きんめいちく【金明竹】演目

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「寿限無」と並ぶ言い立ての心地よい噺。必聴です。

あらすじ

骨董屋のおじさんに世話になっている与太郎。

少々頭に霞がかかっているので、それがおじさんの悩みのタネ。

今日も今日とて、店番をさせれば、雨宿りに軒先を借りにきた、どこの誰とも知れない男に、新品の蛇の目傘を貸してしまって、それっきり。

「そういう時は、傘はみんな使い尽くして、バラバラになって使い物にならないから、焚き付けにするので物置きへ放り込んである、と断るんだ」
としかると、鼠が暴れて困るので猫を借りに来た人に
「猫は使い物になりませんから焚き付けに……」
とやった。

「ばか野郎、猫なら『さかりがついてとんと家に帰らなかったが、久しぶりに戻ったと思ったら、腹をくだして、粗相があってはならないから、またたびを嘗めさして寝かしてある』と言うんだ」

そう教えると、おじさんに目利きを頼んできた客に
「家にもだんなが一匹いましたが、さかりがついて……」

こんな調子で小言ばかり。

次に来たのは上方者らしい男だが、なにを言っているのか、さっぱりわからない。

「わて、中橋の加賀屋佐吉方から参じました。先度、仲買の弥市の取り次ぎました道具七品のうち、祐乗、光乗、宗乗三作の三所もの。並びに備前長船の則光、四分一ごしらえ横谷宗岷小柄付きの脇差し、柄前はな、だんなはんが古鉄刀木といやはって、やっぱりありゃ埋れ木じゃそうにな、木が違うておりまっさかいなあ、念のため、ちょっとお断り申します。次は、のんこの茶碗、黄檗山金明竹、ずんどうの花いけ、古池や蛙飛び込む水の音と申します。あれは、風羅坊正筆の掛け物で、沢庵、木庵、隠元禅師はりまぜの小屏風、あの屏風はなあ、もし、わてのだんなの檀那寺が、兵庫におましてな、この兵庫の坊主の好みまする屏風じゃによって、かようお伝え願います」
「わーい、よくしゃべるなあ。もういっぺん言ってみろ」

与太郎になぶられ、三べん繰り返されて、男はしゃべり疲れて帰ってしまう。

おばさんも聞いたが、やっぱりわからない。

おじさんが帰ってきたが、わからない人間に報告されても、よけいわからない。

「仲買の弥市が気がふれて、遊女が孝女で、掃除が好きで、千ゾや万ゾと遊んで、しまいに、ずんどう斬りにしちゃったんです。小遣いがないから捕まらなくて、隠元豆に沢庵ばっかり食べて、いくら食べてものんこのしゃあ。それで備前の国に親船で行こうとしたら、兵庫へ着いちゃって、そこに坊さんがいて、周りに屏風を立てまわして、中で坊さんと寝たんです」
「さっぱりわからねえ。どこか一か所でも、はっきり覚えてねえのか?」
「確か、古池に飛び込んだとか」
「早く言いなさい。あいつに道具七品が預けてあるんだが、買ってったか」
「いいえ、買わず(蛙)です」

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しりたい

ネタ本は狂言 【RIZAP COOK】

前後半で出典が異なり、前半の笠を借りに来る部分は、狂言「骨皮」をもとに、初代石井宗淑(?-1803)が小咄「夕立」としてまとめたものをさらに改変したとみられます。

類話に享和2年(1802)刊の十返舎一九作『臍くり金』中の「無心の断り」があり、現行にそっくりなので、これが落語の直接の祖形でしょう。

一九はこれを、おなじみ野次喜多の『続膝栗毛』にも取り入れています。「夕立」との関係は、「夕立」が著者没後の天保10年(1839)の出版(『古今秀句落し噺』に収録)なので、どちらがパクリなのかはわかりません。

後半の珍口上は、初代林家(屋)正蔵(1781-1842)が天保5年(1834)に自作の落語集『百歌撰』中に入れた「阿呆の口上」が原話で、これは与太郎が笑太郎となっているほかは弥市の口上の文句、「買わず」のオチともまったく同じです。

