いかさまたこさまあしはっぽん【烏賊様蛸様足八本】むだぐち ことば

「ごもっとも」「さようで」の意味の「いかさま」と「烏賊様」をまぜっかえして「いかさまさかさま」と言っていました。その発展形がこれ。さらにいくと、「烏賊様蛸様トト様カカ様さかさま」となります。

リズムが悪くてことばにオチがありません。オチのない笑いは中世に多いのですが、このむだぐちも室町期につくられてものでしょう。

ところが、「烏賊様蛸様足八本」はリズムにも切れがあって、「足八本」というオチもすんなり付きます。これぞ近世流のむだぐちです。ま、だからといって、さしたる深い意味はありませんが。

2011-13年、TBSテレビ系で『まさかのホントバラエティー イカさまタコさま』という番組がありました。 「ホントの中に潜むウソ=イカさまを選り分ける新感覚のクイズ系バラエティ番組」、「ホントかウソかの判断に悩む、真偽ぎりぎりの話題を楽しむという番組」だそうです。さまぁーずが司会。「いかさまたこさま」。こんふうに使われるわけですね。「いかさま」と言ったら「たこさま」が思い浮かぶのはごく普通の感覚なのでしょう。ことばに発すると小気味いいですね。

てっかい【鉄拐】演目

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中国大陸が舞台、奇妙で底抜けに壮大な噺です。

あらすじ

北京の横町に、上海屋唐左衛門という大貿易商がいた。

中国はもちろんのこと、ロンドンやニューヨークにも支店を持つという大金持ち。

毎年正月には世界中から知人、友人、幹部社員などを集めて大宴会を催し、珍しい芸人を集めて余興をやらせることにしていた。

毎年のこととて、余興の種が尽き、いい芸人が集められなくなった。

そこで、番頭の金兵衛が各地を巡り、募ることにした。

金兵衛は山また山を越え、とある山中で道に迷っていると、大きな岩の上にボロボロの着物を着て杖をつき、ヒゲぼうぼうの老人がぼんやり座っている。

聞いてみると、鉄拐と名乗る仙人。

何か変わったことができるかと尋ねると、腹の中からもう一人の自分を吐き出してみせたから、これは使えると金兵衛は大喜び。

渋るのを無理に承知させ、鉄拐の雲に便乗して北京に帰った。

鉄拐の芸は大受けで大評判となり、お座敷や寄席の出演依頼がどっと押し寄せた。

今では当人もすっかりその気になり、上海屋に豪邸をもらい、厄貝、モッ貝、シジミッ貝という三人の弟子を取り、近ごろは女を物色するというありさま。

評判がよくなると、ねたむ者も出る。

「このごろ昔のおんぼろななりを忘れてぜいたく三昧、お高くとまってやたらに寄席を抜きゃあがる。どうでえ、あの野郎をへこますために、鉄拐の向こうを張るような仙人を連れてこようじゃねえか」

そんなわけで引っ張ってきてのが、張果老という仙人。

こちらは、徳利から馬を出す。

新し物好きの世間のこと、鉄拐はあっと言う間に飽きられ、お座敷ひとつかからない。

逆に張果老は大人気。

面白くない鉄拐、どんな芸か見てやろうと、ある晩ライバルの家に潜入してみると、張果老は大酒をのんで高いびき。

この徳利からどうやって馬が出るのかしらんと、口に当てて息を吸い込んだから、たちまち中の馬は徳利から鉄拐の腹の中へ。

虎の子の馬が盗まれて、今度は張果老があっと言う間に落ち目に。

しかし悪いことはできないもので、いつの間にか、犯人は鉄拐だという噂が立った。

「先生、あんたが馬泥棒てえ評判ですが」
「とんでもねえ、ヒヒーン」

腹の馬がいなないて、あっさりバレた。

「それならそれで、今度はあんたの分身を馬に乗せて吐き出すという新趣向を出したらどうだ」

そんな悪知恵を授けた者がいる。

ところが、鉄拐は馬を吐き出せないので、客を腹の中に入れて見物させる。

これが大当たりで、たちまち満員札を口と肛門に張る騒ぎに。

そのうち、酔っぱらった客二人が大げんかを始め、さすがの鉄拐もたまらず吐き出す。

それがなんと、李白と陶淵明。

スヴェンソンの増毛ネット

しりたい

鉄拐仙人

道教の八仙の一人で、李鉄拐といいます。

伝説によると、自宅に肉体を置いたまま魂で華山まで飛び、太上老君(道教の神・老子)に会いましたが、帰ってみると、弟子が肉体を火葬してしまった後で、戻るべきところがなくなり、困りました。

そこで、近所に行き倒れの物乞いがいたのを幸い、その屍骸を乗っ取って蘇生したとか。

鉄拐がボロをまとった姿で登場するのは、この故事に由来します。

張果老

同じく、八仙の一人。

白いロバに乗っているのが特徴です。

このロバ、用のないときは紙のように折りたたんで行李に納められ、水を吹きかけると、たちまち、一日何万里も歩くロバになります。

噺の中の馬は、このロバのことでしょう。

北京の大富豪の「番頭」が金兵衛というのが笑わせるじゃないですか。

この噺が得意だった立川談志は、「上海は新横町2の2上海屋唐右衛門」で演じていました。

談志なりのリアリティーなのでしょうが、目くそ鼻くそを笑うがごときこざかしさ。リアリティーもへったくれもない設定です。

ま、そこがいいのですがね。

李白と陶淵明が最後に出てきますが、両者とも酔いどれ詩人で有名です。

だからこそ、オチの意味がああるわけで。

談志は、大島渚と野坂昭如に代えたりもしていますが、だからといって、まあ、さしたるおかしさがかもしだされるわけでもないでしょう。

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【鉄拐 立川談志】

スヴェンソンの増毛ネット

しちやぐら【質屋蔵】演目

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質屋が生活と密接だった時代なら、こんな想像力も沸こうというものです。

