しちやぐら【質屋蔵】演目

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質屋が生活と密接だった時代なら、こんな想像力も沸こうというものです。

別題:ひちやぐら(上方) 質屋庫

あらすじ

ある大きな質屋の三番蔵に、夜な夜な化け物がでるという町内の噂を、当のだんなが朝湯で聞いてきた。

「これは信用にかかわるから捨ててはおけない」

早速番頭に寝ずの番で見届けるよう言いつける。

だんなの考えでは、「これはきっと大切な品物を心ならずも質物にした人の、その物に対する執着が蔵に残り、妖怪と化したものだろう」という。

番頭は臆病なので、「とても一人では怖くていけない」と、普段から腕に龍の刺青をして強そうなことばかり言っている出入りの熊五郎に応援を頼みたいと申し出る。

突然だんなが呼んでいると聞いた熊、さてはしくじったかとびくびくして、だんなの前に出ると、言われもしないうちから、台所から酒とタクアン樽、それに下駄を三足盗んだことをぺらぺら白状してしまう。

だんなが渋い顔をしながらも、「今日呼んだのはそんなことじゃない。おまえは強いと聞いているが本当か」と尋ねると、熊五郎、途端に威勢がよくなり、木曽で虎退治をしたとホラを吹くが、化け物のことを聞かされると、急にぶるぶる震えだす。

しかたがないので、逃がさないように店に禁足し、夜になると番頭ともども、真っ暗な土蔵の中にほっぽり込まれる。

二人がガタガタ震えていると、やがて草木も眠る丑三ツ時。

蔵の奥で何かがピカリと光り、ガラガラガラと大きな音。

生きた心地もない番頭と熊、それでも怖いもの見たさでそっとのぞいてみると、何と誰かが相撲を取っている。

行司の声で「片やァ、竜紋、竜紋、こなたァ、小柳、小柳ィ、ハッケヨイ、ノコッタノコッタ……」

「番頭さん、ありゃなんです」
「だんなの言う通り、質物の気が残ったんだ。羽織の竜紋と小柳の帯が相撲を取ったんだ」
「あっ、また出た」

棚の掛け軸がすーっと開く。

よく見ると、横町の藤原さんの質物の、天神さま、つまりは菅原道真公の画像の掛け軸。

仰天していると、衣冠束帯、梅の花を持った天神が現れて、「こちふかばあー、においおこせようめのはなー」と、朗々と詠み上げた。

「こりゃ番頭。藤原方に利上げせよと申し伝えよ。あァあ、また流されそうだ」

しりたい

伊勢屋稲荷に……

落語には、質屋は「伊勢屋」という屋号でたびたび登場します。これは、質商は伊勢出身の者がほとんどだったからです。「伊勢屋稲荷に犬の糞」と江戸名物の一つに挙げられるくらい、江戸にはやたらに質屋が多かったのです。

大工調べ」で、因業大家の源六が奉行に、「その方、質屋の株を持っておるのか?」と脅かされたように、旧幕時代は質屋は株売買による許可制でした。

大きく分けて本質・脇質があり、本質は規模の大きな、正規の質屋。

入質には本人のほかに請け人(連帯保証人)の判が必要でした。

脇質の方は今でいう消費者金融で、請け人がいらない代わりに質流れの期限は一か月。

この噺のオチ(サゲ)にある「利下げ」とは、期限が来たとき、利子を今までより多く払って、質流れを食い止めることです。対語は「利上げ」。詳しくは「おもと違い」をお読みください。

天保年間(1830-44)以後は、期限は八か月に延ばされました。

元は江戸で

安永2年(1773)に江戸で刊行された『近目貫(きんめぬき)』収載の「天神」という小咄が元のようです。

それが上方噺となって「ひちやぐら」に。これが古くから江戸に移されて演じられていました。宇井無愁の『落語の根多』(角川文庫、1976、絶版)でこの噺を検索すると、「し」の項ではなく「ひ」の項にあります。びっくりです。宇井は東京落語を評価しない人で有名でした。

平成5年(1993)、宇井のこの本を私(古木)は上野の古書店で5000円で購入しました。なけなしで。でも、今ではAmazonのマーケットプレイスで100円台で求められます。びっくりです。

演者と演出

熊さんの大言壮語と、いざとなったときの腰抜けぶりの落差は、桂歌丸で聞くとたまらないおかしさです。

六代目三遊亭円生は、戦後大阪の四代目桂文団治に教わって、得意にしていましたが、最後の天神の場面を古風に風格豊かに演じました。

桂歌丸のほか、円生一門に継承され、三遊亭円弥、三遊亭生之助らが演じ、本家大阪では、やはり桂米朝のものでした。

上方のオチは、番頭が「あ、流れる思うとる」と言ってサゲるやり方もありました。

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【質屋蔵 三遊亭円生】

ちきりいせや【ちきり伊勢屋】演目

柳家系の噺ですが、円生や彦六。積善の家に余慶あり、とは心学のキモです。

別題:白井左近

あらすじ

旧暦七月の暑い盛り。

麹町五丁目のちきり伊勢屋という質屋の若主人伝二郎が、平河町の易の名人白井左近のところに縁談の吉凶を診てもらいに来る。

ところが左近、天眼鏡でじっと人相を観察すると
「縁談はあきらめなさい。額に黒天が現れているから、あなたは来年二月十五日九ツに死ぬ」

さらには、
「あなたの亡父伝右衛門は、苦労して一代で財を築いたが、金儲けだけにとりつかれ、人を泣かせることばかりしてきたから、親の因果が子に報い、あなたが短命に生まれついたので、この上は善行を積み、来世の安楽を心掛けるがいい」
と言うばかり。

がっかりした伝二郎、家に帰ると忠義の番頭藤兵衛にこのことを話し、病人や貧民に金を喜捨し続ける。

ある日。

弁慶橋のたもとに来かかると、母娘が今しもぶらさがろうとしている。

わけを尋ねると、
「今すぐ百両なければ死ぬよりほかにない」
というので、自分はこういう事情の者だが、来年二月にはどうせ死ぬ身、その時は線香の一本も供えてほしいと、強引に百両渡して帰る。

