松山鏡 まつやまかがみ 演目

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おのが姿を、いまだ見たことのない人々のちぐはぐなお話です。

別題:羽生村の鏡(上方)

【あらすじ】

鏡というものを誰も見たことのない、越後の松山村。

村の正直正助という男、四十二になるが、両親が死んで十八年間、ずっと墓参りを欠かしたことがない。

これがお上の目にとまり、孝心あつい者であるというので、青緡五貫文のほうびをちょうだいすることになった。

村役人に付き添われて役所に出頭すると、地頭が、なにかほうびの望みはないかと尋ねるが、正助は、
「自分の親だから当たり前のことをしているだけだし、着物をもらっても野良仕事にはじゃまになるし、田地田畑はおとっつぁまからもらったのだけでも手に余る」
と辞退する。

金は、あれば遊んでしまうので毒だからと、どうしても受け取らない。

困った地頭が
「どんな無理難題でもご領主さまのご威光でかなえてとらすので、なんなりと申せ」
と、しいて尋ねると、正助、
「それならば、おとっつぁまが死んで十八年になるが、夢でもいいから一度顔を見たいと思っているので、どうかおとっつぁまに一目会わしてほしい」
と言い出す。

これには弱ったが、今さらならんと言うわけにはいかないので、地頭は名主の権右衛門に
「正助の父は何歳で世を去った」
と尋ねる。

行年四十五で、しかも顔はせがれに瓜二つと確かめると、さっと目配せして、鏡を一つ持ってこさせた。

この鏡は三種の神器の一つ、やたのかがみ(八咫鏡)のお写し(複製)で、国の宝。

「この中を見よ」
と言われ、ひょいとのぞくと、鏡を知らない正助、映っていた自分の顔を見て、おやじが映っていると勘違い。感激して泣きだした。

地頭は
「子は親に 似たるものをぞ 亡き人の 恋しきときは 鏡をぞ見よ」
と歌を添えて
「それを取らせる。余人に見せるな」
と下げ渡す。

正直正助、それからというもの、納屋の古葛籠の中に鏡を入れ、女房にも秘密にして、朝夕、
「おとっつぁま、行ってまいります」
「ただ今けえりました」
とあいさつしている。

女房のお光、これに気づき、どうもようすがおかしいと、亭主の留守に葛籠をそっとのぞいて驚いた。

これも鏡を見たことがないから、映った自分の顔を情婦と勘違い。

嫉妬に狂って泣き出し、
「われ、人の亭主ゥ取る面かッ、狸のようなツラしやがって、このアマ、どこのもんだッ」
と大騒ぎ。

正助が帰るとむしゃぶりつき
「なにをするだッ、この狸アマッ」
「ぶちゃあがったなッ、おっ殺せェ」
とつかみ合いの夫婦げんかになる。

ちょうど、表を通りかかった隣村の尼さんが、驚いて仲裁に入る。

両方の事情を聞くと尼さん、
「ようし、おらがそのアマっこに会うべえ」
と、鏡をのぞくと
「ふふふ、正さん、お光よ、けんかせねえがええよゥ。おめえらがあんまりえれえけんかしたで、中の女ァ、決まりが悪いって坊主になった」

底本:八代目桂文楽

【しりたい】

ルーツはインド

古代インドの民間説話を集めた仏典『百喩経』巻三十五「宝篋の鏡の喩(たとえ)」が最古の出典といわれます。中国で笑話化され、清代の笑話集『笑府』誤謬部中の「看鏡」に類話があります。その前にも、朝鮮を経て日本に伝わり、鎌倉初期の仏教説話集『宝物集』ほか、各地の民話に、鏡を見て驚くという同趣旨の話が採り入れられました。これらをもとに謡曲「松山鏡」、狂言「土産の鏡」が作られ、すべてこの噺の源流となっています。

江戸の小咄では、正徳2年(1712)刊の『笑眉』中の「仏前の宝鏡」が最初で、これは、鏡を拾おうとした男が「下から人が見ていた」ので取るのをやめた、というたわいないものですが、時代が下って文政7年(1824)刊の漢文体笑話本『訳準笑話』中の小咄では現行の落語と、大筋は夫婦げんかも含めてそっくりになっています。

文楽も志ん生も

明治29年(1896)の二代目三遊亭円橘の速記が残るほか、明治末から大正にかけては、三代目三遊亭円馬が上方の演出を加味して得意とし、それを直伝で八代目桂文楽が継承しました。地味ながら、隠れた十八番といっていいでしょう。

