死ぬなら今 しぬならいま 演目

ライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

死は人生最大の難問。でも、落語にかかれば、どうってことない。

【あらすじ】

しわいやのケチ兵衛という男。

爪に灯をともすようにして金を貯め込んできたが、いよいよ年貢の納め時が来た。

せがれを枕元に呼び、寿命というものはどうにもならない。

「わたしも、突き飛ばしておいて転がった人の上にずかずか乗るような醜いことまでして、これだけの財産をこしらえたが、もう長くないので、おまえに一つ頼みがある」
と言う。

「どうだろう、早桶ン中に三百両、小判で入れてもらえないか」

地獄の沙汰も金次第。

「わたしのような者は必ず地獄におちるだろうが、金をばらまけばひょっとして極楽へ行けるかもしれない」
というわけ。

せがれが承知すると安心したか、ごろっと痰がからまったと思うと、キュウとそのままになってしまった。

いわゆる、ゴロキュウ往生。

湯灌も済み、白い着物を着せた。

せがれが遺言通りに頭陀袋の中に三百両の小判を入れているところを親類の者が見て
「いくら遺言だからといって、そんなばかなことをしてはいけない」
と、知り合いの芝居の道具方に頼み、譲ってもらった大道具の小判とそっくり入れ替えてしまった。

こちらはケチ兵衛。

いつの間にか買収資金がニセ金に替わっているともつゆ知らず、閻魔の庁まで来ると、さっそく呼び出される。

浄玻璃の鏡にかけられると、今までの悪事がこれでもかこれでもかと映るわ映るわ。

「うーん、不届きなやつ」

閻魔大王が閻魔のような顔になったので、さあ、この時と、袖口に百両をそっと忍ばせると、その重みで大王の体がグラリ。

「あー、しかしながらあ、一代においてこれほどの財産をなすというのも、そちの働き、あっぱれである」

がらっと変わったから、鬼どもがぶつくさ不満タラタラ。

それではと、そいつらの袖の下にも等分に小判を忍ばせたので、ケチ兵衛、無事に天上し、極楽へスーッ。

ケチ兵衛のまいたワイロで、地獄は時ならぬ好景気。

赤鬼も青鬼も仕事などやめて、のめや歌えの大騒ぎ。

その金が回り回って、極楽へ来た。

ニセ小判であることはすぐに知れたから、極楽から貨幣偽造及び収賄容疑で逮捕状が出た。

武装警官がトラックに便乗して閻魔の庁を襲う。

閻魔大王以下、馬頭牛頭、見る目嗅ぐ鼻、冥界十王、赤鬼青鬼、ショウヅカの婆さんまで、残らずひっくくられて、刑務所へ。

地獄は空っぽ。

だから、「死ぬなら今」

底本:八代目林家正蔵(彦六)

ライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ

【うんちく】

彦六の残した珍品

民話、民間伝承を基にしたと思われますが、原話は不明です。もともとは上方落語です。八代目林家正蔵(彦六)と六代目三遊亭円生が大阪の二代目桂三木助から直伝されましたが、円生は手掛けず、彦六が事実上の東京移植者になりました。彦六の後は孫弟子の春風亭小朝が継承。

本家の大阪では、三代目桂文我から桂春之輔に伝わっています。音源は、残念ながら正蔵のものはなく、上方の桂文我のCDが出ています。いずれにせよ、東西とも継承者の少ない、珍品中の珍品といえるでしょう。

「倒叙型」演出も

推理小説では、犯人が当初から明らかにされる倒叙型という手法がありますが、八代目林家正蔵(彦六)は、たまにこの噺でオチを最初に言う演出をとることがありました。

今回のあらすじで参考にした『林家正蔵集』上巻(青蛙房、1974年)の速記では言っていないため、実際に高座で演ずる場合に客の反応や客ダネを見て判断していたものと思われます。オチが考えオチなので、客に対する配慮でもあったのでしょう。

