うなぎのたいこ【鰻の幇間】落語演目



  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

売れない野幇間の一八。
だんなに取り付いて鰻をせしめようと作戦に。
これぞ代表作。文楽と志ん生、どちらも秀逸。

別題:鰻屋の幇間 釣り落とし

あらすじ

真夏の盛り。

炎天下の街を、陽炎のようにゆらゆらとさまよいながら、なんとかいい客を取り込もうとする野幇間の一八にとって、夏はつらい季節。

なにしろ、金のありそうなだんなはみな、避暑だ湯治だと、東京を後にしてしまっているのだから。

今日も一日歩いて、一人も客が捕まらない。このままだと幇間の日干しが出来上がるから、こうなったら手当たり次第と覚悟を決め、向こうをヒョイと見ると、どこかで見かけたようなだんな。

浴衣がけで手拭を下げて……。

はて、どこで会ったか。

この際、そんなことは気にしていられないので、
「いよっ、だんな。その節はご酒をいただいて、とんだ失礼を」
「いつ、てめえと酒をのんだ」
「のみましたヨ。ほら、向島で」
「なに言ってやがる。てめえと会ったのは清元の師匠の弔いで、麻布の寺じゃねえか」

話がかみ合わない。

だんなが、
「俺はこの通り湯へ行くところだが、せっかく会ったんだから鰻でも食っていこうじゃねえか」
と言ってくれたので、一八はもう夢見心地。

で、そこの鰻屋。

だんなが、
「家は汚いよ」
と釘をさした通り、とても繁盛しているとは見えない風情。

「まあ、この際はゼイタクは禁物、とにかくありがたい獲物がかかった」
と一八、腕によりをかけてヨイショし始める。

「いいご酒ですな。……こりゃけっこうな香の物で……。そのうちお宅にお伺いを……お宅はどちらで?」
「先のとこじゃねえか」
「あ、ああ、そう先のとこ。ずーっと行って入り口が」
「入り口のねえ家があるもんか」

そのうちに、蒲焼きが来る。

大将、ちょっとはばかりへ行ってくると、席を立って、なかなか戻らない。

一八、取らぬ狸で、
「ご祝儀は十円ももらえるかもしらん、お宅に出入りできたら、奥方からもなにか……」
と、楽しい空想を巡らすが、あまりだんなが遅いので、心配になって便所をのぞくと、モヌケのから。

「えらいっ! 粋なもんだ、勘定済ましてスーッと帰っちまうとは」

ところが、仲居が
「勘定お願いします」
とくる。

「お連れさんが、先に帰るが、二階で羽織着た人がだんなだから、あの人にもらってくれと」
「じょ、冗談じゃねえ。どうもセンから目つきがおかしいと思った。家ィ聞くとセンのとこ、センのとこってやがって……なんて野郎だ」

その上、勘定書が九円八十銭。「だんな」が六人前土産を持ってったそうだ。

一八、泣きの涙で、女中に八つ当たりしながら、なけなしの十円札とオサラバし、帰ろうとするとゲタがない。

「あ、あれもお連れさんが履いてらっしゃいました」

底本:八代目桂文楽

しりたい

文楽十八番  【RIZAP COOK】

明治中期の実話がもとといわれますが、詳細は不明です。

「あたしのは一つ残らず十八番です!」と豪語したという八代目桂文楽(並河益義、1892-1971)の、その十八番のうちでも自他共に認める金箔付きがこの噺、縮めて「ウナタイ」。

文楽以前には、遠く明治末から大正中期にかけ、初代柳家小せん(鈴木万次郎、1883-1919、盲小せん)が得意にしていました。

文楽は小せんのものを参考に、40年以上も、セリフの一語一語にいたるまで磨きあげ、野幇間の哀愁を笑いのうちにつむぎ出す名編に仕立てました。

幇間  【RIZAP COOK】

幇間は、宝暦年間(1751-64)から使われ出した名称です。

幇間の「幇」は「助ける」という意味で、遊里やお座敷で客の遊びを取り持ち、楽しませ、助ける稼業ですね。

ほかに「タイコモチ」「太夫」「男芸者」「末社」「太鼓衆」「ヨイショ」などと呼ばれました。

太夫は、浄瑠璃の河東節や一中節の太夫が幇間に転身したことから付いた異称です。

「ヨイショ」という呼び方も一般的で、これは幇間が客を取り持つとき、決まって「ヨイショ」と意味不明の奇声を発することから。

「おべんちゃらを並べる」意味として、今も生き残っている言葉です。

もっともよく使われる「タイコモチ」の語源は諸説あってはっきりしません。

太閤秀吉を取り巻いた幇間がいたから、「タイコウモチ」→「タイコモチ」となったというダジャレ説もありますが、これはあまり当てになりませんな。

「おタイコをたたく」というのも前項「ヨイショ」と同じ意味です。

おだん  【RIZAP COOK】

だんな、つまり金ヅルになるパトロンを「おだん」、客を取り巻いてご祝儀にありつく営業を「釣り」、客を「魚」というのが、幇間仲間の隠語です。

「おだん」は落語家も昔から使います。

この噺の一八は、客を釣ろうとして、「鰻」をつかんでしまいぬらりぬらりと逃げられたわけですが、一八の設定は野幇間で、今風でいえばフリー。

「のだいこ」と読みます。そう、「坊ちゃん」に登場のあの「野だいこ」ですね。

正式の幇間は各遊郭に登録済みで、師匠のもとで年季奉公五年、お礼奉公一年でやっと座敷に顔を出せたくらいで座敷芸も取り持ちの技術も、野幇間とは雲泥の差でした。

噺家と天狗(素人噺家)との差くらいでしょうか。

志ん生流と文楽流  【RIZAP COOK】

五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890.6.5-1973.9.21)の「鰻の幇間」は、文楽演出を尊重し踏襲しながらも、志ん生独特のさばき方で、すっきりと噺のテンポを早くした、これも逸品でした。

文楽の、なにかせっぱつまったような悲壮感に比べ、志ん生の一八はどこかニヒルが感じられます。

ヨイショが嫌いだったという、いわば幇間に向かない印象にもかかわらず、別の意味で野幇間の無頼ぶりをよく出しています。

オチは文楽が「お供さんが履いていきました」で止めるのに対し、志ん生はさらに「それじゃ、オレの履いてきたのを出してくれ」「あれも風呂敷に包んで持っていきました」と、ダメを押しています。

両者を聴き比べてみるのは、落語の楽しみのひとつですね。

さらに。三代目古今亭志ん朝(美濃部強次、1938.3.10-2001.10.1)の至芸も聴きたくなります。軸足はどっちにあったのでしょう。

ことばよみいみ
野幇間のだいこ自称たいこもち
一八いっぱち落語での幇間の典型名



  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

きゅうしゅうふきもどし【九州吹き戻し】落語演目



  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

あまりかかることのない、珍しい噺です。
粗っぽくて、いやはや、どうも。

【あらすじ】

放蕩の挙げ句、お決まりで勘当された、元若だんなのきたり喜之助。

それならいっそ、遊びのしみ込んだ体を生かそうと幇間になったが、金を湯水のごとく使った癖が抜けず、増えるのは不義理と借金ばかり。

これでは江戸にいられないと、夜逃げ同然に流れ流れてとうとう肥後の熊本城下へ。

一目で一文なしとわかるみずぼらしい風体になったので、どの宿屋も呼び込んでくれない。

ふと眼についたのが、江戸屋という旅籠の看板。

江戸という名の懐かしさに、
「えい、なんとかなるだろう」
とずうずうしく上がり込み、明日は明日の風が吹くとばかり、その夜は酒をのんでぐっすり寝入ってしまった。

翌朝、
「おや、喜之さんじゃなか」
と誰かが声を掛けるので、ひょいと見ると昔なじみで、湯屋同朋町にいた大和屋のだんな。

このだんなも商売をしくじり、江戸を売ってはるばるこの地へ流れ着き、今ではこの旅籠の主人。

喜之助、地獄に仏とばかり、だんなに頼んで板場を手伝わせてもらい、時には幇間の「本業」を生かして座敷にも出るといったわけで、客の取り持ちはさすがにうまいので、にわかに羽振りがよくなった。

こうして足掛け四年辛抱して、貯まった金が九十六両。

ある日、だんなが、
「おまえさんの辛抱もようやく身を結んできたんだから、あと百両も貯めたらおかみさんをもらい、江戸屋ののれんを分けて末永く兄弟分になろう」
と言ってくれたが、喜之助はここに骨を埋める気はさらさらない。

日ごと夜ごと、江戸恋しさはつのるばかり。

そこでだんなに、
「一人のおふくろが心配で」
と切り出すと、
「おまえさんのおっかさんはもう亡くなっているはずだが」
と、苦笑しながらも、
「まあ、そんなに帰りたければ」
と、親切にも贔屓のだんな衆に奉賀帳を回して二十両余を足し前にし、餞別代わりに渡してくれた。

出発の前夜、夢にまで見た江戸の地が踏めると、もういても立ってもいられない喜之助、夜が明けないうちに江戸屋を飛び出し、浜辺をさまよっていると、折よく千五百石積の江戸行きの元船(荷船)の水手に出会った。