文楽とくれば、ライバル五代目古今亭志ん生も負けじと演じ、両者とも音源を残しています。志ん生のは、まあどうということもありませんが、夫婦げんかで亭主にかみつくかみさんの歯が「すっぽんの歯みてえな一枚歯」というのがちょっと笑わせます。三代目三遊亭小円朝、志ん生の長男、十代目馬生も演じました。

累伝説のパロディー

上方では「羽生村の鏡」と題します。筋は東京と変わりませんが、舞台を累怪談で有名な下総羽生村とします。これは、同村では昔、鏡を見ることがタブーだったという伝承に基づき、累伝説の一種のパロディーをねらったものと思われます。

松山村

新潟県東頸城郡松之山町。たまに伊予松山で演じられることもあります。

『北越雪譜』(岩波文庫など)にも登場しますが、なぜこの越後の雪深い寒村が舞台に選ばれたかは不明です。

ただ、重要な原点である謡曲、狂言がともに同村を舞台にしているので、そのあたりで何らかの実話があったのかも知れません。

地頭

じとう。鎌倉時代の地頭と異なり、江戸時代のそれは諸大名の家臣で、その土地を知行している者の尊称です。領主の名代で、知行地の裁判や行政を司ります。つまり天領の代官のようなものでしょう。村役人は、名主、組頭、百姓代の村方三役をいいます。

孝行のほうび

「青緡五貫文」は「孝行糖」にも登場しました。要するに、幕府の朱子学による統治のバックボーンとなった孝子奨励政策の一環です。

原典の一つである謡曲「松山鏡」では、亡母を慕って毎日鏡で自分の顔を見て、母親の面影をしのぶ娘の孝心の威徳により、地獄におとされようとした母の魂が救われて成仏得脱するという筋なので、この噺の孝行譚の要素はここらあたりからきたのでしょう。

丸刈りは厳罰

「大山まいり」でも触れましたが、江戸時代、俗人が剃髪して丸刈りになるのは、謹慎して人と交わりを絶つ証で、大変なことでした。

男でさえそうですから、女の場合はまして、髪を切るのは尼僧として仏門に入る以外は、たとえば不義密通の償いなどで助命する代りに懲罰として丸刈りにされる場合がほとんどでした。昔は「髪は女の命」といわれ、むごい見せしめとされたわけです。

これは万国共通とみえ、フランスなどで戦時中、ナチに協力したり、ドイツ兵の情婦になっていた女性をリンチで丸刈りにした例がありました。イタリア映画『マレーナ』でそういうシーンが見られました。落語では「大山まいり」「坊主の遊び(剃刀)」がお女郎さんを丸刈りにする噺です。

インチキなまり

八代目文楽が自伝『あばらかべっそん』でこの噺について次のように語っています。

「……完全な越後の言葉でしゃべると全国的には分からなくなってしまいます。ですから、やはり落語の田舎言葉でやるよりないと思いますネ。(中略)じつは我々の祖先が今いったようなことを考えて、うそは百も承知で各国共通の田舎言葉をこしらえてくれたのだとおもっています」

落語発祥のこの「インチキなまり」はいちいち方言を調べるのがめんどうな小説家にとっても調法なものらしく、今でもしばしば散見します。

語の注】
あおざし 青緡、青繦:銭の穴に紺染めの麻縄を差し通して銭を結び連ねたもの。
かんもん 貫文:銭1000文を1貫。江戸期では960文を1貫。
ほうきょうのかがみのたとえ 宝篋の鏡の喩
ひがしくびきぐん 東頸城郡
やたのかがみ 八咫鏡
つづら 葛籠
北越雪譜 ほくえつせっぷ:江戸後期の地誌。鈴木牧之著
累伝説 かさねでんせつ

心眼 しんがん 演目

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円朝の名作。気の利いた短編小説を読む心地よさです。

別題:心の眼

【あらすじ】

浅草馬道に住む、目が不自由な按摩の梅喜。

今日ははるばる横浜まで流しに行ったが、ろくに仕事がなかったと、しょんぼりと帰ってくる。

顔色が真っ青なので、恋女房のお竹が、なにかあったと勘づき、聞いてみると、梅喜はこらえ切れずに泣き出した。

両親を早く亡くした梅喜が、幼いころから育てた弟の金公に、大恩ある兄の自分が藁にもすがる思いで金を無心に行くと、こともあろうに目の不自由なのをあざけられ、
「『また食いつぶしに来やがった』と抜かしやがった。もう悔しくて口惜しくて、いっそあのちくしょうの喉笛に食らいついて……と思ったが、こんな不自由な体だから負けてしまうし、いっそ面当てに軒ででも首をくくって死んでしまおうと本気で考えたものの、親身になって心配してくれるおまえがさぞ力を落とすと思い、人間は一心になったらどんなことでもできるのだから、茅場町の薬師さまを信心して、たとえ片方だけでも目を開けていただこうと気を取り直し、横浜から歩いて帰ってきた」
という。