伝二郎、それからはこの世のなごりと吉原ではでに遊びまくり、二月に入るとさすがに金もおおかた使い尽くしたので、奉公人に暇を出し、十五日の当日には盛大に「葬式」を営むことにして、湯灌代わりに一風呂浴び、なじみの芸者や幇間を残らず呼んで、仏さまがカッポレを踊るなど大騒ぎ。

ところが予定の朝九ツも過ぎ、菩提寺の深川浄光寺でいよいよ埋葬となっても、なぜか死なない。

悔やんでも、もう家も人手に渡って一文なし。

しかたなく知人を転々として、物乞い同然の姿で高輪の通りを来かかると、うらぶれた姿の白井左近にバッタリ。

「どうしてくれる」
とねじ込むが、実は左近、人の寿命を占った咎で江戸追放になり、今ではご府内の外の高輪大木戸で裏店住まいをしている、という。

左近がもう一度占うと、不思議や額の黒天が消えている。

「あなたが人助けをしたから、天がそれに報いたので、今度は八十歳以上生きる」
という。

物乞いして長生きしてもしかたがないと、ヤケになる伝二郎に、左近は品川の方角から必ず運が開ける、と励ます。

その品川でばったり出会ったのが、幼なじみで紙問屋福井屋のせがれ伊之助。

これも道楽が過ぎて勘当の身。

伊之助の長屋に転がりこんだ伝二郎、大家のひきで、伊之助と二人で辻駕籠屋を始めた。

札ノ辻でたまたま幇間の一八を乗せたので、もともとオレがやったものだと、強引に着物と一両をふんだくり、翌朝質屋に行った帰りがけ、見知らぬ人に声をかけられる。

ぜひにというので、さるお屋敷に同道すると、中から出てきたのはあの時助けた母娘。

「あなたさまのおかげで命も助かり、この通り家も再興できました」
と礼を述べた母親、
「ついては、どうか娘の婿になってほしい」
というわけで、左近の占い通り品川から運が開け、夫婦で店を再興、八十余歳まで長寿を保った。

「積善の家に余慶あり」という一席。

底本:六代目三遊亭円生

しりたい

原話や類話は山ほど  【RIZAP COOK】

直接の原話は、安永8年(1779)刊『寿々葉羅井』中の「人相見」です。

これは、易者に、明朝八ツ(午後2時)までの命と宣告された男が、家財道具を全部売り払って時計を買い、翌朝それが八ツふ鐘を鳴らすと、「こりゃもうだめだ」と尻からげで逃げ出したという、たわいない話です。

易者に死を宣告された者が、人命を救った功徳で命が助かり、長命を保つというパターンの話は、古くからそれこそ山ほどあり、そのすべてがこの噺の原典または類話といえるでしょう。

その大元のタネ本とみられるのが、中国の説話集『輟耕録』中の「陰徳延寿」。それをアレンジしたのが浮世草子『古今堪忍記』(青木鷺水、宝永5=1708年刊)の巻一の中の説話です。さらにその焼き直しが『耳嚢』(根岸鎮衛著)の巻一の「相学奇談の事」。

同じパターンでも、主人公が船の遭難を免れるという、細部を変えただけなのが同じ『輟耕録』の「飛雲の渡し」と『耳嚢』の「陰徳危難を遁れし事」で、これらも「佃祭」の原話であると同時に「ちきり伊勢屋」の原典でもあります。

円生と彦六が  【RIZAP COOK】

明治27年(1894)1月の二代目柳家(禽語楼)小さんの速記が残っています。

小さん代々に伝わる噺ですが、五代目は手掛けていません。三代目小さんの預かり弟子だった時期がある、八代目林家正蔵(彦六)が、小さん系のもっとも正当な演出を受け継いで演じていました。

系統の違う六代目三遊亭円生が晩年熱演しましたが、円生は上記二代目小さんの速記から覚えたものといいますから、正蔵のとルーツは同じです。戦後ではこの二人が双璧でした。

白井左近  【RIZAP COOK】

白井左近の実録については不詳です。
二代目小さん以来、左近の易断により、旗本の中川馬之丞が剣難を逃れる逸話を前に付けるのが本格で、それを入れたフルバージョンで演じると、二時間は要する長編です。この旗本のくだりだけを独立させる場合は「白井左近」の演題になります。

ちきり  【RIZAP COOK】

「ちきり伊勢屋」の通称の由来です。「ちきり」はちきり締めといい、真ん中がくびれた木製の円柱で、木や石の割れ目に押し込み、かすがい(鎹)にしました。同じ形で、機織の部品で縦糸を巻くのに用いたものも「ちきり」と呼びました。下向きと上向きの△の頂点をつなげた記号で表され、質屋や質両替屋の屋号、シンボルマークによく用いられます。これは、千木とちきりのシャレであるともいわれます。

弁慶橋  【RIZAP COOK】

弁慶橋は、伝二郎が首くくりを助ける現場です。

六代目三遊亭円生の速記では、「……赤坂の田町へまいりました。一日駕籠に乗っているので腰が痛くてたまらないから、もう歩いたところでいくらもないからというので、駕籠は帰してしまいます。食違い、弁慶橋を渡りましてやってくる。あそこは首くくりの本場といいまして……そんなものに本場というのもないが、あそこはたいそう首くくりが多かったという」とあります。

弁慶橋は江戸に三か所ありました。

もっとも有名なのが千代田区岩本町二丁目にかつてあった橋。設計した棟梁、弁慶小左衛門の名を取ったものです。藍染川に架かり、複雑なその水路に合わせて、橋の途中から向かって右に折れ、その先からまた前方に進む、卍の片方のような妙な架け方でした。

この弁慶橋は神田ですから、円生の言う赤坂の弁慶橋とは方向が違うわけです。なぜ、円生は弁慶橋と神田のではなくて赤坂のとして語ったのか。おそらくは、ちきり伊勢屋が麹町五丁目にあることから、神田よりも赤坂の方に現実味を感じたのでしょう。円生なりの筋作りの深い洞察かと思われます。本あらすじでは円生の口演速記に従ったため、「弁慶橋」を赤坂の橋として記しました。

