Categories: 落語演目

【鹿政談】

しかせいだん

  成城石井

【どんな?】

春日社の鹿は神の使いだから、あやめれば死罪。
豆腐屋、店のキラズを食べる鹿を犬と間違えて殴り殺した。
神鹿は死に、豆腐屋はお縄となってお白州へ。
お奉行「これは犬か。どうじゃ。切らずにやるぞ」

別題:春日の鹿 鹿殺し 

★★

成城石井

【あらすじ】

奈良、春日大社かすがたいしゃの神の使いとされる鹿は、特別に手厚く保護されていて、たとえ過失でもこれを殺した者は、男なら死罪、女子供なら石子いしこ詰め(石による生き埋め)と、決まっている。

そのおかげで鹿どもはずうずうしくのさばり、人家の台所に入り込んでは食い荒らすので、町人は迷惑しているが、ちょっとぶん殴っただけでも五貫文ごかんもんの罰金が科せられるため、どうすることもできない。

興福寺こうふくじ東門前町の豆腐屋で、正直六兵衛しょうじきろくべえという男。

あだ名の通り、実直で親孝行の誉れ高い。

その日、いつものようにまだ夜が明けないうちに起き出し、豆を挽いていると、戸口でなにやら物音がする。

外に出てみると、湯気の立ったキラズ(おから)の樽がひっくり返され、大きな犬が一匹、ごちそうさまも言わず、高慢ちきな面で散らばったやつをピチャピチャ。

「おのれ、大事な商売物を」
と、六兵衛、思わず頭に血がのぼり、傍の薪ザッポで、思いざまぶんなぐった。

当たり所が悪かったか、泥棒犬、それがこの世の別れ。

ところが、それが、暗闇でよく見えなかったのが不運で、まさしく春日の神鹿しんろく

根が正直者で抜けているから、死骸の始末など思いも寄らず、家族ともどもあらゆる気付け薬や宝丹ほうたん、神薬を飲ませたが、息を吹き返さない。

そのうち近所の人も起き出して大騒動になり、六兵衛はたちまち高手小手にくくられて目代もくだい(代官)の塚原出雲つかはらいづもの屋敷に引っ立てられる。

すぐに目代と興福寺番僧・了全りょうぜんの連印で、願書を奉行に提出、名奉行・根岸肥前守ねぎしひぜんのかみの取り調べとなる。

肥前守、六兵衛が正直者であることは調べがついているので、なんとか助けてやろうと、
「その方は他国の生まれであろう」
とか、
「二、三日前から病気であったであろう」
などと助け船を出すのだが、六兵衛は
「お情けはありがたいが、私は子供のころからうそはつけない。鹿を殺したに相違ござりまへんので、どうか私をお仕置きにして、残った老母や女房をよろしく願います」
と、答えるばかり。

困った奉行、鹿の死骸を引き出させ
「うーん、鹿に似たるが、角がない。これは犬に相違あるまい。一同どうじゃ」
「へえ、確かにこれは犬で」

ところが目代、
「これはお奉行さまのお言葉とも思われませぬ。鹿は毎年春、若葉を食しますために弱って角を落とします。これを落とし角と申し」
「だまれ。さようななことを心得ぬ奉行と思うか。さほどに申すなら、出雲、了全、その方ら二人を取り調べねば、相ならん」

二人が結託して幕府から下される三千石の鹿の餌料を着服し、あまつさえそれを高利で貸し付けてボロ儲けしているという訴えがある。

鹿は餌代を減らされ、ひもじくなって町へ下り、町家の台所を荒らすのだから、神鹿といえど盗賊同然。打ち殺しても苦しくない。

「たってとあらば、その方らの給料を調べようか」
と言われ、目代も坊主もグウの音も出ない。

「どうじゃ。これは犬か」
「サ、それは」
「鹿か」
「犬鹿チョウ」
「なにを申しておる」

犬ならば、とがはないと、六兵衛はお解き放ち。

「これ、正直者のそちなれば、この度は切らず(きらず)にやるぞ。あぶらげ(危なげ)のないうちに早く引き取れ」
「はい、マメで帰ります」

成城石井

【しりたい】

上方落語を東京に移植   

上方で名奉行の名が高かった「松野河内守まつのかわちのかみ」の逸話を基にした講釈種の上方落語を、二代目禽語楼小さん(大藤楽三郎、1848-98)が、明治24年(1891)に東京に移植したものです。

松野なる人物、歴代の大坂町奉行、京都町奉行、伏見奉行、奈良奉行、長崎奉行のいずれにも該当者がなく、名前の誤伝と思われますが、詳細は不明です。

円生のおはこ

先の大戦後、東京では、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)が得意にしたほか、音曲に長けた七代目橘家円太郎(有馬寅之助、1901-77)もよく演じました。

