たいこばら【幇間腹】落語演目



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【どんな?】

昔は道楽者やばかでも医者になれたみたい。
現代とおなじか。

あらすじ】

道楽者の若だんな、家が金持ちであるのをいいことに、あらゆる悪行をし尽くして、もうすることがなくなってしまった。

そこで、はたと考え込み、
「こうやって道楽をして生涯を終わってしまうのは、実にもったいない。これからはせめて、同じことなら人助けになる道楽をしてみよう」
と妙な改心をした挙げ句、
「人助けならいっそ医者だが、なるのが大変だから、どうせなら簡単に免許が取れそうな鍼医はりいにでもなってやろう」
と、「でもしか医者」を思いつく。

思い立ったが吉日、とさっそく杉山流の鍼の先生に弟子入りしたが、書物の講釈ばかりして一行に鍼を持たせてくれない。

根がお調子者で気まぐれだから、じきに飽きてしまい、すぐにでも「人体実験」をしてみたくてたまらなくなった。

猫を突っついてみても練習にはならない。

やっぱり人間でなければと、そこで思い出したのが欲深の幇間の一八。

「金の五両もやれば文句はあるまい」
と喜び勇んで一八の家に出かけていく。

一八もこのところ不景気なので、久しぶりに現れた若旦那を見て
「さあ、いい獲物がかかった」
と大はりきり。

その上、若だんなに
「三百人も芸人とつき合った中で、頼りになるのはおまえ一人」
とおだてられ、つい調子に乗って
「若だんなのためなら一命も捨てます」
と口走ったのが運の尽き。

若だんなの
「一生の頼み」
と聞いて仰天したがもう遅く、いやいやながら五両で「実験台」を引き受けさせられてしまう。

「南無阿弥陀仏」
と唱え、
「今日がこの世の見納め」
と観念して横になると、舌なめずりの若だんな、初めてなので手が震える。

まずは一本、水落ちへブッスリ。

スッと入るのでおもしろくなって、全部入れちまったからさあ抜けない。

「こういう時はもう一本、友達のハリを打って、意見をして連れ戻してもらうよりしかたがない」
というので、もう一本。

またも抜けない。

「若い奴を迎えにやったから、ミイラ取りがミイラになって、いっしょに遊んじまってるんだ、ウン。今度は年寄りのハリを送って、連れ帰ってもらおう」
と、もう一本。

またまた抜けない。

どうしようもなくなって、爪を掛けてグーッと引っ張ったから、皮は破れて血はタラタラ。

あまりの痛さに一八が
「アレー」
と叫んだから、若だんな、びっくりして逃げ出してしまった。

「一八さん、どうしたい。切腹でもしたのかい」
「冗談じゃねえ。これこれこういうわけで、若だんなを逃がしちまって、一文にもならない」
「ああ、ならないわけだよ。破れだいこ(たいこ=幇間)だから、もう鳴らない」

しりたい

原話の方が過激?

もっとも古い原型は、安楽庵策伝あんらくあんさくでんの『醒睡笑せいすいしょう』(「子ほめ」「てれすこ」参照)巻二「賢だて第七話」。

ついで、元禄16年(1703)刊『軽口御前男かるくちごぜんおとこ』中の「言いぬけの(もがり)」です。

この二話ではともに、鍼を打って患者を殺し、まんまと逃げてしまいます。

前者では、鍼医が瀕死の病人の天突の穴(のどの下の胸骨のくぼみで、急所)にズブリとやり、病人の顔色が変わったので家族が騒ぎ出すのを一喝しておいて、鍼を抜くと同時に「さあ泣け」。

わっと泣き出したどさくさに、風をくらって退散、という業悪ぶりです。

時代がくだって明和9年(1772)刊『楽牽頭がくたいこ』中の「金銀の針」、安永5年(1776)刊の『年忘れ噺角力はなしずもう』中の「鍼の稽古」になると、ぐっと現行に近くなります。

「迎え鍼」のくすぐりも加わって、加害者は客、被害者が幇間になります。

若だんなの異名は「ボロッ買い」

この噺、もともとは上方から東京に移されたものです。

あまり大ネタ扱いされず、速記や音源も多くありません。

明治27年(1894)の二代目禽語楼小さん(大藤楽三郎、1848-98)の速記が残されているのは貴重です。

今回のあらすじは、その小さんのものを底本にしました。

この中で一八は尾羽おは打ち枯らした老幇間、若だんなは15歳から21歳の今日まで、ありとあらゆる女という女を賞味し尽くし、「人類ことごとく試してみて、牝馬のお尻まで犯してはみたが、まだ幇間のお尻を試したことは無い」。

