元の延寿太夫の一字を取ったもの。「百川」に登場の歌女文字師匠のように「文字」が付けば常磐津です。

「千本桜」四段目の口の舞踊「道行初音旅」は、義太夫と清元もしくは常磐津の掛け合いになるので、噺にこうした師匠が登場するわけです。

東ではやはり、この人  【RIZAP COOK】

昭和に入って戦後にかけ、東京でのこの噺の第一人者はやはり、六代目三遊亭円生でした。円生は三代目三遊亭円馬から習っています。オチは、円生以外は東西ともほとんど「ニャウニャウ」と二声でしたが、円生は円馬に倣って、すっきりと一声に改めました。東京ではほかに、三代目桂三木助も演じました。

「義経千本桜」のパロディー   【RIZAP COOK】

『義経千本桜』は人形浄瑠璃(文楽)の作品です。全五段の時代浄瑠璃で、通称「千本」とも。『菅原伝授手習鑑』『仮名手本忠臣蔵』と並ぶ三大浄瑠璃の一つとされています。初演は延享4(1747)年11月、大坂・竹本座、作者は『仮名手本忠臣蔵』と同じチームで、竹田出雲、並木千柳、三好松洛の合作です。

この噺は、人物名がすべて「千本桜」の役名のもじり。オチ近くの化け猫のセリフは、四段目の切「河連法眼館」(通称「狐忠信」)のパロディーで、芝居の狐の、「わたくしはあの、鼓の子でござります」のもじりです。詳しくは「初音の鼓」をご参照ください。

5世尾上菊五郎演じる忠信を描いた錦絵/画・豊原国周 、国立国会図書館所蔵

弁慶橋  【RIZAP COOK】

東京都中央区岩本町二丁目のあたり。神田の藍染川に架かっていた橋ですが、幕末にはもうありませんでした。付近には駿河町、亀井町など、源義経の四天王にちなんだ町名が並んでいました。藍染川、駿河町については「三井の大黒」参照。「ちきり伊勢屋」の弁慶橋は同じ千代田区にあるのですが、ここではありません。

初音の鼓 三井の大黒 ちきり伊勢屋

【RIZAP COOK】

落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

ささきせいだん【佐々木政談】演目

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

南町奉行がさかしいガキを検分。その頓智の妙。期待される人間像ですかね。

別題:池田大助 佐々木裁き(上方)

あらすじ

嘉永年間のこと。

名奉行で知られた南町奉行・佐々木信濃守が、非番なので下々のようすを見ようと、田舎侍に身をやつして市中見回りをしていると、新橋の竹川町で子供らがお白州ごっこをして遊んでいる。

おもしろいので見ていると、十二、三の子供が荒縄で縛られ、大勢手習い帰りの子が見物する中、さっそうと奉行役が登場。

これも年は同じぐらいで、こともあろうに佐々木信濃守と名乗る。

色は真っ黒けで髪ぼうぼう、水っぱなをすすりながらのお裁き。

なんでも、勝ちゃんというのが
「一から十まで、つがそろっているか」
ともう一人に聞き、答えられないので殴った、という。

贋信濃守はすまして、
「さような些細なことをもって、上に手数をわずらわすは不届きである」

セリフも堂にいったもので、二人を解き放つ。

つのことを改めて聞かれると、
「一から十まで、つはみなそろっておる」
「だって、十つとは申しません」
「だまれ。奉行の申すことにいつわりはない。中で一つ、つを盗んでいる者がある。いつつのつを取って十に付けると、みなそろう」

その頓智に、本物はいたく舌を巻き、その子を親、町役人同道の上、奉行所に出頭させるよう、供の与力に申しつける。

さて、子供は桶屋の綱五郎のせがれ、当年十三歳になる四郎吉。

奉行ごっこばかりしていてこのごろ帰りが遅いので、おやじがしかっていると、突然奉行所から呼び出しが来たから、
「それみろ、とんでもねえ遊びをするから、とうとうお上のおとがめだ」
と、おやじも町役一同も真っ青。

その上、奉行ごっこの最中に、お忍びの本物のお奉行さまを、子供らが竹の棒で追い払ったらしいと聞いて、一同生きた心地もしないまま、お白州に出る。

ところが、出てきたお奉行さま、至って上機嫌で、四郎吉に向かい、
「奉行のこれから尋ねること、答えることができるか。どうじゃ」

四郎吉、
「こんな砂利の上では位負けがして答えられないから、そこに並んで座れば、なんでも答える」
と言って、遠慮なくピョコピョコと上に上がってしまったので、おやじは気でも違ったかとぶるぶる震えているばかり。

奉行、少しもかまわず、
「まず星の数を言ってみろ」
と尋ねると、四郎吉少しもあわてず、
「それではお奉行さま、お白州の砂利の数は?」

これでまず一本。

父と母のいずれが好きかと聞かれると、出された饅頭を二つに割り、どっちがうまいと思うかと、聞き返す。

饅頭が三宝に乗っているので、
「四角の形をなしたるものに、三宝とはいかに」
「ここらの侍は一人でも与力といいます」
「では、与力の身分を存じておるか?」
「へへ、この通り」

懐から出したのが玩具の達磨(だるま)で、起き上がり小法師。

錘が付いているので、ぴょこっと立つところから、身分は軽いのに、お上のご威勢を傘に着て、ぴんしゃんぴんしゃんしているというわけ。

「ではその心は」
と問うと、天保銭を借りて達磨に結び付け
「銭のある方へ転ぶ」

最後に、
「衝立に描かれた仙人の絵がなにを話しているか聞いてこい」
と言われて
「へい、佐々木信濃守はばかだと言ってます。絵に描いてあるものがものを言うはずがないって」

ばかと子供に面と向かって言われ、腹を立てかけた信濃守、これには大笑い。

四郎吉が十五になると近習に取り立てたという「佐々木政談」の一席。

底本:六代目三遊亭円生

しりたい

江戸町奉行

江戸町奉行は、三千石以上の旗本から抜擢され、老中、若年寄、寺社奉行に次ぐ要職でした。評定所一座の一員です。天保年間までは大坂町奉行、奈良奉行などを経て就任した経験豊かな者も多く、在職期間も「大岡裁き」で有名な大岡越前守の19年間(1717-36)を筆頭に、十年以上勤めた人も珍しくありませんでしたが、幕末になって人材が払底し、文久3年(1863)から翌元治元年にかけ、一年間で8人も交代するありさまとなりました。➡町奉行

佐々木信濃守

佐々木信濃守顕発は、嘉永5年(1852)から安政4年(1857)まで大坂東町奉行を勤め、江戸に戻って文久3年(1863)、北町奉行に就任。数か月で退いた後、再び年内に南町奉行として返り咲き、翌年退職しました。➡町奉行