便船(荷船に客を乗せること)は天下のご法度だが、病気のおふくろに会いに行くならいいだろうと、特別に乗せてもらうことになった。

海上に出てしばらくは申し分ないよい天気で、船は追い風をはらんで矢のように進んだが、玄界灘にさしかかるころ、西の空から赤い縞のような雲が出たと思うと、雷鳴とともにたちまち大嵐となった。

帆柱は折れ、荷打ちといって米俵以外の荷は全て海に投げ込み、一同、水天宮さまに祈ったが、嵐は二日二晩荒れ狂う。

三日目の夜明けに打ち上げられたのが、薩摩の桜島。

江戸までは四百里、熊本からは二百八里。

帰りを急ぎ過ぎたため、百二十里も吹き戻されたという話。

ライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ

【しりたい】

円朝もサジ投げた噺

原話や成立過程などはいっさい不明です。

初代古今亭志ん生(清吉、1809-1856、八丁荒らしの)が得意にしていました。

おそらく、天保年間(1830-44)のことでしょう。

その志ん生も、初代鈴々舎馬風(津国屋長兵衛、1802-68、→初代五明楼玉輔)から金千疋(約二両二分)で譲ってもらったというので、起源はかなり古いと思われます。

初代志ん生は、江戸後期の人情噺の名手で、若い頃の三遊亭円朝の芸風を買っていて、なにかとかわいがっていたといわれています。

そのようなからみからか、円朝は若き日に初代志ん生の「九州吹きもどし」を聴き、とても自分はできないと断念します。後年、門下にも口演を禁じたほどでした。

談志や雲助が復活

円朝の没後、その「禁」を破って、孫弟子の三代目三遊亭円馬(橋本卯三郎、1882-1945、大阪→東京)が大正期に高座にかけ、十八番としました。

円馬と同時期では、初代柳家小せん(鈴木万次郎、1883-1919、盲小せん)も演じていました。

先の大戦後には、四代目円馬(森田彦太郎、1899-1984)が師匠譲りで持ちネタにしました。

その後はまったく絶えていたのを、立川談志(松岡克由、1935-2011)が復活しました。

筋としてはかなり荒っぽい噺ですが、後半はスケールが大きなスペクタクルで、芸格の大きな人が演じると、引き立つ噺でしょう。

近年では、五街道雲助の持ちネタです。

きたり喜之助

主人公の名ですが、これは江戸の言葉遊びで、「来たり」(よしきた!)の頭韻を合わせただけの洒落を、そのまま人名にしたものです。

「きたり喜の字屋」も同じです。

                       
山東京伝作(1761-1816)の黄表紙(絵入り読み物)「江戸生艶気樺焼」にも使われ、表記では「北里喜之助」とあります。 

奉賀帳

ほうがちょう。もともとは、社寺に寄進する金額を記した帳面で、のちには寄付を募った時、その金額と氏名を記録する台帳の意味で使われました。

「奉加帳を回す」といえば、仲間がピンチのとき、有志が友人一同に、義援金を集めて回ること。

つまりは、カンパのことですね。

元船

もとぶね。親船ともいい、荷船の中でも特に大船を指します。

ここでは薩摩藩の船という設定です。

実際、薩摩のものが最も大きく、二千八百石積みと記録にあります。

だいたい、400トン積み程度でしょう。

幕府は三千石以上の船の建造を許しませんでした。軍艦改造と海外渡航を防ぐためです。

ことばよみいみ
幇間たいこもち
旅籠はたご
贔屓ひいき
餞別せんべつ
水手かこ船乗り
江戸生艶気樺焼えどうまれうわきのかばやき山東京伝作の洒落本



  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

よどごろう【淀五郎】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

実話が基に。
「四段目」「中村仲蔵」と並ぶ忠臣蔵の芝居噺。

別題:中村秀鶴

【あらすじ】

ある年の暮れ。

「渋団」といわれた名人、市川団蔵を座頭に、市村座で「仮名手本忠臣蔵」を上演することになった。

由良之助と師直の二役は座頭役で決まりだが、塩屋判官役の沢村宗十郎が病気で倒れ、代役を立てなければならない。

団蔵、鶴の一声で「紀伊国屋(宗十郎)の弟子の淀五郎にさせねえ」

その沢村淀五郎は芝居茶屋の息子で、相中といわれる下回り役者。

判官の大役をさせられる身分ではない。そこで急遽、当人を名題に抜擢する。

淀五郎、降って沸いた幸運に大張りきり。

いよいよ初日。

三段目のけんか場までなんとか無事に済み、見せ場の四段目・判官切腹の場になった。

淀五郎扮する判官が浅黄の裃、白の死装束で切腹の場へ。

本来なら判官が、小姓の力弥に
「由良之助は」
「いまだ参上つかまつりません」
「存生の対面せで、残念なと伝えよ」
と、悲壮なセリフと共に、九寸五分を腹に突き立て、それを合図に花道からバタバタと、団蔵扮する城代家老・大星由良之助が現れ、舞台中央に来て
「御前」
「由良之助か、待ちかねた」
となるはずだが、団蔵は
「なっちゃいないね。役者も長くやってると、こういう下手くその相手をしなきゃならねえ。嫌だ嫌だ」
と、そのまま花道で動かない。

幕が閉まってから、おそるおそる団蔵に尋ねると
「あれじゃ、行きたいが行かれないね。あの腹の切り方はなんだい」
「どういうふうに切りましたらよろしいんで」
「そうさな、本当に切ってもらおうかね」
「死んじまいますが」
「下手な役者ァ、死んでもらった方がいい」

帰宅して工夫したが、翌日も同じ。

こうなると淀五郎、つくづく嫌になり
「そうだ、本当に腹ァ切れというんだから、切ってやろう。その代わり、皮肉な三河屋(団蔵)も生かしちゃおかねえ」

物騒な決心をして、隣の中村座の前を通ると、日ごろ世話になっている、これも当時名人の中村仲蔵の評判で持ちきり。

どうせ明日は死ぬ身だから、舞鶴屋(仲蔵)の親方にもあいさつしておこうと、その足で仲蔵を訪ねる。

仲蔵、淀五郎の顔が真っ青で、おまけに芝居がまだ二日目というのに
「明日から西の旅に出ます」
などと妙なことを言うので、問いただすとかくかくしかじか。

悪いところを直してやろうと、その場で切腹の型をやらせ、
「あたしが三河屋でも、これでは側に行かないよ」
と、苦笑。

「おまえさんの判官は、認められたいという淀五郎自身の欲が出ていて、五万三千石の大名の無念さが伝わらない。判官が刀を腹に当てるとき、膝頭から手を下ろすと品がない」
などと、心、型の両面から親切に助言し、励まして帰す。