こうした演出を採る噺は数少なく、東京落語ではほかには、やはり正蔵が手掛けた「蛸坊主」があるくらい。上方落語では「苫ケ島」「後家馬子」があります。

牛頭馬頭

ごずめず。地獄の常連です。劇画「子連れ狼」の道中陣ですっかりおなじみになりましたが、牛頭人身と馬頭人身の地獄の獄卒を合わせてこう呼んだものです。

見る目嗅ぐ鼻

みるめかぐはな。こちらも地獄の常連。閻魔の庁の裁判官で、先に小旗を付けた矛の上に、人の生首が突き刺さっているグロテスクな姿として描かれます。亡者の善悪をすべて見通すと伝えられています。

冥界十王

めいかいじゅうおう。閻魔大王を最高位とする、地獄の十人の幹部です。以下の通り。

閻魔大王
泰広王
初江王
宗帝王
五官王
変成王
太山王
平等王
都市王
五道転輪王

中央に閻魔が座り、左右にこのお歴々が着席することになっています。

ライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ

ざこ八 ざこはち 演目

【無料カウンセリング】ライザップがTOEICにコミット!

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

お、聴かせるな、と思いきや、オチはやっぱり落語でした。

【あらすじ】

眼鏡屋の二男坊の鶴吉。

年は二十二になるが、近所でも評判の男前で、そのうえ働き者で人柄がいいときている。

そこで、これも町内の小町娘で、金持ちの雑穀商ざこ八の一人娘のお絹との縁談がまとまり、鶴吉は店の婿養子に迎えられることになった。

ところが、その婚礼の当日、当の鶴吉がふっと姿を消してしまう。

それというのも、貧乏な眼鏡屋のせがれが玉の輿にのるのをやっかんだ連中が、小糠三合あれば養子に行かないというのに、おめえはざこ八の身上に惚れたか、などといやがらせを言うので、急に嫌気がさしたから。

それから十年。

上方に行って一心に働き、二百両という金をためた鶴吉が、久しぶりに江戸に戻ってきた。

十年前の仲人だった桝屋新兵衛方を訪ね、ようすを聞いてみると、とうの昔に店はつぶれ、ざこ八もこの世の人ではないという。

あれから改めてお絹に、葛西の豪農の二男坊を養子にとったが、そいつが身持ちが悪く、道楽三昧の末財産をすべて使い果たし、おまけにお絹に梅毒まで移して死んだ。

ざこ八夫婦も嘆きのあまり相次いで亡くなり、お絹は今では髪も抜け落ち、二目と見られない姿になって、物乞い以下の暮らしをしているという。

「お絹を今の境遇に追いやったのは、ほかならぬおまえさんだ」
と新兵衛に言われて、返す言葉もない。

せめてもの罪滅ぼしと、鶴吉は改めて、今では誰も傍に寄りたがらないお絹の婿となり、ざこ八の店を再興しようと一心に働く。

上方でためた二百両の金を米相場に投資すると、幸運の波に乗ったか、金は二倍、四倍と増え、たちまち昔以上の大金持ちになった。

お絹も鶴吉の懸命の介抱の甲斐あってか、元通りの体に。

ある日、出入りの魚屋の勝つぁんが、生きのいい大鯛を持ってきた。

ところがお絹は、今日は大事な先の仏(前の亭主)の命日で、精進日だからいらない、と断る。

さあ、これが鶴吉の気にさわる。

いかに前夫とはいえ、お絹を不幸のどん底へ落とし、店をつぶした張本人。

それを言っても、お絹はいっこうに聞く耳を持たない。

夫婦げんかとなり、勝つぁんが見かねて止めに入る。

「おかみさんが先の仏、先の仏ってえから今の仏さまが怒っちまった」

夫婦の冷戦は続き、鶴吉が板前を大勢呼んで生臭物のごちそうを店の者にふるまえば、お絹はお絹で意地のように精進料理をあつらえ始める。

一同大喜びで、両方をたっぷり腹に詰め込んだので、腹一杯でもう食えない。

満腹で下も向けなくなり、やっとの思い出店先に出ると、物乞いがうずくまっている。

「なに、腹が減ってる ああうらやましい」

【無料カウンセリング】ライザップがTOEICにコミット!