オチがある上方演出

民話の「児(ちご)裁判」の筋を借りて、幕末に大坂の三代目笑福亭松鶴が創作したものです。

そのオチは

「あんたが佐々木さんでお父さんが綱五郎、あたくしが四郎吉、これで佐々木四郎高綱」
「それは余の先祖じゃ。そちも源氏か」
「いいえ、平気(=平家)でおます」

わけのわからないダジャレオチとなりますが、子供が出世したかどうかについてはふつう触れられずに終わります。

東京では円生十八番

大阪で長く活躍し、八代目文楽の芸の師でもある三代目三遊亭円馬(橋本の円馬、1882-1945)が、おそらく大正初期に東京に紹介・移植しました。

円馬は、史実通り、佐々木を江戸南町奉行として演じました。円馬の演出を踏襲した六代目三遊亭円生が十八番とし、今回のあらすじも円生のものを底本にしましたが、時代が嘉永年間というのは誤りで、「落語のウソ」です。

後輩の円生から移してもらい、これも得意にしていた三代目三遊亭金馬は「池田大助」の題で演じ、四郎吉が後に大岡越前守の懐刀・池田大助となるという設定でした。これだと当然、時代は百五十年近く遡ることになります。

この噺は子供の描写が命で、へたくそが演じるとまるで与太郎と区別がつかなくなるため、やはり相当の年季と修練が必要な大真打の噺でしょうね。

竹川町

東京都中央区銀座七丁目、ちょうど中央通りをはさんでガスホールやヤマハビルの真向かいになります。地名は、その昔、このあたりが竹林だったことに由来します。

こしょうのくやみ【胡椒の悔やみ】演目

まじめなときになんだか笑っちゃうことって、ときにありますよね。

別題:悔やみ 悔やみ丁稚(上方)

あらすじ

なにを見てもおかしくなる、という幸せな男。

今日もケラケラ笑って兄貴分の家にやってくる。

「自分の長屋の地主の娘が、急に昨夜死んでしまったのが、おかしくてたまらない」
と言う。

「あきれけえった野郎だ」
と兄いがたしなめても、
「だって、七十八十でもまだ腐らない奴があるのに、あんな十七八の小娘が死んじまって生意気だ」
と、不思議な理屈でいつまでたっても笑いが止まらない。

兄貴分が
「てめえがいつも出入りさせてもらって、ふだんから半纏の一枚もいただいてる家じゃねえか。こういう時こそ手伝いに行って、くやみの一つも言ってみろ。また目をかけてくれる」
と勧めるが、
「くやみの言い方がわからないからやさしい奴を一つ教えてくれ」
という。

「……いいか。承って驚き入りました、お嬢さまはおかくれだそうでございます、さぞお力落としでございましょう」
「えー、お力が出たでしょう」
「ばか野郎。なぐられるぞ」

なんとかセリフだけは教え込まれ、
「悲しくなくても涙の一つくらい流さなくちゃならねえ、特にてめえは笑い止めが必要だ」
と兄貴分が言い、渡されたのが胡椒の粉。

なめると、なるほど涙がポロポロ。

「向こうまで遠いから、あんまり早くなめていくと効き目が切れる。かといって、向こうへ行ってからベロベロやってくやみを言ったのではバレてしまって体裁が悪いから、垣根か戸袋の陰でこっそりなめろ」
と、細かい「指導」の上、送りだされる。

さて式場。

早くも女どもが、クドクドと心にもないくやみを並べ立てるのを聞くと、野郎、またまた笑いがこみ上げてきた。

「あのオカミめ。あいつも胡椒なめやがったな。プッ、フ、フ、ハハ、いけねえ。俺もそろそろやるか」

ドジな奴で、いっぺんに全部口に放り込んだので、まるで舌に火がついたよう。

そこへ娘の母親。

「おまえ、どうおしだね。 ボロボロ涙をこぼして」
「へえ、少しなめすぎたらしくて……承って驚き入り……お嬢さまが……ハックショッ!! 鼻に入りやがって。……もし、水をすこしおくんなさい」

やっと落ちつき、
「えー、お嬢さまがおかくれでございまして、お嬢さまがおかくれで」

そこでグイッと水をのんで、
「あー、いい気分だ」

【RIZAP COOK】

しりたい

原話二題  【RIZAP COOK】

原話として知られる小ばなしは、安永2(1773)年江戸板『聞上手』中の「山椒」と、同3年江戸板『茶の子餅』中の「悔やみ」です。

前者の「山椒」は、八百屋で山椒をかじっていた男が、からいので茶をもらってのんでいるうち、向こうの家で主人が二階から落ちて大けがという騒ぎ。男はまだスウスウ言いながら駆けつけ、家人と話しているうちに辛味が消え、「やれそれは、スウ、ホウ、いい気味(=気分)だ」と言ってしまうもの。

後者の「悔やみ」は、やや現行に近くなり、山椒のからさで悔やみの演技がよくできたので、思わず「いい気味だ」と口に出す筋立てです。

八代目柳枝の十八番  【RIZAP COOK】

昭和34年(1959)9月23日、ラジオの公開録音で「お血脈」を演じている最中に倒れ、亡くなった八代目春風亭柳枝。

三遊亭円窓の最初の師匠ですが、美声を生かした端正で穏やかな語り口で、「野ざらし」「王子の狐」など、江戸前の噺で人気がありました。

その柳枝がもっとも得意にしたのがこの噺で、同師はオチの部分を「はあっくしょい。ああ顔がこわれちゃう。こりゃおどろいたねどうも。……一時はどうなることかと思いましてな、どうも。……うぷっ、うけたまわり、うけたまわりますれば……うふふふっ、お嬢さんお亡くなりになったそうで……うーい、あーあ、いい気持ちだ」と写実的に演じ、滑稽味を強く出しました。

この噺の場合、どのやり手も「いい気持ち」のきっかけがわかりにくいので、水をのんで辛味が治るという段取りをつけることが多いようです。

胡椒の効用  【RIZAP COOK】

古くから薬用として用いられ、特に、鼻の中に異物が入って出ないとき、胡椒粉をなめ、くしゃみをして出す民間療法がよく行われていました。

別話「悔やみ」  【RIZAP COOK】

この噺の別題は「悔やみ」ですが、ややこしいことにまったく別話で「悔やみ」があります。

お店のだんなの葬式に、女房から悔やみのセリフを教えてもらい、出かけたまぬけ亭主が、ふだん世話になっているおかみさんの前でお経をあげながら、だんなに冷奴で焼酎をごちそうになったとか、腹痛を起こしてはばかりに行ったら紙がなく、困っているのを助けてもらったとか、くだらない思い出話をさんざん並べたあげく、「ナムアミダブ……だんなが先に死んで、こんないい女のおかみさんを一人置くのは、もったいない。あらもったいないったら、ンニャアモリョリョン」と、最後は明治の五代目桂文楽が流行らせた奇妙な「モリョリョン踊り」の節で、とんでもない下心を出す。