別題:ひちやぐら(上方) 質屋庫

あらすじ

ある大きな質屋の三番蔵に、夜な夜な化け物がでるという町内の噂を、当のだんなが朝湯で聞いてきた。

「これは信用にかかわるから捨ててはおけない」

早速番頭に寝ずの番で見届けるよう言いつける。

だんなの考えでは、「これはきっと大切な品物を心ならずも質物にした人の、その物に対する執着が蔵に残り、妖怪と化したものだろう」という。

番頭は臆病なので、「とても一人では怖くていけない」と、普段から腕に龍の刺青をして強そうなことばかり言っている出入りの熊五郎に応援を頼みたいと申し出る。

突然だんなが呼んでいると聞いた熊、さてはしくじったかとびくびくして、だんなの前に出ると、言われもしないうちから、台所から酒とタクアン樽、それに下駄を三足盗んだことをぺらぺら白状してしまう。

だんなが渋い顔をしながらも、「今日呼んだのはそんなことじゃない。おまえは強いと聞いているが本当か」と尋ねると、熊五郎、途端に威勢がよくなり、木曽で虎退治をしたとホラを吹くが、化け物のことを聞かされると、急にぶるぶる震えだす。

しかたがないので、逃がさないように店に禁足し、夜になると番頭ともども、真っ暗な土蔵の中にほっぽり込まれる。

二人がガタガタ震えていると、やがて草木も眠る丑三ツ時。

蔵の奥で何かがピカリと光り、ガラガラガラと大きな音。

生きた心地もない番頭と熊、それでも怖いもの見たさでそっとのぞいてみると、何と誰かが相撲を取っている。

行司の声で「片やァ、竜紋、竜紋、こなたァ、小柳、小柳ィ、ハッケヨイ、ノコッタノコッタ……」

「番頭さん、ありゃなんです」
「だんなの言う通り、質物の気が残ったんだ。羽織の竜紋と小柳の帯が相撲を取ったんだ」
「あっ、また出た」

棚の掛け軸がすーっと開く。

よく見ると、横町の藤原さんの質物の、天神さま、つまりは菅原道真公の画像の掛け軸。

仰天していると、衣冠束帯、梅の花を持った天神が現れて、「こちふかばあー、においおこせようめのはなー」と、朗々と詠み上げた。

「こりゃ番頭。藤原方に利上げせよと申し伝えよ。あァあ、また流されそうだ」

しりたい

伊勢屋稲荷に……

落語には、質屋は「伊勢屋」という屋号でたびたび登場します。これは、質商は伊勢出身の者がほとんどだったからです。「伊勢屋稲荷に犬の糞」と江戸名物の一つに挙げられるくらい、江戸にはやたらに質屋が多かったのです。

大工調べ」で、因業大家の源六が奉行に、「その方、質屋の株を持っておるのか?」と脅かされたように、旧幕時代は質屋は株売買による許可制でした。

大きく分けて本質・脇質があり、本質は規模の大きな、正規の質屋。

入質には本人のほかに請け人(連帯保証人)の判が必要でした。

脇質の方は今でいう消費者金融で、請け人がいらない代わりに質流れの期限は一か月。

この噺のオチ(サゲ)にある「利下げ」とは、期限が来たとき、利子を今までより多く払って、質流れを食い止めることです。対語は「利上げ」。詳しくは「おもと違い」をお読みください。

天保年間(1830-44)以後は、期限は八か月に延ばされました。

元は江戸で

安永2年(1773)に江戸で刊行された『近目貫(きんめぬき)』収載の「天神」という小咄が元のようです。

それが上方噺となって「ひちやぐら」に。これが古くから江戸に移されて演じられていました。宇井無愁の『落語の根多』(角川文庫、1976、絶版)でこの噺を検索すると、「し」の項ではなく「ひ」の項にあります。びっくりです。宇井は東京落語を評価しない人で有名でした。

平成5年(1993)、宇井のこの本を私(古木)は上野の古書店で5000円で購入しました。なけなしで。でも、今ではAmazonのマーケットプレイスで100円台で求められます。びっくりです。

演者と演出

熊さんの大言壮語と、いざとなったときの腰抜けぶりの落差は、桂歌丸で聞くとたまらないおかしさです。

六代目三遊亭円生は、戦後大阪の四代目桂文団治に教わって、得意にしていましたが、最後の天神の場面を古風に風格豊かに演じました。

桂歌丸のほか、円生一門に継承され、三遊亭円弥、三遊亭生之助らが演じ、本家大阪では、やはり桂米朝のものでした。

上方のオチは、番頭が「あ、流れる思うとる」と言ってサゲるやり方もありました。

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【質屋蔵 三遊亭円生】

ねこときんぎょ【猫と金魚】演目

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ああ言えばこう言う相手も、落語にかかれば、こんな具合に。

あらすじ

ある商家の番頭。

ああ言えばこう言うで、素直に言うことを聞かないばかりか、かなりピントがずれているので、だんなの悩みのタネ。

金魚の大きいのが二匹いなくなったので問いただせば「あたしは食べません」

「誰が、おまえが食べた、と言った。隣の猫が庭続きだから、縁側に上がって食べるんだから、どこか高いところへ上げておけ」と言いつけると「それじゃ、湯屋の煙突の上へ」

「あたしが眺められない」と文句を付けると「望遠鏡で見れば」と始末に終えない。

ようよう金魚鉢を湯殿の棚の上に置かせて一安心、と思ったら「金魚はどこへ上げましょう」

「金魚鉢と金魚を放したら、金魚は死んじまう、あたしゃ金魚の干物を見たいんじゃない」と叱りつけて、しばらくすると、番頭が悠々と報告に来た。

「実はその、棚へ上げましたらァ、お隣の物干しとつながってるもんですから、猫が入ってまいりまして……」

金魚鉢の中に手を突っ込んで食べてるというから、だんなは大あわて。

猫の衿っ首を捕まえてひっぱたいてやれと命じても、あたしはネズミ年だから、そばに寄ったら食われちまうといやがる。

こんな奴に任せておいたら、いくら買っても一匹残らず猫の栄養になってしまうと頭を抱えて、思い出したのが、横丁の鳶頭の虎さん。

力はあるし、背中に刺青を彫っているし、尻にたくさんの毛が生えているから猫もびっくりするだろうというので、早速呼びにやる。

常日ごろ、だんなのためなら命はいらねえ、たとえ火の中水の中……と豪語している鳶頭だから、何とかしてくれるだろうと思って「おまえさん、猫は恐くないかい」「猫ォ? あたしゃあ名前が虎で、寅年ですよ。世の中に恐いものなんか一つもない。で、猫は何匹で」

