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【日本の始まり】

にっぽんのはじまり

  成城石井.com

最近の日本史教科書を開くとびっくりします。知らないことが載っているのです。こんなことをいまの中高生はふつうに知っているのか、と思うと自分が時代に置いてけぼり食らったかのように愕然としてしまいます。では、どこがどんなふうに変わったのか。時代順にわかりやすく、ねんごろに見ていきましょう。

更新世から完新世へ

日本列島はアジア大陸にくっついていました。

「氷河時代」と呼ばれていた時代は、いまでは「更新世」と呼ばれています。寒い時期が何度かあった頃の話です。

亜寒帯のヘラシカ、マンモスゾウ、ヒグマ、冷温帯のナウマンゾウ、オオツノシカなどの大型動物を追って、人々が移動してきたわけです。

やがて、地球規模の気温の上昇が始まります。海進にともなって、いまの日本列島が形成されていきました。

温暖な時代は、いまから1万年余り前から始まって現代にまで及んでいます。

この時代を「完新世」と呼びます。

「更新世」が終わって「完新世」に。

こんなぐあいですが、1980年代までの教科書には「洪積世」「沖積世」と記されてありました。いまでは「更新世」「完新世」です。

「洪積世」「沖積世」という名称は、ノアの洪水伝説に由来するのであまりよろしくない、という理由のようです。

この時期の日本列島での時代区分は、わりと簡単です。

更新世にほぼ対応するのが旧石器時代。打製石器の時代です。

完新世の始まりに対応するのが縄文時代。土器を使うようになりました。

日本列島が形成されていくと、落葉広葉樹林や所用樹林の森林が広がりました。

このような新しい自然環境に適応した人々は、煮炊き用の道具である土器、森林に棲息するニホンシカやイノシシなどの中小動物を獲得するため弓矢などを使用し、クリ、トチ、ドングリなどの木の実(堅果類けんかるい)を主な食料として、定住性の高い狩猟・採取生活を送る縄文文化を営みました。

相沢忠洋の登場

一挙に縄文時代に来てしまいました。

旧石器時代のことで忘れてならない話があります。

戦後まもなくのこと。

行商を生業としていた青年、相沢忠洋あいざわただひろが、群馬県岩宿いわじゅくの関東ローム層から打製石器を発見しました。その涙ぐましい苦労譚はいずれまたの機会に。

それまで、学者たちの間では、火山の多い日本列島には旧石器時代な成立しなかったろうというのが、共通した認識でした。

ところが、日本にも旧石器時代はあった。これがすごいことでした。

この話は昔から有名ですが、下の捏造事件があったせいか、いまの教科書では必須の記述事項になっています。こちらはまちがいのない発見だからでしょう。

相沢忠洋記念館

捏造事件

旧石器時代は、前期、中期、後期の3区分とされています。

日本での旧石器時代の遺跡は、だいたいが後期のものでした。

ところが、20世紀末期には主に東北地方の遺跡から次々と前期や中期の遺跡が見つかっていきました。

その結果、1990年代の教科書には、宮城県の上高森かみたかもり遺跡や座散乱木ざざらぎ遺跡などが紹介されていたのです。

ところが、毎日新聞が「旧石器発掘ねつ造」とすっぱ抜いて、学界の気運を覆してしまいました。2000年11月5日のことです。

これは考古学上、大変な事件でした。捏造ねつぞうを許してきた学界の姿勢が問われたのです。

これ以降、旧石器時代の前期、中期の遺跡は教科書から消え、この時代を語ることが慎重となりました。

その結果、現在の教科書では、旧石器時代の遺跡はことごとく後期のものばかりです。

旧石器時代の証拠品としては、石器以外に化石人骨があります。

かつての教科書にはたくさんの「原人」が載っていましたが、そのほとんどは、いまでは覆されています。

たとえば、葛生くずう人(栃木県)は縄文時代以降の人骨、聖嶽ひじりだき人(大分県)は中世以降の人骨、三ヶ日原人(静岡県)は縄文時代早期の人骨、牛川原人(愛知県)は上腕部が動物の骨、明石原人(兵庫県)は現代人の骨に類似、など。

