やなぎだかくのしん
正直者でも魔がさす? 草彅剛主演で映画になりました!
別題:碁盤割り 柳田の堪忍袋
★★
【あらすじ】
もと藤堂家の家臣、柳田格之進。
ゆえあって浪人し、今は浅草東仲町の、越前屋作左衛門地借りの裏長屋に、妻、娘の花との三人暮らし。
地主の作左衛門とは碁仇で、毎日のように越前屋を訪れては、奥座敷で盤を囲んでいる。
ある日、いつものように二人が対局していると、番頭の久兵衛が百両の掛け金を革財布ごと届けにきた。
作左衛門、碁に夢中で生返事ばかり。
久兵衛はしかたなく、財布を主人の膝の上に乗せて部屋を出る。
格之進が帰った後、作左衛門ふと金のことを思い出し、久兵衛に尋ねる。
「たしかに、だんなさまのおひざに置きました」
そんなことを言うばかり。
覚えがないので、座敷の隅々まで探したが、金は出てこない。
番頭は 「疑わしいのは、柳田さまだけ」 と言い出す。
「いくらふだんは正直でも、魔がさすことはある」
作左衛門が止めるのも聞かず、格之進の長屋に乗り込む。
疑われた格之進、浪人はしてもいやしくも武士、金子などに手を付けることはないと強く否定する。
久兵衛は脅す。
「どうしても覚えがないというなら、お上に訴え出て白黒をつけるよりないから、そのつもりでいてほしい」
お家に帰参が決まっているので、格之進は 「そんなことになれば、さしさわりが出るから、自分の名は出さないでくれ」 と頼むが、久兵衛は聞き入れない。
しばし考えた格之進。
「まことに申し訳ない。貧に迫られた出来心で百両盗んだ」
格之進は打ち明けた。
格之進は 「金は返すから明後日まで待ってくれ」 と頼み、代わりに武士の魂の大小を預けた。
二日後。
久兵衛が行ってみると、格之進は一分銀まじりで百両を手渡して 「財布はないので勘弁してくれ」 と言う。
久兵衛が帰ろうとすると、格之進は 「勘違いということがある。もしその百両が現れた場合、その方と、主人作左衛門殿の首を申し受けるが、よいか」
久兵衛は 「私も男。どんなご処分でも受けます」 と安請け合いを。
大晦日。
煤掃きの最中に、作左衛門が欄間の額の後ろを掃除しようとのぞくと、例の金包みが挟まっていた。
自分が小用に立ったとき、無意識に膝の包みをそこに挟んだと思い出したときは、もう手遅れ。
久兵衛が
「実は、金が出たらだんなの首がころげる手はず」
と打ち明けると、作左衛門は仰天。
作左衛門は、久兵衛をすぐさま格之進の家に向かわせる。
「金を返して、あれは町人風情の冗談でございます、と謝ってこい!」
あたふたとなる久兵衛。
今はお家に帰参した格之進を藤堂家上屋敷に訪ね、久兵衛は平謝り。
それを見た格之進。
「金は世話になった礼だ」
格之進は金を改めて返した。
「あの金は娘花が吉原松葉家に身を売って作ったもの。娘に別れるとき、もし金が出たら、憎い久兵衛と作左衛門の首を私にお見せください、と頼まれた。勘弁しては娘に済まん」
久兵衛はまたまた仰天。
久兵衛はあたふたと店に逃げ帰ると、後を追って格之進が乗り込んできた。
「申し訳ございません。この上はご存分に」
「かねてから約定の品、申し受ける」
格之進、かたわらの碁盤を取り、見事にまっ二つ。
「この品がなかったら、間違いは起こらなかったろう。以後は慎みましょう」
世の中になる堪忍は誰もする、ならぬ堪忍するが堪忍……。格之進碁盤割りの一席。
底本:三代目春風亭柳枝
【しりたい】
講談からの脚色か
別題は「柳田の堪忍袋」「碁盤割り」。講談から人情噺に脚色されたようですが、はっきりしません。
明治25年(1892)、「碁盤割」の題で『百花園』に掲載された三代目春風亭柳枝(鈴木文吉、1852-1900、蔵前の)の速記が、唯一の古い記録です。
柳枝はマクラで「このお話は随筆にもあります」と断っているので、なんらかのネタ本があると思われます。未詳です。
志ん生好みの人情噺
明治期にはよく演じられていたようです。
昭和初期から先の大戦後にかけては、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890.6.5-1973.9.21)の独壇場でした。
「井戸の茶碗」と同系統の、一徹な武士(それも浪人)が登場する人情噺です。
三代目柳枝の速記のほかは、古い口演記録がありません。
例によって志ん生のほうは、いつどこで仕入れたのか不明の噺です。講釈師時代に聞き覚えたのかもしれません。
人情噺なので本来、オチはありません。志ん生が「親が囲碁の争いをしたから、娘が娼妓(=将棋)になった」という地口のオチをつけたことがあります。
ただし、これはめったに使わず、ほとんどは従来どおりオチなしで演じていました。
志ん生没後は、二人の息子、十代目金原亭馬生(美濃部清、1928.1.5-82.9.13)と、三代目古今亭志ん朝(美濃部強次、1938.3.10-2001.10.1)がやっていました。
志ん朝のものは音源もあります。ちくま文庫版に収載された速記では、ほぼ父親通りの演出です。
大団円の円楽版
五代目三遊亭円楽(吉河寛海、1932-2009)が好んで演じました。
五代目円楽は、この後、越前屋がお花を身請けし、久兵衛とめあわせた上、生まれた長男が越前屋を、次男が柳田家を継ぐというハッピーエンドで終わらせています。
碁盤
裏側の丸いくぼみは、待ったした者の首を載せるところ、という俗説があります。
浅草東仲町
台東区雷門1、2丁目にあたります。浅草寺門前で、今も昔も飲食店が多い繁華街です。
藤堂氏は武家の一族です。発祥地は、近江国犬上郡藤堂村(滋賀県犬上郡甲良町在士)。
戦国時代に藤堂高虎(1556-1630)が出て、家名を上昇させていきました。
この人ほど、転職回数の多かった武将はいないでしょう。たんに主君を替えたというだけなら、浅井長政→阿閉貞征→磯野員昌→津田信澄→豊臣秀長→豊臣秀保→豊臣秀吉→豊臣秀頼→徳川家康→徳川秀忠→徳川家光と、ゆうに11回も。
この頃は、まだ武士道なるものはありませんでした。生き残るための功利が優先されていました。
秀吉が天下と統一した直後の1591年には、藤堂高虎は伊予板島(愛媛県宇和島市あたり)と伊予今治(愛媛県今治市あたり)を領する大名となります。
家康が開幕すると、1608年には、伊賀上野(三重県伊賀市あたり)と伊勢津(三重県津市あたり)を領する津藩主へと転封された結果、大出世しました。代表的な外様大名です。
子孫は代々この地を領し、明治維新を迎えます。華族の伯爵家に列しました。
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