なかざわどうに【中沢道二】演目 

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全編これ心学しんがく。今はすたれたべたべたのご教訓も落語で聴いてみると味わいあります。

あらすじ

江戸名物に「火事とけんかとちゅうぱら」とあるぐらい、江戸の職人は短気で、縁日などで足を踏んだ踏まれたで始終けんかばかりしている。

これを伝え聞き、少しは気を和らげてやりたいと、中沢道二という心学の先生が、はるばると京から下向してきた。

中橋なかばし寒菊かんぎくという貸席かしせきを道場に借り、「木戸銭、中銭、一切なし」というビラをまいたので、物見高い江戸者のこと、なかには、京都の田楽屋でんがくやが開店祝いにタダで食わせると勘違いする輩もいて、我も我もと押しかける。

下足番の爺さんに
「おまえさんとこの田楽はうまいかい?」
と早くも舌なめずり。

「手前どもの先生は、田楽じゃござんせん。心学でござんす」
「へえ、おい、田楽は売り切れちまって、しぎ焼きになっちまったとよ」

なんでも食えれば、後はそば屋で口直ししようと、二階へ通る。

当然、なにも食わせない。

高座へ上がってきた、頭がピカピカ光って十徳を着込んだ道二先生、ていねいにおじぎをして講義にとりかかる。

金平糖こんぺいとうの壺へ手を突っ込んで抜けなくなり、高価な壺だがしかたがないと割ってみたら、金平糖を手にいっぱい握っていたという話や、手と足が喧嘩して足がぶたれ、
「覚えてろよ。今度湯ィ入ったら、てめえに洗わせる」
という、落とし噺などで雰囲気を和らげ、本来の儒教の道徳を説こうとするが、おもしろくもなんともないので、みんな腹ぺこのまま、ぶうぶう言って帰ってしまう。

一人残された道二先生、
「どうしてこうも江戸っ子は気が短いのか」
と嘆いていると、客席にたった一人もじもじしながら残っている職人がいた。

先生喜んで
「あなたさま、年がお若いのに恐れ入りました。未熟なる私の心学が、おわかりですか」
「てやんでえ、しびれが切れて立てねえんだい」

【RIZAP COOK】

しりたい

中沢道二  【RIZAP COOK】

なかざわどうに。享保10年(1725)-享和3年(1803)、江戸中期、後期に活躍した人です。京都、西陣織元の家の出身。40歳頃に手島堵庵てじまとあんに師事し、石門心学せきもんしんがくを修め、安永8年(1779)、江戸にくだって日本橋塩町に「参前舎さんぜんしゃ」という心学道場を開き、その普及に努めました。手島は石門心学の祖、石田梅岩いしだばいがんの弟子です。ということは、中沢は石田梅岩の孫弟子。

のちに老中松平定信まつだいらさだのぶの後援を受け、全国に道場を建設、わかりやすい表現で天地の自然の理を説きました。心学については「天災」のその項をご参照ください。

実話を基に創作  【RIZAP COOK】

この噺は中沢道二の逸話を基に作ったとみられます。本来は短いマクラ噺で、ここから「二十四孝」や「天災」につなげることが多くなっています。一席にして演じたのは八代目林家正蔵(彦六)くらいでしょう。

【語の読みと注】
中っ腹 ちゅうっぱら:むかむか。いらいら
鴫焼き しぎやき:ナスのみそ田楽の別名

【RIZAP COOK】

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おなおし【お直し】演目

廓噺。吉原育ちの男女が切羽詰まって商売を。辛くて悲しいのになぜか大笑い。

あらすじ

盛りを過ぎた花魁と客引きの若い衆が、いつしか深い仲に。

廓では「同業者」同志の色恋はきついご法度。

そこで隠れて忍び逢っていたが、いつまでも隠し通せない。

主人に呼ばれ、
「困るじゃないか。おまえたちだって廓の仁義を知らないわけじゃなし。ええ、どうするんだい」

結局、主人の情けで、女は女郎を引退、取り持ち役の「やり手」になり、晴れて夫婦となって仲良く稼ぐことになった。

そのうち、小さな家も借り、夫婦通いで、食事は見世の方でさせてもらうから、金はたまる一方。

ところが、好事魔多し。

亭主が岡場所通いを始めて仕事を休みがちになり、さらに博打に手を染め、とうとう一文なしになってしまった。

女房も、主人の手前、見世に顔を出しづらい。

「ええ、どうするつもりだい、いったい」
「どうするって……しようがねえや」

亭主は、友達から「蹴転けころ」をやるように勧められていて、もうそれしか手がない、と言う。

吉原の外れ、羅生門河岸で強引に誰彼なく客を引っ張り込む、最下級の女郎の異称。

女が二畳一間で「営業」中、ころ合いを見て、客引きが「お直し」と叫ぶと、その度に二百が四百、六百と花代がはねあがる。

捕まえたら死んでも離さない。

で、
「蹴転はおまえ、客引きがオレ」

女房も、今はしかたがないと覚悟するが、
「おまえさん、焼き餠を焼かずに辛抱できるのかい」
「できなくてどうするもんか」

亭主はさすがに気がとがめ
「おまえはあんなとこに出れば、ハキダメに鶴だ」
などとおだてを言うが、女房の方が割り切りが早い。

早速、一日目に酔っぱらいの左官を捕まえ、腕によりをかけてたらし込む。

亭主、タンカを切ったのはいいが、やはり客と女房の会話を聞くと、たまらなくなってきた。

「夫婦になってくれるかい?」
「お直し」
「おまえさんのためには、命はいらないよ」
「お直し」
「いくら借金がある? 三十両? オレが払ってやるよ」
「直してもらいな」

客が帰ると、亭主は我慢しきれず、
「てめえ、本当にあの野郎に気があるんだろ。えい、やめたやめた、こんな商売」
「そう、あたしもいやだよ。……人に辛い思いばかりさせて。……なんだい、こん畜生」
「怒っちゃいけねえやな。何もおまえと嫌いで一緒になったんじゃねえ。おらァ生涯、おめえと離れねえ」
「そうかい、うれしいよ」
とまあ、仲直り。

むつまじくやっていると、さっきの酔っぱらいがのぞき込んで、
「おい、直してもらいねえ」

底本:五代目古今亭志ん生

しりたい】

蹴転  【RIZAP COOK】

けころ。吉原に限らず、江戸の各所に出没していた最下級の私娼の総称です。「蹴転ばし」の略。「蹴倒し」ともいいました。すぐに寝る意味で、そういう意がこめられたうえでの最下級なのですね。泊まりはなくて百文一切り、所要時間は今の時計で10分程度だったといいます。10分では短すぎるので、たいていの客は改めて延長を希望します。これが「お直し」です。裏路地の棟割り長屋のような粗末な木造の、4尺5間の間口、2尺の戸、2尺5寸の羽目板、3尺の土間、これら全部含めても2畳ほどの狭い部屋で商売をするのです。「切り見世」「局見世」と呼ばれていました。吉原にかぎらず、岡場所にはあったものですが、吉原で蹴転は、お歯黒どぶ(囲いの下水)の岸にあったので、「河岸見世」と呼ばれていました。吉原の蹴転は寛政年間(1789-1801)にはもう絶えたようです。寛政改革では吉原が大打撃をこうむっていますから、そのさなかにつぶされていったのですね。

切り見世は 突き放すように いとまごい

お直しを 食らい素百の さて困り

銭がなけ よしなと路地へ 突き出され

羅生門河岸  【RIZAP COOK】

つまり吉原の京町2丁目南側、「お歯黒どぶ」といわれた真っ黒な溝に沿った一角を本拠にしていました。「羅生門」とは、蹴転が客の腕を強引に捕まえ、放さなかったことから、源頼光四天王の一人・渡辺綱が鬼女の隻腕を斬り落とした伝説の地名になぞらえてつけられた名称とか。「一度つかんだら放さない」というニュアンスが込められているのがミソです。こわごわとしたかんじがしますね。表向きは、ロウソクの灯が消えるまで二百文が相場ですが、それで納まるはずはありません。

この噺のように、「お直し、お直しお直しィッ」と、立て続けに二百文ずつアップさせ、結局、客をすってんてんにひんむいてしまうという、魔窟だったわけです。

志ん生のおはこ  【RIZAP COOK】

この噺は、五代目古今亭志ん生が復活させ、昭和31年度(1956年)の芸術選奨を受賞しました。志ん生亡き後は、次男の志ん朝がさらに磨きのかかった噺にこさえていました。

【語の読みと注】
蹴転 けころ:最下級の商売女性
一切り ひときり:一段落
切り見世 きりみせ:蹴転がいる場所
局見世 つぼねみせ:蹴転がいる場所
河岸見世 かしみせ:吉原の蹴転がいる場所
素百 すびゃく:百文ぽっきり

【RIZAP COOK】 

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【お直し 古今亭志ん朝】

じっとく【十徳】演目

噺の全編、これ駄洒落の全員集合。ばかばかしいだけ。落語のおたのしみです。

あらすじ

ふだん物知り顔な男。

髪結床かみゆいどこで仲間に「このごろ隠居の着ている妙ちくりんな着物は何と言う」と聞かれたが、答えられず、恥をかいたのがくやしいと、さっそく隠居のところへ聞きに言った。

隠居は「これを十徳という。そのいわれは、立てば衣のごとく、座れば羽織のごとく、ごとくごとくで十徳だ」と教え、「一石橋という橋は、呉服町の呉服屋の後藤と、金吹かねふきちょうの金座御用の後藤が金を出し合って掛けたから、ゴトとゴトで一石だ」とウンチクをひとくさり。

「さあ、今度は見やがれ」と床屋に引き返したはいいが、着いた時にはきれいに忘れてしまって大弱り。

「ええと、立てば衣のようだ、座れば羽織のようだ、ヨウだヨウだで、やだ」
「いやならよしにしねえ」
「そうじゃねえ、立てば衣みてえ、座れば羽織みてえ、みてえみてえでむてえ」
「眠たけりゃ寝ちまいな」
「違った、立てば衣に似たり、座れば羽織に似たり、ニタリニタリで、うーん、これはしたり」

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しりたい

遊び心に富むダジャレ噺  【RIZAP COOK】

オチの部分の原話は、安永2年(1773)刊『御伽草おとぎぞうし』中の「十徳のいわれ」で、そっくりそのままです。

江戸にはシャレ小咄が多く、ばかばかしいようで遊び心とウイットに富み、楽しいものです。

落語の「一目上がり」などもそうですが、数でシャレるものがあります。たとえば。

屋島やしまいくさで、平教経たいらののりつねが源義経を見て、勝負をしそうになった。義経は臆して、『よそうよそう』で八艘はっそう飛び」
「西と書いて産前産後と解く。その心は、二四は三前三後」

いろいろあります。

本来、前座噺ですが、大看板では八代目春風亭柳枝りゅうし(1959年没)がよく演じました。

上方ではこの後、「ごとくごとくで十徳やろ」と先回りされ、困って、「いや、たたんでとっとくのや」と落とします。

これはしたり  【RIZAP COOK】

オチに使われていますが、今ではどうでしょう。

「これはしき(=悪い)ことしたり」の真ん中が取れた言葉といわれ、「しまった」と「驚いた」の両義に使われます。

この噺では前者でしょうが、ダジャレなので、あまり詮索しても意味はありません。

仮名手本忠臣蔵かなでほんちゅうしんぐら」五段目・山崎街道鉄砲渡しの場で、狩人となっている早野勘平はやのかんぺいが、かつての同僚の千崎弥五郎せんざきやごろうに偶然出会い、両人膝をたたいて「これはしたり」と言います。この場合は後者の意味で、歌舞伎ではこのパターンは紋切り型で繰り返し使われます。

十徳  【RIZAP COOK】

脇を縫いつけた、羽織に似た着物です。おもに儒者、絵師、医者らが礼服として用いました。本当の語源は、「直綴じきとつ」からの転訛てんかで、脇をじてある意味でしょう。

鎌倉時代末期に始まるといわれ、古くは武士も着用しました。江戸時代には腰から下にひだを付け、普段着にもなりますが、はかまは履かないのが普通でした。

そもそもは、鎌倉末期に素襖すおうより下級の小素襖こずおうのことです。高貴な人が外出する時に輿こしきやともざむらいが上着の上から掛けて、腰回りを帯で締めて四幅袴よのばかまを履くようになりました。室町時代には上下ともに侍の旅行用衣服に転じ、江戸時代には袴が省略されて、儒者、医師、俳諧師、絵師、茶人など、剃髪ていはつした人の外出着や礼服と変化していきました。黒無紋くろむもん精好せいごうしゃといった布地で仕立て、脇を縫い綴じ、ともれのひらぐけの短い紐を付けて、腰から下にひだをこしらえています。見るからに浮世離れした風流人の上品な風情です。これが変化していって、羽織はおりとなっていきます。

後藤は江戸の「造幣局」  【RIZAP COOK】

金座は勘定奉行に直属です。家康が貨幣制度の整備を企てて日本橋に金座を設け、新両替町しんりょうがえちょう(中央区銀座一~四丁目)に駿府すんぷから銀座を移転。家臣の後藤庄三郎光次に両方を統括させ、金貨・銀貨を鋳造・鑑定させたのが始まりです。

金座の設置は文禄4年(1595)、銀座は慶長17年(1612)とされます。後藤庄三郎は代々世襲で、大判小判を俗に「光次みつつぐ」と呼んだのはそのためです。

金座は当初、日本橋金吹かねふきちょう(「長崎の赤飯こわめし」参照)に設けられ、後藤の配下で、実際に貨幣に金を吹きつける役目の業者を「金吹き」と呼びましたが、元禄8(1695)年にこれを廃止。

新たに鋳造所を本郷に移転・新築しましたが、間もなく火事で全焼し、同11年(1698)、後藤の官宅があった、金吹かねふきちょうのすぐ真向かい、日本橋本石町二丁目の現日銀本店敷地内へ再移転しました。

一石橋  【RIZAP COOK】

もとは「いちこくばし」でしたが、いまは「いっこくばし」と言い慣わしています。中央区日本橋本石町ほんこくちょう一丁目から、同八重洲やえす一丁目までの外堀そとぼり通りを南北に渡し、北詰きたづめに日本銀行本店、その東側に日本橋三越があります。

この橋上から自身と常磐ときわ橋、呉服橋、鍛冶かじ橋、銭亀ぜにかめ橋、日本橋、江戸橋、道三どうさん橋と、隅田川を代表する八つの橋を一望する名所で、別名を「八ツ橋」「八つ見の橋」といったゆえんですが、現在は高速道路の真下です。

噺の中の「ゴトとゴトで一石」は俗説です。このダジャレ説のほか、橋のたもとに米俵を積み上げ、銭一貫文と米一石を交換する業者がいたからとする説も。どちらも信用されていなかったらしく、「屁のような由来一石橋いっこくばしのなり」と、川柳で嘲笑される始末でした。

もう一つの「呉服屋の後藤」は、幕府御用を承る後藤縫之助で、「北は金 南は絹で 橋をかけ」と、これまた川柳に詠まれました。

一石橋の南の呉服橋はこの後藤の官宅に由来し、橋自体、元は「後藤橋」と呼ばれていたとか。一石橋の南詰に安政4年(1857)、迷子札に代わる「まひごのしるべ石」が置かれ、現存しています。

【RIZAP COOK】

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【十徳 八代目春風亭柳枝】

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りんきのひのたま【悋気の火の玉】演目

「悋気」は「ねたみ」。「吝嗇」は「けち」。この噺はねたみがテーマなんですね。

【あらすじ】

浅草は花川戸の、鼻緒問屋の主人。

堅物を画に描いたような人間で、女房のほかは一人として女を知らなかった。

ある時、つきあいで強引に吉原へ誘われ、一度遊んでみると、遊びを知らない者の常ですっかりのめり込んでしまった。

とどのつまりは、いい仲になった花魁を身請けして妾宅に囲うことになる。

本妻の方は、このごろ旦那がひんぱんに外泊するからどうもあやしいと気づいて調べてみると、やっぱり根岸の方にオンナがいることがわかったから、さあ頭に血がのぼる。

本妻はちくりちくりといやみを言い、旦那が飯を食いたいといっても
「あたしのお給仕なんかじゃおいしくございますまい、ふん」
という調子でふてくされるので、亭主の方も自分に責任があることはわかっていても、おもしろくない。

次第に本宅から足が遠のき、月の大半は根岸泊まりとなる。

そうなると、ますます収まらない本妻。

あの女さえ亡き者にしてしまえば、と物騒にも、愛人を祈り殺すために「丑の時参り」を始めた。

藁人形に五寸釘、恨みを込めて打ちつける。

その噂が根岸にも聞こえ、今度は花魁だった愛人の方が頭にくる。

「よーし、それなら見といで」
とばかり、こちらは六寸釘でカチーン。

それがまた知れると、本妻が負けじと七寸釘。

八寸、九寸と、エスカレートするうち、呪いが相殺して、二人とも同日同時刻にぽっくり死んでしまった。

自業自得とはいえ、ばかを見たのは旦那で、葬式をいっぺんに二つ出す羽目になり、泣くに泣けない。

それからまもなく、また怪奇な噂が近所で立った。

鼻緒屋の本宅から恐ろしく大きな火の玉が上がって、根岸の方角に猛スピードですっ飛んで行き、根岸の方からも同じような火の玉が花川戸へまっしぐら。

ちょうど、中間の大音寺門前でこの二つがぶつかり、火花を散らして死闘を演じる、というのだ。

これを聞くと旦那、このままでは店の信用にかかわると、番頭を連れて大音寺前まで出かけていく。

ちょうど時刻は丑三ツ時。

番頭と話しているうちに根岸の方角から突然火の玉が上がったと思うと、フンワリフンワリこちらへ飛んできて、三べん回ると、ピタリと着地。

「いや、よく来てくれた。いやね、おまえの気持ちもわかるが、そこは、おまえは苦労人なんだから、なんとかうまく下手に出て……時に、ちょっと煙草の火をつけさしとくれ」
と、火の玉の火を借りて、スパスパ。

まもなく、今度は花川戸の方から本妻の火の玉が、ロケット弾のような猛スピードで飛んでくる。

「いや、待ってました。いやね、こいつもわびているんで、おまえもなんとか穏便に……時に、ちょいと煙草の火……」
「あたしの火じゃ、おいしくございますまい、ふん」

【しりたい】

これも文楽十八番  【RIZAP COOK】

安永年間(1772-81)に、吉原の大見世の主人の身に起きた実話をもとにしていると言われます。原話は笑話本『延命養談数』中の「火の玉」です。これは天保4年(1833)刊、桜川慈悲成(さくらがわ・じひなり、1762-1833)作によるもの。

現行は、この小咄のほとんどそのままの踏襲で、オチも同じ。わずかに異なるのが、落語では、オチの伏線になる本妻の、「あたしのお給仕なんかじゃ…」というセリフを加えるなど、前半のの筋に肉付けしてあるのと、原話では、幽霊鎮めに最初、道心坊(乞食坊主)を頼んで効果がなく、その坊さんの忠告でしぶしぶ旦那一人で出かけることくらいです。

この噺を十八番の一つとした八代目桂文楽は、仲介者を麻布絶口木蓮寺の和尚にして復活させていました。文楽は、旦那が妾と本妻にそれぞれ白髪と黒髪を一本ずつ抜かれ、往復するうちに丸坊主、というマクラを振っていました。

その没後は三遊亭円楽がよく演じ、現在でも高座に掛けましたが、音源は文楽のみです。

ケチと悋気はご親類?  【RIZAP COOK】

悋と吝は同訓で、悋には吝嗇つまりケチと嫉妬(悋気)の二重の意味があります。一つの漢語でこの二つを同時に表す「吝嫉」という言葉もあるため、ケチとヤキモチは裏腹の関係、ご親類という解釈だったのでしょう。

こじつけめきますが、よく考えれば原点はどちらも独占欲で、他人が得ていて自分にない(または足りない)ものへの執着。それが物質面にのみ集中し、内向すればケチに、広く他人の金、愛情、地位などに向かえば嫉妬。悋気は嫉妬の中で、当事者が女、対象が性欲と、限定された現れなのでしょう。

焼き餅は遠火で焼け  【RIZAP COOK】

「ヤキモチは 遠火で焼けよ 焼く人の 胸も焦がさず 味わいもよし、なんてえことを申します」
「疝気は男の苦しむところ、悋気は女の慎むところ」
というのは、落語の悋気噺のマクラの紋切り型です。別に、「チンチン」「岡チン」「岡焼き」などともいいます。「チンチン」の段階では、まだこんろの火が少し熾きかけた程度ですが、焼き網が焦げ出すと要注意、という、なかなか味わい深いたとえです。

花川戸  【RIZAP COOK】

花川戸は、現在の台東区花川戸一、二丁目。西は浅草、東は大川(隅田川)、北は山の宿で、奥州街道が町を貫き、繁華街・浅草と接している場所柄、古くから開けた土地でした。芝居では、なんと言っても花川戸助六と幡随院長兵衛の二大侠客の地元で名高いところです。

花川戸から北の山の宿(現在は台東区花川戸に統合)にかけて、戦前まではこの噺の通り、下駄や雪駄の鼻緒問屋が軒を並べていました。今は靴などの製造卸業が多く並びます。

そういえば、舞台で助六が髭の意休の頭に下駄を乗せますが、まさか、スポンサーの要請では……。

大音寺  【RIZAP COOK】

台東区竜泉一丁目で、浄土宗の正覚山大音寺をさします。向かいは、樋口一葉ゆかりの旧下谷竜泉寺町です。箕輪の浄閑寺、新鳥越橋詰の西方寺とともに、吉原の女郎の投げ込み寺でもありました。

「蔵前駕籠」にも登場しますが、大音寺門前は夜は人通りが少なく、物取り強盗や辻斬りが出没した物騒なところで、幽霊など、まだかわいい方です。

【語の読みと注】
悋気 りんき
吝嗇 りんしょく
悋嫉 りんしつ

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とみきゅう【富久】演目

すべてが崖っぷちの久蔵。富くじ当たって、土俵際でうっちゃった佳話。

【あらすじ

浅草安部川町の長屋に住む幇間の久蔵は、人間は実直だが大酒のみが玉に瑕。

酒の上での失敗であっちのだんな、こっちのだんなとしくじり、仕事にあぶれている。

ある年の暮れ深川八幡の富くじを、義理もあってなけなしの一分で買った。

札は「松の百十番」。

一番富に当たれば千両、二番富でも五百両。

久蔵、大神宮さまのお宮(神棚)に札をしまい、
「二番富でけっこうですから当たりますように」
と祈る。
「そうしたら堅気になり、二百三十両で売りに出ている小間物屋の店を買って、岡ぼれしている料亭「万梅」の仲居・お松っつあんを嫁にもらって」
と楽しい空想にふけりながら、一升酒をあおってそのまま高いびき。

