ゆめのさけ【夢の酒】演目

文楽が昭和10年ごろに磨き上げた、珠玉の噺。オチが有名ですね。

【あらすじ】

大黒屋の若旦那が夢を見てニタニタ。

かみさんが気になって起こし、どんな夢かしつこく聞くと「おまえ、怒るといけないから」

怒らないならと約束して、やっと聞き出した話が次の通り。

(夢の中で)若旦那が向島に用足しで出かけると、夕立に遭った。

さる家の軒下を借りて雨宿りをしていると、女中が見つけ
「あら、ご新造さん、あなたが終始お噂の、大黒屋の若旦那がいらっしゃいましたよッ」
「そうかい」
と、泳ぐように出てきたのが、歳のころ二十五、六、色白のいい女。

「まあ、よくいらっしゃいました。そこでは飛沫がかかります。どうぞこちらへ」

遠慮も果てず、中へ押し上げられ、世話話をしているとお膳が出て酒が出る。

盃をさされたので
「家の親父は三度の飯より酒好きですが、あたしは一滴も頂けません」
と断っても、女はすすめ上手。

「まんざら毒も入ってないんですから」
と言われると、ついその気でお銚子三本。

そのうちご新造が三味線で小唄に都々逸。

「これほど思うにもし添われずば、わたしゃ出雲へ暴れ込む……」

顔をじっと覗きこむ、そのあだっぽさに、頭がくらくら。

「まあ、どうしましょう。お竹や」
と、離れに床をとって介抱してくれる。落ち着いたので礼を言うと
「今度はあたしの方が頭が痛くなりました。いいえ、かまわないんですよ。あなたの裾の方へ入らしていただければ」
と、燃えるような長襦袢の女がスーッと……というところで、かみさん、嫉妬に乱れ、金きり声で泣き出した。

聞きつけた親父が
「昼日中から何てざまだ。奉公人の手前面目ない」
と若夫婦をしかると、かみさんが泣きながら訴える。

「ふん、ふん、……こりゃ、お花の怒るのももっともだ。せがれッ。なんてえ、そうおまえはふしだらな男」
と、カンカン。

「お父つぁん、冗談言っちゃいけません。これは夢の話です」
「え、なに、夢? なんてこったい。夢ならそうおまえ、泣いて騒ぐこともないだろう」

親父があきれると、かみさん、日ごろからそうしたいと思っているから夢に出るんですと、引き下がらない。挙げ句の果てに、親父に、その向島の家に行って
「なぜ、せがれにふしだらなまねをした
と、女に文句を言ってきてくれ」と頼む。

淡島さまの上の句を詠みあげて寝れば、人の夢の中に入れるというからと譲らず、その場で親父は寝かされてしまった。

(夢で)「ご新造さーん、大黒屋の旦那がお見えですよ」

女が出てきて
「あらまあ、どうぞお上がりを」
「せがれが先刻はお世話に」
というわけで、上がり込む。

「ばかだね。お茶を持ってくるやつがありますか。さっき若旦那が『親父は三度の飯より酒が好きだ』と、おっしゃったじゃないか。早く燗をつけて……え? 火を落として……早くおこして持っといで。じきにお燗がつきますから、どうぞご辛抱なすって。その間、冷酒で召し上がったら」
「いや、冷酒はあたし、いただきません。冷酒でしくじりましてな。へへ、お燗はまだでしょうか」
と言っているところで、起こされた。

「うーん、惜しいことをしたな」
「お小言をおっしゃろうというところを、お起こし申しましたか」
「いや、ヒヤでもよかった」

【しりたい】

改作の改作の改作  【RIZAP COOK】

古くからあった人情噺「雪の瀬川」(松葉屋瀬川)が、元の「橋場の雪」(別題「夢の瀬川」)として落とし噺化され、それを初代(鼻の)三遊亭円遊が現行のオチに直し、「隅田の夕立」「夢の後家」の二通りに改作。後者は、明治24年(1891)12月、「百花園」掲載の速記があります。

このうち「隅田の夕立」の方は円遊が、夢の舞台を向島の雪から大川の雨に代え、より笑いを多くしたものと見られます。

元の「橋場の雪」は三代目柳家小さんの、明治29年(1896)の速記がありますが、円遊の時点で「改作の改作の改作」。ややっこしいかぎりです。

決定版「文楽十八番」  【RIZAP COOK】

もう一つの「改作の改作の改作」の「夢の後家」の方を、八代目桂文楽が昭和10年(1935)前後に手を加え、「夢の酒」として磨き上げました。つまり、文楽で「改作の改作の改作の改作」。