翌日。

三段目が済むと団蔵が驚いた。

「あの野郎。どうして急にああもよくなったか。おらァ、本当に斬られるかと思った」

こうなると四段目が楽しみになる。出になって、花道から見ると
「うーん、いい。こりゃあ、淀五郎だけの知恵じゃねえな。あ、秀鶴(仲蔵)に聞いたか」

ツツツと近寄って
「御前」

淀五郎、花道を見るといないから、今日は出てもこないかと、がっかり。

それでも声がしたようだが、と見回すと、傍に来ている。
「おお、待ちかねたァ」

【しりたい】

円生、正蔵、志ん生と百花繚乱  【RIZAP COOK】

原話は不詳で、実話を基にしたといわれます。

明治の四代目橘家円喬以来、基本的な演出は変わっていません。

オチがあるので、厳密には人情噺とは言えませんが、芸道ものの大ネタです。

戦後では八代目林家正蔵(彦六)、六代目三遊亭円生、五代目古今亭志ん生が競演。

円生では、仲蔵が淀五郎に注意する場面が、微に入り細をうがって詳しいのが特色です。

正蔵の速記では省かれていますが、円生にならって判官の唇に青黛を塗り、瀕死の形相を出すようにと注意を入れる演者が多くなっています。

オチの後、正蔵は「こりゃ本当に待ちかねました」とダメを押しましたが、円生はムダとして省いています。

志ん生も円生のやり方とほぼ同じでしたが、詳細すぎる説明をカットし、人情噺のエキスを保ちながら、軽快なテンポで十八番の一つとしました。

その下の世代でも、円楽、志ん朝などが掛けていました。

今でも、小朝らベテランから中堅、若手に至るまで多くの演者に高座に掛けられています。

八代目正蔵のやり方は、門下の八光亭春輔がもっとも忠実に継承しています。

イジワル団蔵は何代目か  【RIZAP COOK】

「渋団」と噺の中で説明されますが、歴代の団蔵でこの異名で呼ばれたのは五代目(1788-1845)です。

芸がいぶし銀のように渋かったことからで、六代目三遊亭円生は「目黒団蔵」と説明していますが、これは四代目団蔵(1745-1808)で、「渋団」の先代です。

噺に登場する初代仲蔵と同時代なら、この団蔵は四代目が正しいことになるのですが。

実録・淀五郎  【RIZAP COOK】

実在の沢村淀五郎は、初代から三代目まで数えられます。

三代目は、前記四代目団蔵が没した1か月後に襲名しているので、もし四代目団蔵、初代仲蔵と同時代なら明和3(1766)年に襲名した二代目ということになります。

忠臣蔵評判記『古今いろは談林』の「安永8年(=1779年)森田座」の項に「塩冶判官 沢村淀五郎 大星由良之助 市川団蔵」という記録があります。

三代目までのどの淀五郎にも、芝居茶屋のせがれという記録はなく、これはフィクションでしょう。

仲蔵は東西に二人  【RIZAP COOK】

同題の芸道噺に主役で登場します。詳しくは「中村仲蔵」をお読みください。

初代仲蔵の生涯について興味のある方には、松井今朝子の小説『仲蔵狂乱』(講談社文庫)にビビッドに描かれていてます。

同時代に同名の中村仲蔵がもう一人、大坂にいて、やはり初代を名乗っていました。

この人は屋号「姫路屋」で通称「白万」。実事を得意とし、寛政9年(1797)に没しています。

以来、江戸東京と上方にそれぞれ四代目までの仲蔵が並立し、最後の「大阪仲蔵」が死去したのは明治14年(1881)でした。

一般に、江戸の初代、三代、大坂の初代、四代が名高いと語り草です。

現在、仲蔵の名跡は空き名跡です。勘五郎から平成元年(1989)4月に襲名した五代目が、平成4年(1992)12月に没して以来、名乗りはいません。

「仮名手本忠臣蔵」については、「四段目」「中村仲蔵」をお読みください。

江戸三座  【RIZAP COOK】

市村座、中村座、森田座の江戸三座は天保の改革で、天保13年(1842)、猿若町(台東区浅草六丁目)に強制移転。

天保の改革の一環ででした。町名もその時に付けられました。

ことばよみいみ
相中あいちゅう

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

ありがたやまのとびからす【ありがた山の鳶烏】むだぐち ことば

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

照れを含んだ感謝の意で「ありがたや」の言葉遊び。語尾の「や」から語呂合わせで「やま」、そこから連想で「鳶」「烏」を出しただけです。

「鳶烏」の最初の形は「時鳥ほととぎす」。

「ありがた山」も最初は「ただ取る山」→「待ちかね山」だったのを、ニュアンスを変えて謝礼の言葉になってから、爆発的に流行。

「山の」の後付け部分だけでも「桜」「二軒茶屋」「猫」、「呑込山」「出来兼山」と、さまざまなバリエーションができました。

しまいには、現代の子供のおふざけの「蟻が十匹」まで、この系譜は続いています。

「ありがた山」は「有難山」と記すこともあります。

蛇足ですが。

大昔、大学の体育祭でのこと。

講堂のステージでは、ウェイトリフティングの競技が行われていました。誰がどれだけ重いバーベルを持ち上げられるかいう、あれです。

体重150kgもあろうかという肥満型の男子学生がのっそり登壇し、100kgのバーベルをうんとこやっとこ持ち上げたのです。

割れんばかりの拍手喝采。と同時に、「いいぞー、肉山くーん!」の声援が湧きました。会場は大爆笑。ウケた。

肥満学生の名前が「肉山」だったわけでもないし、肉屋のせがれでもなかったはずです。

贅肉ぷりぷりの、およそスポーツとは無縁そうな男が130kgを持ち上げたことからの、その意外な状況と、ふいに頭をよぎった語感が結びつけられた、野次馬の安直な連想だったのでしょう。

わかりやすい発想です。

むだぐちが生まれる場面は、およそ、とっさのひらめきが突き上げるものなのですね、きっと。

この「ありがた山の鳶烏」もそんなところから生まれた、唐突な瞬間芸だったといえます。

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

いただきやまのとびからす【頂き山の鳶烏】むだぐち ことば

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

 

「ありがた山の鳶烏」とまったく同じパターンで、「いただきます」を洒落て言葉遊びにしただけです。

詳細はその項を参照。ただ、「ありがた山」と併せて補足すると、なんでもかんでも語尾に「山」を付けて「○○山」とするのは、安永年間(1772-81)に流行した通人言葉です。

ただ洒落けを付けるためのもので、「山」自体にあまり意味はありませんが、あるいは「さま」を気取って符牒化したのかも知れません。

「頂き……」自体も変形が多く、「頂き笠の緒」「頂き女郎衆」「頂きの渡せる橋」などがあります。

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

たがや【たがや】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

川開き。
魔封じの花火。
ごったがえす両国橋で職人と武士のいさかいが。
江戸前、夏の噺です。

あらすじ

安永年間(1772-81)、五月二十八日は両国の川開き。

両国橋の上は見物人でごったがえす。

花火をめでると「玉屋」の声しきり。

本所方向(東側)から旗本の一行。

前には二人の供侍、中間は槍を持っている。

「寄れ、寄れいッ」
と、強引に渡ろうとする。

反対側の広小路方向(西側)から通りかかったのが、商売物の桶のたばをかついだ、たがや。

「いけねえ、川開きだ。えれえことしちゃったなあ。もっと早く気がつきゃァよかったなあ。といって、永代橋を回っちゃしょうがねえし、吾妻橋へ引き返すのもドジだし、どうにもしょうがねえ。しかたがねえ。通してもらおう。すみません」

もみ合う中、後ろから押されたはずみに、かついでいたたががはずれ、向こうからやって来た侍の笠の縁をはがしてしまった。

恥をかかされた侍は、カンカンになって怒り、
「たわけ者め、屋敷へまいれ」
「腰の抜けたおやじと目の悪いおふくろがあっしの帰りを首を長くして待っています。助けてください」

たがやはあやまるが、侍は容赦しない。

開き直ったたがや、
「血も涙もねえ、眼も鼻も口もねえ、のっぺらぼうの丸太ん棒野郎ッ。四六の裏め」
「なにッ」
「三一てえんだ」
「無礼なことを申すと、手は見せんぞ」
「見せねえ手ならしまっとけ」
「大小がこわくないか」
「大小がこわかった日にゃ、柱暦の下ァ、通れねえ」

必死のたがやは侍の刀を奪って、次々と供を斬り殺していく。

最後に残った旗本が馬から下りて槍をしごく。

突いてくる槍の千段巻きを、たがやはグッとつかみ、横一文字に刀をはらうと、勢い余って武士の首が宙天に。

まわりにいた見物人が
「上がった上がったィ。たァがやァい」

底本:三代目桂三木助

【RIZAP COOK】

しりたい

夏休み限定落語  【RIZAP COOK】

生粋の江戸前落語。詳しい起源や原話は不明です。

両国の川開きで、花火が年中行事化したのは享保2年(1717)ですから、少なくともそれ以後の作でしょう。

かつては三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)、三代目桂三木助(小林七郎、1902-61)などが威勢のよさを競いました。

現在でも、花火をあてこんで、夏になると高座にかかる納涼ばなしです。

底本に使ったのは、三木助の速記です。

時代を、江戸中期の安永年間(1772-81)、十代将軍家治の治世としています。

元はたがやの首が飛び  【RIZAP COOK】

七代目立川談志(松岡克由、1935-2011)は、逆にたがやの首を飛ばすオチでした。

これがオリジナルのやり方。

そうでなければ、「上がった上がった、たァがやァい」という最後の掛け声の意味がなくなります。

この改変に関する解説は、どれも判で押したように、以下の通り。

侍の首が飛ぶようになったのは、幕末に安政大地震(1855)の復興景気で、首ならぬ職人の手間賃が跳ね上がり、景気のよくなった彼らが寄席に大勢来るようになったので、職人仲間のたがやをヒーローにしてハッピーエンドに変え、ニワカ客のごきげんをうかがったため。

本当でしょうか。

いくら幕府の権勢が地に落ちたとはいえ、あの恐怖政治の井伊大老が、こんな武士への冒涜を許しておくとも考えにくいもの。

案外、季節違いとはいえ、その井伊直弼の首が飛んだこと(1860年3月3日)がきっかけなのではないか、と勘ぐってしまうのですが。

たがや  【RIZAP COOK】

大道で桶を修理したり、たが(箍)を交換したりする職人です。

たがとは、桶や樽などの周りを巻いて、外れないように締める竹の輪。極限までばか力でギリギリと締めてある上、竹ですから一度外れた場合の反発力はすさまじいものでしょう。