夜中にすきま風で目を覚ますと、半鐘の音。

火事は芝金杉見当だという。

しくじった田丸屋のだんなの店はその方角だ。

久蔵、ご機嫌を取り結ぶのはこの時とばかり、押っ取り刀で火事見舞いに駆けつけると、幸い火は回っていない。

期待通りだんなが喜んで、出入りを許されたので久蔵は大喜び。

さっそく、火事見舞い客の張付けに大奮闘するが、ご本家から届けられた酒を見ると、もう舌なめずりで上の空。

だんなが苦笑して
「のむのはいいがな、おまえは酒でしくじったんだから、たんとのむなよ」
と言ってくれたので、大喜びで冷酒をあおっているうち、またもへべれけで寝入ってしまう。

夜更けに、また半鐘の音。

今度は久蔵の家がある浅草鳥越方向というので、だんなは急いで久蔵を起こすと、
「万一のことがあれば必ず店に戻ってこい」
と、ろうそくを持たせて帰す。

とんだ火事の掛け持ち。

久蔵、冬の夜空を急いで長屋に戻ると既に遅く、家は丸焼け。

しかたなく田丸屋に引き返すと、だんなは親切に店に置いてくれたので、久蔵は田丸屋の居候になる。

数日後、深川八幡の境内を通ると、ちょうど富くじの抽選。

「ああ、そう言えばおれも一枚買ったっけ」
と思い出したが、
「どうもあの札も火事で焼けちまった」
と、あきらめめ半分で見ていると
「一番、松の百十番」
の声。

「あ、当たったッ」

久蔵、卒倒した。

今すぐ金をもらうと二割引かれるが、そんなことはどうでもいい。
八百両あれば御の字だ。

「札をお出し」
「札は……焼けちまってないッ」
「当たり札がなければダメだ」
と言われ、
「よくも首っくくりの足を引っ張るようなまねをしやがったな、覚えてやがれ、俺は先ィ死んでてめえをとり殺す」
と、世話人にすごんでみても、ダメなものはダメ。

あきらめきれずに泣く泣く帰る途中、相長屋の鳶頭にばったり。
「火事だってえのに何処へ行ってたんだ。布団と釜は出しといてやった。それにしても、さすがに芸人だ。りっぱな大神宮さまのお宮だな。あれも家にあるよ」
「ど、泥棒ッ。大神宮さまを出せッ」
と半狂乱で喉首を締め上げたから、鳶頭は目を白黒。

やっと事情を聞いて
「なるほど、千両富の当たり札とは、狂うのも無理はねえ。運のいい男だなァ。おまえが正直者だから、正直の頭に神宿るだ」
「へえ、これも大神宮さまのおかげです。近所にお払いをいたします」

底本:八代目桂文楽

しりたい

八代目文楽の名人芸   【RIZAP COOK】

江戸時代の実話をもとに、円朝が創作したといわれる噺ですが、速記もなく、詳しいことはわかりません。というか、円朝作というのはうそでしょう。

それよりも、この噺の演者は、なんといっても八代目桂文楽が代表格です。文楽はすぐれた描写力で、冬の夜の寒さ、だんなと幇間の人間関係まで見事に浮き彫りにし、押しも押されぬ十八番に練り上げました。ここでのあらすじも文楽版をテキストにしていますが、強いていえば、人物の性格描写が時に類型的できれいごとに過ぎるのが、この師匠の難点だったでしょう。

そんなことはありませんよ」   【RIZAP COOK】

文楽の「富久」について、榎本滋民が気のきいた一文を残しています。

駆け出そうとする久蔵を、旦那が呼び止めて、類焼した場合には、遠慮なくうちを頼ってこいといってやるのだが、絶品とうたわれた八代目桂文楽の演出では、その前置きに、「そんなことはないよ」と、打ち消して見せる。念頭に浮かびがちな、いまわしい状況を、まず断定的に否認してやることによって、相手の不安の軽減を計る。さらに、「そんなことはない」とくり返してから、柔らかに逆転の「けど」をそえ、「もしものことがあったら、よそへ行くな。うちへ帰ってきておくれよ」という主文に接続させる。窮迫した者に、援助を確約しながら、その表明に、恩着せがましさをもたせまいとつとめるデリカシーが、この簡潔な否定の前置きに、十分働いている。表記の上では、なんの綾も曲もない否定文にしかすぎないものが、練達のいい回しによって、真情あふれる、味わい深いことばになるのも、話芸なればこそである。

榎本滋民『殺し文句の研究 PARTⅡ』(読売新聞社、1987年)から

なるほど。鋭く豊かな視点に脱帽です。

志ん生の「媚びない久蔵」   【RIZAP COOK】

五代目古今亭志ん生の「富久」も、文楽のそれとはまったく行き方の違う名品でした。

文楽が久蔵の実直さ、気の弱さを全面に出すのに対し、志ん生は酒乱と貧乏ゆえの居直り、ふてぶてしさを強調しました。志ん生の久蔵は、決してだんなに媚びてはいません。

ながらく貧乏していた志ん生は、久蔵の不安、やるせなさ、絶望感、それを酒に逃避する弱さを、自らの貧乏体験からはじき出して放埓に演じ、それが観客を勘違いさせて感動に結び付けていました。評論家諸氏は「志ん生は貧乏のどん底だった」といったりしますが、どうも違和感があります。たしかに「どん底」ではあったのかもしれませんが、「貧苦」とは無縁です。どこか楽しんでいたふしもあり、本人は「貧困」「貧窮」とは異なる次元での楽観した生活だったように思えます。

火事で家に急ぐ場面でも、文楽は「しょい、しょい、しょいこらしょっ」と様式的。志ん生は「寒い寒い、寒いよォ」と嘘も飾りもない裸の人間そのまま。両者の違いがはっきり出ています。

浅草阿部川町   【RIZAP COOK】

東京都台東区元浅草三、四丁目から寿一、二丁目。町名主が駿河・阿部川から移住してきたことから、この名があります。

もともと寺社地だったところが町屋になったためか、今でもこのあたりは寺ばかりです。江戸の頃は、裏長屋や同心などの御家人の住居が多く、正徳3年(1713)、町奉行所の直轄御支配地になっています。

大神宮さまのお宮   【RIZAP COOK】

大神宮とは伊勢神宮のことです。「神宮」はなにがしか天皇家と関係がある、という意味です。こんなこと、ガッコ―ではおせえてくれませんな。

伊勢神宮というのは、皇大神宮(内宮)と豊受大神宮(外宮)をあわせて総称です。内宮は天照大神をまつり、外宮は豊受大御神をおまつっています。この神さま天照大御神の食事係りです。さらには、衣食住、産業の守り神としても崇敬されています。そこまで敷衍されるのは、この神さま、じつはお稲荷さまと同一神だともいわれています。その話はいずれどこかの項目で。

さて。

この噺の大神宮さまとは伊勢の神さまを祭る神床をさします。歳末になると家々に回ってくる伊勢神宮の御師が神床を配ります。御師は旧年のお祓いをしに回ります。御師とは下級の神職者で、全国を分担して巡回していたようです。御師は来年の御札(神符、大麻)も配りますから、この来年用のを神棚にまつるのです。神棚はどんな貧しい長屋住まいにもあったようです。

大神宮信仰は、江戸では水商売や芸人に多くあったといわれています。縁起をかつぎ、霊験に誓い、大神宮の神床をおのれの経済力以上に大きなものをまつったりしていました。

神床は伊勢神宮の神明造を模したもので、これを「大神宮の御宮」と呼んでいました。

江戸の末期になると、都市部の町人に経済力が備わって、伊勢参宮ができるほどになりました。とはいえ、生涯一度のもので、大半の人々には夢のまた夢。江戸にいながら参拝できるようにと、伊勢神宮が代用品に売り出していたのがこれらの品々です。

それすら高価なので、買うのは芸者や幇間など花柳界の者が中心。芸人の見栄で、無理しても豪華なものを買う習わし、というのが本心だったようです。見栄を張って生きているのですが、富くじはこのあたりに隠しておくのが通り相場だったようです。」

伊勢の御師  【RIZAP COOK】

いせのおし。伊勢神宮の下級神官で、全国を回って、伊勢暦や大麻(天照大御神のお札)を売るのがつとめです。

伊世よりも三河は顔がのどかなり   二31

伊勢の御師さて銭の無いさかりに来る   五12

転宅を奇妙にさがす伊世の御師   六39

このネットワークは全国の最新情報を仕入れてくるため、事情通の人たちでした。今と違って引越し先を探すのは骨の折れることですが、そこはプロで、どこまでもやってくる、考えようによってはそらおそろしい人たちでした。伊勢神宮以外の神社でも同じような御師が多数巡回していましたが、伊勢神宮だけは数も多いし、配る(売りさばく)商品も多かったようです。

「三河」は三河万歳。笑わせるわけです。伊勢の御師はもっともらしくふるまうものですから、笑いはなく、年末年始に顔を出す二様のよそびとは雰囲気がかなり違っていたのですね。

【RIZAP COOK】

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はまののりゆき【浜野矩随】演目

彫金職人の一途な噺。元は講釈噺。ものつくりの喜びと哀しみが出ています。

別題:名工矩随

あらすじ

浜野矩随のおやじ矩安は、刀剣の付属用品を彫刻する「腰元彫」の名人だった。

おやじの死後、矩随も腰元彫りを生業としているが、てんでへたくそ。

芝神明前の袋物屋、若狭屋新兵衛がいつもお義理に二朱で買い取ってくれているだけだ。

八丁堀の裏長屋での母子暮らしも次第に苦しくなってきたあるとき、矩随が小柄に猪を彫って持っていった。

新兵衛は
「こいつは豚か」
と言うが、矩随は「いいえ、猪です」といたってまじめで真剣。

「どうして、こうまずいんだ。今まで買っていたのは、おまえがおっかさんに優しくする、その孝行の二字を買ってたんだ」
となじる新兵衛。

おやじの名工ぶりとは比べるまでもない格落ちのありさまで、挙げ句の果ては
「死んじまえ」
と強烈な一言。

肩を落として帰った矩随は母親に
「あの世に行って、おとっつぁんにわびとうございます」
と首をくくろうとする。

「先立つ前に、形見にあたしの信仰している観音さまを丸彫り五寸のお身丈で彫っておくれ」
と母。

水垢離の後、七日七晩のまず食わず、裏の細工場で励む矩随。

観音経をあげる母。

やがて、完成の朝。

母は
「若狭屋のだんなに見ておもらい。値段を聞かれたら『五十両、一文かけても売れません』と言いなさい」
と告げ、矩随に碗の水を半分のませて、残りは自らのんで見送った。

観音像を見た新兵衛。

おやじ矩安の作品がまだあったものと勘違いして大喜びしたが、足の裏を見て
「なんだっておみ足の裏に『矩随』なんて刻んだんだ。せっかく五十両のものが、二朱になっちまうじゃねえか」

矩随が母への形見に自分が彫った顛末を語った。

留飲を下げた新兵衛だが、
「えっ、水を半分? おっかさんはことによったらおまえさんの代わりに梁にぶらさがっちゃいねえか」

矩随はあわてて駕籠でわが家に戻ったが、無念にも、母はすでにこときれていた。

これを機に、矩随は開眼、名工としての道を歩む。

底本:五代目古今亭志ん生

しりたい

浜野矩随  【RIZAP COOK】

三代続いた江戸後期の彫金の名工です。初代(1736-87)、二代(1771-1851)が有名ですが、この噺のモデルは初代でしょう。

初代は本名を忠五郎といい、初代浜野政随に師事して浜野派彫金の二代目を継ぎました。細密・精巧な作風で知られ、生涯神田に住みました。

志ん生得意の出世譚  【RIZAP COOK】

講釈(講談)を元に作られた噺です。明治期には初代三遊亭円右の十八番でした。円右は四代目橘家円喬と並び称されたほどの人情噺の大家です。若き日の五代目古今亭志ん生がこの円右のものを聞き覚え、講釈師時代の素養も加えて、戦後十八番の一つとしました。

元に戻った結末  【RIZAP COOK】

講談では、最後に母親が死ぬことになっていますが、落語ではハッピーエンドとし、蘇生させるのが普通でした。ところが、五代目志ん生はこれをオリジナル通り死なせるやり方に変え、以後これが定着しています。この噺を得意にしていた先代三遊亭円楽もやはり母親が自害するやり方でした。言うまでもなく、老母の死があってこそ矩随の悲壮な奮起が説得力を持つわけで、こちらの方が正当ですぐれた出来だと思います。

音源は志ん生、円楽ともにありますが、志ん生のものは「名工矩随」の題になっています。

袋物屋  【RIZAP COOK】

恩人、若狭屋の稼業ですが、紙入れ、たばこ入れなどの袋状の品物を製造、販売します。久保田万太郎(1889-1963)の父親は浅草田原町の袋物職人でした。久保田万太郎は戦後劇壇のボスとして君臨した劇作家、小説家、俳人です。『浅草風土記』などで有名ですが、久保田を師と仰いだ小島政二郎は『円朝』という作品を残しています。

水垢離  【RIZAP COOK】

神仏に祈願するため、冷水を浴びて心身を清浄にするならわしです。富士登山、大山まいりなどの前にも水垢離をとり、安全を祈願するしきたりでした。東両国の大川端が、江戸の垢離場として有名でした。

【語の読み】
浜野矩随 はまののりゆき
浜野矩安 はまののりやす
腰元彫 こしもとぼり
芝神明 しばしんめい
袋物屋 ふくろものや
水垢離 みずごり
梁 はり
駕籠 かご
浜野政随 はまのしょうずい

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こわかれ【子別れ】演目

通常、上、中、下の3部に分けて演じられます。

別題:強飯の女郎買い(上) 子は鎹(中と下で)

【あらすじ】

腕はいいが、大酒飲みで遊び人、大工の熊五郎。

ある日、山谷の隠居の弔いですっかりいい心持ちになり、このまま吉原へ繰り込んで精進落としだと怪気炎。

来合わせた大家が、そんな金があるなら女房子供に着物の一つも買ってやれと意見するのもどこ吹く風。

途中で会った紙屑屋の長さんが、三銭しか持っていないと渋るのを、今日はオレがおごるからと無理やり誘い、葬式で出された強飯の煮しめがフンドシに染み込んだと大騒ぎの挙げ句に三日も居続け。

四日目の朝。

神田堅大工町の長屋にご機嫌で帰ってくると、かみさんが黙って働いている。

さすがに決まりが悪く、あれこれ言い訳をしているうちに、かみさんが黙って聞いているものだからだんだん図に乗って、こともあろうに女郎の惚気話まで始める始末。

これでかみさんも堪忍袋の緒が切れ、夫婦げんかの末、もう愛想もこそも尽き果てたと、せがれの亀坊を連れて家を出てしまう。

うるさいのがいなくなって清々したとばかり、なじみのおいらんが年季が明けると家に引っ張り込むが、やはり野に置け蓮華草、前のかみさんとは大違いで、飯も炊かなければ仕事もせず。

挙げ句に、こんな貧乏臭いところはイヤだと、さっさと出ていってしまった。

一方、夫婦別れしたかみさん。

女の身とて決まった仕事もなく、炭屋の二階に間借りして、近所の仕立て物をしながら亀坊を育てている。

ある日、亀坊がいじめられて泣いていると、後ろから声を掛けた男がいる。

振り返ると、なんと父親。

身なりもすっかり立派になって、新しい半纏を着込んでいる。仕事の帰りらしい。

あれから一人になった熊五郎、つくづく以前の自分が情けなくなり、心機一転、好きな酒もすっかり絶って仕事に励み出したので、もともと腕はいい男、得意先も増え、すっかり左団扇になったが、思い出すは女房子供のことばかり。

偶然に親子涙の再会とあいなり、熊はせがれに五十銭の小遣いをやってようすを聞くと、女房はまだ自分のことを思い切っていないらしいとわかる。

内心喜ぶが、まだ面目なくて会えない。

その代わり、明日鰻を食わせてやると亀坊に約束し、その日は別れる。

一方、家に帰った亀坊、もらった五十銭を母親に見つかり、おやじに、おれに会ったことはまだおっかさんに言うなと口止めされているので、しどろもどろで、知らないおじさんにもらったとごまかすが、もの堅い母親は聞き入れない。

貧乏はしていても、おっかさんはおまえにひもじい思いはさせていない、人さまのお金をとるなんて、なんてさもしい料簡を起こしてくれたと泣いてしかるものだから、亀坊は隠しきれずに父親に会ったことを白状してしまう。

聞いた母親、ぐうたら亭主が真面目になり、女ともとうに手が切れたことを知り、こちらもうれしさを隠しきれないが、やはり、まだよりを戻すのははばかられる。

その代わり、翌日亀坊に精一杯の晴れ着を着せて送り出してやるが、自分もいても立ってもいられず、そっと後から鰻屋の店先へ……。

こうして、子供のおかげでめでたく夫婦が元の鞘に納まるという、「子は鎹(かすがい)」の一席。

【しりたい】

長い噺   【RIZAP COOK】

幕末の初代春風亭柳枝作。長い噺なので、上中下に分けられています。

普通は、中と下は通して演じられ、別題を「子は鎹(かすがい)」といいます。かすがいは大工が使う、大きな木材をつなぐためのカギ型の金具で、打ち込むのにゲンノウを用いるので、母親が「ゲンノウでぶつよ」と脅かす場面が、幕切れの「子はかすがい」という地のサゲとぴたりと付きます。

「かすがいを打つ」   【RIZAP COOK】

という慣用句もあり、人の縁をつなぎ止める意味です。

上は五代目古今亭志ん生が、「強飯の女郎買い」として独立させ、紙屑屋を吉原に誘う場面の掛け合いで客席を沸かせました。むろん、後半の「子別れ」は別にみっちりと演じています。

志ん生は母親の表現に優れ、六代目三遊亭円生は、上の通夜の場面から綿密に演じました。戦後では、やはりこの二人が双璧だったでしょう。

熊&紙長さんの「掛け合い漫才」   【RIZAP COOK】

熊「いくらあんだい? 一両もあんのかい一両も?」
長「一円? 一円なんぞあるもんか」
熊「八十銭かァ?」
長「八十銭ありゃしないよ」
熊「六十銭か」
長「六十銭…までありゃいいんだがね」
熊「五十銭だな」
長「五十銭にちょいと足りねえんだ」
熊「じゃ四十銭だ」
長「もうすこしってとこだ」
熊「三十五銭か」
長「もう、ちょいとだ」
熊「三十銭か」(このあたりで客席にジワ)
長「もうすこしだ」
熊「二十五銭だな」
長「うう、もうちょいと」
熊「二十銭かァ」
長「うう、くやしいとこだ」(爆笑)
熊「十五銭かァ?」
長「もうすこし」
熊「十銭か」
長「うう、もうちょいと」(高っ調子で)
熊「五銭だな?」
長「もうすこしィ」
熊「三銭か」
長「あ当たった」
熊「あこら三銭だよ」

最後の「三銭だよ」に絶妙の間で客の大爆笑がかぶさります。志ん生のライブならではの醍醐味。活字では、とうてい表現しきれません。

ゲンノウでぶつ   【RIZAP COOK】

母親が五十銭の出所を白状させようと、子供を脅す場面があります。

ゲンノウ(玄翁)は言うまでもなく、大工が使う大型の鉄の槌ですが、六代目三遊亭円生はカナヅチ(金槌)でやりました。

芸談によると、古今亭志ん生に注意され、なるほど、女が持つにはゲンノウは重くて大きすぎると気がついたそうです。

当の志ん生はというと、当然ながら「ここにお父っつァんの置いてったカナヅチがあるから、このカナヅチで頭ァ、たたき割るぞッ」と言っています。

もっとも、単なる脅かしですし、大きいから子供が怖がると考えれば、ゲンノウでもいいと思いますが、昔の落語家は、噺の中のちょっとした小道具にも常にリアリティを考え、気を使っていたことがわかりますね。

「女の子別れ」   【RIZAP COOK】

明治初期に三遊亭円朝が、柳枝の原作を脚色し、あべこべに、出て行くほうがかみさん(母親)で、亭主(父親)が子供と暮らすという「女の子別れ」として演じました。

やはりゲンノウの場面を気にして、ゲンノウで脅すなら父親の方が自然だろうというのが直接の動機だったようですが、なによりも、「男の子は父親につく」という夫婦別れのときの慣習や、亭主の方が家を出るのは(当時としては)不自然というのが円朝の頭にあったのでしょう。

この「女の子別れ」は、高弟の二代目円馬が大阪に伝え、明治期には月亭文都が得意にしていましたが、今は、東西ともこのやり方で演ずることはありません。

東京嫌いの宇井無愁(上方落語研究家)は、「子供をカセにお涙ちょうだいのあの手この手を使った、ウエットなヒネクレ落語で、ドライな笑いを好む大阪の水には合いにくい」と述べています。

下足番に習った「子別れ」   【RIZAP COOK】

五代目古今亭志ん生が生前、対談で回想していますが、志ん生がまだ二つ目で旅興行でさすらい歩いていたとき、流れ着いた甲府の稲積亭といううらぶれた席で、「子別れ」を一席やったところ、そこの下足番の爺さんに、「あすこんとこはまずい」と注意され、なに言ってやがると思ったそうです。

よく聞いてみると、この爺さん、昔は四代目三升家小勝の弟子で小常といったれっきとした噺家。旅興行のドサまわりをしているうちにここに落ち着き、とうとう下足番になり、年を取ってしまったとのこと。

昔はこういうケースはよくあったようで、志ん生は夏の暑いさ中、爺さんのボロ小屋で虫に食われながら「子別れ」をさらってもらったそうです。

なんだか哀れな、ものさびしい話ですが、志ん生の自伝『びんぼう自慢』では、小常から習ったのは「甚五郎の大黒」(→三井の大黒)ということになっていて、こうなるとどちらが本当なのかはわかりません。

