おうのまつ【阿武松】落語演目

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【どんな?】

大食いで武隈たけくま関に追い出された男。
板橋宿いたばしじゅくでたらふく食って死のうとする。
旅籠はたごの主人に救われて錣山しころやま部屋へ。
錣山では大食いがすすめられた。
男はたちまち大出世だいしゅっせ
とうとう長州藩ちょうしゅうはんのお抱え力士に。
これぞ第六代横綱、阿武松おうのまつ出世譚しゅっせたん

別題:出世力士

あらすじ

京橋観世新道かんぜじんみちに住む武隈文右衛門たけくまぶんえもんという幕内関取のところに、名主の紹介状を持って入門してきた若者がある。

能登国鳳至ふげし鵜川うかわ村字七海しつみの在で、百姓仁兵衛のせがれ長吉、年は二十五。

なかなか骨格がいいので、小車おぐるまという四股名しこなを与えたが、この男、酒も博打も女もやらない堅物なのはいいが、人間離れした大食い。

朝、赤ん坊の頭ほどの握り飯を十七、八個ペロリとやった後、それから本番。

おかみさんが三十八杯まで勘定したが、あとはなにがなんだかわからなくなり、寒けがしてやめたほど。

「こんなやつを飼っていた日には食いつぶされてしまうから、追い出しておくれ」
と、おかみさんに迫られ、武隈も
「わりゃあ、相撲取りにはなれねえから、あきらめて国に帰れ」
と、一分金をやって追い出してしまった。

小車、とぼとぼ板橋の先の戸田川の堤までやってくると、面目なくて郷里には帰れないから、この一分金で好きな飯を思い切り食った後、明日身を投げて死のうと心決める。

それから板橋平尾ひらお宿の橘家善兵衛という旅籠はたごに泊まり、一期いちごの思い出に食うわ食うわ。

おひつを三度取り換え、六升飯を食ってもまだ終わらない。

おもしろい客だというので、主人の善兵衛が応対し、事情を聞いてみると、これこれこういうわけと知れる。

善兵衛は同情し、
「家は自作農も営んでいるので、どんな不作な年でも二百俵からの米は入るから、おまえさんにこれから月に五斗俵二俵仕送りする」
と約束、ひいきの根津七軒町、錣山しころやま喜平次という関取に紹介する。

小車を一目見るなり惚れ込んでうなるばかりの綴山、
「武隈関は考え違いをしている。相撲取りが飯を食わないではどうにもならない。一日一俵ずつでも食わせる」
と善兵衛の仕送りを断り、改めて、自分の前相撲時代の小緑という四股名を与えた。

奮起した小緑、百日たたないうちに番付を六十枚以上飛び越すスピード出世。

文政五年、蔵前八幡の大相撲で小柳長吉と改め入幕を果たし、その四日目、おマンマの仇、武隈と顔が合う。

その相撲が長州公の目にとまって召し抱えとなり、のちに第六代横綱、阿武松緑之助おうのまつみどりのすけと出世を遂げるという一席。

底本:六代目三遊亭円生

【RIZAP COOK】

しりたい

阿武松緑之助  【RIZAP COOK】

おうのまつみどりのすけ。寛政3年(1791)-嘉永4年(1851)。第六代横綱。長州藩抱え。実際は武隈部屋。文政5年(1822)10月入幕、同9年(1826)10月大関、同11年(1828)2月横綱免許。天保6年(1835)10月、満44歳で引退。

四股名の由来は、お抱え先の長州・萩の名所「阿武あぶの松原」から。 

阿武松緑之助(1791-1852)

板橋宿  【RIZAP COOK】

地名の由来は、石神井川しゃくじいがわに架かる板橋から。日本橋にほんばしから二里八町(11.2km)。

中山道なかせんどうの親宿(起点)で、四宿(非公認の遊郭。品川、新宿、千住、板橋)の一つ。

西から、上宿かみしゅく(本町ほんちょう)、中宿なかじゅく平尾宿ひらおしゅく(下宿、しもしゅく)に分かれていました。

西から「上」とは不思議ですが、中山道のゴールは京都のため、京都に近い方が「上」となります。

平尾宿は、現在の板橋区本町1-3丁目。JR板橋駅周辺をさします。

宿泊専用の平旅籠ひらはたご以外に、飯盛り女(宿場女郎)を置く飯盛り旅籠があり、そっちの方でもにぎわいました。

ほかには、酒舗や料理屋などが散在していました。

木曽街道板橋之驛(渓斎英泉)

