おびきゅう【帯久】演目

日本橋の商人、和泉屋与兵衛と帯屋久七との金にからむ大岡政談の一編です。

別題:和泉屋与兵衛(上方) 名奉行(上方) 指政談(上方)

あらすじ

享保5年、春のこと。

日本橋本町四丁目に和泉屋与兵衛という呉服店があった。

主人は温厚な人柄で、町内の評判もよく、店はたいそうな繁盛ぶり。

本町二丁目にも帯屋という、これも呉服屋があるが、対照的にこちらは、主人久七の性格が一癖あるのに加え、店も陰気な雰囲気で、「売れず屋」という異名がついてしまうぐらい、さっぱりはやらない。

とうとう三月の晦日の決済もできず、久七が和泉屋に二十両の金を借りにきた。

人のいい与兵衛は、「商人は相身互い」と、証文、利息もなしで快く用立てた上、ごちそうまでして帰す。

二十日ほどして返しにきたが、これに味をしめたか、たて続けにだんだん高額の金を無心しにくるようになった。

その都度、二十日ほどできちんと返済に来たので、十一月に百両という大金を借りに来た時も、与兵衛はあっさりと貸してしまう。

今度は、一月たっても梨のつぶて。

さすがに気になりだしたころ、大晦日になって、やっと返しに来た。

ところが、座敷に通して久七が金を出し、入帳したところで、番町の旗本から与兵衛に緊急の呼び出し。

大晦日でてんてこ舞いの折から、与兵衛があわただしく出かけると、不用意にも金はそのまま、久七一人座敷に残された。

久七、悪心が兆し、これ幸いと金を懐に入れ、なに食わぬ顔でさようなら。

帰宅した与兵衛は金がないのに気づき、さてはと思い至ったが、確かな証拠もないので、自分の不注意なのだとあきらめてしまう。

帯屋の方では、百両浮いたのが運のつき始め。

新年早々、景品をつけて大奉仕したので、たちまち大繁盛。

一方、和泉屋はこれがケチのつき始めで、三月に一人娘が、次いで五月にはおかみさんがぽっくりみまかった。

追い打ちをかけるようにその年の暮れ、享保六年十二月十日の神田三河町の大火で、蔵に戸前もろとも店は全焼。

あえなく倒産した。

与兵衛は、以前に分家してあった武兵衛という忠義な番頭に引き取られるが、どっと病の床につく。

武兵衛もまた、他人の請け判をしたことから店をつぶし、今はうらぶれて、下谷長者町に裏長屋住まいの身だが、懸命に旧主の介抱をするうち、十年の歳月が流れた。

ようやく全快した与兵衛、自分はもうなんの望みもないが、長年貧しい中、自分を養ってくれた武兵衛に、もう一度店を再興させてやりたいと、武兵衛が止めるのも聞かず、帯屋に金を借りにいく。

相手も昔の義理に感じて善意で報いてくれるだろう、という期待だが、当の帯屋は冷酷無残でけんもほろろ。

「銭もらい」
とののしり、
「びた一文も貸す金はない」
と言い放つ。

思わず、かっとして百両の件を持ちだし、
「人間ではない」
とののしると、
「因縁をつけるのか」
と、久七は煙管で与兵衛の額を打ち、表にたたき出す。

与兵衛は悔しさのあまり、帯屋の裏庭の松の木で首をくくってやろうとふと見ると、不用心にもかんなくずが散らばっているので、いっそ放火して思いを晴らそうと火をつけたが、未遂のうちに取り押さえられる。

事情を聞いた町役人は同情し、もみ消してくれるが、久七は近所の噂から、百両の一件が暴かれるのを恐れ、先手を打って奉行所に訴え出る。

これで与兵衛は火つけの大罪でお召し捕り。

名奉行、大岡越前守さまのお裁きとなる。下調べの結果、帯屋の業悪ぶりがわかり、百両も久七が懐に入れたと目星をつけた。

越前守はお白州で、
「その方、大晦日で間違いが起こらぬものでもないと、親切づくで春ながにでも改めて持参いたそうと持ち帰ったのを忘れておったのではないか」
とカマをかけるが、久七は
「絶対に返しました」
とシラを切る。

そこで、久七に右手を出させ、人指し指と中指を紙で巻いて張り付け、判を押す。

「これはものを思い出す呪いである。破却する時はその方は死罪、家は闕所、そのむね心得よ」

久七は、紙が破れれば首が飛ぶというので、飯も食えない。

三日もすると音を上げて青ざめ、出頭して、まだ返していないと白状する。

奉行はその場で元金百両出させた上、十年分の利息百五十両を払うように久七に命じた。

持ち合わせがないとべそをかくと、百両を奉行所で立て替えた上、残金五十両を年賦一両ずつ払うよう、申し渡す。

「……さて、和泉屋与兵衛。火付けの罪は逃れられぬ。火あぶりに行うによって、さよう心得よ」

これを聞いて、久七が喜んだのなんの。

「さすがは名奉行の大岡さま。どうかこんがりと焼いていただきましょう」
「なれど、五十両の年賦金、受け取りし後に刑を行う」

これだと、和泉屋がフライになるまで五十年も待たねばならない。あわてたのは久七。

「恐れながら申し上げます。ただちに五十両払いますので、どうかすぐに和泉屋をお仕置きに」
「だまれッ。かく証文をしたためたるのち、天下の裁判に再審を願うとは不届き千万。その罪軽からず」
「うへえッ、恐れいりました」

奉行、与兵衛に
「その方、まことに不憫なやつ。何歳にあいなる」
「六十一でございます」
「還暦か。いやさ、本卦(=本家)じゃのう」
「今は分家の居候でございます」

底本:六代目三遊亭円生

【RIZAP COOK】

しりたい

大岡政談がネタ本  【RIZAP COOK】

講談の大岡政談ものと、『明和雑記』中の名奉行、曲淵甲斐守(曲淵景漸)の逸話をもとに、上方で落語化されたものです。

曲淵景漸は、隠居年齢ともいえる41歳で大坂西町奉行に就任して甲斐守の受領名を拝名しました。明和6年(1769)には江戸北町奉行に出世して、約18年間その職を務め、江戸の治安統治に尽力しました。その間、田沼意知刃傷事件を裁定し、犯人である佐野政言を取り押さえなかった若年寄や目付などに出仕停止などの処分を下したという人です。

『明和雑記』は和歌や俳諧について見聞したことを記した雑記随筆。作者は尾張藩士で俳人の東条有儘です。大坂の風聞雑記が中心です。明和元年(1764)、朝鮮通信使が大坂に立ち寄ったところから書き起こされています。

「名奉行」と題して、明治末に『文藝倶楽部』に載った大阪の二代目桂文枝(のち文左衛門)の速記をもとに、六代目三遊亭円生が東京風に改作し、昭和32年(1957)10月、上野・本牧亭での独演会で初演しました。円生没後は三遊亭円窓が復活させて演じています。立川志の輔もまた。

円生は『三遊亭円生全集』(青蛙房)中で、大岡政談では加賀屋四郎右衛門と駿河屋三郎兵衛の対決として、ほとんど同類のネタがあることを紹介しています。

米朝の十八番  【RIZAP COOK】

大阪では古くから演じられ、桂米朝が得意にしていました。大阪のやり方は円生のものとほとんど変わりませんが、和泉屋の所在地が東横堀三丁目、帯屋が同二丁目で、奉行は松平大隅守となっています。

米朝は発端の火事を、宝暦6年(1756)夏の大坂・瓦町の大火(銭亀の火事)としています。

火あぶり  【RIZAP COOK】

江戸中期からは放火のみに科されました。千住小塚原または鈴ヶ森で執行され、財産は没収(闕所)、引回しが付加され、文字通り「こんがり」焼かれた上、男は止め焚(罪人が焼死後再び火をつけ、鼻と陰嚢を焼く)までされました。

焼死体は三日二夜さらされました。火付けの罪科がここまで過酷なのも、いかに幕府が、一夜で江戸の町が灰になってしまう大火を恐れたかのあらわれでしょう。その流れは脈々と生きていて、放火の罪が重いのは現行法でも変わりません。

町火消

本卦  【RIZAP COOK】

本卦返りで、満60歳(数え61)で、生まれたときの干支に返ること。還暦のことです。

陰陽道で十干(甲乙丙丁戊己庚辛壬癸)と十二支(子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥)を組み合わせ、その(10と12)最小公倍数で60年ごとに干支が一回りするため、誕生時と同じ干支が回ってくる、数え61歳を本卦返りとし、赤い着物を贈って祝う風習は今でもありますね。子供に返るという意味で赤い着物なのだそうです。

分家  【RIZAP COOK】

分家は本来は親戚筋の店で、奉公人ののれん分けは「別家」と呼んで区別しますが、この噺の武兵衛のように、忠節で店への功労があった大番頭を、特別に親類扱いで同店名を許し、「分家」と認めることがありました。

つっこみ  【RIZAP COOK】

あらすじでは略しましたが、お白洲で、奉行が最初、利息の返済を「月賦にするか」と久七にただし、年賦がいいというので、「それでは年十両か」「もう少しご猶予を」「では五両か」「もう少しご勘弁を」と値切り、年一両に落ち着くというやり取りがあります。

しかし、これでは、奉行の腹をもし久七が察知して、最初の条件で承諾すれば、数年で与兵衛はフライですから、危ない橋で、噺の盲点といえます。奉行の智略、貫禄で押し切らないと、名裁判にも難癖がつきかねません。

【語の読みと注】
享保5年 きょうほうごねん:1720年
請け判 うけはん:連帯保証人
闕所 けっしょ:お取りつぶし
曲淵景漸 まがりぶちかげつぐ
田沼意知 たぬまおきとも
佐野政言 さのまさこと
東条有儘 とうじょうゆうじん
本卦 ほんけ
本卦返り ほんけがえり:還暦
十干 じっかん
十二支 じゅうにし
陰陽道 おんみょうどう

【RIZAP COOK】

落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

ほりのうち【堀の内】演目

粗忽噺。法華宗(つまり日蓮教団)がらみの。ここまで粗忽だと物事がいっこうに進みません。

あらすじ

粗忽者の亭主。

片方草履で、片方駒げたを履いておいて「足が片っぽ短くなっちまった。薬を呼べ。医者をのむ」と騒いだ挙げ句に、「片方脱げばいい」と教えられ、草履の方を脱ぐ始末。

なんとか粗忽を治したいと女房に相談すると、信心している堀の内のお祖師さまに願掛けをすればよいと勧められる。

出掛けに子供の着物を着ようとしたり、おひつの蓋で顔を洗ったり、手拭いと間違えて猫で顔を拭き、ひっかかれたりの大騒ぎの末、ようやく家を出る。

途中で行き先を忘れ、通りがかりの人にいきなり
「あたしは、どこへ行くんで?」

なんとかたどり着いたはいいが、賽銭をあげるとき、財布ごと投げ込んでしまった。

「泥棒ッ」
と叫んでも、もう遅い。

しかたなく弁当をつかおうと背負った包みを開けると、風呂敷だと思ったのがかみさんの腰巻き、弁当のつもりが枕。

帰って戸を開けるなり
「てめえの方がよっぽどそそっかしいんだ。枕を背負わせやがって。なにを笑ってやんでえ」
とどなると
「おまえさんの家は隣だよ」

「こりゃいけねえ」
と家に戻って
「どうも相すみません」

かみさん、あきれて
「お弁当はこっちにあるって言ったのに、おまえさんが間違えたんじゃないか。腰巻きと枕は?」
「あ、忘れてきた」

かみさんに頼まれ、湯に子供を連れて行こうとすると
「いやだい、おとっつぁんと行くと逆さに入れるから」
「今日は真っ直ぐに入れてやる。おとっつぁんがおぶってやるから。おや、大きな尻だ」
「そりゃ、あたしだよ」

湯屋に着くと、番台に下駄を上げようとしたり、もう上がっているよその子をまた裸にしようとして怒られたり、ここでも本領発揮。

平謝りして子供を見つけ、
「なんだ、こんちくしょうめ。ほら、裸になれ」
「もうなってるよ」
「なったらへえるんだ」
「おとっつぁんがまだ脱いでない」

子供を洗ってやろうと背中に回ると
「あれ、いつの間にこんな彫り物なんぞしやがった。おっそろしく大きなケツだね。子供の癖にこんなに毛が生えて」
と尻の毛を抜くと
「痛え、何しやがるんだ」

鳶頭と子供を間違えていた。

「冗談じゃねえやな。おまえの子供は向こうにいらあ」
「こりゃ、どうもすみませんで……おい、だめだよ。おめえがこっちィ来ねえから。……ほら見ねえ。こんなに垢が出らあ。おやおや、ずいぶん肩幅が広くなったな」
「おとっつぁん、羽目板洗ってらあ」

しりたい

小ばなしの寄せ集め  【RIZAP COOK】

粗忽(あわて者)の小ばなしをいくつかつなげて一席噺にしたものです。

隣家に飛び込むくだりは、宝暦2年(1752)刊の笑話本『軽口福徳利』中の「粗忽な年礼」、湯屋の部分は寛政10年(1798)刊『無事志有意』中の「そゝか」がそれぞれ原話です。

くすぐりを変えて、古くから多くの演者によって高座にかけられてきました。

たとえば、湯に行く途中に間違えて八百屋に入り、着物を脱いでしまうギャグを入れることも。

伸縮自在なので、時間がないときにはサゲまでいかず、途中で切ることもよくあります。

上方版「いらちの愛宕詣り」  【RIZAP COOK】

落語としては上方ダネです。「いらち」とは、大阪であわて者のこと。

前半は東京と少し違っていて、いらちの喜六が京の愛宕山へ参詣に行くのに、正反対の北野天満宮に着いてしまったりのドタバタの後、賽銭は三文だけあげるようにと女房に言い含められたのに、間違えて三文残してあと全部やってしまう、というように細かくなっています。

最後は女房に「不調法いたしました」と謝るところで終わらせます。

堀の内のお祖師さま  【RIZAP COOK】

東京都杉並区堀の内3丁目の日円山妙法寺。日蓮宗(江戸時代は法華宗と呼んでいました)の名刹です。「お祖師さま」とは日蓮をさします。江戸ことばで「おそっさま」と読みます。

もとは真言宗の尼寺で、目黒・円融寺の末寺でしたが、元和年間(1615-24)に日円上人が開基して法華宗(日蓮教団)に改宗。明和年間(1764-72)に中野の桃園が行楽地として開かれて以来、厄除けの祖師まいりとして繁盛しました。こちらの「お祖師さま」は日蓮上人42歳の木像、通称「厄除け大師」にちなみます。

法華宗の本気度  【RIZAP COOK】

「開帳」とは、厨子(仏像を安置するケース)のとばりを開いて、中に納められた本尊の秘仏を拝ませることです。地方の由緒ある寺院が江戸に出向いて開帳するようなことを「出開帳」と呼びました。今の美術館などでの展覧会のような催しです。もちろん、「開帳」の第二義は、「女性の腰巻があらわになること」ですが、これはまた別の機会に。

法華宗(日蓮教団)の出開帳は、宝永2年(1705)の京都・本圀寺の江戸出開帳が最初だそうです。『武江年表』などで見ると、この年から明治6年(1873)までに行われた出開帳は131件だったそうです。これは、出開帳全体の約半分だったとか。開帳の中身の約6割は、日蓮の肖像、つまり祖師像だったといいます。

これで法華宗の諸寺は何を示すかといえば、厄除け祖師といったように、厄除け、開運、火除け、延命、子安、日切り願満などを掲げました。法華宗は他宗派と違って、期限の通例60日を延長するすることも、人寄せのため境内に見世物小屋などを設けることもせず、それでも参詣者は集うたといわれます。法華宗(日蓮教団)を無視して江戸の町は語れません。

参考文献:日本思想大系34『近世仏教の思想』月報所収「近世日蓮教団の祖師信仰」(高木豊)

落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

りんきのひのたま【悋気の火の玉】演目

「悋気」は「ねたみ」。「吝嗇」は「けち」。この噺はねたみがテーマなんですね。

【あらすじ】

浅草は花川戸の、鼻緒問屋の主人。

堅物を画に描いたような人間で、女房のほかは一人として女を知らなかった。

ある時、つきあいで強引に吉原へ誘われ、一度遊んでみると、遊びを知らない者の常ですっかりのめり込んでしまった。

とどのつまりは、いい仲になった花魁を身請けして妾宅に囲うことになる。

本妻の方は、このごろ旦那がひんぱんに外泊するからどうもあやしいと気づいて調べてみると、やっぱり根岸の方にオンナがいることがわかったから、さあ頭に血がのぼる。

本妻はちくりちくりといやみを言い、旦那が飯を食いたいといっても
「あたしのお給仕なんかじゃおいしくございますまい、ふん」
という調子でふてくされるので、亭主の方も自分に責任があることはわかっていても、おもしろくない。

次第に本宅から足が遠のき、月の大半は根岸泊まりとなる。

そうなると、ますます収まらない本妻。

あの女さえ亡き者にしてしまえば、と物騒にも、愛人を祈り殺すために「丑の時参り」を始めた。

藁人形に五寸釘、恨みを込めて打ちつける。

その噂が根岸にも聞こえ、今度は花魁だった愛人の方が頭にくる。

「よーし、それなら見といで」
とばかり、こちらは六寸釘でカチーン。

それがまた知れると、本妻が負けじと七寸釘。

八寸、九寸と、エスカレートするうち、呪いが相殺して、二人とも同日同時刻にぽっくり死んでしまった。

自業自得とはいえ、ばかを見たのは旦那で、葬式をいっぺんに二つ出す羽目になり、泣くに泣けない。

それからまもなく、また怪奇な噂が近所で立った。

鼻緒屋の本宅から恐ろしく大きな火の玉が上がって、根岸の方角に猛スピードですっ飛んで行き、根岸の方からも同じような火の玉が花川戸へまっしぐら。

ちょうど、中間の大音寺門前でこの二つがぶつかり、火花を散らして死闘を演じる、というのだ。

これを聞くと旦那、このままでは店の信用にかかわると、番頭を連れて大音寺前まで出かけていく。

ちょうど時刻は丑三ツ時。

番頭と話しているうちに根岸の方角から突然火の玉が上がったと思うと、フンワリフンワリこちらへ飛んできて、三べん回ると、ピタリと着地。

「いや、よく来てくれた。いやね、おまえの気持ちもわかるが、そこは、おまえは苦労人なんだから、なんとかうまく下手に出て……時に、ちょっと煙草の火をつけさしとくれ」
と、火の玉の火を借りて、スパスパ。

まもなく、今度は花川戸の方から本妻の火の玉が、ロケット弾のような猛スピードで飛んでくる。

「いや、待ってました。いやね、こいつもわびているんで、おまえもなんとか穏便に……時に、ちょいと煙草の火……」
「あたしの火じゃ、おいしくございますまい、ふん」

【しりたい】

これも文楽十八番  【RIZAP COOK】

安永年間(1772-81)に、吉原の大見世の主人の身に起きた実話をもとにしていると言われます。原話は笑話本『延命養談数』中の「火の玉」です。これは天保4年(1833)刊、桜川慈悲成(さくらがわ・じひなり、1762-1833)作によるもの。

現行は、この小咄のほとんどそのままの踏襲で、オチも同じ。わずかに異なるのが、落語では、オチの伏線になる本妻の、「あたしのお給仕なんかじゃ…」というセリフを加えるなど、前半のの筋に肉付けしてあるのと、原話では、幽霊鎮めに最初、道心坊(乞食坊主)を頼んで効果がなく、その坊さんの忠告でしぶしぶ旦那一人で出かけることくらいです。

この噺を十八番の一つとした八代目桂文楽は、仲介者を麻布絶口木蓮寺の和尚にして復活させていました。文楽は、旦那が妾と本妻にそれぞれ白髪と黒髪を一本ずつ抜かれ、往復するうちに丸坊主、というマクラを振っていました。

その没後は三遊亭円楽がよく演じ、現在でも高座に掛けましたが、音源は文楽のみです。

ケチと悋気はご親類?  【RIZAP COOK】

悋と吝は同訓で、悋には吝嗇つまりケチと嫉妬(悋気)の二重の意味があります。一つの漢語でこの二つを同時に表す「吝嫉」という言葉もあるため、ケチとヤキモチは裏腹の関係、ご親類という解釈だったのでしょう。

こじつけめきますが、よく考えれば原点はどちらも独占欲で、他人が得ていて自分にない(または足りない)ものへの執着。それが物質面にのみ集中し、内向すればケチに、広く他人の金、愛情、地位などに向かえば嫉妬。悋気は嫉妬の中で、当事者が女、対象が性欲と、限定された現れなのでしょう。

焼き餅は遠火で焼け  【RIZAP COOK】

「ヤキモチは 遠火で焼けよ 焼く人の 胸も焦がさず 味わいもよし、なんてえことを申します」
「疝気は男の苦しむところ、悋気は女の慎むところ」
というのは、落語の悋気噺のマクラの紋切り型です。別に、「チンチン」「岡チン」「岡焼き」などともいいます。「チンチン」の段階では、まだこんろの火が少し熾きかけた程度ですが、焼き網が焦げ出すと要注意、という、なかなか味わい深いたとえです。

花川戸  【RIZAP COOK】

花川戸は、現在の台東区花川戸一、二丁目。西は浅草、東は大川(隅田川)、北は山の宿で、奥州街道が町を貫き、繁華街・浅草と接している場所柄、古くから開けた土地でした。芝居では、なんと言っても花川戸助六と幡随院長兵衛の二大侠客の地元で名高いところです。

花川戸から北の山の宿(現在は台東区花川戸に統合)にかけて、戦前まではこの噺の通り、下駄や雪駄の鼻緒問屋が軒を並べていました。今は靴などの製造卸業が多く並びます。

そういえば、舞台で助六が髭の意休の頭に下駄を乗せますが、まさか、スポンサーの要請では……。

大音寺  【RIZAP COOK】

台東区竜泉一丁目で、浄土宗の正覚山大音寺をさします。向かいは、樋口一葉ゆかりの旧下谷竜泉寺町です。箕輪の浄閑寺、新鳥越橋詰の西方寺とともに、吉原の女郎の投げ込み寺でもありました。

「蔵前駕籠」にも登場しますが、大音寺門前は夜は人通りが少なく、物取り強盗や辻斬りが出没した物騒なところで、幽霊など、まだかわいい方です。

【語の読みと注】
悋気 りんき
吝嗇 りんしょく
悋嫉 りんしつ

落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

さんげんながや【三軒長屋】演目

 

両脇が鳶頭に剣術先生、真ん中が妾宅はうるさくて鬱々と。だんなが企んで。

あらすじ

三軒続きの長屋があって、一番端が鳶頭(とびがしら)政五郎の家、奥が剣術の先生で「一刀流指南」の看板を出す楠運平橘正国という、いかめしく間抜けな名の侍の道場兼住居。

その二軒にはさまれて、金貸しの伊勢屋勘右衛門、通称ヤカン頭のイセカンのお妾が、女中とチン一匹と一緒に住んでいる。このお妾、ここのところノイローゼ気味。

というのも、右隣の鳶頭の家には気の荒い若い者が四六時中出入りする上、年がら年中酒をのんでは「さあ殺せ」「殺さねえでどうする」と物騒な喧嘩騒ぎ。

おまけに木遣りの稽古でエンヤラヤと野蛮な声を張り上げられては生きた心地もしない。

左隣の道場はといえば、このごろは夜稽古まで始め、夜中まで「お面、小手」とやられて眠れない。

たまりかねてだんなのイセカンに、引っ越させてくれと要求する。

だんなも鳶頭の家の前を通る度に二階から、ヤカンヤカンとはやされるので腹が立っているが、このお妾、わがままで今まで何度も転居させられたので、費用も馬鹿にならない。

この長屋は家質に取ってあってもうすぐ流れるから、その時きっと追い出してやると慰めたのを、井戸端で女中がしゃべったから、鳶頭のかみさん、さあ怒った。

家主ならともかく、イセカンのお妾風情に店立てを食ってたまるかと、亭主をたきつける。

鳶頭、思案の末、運平先生にこれこれと相談した。

おのれ勘右衛門、武士を侮る憎い奴、隣に踏んごみ素っ首を……と憤るのをなだめ、あっしに策がありますと一計を授けて、何やら打ち合わせ。

翌日、運平先生がまずイセカンを訪れ、「この度道場が手狭になったので、転居することになったが、転居費用の捻出のため千本試合を催すことになった、真剣勝負もござるゆえ、首の二つや三つはお宅に転げ込むかと存ずるが、ご了承願いたい」と脅すと、ヤカン頭はたまげて、五十両出すからどうか試合は中止してほしいと平身低頭。

次は鳶頭。

こちらも、「転宅するが、やはり費用が馬鹿にならないので賭場を開く、座敷の真ん中にこもっかぶりの酒を置き、刺身は出刃を転がしておいて勝手に作ってもらうので、気の荒い鳶連中のこと、斬り合いになって首の二十や三十……」と言いだしたから、イセカン、うんざりしてまた五十両。

それにしても、隣の先生も同じようなことを、と気になって、「おまえさん。どこへ越すんだい」「へえ、あっしが先生のところに、先生があっしのところへ」

底本:五代目柳家小さん

しりたい

長い噺  【RIZAP COOK】

長いはなしなので、伊勢勘のお妾がだんなに苦情を言った後、場面変わって、鳶の若い者が喧嘩を始めるあたりで切って上・下に分け、リレー落語として演じられることもあります。

三軒長屋というのは、落語によく登場する貧乏な裏長屋と異なり、表通りに面していて、二階建てです。鳶頭や大工の棟梁など、社会的信用があり、人の出入りが多い稼業の人間が借りたものでした。

棟続きでも実際は一戸建ての借家に近く、それだけ家賃も高かったのです。

人物の移動が頻繁で、登場人物も多いので、よほどの力量のある大真打でないとこなせません。この噺を得意とした五代目古今亭志ん生は、自伝「びんぼう自慢」で、明治の名人・四代目橘家円喬は、鳶の者三十人ばかりが、「まるでそこいらにモソモソしているのが目に見えるようでありました」と回想しています。

艶笑版「三軒長屋」  【RIZAP COOK】

同じ題名でも、こちらはポルノ版です。

三軒続きでの長屋で、左側に独り者、真ん中に夫婦者、右側に夫婦と赤ん坊。

真ん中の夫婦は、所帯を持ってもう七、八年になるのに、まだ子供ができない。

「てめえの畑が悪い」「いや、おまえさんのタネが悪い」と、けんかの末、隣の夫婦は新婚で、半年たたないうちに子供をこさえたのは、何か製造法に秘密があるのだろうと夜、こっそり秘儀を見学。

見ていると、亭主が後ろから……で、かみさんは、起きて泣き出した赤ん坊に乳をふくませ、

「ほら、オッパイないない」とあやしながらの大奮闘。これを見ていた隣の夫婦も早速まねして始め、亭主が突然抜いて、「ほら、オチンチンないない」。

これをのぞいていた独り者が、「ほら、お手手ないない」。

鳶頭の女房  【RIZAP COOK】

ここに登場する鳶頭の女房は、自分を「おれ」と呼ぶなど、男言葉を使い、乱暴な物言いをします。

歌舞伎『め組の喧嘩』のめ組の辰五郎女房・お仲も同じです。

乱暴者ぞろいの鳶の若い者をなめられず押さえていくためにはそうしなければならなかったのです。

五代目志ん生も、声は女で口調は男、それでいて年増女の色気が出なければいけないので、難しいと語り残しています。

囲われ  【RIZAP COOK】

「囲われ」「囲い」「囲い者」はお妾さんやお妾さんの住む場所(妾宅)をさします。富裕な町人のお妾さんを詠んだ川柳は数多くあります。経済力がなければ囲えないところから、やっかみ半分でさまざまに詠まれるのです。

