王子の狐 おうじのきつね 演目

【RIZAP COOK】

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

狐が人に化かされてひどい目にあった、という江戸前のはなしです。

別題:乙女狐(上方)、高倉狐(上方)

【あらすじ】

神田あたりに住む経師屋の由さん。

王子稲荷に参詣の途中、道灌山の原っぱに来かかると、なんと、大きな狐が昼寝中。

「ははーん、狐は人を化かすというが、こう正体を現しているなら、俺が逆にこうつをたぶらかしてやろう」
といたずら心を起こし、狐に
「もし、姐さん、こんな所で寝ていちゃ、風邪ひくよ」

起こされた狐は、出し抜けに姐さんと呼ばれたから、あわててビョンと飛び上がり、十八、九の美人にたちまち化けた。

正体がバレたとも知らず、これはいいカモだと、
「私は日本橋あたりの者で、乳母を連れて王子稲荷に参りましたが、はぐれてしまい、難渋しております。あなたはどなた?」

由さん、笑をかみ殺し、
「自分は神田の者だが、日本橋はすぐそばなので送ってあげたい、ただ空腹なので、途中、なにかごちそうしたい」
と持ちかけた。

狐は成功疑いなしと、ワナとも知らず、喜んでエサに食いつく。

連れ立って稲荷を参拝した後、土地の海老屋という料理屋の二階に上がる。

盃のやりとりをするうち、狐はすっかり油断して、酒をのみ放題。

ぐでんぐでんになると、いい心持ちで寝入ってしまう。

由さん、しめたとばかり喜んで、土産物をたんまり持ち、帳場に、
「二階の連れは疲れて寝込んでいるから、そのままにしてやってくれ、起きたら勘定はあっちが持つから」
と言い置くと、風を食らってドロン。

さて、料理屋の方では、そろそろ勘定をというので、二階に仲居が上がってみると、狐は酔いつぶれてすっかり化けの皮がはがれ、頭は狐、体はまだ女、足は毛むくじゃらで大きな尻尾を出すという、まさに化物。

仲居の悲鳴で駆けつけた男どもが
「やや、こりゃ狐。さては先刻帰った男も、うむ、太いやつだ」
と寄ってたかってさんざんに打ちのめしたから、狐はたまらず、命からがら逃げだした。

一方、由さん。

かえってこの自慢話をすると、年寄りに
「狐は稲荷の使い。そんなイタズラをすれば必ずたたるから、ボタ餠でも持ってわびに行け」
とさとされて、道灌山へ戻ると、子狐が遊んでいる。

聞けば、おっ母さんが人間に化かされたあげく、全身打撲と骨折の重傷とか。

由さん、さてはと合点して平謝り。

餠を子狐に渡すと、ほうほうの体で逃げ帰った。

子狐は、ウンウンうなっている母狐に、
「おっかさん、人間のオジサンがボタ餠を持ってあやまりに来たよ。たべようよ」
「お待ち。たべちゃいけないよ。馬の糞かもしれない」

