はんたいぐるま
【どんな噺】
威勢はいいのですがね。
ここまでそそっかしいのは。
どんなもんでしょうか。
別題:いらち車(上方)
【あらすじ】
人力車がさかんに走っていた明治の頃。
車屋といえば、金モールの縫い取りの帽子にきりりとしたパッチとくれば速そうに見えるが、さるだんなが声を掛けられた車屋は、枯れた葱の尻尾のようなパッチ、色の褪めた饅頭笠と、どうもあまり冴えない。不運。
「上野の停車場までやってくれ」
「言い値じゃ乗りますまい」
「言い値でいいよ」
「じゃ十五円」
十五円あれば、吉原で一晩豪遊できた時分。
「馬鹿野郎、神田から上野まで十五円で乗る奴がどこにいる」
勝手に値切ってくれと言うから、「三十銭」「ようがしょう」といきなり下げた。
それにしても車の汚いこと。
臭いと思ったら、「昨日まで豚を運搬していて、人を乗せるのはお客さんが始めてだ」と抜かす。
座布団はないわ、梶棒を上げすぎて客を落っことしそうになるわ。
おまけに提灯はお稲荷さまの奉納提灯をかっぱらってきたもの。
どうでもいいが、やけに遅い。
若い車屋ばかりか、年寄りの車にも抜かれる始末。
「あたしは心臓病で、走ると心臓が破裂するって医者に言われてますんで。もし破裂したら、死骸を引き取っておくんなさい」
そう言い出したから、だんなはあきれ返った。
「二十銭やるからここでいい」
「決めだから三十銭おくんなさい」
ずうずうしい。
「まだ万世橋も渡っていないぞ」
「それじゃ上野まで行きますが、明後日の夕方には着くでしょう」
だんなはとうとう降参して、三十銭でお引き取り願う。
次に見つけた車屋は、人間には抜かれたことがないと威勢がいい。
それはいいが、乗らないうちに「アラヨッ」と走りだす。
飛ばしすぎてこっちの首が落っこちそう。
しょっちゅうジャンプするので、生きた心地がない。
走りだしたら止まらないと言うから、観念して目をつぶると、どこかの土手へ出てやっとストップ。
見慣れないので、「どこだ」と聞いたら埼玉県の川口。
「冗談じゃねえ。上野まで行くのに、こんなとこへ来てどうするんだ」
しかたなく引き返させると、また超特急。
腹が減って目がくらむので、川があったら教えてくれと言う。
汽車を追い抜いてようやく止まったので、命拾いしたと、値を聞くと十円。
最初に決めなかったのが悪かったと、渋々出した。
「見慣れない停車場だな」
「へい、川崎で」
また通り越した。
ようやく上野に戻ったら午前三時。
「それじゃ、終列車は出ちまった」
「なあに、一番列車には間に合います」
【しりたい】
人力車
1870年(明治3)、筑前国(福岡県)出身の和泉要助ら三人が製造の官許を得て、初お目見えしたのは1875年(明治8)でした。
車輪は当初は木製でしたが、後には鉄製、さらにゴム製になりました。
登場間もない明治初年には、運賃は一里につき一朱。車引きは駕籠屋からの転向組がほとんど。
ただし、雲助のように酒手(チップ)をせびることは政府により禁止されました。
明治10年代までは、二人乗りの「相乗車」もあったようです。
落語家も売れっ子や大看板になると、それぞれお抱えの車引きを雇い、人気者だった初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)の抱え車引きが、あまりのハードスケジュールに、血を吐いて倒れたというエピソードもあります。
明治35年(1902)には全国に43,273両と、ピークを迎えました。東南アジアにも「リキシャ」の名で輸出されるほどに。1923年(大正12)の関東大震災以後、自動車の時代の到来とともに、急激にその姿を消しました。
車屋の談志
この噺の本家は大阪落語の「いらち車」です。
大正初期には、六代目立川談志(1888-1952)が「反対車」で売れに売れました。
住んでいた駒込辺りで「人力車の……」と言いかければ、すぐ家が知れたほど。
そこで、ついた異名がそのものずばり「車屋の談志」。その談志も、人力車の衰退後は不遇な晩年だったといいます。
昭和初期には、七代目林家正蔵(海老名竹三郎、1894-1949)の十八番でした。
八代目橘家円蔵(大山武雄、1934-2015)のも、若い頃の月の家円鏡だった時代から、漫画的なナンセンスで定評がありました。
客が二人目の車屋に連れて行かれる先は、演者によって大森、赤羽などさまざまで、「青森」というのもありました。
人力車の噺いろいろ
人力車は明治の文明開化の象徴。
それを当て込んでか、勘当された若だんなが車引きになる「素人人力」、貧しい車屋さんの悲喜劇を描く「きな粉のぼた餅」、初代三遊亭円左(小泉熊山、1853-1909、狸の)の怪談「幽霊車」などがありました。
そういった多くの新作がつくられはしたのですが、今では「反対車」のほか、すべてすたれました。
車の形態
人力車は、江戸時代の駕籠からの単純なインフラ移行でした。駕籠かきが車引きに、ということです。
このように、日本では近代化がすんなり進んだのは、江戸時代にすでに近代の萌芽が確立されていたからでした。江戸時代そのものを近世ととらえず、近代、あるいはプレ近代とらえる歴史学者もいるほどです。
駕籠は、宿駕籠と辻駕籠がありました。宿駕籠は、駕籠宿という駕籠の店があって、そこに終日控えていて、お呼びがかかると出動するという形態。いまのハイヤーのようなものです。
それとは別に、通りにたむろして「へい、かご!」と客引きをする辻駕籠という形態。こちらは、いまのタクシーのようなものでしょう。
宿駕籠→宿車
辻駕籠→辻車
まとめますと、こんなふうになります。
この二つの営業形態が、明治になると、宿車と辻車に移行するのですね。乗り物が駕籠が車に変わっただけ。
明治期にありがちなかげんの、士族や商家の若者が車引きに落ちぶれる悲劇に出会うことがあります。樋口一葉の「十三夜」などでしょうか。やっぱり、明治はきついな、と。
でも、「ちきり伊勢屋」では、易のはずれで一文なしとなってしまった大家の若だんな(伝二郎)が登場しています。明治期だけの特徴ともかぎりますまい。
要は、駕籠も車も裸一貫で出直せるなりわいであった、ということでしょう。人生のリカバリーにはもってこいだったわけですね。ここが肝心かと思います。社会には人生の抜け裏が必要です。袋小路ではなくね。