臆病源兵衛 おくびょうげんべえ 演目

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その昔「臆病」というものは病気だったのでしょうか? 別題:浄行寺

【あらすじ】

「臆病源兵衛」とあだ名がつく男。

大変なこわがりで、日が暮れては戸を閉ざしてガタガタ一晩中震えているし、自分の家では夜は一人で便所にも行けない、というくらい。

退屈をもてあました近所のご隠居。

洒落心といじめ心があるので、ひとつ、この男をこっぴどく脅かしてやろうと、源兵衛の職人仲間の八五郎を抱き込み、一芝居たくらむ。

源兵衛、根は好色で、しかも独り身なので、まず隠居が嫁さんを世話してやると持ちかけた。

源兵衛が渋るのをむりやりに、夕方、自分の家に連れ込んだ。

幽霊が出そうだと、早くも震え出すのをなんとかなだめ、
「俺がここで見ていてやるから、水を汲んできてくれ」
と台所へ行かせる。

おっかなびっくり水瓶に近づくと、暗がりから八五郎の手がニューッ。

逆手に持った箒で顔をスーッとなでたからたまらず、
「ギャアーッ」

源兵衛、恐怖のあまり八五郎にむしゃぶりつき、金玉をギュッと握ったから、八五郎、目をまわした。

ところが隠居もさるもの。

少しもあわてず、これを利用して続編を考えつく。

化け物だと泣き騒ぐ源兵衛に
「ともあれ、おまえが八公を殺しちまったんだから、お上にバレりゃ、打ち首獄門だ。それがイヤなら死骸をつづらに押し込み、夜更けに高輪あたりの荒れ寺に捨ててこい」
と言う。

臆病も命には代えられない。

源兵衛、泣く泣く提灯を片手、念仏を唱えながら葛籠を背負って芝の古寺の前まで来ると、これ幸いとお荷物を軒下に放り棄て、あとは一目散。

そこへ通りかかった、品川遊廓帰りの三人組。

ふと葛籠に目を止めると、てっきり泥棒の遺留品と思い込み、欲にかられて開けてみると手がニョッキリ。

失神していた八五郎が「ウーン」と息を吹き返す。

三人、驚いたのなんの、悲鳴を上げて逃げ出した。

あたりは真っ暗闇。

八五郎は、すっかり自分が地獄へ来てしまったと思い込み、つづらからようよう這いだすと、幽霊のようにうろうろさまよい始める。

たまたま迷い込んだ寺の庭に蓮池があったので、
「ありがてえ、こりゃ極楽の蓮の花だ、ちょいと乗ってみよう」
と、さんざんに踏み散らかしたから、それを見つけた寺男はカンカン。

棒を持って追いかけてくる。

「ウワー、ありゃ鬼。やっぱり地獄か」

やっと逃げ出して裏道へ駆け込むと、そこにいたのは、なかなかいい女。

「姐さん、ここは地獄かい」
「冗談言っちゃいけないよ。表向きは銘酒屋なんだから」

底本:三代目柳家小さん

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【しりたい】

やり方 その1

原話はまったく不明で、別題は「浄行寺」。これは、源兵衛が死骸を捨てていく、芝寺町の古寺の名から取ったものです。

明治期では三代目柳家小さんと二代目三遊亭金馬(1926年没)が得意にしました。この金馬は俗に「お盆屋の金馬」。往年の爆笑王、柳家金語楼の師匠です。続いて昭和に入ってからは、八代目桂文治(1955年没)が手掛けました。

あらすじでは、明治30年(1897)の小さんの速記を参照しましたが、二代目金馬のやり方は、後半が違っていて、葛籠が置き去りにされるのは浅草寺の境内、開ける二人は赤鬼と青鬼の扮装で脅かして金をせびる物乞いになっています。

逃げ込む先は付近の人家ですが、出てきたのが地獄のショウヅカの婆さんそっくりの奇怪な老婆。八五郎は自分も白装束なので、てっきり死んだと思い込み、「ここは地獄ですか」と聞くと、「いいえ、だんな(娘)のおかげで極楽さ」というオチになります。