赤坂の「食い違い」は「喰違御門」のことで、現在の千代田区紀尾井町、上智大学の校舎の裏側にありました。その門前に架かっていたのが「食い違い土橋」。石畳が左右から、交互に食い違う形で置かれていたのでその名がありました。明治10年(1877)、大久保利通が惨殺された紀尾井坂もちょうどこの付近です。

札ノ辻  【RIZAP COOK】

港区芝五丁目の三田通りに面した角地で、天和2年(1682)まで高札場があったことからこの名がつきました。江戸には大高札場が、日本橋南詰、常盤橋門外、筋違橋門内、浅草橋門内、麹町半蔵門外、芝車町札ノ辻、以上6か所にありました。

高札場  【RIZAP COOK】

慶長11年(1606)に「永楽銭通用停止」の高札が日本橋に掲げられたのが第1号でした。高札の内容は、日常生活にからむ重要事項や重大ニュースが掲示されていたわけではありませんでした。忠孝の奨励、毒薬売買の禁止、切支丹宗門の禁止、伝馬賃銭の定めなどが主でした。その最も重要な掲示場所は日本橋南詰でした。西側に大高札場があり、東側に晒し場がありました。

麹町  【RIZAP COOK】

喜多川歌麿の春画本『艶本 床の梅』の第一図に以下のようなセリフが記されています。

男「こうして二三てふとぼして、また横にいて四五てふ本当に寝て五六てふ茶臼で六七てふ 麹町のお祭りじゃやァねへが、廿てふくれへは続きそうなものだ」

女「まためったには逢われねえから、腰の続くだけとぼしておきな」

男「お屋敷ものの汁だくさんな料理を食べつけちゃ、からっしゃぎな傾城のぼぼはどうもうま味がねえ」

読みやすく適宜直しました。

女は年増の奥女中、男は奥女中の間男という関係のようです。奥女中がなにかの代参で出かけた折を見て男とのうたかたの逢瀬を、という場面です。男が「麹町のお祭りじゃねえが」と言いながら何回も交合を楽しめる喜びを表現しています。

麹町のお祭りとは日枝神社の大祭のこと。麹町は一丁目から十三町目までありました。こんなに多いのも珍しい町で、江戸の人々は回数の多さをいつも麹町を引き合いに表現していました。この絵はそこを言っているわけです。

ちきり伊勢屋は麹町五丁目とのことですが、切絵図を見ると、武家地の番町に対して、麹町は町家地だったのですね。食い違いからも目と鼻の先で、円生の演出は理にかなっています。麹町は、半蔵門から一丁目がが始まって、四ッ谷御門の手前が十丁目。麹町十一丁目から十三丁目まではの三町は四ッ谷御門の外にありました。寛政年間に外濠の工事があって、その代地をもらったからといわれています。麹町という町名は慶長年間に付けられたそうで、江戸では最も古い地名のひとつとされています。

喜多川歌麿『艶本 床の梅』第一図

【語の読みと注】
咎 とが
寿々葉羅井 すすはらい
輟耕録 てっこうろく
耳嚢 みみぶくろ
鎹 かすがい:くさび
千木 ちぎ:質店が用いる竿秤
喰違御門 くいちがいごもん

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だいみゃく【代脈】演目

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寄席草創期の古い噺。昨今のパンデミック風潮に好機の医療ものかも。

【あらすじ】

江戸中橋の古法家である尾台良玄は名医として知られていた。

弟子の銀南は師に似つかわぬ愚者で色情者。

ある日のこと。

良玄が、病に伏せている蔵前の大店、伊勢屋のお嬢さまのもとに代脈に行くよう、銀南に命じた。

銀南は、代脈を材木と聞き違え
「かついでまいりますか、しょってまいりますか」
と尋ねるほどのまぬけぶり。

良玄「この間のこと、お嬢さまはどういう具合かひどく下っ腹が堅くなっておった。しきりに腹をさすって、下腹をひとつグウと押すと、なにしろ年が十七で」
銀南「へえ」
良玄「プイとおならをなすった。お嬢さまがみるみるうちに顔が赤くなって恥ずかしそうだ。そこは医者のとんちだ。そばの母親に『陽気のかげんか年のせいで、この四、五日のぼせて、わしは耳が遠くなっていかんから、おっしゃることはなるたけ大きな声でいってくださいまし』と話しかけて、お嬢さまを安心させた。そんなことにならぬよう、下腹などさわるでないぞ」

良玄は十分に注意を与え、銀南を若先生ということにして、代脈に行かせた。

銀南は伊勢屋でしくじりを重ねたあげく、手、舌などを見る。

しまいには、お嬢さまの下腹を押してしまう。

「プイッ」

お嬢さまが、みるみる赤い顔に。

銀南は良玄をまねて
「どうも年のせいか四、五日耳が遠くなって」
とやったはいいが、手代に
「大先生も二、三日前にお耳が遠いとおっしゃってましたが、若先生も」
といわれ、銀南は
「いけないとも。ちっとも聞こえない。いまのおならさえ聞こえなかった」

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【うんちく】

大看板好み与太郎噺 【RIZAP COOK】

文化年間(1804-18)、寄席の草創期から口演されてきたらしい、古い噺です。

銀南は医者見習いというものの、実態は与太郎そのもの。昔から、ごく軽い与太郎物として扱われ、前座・二つ目の修行噺でもあるのですが、受けるネタだからか、大看板も多く好み、現在もよく高座に掛けられます。

古くは、明治45年(1912)の四代目柳家小三治(のち二代目柳家つばめ)や初代柳家小せんの速記があります。戦後では、六代目三遊亭円生、五代目柳家小さんの大立者が音源を残しています。

昭和56年(1981)4月、文京区千石にあった三百人劇場での「志ん朝七夜」で演じた「代脈」は圧倒的な技量でした。もちろん、古今亭志ん朝のこと。どの師匠のよりも、吹っ切れた明るさとスピード感、冴えた舌耕で、客席を笑いの渦に巻き込んでいました。