江戸ことばで、誰とでも見境なく寝る意味の「ボロッ買い」という大変な代物という設定です。

現行と少し違うのは、出入りの按摩にそそのかされて「人体実験」を思いつくのと、若だんなが直接、一八宅に押しかけるところでしょう。

一八が承知する最後の決め手が「公債証書の五枚に地面(=土地)の一か所」というのが、いかにも時代です。

文楽、志ん生に教わる

八代目桂文楽(並河益義、1892.11.3-1971.12.12、黒門町、実は六代目)が「幇間腹」を覚えようと、「孝ちゃん」こと柳家甚語楼時代の五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890.6.5-1973.9.21)に教わりに行った、というエピソードがあります。昭和初期のことです。

ということは、その頃には、この噺は、大看板の師匠連で演じる者はなく、やっているのは無頼の悪名高い、悪友の甚語楼(五代目志ん生)くらいしかいなかった、ということのようです。

文楽は、結局ものにならず、いさぎよく「幇間腹」を断念します。

後年、あれほど幇間噺を得意にした文楽が、なぜモノにできなかったかは、よくわかりません。

あまりにもギャグだくさんでおにぎやかなだけの噺で、同じ幇間噺の「鰻の幇間」などと違って、自分の目指す幇間のペーソスや陰影が出しにくく、このまま覚えてもとうてい甚語楼には勝てないと思ったのかもしれません。興味深い逸話です。

杉山流

鍼医術しんいじゅつの一派で、天和2年(1682)、目の不自由だった杉山和一すぎやまわいち(1610-94、検校)が幕命を受け、鍼治講習所を設置したのが始まり。

江戸をはじめ全国に爆発的に普及しました。

志ん生の「幇間腹」

先の大戦後は、三代目春風亭柳好(松本亀太郎、1887-1956、野ざらしの、向島の、実は五代目)、五代目志ん生が得意にしました。

とはいえ、やはり、なんと言っても志ん生のものでしょうね。

志ん生は、後半の鍼を打ち込むくだりは、むしろあっさりと演じ、「迎え鍼」の部分では、二本目が折れたところで若だんなは逃げてしまいます。

その分、前半はみっちり。

たとえば若だんなの凝っているものがわからずに不安になって、「え? ゴルフ?」「え? ビリヤードですかァ? 」 と懸命にヨイショして聞き出そうとしたり、「おまえに鍼を打つ」と言われ、動揺をごまかすため、「そんなこたァ、嘘だー」と泣き出しそうな唄い調子で言ったり、「芸人はてめえだけじゃない」と若だんなに居直られると、また節をつけて「いやだよォ、あなたは」と媚びるなど、感情を押し隠さず、ナマの人間としての幇間を率直に表現する志ん生ならではの真骨頂でした。

志ん生はこの噺をごく若いころからよく演じていて、晩年の速記でも、一八が「マーチャン」(麻雀のこと)に凝っているという設定から、時代背景をを昭和初期のまま固定していたことがうかがわれます。