「あたしは猫屋をやろうってんじゃないよ。一匹でいいんだから、金魚鉢ィかき回してる奴を捕まえてなぐっておくれ」
「へえ、そいじゃあ、日を改めて」

なんだか、また雲行きが怪しくなってきた。

ともかく、むりやり湯殿に押し込むと「猫、おらァこの横丁の虎ってもんだぞォ。どうだァ」という、虎さんの大声が聞こえる。

そのうち「きゃあー」という悲鳴と金魚鉢を引っくり返した音。静かになったので戸を開けてみると、虎さんはびしょ濡れで目を回し、猫は棚で悠然と顔を洗っている。

金魚は外でピンピン跳ねているから、だんな驚いて「虎さん、しっかりしとくれ。早く猫ォ捕まえてなぐっとくれ」

「あたしゃあもう猫は恐いからイヤだ」
「恐いって、おまえさん、虎さんじゃないか」
「今はこの通り、濡れネズミです」

うんちく

新作落語史上の最高傑作!

「のらくろ」シリーズの作者として一世を風靡した漫画家、田河水泡が、まだ落語作家時代の昭和初期、売り出し中の初代柳家権太楼に書き下ろした「猫」シリーズの第一弾です。

このあと、「猫と電車」「猫とタコ」と続きますが、「金魚」がギャグの連続性と底無しのナンセンスで、もっとも優れています。そのセンスは今聞いても全く古びず、近代新作落語史上、金箔付きの最高傑作と呼んで過言ではないでしょう。

十代目桂文治のが無類におかしく、中でも虎さんの表現が秀逸でした。

橘家円蔵は前半の旦那と番頭のやりとりがテンポよく、軽快に笑わせました。

なお、前半の趣向は「質屋庫」に似ていて、口だけは英雄豪傑の虎さんのキャラクターも「質屋庫」の熊さんと重なるため、何らかのヒントを得ていると思われます。

続編「猫と電車」

校長宅で産まれた六匹目の子猫を、鰹節一本付けて押しつけられた田舎出の用務員が、子猫を風呂敷に隠して満員電車に乗ります。

ところが、いつの間にか帽子の中に入った子猫に小便をかけられ、あわてて降ります。

「車掌さん、今の客、シャッポに猫を隠してた」
「道理で猫をかぶっていた」

「金魚」ほどではありませんが、校長とのやりとりで、

「キミの家にネズミおるかい?」
「校長先生さま、ネズミたべるんでェ?」
「わしのうちに猫がおるよ」
「猫とネズミに相撲をとらせるんでェ?」
「実はァ、子どもが今度、産まれてな」
「お坊ちゃまで?」
「わしの子ではないよ」
「奥様のお子さまで?」
「猫の子じゃよ」
「すると、奥様が猫の子を産んだのでェ?」

こういったトンチンカンなギャグの連続で笑わせます。

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【猫と金魚 八代目橘家円蔵】

ふみちがい【文違い】演目

 

淋菌のついた指でこするとこんな具合に。「風眼」と呼ばれていました。

あらすじ

新宿遊廓のお杉は、今日もなじみ客の半七に金の無心をしている。

父親が、「もうこれが最後でこれ以降親子の縁を切ってもいいから、三十両用立ててほしい」と手紙をよこしたというのだ。

といって、半七に十両ほどしかアテはない。

そこへ、お杉に岡惚れの田舎者・角蔵が来たという知らせ。

何せ、「年季が明けたらなんじと夫婦になるべェ」というのが口癖の芋大尽で、お杉はツラを見るのも嫌なのだが、背に腹は替えられない。

あいつをひとつたらし込んで、残りの二十両をせしめてこようというわけで、待ち受ける角蔵の部屋へ出かけていく。

こちらはおっかさんが病気で、高い人参をのまさなければ命が危ないからとうまく言って、金を出させようと色仕掛けで迫るが、さしもの角蔵も二十両となると渋る。

十五両持っているが、これは村の辰松から馬を買う代金として預かったものなので、渡せないと言う。

「そんな薄情な人とは、夫婦約束なんて反故(ほご)だよ」と脅かして、強引に十五両ふんだくったお杉だが、それと半七にたかった七両、合わせて二十二両を持っていそいそとお杉が入っていった座敷には年のころなら三十二、三、色の浅黒い、苦味走ったいい男。

ところが目が悪いらしく、紅絹の布でしきりに目を押さえている。

この男、芳次郎といい、お杉の本物の間夫だ。

お杉は芳次郎の治療代のため、半七と角蔵を手玉に取って、絞った金をせっせと貢いでいたわけだが、金を受け取ると芳次郎は妙に急いで眼医者に行くと言い出す。

引き止めるが聞かないので、しかたなく男を見送った後、お杉が座敷に戻ってみると、置き忘れたのか、何やら怪しい手紙が一通。

「芳次郎さま参る。小筆より」

女の字である。

「わたくし兄の欲心より田舎大尽へ妾にゆけと言われ、いやなら五十両よこせとの難題。三十両はこしらえ申せども、後の二十両にさしつかえ、おまえさまに申せしところ、新宿の女郎、お杉とやらを眼病といつわり……ちくしょう、あたしをだましたんだね」

ちょうどその時、半七も、お杉が落としていった芳次郎のラブレターを見つけてカンカン。

頭に来た二人が鉢合わせ。

「ちきしょう、このアマッ。よくも七両かたりゃアがって」
「ふん、あたしゃ、二十両かたられたよ」

つかみあいの大げんか。

角蔵大尽、騒ぎを聞きつけて
「喜助、早く行って止めてやれ。『かかさまが塩梅わりいちゅうから十五両恵んでやりました。あれは色でも欲でもごぜえません』ちゅうてな。あ、ちょっくら待て。そう言ったら、おらが間夫だちゅうことがあらわれるでねえか」