お竹は懸命に慰めて、
「あたしも自分の寿命を縮めても、おまえさんの目が開くようにお願いするから」
となだめ、その夜は寝かせる。

翌日から、さっそく薬師如来に三七、二十一日の日参。

ちょうどその満願の日、目が開かないので梅喜が絶望して、
「いっそあたしを殺してくれ」
と叫んでいるところへ、得意先の上総屋のだんなが声をかける。

「おまえ、目が開いているじゃないか」
と言われてはっと気がつくと、なるほど、見える見える、なにもかもはっきりと目に映る。

さては夫婦の一念が通じたかと狂喜し、いちいち
「へえ、あれが人力車……あれが……」
と確かめながら、だんなについて浅草仲見世まで行く途中で、自分が男前であること、女房のお竹は人三化七の醜女だが、気だてのよい貞女であることをだんなから聞かされた梅喜、わが女房ながらそんなにひでえご面相かとがっかり。

そこでぱったり出くわしたのが、これもお得意の芸者、小春。

誘われるままに富士横丁の「釣堀」という待合に入り、杯をさしつさされつしているうち、小春が
「実は、ずっとおまえさんを思っていた」
と告白し、誘惑する。

すっかり有頂天になった梅喜、
「化け物面のお竹なんぞはすっぱり離縁して、おまえさんと一緒になる」
と怪気炎。

二人はしっぽり濡れ、いつしか一つ床に……。

そこへ、二人が待合に入ったという上総屋の知らせで、お竹が血相を変えて飛び込んでくる。

いきなり梅喜の胸ぐらをつかんで、
「こんちくしょう、この薄情野郎っ」
「しまった、勘弁してくれっ、おい、お竹、苦しいっ」

とたんに、はっと目が覚める。

「うなされてたけど、悪い夢でも見たのかい」
という優しいお竹の言葉に、梅喜我に返って、
「あああ、夢か。……おい、お竹、おらあもう信心はやめるぜ」
「なぜさ」
「目が見えねえてえなあ、妙なものだ。寝ているうちだけ、よォく見える……」

底本:八代目桂文楽

【しりたい】

円朝晩年の作

三遊亭円朝が、盲目の音曲師だった円丸の、横浜での体験談をもとにまとめあげたといわれます。一説には円丸は門人で、三代目円生から円朝門に移り、のち右多丸と改名した人ともいいますが、はっきりしません。

円朝の原作は、現行とは少し異なり、亭主の目が開くなら自分の目がつぶれてもいいと、密かに薬師に願掛けしていた女房、お竹の願いが聞き届けられ、梅喜は開眼するものの、お竹の目はつぶれます。梅喜と小春が富士下(浅草馬道の富士浅間神社の坂下)の「釣堀」という料亭にしけこんだと聞いて、お竹が女按摩に化けて乗り込み、さんざん恨みごとを並べたあげく、堀に身を投げ……、というところで梅喜の目が覚めます。オチは「目が覚めたら何も見えない」という、後年の八代目桂文楽のものとは正反対で、陳腐なものとなっています。

文楽の十八番

戦後は、八代目桂文楽の、文字通りの独壇場でした。文楽は、二代目談洲楼燕枝から習ったこの噺を盲人のせつない心情をみごとに描ききった独自の人情ものとして磨き、その存命中はほかに誰も演じ手がないほどの極め付けでした。

現在出ている速記、音源とも、文楽のものばかりで、唯一古いものでは、円朝の原作をほぼ踏襲した初代三遊亭金馬(のち二代目小円朝)の「心の眼」と題した明治三十二年(1899)の速記が残っていますが、これは円朝在世中のものです。

心眼

物事の真実を見抜く心の働きをいいます。これはオチの「寝ているうちだけ……」に通じ、この場合は梅喜が、夢の中で眼の開いた自分が女の色香にうつつをぬかす姿の浅ましさを、目覚めてはっきり悟り、改めて妻の愛情の深さをかみしめたことを意味するのでしょう。浄瑠璃や歌舞伎の「壺坂霊験記」に一脈通ずるものがあります。

茅場町の薬師

現在の中央区日本橋茅場町一丁目。

薬師如来は、別名、大医王仏、医王善逝とも呼ばれます。病を癒して悟りに導くとされ、江戸では多田の薬師(墨田区東駒形一丁目の今の東江寺)とともに信仰を集めました。眼病のほか、歯痛にも霊験あらたかということで、歯守薬師というのもあります。人々は目に紅絹の布をあてて参詣し、文銭という、裏に文の字を鋳出した穴開き銭をめの字型に並べた額や、めの字を書いた絵馬を奉納して祈願しました。

