ふだんのはかま【ふだんの袴】落語演目

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【どんな?】

「おうむ」という形式の噺。
付け焼き刃が次第にばれちゃって。
噺家の技の見せどころです。

【あらすじ】

上野広小路の、御成街道に面した小さな骨董屋。

ある日、主人が店で探し物をしていると、顔見知りの身分の高そうな侍がぶらりと尋ねてきた。

この侍、年は五十がらみ、黒羽二重に仙台平の袴、雪駄履きに細身の大小を差し、なかなかの貫禄。

谷中へ墓参の帰りだという。

出された煙草盆でまずは悠然と一服するが、煙草入れは銀革、煙管も延打で銀無垢という、たいそうりっぱなもの。

そのうち、ふと店先の掛け軸に目を止めた。

「そこに掛けてある鶴は、見事なものだのう」
「相変わらずお目が高くていらっしゃいます。あたくしの考えでは文晁と心得ますが」
「なるほどのう、さすが名人じゃ」

惚れ惚れと見入っているうち、思わず煙管に息が入り、掃除が行き届いているから、火玉がすっと抜けて、広げた袴の上に落っこちた。

「殿さま、火玉が」
と骨董屋が慌てるのを、少しも騒がず払い落とし
「うん、身供の粗相か。許せよ」
「どういたしまして。お召物にきずは?」
「いや、案じるな。これは、いささかふだんの袴だ」

これを聞いていたのが、頭のおめでたい長屋の八五郎。

侍の悠然としたセリフにすっかり感心し、自分もそっくりやってみたくなったが、職人のことで袴がない。

そこで大家に談判、ようやくすり切れたのを一丁借りだし、上は印半纏、下は袴という珍妙ななりで骨董屋へとやってくる。

さっそく得意気に一服やりだしたはいいが、煙管は安物のナタマメ煙管、煙草は粉になっている。

それでもどうにか火をつけて
「あの隅にぶる下がってる鶴ァいい鶴だなあ」
「これはどうも、お見それしました。文晁と心得ますが」
「冗談言うねえ。文鳥ってなあ、もうちっと小さい鳥だろ。鶴じゃねえか」

これで完全に正体を見破られる。

本人、お里が知れたのを気づかずに、さかんに、いい鶴だいい鶴だとうなりながら煙草をふかすが、煙管の掃除をしていないから火玉が飛び出さない。

悔しがってぷっと吹いた拍子に、火玉が舞い上がって、袴に落ちないで頭のてっぺんへ。

「親方、頭ィ火玉が」
「なあに心配すんねえ。こいつはふだんの頭だ」

【RIZAP COOK】

【しりたい】

発掘は彦六   【RIZAP COOK】

原話は不詳で、古い速記はありません。

八代目林家正蔵(彦六)が、二つ目時代に二代目蜃気楼龍玉(1867-1945)門下の龍志から教わり、その型が五代目柳家小さんに継承されました。

八代目春風亭柳枝も持ちネタにし、柳枝の最後の弟子だった、三遊亭円窓が復活して手掛けています。

御成街道  【RIZAP COOK】

おなりかいどう。神田の筋違御門(万世橋)から上野広小路にかけての道筋で、現在の中央通りです。

将軍家が上野寛永寺に参詣するルートにあたり、この名が付きました。

上野広小路寄りの沿道には、刀剣や鎧兜などを扱う武具商が軒を並べていました。

仙台平  【RIZAP COOK】

せんだいひら。主に袴地に使われます。

仙台平の袴は武家の正装用で絹地の最高級品。

「平」とは、たていと(経)とよこいと(緯)を交互に織り込む手法で「平織り」を略した言い方です。

武家以外にも、富裕層の町人も使いました。

一般には、5月5日(端午)から8月末日まで一重袴として使いました。

9月1日から5月4日までは裏地付きの袷袴でした。

五つのひだの筋が崩れずに美しさを保ち、派手でもないので、気品と落ち着きが漂う装いです。

八五郎が借りたのは、小倉木綿です。

結城木綿とともに実用使いでした。

剣術の稽古袴での小倉木綿は「駄小倉」と呼ばれていました。

「三軒長屋」の楠運平が履くのが駄小倉です。

江戸詰め藩士などは、社交上、装飾を施した細身の刀を身につけました。

延打  【RIZAP COOK】

のべ。雁首と吸口が同じ材料でできた煙管です。

落語や歌舞伎では、演じる人物の階級で煙管の持ち方が異なります。

殿さまは中ほどを握って水平に構え、武士や町人はやや雁首近くを握って下向き。

百姓は雁首そのものをつかむ、など。

文晁  【RIZAP COOK】

ぶんちょう。江戸後期の文人画家、谷文晁(1763-1840)のこと。

洋画の技法を取り入れた独自の画風で知られ、渡辺崋山の師匠でもありました。

三遊亭円朝の後期の作に「谷文晁の伝」があります。

五代目小さんのくすぐりより  【RIZAP COOK】

大家が、店賃を持ってきたかと勘違いすると八「そこが欲の間違えだ」

大家が、一昨年貸した鳴海絞りの浴衣をまだ返さないといやみを言うと、八「留んとこで子供が生まれたんで、『こんなボロでよけりゃ』ってやっちゃった。あの子が大きくなりゃあ、オシメはいらなくなるから、そんとき返しに…」