しりたい

六代目円生の回顧

「……あたくしのご幼少の折には、この新宿には、今の日活館(注:もうありません)、その前が伊勢丹、あの辺から一丁目の御苑の手前のところまで両側に、残らずではございませんが、貸座敷(女郎屋)がずいぶんありましたもので」

「なかでも覚えておりますのは、新金(しんかね)という楼(うち)、それから大万(おおよろず)、そういうとこは新宿でも大見世(おおみせ)としてあります」

明治末年のころ

この中に出てくる「新金」は、今の伊勢丹向かい、丸井の場所にあり、「鬼の新金、鬼神の丸岡、情知らずの大万」とうたわれたほど、女郎に過酷な見世だったといいます。

芸談・円生

以下は、六代目三遊亭円生の芸談です。

芳次郎は女が女郎になる前か、あるいはなって間もなく惚れた男で、女殺し。半公は、たまには派手に金も使う客情人。角蔵にいたっては、嫌なやつだが金を持ってきてくれる。それで一人一人、女の態度から言葉まで違える……芳次郎には女がたえずはらはらしている惚れた弱みという、その心理を出すのが一番難しい。「五人廻し」と違い、女郎が次々と客をだましていく噺ですが、それだけに、最後のドンデン返しに至るまで、化かしあいの心理戦、サスペンスの気分がちょっと味わえます。芳次郎は博打打ち、男っぷりがよくて女が惚れて、女から金をしぼって小遣いにしようという良くないやつ。半七は堅気の職人で経師屋か建具屋、ちょっとはねっかえりで人がよくって少しのっぺりしている。俺なら女が惚れるだろうという男。だから、半七はすべて情人あつかいになっていたし、自分もそう思っていたやつが、がらっと変わったから怒る訳で。

角蔵は新宿近辺のあんちゃん

落語では、なぜか「半公」といえば経師屋(きょうじや)、「はねっ返りの半公」略して「はね半」ということに決まっています。「蛙茶番」「汲み立て」にも登場します。どんなドジをしでかすか、請うご期待。

新宿遊郭

新宿は、品川、千住、板橋と並び、四宿(ししゅく=非公認の遊郭)の一。飯盛女の名目で遊女を置くことが許された「岡場所」でした。正式には「内藤新宿」で、信濃高遠三万三千石・内藤駿河守の下屋敷があったことからこう呼ばれました。甲州街道の起点、親宿(最初の宿場)で、女郎屋は、名目上は旅籠屋。元禄11年(1698)に設置され、享保3年(1718)に一度お取りつぶし。明和9年(1772)に復興しました。

新宿を舞台にした噺は少なく、ほかに「四宿の屁」「縮みあがり」くらいです。

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【文違い 三遊亭円生】

みいらとり【木乃伊取り】演目

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その名のとおり、みいら取りがみいらになってしまった噺です。

あらすじ

道楽者の若だんなが、今日でもう四日も帰らない。

心配した大だんなが、番頭の佐兵衛を吉原にやって探らせると、江戸町一丁目の「角海老」に居続けしていることが判明。

番頭が「何とかお連れしてきます」と出ていったがそれっきり。

五日たっても音沙汰なし。

大だんなが「あの番頭、せがれと一緒に遊んでるんだ。誰が何と言っても勘当する」と怒ると、お内儀が「一人のせがれを勘当してどうするんです。鳶頭ならああいう場所もわかっているから、頼みましょう」ととりなすので呼びにやる。

鳶頭、「何なら腕の一本もへし折って」と威勢よく出かけるが、途中の日本堤で幇間の一八につかまり、しつこく取り巻くのを振り切って角海老へ。

若だんなに「どうかあっしの顔を立てて」と掛け合っているところへ一八が「よッ、かしら、どうも先ほどは」

あとはドガチャカで、これも五日も帰らない。

「どいつもこいつも、みいら取りがみいらになっちまやがって。今度はどうしても勘当だ」と大だんなはカンカン。

「だいたい、おまえがあんな馬鹿をこさえたからいけないんです」と、夫婦でもめていると、そこに現れたのが飯炊きの清蔵。

「おらがお迎えに行ってみるべえ」と言いだす。

「おまえは飯が焦げないようにしてりゃいい」としかっても「仮に泥棒が入ってだんながおっ殺されるちゅうとき、台所でつくばってるわけにはいかなかんべえ」と聞かない。

「首に縄つけてもしょっぴいてくるだ」と、手織り木綿のゴツゴツした着物に色の褪めた帯、熊の革の煙草入れといういでたちで勇んで出発。

吉原へやって来ると、若い衆の喜助を「若だんなに取りつがねえと、この野郎、ぶっ張りけえすぞ」と脅しつけ、二階の座敷に乗り込む。

「番頭さん、あんだ。このざまは。われァ、白ねずみじゃなくてどぶねずみだ。鳶頭もそうだ。この芋頭」と毒づき、「こりゃあ、お袋さまのお巾着だ。勘定が足りないことがあったら渡してくんろ、せがれに帰るように言ってくんろと、寝る目も寝ねえで泣いていなさるだよ」と泣くものだから、若だんなも持て余す。

あまりしつこいので「何を言ってやがる。てめえがぐずぐず言ってると酒がまずくなる。帰れ。暇出すぞ」と意地になってタンカを切ると、清蔵怒って「暇が出たら主人でも家来でもねえ。腕づくでもしょっぴいていくからそう思え。こんでもはァ、村相撲で大関張った男だ」と腕を捲くる。

腕力ではかなわないので、とうとう若だんなは降参。

一杯のんで機嫌良く引き揚げようと、清蔵に酒をのませる。

もう一杯、もう一杯と勧められるうちに、酒は浴びる方の清蔵、すっかりご機嫌。

ころあいを見て、若だんなの情婦のかしく花魁がお酌に出る。

「おまえの敵娼に出したんだ。帰るまではおまえの女房なんだから、あくぁいがってやんな」

花魁「こんな堅いお客さまに出られて、あたしうれしいの。ね、あたしの手を握ってくださいよ」としなだれかかってくすぐるので、清蔵はもうデレデレ。

「おい番頭、かしくと清蔵が並んだところは、似合いだな」
「まったくでげすよ。鳶頭、どうです?」
「まったくだ。握ってやれ握ってやれ」

三人でけしかける。

「へえ、若だんながいいちいなら、オラ、握ってやるべ。ははあ、こんだなアマっ子と野良ァこいてるだな、帰れっちゅうおらの方が無理かもすんねえ」
「おいおい、清蔵、そろそろ支度して帰ろう」
「あんだ? 帰るって? 帰るならあんた、先ィお帰んなせえ。おらもう二、三日ここにいるだよ」