前半はすでに文化4年(1807)の喜久亭寿曉の落語ネタ帳『滑稽集』に「ひん僧」の題で載っているので、江戸落語としてはもっとも古いものの一つですが、前後半を合わせて「金明竹」として一席にまとめられたのは明治維新後と思われます。

「骨皮」と「夕立」 【RIZAP COOK】

骨皮 シテが新発意(しんぼち=出家間もない僧)でワキが住職。檀家の者が寺に笠を借りに来るので、新発意が貸してやり、住職に報告したところ、ケチな住職が「辻風で骨皮バラバラになって貸せないと断れ」としかる。次に馬を借りに来た者に笠の口上で断ると、住職は「バカめ。駄狂い(発情による狂馬)したと断れ」。今度はお経を頼みに来た者に、「住職は駄狂い」と断ったので、聞いた住職が怒り狂い、新発意が、お師匠さまが門前の女とナニしているのは「駄狂い」だと口答えして大ゲンカになる筋立て。

ボタンの掛け違いの珍問答は、民話の「一つ覚え」にヒントを得たとか。

夕立 主人公(与太郎)は権助、ワキが隠居。笠、猫と借りに来るくだりは現行と同じです。三人目が隠居を呼びに来ると、「隠居は一匹いますが、糞の始末が悪いので貸せない」。隠居が怒って「疝気が起こって行けないと言え」と教えると次に蚊いぶしに使う火鉢を借りにきたのにそれを言い、「どこの国に疝気で動けない火鉢がある」と、また隠居がしかると権助が居直って「きんたま火鉢というから、疝気も起こるべえ」

石井宗淑は医者、幇間、落語家を兼ねる「おたいこ医者」で、長噺の祖といわれる人。

東京に逆輸入 【RIZAP COOK】

この噺、前半の「骨皮」の部分は、純粋な江戸落語のはずながらなぜか幕末には演じられなくなっていて、かえって上方でよく口演されました。

明治になって、それがまた東京に逆輸入され、後半の口上の部分が付いてからは、四代目橘家円喬、さらに三代目三遊亭円馬が得意にしました。

円喬は、特に弥市の京都弁がうまく、同じ口上を三回リピートするのに、三度とも並べる道具の順序を変えて演じたと、六代目円生が語っています。

代表的な前座の口慣らしのための噺として定着していますが、戦後は五代目古今亭志ん生、六代目三遊亭円生、三代目三遊亭金馬など、多数の大看板が手掛け、現在に至っています。

中でも金馬は、昭和初期から戦後にかけ、流麗な話術で「居酒屋」と並び十八番としました。

CDは三巨匠それぞれ残っていて、柳家小三治のもありますが、口上の舌の回転のなめらかさでは金馬がピカ一だったでしょう。志ん生は、前半部分を再び独立させて演じ、後半はカットしていました。

祐乗 【RIZAP COOK】

ゆうじょう。後藤祐乗(1440-1512)は室町時代の装剣彫刻の名工です。足利義政の庇護を受け、特に目貫にすぐれた作品が多く残ります。

光乗 【RIZAP COOK】

こうじょう。後藤祐乗の曾孫(1529-1620)です。やはり名工として織田信長に仕えました。

長船 【RIZAP COOK】

おさふね。鎌倉時代の備前国の刀工長船氏で、祖の光忠以下、長光、則光など、代々名工を生みました。

宗珉 【RIZAP COOK】

そうみん。横谷宗珉(1670-1733)は江戸時代中期の金工で、絵画風彫金の考案者。小柄や獅子牡丹などの絵彫を得意にしました。

金明竹 【RIZAP COOK】

福建省原産の黄金色の名竹です。黄檗山万福寺から日本に渡来し、黄檗宗の開祖となった隠元禅師(1592-1673)が、来日して宇治に同名の寺を建てたとき、この竹を移植し、それが全国に広まりました。観賞用、または筆軸、煙管のらおなどの細工に用います。