囲われは 店賃でもの 見世をはり   十三2

お妾さんが店を出したようすです。裏長屋の土地持ちが旦那なのでしょう。店賃のもうけで店を出させてもらった、というかんじです。

囲われは 言ひ訳ほどの 見世を出し   四6

世間からなにか言われないように、世間の批判をかわすように、どうでもいいような店を出させてもらって、それでひっそりと生活しているように見せかけているようすです。

酢天蓋 などこしらへて 囲いまち   二十19

「天蓋」は、もとは虚無僧のかぶる編み笠のことですが、形が似ているため、お坊さん業界の隠語で「蛸」をも意味します。「天蓋屋」は輿屋(葬儀屋)。「酢天蓋」は「酢蛸」の意味です。お坊さんがお妾さんを持ったようすですが、「蛸」そのものが僧侶を意味しています。つるつる頭のかげんが似ているからでしょう。身分が保証されている僧侶。彼らが意外にお妾さんを持つことが多く、町民はやっかみ半分で蛸と呼んだわけです。蛸にはもう一つの意味として、蛸の吸盤のようにひきつける女性器をさしますから、どこか淫靡な深読みができそうです。

昭和初期の「寓」  【RIZAP COOK】

以下は、「お妾横丁」と題した、昭和4年(1929)頃の東京の「寓」をつづった一文です。筆者は今和次郎。考現学の泰斗です。江戸の風景がぼんやり覗けます。

「何々寓」と苗字ばかりを書いた住宅は、近年殆ど見られなくなった。その所謂「何々寓」は多く妾宅だつたことも事實である。ところが昭和の今日、その筋の干渉は「寓」なぞといふ曖昧模糊たる名札を許さなくなつた。それといふのも、大正七年の國勢調査の時、「職業」と書いて「妾」は果して正業なりや否やが問題になり、延いては「寓」なる名札までが論議せられた結果舟板塀に見越の松と洒落れた粋造りの門口に「××うめ」とか、「△△トラ子」とか云ふ様な本名札を見るやうになつた。だから今日では、お妾町として有名な日暮里渡邊町、上野櫻木町、蒲田などの町々を歩るいても、どこが妾宅なのか、ついウツカリ見過してしまふ。それ程お妾稼業も近代性を帯び一般社會性の中に溶解して來たことがわかる。神田町線道灌山下で電車を捨てて日暮里へ抜ける大通りを一直線、あかぢ橋を超えてだらだら坂を上ると、やがて左りへ拓けた横丁がある。丁度渡邊町富士見臺の足の下邊りから右に左りに切れ込んだ露地、昔は一ケ所に集合してゐたものだが、近頃では大凡そ三筋の川の字型に流れてゐる。表に女名前の表札をかけたのは大抵それだと云ふ噂。一體ここのお妾さんの素性は玄人上りが大半で、仲居、藝妓、遊藝師匠などが過半數だと云ふことである。旦那筋には傳統的に日本橋堀留邊りの大木綿問屋の隱居といつたところが、寮式に隱居所兼妾宅と乙に構えてゐるさうだ。その外谷中の延命院日當式の亜流も案外サバサバと五分刈り頭を夜更けてこの通りに現はすと云ふ。上野櫻木町では美術學校裏から濱田病院神易家の上山五黄本宅へかけての一帶、吉原「角海老」や「大文字」の別宅からそれに連なる裏手の小ジンマリした小宅はおほかたそれである、ここは震災でも別段の被害を見なかった故、外觀では最もお妾横丁の名に適しいかも知れない。靜かな通りに晝間でも粹な三味線の爪弾が漏れ聞こえる。坂下町にもお妾町があつたが今日では少ないらしい。四谷坂町っもこの方面で人に知られてゐる。映畫女優の徘徊する蒲田も或る通り、西郊高圓寺のそこここにも、噂には上つてゐる。しかし高圓寺は、新宿のカフエの女給などが、多く住んでゐることは事實だ。

今和次郎編『新版大東京案内』(中央公論社、1929年)より

落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

【三軒長屋 五代目柳家小さん】

めかうま【妾馬】演目

殿さまにみそめられた妹の住むお屋敷に兄が招かれ、とんちんかんなやり取り。

別題:八五郎出世 てかけ馬(上方)

あらすじ

丸の内に上屋敷を持つ大名赤井御門守(あかいごもんのかみ)。

正室にも側室にも子供が生まれず、このままでは家が絶えるというので、この際身分は問わず、よさそうな女を見つけて妾にしようと、町屋まで物色している。

たまたま、好みの町娘が味噌漉を下げて、路地裏に入っていくのを駕籠の中から認め、早速家来をやって、大家に話させる。

すぐに、娘はその裏長屋住まいで名はお鶴、今年十七で、母親と兄の職人・八五郎の三人暮らしと知れた。

大家は名誉なことだと喜び、お鶴は美人の上利口者だから、何とか話をまとめて出世させてやろうと、すぐに八五郎の長屋へ。

出てきた母親にお鶴の一件を話して聞かせると大喜び。

兄貴の八五郎には、大家が直接話をする。

その八五郎、大家に、お屋敷奉公が決まれば、百両は支度金が頂けると聞き、びっくり仰天。

こうなると欲の皮を突っぱらかして二百両にしてもらい、めでたくお鶴はお屋敷へ。

兄貴の方は、持ちつけない大金を持ったので、あちこちで遊び散らし、結局スッカラカン。面目ないと長屋にも帰れない。

一方、お鶴、殿さまのお手がついて間もなく懐妊し、月満ちてお世継ぎを出産。

にわかに「お鶴の方さま」「お部屋さま」と大出世。

兄思いで利口者だから、殿さまに甘えて、一度兄にお目見えをと、ねだる。

お許しが出て、早速長屋に使いがきたが、肝心の八五郎は行方知れず。

やっと見つけ出し、一文なしなので着物も全部大家が貸し与え、御前へ出たら言葉をていねいにしろ。

何でも頭へ「お」、尻に「たてまつる」をつければそれらしくなると教えて送りだす。

さて、いよいよご対面。

側用人の三太夫が、どたまを下げいのしっしっだのと、うるさいこと。

殿さまがお鶴を伴って現れ、「鶴の兄八五郎とはその方か」と声をかけてもあがって声が出ない。

「これ、即答をぶて」と言うのを「そっぽをぶて」と聞き違え、いきなり三太夫のおつむをポカリ。

「えー、おわたくしはお八五郎さまで、このたびはお妹のアマっちょが餓鬼をひりだしたてまつりまして」と始めた。

殿さまは面白がり「今日は無礼講であるから、朋友に申すごとく遠慮のう申せ」

ざっくばらんにやっていいと聞いて、「しめこのうさぎよッ」と安心した八五郎、今度は調子に乗って言いたい放題。

まっぴらごめんねえとあぐらをかき「なあ、三ちゃん」

はてはお女中を「婆さん」などと始めたから、三太夫カリカリ。

殿さまは一向気に掛けず、酒を勧める。

八、酔っぱらうとお鶴を見つけ、感極まって「おめえがそう立派になってくれたって聞けば、婆さん、喜んで泣きゃあがるだろう。おい、殿さましくじんなよ。……すいませんね。こいつは気立てがやさしいいい女です。末永くかわいがってやっておくんなさい」と、しんみり。

最後に景気直しだと都々逸をうなる。

「この酒を止めちゃいやだよ酔わしておくれ、まさか素面じゃ言いにくい、なんてなぁどうでえ殿公」

「これっ、ひかえろ」「いや、面白いやつ。召し抱えてつかわせ」というわけでツルの一声、八五郎が侍に出世するという、おめでたい一席。

底本:五代目古今亭志ん生

【RIZAP COOK】

しりたい

演題 【RIZAP COOK】

「めかう(ん)ま」と読みます。本来は「下」もあって、侍に取り立てられた八五郎が、殿様に使者を申しつかり、乗り慣れぬ馬に乗って暴走。

必死にしがみついているところで、「そのように急いでいずれへおいでなさる?」「行く先は、馬に聞いてくれ」とサゲます。

緻密に演じると、一時間近くはかかろうという大ネタで、明治大正の名人・四代目円蔵なども屋敷の表門で八が門番と珍問答するあたりで切っていました。

もちろん眼目は大詰めで、べろべろになった八だけの一人芝居のような長台詞のうちにその場の光景、その場にいない母親の姿などをありあり浮かび上がらせる大真打の腕の見せ場です。

五代目志ん生は全体にごくあっさり演じていましたが、六代目円生は胃にもたれるほどすべての場面をたっぷりと、そして志ん朝は、前半を思い切ってカットし、最後の酔態で悲痛なほど、肉親の情愛と絆を浮き彫りにする演出でした。

魚屋宗五郎  【RIZAP COOK】

「妾馬」で思い出すのが歌舞伎の「魚屋宗五郎」。河竹黙阿弥の傑作です。

酒に酔って殿様の面前で言いたい放題くだをまくのは共通していますが、こちらは悲劇で、旗本の屋敷奉公にあがった妹がこともあろうに無実の罪でお手討ちになったくやしさに、一本気な宗五郎が、やけ酒の勢いで屋敷に暴れ込み、斬られるのを覚悟で洗いざらい恨み言をぶちまけます。

おめでたい「妾馬」とは違って、弱者の精一杯の抵抗と抗議が観客の胸を打ちますが、殿様の「ゆるせ」のたった一言でへなへなになってしまいます。

悲劇と喜劇の違いこそあれ、権力者に頭をなでられれば、すぐ猫のように大人しくなる下層民のメンタリティは八五郎にも共通しているのでしょう。

松竹映画『運がよけりゃ』(1966)で賠償千恵子扮するおつるは、恋仲の若者への思いを貫くため、敢然と殿さまのお召しをはねつけ、長屋一同もそれを応援しますが、少なくとも江戸時代には、そのようなことは、天地がひっくりかえってもありえなかったでしょう。

御座り奉る  【RIZAP COOK】

四代目小さんの聞き書きによると、「妾馬」は昔、「御座り奉る」という名題で、歌舞伎で上演されたことがあるそうです。

そのほか、劇化された落語に、「大山まいり」「祇園会」「三軒長屋」「締め込み」「粗忽の使者」「らくだ」「ちきり伊勢屋」とあり、現在も上演されるものに「芝浜」「文七元結」があります。むろん、円朝の怪談ものなどは別です。

「大山まいり」「らくだ」はともに岡鬼太郎脚本で、それぞれ「坊主烏賊」「眠駱駝物語」の名題。

「大山まいり」(「坊主烏賊」)は初代中村吉右衛門、「祇園会」「芝浜」「文七元結」は六代目尾上菊五郎、「三軒長屋」は七代目松本幸四郎・十五代目市村羽左衛門、といずれも名優が主演しています。ただし、「どうも道具立てがどっさりで、落語から芝居にしたものは、妙にみんな面白くありませんな」。

(安藤鶴夫「四代目小さん・聞書」)

武士の側室  【RIZAP COOK】

この噺と同類の題材は川柳にも多く見られます。江戸の市中では時折あったことなのでしょう。手厚い人間関係。コネ丸出しの社会でした。

にわか武士 けだし妾の 兄にして   十六31

「けだし」は「思うに」くらいの意。まさに「妾馬」そのものですね。

能い妹 もつてちゃらくら 武士になり   二十一27

「ちゃらくら」は「でたらめ」。兄貴はちゃらくら野郎だったわけですね。

馬鹿なこと 妹が死んで 武士をやめ   二十一27

笑やるな 若殿様の 伯父御だよ   十二28

妹の おかげで馬に おぶつさり   三26

馬の行く 方へのってく にわか武士   十四11

御めかけの 母は大きな 願をかけ   四13

生まれた男の子が跡取りになってほしいと願をかける母親の心情でしょう。

かりものの 部へは入れど 手柄なり   四11

この「かりもの」は「借り腹」のこと。「かりものの部」とは「側室」を意味します。手柄は男児を産んだから。

【RIZAP COOK】

落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

【妾馬 古今亭志ん生】

おやこぢゃや【親子茶屋】演目

【RIZAP COOK】

親父も粋な男でした、という、鉢合わせの噺。

あらすじ

ちょうど、夜桜も見ごろの春のころ。

せがれが吉原に居つづけして、三日ぶりに堂々と帰ってきたので、親父 おやじ)はカンカン。

「花見に行っていた」
とごまかすので、
「どこに泊まりがけで花見をしてくる奴がある。去年おふくろが死んだのだから、その分親父に孝行して心配をかけないようにするのが本当だ」
と説教し、
「今夜は無尽で遅くなるから、しっかり留守番して、どこへも出かけちゃあならねえ」
と言い置いて、出かけていく。

無尽の後世話人連中と一杯やって、すっかりご機嫌になった親父、ほろ酔いかげんで山谷から馬道の土手にかかると、急に吉原の夜桜が見たくなる。

大門を入ると、例によって大変なにぎわい。

つい、遊び気分にひかされて茶屋に入り、結局、芸者、幇間を揚げて、年がいもなく、のめや歌えのドンチャン騒ぎ。

一方、おもしろくないのが家に「監禁」されたせがれ。

どうせまた今夜、花魁と約束がしてあるので、親父が帰らないうちに、顔だけでも見せてこようと、番頭をゴマかして家を飛び出し、宙を飛ぶように吉原のなじみの茶屋へ。

お内儀に
「いつもの連中を呼んでくれ」
と言うと、
「あいにく今夜は六十ぐらいのご隠居さんが貸し切りで、幇間も芸者もみんなそっちのお座敷にかかりっきりで」という。

「へえ、粋な爺さんもいるもんだ、家の親父に爪のアカでものましたい」
と感心して、
「どうだい、それならいっそ、その隠居といっしょに遊ぼうじゃないか」
「ようございます」
とお内儀が座敷に話を通すと、親父も乗り気。

幇間が趣向をこしられ、チャラチャラチャンとお陽気な歌でステテコ踊りから、サッと襖を開けると、目の前にせがれ。

「お父っつぁん」
「清次郎か。ウーム、これから、必ずバクチはならんぞ」

【RIZAP COOK】

【しりたい】

原型をそのまま伝承  【RIZAP COOK】

親子でヘベレケとなる「親子酒」とともに、小咄としてはもっとも古典的で、原型がほぼそっくり、現行の落語に伝わっている数少ない噺です。

原話は明和4年(1767)刊の笑話本『友達ばなし』中の「中の町」。落語としては上方種で、現在でも上方落語色が強く、四代目桂米団治を経て、高弟の桂米朝に伝わりました。大坂の舞台は島之内の遊廓で、鳴り物入り、より華やかではでな演出がとられています。

東京は文治が代々明治期では、六代目桂文治の速記が残るほか、八代目文治も演じましたが、東京では手がける演者は少なく、大阪のものばかりです。オチは「必ず飲み過ぎはならんぞ」とする場合もあります。

名物、吉原の夜桜  【RIZAP COOK】

仲の町の夜桜は、灯籠、吉原俄とともに吉原三大名物の一つでした。起源は寛延元年(1748)、石井守英という絵師が江の島弁財天のご神体修復を志した時、吉原の廓主連がその費用を請け負い、江の島の桜は古来からの名物なので、それに便乗して翌年3月、修復後初のご開帳を前に廓内にも花を植えることにしたことに遡ります。この植樹が宣伝を兼ねていたことは間違いなく、堺町の芝居ともタイアップして、華々しいイベントを繰り広げたことが、吉原細見に見えます。

明治中期には、三河島の植木屋惣八という者が毎年植樹を請け負っていたことが、六代目桂文治のマクラにあります。無尽無尽講ともいい、講親と呼ばれる世話人が、仲間を集めて掛け金を募り、そのプールした金を講中の仲間が必要に応じて借り合うもの。いわば共済基金のようなものです。定期的に寄り合いを開いて入札を行い、大山参り、富士まいりなどの費用としても利用されました。頼母子講も同じようなものです。

六代目桂文治のくすぐり  【RIZAP COOK】

●若だんなが茶屋のお内儀に遅れた言い訳

「ジが起こった(=怒った)んで出られなかった」
「お痛みじゃありませんか?」
「その痔じゃねえ。オヤジだ」

茶屋にもいろいろありまして  【RIZAP COOK】

茶屋にはさまざまな種類がありました。美人ばかり雇っている店もあれば、表も裏も融通無碍な店も。川柳が取り上げるのは、なかでも目立った印象に残る茶屋ということでしょうね。

べら坊で 居所の無い 二十軒   十一10

「二十軒」とは浅草仲見世の隣にあった「二十軒茶屋」の略称。最初は三十六軒あったので「歌仙茶屋」と呼ばれました。「お福茶屋」とも。享保年間に二十軒ほどになったので、こう呼ばれるようになりましたが、文化には十六軒、天保には十軒、明治30年には一軒に。それでも「二十軒」といえば、ここの茶屋をさしたそうです。美人を雇っていることが特徴でした。「二十軒=美人茶屋」というイメージでしょうか。これも落語や川柳のお約束です。

ほれるかほれるかと 茶をくらつて居   十二42

これはわかりやすいですね。今も変わらずの句。

手前まあ 内はどこだと 楊枝見世   五34

「楊枝見世」は浅草奥山にあった楊枝の店。ここも美人を置いていました。娘の住所を聞いているところ。繁盛したわけです。

楊枝屋は 残米も売り 緡も売り   二十二18

「緡」は銭の穴を通して百文、四百文、一貫文にまとめるための細い藁縄のこと。楊枝屋で売っていました。とりわけ欲しくもないのに美人見たさに買いに行く風景ですね。

美しさ 男へたんと 五倍子が売れ   十六36

「五倍子」は「五倍子鉄漿」のこと。五倍子とは、ヌルデの葉にアリマキが寄生して、その刺激によってできたこぶ。タンニンを含み、染色、インクなどの原料になるものです。鉄漿は、鉄を酸化させてできた暗褐色の液で、お歯黒に使いました。五倍子の粉を鉄漿にひたして作った黒い染料が五倍子鉄漿です。真っ黒です。この句は五倍子を売る店(五倍子店)の美人の売り子に惹かれて買いに来る亭主たちの長い鼻の下を詠んでいるそうですが、わかりますかね。

大和茶で ただの話も くどくやう   十六36

「大和茶」とは「大和茶屋」のこと。浅草などにあって、美人を接客に雇っていたそうです。今のキャバクラみたいな店だったようです。

水茶屋と 見せ内証は これこれさ   十七23

裏表 ある水茶屋は はやるなり   二十一10

水茶屋とはいっても、裏でのサービスもいろいろあったようです。江戸時代はなんでもありなんですね。

茶屋女 せせなげほどな 流れの身   六2

「せせなげ」は下水やどぶ。「流れの身」とは「川竹の流れの身」のことで、遊女の境涯をさします。「川竹の身」とか「流れの身」とかは清らかな川の流れのイメージなのですが、遊女を連想させる鍵語です。この句に詠まれた茶屋女は遊女ほどに清らか(?)ではないながらも、つまり下水の流れのような境涯ながらも、同じ春を売る身の上だ、ということを言っているようです。なんとも雅味のある句でしょう。

【語の読みと注】
緡 さし
五倍子 ふし
鉄漿 かね

【RIZAP COOK】

落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

どうぐや【道具屋】演目

【RIZAP COOK】

 ご存じ、与太郎の商売。屑物売りで抱腹絶倒の笑い話が生まれます。

別題:道具の開業 露天の道具屋

あらすじ

神田三河町の大家、杢兵衛の甥の与太郎。

三十六にもなるが頭は少し鯉のぼりで、ろくに仕事もしないで年中ぶらぶらしている。

この間、珍しくも商売気を出し、伝書鳩を売ったら、自分の所に帰ってくるから丸もうけだとうまいことを考えたが、鳥屋に帰ってしまってパー、という具合。

心配したおじさん、自分が副業に屑物を売る道具屋をやっているので、商売のコツを言い聞かせ、商売道具一切を持たせて送り出す。

その品物がまたひどくて、おひなさまの首が抜けたのだの、火事場で拾った真っ赤に錆びた鋸だの、はいてひょろっとよろけると、たちまちビリッと破れる「ヒョロビリの股引き」だので、ろくなものがない。

「元帳があるからそれを見て、倍にふっかけて後で値引きしても二、三銭のもうけは出るから、それで好きなものでも食いな」
と言われたので、与太郎、早くも舌なめずり。

やってきたのが蔵前の質屋、伊勢屋の脇。

煉瓦塀の前に、日向ぼっこしている間に売れるという、昼店の天道干しの露天商が店を並べている。

いきなり
「おい、道具屋」
「へい、なにか差し上げますか」
「おもしれえな。そこになる石をさしあげてみろい」

道具屋のおやじ、度肝を抜かれたが、ああ、あの話にきいている杢兵衛さんの甥で、少し馬……と言いかけて口を押さえ、品物にはたきをかけておくなど、商売のやり方を教えてくれる。

当の与太郎、そばのてんぶら屋ばかり見ていて、上の空。

最初の客は、大工の棟梁。

釘抜きを閻魔だの、ノコが甘いのと、符丁で言うからわからない。

火事場で拾った鋸と聞き、棟梁は怒って行ってしまう。

「見ろ、小便されたじゃねえか」

つまり、買わずに逃げられること。

次の客は隠居。

「唐詩選」の本を見れば表紙だけ、万年青だと思ったらシルクハットの縁の取れたのと、ろくな代物がないので渋い顔。

毛抜きを見つけて髭を抜きはじめ、
「ああ、さっぱりした。伸びた時分にまた来る」

その次は車屋。

股引きを見せろと言う。

「あなた、断っときますが、小便はだめですよ」
「だって、割れてるじゃねえか」
「割れてたってダメです」

これでまた失敗。

お次は田舎出の壮士風。

「おい、その短刀を見せんか」

刃を見ようとするが、錆びついているのか、なかなか抜けない。

与太郎も手伝って、両方からヒノフノミィ。
「抜けないな」
「抜けません」
「どうしてだ」
「木刀です」

しかたがないので、鉄砲を手に取って
「これはなんぼか」
「一本です」
「鉄砲の代じゃ」
「樫です」
「金じゃ」
「鉄です」
「ばかだな、きさま。値じゃ」
「音はズドーン」

底本:五代目柳家小さん

【RIZAP COOK】

しりたい

円朝もやった  【RIZAP COOK】

古くからある小咄を集めてできたものです。

前座の修行用の噺とされますが、初代三遊亭円朝の速記も残っています。「大」円朝がどんな顔でアホの与太郎を演じたのか、ぜひ聴いてみたかったところです。

切り張り自在  【RIZAP COOK】

小咄の寄せ集めでどこで切ってもよく、また、新しい人物(客)も登場させられるため、寄席の高座の時間調整には重宝がられます。したがって、オチは数多くあります。

明治の初代三遊亭円遊のは、小刀の先が切れないので負けてくれと言われ、「これ以上負けると、先だけでなく元が切れない(=原価割れ)」というものです。

そのほか、隠居の部分で切ったり、小便されたくだりで切ることもあります。侍の指が笛から抜けなくなり、ここぞと値をふっかけるので「足元を見るな」「手元を見ました」というもの、その続きで、指が抜けたので与太郎があわてて「負けます」と言うと、「抜けたらタダでもいやだ」とすることも。

八代目林家正蔵(彦六)は、侍の家まで金を取りに行き、格子に首をはさんで抜けなくなったので、「そちの首と、身どもの指で差っ引きだ」としていました。

天道干し  【RIZAP COOK】

てんとうぼし。露天の古道具商で、昼店でむしろの上に古道具、古書、荒物などを敷き並べただけの零細な商売です。

実態もこの噺に近く、ほとんどゴミ同然でロクなものがなかったらしく、お天道さまで虫干しするも同様なのでこの名がつきました。品物は、古金買いなどの廃品回収業者から仕入れるのが普通です。

こうした露天商に比べれば、「火焔太鼓」の甚兵衛などはちゃんとした店舗を構えているだけ、ずっとましです。

くすぐりあれこれ  【RIZAP COOK】

与太郎が伯父さんに、ねずみの捕り方を教える。
「わさびおろしにオマンマ粒を練りつけてね、ねずみがこう、夜中にかじるでしょ。土台がわさびおろしだからねずみがすり減って、朝には尻尾だけ。これがねずみおろしといって」

三脚を買いに来た客に。
「これがね、二つ脚なんで」
「それじゃ、立つめえ」
「だから、石の塀に立てかけてあるんです。この家に話して、塀ごとお買いなさい」

五代目柳家小さんでは、隠居が髭を剃りながら与太郎の身の上を
「おやじの墓はどこだ」
まで長々聞く。

これを二回繰り返し、与太郎がそっくり覚えて先に言ってしまうという、「うどんや」の酔っ払いのくだりと同パターンのリピートくすぐり。

弓と太鼓で「どんかちり」  【RIZAP COOK】

意外なことですが、落語には「弓矢」があまり出てきません。刀剣と違って弓矢は、町民には縁遠いものだったのでしょうか。ところが、浅草などの盛り場には「土弓場」という店がありました。土を盛ったあづちに掛けた的を「楊弓」で射る遊びを客にさせる店です。

土弓場は、寛政年間(1789-1801)には「楊弓場」と混同していました。土弓場は「矢場」とも。客を接待する店の女はときに売春もしました。男たちは弓よりもこっちが目的だったのですね。この女たちを「矢場女」「土弓むす」「矢取り女」などと呼びました。

店はおしなべて、寺社仏閣の境内に設けた「葭簀張り」にあったそうです。葭簀張りというのは「ヒラキ」といわれていた、簡易な遊芸施設です。葭簀張りというのがその施設名だったのです。明治中頃まで栄えていました。

土弓場は「どんかちり」とも呼ばれていました。店でつるした的の後ろに太鼓をつるし、弓が的に当たると後ろの太鼓が「かちり」と鳴り、はずれると「どん」と鳴るため、二つ合わせて「どんかちり」と。転じて、歌舞伎囃子でも「どんかちり」と呼びました。弓と太鼓は性的な連想をたやすく膨らませてくれます。

土弓場へ けふも太鼓を 打ちに行き   十三30

江戸人はこうも暇だったのでしょうか。今なら駅前のパチンコ店に繰り出すようなものでしょう。もうそれもないか。吉原に行くには少々覚悟がいるような手合いが、安直に出入りできる遊び場だったと想像できます。

混同された「楊弓」についても記しておきます。

こちらは、長さ2尺8寸(約85cm)の遊び用の小弓のことです。古くは楊柳、つまりはやなぎの木でつくっていたからだそうです。雀を射ることもあったため、雀弓とも呼ばれていました。

唐の玄宗が楊貴妃と楊弓をたのしんだ故事があります。そこで江戸の人は、楊弓は中国から渡来したものと思っていました。いずれにしても、9寸(約27cm)の矢を、直径3寸(約9cm)の的に向けて、7間半(約13.5m)離れて座ったまま射る遊びです。

