らくごのあらすじじてん うぇぶ せんじよせ
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このページは2025年12月11日に更新されました。
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【きょうの茶噺】

カンヅメ明けの北鎌倉。たかぶった解放感でそこらへんのお寺に足を延ばしたのですが、そこでびっくり。◆光照寺といいます。藤沢遊行寺、時宗の末寺だそうです。一遍上人ご一行が踊り念仏を唱えて鎌倉に入ろうとしたら、時の権門、北条時宗に入府を阻まれ、しかたなく小袋谷に野宿したそうで。その場所こそが現在、光照寺が立っている地。時宗ゆかりの聖地のようですが、ここの人たちは北条時宗に毛嫌いされながらも、おのが宗門をなぜ時宗と称したのか。ふしぎです。まあ、時宗と称しだしたのは江戸時代に入ってからのことのようですが。◆光照寺の入り口、小さな山門はクルス門と呼ばれているそうです。江戸時代、潜伏キリシタンを檀信徒としてかくまったという噂が残っています。踊り念仏はどこか世俗から逸脱しているように見えましたが、なんとまあ、フトコロ深いのですね。ご法度のキリシタンをしれっとかくまっってしまうのですから。「鈴ふり」の豪気ぶりは伊達ではありませんでした。朝、なにげなく立ち寄った光照寺で、この宗門への見方が変わりました。◆さて、その後。上の写真をご覧ください。山門に掲げられた家紋。この紋章は、ラテン語のⅠesus Hominum Salvator(人々の救い主、イエス)の頭文字ⅠHSが意匠化されているのだそうです。ホントかなあ。中川クルス(久留子)といわれる紋章だそうです。豊後(大分県)岡藩の藩主、中川家の替え紋です。大名家は家紋をいくつも持っているものでした。第二の家紋なのですね。なんでそんなものが光照寺にあるのか。◆江戸時代には、光照寺の南西に東渓院という臨済宗の寺がありました。岡藩第三代の藩主、中川久清(1615-81)が夭逝した娘の菩提を弔うために建てたのだとか。東渓院は明治初年の廃仏毀釈運動で廃寺となり、山門だけが近所の光照寺に移されました。それが光照寺のクルス門。クルス紋が掲げられているのですね。日本には十字架を意匠化したクルス紋が27種類あるのだそうです。ずいぶんあるのですね。これはそのひとつ。◆光照寺の潜伏キリシタン云々の話とは別に、近所の寺から移築されただけのこと。光照寺のキリシタン隠匿とクルス門とのかかわり。中川クルスから中川家は潜伏キリシタンだったのかどうか。このふたつはしょせんは別物だったのでしょう。でも、なんでこんなに符合するのか。微妙に絡み合っているような気配も漂います。ここから先はよくわかりません。うーん。なぜかひかれます。

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不思議な構図の歌麿の春画


