こっちへきなこもち【こっちへきな粉餅】むだぐち ことば

こっちへ来な【RIZAP COOK】

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

「来な」と「きな粉」を掛けた駄洒落の語呂合わせ。「こっちへ来な」と言っているだけのことです。「きな粉」は、黄な粉、黄粉、黄金粉などと記されます。

変形に「こっちへ来のめ(=木の芽)田楽」があり、この場合は地方により、「来」は「こ」とも発音します。

「きな粉餅」の用例でもっとも知られているのは、歌舞伎舞踊「京鹿子娘道成寺」。寺の鐘供養で、大勢の僧侶(聞いたか坊主)が集まって騒いでいるところへ、白拍子花子に姿を変えた清姫の怨霊が出現。美貌で坊主たちを籠絡し、女人禁制の寺内へまんまと潜入しますが、その場面の歓迎の言葉が「さあさあ、こっちへきな粉餅きな粉餅」でした。

ほかに、戯作『春色辰巳之園』でも使われています。

【RIZAP COOK】

きな粉のぼた餅 きなこのぼたもち 演目

【RIZAP COOK】

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明治期にできた落語。小説にでもなりそうな好編です。

【あらすじ】

二人の車屋。

居酒屋で一杯やりながら、同じ車屋仲間だった喜六という男のことを噂しあっている。

なんでも、コツコツためた黄金を同業者に高利で貸し付け、自分は食うものも食わずに倹約して大金をため込んだが、栄養失調で先ごろ、おっ死んでしまったとのこと。

細君はその金を、物好きにもそっくり寺へ寄付するつもりらしいというので、世の中にはもったいないことをする奴があるものだと、二人してため息ばかり。

話変わって、喜六の家。

女房が、義弟の届けてくれたぼた餠を仏壇に供え、お灯明を上げているところへ、菩提寺の谷中瑞林寺の者だと言って、一人の坊さんが訪ねてくる。

坊さんが言うには、
「昨夜、住職の夢枕に喜六が立ち、自分は非道に金を貯めて、施しということをしなかった報いで地獄におち、たいそう苦しんでいるので、なんとか救ってほしいと、泣きながら訴えたから、住職もあわれに思い、法事をしてあげようと言うが、その費用に百円ほどかかるので、奥方から受け取ってこいと言いつけられた」
という。

女房もちょうど寺に金を納めようと思っていたところなので、それで亭主が浮かばれるならと、
「今、金を取ってきますのでそれまでの間」
と、坊さんにきな粉のぼた餠を出す。

これは喜六の弟の錺職人の銀次郎が、兄の好物だったので手作りして届けたもの。

ところが、坊さん、ぼた餠を食べると、急に腹痛で七転八倒。

あわてて長屋の者を呼び、医者が駆けつけたりで大騒ぎ。

中毒だと容易ならぬことだと月番が警察に届け、まもなく関係者一同の尋問が始まる。

ほかの者が食べてもなんともなかったのに、なぜこの坊主だけがあたったのかも不思議。

銀次郎が呼ばれたが、これはシロ。

そもそも、死人が夢枕に立ったという話が怪しいと、オイコラ警官は当たりをつけ、瑞林寺に問い合わせると、そんな話はないというので、病人がニセ坊主だと知れた。

この男、実は縁日の露天商で南京鼠売りで、居酒屋で車引きの話を小耳にはさみ、坊主に化け込んで金をかたり取ろうとしたことを白状したので、これにて一件落着。

「ハァ、鼠売りか。これで、このぼた餠にあたった原因がわかったぞ」
「そりゃ、どういうわけで?」
「今、本官が食べたら、きな粉がみんなネコ(寝粉=古い粉)だったわい」

底本:二代目三遊亭小円朝

【RIZAP COOK】

【しりたい】

明治後期の新作

明治32年(1899)の初代三遊亭金馬、のちの二代目小円朝の速記が残るのみで、その後の口演記録はありません。同時期の金馬自身の新作と思われますが、詳細ははっきりしません。

