けいちょうのつなみ
平成23年(2011)3月11日に発生した東日本大震災。
その直後に行き交っていた情報に、「貞観の地震」というのがありました。
これは、貞観11年(869)5月26日に起こった、陸奥国一帯の地震と津波のことです。『三代実録』には「死者千余人」と記されているそうです。
テレビも新聞も、「3.11の災害は貞観の津波以来のこと。1200年来の歴史的な大災害なのだ」と唱えていました。
1200年に一回くらいの災害なら、まあ、しょうがない、あきらめるしかないかな、という思いでいたものです。
言い出しっぺが誰かは知りませんが、「貞観」と唱えて以来、みんな、「貞観」の大合唱でした。
ところが。
その頃の仕事柄、原発事故も含め、関東以北の地震や津波を調べていて、びっくりしたものでした。
慶長16年(1611)8月13日、陸奥国会津に大地震があったとのこと。死者は2700人超。。
これは『徳川実紀』の記録でした。
さらに、同年10月28日、三陸地方に大津波で、人畜多数が死んだとのこと。
こちらは『治家記録』にありました。
8月13日は旧暦ですから、いまなら9月23日頃のこと。同じく、10月28日は、いまの12月2日のこと。地震は秋です。津波は冬です。ちょっと想像しただけでつらいです。
そういうわけで。
ちょうど400年前のできごとだったのではないですか。「貞観」なんかよりも近くに起こっていたのですね。
たとえば。
私が住む高萩市は、慶長の津波で集落がまるごと消失しました。
記録もなにも津波に持っていかれています。残っていません。「高萩に歴史はない」なんてうそぶいている古老もいます。歴史がない土地なんかないわけで、たんに記録が残っていない、ということなのですね。
すでに『高萩市史』(高萩市史編纂委員会編、1969年)は出ていますが、近世以前の記述はあいまいです。わからないことだらけのようです。地元に一級資料はなく、近隣の資料や近世以降の資料をつぎはぎして記述しているのがよくわかります。
これは、慶長16年(1611)の大津波で、すべてが持っていかれてしまったからでしょう。当時、肥前太夫が仕切っていた「松原千軒」と呼ばれる繁華な商業街区がありましたが、これこそが、まるごとなくなってしまいました。南蛮人(スペイン、ポルトガル系)も、紅毛人(イギリス、オランダ系)も、キリシタンも、いろいろいたのでしょうが。
ちょうどその時期。
ヌエバ・エスパーニャ(メキシコあたり)の冒険的商人と称するセバスティアン・ビスカイノ(1548-1624)一行が、東北一帯を跋扈していました。伊達政宗の許しをもらって、金銀を探していたのです。「冒険的商人」とはそういう意味です。
当時の日本は、江戸時代が始まったばかりですが、キリシタンもごろごろいたし、外国人もうろうろしていたのですね。
津波のあった当日、ビスカイノたちは東北地方の沖合(岩手県あたりか)を船で航行していたため、津波の被害は受けていません。『金銀島探検報告』には、その驚きが書き残されています。
高萩にも外国船が乗り入れできる港がありました。中国(明)船も、スペイン船も、イギリス船も出入りしていたのです。スペインとポルトガルの条約で、この地域(関東以北)はポルトガルにとっては埒外でした。だから、スペイン船やイギリス船などが主となります。
主にイギリス船(=海賊船)の中継的役割を果たしていたのですが、これも津波が海底の砂を大量に運び込んで、松原千軒も港ももろとも埋め尽くされてしまったのでした。以来、外国船どころか、良港にはなれず、今日にいたっています。
慶長16年の、この異変によって、その後の街道(浜街道と呼ばれていました)や宿場は、津波が及ばなかった内側に置き換えられていきました。線引きが変わったのです。
現在、常磐線や国道6号線は、東京から北上すると、久慈川を渡ったところで海岸線をひた走る線を描いていますが、これだって、慶長の津波の教訓に学んで、内側に宿場を設定することになったのです。
それでも、「3.11」ではやられてしまった街区がありました。「3.11」は「慶長」以上の威力だったのかもしれません。
そんなわけで。
くしくも、きっかり400年後の2011年、同じような地震と津波が起こっているわけです。わかりやすい。テレビや新聞はこっちを重視すべきだったのではないでしょうかね。
平安時代の貞観では想像するのも難しいですが、慶長なら江戸幕府が始まって間もない頃。まだ、少しはイメージがわくというもの。
そんなに遡らなくてもよかったのですね、きっと。
2025年8月28日 古木優