【しりたい】

ご存じ、三木助十八番

もともとは上方落語の切りネタ(大ネタ)で、東京では戦後、二代目桂三木助直伝で三代目三木助、八代目林家正蔵(彦六)が、東京風のやり方で売り物にしました。

特に、三木助がこの噺を好み、十八番として、しばしば演じています。

本家の上方では、六代目笑福亭松鶴が得意にし、東京でも、二代目桂小南が、上方風で演じました。

あまり出来がいいともいえない噺なので、現在は、東京ではあまり演じ手がいません。

三木助門下だった入船亭扇橋が継承していたくらいでしょう。

上方では「ざこ八」の名は、「ざこく(=雑穀)屋八兵衛」が、縮まったものと説明されます。

前後半で異なる原話

前半の、「今の仏様が怒った」までの原話は、安永2年(1773)刊『聞上手』中の「二度添」、同3年(1774)刊『軽口五色帋』中の「入婿の立腹」です。

「二度添い」では、亭主が、何かにつけ後妻に難癖をつけ、「もとの仏(=先妻)がいたら」と、ぐちるのでけんかに。

隣の太郎平が仲裁に入り、「今の仏も悪い人でもない」と、オチになります。

その翌年に京都で出た「入婿の立腹」では、あらすじ、オチともほぼ現行通りになっていて、明らかに、その間に改作されたものでしょう。

東京の正蔵は。「先の仏」と題し、前半で切っていました。

もうひとつ。

上下二つに分ける場合、上方では後半部は「二度のご馳走」と題されることもあります。

後半の原型は、遠く寛永5年(1628)成立の安楽庵策伝著『醒睡笑』巻三「自堕落 九」と思われ、オチの物乞いの部分は、明和9年(1772)刊「楽牽頭」中の「大食」が原話です。

「醒睡笑」の方は、食いすぎて、数珠を落としてもうつむいて拾うことさえできない男が、バチあたりにも足指で数珠をはさみながら「じゅず(=重々)ごめんあれ」とシャレる噺です。

大阪の六代目松鶴は、オチを、「ごちそうしたのが腹帯の祝い。そう聞いただけでも腹が大きなる」と、していました。

妊婦の腹と、ごちそうで腹が膨れるのを掛けたものです。

こぬか三合

正確には「こぬか三合持つならば入婿になるな」で、つい最近まで使われていた諺です。

「こぬか三合あったら婿に行くな」とも。

こぬか三合は、わずかな財産の例えで、ほんの少額でも金があるなら、割に合わない婿になど入るな、という戒めです。

長子相続が徹底していた江戸時代、特に武士の次男、三男は、家の厄介者で、婿養子にでも行かなければ、まともな結婚など夢の夢。

婿入りしたならしたで、養父母にはいびられ、家付き娘の女房はわがまま放題。男権社会なのに、四六時中気苦労が絶えないという、経験者の実感がこもっています。

「養子に行くか、茨の藪を裸で行くか」など、似たニュアンスの格言はたくさんあります。

精進料理

盆、法事、彼岸、祥月命日などに、魚鳥その他の生臭物を断ち、野菜料理を食する習慣が古くからありました。

こうした戒律はキリスト教やイスラム教にもあるので、ここに日本文化を見いだすことはナンセンスです。

これが終わるのを精進明け、精進落ちといい、逆に精進に入る前に、名残にたらふく魚肉を食らうのを精進固めといいました。

もちろん、願掛けなどで、一定期間精進するならわしは明治初期までは普通に行われていました。

悲劇的な「後日談」

「女ごころといえばそれに違いもあるまいが、これが原因で夫婦生活に破錠をきたし、お絹が家出をして二年目に、葛西の荒れ果てた堂の中で死んでいた。行年三十。その時お絹の着ていた薄い綿入れの着物に雨が当たって、やわやわとした草が生えた。大正年代まで夜店でよくみかけた絹糸草だが、夫婦仲の悪くなるという縁起をかついで、この頃ではもう下町でもあまり見掛けないようである」     『落語国・紳士録』(安藤鶴夫)

【無料カウンセリング】ライザップがTOEICにコミット!

