地獄の学校 じごくのがっこう 演目

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なんとも不思議な。こんな学校、あっても行きたくないし。

【あらすじ】

深川六間堀に住む、紺屋の正直六兵衛。

昨夜、酔ったはずみで商売物の緑青を飲んでしまい、気がついた時は、もう六道の辻。

道連れになった坊さんに、極楽に行く道はどこか教えてくれと頼むと、拙僧もよくわからないと言う。

そこへ鬼がやってきて、二人はたちまち閻魔大王の前に引き出される。

まず坊さんが、シャバの行状を映しだす浄玻璃(じょうはり)の鏡にかけられると、いや、悪行が映るわ映るわ、朱の衣も何もきれいにほうり出し、芸者を揚げて酒池肉林のドンチャン騒ぎ。

たちまち、地獄墜ちと決まった。

次は六兵衛の番。

震えて、自分はシャバでは正直六兵衛と異名を取り、嘘は一度もついたことがないから、どうぞ、極楽へやってくれと頼むが「黙れ。その方は紺屋。紺屋のあさってと申し、染物がいつできますと聞かれるといつもあさってと申す。嘘ばかりついているではないか」

形勢が悪いところへ、十大王の一人が、それは商売上しかたないので、この者が悪いのではないし、赤鬼や青鬼の服もだいぶ近ごろ色褪せてきているから、紺屋が来たのを幸い、これを染め替えさせよう、と助け船。

三日だけ地獄で仕事をすれば、極楽へ上げてやると言われて、六兵衛は大喜び。

その間にも、いろいろな亡者が来る。

ガラッ八という博打打ちが連れてこられ「マゴマゴしゃあがると土手っ腹蹴破って鉄の棒を突っ通し、鬼の漬け焼きをこしれえるぞ」と啖呵を切って暴れるので、鬼どもが怒ってぶち生かしてしまったりする騒ぎの後、六兵衛は六道銭一枚もらって、地獄の盛り場の賽の河原で遊んでこいと言われ、喜んで地獄見物。

河原には芝居小屋や寄席が所狭しと並び、大賑わい。

死んだ名優や大真打ちがすべて出演している。

そのうち河原学校という看板が見えたので入っていくと、子供がぞろぞろいて、先生は石の地蔵様。

地蔵が黒板に字を書いて、生徒に読ませる。

「そもそも地獄の数々は、一百三十六地獄、あまねく人の聞き知るは、阿鼻獄、堕地獄、阿鼻焦熱、熱鉄地獄修羅地獄、凍渇地獄針の山。オーライ芸者の水転も、見る目嗅ぐ鼻拘引し、処刑は拘留一週間」

カンカンと鐘が鳴り、授業終わり。

地蔵「無常の鐘が鳴ったから、枕飯にしよう」

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底本:初代三遊亭金馬(のち二代目小円朝)

【うんちく】

明治の新作

具体的な原話は不詳ですが、明治中期の新作で、地獄めぐりを題材にした安永3(1774)年刊の滑稽本「針の供養」や、同じ明治に初代三遊亭円遊が改作した同趣向の「地獄八景(地獄旅行)」などを種本にして作られた噺と思われます。

明治33年(1900)の初代三遊亭金馬(のち二代目小円朝)の速記が唯一の口演記録ですが、同人の作かどうかはわかりません。

娑婆の教科書のパロディー

この学校で使われている、「そもそも地獄の数々は……」で始まる教材を地蔵先生は「八方奈落国尽」と説明しています。

「奈落」は芝居用語ですが、もともと地獄のこと。「国尽くし」は、諸国の名前を列挙して子供に朗唱させて覚えさせるための教材です。

江戸時代の寺子屋の教科書として、「日本国尽」などさまざまな「国尽くし」が作られていました。

明治2年(1869)、福沢諭吉が『世界国尽』を刊行。仮名垣魯文(1829-94)がその翌年、『苦界ふみ尽し』としてこれをパロディ化しました。

この地獄版国尽くしは、それらの民衆(児童)教化本のそのまたパロディで、始めは地獄の数々について述べていますが、ごらんの通りだんだん怪しくなり、あらすじでは略しましたが、途中の「ひっぱりぢごく、旅ぢごく、淫売ぢごくの常として」あたりから、最下級の女郎を「地獄」と呼ぶことにからめて、だんだんげびたものになってきます。