【もっとしりたい】

 三遊亭円朝の作といわれている。盲人の弟子円丸の体験に材を取ったのだそうだ。この噺を得意とした八代目桂文楽は、マクラにそんないわれを語っていた。話を広げていった果てに「なんだ夢か」で終わる。この手の構成は、小説の新人賞ではもっとも嫌われる。創作の禁じ手である。明治三十二年(1899)にやった初代三遊亭金馬の速記を見ても、さほどのできでもない。文楽の「心眼」が秀逸なのは、梅喜とお竹との細やかな交情を前半で随所にたっぷり演じているからだ。それが十分でなければ、鼻白む人情噺に終わる。つまり、構成そのものができそこないではあっても、演じ方次第で客をうならせられるのが落語の魅力だ。先日、落語研究会で入船亭扇辰がこの噺をやっていた。盲人の所作がこなれていなかった。演技過多。按摩をあまり見なくなったからだろうか。日本の社会には盲人を支えるシステムが存在した。室町時代には「当道座」という幕府公認の職能特権集団があった。もとは「平家物語」を語る(平曲)琵琶法師が主体だったが、江戸期には箏曲、三絃、針灸、按摩なども加わった。元締めとして、京都の公家である久我家が当たり、全国の盲人を支配した。検校、別当、勾当、座頭、衆分という五階級の盲僧官の認定や管理をつかさどっていた。ところが、針灸にたけていた杉山和一という検校が五代将軍綱吉の病気を治してしまってから信を得て、元禄五年(1692)、本所一ツ目の屋敷に関東総録を置けるようになった。これは、関東八か国においてのみ、久我家ではなく杉山検校が盲人を統括するというもの。しかし、これも享保年間までのことだった。以降はまたも久我家に戻った。名目だけは残り、本所一ツ目弁天堂の琵琶会という催しは、明治期まで2月と6月に開かれていたという。座頭金というのがある。盲人は公に貸し金業が許可されていた。これも盲人の生活を支えるシステムだった。小口現金の短期貸付だから、いまの消費者金融のイメージだろう。盲人同士は横の連帯が強かったらしく、集団で旗本など借り手の玄関に立って、外聞外見をはばからずに強催促したとか。座頭にはどこか因業なイメージがついて回った。按摩は導引とも言った。盲人の按摩は杉山流、それ以外の按摩は吉田流とすみ分けされていた。体全体を揉んで四十八文が相場。骨折や脱臼の治療なども行っていたそうだが、明治四十四年(1911)の施行法によって完全に禁止された。これ以降、按摩の需要が変わったようである。 寒空に響く、物悲しい心持ちを誘い出すような按摩の笛の音。按摩が笛を吹いて歩いていたのは、吉原界隈だけでだった。吉原以外でも行われるようになったのは寛政年間(1789-1800)からだという。こういう流しの按摩を「振り按摩」と呼んだ。「振り」とは、常連やなじみの客がいないこと。近ごろのフーゾクでは、指名をせずに店に入ることを「フリー」と呼んでいる。「振り」のつもりなのだろうが、いまや「フリー」という言葉のほうが通じてしまう。和魂洋才である。(古木優)

【語の読み】
浅草馬道 あさくさうまみち
按摩 あんま
梅喜 ばいき
富士下 ふじした
日本橋茅場町 にほんばしかやばちょう
当道座 とうどうざ
久我家 こがけ
検校 けんぎょう
別当 べっとう
勾当 こうとう
座頭 ざとう
衆分 しゅうぶん
杉山和一 すぎやまわいち
杉山検校 すぎやまけんぎょう
座頭金 ざとうがね
三絃 さんげん
針灸 しんきゅう
導引 どういん
杉山流 すぎやまりゅう
吉田流 よしだりゅう
振り按摩 ふりあんま

犬の目 いぬのめ 演目

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眼病の男。医師が目玉を抜き洗って干す。それを犬が食べて。逃げ噺。