隠元には多数の工匠が同行し、彫刻を始め日本美術に大きな影響を与えましたが、金明竹を使った彫刻もその一つです。

漱石がヒントか 【RIZAP COOK】

「吾輩は猫である」の中で、二絃琴の師匠の飼い猫、三毛子の珍セリフとして書かれている「天璋院様の御祐筆の妹の御嫁に行った先きの御っかさんの甥の娘」は、落語マニアで三代目小さんや初代円遊がひいきだった漱石が「金明竹」の言い立てからヒントを得たという、半藤一利氏の説があります。落語にはこの手のギャグはかなりあり、なんとも言えません。

【語の読みと注】
目貫 めぬき:刀の目釘に付ける装身具
小柄 こづか
隠元 いんげん
黄檗山 おうばくさん

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さるごけ【猿後家】演目

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舌禍でリストラの憂き目にあうおやじには身につまされるはなしです。

別題: お猿だんな

【あらすじ】

さる商家の後家さん。

四十過ぎだが、ご面相が猿そっくり。

外出するたびに近所の者に
「サル、サル」
と後ろ指さされるので、気がめいって、家に閉じこもりきり。

周囲の者には「サル」という言葉は絶対に言わせない。

口に出したが最後、奉公人はクビ、職人も出入り禁止になるので、みな戦々恐々。

先日も植木屋がうっかり
「サルすべり」
と言ってしまい、大げんかになったばかりで、番頭は頭を抱えている。

ちょうど現れたのが出入りの源さん。

これが口八丁手八丁で、うまくおかみさんの機嫌を取り結ぶので、みな重宝がっている。

源さん、さっそく奥へ通ると、いつもの通りお世辞の連発。

親類で京美人の娘と間違えたふりをしたり、素顔なのに化粧していると言ってみたりで、おかみさんはすっかり有頂天。

おかみさんは、鰻だ酒だと、ごちそう攻め。

三、四日来なかったわけを聞かれると、待ってましたとばかり、源さん、知人に案内して東京の名所を回った話をする。

「浅草の広小路に出ると大勢の人だかりで、これが近ごろ珍しいサル回し……」

あっと思ったが、もう手遅れ。

おかみさんは烈火のごとく怒り、あえなく源さん、永久追放とあいなった。

失業中で、ここのご祝儀だけで親子三人露命をつないでいたのに、クビになった日には干上がってしまう、とべそをかき、番頭に取りなしを頼む。
番頭は番頭で、前任者で仕立て屋の太兵衛という男の悲惨な運命を語る。

子供の踊りの話から「靭猿」がついて出て、失敗。

二か月後、物乞いの格好で現れ、絵草紙屋で見つけた絶世の美女の錦絵があまりにも奥さまに瓜二つなので、これをご本尊に、これから四国巡礼の旅に出るとうまく言って、見事失地回復。

ところが、おまえは知恵者だとほめられた拍子に「ほんのサル知恵で」とやった。

これで完全に回復不能、というわけ。

そんな話を聞いていてひらめいた源さん、
「日本古来の美人は」
と番頭に尋ねると、
「小野小町、袈裟(けさ)御前に静御前、常盤御前」
と番頭。

それだけ覚えると再び奥へ。

「さっきのは皿回しと言ったんですよ」
とゴマかしてご機嫌を直し、ダメ押しに
「おかみさんほどの美人は小野小町か袈裟御前」
とまくしたてたから、
「おまえ、生涯家に出入りしておくれ」
と、おかみさんは大喜び。

「その代わり、あたしの気にさわることは、絶対に口におしでないよ」
「そりゃ大丈夫です。ご当家をしくじったら、木から落ちたサル」
「なんだい?」
「いえ、猫同様でございます」

底本:六代目蝶花楼馬楽、十代目柳家小三治

【しりたい】

オリジナルは上方落語

純粋の上方落語で、先代桂文枝のは、中年女の脂っけたっぷりで絶品でした。

大阪の演出では、伊勢参りから奈良を回った話から「猿沢の池」が出て失敗。寒いので「さむそうの池」と言ったとごまかしますが、最後に「ようヒヒ(=楊貴妃)に似てござります」と地口(ダジャレ)オチになります。