八五郎が骨董屋で、「今日は墓参りで、供の者にはぐれて…」とやりはじめると、親父が「この方がお供みてえだ」

【語の読みと注】
御成街道 おなりかいどう
仙台平 せんだいひら
袷袴 あわせばかま
煙草入れ たばこいれ
煙管 きせる
延打 のべ
文晁 ぶんちょう
筋違御門 すじかいごもん



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たにぶんちょうのでん【谷文晁の伝】落語演目

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【どんな?】

江戸後期の南画(文人画)家、谷文晁たにぶんちょうのはなし。

円朝噺。名をなした頃からの逸話で構成した、お得意の「名人もの」です。

【あらすじ】

谷文晁は、伊予いよ大洲おおず藩の大名、加藤文麗に師事してきた。

文麗の死後は師匠につかず、狩野探幽だけを崇拝してひとえに精進する。

ある日。

札差の伊勢屋が酒井抱一ほういつと文晁に筑波山と富士山の屏風絵を依頼。抱一は飲酒三昧で筆をとらず。文晁はすぐに描いた。

伊勢屋からの謝礼全額で、文晁は金粉を買いりっぱな屏風に仕上げた。

町奉行の根岸鎮衛やすもりの注文では、蛭子大黒えびすだいこくの双幅を納めた。

その折、根岸から蛭子講の由来を教えられた。文晁は蛭子を祀り蛭子講を催したくなった。それが昂じて、呉服屋恵比寿屋の暖簾のれんがほしくなった。根岸に胸の内を明かすと、根岸は「盗め」と言う。

翌日。

文晁は恵比寿屋に赴き、正直に恵比寿の暖簾を盗みに来た旨を伝える。不思議なことに、支配人からは来訪を感謝され、料理を供され、暖簾をもらい受けて帰宅した。

その暖簾を、文晁は表装して、根岸や恵比寿屋主人を招いて祝った。

その後、文晁は絵所改役となり、天保十二年、七十八歳で逝去した。

石山寺縁起絵巻第六巻部分 谷文晁筆

【しりたい】

円朝の「名人もの」

もちろん、谷文晁(谷文五郎、1763-1841)の全生涯を語ったものではありません。

三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)が関心を持った逸話でつないでいるだけの噺です。

明治31年(1898)1月3日から中外商業新報(日本経済新聞の前身)に「小説」として9回にわたり連載されました。

「名人もの」とは、一芸に精通した人物が一途に生きる姿を描く、円朝作品群の一ジャンルです。

このジャンルには、「怪談乳房榎」に始まり、「荻の若葉」「名人競」「名人長二」などがあげられます。

「谷文晁の伝」もその流れの一角を構成します。

加藤文麗は大名ではない

円朝の噺には、加藤文麗(加藤泰都、1706-82、南画)は大名だったとあるのですが、これは事実とは異なります。

文麗は、伊予大洲藩第三代藩主、加藤泰恒の六男として生まれました。

同系統の旗本、加藤泰茂の養子となって家督を相続しました。

旗本としては3000石ですからそうとうな高禄でした。

旗本寄合席(大名と対等に話せる立場)となったのですから、まあ、大名クラスといってよいかもしれません。

西城御小姓組番頭→従五位下・伊予守に叙せられ、宝暦3年(1753)には職を辞しました。

文麗は若い頃から木挽町狩野家こびきちょうかのうけの狩野常信(周信)に学び、略筆墨画(省略して描く筆墨の絵)を得意としました。

谷文晁の父親、谷麓谷たにろっこくは加藤文麗と友達だったので、文晁は文麗に師事したのです。

文晁という雅号は、文麗からの偏諱へんき(一字を授かる)だったのでしょう。

文麗の弟子には高田円乗(?-1809)がいて、円乗の弟子には菊池容斎きくちようさい(1788-1878)がいました。

加藤文麗

わが身を文晁に重ねた円朝

全9回の語りものですので、全体に物足りなさは残ります。

この作品で円朝は、文晁の生き方を自分自身になぞらえているふしがうかがえます。

文麗没後の文晁は、江戸初期に活躍した狩野探幽に私淑しました。

円朝も二代目円生に師事しました。

こんな逸話が残っています。

初代古今亭志ん生(清吉、1809-1856、八丁荒らしの)が、円朝(当時は小円太)は二代目円生(尾形清治郎、1806-62、よつもくの)には過ぎたる弟子だと察し、古今亭に移るよう誘ったのですが、円朝は固辞したそうです。

円朝という人は、律儀で心やさしい人だったのですね。

幕末維新期の各派

ちなみに、この時代(幕末維新期)には、三遊派は人情噺、柳派は滑稽噺、林屋(四代目から林家)は怪談と、はなす領域が棲み分けられていました。おおざっぱですが。

古今亭、橘家、金原亭、司馬などは三遊派の系統。

麗々亭、春風亭などは柳派の系統。

筋目も明快でした。

桂派は上方ですが、江戸桂派というのもありました。

江戸桂派は「文治」が総帥の止め名で通っていますが、その歴史的な実態はよくわかっていないようです。

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