据え膳はいただくにかぎる、というご教訓なんでしょうかね?
別題:槌の音
【あらすじ】
七代将軍家継が幼くして急死し、急遽、次代の将軍を決めなければならなくなった。
候補は尾州侯と紀州侯。
どちらを推す勢力も譲らず、幕閣の評定は紛糾。
ある朝、尾州侯が駕籠で登城する途中、遠くから鍛冶屋が
「トンテンカン、トンテンカン」
と槌を打つ音。
それが尾州侯の耳には
「テンカトル、テンカトル」
と聞こえた。
これは瑞兆であるとすっかりうれしくなったが、最後の大評定の席では、大人物であることをアピールしようと、
「余は徳薄く、将軍の任ではない」
と辞退してみせる。
むろん、二度目に乞われれば、
「しかしながらァ、かほどまでに乞われて固持するのは、御三家の身として責任上心苦しい。しからば天下万民のため……」
ともったいぶって受ける算段。
ところがライバルの紀州侯、やはり同じように
「余は徳薄くして……」
と断ったまではよかったが、その後すぐに
「しかしながらァ」
ときたので、尾州侯は仰天。
「かほどまでに乞われて固持するのは、御三家の身として責任上心苦しい。しからば天下万人のため」
と、自分が言うつもりのセリフを最初から言われてしまい、あえなくその場で次期将軍は紀州侯に決まってしまった。
野望がついえてがっかりした尾州侯、帰りに同じ所を通りかかると、また鍛冶屋が
「テンカトル、テンカトル」
ところが親方が焼けた鉄に水をさして、
「キシュー」
底本:六代目三遊亭円生
【しりたい】
『甲子夜話』の逸話
『甲子夜話』(文政4=1821年刊)・第十七巻にある逸話です。作者は、平戸藩主で、文人大名として名高かった松浦静山(まつら・せいざん、壱岐守。1760-1841)。
六代目円生が受け継ぐ
明治から大正にかけて、五明楼国輔が得意にしていたのを、六代目三遊亭円生が直伝で受け継いだ噺です。
七代将軍家継
没は享保元年(1716)旧暦4月30日。数え八歳。法号は有章院。その「治世」は側用人・間部詮房と新井白石の補佐によったもので、「正徳の治」と呼ばれます。
尾州侯
尾張藩第六代・徳川継友。名前からして「ツギテエ」で、権力欲の権化のような感じですが、八代将軍吉宗となった紀州侯への怨念はせがれの代まで尾を引きます。
継友が享保15年(1730)に憤死した後、嗣子の宗春は吉宗の享保改革による倹約令を無視して、藩内に遊郭の設置、芝居小屋の常時上演許可など、やりたい放題やったため、ついに逆鱗に触れて、元文4年(1739)、隠居謹慎を命じられました。
御三家でなければ、とうにお家は断絶、その身は切腹だったでしょう。
英国では成功例
権力を奪取する際、すぐ飛びついてはあまりに露骨なので、一度辞退してみせ、周りの者に無理やり薦められる形で「いやいやながら」という姑息な「手続き」を踏むのは洋の東西を問わないようです。
シェイクスピアの「リチャード三世」でも、主人公が王位を簒奪するとき、腰巾着のバッキンガム公と「余は予定通り、女の子のようにいやだいやだと言うから、あとはそちたちが無理やり頼み込んでくれ」と、陰謀をめぐらします。
尾州侯と違って、こちらは対抗馬をみんな片付けた後ですから、この作戦は大成功でした。