風の神送り かぜのかみおくり 演目

自宅で始めて、年収1,300万円以上が可能

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

なあんだ、だじゃれが言いたくて作った噺、かな。

【あらすじ】

町内に悪い風邪が流行したので、まじないに「風(=風邪)の神送り」をすることになった。

奉加帳を回し、その夜、町内総出でにぎやかに掛け声。

鳴り物に合わせて
「そーれ、かーぜのかーみ、送れ、どんどん送れ」
「送れ、送れ、かあぜのかあみ送れ」
という具合に、一人一人順番に送りながら最後の人間で風の神を川に放り込むという趣向。

ところが、
「かーぜのかーみー、おくれ」
と言うと、
「おなごりィ、おーしい」
と誰かが引き止めてしまったから、みんなカンカン。

寄ってたかって引きずり出すと、覆面をしているので、むしり取ったら薬屋の若だんな。

「とんでもねえ野郎だ」

やっとこ、若だんなが改心して、ようやく風の神を川の中へ。

ちょうどその時、大川で夜網をしている二人が大物を釣り上げた。

引き上げると人間。

「おい、てめえは何だ」
「オレは風の神だ」
「あァ、夜網(=弱み)につけ込んだな」

自宅で始めて、年収1,300万円以上が可能

【しりたい】

原話は藪医者ばなし

安永5年(1776)、大坂で刊行の落語本『夕涼新話集』中の「風の神」が原話です。

あらすじは、以下の通り。

新春早々患者が寄り付かず、食うや食わずで悲鳴をあげている藪医者が、風邪が流行りだしたと聞いて大喜び。これで借金とおさらばできると、同じ境遇の藪仲間二、三人と陽気にお祝いをしていると、外で鉦や太鼓の音。聞いてみると、「これは風の神送り(=追放)の行事です」と言うので藪医者はくやしがり「ええ、いらんことを。無益な殺生だ」

米朝、彦六が復活

本来、上方落語としてポピュラーな噺でしたが、上方では長くすたれていたのを、桂米朝が昭和42年(1967)に復活。

東京では、二代目桂三木助の直伝で八代目林家正蔵(彦六)が専売特許としました。

それ以前にも、前半の薬屋の若だんなまでのくだりは、小咄程度の軽い噺として、明治期に二代目談洲楼燕枝、三代目蝶花楼馬楽などが演じていました。

オチについては、正蔵(彦六)が、昔は「風の神が弱みにつけこむ」といった俚言があり、それを踏まえたのではないかと述べていますが、出典ははっきりしません。

風の神

風の神は風邪をはやらせる疫病神です。

江戸の頃、悪性のインフルエンザによる死亡率は、特に幼児や老人といった抵抗力の弱い者にとって、コレラ、赤痢、ジフテリアに劣らぬ高さだったでした。個々人による祈祷や魔除けのまじないのほかに、この噺のような町内単位の行事が行われたのは、無理もないところでした。

『武江年表』で「風邪」を検索すれば、幕末の嘉永3年(1850)、4年(1851)、安政元年(1854)、4年(1857)、万延元年(1860)、慶応3年(1867)と、立て続けに流行の記事が見えます。この際、幕府から「お助け米」が出ています。

風の神送れ

「風の神送り」のならわしは、本来は物乞いを雇って、灰墨を顔に塗って風の神に見立てたり、鬼や人形を作って町中で練り歩き、鉦太鼓でにぎやかに「風の神送れ」(上方では「送ろ」)と隣の町内に追い払うもの。