というわけで、この噺の笠を跳ね飛ばす場面はたいへんにリアルで、無理がありません。

木樽に巻かれた箍

玉屋  【RIZAP COOK】

両国にあった花火屋です。

日本橋横山町の老舗、鍵屋の番頭がのれん分けした店でした。

以来、業界の勢力を主家筋の鍵屋と二分し、川開きでも「鍵屋」「玉屋」と平等に声が掛かるまでになりました。

天保14年(1843)、自火を出したとしてお上のおとがめを受け、玉屋は廃業処分とあいなりました。

鍵屋の陰謀のにおいが、プンプンしますがね。

ところが、それ以来判官びいきの江戸っ子の同情を一身に集め、店はなくなったのに、掛け声だけは「玉屋」「玉屋」の一点張り。

「鍵屋」のカの字もなくなったのは、皮肉です。

本当かどうか、これもあやしい話が。

柱暦  【RIZAP COOK】

はしらごよみ。

たがやのタンカの中に登場しますが、縦長の暦で、柱に張っておくものです。

暦のたぐいは、表向き町人や百姓は所持を禁じられていましたが、ないと生活に不便なので、簡単なものを寺社などからもらってきていました。

千段巻き  【RIZAP COOK】

槍の柄を籐で巻いて、漆を塗った部分です。

手は見せんぞ  【RIZAP COOK】

侍の言う「手は見せんぞ」というのは、時代劇では昔から常套句です。

刀を抜く手さばきも見えないほど、素早く斬ってしまう、という脅しです。

両国橋  【RIZAP COOK】

両国橋は万治2年(1659)に架けられました。

その2年前の明暦の大火からの教訓によるものです。

全長94間(171m)。これは長い。

この橋が架かったことから、川向こうの開発が進み、江戸が巨大化していくきっかけとなりました。

両国橋は何度も架け替えられました。

洪水によるものです。

橋のちょっと上流に隅田川が大きく曲がっているため、洪水のとばっちりを受けやすかったのです。

上流から流れてくる壊れた橋の流木が両国橋にぶつかって、しまいには両国橋そのものが倒壊してしまうのです。

その対策として、ちょっと上流に芥留杭が流れに並んで打たれていました。

これが「死神」の舞台となる千本杭です。

流木の流れを修正する意図でしたが、大きな洪水では効果ありません。

重り石と呼ばれる10貫目(37.5kg)以上の石を東西の橋詰に1000個も置いて、とにかく橋が流されるのを食い止めようとしました。

武蔵国と下総国とを結ぶので「両国」と呼ばれたというのは知られていますが、川の西側は町奉行が支配(管理)で、東側は本所奉行の支配でした。

正徳3年(1713)に、本所深川は町奉行支配に変更されました。

享保4年(1719)になると、武家地は普請奉行に、道路、橋、水路関係は勘定奉行に支配が移り、本所奉行は廃止となりました。

一般行政や町民に請け負わせていた作業の支配は、町奉行の中にに「本所見廻」という役職が設けられました。

こうして、18世紀前半には川向こうの深川あたりも都市化していっていたのですね。

両国、両国といっても、両国橋西詰の西両国と東詰の東両国ではだいぶ雰囲気が違っていました。

ともに、橋詰には広小路(道幅の広い街路)がありましたが、西両国のほうは芝居小屋、茶店、料理屋、揚弓場などが並ぶただの繁華街でした。

東両国のほうは、回向院があって、死者の霊を弔う雰囲気でした。

回向院は諸宗山無縁寺といわれる寺院で、明暦の大火、浅間山噴火(死者が上流から多数流れてきた)、安政の大地震など災害死の無縁仏を供養してきました。

街の発祥がこんなところからでしたが、鎮魂や悪疫除けから隅田川の花火が享保18年(1733)から始まったり、大相撲の勧進興行が寛政3年(1791)から始まったりして、次第ににぎやかな街に発展していきました。

大相撲の勧進興行の始まりは、回向院が浅間山噴火の死者を川から引き揚げて荼毘に付すまでの費用捻出が本音でした。

さらには、両国橋東詰の近くには「大山詣り」の水垢離場がありました。

西両国はたんなる江戸一の繁華街でしたが、東両国はつねに死者とのかかわりから発展していったのです。

両国橋

西両国の繁栄  【RIZAP COOK】

両国橋西詰、つまり、西両国は江戸で一番の繁華街でした。

ここの広小路では、幕府は橋番や水防を請け負う町人に区画を決めて土地を貸し出していました。

町人たちは床見世、水茶屋、芝居小屋、髪結床などを商いさせて地代店賃を取っていました。

この収入を水防請け負いなど費用に充当していました。

床見世の内訳は、古着、煙管、絵草紙、鼈甲細工、扇など。

三人兄弟芝居(のちの明治座)、春五郎芝居、勘九郎芝居、おででこ芝居、らん杭芝居などの小屋が軒を並べていました。

ここで使われる菰や筵は灘や伊丹から届いた下り酒の樽を覆っていたものです。

芝居小屋と筵や菰のイメージは西両国でのイメージだったのですね。

川開き  【RIZAP COOK】

毎年、5月28日(川開き)から8月28日(川仕舞い)までの3か月間は、船宿、茶屋、うろうろ船(移動販売船)などの商売が許可されていました。

花火はその間、毎晩打ち上げられました。

両国橋の上流を玉屋が、下流を鍵屋が受け持っていました。

天保14年以降は鍵屋の独占ですね。花火には悪疫除けと鎮魂と、江戸っ子の切なる思いがこめられていました。

川開き

ことばよみいみ
三一さんぴん下級侍
生粋きっすいまじりけがない
とうつる性の茎が伸びる植物。ラタン

【RIZAP COOK】

 

 

 

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

評価 :3/3。

ぎぼし【擬宝珠】落語演目 

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

金ッ気をなめたくてしょうがない人がいました。

別題:金の味

あらすじ

日本橋あたりのご大家の若だんなが、三年越しの大病。 跡取り息子なので両親も頭が痛い。 診てもらっても、医者は 「なにか心に思い詰めたことがかなえられれば治る」 と言うばかり。 そこでだんな、たまたまご機嫌伺いにまかり出た幇間の桜川長光に、 「礼ははずむから、せがれが思い悩んでいることを聞き出してほしい」 と頼んだ。 こいつはうまいと、さっそく若だんなにヨイショして聞き出そうとすると 「おまえ、あたしの願いをもし当てて見せたら、土地八百坪やるよ」 「へえ、鳥も通わぬ山奥で、三日目に虎に食われて死んじまうような所じゃあないでげしょうね」 「ばかァ言え、ちゃんとした神田の土地だよ」 「それじゃ、招魂社(靖国神社)の鳥居を盗んでみたいとか」 「違うっ」 若だんなはおもむろに 「あたしの考えは深いことだから、おまえにはわかるまい、一緒においで」 と連れ出されのが、浅草寺の境内。 「おまえ、この二百円をやるから、頼みたいことがある。もし聞いて笑ったら、おまえと刺し違えて相果てるよ」 「物騒だね、こりゃ。なんです?」 「五重塔のてっぺんの、擬宝珠の青いところをなめてみたい」 思わず吹き出しかけた長光、若だんながピストルを出しかけたのであわてて、住職にこれこれと願い出ると、 「ウーン、唐土もろこし莫耶ばくやという人が鉄の気を好んで、名剣を鍛えたという例もあるから、まんざらない話でもなかろう」 ということで許しが出た。 さっそく、鳶頭が出張して足場を組むという騒ぎで、境内は黒山の人だかり。 若だんな、勇んでてっぺんに登ると、ベロベロベロベロとうまそうになめるわ、なめるわ。 そこへ心配して駆けつけた両親、 「せがれは?」 「なめてらっしゃいます」 「こいつは驚いた。実はオレもばあさんも、擬宝珠が大好物なんだ。やっぱり血は争えねえなあ、ばあさん」 「あたしは、ニコライ堂のが一番おいしかったよ」 「神田橋のも京橋のもいけたなあ。めいめい味が変わっていて、いいや」 大変な一家があるものと、一同あきれていると、さすがに堪能したのか、若だんなが元気いっぱいになって下りてくる。 「おい、うまかったか」 「タクアンの味がしました」 「塩っ気が強かったか。タクアンの塩ならどのくらいだ。四升か五升か」 「いえ、六升(=緑青)の味がしました」

底本:初代三遊亭円遊

【RIZAP COOK】

しりたい

鋭い嗅覚  【RIZAP COOK】

もっとも古い原話は、元禄16年(1703)刊『軽口御前男』(初代米沢彦八、大坂)の巻一「鼻自慢」という笑話です。くしくも、この年は赤穂浪士切腹の年です。 初代米沢彦八(?-1714)は初めて大坂生玉神社境内に葦簾ばりの小屋掛けで一席うかがった伝説の人で、上方落語の祖ともいえる存在です。 この「鼻自慢」は、題名からも推測されるように、なめるのではなく金物の匂いを嗅ぐのが好きな男の話です。 男が四天王寺の塔の九輪を投石で打ち落とし、匂いをかいで、「三具足(仏前に置く花瓶、燭台、香炉)と同じ匂いだ」という、ごく当たり前なオチ。 今なら文化財保護法違反で、即御用です。

観音さま塩気足りず  【RIZAP COOK】

その後、明和5年(1768)刊『軽口春の山』中の「ねぶり好き」では、現行にだいぶ近づき、東寺の塔の九輪をなめたあと、「三条大橋の擬宝珠と同じ味だ」というご託宣。 さらに、安永2年(1773)刊『聞上手』中の「金物」になると、舞台は江戸になります。 現行通り、浅草五重塔の擬宝珠を味わって、「思ったほどうまくない。橋の擬宝珠から塩気を抜いたようなもんだな」という、ソムリエ顔負けの厳しい判定。 これが、オチを除けば、東京版の直接の原型でしょう。 上方落語の演出では、古くから東寺の塔をなめるのが普通です。

金属嗜好症  【RIZAP COOK】

実態は不明です。 類話に、お嬢さんが癪の薬にとヤカンをなめたがる「梅見の薬缶」があります。 銅(もしくは鉄、錫)に一種の麻薬的効果があるのかどうか、疑問です。 鉄なら、あるいはミネラル不足のため、体が無意識に要求するのかもしれませんが、銅に空気中の水分と二酸化炭素が付着して生じる「緑青」は明らかに猛毒のはずです。 毒と知って「逆療法」として用いたか、または、醤油の飲み比べなども行われた幕末デカダンの名残なのでしょうか。

