あけがらす【明烏】落語演目



  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

 【どんな?】

堅物がもてるという、廓が育む理想形の物語。
ビギナーズラックでしょうか、はたまた普遍の成功譚。
こんな放蕩なら、一度は経験してみたいものです。

【あらすじ】

異常なまでにまじめ一方と近所で評判の日本橋田所町・日向屋半兵衛のせがれ時次郎。

今年十九だというに、いつも本にばかりかじりつき、女となれば、たとえ雌猫でも鳥肌が立つ。

今日も今日とて、お稲荷さまの参詣で赤飯を三杯ごちそうになったととくとくと報告するものだから、おやじの嘆くまいことか。

「堅いのも限度がある、いい若い者がこれでは、跡継ぎとしてこれからの世間づきあいにも差し支える」
と、かねてからの計画で、町内の札付きの遊び人・源兵衛と太助を「引率者」に頼み、一晩、吉原での遊び方を教えてもらうことにした。

「本人にはお稲荷さまのおこもりとゴマまし、お賽銭が少ないとご利益がないから、向こうへ着いたらお巫女さん方へのご祝儀は、便所に行くふりをしておまえが全部払ってしまいなさい、源兵衛も太助も札付きのワルだから、割り前なんぞ取ったら後がこわい」
と、こまごま注意して送り出す。

太助のほうはもともと、お守りをさせられるのがおもしろくない。

その上、若だんながおやじに言われたことをそっくり、「後がこわい」まで当人の目の前でしゃべってしまったからヘソを曲げるが、なんとか源兵衛がなだめすかし、三人は稲荷ならぬ吉原へ。

いかに若だんながうぶでも、文金、赭熊(しゃごま)、立兵庫(たてひょうご)などという髪型に結った女が、バタリバタリと上草履の音をさせて廊下を通れば、いくらなんでも女郎屋ということはわかる。

泣いてだだをこねるのを二人が
「このまま帰れば、大門で怪しまれて会所で留められ、二年でも三年でも帰してもらえない」
と脅かし、やっと部屋に納まらせる。

若だんなの「担当」は十八になる浦里という、絶世の美女。

そんな初々しい若だんななら、ワチキの方から出てみたいという、花魁からのお見立てで、その晩は腕によりをかけてサービスしたので、堅い若だんなも一か所を除いてトロトロ。

一方、源兵衛と太助はきれいさっぱり敵娼あいかたに振られ、ぶつくさ言いながら朝、甘納豆をヤケ食い。

若だんなの部屋に行き、そろそろ起きて帰ろうと言ってもなかなか寝床から出ない。

「花魁は、口では起きろ起きろと言いますが、あたしの手をぐっと押さえて……」
とノロケまで聞かされて太助、頭に血が昇り、甘納豆をつまんだまま梯子段からガラガラガラ……。

「じゃ、坊ちゃん、おまえさんは暇なからだ、ゆっくり遊んでらっしゃい。あたしたちは先に帰りますから」
「あなた方、先へ帰れるなら帰ってごらんなさい。大門で留められる」

底本:八代目桂文楽

【しりたい】

極め付き文楽十八番

あまり紋切り型は並べたくありませんが、この噺ばかりはまあ、上記の通りでしかたないでしょう。

八代目桂文楽が二ツ目時代、初代三遊亭志う雀(のち八代目司馬龍生)に習ったものを、四十数年練り上げ、先の大戦後は、古今亭志ん朝が台頭するまで、文楽以外はやり手がないほどの十八番としました。

それ以前は、サゲ近くが艶笑がかっていたのを改め、おやじが時次郎を心配して送り出す場面に情愛を出し、さらに一人一人のしぐさを写実的に表現したのが文楽演出の特徴でした。

時代は明治中ごろとし、父親は前身が蔵前の札差で、維新後に問屋を開業したという設定になっています。

原話となった心中事件

「明烏○○」と表題がついた作品は、明和年間(1764-72)以後幕末にいたるまで、歌舞伎、音曲とあらゆるジャンルの芸能で大量生産されました。

その発端は、明和3年(1766)6月、吉原・玉屋の遊女美吉野と、人形町の呉服屋の若旦那伊之助が、宮戸川(隅田川の山谷堀あたり)に身を投げた心中事件でした。

それが新内「明烏夢淡雪」として節付けされ、江戸中で大流行したのが第一次ブーム。

事件から半世紀ほど経た文政2年(1819)から同9年にかけ、滝亭鯉丈りゅうていりじょう為永春水ためながしゅんすいが「明烏後正夢あけがらすのちのまさゆめ」と題して人情本という、今でいう艶本小説として刊行。第二次ブームに火をつけると、これに落語家が目をつけて同題の長編人情噺にアレンジしました。

現行の「明烏」はおそらく幕末に、その発端を独立させたものでしょう。

大門で止められる

「大門」の読み方は、芝は「だいもん」、吉原は「おおもん」と呼びならわしています。

吉原では、大見世遊びのときには、まず引手茶屋にあがり、そこで幇間と芸者を呼んで一騒ぎした後、迎えが来て見世(女郎屋)に行くならわしでした。

この噺では、茶屋の方もお稲荷さまになぞらえられては決まりが悪いので、早々に時次郎一行を見世に送り込んでいます。

大門は両扉で、黒塗りの冠木門かぶきもん。夜は引け四つ(午前0時)に閉門しますが、脇にくぐり門があり、男ならそれ以後も出入りできました。

大門に入ると、仲の町という一直線の大通り。左には番所、右には会所がありました。

左の番所は、町奉行所から来た与力や同心が岡っ引きを連れて張り込み、客らの出入りを監視する施設です。門番所、面番所とも。

右の会所は、廓内の自治会施設。遊女の脱走を監視するのです。

吉原の初代の総名主である三浦屋四郎左衛門の配下、四郎兵衛が代々世襲名で常駐していたため、四郎兵衛会所と呼ばれました。

こんな具合ですから、治安のすこぶるよろしい悪所でした。

むろん「途中で帰ると大門で止められる」は真っ赤な嘘です。

甘納豆

八代目桂文楽ので、太助が朝、振られて甘納豆をヤケ食いするしぐさの巧妙さは、今も古い落語ファンの間で語り草です。

甘納豆は嘉永5年(1858)、日本橋の菓子屋が初めて売り出しました。

文楽直伝でこの噺に現代的なセンスを加味した古今亭志ん朝は、甘納豆をなんと梅干の砂糖漬けに代え、タネをプッと吐き出して源兵衛にぶつけるおまけつきでした。

日本橋田所町

現在の東京都中央区堀留町二丁目。

日本橋税務署のあるあたりです。

浦里時次郎

新内の「明烏夢淡雪」以来、「明烏」もののカップルはすべて「山名屋浦里・春日屋時次郎」となっています。

落語の方は、心中ものの新内をその「発端」という形でパロディー化したため、当然主人公の名も借りています。

うぶな者がもてて、半可通や遊び慣れた方が振られるという逆転のパターンは、『遊子方言』(明和7=1770年ごろ刊)以来、江戸の遊里を描いた「洒落本」に共通のもので、それをそのまま、オチに巧みに取り入れています。

【もっとしりたい】

八代目桂文楽のおはこ。文楽存命の間はだれもやらずにいた。のちに、馬生がやった。志ん朝がやった。小三治がやった。

明和3(1766)年6月3日 (一説には明和6年とも) 、吉原玉屋の花魁美吉野と、人形町の呉服太物商春日屋の次男伊之助が、白ちりめんのしごき(女性の腰帯。結ばないでしごいて使う)でしっかり体を結び合って宮戸川(隅田川の山谷堀辺) に入水した。これが宮戸川心中事件といわれるもの。

事件をもとに、初代鶴賀若狭掾が新内「明烏夢淡雪」として世に広めた。文政2年(1819)-7年(1824)には、滝亭鯉丈と為永春水が続編のつもりで人情本『明烏後正夢』を刊行。この本の発端を脚色したのが落語の「明烏」である。以降、「明烏」ものは、歌舞伎、音曲などあらゆる分野で派生されていった。

うぶな男がもてて半可通が振られるという型は、江戸の遊里を描いた洒落本にはありがちなもの。もてるもてないはどこか才のかげんで、修行しても始まらないようである。

(古木優)

八代目桂文楽(並河益義、1892-1971)

 



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きんめいちく【金明竹】落語演目

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【どんな?】

骨董を題材にした前座噺。
小気味いい言い立てが聴きどころです。
耳に楽しい一席。

別題:長口上 骨皮 夕立 与太郎

【あらすじ】

骨董屋こっとうやのおじさんに世話になっている与太郎よたろう

少々頭にかすみがかかっているので、それがおじさんの悩みのタネ。

今日も今日とて、店番をさせれば、雨宿りに軒先を借りにきた、どこの誰とも知れない男に、新品のじゃ傘を貸してしまって、それっきり。

おじさんは
「そういう時は、傘はみんな使い尽くして、バラバラになって使いものにならないから、き付けにするので物置ものおきへ放り込んであると断るんだ」
しかった。

すると、ねずみが暴れて困るので、猫を借りに来た人に
「猫は使いものになりませんから、焚き付けに……」
とやった。

「ばか野郎、猫なら『さかりがついてとんと家に帰らなかったが、久しぶりに戻ったと思ったら、腹をくだして、粗相そそうがあってはならないから、またたびをめさして寝かしてある』と言うんだ」

おじさんがそう教える。

おじさんに目利めききを頼んできた客に、与太郎は、
「家にも旦那が一匹いましたが、さかりがついて……」

こんな調子で、小言ばかり。

次に来たのは上方者かみがたものらしい男だが、なにを言っているのかさっぱりわからない。

「わて、中橋なかばし加賀屋佐吉かがやさきち方から参じました。先度せんど、仲買いの弥市やいちの取り次ぎました道具七品どうぐななしなのうち、祐乗ゆうじょう宗乗そうじょう光乗こうじょう三作の三所物みところもの、並びに備前長船びぜんおさふね則光のりみつ四分一しぶいちごしらえ横谷宗珉よこやそうみん小柄こつか付きの脇差わきざし柄前つかまえはな、旦那はんが鉄刀木たがやさんやといやはって、やっぱりありゃ埋もれ木じゃそうにな、木が違うておりまっさかいなあ、念のため、ちょっとお断り申します。自在じざいは、黄檗山おうばくさん金明竹きんめいちく寸胴ずんどうの花いけには遠州宗甫えんしゅうそうほめいが入っております。織部おりべ香合こうごう、のんこの茶碗ちゃわん古池ふるいけかわずとびこむ水の音、と申します。あれは、風羅坊正筆ふうらぼうしょうひつの掛け物で、沢庵たくあん木庵もくあん隠元禅師いんげんぜんじ貼り交ぜの小屏風こびょうぶ、あの屏風びょうぶはなあ、もし、わての旦那の檀那寺だんなでらが、兵庫ひょうごにおましてな、この兵庫ひょうご坊主ぼうずの好みまする屏風びょうぶじゃによって、表具ひょうぐへやって兵庫ひょうご坊主ぼうず屏風びょうぶにいたしますと、かようにおことづけを願います」
「わーい、よくしゃべるなあ。もういっぺん言ってみろ」

与太郎になぶられ、三べん繰り返されて、男はしゃべり疲れて帰ってしまう。

おばさんも聞いたが、やっぱりわからない。
おじさんが帰ってきたが、わからない人間に報告されても、よけいわからない。

「仲買いの弥市が気がふれて、遊女ゆうじょ孝女こうじょで、掃除そうじが好きで、千ゾや万ゾと遊んで、しまいに寸胴斬ずんどぎりにしちゃったんです。小遣いがないから捕まらなくて、隠元豆いんげんまめ沢庵たくあんばっかり食べて、いくら食べてものんこのしゃあ。それで備前びぜんの国に親船おやふねで行こうとしたら、兵庫ひょうごへ着いちゃって、そこに坊さんがいて、周りに屏風びょうぶを立てまわして、中で坊さんと寝たんです」
「さっぱりわからねえ。どこか一か所でも、はっきり覚えてねえのか」
「たしかか、古池に飛び込んだとか」
「早く言いなさい。あいつに道具七品が預けてあるんだが、買ってったか」
「いいえ、買わず(蛙)です」

【しりたい】

ネタ本は狂言  【RIZAP COOK】

前後半で出典が異なり、前半の笠を借りに来る部分は、狂言「骨皮」をもとに、初代石井宗叔いしいそうしゅく(?-1803)が小咄「夕立」としてまとめたものをさらに改変したとみられます。

類話に享和2年(1802)刊の十返舎一九作「臍くり金」中の「無心の断り」があり、現行にそっくりなので、これが落語の直接の祖形でしょう。

一九はこれを、おなじみ野次喜多の『続膝栗毛』にも取り入れています。

「夕立」との関係は、「夕立」が著者没後の天保10年(1839)の出版(『古今秀句落し噺』に収録)なので、どちらがパクリなのかはわかりません。

後半の珍口上は、初代林屋正蔵はやしやしょうぞう(1781-1842)が天保てんぽう5年(1834)刊の自作落語集『百歌撰ひゃっかせん』中に入れた「阿呆あほう口上こうじょうナ」が原話。

これは与太郎が笑太郎しょうたろうとなっているほかは弥市の口上の文句、「買わず」のオチともまったく同じです。

前半はすでに文化4年(1807)刊の落語ネタ帳『滑稽集』(喜久亭寿曉きくていじゅぎょう)に「ひん僧」の題で載っているので、江戸落語としてはもっとも古いものの一つです。

前後を合わせて「金明竹」として一席にまとめられたのは、明治時代になってからと思われます。

「骨皮」のあらすじ  【RIZAP COOK】

シテが新発意しんぼち(出家したての僧)で、ワキが住職。

檀家の者が寺に笠を借りに来るので、新発意が貸してやり、住職に報告したところ、ケチな住職が「辻風で骨皮バラバラになって貸せないと断れ」と叱る。次に馬を借りに来た者に笠の口上で断ると、住職は「バカめ。駄狂い(発情による乱馬)したと断れ」。今度はお経を頼みに来た者に、「住職は駄狂い」と断った。聞いた住職が怒り、新発意が「お師匠さまが門前の女とナニしているのは『駄狂い』だ」と口答えして、大ゲンカになる筋立て。

ボタンの掛け違いの珍問答は、民話の「一つ覚え」にヒントを得たとか。

「夕立」のあらすじ  【RIZAP COOK】

主人公(与太郎)は権助、ワキが隠居。笠、猫と借りに来るくだりは現行と同じです。

三人目が隠居を呼びに来ると、「隠居は一匹いますが、糞の始末が悪いので貸せない」。隠居が怒って「疝気が起こって行けないと言え」と教えると次に蚊いぶしに使う火鉢を借りに来たのにそれを言い、どこの国に疝気で動けない火鉢があると、また隠居が叱ると権助が居直って「きんたま火鉢というから、疝気も起こるべえ」

石井宗叔いしいそうしゅくは医者、幇間、落語家を兼ねる「おたいこ医者」で、長噺の祖といわれる人。

東京に逆輸入  【RIZAP COOK】

この噺、前半の「骨皮ほねかわ」の部分は、純粋な江戸落語のはずながらなぜか幕末には演じられなくなっていて、かえって上方でよく口演されました。

明治になってそれがまた東京に逆輸入され、後半の口上の部分が付いてからは、四代目橘家円喬えんきょう(柴田清五郎、1865-1912)、さらに三代目三遊亭円馬(橋本卯三郎、1882-1945、大阪→東京)が得意にしました。

円喬は特に弥市の京都弁がうまく、同じ口上を三回リピートするのに、三度とも並べる道具の順序を変えて演じたと、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)が語っています。

代表的な前座の口慣らしのための噺として定着していますが、先の大戦後は五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)、六代目円生、三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)など、多数の大看板が手がけました。

なかでも金馬は、昭和初期から戦後にかけ、流麗な話術で「居酒屋」と並び十八番としました。CDは三巨匠それぞれ残っています。

口上の舌の回転のなめらかさでは金馬がピカ一だったでしょう。志ん生は、前半部分を再び独立させて演じ、後半はカットしていました。十代目柳家小三治(郡山剛蔵、1939-2021)のもあります。

言い立ての中身

この噺の言い立て、要は道具七品を説明しているのです。整理してみましょう。

その1 備前長船則光の脇差
脇差とは一般的な日本刀よりも短い刀剣。後藤祐乗(1440-1512、初代)、後藤宗乗(1461-1538、二代)、後藤光乗(1529-1620、四代)は後藤家の金工。後藤は金細工の流派。三所物とは、刀の柄の目貫、小柄、笄の三品で、備前長船の柄のこしらえ(飾り)。目貫は柄の中央の表裏に据えられた小さな金具。小柄は刀の鞘に付けられた細工用の小刀。笄は刀の差表に挿しておき、髪をなでつけるのに用いるもの。拵えとは刀の外装。横谷宗珉の四分一分(銀と銅の合金、その割合で、灰黒色の金物)とは小柄の拵のこと。柄前とは刀の柄、刀の柄の体裁、柄のつくりをさします。柄前は鉄刀木ではなく埋もれ木。埋もれ木とは地層中に埋もれて化石ようになった樹木。ここでは、三所物と脇差で一品と数えているようです。

その2 金明竹の自在鉤
自在鉤じざいかぎとは、囲炉裏いろりの上にぶら下がっている金属製の鉤をつなげた竹のこと。金明竹とは、マダケの栽培品種。かん(茎のこと)、枝は黄色を帯び、緑条が入ります。竹の皮は黄色。別名は、しまだけ、ひょんちく、あおきたけ、きんぎんちく、べっこうちく。

その3 金明竹の花いけ
金明竹を寸胴に切った素朴な花いけ。寸胴は上から下まで同じように太いこと。遠州宗甫は小堀遠州のこと。小堀遠州(1579-1647)は茶人。宗甫の銘(器物に刻み記した作者の名前)が入った花いけですが、華道遠州という生花の流派があります。小堀遠州を祖と仰いでいます。これとは別に、茶道には遠州流という流派があります。

その4 織部の香合
織部は古田織部(1544-1614)。武将で茶人。利休七哲の一人です。織部が作った香合。香合とは茶道で香を入れる蓋付き容器です。

その5 のんこの茶碗
のんことは、楽焼らくやき本家の三代目楽吉左衛門家当主の楽道入らくどうにゅう(1599-1656)の俗称。ここでは、道入の作った楽焼茶碗のことです。

その6 松尾芭蕉の掛け軸
風羅坊とは松尾芭蕉(1644-94)の坊号。正筆は真筆。芭蕉が書いた掛け軸ということですね。

その7 沢庵、木庵、隠元禅師貼り交ぜの小屏風
三人の僧侶がそれぞれに記した書を、ひとつの屏風に貼り合わせたもの。貼り交ぜの常識では、隠元隆琦いんげんりゅうき(1592-1673)、木庵性瑫もくあんしょうとう(1611-84)、即非如一そくひじょいつ(1616-1671)の三人が一般的で、これは煎茶に用いる道具です。三者とも黄檗宗の高僧です。沢庵宗澎たくあんそうほう(1573-1646)のは抹茶に用いるもの。ですから、沢庵、木庵、隠元の貼り交ぜはありません。ここはおかしい。

祐乗  【RIZAP COOK】

後藤祐乗ごとうゆうじょう

(1440-1512)は室町時代の装剣彫刻の名工です。足利義政あしかがよしまさ庇護ひごを受け、特に目貫めぬきにすぐれた作品が多く残ります。

後藤光乗ごとうこうじょう(1529-1620)はその曽孫そうそんで、やはり名工として織田信長に仕えました。

長船  【RIZAP COOK】

長船おさふねは鎌倉時代の備前国びぜんのくに(岡山県)の刀工・長船氏。備前派、長船派といわれる刀工グループです。

祖の光忠みつただは鎌倉時代の人。子の長光ながみつ(1274-1304)、弟子の則光のりみつなど、代々名工を生みました。

宗珉  【RIZAP COOK】

横谷宗珉よこやそうみん(1670-1733)は江戸時代中期の金工きんこうで、絵画風彫金ちょうきんの考案者。小柄こつか獅子牡丹ししぼたんなどの絵彫りを得意にしました。

金明竹  【RIZAP COOK】

中国福建省ふっけんしょう原産の黄金色の名竹です。

福建省の黄檗山万福寺おうばくさんまんぷくじから日本に渡来し、黄檗宗おうばくしゅうの開祖となった隠元隆琦いんげんりゅうき(1592-1673)が、来日して宇治に同名の寺を建てたとき、この竹を移植し、それが全国に広まりました。

観賞用、または筆軸、煙管きせる羅宇らおなどの細工に用います。隠元には多数の工匠が同行し、彫刻を始め日本美術に大きな影響を与えましたが、金明竹を使った彫刻もその一つです。

漱石がヒントに?  【RIZAP COOK】

『吾輩は猫である』の中で、二絃琴にげんきんの師匠の飼い猫・三毛子みけこの珍セリフとして書かれている「天璋院てんしょういん様の御祐筆ごゆうひつの妹の御嫁に行った先きの御っかさんの甥の娘」。

これは、落語マニアで三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)や初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、自称三代目)がひいきだった漱石が「金明竹」の言い立てからヒントを得たという説(半藤一利はんどうかずとし氏)があります。

落語にはこの手のくすぐりがかなりあるもので、なんとも言えません。

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だいくしらべ【大工調べ】落語演目



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【どんな?】

店賃滞納で大家に道具箱を取り上げられた大工の与太。
棟梁が乗り込んだが、功なくお白州へ。奉行は質株の有無を訊く。
道具箱が店賃のかたなら質株が要る。ないので大家にとがあり。
大家は与太に手間賃を払うことで一件落着。

別題:大岡裁き あた棒

あらすじ

神田小柳町かんだこやなぎちょうに住む大工の与太郎よたろう

ぐずでのろまだが、腕はなかなか。

老母と長屋暮らしの毎日だ。

ここのところ仕事に出てこない与太郎を案じた棟梁とうりゅう政五郎まさごろうが長屋までやって来ると、店賃たなちんのかたに道具箱を家主いえぬし源六げんろくに持っていかれてしまったとか。

仕事に行きたくても行けないわけ。

四か月分、計一両八百文ためた店賃のうち、一両だけ渡して与太郎に道具箱を取りに行かせる。

政五郎に「八百ばかりはおんの字だ、あたぼうだ」と教えられた与太郎、うろおぼえのまま源六に「あたぼう」を振り回し、怒った源六に「残り八百持ってくるまで道具箱は渡せない」と追い返される。

与太郎が
「だったら一両返せ」
と言えば
「これは内金にとっとく」
と源六はこすい。

ことのなりゆきを聞いた政五郎、らちがあかないと判断。

与太郎とともに乗り込むが、源六は強硬だ。

「なに言ってやがんでえ。丸太ん棒と言ったがどうした。てめえなんざ丸太ん棒にちげえねえじゃねえか。血も涙もねえ、目も鼻も口もねえ、のっぺらぼうな野郎だから丸太ん棒てんだ。呆助ほうすけ藤十郎とうじゅうろう、ちんけいとう、芋っぽり、株かじりめ。てめえたちに頭を下げるようなおあにいさんとおあにいさんのできが、すこうしばかり違うんだ。ええ、なにを言いやがんだ。下から出りゃつけ上がり、こっちで言う台詞せりふだ、そりゃ。だれのおかげで大家おおやだの町役ちょうやくだの言われるようになったでえ。大家さん大家さんと、下から出りゃその気になりゃあがって、俺がてめえの氏素性うじすじょうをすっかり明かしてやるから、びっくりして赤くなったり青くなったりすんな。おう、おめえなんざな、元はどこの馬の骨だか牛の骨だかわかんねえまんま、この町内に流れ込んで来やがった。そん時のざまあ、なんでえ。寒空に向かいやがって、洗いざらしの浴衣ゆかた一枚でガタガタガタガタ震えやがって、どうかみなさんよろしくお願いしまうってんで、ペコペコ頭を下げてたのを忘れやしめえ。さいわいと、この町内の人はお慈悲じひ深いや。かわいそうだからなんとかしてやりましょうてんで、この常番じょうばんになったんだ。一文の銭、二文の銭をもらいやがって、あっちへ行ったりこっちへ行ったり、この町内の使いやっこじゃねえか。なあ、そのてめえの運の向いたのはなんだ。六兵衛番太ろくべえばんたが死んだからじゃねえか。六兵衛のことを忘れるとバチが当たるぞ。おう、源六さん、おなかがすいたら、うちのいもを持っていきなよ、寒かったらこの半纏はんてんを着たらだらどうだいってんで、なにくれとなくてめえのめんどうを見てた。この六兵衛が死んだあと、六兵衛のかかあにつけ込みやがって、おかみさん芋洗いましょう、まき割りましょうってんで、ずるずるべったりに、このうち入り込みやがったんだ。二人でもって爪に火ぃともすように金をためやがってな、高い利息で貧乏人に金貸し付けやがって、てめえのためには何人泣かされてるのかわかんねえんだ。人の恨みのかかった金で株を買いやがって、大家でござい、町役でござい、なに言いやがんだ、てめえなんざ大悪おおわるだ。六兵衛と違って、場違いな芋を買ってきやがって、き付けをしむから生焼なまやけのガリガリの芋だ。その芋を食って、何人死んだかわからねえんだ。この人殺しぃ」

怒った政五郎は 啖呵たんかを切った。

「この度与太郎事、家主源六に二十日余り道具箱を召し上げられ、老いたる母、路頭に迷う」
と奉行所へ訴えた。

お白州で、両者の申し立てを聞いた奉行は、与太郎に、政五郎から八百文を借り、すぐに源六に払うよう申し渡した。

源六は有頂天。

またもお白州。

奉行が源六に尋ねた。
「一両八百のかたに道具箱を持っていったのなら、その方、質株しちかぶはあるのか」
源六「質株、質株はないッ」
奉行「質株なくしてみだりに他人の物を預かることができるか。不届き至極の奴」

結局、質株を持たず道具箱をかたにとったとがで、源六は与太郎に二十日間の大工の手間賃として二百もんめ払うよう申しつけられてしまった。

奉行「これ政五郎、一両八百のかたに日に十匁の手間とは、ちと儲かったようだなァ」
政五郎「へえ、大工は棟梁、調べをごろうじろ(細工はりゅうりゅう、仕上げをごろうじろ)」

しりたい

大家のご乱心

お奉行所の質屋に対する統制は、それは厳しいものでした。質物には盗品やご禁制の品が紛れ込みやすく、犯罪の温床になるので当然なのです。

早くも元禄5年(1692)には惣代会所そうだいかいしょへ登録が義務付けられ、享保きょうほうの改革時には奉行所への帳面の提出が求められました。

株仲間、つまり同業組合が組織されたのは明和年間(1764-72)といわれますが、そのころには株を買うか、譲渡されないと業界への新規参入はできなくなっていました。

いずれにしても、モグリの質行為はきついご法度。大家さん、下手するとお召し取りです。

この長屋の店賃、4か月分で一両八百ということは、月割りで一分二百。高すぎます。

店賃も地域、時代、長屋の形態によって変わりますから一概にはいえませんが、貧乏な裏長屋だと、文政年間(1818-30)の相場で、もっとも安いところで五百文、どんなにぼったくっても七百文がいいところ。ほぼ倍です。(銭約千文=一分、四分=一両)

日本橋の一等地の、二階建て長屋ならこの値段に近づきますが、神田小柳町かんだこやなぎちょうは火事で一町内ごと強制移転させられた代地ですから、地代も安く、店賃もそれほど無茶苦茶ではないはずです。

この噺でおもしろいのは、大家さんの素性です。どんな人が大家さんをしていたのかがうかがい知れるわけです。大家さんは長屋所有者の代行者に過ぎないのですね。

町年寄 名主 月行事

神田小柳町

かんだこやなぎちょう。現在の千代田区神田須田町かんだすだちょう一、二丁目、および神田鍛冶町かんだかじちょう三丁目にあたります。元禄11年(1698)の大火で下谷したや一丁目が焼けた際、代地だいちとして与えられました。

田島誓願寺たじませいがんじ(浄土宗)を経て寛永寺の寺地となっていたため、延享えんきょう2年(1745)以来、寺社奉行の直轄支配地となっています。柳原土手やなぎはらどての下にあったことから、土手の柳から小柳町という町名がついたそうです。

明治時代には「小柳亭」という寄席もありました。

町名は昭和8年(1933)に廃名となりました。

「まち」か「ちょう」か

ところで、落語で町名が出ると、いつも気になります。

田原町たわらまち稲荷町いなりちょう神田小川町かんだおがわまち神田小柳町かんだこやなぎちょう

「〇〇町」の「町」が「ちょう」と読むのか「まち」と読むのか、いつも釈然としません。

例外もあるのですべてに通用するわけではありませんが、江戸でも地方の城下町でも、武家の居住区は「まち」、町人の居住区は「ちょう」と呼びならわしていることが、江戸時代の基本形です。

ひとつの目安になりますね。

代地

江戸での話です。何かの理由で、幕府が強制的に収用した土地の代替地として、与えた別の土地のことです。

町を丸ごと扱う場合もあります。代地だいちに移転したり成立したりした町を、代地町だいちまちといいました。

あたぼう

語源は「当たり前」の「当た」に「坊」をつけた擬人名詞という説、すりこぎの忌み言葉「当たり棒」が元だという説などがあります。

一番単純明快なのは、「あったりめえでえッ、べらぼうめェッ」が縮まったとするもの。さらに短く「あた」とも。

でも、「あたぼう」は、下町では聞いたこともないという下町野郎は数多く、どうも、落語世界での誇張された言葉のひとつのようです。

落語というのは長い間にいろんな人がこねくりまわした果てに作り上げられたバーチャルな世界。

現実にはないものや使わないものなんかがところどころに登場するんです。

それはそれで楽しめるものですがね。

与太郎について

実は普通名詞です。

したがって、正確には「与太郎の〇〇(本名)と呼ばれるべきものでしょう。

元は浄瑠璃の世界の隠語で、嘘、でたらめを意味し、「ヨタを飛ばす」は嘘をつくことです。

落語家によって「世の中の余り者」の意味で馬鹿のイメージが定着されましたが、現立川談志が主張するように、「単なる馬鹿ではなく、人生を遊び、常識をからかっている」に過ぎず、世の中の秩序や寸法に自分を合わせることをしないだけ、と解する向きもあります。

頭と親方

かしらは職人の上に立つ人をさします。

大工、鳶、火消しなど。勇み肌、威勢のよい職業の棟梁とうりゅうを「かしら」と呼びます。火付盗賊改方ひつけとうぞくあらためかたの長谷川平蔵も「かしら」です。勇み肌なんですね。