明治の娼妓規制を反映

朗唱の終わりの「処刑は拘留一週間」には、明治6年に東京府知事により、「貸座敷渡世規制」「娼妓規制」「芸妓規制」が立て続けに発布され、私娼や芸者らの「個人営業」の売春を厳しく取り締まることになった背景があります。

以後、売春は個人・業者共に鑑札制になり、そうした稼業の者を市内数カ所に集め、いわゆる「赤線地帯」が設けられました。

また「水転」は、誰とでも関係を持つ芸者を嘲っていう言葉です。

「オーライ」も同じで、往来で「交渉」することと、英語をもじって「ダレでもOK]とが掛けられています。

浄玻璃の鏡

シャバにおける亡者の善悪の行為を、すべて映し出す鏡。人は死ぬ間際に、自分の一生をあますところなく鮮やかに思い出すといわれますが、そのことの象徴でもあるのでしょう。今なお評価の高い中川信夫監督の『地獄』(1960)でも、効果的に使われていました。

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きな粉のぼた餅 きなこのぼたもち 演目

【RIZAP COOK】

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明治期にできた落語。小説にでもなりそうな好編です。

【あらすじ】

二人の車屋。

居酒屋で一杯やりながら、同じ車屋仲間だった喜六という男のことを噂しあっている。

なんでも、コツコツためた黄金を同業者に高利で貸し付け、自分は食うものも食わずに倹約して大金をため込んだが、栄養失調で先ごろ、おっ死んでしまったとのこと。

細君はその金を、物好きにもそっくり寺へ寄付するつもりらしいというので、世の中にはもったいないことをする奴があるものだと、二人してため息ばかり。

話変わって、喜六の家。

女房が、義弟の届けてくれたぼた餠を仏壇に供え、お灯明を上げているところへ、菩提寺の谷中瑞林寺の者だと言って、一人の坊さんが訪ねてくる。

坊さんが言うには、
「昨夜、住職の夢枕に喜六が立ち、自分は非道に金を貯めて、施しということをしなかった報いで地獄におち、たいそう苦しんでいるので、なんとか救ってほしいと、泣きながら訴えたから、住職もあわれに思い、法事をしてあげようと言うが、その費用に百円ほどかかるので、奥方から受け取ってこいと言いつけられた」
という。

女房もちょうど寺に金を納めようと思っていたところなので、それで亭主が浮かばれるならと、
「今、金を取ってきますのでそれまでの間」
と、坊さんにきな粉のぼた餠を出す。

これは喜六の弟の錺職人の銀次郎が、兄の好物だったので手作りして届けたもの。

ところが、坊さん、ぼた餠を食べると、急に腹痛で七転八倒。

あわてて長屋の者を呼び、医者が駆けつけたりで大騒ぎ。

中毒だと容易ならぬことだと月番が警察に届け、まもなく関係者一同の尋問が始まる。

ほかの者が食べてもなんともなかったのに、なぜこの坊主だけがあたったのかも不思議。

銀次郎が呼ばれたが、これはシロ。

そもそも、死人が夢枕に立ったという話が怪しいと、オイコラ警官は当たりをつけ、瑞林寺に問い合わせると、そんな話はないというので、病人がニセ坊主だと知れた。

この男、実は縁日の露天商で南京鼠売りで、居酒屋で車引きの話を小耳にはさみ、坊主に化け込んで金をかたり取ろうとしたことを白状したので、これにて一件落着。

「ハァ、鼠売りか。これで、このぼた餠にあたった原因がわかったぞ」
「そりゃ、どういうわけで?」
「今、本官が食べたら、きな粉がみんなネコ(寝粉=古い粉)だったわい」