実話、屁の功名 【RIZAP COOK】

後半の屁の部分の原話は、室町後期の名医、曲直瀬道三(1507-94)の逸話を脚色した寛文2年(1662)刊『為愚癡物語』巻三の「翠竹道三物語りの事」、さらにそれを笑話化した元禄10年(1697)刊『露鹿懸合咄』巻二の「祝言」です。

後者は、道三がさるうつ病の姫君を診察した際、姫が一発やらかしたので、音が自分の耳に入ったと知ればいよいよ落ち込んで薬効もなくなると機転を利かせ、耳が遠くなったので筆談で症状を言うように仕向けて見事精神的ケアに成功、本復させたというものです。良玄の自慢話そのものですが、してみると、これは実話を基にしていることになります。

銀南が代脈に行かされる前半の原話は、安永2年(1773)刊『聞上手』二編中の「代脈」です。

これは、あらすじでは略しましたが、銀南が駕籠の中で寝込んでいるところを、病家の門口で駕籠屋に起こされ、寝ぼけて「ドーレ」と言うくすぐりがあり、その部分のほぼそのままの原型です。

古法家 【RIZAP COOK】

概して漢方医のことですが、特に、漢や隋代の古い医学書に基づいて治療を行う、保守的な学派の医者を指します。これに対し、元代に起こった、比較的新しい漢方医学を標榜する医者を後世家と呼びました。

中橋 【RIZAP COOK】

いまの東京駅八重洲中央口あたりです。昔はこのあたりに楓川の掘割があり、日本橋の大通りと交差するところに中橋が架かっていました。掘割が安永3年(1774)に埋め立てられると同時に橋も廃され、一帯の埋立地に中橋広小路町が形成されました。

中橋の橋詰は、寛永元年(1624)、猿若勘三郎が初めて芝居の興行を許された、江戸歌舞伎発祥の地でもあります。

【語の読みと注】
古法家 こほうか:漢方医
曲直瀬道三 まなせどうさん
後世家 こうせいか

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しにがみ【死神】演目

古典落語の傑作ですが、元ネタはイタリアやドイツにあるそうです。

別題:全快 誉れの幇間

あらすじ

借金で首が回らなくなった男。

金策に駆け回るが、誰も貸してくれない。

かみさんにも
「金ができないうちは家には入れない」
と追い出され、ほとほと生きるのがイヤになった。

ひと思いに首をくくろうとすると、後ろから気味の悪い声で呼び止める者がある。

驚いて振り返ると、木陰からスッと現れたのが、年の頃はもう八十以上、痩せこけて汚い竹の杖を突いた爺さん。

「な、なんだ、おめえは」
「死神だよ」

逃げようとすると、死神は手招きして、
「こわがらなくてもいい。おまえに相談がある」
と言う。

「おまえはまだ寿命があるんだから、死のうとしても死ねねえ。それより儲かる商売をやってみねえな。医者をやらないか」

もとより脈の取り方すら知らないが、死神が教えるには
「長わずらいをしている患者には必ず、足元か枕元におれがついている。足元にいる時は手を二つ打って『テケレッツノパ』と唱えれば死神ははがれ、病人は助かるが、枕元の時は寿命が尽きていてダメだ」
という。

これを知っていれば百発百中、名医の評判疑いなしで、儲かり放題である。

半信半疑で家に帰り、ダメでもともとと医者の看板を出した。

まもなく日本橋の豪商から使いが来た。

「主人が大病で明日をも知れないので、ぜひ先生にご診断を」
と頼む。

行ってみると果たして、病人の足元に死神。

「しめた」
と、教えられた通りにすると、アーラ不思議、病人はケロりと全快。

これが評判を呼び、神のような名医というので往診依頼が殺到し、たちまち左ウチワ。

ある日、麹町の伊勢屋宅からの頼みで出かけてみると、死神は枕元。

「残念ながら助かりません」
と因果を含めようとしたが、先方はあきらめず、
「助けていただければ一万両差し上げる」
という。

最近は愛人に凝って金を使い果たしていた先生、そう聞いて目がくらみ、一計を案じる。

死神が居眠りしているすきに、蒲団をくるりと反回転。

呪文を唱えると、死すべき病人が生き返った。

さあ死神、怒るまいことか、たちちニセ医者を引っさらい、薄気味悪い地下室に連れ込む。

そこには無数のローソク。

これすべて人の寿命。

男のはと見ると、もう燃え尽きる寸前。

「てめえは生と死の秩序を乱したから、寿命が伊勢屋の方へ行っちまったんだ。もうこの世とおさらばだぞ」
と死神の冷たい声。

泣いて頼むと、
「それじゃ、一度だけチャンスをやる。てめえのローソクが消える前に、別のにうまくつなげれば寿命は延びる」

つなごうとするが、震えて手が合わない。

「ほら、消える。……ふ、ふ、消える」

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しりたい

異色の問題作 【RIZAP COOK】

なにしろ、この噺のルーツや成立過程をめぐって、とうとう、かなり厚い一冊の本になってしまったぐらいです。参照『落語「死神」の世界』(西本晃二著、2002年)

一応、原話はグリム童話の中の「死神の名付け親」で、それを劇化したイタリアのオペレッタ「クリスピーノと死神」の筋を、三遊亭円朝が福池桜痴あたりから聞き、落語に翻案したといわれます。

それはともかく、そこのだんな。ああた、あーたです。笑ってえる場合じゃあありません。このはなしを聞いて、たまには生死の深遠についてまじめにお考えになっちゃあいかがです。美人黄土となる。明日ありと思う心の何とやら。死は思いも寄らず、あと数分後に迫っていまいものでもないのです。

東西の死神像 【RIZAP COOK】

ギリシアやエジプトでは、生と死を司る運命もしくは死の神。ヨーロッパの死神は、よく知られた白骨がフードをかぶり、大鎌を持った姿で、悪魔、悪霊と同一視されます。日本では、この噺のようにぼろぼろの経帷子をまとった、やせた老人で、亡者の悪霊そのもの。