文字では「長官」と書いたりしますが、あれは便宜上のことで、現代的な呼び名です。自宅で仕事をする職人、これを居職いじょくと言いますが、居職の上に立つ人を親方おやかたといいます。親方は居職ばかりでもなく、役者や相撲の世界でも「親方」と呼ばれます。

こうなると、厳密な言い分けがあるようでないかんじですね。ややこしいことばです。

【蛇足】

大岡政談のひとつ。

裁き物には「鹿政談」「三方一両損」「佐々木政談」などがある。

政五郎の最後の一言は「細工はりゅうりゅう、仕上げをごろうじろ」のしゃれ。

棟梁を「とうりょう」でなく「とうりゅう」と呼ぶ江戸っ子ことばがわからないとピンとこない。

明治24年(1891)に禽語楼きんごろう小さんがやった「大工の訴訟しらべ」の速記には、「棟梁」の文字に「とうりゃう」とルビが振られている。

これなら「とうりょう」と発音するのだが。落語を聴いていると、ときにおかしな発音に出くわすものだ。

「大工」は「でえく」だし、「若い衆」を「わけえし」「わかいし」と言っている。

「遊び」は「あすび」と聞こえるし、「女郎買い」は「じょうろかい」と聞こえる。

歯切れがよい発音を好み、次のせりふの言い回しがよいように変化させているようだ。

池波正太郎は、落語家のそんな誇張した言いっぷりが気に入らなかった。

「下町で使われることばはあんなものではなかった。いつかはっきり書いておかなくてはならない」と書き散らしたまま、逝ってしまった。はっきり書いておいてほしかったものである。

この噺では、貨幣が話題となっている。

江戸時代では、金、銀、銭の3種類の貨幣を併用していた。

ややこしいが、一般的なところを記しておく。

1両=4分=16朱。金1両=銀60匁=銭4貫文=4000文。

いまの価格にすると、1両は約8万円、1文は20円となるらしい。

ただし、消費天国ではなかったから、つましく暮らせば1両でしのげた時代。

いまの貨幣価値に換算する意味はあまりないのかもしれない。

1両2分800文とは、6800文相当となる。

幕末期には裏長屋の店賃が500文だった。

ということは、13か月余相当の額。

五代目古今亭志ん生は「4か月」ためた店賃が「1両800」とやっている。

月当たり1200文。うーん、与太郎は高級長屋に住んでいたのだろうか。

質株とは質屋の営業権。

江戸、京阪ともに株がないと質屋を開業できなかった。

享保8年(1723)、江戸市中の質屋は253組、2731人いたという。ずいぶんな数である。

もぐりも多くいたそうだから、このような噺も成り立ったのだろう。

勘兵衛の職業は家主。落語でおなじみの「大家さん」のことだ。

「大家といえば親も同然」と言われながらも、地主(家持)に雇われて長屋を管理するだけの人。

地主から給金をもらい、地主所有の家を無料で借りて住んでいる。

マンションの管理人のような存在である。オーナーではない。

この噺では、大家の因業ぶりがあらわだ。

こんなこすい大家もいたものかと、政五郎や与太郎以上に人間臭くて親近感がわいてくる。

古木優     

町奉行



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ながやのはなみ【長屋の花見】落語演目

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【どんな?】

貧乏長屋が花見に出かける。
茶を酒に、こうこを蒲鉾に、沢庵を玉子焼きに、酔ったふりする。
「大家さん、近々長屋にいいことがあります」
「そんなことがわかるのかい」「酒柱が立ちました」

別題:隅田の花見 貧乏花見(上方)

【あらすじ】

貧乏長屋の一同が、朝そろって大家に呼ばれた。

みんな、てっきり店賃の催促だろうと思って、戦々恐々。

なにしろ、入居してから18年も店賃を一度も入れていない者もいれば、もっと上手はおやじの代から払っていない。

すごいのは
「店賃てな、なんだ」

おそるおそる行ってみると、大家が
「ウチの長屋も貧乏長屋なんぞといわれているが、景気をつけて貧乏神を追っぱらうため、ちょうど春の盛りだし、みんなで上野の山に花見としゃれ込もう」
と言う。

「酒も一升瓶三本用意した」
と聞いて、一同大喜び。

ところが、これが実は番茶を煮だして薄めたもの。

色だけはそっくりで、お茶けでお茶か盛り。

玉子焼きと蒲鉾の重箱も、
「本物を買うぐらいなら、むりしても酒に回す」
と大家が言う通り、中身は沢庵と大根のコウコ。

毛氈も、むしろの代用品。

「まあ、向こうへ行けば、がま口ぐれえ落ちてるかもしれねえ」
と、情なくも、さもしい料簡で出発した。

初めから意気があがらないことはなはだしく、出掛けに骨あげの話をして大家に怒られるなどしながら、ようやく着いた上野の山。

桜は今満開で、大変な人だかり。

毛氈のむしろを思い思いに敷いて、
「ひとつみんな陽気に都々逸でもうなれ」
と大家が言っても、お茶けでは盛り上がらない。

誰ものみたがらず、一口で捨ててしまう。

「熱燗をつけねえ」
「なに、焙じた方が」
「なにを言ってやがる」

「蒲鉾」を食う段になると
「大家さん、あっしゃあこれが好きでね、毎朝味噌汁の実につかいます。胃の悪いときには蒲鉾おろしにしまして」
「なんだ?」
「練馬の方でも、蒲鉾畑が少なくなりまして。うん、こりゃ漬けすぎで、すっぺえ」

玉子焼きは
「尻尾じゃねえとこを、くんねえ」

大家が熊さんに、
「おまえは俳句に凝ってるそうだから、一句どうだ」
と言うと
「花散りて死にとうもなき命かな」
「散る花をナムアミダブツと夕べかな」
「長屋中歯をくいしばる花見かな」

陰気でしかたがない。

月番が大家に、
「おまえはずいぶんめんどう見てるんだから、景気よく酔っぱらえ」
と命令され、ヤケクソで
「酔ったぞッ。オレは酒のんで酔ってるんだぞ。貧乏人だってばかにすんな。借りたもんなんざ、利息をつけて返してやら。くやしいから店賃だけは払わねえ」
「悪い酒だな。どうだ。灘の生一本だ」
「宇治かと思った」
「口あたりはどうだ」
「渋口だ」

酔った気分はどうだと聞くと
「去年、井戸へ落っこちたときと、そっくりだ」

一人が湯のみをじっと見て
「大家さん、近々長屋にいいことがあります」
「そんなことがわかるのかい」
「酒柱が立ちました」

底本:八代目林家正蔵(彦六)

【しりたい】

明治の奇人、馬楽十八番

上方落語「貧乏花見」を、明治37年(1904)ごろ、三代目蝶花楼馬楽(本間弥太郎、1864-1914)が東京に移しました。

三代目馬楽は、奇人でならした薄幸の天才とされています。

明治38年(1905)3月の、日本橋常磐木倶楽部での第四回(第一次)落語研究会に、まだ二つ目ながら「隅田の花見」と題したこの噺を演じました。

これが事実上の東京初演で、大好評を博し、以後、この馬楽の型で多くの演者が手掛けるようになりました。

上方のものは、筋はほぼ同じですが、大家のお声がかりでなく、長屋の有志が自主的に花見に出かけるところが、江戸(東京)と違うところです。

馬楽から小さんへ

馬楽から、弟弟子の四代目柳家小さん(大野菊松、1888-1947)が継承しました。

小さんは、馬楽が出していた女房連をカット、くすぐりも入れて、より笑いの多い楽しめるものに仕上げました。

そのやり方は五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)に伝えられ、さらにその門下の十代目柳家小三治(郡山剛蔵、1939-2021)の極めつけへとつながっていきました。

オチは、馬楽のものは「酒柱」と「井戸へ落っこった気分」が逆で、後者で落としています。

このほか、上方のオチを踏襲して、長屋の一同がほかの花見客のドンチャン騒ぎをなれあい喧嘩で妨害し、向こうの取り巻きの幇間が酒樽片手になぐり込んできたのを逆に脅し、幇間がビビって「ちょっと踊らしてもらおうと」「うそォつけ。その酒樽はなんだ?」「酒のお代わりを持ってきました」とする場合もあります。

おなじみのくすぐり

どの演者でも、「長屋中歯を食いしばる」の珍句は入れますが、これは馬楽が考案し、百年も変わっていないくすぐりです。

いかに日本人がプロトタイプに偏執するか、これをもってもわかるというものです。

冒頭の「家賃てえのはなんだ」というのもこの噺ではお決まりですが、こちらは上方で使われていたくすぐりを、そのまま四代目小さんが取り入れたものです。

長屋

表長屋は表通りに面し、二階建てや間口の大きなものが多かったのに対し、裏長屋(裏店=うらだな)は新道や横丁、路地に面し、棟割(むねわり、一棟を間口九尺、奥行二間の何棟かに仕切ったもの)になっています。

同じ裏長屋でも、路地に面した外側は鳶頭や手習いの師匠など、ある程度の地位と収入のある者が、木戸内の奥は貧者が住むのが一般的でした。

上野の桜

「花の雲鐘は上野か浅草か」という、芭蕉の有名な句でも知られた上野山は、寛永年間(1624-44)から開けた、江戸でもっとも古く、由緒ある花の名所でした。

しかし、寛永寺には将軍家の霊廟があり、承応3年(1654)以来、皇族の門主の輪王寺宮が住職を務める、江戸でもっとも「神聖」な地となったため、下々の乱痴気騒ぎなどもってのほか。

「山同心」が常時パトロールして目を光らせ、暮れ六つ(午後六時ごろ)には山門は閉じられる上、花の枝を一本折ってもたちまち御用となるとあって、窮屈極まりないところでした。

そのため、上野の桜はもっぱら文人墨客の愛するものとなり、市民の春の行楽地としては、次第に後から開発された、品川の御殿山、王子の飛鳥山、向島に取って代わられました。

したがって、たとえ「代用品」ででも花見でのめや歌えをやらかそうと思えば、この噺にかぎっては、厳密には時代を明治以後にするか場所を向島にでも変えなければならないわけです。

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あおな【青菜】落語演目

【RIZAP COOK】



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【どんな?】

お屋敷で聞きかじった隠し言葉を、長屋でまねる植木屋。
訪れた熊を相手に、植木屋が「おーい、奥や」
女房が「鞍馬山から牛若丸がいでましてその名を九郎判官義経」
女房が先に言ってしまったから、植木屋は「うーん、弁慶にしておけ」

別題:弁慶

あらすじ

さるお屋敷で仕事中の植木屋、一休みでだんなから「酒は好きか」と聞かれる。

もとより酒なら浴びるほうの口。

そこでごちそうになったのが、上方かみがた柳影やなぎかげという「銘酒」だが、これは実は「なおし」という安酒の加工品。

なにも知らない植木屋、暑気払いの冷や酒ですっかりいい心持ちになった上、鯉の洗いまで相伴して大喜び。

「時におまえさん、菜をおあがりかい」
「へい、大好物で」

ところが、次の間から奥さまが
「だんなさま、鞍馬山くらまやまから牛若丸うしわかまるいでまして、名を九郎判官くろうほうがん
と妙な返事。

だんなもだんなで
「義経にしておきな」

これが、実は洒落で、菜は食べてしまってないから「菜は食らう(=九郎)」、「それならよしとけ(=義経)」というわけ。

客に失礼がないための、隠し言葉だという。

植木屋、その風流にすっかり感心して、家に帰ると女房に
「やい、これこれこういうわけだが、てめえなんざ、亭主のつらさえ見りゃ、イワシイワシってやがって……さすがはお屋敷の奥さまだ。同じ女ながら、こんな行儀のいいことはてめえにゃ言えめえ」
「言ってやるから、鯉の洗いを買ってみな」

もめているところへ、悪友の大工の熊五郎。

こいつぁいい実験台とばかり、女房を無理やり次の間……はないから押し入れに押し込み、熊を相手に
「たいそうご精がでるねえ」
から始まって、ご隠居との会話をそっくり鸚鵡返おうむがえし……しようとするが……。

「青いものを通してくる風が、ひときわ心持ちがいいな」
「青いものって、向こうにゴミためがあるだけじゃねえか」
「あのゴミためを通してくる風が……」
「変なものが好きだな、てめえは」
「大阪の友人から届いた柳影だ。まあおあがり」
「ただの酒じゃねえか」
「さほど冷えてはおらんが」
「燗がしてあるじゃねえか」
「鯉の洗いをおあがり」
「イワシの塩焼きじゃねえか」
「時に植木屋さん、菜をおあがりかな」
「植木屋はてめえだ」
「菜はお好きかな」
「大嫌えだよ」

タダ酒をのんで、イワシまで食って、今さら嫌いはひどい。

ここが肝心だから、頼むから食うと言ってくれと泣きつかれて
「しょうがねえ。食うよ」
「おーい、奥や」

待ってましたとばかり手をたたくと、押し入れから女房が転げ出し、
「だんなさま、鞍馬山から牛若丸がいでまして、その名を九郎判官義経」
と、先を言っちまった。

亭主は困って
「うーん、弁慶にしておけ」

底本:五代目柳家小さん

【RIZAP COOK】

しりたい

青菜とは   【RIZAP COOK】

三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)が、上方から東京に移した噺です。

東京(江戸)では主に菜といえば、一年中見られる小松菜をいいます。

冬には菜漬けにしますが、この噺では初夏ですから、おひたしにでもして出すのでしょう。

値は三文と相場が決まっていて、「青菜(は)男に見せるな」という諺がありました。

これは、青菜は煮た場合、量が減るので、びっくりしないように亭主には見せるな、の意味ですが、なにやら、わかったようなわからないような解釈ですね。

柳影は夏の風物詩   【RIZAP COOK】

柳影とは、みりんとしょうちゅうを半分ずつ合わせてまぜたものです。

江戸では「直し」、京では「やなぎかげ」と呼びました。

夏のもので、冷やして飲みます。暑気払いによいとされていました。

みりんが半分入っているので甘味が強く、酒好きには好まれません。夏の風物詩、年中行事のご祝儀ものとしての飲み物です。

これとは別に「直し酒」というのがあります。粗悪な酒や賞味期限を過ぎたような酒をまぜ香りをつけてごまかしたものです。

イワシの塩焼き   【RIZAP COOK】

鰯は江戸市民の食の王様で、天保11年(1840)正月発行の『日用倹約料理仕方角力番付』では、魚類の部の西大関に「目ざしいわし」、前頭四枚目に「いわししほやき(塩焼き)」となっています。

とにかく値の安いものの代名詞でしたが、今ではちょっとした高級魚です。

隠語では、女房ことば(「垂乳根」参照)で「おほそ」、僧侶のことばでは、紫がかっているところから、紫衣からの連想で「大僧正」と呼ばれました。

判官   【RIZAP COOK】

源義経は源義朝の八男ですから、八郎と名乗るべきなのですが、おじさんの源為朝が鎮西八郎為朝と呼ばれることから、遠慮して「九郎」と称していたといわれています。

これは、「そういわれていた」ことが重要で、ならばこそ、後世の人々は「九郎判官義経」と呼ぶわけです。

それともうひとつ。判官は、律令官制で、各官司(役所)に置かれた4階級の幹部職員の中の三番目の職位をいいます。

4階級の幹部職員とは四等官制と呼ばれるものです。

上から、「かみ」「すけ」「じょう」「さかん」と呼ばれました。

これを役所ごとに表記する文字さまざまです。表記の主な例は以下の通り。

かみ(長官):伯、卿、大夫、頭、正、尹、督、帥、守
すけ(次官):副、輔、亮、助、弼、佐、弐、介
じょう(判官):祐、丞、允、忠、尉、監、掾
さかん(主典):史、録、属、疏、志、典、目

この一覧の字づらを覚えておくとなにかと便利なのですが、それはともかく。

義経は、朝廷から検非違使の尉に任ぜられたことから、「九郎判官義経」と呼ばれるのです。

もっとも、兄の頼朝の許可をもらうことなく受けてしまったため、兄からにらまれ始め、彼らの崩壊のきっかけともなりました。

朝廷のおもわくは二人の仲を裂かせて弱体化させようとするところにありました。

戦うことにしか関心がなくて政治の闇に疎い、武骨で好色な青年はいいカモだったのでしょう。

「判官」は「はんがん」が普通の呼び方ですが、検非違使の尉の職位を得た義経に関しては「ほうがん」と呼びます。

検非違使では「ほうがん」と呼んだらしいのです。

検非違使は「けびいし」と読み、都の警察機関です。

ちなみに、「ほうがんびいき」とは「判官贔屓」のことです。

兄に討たれた義経の薄命を同情することから、弱者への同情や贔屓ぶりを言うわけです。

弁慶、そのココロは   【RIZAP COOK】

オチの「弁慶」は「考えオチ」というやつで、「立ち往生」の意味を利かせています。

今では、『義経記』に描かれる弁慶立ち往生の故事がわかりづらくなったり、「途方にくれる、困る」という意味の「立ち往生」が死語化している現在では、説明なしには通じなくなっているかもしれません。

上方では人におごられることを「弁慶」というので、(これは上方落語「舟弁慶」のオチにもなっています)このシャレにはその意味も加わっているでしょう。

弁慶は、『吾妻鏡』には「弁慶法師」と1回きりの登場だそうです。

まあ、鎌倉幕府の視点からはどうでもよい存在だったのでしょう。

負け組ですから。

それでも、主君を支える忠義な男、剛勇無双のスーパースターとしては、今でも最高の人気を得ています。

小里ん語り、小さんの芸談   【RIZAP COOK】

この噺は柳家の十八番といわれています。

ならば、芸談好きの代表格、五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)の芸談を聴いてみましょう。弟子の小里ん師が語ります。

植木屋が帰ったとき、「湯はいいや。飯にしよう」って言うでしょ。あそこは、「一日サボってきた」っていう気持ちの現れなんだそうです。「お客さんに分かる分からないは関係ない。話を演じる時、そういう気持ちを腹に入れておくことを、自分の中で大事にしろ」と言われましたね。だから、「湯はいいや。飯にしよう」みたいな言葉を、「無駄なセリフ」だと思っちゃいけない。無駄だといって刈り込んでったら、落語の科白はみんななくなっちゃう。そこを、「なんでこの科白が要るんだろうって考えなきゃいけない。落語はみんなそうだ」と師匠からは教えられました

五代目小さん芸語録柳家小里ん、石井徹也(聞き手)著、中央公論新社、2012年

なるほどね。芸態の奥は深いです。

「青菜」の演者

三代目小さんが持ってきた話ですから、四代目柳家小さん(大野菊松、1888-1947)も得意にしていました。四代目から五代目に。

柳家の噺家はよくやります。

もちろん、十代目柳家小三治(郡山剛蔵、1939-2021)も引き継いでいます。文句なしです。絶品です。還暦を過ぎた頃からのが聴きごたえあります。



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しにがみ【死神】落語演目



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【どんな?】

円朝作とされる、古典落語の傑作。
元ネタは、イタリアやドイツにあるんだそうです。
日本にはない思いつき。

別題:全快 誉れの幇間

あらすじ

借金で首が回らなくなった男、金策に駆け回るが、誰も貸してくれない。

かみさんにも、金ができないうちは家には入れないと追い出され、ほとほと生きるのがイヤになった。

一思いに首をくくろうとすると、後ろから気味の悪い声で呼び止める者がある。

驚いて振り返ると、木陰からスッと現れたのが、年の頃はもう八十以上、痩せこけて汚い竹の杖を突いた爺さん。

「な、なんだ、おめえは」
「死神だよ」

逃げようとすると、死神は手招きして、「こわがらなくてもいい。おまえに相談がある」と言う。

「おまえはまだ寿命があるんだから、死のうとしても死ねねえ。それより もうかる 商売をやってみねえな。医者をやらないか」

もとより脈の取り方すら知らないが、死神が教えるには
「長わずらいをしている患者には必ず、足元か枕元におれがついている。足元にいる時は手を二つ打って『テケレッツノパ』と唱えれば死神ははがれ、病人は助かるが、枕元の時は寿命が尽きていてダメだ」
という。

これを知っていれば百発百中、名医の評判疑いなしで、もうかり放題である。

半信半疑で家に帰り、ダメでもともとと医者の看板を出したが、間もなく日本橋の豪商から使いが来た。

「主人が大病で明日をも知れないので、ぜひ先生に御診断を」
と頼む。

行ってみると果たして、病人の足元に死神。

「しめた」
と教えられた通りにすると、アーラ不思議、病人はケロりと全快。

これが評判を呼び、神のような名医というので往診依頼が殺到し、たちまち左ウチワ。

ある日、こうじ町の伊勢屋宅からの頼みで出かけてみると、死神は枕元。

「残念ながら助かりません」
と因果を含めようとしたが、先方はあきらめず、
「助けていただければ一万両差し上げる」
という。

最近愛人に迷って金を使い果たしていた先生、そう聞いて目がくらみ、一計を案じる。

死神が居眠りしているすきに蒲団をくるりと反回転。

呪文を唱えると、死すべき病人が生き返った。

さあ死神、怒るまいことか、たちちニセ医者を引っさらい、薄気味悪い地下室に連れ込む。

そこには無数のローソク。

これすべて人の寿命。

男のはと見ると、もう燃え尽きる寸前。

「てめえは生と死の秩序を乱したから、寿命が伊勢屋の方へ行っちまったんだ。もうこの世とおさらばだぞ」
と死神の冷たい声。

泣いて頼むと、
「それじゃ、一度だけ機会をやる。てめえのローソクが消える前に、別のにうまくつなげれば寿命は延びる」

つなごうとするが、震えて手が合わない。

「ほら、消える。……ふ、ふ、消える」

しりたい

異色の問題作

なにしろ、この噺のルーツや成立過程をめぐって、とうとう一冊の本になってしまった(『落語「死神」の世界』西本晃二、青蛙房、2002年)ぐらいです。

一応、原話はグリム童話「死神の名付け親」です。

それを劇化したイタリアのコミック・オペラ「クリスピーノと死神」の筋を、三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)が福地桜痴あたりから聞き込んで、落語に翻案したものと言われます。

東西の死神像

ギリシアやエジプトでは、生と死を司る運命もしくは死の神。

キリスト教世界の死神は、よく知られた白骨がフードをかぶり、大鎌を持った姿で、悪魔、悪霊と同一視されます。

日本では、この噺のようにぼろぼろの経帷子きょうかたびらをまとった、やせた老人で、亡者もうじゃの悪霊そのもの。

ところが、落語版のこの「死神」では、筋の上では、西洋の翻案物のためか、ギリシア風の死をつかさどる神という、新しいイメージが加わっています。

芝居の死神

三代目尾上菊五郎(1784-1849、音羽屋)以来の、音羽屋の家の芸で、明治19年(1886)3月、五代目尾上菊五郎(寺島清、1844-1903)が千歳座の「加賀かがとび」で演じた死神は、「頭に薄鼠うすねず色の白粉を塗り、下半身がボロボロになった薄い経帷子にねぎの枯れ葉のような帯」という姿でした。

不気味に「ヒヒヒヒ」と笑い、登場人物を入水自殺に誘います。

客席の円朝はこれを見て喝采したといいます。

この噺の死神の姿と、ぴったり一致したのでしょう。

二代目中村鴈治郎(林好雄、1902-83、成駒屋)がテレビで落語通りの死神を演じましたが、不気味さとユーモラスが渾然一体で、絶品でした。

鴈治郎が演じた死神は、「日本名作怪談劇場」は昭和54年(1979)6月20日-9月12日、東京12チャンネル(テレビ東京)で放送された全13回の怪談ドラマの中の一話でした。

以下が放送分です。「死神」は第10話だったようです。夏の暑いところを狙った企画だったのですね。

第1話「怪談累ヶ淵」(6月20日放送)
第2話「怪談大奥(秘)不開の間」(6月27日放送)
第3話「四谷怪談」(7月4日放送)
第4話「怪談吸血鬼紫検校」(7月11日放送)
第5話「怪談佐賀の怪猫」(7月18日放送)
第6話「怪談利根の渡し」(7月25日放送)
第7話「怪談玉菊燈籠」(8月1日放送)
第8話「怪談夜泣き沼」(8月8日放送)
第9話「怪談牡丹燈籠」(8月15日放送)
第10話「怪談死神」(8月22日放送)
第11話「怪談鰍沢」(8月29日放送)
第12話「怪談奥州安達ヶ原」(9月5日放送)
第13話「高野聖」(9月12日放送)

ハッピーエンドの「誉れの幇間」

初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、自称三代目)は、「死神」を改作して「誉れの幇間たいこ」または「全快」と題し、ろうそくの灯を全部ともして引き上げるというハッピーエンドに変えています。

円遊の「全快」は、善表という幇間が主人公です。

「死神」のやり方

円朝から初代三遊亭円左(小泉熊山、1853-1909、狸の)が継承、先の大戦後は六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)、五代目古今亭今輔(鈴木五郎、1898-1976、お婆さんの)が得意にしました。

円生は、死神の笑いを心から愉快そうにするよう工夫し、サゲも死神が「消える」と言った瞬間、男が前にバタリと倒れる仕種で落としました。

十代目柳家小三治(郡山剛蔵、1939-2021)は、男がくしゃみをした瞬間にろうそくが消えるやり方でした。

 



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ももかわ【百川】落語演目

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【どんな?】

日本橋の料亭を舞台にした、ちぐはぐなおなはし。
実話なんだそうです。

あらすじ

日本橋浮世小路うきよこうじにあった名代の料亭「百川ももかわ」。

葭町よしちょう桂庵けいあん千束屋ちづかやから、百兵衛ひゃくべえという新規の抱え人が送られてきた。

田舎者で実直そうなので、主人は気に入って、当分洗い方の手伝いを、と言っているときに二階の座敷から手が鳴る。

折悪しく髪いが来て、女中はみな髪を解いてしまっているので座敷に出せない。

困った旦那は、百兵衛に、
「来たばかりで悪いが、おまえが用を伺ってきてくれ」
と頼む。

二階では、祭りが近づいたというのに、隣町に返さなくてはいけない四神剣しじんけんを質入れして遊んでしまい、今年はそれをどうするかで、もめている最中。

そこへ突然、羽織を着た得体の知れない男が
「うっひぇッ」
と奇声を発して上がってきたから、一同びっくり。

百兵衛が
「わしゃ、このシジンケ(主人家)のカケエニン(抱え人)でごぜえます」
と言ったのを、早のみ込みの初五郎が「四神剣の掛け合い人」と聞き違え、さては隣町からコワモテが催促に来たかと、大あわて。

ひたすら言い訳を並べ立て、
「決して、あぁたさまの顔はつぶさねえつもりですから、どうぞご安心を」と平身低頭。

百兵衛の方は
「こうだなつまんねえ顔だけんども、はァ、つぶさねえように願えてえ」
と「お願いした」つもりが、初五郎の方は一本釘を刺されたと、ますます恐縮。

機嫌をそこねまいと、酒を勧める。

百兵衛が下戸だと断ると、それならと、初五郎は慈姑くわいのきんとんを差し出して、
「ここんところは一つ、慈姑(=具合)をぐっとのみ込んで(=見逃して)いただきてえんで」

ばか正直な百兵衛、客に逆らってはと、大きな慈姑のかたまりを脂汗あぶらあせ流して丸のみし、目を白黒させて、下りていった。

みんな腹を抱えて笑うのを、初五郎、
「なまじな奴が来て聞いたふうなことを言えばけんかになるから、なにがしという名ある親分が、わざとドジごしらえで芝居をし、最後にこっちの立場を心得たのを見せるため、わざときんとんをのみ込んで笑わしたに違いない」
と一人感心。

一方、百兵衛。

のどをひりつかせていると、二階からまた手が鳴ったので、またなにかのまされるかと、いやいやながらも二階に上がる。

「うっひぇッ」

その奇声に二階の連中は驚いたが、百兵衛が椋鳥むくどりでただの抱え人とわかると、
「長谷川町三光新道さんこうじんみち常磐津歌女文字ときわづかめもじという三味線の師匠を呼んでこい」
と、見下すように言いつける。

「名前を忘れたら、三光新道でかの字のつく名高い人だと聞けばわかるから、百川に今朝けさから河岸かしの若い者が四、五人来ていると伝えろ」と言われ、出かけた百兵衛。

やっぱり名を忘れ、教えられた通りに「かの字のつく名高い人」とそこらへんの職人に尋ねれば「鴨池かもじ先生のことだろう」と医者の家に連れていかれた。

百兵衛が
「かし(魚河岸)の若い方が、けさ(今朝)がけに四、五人き(来)られやして」
と言ったので、鴨池先生の弟子は「袈裟けさがけに斬られた」と誤解。

弟子はすぐさま、先生に伝える。

「あの連中は気が荒いからな。自分が着くまでに、焼酎と白布、鶏卵けいらん二十個を用意するように」
と使いの者に伝えるよう、弟子に言いつける。

百兵衛、にこにこ顔で戻ってきた。

百兵衛の伝言を聞いた若い衆、
「歌女文字の師匠は大酒のみだから、景気づけに焼酎をのみ、白布はさらしにして腹に巻き、卵をのんでいい声を聞かせようって寸法だ」
と、勝手に解釈しているところへ、鴨池先生があたふた駆け込んできた。

「間違えるに事欠いて、医者の先生を呼んできやがって。この抜け作」
「抜け作とは。どのくれえ抜けてますか」
「てめえなんざ、みんな抜けてらい」
「そうかね。かめもじ、かもじ、……いやあ、たんとではねえ。たった一字だ」

底本:六代目三遊亭円生

【RIZAP COOK】

【しりたい】

コマーシャルな落語  【RIZAP COOK】

実在の江戸懐石料理の名店、百川が宣伝のため、実際に店で起こった事件を落語化して流布させたとも、創作させたともいわれます。いずれにしても、こういう成り立ちの噺は、現在これだけでしょう。

ペリーも賞味  【RIZAP COOK】

「百川」は代々日本橋浮世小路に店を構え、「浮世小路」といえばまず、この店を連想するほどの超有名店でした。

もとは卓袱しっぽく(中華風鍋料理のはしり)料理店で、安永6年(1777)に出版された江戸名物評判記『評判江戸自慢』に「百川 さんとう 唐料理」とあります。

創業時期の詳細はわかりませんが、明治32年(1899)の「文藝倶楽部」に載った二代目古今亭今輔(見崎栄次郎、1859-98)の速記によると、芳町よしちょう(=葭町)にあった料亭「百尺」の分店だったとか。

