せきのしみずいなり【急きの清水稲荷】むだぐち ことば



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「急き」と、歌枕の「関の清水」を掛けたもの。気が急く、忙しないということのしゃれです。

関の清水は、蝉丸神社下社(大津市)の社内にかつてあった湧き水。稲荷の祠がありました。

この社は、古代から山城と近江の国境、東海道と東山道の分岐点に設けられていた逢坂山の関に隣接し、その守護神社であったもの。

そこから俗に「逢坂の関の清水」と呼ばれました。

この清水を詠んだ名歌は多く、紀貫之(866-945)の「逢坂の 関の清水に 影みえて 今やひくらん 望月の駒」はよく知られています。

しゃれとしては「関」が付けばなんでもいいわけで、同じ意味で「せき(関)が原」というのもありました。

強いて関連を付ければ、関所はどこでも日没の前にはもう閉まってしまうので、旅人は付近で野宿したくなければ、全速力で急がなければならなかった理屈です。



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もんざぶろういなり【紋三郎稲荷】落語演目

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【どんな?】

紋三郎稲荷とは笠間稲荷のことなんですね。抑揚の崩壊した茨城県が江戸落語に登場するとはビックリ。

【あらすじ】

常陸国笠間八万石、牧野越中守の家臣、山崎平馬。

参勤交代で江戸勤番に決まったが、風邪をひき、朋輩より二、三日遅れて国元を出発した。

もう初冬の旧暦十一月で、病み上がりだから、かなり厚着をしての道中。

取手の渡しを渡ると、往来に駕籠屋が二人。

病後でもあり、風も強いので乗ることにし、駕籠屋が八百文欲しいと言うのを、気前よく酒手込みで一貫文はずんだ。

途中、心地よくうとうとしているうち、駕籠屋の後棒が先棒に、この節は値切らなければ乗らない客ばかりなのに、言い値で乗るとはおかしい、お稲荷さまでも乗っけたんじゃねえかと話しているのが、耳に入った。

はて、どういうわけでそう言うのかとよく考えると、寒いので背割羽織の下に、胴服といって狐の毛皮を着込んでいる。

その毛皮の尻尾がはみ出し、駕籠の外に先が出ているから、稲荷の化身の狐と間違われたことに気づく。

洒落気がある平馬、からかってやろうと尻尾を動かすと、駕籠屋は仰天。

そこで、わしは紋三郎(稲荷)の眷属(=親類)だと出まかせを言ったから、駕籠屋はすっかり信じ込む。

その上、途中の立て場でべらべら吹聴するので、ニセ稲荷はすっかり閉口。

松戸の本陣の主人、高橋清左衛門なる者が大変に紋三郎稲荷を信仰しているため、平馬はそこに連れていかれる。

下りて駕籠賃を渡すと駕籠屋、
「木の葉に化けるなんてことは……」
「たわけたことを申せ。それは野狐のすることだ」

主人の清左衛門、駕籠屋から話を聞いて大喜び。

羽織袴で平馬の部屋に現れ
「紋三郎稲荷さまにお宿をいただくのは、冥加に余る次第にございます。中庭にささやかながらお宮をお祭りし、ご夫婦のお狐さまも祠においであそばします」
とあいさつしたから、平馬は
「駕籠屋のやつ、ここの親父にまでしゃべった、どうも弱った」
と思ったが、いっそしばらく化け込もうと決める。

清左衛門が、夕食はおこわに油揚げなどと言いだすので、平馬はあわてて
「そんなものは初心者の狐のもので、わしほどになると何でも食うから、酒のよいのと、ここの名物の鯰鍋、鯉こくもよい」

えらくぜいたくな狐だと思いながら、粗相があってはと、主人みずから給仕する歓待ぶり。

平馬、酔っぱらって調子に乗り、この間は王子稲荷と豊川稲荷の仲裁をしたなどと吹きまくる。

そのうち近所の者が、稲荷さまがお泊りと聞いて大勢「参拝」に押しかけたというので、平馬、
「それは奇特なことである。もし供物、賽銭などあらば申し受けると伝えよ」
「へへー」

喜んだ在所の衆、拝んでは部屋に再選を放り込んでいくので、平馬は片っ端から懐へ。

もうかったので、バレないうちにずらかろうと、縁側から庭に下り、切戸を開けると一目散。

祠の下で見ていた狐の亭主、
「おっかあ」
「なんだい、おまいさん」
「化かすのは、人間にはかなわねえ」

【RIZAP COOK】

【しりたい】

円生十八番、若手が復活  【RIZAP COOK】

原話は、寛政10年(1798)刊『無事志有意』中の「玉」。

明治から大正にかけ、「品川の円蔵」こと四代目橘家円蔵が得意にした噺で、これを門下の三遊亭円玉(1866-1921)が受け継ぎ、当時若手の、のちの二代目円歌と六代目円生に伝えました。