【RIZAP COOK】

【しりたい】

原話は江戸

正徳2年(1712)刊の笑話本『新話笑眉』中の「初心な狐」が原話です。

これは、狐が、亀戸の藤を見物に行く男を化かそうとして、美貌の若衆に変身し、道連れになります。

男はとっくに正体を見破っていますが、そ知らぬ顔でだまされたふりをし、狐の若衆に料理屋でたっぷりとおごってやります。

別れた後、男がこっそりと跡をつけると、案の定、若衆は狐の穴へ。

狐が一杯機嫌で、得意そうに親狐に報告すると、親狐は渋い顔で、「このばか野郎。てめえが食わされたなあ、馬糞だわ」

「高倉狐」

この原話は江戸のものですが、落語としては上方で磨かれ、「高倉狐」として口演されました。

こちらは、東京のものと大筋は同じですが、舞台が大坂高津の高倉稲荷境内、狐を連れ込む先が、黒焼きと並んで高津の名物の湯豆腐屋の二階となっています。

東京には、明治16年(1883)、真打に昇進直後で、当時23歳の初代三遊亭円右が逆移入したものです。

古い速記では、明治26年(1893)の初代三遊亭円遊のものが残ります。

戦後では、八代目春風亭柳枝の十八番として知られ、五代目古今亭志ん生、八代目三笑亭可楽も得意でした。

志ん朝や五代目円楽を経て、現在も多くの演者に継承されています。

類話「乙女狐」

上方には、「高倉狐」「王子の狐」と筋はほとんど同じながら、舞台が大坂の桜の宮で、二人の男との化かしあいに負けた狐が、「眉に唾をつけておけばよかった」、または「今の素人には油断がならん」というオチの「乙女狐」があります。「高倉狐」は、この噺の改作ではないかともいわれます。

狐の悪行は世界共通

狐の出てくる噺は多いものです。

「稲荷車」
「稲荷の土産」
「今戸の狐」
「王子の狐」
「王子の白狐」
「お盆」
「蛙の子」
「狐つき」
「狐と馬」
「木の葉狐」
「九尾の狐」
「けつね」
「七度狐」
「初音の鼓」
「紋三郎稲荷」
「安兵衛狐」
「吉野狐」

思いついただけでも、ざっとこんなに。

狐は「稲荷の使い」として特別な呪力を持つものと、日本では古くから見なされてきましたが、ずるい動物という認識は東西同じなのか、フランスの「狐物語」、ドイツの「ライネッケ狐」など、手に負えない狐の話は世界中に流布伝承されています。

王子稲荷

東京都北区岸町一丁目。
稲荷の本体は倉稲魂、または御食津神で、どちらにしても穀物神。五穀豊穣を司ります。王子稲荷社は、関東の稲荷の総社です。

大晦日に関東一帯の狐がご機嫌伺いに集まるので、狐火が連なって松明のようになると伝えられてきました。

歌川広重が「名所江戸百景」の内で、「王子装束ゑの木 大晦日の狐火」。王子稲荷の怪異「狐松明」を描いています。狐が顔の近くに狐火を浮かべているのが見えます。

歌川広重「名所江戸百景」の内「王子装束ゑの木 大晦日の狐火」

志ん生流、捧腹絶倒

料理屋の二階で、狐と人間が、互いに相手を化かそうと虚々実々の腹の探りあいを演じるおかしさが、この噺の一番の聞かせどころです。

そのあたりは、江戸の昔から変わらない、政財界の妖怪同士による、料亭談合のカリカチュアの趣ですね。

五代目古今亭志ん生の「扇屋二階の場」は抱腹絶倒です。

前半の二人(一匹と一人)のやりとりでは、男が「油揚げでも……」と口走って、あわてて口を押さえたり、疑わしげに「これ、お酒だろうねェ?」と確かめたあと、まだ眉唾で、肥溜めでないかと畳のケバをむしってみたりするおかしさ。

「第二場」では、だまされたと知って茫然自失の狐が、思わず「化けてるやつがふァーッと、半分出てきたン」で、帯の間から太い尻尾がニュー、耳が口まで裂けて……とか、狐退治に二階に押し上げられた源さんが、内心びくびくで、「狐けェ? オロチじゃねえのか。俺ァ天狗があぐらァけえていやがんのかと」と、強がりを言うシーンなど。

筋は同じでも、ここらの天衣無縫のくすぐりのつけ方が、まさに志ん生ならではです。同時に、狐を悪獣として憎むのではなく、むしろ隣人として、いたずらっ子を見るまなざしで、どこかで愛し、いとおしんできた江戸人の血の流れが、志ん生の「王子の狐」を聴き、速記を読むと、確かに伝わります。

海老屋と扇屋

男が狐同伴で揚がりこむ料理屋は、古くは海老屋、現行ではほとんど、扇屋で演じます。海老屋は、扇屋と並ぶ土地の代表的な大店で、扇屋は武家屋敷、海老屋は商家や町人筋がおもな顧客でした。

したがって、町人の登場するこの噺には、海老屋の方がふさわしかったのですが、残念ながら明治初年に廃業したので、昭和以後では、現存の扇屋に設定することが多くなったのでしょう。