ところが、落語版のこの「死神」では、筋の上では、西洋の翻案物のためか、ギリシア風の死を司る神という、新しいイメージが加わっています。

芝居の死神 【RIZAP COOK】

三代目尾上菊五郎以来の、音羽屋の家の芸で、明治19年(1886)3月、五代目菊五郎が千歳座の「加賀鳶」で演じた死神は、「頭に薄鼠色の白粉を塗り、下半身がボロボロになった薄い経帷子に葱の枯れ葉のような帯」という姿でした。不気味に「ヒヒヒヒ」と笑い、登場人物を入水自殺に誘います。客席の円朝はこれを見て喝采したといいます。この噺の死神の姿と、ぴったり一致したのでしょう。

先代中村雁治郎がテレビで落語通りの死神を演じましたが、不気味さとユーモラスが渾然一体で、絶品でした。

「誉れの幇間」はハッピーエンド 【RIZAP COOK】

明治の「鼻の円遊」こと初代三遊亭円遊は、「死神」を改作して「誉れの幇間」または「全快」と題して、やりました。ろうそくの灯を全部ともして引き上げるというハッピーエンドに変えています。

麹町の伊勢屋  【RIZAP COOK】

これはもう「ちきり伊勢屋」をみていただくのがよいでしょう。麹町は町家地、番町は武家地に棲み分けされていたのですね。円生のやり方です。

「死神」のやり方 【RIZAP COOK】

円朝から高弟の初代三遊亭円左が継承、さらに戦後は六代目三遊亭円生、五代目古今亭今輔が得意にしました。

円生は、死神の笑いを心から愉快そうにするよう工夫し、サゲも死神が「消える」と言った瞬間、男が前にバタリと倒れる仕種で落としました。柳家小三治は、男がくしゃみをした瞬間にろうそくが消えるやり方です。

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ごけごろし【後家殺し】演目

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すじだけ読むと、とても笑える代物ではないのですが。円生のお得意噺でした。

あらすじ

職人の常さん、大変に義太夫に凝っている。

ある日、町内の伊勢屋という大きな質屋で開かれた会で、「平太郎住家」を一段語ったのが縁となって、そこの後家さんといい仲になった。

もう三年越し。

後家さんは年のころ二十七、八で、色白の上品ないい女。

常さん、コソコソ隠れてするのが嫌いな性分なので、堂々とかみさんに打ち明けると、このかみさんもさばけたもの。

「決してうれしいことではないけれど、私を追い出すというのでさえなければ、おまえさんがほかに変な女に引っ掛かるよりはいいし、男の働きだから」
と公認してくれている。

そんなわけで、本宅と伊勢屋に一日交代で泊まり、向こうも心得たもので、月々にはちゃんと金も届けて寄こすし、うらやましいご身分。

ところが、その話を聞いた友達がやっかみ半分に、
「あの後家さんは、もうとうにおまえに飽きが来て、荒井屋という料理屋の板前で喜助という男とできている」
と吹き込んだから、さあ常さんは心穏やかではない。

喜助は女殺しの異名を取る、小粋ないい男。

疑心暗鬼にかられた常吉、ついにある夜、出刃包丁を持って伊勢屋に踏み込み、酒の勢いも借りて
「よくもてめえはオレの顔に泥を塗りゃあがったなッ」

後家さんのいいわけも聞かばこそ、馬乗りになると、出刃でめった突き。

なます斬りにしてしまった。

あとで、その話はまったくの作り話と知れ、後悔したが、もう遅い。

お白州へ引き出され、打ち首と決まった。

「その方、去る二月二十四日、伊勢屋の後家芳なる者を殺害いたし、重々不届きにより、重き科にも行うべきところ、お慈悲をもって打ち首を申し付ける。ありがたくお受けいたせ」
「ありがたかありません」
「今とあいなり未練なことを申すな」

奉行が、
「いまわの際に一つだけ願いをかなえてつかわす」
というので、常さん、義太夫で
「後に残りし女房子が、打ち首とォ聞くゥなァらばァ、さそこなげかァーん、ふびんやーとォー」
と語ると奉行、ぽんと膝をたたいて
「よっ、後家殺しッ」

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しりたい

円生ネタ

もともと上方落語の切りネタ(大ネタ)で、原話は不詳です。

大阪の二代目桂三木助からの直伝で、戦後、六代目三遊亭円生が東京に移植、独壇場にしていました。

義太夫の素養が不可欠なため、円生在世中もほとんどほかにやる落語家はなく、没後の継承者も出ません。今となると、貴重な噺です。

実際に、高座で義太夫を語る音曲噺なので、「やはり耳で聞いていただくのがいちばん」と円生も述べています。               
円生は、「噺の中の進行のために、浄瑠璃の文句のすべてを節づけず、半分の文句は普通にしゃべりますが、義太夫の素養がないと、節の場合とちがって自然に出てこないものです」とも、語り残しています。

この噺や「豊竹屋」などは、円生が少年時代、プロの義太夫語りだった円生ならではのもの。豆仮名太夫で出ていました。こうした噺を自在にこなせる落語家は、残念ながらいまはいません。

平太郎住家

浄瑠璃「祇園女御九重錦」全五段のうち三段目。柳の木の精が人間の妻になるという筋立てで、俗に「柳」ともいい、歌舞伎にも脚色されています。

お慈悲をもって打ち首

「下手人」といいます。この言葉は、犯人をも意味しますが、罪名として用いられる場合は、単純な斬首刑のこと。

取られる物は首だけで、同じ打ち首でも、「死罪」のように市中引回し、家財没収、山田朝右衛門によるためし斬りなどの付加刑がない分、確かにありがたいお慈悲です。

後家殺し

上方で、浄瑠璃にかけるほめ言葉です。語源は不明ですが、後家を悩殺するほどの色男、という意味でしょう。

義太夫の三味線は「太ザオ」なので、あらぬ連想をたくましくすることも不可能ではありませんが……。

「後家が惚れるくらいですからいい加減な義太夫ではいけません」(六代目円生)