その歴史は古く、平安時代には子供や女房の遊び道具でした。室町時代でも公家の遊び道具で、七夕行事にも使われたそうです。江戸時代になると、広く伝わって各所で競技会も開かれました。

寛政年間(1789-1801)には、寺社の境内や盛り場に「楊弓場」が登場。これは主に上方での呼称だったようです。江戸ではこの頃になると「土弓場」と混同されていきます。江戸では「矢場」とも呼ばれて、土弓場とごちゃごちゃに。

金紙張りの1寸の的、銀紙張りの2寸の的などを使って、賭け的遊びもしたそうですが、賭博までは発達しなかったといいます。理由は安易に想像できます。モノの出来具合がヤワで粗末だったからでしょうね。

それよりも、矢場は矢取り女という名の私娼の表看板になっていきました。男たちの主眼はこっちに移ったのです。江戸の遊び人は女性の陰部を的にたとえてにんまりしたわけです。となると、上の川柳も意味深です。

【語の読みと注】
神田三河町 かんだみかわちょう
杢兵衛 もくべえ
万年青 おもと
値 ね
お天道さま おてんとうさま:太陽
土弓場 どきゅうば
雀弓 すずめゆみ
楊弓場 ようきゅうば

【RIZAP COOK】

落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

おおやままいり【大山詣り】演目

噺のおおよそは参詣の帰途でのこと。宿で熊が泥酔し総スカン。熊が仕返しを。

別題:百人坊主(上方)

あらすじ

長屋の講中で大家を先達に、大山詣りに出かけることになった。

今年のお山には罰則があって、怒ったら二分の罰金、けんかすると丸坊主にする、というもの。

これは、熊五郎が毎年、酒に酔ってはけんかざたを繰り返すのに閉口したため。

行きはまず何事もなく、無事に山から下り、帰りの東海道は程ケ谷(保土谷)の旅籠。

いつも、江戸に近づくとみな気が緩んで大酒を食らい、間違いが起こりやすいので、先達の吉兵衛が心配していると、案の定、熊が風呂場で大立ち回りをやらかしたという知らせ。

ぶんなぐられた次郎吉が、今度ばかりはどうしても野郎を坊主にすると息巻くのを、江戸も近いことだからとなだめるが、みんな怒りは収まらず、暴れ疲れ中二階の座敷でぐっすり寝込んでいる熊を、寄ってたかってクリクリ坊主に。

翌朝、目を覚ました熊、お手伝いたちが坊さん坊さんと笑うので、むかっ腹を立てたが、言われた通りにオツムをなでで呆然。

「他の連中は?」
「とっくにお立ちです」

熊は昨夜のことはなにひとつ覚えていないが、
「それにしてもひでえことをしやがる」
と頭に来て、なにを思ったか、そそくさと支度をし、三枚駕籠を仕立て途中でのんびり道中の長屋の連中を追い抜くや、一路江戸へ。

一足先に長屋に着くと、かみさん連中を集めて、わざと悲痛な顔で
「残念だが、おまえさん方の亭主は、二度と再び帰っちゃこねえよ」

お山の帰りに金沢八景を見物しようというので、自分は気乗りしなかったが、無理に勧められて舟に乗った。

船頭も南風が吹いているからおよしなさいと言ったのに、みんな一杯機嫌、いっこうに聞き入れない。

案の定、嵐になって舟は難破、自分一人助かって浜に打ち上げられた。

「おめおめ帰れるもんじゃないが、せめても江戸で待っているおまえさんたちに知らさなければと思って、恥を忍んで帰ってきた。その証拠に」
と言って頭の手拭を取ると、これが丸坊主。

「菩提を弔うため出家する」
とまで言ったから、かみさん連中信じ込んで、ワッと泣きだす。

熊公、
「それほど亭主が恋しければ、尼になって回向をするのが一番」
と丸め込み、とうとう女どもを一人残らず丸坊主に。

一方、亭主連中。

帰ってみると、なにやら青々として冬瓜舟が着いたよう。

おまけに念仏まで聞こえる。

熊の仕返しと知ってみんな怒り心頭。

連中が息巻くのを、吉兵衛、
「まあまあ。お山は晴天、みんな無事で、お毛が(怪我)なくっておめでたい」

しりたい

大山  【RIZAP COOK】

神奈川県伊勢原市、秦野市、厚木市の境にある標高1246mの山。

ピラミッドのような形でひときわ目立ちます。日本橋から18里(約71km)でした。

中腹に名僧良弁(ろうべん)が造ったといわれる雨降山(あぶりさん)大山寺(だいせんじ)がありました。

雨降山とは、山頂に雲がかかって雨を降らせることからの銘々なんだそうです。

山頂に、剣のような石をご神体とする石尊大権現があります。つまり、神仏混交、修験道の聖地なんですね。

江戸時代以前には、修験者、華厳、天台、真言系の僧侶、神官が入り乱れてごろごろよぼよぼ。

それを徳川幕府が真言宗系に整理したのですが、それでもまだ神仏混交状態。

明治政府の神仏分離令の結果、中腹の大山寺が大山阿夫利(あぶり)神社に。神の山になったわけです。

末寺はことごとく破壊されましたが、大正期には大山寺が復しました。今は真言宗大覚寺派の準本山となっています。

ばくちと商売にご利益  【RIZAP COOK】

大山まいりは、宝暦年間(1751-64)に始まりました。ばくちと商売にご利益があったんで、みんな出かけるんですね。

6月27日から7月17日までの20日間だけ、祭礼で奥の院の石尊大権現に参詣が許される期間に行楽を兼ねて参詣する、江戸の夏の年中行事です。

大山講を作って、この日のために金をため、出発前に東両国の大川端で「さんげ(懺悔の意)、さんげ」と唱えながら水垢離(みずごり、体を清める)をとった上、納め太刀という木刀を各自が持参して、神前で他人の太刀と交換して奉納刀としました。

これは,大山の石尊大権現とのかかわりからきているんでしょうね。

お参りのルートは3つありました。

(1)厚木往還(八王子-厚木)
(2)矢倉沢往還(国道246号)
(3)津久井往還(三軒茶屋-津久井)

日本橋あたりから行くには(3)が普通でした。

世田谷区の三軒茶屋は大山まいりの通過点でにぎわったんです。

男の足でも4-6日はかかったというから、金も時間もかかるわけ。金は、先達(先導者)が月掛けで徴収しました。帰りは伊勢原を経て、藤沢宿で1泊が普通です。

あるいは、戸塚、程ヶ谷(保土ヶ谷)、神奈川の宿のいずれかで、飯盛(私娼)宿に泊まって羽目をはずすことも多かったようです。それがお楽しみで、群れて参詣するわけなんです。

江戸時代の参詣というのは、必ずこういう抜け穴(ホントに抜け穴)があったんですねえ。

だから、みなさん一生懸命に手ぇ合わすんですぇ。うまくできてます。

この噺のように、江ノ島や金沢八景など、横道にそれて遊覧することも。

こはい者 なし藤沢へ 出ると買ひ (柳多留14)

女人禁制で「不動から 上は金玉 ばかりなり」。最後の盆山(7月13-17日)は、盆の節季にあたり、お山を口実に借金取りから逃れるための登山も多かったそうです。

大山まいりは適度な娯楽装置だった、というわけ。

旧暦は40日遅れ  【RIZAP COOK】

落語に描かれる時代は、だいたいが江戸時代か明治時代かのどちらかです。

この噺は、江戸時代の話。これは意外に重要で、噺を聞いていて「あれ、明治の話だったのー」なあんていうこともしばしば。噺のイメージを崩さないためにも、時代設定はあらかじめ知っておきたいものです。

江戸時代は旧暦だから、6月27日といっても、梅雨まっさかりの6月27日ではないんです。旧暦に40日たすと、実際の季節になります。だから、旧暦6月27日は、今の8月3日ごろ、ということに。お暑い盛りでのことなんですね。こんなちょっとした知識があると、落語がグーンと身近になるというものです。

元ねたは狂言から  【RIZAP COOK】

「六人僧」という狂言をもとに作られた噺です。

さらに、同じく狂言の「腹立てず」も織り交ぜてあるという説もあります。

「六人僧」は、三人旅の道中で、なにをされても怒らないという約束を破ったかどで坊主にされた男が、復讐に策略でほかの二人をかみさんともども丸坊主にしてしまう話です。

狂言には、坊主のなまぐさぶりを笑う作品が、けっこうあるもんです。

時代がくだって、井原西鶴(1642-93)が各地の民話に取材して貞享2年(1685)に大坂で刊行した『西鶴諸国ばなし』中の「狐の四天王」にも、狐の復讐で五人が坊主にされるという筋が書かれています。

スキンヘッドは厳罰  【RIZAP COOK】

明治の名人、四代目橘家円喬(1865-1912)は、江戸時代には坊主にされることがどんなに大変だったかを強調するため、この噺のマクラでマゲの説明を入念にしています。

円喬の速記は明治29年のもの。明治維新から30年足らず、断髪令が発布されてから四半世紀ほどしかたっていません。実際に頭にチョンマゲをのっけて生活し、ザンギリにするのを泣いて嫌がった人々がまだまだ大勢生き残っていたはずなのです。いかに時の移り変わりが激しかったか、わかろうというものです。

六代目三遊亭円生も「一文惜しみ」の中で、「昔はちょんまげという、あれはどうしてもなくちゃならないもんで(中略)大切なものでございますから証明がなければ床屋の方で絶対にこれは切りません。『長髪の者はみだりに月代(さかやき)を致すまじきこと』という、髪結床の条目でございますので、家主から書付をもらってこれでくりくりッと剃ってもらう」と説明しています。

要するに、なにか世間に顔向けができないことをしでかすと、奉行所に引き渡すのを勘弁する代わりに、身元引受人の親方なり大家が、厳罰として当人を丸坊主にし、当分の謹慎を申し渡すわけです。その間は恥ずかしくて人交わりもならず、寺にでも隠れているほかはありません。

武士にとってはマゲは命で、斬り落されれば切腹モノでしたが、町人にとっても大同小異、こちらは「頭髪には神が宿る」という信仰からきているのでしょう。朝、自分の頭をなでたときの熊五郎のショックと怒りは、たぶん、われわれ現代人には想像もつかないでしょうね。

多くの名人がみがいた噺  【RIZAP COOK】

四代目円喬は、坊主の取り決めを地で説明し、あとのけんかに同じことを繰り返してしゃべらないように気を配っていたとは、四代目柳家小さん(1888-1947)の回想です。

小さん自身は、取り決めを江戸ですると、かみさん連中も承知していることになるので、大森あたりで相談するという、理詰めの演出を残しました。 

そのほか、昭和に入って戦後にかけ、六代目円生、五代目古今亭志ん生、八代目春風亭柳枝、八代目三笑亭可楽、五代目小さん、志ん朝と、とうとうたる顔ぶれが、好んで演じました。

夢楽が師匠の可楽譲りで若いころから得意にしていますが、若手を含め、今もほとんどの落語家が手がける人気演目です。

上方の「百人坊主」  【RIZAP COOK】

落語としては上方が本場です。

上方の「百人坊主」は、大筋は江戸(東京)と変わりませんが、舞台は、修験道の道場である大和・大峯山の行場めぐりをする「山上まいり」の道中になっています。

主人公は「弥太公」がふつうです。

こちらでは、山を下りて伊勢街道に出て、洞川(どろかわ)または下市の宿で「精進落とし」のドンチャン騒ぎをするうち、けんかが起こります。

東京にはいつ移されたかわかりませんが、江戸で出版されたもので「弥次喜多」の「膝栗毛」で知られる十返舎一九の滑稽本『滑稽しっこなし』(文化2=1805年刊)、滝亭鯉丈の『大山道中栗毛俊足』にも、同じような筋立ての笑話があるため、もうこのころには口演されていたのかもしれません。

ただし、前項の円喬の速記では「百人坊主」となっているので、東京で「大山詣り」の名がついたのは、かなり後でしょう。

相模の下女  【RIZAP COOK】

この噺の背景にはちょっと重要なパラダイムがひそんでいます。「相模の下女は淫奔」という江戸人のお約束事です。川柳や浮世絵などでもさかんに出てきます。相模国(神奈川県西部)出身の女性には失礼きわまりないことですがね。「池袋の下女は夜に行灯の油をなめる」といった類の話です。

大山は相模国にあります。江戸の男たちは「相模に行けば、なにかよいことがあるかもね、むふふ」といった下心を抱きつつ勇んで向かったのでしょう。大山詣りがにぎわうわけです。

投げ込んで くんなと頼む 下女が文  三24

枕を交わす男から寝物語に「明日大山詣りに行くんだぜ」と聞いた相模出身の下女は「ならばこの手紙を実家に持っていってよ」と頼んでいるところを詠んでいます。こんなことが実際にあったのか。あったのかもしれませんね。

江の島   【RIZAP COOK】

大山詣りの帰りの道筋に選ばれます。近場の行楽地ですが、霊験あらたかな場所でもあります。

浪へ手を あわせて帰る 残念さ   十八2

これだけで江の島を詠んでいるとよくわかるものですなんですね。「浪へ手をあわせて」でなんでしょうかね。島全体が霊場だったということですか。

江の島は ゆふべ話して けふの旅   四33

江の島は 名残をおしむ 旅でなし   九25

江の島へ 硫黄の匂ふ 刷毛ついで   初24

硫黄の匂いがするというのは、箱根の湯治帰りの人。コースだったわけです。大山詣りも同じですね。

江の島へ 踊子ころび ころびいき   十六1

「踊子」とは元禄期ごろから登場する遊芸の女性です。酒宴の席で踊ったり歌ったりして興を添えるのをなりわいとする人。日本橋橋町あたりに多くいました。文化頃に「芸者」の名が定着しました。各藩の留守居役とのかかわりが川柳に詠まれます。

江の島で 一日やとふ 大職冠   初15

「大職冠」とは、大化年間(最新の学説ではこの元号は甚だあやしいとされていますが)の孝徳天皇の時代に定めれらた冠位十三階の最高位です。のちの「正一位」に相当します。実際にこの位を授けられたのは藤原鎌足ですが、「正一位」は稲荷神の位でもあります。謡曲「海士」からの連想です。ここでは鎌足と息子の不比等を当てています。

【語の読みと注】
良弁 ろうべん
雨降山 あぶりさん
大山寺 だいせんじ

【RIZAP COOK】

落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

つきやむげん【搗屋無間】演目

 

搗き米屋の男が花魁にぞっこん。通い倒したその果ては。褒められない廓噺。

あらすじ

信濃者の徳兵衛。

江戸は日本橋の搗き米屋・越前屋は十三年も奉公しているが、まじめで堅い一方で、休みでも遊びひとつしたことがない。

その堅物が、ある日、絵草紙屋でたまたま目に映った、

今、吉原で全盛を誇る松葉楼の花魁、宵山の絵姿にぞっこん。

たちまち、まだ見ぬ宵山に恋煩い。

心配しただんなが、気晴らしに一日好きなことをしてこいと送り出したが、どこをどう歩いているかわからない。

さまよっているうち、出会ったのが知り合いの幇間・寿楽。

事情を聞くとおもしろがって、なんとか花魁に会わせてやろう、と請け合う。

大見世にあがるのに、
「米搗き男ではまずいから、徳兵衛を木更津のお大尽という触れ込みにし、指にタコができているのを見破られるとまずいから、聞かれたら鼓に凝っていると言え」
など、細々と注意。

「あたしの言うとおりにしていればいい」
と太鼓判を押すが、先立つものは金。

十三年間の給金二十五両を、そっくりだんなに預けてあるが、まさか女郎買いに行くから出してくれとも言えないので、店の金を十五両ほど隙を見て持ち出し、バレたら、預けてある二十五両と相殺してくれと頼めばいいと知恵をつける。

さて当日。

徳兵衛はビクビクもので、吉原の大門でさえくぐったことがないから、廓の常夜灯を見て腰を抜かしたり、見世にあがる時、ふだんの癖で雪駄を懐に入れてしまったりと、あやうく出自が割れそうになるので、介添えの寿楽の方がハラハラ。

なんとかかんとか花魁の興味をひき、めでたくお床入り。

翌朝。

徳兵衛はいつまた宵山に会えるか知れないと思うと、ボロボロ泣き出し、挙げ句に、正直に自分の身分をしゃべってしまった。

宵山、怒ると思いのほか、
「この偽りの世の中に、あなたほど実のある人はいない」
と、逆に徳兵衛に岡惚れ。

瓢箪から独楽。

それから二年半というもの、費用は全部宵山の持ち出しで、二人は逢瀬を続けたが、いかにせん宵山ももう資金が尽き、思うように会えなくなった。

そうなると、いよいよ情がつのった徳兵衛。

ある夜、思い詰めて月を眺めながら、昔梅ケ枝という女郎は、無間の鐘をついて三百両の金を得たと浄瑠璃で聞いたことがあるが、たとえ地獄に堕ちても金が欲しいと、庭にあった大道臼を杵でぶっぱたく。

その一心が通じたか、バラバラと天から金が降ってきて、数えてみると二百七十両。

「三百両には三十両不足。ああ、一割の搗き減りがした」

しりたい

わかりにくいオチ  【RIZAP COOK】

明治25年(1892)7月の二代目柳家(禽語楼)小さんの速記が残っています。ただ、小さんのやり方では、金がどこから降ったかはっきりしないので、戦後、この噺を得意にした八代目春風亭柳枝(円窓や円弥の最初の師匠)は、だんなが隠しておいた金とし、金額も現実的な三十両としました。

「搗き減り」の割合は、現行では二割とするのが普通になっています。「搗き減り」というのは、江戸時代の搗き米屋が、代金のうち、玄米を搗いて目減りした二割分を、損料としてそのまま頂戴したことによります。実際は普通に精米した場合、一割程度が米の損耗になりますが、それではもうけがないため、二割と言い立てたわけです。

オチは、したがって普通なら利益のはずの「搗き減り」が、文字通りの損の意味に転化する皮肉ですが、これが現代ではまったく通じません。そこで、「仕込み」と呼ぶあらかじめの説明が必要になり、現在ではあまり演じられません。三遊亭円窓が春風亭柳枝のやり方を継承しています。

原話は親孝行、落語はバチあたり  【RIZAP COOK】

原話は、現在知られているものに三種類あります。

まず、安永5年(1776)刊『立春噺大集』中の「台からうす」、ついで、狂歌で名高い大田蜀山人(南畝、1749-1823)作の笑話本で同7年刊『春笑一刻』中の無題の小咄。

現行により近いのが、天保15(1844)年刊『往古噺の魁』中の「搗屋むけん」です。

前二者は、貧乏のどん底の搗き米屋が、破れかぶれで商売道具の臼を無間の鐘に見立て、杵(きね)でつくと奇跡が起こって小判が三両。

大喜びで何度もつくと、そのたびに出てくる小判が減り、しまいには一分金だけ。「はあ、つき減りがした」というもの。

天保の小咄になると、金が欲しい動機が、女郎買いの資金調達ではなく、年貢の滞りで三十両の金を無心してきている父親への孝心という、まじめなものである以外は、ほぼ現行通りです。

この動機が女郎買いに変わったのは、前記の俗曲「梅ケ枝の…」が流行した明治前期からといわれます。

搗屋  【RIZAP COOK】

つきや。搗き米屋のことです。普通にいう米屋で、足踏み式の米つき臼で精米してから量り売りしました。それとは別に、出職(得意先回り)専門の搗屋があり、杵と臼を持ち運んで、呼び込まれた先で精米しました。

「小言幸兵衛」のオリジナルの形は、搗き米屋が店を借りにきて一騒動持ち上がるので、別題を「搗屋幸兵衛」といいます。

無間の鐘  【RIZAP COOK】

むげんのかね。東海道は日坂宿に近い、小夜(さや)の中山峠の無間山観音寺にあったという、伝説の鐘です。撞けば現世で大金を得られるものの、来世では無間地獄に堕ちると言い伝えられていました。

この伝説を基にして、浄瑠璃・歌舞伎の『ひらかな盛衰記』四段目「無間の鐘」の場が作られました。

主人である源氏方の武将・梶原源太と駆け落ちした腰元・千鳥が、身を売って遊女・梅ケ枝となりますが、源太のためになんとか出陣の資金・三百両を調達したいと願い、手水鉢を無間の鐘に見立ててたたきます。するとアーラ不思議、天から小判の雨あられ。

これは実は、源太の母・延寿が情けで楼上からまいたもの、というオチです。明治期にはやった、「梅ケ枝の 手水鉢 たたいてお金が出るならば……」という俗曲は、この場面を当て込んだものです。

絵草紙屋  【RIZAP COOK】

えぞうしや。江戸のブティックといったところです。「権助魚」参照。絵草紙屋の店番には、たいてい看板娘や美人の女房がいたので、女性や子供の行く店にもかかわらず、なぜか日参する、鼻の下の長い連中が多かったとか。

そのせいか、風紀紊乱のかどで文化元年(1804)、お上から絵草紙屋の取り締まり令が出されています。なかには、枕絵など、いかがわしいものを売る店も当然あったのでしょう。

大道臼  【RIZAP COOK】

おおどううす。搗き米屋が店の前に転がしておく、米搗き用の大臼です。からだの大きな者、特に相撲取りをあざけり、罵って言う場合もあります。「ハンショウドロボー」「ウドノタイボク」をもっと強めたニュアンスでしょう。

黙阿弥の歌舞伎世話狂言『め組の喧嘩』では、頭の辰五郎以下、鳶(とび)の面々が、相撲取りとの出入りで、この言葉を連発します。

信濃者は大食い  【RIZAP COOK】

しなのもの。信州人、信濃人、信州者とも。信濃=信州は長野県のことですが、あそこの人々はいまだに長野県といわずに「信州」とか言いますね。旧国名から名付けた国立大学はここにしかありません。信州大学。不思議です。福島県会津地方の人も自分の出身地を「福島県です」といわずに「会津です」というのは、これまた不思議です。こちらにも会津大学とかいうのがありますね。『けんかえれじい』を思い出しますが。それはともかく。俗説では信濃者は大食いなんだそうです。落語や川柳でのお約束です。

喰ふが大きいと信濃を百ねぎり   十六2

大食いだから給金を値切った、というわけ。

小所で信濃を置いて喰ぬかれ   七9

「小所」は小規模の店。冬の間中、力仕事用に信濃から来た男を安い給金で雇ったのに大食いのため、結局高くついてしまった、というわけ。

冬の内月三斗づゝくいこまれ   二十19

こちらも冬の間中、大食いの信濃者に食い込まれてしまった、という句。ずいぶんな言われようです。

落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

だいぶつもち【大仏餠】演目

【RIZAP COOK】

八代目文楽のおはこでした。「神谷幸右衛門」の名が言えずに……。

あらすじ

ある雪の晩、上野の山下あたり。

目の不自由な子連れの物乞いが、ひざから血を流している。

ふびんに思った主人が、手当てをしてやった。

聞けば、新米の物乞い。山下で縄張りを荒らしたと、大勢の物乞いに袋だたきにあったとか。

子供は六歳の男児。この家では子供の袴着の祝いの日だった。

同情した主人は、客にもてなした八百善からの仕出しの残りを、やろうとした。

物乞いが手にした面桶を見ると、朝鮮さはりの水こぼし。

驚いた主人、
「おまえさんはお茶人だね」
と、家へあげて身の上を聞いてみると、芝片門前でお上のご用達をしていた神谷幸右衛門のなれの果て。

「あなたが神幸さん。あなたのお数寄屋のお席開きに招かれたこともある河内屋金兵衛です」
と、おうすを一服あげ、大仏餠を出す。

幸右衛門、感激のうちに大仏餠を口にしたため、のどにつかえて苦しんだ。

河内屋が背中をたたくと、幸右衛門の目が開いた。

ついでに、声が鼻に抜けてふがふがに。

「あれ、あなた目があきなすったね」
「は、はい。あきました」
「目があいて、鼻が変になんなすったね」
「はァ、いま食べたのが大仏餠、目から鼻ィ抜けました」

【RIZAP COOK】

うんちく

「三代目になっちゃった」 【RIZAP COOK】

三遊亭円朝の作で、三題噺をもとに作ったものです。出題は「大仏餅」「袴着の祝い」「新米の盲乞食」。円朝全集にも収録されていますが、昭和に入ってはなにをおいても八代目桂文楽の独壇場でした。文楽の噺としては「B級品」で、客がセコなときや体調の悪い場合にやる「安全パイ」のネタでしたが、晩年は気を入れて演じていたようです。にもかかわらず、この噺が文楽の「命取り」になったことはあまりに有名です。

この事件の経緯については、『落語無頼語録』(大西信行、芸術出版社、1974年)に、文楽の死の直後の関係者への取材をまじえて詳しく書かれ、またその後今日まで40年近く、折に触れて語られています。以下、簡単にあらましを。

昭和46年(1971)8月31日。この日、国立劇場の落語研究会で、文楽は幕切れ近くで、登場人物の「神谷幸右衛門」の名を忘れて絶句。「もう一度勉強しなおしてまいります」と、しおしおと高座を下りました。これが最後の高座となり、同年12月12日、肝硬変で大量吐血の末死去。享年79。

文楽はその前夜にも同じ「大仏餅」を東横落語会で演じ、無難にやりおおせたばかりでした。高座を下りたあと、楽屋で文楽は淡々とマネジャーに「三代目になっちゃったよ」と言ったそうです。

三代目とは三代目柳家小さん(1930年没)のこと。漱石も絶賛した明治大正の名人でしたが、晩年はアルツハイマーを患い、壊れたレコードのように噺の同じ箇所をぐるぐる何度も繰り返すという悲惨さだったとか。

文楽は、一字一句もゆるがせにしない完璧な芸を自負していただけに、いつも「三代目になる」ことを恐れて自分を追い詰め、いざたった一回でも絶句すると、もう自分の落語人生は終ったといっさいをあきらめてしまったのでしょう。

「三代目になった」ときに醜態をさらさないよう、弟子の証言では、それ以前から高座での「お詫びの稽古」を繰り返していたそうです。大西氏は文楽の死を「自殺だった」と断言しています。神谷幸右衛門は、噺の中でそのとき初めて出てくる名前ですから、忘れたら横目屋助平でも美濃部孝蔵でも、なんでもよかったのですがね。

無許可放送事件 【RIZAP COOK】

平成20年(2008)2月10日、NHKラジオ第一放送の「ラジオ名人寄席」で、パーソナリティーの玉置宏氏が、個人的に所蔵している八代目林家正蔵(彦六)の「大仏餅」を番組内で放送しました。ところが、これが以前にTBSで録音されたものだったため著作権、放映権の侵害で大騒動になり、すったもんだで玉置氏は降板するハメになりました。文楽のを流しておけば、あるいは無事ですんだかも知れませんね。やはり、自分の専売特許を侵害された(?)文楽のタタリでしょうか。「大仏餅」は文楽没後は前記正蔵が時々演じ、現在では柳家さん喬、大阪の桂文我などが持ちネタにしています。

大仏餅 【RIZAP COOK】

江戸時代、上方で流行した餅で、大仏の絵姿が焼印で押されていました。京都の方広寺大仏門前にあった店が本家といわれますが、奈良の大仏の鐘楼前ともいい、また、同じく京都の誓願寺前でも売られていたとか。支店だったのでしょうか。

この餅、安永9年(1780)刊の秋里籬島著「都名所図絵」にも絵入で紹介されるほどの名物で、同書の書き込みにも、「洛東大仏餅の濫觴は則ち方広寺大仏殿建立の時よりこの銘を蒙むり売弘めける。その味、美にして煎るに蕩けず、炙るに芳して、陸放翁が餅、東坡が湯餅にもおとらざる名品なり」と絶賛。滝沢馬琴が享和2年(1802)、京都に旅したおり、賞味して大いに気に入ったとか。この店、昭和17年(1942)まで営業していたそうです。

面桶 【RIZAP COOK】

めんつう。一人分の飯を盛る容器です。「つう」は唐音。禅僧が修行に使った携帯用のいれものでした。戦国時代には戦陣で飲食に使う便利なお椀に。江戸時代には主に乞食が使う容器となりました。

七五三の祝い 【RIZAP COOK】

噺に出てくる「袴着」は男児が初めて袴をはく儀式のこと。三歳、五歳、七歳など、時代や家風によって祝いをする年齢が変わりました。これは七五三の行事のひとつです。今は七五三としてなにか同じ儀式のように思われていますが、江戸時代にはそれぞれ別の行事でした。おとなへ踏み出す成長行事です。

髪置 かみおき 男女 三歳 11月15日に
袴着 はかまぎ 男児 三歳か五歳か七歳 正月15日か11月15日に
帯解 おびとき 女児 七歳 11月15日に

髪置は 乳母もとっちり 者になり   三21

袴着にや 鼻の下まで さつぱりし   初5

一つ飛ん だりと袴着 つるし上げ   十四22

袴着の どうだましても 脱がぬなり   七27

帯解は 濃いおしろひの 塗りはじめ   初6

肩車 店子などへは 下りぬなり   十四23

髪置ははじめて髪を蓄えること。帯解は付け紐のない着物を着ること、つまりは帯で着物を着ること。袴着もはじめて袴をはくことで、それぞれ、大人へのはじめの一歩の意味合いと、元気に成長してほしいという親の切なる願いのあらわれです。めでたい儀式ですから、乳母もお酒を飲んでお祝いして、その結果、とっちり者になってしまうわけです。「とっちり者」は泥酔者のこと。最後の句の「店子」は借家人のこと。この噺に出てくる子供は裕福な恵まれた環境で育ったわけで、長屋住まいの店子には肩車された上から挨拶するという、支配者と被支配者との関係性をすり込ませるような、すでにろくでもない人生の始まりを暗示しています。まあ、とまれ、江戸のたたずまいが見えてくるような風情です。

朝鮮さはりの水こぼし 【RIZAP COOK】

さはりは銅、錫、銀などを加えた合金。水こぼしは茶碗をすすいだ水を捨てる茶道具です。

【語の読みと注】
八百善 やおぜん
面桶 めんつう

【RIZAP COOK】

落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

こごとねんぶつ【小言念仏】演目

【無料カウンセリング】ライザップがTOEICにコミット!