この噺は、六代目三遊亭円生が逃げ噺としてよく演じました。

【RIZAP COOK】

落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

へっついゆうれい【竃幽霊】演目

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

昔は、へっついから幽霊がよく出たもんです。そう、出そうでしょ、あそこ。

【あらすじ】

ある道具屋から買ったへっつい(かまど)から幽霊が出るというので、買う客買う客みな一日ともたずに青い顔で返品に来る。

道具屋の親方、毎日一分二朱で売って三割安で戻ってくるから、初めはもうかると喜んでいたが、そのうち評判が立ち、ほかの品物もぱたりと売れなくなった。

困って夫婦で相談の上、だれか度胸のいいばかがいたら、三両付けて引き取ってもらうことにした。

これを聞きつけたのが裏の長屋に住む遊び人の熊五郎。

「幽霊なんざ目じゃねえ」
とばかり、隣の勘当中の生薬屋の若だんな徳兵衛さんを誘って、半分の一両二分もらった上、とりあえず徳さんの長屋に運び込むことにする。

こわがる徳さんに、幽霊は自分が引き受けて、もうけは折半するからと因果を含めて、二人で担いで家の戸口まで来ると、徳さんがよろけてへっついの角をドブ板にぶつけた。

その拍子に転がり出たのが、なんと三百両の大金。

「ははァ、これに気が残って出やがるんだ」
と合点して、その金を折半、若だんなは吉原へ、熊公は博打場へそれぞれ直行したが、翌日の夕方、帰ってみると二人ともきれいにすってんてん。

しかたがないから寝ることにしたが、その晩、徳さんの枕元へ青い白い奴がスーっと出て
「金返せェ」

「ギャーッ」
と叫ぶのを飛び込んできた熊公がなだめすかし
「こりゃあ、金をたたき返してやらないと毎晩でも出るな」
と思案する。

翌日。

徳さんの親元から三百両を借りてきた熊、へっついを自分の部屋に運び込むと、夕方から
「出やがれ、幽霊ッ」
とどなっている。

丑三ツ時になると、へっついから青白い陰火がボーッと出て
「へい、お待ちどうさま」

「鰻ィあつらえたんじゃねえや、恨めしいとか何とか言え」
と毒づくと
「へえ、それが恨めしくないんで」
とくる。

そこで幽霊が「身の下」はないから身の上を語るところによれば、生前は鳥越に住んでいた留といって、表向きは左官で裏は博打打ち。

それも、チョウ(丁)よりほかに張ったことはないそうな。

ある日。

めずらしく賭場で三百両もうけたが、友達が借りに来てうるさいので、金をへっついの中に隠したまま、その夜フグに当たってあえない最期、という次第。

熊は
「話はわかった。このへっついは俺がもらったんだから、百五十両ずつ立てんぼだ」
とむりやり半額にして返してやる。

「おめえ、不服か。実はこっちも心持が中途半端でいけねえ。いっそ、どっちかへ押しつけちまおう」
「ようがす」

熊の提案に、幽霊もかつてはくろうとなので、興奮して手をユラユラさせながら承知した。

二ッ粒の丁半で、出た目は半。

幽霊は丁しか張らないので、熊の勝ち。

「親方、もう一丁頼みます」
「勘弁してもらおう。もうてめえに金がねえじゃねえか」
「親方、あっしも幽霊です。決して足は出しません」

【しりたい】 

原話は墓でバクチ

安永2年(1773)刊の『俗談今歳花時』中の「幽霊」という小ばなしが原話です。

これは、火事で「真黒やき」になった仲間の一周忌追善に、バクチ狂いだった故人をしのび、墓場でチョボイチをご開帳していると、懐かしいサイの音に誘われ、当人が幽霊となって出現。さっそく仲間に加わって、死装束をカタに三百文張りますが、あえなく負けて意気消沈、早々と消え支度。「ナゼもっとせ(し)ないぞ」「イヤモ(う)、幽霊(=ゆうべ)も三百はりこんだ」

これは、寒中に裸で物ごいするすたすた坊主が唄って歩く「夕べも三百張り込んだ」のもじり、ダジャレにすぎません。まことにどうも、バクチあたりなことで。

上方落語を東京に

この噺も、今東京に残る噺の多くと同じく上方種で、上方落語「竃の幽霊」または「かまど幽霊」を明治末か大正初期に、三代目三遊亭円馬が東京に移したものです。

上方のオチは、熊が巻上げた金を元手に賭場で奮戦していると、またまた幽霊が出現。「まだこの金に未練があるのか」「いえ、テラをお願いに参じました」となります。

寺と博打のテラ銭を掛けたもので、前に金を巻上げた後、熊が幽霊に、石塔くらいは立ててやるから、迷わず成仏しろと言い渡した言葉を受けてのものです。

上方のやり方では、熊は完全にイカサマを使うことになっていて、その辺が東京と違ってあざといところ。

東京でも五代目柳家小さんは、このサゲを用いていました。

円生、三木助が双璧

五代目志ん生、四代目、五代目小さんも演じましたが、レコード、速記の数からも、戦後はやはり六代目円生、三代目三木助がこの噺の双璧といえるでしょう。

なかでも三木助は、幽霊に仰天してへっついを返しに来る男を大阪弁に変え、いちいち言葉尻に「道具屋」「道具屋」とつけるなど、独自の滑稽味を出して十八番としました。

リアルはご法度

ただ、この三木助は若い頃、身を持ち崩して「隼の七」と異名を取った本物の博徒だったこともあり、熊の目つきのこわさや、あまりにもリアルなサイを振る動作が、客や楽屋内に薄気味悪がられ、初期の評判はよくなかったようです。

現に、四代目小さんがこの噺について、「サイを振る手つきはまずくていい、こういうところは人にほめられるな」と戒めています。これは同じバクチ噺の「狸賽」などでも同じでしょう。

「クマ」五郎は普通名詞?