やり方 その2

つまり、娘が囲われ者で、母親まで楽をさせてもらっているという食い違いですが、どちらにしても初めに説明しておかないと、現在では通じません。

前半は、「お化け長屋」や「不動坊」のように、臆病者を脅かすおもしろ味がありますが、後半がこのように古色蒼然としているため、八代目文治以後はまったくすたれていたのを、十代目金原亭馬生が復活し、後者のオチで演じていました。

今度こそもう継承者はないだろうと思ったら、桃月庵白酒が2005年11月、落語研究会の高座で熱演。こうした埋もれた噺が、意欲的な若手中堅によって次々に復活されるのは頼もしいかぎりです。

銘酒屋

曖昧屋ともいい、私娼を置いた最下級の売春宿です。ゴマカシのために申し訳程度に酒を置き、女は酌婦。昭和初期まではこの呼び方が残っていたようです。戦後は「青線」と称されました。

これを「地獄宿」、女を「ジゴク」「ジゴクムス」とも呼んだため、そこの女将が勘違いをしたというのがオチです。

小さんのくすぐり

源兵衛が隠居に、事が露見すれば死罪だと脅されて、
「キンタマぁ二つあるから、おまえさんと一つずつ握りつぶしたということに……」                  (三代目柳家小さん)

【語の読みと注】
箒 ほうき
葛籠 つづら
銘酒屋 めいしゅや

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お化け長屋 おばけながや 演目

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江戸っ子は見かけとは裏腹。小心でこわがり。そんな噺。

別題:借家怪談 化け物長屋

【あらすじ】

長屋に空き店の札。

長屋が全部埋まってしまうと大家の態度が大きくなり、店賃の値上げまでやられかねない。

そこで店子の古株、古狸の杢兵衛が世話人の源兵衛と相談し、店を借りにくる人間に怪談噺をして脅かし、追い払うことにした。

最初に現れた気の弱そうな男は、杢兵衛に
「三日目の晩、草木も眠る丑三つ時、独りでに仏前の鈴がチーン、縁側の障子がツツーと開いて、髪をおどろに振り乱した女がゲタゲタゲタっと笑い、冷たい手で顔をサッ」
と雑巾で顔をなでられて、悲鳴をあげて逃げ出した。

おまけに六十銭入りのがま口を置き忘れて行ったから、二人はホクホク。

次に現れたのは威勢のいい職人。

なじみの吉原の女郎が年季が明けるので、所帯を持つという。

これがどう脅かしてもさっぱり効果がない。

仏さまの鈴がリーンと言うと
「夜中に余興があるのはにぎやかでいいや」
「ゲタゲタゲタと笑います」
「愛嬌があっていいや」

最後に濡れ雑巾をなすろうとすると
「なにしやがんでえ」
と反対に杢兵衛の顔に押しつけ、前の男が置いていったがま口を持っていってしまう。

この男、さっそく明くる日に荷車をガラガラ押して引っ越してくる。

男が湯に行っている間に現れたのが職人仲間五人。

日頃から男が強がりばかり言い、今度はよりによって幽霊の出る長屋に引っ越したというので、本当に度胸があるかどうか試してやろうと、一人が仏壇に隠れて、折りを見て鉦をチーンと鳴らし、二人が細引きで障子を引っ張ってスッと開け、天井裏に上がった一人がほうきで顔をサッ。

仕上げは金槌で額をゴーンというひどいもの。

作戦はまんまと成功し、口ほどにもなく男は親方の家に逃げ込んだ。

長屋では、今に友達か何かを連れて戻ってくるだろうから、もう一つ脅かしてやろうと、表を通った按摩に、家の中で寝ていて、野郎が帰ったら
「モモンガア」
と目をむいてくれと頼み、五人は蒲団の裾に潜って、大入道に見せかける。

ところが男が親方を連れて引き返してきたので、これはまずいと五人は退散。

按摩だけが残され
「モモンガア」。

「みろ。てめえがあんまり強がりを言やあがるから、仲間にいっぱい食わされたんだ。それにしても、頼んだやつもいくじがねえ。えっ。腰抜けめ。尻腰(しっこし)がねえやつらだ」
「腰の方は、さっき逃げてしまいました」

底本:五代目古今亭志ん生

【しりたい】

作者は滝亭鯉丈

江戸後期の滑稽本(コミック小説のようなもの)作者で落語家を兼ねて稼ぎまくっていた滝亭鯉丈(りゅうてい・りじょう、「猫の皿」参照)が、文政6年(1823)に出版した『和合人』初編の一部をもとにして、自ら作った噺とされます。当然、作者当人も高座で演じたことでしょう。