底本:二代目三遊亭小円朝

【RIZAP COOK】

【しりたい】

明治後期の新作

明治32年(1899)の初代三遊亭金馬、のちの二代目小円朝の速記が残るのみで、その後の口演記録はありません。同時期の金馬自身の新作と思われますが、詳細ははっきりしません。

人力車事始

和泉要助ら三人が官許を得て、明治3年(1870)に製造に取りかかり、改良を加えて明治8年(1875)ごろ、完成品ができました。車輪は当初は木製、のち鉄製、さらにゴム製に。そのころから、早くも東南アジア方面に「リキシャ」の名で輸出され始めました。全盛期には全国で3万台以上を数えましたが、関東大震災を境に、ほとんど姿を消しました。

明治大正時代には、落語家も大看板ともなると、それぞれお抱えの車引きを雇います。売れっ子の初代三遊亭(鼻の)円遊の抱え車屋があまりのハードスケジュールに、血を吐いて倒れたというエピソードまであります。

南京鼠売り

中国産の二十日鼠をペット用に売るもので、明治中期から後期にはけっこうはやりました。南京鼠は体長は6-7cmで、独楽鼠もその一品種です。

谷中瑞林寺

台東区谷中4丁目にあります。日蓮宗の古刹です。天正19年(1591)、身延山第十世・滋雲院日新が日本橋馬喰町に開基しました。慶安2年(1649)、現在地に移転。明治の元勲、井上毅の墓所があります。

安政ぼた餅殺人事件

岡本綺堂(1872-1939)は「半七捕物帳」の作者としてよく知られていますが、「二十九日の牡丹餅」というサスペンス短編があります。

この作品は、ペリー艦隊再来航直後の安政元年(1854)旧暦7月、江戸市中に実際に飛び交った流言を題材にしたものです。安政元年は7月の翌月が閏7月。その流言とは、夏の閏月は残暑が厳しく、疫病も発生しやすいところから、晦日の7月29日にきな粉のぼた餅を食えば、暑気あたりを防げるというものでした。

ただし、それを他家に配ってはならず、家族や親類、奉公人などの身内で残らずその日のうちに食べつくすべし、という、ご親切な尾ひれ付き。

これを人々が真に受け、ぼた餅パニックが発生。

米屋ではもち米が品切れ、粉屋からはきな粉が消えました。自家で作れなくなった市民がぼた餅屋に殺到し、江戸中捜し歩いても、ことごとく売り切れ。

この、まじないめいた流言が、なにかの俗信に基づくものか、また、なんらかの根拠があったのかはわかりません。

小説では当日、清元の女師匠の家で食べたぼた餅で、パトロンのだんなが中毒死。そこから発生する連続殺人事件を、綺堂は落日の江戸を背景に、情味濃く描いています。

殺人事件その後

原作者の綺堂も作中で「安政元年」と言っているのですが、実は、安政改元はその年の旧暦11月27日(1855年1月15日)で、厳密に言えば7月、閏7月の時点では、まだ嘉永7年です。

文中の7月29日は、1854年8月22日に当たりますが、調べてみると、この月はもう一日、30日があり、29日で終わっているのは、翌月の「閏7月」です。したがって、29日を「晦日」としたのは誤りでした。失礼いたしました。トリビアルにいえばこのタイトルも「嘉永ぼた餅殺人事件」と変えなければなりません。

岡本綺堂でさえ誤るのですから、旧暦と新暦の換算、西暦との整合はややこしく、たとえば機械的に「安政元年=1854年」とやると、同年旧暦11月13日から、もう西暦では1855年に入っているため、場合によって、とんだ間違いを生じることになります。

さらにいえば、もうひとつ。

これも文中で、「夏の閏月」と書きましたが、旧暦の季節で言うと7月はもう秋、ということになります。現代感覚から言いますと、盛夏のさ中に変わりなく、秋とするとかえってややこしくなりますので、あえて「夏」で通したことをお断りします。