そうして、順送りにし、最後は川に流してしまうわけです。

江戸末期になると、しだいに簡略化され、明治初期には完全にすたれたといいます。

音曲噺「風の神」

風の神の新入りが義太夫語りの家に忍び込み、失敗するという音曲噺「風の神」がありましたが、現在は演じ手がありません。

【語の読みと注】
奉加帳 ほうがちょう
藪医者 やぶいしゃ
鉦 かね
談洲楼燕枝 だんしゅうろうえんし
蝶花楼馬楽 ちょうかろうばらく

自宅で始めて、年収1,300万円以上が可能

鼠 ねずみ 演目

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

名人噺。舞台は仙台、伝説の左甚五郎。胸のすく、際立つ匠の物語です。

別題:甚五郎の鼠

【あらすじ】

名工、左甚五郎。

十年も江戸は日本橋橘町の棟梁、政五郎の家に居候の身だ。

その政五郎が若くして亡くなり、今は二代目を継いだせがれの後見をしている。

ある年、まだ見ていない奥州松島を見物しようと、伊達六十二万石のご城下、仙台までやってきた。

十二、三の男の子が寄ってきて、ぜひ家に泊まってほしい、と頼むので承知すると、
「うちの旅籠は鼠屋といって小さいけど、おじさん、布団がいるなら損料を払って借りてくるから二十文前金でほしい」
と言う。

なにかわけがありそうだと、子供に教えられた道を行ってみると、宿屋はなるほどみすぼらしくて、掘っ建て小屋同然。

前には、虎屋という大きな旅籠があって、繁盛している。

案内を乞うと、出てきた主人、
「うちは使用人もいないから、申し訳ないが、そばの広瀬川の川原で足をすすいでほしい」
と言うから、ますますたまげた。

その上、子供が帰ってきて、
「料理ができないから、自分たち親子の分まで入れて、寿司を注文してほしい」
と言い出したので、甚五郎は苦笑して二分渡す。

いたいけな子供が客引きをしているのが気になって、それとなく事情を聞くと、このおやじ、卯兵衛といい、もとは前の虎屋のあるじだったが、五年前に女房に先立たれ、女中頭のお紺を後添いにしたのが間違いのもと。

性悪な女で、幼いせがれの卯之吉をいじめた上、番頭の丑蔵と密通し、たまたま七夕の晩に卯兵衛が、二階の客のけんかを止めようとして階段から落ちて足腰が立たなくなり、寝たきりになったのを幸い、親子を前の物置きに押し込め、店を乗っ取ったと、いう。

卯兵衛は、しかたなく幼友達の生駒屋の世話になっていたが、子供の卯之吉が健気にも、
「このままでは物乞いと変わらない。おいらがお客を一人でも連れてくるから商売をやろう」
と訴えるので、物置きを二階二間きりの旅籠に改築したが、客の布団も満足にないありさま。

宿帳に記された名前から、日本一の彫り物名人と知って卯兵衛は驚くが、同情した甚五郎、一晩部屋にこもって見事な木彫りの鼠をこしらえ、たらいに入れて上から竹網をかけると
「左甚五郎作 福鼠 この鼠をご覧の方は、ぜひ鼠屋にお泊りを」
と書いて、看板代わりに入り口に揚げさせ、出発した。

この看板を見た近在の百姓が鼠を手にとると、不思議や、木の鼠がチョロチョロ動く。

これが評判を呼び、後から後から客が来て、たちまち鼠屋は大繁盛。

新しく使用人も雇い、裏の空き地に建て増しするほどに。

そのうち客から客へ、虎屋の今の主人、丑蔵の悪事の噂が広まり、虎屋は逆にすっかりさびれてしまった。

丑蔵は怒って、なんとか鼠を動かなくしようと、仙台一の彫刻名人、飯田丹下に大金を出して頼み、大きな木の虎を彫ってもらう。

それを二階に置いて鼠屋の鼠をにらみつけさせると、鼠はビクとも動かなくなった。

卯兵衛は
「ちくしょう、そこまで」
と怒った拍子にピンと腰が立ち、江戸の甚五郎に
「あたしの腰が立ちました。鼠の腰が抜けました」
と手紙を書いた。

不思議に思った甚五郎、二代目政五郎を伴って、はるばる仙台に駆けつけた。

虎屋の虎を見たが、目に恨みが宿り、それほどいい出来とは思われない。

そこで鼠を
「あたしはおまえに魂を打ち込んで彫ったつもりだが、あんな虎がこわいかい?」
としかると、
「え、あれ、虎? 猫だと思いました」

底本:三代目桂三木助

【しりたい】

三木助の人情噺

三代目桂三木助が、浪曲師の広沢菊春に「加賀の千代」と交換にネタを譲ってもらい、脚色して落語化したものです。「甚五郎の鼠」の演題で、昭和31年(1956)7月に初演しました。

