【どんな?】
日本橋の大店の娘と手代が相思相愛。木場まで逃げて、身投げして……。
法華の信者ならすぐわかる、オチは「鰍沢」と同じフレーズです。
別題:隅田の馴染め(改作、または中のみ) 花見小僧(上のみ) 刀屋(下のみ)
【あらすじ】
日本橋横山町の大店の娘おせつ。
評判の器量よしなので、今まで星の数ほどの縁談があったのだが、色白の男だといやらしいと言い、逆に色が黒いと顔の表裏がわからないのはイヤ、やせたのは鳥ガラで、太ったのはおマンマ粒が水瓶へ落っこちたようだと嫌がり、全部断ってしまう。
だんなは頭を抱えていたが、そのおせつが手代の徳三郎とできているという噂を聞いて、びっくり仰天。
これは一大事と、この間、徳三郎といっしょにおせつのお供をして向島まで花見に行った丁稚(小僧)の定吉を脅した。
案の定、そこで二人がばあやを抱き込んでしっぽり濡れていたことを白状させた。
そこで、すぐに徳三郎は暇を出され、一時、叔父さんの家に預けられる。
なんとかスキを見つけて、お嬢さんを連れだしてやろうと考えている矢先、そのおせつが婿を取るという話が流れ、徳三郎はカッときた。
しかも、蔵前辺のご大家の若だんなに夢中になり、一緒になれなければ死ぬと騒いだので、だんながしかたなく婿にもらうことにしたという。
「そんなはずはない、ついこないだオレに同じことを言い、おまえ以外に夫は持たないと手紙までよこしたのに。かわいさ余って憎さが百倍、いっそ手にかけて」
と、村松町の刀屋に飛び込む。
老夫婦二人だけの店だが、親父はさすがに年の功。
徳三郎が、店先の刀をやたら振り回したり、二人前斬れるのをくれだのと、刺身をこしらえるように言うので、こりゃあ心中だと当たりをつけ、それとなく事情を聞くと、徳三郎は隠しきれず、苦し紛れに友達のこととして話す。
親父は察した上で
「聞いたかい、ばあさん。今時の娘は利口になったもんだ。あたしたちの若い頃は、すぐ死ぬの生きるのと騒いだが……それに引きかえ、その野郎は飛んだばか野郎だ。お友達に会ったら、そんなばかな考えは止めてまじめに働いていい嫁さんをもらい、女を見返してやれとお言いなさい。それが本当の仇討ちだ」
と、それとなくさとしたので、徳三郎も思い止まったが、ちょうどその時、
「迷子やあい」
と、外で声がする。
おせつが婚礼の席から逃げだしたので、探しているところだと聞いて、徳三郎は脱兎のごとく飛び出して、両国橋へ。
お嬢さんに申し訳ないと飛び込もうとしたちょうどそこへ、おせつが、同じように死のうとして駆けてくる。
追手が追っていて、切羽つまった二人。
深川の木場まで逃げ、橋にかかると、どうでこの世で添えない体と、
「南無阿弥陀仏」
といきたいところだが、おせつの宗旨が法華だから
「覚悟はよいか」
「ナムミョウホウレンゲッキョ」
とまぬけな蛙のように唱え、サンブと川に。
ところが、木場だから下は筏が一面にもやってある。
その上に落っこちた。
「おや、なぜ死ねないんだろう?」
「今のお材木(=題目)で助かった」
【しりたい】
なりたちと演者など 【RIZAP COOK】
もとは、初代春風亭柳枝(亀吉、1813-1868)がつくった人情噺です。
長い噺なので、古くから上下、または上中下に分けて演じられることが多いです。
小僧の定吉(長松とも)が白状し、徳三郎がクビになるくだりまでが「上」で、別題を「花見小僧」。
この部分を、初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、自称三代目)が、「隅田の馴染め」としてくすぐりを付け加えて、改作しました。
その場合、小僧が調子に乗って花見人形の真似をして怒られ、「道理でダシ(=山車)に使われた」という、ダジャレ落ちになります。
それに続いて、徳三郎が叔父の家に預けられ、おせつの婚礼を聞くくだりが「中」とされます。
普通は「下」と続けて演じられるか、簡単な説明のみで省略されます。
後半の刀屋の部分以後が「下」で、これは人情噺風に「刀屋」と題して、しばしば独立して演じられています。
明治期の古い速記としては、以下のものが残っています。
原作にもっとも忠実なのは、三代目春風亭柳枝(鈴木文吉、1852-1900、蔵前の柳枝)のもの(「お節徳三郎連理の梅枝」、明治26年)。
「上」のみでは、二代目禽語楼小さん(大藤楽三郎、1848-98)のもの(「恋の仮名文」、明治23年)、初代円遊のもの(「隅田の馴染め」、明治22年)。