東京紹介はわりに早かったようで、昭和4年(1929)講談社刊の『落語全集』下巻に、「お猿だんな」として主人公を男性に替えた、藤波楽斎なる演者名での東京演出の速記が載っています。実際にこの演題で口演されたかどうかは不明ですが。この速記では、オチは「木から落ちたリス」となっています。

現在は東京でも「猿後家」で演じられ、六代目蝶花楼馬楽の速記もありますが、現役では柳家小三治のもので、小三治は「猿でございます」と、失敗のままオチています。

靭猿

うつぼざる。同題の狂言を常磐津舞踊に仕立てたもので、本題を「花舞台霞の猿曳」といいます。歌舞伎舞踊では現在もよく上演される代表的なもので、長唄にもアレンジされています。

狂言には珍しい「人情噺」で、太郎冠者を引き連れた大名に、靭(=矢筒)の革にしたいから猿を差し出せと強要された猿曳きが、涙ながらに自分の手で杖で打ち殺そうとすると、猿がその杖を取って舟の櫓を押すまねをするので、大名も哀れに思い、猿を助命する、という筋です。

四国巡礼

「一つとや、一つ長屋の佐次兵衛殿、四国を廻って猿になる」という俗謡からの連想と思われます。

美人

このほか、大阪では照手姫、衣通(そとおり)姫の名を挙げたりします。

木から落ちた猿

頼りとする者から、見放されるたとえです。

【猿後家 柳家小三治】

ねこのさら【猫の皿】演目

お目当ては皿か猫か。明治初年、端師が地方での逸品探しに血道上げて。

別題:高麗の茶碗 猫の茶碗

あらすじ

明治の初年。

ある端師が、東京では御維新このかた、あまりいい掘り出し物が見つからなくなったので、
「これはきっと江戸を逃げだした人たちが、田舎に逸品を持ち出したのだろう」
と踏み、地方をずっと回っていた。

中仙道は熊谷在の石原あたりを歩いていた時、茶店があったので休んでいくことにし、おやじとよもやま話になる。

そのおやじ、旧幕時代は根岸あたりに住んでいて、上野の戦争を避けてここまで流れてきたが、せがれは東京で所帯を持っているという。

いろいろ江戸の話などをしているうちに、なんの気なしに土間を見ると、猫が飯を食っている。

猫自体はどうということないが、その皿を見て端師、内心驚いた。

絵高麗の梅鉢の茶碗といって、下値に見積っても三百円、つまり旧幕時代の三百両は下らない代物。

とても猫に飯をあてがうような皿ではない。

「さてはこのおやじ、皿の価値を知らないな」
と見て取った端師、なんとか格安で皿をだまし取ってやろうと考え、急に話題を変え
「時におやじさん、いい猫だねえ。こっちへおいで。ははは、膝の上に乗って居眠りをしだしたよ。おまえのところの猫かい」
「へえ、猫好きですから、五、六匹おります」

そこで端師、
「自分も猫好きでずいぶん飼ったが、どういうものか家に居つかない。あまり小さいうちにもらってくるのはよくないというが、これくらいの猫ならよさそうなので、ぜひこの猫を譲ってほしい」
と持ちかける。

おやじが妙な顔をしたので
「ハハン、これは」
と思って
「ただとは言わない、この三円でどうだい」
と、ここが勝負どころと思って押すと、しぶしぶ承知する。

さすが商売人で、興奮を表に出さずさりげなく
「もう一つお願いがあるんだが、宿屋へ泊まって猫に食わせる茶碗を借りると、宿屋の女が嫌な顔をするから、いっそその皿もいっしょにくれないか」

ところがおやじ、しらっとして、
「それは差し上げられない、皿ならこっちのを」
と汚い欠けた皿を出す。

端師はあわてて
「それでいい」
と言うと
「だんなはご存じないでしょうが、これはあたしの秘蔵の品で、絵高麗の梅鉢の茶碗。上野の戦争の騒ぎで箱はなくしましたが、裸でも三百両は下らない品。三円じゃァ譲れません」
「ふーん。なぜそんなけけっこうなもので猫に飯を食わせるんだい」
「それがだんな、この茶碗で飯を食わせると、ときどき猫が三円で売れますんで」

