Categories: 落語演目

【大仏餠】

だいぶつもち

【どんな?】

八代目文楽の辞世となったような噺。
「神谷幸右衛門」が出てこなかったばっかりに。
貴賤や貧富の違いが映像的に描かれます。

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あらすじ

ある雪の晩、上野の山下やましたあたり。

目の不自由な子連れの物乞いが、ひざから血を流している。

不憫ふびんに思った主人が、手当てをしてやった。

聞けば、新米の物乞ものごい。山下やましたで縄張りを荒らしたと、大勢の物乞いに袋だたきにあったとか。

子供は六歳の男児。この家では子供の袴着はかまぎの祝いの日だった。

同情した主人は、客にもてなした八百善やおぜんからの仕出しの残りを、やろうとした。

物乞いが手にした面桶るびを見ると、朝鮮さはりの水こぼし。

驚いた主人、
「おまえさんはお茶人ちゃじんだね」
と、家へあげて身の上を聞いてみると、芝片門前しばかたもんぜんでお上のご用達をしていた神谷幸右衛門かみやこうえもんのなれの果て。

「あなたが神幸かみこうさん。あなたのお数寄屋すきやのお席開きに招かれたこともある河内屋金兵衛かわちやきんべえです」
と、おうすを一服あげ、大仏餠を出す。

幸右衛門、感激のうちに大仏餠を口にしたため、のどにつかえて苦しんだ。

河内屋が背中をたたくと、幸右衛門の目が開いた。

ついでに、声が鼻に抜けてふがふがに。

「あれ、あなた目があきなすったね」
「は、はい。あきました」
「目があいて、鼻が変になんなすったね」
「はァ、いま食べたのが大仏餠、目から鼻ィ抜けました」

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うんちく

「三代目になっちゃった」  成城石井.com

三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839.4.1-1900.8.11)の作。

円朝が三題噺をもとに作ったものです。出題は「大仏餅」「袴着の祝い」「新米の盲乞食」。

円朝全集にも収録されていますが、昭和に入ってはなにをおいても八代目桂文楽(並河益義、1892.11.3-1971.12.12、黒門町、実は六代目)の独壇場でした。

文楽の噺としては「B級品」で、客がセコなときや体調の悪い場合にやる「安全パイ」のネタでしたが、晩年は気を入れて演じていたようです。にもかかわらず、この噺が文楽の「命取り」になったことは、あまりに有名です。

この事件の経緯については、『落語無頼語録』(大西信行、芸術出版社、1974年)に、文楽の死の直後の関係者への取材をまじえて詳しく書かれています。さらには、今日まで五十年以上にわたって、折に触れて語られています。

以下、簡単にあらましを。

昭和46年(1971)8月31日。この日、国立劇場の落語研究会で、文楽は幕切れ近くで、登場人物の「神谷幸右衛門」の名を忘れて絶句。「もう一度勉強しなおしてまいります」と、しおしおと高座を下りました。

これが最後の高座となり、同年12月12日、肝硬変で大量吐血の末に死去。享年79。

文楽はその前夜にも同じ「大仏餅」を東横落語会で演じ、無難にやりおおせたばかりでした。高座を下りたあと、楽屋で文楽は淡々とマネジャーに「三代目になっちゃったよ」と言ったそうです。

三代目とは、三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)のこと。夏目漱石(夏目金之助、1867.2.9-1916.12.9)も絶賛した明治大正の名人でした。晩年はアルツハイマーを患い、壊れたレコードのように噺の同じ箇所をぐるぐる何度も繰り返すという悲惨さだったとか。

文楽は、一字一句もゆるがせにしない完璧な芸を自負していただけに、いつも「三代目になる」ことを恐れて自分を追い詰め、たった一回でも絶句すると、もう自分の落語人生は終ったといっさいをあきらめてしまったのでしょう。

「三代目になった」ときに醜態をさらさないよう、弟子の証言では、それ以前から高座での「おわびの稽古」を繰り返していたそうです。

大西信行(劇作家、1929-2016)は、文楽の死を「自殺だった」と断言しています。神谷幸右衛門は、噺の中でそのとき初めて出てくる名前です。ど忘れしたのなら、横目屋助平でも、美濃部孝蔵でも、なんでもよかったのですがね。