【語の読みと注】
錺職人 かざりしょくにん
独楽鼠 こまねずみ

【RIZAP COOK】

くしゃみ講釈 くしゃみこうしゃく 演目

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胡椒は南蛮渡来の高級品ながら、知られた調味料だったんですね。

別題:音楽会(改作) くしゃみ義太夫(改作)

【あらすじ】

ある講釈師の先生。

芸はたいしたことはないくせに気位ばかり高く、愛想がないので、町内の常連に嫌われている。

なにしろ、道で会うと、あいさつ代わりに頭をそっくり返らせるし、出番の時、客が寝ていると
「講釈が読みにくいっ。それほど眠たきゃ家へ帰って寝たらよかろう」
と嫌味を言って恥をかかせる。

そんなこんなで堪忍袋の緒が切れた二人組、どうにかして講釈が読めねえように妨害してやろうと相談した。

ぶん殴るのはたやすいが、芸人を殴ってもこっちが笑われる。

それより、高座の前にかぶりつきで陣取り、落語家と違って講釈師は釈台という机を置いているから真下が見えないのを幸い、胡椒の粉を下から一斉にぶっ放せば、きっとそいつを吸い込んで、むせてくしゃみが出て講釈が読めなくなる。

そこで、
「先生、この前は寝ていてすまねえことをした。こういううまい講釈は聞いてられねえから、おらァ帰る」
と立って、あと四、五人抱え込んでいっしょに立ち上がれば、高座はメチャクチャ。

それで意趣返しするという趣向。そこでみんな胡椒を買い込み、夜になると予定通り講釈場へ乗り込む。

そうとは知らない先生、例の通り張り扇で釈台バタバタたたき、
「……時は何時なんめり元亀三年壬甲の年十月十四日、武田晴信入道信玄、其の勢三万五千余人を引率して甲府を雷発に及び、遠州周知郡乾の城主天野宮内左衛門景連、蘆田下野守、この両人を案内者とし、先手山県三郎兵衛昌景に五千余騎を差し添えて、同国飯田、多々羅の両城攻めかかる……」
と、三方ケ原の戦いを読み始めた。

「……これぞ源三位兵庫頭政入道雷円の御胤、甲陽にて智者の聞こえある……」
「それっ、やっつけろ」

そろそろ潮時とばかり、一人の合図で一斉に胡椒を扇で口座に扇ぎ上げる。

「……その下に黒糸おどしの大鎧、同じ毛五枚しころ、金の向い兎の前立打ったる兜を猪首にいか物づくりの太刀を横たえ、黒……ハックシ、羅紗の陣……ハクショ……黒唐革のサイハイハックシ、これではハックシ、とてもクシュッ、講釈はハックシ、よめまハクション、せん、今晩はこれで御免を」
「やい、ハックシハックシやりゃあがって。唾がはねたじゃねえか、まぬけ。明日は用があるから来られねえ。今夜中に戦の決着ゥ付けろい」
「だめです。外からコショウ(故障)が入りました」

底本:二代目三遊亭小円朝

【しりたい】

胡椒と日本人

胡椒の日本伝来は古く、平安時代初期にさかのぼるとか。もちろん、シルクロードから唐に伝来したもののおこぼれを遣唐船あたりが持ち帰ったのでしょう。

その後、室町時代には、中国(明)経由でさかんに輸入され、主に僧坊で、精進料理の薬味として使われました。

江戸期に入ると、鎖国令が出るまでの間、ポルトガル船やオランダ船、スペイン船などが大量に持ち込み、いっそう普及しました。

鎖国となると、胡椒の輸入量は減り、その代用品として七色唐辛子が普及しました。

平戸藩主の松浦鎮信(1549-1614)が、オランダ貿易を平戸に誘致するために、慶長14年(1609)、胡椒を買い占め、そのため相場が高騰したとか。

近松門左衛門(1653-1724)の浄瑠璃中の詞章に「本妻の悋気とうどんに胡椒はお定まり」とあります。

正徳3年(1713)3月初演の歌舞伎十八番「助六」でも、主人公が出前のうどんにたっぷり胡椒をふった上、くゎんぺら(かんぺら)門兵衛の頭にぶちまける場面があります。