短くって、すじもへったくれもない噺。念仏系宗旨をちゃかしてます。

別題:世帯念仏(上方)

あらすじ

親父が、仏壇の前で小言を言う。

ナムアミダブツ、ナムアミダブツ。

「鉄瓶が煮立っている」
「飯がこげている」
「花に水ゥやれ」
と、さんざんブツブツ言った後、
「表にドジョウ屋が通るから、ナマンダブ、ナマンダブ、買っときなさい、ナアミダブ、ドジョウ屋ァッナムアミダブ、鍋に酒ェ入れなさいナムアミダブ、一杯やりながらナムアミダブ、あの世ィ行きゃナマンダブ、極楽往生だナマンダブ、畜生ながら幸せなナムアミダブ、野郎だナマンダブ、暴れてるかナマンダブ、蓋取ってみなナムアミ、腹だしてくたばりゃあがった? ナムアミダブ、ナマンダブ、ざまァみゃがれ」

【無料カウンセリング】ライザップがTOEICにコミット!

【しりたい】

仏教への風刺  【RIZAP COOK】

原話は不明で、上方落語「世帯念仏」を、そのまま東京に移したものです。移植の時期はおそらく明治期と思われます。

上方でもともと「宗論」「淀川(後生鰻)」などのマクラに振っていた小咄だったものが、東京で一席の独立した小品となりました。

念仏を唱えながらドジョウをしめさせるくだりは「後生鰻」と同じく、通俗化した仏教、とくにその殺生戒の偽善性を、痛烈に風刺したものといえるでしょう。しかも、念仏ですから、浄土宗、浄土真宗、時宗系をちゃかしているわけです。「後生鰻」も念仏系の噺です。

小言  【RIZAP COOK】

これすらも、昨今は死語化しつつあるようですが、小言は「叱事(言)」の当て字。

特に小さな、些細なことを、重箱の隅をほじくるようにネチネチと説教するニュアンスが、「小」によく表れています。江戸では「小言坊」「小言八百」などの言葉があり、「カス(を食う)」というのも類語でした。

  【RIZAP COOK】

どじょう。「泥鰌」「鯲」とも記します。歴史的仮名遣いでは「どぢやう」「どぜう」です。

鰻にくらべて安価で、精のつくものとして、江戸のころは、八つ目うなぎとともに庶民層に好まれました。

我事と 鰌の逃げる 根芹かな
なべぶたへ 力を入る どじょう汁
念仏も 四五へん入る どじょう汁

さまざまに詠まれています。最後のは、煮ながらせめてもどじょうの極楽往生を願う心で、この噺のおやじよりはまだましですね。

どじょうを買うときは一升の升で量りますが、必死で踊り乱れるので、なかなか数が入らず、同じ値段でも損をすることになります。

こわそうに 鯲の升を 持つ女   初3

おっかなびっくりの女。この句は、女はおぼこで、どじょうの暴れるさまを慣れない男性器にたとえているのかもしれません。そこで、どじょうをおとなしくさせるまじないとして、碗の蓋の一番小さいものをヘソに当ててにらみつければ、たちどころにどじょうは観念し、同じ大きさの升でも二倍入ると、『耳嚢』(根岸鎮衛著)にあります。ホントでしょうか。

金馬や小三治の苦い笑い  【RIZAP COOK】

昭和に入って戦後まで、三代目三遊亭金馬の十八番でした。明るい芸風の人だったので、風刺やブラックユーモアが苦笑にとどまり、不快感を与えなかったのでしょう。

短いため、さまざまな演者が今も手がけますが、柳家小三治のものが自然に日本人の嗜虐性を表現していてうならせます。

上方の「世帯念仏」は桂米朝が継承していました。

東西ともオチは同じですが、明治の五明楼玉輔の速記では「ドジョウ屋が脇見をしているすきに、二、三匹つかみ込め」と、オチています。

【語の読みと注】
世帯念仏 しょたいねんぶつ
耳嚢 みみぶくろ

【無料カウンセリング】ライザップがTOEICにコミット!

落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

いいわけざとう【言い訳座頭】演目

ライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ

甚兵衛夫婦は年を越せるか? それは座頭の舌先三寸しだいで。

あらすじ

借金がたまってにっちもさっちも行かず、このままでは年を越せない長屋の甚兵衛夫婦。

大晦日、かみさんが、口のうまい座頭の富の市に頼んで、借金取りを撃退してもらうほかはないと言うので、甚兵衛はなけなしの一円を持ってさっそく頼みに行く。

富の市、初めは金でも借りに来たのかと勘違いして渋い顔をしたが、これこれこうとわけを聞くと
「米屋でも酒屋でも、決まった店から買っているのなら義理のいい借金だ。それじゃああたしが行って断ってあげよう」
と、快く引き受けてくれる。

「商人は忙しいから、あたしがおまえさんの家で待っていて断るのはむだ足をさせて気の毒だから」
と、直接敵の城に乗り込もうという寸法。

富の市は
「万事あたしが言うから、おまえさんは一言も口をきかないように」
とくれぐれも注意して、二人はまず米屋の大和屋に出かけていく。

大和屋の主人は、有名なしみったれ。

富の市が頼み込むと、
「今日の夕方にはなんとかするという言質をとってある以上待てない」
と突っぱねる。

富の市は居直って
「たとえそうでも、貧乏人で、逆さにしても払えないところから取ろうというのは理不尽だ。こうなったら、ウンというまで帰らねえ」
と店先に座り込み。

他の客の手前、大和屋も困って、結局、来春まで待つことを承知させられた。

次は、薪屋の和泉屋。

ここの家は、富の市が始終揉み療治に行くので懇意だから、かえってやりにくい。

しかも親父は名うての頑固一徹。

ここでは強行突破で
「どうしても待てないというなら、頼まれた甚さんに申し訳が立たないから、あたしをここで殺せ、さあ殺しゃあがれ」
と往来に向かってどなる。

挙げ句の果ては、「人殺しだ」とわめくので、周りはたちまちの人だかり。

薪屋、外聞が悪いのでついに降参。

今度は、魚金。

これはけんかっ早いから、薪屋のような手は使えない。

「さあ殺せ」
と言えば、すぐ殺されてしまう。

こういう奴は下手に出るに限るというので、
「実は甚兵衛さんが貧乏で飢え死にしかかっているが、たった一つの冥土のさわりは、魚金の親方への借金で、これを返さなければ死んでも死にきれない」
と、うわ言のように言っている、と泣き落としで持ちかけ、これも成功。

ところが、その当の甚兵衛が目の前にいるので、魚金は
「患ってるにしちゃあ、ばかに顔色がいい」
と、きつい皮肉。

さすがの富の市もあわてて、
「熱っぽいから、ほてっている」
とシドロモドロでやっとゴマかした。

そうこうするうちに、除夜の鐘。ぼーん。

富の市は急に、
「すまないが、あたしはこれで帰るから」
と言い出す。

「富さん、まだ三軒ばかりあるよ」
「そうしちゃあいられねえんだ。これから家へ帰って自分の言い訳をしなくちゃならねえ」

底本:五代目柳家小さん

ライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ

しりたい

明治の新作落語  【RIZAP COOK】

三代目柳家小さんが明治末に創作した噺です。三代目小さんは漱石も絶賛した名人です。小さんは、四代目橘家円喬から「催促座頭」という噺(内容不明)があるのを聞き、それと反対の噺をと思いついたとか。してみると、「催促座頭」は、文字通り借金の催促に座頭が雇われる筋だったということでしょう。

初演は、明治44年(1911)2月、日本橋常盤木倶楽部での第一次第70回落語研究会の高座でした。

師走の掛け取り狂騒曲  【RIZAP COOK】

借金の決算期を「節季」ともいい、盆と暮れの二回ですが、特に歳末は、商家にとっては掛け売りの貸金が回収できるか、また、貧乏人にとっては時間切れ逃げ切りで踏み倒せるかが、ともに死活問題でした。

そこで、この噺や「掛け取り万歳」に見られるような壮絶な「攻防戦」が展開されたわけです。

むろん、ふだん掛け売り(=信用売り)するのは、同じ町内のなじみの生活必需品(酒屋、米屋、炭屋、魚屋など)に限られます。落語では結局、うまく逃げ切ってしまうことが多いのですが、現実はやはりキビしかったのでしょう。

大晦日の噺  【RIZAP COOK】

井原西鶴の『世間胸算用』が、江戸時代前半期の上方(京・大坂)の節季の悲喜劇を描いて有名ですが、落語で大晦日を扱ったものは、ほかにも「狂歌家主」「尻餅」「睨み返し」「引越しの夢」「芝浜」など多数あります。

こうした噺のマクラには、大晦日の川柳を振るのがお決まりです。

大晦日 首でも取って くる気なり
大晦日 首でよければ やる気なり

五代目小さんが使っていたものも秀逸です。

大晦日 もうこれまでと 首くくり
大晦日 とうとう猫は 蹴飛ばされ

三代目小さんの作品だけあって、小さんの系統がやります。九代目入船亭扇橋の亡き後は柳家小里ん、柳家権太楼あたり。

炭屋  【RIZAP COOK】

子別れ」では、家を飛び出したかみさんが子供を連れ、炭屋の二階に間借りしている設定でしたが、裏長屋住まいの連中は、高級品は買えないため、ふだんは「中粉」という、炭を切るときに出るカス同然の粉を量り売りで買ったり、粉に粘土を加えて練る炭団を利用しました。当然どちらも火の着きはかなり悪かったわけです。

【語の読みと注】
節季 せっき
炭団 たどん

ライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ

落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

あなどろ【穴泥】演目

スヴェンソンの増毛ネット

 穴ぐらに入ってしまった泥棒のはなし。タイトルそのものです。

別題:穴蔵の泥棒 晦日の三両

あらすじ

三両の金策に走り回っている男。

手当てが付かずに帰宅すると、かみさんに
「豆腐の角に頭をぶっつけて死んでおしまい」
と、ののられる。

癇にさわって家を飛び出した。

どこかで借りるあてはないかと思案しながら歩いていくと、浅草の新堀端あたりの、りっぱな角蔵がある商家の、二階の雨戸がスーッと開き、なにやら怪しの人影。

これは泥棒だから、捕まえてほうびをもらおうと見ていると、その男、屋根から立てかけた大八車をはしご代わり、天水桶から地面へと飛び下りて
「義どん、早く」

なんのことはない。店の若い者が夜間、こっそり吉原へ行っただけ。

男、ふと悪心が兆し、この脱出路を逆にたどって、まんまと二階に潜入した。

三両だけ盗ませてもらい、稼いで金ができたら、煎餅の袋でも下げて返しに来ようという、能天気な料簡。

明かりが射しているので下をのぞくと、祝い事でもあったのか、膳部や銚子が散らかったままだ。

だんだん大胆になってきた、にわか泥棒、残り物を肴に酒をガブガブ。

酔ってきて思わず
「もう少し熱いのを」
と言いかけ、あわてて口を押さえるうち、小さな子どもがチョロチョロ入ってきた。

もともと子煩悩なたちなので、抱いてあやしているうち、角火鉢につまずき、その拍子で土間の穴蔵に落っこちた。

底に水がたまっていて、思わず
「番頭さん、湯がぬるい」
とわめいたので店の者が起き出し、
「泥棒だ」
と、大騒ぎ。

だんなは、祝いの後なので縄つきを出したくないからと、鳶頭の食客のむこうみずの勝つぁんという男を頼み、泥棒を穴ぐらから引きずり出した上、説諭して見逃してやることにした。

この勝つぁん、身体中彫り物だらけでいかにも強そうだが、中の泥棒に
「下りてくりゃ、てめえの踵ィ食らいつく」
と脅されるととたんに尻込み。

だんなが一両やると言うとまた威勢がよくなるが、今度は
「てめえの急所にぶる下がる」
と言われて
「ええだんな、やっぱりお役人の方が」

賞金が二両に上がると下の泥棒に
「一両やるから上がってこい」

「下りてこい。てめえの喉笛ィ食らいつくから」
「だんな、あっしはごめんこうむって」
「困るよ。じゃ、三両あげるから」

これを聞いた泥棒
「えっ、三両ならこっちから上がっていこう」

底本:八代目林家正蔵(彦六)

スヴェンソンの増毛ネット

しりたい

円遊の明治風物詩  【RIZAP COOK】

現存のもっとも古い原話は、嘉永年間(1848-54)刊の笑話本『今年はなし』中の「どろ棒」ですが、文化年間(1804-18)から口演されている古い泥棒噺です。

もともと「晦日の三両」「穴蔵の泥棒」という演題だったのを、楽屋でネタ帳に省略して記されるうちに、自然に縮まって現題名になったといわれます。

明治期には、あの三遊亭円朝が速記を残しているほか、一門の初代三遊亭円右、初代三遊亭円遊が得意にしました。

円遊の明治24年(1891)の速記を見ると、大晦日で妻子を抱えて、借金でどうにも首がまわらなくなった、根は善良な職人の悲喜劇を鮮やかに描くとともに、女房に金策してこいと追い出された男が、「両国橋の欄干によりかかって河蒸気の走るを見下して(中略)奥山の十二階も銭がないのであがれず、公園を運動して溝を飛損ない向脛を摺りこはしたり、上野公園のぶらんこでゆすぶられて見たりして」と、明治の東京の景物詩を謳いあげたり、酔っ払って、「当時飲んだようのはサ、甘泉、ベルモット、びいるに葡萄酒、ラムネにシャンパン、日本酒、オヤ、牛の乳さアさ」という具合に、いかにも明治らしいハイカラ趣味の俗曲をうなったりと、噺の内容を離れても、当時の世相が目に浮かぶような貴重な「時代の証言」を残しています。

穴泥、昭和の名人たち  【RIZAP COOK】

昭和初期以後では、現在音源はありませんが、八代目桂文楽が、滑稽味より、どん底に生きる貧窮者の悲哀を色濃く出して名品に仕立てたほか、五代目古今亭志ん生、六代目春風亭柳橋、五代目柳家小さんが得意にしました。

あらすじの参考にしたのは八代目林家正蔵(彦六)のもので、同師のは円朝門下の三遊一朝の直伝ですが、四代目柳家小さんと初代柳家三語楼のやり方も取り入れ、向こう見ずの勝のナンセンスな描写は、三語楼の踏襲だと語っています。

ほとんどの演者は大晦日の節季に時期を設定していますが、正蔵は特に断っていません。

志ん生の爆笑編、柳好の悲劇  【RIZAP COOK】

速記、音源とも残る、五代目古今亭志ん生の「穴泥」は、やはり師匠・初代三語楼の影響でしょうが、八代目文楽とは対照的な、くすぐりだくさんの爆笑編です。

中でも、「質屋庫」の熊や「猫と金魚」の虎さんと同じく、いざとなるとからっきしダメな平さん(=勝つぁん)がいばって、尻と背中に三種類の彫り物(ひょっとこ、おかめ、般若)があると自慢したり、男が入り込んだ先で酔っ払い、独り言でかみさんとのなれそめをえんえんとノロけたりする場面は志ん生ならではのおもしろさです。

この噺はもう一つ、戦後、リズミカルで陽気な芸風で人気のあった三代目春風亭柳好の最後の高座でもありました。昭和31年(1956)3月14日水曜日、赤坂のラジオ東京(TBS)で「穴泥」のラジオ録音を済ませた柳好は、その足で上野・鈴本の楽屋入りしましたが、数時間後に脳出血で倒れて意識不明に。同日夜、楽屋で亡くなったものです。享年67。最後に穴に入るこの噺が、文字通り「墓穴」を暗示してしまったわけです。

穴蔵  【RIZAP COOK】

火災時などに貴重品を投げ込む、幅2メートル四方、深さも同じくらいの穴です。縁板をはがして土間に掘りますが、東京の下町は標高が低く、この噺のように、穴の底に浸水していることが多かったのです。江戸で穴蔵が初めて現れたのは、明暦2年(1656)といいますから、名高い明暦の大火(明暦3年3月18日)の前年にあたります。

穴蔵大工という専門の大工職人がいたほど、穴蔵は一般的でした。もちろん、長屋のような借地では望むべくもありませんが、大店や老舗では穴蔵は普及していたといいます。厚い木の板の四角形を穴蔵にすっぽり埋め込む方式、井戸をつくるように内壁を石で固める方式、素掘りで周りが土だらけの方式などがありました。金次第でいかようにもつくれたわけです。

防火用の備えが出てくる噺には、「火事息子」「味噌蔵」「鼠穴」があります。遠くでの火事(遠火)なら、財産を収めた土蔵に用心土で目塗り(火災で土蔵の戸前を塗り塞ぐ)をするのが普通の対策ですが、近火の場合は穴蔵に家財を投げ込み、蓋の上に盛り土や濡れ布団などをかぶせます。火が入り込まないようにするのですね。

新堀端  【RIZAP COOK】

蔵前から浅草三筋町を経て、下谷竜泉寺まで通じていた掘割です。男が侵入する家の所在は、演者により異なります。初代円遊では下谷黒門町、五代目志ん生は特定していません。

【語の読みと注】
癇 かん

スヴェンソンの増毛ネット

落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

あたごやま【愛宕山】演目

京でだんなが野がけ。かわらけ代わりに小判投げ。見るや幇間が傘で降下。

あらすじ

ころは明治の初年。

だんなのお供で、朋輩の繁八や芸者連中とうちそろって京都見物に出かけた幇間の一八。

負けず嫌いで、なにを聞かれても
「朝飯前でげす」
と安請け合いをするのが悪い癖。

あらかた市内見物も済み、今度は愛宕山に登ろうという時に、だんなに、
「愛宕山は高いから、おまえにゃ無理だろう」
と言われたが、一八は
「冗談言っちゃいけませんよ。あたしだって江戸っ子です。あんな山の一つや二つ、朝飯前でげす」
と見栄を張ったばっかりに、死ぬ思いでヒイヒイ言いながら登る羽目になった。

弟弟子の繁八をなんとか言いくるめて脱走しようとするが、だんなは先刻お見通しで、繁八に見張りを言いつけてあるから、逃がすものではない。

おまけに、途中でだんなに
「早蕨(さわらび)の 握り拳を振り上げて 山の横面 春(=張る)風ぞ吹く」
という歌を自慢げに披露したまではいいが、
「それじゃ、サワラビってえのはなんのことだ」
と逆に聞かれて、シドロモドロ。

おかげで十円の祝儀をもらい損なう。

ようやく山頂にたどり着くと、ここでは、かわらけ投げが名物。

茶屋のばあさんから平たい円盤を買って、頂上からはるか下の的に向かって投げる。

だんなは慣れていて百発百中。

夫婦投げという二枚投げも自由自在だが、一八がまた「朝飯前」と挑戦しても、全くダメ。

そのうちだんな、酔狂にもかわらけの代わりに本物の小判を投げ始めたから、さあ一八は驚いた。

「もったいない」
と止めると、
「おまえには遊びの味がわからない」
と、とうとう三十枚全部放ってしまう。

拾った奴のものだと言うので、欲にかられた一八、だんなが止めるのも聞かばこそ、千尋の谷底目がけ、傘でふわりふわりと落下。血走りまなこで落ちていた三十枚全部かき集めた。

「おーい、金はあったかー」
「ありましたァー」
「全部てめえにやるぞー」
「ありがとうございますゥー」
「どうやって登るゥー」
「あっ、しまった」
「欲張りめ。狼に食われてしまえ」

奴さん、何を考えたか、素っ裸になると着物を残らすビリビリと引き裂き、長い紐をこしらえると、そいつを嵯峨竹に引っかけ、竹の弾力を利用して、反動で空高く舞い上がるや、
「ただいまっ」
「えらいっ、きさまを生涯贔屓(ひいき)にしてやるぞ」
「ありがとう存じますっ」
「金は?」
「あっ、忘れてきた」

【RIZAP COOK】

底本:八代目桂文楽

しりたい

黒門町!  【RIZAP COOK】

三代目円馬からの直伝で「黒門町」こと八代目文楽が継承し、磨きに磨いて、一字一句ゆるがない名人芸に仕上げました。

特に後半の、竹をたわめる場面は体力を要するので、晩年、侍医に止められましたが、文楽は最後まで「愛宕山」に固執したといいます。

ひいさん   【RIZAP COOK】

この噺に出てくるだんなは、文楽のパトロンだったひいさんこと樋口由恵がモデルです。樋口由恵(ひぐちよしえ、1895-1974)は山梨県増穂町(現富士川町)出身の経営者。大正期に上京、昭和初期に川崎陸送を創業し成功させた立志伝中の人です。

桂文楽の話を正岡容が聞き書きしてまとめた『芸談あばらかべっそん』(桂文楽、 青蛙房、1957年→朝日ソノラマ文庫、1967→ちくま文庫、1992年 )。こんなくだりが載っています。以下、ご参考まで。

私を大へんひいきにして下すったお方のひとりに樋口由恵さんとおっしゃるお方がございます。「東京新聞」の須田栄先生をやせさせたような感じの方です。
お家は甲府で、お父さんは樋口半六という県会議員もなすった方で、御本業は運送屋さんで、お邸の中にレールまでしいてあるという、すばらしい御商売振りなんです。
丁ど、大地震のすぐあとでしたネ、各派が一しょになって焼けのこった山の手の席をうっているころのことでした。
私は芝の席がトリでしたが、四谷の喜よしへ向嶋の待合から電話がかかって来ましてネ、
「ぜひ来て下さいよ。来て下さらないと。そのお客さまが大へんなんです」
と、こうなんです。
ところが生憎そのときはカケモチが何軒もあるので、
「折角ですが今晩は伺えません」
そういって断わると、一、二日してまた電話が、今度は幇間(たいこもち)からかかって来て、
「師匠助けるとおもって来て下さいな。でないと我々が困るんです」
と、こういうんです。
「じゃあ伺いましょう。けど、あと三軒歩きますから十一時過ぎになりますが……」
「それでもいいから、とにかく一ぺん来て下さい」
それから席を二、三すませていったから、もう十二時ちかくでしょう。
そのじぶんですから或いは十二時過ぎていたかもしれませんが、
「今晩は……」
と入ってゆくと、その待合じゅうがシーンとしているんです。
女将もでて来なけりゃ、第一、階下でシャダレがふてくされて、二、三人ねそべっている。
ところへさっき電話をかけて来た幇間がでて来て、
「よく来てました。ヒーさんてえお客さまなんですがネ、この間の晩、師匠がおいで頂けなかったでしょう。そうしたら、ヤイてめえンとこじゃ文楽はよべねえのかって、芸者が引叩かれる、つねられる、だもンで今夜もみんなイヤがってアアやって寄付かないんですよ」
いわれて私もいささかコワクなりましたが、ソーッと二階へ上がっていって障子の穴から透き見をしてみると、成程、皿小鉢がこわれて、そのお客さまはうなだれて、
「ウーム……ウーム」
とうなっています。
「今晩は……」
そこで私が低くこういいながら入っていったら、とたんに一と目みて、
「ヨーッ来たな」
そのマー喜びようたらないんです。
「オイオイ師匠がみえたじゃないか。何をしているんだ。早くそこらを片付けろ片付けろ」
って、急いで女中たちに皿小鉢を片付けさせて、ガラッと一ぺんに世界が変わったように明るくなってしまったんです。
「オイ文楽さん、私は前から君のファン(というコトバはまだなかったでしょうが)なんだよ」
といった塩梅で御祝儀を下すって、その晩は泊ってゆけとおっしゃるんですが、私ははじめてのお客の前で不見転を買うのはいやだから御辞退したんだが、先方さんはすぐ妓をよんで下すっていて、
「じゃこの妓じゃ師匠の気に入らないんだろう。面食(めんく)いだネこの人は……」
てんで、次々とかえては三人もよんで、
とうとう女将が私を次の間によんで、
「師匠が泊って下さらないと、またヒーさんがお怒りになりますから」
てんで、それから私も心得てすぐひけ(寝る)てえことにしましたら、
「ハハーあの妓はきに入ったんだな」
てんで、大へんなごきげんでかえっていった。連中みんなはじめてホッとしたそうで、何しろ大へんな荒れようだったんだから、そりゃマーそうでしょうよ。

米朝の「愛宕山」  【RIZAP COOK】

文楽演出を尊重しながらも、いかにも大阪らしい「愛宕山」を演じて、これも十八番、名人芸です。

桂米朝始め上方バージョンでは、東京と異なり、大阪ミナミの幇間の一八と繁八が、京都・室町のだんなのお供で野駆け(のがけ=ピクニック)に出かけ、ついでに愛宕山に参詣を、となります。だんながあまり大阪をくさす(ケチをつける)ので、腹を立てた二人が、だんながかわらけ投げをしているのを、「京の人間はシミったれやさかい、あんなもんしかよう放らん」と、いやみを言い、だんなが怒って小判を投げるという設定です。