上方落語では、「借家怪談」として親しまれ、初代桂小南が東京に移したともいわれますが、すでに明治40年(1907)には、四代目橘家円蔵の速記もあり、そのへんははっきりしません。

なかなか聴けない「完全版」

長い噺で、二転三転する上に、人物の出入りも複雑なので、演出やオチもさまざまに工夫されています。ふつうは上下に分けられ、六代目円生、先代金馬など、大半は、二番目の男が財布を持っていってしまうところで切ります。

戦後、最後まで演じたのは、志ん生と六代目柳橋くらいで、志ん生も、めったにオチまでいかず、男が親方の家に駆け込んで、「幽霊がゲンコでなぐったが、そのゲンコの堅えのなんの」と、ぼやくところで切っていました。

尻腰がねえ

オチの前の「尻腰がねえ」は、東京ことばで「いくじがない」という意味です。昭和初期でさえ、もう通じなくなっていたようです。

高級長屋

このあらすじは、戦後この噺をもっとも得意とした五代目古今亭志ん生の速記をもとにしました。

登場する長屋は、落語によく出る九尺二間、六畳一間の貧乏長屋ではなく、それより一ランク上で、もう一間、三畳間と小庭が付いた上、造作(畳、流し、戸棚などの建具)も完備した、けっこう高級な物件という設定を、志ん生はしています。

当然、それだけ高いはずで、時代は、最初の男が置いていった六十銭で「二人でヤスケ(寿司)でも食おう」と杢兵衛が言いますから、寿司の「並一人前」が二十五銭-三十銭だった大正末期か昭和初期の設定でしょうか。

志ん生は本題に入る前、この長屋では大家がかなり離れたところに住み、目が届かないので古株の杢兵衛に「業務委託」している事情、住人が減ると、家主が店賃値上げを遠慮するなど、大家と店子、店子同士ののリアルな人間関係、力関係を巧みに説明しています。

貸家札

志ん生は「貸家の札」といっていますが、古くは「貸店(かしだな)の札」といい、半紙に墨書して、斜めに張ってあったそうです。

ももんがあ

按摩を脅かす文句で出てきます。ももんがあとは、ももんじいともいい、毛深く口が大きな、ムササビに似た架空の化物です。また、ムササビそのものの異称でもありました。口を左右に引っ張り、「ほら、モモンガアだ」と子供を脅しました。

リレー落語

長い噺では、上下に分け、二人の落語家がそれぞれ分担して演じる「リレー落語」という趣向が、よくレコード用や特別の会でありますが、この噺はその代表格です。

牛ほめ うしほめ 演目

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与太郎はバカなのか、稀代の風刺家なのか。いつまでたっても謎のままです。

別題: 新築祝い  池田の牛ほめ(上方) 

【あらすじ】

少々たそがれ状態の与太郎。

横町の源兵衛が痔で困っているとこぼすので
「尻に飴の粉をふりかけなさい。アメふって痔かたまるだ」
とやって、カンカンに怒らせた。

万事この調子なので、おやじの頭痛の種。

今度おじの佐兵衛が家を新築したので、その祝いにせがれをやらなければならないが、放っておくと何を口走るかしれないので、家のほめ方の一切合切、-んで含めるように与太郎に教え込む。

「『家は総体檜づくりでございますな。畳は備後の五分べりで、左右の壁は砂摺りでございますな。天井は薩摩の鶉杢(うずらもく)で。けっこうなお庭でございますな。お庭は総体御影づくりでございますな』と、こう言うんだ」

まねをして言わせてみると、「家は総体へノコづくり、畳は貧乏でボロボロで、佐兵衛のカカアはひきずりで、天井はサツマイモとウヅラマメ、お庭は総体見かけ倒しで」と、案の定、コブだらけにされそう。