天明年間(1781-89)には最盛期を迎え、文人墨客が書画会などを催す文化サロンとしても有名になりました。

この店の最後の華は、安政元年(1854)にペリー一行が再来日した際、幕命で千両の予算で百川一店のみ饗応を受け持ったことでしょう。

そのときのメニューがまだ残っているといいますが、中でも柿にみりんをあしらったデザートは、彼らを喜ばせたとか。明治初年に廃業しました。

日本橋浮世小路  【RIZAP COOK】  

にほんばしうきよこうじ。中央区日本橋室町むろまち二丁目の東側を入った横丁。

明和年間以後の江戸後期には飲食店が軒を並べ、「百川」は路地の突き当たり右側にあったといいます。

現在、コレド室町の福徳神社あたりに、百川があったそうです。

四神剣  【RIZAP COOK】

しじんけん。祭りに使用した四神旗しじんきです。

四神は四方の神の意味で、青竜せいりゅう(東)、白虎びゃっこ(西)、朱雀すざく(南、朱=深い赤)、玄武げんぶ(北、玄=黒、武=亀と蛇の歩み)の図が描かれ、旗竿にほこがついていたため、この名があります。

神田祭、山王祭のような大祭には欠かせないもので、その年の当番の町が一年間預かり、翌年の当番に当たる町に引き継ぎます。五輪旗のようなものですね。

椋鳥  【RIZAP COOK】

むくどり。この噺の頃、魚河岸は日本橋にありました。河岸の若い衆は日本橋で飲み食いするものでした。

噺の中で若い衆は百兵衛を「椋鳥むくどり」と呼んでいます。椋鳥とは、秋から春にかけて江戸に出稼ぎに来た奉公人のことをいいます。たんに田舎者をののしるだけのことばではなく、地方から江戸に上がってきてそのまま居ついてしまった人たちをもさしました。

多くは人足などの力仕事に従事していました。渡り鳥の椋鳥のように集団で往復することから、江戸者はそのように呼びました。

さげすんだりののしったりする意味合いの強いことばではありません。

慈姑  【RIZAP COOK】

くわい。オモダカ科の多年草。小芋に似た地下の球根を食用とします。

渋を抜き、煮て食べます。原産が中国で、日本では奈良時代には食べられていたそうです。苦みが残って、あまり美味な食材でもなさそうですが。

その頃は、精力食品ながらも食べ過ぎると腎水を減らすと考えられていたようです。ところが江戸期に入ると、精力増強の側面は忘れ去られて、食べると水分を減らすということだけが強調されるようになりました。

江戸期を通して、慈姑は水分を取るもの、が通り相場でした。水がよく出る田んばに慈姑を植えると水を吸い取ってくれる、という笑い話さえ残るほど。

成分にカリウムが多いので利尿作用があるため、水を取ると思われていたのでしょう。天明の飢饉ききんでは救荒作物きゅうこうさくもつとして評価されたせいか、おせち料理に使われたりするのも人々にありがたい食物だから、ということからなのでしょう。

ちなみに、欧米では観賞専用で、食用にするのは東アジア圏だけだそうです。

慈姑のきんとん  【RIZAP COOK】

くわいのきんとん。この噺では「慈姑」そのものではなく「慈姑のきんとん」として登場しています。

慈姑のきんとんは、慈姑をすりつぶして使うのですが、この噺では慈姑が丸ごときんとんの中に入っているふうに描かれています。

一般に、慈姑のきんとんの意味するものは、見かけは栗きんとんに似ているのになかなかのどに通らないということ。

そこで、 理解や納得のしにくい事柄のたとえで使います。久保田万太郎(1889-1963、赤貝)の「樹蔭」には「命令とあれば、無理にものみこまなければならない慈姑のきんとんで」とあります。

久保田は「百川」を踏まえて使っていますね。

久保田は「春泥」で「だってあのこのごろ来た女中。――まるッきし分らないんだ、話が。――よッぽど慈姑のきんとんに出来上っているんだ。」と表現しています。

これだと、 そっけない、人当たりの悪い人間の意味で使っているようです。

山家やまがもんの百兵衛の影がちらつきます。久保田はよほどの「百川」好きだったのですね。

そこで結論。慈姑のきんとん=百兵衛、今風に言えば、慈姑のきんとんは百兵衛の表象である、ということなのだと思います。

長谷川町三光新道  【RIZAP COOK】

はせがわちょうさんこうじんみち。中央区日本橋堀留ほりどめ二丁目の大通り東側にある路地です。

入り口が目抜き通りに面している路地を江戸では新道じんみちと呼びました。

人形町末広の跡地には現在、読売IS(読売新聞社の系列会社でチラシ制作など)の社屋が建っていますが、この隣には刃物のうぶけやがあります。

道路の向かいから眺める光景は一瞬、江戸に導いてくれます。

玄冶店  【RIZAP COOK】

げんやだな。うぶけやは玄冶店げんやだなといわれるところにあります。

近くには、花街の頃から残っている料亭の濱田家はまだやがありますが、こちらも「玄冶店 濱田家」と称しています。

ミシュランガイドや防衛庁の密談(守屋次官と山田商会の)で、一般にも知られるようになりましたね。

玄冶店は、三代将軍家光の御典医だった岡本玄冶おかもとげんやの敷地でした。家光の疱瘡ほうそうを治したことからご褒美に土地を拝領。

玄冶は借家を建てて人々に貸したのでここら一帯は玄冶店と呼ばれるようになりました。町名は新和泉町しんいずみちょう。玄冶店は俗称です。

歌舞伎『与話情浮名横櫛よわなさけうきなのよこぐし』の、与三郎がお富をゆする場は玄冶店の妾宅。

四代目橘家円喬(柴田清五郎、1865-1912)はこの地に住んでいたことから「玄冶店の師匠」とも呼ばれました。

天保期には歌川国芳うかがわくによし(井草孫三郎、1798-1861)が玄冶店に住んでいました。

三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)は少年時に国芳門となって絵師をめざしました。

国芳が日蓮宗の篤信家で絵も描かず連日連夜の題目三昧に気味悪がって、湯島大根畑の実家に戻ってしまいました。

ここらへんは、居職の人々が多く住んでいたようです。

円生が「家元」の噺  【RIZAP COOK】

前述した明治32年(1899)の今輔のものを除けば、古い速記は残されていません。

古くから三遊派(三遊亭)系統の噺で、この噺を戦後、一手専売にしていた六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)は、義父の五代目三遊亭円生(村田源治、1884-1940)から継承していました。

昭和40年代の一時期、若手落語家が競ってこの「百川」をやったことがありましたが、すべて「家元」円生に稽古してもらったものでした。

五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)も時々演じました。

志ん生のオチは、若い衆のリーダーが市兵衛で、「百兵衛に市(=一)兵衛はかなわない」というもの。

これは「多勢に無勢はかなわない」をダジャレにした「たへえ(太兵衛)にぶへえ(武兵衛)はかなわない」という「永代橋」のオチを、さらにくずしたものでしょうが、あまりおもしろくはありません。

円生没後は、五代目三遊亭円楽(吉河寛海、1932-2009)、十代目柳家小三治(郡山剛蔵、1939-2021)らが次代に伝えていました。

十代目金原亭馬生(美濃部清、1928-82)は「鴨池道哲先生」と言っていました。

三代目古今亭志ん朝(美濃部強次、1938-2001)のは絶品でした。

三遊亭円窓も伝えています。三遊亭歌司は、円生から小三治に伝わったものをさらった旨を前ぶりに語っています。

混乱ぶりがにじみ出ていて、独自の味があります。

カモジ先生  【RIZAP COOK】

この噺で、とんだとばっちりを被る鴨池先生。

実在も実在、本名が清水左近源元琳宜珍といういかめしさで、後年、江戸市井で開業したとき、改名して鴨池元琳かもいけげんりん

鴨池は「かもいけ」と読み、「かもじ」は、この噺のゴロ合わせに使えるように、落語家が無断で読み変えただけでしょう。

実にどうも、けしからんもんで。

十一代将軍家斉の御典医を務めたほどの漢方外料(=外科)の名医。

瘍科撮要ようかさつよう』全三巻を口述し、日本医学史に名を残しています。

本来なら町人風情が近寄れもしない身分ながら、晩年は官職を辞して市井で貧しい市民の治療に献身したそうです。

まさに「赤ひげ」そのものでした。

ついでに、八丁堀について

八丁堀は、町奉行付きの与力や同心の居住区でした。

与力は幕府からの拝領地に屋敷を構えていたのですが、その土地はとても広くて半分は使えないままとなります。

そこで与力の副業として、医家、儒学者、歌人、国学者などといった身元判明の諸家に土地を貸していました。

中村静夫「新作八丁堀組屋敷」には、幕末期、原鶴右衛門はらつるえもんの組屋敷に太田元礼(医)、藤島勾当、河辺東山(医)、鴨池元琳(医)が借地していたことが記されています。

他の組屋敷でも医家の借地が多く見られます。

与力が医家に多く貸すのは、御用絡みでけが人が出た場合に急場の施療を頼める心強さも下心にはあったのでしょう。

「袈裟がけに斬られた」事件は、鴨池先生には驚くほどのものではなかったのでしょう。

元吉原の地霊  【RIZAP COOK】

この噺を聴いた明治期東京の人々は「長谷川町三光新道の鴨池元琳先生」ときたら、すぐに岡本玄冶を思い起こしたことでしょう。

鴨池先生が八丁堀にいたことはわかっていますが、三光新道で開業していたかどうかは不明。ここは噺家の脚色かもしれません。

脚色でいいのです。

知られた御典医、岡本玄冶を連想させる噺家のたくらみだったのですから。

長谷川町の隣は元吉原の一帯です。

現在の日本橋人形町界隈。明暦3年(1657)8月には遊郭が浅草裏に移転したため、跡地には地霊がとり憑いたまま私娼窟と化しました。

土地はそんなにたやすく変容しないもの。

見えずとも、地の霊は残るのです。

近所には堺町さかいちょう葺屋町ふきやちょう

こちらは芝居町で、歌舞伎の中村座と市村座、浄瑠璃座や人形操座なんかもあります。

上方から移ってきた芸能系の人々によって町が形成されていった地区です。

その頃の歌舞伎役者は男娼も兼ねていましたから、元吉原変じての葭町には陰間茶屋かげまぢゃやができていきました。

1764年(明和元年)には12軒も。

ところが、1841年(天保12年)10月7日暁七つ半(午前5時)、堺町の水茶屋から起こった火事で、ここら一帯が丸焼けに。

芝居小屋はすべて浅草猿若町に移転させられました。

天保の改革の無粋で厳格な規制によって陰間茶屋は消え、葭町は芳町に変じて艶っぽくてほの明るい花街に模様替えされきました。

深川や霊巌島れいがんじまの花街から移ってきた芸妓たちによって新興の花街が生まれたのです。

明治、大正期には怪しげな私娼窟もありましたが、蠣殻町かきがらちょうが米相場の町に、兜町かぶとちょうが株式の町に変容し、成金が芸妓と安直に遊ぶ町に形成されていきました。

東京でいちばん粋な街です。今もこのあたりの路地裏を歩くと、どこか艶めいた空気を感じるのは、いまだ地霊がひっそりと息遣いしているせいかもしれません。

「百川」は取るに足りないのんきな噺に聴こえます。

じつは、日本橋一帯の表の顔と裏の顔が見え隠れする、きわめてあやしげな上級コースの噺に仕上がっているのだと思います。一度くらいじゃわかりません。

何度も何度も、いろんな噺家の「百川」を聴いていくと、見えてくるものがあります。

いいもんです。

【RIZAP COOK】

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【RIZAP COOK】

らくだ【らくだ】落語演目



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【どんな?】

長屋の嫌われ者が急死。
兄貴分がむりむりに葬式を。
巻き込まれる屑屋の豹変ぶりで立場が逆転。
上方噺。

別題: 駱駝らくだ葬礼そうれん 駱駝の友達

あらすじ

駱駝らくだ」の異名をとる馬さんは、乱暴で業腹ごうはらで町内の鼻つまみ者。

ある夜、フグに当たって、ひとり、あえない最期を遂げた。

翌朝、兄弟分の、これまた似たようなろくでもない男が、らくだの死体を発見した。

葬式ともらいを出してやろうというわけで、らくだの家にあった一切合切の物を売り飛ばして早桶代にすることに決めた。

通りかかった屑屋の久蔵を呼び込んで買わせようとしたが、一文にもならないと言われる。

そこで、長屋の連中に香奠こうでんを出させようと思い立ち、屑屋を脅し、月番のところへ行かせた。

みんならくだが死んだと聞いて万々歳だが、香奠を出さないとなると、らくだに輪をかけたような凶暴な男のこと、なにをするかわからないのでしぶしぶ、赤飯でも炊いたつもりでいくらか包む。

それに味をしめた兄弟分、いやがる屑屋を、今度は大家おおやのところに、今夜通夜つやをするから、酒と肴と飯を出してくれと言いに行かせた。

店賃たなちんを一度も払わなかったあんなゴクツブシの通夜に、そんなものは出せねえ」
「嫌だと言ったら、らくだの死骸にかんかんのうを踊らせに来るそうです」
「おもしれえ、退屈で困っているから、ぜひ一度見てえもんだ」

大家は、いっこうに動じない。

屑屋の報告を聞いて怒った男、それじゃあというので、屑屋にむりやり死人しびとを背負わせ、大家の家に運び込んだので、さすがにけちな大家も降参し、酒と飯を出す。

横町の豆腐屋を同じ手口で脅迫し、早桶代わりに営業用の四斗樽よんとだるをぶんどってくると、屑屋、もうご用済みだろうと期待するが、男はなかなか帰してくれない。

酒をのんでいけと言う。

女房子供が待っていて鍋の蓋が開かないから帰してくれと頼んでも、俺の酒がのめねえかと、すごむ。

モウ一杯、モウ一杯とのまされるうち、だんだん紙屑屋の目がすわってきた。

「やい注げ、注がねえとぬかしゃァ」

酒乱の気が出たので、さしものらくだの兄弟分もビビりだし、立場は完全に逆転。

完全に酒が回った紙屑屋。

「らくだの死骸をこのままにしておくのは心持ちが悪いから、俺の知り合いの落合の安公やすこうに焼いてもらいに行こうじゃねえか。その後は田んぼへでも骨をおっぽり込んでくればいい」

安公に渡す手間賃は、途中にある池田屋という質屋でこの四斗樽を質入れして始末する、という算段。

相談がまとまり、死骸の髪をむしり取って丸めた上、樽に押し込んで、首の骨なんかは折り曲げて、二人差しにないで出発した。

途中の池田屋では案の定、葬式ともらいは質入れできないと抗うところを、内会ないけえの噂をささやけば、質屋の番頭がさらに嫌がって、追っ払いに二両をくれた。

この二両を安に渡せば焼けると、高田馬場を経て落合の火葬場へとっとと向かった。

落合の火葬場に。

お近づきの印に安公と三人でのみ始めたが、いざ焼く段になると、死骸がない。

どこかへ落としたのかと、二人はもと来た道をよろよろと引き返す。

願人坊主がんにんぼうずが一人、酔って寝込んでいたから、死骸と間違えて桶に入れ、焼き場で火をつけると、坊主が目を覚ました。

「アツツツ、ここはどこだ」
「ここは火屋ひやだ」
冷酒ひやでいいから、もう一杯くれ」

底本:五代目古今亭志ん生

【RIZAP COOK】

しりたい

上方落語を東京に  【RIZAP COOK】

元ネタは上方落語の「駱駝らくだ葬礼そうれん」です。

「駱駝の葬礼」では、死人は「らくだの卯之助」、兄貴分は「脳天熊」ですが、東京では、死人は「らくだの馬」、兄貴分は無名です。

「らくだ」は江戸ことばで、体の大きな乱暴者を意味しました。

三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)が東京に移植したものです。明治大正の滑稽噺の名人で名高い噺家ですね。

三代目小さんが京都で修行していた頃、四代目桂文吾(鈴永幸次郎、1865-1915)にならったものとされており、こちらも有名な逸話です。

宮松へ 行けばらくだの 尾まで聞け

「宮松」とは茅場町薬師境内にあった宮松亭のことで、第一次落語研究会(1905-23)のセンターでした。

三代目小さんは第一次落語研究会の中心人物で、上方由来の噺をさかんにおろしていました。

「らくだ」もそのひとつだったのですね。

川柳に詠まれるほどさかんに演じられていたのが、三代目小さんの「らくだ」だったということでしょう。

聴きどころ

この噺の聴きどころはなんといっても、気の弱い紙屑屋が男の無理強いで飲まされ、男との支配被支配の関係が、酒の力でいつの間にか立場が逆転するおかしさです。

後半の願人坊主のくだりはオチもよくないので、今ではカットされることが多くなっています。

これも五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)の十八番の一つで、志ん生は発端を思い切りカットすることもありました。

「生き返らねえように、アタマつぶしとけ」は、志ん生でしか言えない殺し文句です。

実際には、いろんな噺家がやってはいますが、志ん生ほどの凄愴と滑稽は浮かび上がりません。

いかにも五代目志ん生らしい、身も蓋もない噺のイメージがあり、古今亭の系統の噺かと思ってしまいます。

とはいえ、三代目小さん由来ですから、四代目柳家小さん(大野菊松、1888-1947)も五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)も演じてきて、柳家の系統の噺のひとつなんです。

とうぜん、十代目柳家小三治(郡山剛蔵、1939-2021)にまでもつながっていたわけです。

長い噺のため、最後までやる演者はあまりいませんが、柳家小三治は最後までやっていました。40分ないし45分でできる噺なんだそうです。

三代目小さんという噺家は、つまらなそうな顔つきで聴き手を抱腹絶倒の坩堝に陥れたそうですから、これはもう、小三治の芸風と深くかかわっていますね。

らくだの髪の毛をむしりとる演出は、五代目志ん生、八代目三笑亭可楽(麹池元吉、1898-1964)が継承しています。

五代目三遊亭円生(村田源治、1884-1940、デブの)と六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)は、長屋の中の女暮らしの家から剃刀を借りてきて剃る演出にしています。

上品ですが、この噺全体を支える粗雑で豪胆な雰囲気は消えてしまいます。

戦前にエノケン劇団が舞台化し、戦後映画化もされています。まあ、これはもう、どうでもよい話です。

「らくだ」の構成

この噺の構成は、以下の通りです。

①男、兄弟分のらくだが長屋で死んでいるの見つける。
②長屋の前を屑屋が通りかかる。
③男は葬式代捻出のため、らくだの家財を屑屋に売ろうとするが、なにもない。
④男は月番へ香奠を集めるよう、屑屋を使わせ、月番はやむなく応じる。
⑤男は大家へ酒と煮しめを出すよう、屑屋を使わせるが、大家は拒否する。
⑥男は大家宅で、屑屋にらくだの死骸を背負わせかんかんのうを踊らせる。
⑦大家は気味悪がって、酒と煮しめの用意を約束する。
⑧男は豆腐屋へ屑屋を使わせ、四斗樽をせしめる。
⑨香奠、酒、煮しめが届き、男は嫌がる屑屋に酒を強要する。
⑩屑屋は三杯目から豹変し、二人の立場が逆転する。
⑪友達づくで焼かせようと、らくだを入れた四斗樽を二人でかつぎ落合に出発。
⑫通り道の質屋では、内会の噂と四斗樽の質入れで強請ゆすって二両をせしめる。
⑬落合で、二両と四斗樽を受け取った安公が焼こうとしたら死骸がない。
⑭二人は道中を戻り、泥酔の願人坊主をらくだと間違えて運び戻る。
⑮安公が焼き始めると、坊主が熱さで目が覚めた。「ひやでいいからもう一杯」

これを全部ていねいにやれば、軽く1時間以上はかかってしまいます。

多くの噺家は、男と屑屋との立場逆転のあざやかな⑩で終わりにしています。

「ひやでいいからもう一杯」のオチを聴かせるならば40分、質屋強請りを含めれば45分でできるんだそうです。小三治や小里ん師はこっちのコース。

屑屋のパシリのもたもたは、月番、大家、豆腐屋(演者によっては八百屋)と、3回あります。聴き手にはここがくどくてダレるもの。

ここをうまく刈り取れば、30分以内でオチまでいける、というのがプロの観点とか。

質屋ゆすりも端折られますが。放送主体ではこちらがえじきになります。質屋ゆすりのくだりはあまり聴きません。

三遊亭小遊三師がNHK「日本の話芸」でやっていたものでも質屋強請りはありませんでした。この番組は30分ですし。

質屋強請りと焼き場に軸足を置いた演じ方もありで、おもしろい演出になります。

五代目小さんはこれを嫌がって省きましたが、弟子の柳家小里ん師は省かない視点です。

かんかんのう  【RIZAP COOK】

らくだの兄弟分が、紙屑屋を脅して死骸を背負わせ、大家の家に乗り込んで、かんかんのうを踊らせるシーンが、この噺のクライマックスになっています。

かんかんのうはかんかん踊りともいい、清国のわらべ唄「九連環」が元唄です。

九連環は「知恵の輪」のこと。文政3年(1820)から翌年にかけ、江戸と大坂で大流行。

飴屋が面白おかしく町内を踊り歩き、禁止令が出たほどです。

以下、その歌詞を紹介しますが、福建語なまりの珍妙なことばです。

 かんかんのう、きうれんす きゅうはきゅうれんす さんしょならえ さあいほう

 にいかんさんいんぴんたい やめあんろ めんこんふほうて しいかんさん

 もえもんとわえ ぴいほう ぴいほう

志ん生のくすぐり3選

五代目志ん生の「らくだ」でのくすぐりは、ほかの噺家のそれをはるかに圧倒しています。凄愴で滑稽なんです。

志ん生流を踏襲する噺家もいますが、本家を知っているとなんだかなぞっているようで、いまいち。以下が、きわめつきの3選です。読むだけでも笑っちゃいます。

●屑屋がらくだの死を知った場面

「へえ、ふぐに当たって……まあ、どうもふぐってえものも当てるもんですな、こりゃァ。当てましたなぁ、ふぐが」
「おい、福引きみてえなこと言うなよ」

●屑屋が月番の家に行った場面

「いえね、らくださんがね、ええ、ふぐに当たって死んじゃったんです」
「らくだがァ……。死んだァ。本当か、おい、そんなこと言って、人を喜ばせるんじゃないかい」
「いえ、喜ばせやしませんよ」
「そうかい、へえ、生き返りゃあしねえかァ」
「いや、生き返りませんよ」
「いやァ、あの野郎、ずうずうしいから生き返ってくるかもしれねえぞ。あたまァ、よくつぶしといたらどうだい」

●屑屋がらくだの髪の毛をむしる場面

ぐんだよゥ、もっと。もっと注げよ、もっと……。しみったれめ、けつを上げろ、尻をォ、てめえの尻じゃねえ、徳利の尻をあげんだい……なにを言ってやんだい、こんちくしょう。へええ、なんだい、なんだい、なんだ。らくだァ……、らくだがなんだってんだ。べらぼうめぇ。らくだもきりんもあるかァ。こんちくしょう、まごまごしやがるってえと、おっぺしょって、鼻ァかんじゃうぞう、ほんとうにィ、屑屋さんの久さん、知らねえかってんだ」

くううぅ、たまりませんなあ、志ん生。ぞっろぺいです。

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ろくろくび【ろくろ首】落語演目

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【どんな?】

上方噺の与太郎噺。
どことなくユーモラスで、愛らしい感じの妖怪が主人公。

【あらすじ】

与太の入った、松公。

おじさんの家にぼーっとやって来て、モジモジしたあげく、突然大声で
「おかみさんが欲しいッ」

二十五になってもおふくろと二人暮らしで、ぶらぶら遊んでいる。

兄嫁がご膳差し向かいで兄貴を「あなたや」などと色っぽい声で呼ぶので、うらやましくなったらしい。

「そりゃいいが、おまえどうして食わせる?」
「箸と茶碗」
「どうしてかみさんを養ってくかってんだ」
「大丈夫だよ。おふくろとかみさんを働かせて……」
「てえげえにしろ、ばか野郎」

すると、おばさんが何か耳打ち。

「え? なに? こいつを? そうよなあ。こういうのは感じねえから、いいかもしれねえ」

そこでおじさん、
「もしおまえがその気なら」
と、けっこうづくめの養子の話をする。

さるお屋敷のお嬢さんで、年ははたち。両親は亡くなって乳母、女中二人と四人暮らし。資産はあるし、美人だし、と聞いて、松公は早くもデレデレ。

ところが、奇病がある。

草木も眠る丑三ツ時になると、首がスーッと伸び、行灯(あんどん)の油をペロペロなめるとか。

「お、おじさん、それ、どくどっ首」
「ろくろっ首だ」
「そんな遠くに首があったんじゃ、たぐらなくちゃならねえ」
「帆じゃねえや」

夜しか首は伸びないし、寝たら目を覚まさないからいいと、松公、能天気に行く気になった。

おじさん、あいさつもできなければまとまらないと、松公の褌にひもを結び、乳母が出てきてなにか行ったとき、一回引っ張れば「さようさよう」、二回なら「ごもっともごもっとも」、三回なら「なかなか」と返事するんだと教え込み、
「これでまとまりゃ、人間の廃物利用だ」
と松公を連れてお屋敷へ。

ところが、乳母が
「ご両親さまが草葉の陰でお喜びでございましょう」
と、あいさつすると松公、
「ごもっともごもっともォ。あとはなかなか」
と後まで言ってしまい、おじさんは冷や汗。

庭を見ると猫がいたので
「柔らかくてうまそうな猫だ」
とヒゲを抜く。

そのうち、お嬢さんが庭を通る。

「お、おじさん、あの首が」
「しッ、聞こえるじゃねえか」

よく見ると大変にいい女なので、松公うれしくなり
「あなたッ、おまえさん、さようさようッ」

お嬢さん、顔を赤くして逃げてしまう。

おじさんが小言を言っていると、猫が褌に取りついて、松公、
「さようさよう、なかなか、ごもっともごもっともッ」
と大騒ぎ。

縁があったか、話がまとまって吉日を選び、婚礼の夜。

こういう者でも床が違うから寝つかれず、夜中に目を覚ました。

時計がチンチンと二つ打つ。

「ごもっともごもっとも」
と寝ぼけていると、隣のお嬢さんの首がスーッ。

松公
「伸びたァー」
と肝をつぶしてそのまま飛び出し、おじさんの家の戸をドンドン。

「あばばば、伸びたーッ」
「ばか野郎。静かにしろ。伸びるのを承知で行ったんじゃねえか」
「承知だってダメだよ。初日から。あんなのだめだ」
「なにがあんなのだ。第一、おまえ、夫婦のちぎりは結んだんだろ?」
「なんだい、そのちぎりって」
「そんなことはっきり言えるか。家へけえれ」
「あたい、おふくろんとこに帰る」
「この野郎。どのツラ下げておふくろんとこィ帰れる。大喜びで、明日はいい便りの聞けるように、首を長くして待っているじゃねえか」
「えっ、大変だ。家へも帰れねえ」

底本:五代目柳家小さん

【しりたい】

ろくろ

ろくろとは、物をつるしあげる滑車。

「ろくろ首」とは、その宙高く伸びた形から名がついた妖怪です。

江戸の古い洒落で、「ろくろ首のへど」とは「長い」の意味。

歌舞伎「髪結新三」の「永代橋の場」のセリフに、「ろくろのような首をして」とあるように、首の長い人を揶揄するたとえにも使われました。

首の正体

この妖怪、どうも中国にルーツがあるようで、あちらでは「飛頭蛮」と書きます。

水木しげる(武良茂、1922-2015)によれば、ろくろ首はたいてい女で、一説には夜中に寝ている男の精気を吸い取るとか。

さる大名が参勤で道中、本陣に泊まっているとき、馬番が居眠りしているスキに、牡馬がろくろ首に股間からすっかり精を吸われ、翌日フラフラで使いものにならなかったという、笑話ともエロ噺とも、はた怪談ともつかない昔話があるそうです。

これをみると、どうも淫乱な女性のカリカチュアのようですが、夜な夜な魂が肉体を離れる「離魂病」だというオカルト的解釈もあります。

いやな話ですが、ろくろ首には首に青あざがあるという説があるので首つり死体から連想されたのでは、と考えられなくもありません。

上方の「後日談」

この噺、幕末から大阪で演じられていたものを明治期に三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)が東京に移しました。

直接の原典ではありませんが、「ろくろ首」の小咄は明和9年(1772)刊『楽牽頭がくたいこ』中の「ろくろ首」ほか、たくさんあります。

上方落語では、まだこの続きがあって、アホが逃げたので離婚の交渉になり、すったもんだの末、蚊帳を吊る夏だけ「別居」することに。

「首の出入りに、蚊が入って困るのや」とオチになります。

上方版だと、仲人の「先方をキズものにして、いまさら嫌とは言わせない」というセリフがあるので、怖くてもしっかり「コト」だけは済ませていたのがわかります。

その点、江戸っ子のいくじのないこと。

東京では代々の柳家小さんが本家として得意にしたほか、三代目桂三木助(小林七郎、1902-61)もよく演じました。

オチはいろいろ

オチは演者によって何通りかあり、四代目小さん(大野菊松、1888-1947)は「じゃ、おふくろもろくろ首だ」としていましたが、五代目小さん(小林盛夫、1915-2002)があらすじのように改めました。

三木助のは、「そんなこと言わねえで、お屋敷に帰れ。お嬢さんが首を長くして待っている」というものでした。

インチキも楽じゃない

江戸時代、浅草・奥山などの盛り場では、よく「ろくろ首」の見世物が出ました。

これはむろん、からくりもしくはお座敷芸の二人羽織よろしく、複数の人間を使ったインチキでした。

それにしても、具体的にどういう仕掛けでゴマカシたのか、一度見てみたいものです。

「ろくろ首」小咄三題

●その1  『楽牽頭』中の「ろくろ首」

ろくろ首が酒をごちそうになり、「これはうらやましい。あなたなぞは、酒を味わう楽しみが長いでしょう」と言われ、「いや、そのかわり、オカラを食べるときは味気ない」        

●その2 『言軍話江戸嬉笑』中の「ろくろ首」   文化3=1806年刊

長崎・丸山遊郭のお女郎になじんだ男。請け出して女房にしようと話が決まったが、実はあの女はろくろ首だと耳打ちされ、恐怖のあまり夜逃げした。女は怒って、体は長崎のまま、首だけどこまでも伸ばして、男を追いかける。追いつ追われつ、海越え山越え、とうとう松前(北海道)まで追い詰めた。さすがの化物もくたびれ果て、腹が減って、そこらの芋畑からサトイモを掘り出してむさぼり食ったので、松前の頭はなんともないが、長崎の尻がブーブー。