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ふなとく【船徳】演目

勘当若だんなの噺。船頭にあこがれる道楽の過ぎた野郎は見上げたもんです。

別題: お初徳兵衛

あらすじ

道楽が過ぎて勘当され、柳橋の船宿・大枡(だいます)の二階で居候の身の上の若だんな、徳兵衛。

暇をもてあました末、いなせな姿にあこがれて「船頭になりたい」などと、言いだす始末。

親方始め船宿の若い者の集まったところで「これからは『徳』と呼んどくれ」と宣言してしまった。

お暑いさかりの四万六千日。

なじみ客の通人が二人やってきた。あいにく船頭が出払っている。

柱に寄り掛かって居眠りしている徳を認めた二人は引き下がらない。

船宿の女将が止めるのもきかず、にわか船頭になった徳、二人を乗せて大棧橋までの約束で舟を出すことに。

舟を出したのはいいが、同じところを三度も回ったり、石垣に寄ったり。

徳「この舟ァ、石垣が好きなんで。コウモリ傘を持っているだんな、石垣をちょいと突いてください」

傘で突いたのはいいが、石垣の間に挟まって抜けずじまい。

徳「おあきらめなさい。もうそこへは行きません」

さんざん二人に冷や汗をかかせて、大桟橋へ。

目前、浅瀬に乗りあげてしまう。

客は一人をおぶって水の中を歩いて上にあがったが、舟に残された徳、青い顔をして「ヘッ、お客さま、おあがりになりましたら、船頭を一人雇ってください」

底本:八代目桂文楽

しりたい

文楽のおはこ   【RIZAP COOK】

八代目桂文楽の極めつけでした。

文楽以後、無数の落語家が「船徳」を演じていますが、はなしの骨格、特に、前半の船頭たちのおかしみ、「四万六千日、お暑い盛りでございます」という決め文句、客を待たせてひげを剃る、若旦那船頭の役者気取り、舟中での「この舟は三度っつ回る」などのギャグ、正体不明の「竹屋のおじさん」の登場などは、刷り込まれたDNAのように、どの演者も文楽に右にならえです。

ライバルの五代目古今亭志ん生は、前半の、若旦那の船頭になるくだりは一切カットし、川の上でのドタバタのみを、ごくあっさりと演じていました。

この噺は元々、幕末の初代志ん生作の人情噺「お初徳兵衛浮名桟橋」発端を、明治の爆笑王・鼻の円遊こと初代三遊亭円遊がパロディ化し、こっけい噺に仕立てたものです。

元の心中がらみの人情噺は、五代目志ん生が「お初徳兵衛」として時々演じました。

四万六千日さま   【RIZAP COOK】

浅草の観世音菩薩の縁日で、旧暦7月10日にあたります。現在の8月なかば、もちろん猛暑のさ中です。

この日にお参りすれば、四万六千日(約128年)毎日参詣したのと同じご利益が得られるという便利な日です。なぜ四万六千日なのかは分かりません。

この噺の当日を四万六千日に設定したのは明治の三代目柳家小さんといわれます。

「お初徳兵衛浮名桟橋」のあらすじ   【RIZAP COOK】

(上)勘当された若旦那・徳兵衛は船頭になり、幼なじみの芸者お初を送る途中、夕立に会ったのがきっかけで関係を結ぶ。

(中)ところが、お初に横恋慕する油屋九兵衛の策謀で、徳兵衛とお初は心中に追い込まれる。

(下)二人は死に切れず、船頭の親方のとりなしで徳兵衛の勘当もとけ、晴れて二人は夫婦に。

竹屋のおじさん   【RIZAP COOK】

客を乗せて船出した後、徳三郎が「竹屋のおじさあん、今からお客を 大桟橋まで送ってきますゥッ」と橋上の人物に呼びかけ、このおじさんなる人が、「徳さんひとりかいッ?大丈夫かいッ?」と悲痛に絶叫して、舟中の旦那衆をふるえあがらせるのが、「船徳」の有名なギャグです。

「竹屋」は、今戸橋の橋詰、向島に渡す「竹屋の渡し」の山谷堀側にあった、同名の有名船宿を指すと思われます。

端唄「夕立や」に「堀の船宿、竹屋の人と呼子鳥」という文句があります。

渡船場に立って、「竹屋の人ッ」と呼ぶと、船宿から船頭が艪を漕いでくるという、夏の江戸情緒にあふれた光景です。

噺の場面も、多分この唄からヒントを得たものでしょう。

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【船徳 古今亭志ん朝】

いのこりさへいじ【居残り佐平次】演目

映画『幕末太陽傳』元ネタ。痛快な廓噺。佐平治とも記し嫌がられ役の代名詞。

あらすじ

仲間が集まり、今夜は品川遊廓で大見世遊びをして散在しようということになったが、みんな金がない。

そこで一座の兄貴分の佐平次が、俺に任せろと胸をたたく。

大見世では一晩十五円はかかるが、のみ放題食い放題で一円で済まそうという。

一同半信半疑だが、ともかく繰り込んだのが「土蔵相模」という有名な見世。

その晩は芸者総揚げで乱痴気騒ぎ。

さて寝る段になると、佐平次は仲間を集めて割り前をもらい、この金をお袋に届けてほしい、と頼んだ。

一同驚いて、「兄貴はどうするんだ」と聞くと、「どうせ胸を患っていて、医者にも転地療養を勧められている矢先当分品川でのんびりするつもりなので、おまえたちは朝立ちして先に帰ってくれ」と言う。

翌朝若い衆が勘定を取りに来ると、佐平次、早速舌先三寸で煙にまき始める。

まとめて払うからと言いくるめ、夕方まで酒を追加注文してのみ通し。

心配になってまた催促すると、帰った四人が夜、裏を返しにきて、そろって二日連続で騒ぐから、きれいに明朝に精算すると言う。

いっこうに仲間など現れないから、三日目の朝またせっつくと、しゃあしゃあと「金はねえ」。

帳場はパニックになるが、当人少しも騒がず、蒲団部屋に籠城して居残りを決め込む。

だけでなく、夜になり見世が忙しくなると、お運びから客の取り持ちまで、チョコマカ手伝いだした。

無銭飲食の分働くというのだから、文句も言えない。

器用で弁が立ち、巧みに客を世辞で丸めていい気持ちにさせた上、幇間(たいこもち)顔負けの座敷芸まで披露するのだから、たちまちどの部屋からも「居残りはまだか」と引っ張りだこ。

面白くないのが他の若い衆で、「あんな奴がいたんでは飯の食い上げだからたたき出せ」と主人に直談判する。

だんなも放ってはおけず、佐平次を呼び、勘定は待つからひとまず帰れと言う。

ところがこの男、自分は悪事に悪事を重ね、お上に捕まると、三尺高い木の空でドテッ腹に風穴が開くから、もう少しかくまっててくれととんでもないことを言いだし、だんなは仰天。

金三十両に上等の着物までやった上、ようやく厄介払いしたが、それでも心配で、あいつが見世のそばで捕まっては大変と、若い衆に跡をつけさせると、佐平次は鼻唄まじり。

驚いて問いただすと居直って、「おれは居残り商売の佐平次てんだ、よく覚えておけ」と捨てぜりふ。

聞いただんな、
「ひでえ奴だ。あたしをおこわにかけた」
「へえ、あなたのおツムがごま塩です」

底本:五代目古今亭志ん生

しりたい

居残り  【RIZAP COOK】

居残りは遊興費に足が出て、一人が人質として残ることですが、そんな商売はありません。ところで、「佐平次」も元々は普通名詞だったのです。古くから芸界で「図々しい人間」を意味する隠語でした。

品川遊郭  【RIZAP COOK】

いわゆる四宿(ししゅく=品川、新宿、千住、板橋)の筆頭。吉原のように公許の遊廓ではないものの、海の近くで魚はうまいし、佐平次が噺の中で言うように、結核患者の転地療養に最適の地でした。

おこわ  【RIZAP COOK】

オチの「おこわにかける」は古い江戸ことばで、すでに明治末年には死後になっていたでしょう。

語源は「おおこわい」で、人を陥れる意味でした。

それを赤飯のおこわと掛けたものですが、もちろん今では通じないため、立川談志が「あんな奴にウラを返されたら、後が恐い」とするなど、各師匠が工夫しています。

昔から多くの名人・上手が手がけましたが、戦後ではやはり六代目円生のものだったでしょう。

【RIZAP COOK】

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【居残り佐平次 古今亭志ん朝】

人生変えた、すごい落語3選 

落語で学んだことは「人生なんでもあり」。もののとらえ方は画一ではない、ということ。いろんな見方があるからおもしろい。こんなんでいいんだぁ。いいわけない! なんだか、生き方が気楽になりました。目からウロコ、珠玉の3席です。

黄金餅   【RIZAP COOK】

願人坊主の西念が危篤に。餅に金つぶをつぎつぎくるみ呑み込んで絶命。そのようすを隣の壁から覗いていた金兵衛は西念の葬式を引き受けた。下谷山崎町から麻布絶口まで葬いの道行き。焼き場で腹のあたりの生焼けを頼んで……。

後生鰻   【RIZAP COOK】

参詣途中のご隠居、川沿いの鰻屋が割こうとする鰻を買い取って川に放流した。「いい功徳」。それが連日で鰻屋は大儲け。魚も尽きたある日。ご隠居が通りかかる。魚はない。慌てた鰻屋は家の赤ん坊をまな板に……。

千両みかん   【RIZAP COOK】

お暑いさかり。若旦那がみかん食べたいと言い出す。番頭は方々回った果て、問屋に残った一個を探し当てた。お値段は? 千両! 大旦那は「買ってこい」。番頭が手にしたみかん。一房百両の勘定だ。みかん握った番頭は……。

【RIZAP COOK】

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まちわり【町割】ことば 江戸覗き

なぜ江戸なのか   【RIZAP COOK】

徳川家康が拠点として江戸を選んだのはなぜでしょう。

江戸湾に面しているのと、背後に武蔵野台地が入り江間際までつながっているから。江戸は、じつは天然の要害だったのですね。

品川などの江戸の港は江戸湾の奥にあるので、海は荒れずに天然の良港でした。品川は中世から太平洋側の中継港として栄えました。

台地を防壁とすれば、低地には街道を配していました。都市としては十分の機能を用意できていたのですね。

海と台地。この二点こそ、家康が江戸を選んだ決め手だったのですね。

江戸も碁盤目状   【RIZAP COOK】

江戸にも碁盤目状の都市区画はありました。京都と異なるのは、全体一律に碁盤目にするのではなく、地形や地域に合わせての碁盤目だったので、江戸全体を俯瞰すると、なんだかいびつでゆがんだ都市のように見えるのです。

たとえば、日本橋では、北側と南側では碁盤目が四十五度ずれているそうです。たしかに、大通りは一直線ではありません。南端で大きく曲がっていますね。

町人地の町割   【RIZAP COOK】

日本橋の北側では本町通り、南側では通町通りを軸として、京間60間(118m)の内法制を基本に、碁盤目状の町割がつくられていきました。

表通り、裏通り、横丁に囲まれた京間60間の正方形の街区を、京間20間(約39m)ずつに三分割して、周りに町屋敷を建てて、中央に会所地を置くのです。会所地とはみんなが共同で使える土地です。

当初の会所地は、宅地造成で生じた土の置き場やごみ捨て場、排水の溜め池などに使われていましたが、17世紀半ばには新道が通されて、使い勝手がよくなっていきました。

後になってからできた道、これが新道です。新道というのは、このような流れの中から生まれたものでした。

両側町   【RIZAP COOK】

江戸の都市計画は京都がモデルでした。通りを挟んだ家々が結束するのは生活感覚によく合ったものでしょう。

通りを中心に構成された町を両側町と呼びます。表通りや裏通りに面した京間60間と横町に面した京間20間の町が生まれていきました。

江戸も京間   【RIZAP COOK】

京間の1間は6尺5寸(197cm)です。京間では、8畳で4寸(12cm)角とすると、畳の大きさは6尺3寸×3尺1寸5分となります。

江戸で京間が用いられたのは、町割の担当者が中井正清だったことと関係していたといわれます。

中井は法隆寺村出身の御大工で、開幕当時の幕府の建物のほとんどを受け持っていました。家康に重用された建築家だったのです。

家康の後には、京に移って中井役所をつくりました。これは、畿内近江六か国の大工や左官たちの建築工事を差配する役所となりました。

庇の効用   【RIZAP COOK】

庇は、江戸の町家の特徴のひとつでした。二階建ての町家の一階部分を道にせり出させて、アーケードのような連続した道としたのです。雪国の雁木のようなものです。

明暦3年(1657)の大火後に出された町触では、どうなっているのか。本町通りと通町通りについては私有地である屋敷地と公儀地に属する道からそれぞれ半間出しあって、一間幅の庇下通道を連続してつくることが定められました。

参考文献:波多野純『復原・江戸の町』(筑摩書房、1998年)、小澤弘、丸山伸彦編『江戸図屏風をよむ』(河出書房新社、1993年)、加藤貴編『江戸を知る事典(東京堂出版、2004年)、大濱徹也、吉原健一郎編『江戸東京年表』(小学館、1993年)、『新装普及版 江戸文学地名辞典』(東京堂出版、1997年)

【語の読みと注】
内法制 うちのりせい:畳割
畳割 たたみわり
新道 じんみち

【RIZAP COOK】

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めぐろのさんま【目黒のさんま】演目

おなじみのお噺ですが、ここでは少々古い型を紹介します。

あらすじ】

雲州松江十八万石の第八代城主、松平出羽守斉恒(なりつね)は月潭(げったん)公とも呼ばれ、文武両道に秀でた名君だけあり、在府中は馬の遠乗りを欠かさない。

ある日、早朝から、目黒不動尊参詣を名目に、二十騎ほどを供に従え、赤坂御門内の上屋敷から目黒まで早駆けした。

参詣を終えたが、昼時には間があるので、あちらこちらと散歩。

いつしか目黒不動の地内を出て、上目黒辺の景色のいい田舎道にかかった時、殿さま、戦場の訓練に息の続くまで駆け、自分を追い抜いた者は褒美を取らすと宣言。

自分から走り出したので、家来どもも慌てて後を追いかける。

ところが、腰に大小と馬杓を差したままだから、なかなかスピードが上がらない。

結局、ついて来れたのは三人だけ。

雲州公、松の切り株に腰を下ろして一息つき、遅れて着いた者に小言を言ううち、にわかに腹がグウと鳴った。

陽射しを見ると、もう八ツ(午後二時)過ぎらしい。

その時、近くの農家で焼いているサンマの匂いがプーンと漂ってきた。

殿さまのこと、下魚のサンマなどは見たこともない。

家来に、「あれは何の匂いじゃ」とご下問になる。

「おそれながら、下様でさんまと申し、丈は一尺ほどで、細く光る魚でございます。近所の農家で焼いておると存じます」
「うむ、しからば、それを求めてまいれ」
「それは相かないません。下様の下人どもが食します魚、俗に下魚と称しますもの。高位の君の召し上がるものでは」
「そのほうは、治にいて乱を忘れずの心がけがない。もし戦場で敗走し、何も食うものがないとき、下様のものとて食わずに餓死するか。大名も下々も同じ人。下々が食するものを大名が食せんということはない。求めてまいれ」

家来はしかたなく、匂いを頼りに探しに行くと、あばら家で農民の爺さんが五、六本串に刺して焼いている。

これこれで、高貴なお方が食したいとの仰せだから、譲ってくれと頼むと、爺さん、たちまち機嫌が悪くなり、「人にものを頼むのに笠をかぶったまま突っ立っているのは、礼儀を知らないニセ侍だから、そんな者に意地でもやれねえ」と突っぱねる。

殿さまが名君だけに分別のわかった侍だから、改めて無礼を詫び、やっと譲ってもらって御前へ。

松江公、空腹だからうまいのうまくないの。

これ以来病み付きになり、屋敷内に四六時中もうもうと煙が立ち込めるありさま。

しまいには江戸中のさんまを買い上げた。

それでは飽き足らず、朋輩の諸大名に、事あるごとにさんまの講釈を並べ立てるから、面白くないのは黒田候。

負けじと各地の網元に手をまわして買いあさったが、重臣どもが「このように脂の多いものを差し上げては」と余計な気をまわし、塩気と脂を残らず抜いて調理させたから、パサパサでまずいことこの上ない。

怒った黒田候、江戸城で雲州公をつかまえ、あんなまずいものはないと文句を言う。

「して貴殿、いずれからお取り寄せになりました」
「家来に申しつけ、房州の網元から」
「ああ、房州だからまずい。さんまは目黒に限る」

しりたい

元サムライの殿さまばなし   【RIZAP COOK】

古くからよく知られた噺です。

「サンマは目黒に限る」というオチは、落語をご存知ない方でも、一度は耳にされたことがおありでは? もちろん、現在でも前座から大看板まで、頻繁に口演されます。

今回は、明治中期まで活躍した二代目柳家(禽語楼)小さん(1850-98)の、明治24年(1891)の速記を元にあらすじを構成しました。

小さんは延岡の内藤藩士という、れっきとしたサムライでした。

それだけに、「目黒のさんま」を始め、「将棋の殿様」「そばの殿様」など殿様ばなしなら、右に出る者はいなかったとか。

この噺も、小さんが原型を作ったと言ってよく、大筋の演出は現行とそうは違いません。

ただ、オチで小さんが「房州の網元から」としているのを、現在では「日本橋の魚河岸」となるなど、細部はかなり変わっています。

殿さまの正体   【RIZAP COOK】

演者によってもっとも大きく分かれるのが、殿様のモデルです。

二代目小さんのように雲州公とする場合と、三代将軍・家光公とする場合があります。

たとえば、八代目林家正蔵(彦六)は家光公で演じ、六代目三遊亭円生や、門下の現円楽は殿様を特定していません。

目黒一帯は将軍家のお狩場だったところで、家光公が鷹狩りの途中、偶然立ち寄ってサンマを食し、たいへん気に入ったという伝説があります。

雲州公で演ずる場合、二代目小さんは第八代松江藩主・松平斉恒としていますが、以後は現在まで、その父で茶人・食通として名高く、出雲にそばを移植したので有名な、不昧公・治郷(はるさと、1751-1818)とされています。

演出によっては、家来が爺さんともめているところへ、殿さまがニコニコして現れ、「許せよ」と丁重に頼むので、爺さんが機嫌を直すやり方もあります。

もっとも、これは「ただの殿さま」の雲州公だからよいので、将軍家が来てこんなにゴネればハリツケものでしょう。

目黒不動とサンマのこと   【RIZAP COOK】

「目黒のお不動さま」は、現在の東京都目黒区下目黒三丁目の瀧泉寺境内にあります。江戸の五色不動の一つで、境内では富くじの抽選が催され、湯島天神、谷中天満宮とともに江戸三大突き富といわれました。

この噺の爺さんがいた「爺が茶屋」がどこにあったのかは、諸説あって不明です。

サンマはその短刀に似た形から、通称九寸五分。江戸に入荷するのは、九十九里沖で獲れたものがほとんどでした。輸送の関係で生のものはなかなか出回らず、干物で売られることが多かったのです。

この噺でも、重臣たちが心配するように脂が多いものなので、労働量の多い農民や、町人でも、馬喰などの肉体労働者に好まれました。

「また築山を見ようか」   【RIZAP COOK】

以下は榎本滋民の『殺し文句の研究』から。

十代目金原亭馬生が好演した「目黒のさんま」をはじめとして、落語に登場する殿さまは、わがままで下情に暗く苦労知らずと、相場はきまっているが、単純に偏向した戯画化ばかりではないのが、さすがにエスプリのきいた話芸である。最高級魚の鯛など、食べあきていて、ひと箸ほどしかつけないから、勝手元不如意の節、不経済な残りを出さないように、御膳番は仕入れを少なくしている。ところが、たまには御意に召すことがあり、ひと箸つけただけで、「代わりをもて」と命じる。そんなときに限って、あいにく一匹の余分もない。近習がさそくの機転で、築山の美景の鑑賞を促し、殿さまが目をやったすきに、皿の鯛を裏返して、お代わりをと言上する。またひと箸つけた殿さま、さらに御意に召してか、また「代わりをもて」。さあ、もうあとがない。近習が苦悶していると、殿さまは涼やかに、「いかがいたした。また築山を見ようか」。ちゃんと下情をお見通しだったのである。ときには、知らないふりをしなければならないのも、統率者のたしなみの一つだし、部下の手抜きの指摘に当たっては、微笑をたたえたおうようさが好もしい。

榎本滋民『殺し文句の研究 PARTⅡ』(読売新聞社、1987年)から

これは、志ん生の長男、馬生のエスプリでした。さすがですなあ。

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かえんだいこ【火焔太鼓】演目

道具屋の噺。古い太鼓がお大名に三百両で売れた。夫婦はびっくりにんまり。

あらすじ

道具屋の甚兵衛は、女房と少し頭の弱い甥の定吉の三人暮らしだが、お人好しで気が小さいので、商売はまるでダメ。

おまけに恐妻家で、しっかり者のかみさんに、毎日尻をたたかれ通し。

今日もかみさんに、市で汚い太鼓を買ってきたというので小言を食っている。

なにせ甚兵衛の仕入れの「実績」が、清盛のしびんだの、清少納言のおまるだの「立派」な代物ばかりだから、かみさんの怒るのも無理はない。

それでも、買ってきちまったものは仕方がないと、定吉にハタキをかけさせてみると、ホコリが出るわ出るわ、出尽くしたら太鼓がなくなってしまいそうなほど。

調子に乗って定吉がドンドコドンドコやると、やたらと大きな音がする。

それを聞きつけたか、赤井御門守(あかいごもんのかみ)の家臣らしい身なりのいい侍が「コレ、太鼓を打ったのはその方の宅か」。

「今、殿さまがお駕籠でお通りになって、太鼓の音がお耳に入り、ぜひ見たいと仰せられるから、すぐに屋敷に持参いたせ」

最初はどんなお咎めがあるかとビビっていた甚兵衛、お買い上げになるらしいとわかってにわかに得意満面。

ところがかみさんに
「ふん。そんな太鼓が売れると思うのかい。こんなに汚いのを持ってってごらん。お大名は気が短いから、『かようなむさいものを持って参った道具屋。当分帰すな』てんで、庭の松の木へでも縛られちゃうよ」
と脅かされ、どうせそんな太鼓はほかに売れっこないんだから、元値の一分で押しつけてこいと家を追い出される。