しりたい

「みいらとりがみいらに……」

呼びに行った者が誰も帰らないことですが、皮肉なこの噺の結末にはぴったりの演題です。清蔵をいちずに、実直に演じることで最後のオチのドンデン返しが効いてきます。

「みいら」は本来、死体の防腐用の樹液のことで、元はポルトガル語。木乃伊、蜜人とも書きます。それが乾燥死体そのものの意味にに転じたものですが、ことわざの意味との関係は不明です。

円生から談志へ

古くからの江戸前噺です。

戦後、得意にしていたのは六代目三遊亭円生と八代目林家正蔵で、特に円生のものは、人物の描き分けが巧みで、定評がありました。

円生没後は立川談志の得意ネタで、談志は、花魁が権助(清蔵)の上にまたがったりするエロチックな演出を加え、オチは、「こんなに惚れられてんのに、店なんぞに帰れるか」「勘定どうする?」「さっきの巾着よこせ」としていました。

角海老のこと

落語にしばしば登場する「角海老(かどえび)」は、旧幕時代は「海老屋」といい、吉原屈指の大見世、超有名店でした。「角海老」と称するようになったのは維新後です。

「角海老」の創業者は、信州出身の宮沢平吉なる者で、幕末に上京して牛太郎(客引き)から身を起こし、海老屋を買い取って、明治17年(1884年)に「角海老」の看板をあげました。

その屋根の、イルミネーション付きの大時計は明治の吉原のシンボルでした。

日本堤

元和6年(1620)、荒川の治水のため、浅草聖天町から箕輪(三ノ輪)まで築いた堤防です。そのうち吉原衣紋坂までを土手八丁、または馬道八丁と呼びました。

日本堤(にっぽんづつみ)の名の由来は、堤防構築に、在府している全国のすべての大名が駆り出されたことからきたといいます。

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【木乃伊取り 立川談志】

しちだんめ【七段目】演目

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生活すべてが芝居の調子。マニアっていうやつは、いつの時代も……。

あらすじ

若だんなが常軌を逸した芝居マニアで、家業そっちのけ。

四六時中芝居小屋に入り浸り、何をやっても芝居のセリフになってしまう。

今日も朝から帰らないので、だんなが番頭に愚痴をこぼしている。

「今日という今日はみっちり小言を言います」とカンカンに怒るのを番頭がなだめているところへ、当の若だんなが意気揚々とご帰還。

しかっても蛙のツラに何とやらで「遅なわりしは拙者が不調法」と忠臣蔵・三段目の判官気取り。

あきれ果てて二階へ追い払うと、早速「とざい、とーざーい」と金切り声を張り上げる。

閉口しただんな、小僧の定吉に止めてこいと命じたが、定吉も悪のりして「やあやあ若だんな、芝居の真似をやめればよし、いやだなんぞとじくねると、とっつかめえて……」と忠臣蔵・道行の鷺坂伴内のパロディー。

これが逆効果で、若だんなは仲間ができたと大喜び。

一緒に芝居をやろうと聞かない。

定吉ももともと芝居狂なので、とうとう乗せられ、忠臣蔵・七段目・茶屋場の平右衛門とお軽の場面を二人でやる羽目に。

やるからには衣装を整えようと若だんな、赤い長襦袢と帯のしごき、手拭いの姉さんかぶりで定吉に女装させたのはいいが、平右衛門の自分が丸腰ではと、床の間の本身の刀を持ち出したから定吉は驚いた。やめると言うのを、決して抜かないからと、刀の鯉口をコヨリで結んでやっとなだめすかす。

足軽の平右衛門が、妹・お軽が仇討ちの大事を知ったことを悟り、秘密露顕を恐れて、自分の手で始末しようと決心するところで、だんだん若だんなの目がすわってきたので、定吉はびくびく。

とうとう恐れていた事態。

「あなた、抜いちゃいけませんったらッ」

もう何も耳に入らない若だんな、コヨリをあっという間にぶっちぎり「妹、こんたの命ァ、兄がもらったッ」

抜き身を振り回すからたまらない。

定吉、逃げる拍子に階段からゴロゴロゴロ。

「おい、定吉、しっかりしろ」「ハア、私には勘平さんという夫のある身」
「馬鹿野郎。小僧に夫があってたまるか。変な格好をして、さては二階であの馬鹿と芝居ごっこをして、てっぺんから落ちたか」
「いえ、七段目」

しりたい

「忠臣蔵」のパロディー

全編、浄瑠璃・歌舞伎でおなじみの「仮名手本忠臣蔵」のパロディーです。

江戸、大坂のような都市部の人々なら、特にこの若だんなのような芝居狂でなくとも、芝居の「忠臣蔵」のセリフや登場人物くらいは隅々まで頭に入っていて、日常会話の一部にさえなっていました。

「とざい、とーざい」は「東西声」といい、「仮名手本忠臣蔵」開幕の前にからくり人形が観客に挨拶する掛け声。

定吉の「芝居の真似を……」は四段目の切、清元舞踊「道行旅路花婿」の道化敵・鷺坂伴内のセリフ、「やあやあ勘平、お軽をこっちへ渡さばよし、いやだなんぞとじくねると……」のもじりです。

騒動の元になる後半の大立ち回りは、七段目・祇園一力茶屋の場で、密書を読んで仇討ちの計画を知った遊女・お軽を、身請けの後に殺そうという大星由良之助(大石内蔵之助)の腹を、お軽の兄・寺岡平右衛門が察し、妹を手に掛けた手柄で、同志に加えてもらおうとする見せ場です。