底本:四代目橘家円喬

しりたい

滝亭鯉丈

原作は、滝亭鯉丈(?-1841)が文政4年(1821)に出版した滑稽本『大山道中膝栗毛』中の一話です。鯉丈という人は、滑稽本作者、つまり、今でいう流行作家。滑稽本というのは、『東海道中膝栗毛』に代表される、落語のタネ本のようなユーモア小説、コミック小説です。鯉丈は落語家も兼ねていたといいますから、驚きです。自分の書いたものを、高座でしゃべっていたかもしれませんね。原作では猫じゃなくて猿! それはともかく、もとの鯉丈の本では、買われるのは猫でなく、実は猿なのです。汚い猿が、金銀で装飾した、高価な南蛮鎖でつながれていたので、飼い主の婆さんに、「あの猿の顔が、死んだ母親にそっくりだから」 と、わけのわからないことを言って猿ごと鎖をだまし取ろうとするわけです。改めて、鯉丈について文学辞典ふうに。

滝亭鯉丈、本名は池田八右衛門。生年は不明ですが、没年は天保12年(1841)6月10日です。享年(数え年での没年齢)は60余歳とのこと。小石川の称名寺に葬られています。養家に入った池田家は300石取りの旗本でしたが、鯉丈が入婿した時には禄を失っていたそうです。下谷広徳寺門前稲荷町で櫛屋を商っていましたが、浅草伝法院前に移り、さらに浅草駒形町河岸通りに引っ越しました。三田村鳶魚が取材した鯉丈の曽孫の話では、乗物師、または縫箔屋だったとか。新内節の名手で遊芸にも通じ、寄席芸人だったとのこと。器用な人だったのですね。これは、鯉丈の著作や弟だという話もある為永春水の著作からうかがえることです。滑稽本作者としては、最初は十返舎一九や式亭三馬の亜流のようなものをいくつか出していましたが、一九と三馬の作風をまぜこぜにしたような『八笑人』初編-四編追加(文政3-天保5年刊)と『和合人』初-三編(文政6-天保12年刊)で知られるようになりました。「廃頽期の江戸町人の低俗な遊戯生活を写実的に描いて独自の位置を占め、鯉丈の名が文学史に記録されるのは、この二作によるものである。他には、文政年間の二世南仙笑楚満人(為永春水)の作に合作者として関与したこともあり、人情本に『明烏後正夢』初-三編(文政二-五年刊)、『霊験浮名滝水』(同九年刊)があるが、いうに足りない」とは『日本古典文学大辞典』(岩波書店、1985年)での神保五弥の言。手厳しいですが、文学史的にはそんなところなのでしょう。

端師

はたし。「果師」とも「端師」とも書き、はした金で古道具を買いたたくところからついた名称であるようです。「高く売り果てる(売りつくす)」意味の「果師」だともいいますが、「因果な商売」の「果」かもしれません。

いつも掘り出し物を求めて、旅から旅なので、三度笠をかぶり、腰に矢立(携帯用の筆入れ)を差しているのが典型的なスタイルでした。この男がだまし取りそこなう「高麗の梅鉢」は、「絵高麗」といって、白地に鉄分質の釉薬で黒く絵や模様を描いた朝鮮渡来の焼き物。梅の花が図案化されています。たいへんに高価な代物です。

演者

明治の円喬も含め、五代目古今亭志ん生以前には、この噺の演題は「猫の茶碗」が一般的でしたが、絵高麗は皿なので、志ん生が命名した「猫の皿」が妥当でしょう。

明治44年(1911)の円喬の速記では、時代を明治維新直後、爺さんは江戸近郊・根岸の人で、上野の戦争の難を避けて、皿を持って疎開したと説明されます。

一方、志ん生は、江戸末期、武士が困窮のあまり、先祖伝来の古美術品を売り払ったのでこうした品が地方に流れたという時代背景を踏まえ、幕末のできごとにしています。なかなかおもしろい見方です。志ん生がただのいきあたりばったりでなく、相当な勉強家でもあったこともよくわかります。いまの人でいちばんのおすすめは柳家小三治。これに尽きます。あのすっとぼけたかんじがね、なんともね、いいですね。