当時はこうした食べ方が一般的だったのでしょう。

胡椒丸のみ

江戸には、うろ覚えを意味する「胡椒丸のみ」という俚諺がありました。胡椒もかまずに丸のみしてはその辛さがわからないところから、物事をよく咀嚼、理解していないさまを言います。

初代春団治の十八番

本来は上方落語で、「くっしゃみ講釈」の題で親しまれました。「芸のためなら女房も泣かした」、初代桂春団治のお得意で、レコードも残されています。

春団治は「胡椒のこ」と言っていますが、なるほど、これを聞くと、大阪人がしかつめらしい軍談講釈(師)を生理的に嫌ったのがよくわかります。

上方のやり方は、胡椒が売り切れていたので唐辛子粉をふりまき、「なんぞ、私に故障(=落ち度)があるのですか」「胡椒がないから、唐辛子をくべたんや」とオチになります。

桂米朝、桂春団治ら、多くの演者が手がけてきました。

東京では三代目三遊亭金馬が得意にしていましたが、金馬没後は、ほとんどオチは大阪通りになっています。

改作として、二代目三遊亭円歌の「くしゃみ義太夫」、六代目春風亭柳橋の「音楽会」があります。

あくび指南 あくびしなん 演目

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あくびの稽古譚。じつにまあ、くだらないお噺で。

別題:あくびの稽古(上方)

【あらすじ】

町内の、もと医者が住んでいた空家に、最近変わった看板がかけられた。

墨黒々と「あくび指南所」。

「常盤津や長唄、茶の湯の稽古所は聞いたことがあるが、あくびの稽古てのは聞いたことがねえ、金を取って教えるからにゃあ、どこか違っているにちがいないから、ちょいと入ってみようじゃねえか」
と、好奇心旺盛な男、渋る友達を無理やり引っ張って、
「へい、ごめんなさいまし」

応対に出てきたのが品のよさそうな老人。

夫婦二人暮らしで、取り次ぎの者もいないらしい。

お茶を出され
「こりゃまた、けっこうな粗茶で……。すると、こちらが愚妻さんで」
とまぬけなことを口走ったりした後、相棒が、
「ばかばかしいから俺は嫌だ」
というので、熊一人で稽古ということになる。

師匠の言うことには、
「ふだんあなた方がやっているあくびは、あれは駄あくびといって、一文の値打ちもない。あくびという人さまに失礼なものを、風流な芸事にするところに趣がある」
との講釈。

すっかり関心していると
「それではまず季節柄、夏のあくびを。夏はまず、日も長く、退屈もしますので、船中のあくびですかな。……その心持ちは、八つ下がり大川あたりで、客が一人。船頭がぼんやり煙草をこう、吸っている。体をこうゆすって。……船がこう揺れている気分を出します。『おい、船頭さん、船を上手へやってくんな。……日が暮れたら、堀からあがって吉原でも行って、粋な遊びのひとつもしよう。船もいいが、一日乗ってると、退屈で、退屈で、……あーあ、ならねえ』とな」
「へえ。……えー、吉原へ……こないだ行ったら勘定が足りなくなって」
「そんなことはどうでもよろしい」
「船もいいが一日乗っていると、退屈で退屈で……ハークショイッ」

これをえんえんと聞かされている相棒、あまりの阿呆らしさに、
「あきれけえったもんだ。教わる奴も奴だが、教える方もいい年しやがって。さんざ待たされているこちとらの方が、退屈で退屈で、あーあ……ならねえ」
「ほら、お連れさんの方がお上手だ」

底本:三代目三遊亭小円朝

【しりたい】

たくさんあった指南噺

かつては「地口指南」「泥棒指南」など、多くの指南ものの噺がありましたが、今ではこの「あくび指南」と「磯のあわび」(別題「女郎買いの教授」)を除けばすたれました。

この噺を含めて指南ものは、安永年間(1772-81)以後、町人の間に習い事が盛んになった時期にまとめられたもので、「あくび指南」も文化年間(1804-18)にはすでに口演されていました。