しかたなくおやじがセリフをかなで書いてやる。

まだ先があって、
「これから、おじさんの土手っ腹をえぐる」
「出刃包丁で」
「ばか野郎。理屈でえぐるんだ。台所の大黒柱の真ん中に、おおきな節穴が空いていて、なんとか穴が隠れる方法はないかとおじさんが気にしている。そこでおめえが、『そんなに気になるなら、穴の隠れるいい方法をお教えましょう』と言うんだ。おじさんが『何を言ってやがる』という顔をしたら、『台所だけに、穴の上に秋葉さまのお札を張りなさい。穴が隠れて火の用心になります』。これを言やあ、感心して小遣いくらいくれる。それから、牛を買ったってえから、それもほめるんだ。『天角、地眼、一黒、鹿頭、耳少、歯合でございます』と、こう言う」

与太郎、早速出掛けて、よせばいいのに暗唱したので
「佐兵衛のカカアはひきずりで」
をそのままやってしまい、雲行きが悪くなって慌ててメモを棒読み。

なんとか牛まで済んだ。

おじさんは喜んで、
「ばかだばかだと心配していたが、よくこれだけ言えるようになった」
とほめ、一円くれる。

そのうち、牛が糞をしたので、おじさんが
「牛もいいが、あの糞には困る。いっそ尻の穴がない方がいい」
とこぼすと与太郎、
「おじさん、穴の上へ秋葉様のお札を張りなさい」
「どうなる?」
「穴が隠れて、屁の用心にならあ」

底本:三代目三遊亭小円朝

【しりたい】

元祖はバカ婿ばなし

原典は、寛永5年(1628)刊の安楽庵策伝著『醒睡笑』巻一中の「鈍副子第二十話」です。

これは、間抜け亭主(婿)が、かみさんに教えられて舅宅に新築祝いの口上を言いに行き、逐一言われた通りに述べたので無事にやりおおせ、見直されますが舅に腫物ができたとき、また同じパターンで「腫物の上に、短冊色紙をお貼りなさい」とやって失敗するものです。

各地の民話に「ばか婿ばなし」として広く分布していますが、宇井無愁は、日本の結婚形態が近世初期に婿入り婚から嫁取り婚に代わったとき、民話や笑話で笑いものにされる対象もバカ婿からバカ息子に代わったと指摘しています。、それが落語の与太郎噺になったのでしょうが、なかなかおもしろい見方ですね。

「ばか婿ばなし」の名残は、現行の落語でも「あわびのし」「舟弁慶」などにそのまま残っています。

円喬も手がけた噺

天保4年(1833)刊で初代林屋正蔵編著の噺本『笑富林』中の「牛の講釈」が、現行の噺のもとになりました。なので、九代目正蔵も、本家として大いに演っていいわけです。

一応前座噺の扱いですが、明治の名人・四代目橘家円喬の速記もあります。円喬のオチは「秋葉さまのお札をお貼りなさい」で止めていて、「穴がかくれて屁の用心」のダジャレは使っていません。さすがに品位を重んじたというわけでしょう。

なお、大阪では「池田の牛ほめ」「新築祝い」の題で演じられ、お札は愛宕山のものとなっています。東京でも、「新築祝い」で演じるときは、後半の牛ほめは省略されることがほとんどです。

「畳は備後の五分べりで……」

備後は備後畳のことで、五分べりは幅1.5センチのものです。薩摩の鶉杢(=木)は屋久杉で、鶉の羽色の木目があります。

「佐兵衛のカカアはひきずりで」

引きずりはなまけ者のこと。もともと、遊女や芸者、女中などが、すそをひきずっているさまを言いましたが、それになぞらえ、長屋のかみさん連中がだらしなく着物をひきずっているのを非難した言葉です。

秋葉さま

秋葉大権現のことで、総社は現・静岡県周智郡春野町にあります。秋葉山頂に鎮座し、祭神は防火の神として名高いホノカグツチノカミ。

江戸の分社は現・墨田区向島四丁目の秋葉神社で、同じ向島の長命寺に対抗して、こちらは紅葉の名所としてにぎわいました。

「天角、地眼……」

天角は角が上を向き、地眼は眼が地面をにらんでいることで、どちらも強い牛の条件です。

あとの「一黒、鹿頭、耳小、歯違」は、体毛が黒一色で頭の形が鹿に似て、耳が小さく、歯が乱ぐい歯になっているものがよいということです。

なお、前記宇井無愁によると、農耕に牛を使ったのは中部・北陸以西で、それ以東は馬だったので、「屁の用心」でお札を貼るのも、民話ではそれを反映して東日本では馬の尻、西日本では牛の尻と分かれるとか。