●その3  『露新軽口ばなし集』中の「言いさうな事」  元禄11=1698年刊

盲目の瞽女の首が夜な夜な伸びると聞いて見に行った男。夜中に伸びた首があんどんにぶつかりそうになると、思わず「右、右」。

【語注】
丑三ツ時 うしみつどき:午前2時頃
行灯 あんどん
褌 ふんどし
瞽女 ごぜ

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ゆやばん【湯屋番】落語演目

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【どんな?】

若だんな勘当の噺。
日本橋の湯屋で番頭に。
女湯目当ての空騒ぎ模様。
風情がよござんす。

あらすじ

道楽の末、勘当中の若だんな、出入りの大工・熊五郎宅の二階に居候の身。

お決まりでかみさんがいい顔をしない。

飯も、お櫃を濡れしゃもじでペタペタたたき、平たくなった上っ面をすっと削ぐから、中ががらんどう。

亭主の熊は、
「ゴロゴロしていてもしかたがないから、奉公してみたらどうです」
と言い出した。

ちょうど友達の鉄五郎が、日本橋槙町で奴湯という銭湯をやっていて、奉公人を募集中だという。

若だんな、とたんに身を乗り出し、
「女湯もあるかい」
「そりゃあります」
「へへ、行こうよ」

紹介状を書いてもらい、湯屋にやってきた若だんな。

いきなり女湯へ飛び込み
「こんちわァ」

度肝を抜かれた主人が、まあ初めは外廻りでもと言うと、札束を懐に温泉廻りする料簡。

木屑拾いとわかると
「色っぽくねえな。汚な車を引いて汚な半纏汚な股引き、歌右衛門のやらねえ役だ」
「それじゃ煙突掃除しかない」
と言うと
「煙突小僧煤之助なんて、海老蔵のやらねえ役だ」
と、これも拒否。

狙いは一つだけ。

強引に頼み込んで、主人が昼飯に行く間、待望の番台へ。

ところが当て外れで女湯はガラガラ。

見たくもない男湯ばかりがウジャウジャいる。

鯨のように湯を吹いているかと思えば、こっちの野郎は汚いケツで、おまけに毛がびっしり。

どれも、いっそ湯船に放り込み、炭酸でゆでたくなるようなのばかり。

戸を釘付けにして、男を入れるのよそう、と番台で、現実逃避の空想にふけりはじめる。

女湯にやってきた、あだな芸者が連れの女中に
「ごらん。ちょいと乙な番頭さんだね」
と話すのが発端。

お世辞に糠袋の一つも出すと
「ぜひ、お遊びに」
とくりゃあ、しめたもの。

家の前を知らずに通ると女中が見つけ、
「姐さん、お湯屋の番頭さんですよ」

呼ぶと女は泳ぐように出てくる。

「お上がりあそばして。今日はお休みなんでしょ」
「へい。釜が損じて早じまい」
じゃ色っぽくないから、
「墓参りに」
がいい。

「お若いのに感心なこと。まあいいじゃありませんか」
「いえ困ります」

番台で自分の手を引っ張っている。

盃のやりとりになり、女が
「今のお盃、ゆすいでなかったの」
と、すごいセリフ。

じっとにらむ目の色っぽさ。

「うわーい、弱った」
「おい、あの野郎、てめえのおでこたたいてるよ」

そのうち外はやらずの雨。

女は蚊帳かやをつらせて
「こっちへお入んなさいな」

ほどよくピカッ、ゴロゴロとくると、女はしゃくを起こして気を失う。

盃洗はいせんの水を口移し。

女がぱっちり目を開いて
「今のはうそ」

ここで芝居がかり。

「雷さまはこわけれど、あたしのためには結ぶの神」
「ヤ、そんなら今のは空癪からしゃくか」
「うれしゅうござんす、番頭さん」

ここでいきなりポカポカポカ。

「なにがうれしゅうござんすだい。ばか、まぬけ。おらァけえるんだ。下駄を出せ」

犬でもくわえていったか、下駄がない。

「そっちの本柾ほんまさのをお履きなさい」
「こりゃ、てめえの下駄か?」
「いえ、中のお客ので」
「よせやい。出てきたら文句ゥ言うだろう」
「いいですよ。順々に履かせて、一番おしまいは裸足で帰します」

しりたい

若だんな勘当系の噺

落語では、若だんなとくれば、「明烏」「千両みかん」のような少数の変わりダネを除いて、おおかた吉原狂い→親父激怒→勘当→居候と、コースは決まっています。

火事息子」「清正公酒屋」「唐茄子屋政談」「船徳」「竃幽霊」「宮戸川」「五目講釈」「山崎屋」などなど、懲りないドラ息子の「奮戦記」は多数ありますが、中でもこの「湯屋番」は、その見事なずうずうしさで、勘当若だんな系の噺ではもっともよく知られています。

古くから口演されてきましたが、明治の初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、自称三代目)がギャグ満載の爆笑噺に改造、ついで三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)や五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)が、現行の型をつくりました。

鼻の円遊の「湯屋番」

初代円遊の速記では、若だんなが歩きながら、湯屋を乗っ取って美人のおかみといちゃつく想像を巡らすところが現行の演出と異なります。

最後のオチは、若だんなが湯銭をちょろまかして懐に入れ、美女とごちそうを食べる想像するのを主人が見つけ、「その勘定は誰がする?」「先方の(空想の)女がいたします」としています。

四代目、五代目小さんの「湯屋番」

ここでのあらすじは、五代目小さんの速記を参考にしました。

男湯を見てげんなりするくだり、番台での一人芝居など、ギャグも含めてほとんど四代目柳家小さん(大野菊松、1888-1947)が完成した型で、それが五代目小さんにそのまま継承されました。

四代目小さんは、明治44年(1911)の帝劇開場を当て込み、若だんなが豪勢な浴場を建て、朝野の名士がやって来る幻想にひたる改作「帝国浴場」を創作しました。

もちろん、遠い昔のキワモノなので、今はまったく忘れられています。

六代目円生の「湯屋番」

六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)の「湯屋番」は、めったにやりませんでしたが、やればまったく手を抜かず、四十分はかかる長講で、今レコードを聴いても一瞬もダレさせない、見事な出来です。(ま、これは編集の妙ではありますが)

かみさんが亭主に文句を言う場面から始まり、若だんなが、湯屋の亭主が近々死ぬ予定を勝手に立て、美人のかみさんの入り婿に直る下心で自分から湯屋に行くと言い出すところが、円生演出の特色です。

空想の中で都都逸をうたいすぎてのぼせ、色っぽい年増のかみさんに介抱されて一目ぼれするノロケをえんえんと語る場面は圧巻です。

湯屋の名を、古くは三遊派が「桜湯」、柳派が「奴湯」と決まっていましたが、六代目円生は「浜町の梅の湯」でやっていました。

居候あれこれ

他人の家に食客(=いそうろう)として転がり込む迷惑な人種のことですが、別名「かかりうど」「権八」、また、縮めて「イソ」とも呼ばれます。「誰々方に居り候」という、手紙文から出た言葉です。

居候の川柳は多く、有名な「居候三杯目にはそっと出し」ほか、「居候角な座敷を丸く掃き」「居候たばという字をよけてのみ」「出店迷惑さま付けの居候」など、いろいろあります。落語のマクラでは適宜、これらを引用するのが決まりごとです。

最後の句の「出店」は「でだな」で、居候の引き受け先のことです。

風呂屋じゃなくて湯屋

江戸では風呂屋でなく、「湯屋」。これはもう絶対です。

さらに縮めて「湯」で十分通じます。明治・大正まで、東京の下町では、女子供は「オユーヤ」と呼んでいました。

天正19年(1591)に、伊勢与一という者が、呉服橋御門の前に架かる銭瓶橋のあたりで開業したのが江戸の湯屋の始まりとされます。

ただし、当時は上方風の蒸し風呂でした。

日本橋槇町

にほんばしまきちょう。東京都中央区八重洲2丁目、京橋1丁目。

東京駅八重洲口の真向かいあたりです。

南槙町みなみまきちょう北槙町きたまきちょうに分かれ、付近に材木商が多かったところからついた地名といわれます。北槙町一帯は、元は火除地ひよけちでした。

石工いしくが集住していました。

舟で陸揚げした石材で五輪塔を多くつくったため、五輪町ごりんちょうの俗称もありました。

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やまざきや【山崎屋】落語演目



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【どんな?】

道楽にはまってしまったご大家の若だんな。
これはもう、円生と彦六ので有名な噺です。

【あらすじ】

日本橋横山町の鼈甲問屋、山崎屋の若だんな、徳三郎は大変な道楽者。

吉原の花魁に入れ揚げて金を湯水のように使うので、堅い一方の親父は頭を抱え、勘当寸前。

そんなある日。

徳三郎が、番頭の佐兵衛に百両融通してくれと頼む。

あきれて断ると、若だんなは
「親父の金を筆の先でちょいちょいとごまかしてまわしてくれりゃあいい。なにもおまえ、初めてゴマかす金じゃなし」
と、気になる物言いをするので、番頭も意地になる。

「これでも十の歳からご奉公して、塵っ端ひとつ自侭にしたことはありません」
と、憤慨。

すると若だんな、ニヤリと笑い、
「この間、湯屋に行く途中で、丸髷に襟付きのお召しという粋な女を見かけ、後をつけると二階建ての四軒長屋の一番奥……」
と、じわりじわり。

女を囲っていることを見破られた番頭、実はひそかに花魁の心底を探らせ、商家のお内儀に直しても恥ずかしくない実のある女ということは承知なので
「若だんな、あなた、花魁をおかみさんにする気がおありですか」
「そりゃ、したいのはやまやまだが、親父が息をしているうちはダメだよ」

そこで番頭、自分に策があるからと、若だんなに、半年ほどは辛抱して堅くしているようにと言い、花魁の親元身請けで請け出し、出入りの鳶頭に預け、花魁言葉の矯正と、針仕事を鳶頭のかみさんに仕込んでもらうことにした。

大晦日。

小梅のお屋敷に掛け取りに行くのは佐兵衛の受け持ちだが、
「実は手が放せません。申し訳ありませんが、若だんなに」
と佐兵衛が言うとだんな、
「あんなのに二百両の大金を持たせたら、すぐ使っちまう」
と渋る。

「そこが試しで、まだ道楽を始めるようでは末の見込みがないと思し召し、すっぱりとご勘当なさいまし」
と、はっきり言われてだんな、困り果てる。

しかたがないと、「徳」と言いも果てず、若だんな、脱兎のごとく飛び出した。

掛け金を帰りに鳶頭に預け、家に帰ると
「ない。落としました」

だんな、使い込んだと思い、カンカン。

打ち合わせ通りに、鳶頭が駆け込んできて、若だんなが忘れたからと金を届ける。

番頭が、だんな自ら鳶頭に礼に行くべきだと進言。

これも計画通りで、花魁を旦那に見せ、屋敷奉公していたかみさんの妹という触れ込みで、持参金が千両ほどあるが、どこかに縁づかせたいと水を向ければ、欲にかられて旦那は必ずせがれの嫁にと言い出すに違いない、という筋書き。

その通りまんまとだまされただんな、一目で花魁が気に入って、かくしてめでたく祝言も整った。

だんなは徳三郎に家督を譲り、根岸に隠居。

ある日。

今は本名のお時に帰った花魁が根岸を訪ねる。

「ところで、おまえのお勤めしていた、お大名はどこだい?」
「あの、わちき……わたくし、北国でござんす」
「北国ってえと、加賀さまかい? さだめしお女中も大勢いるだろうね」
「三千人でござんす」
「へえ、おそれいったな。それで、参勤交代のときは道中するのかい?」
「夕方から出まして、武蔵屋ィ行って、伊勢屋、大和、長門、長崎」
「ちょいちょい、ちょいお待ち。そんなに歩くのは大変だ。おまえにゃ、なにか憑きものがしているな。諸国を歩くのが六十六部。足の早いのが天狗だ。おまえにゃ、六部に天狗がついたな」
「いえ、三分で新造が付きんした」

【しりたい】

原話は大坂が舞台   【RIZAP COOK】

安永4年(1775)刊の漢文体笑話本『善謔随訳』中の小咄が原話です。

この原典には「反魂香」「泣き塩」の原話もありました。

これは、さる大坂の大きな米問屋の若旦那が、家庭内暴力で毎日、お膳をひっくり返して大暴れ。心配した番頭が意見すると(以下、江戸語に翻訳)、「ウチは米問屋で、米なら吐いて捨てるほどあるってえのになんでしみったれやがって、毎日粟飯なんぞ食わしゃあがるんだ。こんちくしょうめ」。そこで番頭がなだめていわく、「ねえ若旦那、新町の廓の某って男をご存じでござんしょ? その人はね、大きな女郎屋のあるじで、抱えの女はそれこそ、天下の美女、名妓が星の数ほどいまさあね。でもね、その人は毎晩、お手手でして満足していなさるんですよ」

わかったようなわからんような。

どうしてこれが「原話」になるのか今ひとつ飲み込めない話ですが、案外こっちの方がおもしろいという方もいらっしゃるかもしれませんな。

円生、正蔵から談志まで  【RIZAP COOK】

廓噺の名手、初代柳家小せん(鈴木万次郎、1883-1919、盲小せん)が明治末から大正期に得意にし、明治43年(1910)7月、『文藝倶楽部』に寄せた速記が残ります。

このとき、小せんは27歳で、同年4月、真打ち昇進直後。

今、速記を読んでも、その天才ぶりがしのばれます。

五代目三遊亭円生(村田源治、1884-1940、デブの)から六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)、八代目林家正蔵(岡本義、1895-1982、彦六)に継承され、円生、正蔵が戦後の双璧でした。

意外なことにやり手は多く、三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)、その孫弟子の二代目桂文朝(田上孝明、1942-2005)、あるいは七代目立川談志(松岡克由、1935-2011)も持ちネタにしていました。

円生、正蔵の演出はさほど変わりませんが、後者では番頭のお妾さんの描写などが、古風で詳しいのが特徴です。

オチもわかりにくく、現代では入念な説明がいるので、はやる噺ではないはずですが、なぜか人気が高いようで、林家小のぶ、古今亭駿菊、桃月庵白酒はともかく、二代目快楽亭ブラックまでやっています。

察するに、噺の古臭さ、オチの欠点を補って余りある、起伏に富んだストーリー展開と、番頭のキャラクターのユニークさが、演者の挑戦意欲をを駆り立てるのでしょう。

北国  【RIZAP COOK】

ほっこく。吉原の異称で、江戸の北方にあったから。

通人が漢風気取りでそう呼んだことから、広まりました。

これに対して品川は「南」と呼ばれましたが、なぜか「南国」とはいいませんでした。

これは品川が公許でなく、あくまで宿場で、岡場所の四宿の一に過ぎないという、格下の存在だからでしょう。

噺中の「道中」は花魁道中のことです。「千早振る」参照。

小梅のお屋敷  【RIZAP COOK】

若だんなが掛け取りに行く先で、おそらく向島小梅村(墨田区向島一丁目)の水戸藩下屋敷でしょう。

掘割を挟んで南側一帯には松平越前守(越前福井三十二万石)、細川能登守(肥後新田三万五千石)ほか、諸大名の下屋敷が並んでいたので、それらのどれかもわかりません。

どこであっても、日本橋の大きな鼈甲問屋ですから、女手が多い大名の下屋敷では引く手あまた、得意先には事欠かなかったでしょう。

小梅村は日本橋から一里あまり。風光明媚な郊外の行楽地として知られ、江戸の文人墨客に愛されました。

村内を水戸街道が通り、水戸徳川家が下屋敷を拝領したのも、本国から一本道という絶好のロケーションにあったからです。

水戸の中屋敷は根津権現社の南側一帯(現在の東大グラウンドと農学部の敷地)にありました。「孝行糖」参照。

親許身請け  【RIZAP COOK】

おやもとみうけ。親が身請けする形で、請け代を浮かせることです。

「三分で新造がつきんした」  【RIZAP COOK】

オチの文句ですが、これはマクラで仕込まないと、とうてい現在ではわかりません。

宝暦(1751-64)以後、太夫が姿を消したので遊女の位は、呼び出し→昼三→付け廻しの順になりました。

以上の三階級を花魁といい、女郎界の三役といったところ。

「三分」は「昼三」の揚げ代ですが、この値段ではただ呼ぶだけ。

新造は遊女見習いで、花魁に付いて身辺の世話をします。少女の「禿」を卒業したのが新造で、番頭新造ともいいました。

彦六のくすぐり  【RIZAP COOK】

番「それでだめなら、またあたくしが狂言を書き替えます」
徳「へええ、いよいよ二番目物だね。おまえが夜中に忍び込んで親父を絞め殺す」

この師匠のはくすぐりにまで注釈がいるので、くたびれます。

日本橋横山町  【RIZAP COOK】

現在の中央区日本橋横山町。

袋物、足袋、呉服、小間物などの卸問屋が軒を並べていました。

現在も、衣料問屋街としてにぎわっています。

かつては、横山町2丁目と3丁目の間で、魚市が開かれました。

落語には「おせつ徳三郎」「お若伊之助」「地見屋」「文七元結」など多数に登場します。

「文七元結」の主人公は「山崎屋」とまったく同じ横山町の鼈甲問屋の手代でした。

日本橋辺で大店が舞台の噺といえば、「横山町」を出しておけば間違いはないという、暗黙の了解があったのですね。

【語の読みと注】
鼈甲 べっこう
花魁 おいらん
掛け取り かけとり:借金の取り立て
新造 しんぞ:見習い遊女
禿 かむろ
二番目物 にばんめもの:芝居の世話狂言。濡れ場や殺し場



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やぶいり【藪入り】落語演目



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【どんな?】

たっぷり笑わせ、しっかり泣かせる名品。
エロネタなんですね。

別題:お釜さま 鼠の懸賞

あらすじ

正直一途の長屋の熊五郎。

後添いができた女房で、一粒種の亀をわが子のようにかわいがる。

夫婦とも甘やかしたので、亀は、朝も寝床で芋を食べなければ起きないほど、わがままに育った。

「これではいけない、かわい子には旅をさせろだ」
と、近所の吉兵衛の世話で、泣きの涙で亀を奉公に出した。

それから三年。

今日は正月の十五日で、亀が初めての藪入りで帰ってくる日。

おやじはまだ夜中の三時だというのに、そわそわと落ち着かない。

かみさんに、奉公をしていると食いたいものも食えないからと、
「野郎は納豆が好きだから買っておけ。鰻が好きだから中串で二人前、刺し身もいいな。チャーシューワンタンメンというのも食わしてやろう。オムレツカツレツ、ゆで小豆にカボチャ、安倍川餠」
と、きりがない。

時計の針の進みが遅いと、一回り回してみろと言ったり、帰ったら品川の海を見せて、それから川崎の大師さま、横浜から江ノ島鎌倉、足を伸ばして静岡、久能山、果ては京大阪から、讃岐の金比羅さま、九州に渡って……と、一日で日本一周をさせる気。

無精者なのに、持ったこともない箒で家の前をセカセカと掃く。

夜が明けても
「まだか。意地悪で用を言いつけられてるんじゃねえか。店に乗り込んで番頭の横っ面を」
と大騒ぎ。

そのうち声がしたので出てみると
「ごぶさたいたしました。お父さんお母さんにもお変わりがなく」

すっかり大人びた亀坊が、ぴたりと両手をついてあいさつしたので、熊五郎はびっくりし、胸がつまってしどろもどろで
「今日はご遠方のところをご苦労さまで」

涙で顔も見られない。

「こないだ、風邪こじらせたが、おめえの手紙を見たらとたんに治ってしまった」
と、打ち明け
「こないだ、店の前を通ったら、おめえがもう一人の小僧さんと引っ張りっこをしているから、よっぽど声を掛けようと思ったが、里心がつくといけねえと思って、目をつぶって駆けだしたら、大八車にぶつかって……」
と泣き笑い。

亀が小遣いで買ったと土産を出すと、
「もったいねえから神棚に上げておけ。子供のお供物でござんすって、長屋中に配って歩け」
と大喜び。

ところが、亀を横町の桜湯にやった後、かみさんが亀の紙入れの中に、五円札が三枚も入っているのを見つけたことから、一騒動。

心配性のかみさんが、子供に十五円は大金で、そんな額をだんながくれるわけがないから、ことによると魔がさして、お店の金でも……と言いだしたので、気短で単純な熊、さてはやりゃあがったなと逆上。

帰ってきた亀を、いきなりポカポカ。

かみさんがなだめでわけを聞くと、このごろペストがはやるので、鼠を獲って交番に持っていくと一匹十五円の懸賞に当たったものだと、わかる。

だんなが、子供が大金を持っているとよくないと預かり、今朝渡してくれたのだ、という。

「見ろ、てめえがよけいなことを言いやがるから、気になるんじゃねえか。へえ、うまくやりゃあがったな。この後ともにご主人を大切にしなよ。これもやっぱりチュウ(=忠)のおかげだ」

底本:三代目三遊亭金馬

しりたい

お釜さま

原話は詳細は不明ながら、天保15年(1844=12月から弘化と改元)正月、日本橋小伝馬町の呉服屋島屋吉兵衛方で、番頭某が小僧をレイプし、気絶させた実話をもとに作られた噺といいます。

表ざたになったところを見ると、なんらかのお上のお裁きがあったものと思われますが、当時、商家のこうした事件は珍しいことではなく、黙阿弥の歌舞伎世話狂言『加賀鳶』の「伊勢屋の場」にもこんなやりとりがあります。

太助「これこれ三太、よいかげんに言わないか、たとえ鼻の下が長かろうとも」
左七「そこを短いと言わなければ、番頭さんに可愛がられない」
三太「番頭さんに可愛がられると、小僧は廿八日だ」
太・左「なに、廿八日とは」
三太「お尻の用心御用心」

金馬の十八番へ

明治末期に初代柳家小せんが男色の要素を削除して、きれいごとに塗り替えて改作しました。それまでは演題は「お釜さま」で、オチも「これもお釜さま(お上さま=主人と掛けた地口)のおかげだ」となっていました。

亀が独身の番頭にお釜(=尻)を貸し、もらった小遣いという設定で、小せんがこれを当時の時事的話題とつなげ、「鼠の懸賞」と改題、オチも現行のものに改めたわけです。

小僧奉公がごくふつうだった明治大正期によく高座に掛けられましたが、昭和初期から戦後にかけては、三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)が「居酒屋」と並ぶ、十八番中の十八番としました。

金馬の、親子の情愛が濃厚な人情噺の要素は、自らの奉公の経験が土台になっているとか。五代目三遊亭円楽(會泰通、1950-2022)も得意でした。

鼠の懸賞

明治38年(1905)、ペストの大流行に伴い、その予防のため東京市が鼠を一匹(死骸も含む)3-5銭で買い上げたことは「意地くらべ」をもご参照ください。補足すると、ペストの最初の日本人犠牲者は明治32年(1899)11月、広島で、東京市が早くも翌33年(1900)1月に、鼠を買い取る旨の最初の布告を出しています。

希望者は区役所や交番で切符を受け取り、交番に捕獲した鼠を届けた上、銀行、区役所で換金されました。

東京市内の最初のペスト患者は明治35年(1902)12月で、38年(1905)にピークとなりました。噺の中の15円は、特別賞か、金馬が昭和初期の物価に応じて変えたものでしょう。鼠の買い上げは、大正12年(1923)9月、関東大震災まで続けられました。

藪入り

「藪入りや 曇れる母の 鏡かな」という、あわれを誘う句をマクラに振るのが、この噺のお決まりです。あるいは、「かくばかり いつわり多き 世の中に 子のかわいさは まことなりけり」なんという歌も。「寿限無」「子褒め」「初天神」「子別れ」なんかでも使いまわされています。

藪入りは江戸では、古くは宿入りといい、商家の奉公人の特別休暇のことです。

高等科

江戸から明治大正にかけ、町家の男の子は10歳前後(明治の学制以後は尋常または高等小学校卒業後)で商家や職人の親方に奉公に出るのがふつうでした。

明治40年(1907)からは、それまで4年制だった尋常小学校は6年制に改編されました。高等小学校(高等科)はさらに2年間、小学校で学ぶ制度でした。

さまざまな事情で旧制の中学校、高等女学校、実業学校などの上級学校に進めない人が学ぶコースでした。

昭和11年(1936)時点で、尋常小学校の卒業者の66%が高等科に進学しています。上級学校の受験で落ちると、高等科を予備校代わりにする人もいましたし、手工、実業、算術などの実務的な初歩を学んで社会に巣立つ人もいて、まちまちでした。

奉公

一度奉公すると、三年もしくは五年は、親許に帰さないならわしでした。それが過ぎると年二回、盆と旧正月に一日(女中などは三日)、藪入りを許されました。商家の手代や小僧は奉公して十年は無給で、五年ほどは小遣いももらえないのが建前でした。

「藪」は田舎のことで、転じて親許を指したものです。

「藪入り」の言葉と習慣は、労働条件が改善された昭和初期まで残っていて、横綱双葉山の「70連勝ならざるの日」がちょうど藪入りの日曜日(昭和14年1月15日)だったことは、今でも昭和回顧談でよく引き合いに出されます。

川崎大師

正しくは平間寺へいけんじ。川崎市川崎区にある真言宗智山派ちざんはの大本山。大治3年(1128)建立。川崎大師かわさきだいしは通称。山号は金剛山こんごうざん。院号は金乗院きんじょういん尊賢そんけんが開山、平間兼乗ひらまかねのりが開基。真言宗智山派は京都の智積院ちしゃくいんが本山で、この系統は布教活動よりも仏典研究に重きを置きます。

二十五と 四十二で込む わたし舟   二21

二十五歳と四十二歳は男の厄年やくどしです。川崎大師に参詣する客で六郷川(多摩川)の渡し舟がごった返すさま。

やく年に 東海道を ちつと見る   十六8

あなたもか わたしも三と 万年屋   二十一29

「三」とは三十三歳の女の厄年をさします。万年屋は、川崎宿の奈良茶飯で有名な老舗で、大師土産も販売していました。



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やどやのあだうち【宿屋の仇討ち】落語演目



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【どんな?】

旅籠泊の「始終三人」。

あんまりうるさくて武士ににらまれ。痛快なお噺です。

別題:庚申待 甲子待ち 宿屋敵(上方)

【あらすじ】

やたら威勢だけはいい魚河岸うおがしの源兵衛、清八、喜六の三人連れ。

金沢八景見物の帰りに、東海道は神奈川宿の武蔵屋という旅籠はたご草鞋わらじを脱ぐ。

この三人は、酒をのむのも食うのも、遊びに行くのもすべていっしょという悪友で、自称「始終三人」。

客引きの若い衆・伊八がこれを「四十三人」と聞き違え、はりきって大わらわで四十三人分の刺身をあつらえるなどの大騒ぎの末、「どうも中っ腹(腹が立つ)になって寝られねえんだよ」と、夜は夜で芸者を総あげでのめや歌え、果ては寝床の中で相撲までとる騒々しさ。

たまったものではないのが隣室の万事世話九郎ばんじせわくろうという侍。

三人がメチャクチャをするたびに
「イハチー、イハチー」
と呼びつけ、静かな部屋に替えろと文句をつけるが、すでに部屋は満室。

伊八が平身低頭でなだめすかし、三人に掛け合いにくる。

こわいものなしの江戸っ子も、隣が侍と聞いては分が悪い。

しかたなく、「さっきは相撲の話なんぞをしていたから身体が動いちまっんたんだ」と、今度はお静かな色っぽい話をしながら寝ちまおうということになった。

そこで源兵衛がとんでもない自慢話。

以前、川越で小間物屋をしているおじさんのところに世話になっていた時、仕事を手伝って武家屋敷に出入りしているうちに、石坂段右衛門という百五十石取りの侍のご新造と、ふとしたことからデキた。

二人で盃のやりとりをしているところへ、段右衛門の弟の大助というのに
「不義者見つけた、そこ動くな」
と踏み込まれた。

逆にたたき斬ったあげく、ご新造がいっしょに逃げてたもれと泣くのを、足弱がいては邪魔だとこれもバッサリ。

三百両かっぱらって逃げて、いまだに捕まっていないというわけ。

清八、喜六は素直に感心し
「源兵衛は色事師、色事師は源兵衛。スッテンテレツクテレツクツ」
神田囃子かんだばやしではやしたてる始末。

これを聞きつけた隣の侍、またも伊八を呼び
「拙者、万事世話九郎とは世を忍ぶ仮の名。まことは武州川越藩中にて、石坂段右衛門と申す者。三年探しあぐねた妻と弟の仇。今すぐ隣へ踏んごみ、血煙上げて……」

さあ大変。

もし取り逃がすにおいては同罪、一人も生かしてはおかんと脅され、宿屋中真っ青。

実はこの話、両国の小料理屋で能天気そうなのがひけらかしていたのを源兵衛がそのままいただいたのだが、弁解してももう遅い。

あわれ、三人はぐるぐる巻きにふん縛られ、「交渉」の末、宿屋外れでバッサリと決定、泣きの涙で夜を明かす。

さて翌朝。

昨夜のことをケロッとわすれたように、震えている三人を尻目に侍が出発しようとするので、伊八が
「もし、お武家さま、仇の一件はどうなりました」
「あ、あれは嘘じゃ」
「冗談じゃありません。何であんなことをおっしゃいました」
「ああでも言わにゃ、拙者夜っぴて(夜通し)寝られん」

【しりたい】

二つの流れ   【RIZAP COOK】

東西で二つの型があり、現行の「宿屋の仇討ち」は上方の「宿屋敵」を三代目柳家小さんが東京に移植、それが五代目小さんにまで継承されていました。

宿屋敵やどやがたき」では、兵庫の男たちがお伊勢参りの帰途、大坂日本橋にっぽんばしの旅籠で騒ぎを起こす設定です。

戦後、東京で「宿屋の仇討ち」をもっとも得意とした三代目桂三木助は、大阪にいた大正15年(1926)、師匠の二代目三木助から大阪のものを直接教わり、あらすじに取り入れたような独自のギャグを入れ、十八番に仕上げました。

三木助以後では、春風亭柳朝のものが、源兵衛のふてぶてしさで天下一品でしたが、残念ながら、現在残る録音はあまり出来のいいものではありません。

東京独自の「庚申待」   【RIZAP COOK】

もうひとつの流れが、東京(江戸)で古くから演じられた類話「庚申待」です。

これは、江戸日本橋馬喰町にほんばしばくろうちょうの旅籠に、庚申待ちのために大勢が集まり、世間話をしているところへ、大切な客がやって来たことから始まり、以下は「宿屋の仇討ち」と大筋では同じです。

五代目古今亭志ん生や六代目三升家小勝みますやこかつが演じましたが、今は継承者がいないようです。

庚申待ちという民間信仰   【RIZAP COOK】

庚申かのえさるの夜には、三尸さんしという腹中の虫が天に昇って、その人の罪過を告げるので、徹夜で宴を開き、いり豆を食べるならわしでした。もとは中国の道教の風習です。