「下」のみでは、二代目三遊亭新朝(山田岩吉、?-1892)のもの(明治23年)、初代三遊亭円右(沢木勘次郎、1860-1924)のもの、など。
オチは、初代柳枝の原作では、おせつの父親と番頭が駆けつけ、最後の「お材木で助かった」は父親のセリフになっています。
六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の師匠)も、「刀屋」でこれを踏襲しました。
「刀屋」で、おやじが自分の放蕩息子のことを引き合いにしんみりとさとすのが古い型です。
現行では省略して、むしろこの人物を、洒脱で酸いも甘いもかみ分けた老人として描くことが多くなっています。
先の大戦後では、六代目円生のほか、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)、六代目春風亭柳橋(渡辺金太郎、1899-1979)、五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)も得意にしていました。
円生と志ん生は「下」のみを演じました。
その次の世代では、十代目金原亭馬生(美濃部清、1928-82)、三代目古今亭志ん朝(美濃部強次、1938-2001)、五代目三遊亭円楽(吉河寛海、1932-2009)のものなどが、傑出していました。
馬生の「おせつ徳三郎」では、筏に落ちたおせつが、これじゃ死ねないから水を飲めば死ねるとばかりに、水をすくい「徳や、おまえもお上がり」と終わっていました。
これはこれで、妙におかしい。
現在は、この終わり方の師匠も少なからずいます。
柳家喬太郎の「おせつ徳三郎」では、本当に心中させています。
「お材木で」のオチが流布さ尽くしたことへのはねっかえりでしょうか。
予定調和で聴いている方は裏切られます。二人の愛の昇華は心中なのでしょうし。
本当に死んじゃうのもたまにはおもしろい、というかんじですかね。
現在では、「おせつ徳三郎」といえば「下」の「刀屋」のくだりを指すことが多いです。
「上」の「花見小僧」は、ホール落語の通し以外ではあまり単独口演されません。
村松町の刀屋 【RIZAP COOK】
この噺のとおり、日本橋村松町と、向かいの久松町(中央区東日本橋一丁目)には刀剣商が軒を並べていました。
喜田川守貞の『守貞漫稿』に
「久松町刀屋、刀脇差商也。新製をもっぱらとし、又賤価の物を専らとす。武家の奴僕に用ふる大小の形したる木刀等、みなもっぱら当町にて売る」
とあります。
喜田川守貞(1810-?)は、大坂生まれ、江戸で活躍した商人。
江戸との往来でその差異に興味を抱き、風俗考証に専心しました。砂糖商の北川家を継ぎ、深川に寓居をいとなみました。
『守貞漫稿』は上方(京と大坂)と江戸との風俗や民間諸事の差異を見聞で収集分類した珍書。江戸期ならではといえます。
明治41年(1908)に『類聚近世風俗志』という題で刊行されました。岩波文庫(全5冊)でも『近世風俗志』で、まだかろうじて手に入ります。
明治41年となると、江戸の風情がものすごいスピードで東京から消え去っていた頃です。人は消えるものをいつくしむのですね。
徳三郎が買おうとしたのは、二分と二百文の脇差です。
深川・木場の川並 【RIZAP COOK】
木場の材木寄場は、元禄10年(1697)に秋田利右衛門らが願い出て、ゴミ捨て場用地として埋め立てを始めたのが始まりです。
その面積約十五万坪といい、江戸の材木の集積場として発展。
大小の材木問屋が軒を並べたました。
掘割に貯材所として常時木材を貯え、それを「川並」と呼ばれる威勢のいい労働者が引き上げて筏に組んで運んだものです。
法華の信者 【RIZAP COOK】
「お材木で助かった」という地口(=ダジャレ)オチは「鰍沢」のそれと同じですが、もちろん、この噺が本家本元です。
こうしたオチが作られるくらい、江戸には法華信者が多かったわけです。
江戸時代は「日蓮宗」と呼ばず「法華」という呼び名の方が一般的でした。
日蓮が宗祖となる宗派は、「法華経」を唯一最高の経典と尊重したからです。
天台宗も「法華経」を尊崇していましたから、天台法華宗とも呼ばれていました。
その呼称にならって、日蓮の法華宗のほうは、日蓮法華宗とも呼ばれていました。
現在のように「日蓮宗」という宗派名が使われるようになるのは、明治初年に入ってからです。
江戸時代には浄土宗とは因縁の対立(営業上の競合ともいえます)が続いていました。
題目(法華系)と念仏(浄土系)との競合は、落語や川柳でのお約束のひとつです。