「竹の水仙」「三井の大黒」などと並び、三木助得意の名工甚五郎の逸話ものです。録音を聴いてみると、三木助がことに子供の表現に優れていたことがよくわかります。お涙ちょうだいに陥るギリギリのところで踏みとどまり、道徳臭さがなく、爽やかに演じきるところがこの人のよさでしょう。左甚五郎については、「三井の大黒」をご参照ください。

日本橋橘町

中央区東日本橋三丁目にあたります。甚五郎の在世中、明暦の大火(1657)以前は旧西本願寺門前の町屋でした。「立花町」とも書かれますが、町名の由来は、当時このあたりに橘の花を売る店が多かったことからきたと言われます。

飯田丹下

実在の彫工で、仙台藩伊達家のお抱えでした。生没年など、詳しい伝記は不詳です。三代将軍家光の御前で、甚五郎と競って鷹を彫り、敗れて日本一の面目を失ったという逸話があります。

安藤鶴夫

三代目三木助がこの噺のマクラに「ベレーが鼠、服が鼠、シャツが鼠で、万年筆が鼠、靴下が鼠でドル入れが鼠、モモヒキが鼠で、靴がまた鼠ッてえン、世の中にゃァ、いろいろまた好き好きてえもんがありますもんですな。このひとが表へ出ましたらお向かいの猫が飛びついてきたってえン」とやったそのねずみ男のモデルが安藤鶴夫(1908-69)だったことは、直木賞受賞作『巷談本牧亭』に書かれています。都新聞の記者、三木助のパトロン、演劇評論家でもありました。日和見で計算高かったようで、いまでは存在感が乏しいのが傷です。

柳朝も得意に

三木助没後は、五代目春風亭柳朝が得意にしました。三木助門下だった入船亭扇橋、あるいは三遊亭円窓などを経て若手にも伝わり、演じ手は少なくない噺です。

【語の注】
旅籠 はたご
鼠屋 ねずみや
損料 そんりょう
卯兵衛 うへえ
生駒屋 いこまや
健気 けなげ
飯田丹下 いいだ・たんげ

たがや 演目

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

川開き。魔封じの花火。ごったがえす両国橋で職人と武士の諍い。江戸前の噺。

【あらすじ】

安永年間、五月二十八日は両国の川開き。

両国橋の上は見物人でごったがえす。

花火をめでると「玉屋」の声しきり。

本所方向から旗本の一行。

前には二人の供侍、中間は槍を持っている。

「寄れ、寄れいッ」
と、強引に渡ろうとする。

反対側の広小路方向から通りかかったのが、商売物の桶のたばをかついだ、たがや。

「いけねえ、川開きだ。えれえことしちゃったなあ。もっと早く気がつきゃァよかったなあ。といって、永代橋を回っちゃしょうがねえし、吾妻橋へ引き返すのもドジだし、どうにもしょうがねえ。しかたがねえ。通してもらおう。すみません」

もみ合う中、後ろから押されたはずみに、かついでいたたががはずれ、向こうからやって来た侍の笠の縁をはがしてしまった。

恥をかかされた侍は、カンカンになって怒り、
「たわけ者め、屋敷へまいれ」
「腰の抜けたおやじと目の悪いおふくろがあっしの帰りを首を長くして待っています。助けてください」