同じ取り持ち稼業でも、大阪の幇間は決してイエスマンでなく、反骨精神旺盛だったようですね。

かわらけ投げ  【RIZAP COOK】

江戸でも、王子の飛鳥山、谷中の道灌山でさかんに行われていました。

日ぐらしは 壱文ずつが 飛んでいき
かわらけが 逸れて桜の 花が散り

春の行楽の風物詩でした。「日ぐらし」とは日暮らしの里。現在の荒川区日暮里あたりをさします。

京都の愛宕山  【RIZAP COOK】

京都市右京区上嵯峨北西部にあり、海抜は924m(3049尺)とけっこう高い山です。京都市の北東の比叡山(848m)と並ぶ霊峰です。愛宕山は五つの峰(朝日山、大鷲峰、龍上山、高雄山、鎌倉山)からなる総称をいいます。中国の五台山にならって、「愛宕五峰」「愛宕五坊」などと呼ばれました。

朝日峰の山頂には、本宮にイザナミを、若宮に火産霊神(軻遇突智命)をまつる愛宕神社があります。若宮の神はイザナミの子で、イザナミが出産した際にホトをやけどしてしまい、その傷がもとで死んでしまいます。怒ったイザナギは十拳剣でこの神を刺し殺します。剣から滴り落ちた血から神々が生まれました。

愛宕神社は、神仏習合(神祇信仰と仏教が融合した信仰形態)だった頃は白雲寺と呼ばれていました。明治初期の神仏分離令で廃寺となり、愛宕神社にさまがわりしました。

朝日峰  愛宕権現白雲寺→愛宕神社 変容存続
大鷲峰  月輪寺 存続 天台宗
高雄山  神護寺 存続 真言宗
龍上山  日輪寺 廃寺
鎌倉山  伝法寺 廃寺

ここは修験道の道場でもありました。さらには、塞の神信仰(土地の境界を守る神への信仰)や陰陽道、天狗信仰、勝軍地蔵信仰(軍神)、おまけに火の神を仰ぐところから火除けの信仰も篤く、信仰の百貨店のようなさまでした。

「火迺要慎(ひのようじん)」と記された愛宕神社の火伏せ札は、京都の台所や厨房に張られています。「愛宕の三つ参り」として、三歳までにお詣りすると生涯火災に遭遇することがないと伝えられています。

重要なのは火伏せの神として尊崇されていることです。明治期より前には、火除け、火伏せの神はより多く信仰されていました。一年を通じてにぎわいましたが、特に、陰暦6月24日の愛宕千日詣では有名です。京都の人々には「伊勢へ七度、熊野へ三度、愛宕山には月参り」とうたわれました。火の神さまは愛宕神社以外には、秋葉山本宮秋葉神社(浜松市)を頂点とする秋葉神社や野々宮神社(京都市右京区、東京都港区など)でまつられています。

『都名所図会』には、「月ごとの縁日にも老人は皿竹輿をかりてたすけられ、婦人童子のわかちもなく、万仭のけわしきをいとわず、坂路の茶店に休らえば、白雲目の前を横とう。あるいは、土器なげに興じて足の重きを忘れる」とあるほど。

登山の途中で一八がひけらかす「早蕨の……」の狂歌は、当人が知っていたかどうかは定かではありませんが、江戸天明狂歌のパイオニア、蜀山人大田南畝(1749-1823)の作です。

東京の愛宕山は港区愛宕一丁目にありますが、こちらは京の愛宕大権現を慶長8年(1603)に勧請しました。東京支店ですね。

かしくのこぼればなし  【RIZAP COOK】

「私はこれをかしく師匠(引用者注:二代目文の家かしく、のち三代目笑福亭福松。1884-1962)に習ったのですが『愛宕山へいっぺん行って来なあきまへんな』と言うと『行ったらやれんようになるで。この噺嘘ばっかりやさかい』と言われて……」 

『米朝ばなし 上方落語地図』(桂米朝、毎日新聞社→講談社文庫、1981年)

何度も記しますが、古い同題の上方噺を三代目三遊亭円馬が東京風に脚色しました。円馬から八代目桂文楽に伝わる。文楽のおはこでした。

東京の噺家が語る上方を舞台にした噺の一。「三十石船」などほかにもありますが、中国人俳優が日本人役として登場するハリウッド映画のような珍妙ぶり。愛宕山とは、もちろん京都のです。東京のではありません。修験道の聖地。山頂には愛宕神社があります。「堀の内」の上方版「いらちの愛宕まいり」もここが舞台となっています。

茶店の傘  【RIZAP COOK】

この手の茶店には傘が常備されてありました。そこからの発想なのでしょう。借りたら返さなくてはいけないわけで、ということは、その店を再訪しなくてはいけないため、せちがらい現代社会には耐えられず、消えていく風習となっていったのですね。

【語の読みと注】
朋輩 ほうばい
火産霊神 ほむすびのかみ
軻遇突智命 かぐつちのみこと
十拳剣 とつかのつるぎ
皿竹輿 さらかご
万仭 ばんじん

落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

あおな【青菜】演目

【RIZAP COOK】

 

柳家の噺。屋敷でだんなから聞きかじった「奥や」を植木職人が家で鸚鵡返し。

別題:弁慶

【RIZAP COOK】

あらすじ

さるお屋敷で仕事中の植木屋、一休みでだんなから「酒は好きか」と聞かれる。

もとより酒なら浴びるほうの口。

そこでごちそうになったのが、上方の柳影(やなぎかげ)という「銘酒」だが、これは実は「なおし」という安酒の加工品。

なにも知らない植木屋、暑気払いの冷や酒ですっかりいい心持ちになった上、鯉の洗いまで相伴して大喜び。

「時におまえさん、菜をおあがりかい」
「へい、大好物で」

ところが、次の間から奥さまが
「だんなさま、鞍馬山から牛若丸が出まして、名を九郎判官(くろうほうがん)」
と妙な返事。

だんなもだんなで
「義経にしておきな」

これが、実は洒落で、菜は食べてしまってないから「菜は食らう=九郎」、「それならよしとけ=義経」というわけ。

客に失礼がないための、隠し言葉だという。

植木屋、その風流にすっかり感心して、家に帰ると女房に
「やい、これこれこういうわけだが、てめえなんざ、亭主のつらさえ見りゃ、イワシイワシってやがって……さすがはお屋敷の奥さまだ。同じ女ながら、こんな行儀のいいことはてめえにゃ言えめえ」
「言ってやるから、鯉の洗いを買ってみな」

もめているところへ、悪友の大工の熊五郎。

こいつぁいい実験台とばかり、女房を無理やり次の間……はないから押し入れに押し込み、熊を相手に
「たいそうご精がでるねえ」
から始まって、ご隠居との会話をそっくり鸚鵡返し……しようとするが……。

「青いものを通してくる風が、ひときわ心持ちがいいな」
「青いものって、向こうにゴミためがあるだけじゃねえか」
「あのゴミためを通してくる風が……」
「変なものが好きだな、てめえは」
「大阪の友人から届いた柳影だ。まあおあがり」
「ただの酒じゃねえか」
「さほど冷えてはおらんが」
「燗がしてあるじゃねえか」
「鯉の洗いをおあがり」
「イワシの塩焼きじゃねえか」
「時に植木屋さん、菜をおあがりかな」
「植木屋はてめえだ」
「菜はお好きかな」
「大嫌えだよ」

タダ酒をのんで、イワシまで食って、今さら嫌いはひどい。

ここが肝心だから、頼むから食うと言ってくれと泣きつかれて
「しょうがねえ。食うよ」
「おーい、奥や」

待ってましたとばかり手をたたくと、押し入れから女房が転げ出し、
「だんなさま、鞍馬山から牛若丸がいでまして、その名を九郎判官義経」
と、先を言っちまった。

亭主は困って
「うーん、弁慶にしておけ」

底本:五代目柳家小さん

【RIZAP COOK】

しりたい

青菜とは   【RIZAP COOK】

東京(江戸)では主に菜といえば、一年中見られる小松菜をいいます。冬には菜漬けにしますが、この噺では初夏ですから、おひたしにでもして出すのでしょう。

値は三文と相場が決まっていて、「青菜(は)男に見せるな」という諺がありました。これは、青菜は煮た場合、量が減るので、びっくりしないように亭主には見せるな、の意味ですが、なにやら、わかったようなわからないような解釈ですね。

柳影は夏の風物詩   【RIZAP COOK】

柳影とは、みりんとしょうちゅうを半分ずつ合わせてまぜたものです。江戸では「直し」、京では「やなぎかげ」と呼びました。夏のもので、冷やして飲みます。暑気払いによいとされていました。

みりんが半分入っているので甘味が強く、酒好きには好まれません。夏の風物詩、年中行事のご祝儀ものとしての飲み物です。

これとは別に「直し酒」というのがあります。粗悪な酒や賞味期限を過ぎたような酒をまぜ香りをつけてごまかしたものです。

イワシの塩焼き   【RIZAP COOK】

鰯は江戸市民の食の王様で、天保11年(1840)正月発行の『日用倹約料理仕方角力番付』では、魚類の部の西大関に「目ざしいわし」、前頭四枚目に「いわししほやき(塩焼き)」となっています。

とにかく値の安いものの代名詞でしたが、今ではちょっとした高級魚です。

隠語では、女房ことば(「垂乳根」参照)で「おほそ」、僧侶のことばでは、紫がかっているところから、紫衣からの連想で「大僧正」と呼ばれました。

判官   【RIZAP COOK】

源義経は源義朝の八男ですから、八郎と名乗るべきなのですが、おじさんの源為朝が鎮西八郎為朝と呼ばれることから、遠慮して「九郎」と称していたといわれています。これは、「そういわれていた」ことが重要で、ならばこそ、後世の人々は「九郎判官義経」と呼ぶわけです。

それともうひとつ。判官は、律令官制で、各官司(役所)に置かれた4階級の幹部職員の中の三番目の職位をいいます。4階級の幹部職員とは四等官制と呼ばれるものです。上から、「かみ」「すけ」「じょう」「さかん」と呼ばれました。これを役所ごとに表記する文字さまざまです。表記の主な例は以下の通り。

かみ(長官):伯、卿、大夫、頭、正、尹、督、帥、守
すけ(次官):副、輔、亮、助、弼、佐、弐、介
じょう(判官):祐、丞、允、忠、尉、監、掾
さかん(主典):史、録、属、疏、志、典、目

この一覧の字づらを覚えておくとなにかと便利なのですが、それはともかく。義経は、朝廷から検非違使の尉に任ぜられたことから、「九郎判官義経」と呼ばれるのです。もっとも、兄の頼朝の許可をもらうことなく受けてしまったため、兄からにらまれ始め、彼らの崩壊のきっかけともなりました。朝廷のおもわくは二人の仲を裂かせて弱体化させようとするところにありました。戦うことにしか関心がなくて政治の闇に疎い義経はいいカモだったのでしょう。

「判官」は「はんがん」が普通の呼び方ですが、検非違使の尉の職位を得た義経に関しては「ほうがん」と呼びます。検非違使では「ほうがん」と呼んだらしいのです。検非違使は「けびいし」と読み、都の警察機関です。

ちなみに、「ほうがんびいき」とは「判官贔屓」のことで、兄に討たれた義経の薄命を同情することから、弱者への同情や贔屓ぶりを言うわけです。

弁慶、そのココロは   【RIZAP COOK】

オチの「弁慶」は「考えオチ」というやつで、「立ち往生」の意味を利かせています。

今では、『義経記』に描かれる弁慶立ち往生の故事がわかりづらくなったり、「途方にくれる、困る」という意味の「立ち往生」が死語化している現在では、説明なしには通じなくなっているかもしれません。

上方では人におごられることを「弁慶」というので、(これは上方落語「舟弁慶」のオチにもなっています)このシャレにはその意味も加わっているでしょう。

弁慶は、『吾妻鏡』には「弁慶法師」と1回きりの登場だそうです。まあ、鎌倉幕府の視点からはどうでもよい存在だったのでしょう。負け組ですから。それでも、主君を支える忠義な男、剛勇無双のスーパースターとしては、今でも最高の人気を得ています。

小里ん語り、小さんの芸談   【RIZAP COOK】

この噺は柳家の十八番といわれています。ならば、芸談好き、五代目柳家小さんの芸談を聴いてみましょう。弟子の小里んが語ります。

植木屋が帰ったとき、「湯はいいや。飯にしよう」って言うでしょ。あそこは、「一日サボってきた」っていう気持ちの現れなんだそうです。「お客さんに分かる分からないは関係ない。話を演じる時、そういう気持ちを腹に入れておくことを、自分の中で大事にしろ」と言われましたね。だから、「湯はいいや。飯にしよう」みたいな言葉を、「無駄なセリフ」だと思っちゃいけない。無駄だといって刈り込んでったら、落語の科白はみんななくなっちゃう。そこを、「なんでこの科白が要るんだろうって考えなきゃいけない。落語はみんなそうだ」と師匠からは教えられました。

五代目小さん芸語録柳家小里ん、石井徹也(聞き手)著、中央公論新社、2012年

なるほどね。芸態の奥は深いです。

【RIZAP COOK】

落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

あさのれん【麻暖簾】演目

スヴェンソンの増毛ネット

落語の按摩さんは、なぜか強情な人が多いです。

別題:按摩の蚊帳

【あらすじ】

按摩の杢市は、強情で自負心が強く、目の見える人なんかに負けないと、いつも胸を張っている。

今日も贔屓のだんなの肩を揉んで、車に突き当たるのは決まってまぬけな目の見える人だという話をしているうちに夜も遅くなった。

だんなが泊まっていけと言って、離れ座敷に床を取らせ、夏のことなので、蚊帳も丈夫な本麻のを用意してくれた。

女中が部屋まで連れていくというのを、勝手知っているから大丈夫だと断り、一人でたどり着いたはいいが、入り口に麻ののれんが掛かっているのを蚊帳と間違え、くぐったところでぺったり座ってしまう。

まだ外なので、布団はない。

いやに狭い部屋だと、ぶつくさ言っているうちに、蚊の大群がいいカモとばかり、大挙して来襲。

杢市、一晩中寝られずに応戦しているうち、力尽きて夜明けにはコブだらけ。

まるで、金平糖のようにされてしまった。

翌朝、だんながどうしたのと聞くので、事情を説明すると、だんなは、蚊帳をつけるのを忘れたのだと思って、杢市に謝まって女中をしかるが、杢市が蚊帳とのれんの間にいたことを聞いて苦笑い。

「いったい、おまえは強情だからいけない」
と注意して、
「今度は意地を張らずに案内させるように」
と、さとす。

しばらくたって、また同じように遅くなり、泊めてもらう段になった。

また懲りずに杢市の意地っ張りが顔を出した。

だんなが止めるのも聞かず、またも一人で寝所へ。

今度は女中が気を利かせて麻のれんを外しておいたのを知らず、杢市は蚊帳を手で探り出すと
「これは麻のれん。してみると、次が蚊帳だな」

二度まくったから、また外へ出た。

底本:五代目古今亭志ん生

スヴェンソンの増毛ネット

【しりたい】

ジュアル落語の典型

原話は不明です。この噺を得意にしていた晩年の三代目小さんの、「按摩の蚊帳」と題した速記(大正13年)が残されていますが、もともとオチを含め、「こんにゃく問答」などと同じく、実際に寄席で「目で見る」噺なので、速記も少なく、音源もあまりありません。

昭和に入って、ラジオ放送やレコードが盛んになっても、このため、これらのメディアに取り上げられることも少なかったようです。

小さんにはオチのところに工夫があります。杢市が最初、のれんにそっと触れ、次に両手を広げて大きな動作で触るというものです。これも目で見ていないとその芸の細かさはわからないでしょう。

オチも普通に寄席で演じるときはしぐさオチで、蚊帳の外に出たところを動作で表現しますが、レコードやラジオではそうはいかず、戦後この噺を一手専売にした五代目古今亭志ん生も、速記では「また向こうへ出ちゃった」と地の説明で終わっています。

志ん生の隠れた逸品

戦後は五代目志ん生の独壇場でした。志ん生がいつ、誰からこの噺を教わったか、よくわかりません。やり方は三代目小さんのものを踏襲しながら、「目をあいてりゃァなんか見りゃァほしくなってくるでしょ?……それェ見ただけで、エエほしいなッと思うことが、自分の思ったことが通らない。じゃァ情けないじゃァありませんか。それよか目が見 め)えなきゃなんにも見ないですからねェ、ええ。これいちばんいいですよォ。ああァ目あきは気の毒だ……」というようなセリフに、杢市の片意地、負けず嫌いと、その裏にある身障者の屈折した心理が、より色濃く出ているといえるでしょう。

志ん生没後は、五代目小さんが時々演じたくらいで、現在はあまりやり手がいません。

三代目小さん以来、前半に杢市がだんなに語る、提灯を持っていて暗闇で人に突き当たられ、「おまえさんみたいな、そそっかしい目あきに突き当たられんのが嫌だから、こうやって提灯を持ってるんだァ」と毒づいたはいいが、実は提灯の灯はもともと消えていた、という体験談を入れるのがお決まりです。こうした内容も、昨今ではいろいろな意味で誤解を生じやすく、やりにくくなっているのが現状でしょう。

蚊帳にもいろいろ

蚊帳は、古くは竿を通し、天井から吊り下げました。部屋の大きさによって、五六 (五六は縦横の割合。三畳用)や六七(四畳半用)などの種類がありました。これを「箱蚊帳」といいます。子供用、または一人用のは簡易な「幌蚊帳」です。材質は麻がいちばん。軽くて丈夫で風通しがよくて雷除けにもなりました。麻と木綿との混織もありましたが、蚊帳はなんといっても麻にかぎりました。

この噺で杢市が寝かされるのは八畳間で、本式には八十のサイズになりますが、三代目小さんの速記では六八(正確には七八。六畳用)で代用しています。

女の按摩

按摩は按摩取ともいい、マッサージ、鍼灸師の古称です。この仕事は江戸時代には目の不自由な人がほとんどでした。四世鶴屋南北作の歌舞伎『東海道四谷怪談』の宅悦、同じく黙阿弥作『加賀鳶』の熊鷹道玄とおさすりお兼のように、健常者もいました。女性の按摩もけっこう多かったようです。女性の按摩には按摩以外にも売春をする人もいたようです。「枕つきのもみ療治、二朱より安い按摩はしないよ」と居直る、尾上多賀之丞のお兼のセリフは有名です。

男性の按摩は「当道座」という全国的な互助組合が組織させていましたが、女性の按摩には「瞽女座」がありました。「盲御前」がなまって「瞽女」となったということです。こちらは全国組織ではなく、駿河、甲斐、信濃、越後あたりに留まり、多くは藩が抱えていました。瞽女の主たる仕事は三味線を弾いて歌謡して流すこと。とりわけ、長岡藩では藩主牧野氏と縁故があった山本ごいが瞽女頭となり、瞽女屋敷を拝領、継承は徒弟制でした。代々の瞽女頭は「ごい」を名乗りました。何人かで連れ合って各地を巡遊し、昼は門付け、夜は瞽女宿で寄席を催して地域の人々をなごませました。

振りの按摩

流しのもみ療治を「振りの按摩」といいましたが、振りでも固定客がつけば、なかなか羽振りはよくなります。「按摩上下十六文」と、芝居の中でよく朗誦して流していく按摩が登場しますが、実際は三十二文から四十八文が相場。自宅で診療所のように「足力」を営む場合は、鍼灸付きで幕末には百文。ステータスと技術は、「振り」とは段違いに本格でした。「あんまはりの療治」というその看板の文句は「あやまった(しまった)」という意味の地口として、「あやまはりの……」と、よく使われました。

いちな

この噺に登場するのは「杢市」で、芝居や落語に登場する按摩さんはよく「徳の市」とか「恭城」とか、名前の後に「いち」が付いています。これはかつて琵琶法師にだけ与えられた「城」「都」「市」「一」「壱」(いずれも「いち」と読みます)の字を名前に添える「いちな」というものです。

検校、勾当、座頭、衆分の順で格付けされた当道座(按摩、琵琶法師など視覚障害者の同業組合)の世界で通用する認定証のような名称でしたが、江戸時代になると、当道座とは関係のない人たちも「いちな」を付けるようになっていきました。

【語の読みと注】
按摩 あんま
瞽女 ごぜ
杢市 もくいち
贔屓 ひいき
当道座 とうどうざ
瞽女座 ごぜざ
足力 そくりき

落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

スヴェンソンの増毛ネット

あけがらす【明烏】演目

 

 堅物がもてるという、廓が育む理想形。ビギナーズラック、はたまたの成功譚。

【あらすじ】

異常なまでにまじめ一方と近所で評判の日本橋田所町・日向屋半兵衛のせがれ時次郎。

今年十九だというに、いつも本にばかりかじりつき、女となれば、たとえ雌猫でも鳥肌が立つ。

今日も今日とて、お稲荷さまの参詣で赤飯を三杯ごちそうになったととくとくと報告するものだから、おやじの嘆くまいことか。

「堅いのも限度がある、いい若い者がこれでは、跡継ぎとしてこれからの世間づきあいにも差し支える」
と、かねてからの計画で、町内の札付きの遊び人・源兵衛と太助を「引率者」に頼み、一晩、吉原での遊び方を教えてもらうことにした。

「本人にはお稲荷さまのおこもりとゴマまし、お賽銭が少ないとご利益がないから、向こうへ着いたらお巫女さん方へのご祝儀は、便所に行くふりをしておまえが全部払ってしまいなさい、源兵衛も太助も札付きのワルだから、割り前なんぞ取ったら後がこわい」
と、こまごま注意して送り出す。

太助のほうはもともと、お守りをさせられるのがおもしろくない。

その上、若だんながおやじに言われたことをそっくり、「後がこわい」まで当人の目の前でしゃべってしまったからヘソを曲げるが、なんとか源兵衛がなだめすかし、三人は稲荷ならぬ吉原へ。

いかに若だんながうぶでも、文金、赭熊(しゃごま)、立兵庫(たてひょうご)などという髪型に結った女が、バタリバタリと上草履の音をさせて廊下を通れば、いくらなんでも女郎屋ということはわかる。

泣いてだだをこねるのを二人が
「このまま帰れば、大門で怪しまれて会所で留められ、二年でも三年でも帰してもらえない」
と脅かし、やっと部屋に納まらせる。

若だんなの「担当」は十八になる浦里という、絶世の美女。

そんな初々しい若だんななら、ワチキの方から出てみたいという、花魁からのお見立てで、その晩は腕によりをかけてサービスしたので、堅い若だんなも一か所を除いてトロトロ。

一方、源兵衛と太助はきれいさっぱり敵娼(あいかた)に振られ、ぶつくさ言いながら朝、甘納豆をヤケ食い。

若だんなの部屋に行き、そろそろ起きて帰ろうと言ってもなかなか寝床から出ない。

「花魁は、口では起きろ起きろと言いますが、あたしの手をぐっと押さえて……」
とノロケまで聞かされて太助、頭に血が昇り、甘納豆をつまんだまま梯子段からガラガラガラ……。

「じゃ、坊ちゃん、おまえさんは暇なからだ、ゆっくり遊んでらっしゃい。あたしたちは先に帰りますから」
「あなた方、先へ帰れるなら帰ってごらんなさい。大門で留められる」

【しりたい】

極め付き文楽十八番

あまり紋切り型は並べたくありませんが、この噺ばかりはまあ、上記の通りでしかたないでしょう。

八代目桂文楽が二ツ目時代、初代三遊亭志う雀(のち八代目司馬龍生)に習ったものを、四十数年練り上げ、戦後は、古今亭志ん朝が台頭するまで、文楽以外はやり手がないほどの十八番としました。

それ以前は、サゲ近くが艶笑がかっていたのを改め、おやじが時次郎を心配して送り出す場面に情愛を出し、さらに一人一人のしぐさを写実的に表現したのが文楽演出の特徴でした。

時代は明治中ごろとし、父親は前身が蔵前の札差で、維新後に問屋を開業したという設定になっています。

原話となった心中事件

「明烏○○」と表題がついた作品は、明和年間(1764-72)以後幕末にいたるまで、歌舞伎、音曲とあらゆるジャンルの芸能で大量生産されました。

その発端は、明和3年(1766)6月、吉原・玉屋の遊女美吉野と、人形町の呉服屋の若旦那伊之助が、宮戸川(隅田川の山谷堀あたり)に身を投げた心中事件でした。

それが新内「明烏夢淡雪」として節付けされ、江戸中で大流行したのが第一次ブーム。

事件から半世紀ほど経た文政2年(1819)から同9年にかけ、滝亭鯉丈と為永春水が「明烏後正夢」と題して人情本という、今でいう艶本小説として刊行。第二次ブームに火をつけると、これに落語家が目をつけて同題の長編人情噺にアレンジしました。

現行の「明烏」はおそらく幕末に、その発端を独立させたものでしょう。

大門で止められる

「大門」の読み方は、芝は「だいもん」、吉原は「おおもん」と呼びならわしています。

吉原では、大見世遊びのときには、まず引手茶屋にあがり、そこで幇間と芸者を呼んで一騒ぎした後、迎えが来て見世(女郎屋)に行くならわしでした。

この噺では、茶屋の方もお稲荷さまになぞらえられては決まりが悪いので、早々に時次郎一行を見世に送り込んでいます。

大門は両扉で、黒塗りの冠木(かぶき)門。夜は引け四つ(午前0時)に閉門しますが、脇にくぐり門があり、男ならそれ以後も出入りできました。

大門に入ると、仲の町という一直線の大通り。左には番所、右には会所がありました。

左の番所は、町奉行所から来た与力や同心が岡っ引きを連れて張り込み、客らの出入りを監視する施設です。門番所、面番所とも。

右の会所は、廓内の自治会施設。遊女の脱走を監視するのです。吉原の初代の総名主である三浦屋四郎左衛門の配下、四郎兵衛が代々世襲名で常駐していたため、四郎兵衛会所と呼ばれました。

こんな具合ですから、治安のすこぶるよろしい悪所でした。むろん「途中で帰ると大門で止められる」は真っ赤な嘘です。

甘納豆

八代目桂文楽ので、太助が朝、振られて甘納豆をヤケ食いするしぐさの巧妙さは、今も古い落語ファンの間で語り草です。

甘納豆は嘉永5年(1858)、日本橋の菓子屋が初めて売り出しました。

文楽直伝でこの噺に現代的なセンスを加味した古今亭志ん朝は、甘納豆をなんと梅干の砂糖漬けに代え、タネをプッと吐き出して源兵衛にぶつけるおまけつきでした。

日本橋田所町

現在の東京都中央区堀留町二丁目。日本橋税務署のあるあたりです。

浦里時次郎

新内の「明烏夢淡雪」以来、「明烏」もののカップルはすべて「山名屋浦里・春日屋時次郎」となっています。

落語の方は、心中ものの新内をその「発端」という形でパロディー化したため、当然主人公の名も借りています。

うぶな者がもてて、半可通や遊び慣れた方が振られるという逆転のパターンは、『遊子方言』(明和7=1770年ごろ刊)以来、江戸の遊里を描いた「洒落本」に共通のもので、それをそのまま、オチに巧みに取り入れています。