明烏 あけがらす 演目

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堅物がもてるという、廓が育む理想形。ビギナーズラック、はたまたの成功譚。

【あらすじ】

異常なまでにまじめ一方と近所で評判の日本橋田所町・日向屋半兵衛のせがれ時次郎。

今年十九だというに、いつも本にばかりかじりつき、女となれば、たとえ雌猫でも鳥肌が立つ。

今日も今日とて、お稲荷さまの参詣で赤飯を三杯ごちそうになったととくとくと報告するものだから、おやじの嘆くまいことか。

「堅いのも限度がある、いい若い者がこれでは、跡継ぎとしてこれからの世間づきあいにも差し支える」
と、かねてからの計画で、町内の札付きの遊び人・源兵衛と太助を「引率者」に頼み、一晩、吉原での遊び方を教えてもらうことにした。

「本人にはお稲荷さまのおこもりとゴマまし、お賽銭が少ないとご利益がないから、向こうへ着いたらお巫女さん方へのご祝儀は、便所に行くふりをしておまえが全部払ってしまいなさい、源兵衛も太助も札付きのワルだから、割り前なんぞ取ったら後がこわい」
と、こまごま注意して送り出す。

太助のほうはもともと、お守りをさせられるのがおもしろくない。

その上、若だんながおやじに言われたことをそっくり、「後がこわい」まで当人の目の前でしゃべってしまったからヘソを曲げるが、なんとか源兵衛がなだめすかし、三人は稲荷ならぬ吉原へ。

いかに若だんながうぶでも、文金、赭熊(しゃごま)、立兵庫(たてひょうご)などという髪型に結った女が、バタリバタリと上草履の音をさせて廊下を通れば、いくらなんでも女郎屋ということはわかる。

泣いてだだをこねるのを二人が
「このまま帰れば、大門で怪しまれて会所で留められ、二年でも三年でも帰してもらえない」
と脅かし、やっと部屋に納まらせる。

若だんなの「担当」は十八になる浦里という、絶世の美女。

そんな初々しい若だんななら、ワチキの方から出てみたいという、花魁からのお見立てで、その晩は腕によりをかけてサービスしたので、堅い若だんなも一か所を除いてトロトロ。

一方、源兵衛と太助はきれいさっぱり敵娼(あいかた)に振られ、ぶつくさ言いながら朝、甘納豆をヤケ食い。

若だんなの部屋に行き、そろそろ起きて帰ろうと言ってもなかなか寝床から出ない。

「花魁は、口では起きろ起きろと言いますが、あたしの手をぐっと押さえて……」
とノロケまで聞かされて太助、頭に血が昇り、甘納豆をつまんだまま梯子段からガラガラガラ……。

「じゃ、坊ちゃん、おまえさんは暇なからだ、ゆっくり遊んでらっしゃい。あたしたちは先に帰りますから」
「あなた方、先へ帰れるなら帰ってごらんなさい。大門で留められる」

【しりたい】

極め付き文楽十八番

あまり紋切り型は並べたくありませんが、この噺ばかりはまあ、上記の通りでしかたないでしょう。

八代目桂文楽が二ツ目時代、初代三遊亭志う雀(のち八代目司馬龍生)に習ったものを、四十数年練り上げ、戦後は、古今亭志ん朝が台頭するまで、文楽以外はやり手がないほどの十八番としました。

それ以前は、サゲ近くが艶笑がかっていたのを改め、おやじが時次郎を心配して送り出す場面に情愛を出し、さらに一人一人のしぐさを写実的に表現したのが文楽演出の特徴でした。

時代は明治中ごろとし、父親は前身が蔵前の札差で、維新後に問屋を開業したという設定になっています。

原話となった心中事件

「明烏○○」と表題がついた作品は、明和年間(1764-72)以後幕末にいたるまで、歌舞伎、音曲とあらゆるジャンルの芸能で大量生産されました。

その発端は、明和3年(1766)6月、吉原・玉屋の遊女美吉野と、人形町の呉服屋の若旦那伊之助が、宮戸川(隅田川の山谷堀あたり)に身を投げた心中事件でした。

それが新内「明烏夢淡雪」として節付けされ、江戸中で大流行したのが第一次ブーム。

事件から半世紀ほど経た文政2年(1819)から同9年にかけ、滝亭鯉丈と為永春水が「明烏後正夢」と題して人情本という、今でいう艶本小説として刊行。第二次ブームに火をつけると、これに落語家が目をつけて同題の長編人情噺にアレンジしました。