ほかに登場する芝居

この噺でパロディーギャグに使われる芝居は、「忠臣蔵」以外は演者によって変わります。

若だんなが「菅原伝授手習鑑」・「車引」の「そのくるまァ、やァらァぬゥー」という決めゼリフで人力車を止めたり、おやじにぶたれて、「こりゃこのおとこの、生きィづらァをー」と、「夏祭」の団七のセリフでうなったりするギャグは、大方の落語家が入れますが、観客が歌舞伎をよく理解していないとウケません。

東西とも、芝居のクライマックスは、下座の鳴り物を使って、にぎやかに演じます。

「七段目」演者と演出

芝居ばなしの素養がないとできない噺で、先代三遊亭円歌、先代雷門助六などが軽妙に演じていました。

春風亭小朝、林家正雀などのレパートリーにもなっています。

大阪でも古くから演じられ、二代目立花家花橘が得意にしていたのを桂米朝が継承し、桂吉朝、桂文珍など後進に伝えてました。

最後のオチは、古い型では「七段目から落ちたか」「いえ、てっぺんから」と逆で、米朝はこの型でサゲていました。

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【七段目 柳亭市馬】

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はんたいぐるま【反対車】演目

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威勢はいいのですが、ここまでそそっかしいのはいかがなものか……。

別題:いらち車(上方)

あらすじ

人力車がさかんに走っていた明治の頃。

車屋といえば、金モールの縫い取りの帽子にきりりとしたパッチとくれば速そうに見えるが、さるだんなが声を掛けられた車屋は、枯れた葱の尻尾のようなパッチ、色の褪めた饅頭笠と、どうもあまり冴えない。不運。

「上野の停車場までやってくれ」
「言い値じゃ乗りますまい」
「言い値でいいよ」
「じゃ十五円」

十五円あれば、吉原で一晩豪遊できた時分。

「馬鹿野郎、神田から上野まで十五円で乗る奴がどこにいる」

勝手に値切ってくれと言うから、「三十銭」「ようがしょう」といきなり下げた。

それにしても車の汚いこと。

臭いと思ったら、「昨日まで豚を運搬していて、人を乗せるのはお客さんが始めてだ」と抜かす。

座布団はないわ、梶棒を上げすぎて客を落っことしそうになるわ。

おまけに提灯はお稲荷さまの奉納提灯をかっぱらってきたもの。

どうでもいいが、やけに遅い。

若い車屋ばかりか、年寄りの車にも抜かれる始末。

「あたしは心臓病で、走ると心臓が破裂するって医者に言われてますんで。もし破裂したら、死骸を引き取っておくんなさい」

そう言い出したから、だんなはあきれ返った。

「二十銭やるからここでいい」
「決めだから三十銭おくんなさい」

ずうずうしい。

「まだ万世橋も渡っていないぞ」
「それじゃ上野まで行きますが、明後日の夕方には着くでしょう」

だんなはとうとう降参して、三十銭でお引き取り願う。

次に見つけた車屋は、人間には抜かれたことがないと威勢がいい。

それはいいが、乗らないうちに「アラヨッ」と走りだす。

飛ばしすぎてこっちの首が落っこちそう。

しょっちゅうジャンプするので、生きた心地がない。

走りだしたら止まらないと言うから、観念して目をつぶると、どこかの土手へ出てやっとストップ。

見慣れないので、「どこだ」と聞いたら埼玉県の川口。

「冗談じゃねえ。上野まで行くのに、こんなとこへ来てどうするんだ」

しかたなく引き返させると、また超特急。

腹が減って目がくらむので、川があったら教えてくれと言う。

汽車を追い抜いてようやく止まったので、命拾いしたと、値を聞くと十円。

最初に決めなかったのが悪かったと、渋々出した。

「見慣れない停車場だな」
「へい、川崎で」

また通り越した。

ようやく上野に戻ったら午前三時。

「それじゃ、終列車は出ちまった」
「なあに、一番列車には間に合います」

しりたい

人力車あれこれ

1870年(明治3)、和泉要助ら三人が製造の官許を得て、初お目見えしたのは1875年(明治8)でした。車輪は当初は木製でしたが、後には鉄製、さらにゴム製になりました。登場間もない明治初年には、運賃は一里につき一朱。車引きは駕籠屋からの転向組がほとんど。ただし、雲助のように酒手をせびることは明治政府により禁止されました。明治10年代までは、二人乗りの「相乗車」もあったようです。

落語家も売れっ子や大看板になると、それぞれお抱えの車引きを雇い、人気者だった明治の爆笑王・初代三遊亭円遊の抱え車引きが、あまりのハードスケジュールに、血を吐いて倒れたというエピソードもあります。

全盛時は全国で三万台以上を数え、東南アジアにも「リキシャ」の名で輸出されましたが、1923年(大正12)の関東大震災以後、自動車の時代の到来とともに急激にその姿を消しました。

車屋の談志

この噺の本家は大阪落語の「いらち車」ですが、大正初期には、六代目立川談志(1888-1952)が「反対車」で売れに売れました。住んでいた駒込辺りで「人力車の……」と言いかければ、すぐ家が知れたほど。そこで、ついた異名がそのものずばり「車屋の談志」。その談志も、人力車の衰退後は不遇な晩年だったといいます。

昭和初期には、七代目林家正蔵(1894-1949、本名・海老名竹三郎)の十八番でした。八代目橘家円蔵(1934-2015、本名・大山武雄)のも、若い頃の月の家円鏡だった時代から、漫画的なナンセンスで定評がありました。客が二人目の車屋に連れて行かれる先は、演者によって大森、赤羽などさまざまで、「青森」というのもありました。

人力車の噺いろいろ

人力車は明治の文明開化の象徴。それを当て込んでか、勘当された若だんなが車引きになる「素人人力」、貧しい車屋さんの悲喜劇を描く「大豆粉のぼた餅」、初代三遊亭円左の古い速記が残る怪談「幽霊車」。そういった多くの新作がものされましたが、今では「反対車」のほか、すべてすたれました。