【もっとしりたい】

ご存じ、8代目桂文楽のおはこ。文楽存命中はだれもやれず、のちに志ん朝がやった。もっとうまかった。

明和3(1766)年6月3日 (一説には明和6年とも) 、吉原玉屋の花魁美吉野と、人形町の呉服太物商春日屋の次男伊之助が、白ちりめんのしごき(女性の腰帯。結ばないでしごいて使う)でしっかり体を結び合って宮戸川(隅田川の山谷堀辺) に入水した。

これが、宮戸川心中事件といわれるもの。事件をもとに、初代鶴賀若狭掾が新内「明烏夢淡雪」として世に広めた。

さらに、文政2年(1819)-7年(1824)には、滝亭鯉丈と為永春水が続編のつもりで人情本『明烏後正夢』を刊行。この本の発端を脚色したのが落語の「明烏」である。以降、「明烏」ものは、歌舞伎、音曲などあらゆる分野で派生生産された。

うぶな男がもてて半可通が振られるという類型は、江戸の遊里を描いた洒落本には共通のもの。もてるもてないはどこか宿命めいている。修行の必要などなさそうだ。

(古木優)

落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

とみきゅう【富久】演目

すべてが崖っぷちの久蔵。富くじ当たって、土俵際でうっちゃった佳話。

【あらすじ

浅草安部川町の長屋に住む幇間の久蔵は、人間は実直だが大酒のみが玉に瑕。

酒の上での失敗であっちのだんな、こっちのだんなとしくじり、仕事にあぶれている。

ある年の暮れ深川八幡の富くじを、義理もあってなけなしの一分で買った。

札は「松の百十番」。

一番富に当たれば千両、二番富でも五百両。

久蔵、大神宮さまのお宮(神棚)に札をしまい、
「二番富でけっこうですから当たりますように」
と祈る。
「そうしたら堅気になり、二百三十両で売りに出ている小間物屋の店を買って、岡ぼれしている料亭「万梅」の仲居・お松っつあんを嫁にもらって」
と楽しい空想にふけりながら、一升酒をあおってそのまま高いびき。

夜中にすきま風で目を覚ますと、半鐘の音。

火事は芝金杉見当だという。

しくじった田丸屋のだんなの店はその方角だ。

久蔵、ご機嫌を取り結ぶのはこの時とばかり、押っ取り刀で火事見舞いに駆けつけると、幸い火は回っていない。

期待通りだんなが喜んで、出入りを許されたので久蔵は大喜び。

さっそく、火事見舞い客の張付けに大奮闘するが、ご本家から届けられた酒を見ると、もう舌なめずりで上の空。

だんなが苦笑して
「のむのはいいがな、おまえは酒でしくじったんだから、たんとのむなよ」
と言ってくれたので、大喜びで冷酒をあおっているうち、またもへべれけで寝入ってしまう。

夜更けに、また半鐘の音。

今度は久蔵の家がある浅草鳥越方向というので、だんなは急いで久蔵を起こすと、
「万一のことがあれば必ず店に戻ってこい」
と、ろうそくを持たせて帰す。

とんだ火事の掛け持ち。

久蔵、冬の夜空を急いで長屋に戻ると既に遅く、家は丸焼け。

しかたなく田丸屋に引き返すと、だんなは親切に店に置いてくれたので、久蔵は田丸屋の居候になる。

数日後、深川八幡の境内を通ると、ちょうど富くじの抽選。

「ああ、そう言えばおれも一枚買ったっけ」
と思い出したが、
「どうもあの札も火事で焼けちまった」
と、あきらめめ半分で見ていると
「一番、松の百十番」
の声。

「あ、当たったッ」

久蔵、卒倒した。

今すぐ金をもらうと二割引かれるが、そんなことはどうでもいい。
八百両あれば御の字だ。

「札をお出し」
「札は……焼けちまってないッ」
「当たり札がなければダメだ」
と言われ、
「よくも首っくくりの足を引っ張るようなまねをしやがったな、覚えてやがれ、俺は先ィ死んでてめえをとり殺す」
と、世話人にすごんでみても、ダメなものはダメ。

あきらめきれずに泣く泣く帰る途中、相長屋の鳶頭にばったり。
「火事だってえのに何処へ行ってたんだ。布団と釜は出しといてやった。それにしても、さすがに芸人だ。りっぱな大神宮さまのお宮だな。あれも家にあるよ」
「ど、泥棒ッ。大神宮さまを出せッ」
と半狂乱で喉首を締め上げたから、鳶頭は目を白黒。

やっと事情を聞いて
「なるほど、千両富の当たり札とは、狂うのも無理はねえ。運のいい男だなァ。おまえが正直者だから、正直の頭に神宿るだ」
「へえ、これも大神宮さまのおかげです。近所にお払いをいたします」

底本:八代目桂文楽

しりたい

八代目文楽の名人芸   【RIZAP COOK】

江戸時代の実話をもとに、円朝が創作したといわれる噺ですが、速記もなく、詳しいことはわかりません。というか、円朝作というのはうそでしょう。

それよりも、この噺の演者は、なんといっても八代目桂文楽が代表格です。文楽はすぐれた描写力で、冬の夜の寒さ、だんなと幇間の人間関係まで見事に浮き彫りにし、押しも押されぬ十八番に練り上げました。ここでのあらすじも文楽版をテキストにしていますが、強いていえば、人物の性格描写が時に類型的できれいごとに過ぎるのが、この師匠の難点だったでしょう。

そんなことはありませんよ」   【RIZAP COOK】

文楽の「富久」について、榎本滋民が気のきいた一文を残しています。

駆け出そうとする久蔵を、旦那が呼び止めて、類焼した場合には、遠慮なくうちを頼ってこいといってやるのだが、絶品とうたわれた八代目桂文楽の演出では、その前置きに、「そんなことはないよ」と、打ち消して見せる。念頭に浮かびがちな、いまわしい状況を、まず断定的に否認してやることによって、相手の不安の軽減を計る。さらに、「そんなことはない」とくり返してから、柔らかに逆転の「けど」をそえ、「もしものことがあったら、よそへ行くな。うちへ帰ってきておくれよ」という主文に接続させる。窮迫した者に、援助を確約しながら、その表明に、恩着せがましさをもたせまいとつとめるデリカシーが、この簡潔な否定の前置きに、十分働いている。表記の上では、なんの綾も曲もない否定文にしかすぎないものが、練達のいい回しによって、真情あふれる、味わい深いことばになるのも、話芸なればこそである。

榎本滋民『殺し文句の研究 PARTⅡ』(読売新聞社、1987年)から

なるほど。鋭く豊かな視点に脱帽です。

志ん生の「媚びない久蔵」   【RIZAP COOK】

五代目古今亭志ん生の「富久」も、文楽のそれとはまったく行き方の違う名品でした。

文楽が久蔵の実直さ、気の弱さを全面に出すのに対し、志ん生は酒乱と貧乏ゆえの居直り、ふてぶてしさを強調しました。志ん生の久蔵は、決してだんなに媚びてはいません。

ながらく貧乏していた志ん生は、久蔵の不安、やるせなさ、絶望感、それを酒に逃避する弱さを、自らの貧乏体験からはじき出して放埓に演じ、それが観客を勘違いさせて感動に結び付けていました。評論家諸氏は「志ん生は貧乏のどん底だった」といったりしますが、どうも違和感があります。たしかに「どん底」ではあったのかもしれませんが、「貧苦」とは無縁です。どこか楽しんでいたふしもあり、本人は「貧困」「貧窮」とは異なる次元での楽観した生活だったように思えます。

火事で家に急ぐ場面でも、文楽は「しょい、しょい、しょいこらしょっ」と様式的。志ん生は「寒い寒い、寒いよォ」と嘘も飾りもない裸の人間そのまま。両者の違いがはっきり出ています。

浅草阿部川町   【RIZAP COOK】

東京都台東区元浅草三、四丁目から寿一、二丁目。町名主が駿河・阿部川から移住してきたことから、この名があります。

もともと寺社地だったところが町屋になったためか、今でもこのあたりは寺ばかりです。江戸の頃は、裏長屋や同心などの御家人の住居が多く、正徳3年(1713)、町奉行所の直轄御支配地になっています。

大神宮さまのお宮   【RIZAP COOK】

大神宮とは伊勢神宮のことです。「神宮」はなにがしか天皇家と関係がある、という意味です。こんなこと、ガッコ―ではおせえてくれませんな。

伊勢神宮というのは、皇大神宮(内宮)と豊受大神宮(外宮)をあわせて総称です。内宮は天照大神をまつり、外宮は豊受大御神をおまつっています。この神さま天照大御神の食事係りです。さらには、衣食住、産業の守り神としても崇敬されています。そこまで敷衍されるのは、この神さま、じつはお稲荷さまと同一神だともいわれています。その話はいずれどこかの項目で。

さて。

この噺の大神宮さまとは伊勢の神さまを祭る神床をさします。歳末になると家々に回ってくる伊勢神宮の御師が神床を配ります。御師は旧年のお祓いをしに回ります。御師とは下級の神職者で、全国を分担して巡回していたようです。御師は来年の御札(神符、大麻)も配りますから、この来年用のを神棚にまつるのです。神棚はどんな貧しい長屋住まいにもあったようです。

大神宮信仰は、江戸では水商売や芸人に多くあったといわれています。縁起をかつぎ、霊験に誓い、大神宮の神床をおのれの経済力以上に大きなものをまつったりしていました。

神床は伊勢神宮の神明造を模したもので、これを「大神宮の御宮」と呼んでいました。

江戸の末期になると、都市部の町人に経済力が備わって、伊勢参宮ができるほどになりました。とはいえ、生涯一度のもので、大半の人々には夢のまた夢。江戸にいながら参拝できるようにと、伊勢神宮が代用品に売り出していたのがこれらの品々です。

それすら高価なので、買うのは芸者や幇間など花柳界の者が中心。芸人の見栄で、無理しても豪華なものを買う習わし、というのが本心だったようです。見栄を張って生きているのですが、富くじはこのあたりに隠しておくのが通り相場だったようです。」

伊勢の御師  【RIZAP COOK】

いせのおし。伊勢神宮の下級神官で、全国を回って、伊勢暦や大麻(天照大御神のお札)を売るのがつとめです。

伊世よりも三河は顔がのどかなり   二31

伊勢の御師さて銭の無いさかりに来る   五12

転宅を奇妙にさがす伊世の御師   六39

このネットワークは全国の最新情報を仕入れてくるため、事情通の人たちでした。今と違って引越し先を探すのは骨の折れることですが、そこはプロで、どこまでもやってくる、考えようによってはそらおそろしい人たちでした。伊勢神宮以外の神社でも同じような御師が多数巡回していましたが、伊勢神宮だけは数も多いし、配る(売りさばく)商品も多かったようです。

「三河」は三河万歳。笑わせるわけです。伊勢の御師はもっともらしくふるまうものですから、笑いはなく、年末年始に顔を出す二様のよそびとは雰囲気がかなり違っていたのですね。

【RIZAP COOK】

落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

しばはま【芝浜】演目

浜で財布を拾う。芝浜駅ならぐっときたのに。宴も高輪ゲートシティ―じゃあ。

あらすじ

芝は金杉に住む魚屋の勝五郎。

腕はいいし人間も悪くないが、大酒のみで怠け者。

金が入ると片っ端から質入してのんでしまい、仕事もろくにしないから、年中裏店住まいで店賃もずっと滞っているありさま。

今年も師走で、年越しも近いというのに、勝公、相変わらず仕事を十日も休み、大酒を食らって寝ているばかり。

女房の方は今まで我慢に我慢を重ねていたが、さすがにいても立ってもいられなくなり、真夜中に亭主をたたき起こして、このままじゃ年も越せないから魚河岸へ仕入れに行ってくれとせっつく。

亭主はぶつくさ言って嫌がるが、盤台もちゃんと糸底に水が張ってあるし、包丁もよく研いであり、わらじも新しくなっているという用意のよさだから文句も言えず、しぶしぶ天秤棒を担ぎ、追い出されるように出かける。

外に出てみると、まだ夜は明けていない。

カカアの奴、時間を間違えて早く起こしゃあがったらしい、ええいめえましいと、勝五郎はしかたなく、芝の浜に出て時間をつぶすことにする。

海岸でぼんやりとたばこをふかし、暗い沖合いを眺めているうち、だんだん夜が明けてきた。

顔を洗おうと波打ち際に手を入れると、何か触るものがある。

拾ってみるとボロボロの財布らしく、指で中をさぐると確かに金。

二分金で四十二両。

さあ、こうなると、商売どころではない。

当分は遊んで暮らせると、家にとって返し、あっけにとられる女房の尻をたたいて、酒を買ってこさせ、そのまま酔いつぶれて寝てしまう。

不意に女房が起こすので目を覚ますと、年を越せないから仕入れに行ってくれと言う。

金は四十二両もあるじゃねえかとしかると、どこにそんな金がある、おまえさん夢でも見てたんだよ、と、思いがけない言葉。

聞いてみるとずっと寝ていて、昼ごろ突然起きだし、友達を呼んでドンチャン騒ぎをした挙げ句、また酔いつぶれて寝てしまったという。

金を拾ったのは夢、大騒ぎは現実というから念がいっている。

今度はさすがに魚勝も自分が情けなくなり、今日から酒はきっぱりやめて仕事に精を出すと、女房に誓う。

それから三年。

すっかり改心して商売に励んだ勝五郎。

得意先もつき、金もたまって、今は小さいながら店も構えている。

大晦日、片付けも全部済まして夫婦水入らずという時、女房が見てもらいたいものがあると出したのは紛れもない、あの時の四十二両。

実は亭主が寝た後思い余って大家に相談に行くと、拾った金など使えば後ろに手が回るから、これは奉行所に届け、夢だったの一点張りにしておけという忠告。

そうして隠し通してきたが、落とし主不明でとうにお下がりになっていた。

おまえさんが好きな酒もやめて懸命に働くのを見るにつけ、辛くて申し訳なくて、陰で手を合わせていたと泣く女房。

「とんでもねえ。おめえが夢にしてくれなかったら、今ごろ、おれの首はなかったかもしれねえ。手を合わせるのはこっちの方だ」

女房が、もうおまえさんも大丈夫だからのんどくれと、酒を出す。

勝、そっと口に運んで、
「よそう。……また夢になるといけねえ」

しりたい

三題噺から

三遊亭円朝が幕末に、「酔っ払い」「芝浜」「財布」の三題で即席にまとめたといわれる噺です。➡鰍沢

戦後、三代目桂三木助が、四代目柳家つばめと劇評家・安藤鶴夫のアドバイスで、白魚船のマクラ、夜明けの空の描写、オチ近くの夫婦の情愛など、独特の江戸情緒をかもし出す演出で十八番とし、昭和29年度の芸術祭賞を受賞しましたが……。アンツルも三木助も自己陶酔が鼻につき、あまりにもクサすぎるとの評価が当時からあったようです。まあ、聞く人によって、好き嫌いは当然あるでしょう。

芝浜の河岸

現在の港区芝浦一丁目付近に、金杉浜町という漁師町がありました。そこに雑魚場という、小魚を扱う小規模な市があり、これが勝五郎の「仕事場」だったわけです。

桜の皮

今と違って、活きの悪い魚を買ってしまうこともありました。

あす来たら ぶてと桜の 皮をなめ   五25

魚屋に鮮度の落ちた鰹を売りつけられた時には、桜の皮をなめること。毒消しになると信じられていました。

いわし売り

そうは言っても、鰹以上に鰯は鮮度の落ちるのが早いものです。

気の迷いさと 取りかへる いわし売   六19

長屋のかみさんが鰯の目利きをしている光景のようです。「気の迷いさ」とは魚屋の常套句なんですね。

鰯はちょっと変わった魚です。たとえがおもしろい。「鰯」と言ったら、錆びた刀の意味にも使われます。「赤鰯」とも。「たがや」などに登場します。武士をあざける象徴としての言葉です。

本阿弥の いわしは見れど 鯨見ず   十三

鰯と鯨の対比とは大仰な。鰯は取るに足りない意味で持ちだされます。「いわしのかしらも信心から」ということわざは今でも使われます。江戸時代に生まれた慣用句です。「取るに足りないつまらないものでも、信心すればありがたいご利益や効験があるものだ」といった意味ですね。

いわし食った鍋

「鰯煮た鍋」「鰯食った鍋」という慣用句も使われました。「離れがたい間柄」といった意味です。そのココロは、鰯を煮た鍋はその臭みが離れないから、というところから。

いわし煮た 鍋で髪置 三つ食ひ   十

「髪置」とは「かみおき」で、今の七五三の行事の、三歳の子供が初めて髪を蓄えること。今は「七五三」とまとめて言っていますが、江戸時代にはそれぞれ独自の行事でした。「帯解」は「おびとき」で七歳の女児の行事、「袴着」は「はかまぎ」で三歳の男児の行事、これはのちに五歳だったり七歳だったりと変化しました。それと、三歳女児の「髪置」。三つともお祝い事であることと、十一月十五日あたりの行事であることで、明治時代以降、「七五三」と三つにまとめられてしまいました。それだけ、簡素化したわけです。といった前提知識があると、上の川柳もなかなかしみじみとした含蓄がにじみ出るものです。「大仏餅」参照。

【語の読みと注】
店賃 たなちん

落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

やぶいり【藪入り】演目

 

たっぷり笑わせ、しっかり泣かせる名品。エロネタなんですが。

別題:お釜さま 鼠の懸賞

【あらすじ】

正直一途の長屋の熊五郎。

後添いができた女房で、一粒種の亀をわが子のようにかわいがる。

夫婦とも甘やかしたので、亀は、朝も寝床で芋を食べなければ起きないほど、わがままに育った。

「これではいけない、かわい子には旅をさせろだ」
と、近所の吉兵衛の世話で、泣きの涙で亀を奉公に出した。

それから三年。

今日は正月の十五日で、亀が初めての藪入りで帰ってくる日。

おやじはまだ夜中の三時だというのに、そわそわと落ち着かない。

かみさんに、奉公をしていると食いたいものも食えないからと、
「野郎は納豆が好きだから買っておけ。鰻が好きだから中串で二人前、刺し身もいいな。チャーシューワンタンメンというのも食わしてやろう。オムレツカツレツ、ゆで小豆にカボチャ、安倍川餠」
と、きりがない。

時計の針の進みが遅いと、一回り回してみろと言ったり、帰ったら品川の海を見せて、それから川崎の大師さま、横浜から江ノ島鎌倉、足を伸ばして静岡、久能山、果ては京大阪から、讃岐の金比羅さま、九州に渡って……と、一日で日本一周をさせる気。

無精者なのに、持ったこともない箒で家の前をセカセカと掃く。

夜が明けても
「まだか。意地悪で用を言いつけられてるんじゃねえか。店に乗り込んで番頭の横っ面を」
と大騒ぎ。

そのうち声がしたので出てみると
「ごぶさたいたしました。お父さんお母さんにもお変わりがなく」

すっかり大人びた亀坊が、ぴたりと両手をついてあいさつしたので、熊五郎はびっくりし、胸がつまってしどろもどろで
「今日はご遠方のところをご苦労さまで」

涙で顔も見られない。

「こないだ、風邪こじらせたが、おめえの手紙を見たらとたんに治ってしまった」
と、打ち明け
「こないだ、店の前を通ったら、おめえがもう一人の小僧さんと引っ張りっこをしているから、よっぽど声を掛けようと思ったが、里心がつくといけねえと思って、目をつぶって駆けだしたら、大八車にぶつかって……」
と泣き笑い。

亀が小遣いで買ったと土産を出すと、
「もったいねえから神棚に上げておけ。子供のお供物でござんすって、長屋中に配って歩け」
と大喜び。

ところが、亀を横町の桜湯にやった後、かみさんが亀の紙入れの中に、五円札が三枚も入っているのを見つけたことから、一騒動。

心配性のかみさんが、子供に十五円は大金で、そんな額をだんながくれるわけがないから、ことによると魔がさして、お店の金でも……と言いだしたので、気短で単純な熊、さてはやりゃあがったなと逆上。

帰ってきた亀を、いきなりポカポカ。

かみさんがなだめでわけを聞くと、このごろペストがはやるので、鼠を獲って交番に持っていくと一匹十五円の懸賞に当たったものだと、わかる。

だんなが、子供が大金を持っているとよくないと預かり、今朝渡してくれたのだ、という。

「見ろ、てめえがよけいなことを言いやがるから、気になるんじゃねえか。へえ、うまくやりゃあがったな。この後ともにご主人を大切にしなよ。これもやっぱりチュウ(=忠)のおかげだ」

底本:三代目三遊亭金馬

【しりたい】

お釜さま

原話は詳細は不明ながら、天保15年(1844=12月から弘化と改元)正月、日本橋小伝馬町の呉服屋島屋吉兵衛方で、番頭某が小僧をレイプし、気絶させた実話をもとに作られた噺といいます。

表ざたになったところを見ると、なんらかのお上のお裁きがあったものと思われますが、当時、商家のこうした事件は珍しいことではなく、黙阿弥の歌舞伎世話狂言『加賀鳶』の「伊勢屋の場」にもこんなやりとりがあります。

太助「これこれ三太、よいかげんに言わないか、たとえ鼻の下が長かろうとも」
左七「そこを短いと言わなければ、番頭さんに可愛がられない」
三太「番頭さんに可愛がられると、小僧は廿八日だ」
太・左「なに、廿八日とは」
三太「お尻の用心御用心」

金馬の十八番へ

明治末期に初代柳家小せんが男色の要素を削除して、きれいごとに塗り替えて改作しました。それまでは演題は「お釜さま」で、オチも「これもお釜さま(お上さま=主人と掛けた地口)のおかげだ」となっていました。

亀が独身の番頭にお釜(=尻)を貸し、もらった小遣いという設定で、小せんがこれを当時の時事的話題とつなげ、「鼠の懸賞」と改題、オチも現行のものに改めたわけです。

小僧奉公がごくふつうだった明治大正期によく高座に掛けられましたが、昭和初期から戦後にかけては、三代目三遊亭金馬が「居酒屋」と並ぶ、十八番中の十八番としました。

金馬の、親子の情愛が濃厚な人情噺の要素は、自らの奉公の経験が土台になっているとか。五代目三遊亭円楽も得意でした。

鼠の懸賞

明治38年(1905)、ペストの大流行に伴い、その予防のため東京市が鼠を一匹(死骸も含む)3-5銭で買い上げたことは「意地くらべ」をもご参照ください。補足すると、ペストの最初の日本人犠牲者は明治32年(1899)11月、広島で、東京市が早くも翌33年(1900)1月に、鼠を買い取る旨の最初の布告を出しています。

希望者は区役所や交番で切符を受け取り、交番に捕獲した鼠を届けた上、銀行、区役所で換金されました。

東京市内の最初のペスト患者は明治35年(1902)12月で、38年(1905)にピークとなりました。噺の中の15円は、特別賞か、金馬が昭和初期の物価に応じて変えたものでしょう。鼠の買い上げは、大正12年(1923)9月、関東大震災まで続けられました。

藪入り

「藪入りや 曇れる母の 鏡かな」という、あわれを誘う句をマクラに振るのが、この噺のお決まりです。あるいは、「かくばかり いつわり多き 世の中に 子のかわいさは まことなりけり」なんという歌も。「寿限無」「子褒め」「初天神」「子別れ」なんかでも使いまわされています。

藪入りは江戸では、古くは宿入りといい、商家の奉公人の特別休暇のことです。江戸から明治大正にかけ、町家の男の子は十歳前後(明治の学制以後は、尋常または高等小学校卒業後)で商家や職人の親方に奉公に出るのがふつうでした。

一度奉公すると、三年もしくは五年は、親許に帰さないならわしでした。それが過ぎると年二回、盆と旧正月に一日(女中などは三日)、藪入りを許されました。商家の手代や小僧は奉公して十年は無給で、五年ほどは小遣いももらえないのが建前でした。

「藪」は田舎のことで、転じて親許を指したものです。

「藪入り」の言葉と習慣は、労働条件が改善された昭和初期まで残っていて、横綱双葉山の「70連勝ならざるの日」がちょうど藪入りの日曜日(昭和14年1月15日)だったことは、今でも昭和回顧談でよく引き合いに出されます。

川崎大師

正しくは平間寺。川崎市川崎区にある真言宗智山派の大本山。大治3年(1128)建立。川崎大師は通称。山号は金剛山。院号は金乗院。尊賢が開山、平間兼乗が開基。真言宗智山派は京都の智積院が本山で、この系統は布教活動よりも仏典研究に重きを置きます。

二十五と 四十二で込む わたし舟   二21

二十五歳と四十二歳は男の厄年です。川崎大師に参詣する客で六郷川(多摩川)の渡し舟がごった返すさま。

やく年に 東海道を ちつと見る   十六8

あなたもか わたしも三と 万年屋   二十一29

「三」とは三十三歳の女の厄年をさします。万年屋は、川崎宿の奈良茶飯で有名な老舗で、大師土産も販売していました。

落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

【藪入り 三代目三遊亭金馬】

おしち【お七】演目

★auひかり★

あの与太郎も結婚して子供ができたのですが、ここでは八五郎と一騎打ちを。

別題:火の用心 お産見舞い

あらすじ

縁起かつぎの与太郎。

今度子供が生まれてめでたいので、どうかして縁起のいいことを聞きたいと考えている。

そこへ現れた兄弟分の八五郎。

来るなり、
「おめえの家は陰気で湯灌場にいるようだ、オレも伯父貴の葬式帰りだから、死人が出たのならいっしょに骨揚げしてやろう」
だのと、縁起の悪いことばかり並べる。

子供が生まれたと聞くと、赤ん坊の顔を見て
「小せえ餓鬼だ。これは今にも息を引き取るな」

「戒名はなんとつけた」
と聞くから、
「お初だ」
と言うと、
「こいつは今に、徳兵衛という仕立屋と心中する」
というご託宣。

「あちらからお初を嫁にもらいたいと言っても、てめえは一人娘だからやりゃしめえ。向こうも一人息子だから婿にはやれない。お互い夫婦になれないならと、『覚悟はよいか』『南無阿弥陀仏』土左衛門が浮き上がる」

言いたい放題言って、帰ってしまう。

シャクでならないのが、おかみさん。

「あいつのおかみさんも来月臨月だから、生まれたら、行って敵討ちをしておやり」
と亭主をけしかける。

さて。

いよいよ八公のところも生まれたと聞いて、与太郎、勇んで乗り込む。

「よく来た。おまえは伯父さんの葬式帰りで、家が陰気で、流しが湯灌場で、末期の水をピシャピシャのんでると言いてえんだろ」

言いたいことを片っ端から言われてしまう。

それでも子供を見て
「これは今に息を」
「引き取った方がいいや。踏みつぶしちまおうかと思ったんだ」
「名前はお初だな」
「うんにゃ、お七だ」

「お初徳兵衛」なら心中とすんなりいくが、「お七徳兵衛」ではなんだか変。

空振りして帰ると、かみさんが、
「お七ならほかにやっつけようがあるから、もう一度行っといで」
と知恵を授ける。

「昔、本郷二丁目の八百屋の娘お七は、小姓の吉三と不義をして、娘心の一筋に、火をつけたらあの人に会えるかと家に放火して、釜屋武兵衛に訴人され、とうとう江戸市中引き廻しの上火あぶりになった。おまえの娘も火刑になる、と言っておやり」