阿佐田哲也のギャンブル小説で、雀ゴロ(麻雀専門のバイニン、博打打ち)が「クマゴロウ」と呼ばれていたのをご記憶の方も多いと思います。

博徒、特にイカサマ師の異称を「クマ」と呼ぶのは相当古くかららしく、細工を施してある賽を「熊女」などともいいました。

そのせいか、「竃幽霊」の主人公は東西問わず、誰が演じても熊五郎です。

三代目三木助の人物設定では、熊は白無垢鉄火、つまり表面は堅気の素人を装って、裏に回れば遊び人ということにしてあります。

「クマ」の語源はよくわかりませんが、あるいは、熊手でかき寄せるように賭場でテラ銭をさらうところからきているのかもしれません。

ごかんさばき【五貫裁き】演目

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

別題「一文惜しみ」。生業めざす熊を応援する大家と質屋との泥仕合。ケチ噺。

【あらすじ】

四文使いという、博打場の下働きをしている熊。

神田三河町の貧乏長屋に住むが、方々に迷惑をかけたので、一念発起して堅気の八百屋になりたいと、大家の太郎兵衛に元手を借りに来た。

ケチな大家は奉賀帳を作り、
「まず誰か金持ちの知り合いに、多めに金をもらってこい」
と突き放す。

ところが、戻ってきた熊は額が割れて血だらけ。

昔、祖父さんが恩を売ったことのある質屋・徳力屋万右衛門方へ行ったが、なんとたった一文しか出さないので
「子供が飴買いにきたんじゃねえッ」
と銭を投げつけると、逆に煙管でしたたかぶたれ、たたき出されたというお粗末。

野郎を殺すと息まくのを、大家は
「待て。ことによったらおもしれえことになる」

なにを言い出すのかと思ったら
「事の次第を町奉行・大岡さまに駆け込み直訴しろ」
と知恵をつけた。さすがは因業な大家、お得意だ。

ところが奉行、最初に銭を投げつけ、天下の通用金を粗略にした罪軽からずと、熊に科料五貫文、徳力屋はおとがめなし。

まだ後があり、
「貧しいその方ゆえ、日に一文ずつの日掛けを許す」

科料を毎日一文ずつ徳力屋に持参し、徳力屋には中継ぎで奉行所に届けるよう申し渡す。

夜が明けると大家は、
「一文はオレが出すから銭を届けてこい、ただし、必ず半紙に受け取りを書かせ、印鑑ももらえ」
と、念を押す。

徳力屋はせせら笑って、店の者を奉行所にやったが、
「代人は、天下の裁きをなんと心得おる。主人自ら町役人、五人組付き添いの上、持って参れッ」
と、しかりつけられたから大変。

たった一文のために毎日、膨大な費用を払って奉行所へ日参しなければならない。

奉行の腹がようやく読めて、万右衛門は真っ青。

その上、逆に自分が科料五貫文を申しつけれられてしまった。

それから大家の徳力屋いじめはいやまし、明日の分だといって、夜中に届けさせる。

店の者が怒って、
「奉行もへちまもあるか」
と口走ったのを、熊が町方定回り同心に言いつけたので、さんざん油を絞られる羽目に。

大家は
「また行ってこい。明後日の分だと言え。徳力屋を寝かすな」

こうなると熊もカラクリがわかり、欲が出て毎晩毎晩ドンドンドン。

徳力屋、一日一文で五貫文では十三年もかかる上、町役人の費用、半紙五千枚……、これでは店がつぶれる、と降参。

十両で示談に来るが、大家が
「この大ばか野郎め。昔生きるか死ぬかを助けてもらった恩を忘れて、十両ぱかりのはした金を持ってきやがって。くそォ食らって西へ飛べッ」
と啖呵を切ったから、ぐうの音も出ない。

改めて熊に五十両払い、八百屋の店を持たせることで話がついた。

これが近所の評判になり、かえって徳力屋の株が上がった。

万右衛門、人助けに目覚め、無利子で貧乏人に金を貸すなど、善を施したから店は繁盛……と思ったら、施しすぎて店はつぶれた。

熊も持ちつけない金に浮かれ、元の木阿弥で、やがては行方知れず。

【しりたい】

これも講釈ダネ

大岡政談ものの、同題の講談を脚色したもの。講談としては、四代目小金井蘆洲の速記があります。

六代目三遊亭円生は「一文惜しみ」の題で演じましたが、立川談志のは、先代・一龍斎貞丈直伝で、設定、演題とも講談通りの「五貫裁き」です。

円生のやり方、談志のやり方

長講で登場人物も多く、筋も入り組んでいるので、並みの力量の演者ではこなせません。そのためか、現役では談志のほかはあまり手掛ける人はいません。

「一文惜しみ」としては、六代目円生以前の速記が見当たらず、落語への改作者や古い演者は不明です。

円生はマクラにケチ噺の「しわいや」を入れ、「強欲は無欲に似たり。 一文惜しみの百両損というお噺でございます」と終わりを地の語りで結ぶなど、吝嗇(りんしょく=けち)噺の要素を強くし、結末もハッピーエンドです。

談志は、講談の骨格をそのまま踏襲しながら、人間の業を率直にとらえる視点から逆に大家と熊の強欲ぶりを強調し、結末もドンデン返しを創作しています。

四文使い

博打場で客に金がなくなったとき、着物などを預かって換金してくる使い走りで、駄賃に四文銭一枚もらうところから、この名があります。

銭五貫の価値

時代によってレートは変わりますが、銭一貫文=千文で、一朱(一両の1/16)が三百文余りですから、五貫はおよそ五両一両あまりに相当します。

ぬけすずめ【抜け雀】演目

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

小田原宿、旅籠賃代わりに描いた雀が……。名工をたたえた名人噺。

あらすじ

小田原宿に現れた若い男。

色白で肥えているが、風体はというと、黒羽二重は日に焼けて赤羽二重。紋付も紋の白いところが真っ黒。

袖を引いたのが、夫婦二人だけの小さな旅籠の主人。

男は悠然と
「泊まってやる。内金に百両も預けておこうか」
と大きなことを言う。

案内すると、男は、
「おれは朝昼晩一升ずつのむ」
と宣言。

その通り、七日の間、一日中大酒を食らって寝ているだけ。

こうなると、そろそろ、かみさんが文句を言い出した。

「危ないから、ここらで内金を入れてほしいと催促してこい」
と気弱な亭主の尻をたたく。

ところが男は
「金はない」
「だってあなた、百両預けようと言った」
と亭主が泣きつくと
「そうしたらいい気持ちだろう、と」

男の商売は絵師。

「抵当に絵を描いてやろうか」
と言い出し、新しい衝立に目を止めて、
「あれに描いてやろう」

それは、江戸の経師屋の職人が抵当に置いていったもの。

亭主をアゴで使って墨をすらせ、一気に描き上げた。

「どうだ」
「へえ、なんです?」
「おまえの眉の下にピカピカッと光っているのはなんだ?」
「目です」
「見えないならくり抜いて銀紙でも張っとけ。雀が五羽描いてある。一羽一両だ」

