いくよもち
【どんな?】
吉原の花魁に恋をした
まじめな奉公人の純愛が実る。
人情味あふれる物語です。
「紺屋高尾」の別バージョン。
【あらすじ】
日本橋馬喰町一丁目の搗き米屋の奉公人、清蔵。
近くの絵草紙屋で見かけた、吉原の姿海老屋の幾代太夫の一枚絵に恋患いし、仕事も手につかない。
親方六右衛門の助言で一念発起、一年とおして必死に働いた。
こさえた金が十三両二分。ちょっと足りない。
そこに六右衛門が心づけて、しめて十五両に。
六右衛門は、近所のお幇間医者、籔井竹庵に事情を話して、吉原への手引きを頼んだ。
竹庵なる人物は、蹴転のあそびから大籬のあそびまでの通人だ。
竹庵の手引きは気が利いている。
野田の醤油問屋の若だんなという触れ込みで、清蔵は吉原に。
初会ながらも情にほだされた幾代太夫は、年季明けに清蔵の元に、という約束。
明けた三月、幾代は清蔵に嫁いだ。
親方の六右衛門は清蔵を独立させ、両国広小路に店を持たせた。
店のうまい米を使って二人が考案した「幾代餅」が大評判となり名物となった。
二人は幸せに暮らし天寿を全うした、というめでたい一席。
【しりたい】
「紺屋高尾」の類話としての「幾代餅」
まったく同じ筋ですが、人物設定その他が若干異なります。
「紺屋高尾」の改作と思われますが、はっきりしません。
五代目古今亭志ん生の系統は「幾代餅」でやっていました。
志ん生の弟子、古今亭円菊も、その弟子の古今亭菊之丞も。十代目金原亭馬生の弟子、五街道雲助もご多分に漏れず「幾代餅」です。雲助の弟子、桃月庵白酒も。志ん朝は「幾代餅」でも「紺屋高尾」でもやっていました。
志ん朝の弟子、古今亭志ん輔も。別系統ながら、柳家さん喬や柳家権太楼もよい味わいです。
類話はもう一つ。「搗屋無間」も同工異曲の噺といってよいかもしれません。
幾代餅はどんな餅?
元禄15年(1702)。
両国西詰の広小路、小松屋喜兵衛の店で、餅をあぶって小豆の餡をからめたものを売り出しました。女房が吉原で幾代という名だったので、いつか「幾代餅」と呼ばれるようになりました。
これが噺のモデルとされています。
ところが、江戸にはもうひとつの幾代餅がありました。
浅草寺仲見世の藤屋が「こんげん いくよ餅」と名付けて名物でした。こちらは、延宝7年(1679)の開業ですから、小松屋よりも古い。
小松屋の餅の形状は、直径2寸(6cm)ほどの平らな丸餅を銅板の上でさっと焦がして、その両面に餡を点じたもの。
これは、藤屋の「こんげん いくよ餅」と同じ形状だったそうです。
維新前に刊行された著者不詳の『江戸時代名物集』には、両国のいくよ餅の商標が載っています。藤屋の「こんげん いくよ餅」の商標は出ていません。この本はいまや、国立国会図書館のデジタルライブラリーのおかげで誰でも読めるようになりました。
小松屋喜兵衛は車力頭だったそうです。車力頭とは運送業のこと。上野の中堂御普請の作業を請け負って大金を稼ぎ、吉原の幾代を身請けし両国で妻の名にあやかった幾代餅の店を始めたのだそうです。搗き米屋ではなかったのですね。
江戸にふたつある幾代餅。どちらも評判。これでは、先の藤屋が黙ってはいられません。大岡裁きを願い出ました。その結果は、どちらも存続のお裁き。どちらも売れていたらなのでしょう。粋なお裁きでした。
小松屋のほうは維新を待たずに店じまい。藤屋のほうは、後年、浅草橋に移りはしても存続し、明治9年(1876)に閉店したそうです。