扇屋の方は、慶安年間(1648-52)の創業で、釜焼きの厚焼き卵の元祖として名高い老舗です。

【語の読みと注】
経師屋 きょうじや
道灌山 どうかんやま
倉稲魂 うかのみたま
御食津神 みけつかみ

【RIZAP COOK】

お神酒徳利 おみきどっくり 演目

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インチキ易で消えた徳利を探し出した(?)番頭。その後の展開が広がって。

【あらすじ】

馬喰町一丁目に刈豆屋吉左衛門という旅籠があった。

先祖が徳川家康から拝領した、銀の葵の紋付きの一対のお神酒徳利を家法にして代々伝えてきたが、大切なものなので一年一回、大晦日の煤取りの時しか出さない。

ある年の大晦日、その煤取り(大掃除)の最中に、台所に水をのみにきた番頭の善六がひょいと見ると、大切なお神酒徳利が流しに転がっている。

入れ物がないので、そばの大きな水瓶に放り込んで蓋をし、うっかり者の番頭、それっきり忘れてしまった。

店ではいよいよお神酒をあげようとすると、徳利がなくなっているので大騒ぎ。

ところが善六、帰宅して、はっと水瓶のことを思い出し、すぐ報告をと思うのだが、痛くもない腹をさぐられるのも……と困っていると、しっかり者の女房が知恵を授ける。

女房の父親がたまたま易者をしているので、それに引っかけて、筮竹はバレやすいから、商売柄、算盤をパチパチやって、ニワカ素人易者のふりをして言い当てて見せればいい、というわけ。

善六、店に戻ると、さっそく女房に言われた通り、いいかげんに易をたて、水瓶の蓋を取って徳利を「発見」してみせたので、主人は大喜び。

易の大先生だと、店中の評判になる。

たまたま宿泊していて、この評判を聞きつけたのが大坂今橋・鴻池の番頭。

「主人の十七になる娘が三年この方大病で、あらゆる名医を頼み、加持祈祷も尽くしたが効果がなく困っていたところなので、ご当家にそんな大先生がおられるなら、ぜひ大坂に来ていただきたい」
と頼む。

善六、頭を抱えるがもう遅い。

帰ってまた女房に相談すると、
「寿命のことは私にはわかりませんとかなんとかゴマかして、礼金の三十両もせしめておいで」
と尻をたたくので、不承不承、承知して、東海道を下ることとなった。

途中の神奈川宿・新羽屋源兵衛という本陣。

泊まろうとすると、家内になにやら取り込みがあるようす。

聞けば、宿泊中の薩州の侍の、密書入りの巾着が盗まれたとかで、主人が疑いをかけられて役所へひかれたという。

善六のことを聞くと、店中大喜び。

「ぜひ大先生にお願いを」
と言われて善六はゲンナリ。

もうこれまでと逃げ支度にかかった時、部屋の障子がスーっと開いて、色青ざめた女がおずおずと入ってくる。

聞くと、
「近在の百姓の娘で宿の女中をしているが、父親の病気を直したい一心からつい出来心で巾着に手を出した」
という。

「高名な易の先生が来ているというのでもう逃げられないと思い、こうして出てきた、どうぞお慈悲を」
と泣くので、善六、これぞ天運と内心ニンマリ。

威厳を取り繕って、巾着が、稲荷さまのお宮が嵐でつぶれて床板が積み重ねてある間に隠してあることをうまく聞き出し、これは稲荷の祟りだと言い繕って、巾着を首尾よく掘り出して見せたので、善六、もう神さま扱い。

女には礼金から五両与えて逃がしてやり、拝まれながら大坂へ出発した。

鴻池でも下へもおかない大歓迎。

しかし、そろそろ「仕事」にとりかからなければならないと、また気が重くなりだしたその夜、善六の夢枕に不思議な白髭の老人が立った。

これが実は、正一位稲荷大明神。

神奈川での一件以来、霊験あらたかな神社と評判で、はやりにはやって宮の造営もできたとかで、褒美として娘の「治療法」を教えてくれる。

稲荷に言われた通り、乾隅の柱四十二本目を三尺五寸掘り下げると、一尺二寸の観音像が現れたので、それを祭ると、病人はたちまち全快。

さあ、鴻池の喜びはひとかたでなく、望みの物をお礼にというので、馬喰町に旅籠を一軒持たせてもらい、繁盛した、という。

算盤占いだけに、生活がケタ違いによくなった、という話。

【しりたい】

世界中に同類の民話

上方落語のルーツ研究では右に出る者がない宇井無愁の『落語の根多』によると、日本各地の民話に類話があるばかりか、朝鮮、中国、トルコ、コーカサスにも類似した民話があるということです。

