やんまきゅうじ【やんま久次】演目

三遊亭円朝の弟子の三遊一朝から林家彦六へ。しばらくの空白期を経て、いまでは雲助が復活させました。

別題:大べらぼう

【あらすじ】

番町御廐谷の旗本の二男、青木久次郎。

兄貴がいるので家督は継げず、他家に養子にも行けずに無為の日々を送るうち、やけになって道楽に身を持ち崩し、家を飛び出して本所辺の博打場でトグロを巻いている。

背中一面に大やんまのトンボの刺青を彫ったので、人呼んで「やんま久次」。

今日も博打で負けてすってんてんになり、悪友の入れ知恵で女物の着物、尻をはしょって手拭いで頬かぶりというひどいなりで、番町の屋敷へ金をせびりにやってくる。

例によって用人の伴内に悪態をつき、凶状持ちになったので旅に出なくてはならないから、旅費をよこせと無理難題。

どっかと座敷に座り込み、酒を持ってこいとどなり散らす。

ちょうど来合わせたのが、兄弟に幼いころ剣術を教えた、浜町で道場を営む大竹大助という先生。

久次がお錠口でどなっているのを聞きつけ、家名に傷がつくから、今日という今日は、あ奴に切腹させるよう、兄の久之進に勧める。

老母が久次をかわいがっているので、自分の手に掛けることもできず、今まではつい金をやって追い払っていた兄貴も、もうこれまでと決心し、有無を言わせず弟の首をつかんで引きずり、一間にほうり込むと、そこには鬼のような顔の先生。

「これ久次郎。きさまのようなやくざ者を生けおいては、当家の名折れになる。きさまも武士の子、ここにおいて潔く腹を切れ」

さすがの久次も青くなり、泣いて詫びるが大助は許さない。

そこへ母親が現れ、
「今度だけは」
と命乞いをしたので、やっと
「老母の手前、今回はさし許すが、二度とゆすりに来るようなことがあれば、必ずその首打ち落とす」
と、大助に釘をさされて放免された。

いっしょに帰る道すがら。

大助は、
「実はさっきのはきさまを改心させるための芝居だった」
と明かし、三両手渡して、
「これで身支度を整え、どこになりと侍奉公して、必ず老母を安心させるように」と、さとす。

久次も泣いて、きっと真人間になると誓ったので、大助は安心して別れていく。

その後ろ姿に
「おめっちの道楽といやあ、金魚の子をふやかしたり、朝顔にどぶ泥をひっかけたり、三道楽煩悩のどれ一つ、てめえは楽しんだことはあるめえ。俺の屋敷に俺が行くのに、他人のてめえの世話にはならねえ。大べらぼうめェ」

【しりたい】

江戸の創作落語  【RIZAP COOK】

伝・初代古今亭志ん生(1809-56)作。元の題は「大べらぼう」。三遊亭円朝の人情噺「緑林門松竹」の原話となったものに、芝居噺「下谷五人盗賊」があります。その中の「またかのお関」のくだりに、やんま久次郎が端役で登場しています。五人という人数合わせのための作為で、筋との関連はなく、のちに削除されています。

円朝門下の三遊一朝老人から、八代目林家正蔵(彦六)に直伝され、戦後は正蔵の一手専売でした。彦六は昭和57年(1982)に逝きました。その後は手掛ける者がありませんでしたが、平成6年(1995)に五街道雲助が復活させました。

彦六懐古談  【RIZAP COOK】

この噺、前述のようにもとは長編人情噺でした。この続きがあったと思われますが、不明です。

「このはなしを一朝おじいさんがやって、円朝師匠にほめられたそうです。『私はおまえみたいに、ゆすりはうまくやれないよ』といって……(中略)最後は『おおべらぼうめー』といって、昔は寄席の花道へ引っ込んだものです。『湯屋番』でこの手を遣った人がいましたね。『おまえさんみたいな人はいらないから出ていっとくれ』『そうかい、おれもこんなおもしろくねえところにはいたかねえ』といって、花道を引き上げるんです」

(八代目林家正蔵談)

「やんま」は遊び人のしるし  【RIZAP COOK】

やんまは「馬大頭」と書きます。やんまには隠語で「女郎」の意味があり、女郎遊びを「やんまい」「んやまい」などとも称しました。久次郎のやんまの刺青は、それを踏まえた、自嘲の意味合いもあったのでしょう。