これは抵当に置くだけで、帰りに寄って金を払うまで売ってはならないと言い置き、男は出発。

とんだ客を泊めたと夫婦でぼやいていると、二階で雀の鳴き声がする。

はて変だ、とヒョイと見ると、例の衝立が真っ白。

どこからか雀が現れ、何と絵の中に飛び込んだ。

これが宿場中の評判を呼び、見物人がひっきりなし。

ある日、六十すぎの品のいい老人が泊まり、絵を見ると
「描いたのは二十五、六の小太りの男であろう。この雀はな、死ぬぞ」

亭主が驚いてわけを聞くと、止まり木が描いていないから、自然に疲れて落ちるという。

「書き足してやろう」
と硯を持ってこさせ、さっと描いた。

「あれは、なんです?」
「おまえの眉の下にピカピカッと光っているのはなんだ?」
「目です」
「見えないならくり抜いて、銀紙でも張っとけ。これは鳥かごだ」

なるほど、雀が飛んでくると、鳥かごに入り、止まり木にとまった。

老人、
「世話になったな」
と行ってしまう。

それからますます絵の評判が高くなり、とうとう藩主、大久保加賀守まで現れて感嘆し、この絵を二千両で買うとの仰せ。

亭主は腰を抜かしたが、律儀に、絵師が帰ってくるまで待ってくれ、と売らない。

それからしばらくして、仙台平の袴に黒羽二重というりっぱな身なりの侍が
「あー、許せ。一晩やっかいになるぞ」

見ると、あの時の絵師だから、亭主はあわてて下にも置かずにごちそう攻め。

老人が鳥かごを描いていった次第を話すと、絵師は二階に上がり、屏風の前にひれ伏すと
「いつもながらご壮健で。不幸の段、お許しください」

聞いてみると、あの老人は絵師の父親。

「へええっ、ご城主さんも、雀を描いたのも名人だが、鳥かごを描いたのも名人だと言ってました。親子二代で名人てえなあ、めでたい」
「なにが、めでたい。あー、おれは親不孝をした」
「どうして?」
「衝立を見ろ。親をかごかきにした」

しりたい

知恩院抜け雀伝説  【RIZAP COOK】

この噺、どうも出自がはっきりしません。

講釈ダネだという説もあり、はたまた中国の黄鶴楼伝説が元だと主張なさる先生もあり、誰それの有名な絵師の逸話じゃとの説もありで、百家争鳴、どの解説文を見てもまちまちです。

その中で、ネタ元として多分確かだろうと思われるのが、京都・知恩院七不思議の一で、襖絵から朝、雀が抜け出し、餌をついばむという伝説です。

六代目三遊亭円生の「子別れ・上」の中で熊五郎が、「知恩院の雀ァ抜け雀」と、俗謡めいて言っていますから、けっこう有名だったのでしょう。

襖絵のある知恩院の大方丈は寛永18年(1641)の創建ですから、描いたのはおそらく京都狩野派の中興の祖・狩野山雪でしょうが、不詳です。

志ん生・父子相伝  【RIZAP COOK】

落語として発達したのは上方で、したがって、上方では後述のように昔から、けっこう多くの師匠が手掛けています。

東京では五代目志ん生の、文字通りワンマンショーです。

なにしろ、明治以後、志ん生以前の速記は事実上ありません。

わずかに「明治末期から大正初期の『文芸倶楽部』に速記がある」というアイマイモコ、いい加減極まりない記述を複数の「落語評論家」の先生方がしていますが、明治何年何月号で、何という師匠のものなのかは、ダレも知らないようです。

つまり、上方からいつごろ伝わり、志ん生がいつ、誰から教わったのか、ご当人も忘れたのか、言い残していない以上、永遠の謎なのです。

要は志ん生が発掘し、育て、得意の芸道ものの一つとして一手専売にした、「志ん生作」といっていいほどの噺です。

東京の噺家では十代目金原亭馬生、古今亭志ん朝兄弟が「家の芸」として手掛けたくらいです。まさに親子相伝。

志ん生の「抜け雀」の特色は、芸道ものによくある説教臭がなく、「顔の真ん中にぴかっと」というセリフが、絵師、かみさん、老人と三度繰り返される「反復ギャグ」を始め、笑いの多い、明るく楽しい噺に仕上げていることでしょう。

特に「火焔太鼓」を思わせる、ガラガラのかみさんと恐妻家の亭主の人物造形が絶妙です。

志ん朝は『志ん朝の落語・6』(ちくま文庫)の解説で京須偕充氏も述べている通り、父親の演出を踏まえながら、より人物描写の彫りを深くし、さらに近代的で爽やかな印象の「抜け雀」をつくっています。

上方の「雀旅籠」  【RIZAP COOK】

上方の「雀旅籠」は、舞台も同じ小田原宿ということも含め、筋や設定は東京の「抜け雀」とほとんど違いはありません。

特に桂文枝代々の持ちネタで、三代目桂文枝のほか、二代目立花家花橘、二代目桂三木助も、得意にしていたといいます。

五代目文枝、米朝ももちろん手掛けましたが、特に米朝のは、先代文枝譲りで、「私が教わったのでは、雀は室内を飛びまわるだけで、障子を開けるとバタバタと絵へ納ってしまうのですが、私は東京式に一ぺん戸外へ飛び出すことにしました」と芸談にある通り、ギャグも含めて、東京、つまり志ん生の影響が多分にあるようです。

同師は題も「抜け雀」で演じます。

「親に駕籠かかせ……」  【RIZAP COOK】

「親を駕籠かきにした」というオチの部分の原話は、上方落語の祖・初代米沢彦八(?-1714)が元禄16年(1703)に刊行した『軽口御前男』巻二中の「山水の掛物」といわれます。

これは、ある屋敷で客の接待に出た腰元が、床の間の雪舟の絵の掛け軸を見て涙を流し、「私の父もかきましたが、山道をかいている最中に亡くなりました」と言うので、客が「そなたの父も絵かきか」と尋ねると、「いえ、駕籠かきです」と地口(=ダジャレ)オチになるものです。

それから時代がくだり、寛延2年(1749)7月、大坂・竹本座で初演された人形浄瑠璃『双蝶蝶曲輪日記(ふたつちょうちょうくるわにっき)』六段目の「橋本・治部右衛門住家」に、傾城吾妻のくどき「現在親に駕籠かかせ」というセリフがあることから、これが直接のオチの原型であると同時に、この噺の発想そのものになったという説があります。