庚申は六十日に一回巡ってくるので、年に六回あります。三尸の害を防ぐには、青面金剛しょうめんこんごう帝釈天たいしゃくてん猿田彦さるたひこをまつるのがよいとされました。柴又しばまたの帝釈天が有名です。

聴きどころ   【RIZAP COOK】

三木助版は、マクラからギャグの連続で、今でもおもしろさは色あせません。

なかでも、源兵衛らが騒ぐたびに武士が「イハチー」と呼びつけ、同じセリフで苦情を言う繰り返しギャグ、源兵衛の色事告白の妙な迫真性、二人のはやし立てるイキのよさなどは無類です。

テンポのよさ、場面転換のあざやかさは、芝居を見ているような立体感があります。

【蛇足】

 「宿屋の仇討ち」には、以下の3つの型があるといわれる。

 (1)江戸型  天保板「無塩諸美味」所収の小話「百物語」が原話といわれているもの。明治期には「甲子待きのえねまち」「庚申待かのえさるまち」として高座にかけられていた。明治28(1895)年に柳家禽語楼きんごろうがやった「甲子待」が速記で残っている。以前は「宿屋の仇討ち」というと、この噺をさしたそうだ。げんに、大正7(1918)年に出た海賀変哲かいがへんてつの「落語のさげ」での「宿屋の仇討ち」のあらすじは、この型が紹介されている。六代目三升家小勝、五代目古今亭志ん生がやった。最近では、五街道雲助あたりがマニア向けにやるだけ。今となっては珍しい。この型は、なんといっても江戸の風俗がにおい立つ。なかなかに捨て難い。ただ、速記本を読んでも、登場するしゃれの数々が古びており、笑う前にわからない。うなるだけで先に進まない。悔しいかぎり。

 (2)上方1型 「宿屋敵やどやがたき」といわれるもの。兵庫の若い衆がお伊勢参りの帰りに大坂・日本橋の宿屋でひともんちゃく、という筋。これを、明治期に三代目柳家小さんが東京に持ってきた。上方から帰る魚河岸の三人衆が東海道の宿で大騒ぎ、という筋に作り変えたのだ。七代目三笑亭可楽さんしょうていからくを経て五代目小さんに伝わった。

 (3)上方2型 上方型にはもうひとつある。それが、今回取り上げた噺だ。大阪の二代目桂三木助に習った三代目三木助が、東京に持ってきて磨き上げたもの。他と比べると秀逸だ。現在「宿屋の仇討ち」といえば、ほとんどがこの型なのもうなずける。とはいえ、筋から見ればどれも大同小異ではあるが。

 3人衆が夜更けに興に乗ってがなり立てる「神田囃子」。これについて少々。

 江戸の祭囃子まつりばやしといったら、神田囃子だ。京都の祇園囃子、大阪のだんじり囃子と並び称される。神田明神の祭礼に奏でられるわけだが、もとは里神楽さとかぐらの囃子から出たもの。享保(1716-36)年間に葛西(現在の葛飾区あたり)で起こった「葛西囃子」がネタ元だという。葛西の代官が地元の若者の健全育成をねらって香取明神かとりみょうじんの神主と図り、神楽の囃子を作り変えたものだという。ものの起こりは「大きなお世話」からだったわけ。

 「和歌囃子」、転じて「馬鹿囃子」などともいわれた。ローカルな音だった。葛西囃子が、天下祭といわれる幕府公認の祭である「山王祭」や「神田祭」に出演していった。赤浜のギター弾きが、いきなり国際音楽祭に参加するようなもの。その結果、葛西囃子の奏法が江戸の方々に広まった。それが神田囃子として普遍化していったのだ。

 権威と様式はあとからついて回るもので、明治末期まで、神田大工町には神田囃子の家元と称する新井喜三郎家があったという。

 大太鼓(大胴)1、締太鼓しめだいこ(シラベ)2、篠笛しのぶえ(トンビ)1、鉦(ヨスケ)1の5人一組で構成される。一般に演奏される曲式には「打ち込み」「屋台」「聖天しょうでん」「鎌倉」「四丁目」がある。これらを数回ずつ繰り返してひとつづりに演奏する。さらには、「神田丸」「亀井戸」「きりん」「かっこ」「獅子」といった秘曲もある。概して静かな曲が多いのだが、「みこし四丁目」などは「すってんてれつく」のにぎやかな調子。これを深夜にやられたのではいい迷惑だ。

 神田囃子の数々は、小唄、端唄はうた木遣きやり、俗曲などに大なり小なりの影響を与えている。その浮き立つような心地よい調子は、落語家の出囃子、あるいは大神楽などで時折、耳に飛び込んでくる。江戸の音である。

(古木優)



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やくばらい【厄払い】落語演目



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【どんな?】

いまはすたれた「おはらい」をネタにした噺。興味津々の話題ですね。

【あらすじ】

頭が年中正月の与太郎。何をやらせてもダメなので、伯父おじさん夫婦の悩みの種。

当人に働く気がまるでないのだから、しかたがない。

おふくろを泣かしちゃいけないと説教し、
「今夜は大晦日おおみそかだから、厄払いを言い立てて回って、豆とお銭をもらってこい」
と言う。

小遣こづかいは別にやるから、売り上げはおふくろに渡すよう言い聞かせ、厄落やくおとしのセリフを教える。

「あーらめでたいな、めでたいな、今晩今宵のご祝儀しゅうぎに、めでたきことにて払おうなら、まず一夜明ければ元朝がんちょうの、かどに松竹、注連飾しめかざり、床に橙、鏡餅だいだいかがみもち蓬莱山ほうらいさんに舞い遊ぶ、鶴は千年、亀は万年、東方朔とうほうさく八千歳はっせんざい、浦島太郎は三千年、三浦の大助おおすけ百六ツ、この三長年が集まりて、酒盛りをいたす折からに、悪魔外道げどうが飛んで出で、さまたげなさんとするところ、この厄払いがかいつかみ、西の海へと思えども、蓬莱山のことなれば、須弥山しゅみせんの方へ、さらありさらり」
というものだが、伯父さんの後について練習しても文句が覚えられないので、紙に書いてもらって出かける。

表通りで
「ええ、こんばんは」
「なんだい」
「厄払いでござんす」
「もう払ったよ」
「もういっぺん払いなさい」
「なにを言やがる!」

別の厄払いに会ったので
「おいらも連れってくれ」
「てめえを連れてっても商売にならねえ」
「おまえが厄ゥ払って、おいらが銭と豆をもらう」

追っ払われて
「えー、厄払いのデコデコにめでたいの」
とがなって歩くと、おもしろい厄払いだと、ある商家に呼び入れられる。

前払いで催促し、おひねりをもらうと、開けてみて
「なんだい、一銭五厘か。やっぱりふところが苦しいか」
「変なこと言っちゃいけない」

もらった豆をポリポリかじり、茶を飲んで
「どうも、さいならッ」
「おまえはなにしに来たんだ」
とあきれられ、ようやく「仕事」を思い出す。

表戸を閉めさせて「原稿」を読み出すが、つっかえつっかえではかどらない。

「あらあらあら、荒布、あらめでたいな。あら、めでたいなく」
「おい、めでたくなくちゃいけない」
「くの字が大きいんだ。鶴は十年」
「鶴は千年だろ」
「鶴の孫」
「それだって千年だ」
「あ、チョンが隠れてた。鶴は千年。亀は……あの、少々うかがいます」
「どなたで?」
「厄払いで」
「まだいやがった。なんだ」
「向こうの酒屋は、なんといいます」
「万屋だよ」
「ええ、亀はよろず年。東方」

ここまで読むと、与太郎、めんどうくさくなって逃げ出した。

「おい、表が静かになった。開けてみな」
「へい。あっ、旦那、厄払いが逃げていきます」
「逃げていく? そういや、いま逃亡(=東方)と言ってた」

【RIZAP COOK】

【しりたい】

「黒門町」の隠れ十八番  【RIZAP COOK】

原話は不詳で、文化年間(1804-18)から口演されてきました。東西ともに演じられますが、上方の方はどちらかというとごく軽い扱いで、厄払いのセリフをダジャレでもじるだけのもの。オチは「よっく挟みまひょ」で、「厄払いまひょ」の地口です。

明治34年(1901)の四代目柳亭左楽りゅうていさらくの速記では、「とうほうさく」のくの字が「く」か「ま」か読めず、「とうほうさま、とうほうさく」とうなっていると、客「弘法さまの厄除けのようだ」、与太郎「百よけいにもらやあ、オレの小遣いになる」とダジャレの連続でオチています。

昭和期では、たまに八代目桂文楽(黒門町くろもんちょうの師匠)が機嫌よく演じ、これも隠れた十八番の一つでした。文楽没後は、三笑亭夢楽さんしょうていむらくも得意にしました。

以後、若手もけっこう手がけていましたが、音源は文楽、夢楽のほか古くは初代桂春団治かつらはるだんじのレコードがあり、桂米朝、柳家小三治もCDに入れていました。

一年を五日で暮らす厄払い  【RIZAP COOK】

古くは節分だけの営業でしたが、文化元年(1804)以後は正月六日と十四日、旧暦十一月の冬至、大晦日おおみそかと、年に計五回、夜にまわってくるようになりました。

この噺では大晦日の設定です。古くは、厄年の者が厄を落とすため、個人個人でやるものでしたが、次第に横着になり、代行業が成り立つようになったわけです。

もっとも、個人でする厄落としがまったくなくなったわけではなく、人型に切り抜いた紙で全身をなで、川へ流す、また、大晦日にふんどしに百文をくくり、拾った者に自分の一年分の厄を背負わせるといった奇習もありました。

要は、フンドシが包んでいる部分は、体中でもっとも男の厄と業がたまっているから、というわけです。

江戸の厄落としは「おん厄払いましょう、厄落とし」と、唄うように町々を流し、それが前口上になっています。

文句は京坂と江戸では多少異なり、江戸でも毎年、また節季ごとに変えて工夫しました。

厄落としの祝詞は、もとは平安時代に源を発する厄除けの呪文・追儺祭文ついなさいもんからきたといわれています。

前口上で家々の気を引いて、呼び込まれると門付かどづけで縁起のいい七五調の祝詞のりとを並べます。

いずれも「あーらめでたいな、めでたいな」で始まり、終わりに「西の海とは思えども、東の海へさらーり」の決まり文句で、厄を江戸湾に捨て流して締めます。

祝儀しゅうぎを余計はずむと、役者尽くし、廓尽くしなど、スペシャルバージョンを披露することもありました。

こうなると縁起ものというより、万歳まんざい同様、一種の芸能、エンターテインメントでしょう。

祝儀は、江戸期では十二文、明治期では一銭から二銭をおひねりで与え、節分には、それに主人の年の数に一つ加えた煎り豆を、他の節季には餅を添えてやるならわしでした。

『明治商売往来』(仲田定之助、ちくま文庫)」に言及がありますが、1888年(明治21)生まれの仲田でさえ、記憶が定かでないと述べているので、おそらく明治30年代終わりには、もういなくなっていたのでしょう。

こいつぁ春から  【RIZAP COOK】

歌舞伎で、河竹黙阿弥かわたけもくあみの世話狂言「三人吉三さんにんきちざ」第二幕大川端おおかわばたの場の「厄落やくおとし」のセリフは有名です。

夜鷹よたかのおとせが、前夜の客で木屋の手代てだい十三郎じゅうざぶろうが置き忘れた百両の金包みを持って、大川端をうろうろしているところを、親切ごかしで道を教えた女装の盗賊・お嬢吉三に金を奪われ、川に突き落とされます。

ここで七五調の名セリフ。

月もおぼろに白魚しらうお
かがりもかすむ春の空冷てえ風もほろ酔いに
心持ちよくうかうかと浮かれがらすのただ一羽
ねぐらへ帰る川端でさおしずくか濡れ手であわ
思いがけなく手に入る百両

懐の財布を出し、にんまりしたところで、「おん厄払いましょう、厄落とし」と、厄払いの口上の声。

ほんに今夜は節分か
西の海より川の中落ちた夜鷹は厄落とし
豆だくさんに一文の
銭と違って金包み
こいつぁ春から(音羽屋!)縁起がいいわえ

「西の海」の厄払いの決まり文句、豆と一文銭というご祝儀の習慣がちゃんと読み込まれた、心憎さです。

こんなぐあいですから、歌舞伎の世界ではすらすら流れる名調子を「厄払い」と言っているそうです。

蓬莱山  【RIZAP COOK】

神仙思想の言葉。中国の東方海上にあるといわれている想像上の霊山。

神仙思想では、仙人が住む不老不死の仙境と信られていました。

東方朔  【RIZAP COOK】

東方朔(BC154-)は中国、前漢ぜんかんの人。武帝の側近として仕えた文人です。

西王母(仙人)の、三千年に一度実る桃を三個も盗み食いし、人類史上ただ一人、不老不死の体になった人。

李白の詩でその超人ぶりを称えられ、能「東方朔」では仙人として登場します。

漢の武帝に仕え、知略縦横、また万能の天才、漫談の祖としても知られました。

BC92年、62歳で死んだと見せかけ、以後、仙人業に専念。2175歳の今も、もちろんまだご健在のはずです。

ただし、捜し出して桃のありかを吐かせようとしても、次に実るのはまだ千年も先ですので、ムダでしょう。

須弥山  【RIZAP COOK】

仏教語。世界の中央にそびえる山。高さは八万由旬ゆじゅん(1由旬=40里=160km)あって、風輪、水輪、金輪が重なっている山だそうです。

金、銀、瑠璃るり玻璃はりの四宝からなり、頂上には宮殿があって、そこには帝釈天たいしゃくてん、中腹には四天王してんのうが住んでいるんだそうです。

日と月はその中腹を周回しているとのこと。想像を絶します。

三浦の大助  【RIZAP COOK】

平安末期の武将、三浦義明みうらよしあき(1092-1180)のこと。

相模の有力豪族、三浦氏の総帥そうすいで、治承じしょう2年(1178)、源頼朝の挙兵に応じましたが、石橋山いしばしやまの合戦で頼朝が敗北後、居城の衣笠城きぬがさじょう籠城ろうじょう

一族の主力を安房あわ(千葉県南部)に落とし、自らは敵勢を引き受け、城を枕に壮絶な討ち死にを遂げました。

実際には88歳までしか生きませんでしたが、古来まれな長寿者として誇張して伝承され、「三浦大助」として登場する歌舞伎「石切梶原いしきりかじわら」では108歳とされています。

「厄払い」の中では「みうらのおおすけ」と発音されます。

人名で、姓と名の間に「の」を入れた読み方は、鎌倉幕府創建が一つの区切りといわれます。

源頼朝みなもとのよりとも源義経みなもとのよしつね北条政子ほうじょうまさこ北条義時ほうじょうよしとき……。

【RIZAP COOK】



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もうはんぶん【もう半分】落語演目

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【どんな?】

ぞぞっとする怪談噺。陰にこもってものすごく……。

別題:五勺酒 正直清兵衛(類話)

【あらすじ】

千住小塚っ原に、夫婦二人きりの小さな居酒屋があった。

こういうところなので、いい客も来ず、一年中貧乏暮らし。

その夜も、このところやって来るぼてふり(棒手振り)の八百屋の爺さんが
「もう半分。へえもう半分」
と、銚子に半分ずつ何杯もお代わりし、礼を言って帰っていく。

この爺さん、鼻が高く目がギョロっとして、白髪まじり。

薄気味悪いが、お得意のことだから、夫婦とも何かと接客してやっている。

爺さんが帰った後、店の片づけをしていると、なんと、五十両入りの包みが置き忘れてある。

「ははあ、あの爺さん、だれかに金の使いでも頼まれたらしい。気の毒だから」
と、追いかけて届けてやろうとすると、女房が止める。

「わたしは身重で、もういつ産まれるかわからないから、金はいくらでもいる。ただでさえ始終貧乏暮らしで、おまえさんだって嫌になったと言ってるじゃないか。爺さんが取りにきたら、そんなものはなかったとしらばっくれりゃいいんだ。あたしにまかせておおきよ」

女房に強く言われれば、亭主、気がとがめながらも、自分に働きがないだけに、文句が言えない。

そこへ、真っ青になった爺さんが飛び込んでくる。

女房が気強く
「金の包みなんてそんなものはなかったよ」
と言っても、爺さんはあきらめない。

「この金は娘が自分を楽させるため、身を売って作ったもの。あれがなくては娘の手前、生きていられないので、どうか返してください」
と泣いて頼んでも、女房は聞く耳持たず追い返してしまった。

亭主はさすがに気になって、とぼとぼ引き返していく爺さんの後を追ったが、すでに遅く、千住大橋からドボーン。

身を投げてしまった。

その時、篠つくような大雨がザザーッ。

「しまった、悪いことをしたッ」
と思っても、後の祭り。

いやな心持ちで家に帰ると、まもなく女房が産気づき、産んだ子が男の子。

顔を見ると、歯が生えて白髪まじりで「もう半分」の爺さんそっくり。

それがギョロっとにらんだから、女房は
「ギャーッ」
と叫んで、それっきりになってしまった。

泣く泣く葬式を済ませた後、赤ん坊は丈夫に育ち、あの五十両を元手に店も新築して、奉公人も置く身になったが、乳母が五日と居つかない。

何人目かに、ようようわけを聞き出すと、赤ん坊が夜な夜な行灯の油をペロリペロリとなめるので
「こわくてこんな家にはいられない」
と言う。

さてはと思ってその真夜中、棒を片手に見張っていると、丑三ツの鐘と同時に赤ん坊がヒョイと立ち、行灯から油皿をペロペロ。

思わず
「こんちくしょうめッ」
と飛び出すと、赤ん坊がこっちを見て
「もう半分」

底本:五代目古今亭志ん生

しりたい

志ん生得意の怪談噺

原話は、興津要興津要(1924-1999、江戸文学)の説にれば、井原西鶴井原西鶴(1642-93)『本朝二十不孝』巻三(貞享3=1686年刊)の「当社の案内申す程をかし」とのことですが、明確ではありません。

明治期には初代三遊亭円左(小泉熊山、1853-1909、狸の)、昭和期には五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)が好んで演じました。

志ん生は、後半の陰惨な印象をやわらげるためか、居酒屋のガラガラ女房がネコババをためらう亭主に「いやにおまいさん正直だね。正直だと一生貧乏すんだよ。この正直野郎」などと毒舌を吐く場面で少しでも笑いを多く取ろうとしていました。

五代目古今亭今輔(鈴木五郎、1898-1976、お婆さんの)も「ねぎまの殿さま」と並ぶ数少ない古典のネタとして演じ、三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)、十代目金原亭馬生(美濃部清、1928-82)、十代目柳家小三治(郡山剛蔵、1939-2021)のレパートリーでもありました。

今輔はあの独特のしゃがれ声が怪談噺にマッチしてかなり凄みがありました。

馬生は、最後に赤ん坊がニタリと笑う顔が消え入りそうな「もう半分」の声とともにブキミでした。

円左、金馬、小三治などは居酒屋を永代橋の橋際、身投げの場所も永代橋に設定していました。

正直清兵衛

明治40年(1907)7月号の「文藝倶楽部」に載った五代目林家正蔵(長命で知られ、俗に「百歳正蔵」)の速記「正直清兵衛」が「もう半分」と酷似しています。

あらすじは以下の通り。

本所林町の青物商・清兵衛は借金返済のため娘が身売りしてつくってくれた十五両を居酒屋に置き忘れてしまう。居酒屋の主人夫婦は知らぬ存ぜぬを押し通し、主人の忠右衛門は、泣く泣く帰る清兵衛を追って刺し殺した。その後生まれた赤ん坊は白髪で顔中皺だらけ。この子が成長して忠右衛門夫婦を殺し、あだを討つ。

いやまあ、凄惨な噺ですが、どちらが先にできたのか、また、この噺が「もう半分」とどういう関係にあるのかは、まったく不明です。

千住小塚っ原

志ん生が居酒屋の場所にしていますが、現在の荒川区南千住で、江戸時代は千住宿の下宿しもじゅくと称し、千住大橋の南詰めに位置します。

有名なお仕置き場(処刑場)がありました。北詰めの足立区北千住は、上宿と呼ばれました。

棒手振り

ぼてふり。天秤棒で商品をかついで売り歩く小商人、行商人です。

店舗を持たない零細な魚屋、八百屋などはすべてこれで、落語ではおなじみの存在ですね。

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みそぐら【味噌蔵】落語演目



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【どんな?】

驚くべきしみったれが主人公。

ここまでくればおみごとです。

あらすじ】 

驚異的なしみったれで名高い、味噌屋みそやの主人の吝嗇屋しわいや吝兵衛けちべえ

嫁などもらって、まして子供ができれば経費がかかってしかたがないと、いまだに独り身。

心配した親類一同が、どうしてもお内儀かみさんを持たないなら、今後一切付き合いを断る、商売の取引もしないと脅したので、泣く泣く嫁を取った。

赤ん坊ができるのが嫌さに、婚礼の晩から新妻にいづまを二階に上げっぱなしで、自分は冬の最中だというのに、薄っぺらい掛け蒲団一枚で震えながら寝る。

が、どうにもがまんできなくなり、二階の嫁さんのところに温まりに通ったのが運の尽き。

たちまち腹の中に、その温まりの塊ができてしまった。

振りかかった災難に頭を抱えた吝兵衛、番頭に相談すると、臨月が来たらかみさんを腹の赤ん坊ごと実家に押しつけてしまえばいいと言う。

そうすれば費用はみなあちら持ちだと聞いて、ケチなだんなはやっと一安心。

十月十日がたって、無事男子を安産の知らせが届いたので、吝兵衛、小僧の定吉さだきちをお供に出かけることにする。

重箱を定吉に持たせるが、これは、宴席のごちそうをこっそり詰めてくる算段。

出掛けに、もし近所から火事が出たら、商売物の味噌で蔵の目塗めぬりをするよう番頭に言いつける。

これは焼けたのをはがして、奉公人のおかずにするため。

だんなが出かけると、奉公人一同、この機会にのみ放題食い放題、日ごろのうっぷんを晴らそうと番頭に申し出る。

なにしろ、この家では、朝飯の味噌汁が薄くて実なし。

自分の目玉が映っているのを田螺と間違えるほどだから、むりもない。

番頭が、勘定かんじょうは帳面をドガチャカごまかすことに決め、寿司に刺身、鯛の塩焼きに酢の物と、ごちそうをあつらえる。

最後に木の芽田楽をどんどん届けさせることにし、相撲甚句すもうじんく磯節いそぶしと、陽気などんちゃん騒ぎ。

こちらはだんな。定吉が重箱を忘れたので、小言を言いながら戻ってみると、大騒ぎをしている家がある。

ああいうのはだんなの心がけが悪いと言いながらも胸騒ぎがして、節穴からのぞいてみると案の定自分の家。

手代の甚助が、ウチのだんなは外から下駄を拾ってこさせ、焚き付けに使うだの、ドガチャカだのと言いたい放題。

番頭が
「だんながもし途中で帰ったら、鯛の塩焼きを見せれば、だんなは塩焼きはイワシしか知らないから、たまげて人事不省じんじふせいに陥る。寝かせちまって、あとは夢を見たんでしょうとゴマかせばいい」
と言うのが聞こえたから、吝兵衛はカンカン。

ドンドンと戸をたたき
「おい、あたしだ」

一同、酔いもいっぺんに醒め、急いで膳を片づけたがもう遅い。

「この入費は給金からさっ引くから、生涯ただ働きを覚悟しろ。ドガチャカなんぞさせてたまるか」
と怒っているところへ戸をたたく音。

「ええ、焼けてまいりました」

さては火事だと驚き
「どこから焼けました」
「横町の豆腐屋から焼けてまいりました」
「よっぽど焼けましたか」
「二、三丁焼けました。これからどんどん焼けてきます」

これは火足が速いと、慌てて戸を開けると、プーンと田楽でんがく味噌の匂い。

「いけねえ。味噌蔵ィ火が入った」

しりたい】 

ケチ兵衛再び登場

あたま山」についで「しわい屋風雲録」ともいえるケチ噺。同類には「吝嗇屋」「片棒」「死ぬなら今」「位牌屋」などがあります。

田楽

名前の由来は、中世の田楽法師が、サオの上で踊る形に似ているところから。武士が大小を差した姿を「田楽串」、槍でくし刺しになるのを「田楽刺し」といいました。どちらもその形状からです。

室町時代からあったといわれ、朝廷では、大晦日のすす払いの日に田楽を酒のさかなにする習慣がありました。

木の芽田楽は、山椒の香をきかせたものです。

両国の川開きには、橋の両詰めに田楽売りが屋台を並べました。

ほかの噺では「寄合酒」にも登場します。

演者など

戦後では三代目桂三木助かつらみきすけのが有名でした。

三木助はギャグを現代風につくりかえて大ウケ。「あらすじ」にも取り入れた、
「鯛の塩焼きで人事不省におちいる」
などは、漢語をモダンに使う同師ならではのものです。

門下の入船亭扇橋いりふねていせんきょうが継承しました。

落語通の支持が大きかった八代目三笑亭可楽さんしょうていからくも、だんなが帰ったとき番頭が「幻滅の悲哀を感じる」、責められると「心境の変化で……」など、妙に哲学的なギャグを連発し、どんちゃん騒ぎの場面で三界節の鳴り物を入れて美声を聞かせるなど、全体に地味な演出をカバーして好評でした。

目塗り

火事息子」「鼠穴」にも登場しますが、蔵を防火用に土などで塗り固めることです。

目塗り用に粘土を樽に詰めたものを「用心土」といい、火事の多い江戸ではどこの商店でも必ず常備していました。

味噌で目塗りというのも、非常の場合は実際にあったそうです。



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みいらとり【木乃伊取り】落語演目

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【どんな?】

若だんなが吉原から帰ってこなくなって。それを連れ戻しに番頭が出かけて見れば。

その名のとおり、みいら取りがみいらになってしまった噺です。

あらすじ

道楽者の若だんなが、今日でもう四日も帰らない。

心配した大だんなが、番頭の佐兵衛を吉原にやって探らせると、江戸町一丁目の「角海老」に居続けしていることが判明。

番頭が「何とかお連れしてきます」と出ていったがそれっきり。

五日たっても音沙汰なし。

大だんなが「あの番頭、せがれと一緒に遊んでるんだ。誰が何と言っても勘当する」と怒ると、お内儀が「一人のせがれを勘当してどうするんです。鳶頭ならああいう場所もわかっているから、頼みましょう」ととりなすので呼びにやる。

鳶頭、「何なら腕の一本もへし折って」と威勢よく出かけるが、途中の日本堤で幇間の一八につかまり、しつこく取り巻くのを振り切って角海老へ。

若だんなに「どうかあっしの顔を立てて」と掛け合っているところへ一八が「よッ、かしら、どうも先ほどは」

あとはドガチャカで、これも五日も帰らない。

「どいつもこいつも、みいら取りがみいらになっちまやがって。今度はどうしても勘当だ」と大だんなはカンカン。

「だいたい、おまえがあんな馬鹿をこさえたからいけないんです」と、夫婦でもめていると、そこに現れたのが飯炊きの清蔵。

「おらがお迎えに行ってみるべえ」と言いだす。

「おまえは飯が焦げないようにしてりゃいい」としかっても「仮に泥棒が入ってだんながおっ殺されるちゅうとき、台所でつくばってるわけにはいかなかんべえ」と聞かない。

「首に縄つけてもしょっぴいてくるだ」と、手織り木綿のゴツゴツした着物に色の褪めた帯、熊の革の煙草入れといういでたちで勇んで出発。

吉原へやって来ると、若い衆の喜助を「若だんなに取りつがねえと、この野郎、ぶっ張りけえすぞ」と脅しつけ、二階の座敷に乗り込む。

「番頭さん、あんだ。このざまは。われァ、白ねずみじゃなくてどぶねずみだ。鳶頭もそうだ。この芋頭」と毒づき、「こりゃあ、お袋さまのお巾着だ。勘定が足りないことがあったら渡してくんろ、せがれに帰るように言ってくんろと、寝る目も寝ねえで泣いていなさるだよ」と泣くものだから、若だんなも持て余す。

あまりしつこいので「何を言ってやがる。てめえがぐずぐず言ってると酒がまずくなる。帰れ。暇出すぞ」と意地になってタンカを切ると、清蔵怒って「暇が出たら主人でも家来でもねえ。腕づくでもしょっぴいていくからそう思え。こんでもはァ、村相撲で大関張った男だ」と腕を捲くる。

腕力ではかなわないので、とうとう若だんなは降参。

一杯のんで機嫌良く引き揚げようと、清蔵に酒をのませる。

もう一杯、もう一杯と勧められるうちに、酒は浴びる方の清蔵、すっかりご機嫌。

ころあいを見て、若だんなの情婦のかしく花魁がお酌に出る。

「おまえの敵娼に出したんだ。帰るまではおまえの女房なんだから、あくぁいがってやんな」

花魁「こんな堅いお客さまに出られて、あたしうれしいの。ね、あたしの手を握ってくださいよ」としなだれかかってくすぐるので、清蔵はもうデレデレ。

「おい番頭、かしくと清蔵が並んだところは、似合いだな」
「まったくでげすよ。鳶頭、どうです?」
「まったくだ。握ってやれ握ってやれ」

三人でけしかける。

「へえ、若だんながいいちいなら、オラ、握ってやるべ。ははあ、こんだなアマっ子と野良ァこいてるだな、帰れっちゅうおらの方が無理かもすんねえ」
「おいおい、清蔵、そろそろ支度して帰ろう」
「あんだ? 帰るって? 帰るならあんた、先ィお帰んなせえ。おらもう二、三日ここにいるだよ」

しりたい

「みいらとりがみいらに……」

呼びに行った者が誰も帰らないことですが、皮肉なこの噺の結末にはぴったりの演題です。清蔵をいちずに、実直に演じることで最後のオチのドンデン返しが効いてきます。

「みいら」は本来、死体の防腐用の樹液のことで、元はポルトガル語。

「木乃伊」「蜜人」とも書きます。

それが乾燥死体そのものの意味にに転じたものですが、ことわざの意味との関係は不明です。

円生から談志へ

古くからの江戸前噺です。

戦後、得意にしていたのは六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の師匠)と八代目林家正蔵(岡本義、1895-1982、彦六)で、特に円生のものは、人物の描き分けが巧みで、定評がありました。

円生没後は七代目立川談志(松岡克由、1935-2011)の得意ネタでした。

談志は、花魁が権助(清蔵)の上にまたがったりするエロチックな演出を加え、オチは、「こんなに惚れられてんのに、店なんぞに帰れるか」「勘定どうする?」「さっきの巾着よこせ」としていました。