さすがに心配になった甚兵衛、震えながらお屋敷に着くと、さっきの侍が出てきて
「太鼓を殿にお目にかけるから、暫時そこで控えておれ」

今にも侍が出てきて「かようなむさい太鼓を」ときたら、風のようにさっと逃げだそうと、びくびくしながら身構えていると、意外や意外、殿様がえらくお気に召して、三百両の値がついた。

聞けば「あれは火焔太鼓といい、国宝級の品」というからまたびっくり。

甚兵衛感激のあまり、百五十両まで数えると泣きだしてしまう。

興奮して家に飛んで帰ると、さっそく、かみさんに五十両ずつたたきつける。

「それ二百五十両だ」
「あァらま、お前さん商売がうまい」
「うそつきゃあがれ、こんちくしょうめ。それ、三百両だ」
「あァら、ちょいと水一ぱい」
「ざまあみゃあがれ。オレもそこで水をのんだ」
「まあ、おまえさん、たいへんに儲かるねェ」
「うん、音のするもんに限ラァ。おらァこんだ半鐘(はんしょう)を買ってくる」
「半鐘? いけないよ。おジャンになるから」

底本:五代目古今亭志ん生

しりたい

おジャン  【RIZAP COOK】

オチの「おジャン」は江戸ことばで「フイになる」こと。江戸名物の火事の際、鎮火するとゆるく「ジャン、ジャン」と二度打って知らせたことから、「終わり」の意味がついたものです。

戦後この噺を専売にしていた五代目古今亭志ん生が前座時分、神田の白梅で聞き覚えた初代三遊亭遊三の演出では、実際に半鐘を買ってしまい、小僧に叩かせたので、近所の者が店に乱入、道具はメチャメチャで儲けが本当におジャンという「悲劇」に終わっています。

この噺は随所にギャグ満載で、「本物の火焔太鼓は高さ3mを超える化け太鼓だから、とても持ち運びなどできない」という真っ当な批判など、鼻で吹き飛ばすようなおもしろさがあります。

実際、長男の先代馬生がそのことを言うと、志ん生は「だからてめえの噺はダメなんだ!」としかったといいます。

二男の志ん朝は、甚兵衛の人間描写・心理も掘り下げ、軽快さと登場人物の存在感では親父まさりの「火焔太鼓」に仕上げて、後世に残しました。

火焔太鼓の急所  【RIZAP COOK】

最後の、甚兵衛がこれでもかと金をたたきつけ、神さんが逆にひっくり返るところがクライマックスでしょう。

志ん生独自の掛け合いのおもしろさ。「それ百両だ」「あーら、ちょいと」「それ百五十両だ」「あーら、ま」

畳み掛けるイキは無類。志ん朝だと序幕でかみさんの横暴ぶりを十分に強調してありますから、この場は、何年も耐えに耐えてきた甚兵衛のうっぷんが一気に爆発するようなカタルシスがあります。

火焔太鼓のこばなし  【RIZAP COOK】

まだまだ無数にあります。まずは一度聞いてみてください。

その1

(太兵衛=甚兵衛)「金は、フンドシにくるんで」

(侍)「天下の通用金を褌にくるむやつがあるか」

(太)「どっちも金です」

                        (遊三)

その2

(甚兵衛)「この目を見なさい。馬鹿な目でしょう。これはバカメといって、おつけの実にしかならない」


(志ん生)

その3

(甚兵衛)「顔をごらんなさい。ばかな顔してるでしょ。あれはバカガオといって、夏ンなると咲いたりなんかすンですよ」


(志ん朝)

その4

(かみさん)「おまいさんはね、人間があんにゃもんにゃなんだから、自分てえものを考えなくちゃいけないよ。血のめぐりが悪いんだから、人間が少し足りないんだからって」

                         (志ん生) 

   
世に二つ  【RIZAP COOK】

実際は、「(せいぜい)世に(一つか)二つ(しかない)という名器」ということですね。志ん生も含め、明治生まれの古い江戸っ子は、コトバの上でも気が短く、ダラダラと説明するのを嫌い、つい表現をはしょってしまうため、現代のわれわれにはよく通じないことが、ままあります。

これを「世に二つとない」と補って解釈することも可能でしょうが、それではいくらなんでも意味が百八十度ひっくり返ってしまうので、やはり前者程度の「解読」が無難でしょう。

もっとしりたい

五代目古今亭志ん生が、神田白梅亭で初代三遊亭遊三のやった「火焔太鼓」を聞いたのは、明治40年(1907)ごろのこと。前座なりたてのころだったらしい。それから約30年後、志ん生はじっくり練り直した「火焔太鼓」を演じる。世評を喝采させて不朽の名作に仕立て上げてしまった。とはいえ、全編にくすぐりをてんこ盛りにした噺にすぎない。噺の大筋は遊三のと変わっていないのだが。海賀変哲は、この噺を「全く以ってくだらないお笑いです」と評している。遊三の専売だったそうだ。遊三のは、太鼓でもうけたあとに半鐘を買ってきて小僧がジャンジャン鳴らしたら、近所の人が火事と間違えて店に乱入。飾ってあった道具はめちゃくちゃに。「ドンと占めた太鼓のもうけが半鐘でおジャンになった」というオチになっている。五代目桂文楽は、火事のくだりで、懐からおもちゃのまといを取り出して振るという所作をしていたそうだ。大正のころのこと。うーん、こんな芸で受けたのだろうか。志ん生のは、金を差し出してかみさんを驚き喜ばせるくだりで笑いがピークに達したところで、すーっと落とす筋の運び。見事に洗練されている。遊三のでは、甚兵衛ではなく銀座の太兵衛だ。お殿さまは赤井御門守、侍は平平平平(ひらたいらへっぺい)。落語世界ではお決まりの面々である。それを、志ん生は甚兵衛以外名なしで通した。おそらく、筋をしっかり聞いてほしいというたくらみからだったのだろう。リアリティーなどどうでもいいのだ、この噺には。火焔太鼓とは、舞楽に使うもの。太鼓の周りが火焔の文様で施されている。一般に、面の直径は6尺3寸(約2m)という。まあ、庶民には縁のなさそうな代物だ。志ん生の長男・金原亭馬生が「火焔太鼓ってのは風呂敷で持っていけるようなものじゃないよ、おとっつぁん」と詰め寄ったという逸話は、既出の手垢のついた話題だ。遊三の「火焔太鼓」でも、太兵衛は風呂敷でお屋敷に持参している。志ん生は遊三をなぞっているわけだから、当然だ。考証や詮索にうつつを抜かしすぎると、野暮になるのが落語というもの。リアリティーを出すために太鼓を大八車に載せては、それこそおジャンだ。この噺の眼目は別のところにあるのだろうから。

古木優

【RIZAP COOK】

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【RIZAP COOK】

はつねのつづみ【初音の鼓】演目 

歌舞伎『義経千本桜』中、有名な「狐忠信」のパロディー です。

別題:ぽんこん

【あらすじ】

骨董好きの殿さまのところに、出入りの道具屋・金兵衛が怪しげな鼓を売り込みに来る。

側用人の三太夫に、これは下駄の歯入れ屋のじいさんが雨乞いに使っていた鼓で、通称「初音の鼓」という。

「じいさんが今度娘夫婦に引き取られて廃業するので形見にもらった」と説明。

これを殿さまに百両でお買い上げ願いたいと言うから、三太夫はあきれた。

なにしろこの金兵衛、先日も真っ黒けの天ぷら屋の看板を、慶長ごろの額と称して、三十両で売りつけた「実績」の持ち主。

金兵衛、殿さまの身になれば、「狐忠信」の芝居で名高い「初音の鼓」が百両で手に入れば安いもので、一度買って蔵にしまってしまえば、生涯本物で通ると平然。

「もし殿が、本物の証拠があるかと言われたら、どうする」
「この鼓を殿さまがお調べになりますと、その音を慕って狐がお側の方に必ず乗り移り、泣き声を発します、とこう申し上げます」
「乗り移るかい」
「殿さまがそこでポンとやったら、あなたがコンと鳴きゃ造作もないことで」

三太夫、
「仮にも武士に狐の鳴きまねをさせようとは」
と怒ったが、結局、一鳴き一両で買収工作がまとまる。

殿さまポンの三太夫コンで一両。

ポンポンのコンコンで二両、というわけ。

早速、金兵衛を御前に召し連れる。

話を聞いた殿さまが鼓を手にとって「ポン」とたたくと、側で三太夫が「コン」。

「これこれ、そちはただ今こんと申したが、いかがいたした」
「はあ、前後忘却を致しまして、いっこうにわきまえません」

「ポンポン」
「コンコン」
「また鳴いたぞ」
「前後忘却つかまつりまして、いっこうに」
「ポンポンポン」
「コンコンコン」
「ポンポン」
「コンコンコンコン」
「これ、鼓はとうにやめておる」
「はずみがつきました」

「次の間で休息せよ」
というので、二人が対策会議。

いくつ鳴いたか忘れたので、結局、折半の五十両ずつに決めたが、三太夫、鳴き疲れて眠ってしまい、ゆすっても起きない。

そこへ殿さまのお呼び出し。

一人で御前へ通ると、殿さまが
「今度はそちが調べてみい」

さあ困ったが、今さらどうしようもない。

どうなるものかと金兵衛が「ポン」とたたくと、殿さまが「コン」。

「殿さま、ただ今お鳴きに」
「何であるか、前後忘却して覚えがない」
「ありがとうさまで。ポンポンポン、スコポンポン」
「コンコンコン、スココンコン」
「ポンポン」
「コンコン……。ああ、もうよい。本物に相違ない。金子をとらすぞ」

「へい、ありがとうさまで」

金包みを手に取ると、えらく軽い。

「心配するな。三太夫の五十両と、今、身が鳴いたのをさっ引いてある」

底本:六代目三遊亭円生

【しりたい】

歌舞伎のパロディー 【RIZAP COOK】

古風な噺で、歌舞伎や文楽のファンにはなじみ深い『義経千本桜』の「狐忠信」のくだりのパロディーです。「初音の鼓」はその前の場「吉野山」で、落ち行く義経が愛妾の静御前に形見に与える狐革の鼓をさします。

義経は、逃避行に足手まといとなるだろうろ、静御前を吉野の山中に置き去りにします。その際、初音の銘のある鼓を形見の品として静に与えました。紫檀の胴に羊の皮を張った中国渡来の名器です。とは、『義経記』に載っています。

狐忠信とのかかわり   【RIZAP COOK】

『義経記』記載から転じて『義経千本桜』では、鼠退治に功労あった狐の皮でつくったその鼓を、親への愛惜の情を抱く子狐が、義経の忠臣、佐藤忠信に化けて静(初音の鼓を所持している)を守りながらにお供をするという筋立てに変えています。鼓を奪おうとしますが、見破られ、静の打つ鼓の音で正体を現すのです。子狐が涙ながらに述懐するくだりこそ、「狐忠信」の通称で知られる名場面でしょう。

「初音」の意味は、その浄瑠璃の詞章に「狐は陰の獣ゆえ、雲を起こして降る雨の、民百姓が喜びの声を初めてあげしより」に由来します。噺の中で下駄屋の爺さんが雨乞いをしたのは、天気だと皆わらじばかり履き、下駄の歯がすりきれないから。

林家彦六がよく演じましたが、立川談志も持ちネタにしていました。殿さま、金兵衛、三太夫みんな仲良しで、誰もがうそを承知で遊び戯れているような、ほのぼのと捨てがたい味わいが。別話の「継信」も、別題が「初音の鼓」なので、区別してこの噺は「ぽんこん」とも呼ばれています。

さらに猫忠も   【RIZAP COOK】

「初音の鼓」はここまでの筋立てですが、三味線に張った皮の猫の子と変えたのが「猫の忠信」(猫忠)となります。酒を「ただ飲む」猫の忠信、駿河屋の次郎吉で駿河次郎、亀屋の六兵衛で亀井六兵衛、弁慶橋に住む吉野屋の常兄いで義経、常磐津文字静で静御前というふうに、登場人物も「義経記」や「義経千本桜」に沿ってあります。

猫忠

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【初音の鼓 三遊亭円生】

ひけしやしき【火消屋敷】ことば 江戸覗き

この項では、武家地を対象とした火消の組織について記します。武家から町人へ。消防の軸足は次第に移っていったことがわかります。

江戸の防火   【RIZAP COOK】

防火対策は江戸の諸政策の要でした。明暦3年(1657)の大火、いわゆる「明暦大火」の後には、大名屋敷の移転、火除け土手や火除け空き地の設置、隅田川東岸の本所や向島の開発など、大江戸を見据えた防火対策が図られていきました。

18世紀初頭の享保改革では、土蔵造り、塗屋造り、瓦葺きによる「燃えない町家」が進められました。それでも、火事はやまず、大きな対策にはなりませんでした。

大名火消   【RIZAP COOK】

消防組織は初期の頃から始まっています。寛永16年(1639)、紅葉山霊廟の火消が生まれました。その後、要所要所だけを守る火消が生まれていきました。江戸城の各所、幕府とかかわり深い寺院、隅田川の架橋などが対象となりました。

寛永20年(1643)には、6万石以下の大名16家を4隊に分けて、10日交代で消防に当たらせる大名火消が設置されました。明暦大火後には、桜田、山手、下谷の3隊に分けた方角火消も生まれました。これも大名火消の中の組織です。

定火消   【RIZAP COOK】

明暦大火の翌年、つまり万治元年(1658)には定火消(江戸中定火之番)が生まれました。これは江戸城を主とする建前ながらも、江戸全体、つまり都市防災を視野に入れた本格的な消防組織でした。

4人の旗本に役宅を与えました。これが火消屋敷と呼ばれたものです。おのおのの役屋敷には造営費銀100貫を与えて整備させました。役宅にはそれぞれ与力6騎、同心30人が付きました。火消人足、つまり臥煙を抱える経費として300人扶持が与えられ、消防器具も与えられました。臥煙は「火事息子」でおなじみですね。目塗りです。

火消屋敷の配置と変遷   【RIZAP COOK】

火消屋敷は、万治元年(1658)には、御茶の水、飯田町、半蔵門外、伝通院前に置かれました。翌2年(1659)には、半蔵口、駿河台、3年(1660)には、代官町に置かれていきました。これを見てわかるように、江戸城の北西側に置かれました。冬の北西風による延焼対策こそが江戸城を守る最優先と考えたようです。

ただし、万治3年(1660)には八代洲河岸を手始めに、元禄8年(1695)には溜池の上、幸橋門外、日本橋浜町にも置かれていきました。つまり、江戸城から江戸全体へと視点を変えていったのです。

とはいえ、日本橋浜町の火消屋敷はその後、宝永元年(1704)に廃止されました。10年とありませんでした。幸橋門外の火消屋敷も、宝永7年(1711)には木挽町に移り、享保9年(1724)には表六番町に移転しました。理由は、幕府の財政難によるものとされています。八王子千人同心に不足分を負わせましたが、これもまもなく廃されました。この頃には町火消が整い出して、武家中心の消防から町人中心の消防へ軸足が移っていったのです。

火消屋敷の機能   【RIZAP COOK】

定火消を勤める旗本は役宅の火消屋敷に、家族で居住しました。たとえば、こんな具合です。八代洲河岸の火消屋敷の例。

敷地には、火消屋敷を中心に取り囲むようにさまざまな建物がありました。北側には与力の組屋敷、役中間部屋、道具置所、長屋、厩などが並び、反対側には同心長屋があります。

臥煙は役中間部屋にいました。よく言われるのは、太い丸太ん棒を枕に寝ていて、いざ火事となると、不寝番が丸太の端っこを木槌叩いて起こしたということ。火消屋敷には火之見櫓が建っており、江戸市中の住所の目安にもなっていました。

参考文献:黒木喬『明暦の大火』(講談社現代新書、1977年)、波多野純『江戸城2』(至文堂、1999年)、黒木喬『江戸の火事』(同成社、1999年)、加藤貴編『江戸を知る事典(東京堂出版、2004年)、大濱徹也、吉原健一郎編『江戸東京年表』(小学館、1993年)、『新装普及版 江戸文学地名辞典』(東京堂出版、1997年)

【語の読みと注】
塗屋造り ぬりやづくり
瓦葺き かわらぶき
江戸中定火之番 えどじゅうじょうひのばん
八代洲河岸 やよすかし
目塗り めぬり:火事の際、蔵などに火が入らないように戸などの合わせ目を粘土で塗ってふさぐこと。

町火消 火事息子

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こがねもち【黄金餅】演目

円朝作。逝った西念を弔うため下谷から麻布、桐ヶ谷まで。異色の長屋噺。

あらすじ

下谷山崎町の裏長屋に住む、金山寺味噌売りの金兵衛。

このところ、隣の願人坊主西念の具合がよくないので、毎日、なにくれとなく世話を焼いている。

西念は身寄りもない老人だが、相当の小金をため込んでいるという噂だ。

だが、一文でも出すなら死んだ方がましというありさまで、医者にも行かず薬も買わない。

ある日、
「あんころ餠が食べたい」
と西念が言うので、買ってきてやると、
「一人で食べたいから帰ってくれ」
と言う。

代金を出したのは金兵衛なので、むかっ腹が立つのを抑えて、「どんなことをしやがるのか」と壁の穴から隣をこっそりのぞくと、西念、何と一つ一つ餡を取り、餠の中に汚い胴巻きから出した、小粒で合わせて六、七十両程の金をありたけ包むと、そいつを残らず食ってしまう。

そのうち、急に苦しみ出し、そのまま、あえなく昇天。

「こいつ、金に気が残って死に切れないので地獄まで持って行きやがった」
と舌打ちした金兵衛。

「待てよ、まだ金はこの世にある。腹ん中だ。何とか引っ張りだしてそっくり俺が」
と欲心を起こし、
「そうだ、焼き場でこんがり焼けたところをゴボウ抜きに取ろう」
とうまいことを考えつく。

長屋の連中をかり集めて、にわか弔いを仕立てた金兵衛。

「西念には身寄りがないので自分の寺に葬ってやるから」
と言いつくろい、その夜のうちに十人ほどで早桶に見立てた菜漬けの樽を担いで、麻布絶口釜無村のボロ寺・木蓮寺までやってくる。

そこの和尚は金兵衛と懇意だが、ぐうたらで、今夜もへべれけになっている。

百か日仕切りまで天保銭五枚で手を打って、和尚は怪しげなお経をあげる。

「金魚金魚、みィ金魚はァなの金魚いい金魚中の金魚セコ金魚あァとの金魚出目金魚。虎が泣く虎が泣く、虎が泣いては大変だ……犬の子がァ、チーン。なんじ元来ヒョットコのごとし君と別れて松原行けば松の露やら涙やら。アジャラカナトセノキュウライス、テケレッツノパ」

なにを言ってるんだか、わからない。

金兵衛は長屋の衆を体よく追い払い、寺の台所にあった鰺切り包丁の錆びたのを腰に差し、桐ケ谷の焼き場まで早桶を背負ってやってきた。

火葬人に
「ホトケの遺言だからナマ焼けにしてくれ」
と妙な注文。

朝方焼け終わると、用意の鰺切りで腹のあたりりをグサグサ。

案の定、山吹色のがバラバラと出たから、「しめた」とばかり、残らずたもとに入れ、さっさと逃げ出す。

「おい、コツはどうする」
「犬にやっちめえ」
「焼き賃置いてけ」
「焼き賃もクソもあるか。ドロボー!」

この金で目黒に所帯を持ち、餠屋を開き繁盛したという「悪銭身につく」お話。

底本:五代目古今亭志ん生

しりたい

不思議な黄金餅  【RIZAP COOK】

下谷山崎町は江戸有数のスラム。当時は三大貧民窟のひとつでした。現在の台東区東上野4丁目、首都高速1号線直下のあたりです。そこは底辺の人々が闇にうごめくといわれた場所でした。どれほどのものかは、いまではよくわかりませんが。

金をのみ込んでもだえ死ぬ西念は願人坊主という職業の人。僧形なんですが、身分は物ごい。立川談志の演出では、長屋の月番は猫の皮むきに犬殺しのコンビ。

そんな連中が、深夜、西念の屍骸を担ぎ、富裕な支配階級の寝静まる大通りを堂々と押し通るわけ。目指すは、架空の荒れ寺・木蓮寺。港区南麻布2丁目辺でしょうか。

付近には麻布絶口の名の起こり、円覚禅師絶江が開いたといわれる曹渓寺があります。

しかし、一行を待つのは怪しげな経を読むのんだくれ和尚、隠亡(おんぼう)と呼ばれた死体焼却人。

加えて、死骸を生焼けにして小粒金を抉り出す凄惨なはずの描写。

それでいて薄情にも爆笑してしまうのは、彼らのしたたかな負のエネルギー、なまじの偽善的な差別批判など屁で吹っ飛ばす強靭さに、かえって奇怪な開放感を覚えるためではないでしょうか。

いやいや、志ん生の話し方が理屈なんかすっ飛ばしてただおかしいから、笑っちゃうのですね。金は天下の回り物だわえ、てか。

ついでに、志ん生の道行きの言い立てを。

わァわァわァわァいいながら、下谷の山崎町を出まして、あれから、上野の山下ィ出まして、三枚橋から広小路ィ出まして、御成街道から五軒町ィ出まして、その頃、堀さまと鳥居さまというお屋敷の前をまっすぐに、筋かい御門から大通りィ出て、神田の須田町ィ出まして、須田町から新石町、鍛冶町から今川橋から本銀町、石町から本町ィ出まして室町から、日本橋をわたりまして、通四丁目、中橋から、南伝馬町ィ出まして京橋をわたってまっつぐに、新橋を、ェェ、右に切れまして、土橋から、あたらし橋の通りをまっすぐに、愛宕下ィ出まして、天徳寺を抜けて神谷町から飯倉六丁目へ出た。坂を上がって飯倉片町、その頃おかめ団子という団子屋の前をまっすぐに、麻布の永坂をおりまして、十番へ出て、大黒坂を上がって、麻布絶口釜無村の木蓮寺ィ来たときには、ずいぶんみんなくたびれた……。そういうわたしもくたびれた。