ほんま、ややっこしいことで。お退屈さま。

駕籠かき  【RIZAP COOK】

普通、街道筋にたむろする雲助、つまり宿場や立て場で客待ちをする駕籠屋のことです。

「親に駕籠を担がせた」と相当に悪く言われ、職業的差別を受けていることで、この連中がどれだけ剣呑で、評判のよくない輩だったかがうかがえます。

【RIZAP COOK】

【語の読みと注】
抵当 かた
衝立 ついたて

かけとりまんざい【掛取万歳】演目

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

掛け買いの攻防戦。掛け取りで大晦日を乗り切ろうとする夫婦の、だじゃれ噺。

別題:浮かれの掛取(上方)

あらすじ

大晦日。

掛け買いの借金がたまった夫婦、当然支払えるあてはないため、ひとつ、掛け取りの好きなもので言い訳してケムにまき、追い返してしまおう、と作戦を練る。

まずは大家。

風流にも蜀山人を気取って狂歌に凝っている。なにせ七か月も店賃(たなちん)をためているので、なかなか手ごわい相手。

そこで即興の狂歌攻め。

「僧正遍照(=返上)とは思えども金の通い路吹き閉じにけり」
「なにもかもありたけ質に置炬燵かかろう島の蒲団だになし」
「貧乏の棒は次第に太くなり振り回されぬ年の暮れかな」……

案の定、大家はすっかり乗せられて、
「貸しはやる借りは取られるその中に何とて大家つれなかるらん……オレも時平(=ヒデエ)ことは言わねえ、梅桜の杉(=過ぎ)王まで松(=待つ)王としよう」
と芝居の「菅原」尽くしで帰ってしまう。

次は魚屋の金さん。

この男は、けんかが飯より好き。

今日こそはもらえるまで帰らねえと威勢よくねじこんでくるのを、
「おおよく言った。じゃあ、オレの運が開けるまで、六十年がとこ待っていねえ。男の口から取れるまで帰らねえと言った以上、こっちも払うまでちょっとでも敷居の外はまたがせねえ」
と無茶苦茶な逆ネジ。

挙げ句の果てに借金を棒引きさせて、見事に撃退した。

こんな調子で義太夫、芝居とあらゆる手で難敵を撃破。

最後に、三河屋のだんな。

これは三河万歳(まんざい)のマニアだ。

双方万歳で渡り合い、亭主が扇子を開き「なかなかそんなことでは勘定なんざできねえ」と太夫で攻めれば、だんなは「ハァ、でェきなければァ二十年三十年」と、こちらは才蔵。

「ハァ、まだまだそんなことで勘定なんざできねえ」「そーれじゃ一体いつ払う」「ひゃーく万年もォ、過ぎたならァ」

しりたい

大晦日の攻防戦

昔は、日常の買い物はすべて掛け買いで、決算期を節季(せっき)といい、盆・暮れの二回でした。

特に大晦日は、商家にとっては、掛売りの借金が回収できるか、また、貧乏人にとっては踏み倒せるかどうかが死活問題で、古く井原西鶴(1642-93)の「世間胸算用」でも、それこそ笑うどころではない、壮絶な攻防戦がくりひろげられています。

むろん、江戸でも大坂でも掛け売り(=信用売り)するのは、同じ町内の生活必需品(酒、米、炭、魚など)に限ります。

落語では結局うまく逃げ切ってしまいますが、現実は厳しかったことでしょう。

演者が限られる大ネタ

筋は単純で、掛け取り(集金人)それぞれの好きな芸事を利用して相手をケムに巻き、撃退するというだけの噺です。

それだけに義太夫などの音曲、芝居、三河万歳とあらゆる芸能に熟達しなければならず、よほどの大真打ちで、多方面の教養を身に着けた者でなければこなせません。

明治では伝説の名人・四代目橘家円喬の速記が残りますが、円喬は万歳の部分を出さず、「掛け取り」の題で、最後は主人公がシンバリ棒をかって籠城してしまうので、掛取りが困って隣の主人に「火事だ」と叫んで追い出してくれと頼みますが、亭主が窓から五十銭出して「これで火を消してくれ」というオチにしています。

戦後は六代目三遊亭円生の独壇場でした。

三河万歳

万歳は三河、大和、尾張など各地にあり、江戸は三河万歳の縄張りでした。

暮れになると日本橋に才蔵市が立ち、三河・幡豆郡の村々から出張してきた太夫がよさそうな相棒を選び、コンビを組みます。

太夫は烏帽子に袴で扇子を持って舞い、掛け合いではツッコミ役。才蔵は小鼓を持ち囃し方とボケ役を担当します。

武家屋敷を回る屋敷万歳、町屋を担当する町万歳などがありましたが、古くは千秋(せんず)万歳といい、初春に悪鬼を祓い言霊によって福をもたらすという民間信仰が芸能化したものといわれます。

菅原づくし

浄瑠璃および歌舞伎で有名な『菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)』の三段目「車引」の登場人物でシャレています。

歌はこの後の「寺子屋の段」で松王丸が詠じる「梅は飛び 桜は枯るる 世の中に 何とて松の つれなかるらん」のパロディーで、続けて「来春はきっと埋め(=梅)草をします」と梅王丸でしめます。

芝居

六代目円生では、酒屋の番頭を上使に見立て、「近江八景」づくしのセリフで言い訳した後、「今年も過ぎて来年、あの石山の秋の月」「九月下旬か」「三井寺の鐘を合図に」「きっと勘定いたすと申すか」「まずそれまではお掛取りさま」「この家のあるじ八五郎」「来春お目に」「かかるであろう」とめでたく追い払います。

改作二題

上方では、古くはのぞきからくり芝居の口上をまねて、オチを、「これぞゼンナイ(ゼンマイ=ゼニ無い)のしかけ」としていましたが、明治初期に二代目林家菊丸が芝居仕立てのオチに改作したものが「大晦日浮かれの掛取り」として今に残っています。

もうひとつ、昭和初期に、六代目春風亭柳橋が近代的に改作、野球好きの米屋と「都の西北」「若き血」の替え歌で応酬した後、「これで借金は取れん(=ドロー、引き分け)ゲームになりました」とダジャレで落とす「掛取り早慶戦」で大当たりしました。

円生のくすぐりから

六代目円生で、亭主が魚屋を逆に脅し、借金を棒引きにさせたあげく、「帰るなら払ったことになるな」と、幻の領収書を書かせるところが爆笑。無理やり「毎度ありがとうございます」と言わせたうえ、「6円70銭。10円渡した(つもり!)からつりを置いてけ」。