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【反対車 八代目橘家円蔵】

がまのあぶら【蝦蟇の油】演目

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ホント、昔はよく縁日で見かけたもんです、こういうの。

あらすじ

その昔、縁日にはさまざまな物売りが出て、口上を述べ立てていたが、その中でもハバがきいたのが、蝦蟇の油売り。

ひからびたガマ蛙を台の上に乗せ、膏薬が入った容器を手に、刀を差して、白袴に鉢巻、タスキ掛けという出て立ち。

「さあさ、お立会い。御用とお急ぎでない方は、ゆっくりと聞いておいで。遠目山越し笠のうち、物の文色(あいろ)と道理がわからぬ……」

さまざまに言い立てて、なつめという容器の蓋をパッと取り、「手前持ち出したるはこれにあるヒキセンソウはがまの油。……手前持ちいだしたるは四六のがまだ。四六、五六はどこでわかる。前足の指が四本、後足の指が六本。これを名づけて四六のがま。このがまの棲める所は、これより、はァるゥか北にあたる筑波山の麓にて、オンバコという露草を食らう。……このがまの油を取るには、四方に鏡を立て、下に金網を敷き、その中にがまを追い込む。がまはおのれの姿が鏡に映るのを見ておのれで驚き、たらーりたらりと脂汗を流す。これを下の金網にてすき取り、柳の小枝をもって、三七二十一日の間とろーり、とろりと煮詰めたるのがこのがまの油だ。赤いはシンシャヤシイの実、テレメンテエカにマンテエカ、金創には切り傷、効能は、出痔イボ痔、はしり痔ヨコネガンガサ、その他腫れ物一切に効く。いつもはひと貝で百文だが、今日はおひろめのため、小貝を添え、二貝で百文だ」と、怪しげな口上で見物を引きつけておいて、膏薬の効能を実証するため、刀で白紙を三十六枚に切ってみせた。

「……かほどに斬れる業物でも、差裏差表へがまの油を塗る時は、白紙一枚容易に斬れぬ。さ、このとおり、たたいて……斬れない。引いても斬れない。拭き取る時はどうかというと、鉄の一寸板もまっ二つ。触ったばかりでこれくらい斬れる。だがお立会い、こんな傷は何の造作もない。がまの油をこうして付ければ、痛みが去って血がピタリと止まる」

こんな案配で、むろんインチキだが、けっこう売り上げがいいので気を良くしたがまの油売り、売り上げで大酒をくらってベロンベロンに酔ったまま、例の口上。

ロレツが回らないので支離滅裂。それでもどうにか紙を切るところまではきたが、「さ、このとおり、たたいて……切れた。どういうわけだ?」

「こっちが聞きてえや」
「驚くことはない、この通りがまの油をひと付け付ければ、痛みが去って……血も……止まらねえ……。二付け付ければ、今度はピタリと……かくなる上はもうひと塗り……今度こそ……トホホ、お立会い」
「どうした」
「お立会いの中に、血止めはないか」

しりたい

はなしの成立と演者

「両国八景」という風俗描写を中心とした噺の後半部が独立したものです。酔っぱらいが居酒屋でからむのを、連れがなだめて両国広小路に連れ出し、練り薬売りや大道のからくり屋をからかった後、がまの油売りのくだりになります。

前半部分は先代(三代目)金馬が酔っぱらいが小僧をなぶる「居酒屋」という一席ばなしに独立させ、大ヒット作にしました。金馬は、がまの油の口上をそのまま「高田の馬場」の中でも使っています。

昭和期では三代目春風亭柳好が得意にし、六代目三遊亭円生、八代目林家正蔵も演じました。大阪では、「東の旅」の一部として桂米朝など大師匠連も演じました。

上方版ではガマの棲息地は「伊吹山のふもと」となります。

オチは現行のもののほか、「(血止めの)煙草の粉をお持ちでないか」とすることもあります。

本物は……?

本物の「がまの油」はセンソといい、れっきとした漢方薬です。ガマの分泌液を煮詰めて作るのですから、この口上もあながちデタラメとはいえません。ただし、効能は強心剤、いわゆる気付け薬です。一種の覚せい剤のような作用があるのでしょう。

口上中の「テレメンテエカ」は、正しくは「テレメンテエナ」で、ポルトガル語です。松脂を蒸留して作るテレビン油のこと。芳香があり、染料に用います。

六代目円生「最後の高座」

1979年(昭和54)8月31日、死を四日後にひかえた昭和の名人・六代目三遊亭円生は、東京・三宅坂の国立小劇場でのTBS落語研究会で、「蝦蟇の油」を回想をまじえて楽しそうに演じ、これが公式には最後の高座となりました。

この高座のテレビ放送で、端正な語り口で解説を加えていた、劇作家・榎本滋民氏も2003年(平成15)1月16日、亡くなっています。

マンテエカ

『昭和なつかし博物学』(周達生、平凡社新書)によると、マンテエカはポルトガル語源で豚脂、つまりラードのことで、薬剤として用いられたそうです。いやあ、知識というものはどこに転がっているかわかりませんな。不明を謝すとともに、周氏にはこの場を借りて御礼申し上げます。同書は、ガマの油売りの詳細な実態ほか、汲めども尽きぬ文化人類学的知識が盛りだくさんでおすすめの一冊です。

ディジー・ガレスピー

米ジャズの伝道師、ディジー・ガレスピー。ご当地シリーズの名曲「manteca」はキューバをイメージして彼が作ったものですが、「マンテカ」はこの噺の「マンテエカ」と同語源です。ポルトガル語、またはスペイン語でラード、豚の脂、転じて膨れた死体(脂肪の塊)をさします。隠語では大麻を呼ぶときもあります。かつてスペイン人が現地人を虐殺、そのごろごろした死体の山をマンテカと呼んだというのが曲名の由来だそうです。この作品は1947年につくられましたが、フリューゲルホルンを頬を膨らませて奏でるガレスピーは曲の合間に「もうジョージアには戻らない」と言っているそうで(私には聞こえませんが)、当時の米国内での黒人差別に仮託しているふしがうかがえます。と同時に、キューバのコンガ奏者(コンゲーロ)チャノ・ポソが編曲。みごとなアフロキューバンジャズのスタンダードにブラッシュアップしています。その後まもなく、ポソは射殺されました。マンテカになってしまいました。こんないわくつきの、楽しくもない、むしろ呪われたような曲ながら、不思議な進行と変化にとんだメロディーラインが脳波を心地よく刺激してくれ、まさに大麻のような習慣性を帯びてるものです。何度も何度も聴きたくなるのです。昭和48年(1973)から昭和60年(1985)まで大阪の朝日放送で放映されていた、お見合いバラエティー番組「プロポーズ大作戦」のメインテーマはキダタローの作曲でしたが、出だしがマンテカとぴったり。パクリですね。これも習慣性を帯びる番組になっていました。総じて、蝦蟇の油の効用と一脈通じていたのかもしれません。