ああ、写したあたしもくたびれた。

【RIZAP COOK】

もっとしりたい】

円朝作といわれる原型ではこの噺にはオチがない。噺にはオチのあるものとないものとがある。オチのある噺を落語といって、オチのないものは人情噺や怪談噺などと呼んでいるが、これはどっちだろう。そんなことは評論家のお仕事。楽しむほうにはどっちでもいい。

五代目古今亭志ん生のが有名だ。二男の志ん朝もやった。志ん朝没後まもく、春風亭小朝が国立劇場で演じてみせた。多少の脚色はうかがえたが、志ん生をなぞる域を出なかった。とても聴いちゃいられなかった。しらけたもんだった。

志ん生は、四代目橘家円喬のを踏襲している。舞台は幕末を想定していたという。全編に漂うすさんだ空気と開き直りの風情は、たしかに幕末かもしれない。

三遊亭円朝が演じたという速記は残っているが、これだと長屋は芝金杉あたりだ。当時は、芝新網町、下谷山崎町、四谷鮫ヶ橋が、江戸の三大貧民窟だったらしい。芝金杉は芝新網町のあたり。円喬という人は落語は名人だったらしいが、人柄はよくなかったようだ。二代目円朝を継ぎたかったのは、円喬と円右だったそうだが、名跡を預かる藤浦家のお眼鏡にはかなわなかった。藤浦はよく見ていたようだ。だからか、円喬の「黄金餅」はその人柄をよくさらしていたように思える。凄惨で陰気で汚らしい。

金兵衛や西念の住む長屋がどれほどすさまじく貧乏であるかを、われわれに伝えているのだが、志ん生の手にかかると、そんなことはどうでもよくなってしまう。山崎町はみんな貧乏だったんだから。円朝のだと、ホトケを芝金杉から麻布まで運ぶので違和感はない。距離にして2キロ程度。志ん生系の「黄金餅」では、下谷から麻布までの道行きを言い立てるのがウリのひとつになっている。これは13kmほどあるから、ホントに運んだらくたびれるだろう。桐ヶ谷は、浅草の橋場、高田の落合と並ぶ火葬場。「麻布の桐ヶ谷」と呼ばれた。火葬場は今もある。

下谷山崎町とは、いまの上野駅と鶯谷駅の間あたり。上野の山(つまり寛永寺)の際にあるのでそんな地名になった。「山崎町=ビンボー」のイメージがあんまり強いので、明治5年(1872)に「万年町」に変わった。中身は変わらずじまいだったから、東京となってからは「万年町=ビンボー」にすりかわっただけ。明治・大正の新聞・雑誌には、万年町のすさんだありさまが描かれているものだ。

円朝は最晩年、病癒えることなくもう逝っちゃいそうな頃、万年町に住んだ。名を替えても貧乏の風景は変わらなかった。ここで死ぬにはいくらなんでも大円朝が、と、弟子や関係者が気を使って、近所の車坂町に引っ越させた。結局、円朝はそこで逝った。万年町とはそのようにはばかられるほどの町だったのだ。

西念の職業は噺では「坊主」となっている。文脈から、これが願人坊主であることは明白だ。願人坊主とは、流しの無資格僧。依頼に応じて代参、代待ち、代垢離するのが本来の職務なのだが、家々を回っては物乞いをした。奇抜な衣装、珍奇な歌や踊りで人の耳目を傾けた。ときに卑猥な所作をも強調した。カッポレや住吉踊りは願人の発明だったらしい。多くは、神田橋本町、芝金杉、下谷山崎町などに住んでいた。

木蓮寺の和尚があげたあやしげなお経は、願人が口ずさむセリフのイメージなのだろう。麻布は江戸の僻地だ。神田、日本橋あたりの人は行きたがらない場所。絶口釜無村とは架空の地名だが、「口が絶える」とか「釜が無い」と貧しさを強調している。たしかに、絶江坂なる地名が今もある。ここらへんにいたとかいう和尚の名前だという。

好事家はこれを鬼の首を取ったかのように重視するが、だからといって、それらの地名が噺とどうかかわるかといえば、どうということもない。「黄金餅」について評論家諸氏は「陰惨を笑わせる」などと言っているが、そんなことよりも「全編、貧乏を笑わせている」噺であることが重要なのだと思う。金兵衛の親切めかした小狡さ、西念の渋ちんぶり、菜漬けの樽を早桶に見立てるさま、木蓮寺の和尚の破戒僧のなりふり、というふうに、この噺は貧乏とでたらめのオンパレード。この噺、そんなすさまじき貧乏すらも忘れて、志ん生の仕掛けたくすぐりで笑っちゃうだけ。それだけでいいのだろう。

古木優

【RIZAP COOK】

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【黄金餅 古今亭志ん生】

まちびけし【町火消】ことば 江戸覗き

江戸市中の消防組織には、武家地旗本屋敷の定火消、武家地大名屋敷の大名火消などがありましたが、この項では町火消について記します。町火消は主に町人地を受け持つ火消です。

成立と変遷  【RIZAP COOK】

町火消とは、都市住民による自営的な消防組織をさします。実際には江戸でのそれをさすことがほとんどです。享保3年(1718)から、江戸の消防制度が一変しました。享保改革の一つです。町人自身による防火・消火体制の組織作り。南町奉行大岡忠相が進めました。享保5年(1720)には隅田川以西を20か町に分けて47組に編成しました。これが町火消で、「いろは四十七組」といわれるものです。語感の悪い「へ」「ひ」「ら」「ん」を避けて、代わりに「百」「千」「万」を入れました。川向こうの本所と深川は16組に分けられました。享保15年(1721)には、47組が一番から十番までの「大組」に大分類されました。このように大岡忠相は、三度にわたって町火消の編成に挑み、完成形に導きました。

火事の際、火元となった組の中で、風下の町は飛び火に備えて自町の防火に対応し、大組の中で風上や風脇の町から火消人足を出火元に派遣させる体制をつくりました。これで、1か町に30人と限定されていた火消人足は15人に減らされてしまいましたが。なんだか、けちくさいのですが、人が動くと金がかかるのですね。

火消人足は最初は住民が務めていたのですが、江戸の消防は破壊消防が主で、総じて素人には無理な作業でした。各町はこういうのが得意な鳶人足を雇うようになっていきました。消防の「傭兵」です。皮肉なもので、建設的作業者が非常時には破壊的作業者に変身しました。

天明7年(1787)以降は町火消といったら鳶人足が主流となりました。それでも、住民が行う初期消火活動の「店火消」も続いていました。ここらへんが江戸の粋なのかもしれません。

活動の範囲  【RIZAP COOK】

享保7年(1722)からは、武家地への消火対象範囲が2町(218m)以内までと定められました。それまでは隣接屋敷に限った消火でよかったのですが、範囲が拡大されたのです。享保17年(1722)には浅草御蔵の防火も義務付けられました。

延享4年(1747)、江戸城二の丸での火災で、大名火消や定火消とともに町火消も城内に入って活動しました。これ以降、天保9年(1838)の西の丸出火、天保15年の本丸出火などでも城内に入って消火に貢献しました。町火消のほまれがいやましたのです。

その実態  【RIZAP COOK】

火消同士の対立や衝突はひんぱんに生じました。破壊消防、家屋を壊すことが仕事だからです。そういう意味では武士と同じです。生産をせず消費(破壊)ばかりが本務なのです。がさつで暴力的で。これを粋とかいさみとかほめそやす江戸の文化もたかが知れた浅底のものだったのかもしれません。

町火消は鳶人足ですから、破壊消防を派手にやれば、後日、自分たちに実入りが来るのはわかりきっています。火事で壊した家屋の跡地に新築を施工するわけですから。破壊と復興を同一人物が受け持つのです。奇妙なからくりです。少し頭をひねると、必要以上に家屋をぶっ壊して、もうけのたねをつくれるようになるのです。日頃祝儀などをくれている富裕の商家の一軒前あたりで鎮火させたりすれば、旦那は礼金をはずんでくれます。商家だけに消火です。かたや、しょっぱい家には「呼び火」や「継ぎ火」で類焼させて半焼も全焼もお手のもの。この局面では鳶人足の独壇場。日頃の鬱憤をはらすのです。こんな心持ちが助長されていくと、屋根瓦を壊して類焼を導いたりもするのです。要は、火事というものはいったん始まるとある程度は火消の意のままに扱えるものだったのです。破壊消防を旨とするからです。ちなみに、「火事息子」の臥煙は町火消とは無縁です。定火消での話となります。

歌川広重『名所江戸百景』より「馬喰町初音の馬場」

参考文献:南和男『幕末都市社会の研究』(塙書房、1999年)、鈴木淳『町火消の近代』(吉川弘文館、1999年)、黒木喬『江戸の火事』(同成社、1999年)、加藤貴編『江戸を知る事典』(東京堂出版、2004年)、深谷克己、須田努編『近世人の事典』(東京堂出版、2014年)、大濱徹也、吉原健一郎編『江戸東京年表』(小学館、1993年)、『新装普及版 江戸文学地名辞典』(東京堂出版、1997年)

【語の読みと注】
店火消 たなびけし
浅草御蔵 あさくさおくら:幕府の米蔵

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ひつけとうぞくあらため【火付盗賊改】ことば 江戸覗き

現代では町奉行よりも有名になった火付盗賊改。池波正太郎の『鬼平犯科帳』シリーズでは「火盗改」とも略されています。この項では、火付盗賊改の実際について記します。落語には出てきませんが、江戸を覗くということでおつきあいください。

江戸の治安  【RIZAP COOK】

町奉行」や「与力、同心」の項目で記したように、江戸の町方は南北の与力、同心を合わせても300人にも満たない数で100万都市の治安と行政を受け持っていたのですから、行き届きませんでした。それを補う警察組織として、放火犯や盗賊団を取り締まる凶悪犯罪専門を受け持つのが火付盗賊改でした。

池波は小説では長谷川平蔵を「長官」と記したりしていますが、こんなことばは当時はあるわけもなく、「おかしら」「かしら」と呼ばれていたことでしょう。旗本から任命される「御先手頭」の中から火付盗賊改を別に任命していたのです。

御先手組  【RIZAP COOK】

若年寄の支配(管轄)に属し、江戸城本丸の各門の警備、将軍が城外出かける際の警固(警護)を任務と「御先手組」の長を「御先手頭」といいました。「先手物頭」とも。このような職務を江戸時代には「御先手」と呼んでいました。わりと小禄の旗本から成っています。この人たちは戦時では歩兵大隊として最前線で白兵戦の働きをするはずなのですが、平和な時代には使いようもなく、一部は犯罪捜査を受け持ったわけです。自衛隊が災害救助しているようなものでしょうか。御先手組は先手弓組と先手鉄砲組の二分構成でしたが、それとは別に「火付盗賊改」のグループがあり、江戸市中の重犯罪取り締まりに当たっていました。

成り立ちと変遷  【RIZAP COOK】

はじまりは寛文5年(1665)で、幕府が先手頭の水野守正に関東の各地にはびこる強盗一味の捕縛を命じたことからです。

天和3年(1683)、火付改が新設され、先手頭の中山勘解由が兼務を命じられました。元禄12年(1699)には火付改も盗賊改も廃止となりましたが、3年後の元禄15年(1702)、火付改が、翌16年(1703)には盗賊改がまたも設けられました。

宝永6年(1709)には、両改方が統合されて、火付盗賊改が生まれました。享保3年(1718)には博奕改も兼職となり、こうして、火付盗賊改は火付、盗賊、博奕の犯罪をまとめて取り締まることになりました。これでうまくいくかと思いきや、享保10年(1725)には博奕犯は町奉行の管轄となり、火付盗賊改はまたも火付と盗賊だけを管轄することになりました。この組織は、慶応2年(1866)に廃止となるまで江戸の治安を受け持ちました。

実際の活動  【RIZAP COOK】

火付盗賊改は、与力10騎、同心50人ほどで構成されていました。その下に岡引きと下引きが組み込まれているのは町奉行と同じです。幕末には、岡引きは400人、下引きは1000人いたそうです。岡引きと下引きは親分子分の関係です。犯罪捜査は彼らに支えられていましたが、無給の彼らは博奕場を開いたり、商家に難癖をつけて金銭を出させたりと、ろくでもないのが常でした。奉行所は捕り物に差しさわりがないないよう甘い監視でした。

火付盗賊改は町奉行所に比べると、安手で粗いのが特徴です。町奉行の役宅は天保期までありませんでした。それまでは自邸が役宅を兼ねていたといいます。その取り締まりも荒っぽくて、江戸の人々は恐れていました。町奉行所とも権限が交差するため、衝突や対立がひんぱんに起こりました。

たとえば、江戸近在で盗まれて物が江戸で換金されることが増えたため、火付盗賊改の活動範囲は江戸周辺にまで及びました。文化期以降には、関東取締出役(八州廻り)が無宿や浪人の取り締まりをするようになったため、火付盗賊改と係争するケースが増えました。火付盗賊改は町奉行所や関東取締出役と対立することが多くなりました。職務の縄張り争いです。ここでいう「関東」とは、上野(群馬県)、下野(栃木県)、常陸(茨城県)、上総(千葉県)、下総(千葉県、茨城県)、安房(千葉県)、武蔵(神奈川県、東京都、埼玉県)、相模(神奈川県)をさします。関八州ともいいます。今の関東地方ですね。

中山勘解由  【RIZAP COOK】

中山勘解由直守といいます。鬼勘解由と呼ばれるほど、犯罪捜査には凄腕だったそうです。中山家は武蔵七党の一、丹党加治氏の流れをくみます。飯能周辺を領有し、秩父鉄を工夫して武士団を構成しました。小田原北条氏の配下となり、小田原征伐では中山家範とその息子、照守と信吉は八王子城に籠城して死守しましたが、やがて敗北。家範は討ち死に。享年43。残った2人の息子は、その勇猛ぶりを徳川家康に評価され、徳川家臣団に組み入れられました。直参旗本となったのです。

関ヶ原の戦いや大坂の陣などで紆余曲折はありましたが、馬術を得意とした兄の照守は秀忠の指南役を務めるなどして、家は3500石の大身旗本に収まりました。子孫からは町奉行や火付盗賊改の頭などが現れ、武勇家系の評価が受け継がれたのです。直守は照守の孫です。

一方、弟の信吉は水戸藩の附家老(幕府直属の家老)となり、代々は水戸藩領内の松岡領(茨城県高萩市全域、日立市、北茨城市の一部)を有し、立藩をうかがっていましたが、独立できたのは明治2年(1869)でした。松岡藩2万5000石、藩庁は陣屋です。

参考文献:平松義郎『江戸の罪と罰』(平凡社、1988年)、服藤弘司『火附盗賊改の研究史料編』(創文社、1998年)、高橋義夫『火付盗賊改』(中公新書、2019年)、高萩市『高萩市史』(高萩市、1969年)、加藤貴編『江戸を知る事典(東京堂出版、2004年)、大濱徹也、吉原健一郎編『江戸東京年表』(小学館、1993年)、『新装普及版 江戸文学地名辞典』(東京堂出版、1997年)

【語の読みと注】
御先手頭 おさきてがしら
勘解由 かげゆ
附家老 つけがろう:幕府直属の家老
関東取締出役 かんとうとりしまりしゅつやく:八州廻り

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きんめいちく【金明竹】演目

骨董を題材にした前座噺。小気味いい言い立てが聴きどころです。耳に楽しいですね。こういうのも落語のおもしろいところです。

【あらすじ】

骨董屋のおじさんに世話になっている与太郎。

少々頭に霞がかかっているので、それがおじさんの悩みのタネ。

今日も今日とて、店番をさせれば、雨宿りに軒先を借りにきた、どこの誰とも知れない男に、新品の蛇の目傘を貸してしまってそれっきり。

おじさんは
「そういう時は、傘はみんな使い尽くして、バラバラになって使い物にならないから、焚き付けにするので物置へ放り込んであると断るんだ」
と叱った。

すると、鼠が暴れて困るので猫を借りに来た人に
「猫は使いものになりませんから、焚き付けに……」
とやった。

「ばか野郎、猫なら『さかりがついてとんと家に帰らなかったが、久しぶりに戻ったと思ったら、腹をくだして、そそうがあってはならないから、またたびを嘗めさして寝かしてある』と言うんだ」

おじさんがそう教える。

おじさんに目利きを頼んできた客に、与太郎は、
「家にも旦那が一匹いましたが、さかりがついて……」

こんな調子で小言ばかり。

次に来たのは上方者らしい男だが、なにを言っているのかさっぱりわからない。

「わて、中橋の加賀屋佐吉方から参じました。先度、仲買の弥市の取次ぎました道具七品のうち、祐乗、光乗、宗乗三作の三所もの。並びに備前長船の則光、四分一ごしらえ横谷宗岷小柄付きの脇差し、柄前はな、旦那はんが古鉄刀木といやはって、やっぱりありゃ埋れ木じゃそうにな、木が違うておりまっさかいなあ、念のため、ちょっとお断り申します。次は、のんこの茶碗、黄檗山金明竹、ずんどうの花いけ、古池や蛙飛び込む水の音と申します。あれは、風羅坊正筆の掛け物で、沢庵、木庵、隠元禅師はりまぜの小屏風、あの屏風はなあ、もし、わての旦那の檀那寺が、兵庫におましてな、この兵庫の坊主の好みまする屏風じゃによって、かようお伝え願います」
「わーい、よくしゃべるなあ。もういっぺん言ってみろ」

与太郎になぶられ、三べん繰り返されて、男はしゃべり疲れて帰ってしまう。

おばさんも聞いたが、やっぱりわからない。
おじさんが帰ってきたが、わからない人間に報告されても、よけいわからない。

「仲買の弥市が気がふれて、遊女が孝女で、掃除が好きで、千ゾや万ゾと遊んで、終いにずん胴斬りにしちゃったんです。小遣いがないから捕まらなくて、隠元豆に沢庵ばっかり食べて、いくら食べてものんこのしゃあ。それで備前の国に親船で行こうとしたら、兵庫へ着いちゃって、そこに坊さんがいて、周りに屏風を立てまわして、中で坊さんと寝たんです」
「さっぱりわからねえ。どこか一か所でも、はっきり覚えてねえのか」
「たしかか、古池に飛び込んだとか」
「早く言いなさい。あいつに道具七品が預けてあるんだが、買ってったか」
「いいえ、買わず(蛙)です」

【しりたい】

ネタ本は狂言  【RIZAP COOK】

前後半で出典が異なり、前半の笠を借りに来る部分は、狂言「骨皮」をもとに、初代石井宗淑(?-1803)が小咄「夕立」としてまとめたものをさらに改変したとみられます。類話に享和2年(1802)刊の十返舎一九作「臍くり金」中の「無心の断り」があり、現行にそっくりなので、これが落語の直接の祖形でしょう。一九はこれを、おなじみ野次喜多の『続膝栗毛』にも取り入れています。「夕立」との関係は、「夕立」が著者没後の天保10年(1839)の出版(「古今秀句落し噺」に収録)なのでどちらがパクリなのかはわかりません。

後半の珍口上は、初代林屋正蔵(1781-1842)が天保5年(1834)刊の自作落語集『百歌撰』中に入れた「阿呆の口上」が原話で、これは与太郎が笑太郎となっているほかは弥市の口上の文句、「買わず」のオチともまったく同じです。

前半はすでに文化4年(1807)刊の落語ネタ帳『滑稽集』(喜久亭寿曉)に「ひん僧」の題で載っているので、江戸落語としてはもっとも古いものの一つですが、前後を合わせて「金明竹」として一席にまとめられたのは明治時代になったからと思われます。

「骨皮」のあらすじ  【RIZAP COOK】

シテが新発意でワキが住職。檀家の者が寺に笠を借りに来るので、新発意が貸してやり、住職に報告したところ、ケチな住職が「辻風で骨皮バラバラになって貸せないと断れ」と叱る。次に馬を借りに来た者に笠の口上で断ると、住職は「バカめ。駄狂い(発情による乱馬)したと断れ」今度はお経を頼みに来た者に、「住職は駄狂い」と断ったので、聞いた住職が怒り、新発意が、お師匠さまが門前の女とナニしているのは「駄狂い」だと口答えして大ゲンカになる筋立て。

ボタンの掛け違いの珍問答は、民話の「一つ覚え」にヒントを得たとか。

「夕立」のあらすじ  【RIZAP COOK】

主人公(与太郎)は権助、ワキが隠居。笠、猫と借りに来るくだりは現行と同じです。三人目が隠居を呼びに来ると、「隠居は一匹いますが、糞の始末が悪いので貸せない」隠居が怒って「疝気が起こって行けないと言え」と教えると次に蚊いぶしに使う火鉢を借りに来たのにそれを言い、どこの国に疝気で動けない火鉢があると、また隠居が叱ると権助が居直って「きんたま火鉢というから、疝気も起こるべえ」

石井宗淑は医者、幇間、落語家を兼ねる「おたいこ医者」で、長噺の祖といわれる人。

東京に逆輸入  【RIZAP COOK】

この噺、前半の「骨皮」の部分は、純粋な江戸落語のはずながらなぜか幕末には演じられなくなっていて、かえって上方でよく口演されました。明治になってそれがまた東京に逆輸入され、後半の口上の部分が付いてからは、四代目橘家円喬、さらに三代目三遊亭円馬が得意にしました。円喬は特に弥市の京都弁がうまく、同じ口上を三回リピートするのに、三度とも並べる道具の順序を変えて演じたと、六代目円生が語っています。

代表的な前座の口慣らしのための噺として定着していますが、戦後は五代目古今亭志ん生、六代目三遊亭円生、三代目三遊亭金馬など、多数の大看板が手掛けました。なかでも金馬は、昭和初期から戦後にかけ、流麗な話術で「居酒屋」と並び十八番としました。CDは、三巨匠それぞれ残っていて、現役では柳家小三治のがありますが、口上の舌の回転のなめらかさでは金馬がピカ一だったでしょう。志ん生は、前半部分を再び独立させて演じ、後半はカットしていました。