「ごくあたりまえのことが無知の目には奇蹟とうつり、世間の無知が人気者を作り出すという諷刺になっている」(同書)という英雄伝説草創のパターンは、全人類に共通しているのかもしれませんね。

演出に二つの流れ

上方落語「占い八百屋」を三代目柳家小さんが東京に移して、それが四代目、五代目へと継承された小さん系の型、五代目金原亭馬生(おもちゃ屋の、1864-1946)からの直伝で、押しも押されもせぬ十八番に仕上げた、六代目三遊亭円生の演出の二系統があります。

上のあらすじは、円生のものをテキストにしました。

三代目桂三木助のはほぼ円生通りでしたが、オチが「これも神奈川の稲荷大明神のおかげだね」「なあに、カカア大明神のおかげだ」となっています。

大阪、小さん系はいたずらから

小さんの方は前半が異なり、上方の通りで主人公は八百屋。

出入り先のお店で女中をからかってやろうとわざと徳利の片割れを水がめに隠しますが、ゲンが悪いと大騒ぎになって言い出せなくなり、やむなく算盤占いで……というのが発端です。ここでは徳利は貴重品でも何でもありません。

在所の弟の訴訟事を占ってほしいという主人の頼みで三島宿(大阪では明石宿)まで出かけ、途中の宿屋で頼まれた泥棒探しを運良く解決したものの、たちまち近在から依頼が殺到。たまらなくなって逃走し、「今度は先生が紛失した」というオチです。

類話「出世の鼻」とのかかわり

「出世の鼻」(別題「鼻利き源兵衛」)という噺は、「お神酒徳利」に似ていますが、別話です。

主人公の八百屋が、ソロバン占いの代わりに、紛失物のにおいを鼻で嗅ぎ出すという触れ込みで、幸運にも大金持ちに成り上がるという異色作です。

馬喰町の旅籠

「宿屋の富」でも記しましたが、日本橋馬喰町は江戸随一の宿屋街で、東海道筋からの旅人はもとより、江戸に全国から集まった「お上りさん」はほとんど、ここの旅宿にワラジを脱ぎました。

「八十二軒御百姓宿」といい、幕府公認、公許の旅籠街で、大坂では、高津がこれにあたります。

この場合の「百姓(ひゃくせい)」は「万民、人民」というほどの意味です。

大きく分けて、百姓宿と旅人宿がありました。

百姓宿は公事宿(くじやど)で、訴訟・裁判のために上京する者を専門に泊め、勘定奉行所の監督下で必要書類の作成など、事務手続きも代行しました。

旅人宿は、公事宿の機能をを兼ねる旅籠もありましたが、主に一般の旅人を宿泊させました。

ただし、こちらは町奉行所の管轄下で、怪しい者、手配の犯人が潜伏していないかなど、客を監視して逐一お上に通報する義務を負っていたところが、「公許」の旅籠街たるところです。

馬喰町の旅籠は「宿屋の仇討ち」にも登場します。

円生の噺中の「刈豆屋吉左衛門」は馬喰町の総取締で、実在しました。

五代目小さんのくすぐり

●八百屋が宿の待遇に文句をつけて

「客が着いたら、女房に閨房(けいぼう、つまりベッド)のお伽(とぎ、=お相手)をさせましょうくらい言え」

明烏 あけがらす 演目

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堅物がもてるという、廓が育む理想形。ビギナーズラック、はたまたの成功譚。