たがやはあやまるが、侍は容赦しない。

開き直ったたがや、
「血も涙もねえ、眼も鼻も口もねえ、のっぺらぼうの丸太ん棒野郎ッ。四六の裏め」
「なにッ」
「三一てえんだ」
「無礼なことを申すと、手は見せんぞ」
「見せねえ手ならしまっとけ」
「大小がこわくないか」
「大小がこわかった日にゃ、柱暦の下ァ、通れねえ」

必死のたがやは侍の刀を奪って、次々と供を斬り殺していく。

最後に残った旗本が馬から下りて槍をしごく。

突いてくる槍の千段巻きを、たがやはグッとつかみ、横一文字に刀をはらうと、勢い余って武士の首が宙天に。

まわりにいた見物人が
「上がった上がったィ。たァがやァい」

底本:三代目桂三木助

【しりたい】

夏休み限定落語

生粋の江戸前落語。詳しい起源や原話は不明です。両国の川開きで、花火が年中行事化したのは享保2年(1717)ですから、少なくともそれ以後の作でしょう。

かつては三代目三遊亭金馬、三代目桂三木助などが威勢のよさを競いましたが、現在でも、花火をあてこんで、夏になるとやたらと高座にかかる納涼ばなしです。

底本に使ったのは三木助の速記です。時代を、江戸中期の安永年間(1772-81)、十代将軍家治の治世としています。

元はたがやの首が飛び

立川談志は、逆にたがやの首を飛ばすオチでした。これがオリジナルのやり方。そうでなければ、「上がった上がった、たァがやァい」という最後の掛け声の意味がなくなります。

この改変に関するどの解説は判で押したように、以下の通り。

侍の首が飛ぶようになったのは、幕末に安政大地震(1855)の復興景気で、首ならぬ職人の手間賃が跳ね上がり、景気のよくなった彼らが寄席に大勢来るようになったので、職人仲間のたがやをヒーローにしてハッピーエンドに変え、ニワカ客のごきげんをうかがったため。

本当でしょうか。いくら幕府の権勢が地に落ちたとはいえ、あの恐怖政治の井伊大老が、こんな武士への冒涜を許しておくとも考えにくいもの。案外、季節違いとはいえ、その井伊直弼の首が飛んだこと(1860)がきっかけなのではないか、と勘ぐってしまうのですが。

たがや

大道で桶を修理したり、たがを交換したりする職人です。たがとは、桶や樽などの周りを巻いて、外れないように締める竹の輪。極限までばか力でギリギリと締めてある上、竹ですから一度外れた場合の反発力はすさまじいものでしょう。

というわけで、この噺の笠を跳ね飛ばす場面はたいへんにリアルで、無理がありません。

玉屋

両国にあった花火屋で、日本橋横山町の老舗、鍵屋の番頭がのれん分けしたものです。

以来、業界の勢力を主家筋の鍵屋と二分し、川開きでも「鍵屋」「玉屋」と平等に声が掛かるまでになりましたが、天保14年(1843)、自火を出したとしてお上のおとがめを受け、廃業処分になりました。どうも、鍵屋の陰謀のにおいがプンプンしますが。

ところが、それ以来判官びいきの江戸っ子の同情を一身に集め、店はなくなったのに、掛け声だけは「玉屋」「玉屋」の一点張りで、「鍵屋」のカの字もなくなったのは皮肉です。これも本当かどうかはあやしい話。

柱暦

はしらごよみ。たがやのタンカの中に登場しますが、縦長の暦で、柱に張っておくものです。暦のたぐいは、表向き町人や百姓は所持を禁じられていましたが、ないと生活に不便なので、簡単なものを寺社などからもらってきていました。