祐乗  【RIZAP COOK】

後藤祐乗(1440-1512)は室町時代の装剣彫刻の名工です。足利義政の庇護を受け、特に目貫にすぐれた作品が多く残ります。光乗はその曾孫(1529-1620)で、やはり名工として織田信長に仕えました。

長船  【RIZAP COOK】

長船は鎌倉時代の備前国の刀工・長船氏で、祖の光忠以下、長光、則光など、代々名工を生みました。

宗珉  【RIZAP COOK】

横谷宗珉(1670-1733)は江戸時代中期の金工で、絵画風彫金の考案者。小柄や獅子牡丹などの絵彫を得意にしました。

金明竹  【RIZAP COOK】

中国福建省原産の黄金色の名竹です。福建省の黄檗山万福寺から日本に渡来し、黄檗宗の開祖となった隠元禅師(1592-1673)が、来日して宇治に同名の寺を建てたとき、この竹を移植し、それが全国に広まりました。観賞用、または筆軸、煙管の羅宇などの細工に用います。隠元には多数の工匠が同行し、彫刻を始め日本美術に大きな影響を与えましたが、金明竹を使った彫刻もその一つです。

漱石がヒントに?  【RIZAP COOK】

『吾輩は猫である』の中で、二絃琴の師匠の飼い猫・三毛子の珍セリフとして書かれている「天璋院様の御祐筆の妹の御嫁に行った先きの御っかさんの甥の娘」は、落語マニアで三代目小さんや初代円遊がひいきだった漱石が「金明竹」の言い立てからヒントを得たという説(半藤一利氏)がありますが、落語にはこの手のくすぐりはかなりあり、なんとも言えません。

【語の読みと注】
新発意 しんぼち:出家して間もない僧
疝気 せんき
石井宗淑 いしいそうしゅく
後藤祐乗 ごとうゆうじょう
目貫 めぬき:刀の目釘に付ける装身具
長船 おさふね
横谷宗珉 よこやそうみん
小柄 こづか
黄檗山 おうばくさん
隠元 いんげん
煙管 きせる
羅宇 らお
天璋院 てんしょういん

【RIZAP COOK】

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ばけものつかい【化け物つかい】演目

使い方の荒い男の噺。権助ばかりか化け物までこき使っちゃったりして、モーレツにすごいです。

【あらすじ】

田舎者で意地っ張りの権助。

日本橋葭町の桂庵から紹介された奉公人の口が、人使いが荒くて三日ともたないと評判の本所の隠居の家。

その分、給金はいいので、権助は
「天狗に使われるんじゃあるめえし」
と、強情を張って、その家に住み込むことに。

行ってみると、さすがの権助も度肝を抜かれた。

今日はゆっくり骨休みしてくれと言うので、
「なんだ、噂ほどじゃねえな」
と思っていると、その骨休みというのが、薪を十把割り、炭を切り、どぶをさらい、草をむしり、品川へ使いに行って、
「その足でついでに千住に回ってきてくれ。帰ったら目黒へ行って、サンマを買ってこい」
というのだから。

しかも、
「今日一日は骨休みだから、飯は食わせない」
ときた。

それでも辛抱して三年奉公したが、隠居が今度、幽霊が出るという評判の家を安く買いたたき、今までの家を高く売って間もなく幽霊屋敷に引っ越すと聞かされ、権助の我慢も限界に。

化け物に取り殺されるのだけはまっぴらと、隠居に掛け合って三年分の給金をもらい、
「おまえさま、人はすりこぎではねえんだから、その人使え(い)を改めねえと、もう奉公人は来ねえだぞ」

毒づいて、暇を取って故郷に帰ってしまった。

化け物屋敷に納まった隠居、権助がいないので急に寂しくなり、いっそ早く化け物でも現れればいいと思いながら、昼間の疲れかいつの間にか居眠りしていたが、ふと気がつくと真夜中。

ぞくぞくっと寒気がしたと思うと、障子がひとりでに開き、現れたのは、かわいい一つ目小僧。

隠居は、奉公人がタダで雇えたと大喜び。

皿洗い、水汲み、床敷き、肩たたきとこき使い、おまけに、明日は昼間から出てこいと命じたから、小僧はふらふらになって、消えていった。

さて翌日。

やはり寒気とともに現れたのはのっぺらぼうの女。

これは使えると、洗濯と縫い物をどっさり。

三日目には、、やけにでかいのが出たと思えば、三つ目入道。

脅かすとブルブル震える。こいつに力仕事と、屋根の上の草むしり。

これもすぐ消えてしまったので、隠居、少々物足りない。

四日目。

化け物がなかなか出ないので、隠居がいらいらしていると、障子の外に誰かいる。

ガラっと開けると、大きな狸が涙ぐんでいる。

「てめえだな、一つ目や三つ目に化けていたのは。まあいい、こってい入れ」
「とんでもねえ。今夜かぎりお暇をいただきます」
「なんで」
「あなたっくらい化け物つかいの荒い人はいない」

    
底本:七代目立川談志

【しりたい】

明治末の新作  【RIZAP COOK】

明治末から大正期にかけての新作と思われます。原話は、安永2年(1773)刊『御伽草』中の「ばけ物やしき」や、安永3年(1774)刊『仕形噺』中の「化物屋敷」などとされていますが、興津要は、『武道伝来記』(井原西鶴、貞享4=1687年刊)巻三「按摩とらする化物屋敷」としています。

桂庵  【RIZAP COOK】

江戸時代における、奉公や縁談の斡旋業で、現在のハローワークと結婚相談所を兼ね、口入れ屋とも呼びました。日本橋葭町には、男子専門の千束屋、大坂屋、東屋、大黒屋、藤屋、女子専門の越前屋などがありました。

名の由来は、承応年間(1652-55)の医師・大和桂庵が、縁談の斡旋をよくしたことからついたとか。慶庵、軽庵、慶安とも。転じて、「桂庵口」とは、双方に良いように言いつくろう慣用語となりました。

名人連も手掛けた噺  【RIZAP COOK】

昭和後期でこの噺を得意にした七代目立川談志は、八代目林家正蔵(彦六)から習ったといいます。その彦六は同時代の四代目柳家小さんから移してもらったとか。いずれにしても、柳派系統の噺だったのでしょう。昭和では七代目三笑亭可楽、三代目桂三木助、五代目古今亭志ん生、三代目古今亭志ん朝も演じました。

【語の読みと注】
桂庵 けいあん
千束屋 ちづかや

【RIZAP COOK】

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もぐらどろ【もぐら泥】演目

明治の初め頃を舞台にした噺です。三遊亭円生がやってました。

別題:おごろもち盗人(上方)

【あらすじ】

大晦日だというのに、女房がむだ遣いしてしまい、やりくりに困っている旦那。

ぶつくさ言いながら帳簿をつけていると、縁の下で、なにやらゴソゴソ。

いわゆる「もぐら」という泥棒で、昼間のうち、物乞いに化けて偵察しておき、夜になると、雨戸の敷居の下を掘りはじめる。

ところが、昼間印をつけた桟までの寸法が合わず、悪戦苦闘。

旦那が
「ええと、この金をこう融通してと、ああ、もう少しなんだがなあ」
とこぼしていると、下でも
「もう少しなんだがなあ」

「わずかばかりで勘定が追っつかねえってのは、おもしろくねえなあ」
「わずかばかりで届かねえってのは、おもしろくねえなあ」

これが聞こえて、かみさんはなにも言っていないというので、おかしいとヒョイと土間をのぞくと、そこから手がにゅっと出ている。

ははあ、こいつは泥棒で、桟を弾いて入ろうってんだと気づいたから、
「とんでもねえ野郎だ。こっちが泥棒に入りたいくらいなんだ」

捕まえて警察に突き出し、あわよくば褒賞金で穴埋めしようと、旦那は考えた。

旦那、そっと女房に細引きを持ってこさせると、やにわに手をふん縛ってしまった。

泥棒、しまったと思ってももう遅く、どんなに泣き落としをかけてもかんべんしてくれない。

おまけにもぐり込んできた犬に小便をかけられ、縁の下で泣きっ面に蜂。

そこへ通りかかったのが廓帰りの男で、行きつけの女郎屋に三円の借金があるのでお履き物を食わされた(追い出された)ところ。

おまけに兄貴分に、明日ぱっと遊ぶんだから、それまでに五円都合しとけと命令されているので、金でも落ちてないかと、下ばかり見て歩いている。

「おい、おい」
「ひえッ、誰だい。脅かすねえ」
「大きな声出すな。下、下」

見ると、縁の下に誰か寝ている。

酔っぱらいかと思うと、
「ちょっとおまえ、しゃごんで(しゃがんで)くれねえか。実は、オレは泥棒なんだ」

一杯おごるから、腹掛けの襷の中からがま口を出し、その中のナイフをオレに持たしてくれ、と頼まれる。

男は
「どこんとこだい。……あ、あったあった。こん中に入ってんのか。へえ、だいぶ景気がいいんだな」
「いくらもねえ。五十銭銀貨が六つ、二円札が二枚、みんなで五円っかねえんだ」

五円と聞いて男、これはしめたと、がま口ごと持ってスタスタ。

「あッ、ちくしょう、泥棒ーう」

【しりたい】

古きよき時代とともに  【RIZAP COOK】

原話は不詳で、上方では「おごろもち盗人」といいます。「おごろもち」は、関西でもぐらのこと。

昭和初期に五代目(俗に「デブの」)三遊亭円生がよく演じ、六代目円生もたまにやりましたが、速記が残るのは先代(六代目)蝶花楼馬楽くらい。東西とも、現在ではあまり演じられません。

オチは皮肉がきいていて、なかなかいいので、すたれるには惜しい噺なのですが。

「第十七捕虜収容所」泥は時代遅れ  【RIZAP COOK】

こうした、軒下に穴を掘って侵入する手口を文字通り「もぐら」と称しました。

もちろん「泥」にかぎらず、戦争映画などでよく見る通り、捕虜収容所や刑務所からの脱走も、穴を掘って鉄条網の向こうに出る「もぐら」方式がもっとも確実だったのですが……。特に都会で、軒下というものがほとんど姿を消し、、穴を掘ろうにも土の地面そのものがなくなった現代、こうしたクラシックな泥棒とともに、この噺も姿を消す運命にあったのは、当然でしょう。

「ギザ」の使いみちは?  【RIZAP COOK】

五十銭銀貨は、明治4年(1871)、表がドラゴン、裏に太陽を刻印したものが大小二種類発行されたのが最初です。俗に「旭日龍」と呼ばれました。

明治39年(1906)のリニューアルで表の龍が消え、通称は「旭日」に。ついで大正11年(1922)、従来より小型で銀の含有量の少ない「鳳凰」デザインのものに統一。これは「ギザ」「イノシシ」とも呼ばれ、昭和13年(1938)、戦時経済統制で銀貨が姿を消すまで、事実上、流布した最高額の補助貨幣でした。

どんなに使いでがあったかを、大正11年前後の商品価格で調べてみると、五十銭銀貨1枚で釣りがきたものは……。寿司・並二人前、鰻重、天丼・並各1人前、もりそば5-6枚、卵8個、トンカツ3皿、二級酒4合、ビール大瓶1本、ゴールデンバット10本入り8個、炭5kg。湯銭大人1人10日分。

お履き物  【RIZAP COOK】

廓で、長く居続ける客を早く帰すため、履き物に灸をすえるまじないがあったことから、女郎屋を追い立てられる、または出入り差し止めになることを「お履き物を食わされる」といいました。

五代目古今亭志ん生は、たんに「おはきもん」と言っていました。

くすぐりから  【RIZAP COOK】

かみさんが、あとで泥棒仲間に仕返しで火でもつけられたら困るから、逃がしてしまえと旦那に言う。

泥「(調子にのって)ほんとだい、ほんとだい。仲間が大勢いて無鉄砲だから、お宅に火を つけちゃ申し訳ねえ」
亭「つけるんならつけてみろい。どうせオレの家じゃねえや」

……ごもっともで。             

                                       六代目蝶花楼馬楽

【RIZAP COOK】

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らいおん【ライオン】演目

明治40年(1907)の上方噺「動物園」が原型。いまや年季の入った古典落語のひとつです。

別題:動物園(上方)

【あらすじ】

失業中の男。

ヤケになって、このところほとんど家にも帰らない。

いよいよ切羽詰まり、知人の家へ相談に行くと、月に二百円(明治の終わりの!)稼げるいい商売があるから、やってみないかと誘われた。

その職場というのが、今度新しくできた動物園。

「へえ、聞いてますが、世にも珍しい白いライオンがいるとかいう」
「実は、そのライオンになってもらいたい」

要するに、これはインチキ。

そんなライオンがいるわけがないから、ぬいぐるみでこしらえたが、実によくできていて、本物のライオンみたいだ。

そこで、その中に人間を入れ、ノッシノッシと歩かせて、客をたぶらかし、呼び物にしてたんまり稼ごうという魂胆。

「勤務」は朝の9時から午後4時までで、うまくいけばボーナス3千円も出るし、ライオンのエサ用に客が買った牛肉も、全部おまえのものになる、という。

もちろん、お上に聞こえれば手が後ろに回るから、女房子供にも絶対に秘密。

こういうヤバい商売でなければ、そんな大金をくれるわけがない。

「ナニ、要領を覚えりゃ簡単さ。ライオンてえのは、猛獣だから落ち着いて歩かなくちゃいけない。胴を左右にひねって、少し右肩を下げて……」

ともかく、歩き方を教わると、イチかバチかやってみる気になり、開場当日の朝、行ってみると、満員の盛況。

この動物園はサーカスと同じ興行方式で、あやしげな弁士が登場。

「ここにご覧に入れまするは、当館の呼び物、世にも珍しい真っ白いライオン……」

口上を述べると、楽隊もろとも緞帳が上がる。

ぬいぐるみの中の先生、次第に興奮してきて、「月200円ならいい商売だ。生涯ライオンで暮らそうか」などと、勝手なことを思いながら、大熱演。

すると、また例の弁士が現れた。

「ええー、こちらにご覧に入れまするは、東洋の猛獣の王、虎でござーい。本来は黒と黄のブチでございますが、ここにおります虎は珍しい黒白のブチでございます」

口上が終わると、「ウオウー」と、ものすごいうなり声。

「えー。今日は特別余興といたしまして、ライオンと虎の戦いをご覧に入れます」

柵を取り外したから、驚いたのはライオン。

虎がノソリノソリと入ってくる。

「うわーッ、話がうますぎると思った」

これがこの世の見納めと、
「南無阿弥陀仏ッ」
と唱えると、虎が耳元で
「心配するな。オレも200円でやとわれた」

【しりたい】

上方の創作落語  【RIZAP COOK】

大阪の二代目桂文之助(1859-1930)が、明治40年ごろ「動物園」と題して自作自演。

ただし、元ネタは英国の笑話とか。オリジナルでは、反対に主人公が虎になります。

どちらにせよ、着想が奇抜でオチも意外性に富むので、古くから人気があり、東京でも八代目春風亭柳枝、七代目雷門助六、六代目春風亭柳橋などが好んで演じました。

現在でも主流は上方落語です。桂米朝一門が若手に至るまで、多くの落語家のレパートリーです。

東京では、七代目助六が「ライオンの見世物」、八代目柳枝と柳橋はオリジナル通り「動物園」。三遊亭金馬は「ライオン」で演じます。

動物園事始  【RIZAP COOK】

動物の見世物は、江戸時代にはおもに両国橋西詰の仮設見世物小屋で公開されました。

大型動物では、虎、豹、象、狒狒、鯨などさまざまありましたが、「唐獅子」として古くから存在を知られていたはずのライオンは旧幕時代の記録はなく、明治以後の輸入です。

虎は江戸初期から公開され、慶安元年(1648)の記録があります。

明治4年(1871)に湯島聖堂で最初の博覧会が催され、サンショウウオと亀を公開。さらに翌々年(1873)、ウィーン万国博出品のため、国内の珍獣が集められ、一般公開されました。

こうしたイベントのたびに、徐々に動物が増え、博覧会場が手狭になった関係で、明治15年3月、日本初の西洋式動物園が上野に開園。

ライオンの上野動物園への初輸入は明治35年(1902)。その後、キリン、カバなども続々お目見えしました。入場料は開園当初、大人1銭、子供5厘。

次いで、明治36年(1903)4月に京都市動物園(岡崎公園内)、大正4年(1915)元旦に大阪・天王寺動物園が、それぞれ開園しています。

【語の読みと注】
弁士 べんし:無声映画などで内容の説明する人

【RIZAP COOK】

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よどごろう【淀五郎】演目

実話が基に。「四段目」「中村仲蔵」と並ぶ、忠臣蔵がらみの芝居噺。

【あらすじ】

ある年の暮れ。

「渋団」といわれた名人、市川団蔵を座頭に、市村座で「仮名手本忠臣蔵」を上演することになった。

由良之助と師直の二役は座頭役で決まりだが、塩屋判官役の沢村宗十郎が病気で倒れ、代役を立てなければならない。

団蔵、鶴の一声で「紀伊国屋(宗十郎)の弟子の淀五郎にさせねえ」

その沢村淀五郎は芝居茶屋の息子で、相中といわれる下回り役者。

判官の大役をさせられる身分ではない。そこで急遽、当人を名題に抜擢する。

淀五郎、降って沸いた幸運に大張りきり。

いよいよ初日。

三段目のけんか場までなんとか無事に済み、見せ場の四段目・判官切腹の場になった。

淀五郎扮する判官が浅黄の裃、白の死装束で切腹の場へ。

本来なら判官が、小姓の力弥に
「由良之助は」
「いまだ参上つかまつりません」
「存生の対面せで、残念なと伝えよ」
と、悲壮なセリフと共に、九寸五分を腹に突き立て、それを合図に花道からバタバタと、団蔵扮する城代家老・大星由良之助が現れ、舞台中央に来て
「御前」
「由良之助か、待ちかねた」
となるはずだが、団蔵は
「なっちゃいないね。役者も長くやってると、こういう下手くその相手をしなきゃならねえ。嫌だ嫌だ」
と、そのまま花道で動かない。

幕が閉まってから、おそるおそる団蔵に尋ねると
「あれじゃ、行きたいが行かれないね。あの腹の切り方はなんだい」
「どういうふうに切りましたらよろしいんで」
「そうさな、本当に切ってもらおうかね」
「死んじまいますが」
「下手な役者ァ、死んでもらった方がいい」

帰宅して工夫したが、翌日も同じ。

こうなると淀五郎、つくづく嫌になり
「そうだ、本当に腹ァ切れというんだから、切ってやろう。その代わり、皮肉な三河屋(団蔵)も生かしちゃおかねえ」

物騒な決心をして、隣の中村座の前を通ると、日ごろ世話になっている、これも当時名人の中村仲蔵の評判で持ちきり。

どうせ明日は死ぬ身だから、舞鶴屋(仲蔵)の親方にもあいさつしておこうと、その足で仲蔵を訪ねる。

仲蔵、淀五郎の顔が真っ青で、おまけに芝居がまだ二日目というのに
「明日から西の旅に出ます」
などと妙なことを言うので、問いただすとかくかくしかじか。

悪いところを直してやろうと、その場で切腹の型をやらせ、
「あたしが三河屋でも、これでは側に行かないよ」
と、苦笑。

「おまえさんの判官は、認められたいという淀五郎自身の欲が出ていて、五万三千石の大名の無念さが伝わらない。判官が刀を腹に当てるとき、膝頭から手を下ろすと品がない」
などと、心、型の両面から親切に助言し、励まして帰す。

翌日。

三段目が済むと団蔵が驚いた。

「あの野郎。どうして急にああもよくなったか。おらァ、本当に斬られるかと思った」

こうなると四段目が楽しみになる。出になって、花道から見ると
「うーん、いい。こりゃあ、淀五郎だけの知恵じゃねえな。あ、秀鶴(仲蔵)に聞いたか」

ツツツと近寄って
「御前」

淀五郎、花道を見るといないから、今日は出てもこないかと、がっかり。

それでも声がしたようだが、と見回すと、傍に来ている。
「おお、待ちかねたァ」

【しりたい】

円生、正蔵、志ん生と百花繚乱  【RIZAP COOK】

原話は不詳で、実話を基にしたといわれます。明治の四代目橘家円喬以来、基本的な演出は変わっていません。

オチがあるので、厳密には人情噺とは言えませんが、芸道ものの大ネタです。

戦後では八代目林家正蔵(彦六)、六代目三遊亭円生、五代目古今亭志ん生が競演。円生では、仲蔵が淀五郎に注意する場面が、微に入り細をうがって詳しいのが特色です。

正蔵の速記では省かれていますが、円生にならって判官の唇に青黛を塗り、瀕死の形相を出すようにと注意を入れる演者が多くなっています。

オチの後、正蔵は「こりゃ本当に待ちかねました」とダメを押しましたが、円生はムダとして省いています。

志ん生も円生のやり方とほぼ同じでしたが、詳細すぎる説明をカットし、人情噺のエキスを保ちながら、軽快なテンポで十八番の一つとしました。

その下の世代でも、円楽、志ん朝などが掛けていました。今でも、小朝らベテランから中堅、若手に至るまで多くの演者に高座に掛けられています。

八代目正蔵のやり方は、門下の八光亭春輔がもっとも忠実に継承しています。

イジワル団蔵は何代目か  【RIZAP COOK】

「渋団」と噺の中で説明されますが、歴代の団蔵でこの異名で呼ばれたのは五代目(1788-1845)です。

芸がいぶし銀のように渋かったことからで、六代目三遊亭円生は「目黒団蔵」と説明していますが、これは四代目団蔵(1745-1808)で、「渋団」の先代です。

噺に登場する初代仲蔵と同時代なら、この団蔵は四代目が正しいことになるのですが。

実録・淀五郎  【RIZAP COOK】

実在の沢村淀五郎は、初代から三代目まで数えられますが、三代目は、前記四代目団蔵が没した1か月後に襲名しているので、もし四代目団蔵、初代仲蔵と同時代なら明和3(1766)年に襲名した二代目ということになります。

忠臣蔵評判記『古今いろは談林』の「安永8年(=1779年)森田座」の項に「塩冶判官 沢村淀五郎 大星由良之助 市川団蔵」という記録があります。

三代目までのどの淀五郎にも、芝居茶屋のせがれという記録はなく、これはフィクションでしょう。

仲蔵は東西に二人  【RIZAP COOK】

同題の芸道噺に主役で登場します。詳しくは「中村仲蔵」をご参照ください。初代仲蔵の生涯について興味のある方には、松井今朝子の小説『仲蔵狂乱』(講談社文庫)にビビッドに描かれていてます。