【もっとしりたい】

ここに登場する「はたし」は、果師、端師、他師などと書き習わされる。骨董の仲買商だ。この噺のように、高価なものを安い値段で買い取って高く売りつけるのが商売。ささやかな欺きやだましはお手の物なのに、ここでは茶屋のおやじにしてやられる。そこが落語らしい。

かつては、五代目古今亭志ん生や三代目三遊亭金馬がよくやったようだ。音源で知るだけのことであるが。とりわけ志ん生は骨董好きのためか、マクラをたっぷり振って毎度のおかしさだった。音源を聴くと明快だ。今ではだれもがよくやる。立川志の輔ですらやっている。この噺は短いので、マクラをたっぷり振らないともたないのが難点。オチでしか笑わせられないので、マクラでさんざん笑わせておくしかない。表現力の乏しい噺家には意外に難しいかもしれない。もとは「猫の茶碗」という題だったのが、志ん生が「猫の皿」でやってから、今ではこの題が一般的になってしまった。志ん生の型は、彼自身が尊敬してやまなかった四代目橘家円喬による。円喬は、明治期の中仙道熊谷在の石原に設定。茶屋のおやじは、明治元年(1868)5月15日に起こった彰義隊の戦いで江戸から逃げてきたことになっている。そのため、おやじが果師から東京の近ごろのようすを聞き出すくだりがある。

「あの、御見附なんぞなくなりましたそうですな」
「ああ、内曲輪だけは残っているが、外曲輪はたいがい枡形もこわしてしまって、元の形はなくなった」
「へえ、浅草のほうはどうなりました」
「あの見附はいちばん早くなくなって、吾妻橋でもお厩橋、両国橋、みんな鉄の橋に架けかわって立派なものだ」
「へえ、観音さまはやはりあすこにありますか」
「あんな大きな御堂はどこへも引っ越しはできない。まあひとつお茶をくんな」

会話に出てくる三つの橋は隅田川に架かっているが、鉄橋化した年は以下の通り。

吾妻橋  明治20年(1887) 
厩橋   明治26年(1893) 
両国橋  明治37年(1904) 

だからこの噺は、明治37年(1904)以降の話題なのだろう。さきほど引用した円喬の「猫の茶碗」の速記は明治44年(1911)のもの。彰義隊の顛末が人々の記憶から消え去らずにいたころの話のようである。

とはいえ、この噺の原話は意外に古い。文化年間(1804-17)刊行の滝亭鯉丈『大山道中膝栗毛』に「猿と南蛮鎖」として出てくる。

茶屋で南蛮鎖にゆわえられた猿。男は高価な南蛮鎖が欲しくて
「猿の顔が死んだおふくろに生き写し。どうか売ってください」
と茶屋のばあさんに掛け合う。
ばあさん
「この鎖をつけると、むしょうに猿が売れます」
と鎖を綱に取り替えて、にっこり。