文楽はそれまで、「夢の瀬川(橋場の雪)」をやっていましたが、自らのオリジナルで得意の女の色気を十分に出し、情緒あふれる名品に仕立て、終生の十八番としました。

円遊は導入部に「権助提灯」を短くしたものを入れましたが、文楽はそれをカットしています。

オチの部分の原話は中国明代の笑話集『笑府』中の「好飲」で、本邦では安永3年(1774)刊『落噺笑種蒔』中の「上酒」、同5年(1776)刊の『夕涼新話集』中の「夢の有合」に翻案されました。どちらもオチは現行通りのものです。

夢を女房が嫉妬するくだりは、安永2年(1773)刊『仕形噺口拍子』中の「ゆめ」に原型があります。

「夢の後家」  【RIZAP COOK】

「夢の後家」の方は、「夢の酒」と大筋は変わりませんが、夢で女に会うのが大磯の海水浴場、それから汽車で横須賀から横浜を見物し、東京に戻って女の家で一杯、と、いかにも円遊らしい明治新風俗を織り込んだ設定です。

「橋場の雪」のあらすじ  【RIZAP COOK】

少し長くなりますが、「橋場の雪」のあらすじを。

若旦那が雪見酒をやっているうちに眠りこけ、夢の中で幇間の一八(次郎八)が、瀬川花魁が向島の料亭で呼んでいるというので、橋場の渡しまで行くと雪に降られ、傘をさしかけてくれたのがあだな年増。

結局瀬川に逢えず、小僧の定吉(捨松)に船を漕がせて引き返し、その女のところでしっぽりというところで起こされ、女房と親父に詰問される。

夢と釈明して許されるが、定吉に肩をたたかせているうち二人ともまた寝てしまう。女中が「若旦那はまた女のところへ」とご注進すると、かみさん「ここで寝ているじゃないか」「でも、定どんが船を漕いでます」とオチ。

三代目小さんは、主人公を旦那で演じました。上方では「夢の悋気」と題し、あらすじ、オチは同じです。

本家本元「雪の瀬川」  【RIZAP COOK】

原話、作者は不明です。「明烏」の主人公よろしく、引きこもりで本ばかり読んでいる若旦那の善次郎。番頭が心配して、気を利かせて無理に吉原へ連れ出し、金に糸目をつけず、今全盛の瀬川花魁を取り持ちます。

ところが薬が効きすぎ、若旦那はたちまちぐずぐずになってあっという間に八百両の金を蕩尽。結局勘当の身に。

世をはかなんで永代橋から身投げしようとするのを、元奉公人で屑屋の忠蔵夫婦に助けられ、そのまま忠蔵の長屋に居候となります。

落剥しても、瀬川のことが片時も忘れられない善次郎、恋文と金の無心に吉原まで使いをやると、ちょうど花魁も善次郎に恋煩いで寝たきり。そこへ手紙が来たので瀬川は喜んで、病もあっという間に消し飛びます。

ある夜、瀬川はとうとう廓を抜け、しんしんと雪の降る夜、恋しい若旦那のもとへ……。結局、それほど好きあっているのならと、親元に噺をして身請けし、めでたく善次郎の勘当も解けて晴れて夫婦に、というハッピーエンドです。

夢の場面はなく、こちらは、三遊本流の本格の人情噺。別題「松葉屋瀬川」で、六代目三遊亭円生が、ノーカットでしっとり演じました。

淡島さまと淡島信仰  【RIZAP COOK】

淡島さまの総本社は和歌山市加太の淡嶋神社です。ご神体は、少彦名命(すくなひこなのみこと)、大己貴命(おほなむじのみこと)、息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)です。大己貴命は大国主命と同じとされています。少彦名命は蘆船でやってきた外来神で、大国主命と協力して国造りをなし遂げた後、帰っていきました。息長足姫命は神功皇后のことです。仲哀天皇の皇后で、韓半島に行って三韓征伐をしたという伝説で、明治期から昭和戦前期までは日本人の誰もが知っている人でした。後の応神天皇をおなかに抱えたまま船で韓半島に向かった勇ましい人です。このように見ると、淡嶋神社は出雲系でしょう。しかも、水と女性に深いかかわりのある神社のようです。

江戸では浅草寺と、北沢の森厳寺(世田谷区代沢三丁目)が有名でした。ともに、境内に淡島堂が建っています。江戸時代には淡島願人なる淡島信仰専門の願人坊主が江戸市中を回って、婦人病や腰痛に効能がある旨を触れて回りました。

浅草寺境内の淡島神社は、仲見世を背にすると左側に六角のお堂が建っていますが、そこのあたりにありました。昭和20年3月10日の東京大空襲で焼失しましたが、六角堂は残りました。これを淡島堂と呼んでいます。