【あらすじ】

目が悪くなって、医者に駆け込んだ男。

かかった医者がヘボンの弟子でシャボンという先生。

ところが、その先生が留守で、その弟子というのが診察する。

「これは手術が遅れたので、くり抜かなくては治らない」

さっさと目玉をひっこ抜き、洗ってもとに戻そうとすると、水でふやけてはめ込めない。

困って、縮むまで陰干しにしておくと、犬が目玉を食ってしまった。

「犬の腹に目玉が入ったから、春になったら芽を出すだろう」
「冗談じゃねえ。どうするんです」

しかたがないので、「犯犬」の目玉を罰としてくり抜き、男にはめ込む。

今までのより遠目が利いてよかったが、
「先生、ダメです。これじゃ外に出られません」
「なぜ?」
「小便する時、自然に足が持ち上がります」

【しりたい】

オチはいろいろ

軽い「逃げ噺」なので、オチはやり手によってさまざまに工夫され、変えられています。

艶笑がかったものでは、「夜女房と取り組むとき、自然に後ろから……」なんていうものも。

「まだ鑑札を受けていません」というのもあります。

原話である安永2年(1773)刊の『聞上手』中の「眼玉」では、「紙屑屋を見ると、吠えたくなる」というものです。

明治時代でのやり方

明治・大正の名人の一人で、六代目三遊亭円生の大師匠にあたる四代目橘家円蔵(品川の円蔵)の速記が残っています。

円蔵は男を清兵衛、医者を横町の山井直という名にし、前半で、知り合いの源兵衛に医者を紹介してもらうくだりを入れています。

ギャグも、「洗うときはソーダを効かさないでくれ」「枕元でヒョイと見回してウーンとうなる」など、気楽に挿入していますが、「ソーダ」のような化学用語に、いかにも明治のにおいを感じさせるものの、今日では古めかしすぎて、クスリとも笑えないでしょう。

円蔵は、目が落ちそうだと訴えるのに、中で目玉をふやかす薬を与えていて、そのあたりも現行と異なります。

三平の「貴重な」古典

昭和初期には、五代目三升家小勝が「目玉違い」の題で演じましたが、なんといっても先代林家三平の「湯屋番」「源平盛衰記」と並んでたった三席だけ残る貴重な(?)古典落語の音源の一つが、この「犬の目」です。その内容については……、言うだけヤボ、というものでしょう。

おおらかなナンセンス

類話「義眼」のシュールで秀逸なオチに比べ、「犬の目」では古めかしさが目立ち、そのためか最近はあまり演じられないようですが、こうした単純明快なばかばかしいナンセンスは今では逆に貴重品で、ある意味では落語の原点、エッセンスといえます。

新たなくすぐりやオチの創作次第では、まだまだ生きる噺だけに、若いやり手のテキストレジーに期待したいものです。

ヘボン先生

ヘボンは、明治学院やフェリス女学院を作ったアメリカ人の医者で熱心なキリスト教徒でした。

正しくは、ジェームス・カーティス・ヘボン(James Curtis Hepburn、1815-1911)といいます。姓の「Hepburn」はオードリー・ヘップバーンと同じつづりのため、最近では「ヘップバーン」と表記されることもあります。

1世紀以上も「ヘボン」に慣れた私たちには「ヘップバーンとはおれのことかとヘボン言い」といった違和感を覚えるわけですね。

米国長老派教会の医療伝道宣教師であり医師でもあったため、来日中は伝道と医療に貢献しました。

ヘボン式ローマ字の考案者として知られています。ヘボンが編纂した初の和英辞典『和英語林集成』に記載された日本語の表記法が原型となっています。

日本人の眼わずらい

ヘボンが来日してまず驚いたのは、日本人があまりにも眼病をわずらっていることでした。

これは、淋菌の付いた指で目をこすって「風眼」という淋菌性の眼病にかかる人が多かったからとのこと。「文違い」なんかにも出てきますね。

それだけ、日本人の性は、倫理もへったくれもなく、やり放題で、その結果、性病が日常的だったわけでもあるのですがね。

眼病となると、それが性病由来なのかどうかさえもわかっていなかったようです。

遊郭や岡場所などが主な元凶で、二次感染の温床は銭湯だったわけです。

衛生的にどうしたとかいう以前に、性があんまりにもおおっぴらだったことの証明なのでしょう。

ですから、この噺が、ヘボン先生の弟子のシャボン先生(そんなのいるわけありません)が登場するのは眼病とヘボンという、当時の人ならすぐに符合するものをくっつけて作っているところが、みそなんですね。

かげきよ【景清】演目

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 開眼噺。目があくようにと願掛けを日朝さまから景清さまに。だから、あくと。

【あらすじ】

もとは腕のいい木彫師だが、酒と女に溺れた挙げ句、中年から目が不自由になった定次郎。

杖を頼りに按摩をして歩いているが、まだ勘がつかめず、あちらこちらで難渋している。

その時、声を掛けたのが、知り合いの石田のだんな。

家に上げてもらってごちそうになるうち、定さんは不思議な体験を語る。

医者にも見放された定さんが、それでもなんとか目が開くようにとすがったのが、赤坂の日朝さま。

昔の身延山の高僧で、願掛けをして二十一日の間、日参すれば、霊験で願いがかなえられると人に勧められたからだ。

心配をかけ続けの老母のためにもと、ひたすら祈って祈って、明日は満願という二十日の朝、気のせいか目の底で黒い影が捉えられた。

喜びいさんでお題目を繰り返していると、自分の声に、誰か女の声が重なって、「ナムミョウホウレンゲキョウ」とお題目の掛け合いになったので、驚いて声の主に話しかけてみた。