現行の「明烏」はおそらく幕末に、その発端を独立させたものでしょう。

大門で止められる

「大門」の読み方は、芝は「だいもん」、吉原は「おおもん」と呼びならわしています。

吉原では、大見世遊びのときには、まず引手茶屋にあがり、そこで幇間と芸者を呼んで一騒ぎした後、迎えが来て見世(女郎屋)に行くならわしでした。

この噺では、茶屋の方もお稲荷さまになぞらえられては決まりが悪いので、早々に時次郎一行を見世に送り込んでいます。

大門は両扉で、黒塗りの冠木(かぶき)門。夜は引け四つ(午前0時)に閉門しますが、脇にくぐり門があり、男ならそれ以後も出入りできました。

大門内に監視所があり、俗に四郎兵衛と呼ばれましたが、お上に協力して不審者をチェックする場所。

むろん「途中で帰ると大門で止められる」は真っ赤な嘘です。

甘納豆

八代目桂文楽ので、太助が朝、振られて甘納豆をヤケ食いするしぐさの巧妙さは、今も古い落語ファンの間で語り草です。

甘納豆は嘉永5年(1858)、日本橋の菓子屋が初めて売り出しました。

文楽直伝でこの噺に現代的なセンスを加味した古今亭志ん朝は、甘納豆をなんと梅干の砂糖漬けに代え、タネをプッと吐き出して源兵衛にぶつけるおまけつきでした。

日本橋田所町

現在の東京都中央区堀留町二丁目。日本橋税務署のあるあたりです。

浦里時次郎

新内の「明烏夢淡雪」以来、「明烏」もののカップルはすべて「山名屋浦里・春日屋時次郎」となっています。

落語の方は、心中ものの新内をその「発端」という形でパロディー化したため、当然主人公の名も借りています。

うぶな者がもてて、半可通や遊び慣れた方が振られるという逆転のパターンは、『遊子方言』(明和7=1770年ごろ刊)以来、江戸の遊里を描いた「洒落本」に共通のもので、それをそのまま、オチに巧みに取り入れています。

【もっとしりたい】

ご存じ、8代目桂文楽のおはこ。文楽存命中はだれもやれず、のちに志ん朝がやった。もっとうまかった。

明和3(1766)年6月3日 (一説には明和6年とも) 、吉原玉屋の花魁美吉野と、人形町の呉服太物商春日屋の次男伊之助が、白ちりめんのしごき(女性の腰帯。結ばないでしごいて使う)でしっかり体を結び合って宮戸川(隅田川の山谷堀辺) に入水した。

これが、宮戸川心中事件といわれるもの。事件をもとに、初代鶴賀若狭掾が新内「明烏夢淡雪」として世に広めた。

さらに、文政2(1819)-7年には、滝亭鯉丈と為永春水が続編のつもりで人情本『明烏後正夢』を刊行。この本の発端を脚色したのが落語の「明烏」である。以降、「明烏」ものは、歌舞伎、音曲などあらゆる分野で派生生産された。うぶな男がもてて半可通が振られるという類型は、江戸の遊里を描いた洒落本には共通のもの。

もてるもてないは、どこか宿命めいている。修行の必要などなさそうだ。(古木優)

宿屋の仇討ち やどやのあだうち 演目

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旅籠泊の「始終三人」。あんまりうるさくて武士ににらまれ。痛快なお噺です。

別題:庚申待ち 宿屋敵(上方)

【あらすじ】

やたら威勢だけはいい魚河岸の源兵衛、清八、喜六の三人連れ。

金沢八景見物の帰りに、東海道は神奈川宿の武蔵屋という旅籠にわらじを脱ぐ。

この三人は、酒をのむのも食うのも、遊びに行くのもすべていっしょという悪友で、自称「始終三人」。

客引きの若い衆・伊八がこれを「四十三人」と聞き違え、はりきって大わらわで四十三人分の刺身をあつらえるなどの大騒ぎの末、夜は夜で芸者を総あげでのめや歌え、果ては寝床の中で相撲までとる騒々しさ。