音声不正使用事件  成城石井.com

平成20年(2008)2月10日、NHKラジオ第一放送の「ラジオ名人寄席」で、パーソナリティーの玉置宏(司会者、1934-2010)が、個人的に所蔵している八代目林家正蔵(岡本義、1895.5.16-1982.1.29、→彦六)の「大仏餅」を番組内で放送しました。

ところが、これが以前にTBSで録音されたものだったため、著作権、放映権の侵害で大騒動になり、すったもんだで玉置宏は降板するハメになりました。告発したのは、川戸貞吉(演芸評論家、1938-2019)と草柳俊一氏でした。平成20年(2008)3月のことでした。以来、放送の世界では落語の音源に配慮するようになっていきました。平成22年(2010)、玉置は死没。失意のうちに。

文楽のを流しておけば、あるいは無事ですんだかもしれませんね。

「大仏餅」は文楽没後は彦六が時々演じ、現在では柳家さん喬、上方の桂文我などが持ちネタにしています。

大仏餅  成城石井.com

江戸時代、上方で流行した餅で、大仏の絵姿が焼印で押されていました。京都の方広寺大仏門前にあった店が本家といわれますが、奈良の大仏の鐘楼前ともいい、また、同じく京都の誓願寺前でも売られていたとか。支店だったのでしょうか。

この餅、『都名所図絵』(秋里籬島、安永9年=1780刊)にも絵入りで紹介されるほどの名物です。

その書の書き込みにも、「洛東大仏餅の濫觴は則ち方広寺大仏殿建立の時よりこの銘を蒙むり売弘めける。その味、美にして煎るに蕩けず、炙るに芳して、陸放翁が餅、東坡が湯餅にもおとらざる名品なり」と絶賛。

滝沢馬琴が、享和2年(1802)、京都に旅した折、賞味して大いに気に入ったとのこと。『羇旅漫録』(享和3年=1803刊)に記しています。馬琴が36歳、生涯唯一の京坂旅行でした。さてこの店、昭和17年(1942)まで営業していたそうです。

面桶  成城石井.com

めんつう。一人分の飯を盛る容器です。「つう」は唐音。

禅僧が修行に使った携帯用のいれものでした。戦国時代には戦陣で飲食に使う便利なお椀に。江戸時代には主に乞食が使う容器となりました。

七五三の祝い  成城石井.com

噺に出てくる「袴着」は男児が初めて袴をはく儀式のこと。三歳、五歳、七歳など、時代や家風によって祝いをする年齢が変わりました。

これは七五三の行事のひとつです。今は七五三としてなにか同じ儀式のように思われていますが、江戸時代にはそれぞれ別の行事でした。おとなへ踏み出す成長行事です。

髪置 かみおき 男女 三歳 11月15日に
袴着 はかまぎ 男児 三歳か五歳か七歳 正月15日か11月15日に
帯解 おびとき 女児 七歳 11月15日に

髪置は 乳母もとっちり 者になり   三21

袴着にや 鼻の下まで さつぱりし   初5

一つ飛ん だりと袴着 つるし上げ   十四22

袴着の どうだましても 脱がぬなり   七27

帯解は 濃いおしろひの 塗りはじめ   初6

肩車 店子などへは 下りぬなり   十四23

髪置ははじめて髪を蓄えること。帯解は付け紐のない着物を着ること、つまりは帯で着物を着ること。

袴着もはじめて袴をはくことで、それぞれ、大人へのはじめの一歩の意味合いと、元気に成長してほしいという親の切なる願いのあらわれです。

めでたい儀式ですから、乳母もお酒を飲んでお祝いして、その結果、とっちり者になってしまうわけです。「とっちり者」は泥酔者のこと。

最後の句の「店子」は借家人のこと。この噺に出てくる子供は裕福な恵まれた環境で育ったわけで、長屋住まいの店子には肩車された上から挨拶するという、支配者と被支配者との関係性をすり込ませるような、すでにろくでもない人生の始まりを暗示しています。

まあ、とまれ、江戸のたたずまいが見えてくるような風情です。

朝鮮さはりの水こぼし  成城石井.com

さはりは銅、錫、銀などを加えた合金。

水こぼしは茶碗をすすいだ水を捨てる茶道具です。

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落語あらすじ事典 千字寄席編集部

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