【語の読みと注】
下手人 げしゅにん:斬首刑

自宅で始めて、年収1,300万円以上が可能

かわずちゃばん【蛙茶番】演目

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町内で繰り広げられる素人芝居。抱腹絶倒です。

別題:素人芝居 舞台番

【あらすじ】

町内の素人芝居で「天竺徳兵衛」の「忍術ゆずり場」を出すことになった。

大盗賊の徳兵衛が、赤松満祐の幽霊から忍術の極意を伝授され、ドロンドロンとガマに化ける場面である。

ところが、そのガマの役にくじ引きで当たってしまったのが、伊勢屋の若だんな。

やりたくないから、当然、仮病を使って出てこない。

困った世話役の番頭、しかたなく芝居好きの丁稚の定吉をなだめすかし、ガマ賃をやる約束で、ようやく代役を承知させる。

安心したのもつかの間、今度は、舞台のソデで客の騒ぎを鎮める役である舞台番をつとめる建具屋の半公が来ない。

この男、通称バカ半、ハネ半と呼ばれるほどお調子者。

とにかく舞台番がいないと幕が開かないので、定吉に呼びに行かせると、この前、だんなに
「今度、化物芝居の座頭に頼む」
と言われたのがしゃくで、
「誰が行ってやるもんか」
と大変な剣幕。

困った番頭、一計を案じて定吉に、
「半公が岡惚れしている小間物屋のみい坊が、『役者なんかしないで舞台番と逃げたところが半さんらしくていい』と誉めていたと言って、だまして連れてこい」
と言いつける。

これを聞いて有頂天になった半公、どうせならと、自慢の緋縮緬のフンドシを質屋から急いで請け出し、湯屋で入念に「男」を磨く。

ところが、催促に来た定吉に
「早く来ないとみいちゃんが帰っちまう」
とせかされ、あわてて湯から上がって外へ飛び出したのはいいが、肝心のフンドシを締め忘れ、マル出しのまま気づかずに……。

さて、半公が息せききって駆けつけ、ようやく開幕。

客はもちろん、舞台番なんぞに目もくれない。

半公、ソデからみいちゃんをキョロキョロ探すが、いるワケがない。

しかたなく、フンドシの趣向だけでも見せようと
「しょっしょっ、騒いじゃいけねえ」
と客が静かに芝居を見ているのに、一人で騒ぎ立てる。

あまりのうるささに一同ひょいと舞台番を見ると、半公の股間から妙なものがカマ首をもたげている。

「あれは作り物じゃない」
と場内騒然。

「ようよう、半公、日本一! 大道具!」

誉められた半公、喜んでいっそうはでに尻をまくり、客席の方に乗り出した……。

この間にも芝居は進んで、いよいよ見せ場の忍術ゆずり場。

ドロンドロンと大どろになるが、ガマの定吉が出てこない。

「おいおい、ガマはどうした。おい、定、早く出なきゃあだめだよ」
「へへっ、出られません」
「なぜ」
「あすこで、青大将がねらってます」

底本:三代目三遊亭金馬ほか

【しりたい】

茶番

もとは歌舞伎のの大部屋の役者が、毎年五月二十九日の曽我祭の日に酒宴を催し、その席で、当番がおもしろおかしく口上をのべたのが始まりです。

それを「酒番」といいましたが、享保年間(1716-36)の末に、下戸の初代澤村宗十郎が酒席を茶席に代えたので、酒番も茶番になったわけです。

宝暦年間(1751-64)になると、遊里や戯作者仲間、一般町人の間にもこの「口上茶番」が広まり、いろいろな道具を並べてシャレながら口上を言う「見立て茶番」、素人芝居に口上茶番の趣向を加味した「素人茶番」も生まれました。

この噺のイベントはその「素人茶番」、別名「立茶番」です。「芝居」と銘打つとお上がうるさいので、あくまでタテマエは茶番とし、商家の祝い事や町内の催しものに、アトラクションとして盛んに行われました。

落語では、ほかに「権助芝居」(「一分茶番」)があります。

天竺徳兵衛

ここに登場する芝居は、正式な外題を「天竺徳兵衛韓噺(てんじくとくべえ・いこくばなし)」といい、現在も市川猿之助劇団のレパートリーになっています。

「四谷怪談」の作者でもある、四代目鶴屋南北(1755-1829)が文化元年(1804)七月の河原崎座に書き下ろした作品で、寛永10年(1633)、インド(天竺)に渡航して「天竺聞書」を出版した徳兵衛という人物に取材し、徳兵衛を天下をねらい、ガマの妖術をあやつる大盗賊に仕立てた歌舞伎狂言です。

金馬の「サクラ」作戦

「素人芝居」(別題「五段目」「吐血」)という長い噺の後半が独立したもので、オリジナルは明治29年(1896)の、四代目橘家円喬の速記が残ります。

戦後は三代目三遊亭金馬の十八番でしたが、その金馬がまだ円洲といった大正末期のこと。

神田・立花亭の独演会でこの噺を演じたとき、客席に潜ませた子分の春風亭小柳、のちの三代目桂三木助に「ガマが出ないじゃないか」と叫ばせ、待ってましたとばかり、「あそこで青大将がねらってます」とサゲて下りるという、派手な演出をしたそうです。