女はやはり目が見えず、老いた母親が生きているうちに、片方でもいいから見えるようになりたいと願掛けしているという。

うれしくなって、並んでお題目を唱えるうち、定さんが女をひじでトーンと突くと、どういう案配か向こうもトーン。

トーン、トーンとやっているうちにいつしか手と手がぴったり重なった。

とたんに、かすかに見えかけていた目の前が、また真っ暗になった。

「日朝坊主め、ヤキモチを焼いていやがらせをしやがって」
と腹を立て、
「もうこんなとこに願掛けをするのは真っ平だ」
と、たんかを切って帰ってきてしまった、というわけ。

聞いただんな、
「おまえさんは右に出る者がいないほどの木彫師だったんだから、年取ったおっかさんのためにも短気を起こさず、目が開くように祈らなくてはいけない」
とさとし、
「日朝さまが嫌なら、昔、平景清という豪傑が目玉をくり抜いて納めたという上野清水の観音さまへ願えば、きっとご利益がある」
と勧める。

だんなの親切に勇気づけられた定さん、さっそく清水に百日の日参をしてみたが、満願の日になっても、いっこうに目は明かない。

絶望し、また短気を起こして、
「やい観公、よくも賽銭を百日の間タダ取りしやがったな、この泥棒っ」

定さんが境内でわめき散らしていると、そこへ石田のだんながようすを見にくる。

興奮する定さんをしかり、よく観音さまにおわびして、また一心に願を掛け直すように言い聞かせ、二人で池の端の弁天さまにお参りして帰ろうとすると、一天にわかにかき曇り、豪雨とともに雷がゴロゴロ。

急いで掛け出し、足が土橋に掛かったと思うと、そこにピシッと落雷。

だんなは逃げ出し、定さんはその場で気を失ってしまう。

気がついて、ふと目に手をかざすと……

「あっ! 眼……眼……眼があいたっ」

次の日、母親といっしょにお礼参りをしたという、観音の霊験を物語る一席。

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【しりたい】

景清

一般には平家の遺臣ということになっています。豪傑として名高く、「悪七兵衛景清」(生没年不詳)と呼ばれます。姓はまちまちで、平、藤原、伊藤とも。藤原秀郷の子孫、伊勢藤原氏(伊藤氏)の出身といわれているからです。

「悪」は剛勇無双の意味で、悪者の意味ではありません。古くから伝説的な英雄として、浄瑠璃や歌舞伎、謡曲の題材になっています。

目玉をくり抜くくだりは、東大寺大仏供養に乗じて頼朝暗殺を企てて失敗し、捕らえられた景清が、助命されて頼朝の高恩に感じ、自らの両眼をくり抜いて清水寺に奉納するという浄瑠璃「嬢景清八島日記」の筋を元にしたものです。

お古いお噂で恐縮ですが、往年のNHK大河ドラマ「源義経」(1966年)では、加藤武が錣曳(しころびき)の景清に扮していました。

日朝さまに願掛け

日朝上人は、江戸中期の日蓮宗の高僧で、身延山三十六世です。赤坂寺町の円通寺を開基しました。願掛けは、神社仏閣に願い事のため日参する行で、期日は五十日、百日、一年などさまざまです。

浄瑠璃「壺坂霊験記」では、按摩の沢市が女房・お里に連れられ、壺坂の観音に日参して開眼しています。

清水の観音

上野の新清水寺で、しばしば歌舞伎狂言の舞台になっています。寛永8年(1631)、寛永寺と同じ、天海の開基。桜の名所としても知られます。

上方のやり方

東京では、三代目三遊亭円馬の直伝で八代目桂文楽が人情噺として十八番にしていましたが、上方では、はるかにくすぐりが多く、後半がかなり異なります。

東京と違い、昔は鳴り物入りで観音さまが出てきて景清の目玉を定次郎に授けます。今度は景清の精が定次郎にのりうつって大名行列に暴れ込んだりする、というもの。

(殿)「そちゃ気が違うたか」
(定)「いえ、目が違いました」
とオチになります。

軽快な噺となっていますが、人情噺の部分と対比して荒唐無稽に傾くので、現在は上方でもほとんど演じられません。同じ上方落語の「瘤弁慶」と似た、荒唐無稽の奇天烈噺です。