どれほどにぎわっていたかといえば。

文政・天保期の記録では、板橋宿は定人50人、定馬50匹と定められていました。

助郷(伝馬を補助する役)を負わされた村は52か村、石高は1万5,613石だったそうです。

人口は、天保14年(1843)の記録では、男1,053人、女1,395人で、計2,448人。

小藩並みの規模ですね。

本陣(大名などが泊まる公認の宿舎)は中宿にあり、脇本陣(本陣の補助的な宿舎)が中宿、平尾宿にありました。さらに脇本陣を補助する宿舎が上宿にあったそうです。

旅籠(一般の旅館)は大35軒、中11軒、小7軒の計53軒ありました。

この規模は、四宿ではいちばん小さかったそうです。最大は千住です。

旧中山道板橋宿の現在

縁切り榎  【RIZAP COOK】

板橋宿といえば、縁切り榎が名所です。

十四代将軍徳川家茂に降嫁した和宮に目障りとされ、薦巻きにされたといいます。「縁切り」がよろしくなかったわけです。

和宮は中山道で江戸に向かいました。

東海道ではありませんでした。東海道は宿数も中山道よりも少なく、一見早く着きそうなかんじがしますが、天候次第での川の増水などで待たされがちな東海道よりもほぼ誤差なしに到着できるので、好まれまれたということです。

のちの新選組を組織する近藤勇や土方歳三らも中山道を京に向かいました。

縁切り榎(板橋区本町18-9、都営三田線板橋本町駅から徒歩で5分)

ちなみに、戸田川とは荒川のこと。

隅田川の上流で、板橋宿のはずれ、志村の在には戸田の渡し場がありました。

木曽街道蕨之驛戸田川渡場(渓斎英泉)

観世新道  【RIZAP COOK】

かんぜじんみち。中央区銀座2丁目。丸太新道とも。江戸期には弓町と新両替町2丁目との間にあった通りです。

講談から脚色  【RIZAP COOK】

講釈をもとにできた噺。

講談(講釈)には、「谷風情け相撲」など、相撲取りの出世譚は多いのですが、落語化されたものは珍しいです。

大阪の五代目金原亭馬生(宮島市太郎、1864-1946、赤馬生、おもちゃ屋の)から教わった六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)が、得意にしていた人情噺。

弟子の五代目三遊亭円楽(吉河寛海、1932-2009)が継承しました。

「阿武松じゃあるめえし」  【RIZAP COOK】

文政13年(1830)3月、横綱阿武松は、江戸城での将軍家上覧相撲結びの一番でライバルの稲妻雷五郎(1795-1877、第七代横綱)と顔を合わせ、勝ちはしたものの、マッタしたというのが江戸っ子の顰蹙ひんしゅくを買い、それ以後、人気はガタ落ちに。

借金を待ってくれというのを「阿武松じゃあるめえし」というのが流行語になったとか。平戸藩主だった松浦静山の『甲子夜話』にある逸話です。

実録の阿武松は、柳橋のこんにゃく屋に奉公しているところをスカウトされたということです。

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さるまるだゆう【猿丸太夫】落語演目



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【どんな?】

「太夫」は「だゆう」と読みます。
俳句に凝っている馬子。
乗り合わせた江戸っ子はひとつからかってやろうと。
俳句や和歌が飛び出る道中舞台の都鄙ものの滑稽噺。

【あらすじ】

昔の旅は命がけ。

友達と泣きの涙で水杯を交わし、東海道を西に向かった男、原宿の手前で雇った馬子が、俳句に凝っているというので、江戸っ子ぶりを見せびらかしてやろうと、
「オレは『今芭蕉』という俳句の宗匠だ」
とホラを吹く。