擬宝珠  【RIZAP COOK】

ぎぼうしゅ。ぎぼうし。 もともとはネギの花の別名であるため、これに似た形の、欄干の柱に付ける飾りをいいました。 日本橋には全部で10本の男柱や中柱があり、それぞれに銅製の擬宝珠が付けられていました。 このうち4本は万治元年(1658)に日本橋が再建された際に取り付けられたことがわかっています。 明暦の大火(1657年)で日本橋のかなりの部分が焼失していたのですね。 擬宝珠のある橋は大橋で、日本橋など市街の中心部にしかないため、明治大正までは、東京の繁華街の寄席に出演できる一流の芸人を「擬宝珠の芸人」と称しました。

干将と莫耶  【RIZAP COOK】

古代中国、春秋時代(BC771-BC403)のこと。 呉の刀鍛冶干将かんしょうとその妻莫耶ばくやが、呉王(一説に楚王)の妃が鉄の精を宿して産んだ鉄塊を、協力して名剣に鍛えたという故事から「干将莫耶の剣」という成語があります。 略して「干莫(干鏌)」とも。 元ネタは『呉越春秋』(趙曄、後漢初期=1世紀)や『捜神記』(干宝、東晋=4世紀)に出てくる故事(物語)です。 不思議なことに、干将莫邪はいわくつきの名剣でしかなく、この言葉に潜む教訓とかたとえはありません。 仇討ちの熱い思いだけが「干将莫邪」かもしれません。 ここでは、『捜神記』巻十一「三王墓」をもとにあらすじを記しましょう。 王の求めに応じて、干将と莫邪は苦労の末に雌雄二振りの剣をつくりました。雄剣を干将、雌剣を莫邪と名づけます。剣名と人名が同じ名なのでややこしいのですが。干将は雄剣を隠し、雄剣だけを王に献上します。雄剣がないことで怒った王は干将を殺します。残った莫邪は男児を産みます。眉間尺と名づけます。眉間尺は父の仇を討つことに精を込めて成長します。眉間尺は仇討ちの夢を見続けます。王も夢でこれに気づきます。ここが古代の不思議なところです。眉間尺には懸賞金が出てお尋ね者に。眉間尺は山に逃げ、泣きます。通りかかった旅人。泣くわけと尋ねます。眉間尺が打ち明けます。旅人は「それには剣とあんたの首が必要だ。ならば王に会える。私が仇を討とう」と。眉間尺は自らの首をはねました。首のない死体は、旅人が「約束は必ず守るぞ」と言うと倒れました。首を携えた旅人は王に謁見できました。首実見した王は大喜び。旅人は「これは勇者の首だから湯で煮とろかさなければなりません」と。王は従いました。三日煮ても首は溶けません。にらみつけさえしています。旅人は「王が鍋を覗けば溶けます」と。王が覗いたその刹那、旅人は剣で王の首をはね、自らの首もはねました。二首は湯の中に落ち、眉間尺の首と合わせて三首が煮とろけて見分けがつかなくなりました。いっそ、まるごと埋葬されることに。この墓は「三王墓」といわれ、いまでも汝南県にあります。 どろどろの話です。 この故事は干将、莫邪、眉間尺の登場で日本人に好まれ、日本では『今昔物語』や『太平記』などに伝わっています。 歌舞伎の時代狂言にはたびたび登場しています。話に尾ひれが付き、なかなか一本化できません。剣、首、仇討ち。これだけが共通しています。 歌舞伎では、たとえば「実盛物語」で。 平清盛の魔手から源氏の源義賢の室・葵御前と遺児を守るため、実盛が、葵御前が人の腕を産んだと強弁。 その先例として、長々とこの莫耶の剣の講釈をし、鉄の塊を出産したためしがあるのだから腕が産まれるのも不思議ではないとマカフシギな論証(?)で、敵方をケムに巻きます。 魯迅(周樹人、1881-1936)は、『故事新編』に「鋳剣」(前題「眉間尺」)という作品でこの故事を脚色して収録しています。 「眉間尺」(演目)や「干将莫邪」(故事成語)もご参照ください。

喬太郎の芸  【RIZAP COOK】

この噺、明治期は初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)、大正期に入って初代柳家小せん(鈴木万次郎、1883-1919、盲小せん)が得意としました。 今回のあらすじでは、明治25年(1892)の初代円遊の速記を参考にしました。 円遊はテリガラフ(テレグラフ=電信)、ステンショ(駅)、鹿鳴館など、文明開化の風俗をふんだんに取り入れています。 先の大戦後は、三代目三遊亭小円朝(芳村幸太郎、1892-1973)が演じました。 あまりやり手がありませんでしたが、2005年7月の「落語研究会」で柳家喬太郎師が好演。 主人公を思いっ切りヘンタイ的にやりました。この噺は、喬太郎師の口舌によって新境地が開かれました。喬太郎師にとっても画期的かつ革命的な高座だったのでしょう。 今では、「擬宝珠」といえば、喬太郎師を連想してしまいます。
ことばよみいみ
幇間たいこもち/ほうかん宴席をとりもつ遊芸の人
招魂社しょうこんしゃのちの靖国神社
擬宝珠ぎぼうしゅ/ぎぼし橋の欄干に置かれたおしるし
唐土もろこし西の大陸。外国
莫耶ばくや名剣。干将莫邪を見よ
しゃく胃痙攣

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

りゅうていしがらき【柳亭信楽】噺家

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【芸種】落語
【所属】落語芸術協会
【入門】2014年6月、柳亭楽輔に、柳亭楽ちんで
【前座】2014年7月
【二ツ目】2018年8月、柳亭信楽
【真打ち】
【出囃子】かわいいたぬき
【定紋】蔓結び片喰
【本名】田中隆三
【生年月日】1983年7月22日
【出身地】東京都千代田区
【学歴】麻布中・高校→慶応義塾大学商学部→証券会社→お笑い芸人「チェルシー」(流木ターナー、上戸航平と、石井光三オフィス所属)
【血液型】O型
【ネタ】古典と創作 子ほめ 長屋の花見 など
【出典】公式 落語芸術協会 Wiki
【蛇足】趣味は村上春樹風の生活を送ること。読売新聞(2024年2月12日付)「見つけた居場所 挫折 江戸の笑いに救われ」に登場。 (白)

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

りゅうていこちらく【柳亭小痴楽】噺家

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【芸種】落語
【所属】落語芸術協会/ホリプロ
【入門】2005年7月、二代目桂平治(→十一代目桂文治)
【前座】2005年11月、桂ち太郎。08年6月、五代目柳亭痴楽(澤邊幸三、1951-2009)に、柳亭ち太郎で。09年9月、師没後、柳亭楽輔門下
【二ツ目】2009年11月、三代目柳亭小痴楽
【真打ち】2019年9月
【出囃子】将門
【定紋】蔓結び片喰
【本名】澤邊勇仁郎
【生年月日】1988年12月13日
【出身地】東京都渋谷区
【学歴】明星学園高校中退
【血液型】A型
【ネタ】明烏 など
【出典】公式 落語芸術協会 Wiki
【蛇足】趣味は書、サッカー、バスケットボール、洋服、おかし。五代目柳亭痴楽(澤邊幸三、1951-2009)の次男。江戸東京落語まつり2023(2023年6月30日-7月5日、総勢36人)。TBS系日曜劇場『さよならマエストロ~父と私のアパッシオナート~』(2024年2月11日放送)で噺家柳亭小痴楽の役で出演していました。富士山の見える地方都市での独演会で落語を一席やっていましたが、なんの噺かは不明。ファンの夏目響(芦田愛菜)と握手するシーンも。師が登場してから夏目家が好転するように。悪くありません。

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

いどのちゃわん【井戸の茶碗】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

細川家の若侍がくず屋から買った仏像中から五十両。
くず屋は金を売り主の浪人に。浪人は引き換えに茶碗を。
これが名器。藩主は三百両で。浪人は引き換えに娘を。
く「磨けば美人に」若「よそう。また小判が」

【あらすじ】

麻布谷町に住む、くず屋の清兵衛。

古道具を扱うと、自分はもうかるが、他人に損をさせるので、それが嫌だと言って、本当の紙くずしか買わないという正直一途な男で、人呼んで「正直清兵衛」。

ある日、とある裏長屋に入っていくと、十八、九の、大変に器量はいいが、身なりが粗末な娘に呼び止められ、家に入ると、待っていたのはその父親で、千代田卜斎と名乗る。

うらぶれてはいるが、人品卑しからぬ浪人。

もとはしかるべき所に仕官していたが、今は昼間は子供に手習いを教え、夜は街に出て売卜(易者)をして、娘のお市と二人で、細々と暮らしを立てているという。

その卜斎が、家に古くから伝わるという、すすけた仏像を出し、これを二百文で買ってもらいたいと、頼む。

清兵衛は、本当なら品物は買わないが、親子の貧に迫られたようすに同情し、これを売ってもうけがあれば、いくらかでもこちらに持ってくると、約束して買い取る。

この仏像を御膳かごという竹かごに入れ、白金あたりを流して歩くと、細川さまの屋敷の高窓から、まだ二十三、四の侍が声を掛け、仏像を見て気に入ったのか、三百文で買ってくれた。

その侍、名を高木佐太夫といい、まだ独り身で、従僕の良造と二人暮らし。

さっそく、すすけた仏像を磨いていると、中で音がするので、これは腹籠りの仏で、中にもう一つ小さな仏像が入っていると見て取った佐太夫、中を開けてみると、なんと小判で五十両入っていた。