【あらすじ】

異常なまでにまじめ一方と近所で評判の日本橋田所町・日向屋半兵衛のせがれ時次郎。

今年十九だというに、いつも本にばかりかじりつき、女となれば、たとえ雌猫でも鳥肌が立つ。

今日も今日とて、お稲荷さまの参詣で赤飯を三杯ごちそうになったととくとくと報告するものだから、おやじの嘆くまいことか。

「堅いのも限度がある、いい若い者がこれでは、跡継ぎとしてこれからの世間づきあいにも差し支える」
と、かねてからの計画で、町内の札付きの遊び人・源兵衛と太助を「引率者」に頼み、一晩、吉原での遊び方を教えてもらうことにした。

「本人にはお稲荷さまのおこもりとゴマまし、お賽銭が少ないとご利益がないから、向こうへ着いたらお巫女さん方へのご祝儀は、便所に行くふりをしておまえが全部払ってしまいなさい、源兵衛も太助も札付きのワルだから、割り前なんぞ取ったら後がこわい」
と、こまごま注意して送り出す。

太助のほうはもともと、お守りをさせられるのがおもしろくない。

その上、若だんながおやじに言われたことをそっくり、「後がこわい」まで当人の目の前でしゃべってしまったからヘソを曲げるが、なんとか源兵衛がなだめすかし、三人は稲荷ならぬ吉原へ。

いかに若だんながうぶでも、文金、赭熊(しゃごま)、立兵庫(たてひょうご)などという髪型に結った女が、バタリバタリと上草履の音をさせて廊下を通れば、いくらなんでも女郎屋ということはわかる。

泣いてだだをこねるのを二人が
「このまま帰れば、大門で怪しまれて会所で留められ、二年でも三年でも帰してもらえない」
と脅かし、やっと部屋に納まらせる。

若だんなの「担当」は十八になる浦里という、絶世の美女。

そんな初々しい若だんななら、ワチキの方から出てみたいという、花魁からのお見立てで、その晩は腕によりをかけてサービスしたので、堅い若だんなも一か所を除いてトロトロ。

一方、源兵衛と太助はきれいさっぱり敵娼(あいかた)に振られ、ぶつくさ言いながら朝、甘納豆をヤケ食い。

若だんなの部屋に行き、そろそろ起きて帰ろうと言ってもなかなか寝床から出ない。

「花魁は、口では起きろ起きろと言いますが、あたしの手をぐっと押さえて……」
とノロケまで聞かされて太助、頭に血が昇り、甘納豆をつまんだまま梯子段からガラガラガラ……。

「じゃ、坊ちゃん、おまえさんは暇なからだ、ゆっくり遊んでらっしゃい。あたしたちは先に帰りますから」
「あなた方、先へ帰れるなら帰ってごらんなさい。大門で留められる」

【しりたい】

極め付き文楽十八番

あまり紋切り型は並べたくありませんが、この噺ばかりはまあ、上記の通りでしかたないでしょう。

八代目桂文楽が二ツ目時代、初代三遊亭志う雀(のち八代目司馬龍生)に習ったものを、四十数年練り上げ、戦後は、古今亭志ん朝が台頭するまで、文楽以外はやり手がないほどの十八番としました。

それ以前は、サゲ近くが艶笑がかっていたのを改め、おやじが時次郎を心配して送り出す場面に情愛を出し、さらに一人一人のしぐさを写実的に表現したのが文楽演出の特徴でした。

時代は明治中ごろとし、父親は前身が蔵前の札差で、維新後に問屋を開業したという設定になっています。

原話となった心中事件

「明烏○○」と表題がついた作品は、明和年間(1764-72)以後幕末にいたるまで、歌舞伎、音曲とあらゆるジャンルの芸能で大量生産されました。

その発端は、明和3年(1766)6月、吉原・玉屋の遊女美吉野と、人形町の呉服屋の若旦那伊之助が、宮戸川(隅田川の山谷堀あたり)に身を投げた心中事件でした。

それが新内「明烏夢淡雪」として節付けされ、江戸中で大流行したのが第一次ブーム。

事件から半世紀ほど経た文政2年(1819)から同9年にかけ、滝亭鯉丈と為永春水が「明烏後正夢」と題して人情本という、今でいう艶本小説として刊行。第二次ブームに火をつけると、これに落語家が目をつけて同題の長編人情噺にアレンジしました。