まことにどうも、けしからんもんで。

さんねんめ【三年目】演目

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

逝かれた亭主。 出てこない女房。 しびれ切らした亭主。共にわけありで。

別題:茶漬け幽霊(上方)

あらすじ

ある夫婦、大変に仲むつまじく暮らしていた。

ある年、かみさんがふとした風邪がもとでどっと床につき、亭主の懸命の看病の甲斐なく、だんだん弱るばかり。

いよいよ今日か明日かという時になって、病人は弱々しい声で
「私が死んだ後、あなたが後添いをおもらいになると思うとそればかりが心残りでございます」
と言う。

「なにを言っている、あたしはおまえに万万が一のことがあっても、決して生涯、再婚などしない」
といくら言っても、
「いえ、あなたは必ず後添いをおもらいになります」
と繰り返すばかり。

あまりしつこいので亭主、
「そんなことはない。決してそんなことはないけれども、もし、あたしが後添いをもらうようなことがあったら、おまえ、婚礼の晩に化けて出ておいで。前妻の幽霊がとりついているようなところに嫁に来るような女はないから、そうすればどうでもあたしは独り身で通さなくてはいけなくなるんだから」
「それでは、八ツの鐘を合図に、きっと」
「ああいいとも」

えらいことを約束してしまったが、亭主のその言葉を聞くと、かみさんやっと安心したのか、にわかに苦しみだしたかと思うと、ついにはかなく息は絶えにけり。

泣きの涙で弔いを出し、初七日、四十九日と過ぎると、そろそろ親類連中がやかましくなってくる。

まだ若いのだし、やもめを通すのは世間の手前よくない、いい人がいるから、ぜひとも再婚しろと、しつこく言われるのを、初めのうちは仏との約束の手前、耳を貸さなかったが、百か日にもなると、とうとう断りきれなくなる。

それはそうで、まさか先妻とこれこれの約束をしたから……などと、ばかなことは言えない。

いよいよ婚礼の晩になり、亭主、幽霊がいつ出るかと、夜も寝ないで待っていたが、八つの鐘はおろか、二日たっても、三日たっても、いっこうに現れないものだから、
「ばかにしてやがる。恨めしいの、とり殺すの、と言ったところで息のあるうちだけだ」

それっきり先妻のことは忘れるともなく忘れ、後妻もそれほど器量が悪いという方ではないから、少しずつなじんでいくうちに、月満ちて玉のような男の子も生まれた。

こうして、いつしか三年目。

子供の寝顔に見入っているうち、ふと先妻のことを思い出している。

と、どこで打ち出すのか、八つの鐘がゴーン。

急にブルブルッと寒気がきたので、これはおかしいと枕元をヒョイと見ると、先妻の幽霊が髪をおどろに振り乱して、恨めしそうにこっちを見ている。

「……あなた、まあ恨めしいお方です。こんな美しい方をおもらいになって、かわいい赤ちゃんまで……お約束が違います」
「じょ、冗談言っちゃいけない。おまえが婚礼の晩に出てくるというから、あたしはずっと待っていたんだ。子供までできた後に恨みを言われちゃ困るじゃないか。なぜもっと早く出てこない」
「それは無理です」
「なぜ?」
「私が死んだ時、坊さんにしたでしょう」
「ああ、親戚中が一剃刀ずつ当てた」
「坊さんでは愛想を尽かされるから、髪の伸びるまで待ってました」

【RIZAP COOK】

しりたい

「原作者」は中興の祖  【RIZAP COOK】

本業の落語はもちろん、黄表紙、笑話本、滑稽本の執筆から茶道、絵画、狂歌と多芸多才、江戸のマルチタレントとして活躍した桜川慈悲成(しらがわじひなり、1762-1833)が、享和3年(1803)刊の笑話本『遊子珍学問』」中の「孝子経曰、人之畏不可不畏」が原作です。

これは、やもめ男が昼飯を食っていると、ドロドロと死んだ女房が現れたので、幽霊ならなぜ夜出てこないととがめると、「だってえ、夜は恐いんだもん」というオチ。

上方で演じられる「茶漬幽霊」は、「昼飯中」が「茶漬け中」に変わっただけで、大筋とオチは同じです。

「髪がのびるまで待っていた」は、「夜はこわい」の前の幽霊の言い訳で、東京の「三年目」は、ここで切っているわけです。

三年目とは  【RIZAP COOK】

今でいう三周忌(三回忌)です。『十王経』という仏教の啓蒙書に、七七忌(四十九日)、百ヶ日、一周忌など忌日、法事の規定があるのが始まりです。

坊さんにする  【RIZAP COOK】

江戸時代までは、髪剃り(こうぞり)といい、男女を問わず、納棺の直前に坊さんに剃髪してもらう習慣がありました。

東は悲話、西はドライ

東京の「三年目」では、亭主は約束を守りたかったのに、周囲の圧力でやむなく再婚する設定で、それだけに先妻に未練があり、オチでも「すれ違い」の悲劇が色濃く出ます。

これに対し、上方の「茶漬幽霊」は、男は女房のことなど小気味いいほどきれいに忘れ、すぐに新しい女とやりたい放題。薄情でドライです。

幽霊が出るのが「茶漬中」というのもふざけていますし、オチも逆転の発想で笑わせ、こっけい噺の要素が強くなっています。

バレ噺「二本指」  【RIZAP COOK】

類話に「二本指」という艶笑小ばなしがあります。

惚れぬいたかみさんがあの世に行き、ある夜化けて出てきて、「あたしが死んだから、おまえさんが浮気でもしてやしないかと思うと、心配で浮かばれないよ」と愚痴を言います。あんまりしつこいので、めんどうくさくなった亭主、そんなに信用できないならと、自分の道具をスパッと切って渡しますが、翌晩また現れて、「あと、右手の指が二本ほしい」

二代目露の五郎兵衛が「指は知っていた」の題で演じました。逸物をチョン切るときの表情が抱腹絶倒です。

円生、志ん生のくすぐり  【RIZAP COOK】

●円生

(マクラで、幽霊を田舎言葉で)「恨めしいぞォ……おらァはァ、恨めしいで、てっこにおえねえだから……生き変わり死に変わり、恨みを晴らさでおかねえで、このけつめど野郎」