こっちもおかしい。

古木優

【語の読みと注】
端師 はたし
柳亭鯉丈 りゅうていりじょう
明烏後正夢 あけがらすのちのまさゆめ
釉薬 うわぐすり
御見附 おみつけ
内曲輪 うちくるわ

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ちゃのゆ【茶の湯】演目

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お金儲けは簡単に熟せても、文化は熟しがたいもんです。

【あらすじ】

家督を息子に譲った大店(おおだな)のご隠居、小僧を一人付けて、根岸の隠居所でのんびり暮らしているが、毎日することがなく、退屈で仕方がない。

若だんなは少し茶の湯のたしなみがあるので、いくらかは気が紛れるだろうと気を利かせて、茶室を作ってくれたが、隠居の方はまるで風流気がなく、道具なども放ったまま。

しかし、さすがに退屈に耐えかねて、まあちょっとやってみようかと小僧と相談するが、何をそろえていいのだか、二人ともとんとわからない。

青い粉ならとにかくよかろうと、買ってきたのが青黄粉。

茶筅(ちゃせん)でガラガラかき回してみたものの、黄粉だから沸騰もしなければ泡も立たない。

これではしかたがないと、何か泡立つものをというので、小僧が椋(むく)の皮を買ってきた。

もともとシャボン代わりに使うものだから、これはブクブクと派手に泡ばかり。

とてものめる代物ではないが、そうしているうちに二人ともだんだん面白くなり、お客を呼びたくなった。

呼ばれる奴こそいい面の皮だが、みんなお店に義理があるから、渋々ながらゾロゾロやってくる。

のんでみると青黄粉に椋の皮のお茶。

一同、のどに通らず、脂汗をダラリダラリ。

「あのォ、口直しを」
「茶の湯に口直しはありません」

しかたなく、お茶受けの羊羹(ようかん)を毒消しにと、来る人来る人が羊羹ばかり食らうので、もともとケチで通った隠居のこと、こう菓子代ばかり高くついたのではたまらないと、茶菓子も自前で作ることにした。

といって、作り方など知るわけがなく、サツマ芋を漉して、砂糖は高いから蜜で練って、とやっているうちに、粘って型から抜けなくなる。

「ええいッ、ままよ」と灯油を塗ってスポッと抜いたからさあ、ものすごいものができあがった。

これを「利休饅頭(まんじゅう)」と勝手に名づけ、羊羹の代わりにふるまったから、もう救いがない。

こんなヘドロのようなものを食わされた上、青黄粉と椋の皮では、命がいくつあっても足りないと、とうとうだれも寄りつかなくなった。

ある日、そんなこととは知らない金兵衛さんが訪ねてきたので、しばらく茶の湯をやれなかった隠居は大はりきり。

出されたものが例の利休饅頭。

さあ、てえへんなものォ食わしゃあがったと、思わず吐き出して、残りはこっそり袂へ。

せめてお茶で口をゆすごうと、のんだが運の尽きで青黄粉と椋(むく)の皮。

慌てて便所に逃げ込み、捨てる場所はないかと見渡すと、窓の外には建仁寺垣の向こうの田んぼ。

田舎道ならかまわないだろうと、垣根越しにエイッとほうると百姓の顔にベチャッ。

「あ、痛ァ、また茶の湯か」

【しりたい】

不運な人々

殺人的ティーパーティーに招かれる面々は、六代目三遊亭円生の演出では、手習いの師匠豆腐屋鳶頭の三人でした。

この隠居が、長屋の居付き地主、つまり地主と大家を兼ねているため、行かないと店立(たなだ)てを食らって追い出されるので、しぶしぶながら出かけます。

「寝床」と同じ悲喜劇です。泣く子と隠居には勝たれません。

青黄粉は、ウグイス餅などにまぶす青みの粉、椋の皮は石けんの代用品で、煮ると泡立ちます。

さぞ、ものすごい代物だったでしょう。

円生、先代金馬の十八番

この犠牲者三人がそろって茶の作法を知らないので、恥をかくのがいやさに夜逃げしようとしたりするドタバタは、円生ならではのおかしさでした。

茶をのむ場面は、仕草で表現する仕方(しかた)ばなしのように三人三様を演じわけます。

茶道の心得のある人間が見るとなおおかしいでしょうと円生はのべていますが、演ずる側も素養は必要でしょう。

若い頃、年下の円生に移してもらった先代(三代目)金馬の当たり芸でもありました。柳家小三治のも、抱腹絶倒です。

【茶の湯 柳家小三治】

そこつながや【粗忽長屋】演目

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「粗忽」とはあわてん坊の意。行き倒れの主が自分!? 粗忽者はさてどうする。