角海老のこと

落語にしばしば登場する「角海老かどえび」は、旧幕時代は「海老屋」といい、吉原屈指の大見世、超有名店でした。

つまり、「角海老」と称するようになったのは明治になってからです。

「角海老」の創業者は、信州伊那出身の宮沢平吉なる人物です。

幕末に上京して牛太郎(客引き)から身を起こし、海老屋を買い取って、明治17年(1884年)に「角海老」の看板をあげました。

その屋根の、イルミネーション付きの大時計は明治の吉原のシンボルでした。

日本堤

元和6年(1620)、荒川の治水のため、浅草聖天町あさくさしょうでんちょうから箕輪みのわ(三ノ輪)まで築いた堤防です。

そのうち吉原衣紋坂よしわらえもんざかまでを土手八丁どてはっちょう、または馬道八丁うまみちはっちょうと呼びました。

日本堤にっぽんづつみの名の由来は、堤防構築に、在府している全国のすべての大名が駆り出されたことからきたといいます。

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ぶんしちもっとい【文七元結】落語演目

 

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席 円朝作品

【どんな?】

博打三昧の長兵衛。娘が吉原に身売りに。

手にした五十両でドラマが。

円朝噺。

円朝がこしらえた名作ではありますが、演者によってだいぶ違いますね。

別題:恩愛五十両

【あらすじ】

本所達磨横町だるまよこちょうに住む、左官の長兵衛。

腕はいいが博打に凝り、仕事もろくにしないので家計は火の車。

博打の借金が五十両にもなり、年も越せないありさまだ。

今日も細川屋敷の開帳ですってんてん。

法被はっぴ一枚で帰ってみると、今年十七になる娘のお久がいなくなったと、後添のちぞい(後妻)の女房お兼が騒いでいる。

成さぬ仲だが、
「あんな気立ての優しい子はない、おまえさんが博打で負けた腹いせにあたしをぶつのを見るのが辛いと、身でも投げたら、あたしも生きていない」
と、泣くのを持てあましていると、出入り先の吉原、佐野槌さのづちから使いの者。

お久を昨夜から預かっているから、すぐ来るようにと内儀おかみさんが呼んでいると、いう。

あわてて駆けつけてみると、内儀さんの傍らでお久が泣いている。

「親方、おまえ、この子に小言なんか言うと罰が当たるよ」

実はお久、自分が身を売って金をこしらえ、おやじの博打狂いを止めさせたいと、涙ながらに頼んだという。

「こんないい子を持ちながら、なんでおまえ、博打などするんだ」
と、内儀さんにきつく意見され、長兵衛、つくづく迷いから覚めた。

お久の孝心に対してだと、内儀さんは五十両貸してくれ、来年の大晦日おおみそかまでに返すように言う。

それまでお久を預り、客を取らせずに、自分の身の回りを手伝ってもらうが、一日でも期限が過ぎたら

「あたしも鬼になるよ」
と言い放ち、さらには、
「勤めをさせたら悪い病気をもらって死んでしまうかもしれない、娘がかわいいなら、一生懸命稼いで請け出しにおいで」
と言い渡されて長兵衛、
「必ず迎えに来るから」
とお久に詫びる。

五十両を懐に吾妻橋あずまばしに来かかった時。

若い男が今しも身投げしようとするのを見た長兵衛。

抱きとめて事情を聞くと、男は日本橋横山町三丁目の鼈甲べっこう問屋近江屋卯兵衛おうみやうへえの手代、文七。

橋を渡った小梅おうめの水戸さま(水戸藩下屋敷)で掛け取りに行き、受け取った五十両を枕橋まくらばしですられ、申し訳なさの身投げだと、いう。

「どうしても金がなければ死ぬよりない」
と聞かないので、長兵衛は迷いに迷った挙げ句、これこれで娘が身売りした大事の金だが、命には変えられないと、断る文七に金包みをたたきつけてしまう。

一方、近江屋では、文七がいつまでも帰らないので大騒ぎ。

実は、碁好きの文七が殿さまの相手をするうち、うっかり金を碁盤の下に忘れていったと、さきほど屋敷から届けられたばかり。

夢うつつでやっと帰った文七が五十両をさし出したので、この金はどこから持ってきたと番頭が問い詰めると、文七は仰天して、吾妻橋の一件を残らず話した。

だんなの卯兵衛は
「世の中には親切な方もいるものだ」
と感心。

長兵衛が文七に話した「吉原佐野槌」という屋号を頼りに、さっそくお久を請け出す。

翌日。

卯兵衛は文七を連れて達磨横町の長兵衛宅を訪ねる。

長兵衛夫婦は、昨日からずっと夫婦げんかのしっ放し。

割って入った卯兵衛が事情を話して厚く礼をのべ、五十両を返したところに、駕籠かごに乗せられたお久が帰ってくる。

夢かと喜ぶ親子三人に、近江屋は、文七は身寄り頼りのない身、ぜひ親方のように心の直ぐな方に親代わりになっていただきたいと申し出る。

これから、文七とお久をめあわせ、二人して麹町貝坂かいさかに元結屋の店を開いたという、「文七元結」由来の一席。

底本:六代目三遊亭円生

【しりたい】

円朝の新聞連載

中国の文献(詳細不明)をもとに、三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)が作ったとされます。

実際には、それ以前に同題の噺が存在し、円朝が寄席でその噺を聴いて、自分の工夫を入れて人情噺に仕立て直したのでは、というのが、八代目林家正蔵(岡本義、1895-1982、彦六)の説です。

初演の時期は不明ですが、明治22年(1899)4月30日から5月9日まで10回に分けて円朝の口演速記が「やまと新聞」に連載され、翌年6月、速記本が金桜堂から出版されています。

円朝の高弟、四代目三遊亭円生(立岩勝次郎、1846-1904)が継承して得意にしました。

明治40年(1907)の速記が残る初代三遊亭円右(沢木勘次郎、1860-1924、→二代目円朝)、四代目橘家円喬(柴田清五郎、1865-1912)、五代目円生(村田源治、1884-1940、デブの)など、円朝門につながる明治、大正、昭和初期の名人連が競って演じました。

巨匠が競演

四代目円生から弟弟子の三遊一朝(倉片省吾、1846[1847]-1930)が教わり、それを、戦後の落語界を担った八代目林家正蔵(彦六)、六代目円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)に伝えました。

この二人が先の大戦後のこの噺の双璧でしたが、五代目古今亭志ん生もよく演じ、志ん生は前半の部分を省略していきなり吾妻橋の出会いから始めています。

次の世代の円楽、談志、志ん朝ももちろん得意にしていました。

身売りする遊女屋、文七の奉公先は、演者によって異なります。

円朝と円生とでは、吉原佐野槌→京町一丁目角海老、五十両→百両、日本橋横山町近江屋→白銀町三丁目近卯、麹町六丁目→麹町貝坂と、それぞれ異同があります。

五代目円生以来、六代目円生、八代目正蔵を経て、現在では、「佐野槌」「横山町近江屋」「五十両」が普通です。

五代目古今亭志ん生だけは奉公先の鼈甲問屋を、石町二丁目の近惣としていました。

五代目円生が、全体の眼目とされる吾妻橋での長兵衛の心理描写を細かくし、何度も「本当にだめかい?」と繰り返しながら、紙包みを出したり引っ込めたりするしぐさを工夫しました。

家元の見解

いくら義侠心に富んでいても、娘を売った金までくれてやるのは非現実的だという意見について、立川談志(松岡克由、1935-2011)は、「つまり長兵衛は身投げにかかわりあったことの始末に困って、五十両の金を若者にやっちまっただけのことなのだ。だから本人にとっては美談でもなんでもない、さして善いことをしたという気もない。どうにもならなくなってその場しのぎの方法でやった、ともいえる。いや、きっとそうだ」(『新釈落語咄』より)と述べています。

文七元結

水引元結ともいいました。

元結は、マゲのもとどりを結ぶ紙紐で、紙こよりを糊や胡粉などで練りかためて作ります。

江戸時代には、公家は紫、将軍は赤、町人は白と、身分によって厳格に色が区別されていて、万一、町人風情が赤い元結など結んでいようものなら、その元結ごと首が飛んだわけです。

文七元結は、白く艶のある和紙で作ったもので、名の由来は、文七という者が発明したからとも、大坂の侠客、雁金文七に因むともいわれますが、はっきりしません。

麹町貝坂

千代田区平河町一丁目から二丁目に登る坂です。

元結屋の所在は、現在では六代目円生にならってほとんどの演者が貝坂にしますが、古くは、円朝では麹町六丁目、初代円右では麹町隼町と、かなり異同がありました。

歌舞伎でも上演

歌舞伎にも脚色され、初演は明治24年(1891)2月、大阪・中座(勝歌女助作)です。

長兵衛役は明治35年(1902)9月、五代目尾上菊五郎の歌舞伎座初演以来、六代目菊五郎、さらに二代目尾上松緑、十七代目中村勘三郎、現七代目菊五郎、中村勘九郎(十八代目勘三郎)と受け継がれました。

「人情噺文七元結」として、代表的な人気世話狂言になっています。

六代目菊五郎は、左官はふだんの仕事のくせで、狭い塀の上を歩くように平均を取りながらつま先で歩く、という口伝を残しました。

映画化は7回

舞台(歌舞伎)化に触れましたので、ついでに映画も。

この噺は、妙に日本人の琴線をくすぐります。

大正9年(1920)帝キネ製作を振り出しに、サイレント時代を含め、過去なんと映画化7回も。

落語の単独演目の映画化回数としては、たぶん最多でしょう。

ただし、戦後は昭和31年(1956)の松竹ただ1回です。

そのうち、6本目の昭和11年(1936)、松竹製作版では、主演が市川右太衛門。

戦後の同じく松竹版では、文七が大谷友右衛門。

今や、女形の最高峰にして現役最長老、四代目中村雀右衛門の若き日ですね。

長兵衛役は、なんと花菱アチャコ。

しかし、大阪弁の長兵衛というのも、なんだかねえ。

【語の読みと注】
本所達磨横町 ほんじょだるまよこちょう
法被 はっぴ
佐野槌 さのづち
女将 おかみ
吾妻橋 あづまばし
鼈甲 べっこう
駕籠 かご
麹町貝坂 こうじまちかいざか
元結 もっとい
雁金文七 かりがねぶんしち

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ふなとく【船徳】落語演目



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【どんな?】

勘当若だんなの噺。

船頭にあこがれる道楽の過ぎた野郎は見上げたもんです。

別題: お初徳兵衛 後の船徳

あらすじ】 

道楽が過ぎて勘当され、柳橋の船宿・大枡だいますの二階で居候の身の上の若だんな、徳兵衛。

暇をもてあました末、いなせな姿にあこがれて「船頭になりたい」などと、言いだす始末。

親方始め船宿の若い者の集まったところで「これからは『徳』と呼んどくれ」と宣言してしまった。

お暑いさかりの四万六千日しまんろくせんにち

なじみ客の通人が二人やってきた。あいにく船頭が出払っている。

柱に寄り掛かって居眠りしている徳を認めた二人は引き下がらない。

船宿の女将おかみが止めるのもきかず、にわか船頭になった徳、二人を乗せて大棧橋までの約束で舟を出すことに。

舟を出したのはいいが、同じところを三度も回ったり、石垣に寄ったり。

徳「この舟ァ、石垣が好きなんで。コウモリ傘を持っているだんな、石垣をちょいと突いてください」

傘で突いたのはいいが、石垣の間に挟まって抜けずじまい。

徳「おあきらめなさい。もうそこへは行きません」

さんざん二人に冷や汗をかかせて、大桟橋へ。

目前、浅瀬に乗りあげてしまう。

客は一人をおぶって水の中を歩いて上にあがったが、舟に残された徳、青い顔をして「ヘッ、お客さま、おあがりになりましたら、船頭を一人雇ってください」

底本:八代目桂文楽

しりたい】 

文楽のおはこ   【RIZAP COOK】

八代目桂文楽の極めつけでした。

文楽以後、無数の落語家が「船徳」を演じていますが、はなしの骨格、特に、前半の船頭たちのおかしみ、「四万六千日、お暑い盛りでございます」という決め文句、客を待たせてひげを剃る、若旦那船頭の役者気取り、舟中での「この舟は三度っつ回る」などのギャグ、正体不明の「竹屋のおじさん」の登場などは、刷り込まれたDNAのように、どの演者も文楽に右にならえです。

ライバルの五代目古今亭志ん生は、前半の、若旦那の船頭になるくだりは一切カットし、川の上でのドタバタのみを、ごくあっさりと演じていました。

この噺は元々、幕末の初代志ん生作の人情噺「お初徳兵衛浮名桟橋」発端を、明治の爆笑王・鼻の円遊こと初代三遊亭円遊がパロディ化し、こっけい噺に仕立てたものです。

元の心中がらみの人情噺は、五代目志ん生が「お初徳兵衛」として時々演じました。

四万六千日さま   【RIZAP COOK】

浅草の観世音菩薩の縁日で、旧暦7月10日にあたります。現在の8月なかば、もちろん猛暑のさ中です。

この日にお参りすれば、四万六千日(約128年)毎日参詣したのと同じご利益が得られるという便利な日です。なぜ四万六千日なのかは分かりません。

この噺の当日を四万六千日に設定したのは明治の三代目柳家小さんといわれます。

「お初徳兵衛浮名桟橋」のあらすじ   【RIZAP COOK】

(上)勘当された若旦那・徳兵衛は船頭になり、幼なじみの芸者お初を送る途中、夕立に会ったのがきっかけで関係を結ぶ。

(中)ところが、お初に横恋慕する油屋九兵衛の策謀で、徳兵衛とお初は心中に追い込まれる。

(下)二人は死に切れず、船頭の親方のとりなしで徳兵衛の勘当もとけ、晴れて二人は夫婦に。

竹屋のおじさん   【RIZAP COOK】

客を乗せて船出した後、徳三郎が「竹屋のおじさあん、今からお客を 大桟橋まで送ってきますゥッ」と橋上の人物に呼びかけ、このおじさんなる人が、「徳さんひとりかいッ?大丈夫かいッ?」と悲痛に絶叫して、舟中の旦那衆をふるえあがらせるのが、「船徳」の有名なギャグです。

「竹屋」は、今戸橋の橋詰、向島に渡す「竹屋の渡し」の山谷堀側にあった、同名の有名船宿を指すと思われます。

端唄「夕立や」に「堀の船宿、竹屋の人と呼子鳥」という文句があります。

渡船場に立って、「竹屋の人ッ」と呼ぶと、船宿から船頭が艪を漕いでくるという、夏の江戸情緒にあふれた光景です。

噺の場面も、多分この唄からヒントを得たものでしょう。

舫う

舟を岸につなぎとめておくこと。

「おい、なにやってんだよ。舟がまだもやってあるじゃねえか。いや、まだつないであるってんだよ」

古今亭志ん朝

「舫う」という古めかしい言葉が「繋ぐ」意味だということを客の話しぶりで解説していることろが秀逸でした。

東北風

ならい。東日本の海沿いで吹く、冬の寒い風。東北地方から三重県あたりまでのおおざっぱな一帯で吹きます。

「あーた、船頭になるって簡単におっしゃいますけどね、沖へ出て、東北風ならいにでもごらんなさい。驚くから」

古今亭志ん朝

知っている人は知っている言葉、としか言いようがありません。知らない人はこれを機会に。落語の効用です。

落語ことば 落語演目 千字寄席 落語あらすじ事典

【船徳 古今亭志ん朝】



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ふどうぼう【不動坊】落語演目

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【どんな?】

講釈師が死んだ。女房が暮らしのために縁談をと大家に。ぞっこんの吉公が……。

上方噺を明治期に東京に。わいわいにぎやか。けっこうえげつない噺です。

別題:不動坊火焔 幽霊稼ぎ 

【あらすじ】

品行方正で通る、じゃが屋の吉兵衛。

ある日、大家が縁談を持ち込んできた。

相手は相長屋の講釈師・不動坊火焔の女房お滝で、最近亭主が旅回りの途中で急にあの世へ行ったので、女一人で生活が立ちいかないから、どなたかいい人があったら縁づきたいと、大家に相談を持ちかけてきた、という。

ついては、不動坊の残した借金がかなりあるのでそれを結納代わりに肩代わりしてくれるなら、という条件付き。

実は前々からお滝にぞっこんだった吉公、喜んで二つ返事で話に飛びつき、さっそく、今夜祝言と決まった。

さあ、うれしさで気もそぞろの吉公。

あわてて鉄瓶を持ったまま湯屋に飛び込んだが、湯舟の中でお滝との一人二役を演じて大騒ぎ。

『お滝さん、本当にあたしが好きで来たんですか?』
『なんですねえ、今さら水臭い』
『だけどね、長屋には独り者が大勢いますよ。鍛治屋の鉄つぁんなんぞはどうです?』
『まァ、いやですよ。あんな色が真っ黒けで、顔の裏表がはっきりしない』
『チンドン屋の万さんな?』
『あんな河馬みたいな人』
『じゃあ、漉返し屋の徳さんは?』
『ちり紙に目鼻みたいな顔して』

湯の中で、これを聞いた当の徳さんはカンカン。

長屋に帰ると、さっそく真っ黒けと河馬を集め、飛んでもねえ野郎だから、今夜二人がいちゃついているところへ不動坊の幽霊を出し、脅かして明日の朝には夫婦別れをさしちまおうと、ぶっそうな相談がまとまった。

この三人、そろって前からお滝に気があったから、焼き餅も半分。

幽霊役には年寄りで万年前座の噺家を雇い、真夜中に四人連れで吉公の家にやってくる。

屋根に登って、天井の引き窓から幽霊をつり降ろす算段だが、万さんが、人魂用のアルコールを餡コロ餠と間違えて買ってきたりの騒動の後、噺家が
「四十九日も過ぎないのに、嫁入りとはうらめしい」
と脅すと、吉公少しも動ぜず、
「オレはてめえの借金を肩代わりしてやったんだ」
と逆ねじを食わせたから、幽霊は二の句が継げず、すごすご退散。

結局、「手切れ金」に十円せしめただけで、計画はおジャン。

怒った三人が屋根の上から揺さぶったので、幽霊は手足をバタバタ。

「おい、十円もらったのに、まだ浮かばれねえのか」
「いえ、宙にぶら下がってます」

底本:三代目柳家小さん

【しりたい】

パクリのパクリ  【RIZAP COOK】

明治初期、二代目林家菊丸(?-1901?)作の上方落語を、三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)が東京に移植しました。

溯れば、原話は、安永2年(1773)刊『再成餅』中の「盗人」とされますが、内容を見るとどこが似ているのか根拠不明で、やはり菊丸のオリジナルでしょう。

菊丸の創作自体、「樟脳玉」の後半(別題「源兵衛人玉」「捻兵衛」)のパクリではという疑惑が持たれています(宇井無愁説)。

そのネタ元がさらに、上方落語「夢八」のいただきではと言われているので、ややこしいかぎりです。

菊丸は創作力に秀でた才人で、この噺のほか、現在も演じられる「後家馬子」「猿廻し」「吉野狐」などをものしたと伝えられます。

晩年は失明し、不遇のうちに没したようです。

本家大阪の演出  【RIZAP COOK】

桂米朝(中川清、1925-2015)によれば、菊丸のオリジナルはおおざっぱな筋立て以外は、今ではほとんど痕跡をとどめず、現行のやり方やくすぐりは、すべて後世の演者の工夫によるものとか。

登場人物の名前は「登場しない主役」の不動坊火焔と、すき返し屋の徳さん以外はみな東京と異なります。

新郎が金貸しの利吉、脅しの一味が徳さんのほか、かもじ洗いのゆうさん、東西屋の新さん。幽霊役が不動坊と同業で講釈師の軽田胴斎となっています。

利吉は、まじめ人間の東京の吉兵衛と異なり、徹底的にアホのキャラクターに描かれるので、上方版は銭湯のシーンを始め、東京のよりにぎやかで、笑いの多いものとなっています。

上方では幽霊の正体が最後にバレます。

そのきっかけは、フンドシをつないだ「命綱」が切れて幽霊が落下、腰を打って思わず「イタッ」と叫ぶ段取りです。

オチに四苦八苦  【RIZAP COOK】

あらすじのオチは、東京に移植された際、三代目小さんが作ったもので、現行の東京のオチはほとんどこちらです。

明治42年(1909)10月の「不動坊火焔」と題した小さんの速記では、「てめえは宙に迷ってるのか」「途中にぶら下がって居ります」となっています。

オリジナルの上方のオチは、すべてバレた後、「講釈師が幽霊のマネして銭取ったりするのんか」「へえ、幽霊(=遊芸)稼ぎ人でおます」というもの。

これは明治2年(1869)、新政府から寄席芸人に「遊芸稼ぎ人」という名称の鑑札が下りたことを当て込んだものです。

同時に大道芸人は禁止され、この鑑札なしには、芸人は商売ができなくなりました。

つまり、この噺が作られたのは明治2年前後ということになります。

この噺はダジャレで出来が悪い上、あくまで時事的なネタなので、時勢に合わなくなると演者はオチに困ります。

そこで、上方では幽霊役がさんざん謝った後、新郎の耳に口を寄せ「高砂や……」の祝言の謡で落とすことにしましたが、これもイマイチ。

試行錯誤の末、最近の上方では、米朝以下ほとんどはマクラで「遊芸稼ぎ人」の説明を仕込んだ上でオリジナルの通りにオチています。

当然、オチが違えば切る個所も違ってくるわけです。

二代目桂枝雀(前田達、1939-99)は、昭和47年(1972)の小米時代に、幽霊役が新郎に25円で消えてくれと言われ、どうしようかこうしようかとぶつぶつ言っているので、「なにをごちゃごちゃ言うとんねん」「へえ、迷うてます」というオチを工夫しました。

のちに、東京式の「宙に浮いとりました」に戻しています。

ほかにも、違ったオチに工夫している演者もいます。

どれもあまりしっくりはこないようです。

前座の蛮勇  【RIZAP COOK】

東京では、三代目小さんから四代目柳家小さん(大野菊松、1888-1947)、五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)に継承された小さんの家の芸です。

五代目小さんはこの噺を前座の栗之助時分、覚えたてでこともあろうに、神田の立花でえんえん45分も「熱演」。

のちの八代目林家正蔵(岡本義、1895-1982、彦六)に、こっぴどく叱られたという逸話があります。

九代目桂文治(1892-1978、高安留吉、留さん)も得意にしていました。

現在でも東西で多くの演者が手掛けています。

人魂の正体  【RIZAP COOK】

昔の寄席では、怪談噺の際に焼酎を綿に染み込ませて火を付け、青白い陰火を作りました。

その後、前座の幽霊(ユータ)が客席に現れ、脅かす段取りです。

黙阿弥の歌舞伎世話狂言「加賀鳶」の按摩道玄の台詞「掛け焔硝でどろどろと、前座のお化けを見るように」は有名です。

この噺は明治期が舞台なので、焼酎の代わりにハイカラにアルコールと言っています。

古くは「長太郎玉」と呼ばれる樟脳玉も使われ、落語「樟脳玉」の小道具になっています。

引き窓  【RIZAP COOK】

屋根にうがった明かり取りの窓で、引き綱で開閉しました。

歌舞伎や文楽の「双蝶々曲輪日記」の八段目(大詰め)「引窓」で、芝居に重要な役割を果たすと共にその実物を見ることができます。

五代目小さんのくすぐり  【RIZAP COOK】

(吉公が大家に)「……もう、寝ても起きてもお滝さん、はばかりィ入ってもお滝さん……仕事も手につきませんから、なんとかあきらめなくちゃならないと思って、お滝さんは、あれはおれの女房なんだと、不動坊に貸してあるんだと……ええ、あのお滝さんはもともとあっしの女房で……」

不動明王   【RIZAP COOK】

不動とは不動明王の略です。不動とはどんな存在か。仏像から見ていきましょう。

仏像は四種類に分かれています。

如来 真理そのもの
菩薩 真理を人々に説いて救済する仏
明王 如来や菩薩から漏れた人々を救う存在
天 仏法を守る神々

この種類分けは仏像の格付けとイコールです。不動明王はいくつかの種類分けがされています。五大明王とか八大明王とか。

ここでは五大明王について記します。

不動明王 中央 大日如来の化身
降三世明王 東 阿閦如来の化身
軍荼利明王 南 宝生如来の化身
大威徳明王 西 阿弥陀如来の化身
金剛夜叉明王 北 不空成就如来の化身

寺院で五大明王の像を配置すると、必ず不動明王がそのセンターに位置します。

それだけ高い地位にあるのです。

さらには、明王がすべて如来の化身とされています。

如来で最高位の大日如来の化身が不動明王になっています。

明王は、如来や菩薩の救いから漏れた人々を救う、敗者復活戦の主催者のような役割を担っています。

有象無象を救済するため、怒った顔をしているのです。

忿怒の表情というやつで、怖そうな存在です。

右手に宝剣、左手に羂索。羂索とは人々を漏れなく救うための縄です。

背後には火焔光背という、炎を表現しています。

強そう。でも怖そう。

そんなイメージです。

不動信仰はおもしろいことに、関西よりも関東地方に篤信の歴史があります。

平将門の怨霊を鎮める意味があったと考えられているからです。

将門は御霊信仰のひとつ。

御霊信仰とは、疫病や天災を、非業の死を遂げた人物などの御霊の祟りとしておそれ、御霊を鎮めることで平穏を回復しようとする信仰をいいます。

漏れた人々をも救おうとする不動明王の信仰は、関東で将門の御霊信仰と結びついたのです。

【語の読みと注】
相長屋 あいながや:同じ長屋に住むこと。
相店 あいだな:相長屋に同じ
結納 ゆいのう
漉返し すきがえし:紙すき
東西屋 とうざいや:チンドン屋
加賀鳶 かがとび
双蝶々曲輪日記 ふたつちょうちょうくるわにっき
大日如来 だいにちにょらい
降三世明王 ごうさんぜみょうおう
阿閦如来 あしゅくにょらい
軍荼利明王 ぐんだりみょうおう
宝生如来 ほうしょうにょらい
大威徳明王 だいいとくみょうおう
阿弥陀如来 あみだにょらい
金剛夜叉明王 こんごうやしゃみょうおう
不空成就如来 ふくうじょうじゅにょらい
忿怒 ふんぬ
腱索 けんさく けんじゃく

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

はなみのあだうち【花見の仇討ち】落語演目

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どんな?