麻雀が日本で普及するのは、関東大震災(大正12年=1923)以降のことです。



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おうじのたいこ【王子の幇間】落語演目

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【どんな?】

踏んだり蹴ったりの狐、
ではなく、野幇間が登場。
野幇間のうんちくも。

別題:太鼓の平助

あらすじ

野幇間の平助。

だんなを取り巻いて東京中をウロつき、神田からとうとう王子にまで来てしまった。

結局、なにもくわせてもらえずに、空腹で目を回したという「武勇伝」を売り物にしているところから、「王子の幇間」と異名までついた。

平助、相当にしたたかな男で、花柳界はもちろん、芝居や寄席の楽屋にまで、呼ばれもしないのに出入りして、かなり顔が売れている。

特に例のだんなの家には、三日にあげず物欲しそうにやってくる。

そればかりか、使用人すべての出自やスキャンダルをしっかり押さえていて、本人の前でそれをネチネチと言うので、鼻つまみになっている。

お内儀さんも腹を立て、
「平助入るべからず」
という魔除けの札を門口に張ったが、いっこうに効果がない。

今日も懲りずに現れた平助。

さっそく、鳶の頭に乙にからんで二、三回ポカポカ。

飯炊きの権助には、悪魔野郎、終身懲役ヅラめと罵られて、またポカポカ。

出てきたお内儀さんには、
「今日は陽気に、店先でポカポカいい音がしたね」
と、逆に嫌味を言われる始末。

実は、さきほど夫婦で示し合わせ、だんなは留守だと言ってこの悪魔野郎を油断させ、悪口を言わせてから、当人がぬっと現れて、こっぴどく痛めつけようという趣向。

平助が出入りして以来、この家で次から次へと物がなくなるので、だんなもそろそろ追っ払い時だと考えている。

そうとは知らない平助。

敵が不在だと聞くと、調子に乗って言いたい放題。

実はだんな、外神田の芸者に入れ揚げててお内儀さんを追い出す算段中だの、はては強盗だのとまくし立てた上、例の王子の話を持ち出し、
「あたしはだんなに殺されそこなった」
とお内儀さんの気を引く算段。

だまされたふりで
「そうかい。そんな不実な人とは知らなかった。もう愛想が尽きたから、おまえ、私と逃げておくれでないか」
と誘うと、瓢箪から駒、平助は大喜び。

その上
「このツヅラの中にはダイヤモンドに株券、珊瑚珠の五分珠、金ののべ棒が入っているから背負っとくれ」
とでたらめを並べると、色と欲との二人連れ。

「金目の物は残らずお乗せなさい」
と、ヤカンや火鉢まで担ぎ、手がふさがったところで頭をポカリ。

それを合図に、奥からだんながノッソリ。

「この野郎、オレが家にいねえと思って、飛んでもねえことを言やがった。やい、このツヅラにはな、七輪が四つだ。ざまあ見やがれ欲張り野郎。ヤカンと七輪を背負ってどこへ行こうてんだ」
「へえ、ご近所が火事で手伝いに」
「ばか野郎。火事なんざどこにある」
「今度あるまで背負ってます」

底本:初代三遊亭円遊、1889年12月5日「百花園」

【RIZAP COOK】

しりたい

野幇間  【RIZAP COOK】

のだいこ。特定の遊里に所属しないフリーの幇間を指します。

その意味で、セミプロともいえるでしょう。落語に出てくる幇間は「つるつる」や「愛宕山」を除いて、ほとんどがこれ。

芸や、客を取り巻く技術にかけては、それ相応に道楽をした末に幇間になった連中であるため、正統の「プロ」に負けない自負があったようです。

式亭三馬(菊地泰輔、1776-1822)の滑稽本『浮世風呂』に登場する野だいこは「野幇間などと申すけれど、野幇間でも勤めぬけることは難うごぜへます」と胸を張っています。

落語には「九州吹きもどし」「山号寺号」「ちきり伊勢屋」などで、こんな川柳が引き合いにされています。

たいこもち揚げての末の幇間もち

このパターンで、野幇間と化した連中が無数に現れます。

落語家で野幇間に転身、また落語界に復帰した例も、三代目三遊亭円遊(伊藤金三、1878-1945)、四代目三遊亭円遊(加藤勇、1902-1984)、七代目橘家円蔵(市川虎之助、1902-80、明舟町の)など、けっこうあります。

お幇間医者  【RIZAP COOK】

変わり種に「お幇間医者」というのがあります。

医者とは名ばかり、旗本屋敷に始終出入りしてはご機嫌を取り持っていた手合いのこと。事実上の野幇間です。

「牡丹灯籠」の山本志丈、「紺屋高尾」の竹内蘭石などがそれです。

「坊っちゃん」の「野だ」も  【RIZAP COOK】

初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)は野幇間の表現にすぐれていました。

円遊のファンだった夏目漱石がそれを「坊っちゃん」の「野だ」(野幇間)に写した、というのが『漱石と落語』の水川隆夫説。

この説は複数の研究者に支持されており、間違いないようです。

ただ、落語の野幇間が、どことなく憎めない役どころなのに対し、漱石の野だは、「全く唾棄すべき人物として描かれ」、「自尊心が強く、阿諛追従を極度に嫌った漱石にとっては、落語の野幇間は、全く軽蔑すべき人物に過ぎなかったのであろうか」と水川は述べています。

石川啄木が野幇間に  【RIZAP COOK】

『不機嫌亭漱石』(関川夏央原作、谷口ジロー画、双葉社、1997年)では、修善寺で吐血のため生死の境をさまよう漱石の夢想中で、石川啄木が「野幇間」に擬せられて登場。