驚いて、仏像を売るようではよほど貧乏しているに違いないから、これは返してやらなければ、と思ったものの、あの、くず屋のほかに手掛かりはない。

そこで、良造に命じて毎日見張らせ、屑屋が通る度に顔を改めたので、これが業界の評判になり、多分仇でも探しているんだろうという噂になる。

清兵衛もこの話を聞きつけ、甘酒屋のふりをして細川邸の前を通り過ぎようとしたが、見つかって、佐太夫の前に連れていかれた。

佐太夫は金のことを話し、即刻届けてまいれと言いつけたので、清兵衛は驚いて卜斎の家に行き、金を渡すが、律儀一徹の卜斎、売ったからにはもうこの金は自分のものではないから受け取るわけにはいかないと、突っぱねる。

しつこくすすめると、手討ちにすると、怒りだしたから、清兵衛は慌てて長屋に逃げ帰った。

相談された大家が中に入り、五十両を三つに分け、佐太夫と卜斎に二十両ずつ、残りの十両は正直な清兵衛にやってくれと、提案。

佐太夫は承知したが、卜斎はまだ拒絶する。

それなら、金と引き換えに何か品物を佐太夫さまにお贈りになれば、あなたもお気が済むでしょうと、大家が口をきき、それではと、祖父の代からの古い茶碗を渡すことで、金の件は落着。

ところが、この茶碗が細川侯のお目にとまった。

これは「井戸の茶碗」といって世に二つとない名器だからと、佐太夫から三百両でお買い上げになる。

この半分の百五十両を卜斎に届けさせたが、卜斎は佐太夫の誠実さに打たれ、娘をもらってくれるよう、清兵衛を介して申し入れ、佐太夫も承知。

清「あの娘をご新造にして磨いてご覧なさい。大した美人になります」
佐「いや、磨くのはよそう。また小判が出るといけない」

出典:五代目古今亭志ん生

【しりたい】

もとは講談

もとは講談で、「細川茶碗屋敷由来」を人情噺にしたものです。

「茶碗屋敷」と題した、三代目春風亭柳枝(鈴木文吉、1852-1900、蔵前の)の古い速記(明治24年)が残っています。

先の大戦後は、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890.6.5-1973.9.21)と三代目古今亭志ん朝(美濃部強次、1938.3.10-2001.10.1)の親子の系統ですね。

志ん朝のは絶品

志ん朝の「井戸の茶碗」は、はっきり言ってすばらしい。絶品です。涙が出ちゃいます。

落語には、オチのある落とし噺とオチのない人情噺、怪談噺があります。

これは、人情噺ですから、本来はオチなどなかったのですが、志ん生はこんなふうにオチをつけています。

オチがあったほうが、聴いているほうも「終わった」という安心感があるものです。

井戸の茶碗とは

「井戸の茶碗」とは、室町時代に朝鮮半島から渡ってきた高麗茶碗の中でもすこぶる有名なもの。奈良の興福寺の井戸氏が所有していたので、こう呼ばれていました。

細川氏は骨董好きな大名で有名なので、不自然な設定ではありません。

高木佐太夫が顔を出して、清兵衛を呼び止める「高窓」というものが登場しますが、これは、「曰窓いわく」ともいい、横桟一本だけがはめられた、武家屋敷の窓です。 

ちょうど、「論語」なんかでおなじみの「子、曰く……」の「曰」の字の形に似ているので、そう呼ばれていました。

江戸詰めの勤番侍

佐太夫のような江戸詰めの勤番侍の住居は、藩邸内の「長屋」で、二階建てが普通でした。

下は中間・小者、上に主人が住んでいます。

行商人からものを買うときには、表通りに面した高窓から声をかけ、そこからざるを下ろして品物を引き上げます。

これは、「石返し」という噺にも登場します。

売卜のこと

ところで、この噺では、易者のことを「売卜」と呼んでいます。

「卜」とは、骨片などを加熱してその割れ方から占うことをいいます。

古代の人は、こんなことで不可視なものを見ようとしていたんですね。

まあ、今では「占」と同じように使っています。

「占卜」とか「卜占」とかいった言葉もありますが、どっちも「占い」の意味です。

しかるに、「売卜」とは、占いを売る。言葉の遊びとはいえ、ちょっとおもしろくありませんか。

「千代田卜斎」とは、「千代田(=江戸)城の堀端で営業中の易者」というだけの意味で、世をしのぶ仮の名前。本名ではないのでしょうね、きっと。

卜斎先生のような大道の易者は、筋違御門から新橋にいたるまでの大通りに、最も多く出たといいます。

麹町や赤坂、四谷、愛宕下、上野の山下などの繁華街にも出没していたそうです。

山の手が多いのは、易者には卜斎同様に、浪人くずれが多かったためでしょうか。

中には名人もいたでしょうが、卜斎先生の腕のほどは、さあ、わかりません。

麻布谷町

清兵衛がいた麻布谷町は、正式には今井谷町いまいだにまちといい、現在の港区六本木二丁目あたり。アメリカ大使館宿舎の一部になっています。

今はともかく、当時はあまり豊かでない人たちが住んでいました。東京もずいぶんさま変わりしたものです。

正直清兵衛さん

ところで、この清兵衛さん、前々回に取り上げた「もう半分」にちょこっと紹介しています。

「もう半分」に似た因業で悲惨な噺「正直清兵衛」の主人公です。

こっちでは殺されちゃったりして、悲劇のおじさんでしたが、今回は、なかなかの老け役ですね。

こんなふうに、落語のキャラクターは、さまざまな噺に手を変え品を変えて登場するもの。

これも、落語のお楽しみのひとつといえますね。

【もっと知りたい】

3代目春風亭柳枝が「茶碗屋敷」として明治24(1891)年にやった速記では、浪人が高木佐太夫、細川藩士が吉田清十郎とある。

大正期の三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)の「井戸の茶碗」では、今の形だ。

鶯亭金升(長井総太郎、1868.03.16-1954.10.31、雑誌記者or新聞記者or遊芸的文芸作者、竹葉亭昌安or竹葉亭金升or鶯亭化七or台山辺人など)の由来譚では、巣鴨の中屋敷が舞台で仏像を買ったのはそこの門番、売ったのは神田裏長屋の夫婦だとか。

今の形に至るまでには若干の異同があったようである。

五代目志ん生が得意とした。次男志ん朝の「井戸の茶碗」にいたっては絶品だった。親父のを超えていた。

井戸の茶碗とは、興福寺の井戸家が有した高麗渡来の茶碗なのだという。

この説明は噺には出てこない。

聴者は最後まで「井戸の茶碗」の正体を知らずじまい。

それでも別段不満は残らない。おかしな噺である。

登場する者すべてが善人である。

小悪党が憎めない「業の肯定」を尊ぶ落語には珍しい。

もとは「細川茶碗屋敷の由来」という講談だから、無理もない。

ここまでの善意を見せつけられると現代人には奇異にしか思えないものだが、この手の噺は冗長な運びだと目も当てられない。

善意に臭みが漂ってきて、聴いていられなくなるのだ。

志ん朝はそこをすいすいと流れるように運んでいた。善意の臭さに気づく余裕もなく、三者のすがすがしさが小気味よい佳作だ。

古木優

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

評価 :3/3。

にばんせんじ【二番煎じ】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

自身番での飲酒はご法度。
登場人物の巧みな演じ分けが醍醐味です。

あらすじ】 

火事は江戸の華で、特に真冬は大火事が耐えないので、町内で自身番を置き、商家のだんな衆が交代で火の番として、夜回りすることになった。

寒いので手を抜きたくても、定町廻り同心の目が光っているので、しかたがない。

そこで月番のだんなの発案で、二組に分かれ、交代で、一組は夜回り、一組は番小屋で酒をのんで待機していることに決めた。

最初の組が見回りに出ると、凍るような寒さ。

みな手を出したくない。

宗助は提灯を股ぐらにはさんで歩くし、拍子木のだんなは両手を袂へ入れたまま打つので、全く音がしない。

鳴子なるこ係のだんなは前掛けに紐をぶら下げて、歩くたびに膝で蹴る横着ぶりだし、金棒かなぼう持ちの辰つぁんに至っては、握ると冷たいから、紐を持ってずるずる引きずっている。

誰かが
「火の用心」
と大声で呼ばわらなくてはならないが、拍子木のだんなにやらせると低音で
「ひィのよォじん」
と、謡の調子になってしまうし、鳴子のだんなだと
「チチチンツン、ひのよおおじいん、よっ」
と新内。

辰つぁんは辰つぁんで、若いころ勘当されて吉原の火廻りをしたことを思い出し、
「ひのよおおじん、さっしゃりましょおお」
と廓の金棒引き。

一苦労して戻ってくると、やっと火にありつける。

一人が月番に、酒を持ってきたからみなさんで、と申し出た。

「ああたッ、ここをどこだと思ってるんです。自身番ですよ。役人に知れたら大変です」
とはいうものの、それはタテマエ。

酒だから悪いので、煎じ薬のつもりならかまわないだろうと、土瓶の茶を捨てて「薬」を入れ、酒盛りが始まる。

そうなると肴が欲しいが、おあつらえ向きにもう一人が、猪の肉を持ってきたという。

それも、土鍋を背中に背負ってくるソツのなさ。

一同、先程の寒さなどどこへやら、のめや歌えのドンチャン騒ぎ。

辰つぁんの都々逸がとっ拍子もない蛮声で、たちまち同心の耳に届く。

「ここを開けろッ。番の者はおらんかッ」

慌てて土瓶と鍋を隠したが、全員酔いも醒めてビクビク。

「あー、今わしが『番』と申したら『しっ』と申したな。あれは何だ」

「へえ、寒いから、シ(火)をおこそうとしたんで」
「土瓶のようなものを隠したな」
「風邪よけに煎じ薬をひとつ」

役人、にやりと笑って
「さようか。ならば、わしにも煎じ薬を一杯のませろ」

しかたなく、そうっと茶碗を差し出すとぐいっとのみ
「ああ、よしよし。これはよい煎じ薬だな。ところで、さっき鍋のようなものを」
「へえ、口直しに」
「ならば、その口直しを出せ」