森厳寺は、腰痛に悩んでいた開山(慶長12=1607年)の清誉上人が、出身地である加太の淡島明神に願を掛けたところ、霊夢によって淡島神から治療法を教えられたので、上人はそのお通りにやってみたら完治。弟子たちにも療法を教え、ここはまるで外科医院のように。上人は淡島神の威徳を感じて、この地に勧請(分霊)しました。それが淡島堂。森厳寺は浄土宗の寺院です。浄土宗は願人坊主をうまく宣伝に使いました。と同時に、森厳寺は北沢八幡の別当でもありました。明治時代以前には神仏習合が一般的で、寺と神社が混在合体していることがありました。北沢八幡と森厳寺とはいっしょだったのです。

噺中の「淡島さまの上の句」云々は「われ頼む 人の悩みの なごめずば 世に淡島の 神といはれじ」という歌。淡島願人が唱えて回った祭文の一部でした。人の夢に入り込めないのなら神さまじゃないと言っています。淡島信仰と夢のかかわりは森厳寺の清誉上人の霊夢に発するものでした。それをうまく利用して、願人が淡島神の霊験を説いて回ったのでした。

淡島さまの信仰は各地にあります。淡島神社、淡嶋神社、粟島神社。みんな淡島信仰の神社です。全国に約1000社あるそうです。花街、遊郭、妾宅の多かった地区に祀られていることが多いようです。たとえば、日本橋浜町。ここは、明治期には妾宅の街として名をとどろかします。艶福家の渋沢栄一もこの地に妾宅を構えて、68歳で子をなしました。すごい。この町内にも淡島さまがありました。今はありませんが、明治期には清正公寺(日蓮宗)の境内にしっかりあったといいます。

水と女性にかかわる信仰は、生命の根源を象徴する水からのイメージで、性と生殖をも結び付けます。淡島神は縁結びの神でもあるし、付会だそうですが、淡島神は住吉神の女房神とされてもいますから、男女の夢を結ぶ、男女が航海する(ともに人生を歩む)という意味合いも生まれていきます。

和歌山市加太の淡嶋神社からの勧請(分霊、霊のおすそ分け)で、全国に広まっています。淡嶋神社では小さな赤い紙の人形を女性のお守りとして配布しています。

おおざっぱには、淡島信仰は、元禄期から始まります。淡島願人といわれる願人坊主の一種が多く出回りました。願人坊主ですから、祭文を唱えて歩き、全国に広まりました。

街でぼろをまとってのそのそ歩いている人などを見て、昔の人(昭和ヒトケタ生まれ以前の人)は「淡島さまのようだ」などと言いました。決してからかったり馬鹿にしたりするのではないようなのです。こんな襤褸のなりは仮の姿であることを先刻承知しているかのようなまなざしで。『古事記』で、イザナギとイザナミが最初に子をなすのはアワシマ。次がヒルゴ。ともに失敗と感じて蘆船に乗せて海に流します。淡島神の発祥はここからで、不完全で醜いイメージがついて回ります。「淡」にはよくない意味あいも含まれているんだそうです。なおかつ、女性を守る神さまですから、淡島信仰では針供養などもさかんに行われまして、布に何本も針を刺すと布がぼろぼろになります。これを人々は「淡島さまのようだ」と感じたようなのです。ここから、蘆船に乗ってきて、体が小さくてことばが通じない少彦名命、でも、ものすごい潜在能力をもっていた少彦名命のイメージを重ねたのでしょう。見た目では侮れない存在として。

【RIZAP COOK】

とろろん【とろろん】演目

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にぎやかで陽気。東海道の丸子宿が舞台の一席。上方噺の音曲噺です。

【あらすじ】

無尽に当たって懐が温かい、神田堅大工町の八五郎。

ひとつ伊勢参りでもして散財しようという気を起こし、弟分の熊と文次を誘って、東海道を西へ。

途中、馬子とばかを言いながら毬子(=丸子)宿までやって来る。

今夜の泊まりは一力屋という旅籠だが、あいにく下で寄合があるので、しばらく二階座敷でご同座を願いたいと頼まれる。

同宿は三人で、大坂者が一人に、上州から出てきたという婆さん、それに梅ヶ谷の弟子で梅干という相撲取り。

あいさつが済んだところへ女中が
「あんたがたハァ、毬子の名物をあがりますかな」
と聞きにくる。

「なんだ」
と聞くと
「トルルルー」
とか。

「ばか野郎、毬子名物ならとろろ汁じゃねえか」
と少しはもののわかった八五郎が教えたが、また
「マンマがバクハンでもようごぜえますか?」
と聞くので、そそっかしい文次が
「バッカラカン」
と聞き間違え
「格好の悪い丼じゃねえか」
と思い込んで、ひと騒ぎ。