洒落がうつつに。
花見どころじゃありません。

別題:八笑人 花見の趣向 桜の宮(上方)

あらすじ

上野の桜も今が満開。仲のよい四人組。

今年は花見の趣向に、周りの人間をあっと驚かすことをやらかそうと相談する。

一人の提案で、敵討ちの茶番をすることに決めた。

一人が適当な場所で煙草をふかしていると、二人が巡礼に扮して通りかかり、
「卒爾(そつじ=失礼)ながら、火をお貸し願いたい」
と近づく。

「さあ、おつけなさい」
と顔を見合わせたとたん、
「やあ、なんじは、なんの誰兵衛よな。なんじを討たんがため、兄弟の者この年月の艱難辛苦。ここで逢ったが優曇華(うどんげ)の花咲き待ちたる今日ただ今、親の仇、いで尋常にィ、勝負勝負」
と立ち回りになる。

ころ合いを見計らって、もう一人が六部の姿で現れ、
「双方、ともに待った、待った」
と中に割って入り、
「それがしにお預けください」
「いざ、いざ」
と三人が刀を引いたら、
「後日、遺恨を含まぬため、仲直りの御酒一献差しあげたい」
「よろしきようにお任せ申す」
と、これから酒肴を用意して思い思いの芸尽くしを見せれば、これが趣向とわかり、やんやの大喝采、というもくろみ。

危なっかしいながらも、なんとか稽古をした。

さて翌朝。

止め男の六部役の半公、笈(おい)を背負って杖を突いた六部のなりで、御徒町まで来かかると、悪いことにうるさ方のおじさんにバッタリ。

甥の六部姿を見ると、てっきり家出だと思い込み
「べらぼうめ。一人のおふくろを残してどうするんだ。こっちィ来い」

強引に、家まで引きずっていく。

このおじさん、耳が遠いので弁解しても、いっこうに通じない。

しかたがないので酔いつぶそうとするが、あべこべに半公の方が酔っぱらって、高いびき。

こちらは巡礼の二人組。

一人が稽古のために杖を振り回したのが悪く、通りかかった侍の顔にポカリ。

「おのれ武士の面体に。無礼な巡礼。新刀の試しに斬ってつかわす。そこへ直れ。遠慮いたすな」

平謝りしても、許してくれない。

そこへもう一人の侍。

まあまあとなだめて
「ただの巡礼とは思えぬ。さぞ大望のあるご仁とお見受けいたす」

こうなればヤケで、二人は
「なにを隠そう、われわれは七年前に父を討って国許を出奔した山坂転太を……」
とデタラメを並べる。

侍二人は感心し、
「仇に出会ったら、必ず助太刀いたす」
と迷惑な約束。

一方、仇役。

いっこうに六部も巡礼も現れないのでイライラ。ようやく二人が見えたので
「おーい、こっち」

仇の方から呼んでいる。

予定通り
「いざ尋常に勝負勝負」
「かたはら痛い。両人とも返り討ちだ」
と立ち回りを始めるが、止め男の半さんが来ない。

三人とも斬り合いながら気が気でないが、今さらやめられない。

あたりは黒山の人だかり。

いいかげん間延びしてきたころ、悪いことに、騒ぎを聞いて現れたのがあの侍二人。

スパっと大刀を抜き、
「孝子両人、義によって助太刀いたすッ」
ときたから、たまらない。

仇も巡礼も、尻に帆かけて逃げだした。

「これ両名の者、逃げるにはおよばん。勝負は五分だ」
「いえ、肝心の六部が参りません」

底本:四代目橘家円蔵

【RIZAP COOK】

しりたい

作者は滝亭鯉丈  【RIZAP COOK】

滝亭鯉丈りゅうていりじょう(1777?-1841)が文政3年(1820)に出版した滑稽本『花暦八笑人』初編を(たぶん作者当人が)落語化したものです。

鯉丈は小間物屋のおやじでしたが、寄席に入り浸っているうちに本職になってしまい、落語家と音曲師を兼ねて人気を博した上、『八笑人』で一躍ベストセラー作家にもなりました。

鯉丈の著作で落語になったものとしては、『大山道中膝栗毛』からとった「猫の茶碗(猫の皿)」があります。

花暦八笑人  【RIZAP COOK】

この原作本は岩波文庫や講談社文庫で読めます。

岩波文庫は品切れ、講談社文庫は絶版ですが、今は古書もネットでたやすく買えるようになりました。

茶番(=素人芝居)をネタにし、八人の呑気者が春夏秋冬それぞれに、茶番の趣向で野外に繰り出し、滑稽な失敗を繰り返すという、くすぐり満載のドタバタ喜劇です。

この「花見の仇討ち」は初編、春の部にあたり、オチがないだけで、三人が逃げる場面まで筋やくすぐりもほとんど同じです。

のちに三代目三遊亭円馬(橋本卯三郎、1882-1945、大阪→東京)が上方の型を参考に、現行により近い形にしましたが、大きな改変はしていません。

ちなみに第二編(夏)は、調子がおかしい人に扮した野呂松という男が馬に履かせるわらじを武士にぶつけて追いかけられるドタバタ。

第三編(秋)は、身投げ女に化けた卒八が両国橋から身を投げると、納涼の屋形船からこれを見ていた若い衆が、われもわれもと魚の面をかぶって飛び込むという、ハチャメチャ。

第四編(冬)はさるお屋敷で忠臣蔵の芝居(茶番)を興行したものの、例によって猪の尻尾に火がついて大騒ぎという次第です。

第二編以後は落語化されていませんが、どなたかアレンジしませんかね。材料が満載です。

優曇華  【RIZAP COOK】

うどんげ。仇討ちの口上の決まり文句です。優曇華はインドの伝説にある、三千年に一度咲く花。

正確な口上では、「盲亀の浮木優曇華の花待ち得たる今日の対面」といいます。

目の見えない亀が浮木を探しあてるのも、優曇華の花を見られるのも、いずれもめぐり逢うことが奇蹟に近いことの例えです。

これはあくまで芝居の話で、実際の仇討ちの場で、悠長にそんなことを言える道理がありません。

もっとも、仇討ちの実態はそんなもので、仇にめぐり逢えるケースはほとんどなく、空しく路傍に朽ち果てた者は数知れずでした。

六部  【RIZAP COOK】

ろくぶ。「一眼国」にも登場しましたが、正確には、六部(六十六部)と巡礼は区別されます。

早く言えば、六部は修行僧、巡礼は本来、西国三十三箇所の霊場を巡る俗人のみを指します。

六部は、古くは天蓋、笈、錫杖に白衣姿で、法華経六十六部を一部ずつ、日本六十六か国の国分寺に奉納して歩く僧ですが、江戸時代には納経の習慣はなくなりました。

巡礼は、現代の「お遍路さん」にも受け継がれていますが、男女とも、ふだん着の上から袖なしの笈鶴を羽織り、「同行二人」と書いた笠をかぶります。

これは、「常に弘法大師と同行」の意味。野村芳太郎監督の映画『砂の器』にも登場しました。

桜の宮  【RIZAP COOK】

上方では「桜の宮」。騒動を起こすのが茶番仲間ではなく、浄瑠璃の稽古仲間という点が東京と異なりますが、後の筋は変わりません。五代目笑福亭松鶴(竹内梅之助、1884-1950)が得意とし、そのやり方が子息の六代目笑福亭松鶴(竹内日出男、1918-86)や三代目桂米朝(中川清、1925-2015)に伝わりました。

東京では、明治期に「花見の趣向」「八笑人」の題で演じた四代目橘家円喬(柴田清五郎、1865-1912)が、「桜の宮」を一部加味して十八番とし、これに三代目三遊亭円馬が立ち回りの型、つまり「見る」要素を付け加えて完成させました。

円馬直伝の三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)を始め、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)、八代目林家正蔵(岡本義、1895-1982、彦六)、五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)など、戦後は多くの大看板が手がけています。

【RIZAP COOK】

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はつてんじん【初天神】落語演目

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【どんな?】

悪ガキの上手をいく、ピンボケな、すれたおやじ、熊五郎の噺です。

あらすじ

新しく羽織をこしらえたので、それをひけらかしたくてたまらない熊五郎。

今日は初天神なので、さっそくお参りに行くと言い出す。

かみさんが、
「それならせがれの金坊を連れていっとくれ」
と言う。

熊は
「口八丁手八丁の悪がきで、あれを買えこれを買えとうるさいので、いやだ」
とかみさんと言い争っている。

当の金坊が顔を出して
「家庭に波風が立つとよくないよ、君たち」

親を親とも思っていない。

熊が
「仕事に行くんだ」
とごまかすと
「うそだい、おとっつぁん、今日は仕事あぶれてんの知ってんだ」

挙げ句の果てに、
「やさしく頼んでるうちに連れていきゃ、ためになるんだけど」
と親を脅迫するので、熊はしかたなく連れて出る。

道々、熊は
「あんまり言うことを聞かないと、炭屋のおじさんに山に捨ててきてもらうぞ」
と脅すと
「炭屋のおじさんが来たら、逃げるのはおとっつぁんだ」
「どういうわけでおとっつぁんが逃げる」
「だって、借金あるもん」

弱みを全部知られているから、手も足も出ない。

そのうち案の定、金坊は
「リンゴ買って、みかん買って」
と始まった。

「両方とも毒だ」
と熊が突っぱねると
「じゃ、飴買って」

「飴はここにはない」
と言うと
「おとっつぁんの後ろ」
と金坊。

飴売りがニタニタしている。

「こんちくしょう。今日は休め」
「冗談いっちゃいけません。今日はかき入れです。どうぞ坊ちゃん、買ってもらいなさい」

二対一ではかなわない。

一個一銭の飴を、
「おとっつぁんが取ってやる」
と熊が言うと
「これか? こっちか?」
と全部なめてしまうので、飴売りは渋い顔。

金坊が飴をなめながらぬかるみを歩き、着物を汚したのでしかって引っぱたくと
「痛え、痛えやい……。なにか買って」

泣きながらねだっている。

「飴はどうした」
と聞くと
「おとっつぁんがぶったから落とした」
「どこにも落ちてねえじゃねえか」
「腹ん中へ落とした」

今度は凧をねだる。

往来でだだをこねるから閉口して、熊が一番小さいのを選ぼうとすると、またも金坊と凧売りが結託。

「へへえ、ウナリはどうしましょう。糸はいかがで?」

結局、特大を買わされて、帰りに一杯やろうと思っていた金を、全部はたかされてしまう。

金坊が大喜びで凧を抱いて走ると、酔っぱらいにぶつかった。

「このがき、凧なんか破っちまう」
と脅かされ、金坊が泣き出したので
「泣くんじゃねえ。おとっつぁんがついてら。ええ、どうも相すみません」

そこは父親で、熊は平謝り。

そのうち、今度は熊がぶつかった。

金坊は
「それ、あたいのおやじなんです。勘弁してやってください。おとっつぁん、泣くんじゃねえ。あたいがついてら」

そのうち、熊の方が凧に夢中になり
「あがった、あがったい。やっぱり値段が高えのはちがうな」
「あたいの」
「うるせえな、こんちきしょうは。あっちへ行ってろ」

金坊、泣き声になって
「こんなことなら、おとっつぁん連れて来るんじゃなかった」

しりたい

オチが違う原話

後半の凧揚げのくだりの原話は、安永2年(1773)、江戸で出版された笑話本『聞上手』中の小ばなし「凧」ですが、オチが若干違っています。

おやじが凧に夢中になるまでは同じですが、子供が返してくれとむずかるので、おやじの方のセリフで、「ええやかましい。われ(おまえ)を連れてこねばよかったもの(を)」。

ひねりがなく平凡なものですが、古くは落語でもこの通りにやっていたようです。

文化年間から口演か

古い噺で、上方落語の笑福亭系の祖といわれる初代松富久亭松竹(生没年不詳、19世紀の人)が前項の原話をもとに落語にまとめたものといわれています。

松竹は少なくとも文政年間(1818-30)以前の人とされるので、この噺は上方では文化年間(1804-18)にはもう演じられていたはずです。

松竹が作ったと伝わる噺には、このほか「松竹梅」「たちぎれ」「千両みかん」「猫の忠信」などがあります。

東京には、比較的遅く、大正に入ってから。三代目三遊亭円馬(橋本卯三郎、1882-1945、大阪→東京)が移植しました。

仁鶴の悪童ぶり

東京では十代目柳家小三治(郡山剛蔵、1939-2021)、三遊亭円弥(林光男、1936-2006)、上方では三代目桂米朝(中川清、1925-2015)でしたが、六代目笑福亭松鶴(竹内日出男、1918-86)から継承した三代目笑福亭仁鶴(1937-2021、岡本武士)も得意としていました。

オチは同じでも、上方の子供のこすっからさは際立っています。

みなさん、物故者ばっかりで残念です。

初天神

旧暦では1月25日。そのほか、毎月25日が天神の祭礼で、初天神は一年初めの天神の日をいいます。

現在でも同じ正月25日で、各地の天満宮が参拝客でにぎわいますが、大阪「天満の天神さん」の、キタの芸妓のお練りは名高いものです。

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のざらし【野ざらし】落語演目

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【どんな?】

釣りの帰途、川べりに髑髏どくろ

手向けの酒を。

宵にはお礼参りの幽霊としっぽりと。

別題:手向けの酒

あらすじ

頃は明治の初め。

長屋が根継ねつぎ(改修工事)をする。

三十八軒あったうち、三十六軒までは引っ越してしまった。

残ったのは職人の八五郎と、もと侍で釣り道楽の尾形清十郎の二人だけ。

昨夜、隣で
「一人では物騒だったろう」
などと、清十郎の声がしたので、てっきり女ができたと合点した八五郎、
「おまえさん、釣りじゃなくていい女のところへ行くんでしょう?」
とカマをかけると
「いや、面目ない。こういうわけだ」
と清十郎が始めた打ち明け話がものすごい。

昨日、向島で釣りをしたら「間日まび(暇な日)というのか、雑魚ざこ一匹かからん」と、その帰り道、浅草寺の六時の鐘がボーンと鳴ると、にわかにあしが風にざわざわ。

鳥が急に茂みから飛び立ったので驚き、葦の中を見ると野ざらしになった髑髏が一つ。

清十郎、哀れに思って手向たむけの回向えこうをしてやった。

「狸を食った? ひどいね」
「回向したんだ」
「猫もねらった」
「わからない男だ。五七五の句を詠んでやったのだ。一休和尚の歌に『骨隠す皮には誰も迷うらん皮破れればかくの姿よ』とあるから、それをまねて『野を肥やせ骨の形見のすすきかな』と浮かんだ」

骸骨がいこつの上に持参した酒をかけてやり、いい功徳をしたと気持ちよくその晩寝入っていると、戸をたたく者がいる。

出てみると女で
「向島の葦の中から来ました」

ぞっとして、狸が化かしに来たのだろうとよく見ると、十六、七の美しい娘。

娘の言うには
「あんなところに死骸をさらし、迷っていましたところ、今日、はからずもあなたのご回向えこうで浮かぶことができましたので、お礼に参りました。腰などお揉みしましょう」

結局、一晩、幽霊としっぽり。

八五郎、すっかりうらやましくなり、自分も女を探しに行こうと強引に釣り竿を借り、向島までやってきた。

大勢釣り人が出ているところで
「ポンと突き出す鐘の音はいんにこもってものすごく、鳥が飛び出しゃコツがある」
と能天気に鼻歌を唄うので、みんなあきれて逃げてしまう。

葦を探すと骨が見つかったので、しめたとばかり酒をどんどんぶっかける。

「オレの家は門跡さまの前、豆腐屋の裏の突き当たりだからね。酒肴をそろえて待っているよ、ねえさん」
と、俳句も何も省略して帰ってしまった。

これを聞いていたのが、悪幇間わるだいこの新朝という男。

てっきり、八五郎が葦の中に女を連れ込んで色事をしていたと勘違い。

住所は聞いたから、今夜出かけて濡れ場を押さえ、いくらか金にしてやろうとたくらむ。

一方、八五郎、七輪の火をあおぎながら、今か今かと待っているがいっこうに幽霊が現れない。

もし門違いで隣に行ったら大変だと気を揉むところへ、
「ヤー」
と野太い声。

幇間、
「どうもこんちはまことに。しかし、けっこうなお住まいで、実に骨董家の好く家でゲスな」
とヨイショを始めたから、八五郎は仰天。

「恐ろしく鼻の大きなコツだが、てめえはいったいどこの者だ」
「新朝という幇間たいこでゲス」
「太鼓? はあ、それじゃ、葦の中のは馬の骨だったか」

しりたい

元祖は中華風「釜掘り」

原典は中国・明代の笑話本『笑府』中の「学様」で、これは最初の骨が楊貴妃、二番目に三国志の豪傑・張飛ちょうひが登場、「拙者の尻をご用立ていたそう」となります。

さらに、これの直接の影響か、落語にも古くは類話「支那の野ざらし」がありました。

こちらは『十八史略』中の「鴻門こうもんの会」で名高い英雄・樊會はんかいが現れ、「肛門(=鴻門)を破りに来たか」という、これまた臭気ただようオチです。

上方では五右衛門が登場

上方落語では「骨釣り」と題します。

若旦那が木津川へ遊びに行き、そこで骨を見つける演出で、最後には幇間ではなく、大盗賊・石川五右衛門登場。これがまた、尻を提供するというので、「ああ、それで釜割りにきたか」。

言うまでもなく、釜ゆでとそっちの方の「カマ」を掛けたものですが、どうも今回は、こんなのばかりで……。

それではここらで、正統的な東京の「野ざらし」をまじめに。

因果噺から滑稽噺へ

こんな、尻がうずくような下品な噺では困ると嘆いたか、禅僧出身の二代目林家正蔵(生没年不詳)が、妙な連中の出現するオチの部分を跡形もなくカット、新たに仏教説話的な因果噺にこしらえ直しました。

二代目正蔵は「こんにゃく問答」の作者ともいわれます。

ところが、明治になって、それをまたひっくり返したのが、爆笑王の初代三遊亭円遊(鼻の円遊)です。

円遊は「手向たむけの酒」の題で演じ、男色の部分は消したまま、あらすじのような滑稽噺としてリサイクルさせました。

「野ざらしの」柳好、柳枝

昭和初期から戦後にかけては、明るくリズミカルな芸風で売った三代目春風亭柳好、端正な語り口の八代目春風亭柳枝が、それぞれこの噺を得意としました。

特に柳好は「鐘がボンと鳴りゃ上げ潮南……」の鼻唄の美声が評判で、「野ざらしの……」と一つ名でうたわれました。

柳枝も軽妙な演出で十八番としましたが、サゲ(オチ)まで演らず、八五郎が骨に酒をかける部分で切っていました。今はほとんどこのやり方です。

現在も、よく高座にかけられています。

TBS落語研究会でも、オチのわかりにくさや制限時間という事情はあるにせよ、こういう席でさえも、途中でチョン切る上げ底版がまかり通っているのは考えものです。

馬の骨?

幇間と太鼓を掛け、太鼓は馬の皮を張ることから、しゃれただけです。

牡馬が勃起した陰茎で下腹をたたくのを「馬が太鼓を打つ」というので、そこからきたという説もあります。

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ねどこ【寝床】落語演目

 

 

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【どんな?】

だんなの道楽、へたくそな義太夫を聴く羽目となる長屋の連中の、心苦しい胸の内。

志ん生もやってますが、これはもう八代目文楽のが有名です。志ん生のもたまには。

別題:素人義太夫 素人浄瑠璃(上方)

あらすじ

ある商家のだんな、下手な義太夫に凝っている。

それも人に聴かせたがるので、みな迷惑。

今日も、家作の長屋の連中を集めて自慢のノドを聞かせようと、大張りきり。

「最初は御簾内みすうちだ。それから橋弁慶はしべんけい、あとへひとつ艶容女舞衣あですがたおんなまいぎぬ三勝半七酒屋さんかつはんしちいざかやの段をやって、伽羅先代萩めいぼくせんだいはぎ御殿政岡忠義ごてんまさおかちゅうぎの段と、あと、久しぶりにそうですな、太閤記たいこうき・十段目尼崎あまがさきを。ついで菅原伝授手習鑑すがわらでんじゅてならいかがみ松王丸屋敷まつおうまるやしきから寺子屋てらこやを熱演して、次に関取千両幟せきとりせんりょうのぼり稲川内いながわうちの段から櫓太鼓やぐらだいこ曲弾きょくひきになって、ここは三味線しゃみせんにちょっともうけさせておいて、このへんで私の十八番、三十三間堂棟由来さんじゅうさんげんどうむなぎのゆらい平太郎住居へいたろうすみかから木遣きやり、玉藻前旭袂たまものまえあさひのたもと・三段目道春館みちはるやかたの段、本朝二十四孝ほんちょうにじゅうしこう・三段目勘助住家かんじゅうろうすみかの段、生写朝顔日記しょううつしあさがおにっき宿屋やどやから大井川おおいがわでは満場をうならせるから。あとへ、彦山権現誓助剣ひこさんごんげんちかいのすけだち毛谷村六助家けやむらろくすけいえの段、播州皿屋敷ばんしゅうさらやしき鉄山館てつさんやかたの段、恋娘昔八丈こいむすめむかしはちじょう・お駒才三こまさいざ城木屋しろきやから鈴ヶ森すずがもりを熱演して、近頃河原達引ちかごろかわらのたてひき・お俊伝兵衛堀川しゅんでんべえほりかわの段、あとへ、碁盤太平記ごばんたいへいき白石噺吉原揚屋しらいしばなしよしわらあげやの段、一谷嫩軍記いちのたにふたばぐんきを語って、伊賀越道中双六いがごえどうちゅうすごろく沼津千本松原ぬまづせんぼんまつばらをいきましょう。それから、忠臣蔵ちゅうしんぐら大序だいじょから十一段ぶっ通して、後日ごじつ清書きよがきまで語るから」

番頭の茂造に長屋を回って呼び集めさせ、自分は小僧の定吉さだきちに、さらしに卵を買ってこい、お茶菓子はどうした、料理は、見台けんだいは、と、うるさいこと。

ところが、茂造が帰ると、雲行きが怪しくなる。

義太夫好きを自認する提灯屋ちょうちんやは、お得意の開業式で三百五十ほど請け負ったので来られず、小間物屋は、かみさんが臨月りんげつで急に虫がかぶり(産気さんけづき)、鳶頭とびのかしらは、ごたごたの仲裁と、口実を設けて誰も来ないとわかると、だんなはカンカン。

店の一番番頭の卯兵衛うへえまで、二日酔いで二階で寝ていると言うし、他の店の者も、やれ脚気かっけだ、胃痙攣いけいれんだと、仮病けびょうを使って出てこない。

「それじゃ、おまえはどうなんだ」
「へえ、あたしはその、一人で長屋を回ってまいりまして……」

しどろもどろで言い訳しようとすると、だんながにらむので
「ええ、あたしは因果と丈夫で。よろしゅうございます。覚悟いたしました。伺いましょう。あたしが伺いさえすりゃ」
と、涙声。

だんなは怒り心頭で
「ああよござんす、どうせあたしの義太夫はまずいから、そうやってどいつもこいつも仮病を使って来ないんだろ。やめます。だがね、義太夫の人情がわからないようなやつらに店ァ貸しとくわけにはいかないから、明日十二時限り明け渡すように、長屋の連中に言ってこい」
と大変な剣幕。

返す刀で、
「まずい義太夫はお嫌でしょう、みんな暇をやるから国元へ帰っとくれ」
と言い渡して、だんなはふて寝。

しかたなく、店の者がもう一度長屋を回ると、店だてを食うよりはと、一同渋々やってくる。

茂造が、みんなさわりだけでも聞きたがっていると、うって変わってお世辞を並べたので、意地になっていただんな、現金なもので、ころりと上機嫌。

長屋の連中、陰で、横町の隠居がだんなの義太夫で「ギダ熱」を患ったとか、佐々木さんとこの婆さんは七十六にもなって気の毒だとかぶつくさ。

だんな、あわただしく準備をし直し、張り切ってどら声を張り上げる。

どう見ても、人間の声とは思えない。

動物園の脇を通るとあんな声が聞こえる、この家の先祖が義太夫語りを絞め殺したのがたたってるんだと、一同閉口。

まともに義太夫が頭にぶつかると即死だから、頭を下げて、とやっているうち、酒に酔って残らずその場でグウグウ。

だんな、静かになったので、感動して聞いているんだろうと、御簾内から覗くとこのありさまで、家は木賃宿じゃないと怒っていると、隅で定吉が一人泣いている。

だんなが喜んで、
「子供でさえ義太夫の情がわかるのに、恥ずかしくないか」
と説教し、定吉に
「どこが悲しかった? やっぱり、子供が出てくるところだな。『馬方三吉子別うまかたさんきちこわかれ』か? 『宗五郎そうごろうの子別れ』か? そうじゃない? あ、『先代萩せんだいはぎ』だな」
「そんなとこじゃない、あすこでござんす」
「あれは、あたしが義太夫を語ったとこじゃないか」
「あたくしは、あすこが寝床でございます」

底本:八代目桂文楽

しりたい

日常語だった「寝床」

上方落語「素人浄瑠璃しろうとじょうるり」を、「狂馬楽きょうばらく」と呼ばれた奇人・三代目蝶花楼馬楽ちょうかろうばらく(本間弥太郎、1864-1914)が明治中期に東京に移したとされますが、明治22年(1889)の二代目禽語楼小さん(大藤楽三郎、1848-98)の速記が残るので、それ以前から東京でも演じられていたのでしょう。

古くから東西で親しまれた噺で、少なくとも戦前までは「下手の横好き」のことを「寝床」といって普通に通用したほどです。

佐々木邦ささきくに(1883-1964)著『ガラマサどん』(太白書房、1948年)では、ビール会社のワンマン社長が社員相手に「寝床」をそっくり再現して笑いを誘いました。これもむろん落語が下敷きになっています。初出は昭和5年(1930)、月刊誌『キング』(講談社)に連載されました。古川ロッパ(古川郁郎、1903-61)主演で、舞台や映画でも人気を集めました。

原話と演者など

江戸初期の寛永年間(1624-44)刊行の笑話本『醒睡笑せいすいしょう』や『きのふはけふの物語』にすでに類話があります。最も現行に近い原話は安永4年(1775)刊『和漢咄会わかんはなしかい』中の「日待ひまち」で、オチも同じです。

三代目三遊亭円馬(橋本卯三郎、1882-1945、大阪→東京)が上方のやり方を踏襲して演じ、それを弟子筋の八代目桂文楽(並河益義、1892-1971)が直伝で継承、十八番としました。

主人公がいかにへたくそとはいえ、演じる側に義太夫の素養がないとこなしきれないため、大看板でも口演できるものは限られます。近代では、文楽のほか六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の師匠)が子供義太夫語りの前身を生かして「豊竹屋とよたけや」とともに自慢ののどを聞かせ、三代目金馬(加藤専太郎、1894-1964)、八代目三笑亭可楽(麹池元吉、1898-1964)も演じました。

異色の志ん生版「寝床」

五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)は、「正統派」の文楽・円生に対抗して、ナンセンスに徹した異色の「寝床」を演じました。前半を短くまとめ、後半、だんなが逃げる番頭を追いかけながら義太夫を語り、「獲物」が蔵に逃げ込むと、その周りを悪霊のようにグルグル回ったあげく、とうとう蔵の窓から語り込み、中で義太夫が渦を巻いて、番頭が悶絶というすさまじいもの。オチは「今ではドイツにいるらしい」という奇想天外。

実はこれ、師匠だった初代柳家三語楼さんごろう(山口慶三、1875-1938)のやり方をそのまま踏襲したものです。三語楼は、英語まじりのくすぐりを連発するなど、生涯エログロナンセンスの異端児で通した人でした。

むろん、このやり方では「寝床」の題のいわれもわからず、正道とはいえません。無頼の青春を送り、不遇が長かった志ん生は、師匠の反逆精神にどこか共鳴し、それを引き継いでいたのでしょうか。このやり方で演じるのは少数です。あまりよいできとは思えませんが。

義太夫

大坂の竹本義太夫(1651-1714)が貞享2年(1685)ごろ、播磨流浄瑠璃はりまりゅうじょうるりから創始、二世義太夫(1691-1744)が大成し、人形芝居(文楽)とともに、上方文化のいしずえとして興隆しました。

噺に登場する「先代萩」など三編はいずれも今日でも文楽の重要なレパートリーになっている代表作です。義太夫が庶民間に根付き、必須の教養だった明治期までは、このほか「釜入かまいりの五郎市ごろいち」「志度寺しどじ坊太郎ぼうたろう」などの子役を並べました。

だんなの強権

この噺の長屋は通りに面した表長屋おもてながやで、おそらく二階建て。義太夫だんなは、居附き地主といって、地主と大家を兼ねています。

表長屋は、店子たなごは鳶頭など、比較的富裕で、今で言う中産階級の人々が多いのですが、単なる賃貸関係でなく、店に出入りして仕事をもらっている者が大半なので、 とても「泣く子と旦那」には逆らえません。

加えて、江戸時代には、引越しして新しい長屋を借りるにも、元の家主の身元保証が必要な仕組みで、二重三重に、義太夫の騒音に命がけで耐えなければならないしがらみがあったわけです。

お次は音曲がらみで、「稽古屋」はいかがでしょうか。

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ねずみあな【鼠穴】落語演目

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【どんな?】

金にまつわる壮大、かつシリアスな人間ドラマ、と思いきや……。

【あらすじ】

酒と女に身を持ち崩した、百姓の竹次郎。

おやじに譲られた田地田畑も、みんな人手に渡った。

しかたなく、江戸へ出て商売で成功している兄のところへ尋ねた。

奉公させてくれと頼むが、兄はそれより自分で商売してみろと励まし、元手を貸してくれる。

竹次郎は喜び、帰り道で包みを開くと、たったの三文。

馬鹿にしやがって、と頭に血が昇った。

ふと気が変わった。

地べたを掘っても三文は出てこない、と思い直した。

これで藁のさんだらぼっちを買い集め、ほどいて小銭をくくる「さし」をこしらえ、売りさばいた金で空俵を買って草鞋わらじを作る、という具合に一心不乱に働く。

その甲斐あって二年半で十両ため、女房も貰って女の子もでき、ついに十年後には深川蛤町はまぐりちょうに蔵が三戸前みとまえある立派な店の主人におさまった。

ある風の強い日、番頭に火が出たら必ず蔵の目塗りをするように言いつけ、竹次郎が出かけたのはあの兄の店。

十年前に借りた三文と、別に「利息」として二両を返し、礼を述べると、兄は喜んで酒を出し、
「あの時におまえに五両、十両の金を貸すのはわけなかったが、そうすれば景気付けに酒をのんでしまいかねない。だからわざと三文貸し、それを一分にでもしてきたら、今度は五十両でも貸してやろうと思った」
と、本心を語る。

「さぞ恨んだだろうが勘弁しろ」
と詫びられたので、竹次郎も泣いて感謝する。

店のことが心配になり、帰ろうとすると兄は、
「積もる話をしたいから泊まっていけ。もしおめえの家が焼けたら、自分の身代を全部譲ってやる」
とまで言ってくれたので、竹次郎も言葉に甘えることにした。

深夜半鐘が鳴り、蛤町方向が火事という知らせ。

竹次郎がかけつけるとすでに遅く、蔵の鼠穴から火が入り、店は丸焼け。

わずかに持ち出したかみさんのへそくりを元手に、掛け小屋で商売してみた。

うまくは行かず、親子三人裏長屋住まいの身となった。

悪いことにはかみさんが心労で寝付いた。

どうにもならず、娘のお芳を連れて兄に五十両借りにいく。

ところが
「元の身代ならともかく、今のおめえに五十両なんてとんでもねえ」
と、けんもほろろ。

店が焼けたら身代を譲ると言ったとしても、
「それは酒の上の冗談だ」
と突っぱねられる。

「お芳、よく顔を見ておけ、これがおめえのたった一人のおじさんだ。人でねえ、鬼だ。おぼえていなせえッ」

親子でとぼとぼ帰る道すがら、七つのお芳が、
「あたしがお女郎じょろうさんになっ、てお金をこしらえる」
とけなげに言ったので、泣く泣く娘を吉原のかむろに売り、二十両の金を得る。

その帰りに、大切な金をすられてしまった。

絶望した竹次郎。

首をくくろうと念仏を唱え、乗っていた石をぽんとけると、そのとたんに
「竹、おい、起きろ」

気がつくと兄の家。

酔いつぶれて夢を見ていたらしいとわかり、竹次郎、胸をなでおろす。

「ふんふん、えれえ夢を見やがったな。しかし竹、火事の夢は焼けほこるというから、来年、われの家はでかくなるぞ」
「ありがてえ、おらあ、あんまり鼠穴ァ気にしたで」
「ははは、夢は土蔵どぞう(=五臓ごぞう)の疲れだ」

【しりたい】

夢は五臓の疲れ   【RIZAP COOK】

五臓は心・肝・肺・腎・。陰陽五行説で、万物をすべて木・火・土・こん・水の五性に分類する思想の名残です。

「夢は五臓のわずらい」ともいいます。

それにしても、普通、夢の「悪役」(しかも現実には恩人)に面と向かって、馬鹿正直に「あんたが人非人に変わる夢を見ました」なんぞとしゃべりませんわなあ。

なんぞ、含むところがあるのかと思われてもしかたありません。

精神科医なら、どう診断するでしょう。

ハッピーエンドの方が、実は夢だった、とでもひっくり返せば、少しはマシな「作品」になるでしょうが。誰か改作しないですかね。

深川蛤町   【RIZAP COOK】

東京都江東区門前仲町の一部です。

三代将軍・家光公に蛤を献上したのが町名の起こりで、樺太探検で名高い間宮林蔵(1775–1844)の終焉の地でもあります。

三戸前   【RIZAP COOK】

「戸前」は、土蔵の入り口の戸を立てる場所。

そこから、蔵の数を数える数詞になりました。

三戸前みとまえ」は蔵を三つ持つこと。蔵の数は金持ちのバロメーターでした。

さんだらぼっち   【RIZAP COOK】

俵の上下に付いた、ワラで編んだ丸いふた。桟俵さんだわらともいいます。

演者   【RIZAP COOK】

大正から昭和にかけての名人、三代目三遊亭円馬(橋本卯三郎、1882-1945、大阪→東京)、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)へと継承されました。

円生は昭和28年に初演して以来、ほとんど一手専売にしていましたが、五代目三遊亭円楽(吉河寛海、1932-2009)とその一門に伝わり、七代目立川談志(松岡克由、1935-2011)も、その一門もけっこうやっています。

十代目柳家小三治(郡山剛蔵、1939-2021)もよく演じましたが、田舎ことばは、この人がもっとも愛嬌があって達者でしたね。

あ、それと   【RIZAP COOK】

十代目小三治師匠といえば、昭和14年(1939)12月生まれで都立青山高校卒であることは有名な話ですが、東宝が、いや、日本が誇るアジアン・ビューティー、若林映子あきこさんも同年12月生まれで都立青山高校を出ています。

お二人は同級生だったそうです。

若い頃の小三治師匠(小たけ時代とか)に「郡山クン、おつかれさま」とかなんとか言って楽屋に差し入れを持って来てくれてたのでしょうか。勝手に想像しちゃいます。

彼女は「不良少女モニカ」とか呼ばれてたんだとか。ベルイマンのですかい。粋です。

  日本の至宝、若林映子さん。これぞ艶冶の頂点

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ねこのさら【猫の皿】落語演目

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【どんな?】

お目当ては、皿か、猫か。

2021年9月2日、柳家小三治師匠が最後にやった演目です。

別題:高麗の茶碗 猫の茶碗

あらすじ

明治の初年。

ある端師はたしが、東京では御維新このかた、あまりいい掘り出し物が見つからなくなったので、
「これはきっと江戸を逃げだした人たちが、田舎に逸品を持ち出したのだろう」
と踏み、地方をずっと回っていた。

中仙道は熊谷在の石原あたりを歩いていた時、茶店があったので休んでいくことにし、おやじとよもやま話になる。

そのおやじ、旧幕時代は根岸あたりに住んでいて、上野の戦争を避けてここまで流れてきたが、せがれは東京で所帯を持っているという。

いろいろ江戸の話などをしているうちに、なんの気なしに土間を見ると、猫が飯を食っている。

猫自体はどうということないが、その皿を見て端師、内心驚いた。

絵高麗の梅鉢の茶碗といって、下値に見積っても三百円、つまり旧幕時代の三百両は下らない代物。

とても猫に飯をあてがうような皿ではない。

「さてはこのおやじ、皿の価値を知らないな」
と見て取った端師、なんとか格安で皿をだまし取ってやろうと考え、急に話題を変え
「時におやじさん、いい猫だねえ。こっちへおいで。ははは、膝の上に乗って居眠りをしだしたよ。おまえのところの猫かい」
「へえ、猫好きですから、五、六匹おります」

そこで端師、
「自分も猫好きでずいぶん飼ったが、どういうものか家に居つかない。あまり小さいうちにもらってくるのはよくないというが、これくらいの猫ならよさそうなので、ぜひこの猫を譲ってほしい」
と持ちかける。

おやじが妙な顔をしたので
「ハハン、これは」
と思って
「ただとは言わない、この三円でどうだい」
と、ここが勝負どころと思って押すと、しぶしぶ承知する。

さすが商売人で、興奮を表に出さずさりげなく
「もう一つお願いがあるんだが、宿屋へ泊まって猫に食わせる茶碗を借りると、宿屋の女が嫌な顔をするから、いっそその皿もいっしょにくれないか」

ところがおやじ、しらっとして、
「それは差し上げられない、皿ならこっちのを」
と汚い欠けた皿を出す。

端師はあわてて
「それでいい」
と言うと
「だんなはご存じないでしょうが、これはあたしの秘蔵の品で、絵高麗の梅鉢の茶碗。上野の戦争の騒ぎで箱はなくしましたが、裸でも三百両は下らない品。三円じゃァ譲れません」
「ふーん。なぜそんなけけっこうなもので猫に飯を食わせるんだい」
「それがだんな、この茶碗で飯を食わせると、ときどき猫が三円で売れますんで」

底本:四代目橘家円喬

しりたい

滝亭鯉丈

原作は、滝亭鯉丈りゅうていりじょう(?-1841)が文政4年(1821)に出版した滑稽本『大山道中膝栗毛』中の一話です。

鯉丈という人は、滑稽本作者、つまり、今でいう流行作家。

滑稽本というのは、『東海道中膝栗毛』に代表される、落語のタネ本のようなユーモア小説、コミック小説です。鯉丈は落語家も兼ねていたといいますから、驚きです。

自分の書いたものを、高座でしゃべっていたかもしれませんね。

原作では猫じゃなくて猿! 