そこで馬子が、
「この間、立場の運座で『鉢たたき』という題が出て閉口したので、ひとつやって見せてくれ」
と言い出す。

先生、出まかせに
「鉢たたき カッポレ一座の 大陽気」
とやってケムに巻いたが、今度は「くちなし」では、と、しつこい。

「くちなしや 鼻から下が すぐにあご」

だんだん怪しくなる。

すると、また馬子が今度は難題。

「『春雨』という題だが、中仙道から板橋という結びで、板か橋の字を詠み込まなくてはならない」
と言うと、やっこさん、すまし顔で
「船板へ くらいつきけり 春の鮫」

「それはいかねえ。雨のことだ」
「雨が降ると、鮫がよく出てくる」

。そうこうしているうちに、馬子の被っている汚い手拭いがプンプンにおってくるのに閉口した今芭蕉先生、新しいのを祝儀代わりにやると、馬子は喜んで
「もうそろそろ馬を止めるだから、最後に紅葉で一句詠んでおくんなせえ」
と頼む。

しかたがないので
「奥山に 紅葉踏み分け 鳴く鹿の 声聞く時ぞ 秋は来にけり」
と聞いたような歌でごまかす。

そこへ向こうから朋輩の馬子が空馬を引いてきて
「作、どうした。新しい手拭いおっ被って。アマっ子にでももらったのか」
「なに、馬の上にいる猿丸太夫にもらった」

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【しりたい】

江戸っ子、じつは「猿」

原話は、宝暦5年(1755)刊、京都で刊行の笑話本『口合恵宝袋』中の「高尾の歌」です。

これは、京の高尾へ紅葉狩りに行った男の話。

帰りに雇った駕籠かきに、歌を詠んだかと聞かれ、「奥山の……」の歌でごまかす筋は、まったく同じで、オチも同一です。

十返舎一九の『東海道中膝栗毛』でも、箱根で「猿丸太夫」をめぐる、そっくり同じようなやりとりがあり、これをタネ本にしたことがわかります。

江戸や京大坂の人が、旅先で、在所の人を無知と侮り、手痛い目にあう実話は、けっこうありました。

オチは、馬子が「奥山」の歌を知っていて皮肉ったわけです。

深読みをすれば、知ったかぶりの江戸っ子を、「猿」と嘲る、痛烈な風刺ともとれます。

円朝も演じた噺

この噺の、江戸を出発するところ、俳句の問答を除いた馬子とのくだりは、「三人旅」にそっくりなので、これを改作したものと思われます。

小咄だったのを、「三人旅」から流用した発端を付け、一席に独立させたものなのでしょう。

古くは、三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)が「道中の馬子」の題で速記を残しています。

大正13年(1924)の、三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)の速記も残っていますが、今はすたれた噺です。

猿丸太夫

正体不明の歌人です。生没年、伝記は一切不明。

「猿丸太夫集」なる歌集はありますが、そこに採られている歌は、当人の作と確認されたものが一首もありません。

「小倉百人一首」に「奥山に」が選ばれていますが、これが実は『古今和歌集』の「よみ人しらず」の歌であることから、平安時代の歌人といわれます。

別に、柿本人麻呂説もあります。

運座

うんざ。各人各題、あるいは一つの題について俳句を作り、互選しあう会です。

座には宗匠、執筆(=記録係)、連衆(句の作り手)で成り立ちます。

18世紀末の安永・天明期以後、俳諧(俳句)人口は全国的に広がり、同時に高尚さが薄れて遊芸化しました。

したがって、この噺のような馬子が俳句に凝ることも、十分考えられたのです。

江戸後期の日本人の教養レベルは、われわれが想像するよりはるかに高かったわけです。われわれ現代人の教養は劣化しています。

馬子などの多くは非識字者であるはず、と思われていました。それが字を知っているばかりか、江戸っ子なんかよりもはるかに博識であるという、落語的な逆転の発想がみられます。

赤ん坊が大男を投げ飛ばすような、小気味いい構図です。



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