麦飯のお櫃は来たが、いくら待ってもとろろが来ない。

二人が
「バッカラカンてやがって、人をばかにしてやがるから、下にケンツクを食わせよう」
と怒るのを、八五郎が
「寄合で忙しくて手がまわらないんだろう」
となだめ、
「下で思い出すように、なんでもトロトロとつく唄をうたって催促しようぜ」と提案する。

八五郎が甚句で
「トントンチリチリツンテントン、泊まり合わせしこの家の二階、麦の馳走はよけれども、なにもなくては食べられぬ、なんで食べよぞこの麦を、押してけ持ってけ三段目」
とやると
「押してけ持ってけ」
が悪く、せっかく来かかったのが戻されてしまう。

「それでは」
と婆さんが、昔取った杵柄、巫女の口寄せを。

「慈悲じゃ情けじゃお願いじゃ、どうぞ宿屋の女子衆よ、とろろを手向けてくださりませ」
「縁起でもねえ。手向けられてたまるか」

今度は大坂者に
「なにかやってくれ」
と頼むと、これは浄瑠璃で
「デンデンデンチトンチン、チントンシャン、シャンシャンジャジャジャ」
と雌馬の小便のよう。

真っ赤にうなって
「麦の馳走はよけれども、おかずのうては食べられぬ。オオオオ」

とうとう泣きだす。

相撲取りが一人ゲラゲラ笑っているので
「おめえもやらねえか」
と催促すると
「最前からおもしろうございました。実はわしは相撲じゃありません」
「なんだ」
「祭文語りで」
「どうりで小せえ相撲取りだと思った」

ほら貝と錫杖を前の宿屋に忘れたというので、口だけで
「なにでべよぞンガエこのン麦をエー、おかずがのうては、ンガエ、食べンエンらンれンぬ、お察しあれや宿屋のご主人、なにで食べよングエこのン麦をングエ」
とやると、主人がすり鉢を持って
「とろろんとろろん」

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【しりたい】

東西で異なるオチ

原話は不詳。上方の古い音曲噺「出られん」を東京に移植したものです。

移植者や年代はわかりませんが、大正3年(1914)6月、『文藝倶楽部』に掲載された三代目古今亭今輔(1869-1924)の速記が残ります。

上方のオチは、題名通り主人が下から「出られん」と言うもので、浪花節の古型である「デロレン祭文」と掛けた地口。一方、あらすじでご紹介したように東京では、「デロレン」を「トロロン」と呼んだので地口も丸子名物のとろろとしゃれたわけです。

小南の復活と工夫

東京では長く途絶えていましたが、戦後、二代目桂小南(1996年没)が大阪風の演出で復活、十八番にしました。小南では、隣の大尽風を吹かせる男に当てこするためなぞ掛けで嫌がらせした後、祭太鼓の合いの手でとろろを催促。隣をのぞくと、お大尽が「テントロロン」と、頬かぶりでひょっとこ踊りを踊っていた、という地(説明)のオチを工夫しました。小南没後は、再び後継者がいなくなっています。

祭文語り

さいもんがたり。祭文は浪花節の原型または古型で、上方では別名「デロレン左衛門(祭文)」と呼ばれました。もともと、祭のときに、独特の節回しで神仏に報告する役割を担いましたが、山伏姿の門づけ芸人がほら貝と銀杖を伴奏に、街頭でデロレンデロレンとうたい歩き、全国に普及したものです。のちに芸能化して歌祭文になり、幕末に浪花節(浪曲)へと進化をとげました。

口寄せ

霊媒のこと。「そもそも、つつしみ敬って申したてまつるは、上に梵天、帝釈、四大天王……」と、さまざまな神仏の名を唱えたのち、死者を呼び出すのが普通の段取りでした。婆さんの「とろろを手向けてくださりませ」は、憑依した亡者のことばのもじりです。

甚句

おもに相撲甚句のことで、「錦の袈裟」にも登場しました。都々逸と同じく、七七七五のリズムを持ちます。

丸子のとろろ汁

丸子(毬子)は東海道二十一番目の宿場で、今の静岡市の内。名物のとろろ汁は、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』や芭蕉の句でも。

梅若菜 毬子の宿の とろろ汁

そのほか、さまざまな道中名所記でおなじみです。自然薯のとろろを味噌汁で溶くのが特徴で、それを麦飯にかけて饗する質朴な味わいです。

【語の読みと注】
無尽 むじん
旅籠 はたご
寄合 よりあい
手向け たむけ
霊媒 れいばい
自然薯 じねんじょ

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