同時代に同名の中村仲蔵がもう一人、大坂にいて、やはり初代を名乗っていました。この人は屋号「姫路屋」で通称「白万」。実事を得意とし、寛政9年(1797)に没しています。

以来、江戸東京と上方にそれぞれ四代目までの仲蔵が並立し、最後の「大阪仲蔵」が死去したのは明治14年(1881)でした。一般に、江戸の初代、三代、大坂の初代、四代が名高いと語り草です。

現在、仲蔵の名跡は空き名跡です。勘五郎から平成元年(1989)4月に襲名した五代目が、平成4年(1992)12月に没して以来、名乗りはいません。

「仮名手本忠臣蔵」については、「四段目」「中村仲蔵」をご参照ください。

江戸三座  【RIZAP COOK】

市村座、中村座、森田座の江戸三座は天保の改革で、天保13年(1842)、猿若町(台東区浅草六丁目)に強制移転。天保の改革の一環ででした。町名もその時に付けられました。

【語の読みと注】
相中 あいちゅう

【RIZAP COOK】

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よいよいそば【よいよい蕎麦】演目

地方から出てきた二人連れ。そばの食べ方がわからず四苦八苦。誰だって最初はそうかもしれませんね。

別題:江戸見物

【あらすじ】

江戸名物は、火事にけんかに中っ腹というが、中っ腹は気短なこと、なにかというと、悪態をつく。

田舎者の二人連れ、一生一度の東京見物に来たのはいいが、慣れないこととて、やることなすこと悪戦苦闘。

そば屋に入っても、生まれて初めてなので、食い方がわからない。

もりがくると、あんまり長いから、これではハシを持ったまま天井までハシゴをかけて上がらなければ食えないというので、一工夫。

片方がまず寝ころんで、相棒に食べさせ、今度はもう一人が、という塩梅(あんばい)で、なかなかはかどらない。

そこへ威勢よく飛び込んできたのが、言わずと知れた江戸っ子のお兄さん。

もりを注文すると、例によって粋につるつるっとたぐり出したが、そばの中から釘が出てきたから、さあ収まらない。

「おい若い衆、そばの中に釘ィ入れて売るわけでもあるめえ。危ねえじゃねえぁ。よく気ィつけろいっ。このヨイヨイめ」

謝罪の言葉も聞かばこそ、悪態をついて、あっという間に出ていってしまった。

まるで暴風雨。

田舎者の二人、それを見てすっかり度肝を抜かれ、あの食い方の早えの早くねえの、あれはそば食いの大名人だんべえと、ひどく感心したが、終わりのヨイヨイというのが、なんだか、よくわからない。

そこでそば屋の親父に尋ねるが、親父もまさか親切ていねいに「翻訳」するわけにもいかず「あれはその、近頃東京ではやっているほめ言葉で、手前でものそばがいいというんで、よい、よいとほめたんです」と、ゴマかす。

二人はすっかり真に受けて、一度これを使ってみたいと思いながら、今度は芝居見物へ。

見ているうちに、いい場面になった。

東京の歌舞伎では、役者がいいと声をかけてほめると聞いたので、ここぞとばかり「ようよう、ええだぞ、ヨイヨイ」

怒ったのが贔屓の衆。

「天下の成田屋をつかめえて、ヨイヨイたあ何だ。てめえたちの方がヨイヨイだ」「ハァ、太郎作、喜べ。おらたちまでほめられた」

【しりたい】

二通りのバージョン  【RIZAP COOK】

原話は不詳で、明治31年(1898)4月、「百花園」に掲載された六代目桂文治の速記では「江戸見物」と題しています。

これはオチは同じですが、後半途中から芝居噺仕立てになり、そば屋の場面はありません。江戸っ子に突き当たられた後そのまま芝居小屋での失敗談に移ります。

あらすじの「よいよい蕎麦」の方は、明治期では初代三遊亭円右が得意にしたもので、こちらが本元だろうと思われます。本来、ていねいに演じると、そば屋の場面の前に食物と間違え、炭団を買ってかじる滑稽が付きます。

元祖「ボヤキ落語」で知られた、同時代の五代目三升家小勝(1859-1939)や二代目三遊亭金馬を経て、戦後は三代目三遊亭小円朝が時々演じました。小円朝は速記が残っています。青蛙房刊『三遊亭小円朝集』(青蛙房→ちくま文庫)。音源はなく、初代円右のSP復刻版だけが、いま聴ける唯一の貴重な音源です。小円朝以後の継承者は、今のところいない模様です。

親ばかちゃんりん蕎麦屋の風鈴  【RIZAP COOK】

けんどんそば切り(今でいうかけそば)が一杯八文で売り出されたのは寛文4年(1664)のこと。その後、貞享年間(1684-88)に蒸し蕎麦が流行。同時に江戸市中に、多くのそば屋が出現。頼まれれば、天秤のかついで出前もしました。別名「二八蕎麦」と呼ばれる、屋台のそば屋が現れたのは享保年間(1716-36)といわれます。

それ以前、貞享3年(1686)にすでに、「温飩(うどん)、蕎麦切、其他何ニ寄らず、火を持あるき商売仕り候儀、一切無用に仕るべく候」というお触れが出ているので、かなり長い間、長屋の食うや食わずの連中が、アルバイトに特に夜間、怪しげな煮売り屋を屋台で営業していたわけです。お上では「食品衛生法違反容疑」よりむしろ火の元が危なくてしかたないので、禁止したということでしょう。

よいよい  【RIZAP COOK】

元は、幼児のよちよち歩きをさしましたが、のちに中風病み、マヌケ、酔っ払い、みすぼらしい服装の人間などをののしる言葉になりました。寛政年間(1789-1801)の戯作、洒落本などにこれらの例が出そろっているので、およそこのあたりが起源なのでしょう。

【語の読みと注】
中っ腹 ちゅうっぱら:太っ腹の対語。短気
塩梅 あんばい

【RIZAP COOK】

ねずみ【鼠】演目

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主人公は左甚五郎。胸のすく匠の噺です。

【あらすじ】

名工・左甚五郎は、十年も江戸・日本橋橘町の棟梁・政五郎の家に居候の身。

その政五郎が若くして亡くなり、今は二代目を継いだせがれの後見をしている。

ある年、まだ見ていない奥州・松島を見物しようと、伊達六十二万石のご城下・仙台までやってきた。

十二、三の男の子が寄ってきて、
「ぜひ家に泊まってほしい」
と頼むので承知すると、
「うちの旅籠は鼠屋(ねずみや)といって小さいけど、おじさん、布団がいるなら損料(そんりょう)を払って借りてくるから、二十文前金でほしい」
と、言う。

なにかわけがありそうだと、子供に教えられた道を行ってみると、宿屋はなるほどみすぼらしくて、掘っ建て小屋同然。

前に虎屋という大きな旅籠(はたご)があり、繁盛している。

案内を乞うと、出てきた主人、うちは使用人もいないから、申し訳ないが、そばの広瀬川の川原で足をすすいでほしいと言うから、ますますたまげた。

その上、子供が帰ってきて、料理ができないから、自分たち親子の分まで入れて寿司を注文してほしいと言い出したので、甚五郎は苦笑して二分渡す。

いたいけな子供が客引きをしているのが気になって、それとなく事情を聞いた。

このおやじ、卯兵衛(うへえ)といい、もとは前の虎屋のあるじだったが、五年前に女房に先立たれ、女中頭のお紺を後添いにしたのが間違いのもと。

性悪な女で、幼いせがれの卯之吉をいじめた上、番頭の丑蔵と密通し、たまたま七夕の晩に卯兵衛が、二階の客のけんかを止めようとして階段から落ちて足腰が立たなくなり、寝たきりになったのを幸い、親子を前の物置に押し込め、店を乗っ取った。

卯兵衛は、しかたなく幼友達の生駒屋(いこまや)の世話になっていたが、子供の卯之吉が健気(けなげ)にも、このままでは物乞いと変わらない、おいらがお客を一人でも連れてくるから商売をやろうと訴えるので、物置を二階二間きりの旅籠に改築したが、客の布団も満足にないありさま。

宿帳から、日本一の彫り物名人と知って、卯兵衛は驚くが、同情した甚五郎、一晩部屋にこもって見事な木彫りの鼠をこしらえ、たらいに入れて上から竹網をかけると
「左甚五郎作 福鼠 この鼠をご覧の方は、ぜひ鼠屋にお泊まりを」
と書いて、看板代わりに入り口に揚げさせ、出発した。

この看板を見た近在の農民が鼠を手にとると、不思議や、木の鼠がチョロチョロ動く。

これが評判を呼び、後から後から客が来て、たちまち鼠屋は大繁盛。

新しく使用人も雇い、裏の空き地に建て増しするほど。

そのうち客から客へ、虎屋の今の主人・丑蔵の悪事の噂が広まり、虎屋は逆にすっかりさびれてしまう。

丑蔵は怒って、なんとか鼠を動かなくしようと、仙台一の彫刻名人・飯田丹下(いいだ・たんげ)に大金を出して頼み、大きな木の虎を彫ってもらう。

それを二階に置いて鼠屋の鼠をにらみつけさせると、鼠はビクとも動かなくなった。

卯兵衛は
「ちくしょう、そこまで」
と怒った拍子にピンと腰が立ち、江戸の甚五郎に
「あたしの腰が立ちました。鼠の腰が抜けました」
と手紙を書いた。

不思議に思った甚五郎、二代目政五郎を伴ってはるばる仙台に駆けつけ、虎屋の虎を見たが、目に恨みが宿り、それほどいい出来とは思われない。

そこで鼠を
「あたしはおまえに魂を打ち込んで彫ったつもりだが、あんな虎が恐いかい?」
としかると、
「え、あれ、虎? 猫だと思いました」

【RIZAP COOK】

【しりたい】

三木助人情噺 【RIZAP COOK】

三代目桂三木助が、浪曲師の広沢菊春に「加賀の千代」と交換にネタを譲ってもらい、脚色して落語化したものです。

「甚五郎の鼠」の演題で、昭和31年(1956)7月に初演しました。

「竹の水仙」「三井の大黒」などと並び、三木助得意の名工・甚五郎の逸話ものですが、録音を聴いてみると、三木助がことに子供の表現に優れていたことがよくわかります。お涙ちょうだいに陥るギリギリのところで踏みとどまり、道徳臭さがなく、爽やかに演じきるところが、この人のよさでしょう。

左甚五郎(1594-1651)については「三井の大黒」をご参照ください。

日本橋橘町 【RIZAP COOK】

東京都中央区東日本橋三丁目にあたります。

甚五郎の在世中、明暦の大火(1657)以前は旧西本願寺門前の町屋でした。

「立花町」とも書かれますが、町名の由来は、当時このあたりに橘の花を売る店が多かったことからきたと言われます。

飯田丹下 【RIZAP COOK】

実在の彫工で、仙台藩・伊達家のお抱えでした。生没年など、詳しい伝記は不詳です。三代将軍家光の御前で、甚五郎と競って鷹を彫り、敗れて日本一の面目を失ったという逸話があります。

こぼれ噺 【RIZAP COOK】

三代目三木助がこの噺のマクラに、
「ベレーが鼠、服が鼠、シャツが鼠で、万年筆が鼠、靴下が鼠でドル入れが鼠、モモヒキが鼠で、靴がまた鼠ッてえン、世の中にゃァいろいろまた好き好きてえもんがありますもんですな。このひとが表へ出ましたらお向かいの猫が飛びついてきたってえン」
とやったそのねずみ男のモデルが、三木助のパトロンだった演劇評論家・作家の「アンツル」こと安藤鶴夫(1908-69)だったことは安藤当人の直木賞受賞作「巷談本牧亭」に書かれています。

現在も…… 【RIZAP COOK】

三木助没後は、故人・五代目春風亭柳朝が得意にしましたが、三木助門下だった入船亭扇橋、三遊亭円窓などを経て、若手にも伝わり、演じ手の多い噺です。

【RIZAP COOK】

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かんにんぶくろ【堪忍袋】演目

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こんな便利な袋があったら、世の中丸くおさまるんですがねぇ。

【あらすじ】

長屋に住む大工の熊五郎夫婦はけんかが絶えない。

今日も朝から、「出てけッ、蹴殺すぞ」と修羅場を展開中。

出入り先のだんなが用事で来あわせ、隣にようすを聞くと、今朝からもう四度目という。

見かねただんな、仲裁に入り、
「昔、唐土(もろこし)のある人が、腹が立つと家の大瓶にみんなぶちまけて蓋をすると、人前ではいつも笑い顔しか見せない。友達連中が何とかあいつを怒らしてみようと、料亭に呼んで辱めたが、ニコニコしているだけ。そのうち中座して帰宅し、例の通り瓶に鬱憤をぶちまける。友達連中、不審に思って男の家に行ってみると、逆に厚くもてなされたので、それから、あれは偉い人間だと評判になり、出世をして、しまいには大金持ちになった。笑う角には福来るというが、おまえたちもそうのべつけんかばかりしていては福も逃げるから、その唐土のまねをしてごらん」
と、さとす。

瓶の代わりに、おかみさんが袋を一つ縫って、それを堪忍袋とし、ひもが堪忍袋の緒。

お互いに不満を袋にどなり込んで、ひもをしっかりしめておき、夫婦円満を図れと知恵を授ける。

熊公、なるほどと感心して、さっそく、かみさんに袋を縫わせた。

まず、熊が
「亭主を亭主と思わないスベタアマーッ」
と、どなり込む。

続いて、かみさんが
「この助平野郎ゥーッ」

亭主「この大福アマッ」
かみ「しみったれ野郎ッ」

隣で将棋をさしている連中、さすがにうんざりして、代表がしぶしぶ止めに来るが、熊がケロっとしているので面食らう。

事情を聞くと、ぜひ貸してくれと頼み、こちらも袋に向かって
「やい、このアマッ、亭主をなんだと思ってやがるんだッ」

これが大評判になり、来るわ、来るわ。

おかげで、袋は長屋中のけんかでパンク寸前。

明日は、海にでも捨ててくるしかない。

また、誰かが来ると困るから戸締まりをして寝たとたん、酔っぱらった六さんが表をドンドン。

開けないと、雨戸の節穴から小便をたれると脅かす。

しかたがないので中に入れると、
「仕事の後輩が若いのに生意気で、オレの仕事にケチをつけやがるから、ポカポカ殴ったら、みんなオレばかりを止めるので、こっちは殴られ放題、がまんがならねえから、どうでも堪忍袋にぶちまけさせろ」
と、聞かない。

「もう満杯だから、明日中身を捨てるまで待ってくれ」
と言っても、承知しない。

「こっちィ貸せ」
とひったくると、袋の紐をぐっと引っ張ったから、中からけんかがいっぺんに
「パッパッパッ、この野郎ッ、こんちくしょう、ちくしょう、この野郎ーッ」

【RIZAP COOK】

【しりたい】

作者は三井の放蕩息子 【RIZAP COOK】

益田太郎冠者(1875-1953)の作です。益田は、三井財閥の大番頭で明治・大正の財界の大立者、益田孝の長男。大正初期に、帝劇のオペレッタを多数制作し、「コロッケの唄」などのヒットで、時代の寵児となりましたが、同時に明治末から大正初期にかけて、第一次落語研究会のために新作落語を多数創作しています。

この噺もその一つで、八代目桂文楽の十八番だった「かんしゃく」同様、初代三遊亭円左(明治42年没)のために書き下ろされたものです。「松竹梅」「粗忽の釘」「反対車」参照。

堪忍袋 【RIZAP COOK】

ギリシア神話の「ミダス王の耳はロバの耳」を下敷きにしている節もあります。

「堪忍五両思案は十両」
「堪忍五両負けて三両」
など、江戸時代には、「堪忍」は単なる処世術、道徳というより、功利的な意味合いで使われることが多かったようです。

オチの工夫 【RIZAP COOK】

あらすじ、オチは、五代目柳家小さんのものをもとにしています。

オリジナルの原作では、袋が破れたとたんに亭主が酔っ払いを張り倒し、「なにをするんだ」「堪忍袋の緒が切れた」と落としていたといいますが、古い速記はなく、現在は、このやり方は行われません。

やはりこの噺を得意にしていた三代目三遊亭金馬は「中のけんかがガヤガヤガヤガヤ」としています。

そのほか、立川談志は、口喧嘩が過激で派手でしたが、「堪忍」の実例に「十八史略」の韓信の股くぐりの故事、大坂城落城の木村重成や、講談の、忠臣蔵の神崎与五郎の逸話(あらすじでは省略)を出すなどどの演者も大筋のやり方は同じです。

それにしても「カンニン」という言葉自体ももう死語になろうとしていますね。いっそ「八つ当たり袋」「ブチ切れ袋」などと改題した方が、わかりやすいかもしれません。

【RIZAP COOK】

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きんのだいこく【黄金の大黒】演目

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この噺、長屋の喧騒な雰囲気がよく出てますね。 

あらすじ

長屋の一同に大家から呼び出しがかかった。

日ごろ、店賃なんぞは爺さんの代に払ったきりだとか、店賃? まだもらってねえ、などどいう輩ばかりだから、てっきり滞納で店立ての通告か、と戦々恐々。

ところが、聞いてみるとさにあらず、子供たちが普請場で砂遊びをしていた時、大家のせがれが黄金の大黒さまを掘り出したという。

めでたいことなので、長屋中祝ってお迎えしなければならないから、みんな一張羅を着てきてくれと大家の伝言。

ごちそうになるのはいいが、一同、羽織なぞ持っていない。

中には、羽織の存在さえ知らなかった奴もいて、一騒動。

やっと一人が持っていたはいいが、裏に新聞紙、右袖は古着屋、左袖は火事場からかっぱらってきたという大変な代物だ。

それでも、ないよりはましと、かわるがわる着て、トンチンカンな祝いの口上を言いに行く。

いよいよ待ちに待ったごちそう。

鯛焼きでなく本物の鯛が出て寿司が出て、みんな普段からそんなものは目にしたこともない連中だから、さもしい根性そのままに、ごちそうのせり売りを始める奴がいると思えば、寿司をわざと落として、「落ちたのはきたねえからあっしが」と六回もそれをやっているのもいる始末。

そのうち、お陽気にカッポレを踊るなど、のめや歌えのドンチャン騒ぎ。

ところが、床の間の大黒さまが、俵を担いだままこっそり表に出ようとするので、見つけた大家が、
「もし、大黒さま、あんまり騒々しいから、あなたどっかへ逃げだすんですか」
「なに、あんまり楽しいから、仲間を呼んでくるんだ」

【RIZAP COOK】

しりたい

キンゴローが東京に紹介 【RIZAP COOK】

明治末から昭和初期にかけて、初代桂春団治の十八番だった上方噺を、柳家金語楼が東京に持ってきて、脚色しました。

戦前には「兵隊」ほか新作落語で売れに売れ、戦後はコメディアンとして舞台、映画、テレビと大活躍した、あの金語楼(1901-72)です。

現在も、けっこう演じられるポピュラーな噺ですが、なぜか音源は少なく、現在CDで聴けるのは立川談志と大阪の笑福亭仁鶴のものだけです。初代春団治、金語楼とも、残念ながらレコードは残されていません。

オチはいろいろ 【RIZAP COOK】

東京では、上のあらすじで紹介した「仲間を呼んでくる」がスタンダードですが、大阪のオチは、長屋の一同が「豊年じゃ、百(文)で米が三升」と騒ぐと大黒が、「安うならんうちに、わしの二俵を売りに行く」と、いかにも上方らしい世知辛いものです。

そのほか、「わしも仲間に入りたいから、割り前を払うため米を売りに行く」というのもありますが、ちょっと冗長でくどいようです。

大黒さまは軍神 【RIZAP COOK】

大黒天は、もとはインドの戦いの神で、頭が三つあり、怒りの表情をして、剣先に獲物を刺し通している、恐ろしい姿で描かれていました。

ところが、軍神として仏法を守護するところから、五穀豊穣をつかさどるとされ、のちには台所の守護神に転進。

えらい変わりようであります。

日本に渡来してから、イナバのシロウサギ伝説で知られるとおり、大国主信仰と結びつき、「大黒さま」として七福神の一柱にされました。

血なまぐさいいくさ神から福の神に。これほどエエカゲンな神サマは、世界中見渡してもいないように見えますが、これは現代人の狭隘な見識でしかありません。

戦争はたしかに破壊の象徴のように見えますが、その後に復興して富をもたらすことはこれまた人類の変わらぬいとなみ。冬のあとに春が来るという、あれです。怖い形相は魔を退けるおしるしです。不思議なことではないのです。これこそが、古代人のとらえ方の特徴なのです。

七福神の一員としてのスタイルはおなじみで、狩衣に頭巾をかぶり、左肩に袋を背負い、右手に打ち出の小槌を持って、米俵を踏まえています。福の神として広く民間に信仰され、この噺でも、当然袋をかついで登場します。 

江戸の風物詩、大黒舞い 【RIZAP COOK】

江戸時代には、大黒舞いといい、正月に大黒天の姿をまねて、打ち出の小槌の代わりに三味線を手に持ち、門口に立って歌、舞いから物まね、道化芝居まで演じる芸人がありました。

吉原では、正月二日から二月の初午(はつうま)にかけて、大黒舞いの姿が見られたといいます。

「黄金の大黒」のくすぐりから 【RIZAP COOK】

大家が自分のせがれのことを、
「わが子だと思って遠慮なくしかっておくれ」
と言うと、一人が、この間、大家の子が小便で七輪の火を消してしまったので、
「軽くガンガンと……」
「げんこつかい?」
「金づちで」
「そりゃあ乱暴な」
「へえ、お礼にはおよびません」

左甚五郎 【RIZAP COOK】

江戸時代初期に活躍したとされる伝説的な彫刻職人です。講談、浪曲、落語、芝居などで有名で、「左甚五郎作」と伝えられる作品も各地にあります。「甚五郎作」といわれる彫り物は全国各地にゆうに100か所近くあるそうです。その製作年間は安土桃山期、江戸後期まで300年にもわたり、出身地もさまざまのため、左甚五郎とは伝説上の人物と考えるのが妥当だろう、というのが現在の定説です。各地で腕をふるった工匠たちの代名詞としても使われたと考えてもよいでしょう。江戸中期になると、寺社建築に彫り物を多用することになりますが、その頃に名工を称賛する風潮が醸成されていったようです。

ポイントは「江戸初期」ということです。破壊と略奪の戦国時代が終わって、復興と繁栄が始まる息吹の時代です。江戸幕府は、応仁の乱以来焼亡した寺社の再建に積極的に乗り出しました。多くの腕自慢の職人が活躍した時期が「江戸初期」だったのです。

甚五郎が登場する落語や講談の作品は、以下のとおりです。

「三井の大黒」
「竹の水仙」
「鼠」
「甚五郎作(四ツ目屋)」
「掛川の宿」
「木彫りの鯉」
「陽明門の間違い」
「水呑みの龍」
「天王寺の眠り猫」
「千人坊主」
「猫餅の由来」
「あやめ人形」
「知恩院の再建」
「叩き蟹」

ついでに、左甚五郎の伝承を持つ主な作品を掲げておきます。時期も場所も多岐にわたっています。

眠り猫(日光東照宮)
閼伽井屋の龍(園城寺)
鯉山の鯉(京都の祇園祭)
日光東照宮(栃木県日光市)眠り猫
妻沼聖天山 歓喜院(埼玉県熊谷市)本殿「鷲と猿」
秩父神社(埼玉県秩父市)子宝・子育ての虎、つなぎの龍
泉福寺(埼玉県桶川市)正門の竜
安楽寺(埼玉県比企郡吉見町)野あらしの虎
慈光寺(埼玉県比企郡ときがわ町)夜荒らしの名馬
国昌寺(埼玉県さいたま市緑区大崎)
上野東照宮(東京都台東区)唐門「昇り龍」「降り龍」
上行寺(神奈川県鎌倉市)山門の竜
淨照寺(山梨県大月市)本堂欄間
長国寺(長野県長野市)霊屋 破風の鶴
静岡浅間神社(静岡県静岡市)神馬
龍潭寺(静岡県浜松市)龍の彫刻 鶯張りの廊下
定光寺(愛知県瀬戸市)徳川義直候廟所 獅子門
誠照寺(福井県鯖江市)山門 駆け出しの竜、蛙股の唐獅子
園城寺(滋賀県大津市)閼伽井屋の龍
石清水八幡宮(京都府八幡市)
成相寺(京都府宮津市)
養源院(京都府京都市東山区)鶯張りの廊下
知恩院(京都府京都市東山区)御影堂天井「忘れ傘」、鶯張りの長廊下
祇園祭 (京都府)鯉山の鯉
稲爪神社(兵庫県明石市)
圓教寺(兵庫県姫路市)力士像
加太春日神社(和歌山県和歌山市加田)
出雲大社(島根県出雲市)八足門 蛙股の瑞獣、流水紋
西光寺(奈良県香芝市)鳳凰の欄間
飛騨一宮水無神社(岐阜県高山市) 稲喰神馬(黒駒)

【RIZAP COOK】

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ちょうないのわかいしゅう【町内の若い衆】演目

すごいオチですね。さすが、下町のおかみさんは太っ腹!