あらすじ

長屋住まいの八五郎と熊五郎は似た者同士で、兄弟同様に仲がいい。

八五郎は不精でそそっかしく、熊五郎はチョコチョコしていてそそっかしいという具合で、二人とも粗忽さでは、番付がもしあれば大関を争うほど。

八の方は信心はまめで、毎朝浅草の観音様にお参りに行く。

ある日、いつもの通り雷門を抜け、広小路にさしかかると、黒山の人だかり。

行き倒れだという。

強引に死体を見せてもらうと、そいつは借りでもあって具合が悪いのか、横を向いて死んでいる。

恐ろしく長っ細い顔だが、こいつはどこかで見たような。

「こいつはおまえさんの兄弟分かい」
「ああ、今朝ね、どうも心持ちが悪くていけねえなんてね。当人はここで死んでるのを忘れてんだよ」
「当人? おまえさん、兄弟分が浅ましい最期をとげたんで、取りのぼせたね。いいかい、しっかりしなさいよ」
「うるせえ。のぼせたもクソもあるもんけえ。うそじゃねえ明かしに、おっ死んだ当人をここへ連れて来らァ」

八五郎、脱兎のごとく長屋へ駆け込むや、熊をたたき起こし、
「てめえ、浅草の広小路で死んだのも知らねえで、よくもそんなにのうのうと寝てられるな」
と息巻く。

「まだ起きたばかりで死んだ心持ちはしねえ」
と熊。

昨夜どうしていたかと聞くと、本所の親類のところへ遊びに行き、しこたまのんで、吉原をヒヤカした後、田町でまた五合ばかり。その後ははっきりしないという。

「そーれ見ねえ。つまらねえものをのみ食いしやがるから、田町から虫の息で仲見世あたりにふらついてきて、それでてめえ、お陀仏になっちまったんだ」

そう言われると、熊も急に心配になった。

「兄貴、どうしよう」
「どうもこうもねえ。死んじまったものはしょうがねえから、これからてめえの死骸を引き取りにいくんだ」
というわけで、連れ立ってまた広小路へ。

「あらら、また来たよ。あのね、しっかりしなさいよ。しょうがない。本人という人、死骸をよくごらん」

コモをまくると、いやにのっぺりした顔。

当人、止めるのも聞かず、死体をさすって、
「トホホ、これが俺か。なんてまあ浅ましい姿に……こうと知ったらもっとうめえものを食っときゃよかった。でも兄貴、何だかわからなくなっちまった」
「何が」
「抱かれてるのは確かに俺だが、抱いてる俺はいってえ、誰なんだろう」

しりたい

主観長屋?

アイデンティティーの不確かさを見事についた鮮やかなオチです。

立川談志は、主人公の思い込みの原因は「あまりにも強すぎる『主観』にある」という解釈で、「主観長屋」の題で演じましたが、この場合の「主人公」は八五郎の方で、いったん、こうと思い込んだが最後、刀が降ろうが槍が降ろうがお構いなし。1+1は3といったら3なのです。

対照的に相棒の熊は、自我がほぼ完璧に喪失していて、その現れがオチの言葉です。

どちらも誇張されていますが、人間の両極を象徴しています。

四代目柳家小さんは、「死んでいるオレは……」と言ってはならないという教訓を残していますが、なるほど、この兄ィは、自分の生死さえ上の空なのですから当然でしょう。

代々の小さんに受け継がれた噺で、現在では、脳内に霞たなびく熊五郎が抱腹絶倒の柳家小三治が、その直系のように思えます。

三代目小さんの貴重な音源が残るほか、五代目志ん生、五代目小さん、談志のものが多く出ています。

自身番のこと

自身番屋は、町内に必ず一つはあり、防犯・防火に協力する事務所です。

昼間は普通、町役(おもに地主)の代理である差配(大家)が交代で詰め、表通りに地借りの商家から出す店番(たなばん)1名、事務や雑務いっさいの責任者で、町費で雇う書役(しょやく)1名と、都合3名で切り盛りします。

行き倒れの死骸の処理は、原則として自身番の役目です。

身元引受人が名乗り出れば確認のうえ引き渡し、そうでなければお上に報告後回向院などの無縁墓地に投げ込みで葬る義務がありました。

その場合の費用、死骸の運搬費その他は、すべて町の負担でした。

したがって、自身番にすれば、こういうおめでたい方々が現れてくれれば、かえって渡りに船だったかもしれません。

【粗忽長屋 立川談志】