怪人「べらぼう」  【RIZAP COOK】

江戸っ子のタンカで連発される「ベラボーメ」。ベラボーは、「ばか野郎」と「無粋者(野暮天)」の両方を兼ねた言葉です。万治から寛文年間(1658-72)にかけて、江戸や大坂で、全身真っ黒けの怪人が見世物に出され、大評判になりましたが、それを「へらぼう」「べらぼう」と呼んだことが始まりとか。言い逃れ、インチキのことを「へらを遣う」と呼んだので、その意味も含んでいるのでしょう。

三道楽煩悩  【RIZAP COOK】

飲む、打つ、買うの三道楽。「さんどら」の「どら」は「のら」(怠け者)からの転訛です。「ドラ息子」の語源でもあります。

お錠口  【RIZAP COOK】

武家屋敷の表と奥を仕切る出入り口です。杉戸を立て、門限以後は錠を下ろすのが慣わしでした。

御厩谷  【RIZAP COOK】

東京都千代田区三番町、大妻学院前バス停付近の坂下をいいました。近接の靖国神社北側一帯が幕府の騎射馬場御用地であったことにちなみます。付近はすべて旗本屋敷でしたが、「青木」という家名はむろん架空です。

【語の読みと注】
御廐谷 おんまやだに
三道楽煩悩 さんどらぼんのう
緑林門松竹 みどりのはやしかどのまつたけ

【RIZAP COOK】

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せいしょうこうさかや【清正公酒屋】演目

落語版「ロミオとジュリエット」。だから、やっぱり陽気なんです。

別題:縁結び浮き名の恋風

あらすじ

酒屋の肥後屋の若だんなで一人息子の清七と、向かいの菓子屋・虎屋の娘お仲は恋仲だが、両家は昔から仲が悪く、二人は許されない恋。

それというのも、もともと宗旨が一向宗と日蓮宗、商売が酒と饅頭で、上戸と下戸。

すべての利害が対立している上、肥後屋は清正公崇拝で、その加藤清正は毒饅頭で暗殺されたという俗説があるから、なおさらのこと。

もう一つ、虎屋だけに、虎退治の清正とは仇同士。

というわけで、とんだロミオとジュリエットだが、この若だんな、おやじの清兵衛に、お仲を思い切らないと勘当だと、脅かされてもいっこうに動じない。

勘当はおやじの口癖で聞き飽きているし、こっちは跡取りで、代わりがいないというバーゲニングパワーもある。

思い切れませんから勘当結構、さっそく取りかかりましょうと開き直られると、案の定おやじの旗色が悪い。

結局、お決まりで番頭が中に入り、清七の処分は保留、「未決」のまま、お仲から隔離するため、親類預けということになった。

そうなると虎屋の方も放ってはおけず、お仲も同じく親類預け。

二人は哀れ、離れ離れで幽閉の身に。

ところが抜け道はあるもので、饅頭屋のお手伝いと、酒屋の小僧の長松が、こっそり二人の手紙を取り次ぐ手はずができた。

ある日、お仲から、夜中にそっと忍んで来てくれという手紙。

若だんなは勇気百倍、脱走して深夜、お仲を連れ出す。

結局駆け落ちしかないというので、二人は手に手を取って夜霧に消えていく。

しかし、しょせん添われぬ二人の仲。

心中しようと決まり、ここで梅川忠兵衛よろしく、
「覚悟はよいか」
「南無阿弥陀仏」
とくればはまるのだが、あいにく男の宗旨は法華(日蓮宗)。

「覚悟はよいか」
「南無妙法蓮華経」
……いやに陽気な心中となった。

ナムミョウホウレンゲッキョウナムミョウホウレンゲッキョと蛙の交配期のようにデュエットし、にぎやかに水中へドボン……その時突如、ドロドロと怪しの煙。

ここで芝居がかりになり、
「やあ待て両人、早まるな」
「こはいずこの御方なるか」
「おお、我こそはそちが日ごろ信心なす、清正公大神祗なるぞ」
「ちぇー、かたじけない。この上は改宗なしたる女房お仲の命を助けてくださりませ」
「イヤ、たとい改宗なしたりとも、お仲の命は助けられぬわ」
「そりゃまた、なぜに」
と聞くと清正、ニヤっと笑って
「なあに、オレの敵の饅頭屋だから」