「今度こそ」
と引き返した与太郎、八公に
「昔、本郷で八百屋で火事で、娘がお七だ。お七がアワくって、こしょうをなめて、武兵衛の釜ァ破って逃げ出して、お茶の水へ落っこってオマワリにとっ捕まった」
とやると
「そうじゃあるめえ。昔、本郷二丁目の八百屋お七は、小姓の吉三と不義をして、娘心の一筋に、火をつけたらあの人に会えるかと家に放火して、釜屋武兵衛に訴人され、とうとう江戸市中引き廻しの上火あぶり。おまえの娘に火刑になるてえんだろう」
「うーん、もう女房に聞きやがったな」

底本:初代三遊亭円遊

★auひかり★

しりたい

円生の持ちネタ

原話は、寛延4年(1751=宝暦元)刊の笑話本『軽口浮瓢箪』中の「名の仕返し」。

これは、男達の親分の息子の元服式に別のなわばりの親分が祝いに訪れ、息子が庄兵衛と改名すると知ると、「それはいい名だ。昔、獄門になった大泥棒、日本左衛門(本名、浜嶋庄兵衛)にあやかろうというのだな」と、嫌味を言って帰ります。

おやじは腹を立て、「いつか仕返しをしてやろう」と思ううち、その親分に女の子が生まれと聞いて、さっそく出かけていき、名を聞くとお七。「なるほどいい名だが、火の用心をなさいよ」と、嫌味を言い返して引き上げたというお話。

天和3年(1683)、自宅放火のとがで、数え十七(一説に十六)で火刑になった本郷の八百屋の娘お七の伝説を踏まえ、パロディー化したものの一つで、現存する最古の速記は、明治23年(1890)の「百花園」に連載された初代三遊亭円遊のものです。

その後、初代柳家小せん、五代目三升家小勝らが大正から昭和初期まで高座に掛け、その後途絶えていたのを、戦後六代目三遊亭円生が復活させました。円生没後は後継者はありません。

円生のオチは、「火をつけたらどうしたというんだ」「だから火の用心に気をつけねえ」というもので、ここから「火の用心」の別題があります。

ほかに「お産見舞い」とも呼ばれますが、別話「お七の十」の別題も「お七」というので、それと区別するためでもあったでしょう。

落語、歌舞伎、お七伝説

お七伝説は、歌舞伎舞踊「京鹿子娘道成寺」に取り入れられるなど、歌舞伎ではポピュラーな題材です。落語でも「強情灸」のオチに使われるほか、マクラ噺で「もぐら泥」「七段目」などにも使われます。「本堂建立」では、托鉢坊主が髪結いで、自分は実はお七の恋人吉三の後身だとヨタ話をします。

釜屋武兵衛

噺の中に出る「釜屋武兵衛」は、芝居や浄瑠璃でお七に横恋慕する人物で、やはりお七伝説をパロディー化した河竹黙阿弥の歌舞伎世話狂言「三人吉三」でも悪役として登場します。

湯灌場

八五郎が嫌がらせを並べ立てる場面に登場する「湯灌場」。現在でも「湯灌」といって、納棺や葬式の前に、遺体を湯で洗い清める風習が広く残っています。江戸時代は、地主や家持ちは自宅で、借家人は納棺して寺に運び、墓地の一隅の湯灌場で行いました。1坪程度の空間でした。地主や家持ちでない者は民家で湯灌することがご法度でした。湯灌場を詠んだ川柳です。

湯灌場の きわなはみんな 竹になり   十二9

湯灌場とは死者の身体を粗い清める場所。墓場にもあったそうで、墓場はたいてい竹藪の中にあるもので、そこらへんの筍は、誰も気味悪がって取らないから、竹にせいちょうしてしまう、という滑稽な詠みです。

湯灌場買い

江戸時代には「湯灌場買い」と呼ばれる業者がいました。湯灌場で死者から脱がせた衣服を買い取る商売です。古着屋です。死者には経帷子を着せる風習でした。

歌舞伎では、黙阿弥作「湯灌場吉三」の主人公がこの湯灌場買いをなりわいにしています。「真景累ケ淵」の「聖天山」に湯灌場が描写され、「ちきり伊勢屋」では若だんなが、生き弔い(生前葬)で湯灌の代わりに風呂に入ります。「こんにゃく問答」でも「湯灌場踊り」の話が出ますが、実態は不明です。

経帷子

経帷子とは、死者に着せる着物をいいます。白麻などでつくり、その白地に真言、名号、題目などを書いて死者を冥土に送るものです。ですから、仏教での葬式で行われるものです。きょうえ、寿衣とも。

縁起かつぎ

この噺では、ゲンかつぎの人間にわざと縁起の悪いことを並べて嫌がらせするくだりが中心ですが、こうしたモチーフは、ほかに「かつぎや」「しの字ぎらい」「けんげしゃ茶屋」(上方)などがあります。

よくある都会のデカダン趣味、偽悪趣味のの一種でしょう。やられる人間もけっこう楽しんでいるわけで、こうしたことにムキになって怒ると、シャレのわからないヤボ天としてよけいばかにされ、いじめられるわけです。

土左衛門

ドゼエムともいいます。水死体のことで、享保年間の関取、成瀬川土左衛門の顔色が悪く、水死人にそっくりだったことからとも、肥った人間を称した「どぶつ」の変化ともいわれます。

お初徳兵衛

近松門左衛門作の人形浄瑠璃「曾根崎心中」(元禄16=1703年5月、大坂竹本座初演)のカップル。大坂内本町の醤油屋の手代と、北新地「天満屋」抱えの芸妓(芝居では遊女)で、同年4月7日に梅田堤(同・曾根崎の森)で心中したものです。落語でも「船徳」のもととなった同題の人情噺があり、五代目古今亭志ん生が好んで演じました。

【語の読みと注】
湯灌場 ゆかんば
伯父貴 おじき
骨揚げ こつあげ:火葬にした死者の遺骨を拾い上げること。灰よせ、骨拾い
餓鬼 がき
戒名 かいみょう
ご託宣 ごたくせん
土左衛門 どざえもん
小姓 こしょう
釜屋武兵衛 かやまぶへえ
市中引き廻し しじゅうひきまわし
軽口浮瓢箪 かるくちうかれひょうたん
男達 おとこだて:江戸初期の侠客
元服 げんぷく:成人式
獄門 ごくもん
京鹿子娘道成寺 きょうかのこむすめどうじょうじ
河竹黙阿弥 かわたけもくあみ
三人吉三 さんにんきちさ
経帷子 きょうかたびら:死者に着せる着物
湯灌場買い ゆかんばがい:死者の着物を買い取る古着屋
真景累ヶ淵 しんけいかさねがふち
生き弔い いきとむらい:生前葬
聖天山 しょうてんやま
成瀬川土左衛門 なるせがわどざえもん
お初徳兵衛 おはつとくべえ
曾根崎心中 そねざきしんじゅう

落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

あくびしなん【あくび指南】演目

 

あくびの稽古譚。じつにまあ、くだらないお噺で。

別題:あくびの稽古(上方)

あらすじ

町内の、もと医者が住んでいた空家に、最近変わった看板がかけられた。

墨黒々と「あくび指南所」。

「常盤津や長唄、茶の湯の稽古所は聞いたことがあるが、あくびの稽古てのは聞いたことがねえ、金を取って教えるからにゃあ、どこか違っているにちがいないから、ちょいと入ってみようじゃねえか」
と、好奇心旺盛な男、渋る友達を無理やり引っ張って、
「へい、ごめんなさいまし」

応対に出てきたのが品のよさそうな老人。

夫婦二人暮らしで、取り次ぎの者もいないらしい。

お茶を出され
「こりゃまた、けっこうな粗茶で……。すると、こちらが愚妻さんで」
とまぬけなことを口走ったりした後、相棒が、
「ばかばかしいから俺は嫌だ」
というので、熊一人で稽古ということになる。

師匠の言うことには、
「ふだんあなた方がやっているあくびは、あれは駄あくびといって、一文の値打ちもない。あくびという人さまに失礼なものを、風流な芸事にするところに趣がある」
との講釈。

すっかり関心していると
「それではまず季節柄、夏のあくびを。夏はまず、日も長く、退屈もしますので、船中のあくびですかな。……その心持ちは、八つ下がり大川あたりで、客が一人。船頭がぼんやり煙草をこう、吸っている。体をこうゆすって。……船がこう揺れている気分を出します。『おい、船頭さん、船を上手へやってくんな。……日が暮れたら、堀からあがって吉原でも行って、粋な遊びのひとつもしよう。船もいいが、一日乗ってると、退屈で、退屈で、……あーあ、ならねえ』とな」
「へえ。……えー、吉原へ……こないだ行ったら勘定が足りなくなって」
「そんなことはどうでもよろしい」
「船もいいが一日乗っていると、退屈で退屈で……ハークショイッ」

これをえんえんと聞かされている相棒、あまりの阿呆らしさに、
「あきれけえったもんだ。教わる奴も奴だが、教える方もいい年しやがって。さんざ待たされているこちとらの方が、退屈で退屈で、あーあ……ならねえ」
「ほら、お連れさんの方がお上手だ」

底本:三代目三遊亭小円朝

しりたい

たくさんあった指南噺   【RIZAP COOK】

かつては「地口指南」「泥棒指南」など、多くの指南ものの噺がありましたが、今ではこの「あくび指南」と「磯のあわび」(別題「女郎買いの教授」)を除けばすたれました。

この噺を含めて指南ものは、安永年間(1772-81)以後、町人の間に習い事が盛んになった時期にまとめられたもので、「あくび指南」も文化年間(1804-18)にはすでに口演されていました。

「喧嘩指南」というのもあり、弟子入り早々、先制攻撃で師匠に「マゴマゴしてやがると張り倒すぞ」とやると、師匠が「うん、てめえはものになる」というもの。これは、「あくび指南」のマクラ小ばなしとして生き残っています。

同じくマクラとして、師匠が釣り糸に糸を垂らした弟子を下からひっぱり落としたので、「先生ひどい。今のはなんの魚がかかったんです?」「今のは河童だ」とオチる「釣り指南」を付けることもあります。

「下手くそにやれ」   【RIZAP COOK】

五代目志ん生、三代目小円朝、三代目金馬などがよく演じました。

金馬によれば、この噺は昔から、待っている友達(登場人物)より、聞いている客の方があくびをするように、ことさらまずく演じるのが口伝だといいます。

まずくやって客を退屈させるのが口伝とはジョークなのか、奥深い高等数学なのかわかりませんが、昔、ある落語家がこの噺でオチ近くになったとき、客が大あくびをしたので、「あのお客さまはご器用な方だ」と即興でオチをつけて、そのまま高座を下りたとか。

四代目柳家小さんは、「後でオチのあくびが引き立つように師匠のあくびは、ごくあっさりとやるのがコツ」と芸談を残しています。

原話は「あくび売り」   【RIZAP COOK】

安永5年(1776)大坂板『立春噺大集』坤巻一の二「あくびの寄合」が原話です。あくび売りが「薩摩のあくび」「仙台のあくび」「今橋筋のあくび」などをかごに入れて売り歩く趣向です。

これが上方落語「あくびの稽古」となり、かなり早く江戸にも移されたと思われます。上方では、入れ事として「風呂に入って月をながめるときのあくび」「将棋で相手の長考を待つときのあくび」など、演者によってさまざまに工夫されていました。

現在でも東西問わずよく口演され、音源も数多い噺ですが、上方のものでは、桂枝雀が漫画的で報復絶倒、あくびをしている余裕など与えないおかしさでした。

川船   【RIZAP COOK】

隅田川を遊びで行き来するのは「川遊山」です。「屋形船」という名称をよく聞きますが、これは、元禄年間(1688-1703)の前までは大いに流行した船で、主に武士階級が乗るものでした。その後はすたれてしまいました。落語で語られる時代は寄席が始まった寛政10年(1798)以降です。となると、屋形船はもう存在しません。あるのは「屋根」と「猪牙」。川遊山に使われたのは、600艘ほどあった屋根船と、屋根のなくて揺れがひどくて高速の猪牙船で、こちらは700艘あったそうです。

屋根船は「日よけ船」とも呼ばれて船頭が一人か二人で、4人ほどの客が乗れました。屋根があっても、武士でなければ障子はご法度で、代わりに竹のすだれを下げたそうです。ドラマや映画の雰囲気とはだいぶ違いますね。ただ、船頭に酒手(チップ)をはずめば、船頭は隠してあった障子を出しててききっちり閉めて、首尾の松あたりにもやい、適当な頃合いまでどこかに消えてしまうという味なこともしてくれたそうです。首尾の松は浅草の御船蔵にあった川遊山の目印となった松をいいます。こんな客が多くて、ここはひっきりなしに船がもやう場所だったようです。

この噺での船はどちらでしょうか。まあ、どちらでもよいのでしょうが、屋根船のほうが無聊を慰めるにはお手頃かもしれませんね。

指南所   【RIZAP COOK】

今でも荒川区界隈ではそんなものですが、街場の人々は子供たちに習い事をさせるものです。子供たちばかりか、大人もいろいろな指南を受けたがるのが下町の美風でした。指南所は、稽古所、稽古屋などともいいます。芸は身を助けるという街場の知恵だったわけでしょう。色っぽい独り身の女師匠が出てくるのは「汲み立て」「猫忠」ですね。どの町内にも一人はいたといわれるほど、ごく普通のなりわいでした。

これをお目当てに通う野郎連中は、張って張りぬく経師屋連、あわよくばと心願うはあわよか連、機会を見つけて野獣の本性をむき出しにする狼連などが横行するのです。「張る」とは見張って付け狙うことで、経師屋は書画、屏風、ふすまなどを表装する職人のことですが、ここでは紙を張るのと、女を張るのを掛けているのです。落語ではよく出てくる表現ですね。

落語ことば 落語演目 千字寄席 落語あらすじ事典

しにがみ【死神】演目

 落語ことば 落語演目 千字寄席 落語あらすじ事典

古典落語の傑作ですが、元ネタはイタリアやドイツにあるそうです。

あらすじ

借金で首が回らなくなった男、金策に駆け回るが、誰も貸してくれない。

かみさんにも、金ができないうちは家には入れないと追い出され、ほとほと生きるのがイヤになった。

一思いに首をくくろうとすると、後ろから気味の悪い声で呼び止める者がある。

驚いて振り返ると、木陰からスッと現れたのが、年の頃はもう八十以上、痩せこけて汚い竹の杖を突いた爺さん。

「な、なんだ、おめえは」「死神だよ」

逃げようとすると、死神は手招きして、「恐がらなくてもいい。おまえに相談がある」と言う。

「おまえはまだ寿命があるんだから、死のうとしても死ねねえ。それより儲かる商売をやってみねえな。医者をやらないか」

もとより脈の取り方すら知らないが、死神が教えるには「長わずらいをしている患者には必ず、足元か枕元におれがついている。足元にいる時は手を二つ打って『テケレッツノパ』と唱えれば死神ははがれ、病人は助かるが、枕元の時は寿命が尽きていてダメだ」という。

これを知っていれば百発百中、名医の評判疑いなしで、儲かり放題である。

半信半疑で家に帰り、ダメでもともとと医者の看板を出したが、間もなく日本橋の豪商から使いが来た。

「主人が大病で明日をも知れないので、ぜひ先生に御診断を」と頼む。

行ってみると果たして、病人の足元に死神。

「しめた」と、教えられた通りにするとアーラ不思議、病人はケロりと全快。

これが評判を呼び、神のような名医というので往診依頼が殺到し、たちまち左ウチワ。

ある日、麹町の伊勢屋宅からの頼みで出かけてみると、死神は枕元。

「残念ながら助かりません」と因果を含めようとしたが、先方は諦めず、「助けていただければ一万両差し上げる」という。

最近愛人狂いで金を使い果たしていた先生、そう聞いて目がくらみ、一計を案じる。

死神が居眠りしているすきに蒲団をくるりと反回転。

呪文を唱えると、死すべき病人が生き返った。

さあ死神、怒るまいことか、たちちニセ医者を引っさらい、薄気味悪い地下室に連れ込む。

そこには無数のローソク。

これすべて人の寿命。

男のはと見ると、もう燃え尽きる寸前。

「てめえは生と死の秩序を乱したから、寿命が伊勢屋の方へ行っちまったんだ。もうこの世とおさらばだぞ」、と死神の冷たい声。

泣いて頼むと、「それじゃ、一度だけチャンスをやる。てめえのローソクが消える前に、別のにうまくつなげれば寿命は延びる」

つなごうとするが、震えて手が合わない。

「ほら、消える。……ふ、ふ、消える」

しりたい

異色の問題作登場!

何しろ、この噺のルーツや成立過程をめぐって、とうとう、かなり厚い一冊の本になってしまった(「落語『死神』の世界」西本晃二著)ぐらいです。

一応、原話はグリム童話「死神の名付け親」で、それを劇化したイタリアのコミック・オペラ「クリスピーノと死神」の筋を、三遊亭円朝が洋学者から聞き、落語に翻案したと言われます。

それはともかく、そこの旦那。ああた、あーたです。笑ってえる場合じゃあありません。このはなしを聞いて、たまには生死の深遠についてまじめにお考えになっちゃあいかがです。

美人黄土となる。明日ありと思う心の何とやら。死は思いも寄らず、あと数分後に迫っていまいものでもないのです。

東西の死神像

ギリシアやエジプトでは、生と死を司る運命もしくは死の神。

ヨーロッパの死神は、よく知られた白骨がフードをかぶり、大鎌を持った姿で、悪魔、悪霊と同一視されます。

日本では、この噺のようにぼろぼろの経帷子をまとった、やせた老人で、亡者の悪霊そのもの。

ところが、落語版のこの「死神」では、筋の上では、西洋の翻案物のためか、ギリシア風の死を司る神という、新しいイメージが加わっています。

芝居の死神

三代目尾上菊五郎以来の、音羽屋の家の芸で、明治19年(1886)3月、五代目菊五郎が千歳座の「加賀鳶」で演じた死神は、「頭に薄鼠色の白粉を塗り、下半身がボロボロになった薄い経帷子に葱の枯れ葉のような帯」という姿でした。不気味にヒヒヒヒと笑い、登場人物を入水自殺に誘います。

客席の円朝はこれを見て喝采したといいます。この噺の死神の姿と、ぴったり一致したのでしょう。

先代中村雁治郎がテレビで落語通りの死神を演じましたが、不気味さとユーモラスが渾然一体で、絶品でした。

ハッピーエンドの「誉れの幇間」

明治の「鼻の円遊」こと初代三遊亭円遊は、「死神」を改作して「誉れの幇間(たいこ)」または「全快」と題し、ろうそくの灯を全部ともして引き上げるというハッピーエンドに変えています。

「死神」のやり方

円朝から高弟の初代三遊亭円左が継承、さらに戦後は六代目円生、五代目古今亭今輔が得意にしました。

円生は、死神の笑いを心から愉快そうにするよう工夫し、サゲも死神が「消える」と言った瞬間、男が前にバタリと倒れる仕種で落としました。

柳家小三治は、男がくしゃみをした瞬間にろうそくが消えるやり方です。

落語ことば 落語演目 千字寄席 落語あらすじ事典

【死神 柳家喬太郎】

てっかい【鉄拐】演目

  落語ことば 落語演目 千字寄席 落語あらすじ事典

中国大陸が舞台、奇妙で底抜けに壮大な噺です。

あらすじ

北京の横町に、上海屋唐左衛門という大貿易商がいた。

中国はもちろんのこと、ロンドンやニューヨークにも支店を持つという大金持ち。

毎年正月には世界中から知人、友人、幹部社員などを集めて大宴会を催し、珍しい芸人を集めて余興をやらせることにしていた。

毎年のこととて、余興の種が尽き、いい芸人が集められなくなった。

そこで、番頭の金兵衛が各地を巡り、募ることにした。

金兵衛は山また山を越え、とある山中で道に迷っていると、大きな岩の上にボロボロの着物を着て杖をつき、ヒゲぼうぼうの老人がぼんやり座っている。

聞いてみると、鉄拐と名乗る仙人。

何か変わったことができるかと尋ねると、腹の中からもう一人の自分を吐き出してみせたから、これは使えると金兵衛は大喜び。

渋るのを無理に承知させ、鉄拐の雲に便乗して北京に帰った。

鉄拐の芸は大受けで大評判となり、お座敷や寄席の出演依頼がどっと押し寄せた。

今では当人もすっかりその気になり、上海屋に豪邸をもらい、厄貝、モッ貝、シジミッ貝という三人の弟子を取り、近ごろは女を物色するというありさま。

評判がよくなると、ねたむ者も出る。

「このごろ昔のおんぼろななりを忘れてぜいたく三昧、お高くとまってやたらに寄席を抜きゃあがる。どうでえ、あの野郎をへこますために、鉄拐の向こうを張るような仙人を連れてこようじゃねえか」

そんなわけで引っ張ってきてのが、張果老という仙人。

こちらは、徳利から馬を出す。

新し物好きの世間のこと、鉄拐はあっと言う間に飽きられ、お座敷ひとつかからない。

逆に張果老は大人気。

面白くない鉄拐、どんな芸か見てやろうと、ある晩ライバルの家に潜入してみると、張果老は大酒をのんで高いびき。

この徳利からどうやって馬が出るのかしらんと、口に当てて息を吸い込んだから、たちまち中の馬は徳利から鉄拐の腹の中へ。

虎の子の馬が盗まれて、今度は張果老があっと言う間に落ち目に。

しかし悪いことはできないもので、いつの間にか、犯人は鉄拐だという噂が立った。

「先生、あんたが馬泥棒てえ評判ですが」
「とんでもねえ、ヒヒーン」

腹の馬がいなないて、あっさりバレた。

「それならそれで、今度はあんたの分身を馬に乗せて吐き出すという新趣向を出したらどうだ」

そんな悪知恵を授けた者がいる。

ところが、鉄拐は馬を吐き出せないので、客を腹の中に入れて見物させる。

これが大当たりで、たちまち満員札を口と肛門に張る騒ぎに。

そのうち、酔っぱらった客二人が大げんかを始め、さすがの鉄拐もたまらず吐き出す。

それがなんと、李白と陶淵明。

スヴェンソンの増毛ネット

しりたい

鉄拐仙人

道教の八仙の一人で、李鉄拐といいます。

伝説によると、自宅に肉体を置いたまま魂で華山まで飛び、太上老君(道教の神・老子)に会いましたが、帰ってみると、弟子が肉体を火葬してしまった後で、戻るべきところがなくなり、困りました。

そこで、近所に行き倒れの物乞いがいたのを幸い、その屍骸を乗っ取って蘇生したとか。

鉄拐がボロをまとった姿で登場するのは、この故事に由来します。

張果老

同じく、八仙の一人。

白いロバに乗っているのが特徴です。

このロバ、用のないときは紙のように折りたたんで行李に納められ、水を吹きかけると、たちまち、一日何万里も歩くロバになります。

噺の中の馬は、このロバのことでしょう。

北京の大富豪の「番頭」が金兵衛というのが笑わせるじゃないですか。

この噺が得意だった立川談志は、「上海は新横町2の2上海屋唐右衛門」で演じていました。

談志なりのリアリティーなのでしょうが、目くそ鼻くそを笑うがごときこざかしさ。リアリティーもへったくれもない設定です。

ま、そこがいいのですがね。

李白と陶淵明が最後に出てきますが、両者とも酔いどれ詩人で有名です。

だからこそ、オチの意味がああるわけで。

談志は、大島渚と野坂昭如に代えたりもしていますが、だからといって、まあ、さしたるおかしさがかもしだされるわけでもないでしょう。

落語ことば 落語演目 千字寄席 落語あらすじ事典

【鉄拐 立川談志】

スヴェンソンの増毛ネット

しちやぐら【質屋蔵】演目

  落語ことば 落語演目 千字寄席 落語あらすじ事典

質屋が生活と密接だった時代なら、こんな想像力も沸こうというものです。

別題:ひちやぐら(上方) 質屋庫

あらすじ

ある大きな質屋の三番蔵に、夜な夜な化け物がでるという町内の噂を、当のだんなが朝湯で聞いてきた。

「これは信用にかかわるから捨ててはおけない」

早速番頭に寝ずの番で見届けるよう言いつける。

だんなの考えでは、「これはきっと大切な品物を心ならずも質物にした人の、その物に対する執着が蔵に残り、妖怪と化したものだろう」という。

番頭は臆病なので、「とても一人では怖くていけない」と、普段から腕に龍の刺青をして強そうなことばかり言っている出入りの熊五郎に応援を頼みたいと申し出る。

突然だんなが呼んでいると聞いた熊、さてはしくじったかとびくびくして、だんなの前に出ると、言われもしないうちから、台所から酒とタクアン樽、それに下駄を三足盗んだことをぺらぺら白状してしまう。

だんなが渋い顔をしながらも、「今日呼んだのはそんなことじゃない。おまえは強いと聞いているが本当か」と尋ねると、熊五郎、途端に威勢がよくなり、木曽で虎退治をしたとホラを吹くが、化け物のことを聞かされると、急にぶるぶる震えだす。

しかたがないので、逃がさないように店に禁足し、夜になると番頭ともども、真っ暗な土蔵の中にほっぽり込まれる。

二人がガタガタ震えていると、やがて草木も眠る丑三ツ時。

蔵の奥で何かがピカリと光り、ガラガラガラと大きな音。

生きた心地もない番頭と熊、それでも怖いもの見たさでそっとのぞいてみると、何と誰かが相撲を取っている。

行司の声で「片やァ、竜紋、竜紋、こなたァ、小柳、小柳ィ、ハッケヨイ、ノコッタノコッタ……」

「番頭さん、ありゃなんです」
「だんなの言う通り、質物の気が残ったんだ。羽織の竜紋と小柳の帯が相撲を取ったんだ」
「あっ、また出た」

棚の掛け軸がすーっと開く。

よく見ると、横町の藤原さんの質物の、天神さま、つまりは菅原道真公の画像の掛け軸。

仰天していると、衣冠束帯、梅の花を持った天神が現れて、「こちふかばあー、においおこせようめのはなー」と、朗々と詠み上げた。

「こりゃ番頭。藤原方に利上げせよと申し伝えよ。あァあ、また流されそうだ」

しりたい

伊勢屋稲荷に……

落語には、質屋は「伊勢屋」という屋号でたびたび登場します。これは、質商は伊勢出身の者がほとんどだったからです。「伊勢屋稲荷に犬の糞」と江戸名物の一つに挙げられるくらい、江戸にはやたらに質屋が多かったのです。

大工調べ」で、因業大家の源六が奉行に、「その方、質屋の株を持っておるのか?」と脅かされたように、旧幕時代は質屋は株売買による許可制でした。

大きく分けて本質・脇質があり、本質は規模の大きな、正規の質屋。

入質には本人のほかに請け人(連帯保証人)の判が必要でした。

脇質の方は今でいう消費者金融で、請け人がいらない代わりに質流れの期限は一か月。

この噺のオチ(サゲ)にある「利下げ」とは、期限が来たとき、利子を今までより多く払って、質流れを食い止めることです。対語は「利上げ」。詳しくは「おもと違い」をお読みください。