【景清 八代目桂文楽】

ふみちがい【文違い】演目

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淋菌のついた指でこするとこんな具合に。「風眼」という病です。

【あらすじ】

新宿遊廓のお杉は、今日もなじみ客の半七に金の無心をしている。

父親が、「もうこれが最後でこれ以降親子の縁を切ってもいいから、三十両用立ててほしい」と手紙をよこしたというのだ。

といって、半七に十両ほどしかアテはない。

そこへ、お杉に岡惚れの田舎者・角蔵が来たという知らせ。

何せ、「年季が明けたらなんじと夫婦になるべェ」というのが口癖の芋大尽で、お杉はツラを見るのも嫌なのだが、背に腹は替えられない。

あいつをひとつたらし込んで、残りの二十両をせしめてこようというわけで、待ち受ける角蔵の部屋へ出かけていく。

こちらはおっかさんが病気で、高い人参をのまさなければ命が危ないからとうまく言って、金を出させようと色仕掛けで迫るが、さしもの角蔵も二十両となると渋る。

十五両持っているが、これは村の辰松から馬を買う代金として預かったものなので、渡せないと言う。

「そんな薄情な人とは、夫婦約束なんて反故(ほご)だよ」と脅かして、強引に十五両ふんだくったお杉だが、それと半七にたかった七両、合わせて二十二両を持っていそいそとお杉が入っていった座敷には年のころなら三十二、三、色の浅黒い、苦味走ったいい男。

ところが目が悪いらしく、紅絹の布でしきりに目を押さえている。

この男、芳次郎といい、お杉の本物の間夫だ。

お杉は芳次郎の治療代のため、半七と角蔵を手玉に取って、絞った金をせっせと貢いでいたわけだが、金を受け取ると芳次郎は妙に急いで眼医者に行くと言い出す。

引き止めるが聞かないので、しかたなく男を見送った後、お杉が座敷に戻ってみると、置き忘れたのか、何やら怪しい手紙が一通。

「芳次郎さま参る。小筆より」

女の字である。

「わたくし兄の欲心より田舎大尽へ妾にゆけと言われ、いやなら五十両よこせとの難題。三十両はこしらえ申せども、後の二十両にさしつかえ、おまえさまに申せしところ、新宿の女郎、お杉とやらを眼病といつわり……ちくしょう、あたしをだましたんだね」

ちょうどその時、半七も、お杉が落としていった芳次郎のラブレターを見つけてカンカン。

頭に来た二人が鉢合わせ。

「ちきしょう、このアマッ。よくも七両かたりゃアがって」
「ふん、あたしゃ、二十両かたられたよ」

つかみあいの大げんか。

角蔵大尽、騒ぎを聞きつけて「喜助、早く行って止めてやれ。『かかさまが塩梅わりいちゅうから十五両恵んでやりました。あれは色でも欲でもごぜえません』ちゅうてな。あ、ちょっくら待て。そう言ったら、おらが間夫だちゅうことがあらわれるでねえか」

【しりたい】

六代目三遊亭円生の回顧

「……あたくしのご幼少の折には、この新宿には、今の日活館(注:もうありません)、その前が伊勢丹、あの辺から一丁目の御苑の手前のところまで両側に、残らずではございませんが、貸座敷(女郎屋)がずいぶんありましたもので」

「なかでも覚えておりますのは、新金(しんかね)という楼(うち)、それから大万(おおよろず)、そういうとこは新宿でも大見世(おおみせ)としてあります」

明治末年のころ

この中に出てくる「新金」は、今の伊勢丹向かい、丸井の場所にあり、「鬼の新金、鬼神の丸岡、情知らずの大万」とうたわれたほど、女郎に過酷な見世だったといいます。

芸談・三遊亭円生

芳次郎は女が女郎になる前か、あるいはなって間もなく惚れた男で、女殺し。半公は、たまには派手に金も使う客情人。角蔵にいたっては、嫌なやつだが金を持ってきてくれる。

それで一人一人、女の態度から言葉まで違える……芳次郎には女がたえずはらはらしている惚れた弱みという、その心理を出すのが一番難しい。

「五人廻し」と違い、女郎が次々と客をだましていく噺ですが、それだけに、最後のドンデン返しに至るまで、化かしあいの心理戦、サスペンスの気分がちょっと味わえます。

芳次郎は博打打ち、男っぷりがよくて女が惚れて、女から金をしぼって小遣いにしようという良くないやつ。半七は堅気の職人で経師屋か建具屋、ちょっとはねっかえりで人がよくって少しのっぺりしている。俺なら女が惚れるだろうという男。