ゲス言葉を使うあたりは、なかなかユニークでした。

文楽の十八番  【RIZAP COOK】

先の大戦後は、八代目桂文楽(並河益義、1892-1971、黒門町、実は六代目)の十八番でした。

文楽のは、初代円遊の演出に比べ、くすぐりやくすぐりを抑え、どんなに嫌がられようが、ただのべつまくなしにヨイショを並べ立てるしかない幇間の業を色濃く出していて、その分、平助の悪党ぶりは弱まっています。

これは、「つるつる」「鰻の幇間」など、幇間の登場する噺を得意とした文楽演出に共通しています。

オチもだんなを出さず、平助が「こんないいお内儀さんを出して、だんなが花魁を後妻に直そうとは神も仏もない」と泣いてみせると、お内儀さんが「泣いてくれるのはうれしいけど、目んとこィお茶殻がついてるよ」。「あたしは悲しくなるとお茶殻が出るン」という、「お茶汲み」を思わせる問答で切り、「お馴染みの『王子の幇間』でございます」と、地で締めくくっていました。

八代目文楽は、先の大戦前には「太鼓の平助」という題でも演じていました。

王子の名所  【RIZAP COOK】

東京都北区は、滝野川区と王子区が統合された地域。滝野川の由来はほんとうに滝があったことからなのですね。

江戸時代にはこのような風景だったようです。那智の滝のような。八代将軍徳川吉宗が王子の地をさかんにさせたとのこと。紀州から江戸に来たことから、彼の地の名所を当てたようです。

王子不動三瀧 歌川広重『名所江戸百景』より いまはなき滝野川の風情は壮大でびっくり

王子製紙工場でブームに  【RIZAP COOK】

この噺は、初代円遊の創作とみられます。

あらすじの参考にした円遊の速記は明治22年(1889)のものなので、多分そのころの作でしょう。

明治20年(1887)、王子製紙が当地に第二工場を建てたところから、新名所ということで「王子ブーム」が起こりました。

タイトルに「王子の…」と付けたのは、そのブームを当て込んでのことかもしれません。

平助は王子の幇間ではありません。神田の幇間なのです。王子まで歩いてきたので、そう呼ばれたのでしょうかね。

とほかみ

円遊は、マクラで「このだんなは声がかれているから法華のかたまりだろうと思うと、とほかみの信仰家でしくじっちまいますようなことがいくらでもあるんでげす」と語っています。

明治22年ごろの、仏教と神道の活気ある流派を取り上げているのでしょう。法華=日蓮宗⇒仏教、とほかみ=禊教⇒神道。

「とほかみ」というのは、亀卜を行うときに亀甲の裏に刻んだ線の名をさします。

「と・ほ・かみ・ゑみ・ため」の五つの線を焼いて表に表れる亀裂の形で吉凶を判断しました。

それが転じて、禊教の祈禱で唱えることばともなりました。つまり、「とおかみえみため」は神道の祈りのことば。祓詞です。

「とほかみえみため」は「遠つ神、笑みたまえ」の意。「遠くの神様、微笑んでくださいね」と祈るのでしょう。

禊教は、幕末から明治期に誕生した教派神道(神道十三派)の一。井上正鉄(1790-1849)が教祖となった新しい神道の流派です。

【語の読みと注】
野幇間 のだいこ
三日にあげず みっかにあげず
お内儀さん おかみさん
鳶の頭 とびのかしら
乙 おつ
権助 ごんすけ
阿諛追従 あゆついしょう

【王子の幇間 八代目桂文楽】



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あいぼれ【相惚れ】川柳 ことば

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相ぼれの仲人実はまわしもの  五32

「相ぼれ」は相思相愛。大店おおだなの若だんなと遊里の花魁おいらんの、なんかが理想的なストーリー運びです。「まわしもの」は間者とかスパイ。大店のだんな(若者の親父)からの指示で、ひそかに乗り込んだ番頭とかのイメージでしょうか。好例は「山崎屋」ですね。

仲人なこうどのあとからできる面白さ  九31

仲人を地者じものとおもやたいこ持ち  一27

「地者」はふつうは素人女で、芸子や娼妓の対語として使います。ここでは素人男性のようですね。「地者とおもやたいこ持ち」は素人と思ったら幇間だった、という意。

相ぼれのおさきにつかふ隣の子  三十七27

「おさきにつかふ」は利用する。同じ町内の男女の相思相愛を詠んだ句。

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