落語好きが「manteca」をたのしむならば、やはり大西順子トリオでしょう

「ガマの油」でご難の志ん生

五代目古今亭志ん生が前座で朝太時分のこと。東京の二ツ目という触れ込みでドサ(=田舎)まわりをしているとき、正月に浜松の寄席で「がまの油」を出し、これが大ウケでした。

ところが、朝の起き抜けにいきなり、宿に四,五人の男に踏み込まれ、仰天。

「やいやい、俺たちゃあな、本物のガマの油売りで、元日はばかに売れたのに、二日目からはさっぱりいけねえ。どうも変だてえんで調べてみたら、てめえがこんなところでゴジャゴジャ言いやがったおかげで、ガマの油はさっぱりきかねえってことになっちまったんだ。おれたちの迷惑を、一体全体どうしてくれるんだッ」

ねじこまれて平あやまり、やっと許してもらったそうです。

志ん生が自伝「びんぼう自慢」で、懐かしく回想している「青春旅日記」の一節です。

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【蝦蟇の油 三遊亭円生】

自宅で始めて、年収1,300万円以上が可能

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さんまいぎしょう【三枚起請】演目

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性悪女にひっかかるのも、お得な人生かもしれませんね。

あらすじ

町内の半公が吉原の女郎に入れ揚げて家に帰らず、父親に頼まれた棟梁が呼んで意見をするが、当人、のぼせていて聞く耳を持たない。

かえってノロケを言いだす始末。あんな実のある女はいない、年季が明けたらきっとおまえさんといっしょになる、神に誓って心変わりしないという起請文も取ってあるという。

棟梁が見てみると「小照こと本名すみ……」

どこかで聞いたような名。

それもそのはず、棟梁も同じ女からの同じ起請文を一枚持っているのだ。

江戸中探したら何千枚あるか知れやしねえとあきれているところへ、今度は三河屋の若だんながやってきて、またまた同じノロケを言いだした。

「セツに吉原の女がオカボレでげして、来年の三月に年季が明けたら、アナタのお側へ行って、朝暮夜具の揚げ下ろしをしたいなぞと……契約書まであるんでゲス」とくる。

「若だんな、そりゃひょっとして、吉原江戸町二丁目、小照こと本名すみ……」
「おや、よくご存じで」

これでエースが三枚、いやババか。

半公と若だんなはカンカンになり、これから乗り込んで化けの皮をひんむいてやると息巻くが、棟梁がそこは年の功、正面から強談判しても相手は女郎、開き直られればこっちが野暮天にされるのがオチ、それよりも……と作戦を授け、その夜三人そろって吉原へ。

小照を茶屋の二階へ呼びつけると、二人を押し入れに隠し、まず棟梁がすご味をきかせる。

起請てえのは、別の人間に二本も三本もやっていいものか、それを聞きに来たと言うと、女もさるもの、白ばっくれる。

「それじゃ、三河屋の富さんにやった覚えはねえか」
「なんだい、あんな男か女かわからない、水瓶に落ちた飯粒みたいなやつ」
「おい、水瓶に落ちたおマンマ粒、出といで」

これで一人登場。

「唐物屋の半公にもやったろう」
「知らないよ。あんな餓鬼みたいな小僧」
「餓鬼みたいな小僧、こちらにご出張願います」

こうなっては申し開きできないと観念して、小照が居直る。

「ふん、おまえたち、大の男が三人も寄って、一人の女にかかろうってのかい。何を言いやがる。はばかりながら、女郎は客をだますのが商売さ。だまされるテメエたちの方が大馬鹿なんだよ」
「このアマぁ、嘘の起請で、熊野の烏が三羽死ぬんだ。バチ当たりめ」
「へん、あたしゃ、世界中の烏をみんな殺してやりたいよ」
「こいつめ、烏を殺してどうしようってんだ」
「朝寝がしたいのさ」

しりたい

起請文

「年季(ねん)が明けたら夫婦になる」は女郎のくどき文句ですが、その旨の誓いを、紀伊国・熊野三所権現発行の午王(ごおう)の宝印に書き付け、男に贈ります。

宝印は、熊野権現のお使いの烏七十五羽をかたどった文字で呪文が記してあります。これを熊野の護符といい、それをのみ込むやり方もありました。

その場合、嘘をつくと熊野の烏(暗に当人)が血を吐いて死ぬといわれていました。

「三千世界の……」

オチの言葉は、倒幕の志士・高杉晋作が、品川遊郭の土蔵相模(「居残り佐平次」)で酒席で酔狂に作ったというざれ唄「三千世界の烏を殺し、ぬしと朝寝がしてみたい」から直接採られています。

1958年の映画「幕末太陽伝」で、佐平次(フランキー堺)がごきげんでこの唄をうなっていると、隣で連れションをしていた高杉本人(石原裕次郎)。

「おい、それを唄うな。……さすがにてれる」

お女郎の年季

吉原にかぎり、建前として十年で、二十七歳を過ぎると「現役引退」し、教育係の「やり手」になるか、品川などの岡場所に「住み替え」させられました。

明治5年の「娼妓解放令」で、表向きは自由廃業が認められ、この年季も廃止されましたが、実際はほとんどのお女郎が借金のため引き続き身を売らざるを得ず、実態は何も変わりませんでした。

【語の読みと注】
年季 ねん
午王 ごおう

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【三枚起請 古今亭志ん朝】

ライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ

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