「喧嘩指南」というのもあり、弟子入り早々、先制攻撃で師匠に「マゴマゴしてやがると張り倒すぞ」とやると、師匠が「うん、てめえはものになる」というもの。これは、「あくび指南」のマクラ小ばなしとして生き残っています。

同じくマクラとして、師匠が釣り糸に糸を垂らした弟子を下からひっぱり落としたので、「先生ひどい。今のはなんの魚がかかったんです?」「今のは河童だ」とオチる「釣り指南」を付けることもあります。

「下手くそにやれ」

五代目志ん生、三代目小円朝、三代目金馬などがよく演じました。

金馬によれば、この噺は昔から、待っている友達(登場人物)より、聞いている客の方があくびをするように、ことさらまずく演じるのが口伝だといいます。

まずくやって客を退屈させるのが口伝とはジョークなのか、奥深い高等数学なのかわかりませんが、昔、ある落語家がこの噺でオチ近くになったとき、客が大あくびをしたので、「あのお客さまはご器用な方だ」と即興でオチをつけて、そのまま高座を下りたとか。

四代目柳家小さんは、「後でオチのあくびが引き立つように師匠のあくびは、ごくあっさりとやるのがコツ」と芸談を残しています。

原話は「あくび売り」

安永5年(1776)、大坂で刊行された噺本集『立春噺大集』中の「あくびの寄合」が原話で、あくび売りが「薩摩のあくび」「仙台のあくび」「今橋筋のあくび」などをかごに入れて売り歩く趣向です。

これが上方落語「あくびの稽古」となり、かなり早く江戸にも移されたと思われます。上方では、入れ事として「風呂に入って月をながめるときのあくび」「将棋で相手の長考を待つときのあくび」など、演者によってさまざまに工夫されていました。

現在でも東西問わずよく口演され、音源も数多い噺ですが、上方のものでは、桂枝雀が漫画的で報復絶倒、あくびをしている余裕など与えないおかしさでした。

牛ほめ うしほめ 演目

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与太郎はバカなのか、稀代の風刺家なのか。いつまでたっても謎のままです。

別題: 新築祝い  池田の牛ほめ(上方) 

【あらすじ】

少々たそがれ状態の与太郎。

横町の源兵衛が痔で困っているとこぼすので
「尻に飴の粉をふりかけなさい。アメふって痔かたまるだ」
とやって、カンカンに怒らせた。

万事この調子なので、おやじの頭痛の種。

今度おじの佐兵衛が家を新築したので、その祝いにせがれをやらなければならないが、放っておくと何を口走るかしれないので、家のほめ方の一切合切、-んで含めるように与太郎に教え込む。

「『家は総体檜づくりでございますな。畳は備後の五分べりで、左右の壁は砂摺りでございますな。天井は薩摩の鶉杢(うずらもく)で。けっこうなお庭でございますな。お庭は総体御影づくりでございますな』と、こう言うんだ」

まねをして言わせてみると、「家は総体へノコづくり、畳は貧乏でボロボロで、佐兵衛のカカアはひきずりで、天井はサツマイモとウヅラマメ、お庭は総体見かけ倒しで」と、案の定、コブだらけにされそう。

しかたなくおやじがセリフをかなで書いてやる。

まだ先があって、
「これから、おじさんの土手っ腹をえぐる」
「出刃包丁で」
「ばか野郎。理屈でえぐるんだ。台所の大黒柱の真ん中に、おおきな節穴が空いていて、なんとか穴が隠れる方法はないかとおじさんが気にしている。そこでおめえが、『そんなに気になるなら、穴の隠れるいい方法をお教えましょう』と言うんだ。おじさんが『何を言ってやがる』という顔をしたら、『台所だけに、穴の上に秋葉さまのお札を張りなさい。穴が隠れて火の用心になります』。これを言やあ、感心して小遣いくらいくれる。それから、牛を買ったってえから、それもほめるんだ。『天角、地眼、一黒、鹿頭、耳少、歯合でございます』と、こう言う」