現行の「明烏」はおそらく幕末に、その発端を独立させたものでしょう。

大門で止められる

「大門」の読み方は、芝は「だいもん」、吉原は「おおもん」と呼びならわしています。

吉原では、大見世遊びのときには、まず引手茶屋にあがり、そこで幇間と芸者を呼んで一騒ぎした後、迎えが来て見世(女郎屋)に行くならわしでした。

この噺では、茶屋の方もお稲荷さまになぞらえられては決まりが悪いので、早々に時次郎一行を見世に送り込んでいます。

大門は両扉で、黒塗りの冠木(かぶき)門。夜は引け四つ(午前0時)に閉門しますが、脇にくぐり門があり、男ならそれ以後も出入りできました。

大門内に監視所があり、俗に四郎兵衛と呼ばれましたが、お上に協力して不審者をチェックする場所。

むろん「途中で帰ると大門で止められる」は真っ赤な嘘です。

甘納豆

八代目桂文楽ので、太助が朝、振られて甘納豆をヤケ食いするしぐさの巧妙さは、今も古い落語ファンの間で語り草です。

甘納豆は嘉永5年(1858)、日本橋の菓子屋が初めて売り出しました。

文楽直伝でこの噺に現代的なセンスを加味した古今亭志ん朝は、甘納豆をなんと梅干の砂糖漬けに代え、タネをプッと吐き出して源兵衛にぶつけるおまけつきでした。

日本橋田所町

現在の東京都中央区堀留町二丁目。日本橋税務署のあるあたりです。

浦里時次郎

新内の「明烏夢淡雪」以来、「明烏」もののカップルはすべて「山名屋浦里・春日屋時次郎」となっています。

落語の方は、心中ものの新内をその「発端」という形でパロディー化したため、当然主人公の名も借りています。

うぶな者がもてて、半可通や遊び慣れた方が振られるという逆転のパターンは、『遊子方言』(明和7=1770年ごろ刊)以来、江戸の遊里を描いた「洒落本」に共通のもので、それをそのまま、オチに巧みに取り入れています。

【もっとしりたい】

ご存じ、8代目桂文楽のおはこ。文楽存命中はだれもやれず、のちに志ん朝がやった。もっとうまかった。

明和3(1766)年6月3日 (一説には明和6年とも) 、吉原玉屋の花魁美吉野と、人形町の呉服太物商春日屋の次男伊之助が、白ちりめんのしごき(女性の腰帯。結ばないでしごいて使う)でしっかり体を結び合って宮戸川(隅田川の山谷堀辺) に入水した。

これが、宮戸川心中事件といわれるもの。事件をもとに、初代鶴賀若狭掾が新内「明烏夢淡雪」として世に広めた。

さらに、文政2(1819)-7年には、滝亭鯉丈と為永春水が続編のつもりで人情本『明烏後正夢』を刊行。この本の発端を脚色したのが落語の「明烏」である。以降、「明烏」ものは、歌舞伎、音曲などあらゆる分野で派生生産された。うぶな男がもてて半可通が振られるという類型は、江戸の遊里を描いた洒落本には共通のもの。

もてるもてないは、どこか宿命めいている。修行の必要などなさそうだ。(古木優)

ぞろぞろ 演目

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「黄金の壷」「瘤取り爺さん」のような噺。「ぞろぞろ」違いがミソ。