天保年間(1830-44)以後は、期限は八か月に延ばされました。

元は江戸で

安永2年(1773)に江戸で刊行された『近目貫(きんめぬき)』収載の「天神」という小咄が元のようです。

それが上方噺となって「ひちやぐら」に。これが古くから江戸に移されて演じられていました。宇井無愁の『落語の根多』(角川文庫、1976、絶版)でこの噺を検索すると、「し」の項ではなく「ひ」の項にあります。びっくりです。宇井は東京落語を評価しない人で有名でした。

平成5年(1993)、宇井のこの本を私(古木)は上野の古書店で5000円で購入しました。なけなしで。でも、今ではAmazonのマーケットプレイスで100円台で求められます。びっくりです。

演者と演出

熊さんの大言壮語と、いざとなったときの腰抜けぶりの落差は、桂歌丸で聞くとたまらないおかしさです。

六代目三遊亭円生は、戦後大阪の四代目桂文団治に教わって、得意にしていましたが、最後の天神の場面を古風に風格豊かに演じました。

桂歌丸のほか、円生一門に継承され、三遊亭円弥、三遊亭生之助らが演じ、本家大阪では、やはり桂米朝のものでした。

上方のオチは、番頭が「あ、流れる思うとる」と言ってサゲるやり方もありました。

落語ことば 落語演目 千字寄席 落語あらすじ事典

【質屋蔵 三遊亭円生】

ねこときんぎょ【猫と金魚】演目

  落語ことば 落語演目 千字寄席 落語あらすじ事典

ああ言えばこう言う相手も、落語にかかれば、こんな具合に。

あらすじ

ある商家の番頭。

ああ言えばこう言うで、素直に言うことを聞かないばかりか、かなりピントがずれているので、だんなの悩みのタネ。

金魚の大きいのが二匹いなくなったので問いただせば「あたしは食べません」

「誰が、おまえが食べた、と言った。隣の猫が庭続きだから、縁側に上がって食べるんだから、どこか高いところへ上げておけ」と言いつけると「それじゃ、湯屋の煙突の上へ」

「あたしが眺められない」と文句を付けると「望遠鏡で見れば」と始末に終えない。

ようよう金魚鉢を湯殿の棚の上に置かせて一安心、と思ったら「金魚はどこへ上げましょう」

「金魚鉢と金魚を放したら、金魚は死んじまう、あたしゃ金魚の干物を見たいんじゃない」と叱りつけて、しばらくすると、番頭が悠々と報告に来た。

「実はその、棚へ上げましたらァ、お隣の物干しとつながってるもんですから、猫が入ってまいりまして……」

金魚鉢の中に手を突っ込んで食べてるというから、だんなは大あわて。

猫の衿っ首を捕まえてひっぱたいてやれと命じても、あたしはネズミ年だから、そばに寄ったら食われちまうといやがる。

こんな奴に任せておいたら、いくら買っても一匹残らず猫の栄養になってしまうと頭を抱えて、思い出したのが、横丁の鳶頭の虎さん。

力はあるし、背中に刺青を彫っているし、尻にたくさんの毛が生えているから猫もびっくりするだろうというので、早速呼びにやる。

常日ごろ、だんなのためなら命はいらねえ、たとえ火の中水の中……と豪語している鳶頭だから、何とかしてくれるだろうと思って「おまえさん、猫は恐くないかい」「猫ォ? あたしゃあ名前が虎で、寅年ですよ。世の中に恐いものなんか一つもない。で、猫は何匹で」

「あたしは猫屋をやろうってんじゃないよ。一匹でいいんだから、金魚鉢ィかき回してる奴を捕まえてなぐっておくれ」
「へえ、そいじゃあ、日を改めて」

なんだか、また雲行きが怪しくなってきた。

ともかく、むりやり湯殿に押し込むと「猫、おらァこの横丁の虎ってもんだぞォ。どうだァ」という、虎さんの大声が聞こえる。

そのうち「きゃあー」という悲鳴と金魚鉢を引っくり返した音。静かになったので戸を開けてみると、虎さんはびしょ濡れで目を回し、猫は棚で悠然と顔を洗っている。

金魚は外でピンピン跳ねているから、だんな驚いて「虎さん、しっかりしとくれ。早く猫ォ捕まえてなぐっとくれ」

「あたしゃあもう猫は恐いからイヤだ」
「恐いって、おまえさん、虎さんじゃないか」
「今はこの通り、濡れネズミです」

うんちく

新作落語史上の最高傑作!

「のらくろ」シリーズの作者として一世を風靡した漫画家、田河水泡が、まだ落語作家時代の昭和初期、売り出し中の初代柳家権太楼に書き下ろした「猫」シリーズの第一弾です。

このあと、「猫と電車」「猫とタコ」と続きますが、「金魚」がギャグの連続性と底無しのナンセンスで、もっとも優れています。そのセンスは今聞いても全く古びず、近代新作落語史上、金箔付きの最高傑作と呼んで過言ではないでしょう。

十代目桂文治のが無類におかしく、中でも虎さんの表現が秀逸でした。

橘家円蔵は前半の旦那と番頭のやりとりがテンポよく、軽快に笑わせました。

なお、前半の趣向は「質屋庫」に似ていて、口だけは英雄豪傑の虎さんのキャラクターも「質屋庫」の熊さんと重なるため、何らかのヒントを得ていると思われます。

続編「猫と電車」

校長宅で産まれた六匹目の子猫を、鰹節一本付けて押しつけられた田舎出の用務員が、子猫を風呂敷に隠して満員電車に乗ります。

ところが、いつの間にか帽子の中に入った子猫に小便をかけられ、あわてて降ります。

「車掌さん、今の客、シャッポに猫を隠してた」
「道理で猫をかぶっていた」

「金魚」ほどではありませんが、校長とのやりとりで、

「キミの家にネズミおるかい?」
「校長先生さま、ネズミたべるんでェ?」
「わしのうちに猫がおるよ」
「猫とネズミに相撲をとらせるんでェ?」
「実はァ、子どもが今度、産まれてな」
「お坊ちゃまで?」
「わしの子ではないよ」
「奥様のお子さまで?」
「猫の子じゃよ」
「すると、奥様が猫の子を産んだのでェ?」

こういったトンチンカンなギャグの連続で笑わせます。

落語ことば 落語演目 千字寄席 落語あらすじ事典

【猫と金魚 八代目橘家円蔵】

ふみちがい【文違い】演目

 

淋菌のついた指でこするとこんな具合に。「風眼」と呼ばれていました。

あらすじ

新宿遊廓のお杉は、今日もなじみ客の半七に金の無心をしている。

父親が、「もうこれが最後でこれ以降親子の縁を切ってもいいから、三十両用立ててほしい」と手紙をよこしたというのだ。

といって、半七に十両ほどしかアテはない。

そこへ、お杉に岡惚れの田舎者・角蔵が来たという知らせ。

何せ、「年季が明けたらなんじと夫婦になるべェ」というのが口癖の芋大尽で、お杉はツラを見るのも嫌なのだが、背に腹は替えられない。

あいつをひとつたらし込んで、残りの二十両をせしめてこようというわけで、待ち受ける角蔵の部屋へ出かけていく。

こちらはおっかさんが病気で、高い人参をのまさなければ命が危ないからとうまく言って、金を出させようと色仕掛けで迫るが、さしもの角蔵も二十両となると渋る。

十五両持っているが、これは村の辰松から馬を買う代金として預かったものなので、渡せないと言う。

「そんな薄情な人とは、夫婦約束なんて反故(ほご)だよ」と脅かして、強引に十五両ふんだくったお杉だが、それと半七にたかった七両、合わせて二十二両を持っていそいそとお杉が入っていった座敷には年のころなら三十二、三、色の浅黒い、苦味走ったいい男。

ところが目が悪いらしく、紅絹の布でしきりに目を押さえている。

この男、芳次郎といい、お杉の本物の間夫だ。

お杉は芳次郎の治療代のため、半七と角蔵を手玉に取って、絞った金をせっせと貢いでいたわけだが、金を受け取ると芳次郎は妙に急いで眼医者に行くと言い出す。

引き止めるが聞かないので、しかたなく男を見送った後、お杉が座敷に戻ってみると、置き忘れたのか、何やら怪しい手紙が一通。

「芳次郎さま参る。小筆より」

女の字である。

「わたくし兄の欲心より田舎大尽へ妾にゆけと言われ、いやなら五十両よこせとの難題。三十両はこしらえ申せども、後の二十両にさしつかえ、おまえさまに申せしところ、新宿の女郎、お杉とやらを眼病といつわり……ちくしょう、あたしをだましたんだね」

ちょうどその時、半七も、お杉が落としていった芳次郎のラブレターを見つけてカンカン。

頭に来た二人が鉢合わせ。

「ちきしょう、このアマッ。よくも七両かたりゃアがって」
「ふん、あたしゃ、二十両かたられたよ」

つかみあいの大げんか。

角蔵大尽、騒ぎを聞きつけて
「喜助、早く行って止めてやれ。『かかさまが塩梅わりいちゅうから十五両恵んでやりました。あれは色でも欲でもごぜえません』ちゅうてな。あ、ちょっくら待て。そう言ったら、おらが間夫だちゅうことがあらわれるでねえか」

しりたい

六代目円生の回顧

「……あたくしのご幼少の折には、この新宿には、今の日活館(注:もうありません)、その前が伊勢丹、あの辺から一丁目の御苑の手前のところまで両側に、残らずではございませんが、貸座敷(女郎屋)がずいぶんありましたもので」

「なかでも覚えておりますのは、新金(しんかね)という楼(うち)、それから大万(おおよろず)、そういうとこは新宿でも大見世(おおみせ)としてあります」

明治末年のころ

この中に出てくる「新金」は、今の伊勢丹向かい、丸井の場所にあり、「鬼の新金、鬼神の丸岡、情知らずの大万」とうたわれたほど、女郎に過酷な見世だったといいます。

芸談・円生

以下は、六代目三遊亭円生の芸談です。

芳次郎は女が女郎になる前か、あるいはなって間もなく惚れた男で、女殺し。半公は、たまには派手に金も使う客情人。角蔵にいたっては、嫌なやつだが金を持ってきてくれる。それで一人一人、女の態度から言葉まで違える……芳次郎には女がたえずはらはらしている惚れた弱みという、その心理を出すのが一番難しい。「五人廻し」と違い、女郎が次々と客をだましていく噺ですが、それだけに、最後のドンデン返しに至るまで、化かしあいの心理戦、サスペンスの気分がちょっと味わえます。芳次郎は博打打ち、男っぷりがよくて女が惚れて、女から金をしぼって小遣いにしようという良くないやつ。半七は堅気の職人で経師屋か建具屋、ちょっとはねっかえりで人がよくって少しのっぺりしている。俺なら女が惚れるだろうという男。だから、半七はすべて情人あつかいになっていたし、自分もそう思っていたやつが、がらっと変わったから怒る訳で。

角蔵は新宿近辺のあんちゃん

落語では、なぜか「半公」といえば経師屋(きょうじや)、「はねっ返りの半公」略して「はね半」ということに決まっています。「蛙茶番」「汲み立て」にも登場します。どんなドジをしでかすか、請うご期待。

新宿遊郭

新宿は、品川、千住、板橋と並び、四宿(ししゅく=非公認の遊郭)の一。飯盛女の名目で遊女を置くことが許された「岡場所」でした。正式には「内藤新宿」で、信濃高遠三万三千石・内藤駿河守の下屋敷があったことからこう呼ばれました。甲州街道の起点、親宿(最初の宿場)で、女郎屋は、名目上は旅籠屋。元禄11年(1698)に設置され、享保3年(1718)に一度お取りつぶし。明和9年(1772)に復興しました。

新宿を舞台にした噺は少なく、ほかに「四宿の屁」「縮みあがり」くらいです。

落語ことば 落語演目 千字寄席 落語あらすじ事典

【文違い 三遊亭円生】

みいらとり【木乃伊取り】演目

 落語ことば 落語演目 千字寄席 落語あらすじ事典

その名のとおり、みいら取りがみいらになってしまった噺です。

あらすじ

道楽者の若だんなが、今日でもう四日も帰らない。

心配した大だんなが、番頭の佐兵衛を吉原にやって探らせると、江戸町一丁目の「角海老」に居続けしていることが判明。

番頭が「何とかお連れしてきます」と出ていったがそれっきり。

五日たっても音沙汰なし。

大だんなが「あの番頭、せがれと一緒に遊んでるんだ。誰が何と言っても勘当する」と怒ると、お内儀が「一人のせがれを勘当してどうするんです。鳶頭ならああいう場所もわかっているから、頼みましょう」ととりなすので呼びにやる。

鳶頭、「何なら腕の一本もへし折って」と威勢よく出かけるが、途中の日本堤で幇間の一八につかまり、しつこく取り巻くのを振り切って角海老へ。

若だんなに「どうかあっしの顔を立てて」と掛け合っているところへ一八が「よッ、かしら、どうも先ほどは」

あとはドガチャカで、これも五日も帰らない。

「どいつもこいつも、みいら取りがみいらになっちまやがって。今度はどうしても勘当だ」と大だんなはカンカン。

「だいたい、おまえがあんな馬鹿をこさえたからいけないんです」と、夫婦でもめていると、そこに現れたのが飯炊きの清蔵。

「おらがお迎えに行ってみるべえ」と言いだす。

「おまえは飯が焦げないようにしてりゃいい」としかっても「仮に泥棒が入ってだんながおっ殺されるちゅうとき、台所でつくばってるわけにはいかなかんべえ」と聞かない。

「首に縄つけてもしょっぴいてくるだ」と、手織り木綿のゴツゴツした着物に色の褪めた帯、熊の革の煙草入れといういでたちで勇んで出発。

吉原へやって来ると、若い衆の喜助を「若だんなに取りつがねえと、この野郎、ぶっ張りけえすぞ」と脅しつけ、二階の座敷に乗り込む。

「番頭さん、あんだ。このざまは。われァ、白ねずみじゃなくてどぶねずみだ。鳶頭もそうだ。この芋頭」と毒づき、「こりゃあ、お袋さまのお巾着だ。勘定が足りないことがあったら渡してくんろ、せがれに帰るように言ってくんろと、寝る目も寝ねえで泣いていなさるだよ」と泣くものだから、若だんなも持て余す。

あまりしつこいので「何を言ってやがる。てめえがぐずぐず言ってると酒がまずくなる。帰れ。暇出すぞ」と意地になってタンカを切ると、清蔵怒って「暇が出たら主人でも家来でもねえ。腕づくでもしょっぴいていくからそう思え。こんでもはァ、村相撲で大関張った男だ」と腕を捲くる。

腕力ではかなわないので、とうとう若だんなは降参。

一杯のんで機嫌良く引き揚げようと、清蔵に酒をのませる。

もう一杯、もう一杯と勧められるうちに、酒は浴びる方の清蔵、すっかりご機嫌。

ころあいを見て、若だんなの情婦のかしく花魁がお酌に出る。

「おまえの敵娼に出したんだ。帰るまではおまえの女房なんだから、あくぁいがってやんな」

花魁「こんな堅いお客さまに出られて、あたしうれしいの。ね、あたしの手を握ってくださいよ」としなだれかかってくすぐるので、清蔵はもうデレデレ。

「おい番頭、かしくと清蔵が並んだところは、似合いだな」
「まったくでげすよ。鳶頭、どうです?」
「まったくだ。握ってやれ握ってやれ」

三人でけしかける。

「へえ、若だんながいいちいなら、オラ、握ってやるべ。ははあ、こんだなアマっ子と野良ァこいてるだな、帰れっちゅうおらの方が無理かもすんねえ」
「おいおい、清蔵、そろそろ支度して帰ろう」
「あんだ? 帰るって? 帰るならあんた、先ィお帰んなせえ。おらもう二、三日ここにいるだよ」

しりたい

「みいらとりがみいらに……」

呼びに行った者が誰も帰らないことですが、皮肉なこの噺の結末にはぴったりの演題です。清蔵をいちずに、実直に演じることで最後のオチのドンデン返しが効いてきます。

「みいら」は本来、死体の防腐用の樹液のことで、元はポルトガル語。木乃伊、蜜人とも書きます。それが乾燥死体そのものの意味にに転じたものですが、ことわざの意味との関係は不明です。

円生から談志へ

古くからの江戸前噺です。

戦後、得意にしていたのは六代目三遊亭円生と八代目林家正蔵で、特に円生のものは、人物の描き分けが巧みで、定評がありました。

円生没後は立川談志の得意ネタで、談志は、花魁が権助(清蔵)の上にまたがったりするエロチックな演出を加え、オチは、「こんなに惚れられてんのに、店なんぞに帰れるか」「勘定どうする?」「さっきの巾着よこせ」としていました。

角海老のこと

落語にしばしば登場する「角海老(かどえび)」は、旧幕時代は「海老屋」といい、吉原屈指の大見世、超有名店でした。「角海老」と称するようになったのは維新後です。

「角海老」の創業者は、信州出身の宮沢平吉なる者で、幕末に上京して牛太郎(客引き)から身を起こし、海老屋を買い取って、明治17年(1884年)に「角海老」の看板をあげました。

その屋根の、イルミネーション付きの大時計は明治の吉原のシンボルでした。

日本堤

元和6年(1620)、荒川の治水のため、浅草聖天町から箕輪(三ノ輪)まで築いた堤防です。そのうち吉原衣紋坂までを土手八丁、または馬道八丁と呼びました。

日本堤(にっぽんづつみ)の名の由来は、堤防構築に、在府している全国のすべての大名が駆り出されたことからきたといいます。

落語ことば 落語演目 千字寄席 落語あらすじ事典

【木乃伊取り 立川談志】

しちだんめ【七段目】演目

  落語ことば 落語演目 千字寄席 落語あらすじ事典

生活すべてが芝居の調子。マニアっていうやつは、いつの時代も……。

あらすじ

若だんなが常軌を逸した芝居マニアで、家業そっちのけ。

四六時中芝居小屋に入り浸り、何をやっても芝居のセリフになってしまう。

今日も朝から帰らないので、だんなが番頭に愚痴をこぼしている。

「今日という今日はみっちり小言を言います」とカンカンに怒るのを番頭がなだめているところへ、当の若だんなが意気揚々とご帰還。

しかっても蛙のツラに何とやらで「遅なわりしは拙者が不調法」と忠臣蔵・三段目の判官気取り。

あきれ果てて二階へ追い払うと、早速「とざい、とーざーい」と金切り声を張り上げる。

閉口しただんな、小僧の定吉に止めてこいと命じたが、定吉も悪のりして「やあやあ若だんな、芝居の真似をやめればよし、いやだなんぞとじくねると、とっつかめえて……」と忠臣蔵・道行の鷺坂伴内のパロディー。

これが逆効果で、若だんなは仲間ができたと大喜び。

一緒に芝居をやろうと聞かない。

定吉ももともと芝居狂なので、とうとう乗せられ、忠臣蔵・七段目・茶屋場の平右衛門とお軽の場面を二人でやる羽目に。

やるからには衣装を整えようと若だんな、赤い長襦袢と帯のしごき、手拭いの姉さんかぶりで定吉に女装させたのはいいが、平右衛門の自分が丸腰ではと、床の間の本身の刀を持ち出したから定吉は驚いた。やめると言うのを、決して抜かないからと、刀の鯉口をコヨリで結んでやっとなだめすかす。

足軽の平右衛門が、妹・お軽が仇討ちの大事を知ったことを悟り、秘密露顕を恐れて、自分の手で始末しようと決心するところで、だんだん若だんなの目がすわってきたので、定吉はびくびく。

とうとう恐れていた事態。

「あなた、抜いちゃいけませんったらッ」

もう何も耳に入らない若だんな、コヨリをあっという間にぶっちぎり「妹、こんたの命ァ、兄がもらったッ」

抜き身を振り回すからたまらない。

定吉、逃げる拍子に階段からゴロゴロゴロ。

「おい、定吉、しっかりしろ」「ハア、私には勘平さんという夫のある身」
「馬鹿野郎。小僧に夫があってたまるか。変な格好をして、さては二階であの馬鹿と芝居ごっこをして、てっぺんから落ちたか」
「いえ、七段目」

しりたい

「忠臣蔵」のパロディー

全編、浄瑠璃・歌舞伎でおなじみの「仮名手本忠臣蔵」のパロディーです。

江戸、大坂のような都市部の人々なら、特にこの若だんなのような芝居狂でなくとも、芝居の「忠臣蔵」のセリフや登場人物くらいは隅々まで頭に入っていて、日常会話の一部にさえなっていました。

「とざい、とーざい」は「東西声」といい、「仮名手本忠臣蔵」開幕の前にからくり人形が観客に挨拶する掛け声。

定吉の「芝居の真似を……」は四段目の切、清元舞踊「道行旅路花婿」の道化敵・鷺坂伴内のセリフ、「やあやあ勘平、お軽をこっちへ渡さばよし、いやだなんぞとじくねると……」のもじりです。

騒動の元になる後半の大立ち回りは、七段目・祇園一力茶屋の場で、密書を読んで仇討ちの計画を知った遊女・お軽を、身請けの後に殺そうという大星由良之助(大石内蔵之助)の腹を、お軽の兄・寺岡平右衛門が察し、妹を手に掛けた手柄で、同志に加えてもらおうとする見せ場です。

ほかに登場する芝居

この噺でパロディーギャグに使われる芝居は、「忠臣蔵」以外は演者によって変わります。

若だんなが「菅原伝授手習鑑」・「車引」の「そのくるまァ、やァらァぬゥー」という決めゼリフで人力車を止めたり、おやじにぶたれて、「こりゃこのおとこの、生きィづらァをー」と、「夏祭」の団七のセリフでうなったりするギャグは、大方の落語家が入れますが、観客が歌舞伎をよく理解していないとウケません。

東西とも、芝居のクライマックスは、下座の鳴り物を使って、にぎやかに演じます。

「七段目」演者と演出

芝居ばなしの素養がないとできない噺で、先代三遊亭円歌、先代雷門助六などが軽妙に演じていました。

春風亭小朝、林家正雀などのレパートリーにもなっています。

大阪でも古くから演じられ、二代目立花家花橘が得意にしていたのを桂米朝が継承し、桂吉朝、桂文珍など後進に伝えてました。

最後のオチは、古い型では「七段目から落ちたか」「いえ、てっぺんから」と逆で、米朝はこの型でサゲていました。

落語ことば 落語演目 千字寄席 落語あらすじ事典

【七段目 柳亭市馬】

自宅で始めて、年収1,300万円以上が可能

  落語ことば 落語演目 千字寄席 落語あらすじ事典

はんたいぐるま【反対車】演目

  落語ことば 落語演目 千字寄席 落語あらすじ事典

威勢はいいのですが、ここまでそそっかしいのはいかがなものか……。

別題:いらち車(上方)

あらすじ

人力車がさかんに走っていた明治の頃。

車屋といえば、金モールの縫い取りの帽子にきりりとしたパッチとくれば速そうに見えるが、さるだんなが声を掛けられた車屋は、枯れた葱の尻尾のようなパッチ、色の褪めた饅頭笠と、どうもあまり冴えない。不運。

「上野の停車場までやってくれ」
「言い値じゃ乗りますまい」
「言い値でいいよ」
「じゃ十五円」

十五円あれば、吉原で一晩豪遊できた時分。

「馬鹿野郎、神田から上野まで十五円で乗る奴がどこにいる」

勝手に値切ってくれと言うから、「三十銭」「ようがしょう」といきなり下げた。

それにしても車の汚いこと。

臭いと思ったら、「昨日まで豚を運搬していて、人を乗せるのはお客さんが始めてだ」と抜かす。

座布団はないわ、梶棒を上げすぎて客を落っことしそうになるわ。

おまけに提灯はお稲荷さまの奉納提灯をかっぱらってきたもの。

どうでもいいが、やけに遅い。

若い車屋ばかりか、年寄りの車にも抜かれる始末。

「あたしは心臓病で、走ると心臓が破裂するって医者に言われてますんで。もし破裂したら、死骸を引き取っておくんなさい」

そう言い出したから、だんなはあきれ返った。

「二十銭やるからここでいい」
「決めだから三十銭おくんなさい」

ずうずうしい。

「まだ万世橋も渡っていないぞ」
「それじゃ上野まで行きますが、明後日の夕方には着くでしょう」

だんなはとうとう降参して、三十銭でお引き取り願う。

次に見つけた車屋は、人間には抜かれたことがないと威勢がいい。

それはいいが、乗らないうちに「アラヨッ」と走りだす。

飛ばしすぎてこっちの首が落っこちそう。

しょっちゅうジャンプするので、生きた心地がない。

走りだしたら止まらないと言うから、観念して目をつぶると、どこかの土手へ出てやっとストップ。

見慣れないので、「どこだ」と聞いたら埼玉県の川口。

「冗談じゃねえ。上野まで行くのに、こんなとこへ来てどうするんだ」

しかたなく引き返させると、また超特急。

腹が減って目がくらむので、川があったら教えてくれと言う。

汽車を追い抜いてようやく止まったので、命拾いしたと、値を聞くと十円。

最初に決めなかったのが悪かったと、渋々出した。

「見慣れない停車場だな」
「へい、川崎で」

また通り越した。

ようやく上野に戻ったら午前三時。

「それじゃ、終列車は出ちまった」
「なあに、一番列車には間に合います」

しりたい

人力車あれこれ

1870年(明治3)、和泉要助ら三人が製造の官許を得て、初お目見えしたのは1875年(明治8)でした。車輪は当初は木製でしたが、後には鉄製、さらにゴム製になりました。登場間もない明治初年には、運賃は一里につき一朱。車引きは駕籠屋からの転向組がほとんど。ただし、雲助のように酒手をせびることは明治政府により禁止されました。明治10年代までは、二人乗りの「相乗車」もあったようです。

落語家も売れっ子や大看板になると、それぞれお抱えの車引きを雇い、人気者だった明治の爆笑王・初代三遊亭円遊の抱え車引きが、あまりのハードスケジュールに、血を吐いて倒れたというエピソードもあります。

全盛時は全国で三万台以上を数え、東南アジアにも「リキシャ」の名で輸出されましたが、1923年(大正12)の関東大震災以後、自動車の時代の到来とともに急激にその姿を消しました。

車屋の談志

この噺の本家は大阪落語の「いらち車」ですが、大正初期には、六代目立川談志(1888-1952)が「反対車」で売れに売れました。住んでいた駒込辺りで「人力車の……」と言いかければ、すぐ家が知れたほど。そこで、ついた異名がそのものずばり「車屋の談志」。その談志も、人力車の衰退後は不遇な晩年だったといいます。

昭和初期には、七代目林家正蔵(1894-1949、本名・海老名竹三郎)の十八番でした。八代目橘家円蔵(1934-2015、本名・大山武雄)のも、若い頃の月の家円鏡だった時代から、漫画的なナンセンスで定評がありました。客が二人目の車屋に連れて行かれる先は、演者によって大森、赤羽などさまざまで、「青森」というのもありました。

人力車の噺いろいろ

人力車は明治の文明開化の象徴。それを当て込んでか、勘当された若だんなが車引きになる「素人人力」、貧しい車屋さんの悲喜劇を描く「大豆粉のぼた餅」、初代三遊亭円左の古い速記が残る怪談「幽霊車」。そういった多くの新作がものされましたが、今では「反対車」のほか、すべてすたれました。

落語ことば 落語演目 千字寄席 落語あらすじ事典

【反対車 八代目橘家円蔵】