それはともかく、もとの鯉丈の本では、買われるのは猫でなく、実は猿なのです。

汚い猿が、金銀で装飾した、高価な南蛮鎖でつながれていたので、飼い主の婆さんに、「あの猿の顔が、死んだ母親にそっくりだから」 と、わけのわからないことを言って猿ごと鎖をだまし取ろうとするわけです。

改めて、鯉丈について文学辞典ふうに。

滝亭鯉丈、本名は池田八右衛門。

生年は不明ですが、没年は天保12年(1841)6月10日です。

享年(数え年での没年齢)は60余とのこと。小石川の称名寺に葬られています。養家に入った池田家は300石取りの旗本でしたが、鯉丈が入婿した時には禄を失っていたそうです。

下谷広徳寺門前稲荷町で櫛屋を商っていましたが、浅草伝法院前に移り、さらに浅草駒形町河岸通りに引っ越しました。

三田村鳶魚みたむらえんぎょが取材した鯉丈の曽孫の話では、乗物師、または縫箔屋だったとか。

新内節の名手で遊芸にも通じ、寄席芸人だったとのこと。

器用な人だったのですね。これは、鯉丈の著作や弟だという話もある為永春水の著作からうかがえることです。

滑稽本作者としては、最初は十返舎一九や式亭三馬の亜流のようなものをいくつか出していましたが、一九と三馬の作風をまぜこぜにしたような『八笑人』初編-四編追加(文政3-天保5年刊)と『和合人』初-三編(文政6-天保12年刊)で知られるようになりました。

「廃頽期の江戸町人の低俗な遊戯生活を写実的に描いて独自の位置を占め、鯉丈の名が文学史に記録されるのは、この二作によるものである。他には、文政年間の二世南仙笑楚満人(為永春水)の作に合作者として関与したこともあり、人情本に『明烏後正夢あかがらすのちのまさゆめ』初-三編(文政二-五年刊)、『霊験浮名滝水』(同九年刊)があるが、いうに足りない」

これは『日本古典文学大辞典』(岩波書店、1985年)での神保五弥じんぼかずや(1923-2009、早大、江戸文学)の言。

手厳しいですが、文学史的にはそんなところなのでしょう。

端師

はたし。「果師」とも「端師」とも書き、はした金で古道具を買いたたくところからついた名称であるようです。

「高く売り果てる(売りつくす)」意味の「果師」だともいいますが、「因果な商売」の「果」かもしれません。

いつも掘り出し物を求めて、旅から旅なので、三度笠をかぶり、腰に矢立やたて(携帯用の筆入れ)を差しているのが典型的なスタイルでした。

この男がだまし取りそこなう「高麗の梅鉢」は、「絵高麗」といって、白地に鉄分質の釉薬うわぐすりで黒く絵や模様を描いた朝鮮渡来の焼き物。

梅の花が図案化されています。たいへんに高価な代物です。

演者

明治の円喬も含め、五代目古今亭志ん生以前には、この噺の演題は「猫の茶碗」が一般的でした。

絵高麗は皿なので、志ん生が命名した「猫の皿」が妥当といえるでしょう。

明治44年(1911)の円喬の速記では、時代を明治維新直後、爺さんは江戸近郊・根岸の人で、上野の戦争の難を避けて、皿を持って疎開したと説明されます。

一方、志ん生は、江戸末期、武士が困窮のあまり、先祖伝来の古美術品を売り払ったのでこうした品が地方に流れたという時代背景を踏まえ、幕末のできごとにしています。

なかなかおもしろい見方です。

志ん生がただのいきあたりばったりでなく、相当な勉強家でもあったこともよくわかります。

最近のでいちばんのおすすめは、柳家小三治でした。

この方に尽きました。

あのすっとぼけたかんじがね、なんともね、よかったのでした。ザンネン。

【蛇足】

ここに登場する「はたし」は、果師、端師、他師などと書き習わされる。

骨董の仲買商だ。この噺のように、高価なものを安い値段で買い取って高く売りつけるのが商売。

ささやかな欺きやだましはお手の物なのに、ここでは茶屋のおやじにしてやられる。

そこが落語らしい。

かつては、五代目古今亭志ん生や三代目三遊亭金馬がよくやったようだ。

音源で知るだけのことであるが。とりわけ志ん生は骨董好きのためか、マクラをたっぷり振って毎度のおかしさだった。

音源を聴くと明快だ。今ではだれもがよくやる。

立川志の輔ですらやっている。

この噺は短いので、マクラをたっぷり振らないともたないのが難点。

オチでしか笑わせられないので、マクラでさんざん笑わせておくしかない。

表現力の乏しい噺家には意外に難しいかもしれない。

もとは「猫の茶碗」という題だったのが、志ん生が「猫の皿」でやってから、今ではこの題が一般的になってしまった。

志ん生の型は、彼自身が尊敬してやまなかった四代目橘家円喬による。

円喬は、明治期の中仙道熊谷在の石原に設定。

茶屋のおやじは、明治元年(1868)5月15日に起こった彰義隊の戦いで江戸から逃げてきたことになっている。

そのため、おやじが果師から東京の近ごろのようすを聞き出すくだりがある。

「あの、御見附なんぞなくなりましたそうですな」
「ああ、内曲輪うちくるわだけは残っているが、外曲輪はたいがい枡形ますがたもこわしてしまって、元の形はなくなった」
「へえ、浅草のほうはどうなりました」
「あの見附はいちばん早くなくなって、吾妻橋でもお厩橋うまやばし、両国橋、みんな鉄の橋に架けかわって立派なものだ」
「へえ、観音さまはやはりあすこにありますか」
「あんな大きな御堂はどこへも引っ越しはできない。まあひとつお茶をくんな」

会話に出てくる三つの橋は隅田川に架かっているが、鉄橋化した年は以下の通り。

吾妻橋  明治20年(1887) 
厩橋   明治26年(1893) 
両国橋  明治37年(1904) 

だからこの噺は、明治37年(1904)以降の話題なのだろう。

さきほど引用した円喬の「猫の茶碗」の速記は明治44年(1911)のもの。

彰義隊の顛末が人々の記憶から消え去らずにいたころの話のようである。

とはいえ、この噺の原話は意外に古い。文化年間(1804-17)刊行の滝亭鯉丈『大山道中膝栗毛』に「猿と南蛮鎖」として出てくる。

茶屋で南蛮鎖にゆわえられた猿。男は高価な南蛮鎖が欲しくて、
「猿の顔が死んだおふくろに生き写し。どうか売ってください」
と茶屋のばあさんに掛け合う。
ばあさん、
「この鎖をつけると、むしょうに猿が売れます」
と鎖を綱に取り替えて、にっこり。

こっちもおかしい。

古木優

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ねこのさいなん【猫の災難】落語演目

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

猫のお余りで一杯。

せこな噺です。

別題:犬の災難(志ん生)

【あらすじ】

文なしの熊五郎。

朝湯から帰って一杯やりたいと思っても、先立つものがない。

「のみてえ、のみてえ」
とうなっているところに、隣のかみさんが声をかけた。

見ると、大きな鯛の頭と尻尾しっぽを抱えている。

猫の病気見舞いにもらって、身を食べさせた残りだという。

捨てに行くというので、頭は眼肉がうまいんだからあっしにください、ともらい受ける。

これでさかなはできたが、肝心なのは酒。

「猫がもう一度見舞いに酒をもらってくれねえか」
とぼやいていると、ちょうど訪ねてきたのが兄貴分。

「おめえと一杯やりたいと誘いにきた」
という。

サシでゆっくりのむことにしたが、
「なにか肴が……」
と見回し、鯛の頭を発見した兄貴分、台所のすり鉢をかぶせてあるので、真ん中があると勘違い。

「こんないいのがあるのなら、おれが酒を買ってくるから」
と大喜び。

近くの酒屋は二軒とも借りがあるので、二町先まで行って、五合買ってきてもらうことにした。

さあ困ったのは熊。

いまさら猫のお余りとは言いにくい。

しかたがないので、兄貴分が酒を抱えて帰ると、
「おろした身を隣の猫がくわえていった」
とごまかす。

「それにしても、まだ片身残ってんだろ」
「それなんだ。ずうずうしいもんで、片身口へくわえるだろ、爪でひょいと引っかけると小脇ィ抱えて」
「なに?」
「いや、肩へぴょいと」

おかしな話だ。

「日頃、隣には世話になってるんで、がまんしてくれ」
と言われ、兄貴分、不承不承代わりの鯛を探しに行った。

熊、ほっと安心して、酒を見るともうたまらない。

冷のまま湯飲み茶碗で、さっそく一杯。

「どうせあいつは一合上戸いちごうじょうこ(すぐ酔っぱらう酒好き)で、たいしてのまないから」
とたかをくくって、
「いい酒だ、うめえうめえ」
と一杯、また一杯。

「これは野郎に取っといてやるか」
と、燗徳利に移そうとしたとたんにこぼしてしまう。

「もったいない」
と畳をチュウチュウ。

気がつくと、もう燗徳利かんどっくり一本分しか残っていない。

やっぱり隣の猫にかぶせるしかないと
「猫がまた来たから、追いかけたら座敷の中を逃げ回って、逃げるときに一升瓶を後足で引っかけて、全部こぼしちまった」
と言い訳することに決めた。

「そう決まれば、これっぱかり残しとくことはねえ」
と、熊、ひどいもので残りの一合もグイーッ。

とうとう残らずのんでしまった。

いい心持ちで小唄をうなっているうち、
「こりゃいけねえ。猫を追っかけてる格好をしなきゃ」
と、向こう鉢巻に出刃包丁、
「あの猫の野郎、とっつかめえてたたっ殺して」
と一人でがなってると、待ちくたびれてそのまま白川夜船しらかわよふね

一方、鯛をようやく見つけて帰った兄弟分。

酒が一滴もないのを知って仰天。

猫のしわざだと言っても今度はダメ。

「この野郎、酔っぱらってやがんな。てめえがのんじゃったんだろ」
「こぼれたのを吸っただけだよ」
「よーし、おれが隣ィどなり込んで、猫に食うもの食わせねえからこうなるんだって文句を言ってやる」

そこへ隣のかみさんが
「ちょいと熊さん、いいかげんにしとくれ。さっきから聞いてりゃ、隣の猫隣の猫って。家の猫は病気なんだよ。お見舞いの残りの鯛の頭を、おまえさんにやったんじゃないか」

これで全部バレた。

「この野郎、どうもようすがおかしいと思った。やい、おれを隣に行かせて、どうしようってえんだ」
「だから、猫によく詫びをしてくんねえ」

【しりたい】

小さん十八番、呑ん兵衛噺の白眉

これも、三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)が東京にもたらした数多い上方落語の一つです。

当然、三代目、四代目(大野菊松、1888-1947)と代々の小さんに継がれた「お家芸」ですが、特に五代目(小林盛夫、1915-2002)は、「試し酒」「禁酒番屋」「一人酒盛」などで見物をうならせた、リアルな仕種と酒のみの心理描写を、この噺で集大成したかのようにお見事な芸を見せてくれました。

中でも、畳にこぼした酒をチューチュー吸う場面、相棒が帰ってきてからのべろべろの酔態は、愛すべきノンベエの業の深さを描き尽くして余すところがありませんでした。

同じ酔っ払いを演じても、酒乱になってしまう六代目笑福亭松鶴(竹内日出男、1918-86)と違い、小さんの「酒」はリアルであっても、後口にいやな匂いが残りませんでした。これも芸風と人柄でしょう。

上方のやり方

上方では、腐った鯛のアラを酒屋にただでもらう設定で、最後のサゲは、猫が入ってきたので、阿呆がここぞとばかり、「見てみ。かわいらし顔して。おじぎしてはる」と言うと、猫が神棚に向かって前足を合わせ、「どうぞ、悪事災にゃん(=難)をまぬかれますように」と地口で落とします。

初代桂春団治(皮田藤吉、1878-1934)が得意にし、戦後は二代目春団治(河合浅次郎、1894-1953)、実生活でも酒豪でならした六代目笑福亭松鶴がよく高座にかけました。

志ん生の「犬の災難」

五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)は、「犬の災難」の演題で猫を犬に替え、鯛ではなく、隣に届いた鶏を預かったことにしました。

相棒が酒を買いに行っている間に、隣のかみさんが戻ってきて鶏を持っていってしまうという、合理的な段取りです。

最後は酒を「吸った」ことを白状するだけで、オチらしいオチは作っていません。

三代目金馬の失敗談

釣りマニアだった三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)が、防波堤で通し(=徹夜)の夜釣りをしていたときのこと。

大きな黒鯛が掛かり、喜んで魚籠に入れておくといつの間にか消えています。そのうち、金馬と友達の弁当まで消失。無人の防波堤で泥棒などいないのにとぞっとしましたが、実はそれは、そのあたりに捨てられた野良猫のしわざ。堤の石垣に住み着いて、釣りの獲物を失敬しては食いつないでいたわけです。

「それからこっち、魚が釣れないと、また猫にやられたよって帰ってくる」

           (三代目三遊亭金馬『随談 猫の災難』)

こぼれ話

五代目小さんは、相棒が酒を買いに行く店を「酢屋満」としていますが、これは、目白の小さん宅の近所にあった実在の酒屋、「酢屋満商店」(豊島区目白二丁目)です。酒をのみほした後、小唄をうなるのは五代目の工夫でした。

にらみがえし【睨み返し】落語演目

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【どんな?】

小さん門伝統の「ビジュアル落語」として有名。

聴くだけではなく、演者の表情をも楽しみます。

あらすじ

「大晦日箱提灯はこわくなし」

長屋の熊五郎、貧乏暮らしで大晦日になると、弓提灯の掛け取りがこわい。

家にいて責められるのが嫌さに、日がな一日うろついて帰ると、その間、矢面に立たされたかみさんはカンカン。

「薪屋にも米屋にも、うちの人が帰りましたら夜必ずお届けしますと、言い訳して帰したのに、金策もしないでどうするつもりなんだい」
と、責めたてる。

もめているところへ、その薪屋。本日三度目の「ご出張」。

熊が
「払えねえ」
と開き直ると、薪屋は怒って、
「払うまで帰らない」
と、すごむ。

熊は
「どうしても帰らねえな。おっかあ、面に心張り棒をかえ。薪ざっぽうを持ってこい」

さらには
「払うまで半年、そこで待っててもらうが、飯は食わせねえから、遺言があったら言え、しかたがねえから葬式ぐらいはオレが出してやる」

薪屋はあえなく降参。

おまけに、借金を払った(つもり)の受取まで書かされ、
「おい、十円札で払ったから、釣りを置いてけ」

一人やっと撃退したものの、あと何人相手にしなきゃならねえかと、熊はうんざり。

そのとき表で
「ええ、借金の言い訳しましょう」
という声。

変わった商売だが、これはもっけの幸いと呼び入れると、言い訳屋は
「どんな強い相手も追っ払ってごらんに入れます」
と自信満々。

一時間二円だという。

どうにか小銭をかき集めて払うと、言い訳屋
「すみませんが、ご夫婦で押し入れに入っていていただきましょう。クスリと一声を出されても、こっちの仕事がうまくいきませんから、交渉中は黙っていただくよう」

しばらくすると、米屋。

「えー、熊さんは、親方はお留守で?」

見ると、見慣れない男が煙草を吸いながら、無言でにらみつけるだけ。

何を聞いても返事をしない。米屋はこわがって帰ってしまう。

次は酒屋。同じようにすごすご退散。

また次は、高利貸の代理人で、那須という男。

「何ですか、君は。恐ろしい顔だな。ご親戚ですか。おい君、黙っておってはわからん。無礼だね。君……」

何を言っても、ものすごい目でにらむばかり。

さすがの海千山千の取立人も、気味が悪くなって帰った。

喜んで熊が礼を言うと、ちょうど十二時を打った。

「時間が来ましたようで、これで失礼を」
「弱ったな。あと二、三人来るんだが、もう三十分ばかり」
「いや、せっかくですが、お断りします」
「どうして」
「これから、自宅の方をにらみに帰ります」

出典:七代目三笑亭可楽

【RIZAP COOK】

【しりたい】

師走の弓提灯 【RIZAP COOK】

弓提灯は、弓なりに曲げた竹を上下に引っ掛け、張って開くようにしたものです。

小型・縦長で、携帯に便利なことから、特に大晦日、商家の掛け取りが用いました。

江戸の師走の風物詩ではありますが、取り立てられる側は、さぞ、これを見ると肝が冷えたことでしょう。

これに対し、箱提灯は大型で丸く、武家屋敷などで使われました。

上方噺を東京に 【RIZAP COOK】

原話は、安永6年(1777)刊の笑話本『春帒はるぶくろ』中の「借金乞しゃくきんこい」です。「春」とは「春袋」で、正月に児女がつくる縁起物の縫い袋のこと。「借金乞」とは借金取り立て人のこと。

ここでの話は、後半のにらみの場面の、そっくりそのままの原型になっていて、オチも同じです。

もとは上方噺です。

それを「らくだ」と同様、四代目桂文吾(1865-1915)から三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)が移してもらい、東京に移植しました。

皮肉にも、大正以後は本家の大阪ではほとんど演じ手がなく、もっぱら東京の柳派、小さん一門の持ちネタになりました。

三代目小さんから七代目三笑亭可楽(玉井長之助、1886-1944、玉井の)、八代目三笑亭可楽(麹池元吉、1898-1964)を経て、五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)の十八番の一つ。小三治までつながりました。

前半の薪屋を撃退するくだりは「掛け取り万歳」と同じで、オチはこれまた類話の「言い訳座頭」と同じです。

「見せる落語」の典型 【RIZAP COOK】

蒟蒻問答」と同じく、噺のヤマを仕種で見せる典型的な「ビジュアル落語」です。

速記となると、活字化されたものは七代目可楽によるもの。

「講談倶楽部」昭和9年(1934)1月号に載ったもののみ。

『昭和戦前傑作落語全集』(講談社、1981年)に収録されました。本あらすじも、これを参考にしています。

【RIZAP COOK】

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にばんせんじ【二番煎じ】落語演目

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【どんな?】

自身番での飲酒はご法度。

登場人物の巧みな演じ分けが楽しめる留飲落語です。

あらすじ】 

火事は江戸の華で、特に真冬は大火事が耐えないので、町内で自身番を置き、商家のだんな衆が交代で火の番として、夜巡回することになった。

寒いので手を抜きたくても、定町廻り同心の目が光っているので、しかたがない。

そこで月番のだんなの発案で、二組に分かれ、交代で、一組は夜回り、一組は番小屋で酒をのんで待機していることに決めた。

最初の組が見回りに出ると、凍るような寒さ。

みな手を出したくない。

宗助は提灯を股ぐらにはさんで歩くし、拍子木のだんなは両手を袂へ入れたまま打つので、全く音がしない。

鳴子なるこ係のだんなは前掛けに紐をぶら下げて、歩くたびに膝で蹴る横着ぶりだし、金棒かなぼう持ちの辰つぁんに至っては、握ると冷たいから、紐を持ってずるずる引きずっている。

誰かが
「火の用心」
と大声で呼ばわらなくてはならないが、拍子木のだんなにやらせると低音で
「ひィのよォじん」
と、謡の調子になってしまうし、鳴子のだんなだと
「チチチンツン、ひのよおおじいん、よっ」
と新内。

辰つぁんは辰つぁんで、若いころ勘当されて吉原の火廻りをしたことを思い出し、
「ひのよおおじん、さっしゃりましょおお」
と廓の金棒引き。

一苦労して戻ってくると、やっと火にありつける。

一人が月番に、酒を持ってきたからみなさんで、と申し出た。

「ああたッ、ここをどこだと思ってるんです。自身番ですよ。役人に知れたら大変です」
とはいうものの、それはタテマエ。

酒だから悪いので、煎じ薬のつもりならかまわないだろうと、土瓶の茶を捨てて「薬」を入れ、酒盛りが始まる。

そうなると肴が欲しいが、おあつらえ向きにもう一人が、猪の肉を持ってきたという。

それも、土鍋を背中に背負ってくるソツのなさ。

一同、先程の寒さなどどこへやら、のめや歌えのドンチャン騒ぎ。

辰つぁんの都々逸がとっ拍子もない蛮声で、たちまち同心の耳に届く。

「ここを開けろッ。番の者はおらんかッ」

慌てて土瓶と鍋を隠したが、全員酔いも醒めてビクビク。

「あー、今わしが『番』と申したら『しっ』と申したな。あれは何だ」

「へえ、寒いから、シ(火)をおこそうとしたんで」
「土瓶のようなものを隠したな」
「風邪よけに煎じ薬をひとつ」

役人、にやりと笑って
「さようか。ならば、わしにも煎じ薬を一杯のませろ」

しかたなく、そうっと茶碗を差し出すとぐいっとのみ
「ああ、よしよし。これはよい煎じ薬だな。ところで、さっき鍋のようなものを」
「へえ、口直しに」
「ならば、その口直しを出せ」

もう一杯もう一杯と、酒も肉もきれいに片づけられてしまう。

「ええ、まことにすみませんが、煎じ薬はもうございません」
「ないとあらばしかたがない。拙者一回りまわってくる。二番を煎じておけ」

しりたい】 

火の番  【RIZAP COOK】

自身番については「粗忽長屋」で触れましたが、町内の防火のため、表通りに面した町家では、必ず輪番で人を出し、火の番、つまり冬の夜の夜回りをすることになっていました。

といっても、それはタテマエで、たいてい「番太郎」と呼ぶ番人をやとって、火の番を代行させることが黙認されていたのです。

ところが、この噺はそろそろ物情騒然としてきた幕末の設定ということで、お奉行所のお達しでやむなく旦那衆がうちそろって出勤し、慣れぬ厳冬の夜回りで悲喜こもごもの騒動を引き起こします。

与力、同心

二番煎じ  【RIZAP COOK】

漢方薬を一度煎じた後、さらに水を加え、薄めて煮出したものです。金気をきらい、土瓶などを用いました。

吉原の火回り  【RIZAP COOK】

歌舞伎「助六所縁江戸桜」で、序幕に二人の廓の若い衆が、鉄棒を突き、棒先の鉄輪を鳴らしながら登場するシーンを、芝居好きの方ならご記憶と思います。

あれが「金棒ひき」で、火回りの際はもちろん、おいらん道中など、重要なイベントの前にも、先触れとして出ます。

「火の用心、さっしゃりましょう」という掛け声は、吉原に限られていました。

長屋のこうるさいかみさん連中が「金棒引き」と呼ばれるのは、火の番が鉄輪をガチャガチャ鳴らして歩くように、町内のうわさをあることないことかまびすしく触れて回ることからきています。

今では、ちょっとしたことをおおげさにふれまわること、あるいはその人をさして「金棒引き」と言っていますね。

【二番煎じ 古今亭志ん朝】



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ににんたび【二人旅】落語演目

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 【どんな?】

謎かけは落語の代表的なジャンル。

謎かけがふんだんの噺です。

別題:煮売屋(上方)

あらすじ

気楽な二人連れの道中。

一人が腹が減って、飯にしようとしつこく言うのを、謎かけで気をそらす。

例えば
「二人で歩いていると掛けて、なんと解く?」
「豚が二匹と犬っころが十匹と解く」
「その心は?」
「豚二ながらキャンとう者(二人ながら関東者)」

そのうち、即興の都々逸になり
「雪のだるまをくどいてみたら、なんにも言わずにすぐ溶けた」
「山の上から海を眺めて桟橋から落ちて、泳ぎ知らずに焼け死んだ」
と、これもひどい代物。

ぼうっとした方が人に道を尋ねると、それが案山子だったりして、さんざんぼやきながらやっととある茶店へ。

行灯に、なにか書いてある。

「一つ、せ、ん、め、し、あ、り、や、な、き、や」
「そうじゃねえ。一ぜんめしあり、やなぎ屋じゃねえか」

茶店の婆さんに酒はあるかと聞くと
「いいのがあるだよ。じきさめ、庭さめ、村さめとあるだ」
「へえっ、変わった銘だな。なんだい、そのじきさめってのは」
「のんだ先からじきに醒めるからじきさめだ」
「それじゃ、庭さめは?」
「庭に出ると醒めるんだ」

村さめは、村外れまで行くうちに醒めるから。

まあ、少しでも保つ方がいいと「村さめ」を注文したが、肴が古いと文句を言いながらのんでみると、えらく水っぽい。

「おい、ばあさん、ひでえな。水で割ってあるんだろう」
「なにを言ってるだ。そんだらもったいないことはしねえ。水に酒を落としますだ」

底本:五代目柳家小さん

しりたい

煮売屋

上方落語「煮売屋にうりや」を四代目柳家小さんが東京に移したもので、東京で演じられるようになったのは、早くても大正後期以後でしょう。

「煮売屋」は、長い連作シリーズ「東の旅」のうち、「七度狐」と題されるくだりの一部です。

「七度狐」はさらに細かく題名がついていて、発端が、おなじみ清八と喜六の極楽コンビがお伊勢参りの道中、奈良見物のあと、野辺で尻取り遊びなどしてふざけ合う「野辺歌」から「煮売屋」に続き、このあと、イカの木の芽あえを盗んで捨てたすり鉢が化け狐の頭に当たったことから怒りを買って化かされる「尼寺つぶし」へと入ります。

煮売屋は、ここでは道中ですから、宿外れの立て場酒屋ということになります。

上方では独立して演じられることは少なく、一席にする場合は、侍を出し、煮売屋のおやじとの、このあたりでは夜な夜な白狐が出るというやりとりをコンビが聞きかじり、隣の荒物屋で侍気取りの口調で口真似するという滑稽をあとに付けます。

小さんの工夫

道中のなぞ掛け、都々逸を付けたのは四代目小さん(大野菊松、1888-1947)の工夫で、上方の「野辺歌」のくだりを参考にしたと思われます。

それ以前に、三代目三遊亭円馬(橋本卯三郎、1882-1945)が上方の「七度狐」をそのまま江戸っ子二人組として演じた速記があります。

円馬は東京の噺家ながら長く大阪に在住して当地で活躍しました。

その中で二人が珍俳句をやりとりするくだりがあるので、そのあたりもヒントになっているのでしょう。

四代目の演出は、そのまま五代目小さん(小林盛夫、1915-2002)、さらにその門下へと受け継がれ、現在もよく口演されます。

都々逸

どどいつ。文政年間(1818-30)に発祥し、流行した俗謡です。

前身は「よしこの節」で、その囃し詞「どどいつどんどん」から名が付きました。

歌詞は噺に登場する通り、七七七五が普通で、江戸独特の洒落や滑稽を織り交ぜたものです。

昭和初期から先の大戦後にかけては、初代柳家三亀松(伊藤亀太郎、1901-1968、池之端の師匠)が「お色気都々逸」で一世を風靡しました。

【語の注】
都々逸 どどいつ
案山子 かかし
行灯 あんどん

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