円歌のレコードも残っていますが、その没(1964年)後は円生の独壇場で、CD「円生百席」収録の音源が現在、唯一のスタンダードとなっています。

その円生も「実は私は師匠のは一度も聞いたことがありません」と述べているので円蔵もめったにやる噺ではなかったのでしょう。

円生は、それまで笠間藩主を「牧さま」としていたのを史実通りに改めています。「牧野さま」で。

円生没後、継承者がありませんでした。

2003年1月、TBS落語研究会で柳家一琴が演じ、その後、入船亭扇辰ほか、若手がぼつぼつ手掛けるようになりました。

紋三郎稲荷  【RIZAP COOK】

茨城県笠間市の笠間稲荷の通称です。胡桃下の稲荷ともいいます。

「紋三郎」の通称の由来は、常陸国笠間藩牧野家初代藩主・牧野貞通(寛延2=1749年没)の一族・牧野紋三郎にちなむものとされます。

祭神は宇迦之御魂神で、創建は白雉年間(650-654)。稲荷神は外来の神で、稲荷社のご神体はどこもだいたいはこの神さまです。

「ウカ」は「ウケ」とも通じて、食や豊かさを象徴します。

伏見稲荷、豊川稲荷と共に、日本三大稲荷の一つとされています。

異説は多いのですがとりあえず。

初詣は茨城県内では鹿島神宮を抜いて第1位の動員80万人を数えます。

現在も五穀豊穣の祭神として信仰を集めているということですね。

坂本九は結婚式を笠間稲荷で挙げました。

坂本家は笠間稲荷の信心篤い一家だったのですね。

そのかかわりからでしょうか、笠間市内のJR駅の発車メロディーは「上を向いて歩こう」が流れます。

背割羽織  【RIZAP COOK】

別名「ぶっさき羽織」「ぶっさばき」とも呼びます。

武士が乗馬や旅行の際に着用した、背中の中央から下を縫い合わせていない羽織です。

稲荷信仰  【RIZAP COOK】

京都市伏見区の伏見稲荷大社を中心とした信仰。

神社は2970社、摂社や末社は32000社を超えるといわれています。

しめて35000社。

八幡社の20,000社をはるかにしのいでいます。

東日本に広く分布しているようです。

稲荷神は渡来系の秦氏の氏神のため、もとは外来の神さまなのでしょう。

秦氏は中央アジアから韓半島を経て渡ってきたといわれますから、稲荷神の本当の神はそこらへんの神さまなのかもしれません。

一般にはウカノミタマノカミ(古事記では宇迦之御魂神、日本書紀では倉稲魂大神)とされています。

「ウカ」とか「ウケ」とかという古語は、食物や豊かさを意味します。

中世には伊勢神宮外宮にまつられるトヨウケビメ(古事記では豊宇気毘売神、日本書紀では不登場)と同じ神とされるようになりました。

とはいえ、稲荷神社の祭神がウカノミタマノカミであるというのは室町後期以降です。

つまり、この神社の神は何者なのかは本当のところはよくわかりません。

日本の神さまはいまだによくわからないのがけっこうあります。

稲荷というくらいですから農業神だったようですが、米が流通や商業とも深くかかわることから、商業神、漁業神、福神として平安時代から篤信されてきました。

豊かさをつかさどる神さまということで現代まで崇信されてきたのですね。

このような稲荷信仰の効用から想像すれば、秦氏は東西の十字路で豊穣と富裕の象徴とされるサマルカンドあたりから移ってきたのかもしれません。

教王護国寺(東寺)の鎮守でもあり、真言宗系とも深く結びついてきました。

神仏習合思想における稲荷神は、江戸時代までは仏教における十一面観音や聖観音を本地仏(本来の姿の仏)とされるとともに、江戸時代以降は荼枳尼天(夜叉、護法善神)とも同一視されてきました。

伏見稲荷大社の神宮寺(江戸末期までは普通にあった神社付属の寺)である愛染寺でも荼枳尼天が祀られていました。

明治元年(1868)の神仏分離後も、稲荷神を荼枳尼天としてまつる寺院があります。

その代表例は、豊川稲荷妙厳寺(愛知県豊川市、曹洞宗)と最上稲荷妙教寺(岡山市北区、日蓮宗)。最上稲荷では最上位経王大菩薩、八大龍王尊、三面大黒尊天の本地であるとされています。

このように稲荷神は、時代を経るとともに融通無碍にさまざまな神仏と融合合体して信仰を集めてきました。

これほどの篤信盛況ぶりは、稲とかかわる神であることで日本人に最も強い結びつきを示す神であったこと、秦氏や東寺といった巨大勢力と結ばれていたこと、下級宗教家によって、稲荷ずし、お狐さま、正一位(稲荷神の神階で最高位)といった、わかりやすい状態で布教されていったことが大きいのでしょう。

【語の読みと注】
常陸 ひたち:茨城県
朋輩 ほうばい
取手 とりで
駕籠屋 かごや
洒落気 しゃれけ
胡桃下 くるみした
宇迦之御魂神 うかのみかまのかみ:稲荷の神さま
白雉 はくち

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