だから、半七はすべて情人あつかいになっていたし、自分もそう思っていたやつが、がらっと変わったから怒る訳で。

角蔵は新宿近辺のあんちゃん

落語では、なぜか「半公」といえば経師屋(きょうじや)、「はねっ返りの半公」略して「はね半」ということに決まっています。「蛙茶番」「汲み立て」にも登場します。どんなドジをしでかすか、請うご期待。

新宿遊郭メモ

新宿は、品川、千住、板橋と並び、四宿(ししゅく=非公認の遊郭)の一。

飯盛女の名目で遊女を置くことが許された「岡場所」でした。

正式には「内藤新宿」で、信濃高遠三万三千石・内藤駿河守の下屋敷があったことからこう呼ばれました。

甲州街道の起点、親宿(最初の宿場)で、女郎屋は、名目上は旅籠屋。元禄11年(1698)に設置され、享保3年(1718)に一度お取りつぶし。明和9年(1772)に復興しました。

新宿を舞台にした噺は少なく、ほかに「四宿の屁」「縮みあがり」くらいです。

落語演目の索引

【文違い 三遊亭円生】

ぎがん【義眼】演目

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

目がらみの噺。江戸では眼病の男がよほど多かったのでしょう。

別題:いれめ

【あらすじ】

ある男、目の具合がどうもよくないので、医者に相談するが、ますます見えなくなるばかり。


眼科の先生もしまいには面倒くさくなり、えいとばかり悪い方の目をスッポリ抜き取り、代わりに義眼をはめ込んでごまかしてしまった。

「あー、どうです具合は?……そりゃよかった。それから、入れた方の目は夜は必要ないンだから、取りましてね、枕元に水を置いて、浮かべときなさい。そうすりゃ長持ちするから」

入れ歯と間違えているようだが、当人すっかり喜んで、その夜、吉原のなじみの女郎のところへ見せびらかしに行く。

男前が上がったというので、その晩は大変なモテよう。

さて、こちらは隣部屋の客。

反対に相方の女が、まるっきり来ない。

女房とけんかした腹いせの女郎買いなのに、こっちも完璧に振られ、ヤケ酒ばかり喰らい、クダを巻いている。


「なんでえ、えー、あの女郎は……長えぞオシッコが。牛の年じゃあねえのか?それにしても、隣はうるさいねえ。え、『こないだと顔が変わった』ってやがる。七面鳥のケツじゃあるめえし、え、そんなにツラが変わるかいッ!こんちくしょうめ!」


焼き餠とヤケ酒で喉が渇き、ついでにどんなツラの野郎か見てやろうと隣をのぞくと、枕元に例の義眼を浮かべた水。


色男が寝ついたのを幸いに忍び込んで、酔い覚めの水千両とばかり、ぐいっとのみ干したからたまらない。


翌日からお通じはなくなるわ、熱は出るわで、どうにもしようがなくなって、医者に駆け込んだ。


さて……「あー、奥さん、お宅のご主人のお通じがないのは、肛門の奥の方に、何か妨げてるものがありますな」

サルマタを取って、双眼鏡で肛門をのぞくなり先生、「ぎゃん」と叫んで表へ逃げだした。

男の女房が後を追いかけてきて、「先生、いったいどうなさったんです」「いやあ驚いた。今、お宅のご主人の尻の穴をのぞいたら、向こうからも誰かにらんでた」

底本:五代目古今亭志ん生

【しりたい】

「いれめ」とも

「義眼」と記して、「いれめ」と読んだりもします。

短いけれども、楽しいナンセンスにあふれた展開、オチの秀逸さで、落とし噺としては、最もすぐれたもののひとつといえるでしょう。

五代目古今亭志ん生が時々、実に楽しそうに演じた噺で、速記を読んだだけで吹き出してしまうほど。

意外にも、明治の大看板で人情噺の大家・初代三遊亭円左が得意にしていて、それを大正の爆笑王・柳家三語楼がさらにギャグを加え、オチも円左の「尻の穴ににらまれたのは初めてだ」から、よりシュールな現行のものに変えました。

三語楼から志ん生、さらにこれも昭和初期に「猫と金魚」などの爆笑落語で売れた初代柳家権太楼に継承されました。

権太楼のレコードは、尻をメガネでのぞく場面が、何と効果音入りという凝ったものだったとか。

志ん生の音源発掘!

2004-05年、志ん生の、未公表のきわめて貴重な音源・映像・写真を多数含む「講談社DVDBOOK・志ん生復活!落語大全集」全13巻が発売され、第5巻に「義眼」が収録されています。カセットテープ版として、日本クラウンから発売されたものを改めて収録したものです。

この巻には長男の馬生とのリレー落語「宿屋の富」(初公開)も収録。志ん生フリークには楽しめる一冊です。

【義眼 古今亭志ん生】