もう一杯もう一杯と、酒も肉もきれいに片づけられてしまう。

「ええ、まことにすみませんが、煎じ薬はもうございません」
「ないとあらばしかたがない。拙者一回りまわってくる。二番を煎じておけ」

しりたい】 

火の番  【RIZAP COOK】

自身番については「粗忽長屋」で触れましたが、町内の防火のため、表通りに面した町家では、必ず輪番で人を出し、火の番、つまり冬の夜の夜回りをすることになっていました。

といっても、それはタテマエで、たいてい「番太郎」と呼ぶ番人をやとって、火の番を代行させることが黙認されていたのです。

ところが、この噺はそろそろ物情騒然としてきた幕末の設定ということで、お奉行所のお達しでやむなく旦那衆がうちそろって出勤し、慣れぬ厳冬の夜回りで悲喜こもごもの騒動を引き起こします。

与力、同心

二番煎じ  【RIZAP COOK】

漢方薬を一度煎じた後、さらに水を加え、薄めて煮出したものです。金気をきらい、土瓶などを用いました。

吉原の火回り  【RIZAP COOK】

歌舞伎「助六所縁江戸桜」で、序幕に二人の廓の若い衆が、鉄棒を突き、棒先の鉄輪を鳴らしながら登場するシーンを、芝居好きの方ならご記憶と思います。

あれが「金棒ひき」で、火回りの際はもちろん、おいらん道中など、重要なイベントの前にも、先触れとして出ます。

「火の用心、さっしゃりましょう」という掛け声は、吉原に限られていました。

長屋のこうるさいかみさん連中が「金棒引き」と呼ばれるのは、火の番が鉄輪をガチャガチャ鳴らして歩くように、町内のうわさをあることないことかまびすしく触れて回ることからきています。

今では、ちょっとしたことをおおげさにふれまわること、あるいはその人をさして「金棒引き」と言っていますね。

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

しゅんぷうていこりゅうし【春風亭小柳枝】噺家

2024年1月31日、老衰で死去。88歳。告別式は近親者で済ませました。

東京出身。1965年に四代目春風亭柳好(小川清、1921-92、川崎の)に入門。76年に五代目春風亭柳昇(秋本安雄、1920-2003)門下に移り、78年、真打ちに昇進し九代目小柳枝を襲名しました。

1991年に文化庁芸術祭賞、2013年に同大賞を受賞。

軽妙、端正な語り口で「井戸の茶碗」「二番煎じ」などの古典落語を得意としました。

落語芸術協会のハワイアンバンド「アロハマンダラーズ」のメンバーとして、ウクレレや歌でも寄席などを盛り上げていました。

芸協における噺上手の最高峰でした。

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【芸種】落語
【所属】日本芸術協会→落語芸術協会 相談役
【前座】1965年5月、四代目春風亭柳好(小川清、1921-92、川崎の)に、春風亭笑好で
【二ツ目】1968年9月。76年3月、五代目春風亭柳昇(秋本安雄、1920-2003)門下となり、春風亭鶏昇
【真打ち】1978年9月、九代目春風亭小柳枝
【出囃子】梅は咲いたか
【定紋】三ツ追沢瀉
【本名】臼井正春
【生年月日】1936年1月18日-2024年1月31日 88歳 老衰
【出身地】東京都新宿区四ッ谷荒木町
【学歴】東京都立昭和高校→航空写真測量の会社に10年ほど
【血液型】AB型
【ネタ】妾馬 文七元結 二番煎じ 芝浜 井戸の茶碗 など
【出典】公式 落語芸術協会 Wiki
【蛇足】アロハマンダラーズ(ウクレレ、パーカッションなど)。1976年、NHK新人落語コンクール優秀賞。1991年、第46回文化庁芸術祭賞。2013年、第68回文化庁芸術祭賞大賞。

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

さんゆうていきんたろう【山遊亭金太郎】噺家

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【芸種】落語
【所属】落語芸術協会
【入門】2007年6月、二代目快楽亭ブラックに、快楽亭正日で。08年9月、快楽亭ブラ淋。09年8月、破門
【前座】2009年9月、三代目山遊亭金太郎(佐藤敏弘、1956.6.4-2019.9.17)に、山遊亭くま八で
【二ツ目】2013年10月。師没後、2020年9月、桂南なん門下
【真打ち】2024年5月、四代目山遊亭金太郎
【出囃子】三亀松三番
【定紋】丸に橘
【本名】藤田賢治
【生年月日】1979年7月8日
【出身地】埼玉県坂戸市
【学歴】埼玉県立川越南高校→東京造形大学
【血液型】A型
【ネタ】
【出典】公式 落語芸術協会 Wiki
【蛇足】(白)


成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

しょうふくていちくざ【笑福亭竹三】噺家

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【芸種】落語
【所属】落語芸術協会 松竹芸能
【入門】2009年8月、笑福亭鶴光
【前座】2010年3月、笑福亭明光
【二ツ目】2014年4月、笑福亭竹三
【真打ち】
【出囃子】ラバウル小唄
【定紋】五枚笹
【本名】高橋誠
【生年月日】1986年3月2日
【出身地】滋賀県守山市
【学歴】高校
【血液型】A型
【ネタ】
【出典】公式 落語芸術協会 Wiki 松竹芸能
【蛇足】東京上方。松鶴一門 (白)

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

しゅんぷうていりゅうじゃく【春風亭柳雀】噺家

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【芸種】落語
【所属】落語芸術協会
【入門】2008年9月、瀧川鯉昇
【前座】2008年10月、瀧川鯉ちゃ
【二ツ目】2012年9月、春風亭柳若
【真打ち】2022年5月、春風亭柳雀
【出囃子】お若いの
【定紋】違い鷹の羽
【本名】溝口摂
【生年月日】1971年5月26日
【出身地】千葉県船橋市→鹿児島県鹿児島市
【学歴】鹿児島県立鹿児島中央高校→東海大学文学部
【血液型】A型
【ネタ】
【出典】公式 落語芸術協会 Wiki
【蛇足】趣味は音楽鑑賞、鉄道旅行、登山、キャンプツーリング、ソロキャンプ。 (白)

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

たきがわこいまる【瀧川鯉丸】噺家

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【芸種】落語
【所属】落語芸術協会
【入門】2011年1月、瀧川鯉昇
【前座】2011年4月、瀧川鯉〇
【二ツ目】2015年4月、瀧川鯉丸
【真打ち】
【出囃子】楽隊
【定紋】輪違い
【本名】飯盛勢也
【生年月日】1987年5月30日
【出身地】神奈川県横須賀市
【学歴】早稲田大学第二文学部
【血液型】B型
【ネタ】
【出典】公式 落語芸術協会 Wiki
【蛇足】(白)

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

さんゆうていゆうちょう【三遊亭遊朝】噺家

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【芸種】落語
【所属】日本芸術協会→落語芸術協会 会友
【前座】1956年10月、高校在学中に、四代目三遊亭圓遊(加藤勇、1902-1984)に、三遊亭千遊で
【二ツ目】1960年10月
【真打ち】1973年4月、三遊亭遊朝
【出囃子】舌出し三番叟
【定紋】
【本名】篠崎邦雄
【生年月日】1938年4月20日
【出身地】千葉県成田市
【学歴】千葉県立佐倉第二高校(→佐倉東高校)
【血液型】
【ネタ】
【出典】公式 落語芸術協会 Wiki
【蛇足】趣味は読書、運動。結婚プランナー、司会で活躍。著書に『なぞかけ傑作集』(1979年3月、大泉書店)

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

かつらうたわか【桂歌若】噺家



  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【芸種】落語
【所属】落語芸術協会
【入門】1987年3月、桂歌丸(椎名巌、1936-2018)に
【前座】1987年5月、桂歌若
【二ツ目】1991年9月
【真打ち】2001年5月
【出囃子】牛若丸
【定紋】丸に三ツ柏
【本名】葛西哲治
【生年月日】1968年3月6日
【出身地】青森県弘前市
【学歴】青森県立弘前東高校
【血液型】O型
【ネタ】
【出典】公式 落語芸術協会 Wiki
【蛇足】落語芸術協会創立75周年記念テレビアニメ『落語天女おゆい』の原作者。 (白)