弾圧にめげず

バレ噺の色が濃いため、明治のころ、これを口演した円朝のライバル・初代談洲楼燕枝を始め、戦前にはかなりの落語家が警察署に呼ばれ、油をしぼられたといいます

かじむすこ【火事息子】演目

火事好きのせがれ。家出の果ては全身文身の臥煙に。火事が親子の対面。

あらすじ

神田三河町の、伊勢屋という大きな質屋。

ある日近所で出火し、火の粉が降りだした。

火事だというのに大切な蔵に目塗りがしていないと、だんながぼやきながら防火に懸命だが、素人で慣れないから、店中おろおろするばかり。

その時、屋根から屋根を、まるで猿のようにすばしこく伝ってきたのが一人の火消し人足。

身体中見事な刺青で、ざんばら髪で後ろ鉢巻に法被という粋な出で立ち。

ぽんと庇の間に飛び下りると、
「おい、番頭」

声を掛けられて、番頭の左兵衛、仰天した。

男は火事好きが高じて、火消しになりたいと家を飛び出し、勘当になったまま行方知れずだったこの家の一人息子・徳三郎。

慌てる番頭を折れ釘へぶら下げ、両手が使えるようにしてやった。

「オレが手伝えば造作もねえが、それじゃあおめえの忠義になるめえ」

おかげで目塗りも無事に済み、火も消えて一安心。

見舞い客でごった返す中、おやじの名代でやってきた近所の若だんなを見て、だんなはつくづくため息。

「あれはせがれと同い年だが、親孝行なことだ、それに引き換えウチのばか野郎は今の今ごろどうしていることやら……」
と、そこは親。

しんみりしていると、番頭がさっきの火消しを連れてくる。

顔を見ると、なんと「ウチのばか野郎」。

「徳か」と思わず声を上げそうになったが、そこは一徹なだんな。

勘当したせがれに声など掛けては世間に申し訳がないと、やせ我慢。

わざと素っ気なく礼を言おうとするが、こらえきれずに涙声で、
「こっちィ来い、このばかめ。……親ってえものはばかなもんで、よもやよもやと思っていたが、やっぱりこんな姿に……しばらく見ないうちに、たいそういい絵が書けなすった……親にもらった体に傷を付けるのは、親不孝の極みだ。この大ばか野郎」

そこへこけつまろびつ、知らせを聞いた母親。

甘いばかりで、せがれが帰ったので大喜び。

「鳥が鳴かぬ日はあっても、おまえを思い出さない日はなかった、どうか大火事がありますようにと、ご先祖に毎日手を合わせていた」
と言い出したから、おやじは目をむいた。

母親が
「法被一つでは寒いから、着物をやってくれ」
と言うと、だんなはそこは父親。

「勘当したせがれに着物をやってどうする」
と、まだ意地づく。

「そのぐらいなら捨てちまえ」
「捨てたものなら拾うのは勝手……」

意味を察して、母親は大張り切り。

「よく言ってくれなすった、箪笥ごと捨てましょう。お小遣いは千両も捨てて……」

しまいには、
「この子は小さいころから色白で黒が似合うから、黒羽二重の紋付きを着せて、小僧を供に……」
と言いだすから、
「おい、勘当したせがれに、そんななりィさせて、どうするつもりだ」
「火事のおかげで会えたんですから、火元へ礼にやります」

しりたい

命知らずの臥煙渡世   【RIZAP COOK】

ここでは、徳三郎は町火消ではなく、定火消、すなわち武家屋敷専門の火消人足になっている設定です。

これは臥煙(がえん)とも呼ばれますが、身分は旗本の抱え中間(武家奉公人)で、飯田町(今の飯田橋辺)ほか、10か所に火消屋敷という役宅がありました。もっぱら大名、旗本屋敷のみの鎮火にあたります。平時は役中間部屋の大部屋で起居しています。太い丸太ん棒を枕にしてざこ寝して、いざ火事となると不寝番が丸太ん棒の端っこを叩いて起こす、という粗っぽさ。法被一枚、下帯一本で火事場に駆けつけます。家々を回って穴開き銭の緡縄を高値で押し売りしたり、役中間部屋では年中賭場を開いたりしている、江戸のダニです。やくざです。それでも火事となるといさみにましらのごとく屋根から屋根を飛び移っては消火に励むわけで、まさに役に参ずる人たちでした。

せがれが臥煙にまで「身を落とした」ことを聞いたときの父親の嘆きが推量できますが、この連中は町火消のように刺し子もまとわず、法被一枚で火中に飛び込むのを常としたため、死亡率も相当高かったわけです。

小説「火事息子」   【RIZAP COOK】

落語の筋とは直接関係ありませんが、劇作家・演出家でもあった久保田万太郎(1889-1963)に、やはり、爽やかな明治の江戸っ子の生涯を描いた同名の小説があります。

これは、作者の小学校同窓であった、山谷の名代の料亭「重箱」の主人の半生をモデルとしたものです。重箱は今も赤坂にある鰻屋。超高級店です。江戸時代には山谷にありました。今と違って、山谷は避暑地でした。

八代目正蔵の生一本   【RIZAP COOK】

徳三郎は、番頭を折釘にぶらさげて動けるようにしてやるだけで、目塗りを直接には手伝わず、また父親も、必死にこみあげる情を押さえ通して、最後まで「勘当を許す」と自分では口にしません。

ともすればお涙ちょうだいに堕しがちな展開を、この親子の心意気で抑制させた、すぐれた演出です。

こうした、筋が一本通った古きよき江戸者の生きざまを、数ある演者の中で、特に八代目林家正蔵が朴訥に、見事に表現しました。

明治期には初代三遊亭円右の十八番で、昭和に入っては正蔵始め、六代目三遊亭円生、五代目古今亭志ん生、三代目桂三木助など、名だたる大看板が競演しています。

火消屋敷

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しわいや【吝嗇屋】演目

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「しわい」とはケチのこと。ケチもここまできわまると至芸。ケチの達人です。

【あらすじ】

ケチ道をきわめた男。

飯を食う時に、一年間一つの梅干で済ませるという自慢を聞いてせせら笑い、
「まだ修行が足りねえ、オレなら梅干を食わずににらんでいて、口がすっぱくなったところで飯を食う」
とやっつける。

それに挑戦しようという男が現れ、夜訪ねると、先生、明かりも点けない真暗がりで裸で座っている。

「寒くないか」
と聞くと、
「よく見ろ、頭の上から大石を吊るしてあるから、いつ落ちるかと冷や汗をかくので、それで温まる」
と言う。

大変な野郎があるものだと降参して退散しようと、履物を探すからマッチを貸してくれと頼むと
「てめえはそれだからダメだ。目と鼻の間をゲンコツで殴り、その火で探せ」
と言うので、
「そんなことだろうと思って、初めから裸足で来ました」
「オレもそうだろうと思ったから、あらかじめ畳を裏っ返しておいた」

【しりたい】

ケチ兵衛しつこく登場!