こんなふうに、動物の骨片か、古代や中世の人骨だった、というのがオチで、いまでは誰も語らなくなりました。

もちろん教科書にも載りません。

いまの教科書には、二つの化石人骨が載っています。

浜北はまきた人(静岡県)と港川みなとがわ人(沖縄県)。

この二つは、いまのところ確かなようです。

浜北はまきた人は1万8000年前、港川みなとがわ人は2万1000年前のものと推定されています。

もうひとつ。

山下町洞人やましたちょうどうじん(沖縄県)もあります。

こちらは3万2000年前のもので、最も古い化石人骨です。

日本で発見される化石人骨は新人段階のものばかりです。

縄文土器

1980年代までの教科書では「縄文式土器」と記されていましたが、いまでは「縄文土器」となっています。

縄文土器は、大森貝塚を発掘したモースが発見者です。

英文学会誌には「cord marked pottery」と記したそうです。

その訳語として「索文土器」「貝塚土器」「縄目文様」などが使われていましたが、「縄文式土器」の用語が定着しました。

1975年になって、佐原真さはらまことが土器の名称に「式」を使うことは不合理であると主張し、「縄文土器」の名称を使うことが一般化していきました。

「縄文土器」には二つの意味が含まれます。

「縄目文様が施された縄文時代の土器」という意味と、「縄文時代の土器一般」という意味です。

縄文時代の土器だからといっても、すべてが縄目模様とはかぎらないのです。

それにしても、縄文土器の奇妙な形はわれわれが知っている日本的美とはおおよそ異なります。

これについても、岡本太郎が『縄文土器 民族の生命力』で唱えています。でも、読んでもよくわかりません。

納得できずじまい。それでも、覆される日が来るのかもしれません。

縄文の時代区分

1980年代の教科書には、縄文時代は5つの時代区分でしたが、いまは六つの区分です。

草創期
早期
前期
中期
後期
晩期

これまでの区分に、「草創期」が新しく加わりました。

草創期の土器は、無文むもん土器、隆起線文りゅうきせんもん土器、爪形文つめがたもん土器などの型式で教科書に載っています。これこそ、広義の縄文土器です。

三内丸山遺跡の豊かさ

三内丸山さんないまるやま遺跡は、2021年7月、「北海道・北東北の縄文遺跡群」として世界遺産に認定されました。

縄文時代の前期から中期まで、5900年前から4200年前までの、1700年間にわたる遺跡です。この場所に、人々が1700年間定住していたのですから、驚きです。

クリ林の管理、ヒョウタンの栽培などが、教科書に載っています。

発掘されたヒノキ科の針葉樹の樹皮で編まれた小さな袋は、「縄文ポシェット」と呼ばれています。

特別史跡 三内丸山遺跡

測定技術の精緻化

これまでの教科書では、縄文時代の始まりは、1万2000年前、または1万3000年前と記されてありました。

現在の教科書もこの年代観に沿ってはいます。ただ、縄文時代の始まりを、さらにさらにさかのぼらせる遺跡をも紹介しているのです。

1998年に大平山元おおだいやまもと遺跡(青森県)から出土した無文土器。

この付着炭化物を測定したら、なんと1万6500年前という数値がはじき出されました。

これは、炭素14年代測定法という高精度の方法によるものです。

同様の測定法によれば、弥生時代の始まりは2800年前となりました。従来は2500年前ですから、300年さかのぼりました。

以前のてつを踏まないようにと、慎重を要しています。それでも、教科書の記述は少しずつ塗り替わっていきます。

参考文献:高橋秀樹、三谷芳幸、村瀬信一『ここまで変わった日本史教科書』(吉川弘文館、2016年)、中央公論新社編『歴史と人物5 ここまで変わった! 日本の歴史』(中央公論新社、2021年)、大津透ほか編『岩波講座 日本歴史』全22巻(岩波書店、2013~15年)

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落語あらすじ事典 千字寄席編集部

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