【あらすじ】

浅草田圃の真ん中にある、太郎稲荷という小さな社。

今ではすっかり荒れ果てているが、その社前に、これもともどもさびれて、めったに客が寄りつかない茶店がある。

老夫婦二人きりでほそぼそとやっていて、茶店だけでは食べていけないから、荒物や飴、駄菓子などを少し置いて、かろううじて生計をたてている。

爺さんも婆さんも貧しい中で信心深く、神社への奉仕や供え物はいつも欠かさない。

ある日のこと。

夕立があり、外を歩く人が一斉にこの茶屋に雨宿りに駆け込んできた。

雨が止むまで手持ちぶさたなので、ほとんどの人が茶をすすり駄菓子を食べていく。

こんな時でないと、こう大勢の客が来てくれることなど、まずない。

一度飛び出していった客が、また戻ってきた。

外がつるつる滑って危なくてしかたがないという。

ふと天井からつるした草鞋(わらじ)を見て、
「助かった。一足ください」
「ありがとう存じます。八文で」

一人が買うと、
「俺も」
「じゃ、私も」
というので、客が残らず買っていき、何年も売り切れたことのない草鞋が、一時に売り切れになった。

夫婦で、太郎稲荷さまのご利益だと喜び合っていると、近所の源さんが現れ、鳥越までこれから行くからワラジを売ってくれと頼む。

「すまねえ。たった今売り切れちまって」
「そこにあるじゃねえか。天井を見ねえな」

言われて見上げると、確かに一足ある。

源さんが引っ張って取ろうとすると、なんと、ぞろぞろっと草鞋がつながって出てきた。

それ以来、一つ抜いて渡すと、新しいのがぞろり。

これが世間の評判になり、太郎稲荷の霊験だと、この茶屋はたちまち名所に。

田町あたりの、はやらない髪床の親方。

客が来ないので、しかたなく自分のヒゲばかり抜いている。

知人に太郎稲荷のことを教えられ、ばかばかしいが、退屈しのぎと思ってある日、稲荷見物に出かける。

行ってみると、押すな押すなの大盛況。

茶店のおかげで稲荷も繁盛し、のぼり、供え物ともに以前がうそのよう。

爺さんの茶店には黒山の人だかりで、記念品にワラジを買う人間が引きも切らない。

親方、これを見て、
「私にもこの茶店のおやじ同様のご利益を」
と稲荷に祈願、裸足参りをする。

満願の七日目、願いが神に聞き届けられたか、急に客が群れをなして押し寄せる。

親方、うれしい悲鳴をあげ、一人の客のヒゲに剃刀をあてがってすっと剃ると、後から新しいヒゲが、ぞろぞろっ。

【しりたい】

彦六ゆかりの稲荷綺譚

これも元々は上方落語で、落語界屈指の長寿を保った初代橘ノ圓都(1883-1972)が得意にし、上方での舞台は赤手拭稲荷(大阪市浪速区稲荷町)でした。

東京では、早く明治期に四代目橘家円蔵(六代目円生の師匠)が手がけ、その演出を継承した彦六の八代目林家正蔵が、これも上野の稲荷町に住んでいた縁があってか(?)さらに格調高く磨き上げ、十八番にしました。

戦後では三代目三遊亭小円朝も演じましたが、舞台は四谷・お岩稲荷としていました。笑いも少なく、地味な噺なので、両師の没後はあまり演じ手がいません。

太郎稲荷盛衰記 その1

太郎稲荷は、浅草田圃の立花左近将監(筑後柳川十一万九千六百石)下屋敷の敷地内にありました。

当時の年代記『武江年表』の享和3年(1803)の項に、その年二月中旬から、利生があらたかだというので、太郎稲荷が急にはやりだし、江戸市中や近在から群集がどっと押しかけたと記されています。

あまりに人々が殺到するので、屋敷でも音を上げたとみえ、とうとう開門日を朔日(一日)、十五日、二十八日および午の日と制限したほどでした。

太郎稲荷盛衰記 その2

文化元年(1804)にはますます繁盛し、付近には茶店や料理屋が軒を並べました。

この噺にある通り、さびれていた祠がりっぱに再建されたばかりか、もとの祠を「隠居さま」とし、新しく別に社を立てたといいます。

ところが、稲荷ブームは流行病のようなもので、文化3年(1806)3月4日、芝・車町から発した大火で灰燼に帰し、それから二度と復興されませんでした。

太郎稲荷のおもかげ

夭折した明治の浮世絵師・井上安治(1864-89)が荒れ果てた明治初期の太郎稲荷の夜景を描いて印象的です。

樋口一葉(1872-96)の『たけくらべ』でも、主人公・美登利が太郎稲荷に参拝する場面がありました。