  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

さんゆうていこえんう【三遊亭小円右】噺家

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【芸種】落語
【所属】日本芸術協会→落語芸術協会 会友
【前座】1969年3月、三代目三遊亭圓右(粕谷泰三、1923-2006)に、三遊亭右らんで
【二ツ目】1973年4月
【真打ち】1984年4月、二代目三遊亭小圓右
【出囃子】俳諧師
【定紋】高崎扇
【本名】阿世知義昭
【生年月日】1950年7月31日
【出身地】東京都小平市
【学歴】関東高校(→聖徳学園高校)
【血液型】
【ネタ】長屋もの 若だんなもの
【出典】公式 落語芸術協会 Wiki
【蛇足】趣味は野球(草野球)、オーディオ(アナログレコード)、音楽、カラオケ。クルーズ通。2014年11月、脳梗塞で入院。事実上の引退

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

さんゆうていえんじゃく【三遊亭圓雀】噺家



  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【芸種】落語
【所属】落語芸術協会
【入門】1987年12月、三遊亭小遊三
【前座】1988年3月、三遊亭あん太
【二ツ目】1992年2月、五代目三遊亭春馬
【真打ち】2001年5月。2018年9月、六代目三遊亭圓雀
【出囃子】宮さん宮さん
【定紋】高崎扇
【本名】葛城竜太
【生年月日】1966年12月12日
【出身地】埼玉県草加市
【学歴】東和大学付属昌平高校(昌平高校)→陸上自衛隊
【血液型】B型
【ネタ】
【出典】公式 落語芸術協会 Wiki
【蛇足】趣味は力士浴衣反物収集、洋ラン栽培、食べ歩き、大相撲全場所観戦。 (白)



  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

いちげんていよねたろう【一玄亭米多朗】噺家



  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【芸種】落語
【所属】落語芸術協会
【前座】1988年6月、桂米助に、桂でっどぼうるで
【二ツ目】1992年8月。後に桂デッドボール
【真打ち】2002年5月、桂米多朗。2023年9月、米助門下を離れ、一玄亭米多朗に
【出囃子】蒲田行進曲
【定紋】丸に片喰、米俵
【本名】水嶋護
【生年月日】1966年4月23日
【出身地】東京都大田区
【学歴】東京都立工芸高校印刷科
【血液型】AB型
【ネタ】
【出典】公式 落語芸術協会 Wiki
【蛇足】(白)



  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

かつらよねふく【桂米福】噺家



  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【芸種】落語
【所属】落語芸術協会 理事
【前座】1990年12月、四代目桂米丸に、桂うの丸で
【二ツ目】1995年2月、桂米二郎
【真打ち】2004年5月、桂米福
【出囃子】千代の寿
【定紋】丸に抱き柏
【本名】宇野津勝彦
【生年月日】1965年5月31日
【出身地】富山県富山市
【学歴】富山県立富山商業高校
【血液型】B型
【ネタ】寝床 時そば など
【出典】公式 落語芸術協会 Wiki
【蛇足】趣味は釣り。2001年、北区若手落語家競演会大賞。2002年、さがみはら若手落語家選手権大賞。2002年、横浜演芸新人大賞。 (白)



  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

かつらうたぞう【桂歌蔵】噺家



  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【芸種】落語
【所属】落語芸術協会
【入門】1991年12月、桂歌丸(椎名巌、1936-2018)に
【前座】1992年3月、桂歌郎
【二ツ目】1996年2月、桂歌蔵
【真打ち】2005年5月
【出囃子】ハッピートーク
【定紋】丸に木瓜
【本名】安田彰吾
【生年月日】1964年7月20日
【出身地】大阪府大阪市
【学歴】大東文化大学経済学部
【血液型】O型
【ネタ】古典 与太郎噺 滑稽噺
【出典】公式 落語芸術協会 Wiki
【蛇足】趣味は音楽、スポーツ。2017年、第5回赤羽萬次郎賞「ふるさとへ」エッセーコンテスト優秀賞。2017年10月、第3回藤本義一文学賞特別賞。2019年6月、日本文藝家協会「ベストエッセイ2019」選出。 (白)



  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

たきがわりちょう【瀧川鯉朝】噺家

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【芸種】落語
【所属】落語芸術協会
【入門】1992年8月、五代目春風亭柳昇(秋本安雄、1920-2003)に、春風亭柳吾で
【前座】1992年9月
【二ツ目】1996年9月、春風亭昇輔。2003年6月、師没後、春風亭鯉昇(→瀧川鯉昇)門下
【真打ち】2006年5月、瀧川鯉朝
【出囃子】私のラバさん
【定紋】五瓜に唐花
【本名】千頭弘典
【生年月日】1968年1月30日
【出身地】高知県高知市
【学歴】東京デザイナー学院
【血液型】B型
【ネタ】古典と新作 棒鱈 竹の水仙 心眼 など
【出典】公式 落語芸術協会 Wiki
【蛇足】特技は寄席文字。 (白)

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

さんしょうていゆめはな【三笑亭夢花】噺家



  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【芸種】落語
【所属】落語芸術協会
【前座】1993年7月、初代三笑亭夢丸(坂田宏、1945-2015)に、三笑亭初夢で
【二ツ目】1997年9月、三笑亭恋生
【真打ち】2007年5月、三笑亭夢花
【出囃子】祭囃子
【定紋】下がり藤
【本名】中崎修孝
【生年月日】1971年1月9日
【出身地】和歌山県和歌山市
【学歴】和歌山県立西高校
【血液型】O型
【ネタ】
【出典】公式 落語芸術協会 Wiki
【蛇足】趣味は食べ歩き、スポーツ観戦、美味処探し。 (白)



  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

かつらふみづき【桂文月】噺家



  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【芸種】落語
【所属】落語芸術協会
【入門】1993年9月、十代目桂文治(関口達雄、1924-2004)に
【前座】1993年10月、桂束治
【二ツ目】1997年9月、桂快治。2004年1月、師没後、三代目桂伸治に預かり弟子
【真打ち】2007年5月、桂文月
【出囃子】鶴亀
【定紋】結び柏
【本名】石束国広
【生年月日】1971年5月7日
【出身地】愛知県豊橋市
【学歴】愛知県立豊橋工業高校電気科
【血液型】O型
【ネタ】
【出典】公式 落語芸術協会 Wiki
【蛇足】趣味はサイクリング。2004年、にっかん飛び切り落語会努力賞。 (白)



  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

さんゆうていゆうば【三遊亭遊馬】噺家



  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【芸種】落語
【所属】落語芸術協会
【前座】1994年9月、三遊亭小遊三に、三遊亭遊だちで
【二ツ目】1998年9月、三遊亭遊馬
【真打ち】2008年5月
【出囃子】どうぞ叶えて
【定紋】高崎扇
【本名】木村亮一
【生年月日】1970年10月7日
【出身地】埼玉県桶川市
【学歴】駒澤大学仏教学部禅学科
【血液型】A型
【ネタ】佐野山 蛙茶番 など
【出典】公式 落語芸術協会 Wiki
【蛇足】2005年、第15回北とぴあ若手落語家競演会大賞。2006年、第3回車力寄席グランドチャンピオン大会優勝。2010年、国立演芸場花形演芸大賞銀賞。2014年、第69回文化庁芸術祭賞(大衆芸能部門)大賞。 (白)



  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

ここんていいますけ【古今亭今輔】噺家

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【芸種】落語
【所属】落語芸術協会
【入門】1994年12月、古今亭寿輔に、古今亭錦之輔で
【前座】1995年1月
【二ツ目】1998年11月
【真打ち】2008年5月、六代目古今亭今輔
【出囃子】野毛山
【定紋】違い鷹の羽
【本名】水口直樹
【生年月日】1970年7月30日
【出身地】群馬県富岡市
【学歴】新島学園高校→東海大学工学部工業化学科
【血液型】AB型
【ネタ】新作と創作
【出典】公式 落語芸術協会 Wiki
【蛇足】2012年、国立演芸場花形演芸大賞銀賞 (白)



  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

さんゆうていゆうき【三遊亭遊喜】噺家

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【芸種】落語
【所属】落語芸術協会
【入門】1995年4月、三遊亭小遊三に
【前座】1995年6月、三遊亭遊やけ
【二ツ目】1999年4月、三遊亭遊喜
【真打ち】2009年5月
【出囃子】ちゃっきり節
【定紋】高崎扇
【本名】渡辺邦弘
【生年月日】1972年10月18日
【出身地】静岡県島田市
【学歴】静岡県立島田高校→東洋大学工学部
【血液型】A型
【ネタ】
【出典】公式 落語芸術協会 Wiki
【蛇足】趣味はギター、ルアーフライフィッシング、早素振り。 (白)



  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

しょうふくていうこう【笑福亭羽光】噺家

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【芸種】落語
【所属】落語芸術協会 松竹芸能
【入門】2007年4月、笑福亭鶴光
【前座】2007年6月、笑福亭羽光
【二ツ目】2011年5月
【真打ち】2021年5月
【出囃子】藪入り(奥)
【定紋】五枚笹
【本名】中村好夫
【生年月日】1972年9月24日
【出身地】大阪府高槻市
【学歴】大阪学院大学経済学部
【血液型】B型
【ネタ】古典と新作 鴻池の犬 はてなの茶碗 など
【出典】公式 落語芸術協会 Wiki 松竹芸能
【蛇足】趣味は漫画原作。東京上方。松鶴一門。2013年3月、第12回さがみはら若手落語家選手権優勝「西行鼓ヶ滝」。13年9月、第24回北とぴあ若手落語家競演会大賞「紀州」。18年12月、渋谷らくご創作大賞「ペラペラ王国」。20年11月 NHK新人落語大賞「ペラペラ王国」。 (白)

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席