別題:鉢山嬶(上方) 類話:氏子中

【あらすじ】

長屋の熊五郎、兄貴分の家に増築祝いに寄ると、かみさんが、今組合の寄り合いに出かけて留守だと言う。

熊がお世辞ついでに、兄貴はえらい、働き者でこんな豪勢な建て増しもできて、組合だって兄貴の働き一つでもっているようなもんだと並べると、このかみさんの言うことが振るっている。

「あら、いやですよ。うちの人の働き一つで、こんなことができるもんですか。言ってみれば、町内の皆さんが寄ってたかってこさえてくれたようなもんですよ」

熊公、この言葉のおくゆかしさにすっかり感心してしまい「さすがに兄貴のとこのかみさんだ。それに引き換え、うちのカカアは同じ女でありながら」と、つくづく情けなくなった。

帰るといきなり「どこをのたくってやがった」とヘビ扱い。

てめえぐれえ口の悪い女はねえ、これこれこういうわけだが、てめえなんざこれだけの受け答えはできめえと説教すると「ふん、それくらい言えなくてさ。言ってやるから建て増ししてごらん」

痛いところを突かれる。

形勢が悪いので「湯ィへえってくる」と言えば「ついでに沈んじゃえ。ブクブク野郎」

熊公が腹を立て「しらみじゃねえが、煮え湯ぶっかけてやろうかしらん」と考えながら歩いていると、向こうから八五郎。

そこで熊「カカアの奴、ああ大きなことを抜かしゃあがったからには、言えるか言えねえか試してやろう」と思いつき、八五郎に「オレが留守のうちに何かオレのことをほめて、うちの奴がどんな受け答えをするか、聞いてきてくんねえ」と頼む。

一杯おごる約束で引き受けた八五郎、いきなり熊のかみさんに「あーら、八っつあん、うちのカボチャ野郎、生意気に湯へ行くなんて出てったけど、どうせあんなツラ、洗ったってしょうがないのにさ。あきれるじゃないか」

先制パンチを食らわされ、目を白黒させたが、なにかほめなくてはとキョロキョロ見回しても、何もない。

畳はすりきれている。土瓶は口がない。かみさんは臨月で腹がせり出している。

これだと思って「いやあ、さすがに熊兄ィ。この物価高に赤ん坊をこさえるなんて、さすが働き者だ」

するとかみさんが「あら、いやですよ。うちの人の働き一つでこんなことができるものですか。言ってみれば、町内の皆さんが寄ってたかってこさえてくれたようなもんですよ」

出典:五代目古今亭志ん生

【RIZAP COOK】

【しりたい】

意外に珍しい、原話もそのまま 【RIZAP COOK】

たいていの噺は、原典があっても長い年月を経ているうちにかなりストーリーが変わってくるものですが、この「町内の若い衆」ばかりは最古の原話とされる元禄3年(1690)刊の笑話本『枝珊瑚珠』中の「人の情」以来、大筋はまったく同じなんです。

この笑話集は、江戸落語の始祖といわれる鹿野武左衛門(1649-99)の手になるものですが、それから1世紀を経た寛政10年(1798)刊の『軽口新玉箒』中の「築山」になると、オチの女房のセリフが「これも主(=主人)ばかりでなく、内の若い衆の転合(てんごう。いたずら)にこしらえました」と、よけいエスカレートしています。いかに「若い衆がよってたかって」のオチにインパクトが強かったかがわかろうというものです。

「こさえてくれた」の一言でご難 【RIZAP COOK】

このたった一言のおかげで、あわれ、この噺はアジア太平洋戦争の間は禁演落語の一つに指定され、「噺塚」に葬られていました。

五代目古今亭志ん生がまだ七代目金原亭馬生だったころの昭和10年(1935)2月、レコードに吹き込んだ「町内の若い衆」の速記が残っています。問題の最後の部分は「こさえてくれた」ではとても検閲を通らず、「育ててくれた」という、おもしろくもおかしくもないものになっていますが、この時点までは、この程度のゴマカシで、エロ落語もかろうじて命脈を保っていたことになります。

もっと強烈な「氏子中」 【RIZAP COOK】

前述の志ん生の速記は、実はタイトルが「氏子中」で、長男の十代目金原亭馬生も同じ題で「町内の若い衆」を演じています。ところが、同じ不倫噺でも本来、この二つは別話なんですね。「氏子中」の項目を見ていただければおわかりになると思いますが、ここでは、そっちを見るのもめんどうな方のために、さわりを記しておきます。

商用の旅から一年ぶりに帰った亭主の与太郎が、女房が妊娠しているのを見て、驚いて問いただすと、女房もさるもの、氏神の神田明神に願掛けして授かった子だと、しらばっくれる。親分に相談すると、「子供が産まれたら、祝いに友達連中を呼んで荒神さまのお神酒で胞衣(えな。胎盤)を洗えば、胞衣に本当の父親の紋が浮かび出る。そいつに母子ともノシつけてくれてやれ」そこで、言われたとおりにすると、「神田大明神」の文字がくっきり。疑いが晴れたかに見えたが、よくよく見ると横に「氏子中」。

こちらは、五代目三遊亭円楽がたまに演じていました。

歌麿の『艶本 葉男婦舞喜』から 【RIZAP COOK】

この噺を絵にすると、こんなかんじでしょうか。

下の絵は、喜多川歌麿の『艶本 葉男婦舞喜』に収録されています。「えほん はなふぶき」という、歌麿の有名な春画本の中の一枚ですね。

喜多川歌麿『艶本 葉男婦舞喜』上巻第七図より

この絵の書き入れ(絵のまわりにちりばめられた文字)は男女の会話です。じつは、こんなことを話しているのです。現代語訳にしてみました。

女「この子は確かおめえの子だよ。うちの亭主には少しも似ねえ。おめえにどこか似ているようだ」
男「世間の人は、とかく子持ちのぼぼは味が悪いというが、おいらあ、子持ちのぼぼでなけりゃアうま味は出ねえものと心得ている。あああ、いい。どうも言えねえ。豪勢、豪勢。まだ気をやるのは惜しいが、どうももう、たまらなくなってきた。さあさあ、十四の背骨がずんずんしてきたぞ」

絵に出ている子供はどうやら、おかみさんと「町内の若い衆」との子のようです。女は「あんたの子だよ」なんて詰め寄っているのに、男は「子持ちのぼぼがいい」とかほざいて、どこ吹く風。この子の認知をしません。会話のちぐはぐがなんとも笑いを誘います。

ひとつ、蛇足を。この絵では子供が乳を吸っています。乳を吸われると締まりがよくなるため、それを好んで男が挑むのだそうです。ということは、この男女はなかなかな手練れなのかもしれませんね。

参考文献:車浮代『歌麿春画で江戸かなを学ぶ』(中央公論新社、2021年)

【RIZAP COOK】

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のっぺらぼう【のっぺらぼう】演目 

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小勝が脚色した「終わりのない恐怖」。前半は有名ですね。

あらすじ

小間物屋の、吉兵衛。

互いに碁が好きという縁で、赤坂のさる殿さまの屋敷に出入りし、大変ごひいきになっている。

今夜も商売かたがた、夜遅くまでザル碁を戦わせ、ごちそうにもなって、いい機嫌での帰り道、赤坂見附は弁慶橋のたもとにさしかかった。

提灯の明かりでふと見ると、年頃十七、八で文金島田、振袖姿のお嬢さん。

堀の方へ向かって手を合わせているから、これは誰が見ても身投げ。

喜兵衛、そーっと寄って帯をつかみ
「まあまあ、お待ちなさい。なんだね若い身空で。どういうわけか話してごらんな」
「おじさん、こんな顔でも聞いてくれる?」

振り向いた娘の顔は……のっぺらぼう。

「ギャッ」
と、驚いた喜兵衛、夢中で逃げ出し、四谷見附のあたりまで一目散に走ると、ちょうど二八そば屋の灯が見えた。

やれうれしやと駆け込んだ。

で、おやじに、これこれと話すと
「そりゃあ、気持ちが悪うございましたでしょう。ところで、だんなのご覧になったのはこんな顔で?」

ひょいと顔を上げると、そば屋の顔も、のっぺらぼう。

喜兵衛、今度こそ本当に仰天し、
「ウウーッ」
と悲鳴を上げて、どこをどう走ったか、やっとこわが家に逃げ帰った。

ガタガタ震えながら、女房にまたかくかくしかじかと話をした。

「まあ、気味が悪いじゃないか。碁に夢中になって遅くなるからそんな変なものを見るんだよ。ところで、おまえさんの見たのっぺらぼうって、こんな顔じゃなかったかい?」

見ると、今度はかみさんの顔がのっぺらぼう。

喜兵衛、気の毒にもう逃げる場がない。

「ウーム」
と一声、目を回してしまった。

「……ちょいとちょいと、起きなさいよ。どうおしだね。おまえさん」

気がつくと、女房が肩を揺すっている。

顔を見ると、ちゃんと目鼻が付いている。

ああ、悪い夢を見ていたか。

夢でよかった、と安心して、聞いてみると、おまえさん、昨日は風邪を引いたと言って、一日中家で寝ていたじゃないかと言うので、喜兵衛は、では、やっぱりすべて夢、と、いよいよほっと胸をなでおろし、改めて一部始終を話した。

「なんだねえ、私の顔がのっぺらぼうになったって。つまんない夢だねえ。本当になったのかい? 私の顔が。ン、じゃあ、なにかい、こんな顔だったかい?」
と言うと、また、……のっぺらぼう。

哀れ喜兵衛、また目を回す。

「……ちょいとちょいと、起きなさいよ。どうおしだね、おまえさん」

また起こされる。

これが、ぐるぐる回りで、ずーっと続く。

出典:六代目三升家小勝

【RIZAP COOK】

【しりたい】

のっぺらぼう実録 【RIZAP COOK】

水木しげるによれば、かつて和泉国(大阪府)に、「白坊主」というのっぺらぼうが出没したよし。

落語では、演出によりますが、女の姿で「化け物つかい」に登場しています。隠居に縫い物をさせられますね。

「どっかから見てるんだねえ」
という、志ん朝のくすぐりが秀逸でした。

竜斎閑人正澄画『狂歌百物語』より「のっぺらぼう」

夢かうつつか、うつつか夢か 【RIZAP COOK】

八代目文楽門下の俊秀で、早世が惜しまれた六代目三升家小勝(1908-71)の作です。だから新作。

のっぺらぼう怪談は、民話がルーツで、そば屋のおやじのくだりまでは「こんな顔」として、小咄やマクラとしてよく使われます。

1992年8月21日、フジテレビ系列で放映されたオムニバス怪談ドラマ「むじな」で、被害者の男を春風亭小朝、そば屋のおやじを梅津栄がそれぞれ演じました。

小勝がその小咄を「終りなき恐怖」という要素を付け加え、秀作に仕上げました。

惜しいことに、小勝没後はあまり演じ手がありません。1966年、本人の最後の高座もこの噺でした。

「ぬっぺらぼう」が正式 【RIZAP COOK】

江戸では、目鼻口のない化物を言うときは「ぬっぺらぼう」「ぬっぺらぽん」「ぬっぺっぽう」と呼びました。

そこから派生的に、とらえどころがない、という意味が加わり、「ぬっぺらぽん」「のっぺらぽん」は、単に頭が坊主できれいに毛がないこと、さらには、うすぼんやりした愚か者という意味にまで広がりました。

願人坊主がコミカルに踊る歌舞伎清元舞踊「浮かれ坊主」の冒頭に、
「そもそもおいらがのっぺらぽんのすっぺらぽん、すっぺらぽんののっぺらぽんと坊主になった、いわく因縁聞いてもくんねえ」
という文句があります。

案外、ぬ(の)っぺらぼうという妖怪も、暗い夜道で、願人坊主や按摩を化物と見間違えたのが「都市伝説」化したのかもしれません。

【RIZAP COOK】

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ねこただ【猫忠】演目

明治中期に上方から。当初は「猫の忠信」でしたが、お得意の縮めた呼称に。

あらすじ

美人の清元の師匠に、下心見え見えで弟子入りしている、次郎吉と六兵衛の二人。

次郎が、師匠と兄貴分の吉野屋常吉がいちゃついているのをのぞき、稽古を辞めると息巻くので、六さん、「常兄ィは堅い人なのにおかしいな」と首をひねり、二人で確かめに行くと、案の定、差し向かいで盃をさしつさされつ。

悔しいから、常吉のかみさんに告げ口して、夫婦げんかをあおってやろうと、相談する。

たまたま、今度のおさらい会で師匠が着る衣装を縫っていたかみさん、二人が「師匠が『お刺身の冷たいのは毒だよ』なんぞと口ん中でペロペロと温かにして、兄貴の口へ……」などと並べるのを聞いて「けんかをしずめてくれるのが情けなのに、わざわざ波風を立てに来るのはどういうつもりだい」と、怒り出す。

亭主は今の今、奥で寝ている、という。

噺を聞きつけて当の常吉がノッソリ現れたから、二人は仰天。

いきさつを聞いた常吉。

そういえば、最近床屋に行くと「やっぱり他人じゃないんで、唄のお仕込が違うんでしょう」などと妙なことを言われるので、オレの姿を借りて、師匠の家に入り込んでいる奴がいるのかもしれないと、思いめぐらす。

二人を連れて現場に駆けつけ、障子の隙間からのぞいてみると、なるほど、自分に瓜二つの男が師匠としっぽり濡れているから、驚いた。

これは狐狸妖怪に違いないと、二人に「先ィ入って、向こうで盃をくれたら、油断を見澄まして野郎の耳を触ってみろ。獣は耳を触られると動くから、そうしたら大声で『ぴょこぴょこッ』とでもどなれ」と、言いつける。

二人がおそるおそる声をかけると、酔っぱらった声で「よう、次郎と六じゃねえか。こっちィ入んねえ」

気のせいか、声の調子が違う。

酒を出されると「ひょっとして、馬の小便じゃねえか」と、二人はびくびく。

ご返盃に相手が手を出したところを押さえつけ、耳を触ると案の定、ぴくぴく動く。

「ぴょこぴょこだッ」
と叫ぶ声で、本物の常吉が飛び込んできたので、師匠は
「あら、常さんが二人」
と、仰天。

「やい、おれ……いや、てめえは化性のもんだな。真の吉野屋常吉、吉常(=義経)が調べる。白状しろ」

妖怪はすっかり恐れ入り、
(芝居がかりで)「はいはい、申します申します。わたくしの親は、あれ、あれあれあれ、あれに掛かりしあの三味線、わたくしはあの三味線の子でございます」

師匠の三味線の革にされた親を慕ってきた、とさめざめ泣く。ヒョイと見ると、正体を現した大きな猫がかしこまっている。

「兄貴、今度のおさらいは『千本桜』の掛け合いだろう。狐忠信てのはあるが、猫がただ酒をのんだから、猫がただのむ(=猫の忠信)だ。あっしが駿河屋次郎吉で駿河の次郎。こいつは亀屋六兵衛で亀井の六郎。兄貴が弁慶橋に住む吉野屋の常さんで吉常(義経)。千本桜ができたね」
「肝心の静御前がいねえ」
「師匠が延静だから静御前」

師匠が「あたしみたいなお多福に、静が似合うものかね」と言うと、側で猫が「にゃあう(似合う)」

【RIZAP COOK】

しりたい

著作権料は誰のもの?  【RIZAP COOK】

もともと古い上方落語で、大阪の笑福亭系の祖とされる、松富久亭松竹の創作といわれてきましたが、実は原話は、文政12年(1829)江戸板の初代林屋(家)正蔵著『たいこの林』中の「千本桜」で、ほとんど現行と同じです。

松竹という人、今もって生没年、経歴、年代不詳で、それどころか、実在自体が確認できない、「落語界の写楽」ともいえる謎の噺家です。

それでいて、松竹の手になるといわれる噺は多く、この「猫忠」のほか、「初天神」「松竹梅」「千両みかん」「たちぎれ」など、ほとんど現在でも、東西でよく演じられる名作、佳作ばかりです。

江戸の正蔵が始祖とすると、噺の伝播は江戸→大坂であって、松竹説は怪しくなるのですがともかく、噺としては上方で確立しており、松竹の年代も不明なため、東西どっちがパクったか、真相は藪の中。

猫又にでも、聞いてくださいな。

東西のやり方  【RIZAP COOK】

芝居噺の名手だった、六代目桂文治が明治中期に上方の型を東京に移植。初めは「猫の忠信」の題で演じられましたが、東京ではのちに縮まって「猫忠」とされ、それが現代では定着しました。

その文治の明治30年(1897)の速記を始め、八代目文治、大阪の五代目・六代目松鶴、六代目三遊亭円生とさまざまな名人の速記が残っています。

東西で大きな異同はありませんが、上方では初めに次郎吉が師匠の家を覗く場面があります。上方は見あらわしに乗り込むとき、最初に常吉ではなく、女房がいっしょに行くところが東京と異なり、大阪では女師匠が義太夫、東京では常磐津か清元である点も違っています。

円生は延静で演じましたが、「延」が付くのは清元の師匠で、家元の延寿太夫の一字を取ったもの。「百川」に登場の歌女文字師匠のように「文字」が付けば常磐津です。

「千本桜」四段目の口の舞踊「道行初音旅」は、義太夫と清元もしくは常磐津の掛け合いになるので、噺にこうした師匠が登場するわけです。

東ではやはり、この人  【RIZAP COOK】

昭和に入って戦後にかけ、東京でのこの噺の第一人者はやはり、六代目三遊亭円生でした。円生は三代目三遊亭円馬から習っています。オチは、円生以外は東西ともほとんど「ニャウニャウ」と二声でしたが、円生は円馬に倣って、すっきりと一声に改めました。東京ではほかに、三代目桂三木助も演じました。

「義経千本桜」のパロディー   【RIZAP COOK】

『義経千本桜』は人形浄瑠璃(文楽)の作品です。全五段の時代浄瑠璃で、通称「千本」とも。『菅原伝授手習鑑』『仮名手本忠臣蔵』と並ぶ三大浄瑠璃の一つとされています。初演は延享4(1747)年11月、大坂・竹本座、作者は『仮名手本忠臣蔵』と同じチームで、竹田出雲、並木千柳、三好松洛の合作です。

この噺は、人物名がすべて「千本桜」の役名のもじり。オチ近くの化け猫のセリフは、四段目の切「河連法眼館」(通称「狐忠信」)のパロディーで、芝居の狐の、「わたくしはあの、鼓の子でござります」のもじりです。詳しくは「初音の鼓」をご参照ください。

5世尾上菊五郎演じる忠信を描いた錦絵/画・豊原国周 、国立国会図書館所蔵

弁慶橋  【RIZAP COOK】

東京都中央区岩本町二丁目のあたり。神田の藍染川に架かっていた橋ですが、幕末にはもうありませんでした。付近には駿河町、亀井町など、源義経の四天王にちなんだ町名が並んでいました。藍染川、駿河町については「三井の大黒」参照。「ちきり伊勢屋」の弁慶橋は同じ千代田区にあるのですが、ここではありません。

初音の鼓 三井の大黒 ちきり伊勢屋

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