与太郎、早速出掛けて、よせばいいのに暗唱したので
「佐兵衛のカカアはひきずりで」
をそのままやってしまい、雲行きが悪くなって慌ててメモを棒読み。

なんとか牛まで済んだ。

おじさんは喜んで、
「ばかだばかだと心配していたが、よくこれだけ言えるようになった」
とほめ、一円くれる。

そのうち、牛が糞をしたので、おじさんが
「牛もいいが、あの糞には困る。いっそ尻の穴がない方がいい」
とこぼすと与太郎、
「おじさん、穴の上へ秋葉様のお札を張りなさい」
「どうなる?」
「穴が隠れて、屁の用心にならあ」

底本:三代目三遊亭小円朝

【しりたい】

元祖はバカ婿ばなし

原典は、寛永5年(1628)刊の安楽庵策伝著『醒睡笑』巻一中の「鈍副子第二十話」です。

これは、間抜け亭主(婿)が、かみさんに教えられて舅宅に新築祝いの口上を言いに行き、逐一言われた通りに述べたので無事にやりおおせ、見直されますが舅に腫物ができたとき、また同じパターンで「腫物の上に、短冊色紙をお貼りなさい」とやって失敗するものです。

各地の民話に「ばか婿ばなし」として広く分布していますが、宇井無愁は、日本の結婚形態が近世初期に婿入り婚から嫁取り婚に代わったとき、民話や笑話で笑いものにされる対象もバカ婿からバカ息子に代わったと指摘しています。、それが落語の与太郎噺になったのでしょうが、なかなかおもしろい見方ですね。

「ばか婿ばなし」の名残は、現行の落語でも「あわびのし」「舟弁慶」などにそのまま残っています。

円喬も手がけた噺

天保4年(1833)刊で初代林屋正蔵編著の噺本『笑富林』中の「牛の講釈」が、現行の噺のもとになりました。なので、九代目正蔵も、本家として大いに演っていいわけです。

一応前座噺の扱いですが、明治の名人・四代目橘家円喬の速記もあります。円喬のオチは「秋葉さまのお札をお貼りなさい」で止めていて、「穴がかくれて屁の用心」のダジャレは使っていません。さすがに品位を重んじたというわけでしょう。

なお、大阪では「池田の牛ほめ」「新築祝い」の題で演じられ、お札は愛宕山のものとなっています。東京でも、「新築祝い」で演じるときは、後半の牛ほめは省略されることがほとんどです。

「畳は備後の五分べりで……」

備後は備後畳のことで、五分べりは幅1.5センチのものです。薩摩の鶉杢(=木)は屋久杉で、鶉の羽色の木目があります。

「佐兵衛のカカアはひきずりで」

引きずりはなまけ者のこと。もともと、遊女や芸者、女中などが、すそをひきずっているさまを言いましたが、それになぞらえ、長屋のかみさん連中がだらしなく着物をひきずっているのを非難した言葉です。

秋葉さま

秋葉大権現のことで、総社は現・静岡県周智郡春野町にあります。秋葉山頂に鎮座し、祭神は防火の神として名高いホノカグツチノカミ。

江戸の分社は現・墨田区向島四丁目の秋葉神社で、同じ向島の長命寺に対抗して、こちらは紅葉の名所としてにぎわいました。

「天角、地眼……」

天角は角が上を向き、地眼は眼が地面をにらんでいることで、どちらも強い牛の条件です。

あとの「一黒、鹿頭、耳小、歯違」は、体毛が黒一色で頭の形が鹿に似て、耳が小さく、歯が乱ぐい歯になっているものがよいということです。

なお、前記宇井無愁によると、農耕に牛を使ったのは中部・北陸以西で、それ以東は馬だったので、「屁の用心」でお札を貼るのも、民話ではそれを反映して東日本では馬の尻、西日本では牛の尻と分かれるとか。