千段巻き

槍の柄を籐で巻いて、漆を塗った部分です。

手は見せんぞ

侍の言う「手は見せんぞ」というのは、時代劇では昔から常套句です。刀を抜く手さばきも見えないほど、素早く斬ってしまう、という脅しです。

【語の読み】
三一 さんぴん
生粋 きっすい
籐 とう

そば清 そばせい 演目

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

そばの噺。そば好きがどうしたらそば賭けで金をせしめられるかという算段。

【あらすじ】

旅商人の清兵衛は、自分の背丈だけのそばが食べられるという、大変なそば好き。

食い比べをして負けたことがないので、もう誰も相手にならないほど。

ある時、越後から信州の方に回った時、道に迷って、木陰で一休みしていると、向こうの松の木の下で狩人が居眠りをしている。

見ると、その木の上で大蛇がトグロを巻いていて、あっと言う間もなく狩人を一のみ。

人間一匹丸のみしてさすがに苦しくなったのか、傍に生えていた黄色い草を、長い真っ赤な舌でペロペロなめると、たちまち膨れていた腹が小さくなって、隠れて震えていた清兵衛に気づかずに行ってしまった。

「ははん、これはいい消化薬になる」
と清兵衛はほくそ笑み、その草を摘めるだけ摘んで江戸へ持ち帰った。

これさえあれば、腹をこわさずに、無限にそばが食えるので、また賭けで一もうけという算段。

さっそく友達に、そばを七十杯食ってみせると宣言、食えたらそば代は全部友達持ち、おまけに三両の賞金ということで話が決まり、いよいよ清兵衛の前に大盛りのそばがずらり。

いやその速いこと、そばの方から清兵衛の口に吸い込まれていくようで、みるみるうちに三十、四十、五十……。

このあたりでさすがの清兵衛も苦しくなり、肩で息を始める。

体に毒だから、もうここらで降参した方が身のためだという忠告をよそに、少し休憩したいからと中入りを申し出て、皆を廊下に出した上、障子をピタリと閉めさせて、例の草をペロリペロリ……。

いつまでたっても出て来ないので、おかしいと思って一同が障子を開けると、清兵衛の姿はない。

さては逃げだしたかとよくよく見たら、そばが羽織を来て座っていた。

【しりたい】

食いくらべ

有名なのは、文化14年(1817)3月、柳橋の万屋八郎兵衛方で催された大食・大酒コンクールで、酒組、飯組、菓子組、鰻組、そば組などに分かれ、人間離れのした驚異的な記録が続出しました。

そば組だけの結果をみると、池之端の山口屋吉兵衛(38歳)がもり63杯でみごと栄冠。新吉原の桐屋惣左衛門(42歳)が57杯で二位、浅草の鍵屋長助(45歳)が49杯で三位となっています。

したがって、清兵衛の50余杯(惜しくも永遠に未遂)は決して荒唐無稽ではありません。

これこそデカダンの極北、醤油ののみ比べもありました。

これについては高木彬光の短編「飲醤志願」に実態が詳しく描写されていますが、まさしく死と隣り合わせです。

上方は餅食い競争

類話の上方落語「蛇含草(じゃがんそう)」は、餅を大食いした男が、かねて隠居にもらってあった蛇含草なる「消化薬」をこっそりのむ設定です。
したがってオチは「餅が甚兵衛(夏羽織)を着てあぐらをかいていた」となります。

三代目桂三木助が、この上方演出をそのまま東京に移植して十八番とし、それ以来、「そば清」とは別に「蛇含草」も東京で演じられるようになりました。

三木助演出は「餅の曲食い」が売り物で、「出世は鯉の滝登りの餅」「二ついっぺんに、お染久松相生の餅」と言いながら、調子よく仕草を交えて、餅をポンポンと腹に放り込んでいきます。

「そば清」の古いやり方

明治期には三遊亭円朝も演じました。

その型を忠実に踏襲した四代目円生の速記では、清兵衛がなめるとき、「だんだん腹がすいてきたようだ」とつぶやきます。

内臓が溶けつつあるのを、腹の中のそばが溶けたと勘違いしているわけで、笑いの中にも悲劇を予感させる一言ですが、今はこれを入れる人はいないようです。

そばを溶かす草の話

根岸鎮衛の『耳嚢』巻二に「蕎麦を解す奇法の事」と題し、荒布(あらめ=海藻の一種で食用)が、そばを溶かす妙薬であるとの記述があります。

ただし、真実かどうかはわかりません。

【そば清 古今亭志ん朝】