底本:六代目桂文治

しりたい

宗派対立  【RIZAP COOK】

江戸時代の基本的な知識として、法華系(日蓮宗など)と念仏系(浄土宗、浄土真宗、時宗など)との宗派同士の対立がつねにあった、ということです。江戸の町内でもことあるごとに諍いが絶えませんでした。これは、念仏系では穢土と浄土との二元的な救われ方に比べて、法華では法華経以外では絶対救われないという一元的な見方が原因です。お互い、相容れられない考え方なのです。

清正公さま  【RIZAP COOK】

せいしょうこうさま。縮めて「セイショコさま」とも呼んでます。戦国時代の英傑・加藤清正の霊を神として祀ったものです。武運・金運をつかさどりますが、清正が法華宗の信徒だったところから法華(日蓮宗)信者の信仰を集めました。江戸はほかの地方に比べて法華の宗旨が多く、「法華長屋」「甲府い」「鰍沢」「おせつ徳三郎」「小言幸兵衛」など、落語にも法華の登場する噺はたくさんあります。

江戸の清正公(清正公神祇、清正公大神祇)は2か所あります。

一つは浜町の清正公で、現在の中央区日本橋・浜町公園内。寺の名前は「清正公寺」といいます。意外に新しく、文久元年(1861)の創建です。この地には熊本藩細川家の下屋敷がありました。藩主細川斎護が熊本の本妙寺に安置する「加藤清正公」を勧請(神仏霊のおすそわけ)して分霊とし、下屋敷内に清正公として祀りました。明治になってからは「加藤神社」と称した時期もありましたが、明治18年(1885)に「清正公堂」と改められて、管理を本妙寺に委託しました。関東大震災で焼失し、震災後につくられた浜町公園内に移されました。戦災でもまたも焼失して、戦後、新たに再建されました。この噺に登場するのはこちらです。「浜町の清正公さま」のほうです。おまちがいのなきよう。

もう一つは港区白金の覚林寺境内に祀られる「白金の清正公」で、こちらが本家とされます。清正の画像、ゆかりの品を所蔵していますが、こちらも細川家の白金の中屋敷がすぐ近くで、同家は清正の加藤家が国替え(のちお取りつぶし)後、後釜に肥後熊本に封じられたため、清正の霊を慰める意味もあり、清正公神祇を手厚く庇護したといいます。

中世に形成された神仏習合の流れに、「法華神道」といわれる信仰がありました。日蓮宗の教えと神道が結びついた信仰形態です。崇める対象に日本の神さまや人物が入ってきますが、その中に清正公神祇がありました。寺院の境内の中に祠をこさえ、柏手を打って祈るのです。江戸時代の平和な時間の中で「清正公さま」はこのような形に収まっていきました。慶応4年(1868)3月、明治政府は神道国教化の一環として、神仏判然令を出し、神仏分離を急速に推し進めました。それまでの日本国内にはたしかに、神仏が融合したよくわからない神社仏閣がたくさんあったのですが、政府の方針は短兵急でした。この流れの中で、浜町の清正公さまは神社になったり寺院になったりと、揺れ動いたのですね。

暗殺伝説に由来する噺  【RIZAP COOK】

豊臣家の支柱であった加藤清正が慶長16年(1611)、徳川家康の手により、毒饅頭(毒酒説も)で暗殺されたという俗説に基づいて作られた噺です。オチは文字通りダジャレで、アン殺されたから饅頭が天敵、というわけ。このフレーズ、ドラマ「タイガー&ドラゴン」でも使われてました。

明治期に六代目桂文治が「縁結び浮き名の恋風」の題で得意にしました。この題名は、芝居噺が得意だった文治が、後半の道行きの部分を芝居噺仕立てにしたためです。その後八代目文治、四代目柳家つばめ、戦後も六代目三升家小勝が手掛けましたが、其の後は立川談志が手掛けたぐらいで、残念ながら忘れられかけた噺といっていいでしょう。なんせこの噺、かつての「東京かわら版」発行の『寄席演芸年鑑』索引にも「せ」でなく、「き」の部で載っていたくらいですから。

お題目のデュエット  【RIZAP COOK】

心中場面のこのくすぐりは、「おせつ徳三郎」「小言幸兵衛」にも取り入れられています。どれが「本家」かはわかりませんが。

【語の読み】
清正公 せいしょうこう
本妙寺 ほんみょうじ
覚林寺 かくりんじ

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