たまったものではないのが隣室の万事世話九郎という侍。

三人がメチャクチャをするたびに
「イハチー、イハチー」
と呼びつけ、静かな部屋に替えろと文句を付けるが、すでに部屋は満室。

伊八が平身低頭でなだめすかし、三人に掛け合いにくる。

恐いものなしの江戸っ子も、隣が侍と聞いては分が悪い。

しかたなくさっきは相撲の話なんぞをしていたから身体が動いちまっんたんだ、今度はお静かな色っぽい話をしながら寝ちまおうということになった。

そこで源兵衛がとんでもない自慢話。

以前、川越で小間物屋をしているおじさんのところに世話になっていた時、仕事を手伝って武家屋敷に出入りしているうちに、石坂段右衛門という百五十石取りの侍のご新造と、ふとしたことからデキた。

二人で盃のやりとりをしているところへ、段右衛門の弟の大助というのに
「不義者見つけた、そこ動くな」
と踏み込まれた。

逆にたたき斬ったあげく、ご新造がいっしょに逃げてたもれと泣くのを、足弱がいては邪魔だとこれもバッサリ。

三百両かっぱらって逃げて、いまだに捕まっていないというわけ。

清八、喜六は素直に感心し
「源兵衛は色事師、色事師は源兵衛。スッテンテレツクテレツクツ」
と神田囃子ではやしたてる始末。

これを聞きつけた隣の侍、またも伊八を呼び
「拙者、万事世話九郎とは世を忍ぶ仮の名。まことは武州川越藩中にて、石坂段右衛門と申す者。三年探しあぐねた妻と弟の仇。今すぐ隣へ踏んごみ、血煙上げて……」

さあ大変。

もし取り逃がすにおいては同罪、一人も生かしてはおかんと脅され、宿屋中真っ青。

実はこの話、両国の小料理屋で能天気そうなのがひけらかしていたのを源兵衛がそのままいただいたのだが、弁解してももう遅い。

あわれ、三人はぐるぐる巻きにふん縛られ、「交渉」の末、宿屋外れでバッサリと決定、泣きの涙で夜を明かす。

さて翌朝。

昨夜のことをケロッとわすれたように、震えている三人を尻目に侍が出発しようとするので、伊八が
「もし、お武家さま、仇の一件はどうなりました」
「あ、あれは嘘じゃ」
「冗談じゃありません。何であんなことをおっしゃいました」
「ああでも言わにゃ、拙者夜っぴて(夜通し)寝られん」

【しりたい】

二つの流れ

東西で二つの型があり、現行の「宿屋の仇討ち」は上方の「宿屋敵」を三代目柳家小さんが東京に移植、それが五代目小さんにまで継承されていました。

「宿屋敵」では、兵庫の男たちがお伊勢参りの帰途、大坂日本橋の旅籠で騒ぎを起こす設定です。

戦後、東京で「宿屋の仇討ち」をもっとも得意とした三代目桂三木助は、大阪にいた大正15年(1926)、師匠の二代目三木助から大阪のものを直接教わり、あらすじに取り入れたような独自のギャグを入れ、十八番に仕上げました。

三木助以後では、春風亭柳朝のものが、源兵衛のふてぶてしさで天下一品でしたが、残念ながら、現在残る録音はあまり出来のいいものではありません。

東京独自の「庚申待ち」

もうひとつの流れが、東京(江戸)で古くから演じられた類話「庚申待ち」です。

これは、江戸日本橋馬喰町の旅籠に、庚申待ちのために大勢が集まり、世間話をしているところへ、大切な客がやって来たことから始まり、以下は「宿屋の仇討ち」と大筋では同じです。

五代目古今亭志ん生や六代目三升家小勝が演じましたが、今は継承者がいないようです。

庚申待ち

庚申(かのえさる)の夜には、三尸(さんし)という腹中の虫が天に昇って、その人の罪過を告げるので、徹夜で宴を開き、いり豆を食べるならわしでした。もとは中国の道教の風習です。