人力車事始

和泉要助ら三人が官許を得て、明治3年(1870)に製造に取りかかり、改良を加えて明治8年(1875)ごろ、完成品ができました。車輪は当初は木製、のち鉄製、さらにゴム製に。そのころから、早くも東南アジア方面に「リキシャ」の名で輸出され始めました。全盛期には全国で3万台以上を数えましたが、関東大震災を境に、ほとんど姿を消しました。

明治大正時代には、落語家も大看板ともなると、それぞれお抱えの車引きを雇います。売れっ子の初代三遊亭(鼻の)円遊の抱え車屋があまりのハードスケジュールに、血を吐いて倒れたというエピソードまであります。

南京鼠売り

中国産の二十日鼠をペット用に売るもので、明治中期から後期にはけっこうはやりました。南京鼠は体長は6-7cmで、独楽鼠もその一品種です。

谷中瑞林寺

台東区谷中4丁目にあります。日蓮宗の古刹です。天正19年(1591)、身延山第十世・滋雲院日新が日本橋馬喰町に開基しました。慶安2年(1649)、現在地に移転。明治の元勲、井上毅の墓所があります。

安政ぼた餅殺人事件

岡本綺堂(1872-1939)は「半七捕物帳」の作者としてよく知られていますが、「二十九日の牡丹餅」というサスペンス短編があります。

この作品は、ペリー艦隊再来航直後の安政元年(1854)旧暦7月、江戸市中に実際に飛び交った流言を題材にしたものです。安政元年は7月の翌月が閏7月。その流言とは、夏の閏月は残暑が厳しく、疫病も発生しやすいところから、晦日の7月29日にきな粉のぼた餅を食えば、暑気あたりを防げるというものでした。

ただし、それを他家に配ってはならず、家族や親類、奉公人などの身内で残らずその日のうちに食べつくすべし、という、ご親切な尾ひれ付き。

これを人々が真に受け、ぼた餅パニックが発生。

米屋ではもち米が品切れ、粉屋からはきな粉が消えました。自家で作れなくなった市民がぼた餅屋に殺到し、江戸中捜し歩いても、ことごとく売り切れ。

この、まじないめいた流言が、なにかの俗信に基づくものか、また、なんらかの根拠があったのかはわかりません。

小説では当日、清元の女師匠の家で食べたぼた餅で、パトロンのだんなが中毒死。そこから発生する連続殺人事件を、綺堂は落日の江戸を背景に、情味濃く描いています。

殺人事件その後

原作者の綺堂も作中で「安政元年」と言っているのですが、実は、安政改元はその年の旧暦11月27日(1855年1月15日)で、厳密に言えば7月、閏7月の時点では、まだ嘉永7年です。

文中の7月29日は、1854年8月22日に当たりますが、調べてみると、この月はもう一日、30日があり、29日で終わっているのは、翌月の「閏7月」です。したがって、29日を「晦日」としたのは誤りでした。失礼いたしました。トリビアルにいえばこのタイトルも「嘉永ぼた餅殺人事件」と変えなければなりません。

岡本綺堂でさえ誤るのですから、旧暦と新暦の換算、西暦との整合はややこしく、たとえば機械的に「安政元年=1854年」とやると、同年旧暦11月13日から、もう西暦では1855年に入っているため、場合によって、とんだ間違いを生じることになります。

さらにいえば、もうひとつ。

これも文中で、「夏の閏月」と書きましたが、旧暦の季節で言うと7月はもう秋、ということになります。現代感覚から言いますと、盛夏のさ中に変わりなく、秋とするとかえってややこしくなりますので、あえて「夏」で通したことをお断りします。

【語の読みと注】
錺職人 かざりしょくにん
独楽鼠 こまねずみ

【RIZAP COOK】