二代目三遊亭円歌(田中利助、1890-1964)、六代目春風亭柳橋(渡辺金太郎、1899-1979)も手がけ、本場上方では先の大戦後は、三代目桂米朝(中川清、1925-2015)の独壇場でした。

従来、舞台は奈良本町二丁目で演じられていましたが、円生が三条横町としました。

くすぐりの「犬鹿チョウ」のダジャレは、花札からの円生のくすぐり。オチは普通、東京では「アブラゲのないうちに」を略します。

根岸肥前守

根岸肥前守は根岸鎮衛ねぎしやすもり(1737-1815)のこと。

名奉行ながらすぐれた随筆家でもあり、奇談集『耳嚢みみぶくろ』の著者としても有名です。

最近では、風野真知雄かぜのまちお「耳袋秘帖」シリーズの名探偵役として、時代小説ファンにはおなじみです。

奈良奉行を肥前守にしたのは円生ですが、実在の当人は、江戸町奉行在職(1798-1815)のまま没していて、奈良奉行在任の事実はありません。

根岸肥前守は「佐々木政談」にも登場します。

春日の神鹿 

鹿を殺した者を死罪にするというのは、春日神社別当(統括)である興福寺の私法でした。

ただし、石子詰めは江戸時代には行われていません。

春日大社と興福寺は、神仏習合の時代(明治以前)にはでセットの宗教施設です。

しかも、藤原氏の氏社で氏寺。鹿島神宮も藤原氏の氏社でした。

江戸幕府は興福寺の勢力を抑えるため、奈良奉行を置きました。

歴代の奉行は、興福寺と事を構えるのを嫌いました。

この噺の目代のように、利権で寺と結託している者もあって、本来、公儀の権力の侵犯であるはずの私法を、ほとんど黙認していたものです。

どうでもよい話ですが、春日神社の鹿の数と燈籠とうろうの数を数えられれば長者になれるという言い伝えが、古くからありました。

ちなみに、春日大社の鹿は、常陸国ひたちのくに(茨城県)一宮いちのみや鹿島神宮かしまじんぐうにいる鹿を連れてきたことが知られています。

8世紀、藤原氏が春日大社を創建する際、鹿島神宮を勧請かんじょう(分霊を迎える)し、神鹿も約1年かけて陸路、奈良まで運んだそうです。

途中で亡くなった鹿を葬った地が、鹿骨ししぼね(東京都江戸川区)と名づけられたりもしています。

地元では知られた話です。

鹿島神宮の不思議

鹿島神宮の「神宮」とは、天皇家とのかかわりを示します。特別な施設でした。

律令の細則を定めた延喜式えんぎしき神名帳しんめいちょうに記された神社を「式内社しきないしゃ」と呼び、今でも高い地位にあります。

ここに記された「神宮」は、伊勢神宮、鹿島神宮、香取神宮の三宮のみです。

熱田神宮、橿原神宮、平安神宮、明治神宮などの「神宮」は、後世に付けられたもの。

となると、鹿島神宮と香取神宮の存在意義は、がぜん重要視されてきます。

縄文時代での人口は、東日本と西日本では、100対10以上の差がありました。東高西低だったのです。

当時の鹿島と香取の周辺は霞ケ浦が太平洋とつながっていて、広大な内海を形成しており、黒潮を利用して外海との交流もさかんでした。

当時の日本の中心地はこのあたりだったようです。

鹿島と香取に「神宮」が冠せられるのは、このことともかかわります。

さて。

春日大社も興福寺も藤原氏の氏社氏寺でした。

春日大社が祀るのは建御雷神たけみかづちのかみで、鹿島神宮からの勧請です。軍神です。

中臣なかとみ氏の氏神うじがみです。

中臣鎌足なかたみのかまたりが死の直前に天智てんじ天皇から藤原姓を賜っています。

奈良に鹿島の神鹿を連れてきたのは、そんなところとかかわりがありました。

すべての中臣氏が藤原氏になったのではなく、鎌足の系統だけでした。

中臣氏は忌部いんべ(斎部)氏と同じく、神事や祭祀を受け持った中央豪族です。

根岸肥前守の子孫

幕末の時期ですが、根岸鎮衛ねぎしやすもりの曽孫に根岸衛奮ねぎしもりいさむ(1821-76)という人物がいました。

この人が安政5年(1858)から文久元年(1861)までの3年間、奈良奉行を務めています。

六代目円生が、かどうかはわかりませんが、この噺の奉行を根岸肥前守としているのは、あるいは、この人と混同したか、承知の上で故意に著名な先祖の名を用いたのかもしれません。



成城石井

落語あらすじ事典 千字寄席編集部

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