庚申は六十日に一回巡ってくるので、年に六回あります。三尸の害を防ぐには、青面金剛や帝釈天猿田彦をまつるのがよいとされました。柴又の帝釈天が有名です。

聴きどころ

三木助版は、マクラからギャグの連続で、今でもおもしろさは色あせません。

なかでも、源兵衛らが騒ぐたびに武士が「イハチー」と呼びつけ、同じセリフで苦情を言う繰り返しギャグ、源兵衛の色事告白の妙な迫真性、二人のはやし立てるイキのよさなどは無類です。

テンポのよさ、場面転換のあざやかさは、芝居を見ているような立体感があります。

【もっと知りたい】

 「宿屋の仇討ち」には、以下の3つの型があるといわれる。

 (1)江戸型  天保板「無塩諸美味」所収の小話「百物語」が原話といわれているもの。明治期には「甲子待(きのえねまち)」「庚申待(こうしんまち)」として高座にかけられていた。明治28(1895)年に柳家禽語楼がやった「甲子待」が速記で残っている。以前は「宿屋の仇討ち」というと、この噺をさしたそうだ。げんに、大正7(1918)年に出た海賀変哲の「落語の落(さげ)」での「宿屋の仇討ち」のあらすじは、この型が紹介されている。六代目三升家小勝、五代目古今亭志ん生がやった。最近では、五街道雲助あたりがマニア向けにやるだけ。今となっては珍しい。この型は、なんといっても江戸の風俗がにおい立つ。なかなかに捨て難い。ただ、速記本を読んでも、登場するしゃれの数々が古びており、笑う前にわからない。うなるだけで先に進まない。悔しいかぎり。

 (2)上方1型 「宿屋敵(やどやがたき)」といわれるもの。兵庫の若い衆がお伊勢参りの帰りに大坂・日本橋の宿屋でひともんちゃく、という筋。これを、明治期に三代目柳家小さんが東京に持ってきた。上方から帰る魚河岸の三人衆が東海道の宿で大騒ぎ、という筋に作り変えたのだ。七代目三笑亭可楽を経て五代目小さんに伝わった。

 (3)上方2型 上方型にはもうひとつある。それが、今回取り上げた噺だ。大阪の二代目桂三木助に習った三代目三木助が、東京に持ってきて磨き上げたもの。他と比べると秀逸だ。現在「宿屋の仇討ち」といえば、ほとんどがこの型なのもうなずける。とはいえ、筋から見ればどれも大同小異ではあるが。

 3人衆が夜更けに興に乗ってがなり立てる「神田囃子」。今回はこれについて少々。

 江戸の祭囃子といったら、神田囃子だ。京都の祇園囃子、大阪のだんじり囃子と並び称される。神田明神の祭礼に奏でられるわけだが、もとは里神楽(さとかぐら)の囃子から出たもの。享保(1716-36)年間に葛西(葛飾区あたり)で起こった「葛西囃子」がネタ元だという。葛西の代官が地元の若者の健全育成をねらって香取明神の神主と図り、神楽の囃子を作り変えたものだという。ものの起こりは「大きなお世話」からだったわけ。

 「和歌囃子」、転じて「馬鹿囃子」などともいわれた。ローカルな音だった。葛西囃子が、天下祭といわれる幕府公認の祭である「山王祭」や「神田祭」に出演していった。烏森のギター弾きが、いきなり国際音楽祭に参加するようなもの。その結果、葛西囃子の奏法が江戸の方々に広まった。それが神田囃子として普遍化していったのだ。

 権威と様式はあとからついて回るもので、明治末期まで、神田大工町には神田囃子の家元と称する新井喜三郎家があったという。

 大太鼓(大胴)1、締太鼓(シラベ)2、篠笛(トンビ)1、鉦(ヨスケ)1の5人一組で構成される。一般に演奏される曲式には「打ち込み」「屋台」「聖天」「鎌倉」「四丁目」がある。これらを数回ずつ繰り返してひとつづりに演奏する。さらには、「神田丸」「亀井戸」「きりん」「かっこ」「獅子」といった秘曲もある。概して静かな曲が多いのだが、「みこし四丁目」などは「すってんてれつく」のにぎやかな調子。これを深夜にやられたのではいい迷惑だ。

 神田囃子の数々は、小唄、端唄、木遣、俗曲などに大なり小なりの影響を与えている。その浮き立つような心地よい調子は、落語家の出囃子、あるいは大神楽などで時折、耳に飛び込んでくる。押しも押されぬ江戸の音である。(古木優)