土左衛門になると、男は下向き、女は上向きで流れてくる。この間横になって流れてきたので、聞いてみたらゲイボーイ。

●志ん生

(亭主が幽霊に)「そんなわけのわからねえ、ムク犬のケツにのみがへえったようなことを言ったって、もうダメだよ」

いやあ、この二人が戦後では「三年目」の双璧でした。

【RIZAP COOK】

ゆめきん【夢金】演目

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

船宿に駆け込んできた男と女。金銭欲丸出しの船頭との取り合わせで。

あらすじ

山谷堀の吉田屋という船宿。

そこの船頭・熊五郎は、このところ毎晩のように超現実的な寝言をうなっている。

「金が欲しいな。二十両欲しい。だれかくれぇ」

ある夜、いつものように熊の
「金くれえ」
が始まったころ合いに、門口で大声で案内を乞う者がある。

亭主が出てみると、年のころは三十ばかり、赤羽二重の黒紋の羽織、献上博多の帯のぼろぼろになったのを着た侍が、お召し縮緬の小袖に蝦夷錦の帯を締め、小紋の羽織、文金高島田しとやかにお高祖頭巾をかぶった十六、七の娘を連れて、雪の中を素足で立っている。

話を聞くと、今日妹を連れて芝居見物に行ったが、遅くなり、この雪の中を難渋しているので、大橋まで屋根舟を一艘仕立ててもらいたいという。

今、船頭は相変わらず
「二十両くれえ」
とやっている熊五郎しかいない。

「大変に欲張りなやつですから、酒手の無心でもするとお気の毒ですので」
と断っても
「かまわない」
と言うので、急いで熊を起こして支度をさせる。

舟はまもなく大川の中へ。

酒手の約束につられてしぶしぶ起き出した熊五郎、出がけにグイっとあおってきたものの、雪の中。寒さにブルブル震えながら漕いでいる。

娘の顔をちらちら見て
「こいつら兄妹じゃねえな」
と踏んだが、まあなんにしろ
「早くゼニをくれればいい、酒手をくれ、早く一分くれ」
と独り言を言っていると、侍が舟の障子をガラリと開け
「おい、船頭。ちょっともやえ(止めろ)。きさまに話がある」

女は寝入っている。

「この娘は実は妹ではなく、今日、吉原土手のところで犬に取り巻かれて難儀していたのを助けてやったもの。介抱しながら懐に手を入れると、大枚二百両を持っていたから、これからこの女をさんざんなぐさんだ上、金をとってぶち殺すので手伝え」
という。

熊が仰天して断ると、侍は
「大事を明かした上は命はもらう」
とすごむ。

「それじゃあ、いくらおくんなさいます」
「さすがは欲深いその方。震えながらも値を決めるのは感心だ。二両でどうだ」
「冗談言っちゃいけねえ。二両ばかりの目くされ金で、大事な首がかけられるけえ。山分け、百両でどうでやす。イヤなら舟を引っくり返してやる」

とにかく話がまとまった。

舟中でやるのは証拠が残るからと言って中洲まで漕ぎつけ、侍が先に上がったところをいっぱいに棹を突っ張り、舟を出す。

「ざまあみろ。土左衛門になりゃあがれ」

これから娘を親元である本町三丁目の糸屋林蔵に届け、二十両の礼金をせしめる。

思わず金を握りしめた瞬間
「あちいッ」

夢から覚めると熊、おのれの熱いキンを握っていた。

しりたい

六代目円生の芸談

戦後、稠密な人物描写の妙で、この噺には定評のあった六代目三遊亭円生は、「これは初めから終わりまで夢……まことにたあいのない噺ですが、出てくる人物の表現、言葉のやりとり、そういったものを形から何からととのえてやれば面白く聞けるというのが、むずかしいところでもあるわけです。(中略)とりわけこの『夢金』なぞは、まずくやったら聞いちゃいられないという噺でございます」と語り残しています。

「芝浜」などと同じく、最後まで夢であると客に悟らせず、緊密な構成と描写力で噺を運ぶ力量が必要とされる、大真打の出し物でしょう。

我欲の浅ましさ

古くは別題を「欲の熊蔵」ともいいましたが、その通り、熊に代表される人間の金銭欲のすさまじさ、浅ましさが中心になります。

ただ、その場合も落語のよいところで、その欲望を誰もが持っている業として、苦笑とともに認めることで、この熊五郎も実に愛すべき、今でもどこにでもいそうな人間に思えてきます。

円生は、金銭欲の深さを説明するのに、マクラで「百万円やるからおまえさんをぶち殺させろ」と持ちかけられた男が、「半分の五十万円でいいから、半殺しにしてくれ」という小ばなしを振っています。

オチの改訂

昔からそのものずばり、夢うつつで金玉を握り、その痛さで目覚めるというのが本当で、これでこそ「カネ」と「キン」の洒落でオチが成立するのですが、やはり下品だというので、そのあたりをぼやかす演者も少なくありません。

たとえば、「錦嚢」と題した明治23年(1890)の二代目古今亭今輔の速記では、熱いと思ったらきんたま火鉢(火鉢を股間に挟んで温まる)をして寝ていた、と苦肉の改訂をしていますし、立川談志は、金玉の部分をまったくカットして、「静にしろッ、熊公ッ」と初めの寝言の場面に戻り、親方にどなられて目覚める幕切れにしていました。

明治の珍演出

安藤鶴夫・述『四代目小さん・聞書』によると、明治の初代・三遊亭円右は、「夢金」を演ずるとき、始めから終わりまで、人物のセリフも地の語りもすべて、人気役者や故人の落語家、講釈師の声色(声帯模写)で通したということです。

これは「夢金」だけに限られたといいますから、それだけこの噺は、芝居がかったセリフが目立つということなのでしょう。

お召し縮緬と蝦夷錦

お召し縮緬(ちりめん)は、横に強い撚りをかけた糸を織り込み、織ったあと、ぬるま湯に入れてしぼり立てた絹織物です。縞、無地、紋、錦紗などの種類があります。

「お召し」とは貴人が着用したことから付いた名称です。蝦夷錦(えぞにしき)は、繻子地に金糸、銀糸と染め糸で雲竜の紋を織り出した錦。満洲(中国東北部)でつくられたものが、樺太、蝦夷(北海道)経由で入ってきたため、この名があります。

文金高島田

日本髪で、島田髷(まげ)の根を高く上げ、油で固めて結ったものです。高尚、優美な髪型で、江戸時代には御殿女中、明治維新後は花嫁の正装となりました。これに似せた「文金風」は男の髪型で、髷の根を上げて前に出し、月代(さかやき)に向かって急傾斜させた形です。

お高祖頭巾

おこそずきん。四角な切地に紐を付けた頭巾で、頭、面、耳を隠し、目だけを出します。婦人の防寒用で、袖頭巾ともいいます。時代劇で、ワケありの女がお忍びで夜出歩くときに、よく紫地のものをかぶっていますね。