「しわい」はもともと上方言葉です。

「しわん坊」「しわいの根っこ」「あかにしや」「六日知らず」「始末屋」などの同義語があります。

ほかに「伊勢屋」ともいいますが、これは、質屋の屋号に多く、質屋はケチが多いというところから。

落語ではケチの苗字(屋号)が「あかにしや」か「しわいや」、名前を「ケチ兵衛」「ケチ左衛門」「しわ右衛門」などとしています。

ケチ噺いろいろ

一席の独立した噺としては「味噌蔵」「死ぬなら今」「位牌屋」「片棒」「あたま山」などがあります。

「しわいや」は、どちらかというと、ケチの小ばなしのオムニバスとも呼べる軽い噺です。

似たような小品に、「二丁ろうそく」「始末の極意」があり、この三席は互いに、内容が一部重複していますが、それぞれにケチぶりを競います。

ケチ兵衛流「ケチ道実践」

「しわいや」では、以下の噺をよく付け加えます。

●火事で全焼した家におき火をもらってこいと小僧に言いつけ、断られると、
「今度こっちが焼けても、火の粉ひとつやるもんか」

●蒲焼のにおいで飯をかっこんでいた男が鰻屋にかぎ賃を請求され、金をチャリンとばらまいて
「音だけ持って帰れ」

だそく

本場・大阪のケチ道の極意は、「生き金」を使うことにあり、むやみに節約ばかりするのは「シブチン」「しみったれ」として、かえって軽蔑されるとか。

要するに、五円使ったら十円となって戻るような、有効な投資こそ大切、ということなのでしょう。

海外では「スコットランド人」がケチの代名詞とされています。

こほめ【子褒め】演目

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他人の子を褒めるのは気を使います。愚者が半端に真似して失敗するおかしさ。

別題:赤子ほめ(上方)

【あらすじ】

人間がおめでたくできている熊五郎がご隠居のところに、人にただ酒をのましてもらうにはどうすればいいかと聞いてくる。

そこで、人に喜んでごちそうしようという気にさせるには、まずうそでもいいからお世辞の一つも言えなけりゃあいけないと教えられ、例えば、人は若く言われると気分がいいから、四十五の人には厄(四十一~三)そこそこ、五十なら四十五と、四、五歳若く言えばいいとアドバイスされる。

たまたま仲間の八五郎に赤ん坊が生まれたので、祝いに行けば酒をおごってもらえると算段している熊公、赤ん坊のほめ方はどうすればいいか聞くと、隠居がセリフを教えてくれる。

「これはあなたさまのお子さまでございますか。あなたのおじいさまに似てご長命の相でいらっしゃる。栴檀(せんだん)は双葉(ふたば)より芳しく、蛇は寸にしてその気をのむ。私も早くこんなお子さまにあやかりたい」

喜んで町に出ると、顔見知りの伊勢屋の番頭に会ったから、早速試してやろうと、年を聞くと四十歳。

四十五より下は聞いていないので、むりやり四十五と言ってもらい、
「えー、あなたは大変お若く見える」
「いくつに見える?」
「どう見ても厄そこそこ」
「馬鹿野郎ッ」
としくじった。

さて、八つぁんの家。

男の子で、奥に寝ているというから上がると、
「妙な餓鬼ィ産みゃあがったな。生まれたてで頭の真ん中が禿げてやがる」
「そりゃあ、おやじだ」

いよいよほめる段になって、
「あなたのおじいさまに似て長命丸の看板で、栴檀の石は丸く、あたしも早くこんなお子さまにかやつりてえ」
「なんでえ、それは」
「時に、この赤ん坊の歳はいくつだい?」
「今日はお七夜だ」
「初七日」
「初七日じゃねえ。生まれて七日だからまだ一つだ」
「一つにしちゃあ大変お若い」
「ばか野郎、一つより若けりゃいくつだ」
「どう見てもタダだ」

【しりたい】

これも『醒睡笑』から

安楽庵策伝の『醒睡笑』(「てれすこ」参照)巻一中の「鈍副子 第十一話」が原話です。

これは、脳に霞たなびく小坊主が、人の歳をいつも多く言うというので和尚にしかられ、使いに行った先で、そこの赤ん坊を見て、「えー、息子さんはおいくつで?」「今年生まれたから、片子(=満一歳未満)ですよ」「片子にしてはお若い」というもので、「子ほめ」のオチの原型になっています。

小ばなしがいくつか合体してできた噺の典型で、自由にくすぐり(=ギャグ)も入れやすく、時間がないときはいつでも途中で切れる、「逃げ噺」の代表格です。

大看板の「子ほめ」

そういうわけで前座噺として扱われますが、五代目志ん生、三代目金馬といったかつての大物も時々気軽に演じました。故人春風亭柳朝の、ぶっきらぼうな口調も耳に残っています。

オチは、満年齢が定着した現在は、通じにくくなりつつあるため、上方の桂米朝は、「今朝生まれたばかりや」「それはお若い。どう見てもあさってに見える」としています。

蛇は寸にしてその気をのむ

「その気を得る」「その気を顕す」ともいいます。解釈は「栴檀は双葉より芳し」と同じで、大人物は幼年からすでに才気を表している、という意味。「寸」は体長一寸の幼体のことです。

長命丸

俗に薬研堀(やげんぼり)、実は両国米沢町の「四ツ目屋」で売り出していた強精剤です。同店はこのほか「女悦丸」「朔日丸」(避妊薬)など、ソノ方面の怪しげな薬を一手に取り扱っていました。

田舎のおやじが、長生きの妙薬と勘違いして長命丸を買っていき、セガレの先に塗るのだと教えられていたので、さっそく、ばか息子の与太郎の頭に塗りたくると、夜中に頭がコックリコックリ持ち上がった、という艶笑噺があります。